2001年読書控
Morris.は2001年にこんな本を読みました。220册になります。読んだ逆順に並べています。
タイトル、著者名の後の星印は、Morris.独断による、評点です。
★20点、☆5点

セル色の意味 イチ押し(^o^) おすすめ(^。^) とほほ(+_+)
転生-リインカーネーション 】田口ランディ 雪はことしも 】別所真紀子 浪花のいやしんぼ 語源自典 】奥田継夫 辛くてオイシイ韓国 】NHK出版編
マザーグースと日本人 】鷲津名都江 本よみの虫干し 】関川夏央 オルガニスト 】山之口洋 ドングリの謎 拾って食べて考えた 】盛口満
橘三千代 上下 】梓澤要 私のダイコロジー 】山口昌伴   【おい癌め酌みかはさうぜ秋の酒 】江國滋 これから 】夏目房之介
詩人であること 】長田弘 秘宝耳 】ナンシー関 神戸むかしの味 】水原茅子 壁 旅芝居殺人事件 】皆川博子
山谷崖っぷち日記 】大山史朗 名言なんか蹴っとばせ 】ジョナソン・グリーン 里中哲彦訳 】山本昌代 添削・俳句入門 】深谷雄大
九季子 】山本昌代 薔薇窓 】帚木蓬生 濁流 】蔡萬植(チェマンシク)三枝壽勝訳 源内先生舟出祝 】山本昌代
朝霞 】山本昌代 定義集 】ちくま哲学の森 別巻 紅茶の本-増補改訂版 】堀江敏樹 インターネットセキュリティ 】ユニゾン
百人百句 】大岡信 色と欲 】上野千鶴子編 神戸在住 】木村紺 俳句の方法 現代俳人の青春 】藤田湘子
緑色の濁ったお茶 あるいは幸福の散歩道 】山本昌代 雑草博士入門 】岩瀬徹、川名興 睡魔 】梁石日 青春マンガ列伝 】夏目房之介
ピンの一(ぴん) 】伊集院静 丸谷才一と22人の千年紀ジャーナリズム大合評 コレクション 】山本昌代 北上幻想 】森崎和江
三代目柳家三木助 】山本昌代 お笑い創価学会 信じる者は救われない 】佐高信、テリー伊藤 】簗石日 歌集 椿夜 】江戸 雪
岡本綺堂 】ちくま日本文学全集 ウィスキーボンボン 】山本昌代 き人伝 】山本昌代 完四郎広目手控え 】高橋克彦
草を褥(しとね)に 小説牧野富太郎 】大原富枝 社長物語 】薄井ゆうじ 夢の裂け目 】井上ひさし 古典論 】外山滋比古
魂の流れゆく果て 】簗石日 刑務所の中 】花輪和一 颱風娘 】薄井ゆうじ 二十世紀 】橋本治
サイキック戦争 】笠井潔 血と夢 】船戸与一 夕やけを見ていた男 評伝梶原一騎 】斎藤貴男 群蝶の空 】三咲光郎
新宿鮫 風化水脈 】大沢在昌 みだら栄泉 】皆川博子 龍神町龍神十三番地 】船戸与一 愚か者の楽園 】畑中純
虹の谷の五月 】船戸与一 鬼譚草子 】夢枕獏+天野喜孝 トン考--ヒトとブタをめぐる愛憎の文化史 】とんじ+けんじ 血族 アジア・マフィアの義と絆 】宮崎学
すべて君に宛てた手紙 】長田弘 あなたに語る日本文学史 近世・近代篇 】大岡信 あの紫は 】皆川博子 ラングストン・ヒューズ詩集 】木島始訳
猫城 】南條竹則 虚空の花 】南條竹則 日本ウラ経済学 】宮崎学 空山 】帚木逢生
放送禁止歌 】森達也 鳥類学者のファンタジア 】奥泉光 花迷宮 】久世光彦 ボードレール詩集 】福永武彦訳
銀河がこのようにあるために 】清水義範 椿の花に宇宙を見る 】寺田寅彦 池内了編 あなたの想い出 】高平哲郎 與謝蕪村 】山本健吉
スピン・キッズ 】中場利一 活字狂想曲 】倉坂鬼一郎 マイ・ラスト・ソング 】久世光彦 五重塔 】幸田露伴
みんな夢の中 】久世光彦 萌えいづる若葉に対峙して 】辻征夫 紙屋町さくらホテル 】井上ひさし 壬生義士伝 上下 】浅田次郎
写楽 】皆川博子 風翩翻 】斎藤史 平然と車内で化粧する脳 】澤口俊之・先生 南伸坊・生徒 ブックハンターの冒険 古本めぐり 】 牧眞司
浮かれ三亀松 】吉川潮 赤目四十八瀧心中未遂 】車谷長吉 月がとっても青いから 】久世光彦 幻談・観画談 】幸田露伴
建築ことば漫歩<道具篇> 】矢田洋 旧字旧かな入門 】 府川充男 小池和夫 俳句的人間 短歌的人間 】坪内稔典 精神の氷点 】大西巨人
ざぶん 】嵐山光三郎 アリランの誕生 】宮塚利雄 今夜の魚 呑む銘酒 】魚柄仁之助 てのりくじら 】 枡野浩一短歌・オカザキマリ絵
寄せては返す波の音 】山本夏彦 漱石俳句を愉しむ 】半藤一利 このバカを見よ! 】高橋春男 韓国のおばちゃんはえらい! 】渡邊真弓
始祖鳥記 】飯島和一 韓国歌謡史 1895-1945 】朴燦鎬(パクチャンホ)  【トンデモ一行知識の逆襲 】唐沢俊一 夜明けあと 】星新一
天使のウインク 】橋本治 汝ふたたび故郷へ帰れず 】飯嶋和一 現代四行詩集 こころの果実 】伊藤海彦他 クラウド・コレクター 雲をつかむような話 】クラフト・エヴィング商會・著 坂本真典・写真
お金をちゃんと考えることから逃げまわっていたぼくらへ 】邱永漢+糸居重里 おもしろ比較文化考 】ロビン・ギル 季刊 本とコンピュータ 15 】2001年冬 花の図譜 春 】太陽シリーズ
キムチの国 】李御寧・李圭泰・金晩助 金淳鎬訳 笑う長嶋 】夏目房之介 山原バンバン 】大城ゆか チャーリー・パーカーの芸術 】平岡正明 
間諜 】杉本章子 想像力と創造力 】永六輔 中島敦 】ちくま日本文学全集 現代作家100人の字 】石川九楊
影の変奏 】伊藤海彦 俳句作法入門 】藤田湘子 漢字の常識・非常識 】加納喜光 熱血! 日本偉人伝 】三波春夫
堤防決壊 】ナンシー関・町山広美 世界衣裳盛衰史(よのなかはきぬぎぬのうつろい )】清水義範 江戸の見世物 】川添裕 みんな家族 】清水義範
東京新大橋雨中図 】杉本章子 渋江抽斎 】森鴎外 残映 】杉本章子 疫病神 】黒川博行
爆弾可楽 】杉本章子 妖花 】杉本章子 父の形見草 】堀口すみれ子 朝鮮民謡選 】金素雲編
ザ・対決 】清水義範 紅雀 】吉屋信子 名主の裔 】杉本章子 木曜の男 】G。K。チェスタートン 吉田健一訳
わらう伊右衛門 】京極夏彦 神保町の怪人 】紀田純一郎  【スプーン一杯のビール 】立松和平 メイン・ディッシュ 】北森鴻
写楽まぼろし 】杉本章子 奇書! 奇書! 奇書の達人 】歴史と文学の会編著 らんぼう 】大沢存昌 福田繁雄のトリックアート・トリップ
『古今和歌集』の謎を解く 】織田正吉 厨師流浪 】加藤文 五高生殺人 思いや狂う 】飯尾憲士 江戸風狂伝 】北原亞以子
奇想天外・英文学講義 】高山宏 ゴミの定理 】清水義範 青い月曜日 】開高健 だいこんの花 】向田邦子
断層海流 】梁石日 さかしま 】梁石日 漫画の文化記号論 】大城首宣武 パンドラ 'S ボックス 】北森鴻
耽羅紀行 街道をゆく28 】司馬遼太郎 生死不明 】新津きよみ 装刀 チャンドウ 】杉洋子 司馬遼太郎の「かたち」 】関川夏央
個人のたたかい 金子光晴の詩と真実 】茨木のり子 百年の旅人たち 】李恢成 冥府神(アヌビス)の産声 】北森鴻 詞人から詩人へ 】宮沢和史
日本語おもしろ雑學練習帳 】日本雑学能力協会編著 狂乱廿四孝 】北森鴻 読書人志願 】森村稔 グリコ・森永事件 】宮崎学・大谷昭弘
一本の茎の上に 】茨木のり子 「ケータイ・ネット人間」の精神分析 】小此木啓吾 死もまた愉し 】結城昌治 お笑い 外務省機密情報 】テリー伊藤
熾天使の夏 】笠井潔 自決 】飯尾憲士 播磨ものがたり 】池内紀 浪漫疾風録 】生島治郎
花の下にて春死なむ 】北森鴻 凶笑面 蓮杖那智フィールドファイル1 】北森鴻 狐罠 】北森鴻 幸田露伴のために 】篠田一士
大相撲こてんごてん 】半藤一利 大穴 】団鬼六 ページをめくる指 】金井美恵子 どうしやうもない私 わが山頭火伝 】岩川隆
末法眼蔵 】藤原新也 百年分を一時間で 】山本夏彦 植木等と藤山寛美 喜劇人とその時代 】小林信彦 とんちんかん道具館 】朝日新聞日曜版編集部編 
殘酷人生論 】池田晶子 シェエラザード 上下 】浅田次郎 珍妃の井戸 】浅田次郎 されど君は微笑む 】北方謙三
蒼穹の昴 上下 】浅田次郎 存在の堪えられない軽さ 】ミラン・クンデラ 千野栄一訳 天涯茫茫 】岩川隆 老子 】奥平卓訳
バンコク発カオサン通りに吹く熱風 】花田一彦 マガジン青春譜 】猪瀬直樹 とびきりお茶目なイギリス文学史 】テランス・ディックス 尾崎寔訳 祝婚歌 】北山冬一郎
 

