CHESS BITCH 紹介
■ Jennifer Shahade, 2005, Siles Press
■ 著者:ジェニファー・シャヘード
○ チェスプレーヤー。1980年生まれ。フィラデルフィア出身。
○ チェス一家に生まれ、14歳のときチェスプレーヤーとしての自信を得る。
○ 2002年/04年に全米女子チャンピオン、世界選手権/チェス五輪アメリカ代表。
○ 子供たちにチェスを教える非営利団体「チェス・イン・ザ・スクール」のコーチ、インターネット・ラジオ「チェスFM」のコメンテーター。
○ ライターとしてチェス雑誌へ寄稿しているほか、有名チェスサイト「チェス忍者コム」のコラム、「ロサンゼルス・タイムス」の書評を担当。
○ 特技はヨガ、スペイン語。
○ ニューヨーク大学卒(比較文学学位)。現在NY在住。
○ 本書は処女作。原書表紙は本人。
○ 原書表紙にオノ・ヨーコの推薦文あり。(オノ・ヨーコはチェスファン)
○ NYのイサム・ノグチ美術館にて05年12月に自作朗読イベントを、06年1月に対局イベントを実施。
○ 現在のボーイフレンドは日系人。「そのうち日本に行くと思うし、将棋プレーヤーに会ってみたい」(本人のメールより)
○ 父、兄ともにチェスプレーヤー。兄はNYチェスシーンの中心的存在。
○ ホームページは http://www.jennifershahade.com
○ 「ヴィレッジ・ボイス」(05年10月)インタビューより
 幼い頃から私は世界中でチェスを指してきたの。私よりずっと年上の人たちとディスコに行ったし、パーティもやったわ。だからわかったの。チェスはとってもクールだってね。
 ──お利口さんじゃないとチェスが上手くならない?(質問)
 そんなこと絶対にないの。チェスは言語みたいなものなのよ。チェスが思考のゲームだなんて誤解だし、それどころか実際は感覚のゲームなの。大切なのは早い時期にはじめること。でなければ、気合いを入れてひたすら没頭するのよ。

■ 本書の構成
○ 前付け:大トビラ/クレジット/献辞/目次/謝辞
○ 本文:1章〜13章(各章冒頭に文章や発言など短い引用あり)
○ チェス用語集
○ 棋譜集:本文に関連する1929〜2004年の56局
○ 参考文献:書籍、紙誌、サイトなど
○ 本文注
○ 人名索引

■ 本文梗概
1章
女の子のように指す
(p1〜18)
全体への導入
 クリスマス期のラスベガスでのトーナメントに参加した私(著者)は、何が何でも勝ちたい衝動にかられる。相手を殺してやりたいほどだ。カフェインに頼り、サンドイッチをつまみながらアドレナリンを放出するチェスの対局。バスルームで顔を洗って鏡を見つめ不思議に思う「男っぽく指すって、こういうこと?」。今夜の対戦相手は勇気を欠いてドローに応じた。これが「女の子のように指す」ってことか。チェスでは「男っぽく指す」は誉め言葉で、「女の子のように指す」は否定的な意味なのだ。
 私はフィラデルフィアの、父と兄がチェスプレーヤーの家に生まれた。女と男でチェスに何か違いがあるのだろうか。さまざまなプレーヤーに見解を求めても回答は人それぞれだし、女≠男、女<男の根拠の数字も曖昧なものだ。性質面だけでなく文化的な背景も考慮すべきだろう。「女の子のように指す」とは、やたら攻撃的に指してしまうことを言うらしいが、数少ない女性に周囲の注目が集まるせいもありそうだ。クイーンはチェスの中では遅れて出現し、最弱の駒から最強の駒へと変化した。女性性で呼ばれる駒なのに盤上では最強の力を振るうアンビバレントが、それを「ビッチ」と呼ばせる。
 2003年2月、スーザン・ポルガー(以下、人名は基本的に女性)から電話がきた。伝説の元世界チャンピオン。彼女は私を誘い、来年のチェス五輪(2年に1回の国別対抗の世界戦)にアメリカ・ドリーム・チームを結成して参加しようという。それはチェス後進国アメリカへのチェス普及にもなるはずだ。メンバーが集まりトレーニングが始まる。男のトレーナーから月経について遠回しな話があった「そのあれを、恥ずかしがらず報告するように」。関係あるのか?女性のチェスは、さまざまなネガティブな見解で覆われている。私の興味は歴史上の女性プレーヤーたちに向かった。

