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通天閣仰ぎ 駒に賭ける 最後の真剣師 大田学さん (2月21日、大腸がんで死去、92歳)

 病室のベッドに横たわったまま、スッと右手を伸ばす。立てた中指と人さし指が右へ、左へと動く。亡くなる直前、虚空に棋譜をなぞった。鋭かった目は閉じられ、賭け将棋に生きて「最後の真剣師」と呼ばれた面影はもうないのに、そんなことが日に数度あったという。
 めいの立川澄子さん(63)は「意識を失っても、最期まで将棋指しだったんですね」と語る。
 賭け将棋の道に入ったのは、戦後間もない30歳のころ。父の将棋を見よう見まねで覚え、プロの棋譜で独学し、郷里の鳥取県倉吉市で無敵となった。対局相手を求めて放浪の旅に出た。
 娯楽の少なかった時代。賭け将棋は全盛期を迎えていた。各地に真剣師が割拠し、何不自由ない裕福な人も挑んできた。「一晩で車1台分の金」を稼いだこともあった。真剣界に名が知られ、対局を避ける将棋指しも現れた。プロの誘いは「性に合わない」と断った。
 全国を渡り歩いた末に腰を落ち着けた先が、強者(つわもの)が集う坂田三吉ゆかりの大阪・新世界だった。1960年代。通天閣を仰ぎ見ながら勝負の日々が続く。
 女、酒、借金……。勝負の重圧から欲望におぼれ、破滅していく真剣師も少なくなかった。だが、「大田さんは違った。自らを厳しく律していた」と、新世界の将棋道場「三桂クラブ」店主、伊達利雄さん(43)は振り返る。
 「この仕事は所帯を持てない」と、生涯独身を貫いた。酒はやらなかった。金にも執着せず、負かした相手に「金は今度」と懇願されると、笑って許した。
 その人柄を多くの人が愛した。「マンションの一室をあげる」。対局相手の資産家の申し出も「おれは安宿でいい」と断り、西成の簡易宿泊所で1泊2000円の三畳間に定住した。
 表舞台で脚光を浴びたことが2度ほどある。知人に強く勧められて出た第1回朝日アマチュア将棋名人戦。63歳で優勝し、世間をアッと言わせた。その後、NHK連続ドラマ「ふたりっ子」の「銀じい」のモデルになり、人気を呼んだ。
 それでも生き方は変わらなかった。晩年は通天閣の囲碁将棋センターなどで師範を務め、1局500円の指導料で生活をつないだ。
 相手に「もう一局」と言わせる真剣師の極意か、攻めさせてから、終盤、一気に逆転する自在な棋風。「生まれ変わったら、こんなバカなことはしないよ」と言いつつ、色紙には「真剣一代」と書いた。
 身内だけの葬儀。親交のあった作家団鬼六さん(75)から弔電が届いた。「小さな駒に生涯をかけ、ひっそりと、きれいに生きた大田さんに感服します」。自筆で、そう記されていた。(大阪社社会部 兒島圭一)