転生-リインカーネーション】田口ランディ ★★★☆☆ 絵本といってもいいだろう。JR神戸駅の本屋で見つけて、立ち読みして、とうとう読み通してしまった。10数編の長さもまちまちの掌編の集まりで、ある生命が、タイトルの通りさまざまな生き物に生まれ変わり死んでいくさまを、淡々と綴ってあるもので、人間であれ、虫であれ、犬であれ、それぞれの生が抵抗なく読み手に理解されるところがすごいと思う。ランディというのは、ネットのハンドル名で、たまたまチャットに参加していた一人が飼っていたアライグマの名前だとか。それはともかく、彼女の文体は、やはりネット文体が大きな影響を与えているようだ。これは先日1冊購入し、さりーちゃんの誕生プレゼントに進呈した。あまり本を読むタイプでないさりーちゃんなのに、当日読みながら泣かれてしまったのにはあわててしまった。
 


雪はことしも】別所真紀子 ★★★☆ タイトル作を含む5篇の短編が収められている。すべて、江戸の俳人と連歌(歌仙)をテーマにしている。芭蕉と越人の情愛を主題にしたタイトル作が一番良かった。[阿羅野」に収められている、芭蕉と越人の「深川の夜」一巻を中心に、二人の心の通い合いを、うまく物語に仕立てている。
その他の作品では、凡兆の妻羽紅、一茶がひそかに憧憬した花橋、連歌の師匠浜藻と、女性俳人を主人公にしたものが並んでいるし、特に最後の「浜藻歌仙留書」は、ほとんど歌仙の入門書みたいになっている。実は筆者は連句誌を主宰する、本職なのだった。夏目成美の「花鳥もおもへば夢の一字かな」を発句に巻かれた歌仙は、たぶんに筆者の創作だと思うが、これまたなかなか良く出来ている。途中で途切れているのが残念なくらいだ。

花鳥もおもへば夢の一字かな 成美
 糸の如しも雨の青柳 浜藻
ゆく春を船頭唄のひびき来て 久蔵
 笠の破れに不反古を貼る 長翠
西のかた有明月のうすうすと 節度
 いとどは髭を打ちふるふなり 錦糸
早稲の香に神楽舞はせつつ 志鏡
 嫁に染めたる江戸の紫 包嘉
忘られぬ井筒の君を垣間見て 助亭
 書付消えて家を逐はるる 長翠

この後、実際に消えた書付の話から、身寄りのない姉妹をめぐる、推理仕立てに転じていくのだが、これはなくもがなだった。俳句好きな人にとっては、結構楽しめる1冊かもしれない。
 


浪花のいやしんぼ 語源自典】奥田継夫 ★★★☆ 「ボクちゃんの戦場」「いやしんぼ」などの作家であり、梅田に居酒屋「みーる亭」を開いている筆者が、大阪を中心にした食べ物を、徒然なるままに気ままに、自己流に語ったものを、大まかに五十音順に並べている。「事典、辞典」でなく、あくまで「自典」だから、信憑性にはあまり重きをおかず、面白かったらよかろうと、羽目を外したり、洒落のめしたり、でっちあげたりと、やりたい放題だが、酒の肴の本も出してる筆者だけに、酒の肴の超簡単レシピが多数散りばめられていて、それだけでも充分楽しめた。
天津甘栗が余ったら、カレーに入れると美味いとか、カレーの上にスライス玉葱輪切りをかけると美味いとか、カレーにのジャガイモは丸揚げしてから入れると美味いとか、自分の店で出すエジプトカレーの作り方とか、結構カレーには執心してるのも面白い。カボチャを入れるととろみと甘味とコクがます、とあるが、これは勘弁してもらいたい。
ヨーロッパや東南アジアもよく旅行してるらしく当地の食べ物の薀蓄もいろいろ並べてある。
語源の説明に、何故か「朝鮮古語」に由来すると言うのが頻出するが、これも、ちょっと???である。そもそも、本国でも古語の研究は確立されていないし、日本で、一部で流行ってる日本語を安易に朝鮮語と関係付ける方法は眉唾としか思えない。たとえば、食べ物の語源ではないが、「ブス」朝鮮語の「ブスダ=つぶす」に由来するという説などは、何だかな、としかいいようがない。「つぶす」という語にだって「ブス」という音は入ってるわけだしね(^o^)
もちろん、妥当な説、なるほど、と思う説も多数含まれているから、小さなところで揚げ足を取る必要もない。単なる美食エッセイよりは、有用性もあり、面白くてためになる本の一冊であることは間違いない。
やきぶたを簡単に作る方法三種というのを引用しておく。

A)30分茹でて、醤油(濃い口)に30分漬ける。
B)5分間、電子レンジでチンして、醤油に30分漬ける。
C)赤味噌を醤油と蜂蜜で溶いた中へ10分間くらい漬けてから、電子レンジでチンする。

盛り付けは、さっと茹でたモヤシの上にスライスした焼き豚を並べ、きざみ生ネギをパラパラふり、タレをさっとかける。
 


辛くてオイシイ韓国】NHK出版編 ★★★☆ 「本書はNHKBSスペシャル「韓国 食の大図鑑」の韓国取材をもとにまとめたものです」と最終ページのおしまいに小さな文字で書かれているとおりで、本文も取材に関わった三人が分担している。カラー写真32pはなかなか美しいし、見開き2pで一つの記事になってる構成で、韓国の食のコラムとしても結構楽しめた。TV本にしては珍しく合格点を付けられる1冊だった。
キムチ、魚介類、塩辛、肉類、屋台メニュー、宮中料理、チャガルチ等の記事で、Morris.の知らなかったことも、いくらか書いてあった。
たとえば仲買人の資格を持っていないチャガルチアジュマが、競りでは仲買人を陰で操作していることとか、凍結と解凍とを繰り返して乾燥したファンテ(ボウダラ)料理の豊富さとか、ユッケジャンの名前の由来(ユッ(肉)+ケジャン(犬鍋))とか、あまり知られていない牛の部位の紹介などである。

サルチサル--肋骨の上にある肉
ヤンジホリサル--腰の肉
チマサル--腹の部分
チャドルペギ--脇の下の肉
トシサル--脾臓付近の肉
アロンサテ--股の部分の肉
トゥンコル--脊髄

おしまいのトゥンコルは、狂牛病の危険部位の一つだから、日本では先ず出す店はないだろう。
家庭でもできる「本格的な白菜キムチの漬け方」というのを、引用しておく。が、とてもこれはMorris.には、できそうにない。

[材料]
・白菜一株
・塩、白菜の重量の10%
・大根、半分から1本
・人参一本
・細ネギ一束
・ニンニク大一個
・ショウガ、ニンニクの半量
・玉葱1個
・リンゴ1個
・生イカ(刺し身用)一杯
・赤唐辛子粉適宜
・煮干しのエキス、100ml
・アミの塩辛、100-150g
・もち米の粉(上新粉)適宜

[白菜キムチの漬け方]
1.白菜の下拵え--塩漬け
白菜を縦四つ割にし、葉の間に塩を振り、しんなりしたらおもしをして水が上がるまでおく。特に根元の方にしっかりと塩をふる。外葉も捨てないで一緒に漬けるこうして6時間前後塩漬けしてから水で洗い、水切りと塩抜きをする。
2.のりを作る
もち米の粉または上新粉を水に溶かし、火にかけ、混ぜながらのり状に煮て冷ます。白菜一株に対し、のり50ml(大さじ山盛り3杯)くらいが適量。
3.具の下ごしらえ
・大根、人参は、せん切りにする。
・ニラ、細ネギは3cm長さに切る。
・ニンニク、ショウガ、玉葱、皮のままのリンゴを細かく切り、煮干しのエキスとともにミキサーにかける。コツは柔らかい物から順番に入れること。全体にピュレ状になるまで混ぜる。
・イカは足とワタを分けて、皮付きのまま開いて細かく切る。足は吸盤を取ってザク切りにする。
4.漬ける
1)大き目のボウルに大根と人参を入れ、赤唐辛子粉をまぶし、力強くもみながら色をつける。
2)下ごしらえで作ったピュレを加えてもむ。
3)のりを加えて混ぜる。
4)ニラ、細ネギ、イカを入れてさらに混ぜる。ここではあまり力を入れないのがコツ。
5)赤唐辛子粉を加える。
6)砂糖大さじ1杯半を加え、混ぜて味見をする。
7)塩漬けした白菜に、アミの塩辛を加えて混ぜる。味見をしながら塩味のバランスを確認。
8)白菜の葉と葉の間に具をはさむ。根元のほうに厚く、葉先には薄くはさむのがコツ。
9)根元に葉先を重ねるように二つ折りにして、具がこぼれないように外葉で包む。
10)漬け瓶の中に並べて入れ、上から押して間の空気を抜く。残った具の切れ端も隙間に詰め、具の残りを上からかける。空気に触れないよう、ふたやラップをかけておく。
11)漬けてから1,2週間して発酵が始まるのでそれ以降食べられる。冷蔵庫に入れれば3,4ヶ月間はおいしく食べられる。
 