○ 主な文中引用:H・J・R・マレー「チェスの歴史」。チェス史のバイブル。

2章
戦争に引き裂かれたパイオニアたち:ヴェラ・メンチクとソニア・グラフ
(p19〜42)
メンチクとグラフの評伝
 1906年モスクワで生まれたメンチクは、9歳のときに父からチェスを習った。ロシア革命によりイギリスに亡命。亡命先がチェスが盛んな土地柄だったことが彼女の運命を決めた。ハンガリー人の名手マローツィ(男)の目に止まりコーチを受け、1927年の第一回女子世界選手権で世界チャンピオンに。以降、無敵の防衛を続ける。男性一流プレーヤーにもたびたび勝ったが、彼女に負けた男性はメンチク・クラブ入りと呼ばれた。子供たちへの指導に熱心な人だった。
 私は幼い頃から兄との対局でぼこぼこにされていた。しかし、14歳のとき男性グランドマスターからドローを獲ったのが転機になった。兄にも互角となりコンプレックスから解放された。自分が勝つにふさわしいプレーヤーである自信をもてたのだ。メンチクも同じ悩みと戦っていたのでは?
 メンチク最大のライバル、グラフは1908年ミュンヘン生まれ。不幸な家庭環境が彼女をチェスに没頭させ、12歳でチェスカフェ(チェスの道場)の常連に。時の名手タラシュ(男)の指導を受け、世界を旅しながら腕を磨いた。静のメンチクとは対照的な動のグラフは奔放な私生活を送り、大酒を飲みタバコを吹かし男装までした。極端に内気なメンチクをチェスが外界へ導いたが、グラフにはチェスの旅から旅への生活が人生への情熱の表現だった。メンチク一家はナチスの空襲に散り、アルゼンチンに亡命したグラフは戦後アメリカで家庭を築き亡くなった。ソ連による女性チェス界の独占が始まる。

○ 主な文中引用:メンチク伝記、グラフの自著二冊。いずれも超レア本。とくにアルゼンチンで出たグラフ自伝はアメリカには一冊もなく、ハーグにあるコレクションからクリスマス・プレゼントとして著者に贈られた。

3章
王朝の形成:グルジアの女性たち
(p43〜60)
グルジアの女性プレーヤーたちと、その後の世界選手権の展開
 2002年チェス五輪にグルジアのガプリンダシビリの姿があった。61歳になった今もチェスへの情熱をもち続け、相変わらずカジノにも入り浸る。1962年ソ連プレーヤーを破って世界チャンピオンとなった彼女は、16年間タイトルを保持した。さまざまな差別も受けながら広く尊敬の念を集めたが、FIDE(国際チェス連盟)からグランドマスター(GM)の称号を名誉として受けたのはどうだったか。
 1978年ガプリンダシビリから、同じグルジアの17歳チブルダニゼがタイトルを奪う。二人は国のスターであり、グルジアを、アレクサンドリアやイソリーニなど強豪を抱えるチェス大国へと導いた。防衛を続けたチブルダニゼは1991年に中国の謝軍に敗れタイトルを失った。しかし現在でもトッププレーヤーであり復位の望みを捨てていない。
 世界選手権挑戦者にまでなったソ連のアクミロフスカヤは、チェス五輪の最中に優勝を争う自国チームを飛び出し亡命した。結果、ソ連チームは頂点の座を失う。「私はその報せを聞き泣いたわ。でも身近にはKGBのスパイがいて、そうするしかなかったの」。内戦状態のグルジアから難民としてアメリカに渡ったゴレチアーニは祖国の家族への送金を続けている。私とともにドリームチームの一員になったが、いつの日かの帰国が彼女の夢だ。2003年秋、私はグルジアのアレクサンドリアに国際電話をかけた。「いまは話せないの。外で革命をやってるから」