マザーグースと日本人】鷲津名都江 ★★★☆☆☆ ロンドン大学に留学し、修士論文に「A Comparative study of English and Jpananese  Children's Play Songs--日英伝承遊び歌の比較研究」(1987)を提出した、本格的研究者である著者による、マザーグース研究啓蒙の書である。
Morris.は「マザーグース好き」を標榜してるのだが、本書の言うところの第二次マザーグース・ブームよりは以前から、竹友藻風の「英国童謡集」(1969)の対訳本を愛読していたものの、決定的になったのは中公文庫で出た「マザー・グースの唄」平野敬一に刺激されるところが大きかったと思う。その後、谷川俊太郎の翻訳(これも平野監修)で、大ブームになり、多くの詩人や文学者、翻訳家が競ってそれぞれのマザー・グース日本語版を出版した。1976年に角川文庫で復刻された北原白秋訳本を読み返したことga
思い出されるし、英国で一番の権威オーピー夫妻の「The Oxfored Nursery Rhyme Book」(1967)も入手して、乏しい知識を総動員して原詩の幾つかを楽しんだりもした。遡れば、小学生の頃、アリスとミステリーの中に効果的に挿入されたり、タイトルに用いられたマザーグースの数編に不思議な魅力を感じたことに始まるだろう。
本書から個人的回想にひたってしまうが、そのくらいには、マザーグースに思い入れがあるということだ。
本書は、マザーグースの定義から始まり、日本におけるその伝来と翻訳の歴史を、エポックごとに紹介している。更に、イラストや漫画、歌われたマザーグースまで、広く目配りを忘れない。
竹久夢二の翻案から、白秋、西条八十、土岐善麿、松原至大、藻風、の第一次ブームの総括、戦後復興の模様、そして先の平野本に始まる第二次ブームで、綺羅星の如く登場した清新な新訳を総覧している部分は、懐かしさを禁じえなかった。特に付表として巻末にある「第二次ブーム以降の主なマザーグース関連出版物一覧表」は、貴重な労作である。これを見ると、驚くほど多数の訳が同時代に出されたことがよくわかるし、未見の訳詩の中で是非、読んで見たくなるものもいくらか見つかった。Morris.が記憶に残っている訳者としては

谷川俊太郎、矢川澄子、寺山修司、岸田理生、岸田衿子、ひらいたかこ、ぱくきょんみ、和田誠、木島始

などで、これから読んで見たいのは、「マザー・グースのうたがきこえる」由良君美、「マラルメ先生のマザー・グース」長谷川四郎など。

漫画家では、萩尾望都、和田慎二、三原順、成田美名子、魔夜峰央、岡野史佳、由貴香織里などの作品中に出てくるマザーグースを取り上げて、成田美名子を持ち上げていた。
面白かったのは「日本人のマザーグース認識パターン」として

1。イギリス文化を具現化したもののひとつとして捉える。
2。英語圏の人たち(ネイティヴ)にかなり近い感覚での理解。
3。英語の子どもの(遊びの)歌、かわいい歌。
4。「不思議の国のアリス」との関連。
5。強烈な残酷さをもつ詩と受け取る。
6。ナンセンス詩としての受容。

の6パターンがを挙げられていたことで、第二次ブーム以前は、1,3,6,が主流、以後は2,4,5,の要素が強まっていると総括してある。Morris.自身は4,5,6の混合パターンだと思う。
現在、ブームはやや沈静した観があるが、マザーグースの世界は、ずいぶんと日本人にも馴染みのものとなっていることは間違いない。Morris.も、本書のおかげで、手持ちの白秋や藻風本を再読しようと言う気になった。

せっかくだから、マザーグースの大好きな一篇を。

行きたいところに行けるなら   Oh, that I  where I would be,
今ゐるところにゐないでせう      Then wourd  I  be where I'm not.

今ゐるところから                     But where I  am
出られなけりや                             there I  must be.

行きたいところには                 And where I  wourld be
行けないの                                  I  can not.
 


本よみの虫干し】関川夏央 ★★★☆ 「日本の近代文学再読」と副題がある。朝日新聞と「図書」に連載された同題のコラムの集成で59冊の本が取り上げられている。「日本近代文学の名作話題作を、できるだけ現代人の視線から離れ、時代に即して読み直した日本近代文芸思想入門。」と見返しの惹句にある。
Morris.既読のものは33冊。どうやら半分超えるくらいだった。未読のもので、読んでみたくなったものは

・「美しき町」佐藤春夫・「流れる」幸田文・「ある明治人の記録」石光真人(編著)・「冬の鷹」吉村昭

くらいか。後書きから引く。

本など読まずに済めば、それに越したことはない。うかつでも生きていける世の中なら、うかつな気楽さに身を任せてもみたい。本は、人に考える種を与えて無為の時間を埋めてくれはするが、人を幸せにするわけではない。
だが日々の食物のように、つい本を求めてしまう因果な性分もある。そういう人に対しては、むろん強い自戒をこめて、ときに虫干しすべきは本ではない、本よみ自身だろう、といいたかったのである。

なるほどね。しかし、昭和初期の四季派などには厳しすぎるような気がする。たとえば立原道造詩集を取り上げた中の一文。

大正中期以降のとめどない大衆化の波に「知識人」や[文学者」は、日本ではなく、欧州をおもわせはするが結局どこでもない場所、つまり大衆のいない場所を想定して逃避し、自己防衛しようとした、昭和初年とはそんな時代であったといいたのである。
その気分は戦後にも受け継がれ、おもに流行歌のなかに息づいた。私は「ニュー・ミュージック」こそその嫡子だったと思う。
しかし、「知識人」も大衆の一変種となり、日本人全員が「高等(?)遊民」と化した現代では、「高原」は特権的空間ではない。ただの観光地である。となれば立原道造的叙情には、残念ながら、もはや果たすべき役割がないのは自明なのだった。

これは、時代に即しない、現代人の視線でしかないと思う。立原的抒情は結構好きなMorris.としては、弁護したくなった。でも、四季派がニュー・ミュージックだというのは、言いえて妙ではあるなあ。
 


オルガニスト】山之口洋 ★★★☆☆ 久しぶりに読み応えのあるエンターテインメントに当たった。98年のファンタジーノベル大賞受賞作で、文庫にするに当たってかなり手を入れたものらしい。
交通事故で半身不随になり、病院から行方をくらましたドイツの音楽大学生の天才オルガニストが、9年後、アルゼンチンで変名で復帰したらしいという情報を得た、親友が、彼を追ううちに、彼の恩師の変死、それにかかわる秘密が突然明らかになっていく。
パイプオルガンというほとんど未知の楽器の構造や製作過程に到るまでの詳細な描写、バッハを中心とするオルガン曲の解釈なども、素人離れしているし、文章もなかなかのものだ。特にうがった比喩が目に付く。

額の右上から鼻の付け根にかけて不思議なしわが斜めに一本走っている。粘土にへらで切り込んだような底知れぬしわで、それが表情を読めなくしていた。見慣れた文字に線が一本加わるだけで知らない文字に化けてしまうように。

履歴によると著者は1960生まれ、東大工学部卒、松下電器を経て明治大学講師、辞書作成にも携わった、とある。やはりただ者ではなさそうだ。


ドングリの謎 拾って食べて考えた】盛口満 ★★★ どんぐりを知らない人はいないだろうが、さてどんぐりの定義となると十人十色なのではないだろうか?
「どんぐりの木の実」といっても、そもそも「どんぐりの木」という名の樹木は存在しない。各種の国語辞典を見ても記述は一定していない。共通しているのは「ブナ科」の一部の木の種子ということだ。ブナ科はクリ属、シイ属、ブナ属、コナラ属、マテバシイ属に分かれていて、ドングリはもともとコナラ属のクヌギ(大ナラ)の実をさしていたらしい。一般的にドングリの代表としては、クヌギ、コナラ、マテバシイあたりで、これらが属するコナラ属、マテバシイ属の樹木の実をどんぐりと総称していると言えそうだ。

[コナラ属]コナラ、ミズナラ、クヌギ、アベマキ、ナラガシワ、カシワ、アラカシ、アカガシ、シラカシ、ウラジロガシ、オキナワウラジロガシ、ツクバネガシ、ハナカガシ、イチイガシ、ウバメガシ
[マテバシイ属]マテバシイ、シリブカガシ

どんぐりでやじろべえや独楽や人形作って遊んだことはあるが、食べたことはない。著者が生物の教師をやってる学校の授業で、どんぐりを色々料理することが出てくる。マテバシイが一番渋味が無く食べやすいということだった。どんぐりを食べるというと、韓国の「トットリムック(どんぐりの粉で作った胡麻豆腐みたいな食べ物)」を思い出したが、本書にもその市販の粉が登場する。これはほとんどでん粉でいわば片栗粉に近いものらしい。
著者は子供の頃から自然収集好きで、長じてからもフィールドワークに魅せられ、ボルネオ、沖縄での自然観察を通して、ついに教師を辞めて沖縄での生活を始めることになってしまう。イラストもなかなかうまいし、これまでに数冊の著書を持っているので、今後はナチュラリストの道を進むのだろう。
 


橘三千代 上下】梓澤要 ★★☆☆ うーーーむ、Morris.が図書館に行くたびに「あ」の棚を探す癖がついたくらいに注目している梓澤の新作(2001/03刊)なのに、この評点というのはいささか、肩透かしである。

あがたいぬかいのたちばなのみちよ【県犬養橘三千代】?-733 奈良時代の女官。美努王の妻となり葛城王(橘諸兄)らを生み、藤原不比等に再嫁して光明子(光明皇后)rを産んだ。708年橘姓を賜り、藤原・橘両氏の繁栄のもとを築いた。(大辞林)

日本古代史にはうといMorris.は、橘三千代と言われてもぴんと来なかった。上下500ページを越す本書を読んで、どのような生涯を送ったかのアウトラインは掴むことが出来たし、当時の権力争い、社会状況についてもいくばくかの知識を得ることが出来た。しかし、Morris.は別に歴史の副読本を読みたかったわけではない。史実には沿いながら、空想の翼を広げて歴史ロマン(物語)を編み上げる作者の稀有な才能を期待したのに、またもや期待はずれだった。大作「遊部」でもややその冗長さと、想像力の萎縮に不満を覚えたが、本書はさらに物語としての魅力を欠いているようだ。上古を舞台にしている割に、台詞があまりに現代口語というのも気になるが、そんなことは大したことではない。
やはり主人公である三千代に魅力が無い、というのが決定的だろう。皇位継承にまつわる権謀術数も、身贔屓と思われるくらいに、主人公側にたち、言い訳、糊塗に終始している。作中人物それぞれの視野が狭いのだ。中途半端な女権拡張論みたいなものが匂わせてあるのも鼻白むしかない。
藤原氏の皇室閨閥を死守する中で、病弱の男子に代えて、女帝を続出するあたりは、先日の皇太子夫妻の女児出産で、あわてふためいている?今の皇室と重ね合わせてしまった。そういう意味ではタイムリーな読書と言えなくも無いが、そんなことより、読書の楽しみを味合わせてもらいたいものだ。次作に期待しよう。。


私のダイコロジー】山口昌伴 ★★★ 先日読んだ「現代の世相」叢書「色と欲」所収の山口昌伴「台所戦後史-台所からキッチンへ、そして---」という30ページほどの小論が印象にのこっていたので、図書館で本書を見つけて借りてきた。88年の発行だからちょっと古い。87年に「台所空間学」という大部の本が出されていて、本書はその余滴というべきコラム集らしい。台所道具を巡る旅の中で出会った老人の話、古い鍋や台所、生活の智慧、日本人の食生活の変化と、功罪など、多方面にわたってのヒント、感想などが書かれているが、コラムという形だけに、細切れで、もう一つ食い足りなかった。
示唆に富む発言はあちこちにあって、

この数十年、都市の台所から出る生ゴミの量はどんどん増えている。ぜいたくになったから、なのではナイ。無精になったうえに無知になったから、一品に仕立てられないのだ。

などという指摘も、そのとおりだと共感するし、

調理とは、そのままでは食べられないものを食べられるようにする行為である。動物たちは、そんなことはしない。食べられないものは食べない。頭数が増え過ぎると、天然の食糧の量に合わせて余分な個体数がしんだ。それで均衡が保たれた。
人類は、そのままでは毒だったり、渋すぎたりする木の実を、鍋を使って食べられるようにうした。食糧は何倍にも増えた。さらに人口が増え過ぎると、食物を確保するために栽培をはじめた。保存のきく穀物が主作物になったが、これは鍋なしには食べられない。
農耕は食べるための仕事である。動物たちが遊んでいるあいだも、人類は食べるために働きづめ。働いても一生、遊んでも一生。鍋の利用さえ思いつかなければ、どんなにラクな生涯が送れたかは、今となっては想像を絶して、とても実感などもてなくなってしまった。人類はそんな大不幸に甘んじてきたのである。

という、逆説的、しかし、説得力の有る人間論まで繰り広げている。
本書のさし絵は知久章となっている。知久章といえば「言葉のブティック」の著者で、確か「室内」に連載されている「建築用語漫歩」の矢田洋と同一人だったはずだ。矢田洋の本は、これまでにも割と良く読んでいつも感心させられていた。本書の奥付の著者紹介を見て、納得がいった。山口昌伴も、同一人で、他にも建築家丹羽小丸という変名もあるらしい。知久章(ちくしょう)、矢田洋(やだよう)、建築家丹羽小丸(建築家には困る)というのが語呂合わせだけに、山口昌伴こそが本名という可能性も高い。まんまとしてやられたという気がする。
 


おい癌め酌みかはさうぜ秋の酒】江國滋 ★★★☆☆ 97年2月に食道癌で入院、手術後、骨に転移した癌で8月死亡した著者の闘病日記である。もう4年まえのことになるのか。まだ入院中に、闘病句が雑誌「俳句研究」に連載されたのをリアルタイムで読んで、強い印象を残した。句は句集「癌め」にまとめられ、これはすぐに読んだと思う。この闘病日記もでたことは知っていたが、読まずに済ましていた。
今回読んだのは文庫本で400頁、全部が自筆ではないし、病院関係者に気を遣っていくらか粉飾はされているようだが、充分究極の状態に置かれた患者の本音と肉声が聞こえる、得難い記録文といえる。
著者の「日本語八ツ当たり」「俳句とあそぶ法」などは面白く読んだ記憶があり、熱烈な阪神ファンと言うこともあって嫌いではないものの特に肩入れすることも無かった。端々にうかがわれる俗人臭がちょっと鼻につく感じもしたのだ。しかし、この闘病記は、その俗臭なくしてはこれほどリアルな印象を与え得なかったろう。わがまま、世間体、疑心暗鬼、不満、金の心配、情緒不安定、自惚れ、卑下、嫉妬、焦燥、さまざまな感情をもてあましながら、とにかくにも書き留め、それを糧に生きようという姿には、心打たれる。

"療養俳句の金字塔"といわれる石田波郷の『借命』に張り合って、巧拙はともかく、数だけでも凌駕してやろうという気になった。

こういったところを、稚気愛すべしと思うか、鼻白むか、さまざまだろうが、これに続けて

現実と相対する勇気がない上、何か考えはじめたら、どうしたって「死」に行きつく、それが怖いために、俳句を選んだというだけのことだと自覚している。

と、ちゃんと自己分析するだけの冷静さを見せている。

極限状況においこまれた者の記録を、安穏たる状態のMorris.が、一種の娯楽として読むというのは、考えてみると不思議な行為である。同情はしながらも、読者は他者の痛み、苦しみとは、測り知れない距離にある。誰の言葉だったか「人は他人の痛みならいくらでも我慢できる」というフレーズが思い出された。

・残寒やこの俺がこの俺が癌
・永き日や卑屈と感謝紙一重
・春の闇阿鼻叫喚の記憶あり
・永き日のわが身ひとつの置きどころ
・死の淵をのぞきし春の小旅かな
・再手術を告げられてゐて彼岸寒
・春遅く一挙手一投足不如意
・毎日が「以下同文」よ三月尽
・また夜が来て朝が来て花の雨
・涅槃西風「いい人だつた」といはれても
・葉桜となつても囚はれのわが身
・俺以外みんな仕合せ啄木忌
・余寒の夜考へてゐる銭のこと
・飽きることにも飽いてゐる日永かな
・惜春のまた傷ついてゐるこころ
・病床にはや夏場所の触れ太鼓
・梅雨冷えの奈落の底の底思ふ
・激痛は激痛として五月闇
・六月や生よりも死が近くなり
・あぢさゐやわが病巣も七変化
・一喜一憂の憂の字ばかりなり梅雨に入る
・河骨や骨まで癌に愛されて
・七夕やたつたひとつの願ひごと
・死に尊厳なぞといふものなし残暑

川柳に近いものもあるが、それはそれでよいのではないかと思う。
 


  これから】夏目房之介 ★★☆☆ 50代を迎えた著者が、そろそろ老いを感じる中で、老後の暮らしについての思いを中心に、身辺雑記、回想などを交えたお気軽なコラム集で、タイトルはもちろん祖父である漱石の「それから」のもじりだ。
Morris.は著者の漫画論のファンなのだが、本書ではそれに関する記事は極端に少なくてやはり物足りなかった。太極拳やら、アカペラ、南の島(バリ)滞在などの趣味のこと、初孫との交歓などは、別に興味は持てないもんね。まあ、それでも著者くらいになると私生活にも関心を持つファンもある程度はいるだろうから、Morris.日乗よりは需要があるのだろう。
ネットの総合掲示板2チャンネルで、漫画評論の部屋で著者のことが話題になった時、当人が書き込みしたら大変な騒ぎになったというエピソードがあった。ああいう場だけに、偽者説が出たり、妙に真面目な雰囲気になったり、いちびりの発言があったりして賑やかだったらしい。もう書き込みは終わったとのことで、これは一度くらいはのぞいて見たかった。