4章
ジュディになりたい!
(p61〜74)
女性プレーヤーのロールモデルについて。
 ガプリンダシビリとチブルダニゼの活躍は、女は早く結婚して家にいるもの/家にいるからこそチェスは女性の趣味というグルジア社会の常識を変えた。二人はグルジア少女たちのロールモデルであり、少女たちは二人の記事を読み、多面指しで二人に会い、二人の対局を見るためにトーナメントに出かけた。ある女性精神科医の分析では、チェスプレーヤーのロールモデルはコーチか教師か両親。父親が高い教育を受けていれば息子が、母親がそうな場合は息子も娘もチェスに秀でる。母親がチェスプレーヤーかどうかは関係ないそうだが、これらは私にもあてはまる。
 フランスのスクリプチェンコは自分にはロールモデルはいないと言う。でも以前はテニスのグラフ、女性思想家ランド(邦訳あり)、そしてジュディ・ポルガーをあげていた。ラトビアのハーンは世界チャンピオンのタル(男)であるとし、中国の諸宸(世界チャンピオン)は16世紀の女性皇帝としているが、繰り返し名が上がるプレーヤーが一人だけいる。ハンガリーのジュディ・ポルガーだ。12歳のクルシュ(のちの全米チャンピオン)は私に言った「一日でいいから、ジュディ・ポルガーになりたい」。今のクルシュはそれを否定するが、彼女は成長する中で彼女自身になったのだろう。ロシアのコステニクは言う「私にはチェスのヒーローはいない。自分がヒーローになりたいから」。ブルガリアのステファノバはフィッシャーのファンだった。
 チェスプレーヤー同士のカップルは無数にいるが、女性プレーヤーは自分より強い男性プレーヤーを選ぶことが多い。男性支配のサブカルチャーに広く見られる現象で、たとえばブリッジの世界でもそうだ。ロシアのアレクサンドロワは男性プレーヤーは女性プレーヤーを恐れていると考えているが、賢い男に出会うためにチェスをやっている女性もいる。「オースティン・パワーズ2」もそうだが、二人の人間が何時間も見つめ合うチェスはセックスの隠喩として、古くからよく登場する。ジュディ・ポルガーは10代の私のヒーローだった。彼女の記事や棋譜をあさり戦法選択に影響も受けた。エリートGMたちと戦う彼女を見るためにオランダまで行ったことがあったが、近づきになる必要はなく、彼女のイメージこそが私にはロールモデルだった。

○ 主な文中引用:マリリン・ヤーロム「チェスクイーンの誕生」。フェミニズム系社会学者。駒クイーンの進化(機能面、駒の大きさ)を欧州の女性地位向上/女帝出現の反映とした同書は、チェス界でも高い評価を得た。「乳房論」の邦訳あり。

5章
グランドマスターをつくる
(p75〜106)
英才教育を受けたポルガー・シスターズ
 カスパロフは1980年から、ジュディ・ポルガーは1988年から、それぞれ世界ランク1位の座を占め続けている。カスパロフによれば「チェスはスポーツ、心理学、科学、芸術の混合であり、つまりはどれも男が秀でた領域だ」。二人は2002年にモスクワで顔を合わせ、ポルガーが初勝利を挙げた。これはカスパロフの初めての女性への敗戦であり、最強の女性が最強の男性に勝った最初でもあった。1993年の両者の戦いではカスパロフは事実上の待ったを犯している(共に巻末に棋譜あり)。ポルガー・シスターズ(スーザン、ソフィア、ジュディ)の登場により、それまでの男性支配のチェス界は激変した。「女性はGMになれるか?」「女性は男性のベストプレーヤーを倒せるか?」といった設問は消え去り、今や「女性は一般的に男性同等まで上達するか?」「女性は世界チャンピオンになれるか?」に置き換えられた。
 ラスズロ・ポルガー(男)は娘たちを天才に育て上げようと決めた。妻のこの実験への理解もあり、長女スーザンは3歳でチェスを始め、4歳で国内U11(アンダー11=11歳以下)を制した。その後もスーザンは順調にキャリアを重ねたが、アメリカのシャバズのような例もある。やはり英才教育を受けた彼女は父親のプレッシャーに押しつぶされ、チェス界を去った。性区別への反発から一時はチェスを休んだスーザンだったが、カムバックして96年に世界チャンピオンになった(紆余曲折の過程を詳述)。ポルガーシスターズを擁するハンガリーとグルジア勢を擁するソ連は、チェス五輪で死闘を繰り広げた。
 シスターズは、今ではそれぞれ幸せな家庭を築いている。私は「チェスキャリアか、子供を産むのか」と言われたことがあるが、リトアニアのクミリテによれば「子供を産むたびにレーティングが50上がるわ。母親になるってことは、それほどの経験なのよ」。とはいえ現実的にはさまざまな制約もある。スーザンはチェス大使として、多面指し、サイン会などチェスの普及に専心している。性区別へのこだわりも消え、自分の名を冠した少女向けの大会を催すまでになった。ジュディはインタビューにギャラを要求するが(2,000ドル)、マスコミからの自衛のためでチェス界内部の依頼ならまず無料だ。彼女は2004年の世界選手権に女性として唯一招待されたが、妊娠中で参加しなかった。「いつになるかわからないけど、カムバックするわ」。(2005年カムバック)