詩人であること】長田弘 ★★★★ 「世界は一冊の本」の詩人が1982年3月から83年6月までに書き下ろした(たぶん)39章に分かたれた小論集である。最近書かれた類書にはあまり感心しなかったが、本書は力の入った、優れた「一冊の本」だった。
詩を書き始めたころの思い出や、父の話、偶然目撃した少年の死、戦後詩の夜明けを共に生きた一人としての証言、有名無名の詩人たちとの関わり、ソ連、東欧、特にポーランドの詩人への傾倒、原民喜の「ガリヴァー旅行記」、宝島就中シルヴァーの魅力、戦争論、読書論、ビゼーの唯一の交響曲、昇平-中也-富永太郎、岸上大作の一行詩(短歌)への批評と批判、ハイネ復権、日本語のなかの漢字、森鴎外の「椋鳥通信」、ザミャーチンの「われら」、ルネ・シャールのペシミズム、オーデンの孤独、メキシコの骸骨画家ポサダ讃美、露伴贔屓等々、著者の好奇心の強さと、目配りの広さ、それぞれの対象に向き合う真摯さと、洞察、すべてにおいて、ひさびさにMorris.は「読む」ことの楽しさと深さを同時に享受することが出来た(ような気がする)。

船も、ギターも、信仰もない。
犬たちの死体を燃やす犬殺しの竈もない。
一緒にねるとそのたびに、いっそう
生娘らしくなる幻の女たちもいなくなった。
おれたちの時代には、こころをうばう
はりつめた冗談がいつも決定的に欠けている。(「真実にいっぱいくわせろ」より)

著者の詩句を始め、引用したい部分は山ほどあるが、やはり傑作「世界は一冊の本」の原型のような、言葉、文章があちこちに見られるので、それを引いておこう。

人生は一冊の本だ。風だけが読むことのできる一冊の本だ。風が枝や葉をざわざわさせて吹きぬけてゆく。風の音は、風がものいわぬ本のページをめくってゆく音である。物語を読むとは、そうしたものいわぬ一冊の本を開いて、語られることなく生きられた一コの物語をそこに読むということだ。アンデルセンは世界を、一冊の本として読んだ。アンデルセンの物語はどんな物語だろうと、いつだってものいわぬ一冊の本の物語なのである。(風は物語る)

本というのは、ふしぎなしろものだ。一冊の本は一冊の本であって、一冊の本でない。一冊の本は、いつだって、まったく同じ本が二冊以上(100冊だろうと1000000冊だろうと)存在することによって、はじめて可能な一冊なのだ。
本というのは、ふしぎなしろものだ。わたしたちは、何一つ知らないものを択びとるしかたでしか、じぶんにとっての一冊の本を、どのようにも決めることができない。本の経験は、言葉を読むことにはじまるのではない。本の経験は、一冊の本をまえに読者としてのわたしたちが、アテにすべきどのような既知をもうばいさられるそのときから、すでにはじまっているのである。(五重塔)

文学が本なしに文学でありえないとすれば、それは、文学の表現が「一冊の本」として書かれて「一冊の本」として読まれるという行為によって深くささえられているという、そのことのためなのだ。本を読む。それは「一冊の本」を読むことである。本を書く。それは「一冊の本」にむかって書くのである。文学は「一冊の本」として文学だ。
ジャンルの別は、もともとは「一冊の本」のあらわれかたのちがいだった。だが、それがいまはちがった意味で、文学の市場の分業化の目安として、職能の区分であるかのようにかんがえられているというのは、奇妙な光景である。そのことが文学の「のような」「らしい」ありようをうながす一方で、今日「一冊の本」としての文学のありようをみあやまらせているということはないだろうか。(一冊の本ということ)

なぜかこの本は、灘図書館の新着書の棚に並べられていた。奥付は84年9月15日第二刷となっているのに、ついさっき出来上がったみたいに美麗なのだった。小ぶりなB6版、明るい青布のハードカバーにはポサダの骸骨のカットが数点、くっきりとエンボス風に刻印されてあり、本文にも相当数のポサダのカットが挿入されているし、本文の印刷は活版だ。心・技・体すべてにわたって文句の付けようが無い本書が、岩波書店発行というのが、Morris.にとっては、もう一つの驚きだった。20年近く前には、岩波もなかなかやってくれる出版社だったのだ、と、最近の低迷ぶりを改めて嘆きたくなった。
 


秘宝耳】ナンシー関 ★★☆☆ 週刊朝日99/04/02から2000/09/01号まで連載された、TVウォッチングコラムで、例によって著者の消しゴム似顔絵版画付きだ。はっきり言って面白くなかった。素材が新鮮素材だけに1年もたてば、すでに昔のことになってしまってると言うことを割り引いても、そうなのだからしかたがない。これはMorris.がここ数年、それ以前にも増してTV番組を見なくなったことと、TV番組自体のパワーが落ちたことと無関係ではないだろう。ナンシー関のトーンダウン、マンネリ化もあるようだ。お楽しみだった似顔絵版画も、相変わらず巧いのは巧いのだが、以前に比べると、説明的というか、平凡になって、面白みが半減したような気がする。彼女の才能は買っているので、今後はTVの枠からはみ出して、もっとさまざまな事象を対象に取り上げて新境地を開拓してもらいたい。


神戸むかしの味】水原茅子 ★★★☆☆ 著者は1950年神戸北区生まれの主婦で、歌人でもある。長田区や神戸以外での暮らしをへて、現在は御影在住らしい。
内容は、神戸の日常的な料理をエッセイ風に綴り、各章末に自作の歌も付してあるもので、料理に重点を置いたものではないが、気取らず、専門的にならず、さらっと書かれていながら、文明批判や、子育て論、神戸気質などにかんしても、言うべきことはちゃんと言うスタンスには好感を持った。地震後の、神戸、東地区と西地区の復興の違いを悼む心も共感を覚える。
とりあげられている、料理や食べ物は、

・いかなごの釘煮・稲荷寿司・こんぺい糖・お好み焼き・茄子と小エビの煮付け、糠漬・わらび餅・トースト・カレーライス・ポテトサラダ・点心・タマゴトースト・ジャージャー麺・魚の干物・アイスクリーム・梅干・イカの塩辛、マナガツオの焼き煮・ブリ大根・栗の渋皮煮・牛スジと大根の煮物・チゲ鍋・鮭と大根の漬物・野菜スープ・離乳食・天津飯・コーヒー・アーモンド菓子・ハンバーグ・祭りずし・ハヤシライス、鮭ずし

といった、たしかに庶民風なものが中心で、レシピというより、本文の中に、上手に混ぜ込んである。おまけとして、12種類のメニューの簡単レシピもあるのは、親切心なのだろう。
先日、矢谷宅でバトルまでやったお好み焼きの、神戸風の一般的な作り方として、その項を引用しておこう。

[お好み焼き]・材料/キャベツ(細いみじん切り)、青葱(小口切り)、山芋or長芋、天カス、かつおの粉、青海苔、小麦粉(水で溶く)・お好み焼きの具/豚バラ肉(薄切り)、イカ、タコ、海老、牡蠣、スジ肉(だし、みりん、醤油)、紅生姜など(好みのものを用意)
1。スジ肉はだし汁にみりんと醤油で煮て味を付けておく。
2。山芋は5センチほどをすって、溶いた小麦粉に混ぜる。粉の濃さは天ぷらの衣くらいを目安に。
3。2。にキャベツを加え、混ぜ込む。
4。一枚分を別にとり、玉子1個を割りいれて軽く混ぜる。卵黄と卵白が絡まる程度にして、熱くした鉄板に流す。
5。葱、肉や魚貝の順に載せ、かつおの粉をかけ、天カスをまく。紅生姜を入れても美味。

著者の料理へのスタンスは、たしかに普通の主婦としての料理である。しかし、現在では、これですら、むずかしいと思う主婦は多いだろう。

なんでもない小母さんの料理は井戸端会議から、テレビの番組から、スーパーマーケットに置いてある料理カードからの情報である。誰もがいつも作っている、気にも留めない料理ばかり。何度も失敗しながら自分のものに仕立てあげてゆく。母や姑からの伝承が基本だが、それを自分の方向にすこしずつ変化させてゆく。

せっかくだから、彼女の歌もいくらか紹介しようと思うのだが、Morris.の好きなタイプとはちょっと歌風が違うようではある。

・紫の涙のような茄子を焼く歯ごたえのなきやさしさ思いつつ
・ビンボーと言えばにわかに子ら笑う迷走台風今夜来るらし
・くたびれた木綿のシャツを繕えばむかしむかしが降る天窓に
・乱切りの大根しずか夕ひかりこのままこっそり行く方知れず
・幸福を輪切りにすれば鬼の子がほろんほろろん転がりてくる
・惑わない惑います惑う惑う時惑えば惑え シグナルの青の点滅
・家族なるやわき果実をゆびさきで割ればしたたる密の暗がり(水原茅子)


壁 旅芝居殺人事件】皆川博子 ★★★☆☆ 84年刊行の中篇だが、白水社の小ぶりなフランス装の叢書??の一冊で、前から何となく気になっていた。この叢書はどちらかと言うと、紀行文や幻視行エッセイなどが中心で、タイトルが漢字一字か二字になっていた。澁澤龍彦の「城」、塚本邦雄の「半島」、池内紀の「温泉」は当時読んだ記憶がある。
そこで本書だが、タイトルにもあるとおり、れきとしたミステリー小説である。読後、ポーの黒猫を思い出してしまった。日本では珍しいバロックの味わいを持つ作品だ。
芝居小屋の娘を語り手に、同じ場所で15年を経て繰り返される殺人事件と役者たちの因縁話なのだが、芝居のこととなると、一家言持つ著者だけに、舞台裏の構造や、けれんの描写、役者気質と衰退する芝居自体への哀悼などが綯い交ぜになって、ストーリーとはまた別次元で雰囲気を構築している。5章に分かたれた構成も何となく芝居の幕場の交代に似ているし、謎解き、どんでん返しも充分水準をクリアしている。芸の冴えとか、神技のような、芸談はないが、はしばしに散りばめられる名台詞も、適所を得ているし、確かにこの人は前から巧かったのだなと感心した。作品の性格にかんがみて、ネタばらしはしないが、事件の真実を知った時の苦味は、めったに味わえないものがあった。


山谷崖っぷち日記】大山史朗 ★★☆☆ ルポというか、省察というか、エッセイというか、タイトルどおり日記といおうか、一種の社会不適応者の手記であることは間違いない。
Morris.とほぼ同年輩の著者は、自律神経失調症の持病もあって、会社を辞め、87年から山谷で日雇い労働を続けている。本書は、そのドヤ街で知り合った群像のスケッチがメインになっている。またバブル崩壊の影響をもろに受けたドヤ街の状況を、客観的に描写している。本書を読みながら、著者の置かれている状況は、Morris.と無縁ではないという強迫観念にしばしば襲われた。

平成十年代を初老で迎える私の人生は、昭和三十年代に初老を迎えた虚弱な労務者のそれよりも恵まれたものだろうとは、私にももう思えなくなったしまっている。私は元来、ごく僅かのもので満足できる、とても少欲な人間だと思うのだが、その私でも、ここ、二、三年の山谷生活の厳しさにはついグチがこぼれる。

老後に向かう私にとっての現実的な選択も、性質の異なるマイナス価値をめぐってのものとなる。衣食住を保証された、飯場での追いまわされ生活と、食べ物を漁らなければならないが、限りなく他人とのかかわりから開放され、気楽に図書館で読書三昧にふけることのできるような生活との選択。私は迷うことなく後者を選ぶ。
 


名言なんか蹴っとばせ】ジョナソン・グリーン 里中哲彦訳 ★★☆ 先日の「定義集」がそれなりに面白かったので、調子に乗って借りてきたのだが、これはかなり出来が悪いと思う。タイトルからして普通の名言集でなく、どちらかと言うと皮肉っぽいものを集めた「冷笑家事典」の一種らしい。それはそれでMorris.の好みなのだから、悪くはないし、それなりに面白いものも含まれていないわけではない。

・英雄を必要とする国は不幸である。(ベルトルト・ブレヒト)
・女の涙は目から出る汗にすぎない。(ユウェナリス)
・よく知られている格言ほど、役立たないものはない。(トマス・ベビートン・マコーレー)
・経験とは、自らの失敗に与える名である。(オスカー・ワイルド)
・芸術家気質というものがあるとしたら、それは素人がかかる病気である。(G・K・チェスタートン)
・あらゆる政治は、大多数の無関心に基づいている。(ジェームズ・レイトン)

グリーンという人は、他にも辞世語事典や同類の引用句事典を多く刊行してるらしい。内容は他人の引用だから、編者の腕のみせどころは選択眼と見識と言うことになるのだろうが、その意味でもあまり大した事はないような気がする。しかし、本書の一番の欠点は、たぶん訳文にありそうだ。格言や、警句などは、寸鉄人を殺すくらいの鋭さがあってしかるべきもののはずなのに、どうも訳文が弱いのだった。あとがきに、日本には、こういった冷笑家事典の類が少なく「この一事をもっても、わが国の出版事情の遅れを垣間見ることが出来るような気がする」とある。この一文をもって、訳者の知識水準を垣間見ることが出来るような気がするのはMorris.だけだろうか?
 


顔】山本昌代 ★★★ しつこく彼女の作品を読みつづけている。前にも書いたが彼女の本は比較的薄いし、文章も明晰だから割と速く読めてしまう。本書は200Pで短編4篇が収められている。「上田秋成に捧ぐ」という献辞があったので、ちょっとイヤな予感がした。Morris.は彼女の幻想ものは、あまり好きではないのだ。読後感も案の定そうだったのが、やはり彼女は、記伝ものが素晴らしい。
表題作「顔」は、首の後ろにもう一つの顔を持つ老人の話だが、とりとめのなさが物足りない。「鶯」と言う作品は、鏡の扉を持つ家に住むカリグラファーと、喫茶店でバイトしている女性との、循環型タイムトンネル話で、これは細部に興味を覚えたのだが、全体としてはやっぱり尻切れ蜻蛉と言う感が拭えない。図書館で読める彼女の作品は大方8割くらいは読んだと思うので、せっかくだからもう少し、読みつづけてみよう。


添削・俳句入門】深谷雄大 ★★★ Morris.には未知の著者で、石原八束に師事とあるので、何となく苦手ではあるが、逆にベーシックな俳句のルールブックにもなるかと思ったし、添削ということをされたことがないMorris.として、ちょっと興味をおぼえたのだ。
添削例は、助詞の一つだけ変えたもの、漢字をひらがなに変えたもの、繰返しの「々」「ゝ」を漢字、ひらがなに戻しただけといったものから、元句の面影すら残さないくらいに大掛かりな変更(これはもう別作か)までいろいろあったし、さすがとうならされるいい添削もあれば、これなら元句のままのほうが良かったのではないかいと思うものまでいろいろで、予想以上に楽しめた。
「俳句は、五・七・五の三文節十七音をもって構成される、季語を伴った日本固有の韻律詩です。」を金科玉条とする著者なので、無季や、季重なり、字余り、字足らずは言うまでもなく、新語や造語にも厳しく、擬声語は使用禁止、擬態語、形容詞もなるだけ使わぬようにという徹底振りで、これでぐい句を律したら半分ははねられてしまうこと間違いなしだろう。
以前読んだ阿部しょう(竹カンムリに月)人の「俳句-四合目からの出発」といい勝負だが、本書はちょっとソフトムードだ。その分読み手としては物足りない。
禁止事項として「連用止め」「三段切れ」「曖昧な言葉遣い」「概念句」「破調」「略語」などが挙げられている。著者のポリシーからすればあたりまえのことだろうが、Morris.は「三段切れ」の部分にちょっと引っかかりを感じた。
三段きれとは一句が三箇所で切れていることで、たいていの句は句で切れているから、途中の切れは1箇所にしろということである。その添削例

[原句]京の夜伽羅蕗の味春にほひ
[添削句]京の夜の伽羅蕗の味春名残り

を見ると、確かに彼此の差は歴然だが、

[原句]年の瀬や過去ふり返り感無量
[添削句]顧みることの茫茫去年今年

こうなると、原句が三段切れとか何とかいう以前の問題だという気がしてくる。
それはそれとして、ぐい句でも無意味に三段切れにするのはなるべく避けることにしよう。この一事だけで本書を読んだ甲斐があった。かな?
 


九季子】山本昌代 ★★☆☆ タイトル作を含む6編の短編集だが、Morris.苦手の作品が多くあまり楽しめなかった。「さ蕨」とい作品中、退職して妻に先立たれ老年者住宅で一人暮らしする柊氏を、息子の嫁と幼稚園児の孫娘が訪ね、偶然同席した俳句会仲間の老人と4人でなりゆきで「歌仙」の真似事をする場面が、馬鹿馬鹿しくて面白かったくらいか。

さ蕨や垂水の上のいはつばめ(句仲間の某老人)
  南風なら恋叶ふらん(柊氏)
青空に洗濯もののよく乾き(息子の嫁)
  遠足は動物園へ行く(孫娘)
白クマもうだる暑さや夏木立(某)
  白クマ好き(孫)
夕涼み風鈴の音チリンチリン(柊)
  将棋さす手に玉の汗かき(嫁)

孫娘の付けは、単におしゃべりなのだが、こんな連句ならMorris.も参加できそうだ(^。^)ふと、「蕨」という字は「蠍」に似ていると思った。


薔薇窓】帚木蓬生 ★★★☆ この作者のものにしては珍しく、舞台が外国、それも万国博覧会が開催中の1900年のパリとなっている。主人公は裁判所付け特別医務室に勤務する精神科の医者で、何かのショックで心を閉ざした日本人少女に出会ったことから、物語が始まるのだが、600頁近い長編だけに、登場人物も多く、ストーリーも錯綜している。主人公が日本趣味(鍔の収集)で、パリ在住25年の日本人骨董商とつきあいがあり、これがきっかけで日本娘を病院から手元の食堂に住み込みで働かせながら治療することになる。1世紀前のパリの街の風物や、たたずまい、万博会場や、それにちなむ日本の芝居、軽業の舞台見物などの興味深い場面が多く、その一一がなかなか精細に描写されていて、これだけ独立して楽しめるくらいだった。その他、犯罪がらみの精神病患者を次から次に診察する必要のある主人公が、的確に判断を下すくだり(すごく多い)も、さすがに専門家(筆者は専門医)だけあって、納得させられる。
若い外国人女性が次々に誘拐される事件と、日本娘の関わりが、メインストーリーなのだが、こちらの方は、あまりにご都合主義だし、小説としての魅力も欠けるが、それに目をつぶれば、Morris.にはかなりの長時間を通して楽しめる作品だった。
主人公が当時としては珍しい写真の趣味があり、同好会が事件解決の糸口ともなるのだが、それとは無関係な写真論みたいな文章が記憶に残った。

ヴァンセンヌの森で、湖の風景を撮ったとき、現像の手違いで、周囲の森がぼやけてしまった。湖に突き出た舟着き場と、打ち捨てられたボートだけがくっきりと形を成していた。それが却って幻想的な雰囲気をかもし出し、周囲はあたかも霧に閉ざされたようになっている。
物事ははっきりし過ぎると、人の興味をつないでおれなくなる。絵画でも同じことだ。何から何まで明瞭に描かれていると、見る者はじきに退屈する。だから画家は、自在にぼかしを加え、神秘さを残すのだ。