○ 主な文中引用:C・フォーブス(ポルガー・シスターズの伝記の著者/女性プレーヤー)の、本著者への手紙を引用。伝記は本人たちに取材しないまま、自分のフェミニズム的立場に拠って書かれた本であったことを明かしている。

6章
女性限定!
(p107〜124)
チェス・イン・ザ・スクールについて
 1998年にNYに移った私は、学校にチェス・インストラクターを派遣する非営利団体チェス・イン・ザ・スクールに仕事を得た。2001年の、NYの9〜13歳の最強の少女20人を招待したガールズ・アカデミーで、私は大好きなジュディ・ポルガーの一局を解説した。おしゃべりやお遊び対局の時間をつくったが、私は彼女たちにアカデミーを楽しんで欲しかった。そうすればチェスを続けてくれるから。2004年5月の、私の10回目のガールズ・アカデミーは全国規模で、スーザン・ポルガーをはじめプレーヤー、コーチなど多くの協力があった。参加した少女ローラは私の目を真っ直ぐ見て言った「みんなでまた来るわ」
 第一回国際女子トーナメントは1897年にロンドンで開かれた。「1日2局で10日間なんて大丈夫か?」と心配されたものだが、今や性別された女子トーナメントの正否が問われる時代だ。性別が女性プレーヤーの上達を妨げているという意見もある。私は性別トーナメントに不満だったが、本書を書くうち、女性の仲間たちに会えて競え合える手段の一つと考えるようになった。われわれはもっとポジティブになるべきなのだ。チェスは女性同士の関係性を築くという意味で理想的な戦いの場である。クルシュは高校からカレッジまで、ずっと私のライバルだった(実戦および関係性を築いた話)。2003年の全米チャンピオン、ハーンも「男も女も関係ない。内容の質で判断すべき」と言っている。
 ドリームチームにおけるトレーニングにカスパロフが来てくれた。性差別主義者の登場に緊張も走ったが、彼の解説は明解でチャーミングだった。女子トーナメントについての見解も「10人のジュデイ・ポルガーを育てるべきだね」。自分の性差別イメージはメディアが作ったというが、彼はポルガーに負けたことで心変わりしたのだろう。2001年、私は初めて性別の垣根を払って行われる全米選手権に向けて、ジョギングも含めた1日8時間のトレーニングに明け暮れていたが、9.11は、私に大学でスペイン文学とジャーナリズムを学ぶ選択をさせた。そして2002年、私は全米チャンピオンになった(大会を詳述)。友人と徹夜でお祝いしたが、賞金9,500ドルもNY生活の私には大きいものだった。アメリカ−中国戦企画が発表され私は興奮した。きっと上海で、世界最強の中国女子チームの秘密を知ることができるだろう。

7章
中国方式
(p125〜146)
現在のチェス大国、中国
 中国女子チームは1998、2000、02、04年のチェス五輪に優勝し、二人の世界チャンピオンを生んでいる。謝軍の世界チャンピオンを契機に、政府によるチェス支援は強化され、シャンチーからチェスへの転向も推進された。若いプレーヤーたちは北京で、経験豊富なマスターやコーチの指導のもと才能を磨いた。(以下、シャンチーからチェスに転向して成功した謝軍の伝記的紹介。世界チャンピオンまでの道のりを、スタッフの取り組みも含め詳述)。2000年からは世界選手権はトーナメント方式に変更されたが、謝軍はこれを易々と制した。決勝の相手は同じ中国人で、21世紀は中国の支配により幕を開けたのだった。
 7歳のとき地方のクラブでチェスを始めた諸宸は、4年後にはU12の世界チャンピオンになった。2000年の世界選手権ではクルシュに一回戦で敗れたが、翌年はコステニクとのドラマチックな決勝戦を制し、世界チャンピオンの座についた。私は2002年に彼女と話す機会をもったが、豪華な歓迎料理を前に諸宸は言った「私は世界チャンピオンという立場を利用して、世界の恵まれない人々を助けたい」。諸宸はマレーシアのプレーヤーと恋に落ち、周囲の反対を押し切って結婚した。2002年のチェス五輪ではアメリカは男女ともに中国に敗れたが(実戦の様子を詳述)、中国男子チームには妊娠8カ月の謝軍が加わっていた。ジョークが飛んだ「二人がかりだもん、ずるいや」
 その後も中国は有望な若手を輩出し続けている。こうした中国チームの強さは海外にとってはナゾだった。こめかみに塗るタイガーバームのおかげか?中国人はミスが少なくコンピュータ的という声も多いが、私自身の経験ではそうではない。アジア人が数学に強いからという説もあれば、西洋人には顔の見分けがつかず、実はすり替わっているのだというジョークまである。中国チームのコーチが書いた「中国のチェス・スクール」によれば、中国人は定跡の知識は浅いが、それを中盤戦への深い理解とファイティング・スピリッツが補っているという。また、多くがシャンチーからの転向組であり、共通の感覚がチェスに役立っているとも。グルジアが女性もチェスが強くなれることを示し、ポルガーたちが女性のチェスの最高峰を達成した。そして中国は、女性一般が男性同様のチェスの才能をもつことを証明したのだ。そもそも才能とは何だろうか?

○ 主な文中引用:「中国のチェス・スクール」。中国チェスの進歩の過程を詳細に明かした好著。地味な本だが普通に売れ、ファンの中国方式への高い関心を証明した。

8章
美女と天才
(p147〜158)
インタバル的な章
 1998年、ハワイでの全米オープンに17歳で参加した頃の私は、女性と男性は同じ知的可能性をもつものと信じていた。そこではジュディ・ポルガーに負けたGMと話をしたが、彼によれば「ポルガーは天才ではない。女の天才なんて聞いたことがない」。当時の私には反論するほどの経験もなかったし、自分の考えを裏打ちする理論も知らなかった。情熱も必要であり、それは天分すら左右するものだろう。私は伸び悩んだ時期に、悔しくてチェスの問題集をちぎって絨毯に蒔いてしまったことがある。一年後、私は急速に成長したのだった。チェスを知らなければ、もっと幸せだったかもしれない。でも、チェスのおかげでさまざまな経験もできたし、世界中に友人もできた。
 中国では政府がチェスプレーヤーを支援しているが、こうした公的な経済的、精神的サポートは欧米では通常ない。欧米ではチェスは知的な仕事ではなく、風変わりな趣味と見られがちだ。こうしたチェスプレーヤーの偏執狂的なイメージをつくったのはポール・モーフィ(発狂したと言われている)とフィッシャーだろう。ナボコフ「ディフェンス」(邦訳あり)のチェスプレーヤーである主人公像もそうしたものだ。女性は男性ほどチェスに取り憑かれないから強くなれない、という見方もある。
 もっといろいろなことができるはずだ。トーナメントにしても、大会のロケーションをいろいろ工夫できるだろうし、レーティングではなく個性や棋風で招待プレーヤーを選んだっていい。ケージとデュシャンがやったようなパフォーマンス的な対局は、競い合いをあまり好まない人たちをチェスに導くものだろう。ただ、チェスに勝者と敗者が生まれるのは妥当なことと私は思う。勝者はより懸命に取り組むようになるし、チェスにより深い愛と認識をもつようにもなるだろう。私の最高の思い出のいくつかは、自分がチェスに深く打ち込んでいた時期のものだ。