こんな風にところどころに、なかなかうがった省察などもあり、著者の教養の広さも伺えるし、医者としての仕事をこなしながらの健筆ぶりにも舌をまく。  


濁流】蔡萬植(チェマンシク)三枝壽勝訳 ★★☆☆ 朝鮮日報1937年11/12-38年5/17まで連載された、新聞小説である。ストーリーは、地方の娘初鳳(チョポン)が家族の犠牲となって、録でもない男と結婚させられ夫の死後も不運に巻き込まれ、ソウルで子供をなしてつきまとう男を蹴り殺してしまうという殺伐とした通俗小説で、何でこんなものを今ごろになって邦訳したのかと思う(おまけに500pと、やたら長い)のだが、訳者によるとこの訳は「異質な世界の異質な発想を理解できるかの試金石なのである」そうだ。これは弁明ではないのかと思ってしまった。もともと本書は日韓文化交流基金の事業として計画された「韓国文学名作選」の一冊なのだが、同シリーズの一冊「皇帝のために」(李文烈)が、Morris.がこれまで読んだ数少ない韓国小説の第一位の面白さだったのと対照的に、面白さとしては最低ランクであったのは間違いない。それでも最後まで読み通してしまったのは、文体の不思議さにつられたということはあるだろう。訳者の試みはその意味では成功したといえるかもしれないが、それでなくても日本では人気の無い韓国文学を紹介するならば、別の作品を取上げて欲しかったというのが正直な感想である。


源内先生舟出祝】山本昌代 ★★★ 1987年作だから彼女の初期作品で、たぶん当時読んだはずだ。今回読み直して、Morris.贔屓の「き人伝」のルーツにもなる作品だと思った。平賀源内を皮肉かつ辛辣に描写しながら、冷たく突き放してはいないし、会話が多いとは言え、地の文も、極端に改行が多く、シナリオを読んでいるような気にさせられた。「き人伝」にくらべると饒舌で刈込がなされてないし、粗削りと思う。杉田玄白との友情、秋田藩士直武への複雑な愛情、源内の「器用貧乏」に起因する不幸も、彼女独特の淡々とした筆で描かれると作品として立つというのが、やはり大したものである。


朝霞】山本昌代 ★★★☆☆ タイトル作を含む、中編3編が収められている。幻想的な「くまん蜂の眠る頃」は退屈だったし、自閉症傾向の女教師の出てくる「木陰にて」は言語学関係のエピソードを除いては面白くなかった。学生時代から創作を始めるまでの自伝的要素の強いタイトル作は、興味深く読めた。星印は「朝霞」だけへの評価である。漱石の『猫』談義も面白かったし、親友に絶交される場面の飲み込みの悪さも彼女の性格の一端がはしなくも表れているようで興味深かったし、音楽、美術、映画、語学、そして谷崎潤一郎、荷風から近世につながる彼女の興味の赴いていく過程を、過不足なく語っていく叙述は彼女らしくて好ましいし、Morris.の野次馬根性を満足させてくれた。

近世は、日本という国家が近代を迎えるために葬った闇の中の世界である。私は恐る恐る出かけたのだろうか。そういう記憶はない。むしろ、気がついたら、そちら側に入っていた。
大変おもしろいところであったのだ、近世というのは。それで帰って来れなくなってしまった。
リアルタイムというのはすてきな言葉である。江戸はリアルタイム、そして今現在ももちろんリアルタイムなのである。
舞台としての江戸の枠を取り払って、現代を未来を他所の土地をと、どこでも書きたいものを書いていくつもりでそれも自然、実行に移している。
 


定義集】ちくま哲学の森 別巻 ★★★ 600頁近い定義集だが、「楽しむ哲学」というコンセプトのシリーズらしく、結構くだけたものも含まれている。定義は短いものほどいい、という考えなので、3行以上のものは流し読みして(^。^;)しまった。
技あり一本、うまい!!という奴や、思わず笑いを誘うもの、詩的なもの、粛然とせざるを得ないものまでいろいろあるが、いずれも言葉の妙技である。やっぱり言葉っておもしろい。

[愛]愛するということは不運である。お伽話の中の人々のように、魔法が解けるまでそれに対してどうすることもできないのだ。(プルースト「失われた時を求めて」)

[悪魔] 神が食物を作り、悪魔が調味料を作る。(ジェイムズ・ジョイス「ユリシーズ」)

[うらみ]およそこの世において、うらみはうらみによってしずまることはないであろう。うらみをすててこそしずまる。これは不変の真理である。(ブッダ「中部」)

[運命]運命、それは性格だ。(ノヴァーリス「断片」)

[映画]映画は夢の工場。(エレンブルグ)

[エゴイズム]エゴイストとは私のことを考えてくれない人のことである。(ウージェーヌ・ラビシュ)

[老い]老いとは、要するに生きたことに対する懲罰にほかならぬ。(シオラン「四つ裂きの刑」)

[死]死は一種の救いなのかも知れないわ。(マリリン・モンロー)

[俳句]私は俳句の本質--俳人達は「俳句性」という言葉で言っているが--について、三箇条を挙げている。それは、一、俳句は滑稽である、二、俳句は挨拶である、三、俳句は即興である、という三箇条である。(山本健吉「"軽み"の論」)

[俳句]「俳句はレトリックの煎じ詰めたものである。」「扇のかなめのような集注点を指摘し描写して、それから放散する連想の世界を暗示するものである。」「花が散って雪のようだといったような常套な描写を月並みという。」「秋風や白木の弓につる張らんといったような句は佳い句である。」「いくらやっても俳句の出来ない性質の人もあるし、始めからうまい人もある。」(夏目漱石 cf寺田寅彦の回想)

[美]美とは無言の欺きである。(テオフラストス)

[不幸]自分自身の不幸によってよりは、他人の不幸によって学ぶ方がずっといい。(イソップ)

[無]あらゆる規定は否定である。(スピノザ)

[目的]不正な手段を必要とするような目的は正当な目的ではない。(マルクス)

[勇気]勇気とは、死に急ぐ形を取りながら生きようとする強い欲望。(チェスタトン「正統とは何か」)

Morris.は人間がひねくれてるせいか、直球勝負より、変化球、逆説的な定義に惹かれる傾向がある。本書中、一番引用句の多かった「人間」の項から複数を引いておく。

[人間]
・人間は、ただ神の遊びの具(玩具)になるように、というので創られたのです。(プラトン「法律」)

・買手:では人間とは何か。
  ヘラクレイトス:死すべき神々だ。
  買手:神々とは何。
  ヘラクレイトス:不死なる人間だ。(ルキアノス「哲学諸派の売立」)

・人間は自然に服従しながら自然を支配する。(F・ベーコン)

・人間、取引きをする動物。(アダム・スミス「国富論」)

・人間は自分の属する種の全体を皆殺しに出来る唯一の動物である。(エリクソン)

・人間は自殺することのできる動物である。(日高敏隆)

・人間は他人の経験を利用するという、特殊な能力をもった動物である。(コリングウッド「歴史の理念」)

・人間は、時を結びつける能力のある動物である。(コージブスキー「科学と正気」)

・人間とは自分の不幸だけを見て、愚痴をこぼす動物である。(出典不明)

・人間は、自分でルールをつくって自分で楽しんでいる動物である。(田辺聖子)

・人間はその食うところのものである。(伝フォイエルバッハ)

・人間は息と影に過ぎない。(ソフォクレス「断片」)

・人間よ、汝、微笑と涙のあいだの振り子よ。(バイロン)

・人間は人間の未来である。(ポンジュ)

Morris.も自前の定義を一つ作ってみた。

[定義]定義は先に言うたもん勝ちである。(Morris.)


紅茶の本-増補改訂版】堀江敏樹 ★★★☆☆ 大阪堂島の紅茶専門店「ムジカ」を経営している筆者のこの本は、一時色んな紅茶本を読み漁っていた頃に読みたいと思いながら図書館では見当たらず、そのままになっていたのだが、例の検索システムで調べたら、灘図書館と東灘図書館には有るということが分ったので、早速灘図書館で借りてきた。これまで見つからなかったのは、この本が分類619つまり園芸や有用植物の棚に置かれていたためだった。Morris.は597(調理、飲食)の棚しか見ていなかった。確かに本書は、紅茶の美味しい入れ方、各種紅茶の特徴などのほか、スリランカへの表敬訪問のルポや、紅茶栽培の歴史などにもかなりページを割いているから、どちらにおいても間違いではないのだろうが、やはり他の紅茶入門本と同じ場所に置いといて欲しかった。
89年に元になる本が出され92年にこの改訂版が出たから、10年以上前のデータだが、紅茶自体はそれほど変化はないだろう。最初にこの本読んでたら、類書は読まなくて済んだかもしれない。そう思うくらい、必要充分な内容である。
美味しい入れ方に関しては類書での学習効果の甲斐あって、ほぼ今の入れ方で間違いはないようだが、ミルク(牛乳のことね)は人肌くらいの方が望ましいと書いてあったのでなるほどと思った。冷えたミルクだと紅茶が冷めてしまうし、あっためたミルクだと紅茶に膜が張ったりするものなあ。
チャイの作り方もわかりやすくて参考になったが、「チャイ」がお茶のことだから「シチュードティ」と呼ぶというのは、イメージが湧かない。同じイギリスブランドの紅茶でも、日本向けのものは日本の水に合わせてブレンドしているから、向こうの製品をそのまま直輸入しても本来の味はでないとかいう指摘も肯ける。
その他、水出し紅茶は愚昧だというのも、Morris.の好きなNeptuneを否定されたようで、ちょっと悲しい。もっとも、もともとがNeptuneみたいなフレーバーティは、認めない立場の著者だから、あれは、紅茶とは別の飲み物と思うことにしよう。
復習を兼ねて、美味しい紅茶の入れ方を。