○ 主な文中引用:フェミニズム系美術評論家リンダ・ノックリンのエッセイ、ジョン・バージャー「イメージ Ways of Seeing」、ル・ティグラ(ロックバンド)の歌詞など、性差/能力差についての、さまざまな見解が紹介されている。

9章
ヨーロッパのディーバたち
(p159〜188)
ステファノバ(ブルガリア)、スクリプチェンコ(仏)、コステニク(露)
 1998年に19歳のステファノバと知り合ったとき、彼女はもう世界のベスト10プレーヤーだった。二人でクラブに行く途中、彼女は言った「男を倒すのが好きなの」。ディスコで夜通し遊び、朝の5時にタクシーを待っていたときはこうだ「おバカなクソったれタクシーはいつ来んのよ?」。友人がたしなめると「あら失礼、とってもステキなお利口タクシーさんはどちらかしら?」。彼女は不思議なほどチャーミングな女性だ。1年の10カ月を旅から旅で過ごし、自分が楽しめなくなるからとコーチを同伴しない。酒もタバコもやるし、棋風は定跡はずれの自己流だ。彼女によれば「フェミニズムを語るより実行するのが好きなの」。他分野への転身もしばしば口にするが、「そうよ、対局と旅の生活なんてやってるつもりはないわ。70歳になったら」。
 1975年生まれのスクリプチェンコ(羽生氏が対戦経験あり)はヨーロッパを代表するプレーヤーであり、最も人気あるプレーヤーでもある。94年にジョエル・ロチェ(羽生、森内、佐藤氏との三面指しなど日本でもおなじみ)と恋に落ち97年に二人は結婚したが、当時の彼女はトッププレーヤーになっていた。2003年には離婚したロチェらとともにチェスプレーヤーの団体PCA(一種の組合)を設立し、FIDEによる世界選手権のリビア開催に抗議したりもしている。(スクリプチェンコ、ステファノバが参加した2003年欧州選手権を詳述)。ステファノバはチェスにはプロモーションが必要だという。しかし、プレスの注目がプレーヤーの美貌にばかり集まるのはどうなのだろう。「あんた、プレスに何を期待してんのよ。カスパロフに勝てないんだから、若くてキレイじゃなきゃダメなの」。
 世界のトップ10プレーヤーとして男性GM に並ぶ実力をもつコステニク(日本にもファン多数)は、その美貌と若さを使ったパブリシティが熱い物議をかもす存在だ。広告キャラクターになり、運営サイトは大成功し、CNNやタイム、ヴォーグに登場した彼女は、仲間内から妬みの中傷を受けたことがある。彼女の子供向けイベントを見学したが、対局は無料、宿泊も自費だった。マネージャー(夫)によれば、日に100通は来るメールに二人でなるべく返信するそうだ。夕食会を終えた彼女をホテルに訪ねると、夫はパソコンに向かっていて、その横で彼女は昼間の約束どおり私とのブリッツ(早指し)を始めた。
 世界で最も高名なチェスニュース・サイト、チェスベースに、私はプレーヤーの美人コンテストについて抗議したことがある。そこの責任者は「キミはチェスを広めたくないのか?」。私とクルシュは画廊でパフォーマンス的な対局イベントをやってみたが、チェスに縁のない人がたくさん来てくれた。メディアやファンも、カスパロフのコックのサイズは話題にしないだろう。チェス界においては男性プレーヤーのセクシュアリティはプライベートであり、女性プレーヤーのそれはオープンなのだ。

10章
世界をチェックメイト
(p189〜214)
ベトナム、エクアドル、イラン、ザンビア、インドの女性プレーヤー
 2000年にアジア・チャンピオンになったベトナムのホアン・チャンは、GMを間近にしながらスランプに悩んでいる。ブタペストで暮らす彼女は1日に4〜6時間チェスを勉強し、ほかの数時間は両親の仕事を手伝う。最近、アーティストの恋人ができたが、彼女によれば「彼は自分のしたいことをしてるのに、私は自分に必要なことをしてる」。ベトナム政府はチェスを支援しているが、当地のチェススクールは朝6時からの2時間のランニングで始まるそうだ。そして8時間のチェスレッスン。彼女は自分と国のためにチェスを指している。「世界でベトナムの話がでるときは戦争か争いごとのこと。私は自分がポジティブなことで国を代表してるのが誇りなの」
 南米の小国エクアドルはチェス強国で、フィエロは代表チームのリーダーだ。アメリカ市民権のチャンスもあったが、国の人々を愛する彼女は全く考えなかったという。トーナメントでの彼女はいつもほがらかで、誰とでも会話を楽しむ。対局中も話は止まない「あなた、女の子に負けるのは初めて?」「いっちゃえー!」。彼女のチェスは晩学で、1992年に国のチャンピオンになり10年間その座に君臨したが、1997年にはチェス五輪での活躍により、五輪金メダリストを抑えて国のNo.1スポーツパーソンに選ばれた。そんな彼女でも、女性は早婚が普通である故国のインタビューで30歳までの結婚を誓わされた。「笑ってうなずくしかなかったわ」。
 1980年のイラン革命によりチェスは禁止されたが、数カ月後には再び許しが出たという。誤解が多いが、イランの女性たちはネットも使えば車も運転するし、投票でもパーティでも何でもできる。唯一の例外はヒジャーブだが、国のチャンピオンに4度なったパリダールによれば「今ではファッションみたいなものなのよ」。ステファノバに勝ったこともある彼女だが、世界ランクが上がらないのは国に強いプレーヤーがいないためだ。でも、今では日々ICC(プロも参加するネット対局場)で腕を磨ける。2000年のアジアU16で優勝した彼女は、そのおかげで特待生として物理学を学ぶ予定である。当面の目標はGMだが、彼女は「それが実現してまだ生きてたら、世界チャンピオンを狙うわ」と言って笑った。
 ザンビアのナングェールに初めて会ったのは2002年のチェス五輪でだった。みすぼらしい服装だったが、フレンドリーで、自信に満ちた彼女の姿は周囲を魅了した。彼女はチェスは男のゲームだからという兄を説得してルールを覚え、大好きになったという。男の子たちとチェスをする彼女は「ビッチ」と呼ばれたが、今では隣町の男の子たちが彼女にチェスを教わりにやって来る「家の外に長い列ができてるの」。2002年に国のチャンピオンになった21歳の彼女は、恋人がいないことを国では不思議がられるそうだ。「恋人と会うより徹夜でブリッツをやったりシシリアン(代表的な戦法名)を研究するのが好きなんて、みんなには理解できないのよ」
 世界チャンピオン、アナンド(男)を生んだインドのチェス協会は、2012年までに100人のGMを育てると明言している。女性への普及も進んでいるが、これには父親の英才教育を受けた天才少女コネルーの活躍が大きい。服装には無頓着でインタビューでも寡黙な彼女だが、目標は男性を倒しての世界チャンピオンだ。女性の地位が低いインドだが、コネルーによれば、それが女性へのチェスの普及に繋がっているという「チェスは女性が家で一人で学べるから、インド社会にとっては理想的なものなのよ」

11章
アメリカのために
(p215〜256)
アメリカの歴代女性プレーヤー
 アメリカ女性のチェスの歴史は、女性向け大会が発案された1934年に始まった。長くカーフとグレッサーが二強で、裕福な家に生まれたカーフはオペラを愛し8カ国語を操るエレガントな女性だった。第二代全米チャンピオンとなり、最後の1974年まで7度の栄冠を得ている。いとこと結婚していたが、チェスプレーヤーのエドワード・ラスカー(日本では囲碁プレーヤーとしても知られる)との関係が公然となっていた。攻めのカーフとは対照的に守りの棋風だったグレッサーは才能豊かな女性で、子供の頃はギリシア語に熱中した。チェスを覚えて6年で初代全米チャンピオンに。世界選手権ではソ連勢に敵わなかったが、彼女はロシア語をマスターしてソ連の実態を理解しようと努めた。
 二強時代を打ち破ったのはベイン。多面指しで元世界チャンピオンのカパブランカ(男)に勝ち、メンチクを育てたマローツィの目に止まった。世界選手権では初のアメリカ代表となり健闘した。カーフ、グレッサー、ベインの三人は大戦中が実力のピークであり惜しまれる。1957年に新星レインが登場した。美貌と派手な言動も注目を引き「女フィッシャー」とも呼ばれたが、プレッシャーもあり、伸びが止まるやチェス界を去った。レインのライバル、ラニーは労働者階級の家に生まれ、ストリッパー時代にチェスに目覚めた。生活苦と闘いながらのチェスだったが、今でもチェスを愛し子供たちの指導にあたる。レイン、ラニーと並び活躍したのがサベレード。バイクでトーナメントにやってくる彼女はフェミニズム的なヒーローでもあった。
 このように才能あるプレーヤーはたくさんいたが、アメリカではチェスは人気がなく生計が立たなかった。現代のクルシュにしても一時は勉学を目指したほどだが、賞金面などに改善があるとはいえ、いまでもステイタスは低くテレビで扱われるわけでもない。カスパロフのドキュメンタリーを制作した友人は私に「あなたみたいなお利口さんになりたいわ」と言ったが、一般にチェスのスキルと知性が混同されているし、メンタル面に光が当たらないのも残念である。

12章
性を演じる:テキサス生まれのアンジェラ
(p257〜266)
性転換したチェスプレーヤー
 兵隊ポーンは敵陣の最深部に達するとクイーンとなり性が変わるが、テキサスの男トニーも女アンジェラに変わった。半陰陽として生まれたアンジェラは、男の子として育てられ結婚までしたものの、アイデンティティに悩み離婚した。6歳でチェスを覚えた彼女はエマヌエル・ラスカー(男)を敬愛する強豪プレーヤーであり、彼女が女性の大会に鞍替えすることには反対の声もあった。アメリカのチェス協会が彼女を女性プレーヤーと認定し事は収まったが、アンジェラは性転換手術を受けるまで女性の大会には出場しなかった。性別で人を分類するのは意味がないと彼女は言う。「女性がパンツスタイルになったり男性が人前で泣いたら、それは伝統への違犯よね。よく考えてみて。私たちは誰でも少しは性の不一致なのよ」

○ 主な文中引用:H・J・R・マレー「チェスの歴史」

13章
最下位から優勝へ
(p267〜285)
2004年世界選手権と全米選手権
 2004年春、クルシュと私はカルムイキヤでの世界選手権に招待された。FIDE会長はこの国の大統領で、会場はチェスのために建てられた豪華な施設「チェスシティ」だが、周辺の人々は貧しい生活を送っている。(世界選手権の様子、進行を詳述)。私は一回戦で、クルシュも二回戦で負けた。第1シードのコネルーは準決勝で敗退し、大会はステファノバが制した。ダイヤをあしらった王冠と5万ドルを手にした世界チャンピオンはその後、祖国ブルガリア、リビア、ロシア、スペイン、ポーランドを訪問している。
 NYに帰った私は全米選手権への用意を始めたが、さらなるトレーニングが必要だった。私はパソコンとたくさんのチェスの本や赤ワインを抱えて、なじみのトレーナー宅に泊まり込んだ。7時起床で2時間のレッスン、その後はジムで肉体を鍛え、昼食後は夜8〜9時までチェスに取り組んだが、時間は主に対戦相手の棋譜分析に使われた。家に戻った私は兄に会ったが、彼は今ではポーカーに転身している。兄は言ってくれた「ジェン、おまえに必要なのはチェスを楽しむことだ」。(全米選手権の自局を心理面も含め詳述)。二度目の全米チャンピオンになった私は街をふらつき、公園でアイスコーヒーをすすった。天気もジョークも何もかもが最高でNYが天国に思えた。
 対局中に深い読みに沈んでいると自分がどこにいるのかわからなくなる。性別も関係なくなる。文化的、政治的に性別化されたチェス界とはまるで対照的だ。私は24歳で本書を書いた。会社で働いていない私の仕事はチェスだ。チェスは私にステキな思い出と、自由な生活と、笑みと夢と、世界の見聞と友だちを与えてくれた。女性読者のみなさん、次はあなたの手番です。 (了)

Chess Chronicon