1。新鮮な水をすぐ火にかけて沸騰したらすぐ(沸騰したまま時間の経過したお湯は酸欠になるので)ポットに注ぐこと。市販の「おいしい水」などは不可、魔法瓶や保温ポットのお湯は論外。美味しい湧き水などが手に入る環境以外なら、水道の水を勢いよく出してから入れれば充分。
2。温めたポットに、適量(たっぷり目、葉の大きさに応じて一人前(カップ2,3杯分=3-6g)の茶葉を入れておく。
3。待ち時間はお茶の量に比例する。3-6分。この間ポットの中で茶葉が循環してることが重要。
4。軽くポットを振り、温めておいたティーカップに、静かに茶漉しかストレーサーの上から注ぐ。回転茶漉しもカップに引っかけずに手で持って濾すこと。
5。水色、香りを楽しんだ後、好みに応じてミルクを入れる。
6,2杯目3杯目は濃くなるので、渋味を味わうも良し、お湯をさすのも良し、ミルク多くして濃厚な味を楽しむ(Morris.はこれ(^。^))もまた良し。
7。ポットが冷めないよう、コジー(ポットカバー)は、効果的。特に夏の冷房の効いた部屋では有効。

後、高価な紅茶をちびちび飲むより、一般的なお茶を日常的に飲んで回転を早めることが大事とか、自販機の缶紅茶は紅茶にあらずとか、紅茶のCMあれこれとか、とにかく紅茶大好きというのが伝わってくる記事だらけで、文章は素人っぽいし、構成もばらばらだったりするのだが、同好の士(かなりギャップはあるけど)としては実にいい本だと思う。
 


インターネットセキュリティ】ユニゾン ★★☆☆ 「用語からカンタンにわかる」という惹句に引かれて借りてきたのだが、結局Morris.にはほとんどがチンプンカンプンだった。用語というのの大部分がヨコ文字、さらにはアルファベットの略語だらけで、まずこれを把握するのが一苦労で、章とコラムのタイトルに出てくる略語だけでも

ID,TCP/IP,DNS,PPP,DHCP,FTP,HTTP,RAS,VPN,TA,DSU,MIME,HTML,URL,ASP,CGI,PGP,S/MIME,SSL,SET,DoS,RAID,LAN,OSI,SSI,PKCS

大体理解出来るのが1/5、何となくイメージできるのを入れても1/3、あとは何がなにやらわからない。略語の利点というのも認めざるを得ない(たとえば「URL」の代わりに毎回「Uniform Resouruce Locator」と表記されたらたまらん)のだが、明解な日本語にしてみようと言う努力は初めから放棄されている。PCの世界が、英語に始まり英語に終わるからだと言われると、それでお終いだし、「Computer=電子計算機」という日本語訳が定着したことが、どれだけ多くの日本人に誤解を与えたかと思うと、はじめからコンピュータと呼んでおいたほうがましだったというのも妥当な意見だろう。しかしこれはこれ、それはそれで、たとえば中国語の「電脳」という訳語だったら、ずいぶんと理解しやすかったような気が(今になってだが)する。
全てのコンピュータ用語を日本語にしろとは言わないが、重要な概念や用語の中で、分りやすい日本語に置き換え可能なものは、そうする方が、大多数の表層使用者にとってありがたいと思う。斯界の進歩の速度は秒進分歩らしいから、そんな悠長なことは無理だと言われるかもしれないが、もし日本人がコンピュータを発明して進化させたと考える時、その概念や用語に、どんな命名をしたかと空想すると、それなりに日本語の世界が広がっていったのではないかという気がしてくる。日本語の中の外来語(主に英語)の増加率の異常な高さは、以前から言われてきたことでもある。
本書とは、関係ないことばかり書いてるが、自己の理解能力不足を棚に上げて、八つ当たりしてるという気がしないでもない。
本書でわかった、というか、面白かったのは「ハッキングの基礎用語」のパートで、色んなハッキングの手口を紹介していて、たいていが「完全な対応は難しい」で、マナー、モラルの向上に期待するという論調が多かった。
著者のユニゾンというのは会社名らしい。
 


百人百句】大岡信 ★★★☆☆ 百人の俳人を選びそれぞれの選句の季語の順に並べて、平易な解説と略伝を付したもの。同工異曲は数知れぬほどあるだろうが、さすが「折々の歌」で斯界(^o^)の大御所となった観のある大岡信だけに、目配り気配りのきいた妥当な選句で、もともとが語り下ろしだったという解説も分かりやすい。近世(江戸)俳人と現代俳人をランダムに取上げているのもありがたいし、各俳人一句以外に代表作を数句ずつ本文中で紹介しているから、少なくとも五百句以上の名句を楽しむことができる。俳句の入門書としても、選集としてもお勧めの一冊といえよう。
例によって、印象に残った句を引用するのだが、ちょっと多くなり過ぎるかな。Morris.の知ってる句は省いたので、代表句の半数以上が抜けていることを了解してもらいたい。

行吾もにほへ花野を来るひとり 池西言水

大原や蝶の出て舞ふ朧月
水底を見て来た顔の小鴨かな
時鳥鳴くや湖水のささ濁り 内藤丈草

蝶老いてたましひ菊に遊ぶ哉 榎本星布

花鳥も思へば夢の一字かな 夏目成美

砂原を蛇のすり行く秋日かな 村上鬼城

うすめても花の匂の葛湯かな 渡辺水巴

紫陽花に秋冷いたる信濃かな 杉田久女

天寿とは昼寝の覚めぬ御姿 阿波野青畝

酢をくぐり小鯵の肌や夕時雨 鈴木真砂女

春の水とは濡れてゐるみづのこと
運ばるる氷の音の夏料理
葉先より指に梳きとる蛍かな
冬深し柱の中の濤の音
硝子屋は硝子をかさね春の雪 長谷川櫂

蛸壺やはかなき夢を夏の月 松尾芭蕉

ながながと川一筋の雪の原
木のまたのあでやかなりし柳哉 野沢凡兆

白魚やさながら動く水の色 小西来山

木兎の独わらひや秋の昏 榎本其角

水底も秋経し色や初なまこ 志太野坡

古井戸や蚊に飛ぶ魚の音くらし
静けさに堪えて水澄たにしかな 与謝蕪村

ところてん煙の如く沈み居り
船の名の月に読まるゝ港かな
秋の夜や紅茶のくゞる銀の匙
雪の夜の紅茶の色を愛しけり 日野草城

美しき緑走れり夏料理 星野立子

金粉をこぼして火蛾やすさまじき 松本たかし

虹自身時間はありと思いけり 阿部青鞋

陰に生る麦尊けれ青山河 佐藤鬼房

尾頭の心もとなき海鼠哉
船乗の一浜留守ぞけしの花 向井去来

海鼠喰ふはきたないものかお僧達 服部嵐雪

初雁や夜は目の行く物の隅
うつす手に光る蛍や指のまた 炭太祇

青海苔や石の窪みの忘れ汐 高井几董

頂上や殊に野菊の吹かれ居り 原石鼎

外套の裏は緋なりき明治の雪 山口青邨

蜩や暗しと思ふ厨ごと 中村汀女

葡萄食ふ一語一語の如くにて 中村草田男

全長のさだまりて蛇すすむなり
つきぬけて天上の紺曼珠沙華 山口誓子

桔梗や男も汚れてはならず 石田波郷

秋風やひとさし指は誰の墓
かくれんぼ三つかぞえて冬となる 寺山修司

落鮎や日に日に水のおそろしき 加賀千代女

枯れ葦の日に日に折れて流れけり 高桑闌更

こがらしや日に日に鴛鴦のうつくしき 井上士郎

夏真昼死は半眼に人を見る 飯田蛇笏

ゆきふるといひしばかりの人しづか 室生犀星

木がらしや目刺にのこる海のいろ 芥川龍之介

元旦やくらきより人あらはるゝ
人をいかる遊魚あるべし水の月 加藤暁台

手で顔を撫づれば鼻の冷たさよ 高浜虚子

冬うらら海賊船は壜の中 中村苑子

昭和衰へ馬の音する夕かな
かもめ来よ天金の書物ひらくたび 三橋敏雄

ついつい「海鼠」の句を優先的に引用したきらいがあるな(^o^) 長谷川櫂という若手(1954生)は本書ではじめて知ったが、なかなか良さそうだ。
 


色と欲】上野千鶴子編 ★★★ 96年に小学館が出した「現代の世相」叢書の1冊で、12人の小論文出構成されている。「欲望する家族・欲望された家族/三浦展」「AVの社会史/赤川学」「飽食と摂食障害/中島梓」「こころの産業/上田紀行」などそれぞれいわくありげなタイトルが並んではいるが、いずれも食い足りないことこの上ない。そもそもが「現代の---」と冠された書物は生鮮食品みたいなもので、リアルタイムに読まねば意味が無いことが多い。それにこの叢書という形態は玉石混交ならまだしも、石ころの寄せ集めだったりする。本書は、上野千鶴子の総論、徳大寺有恒の「日本車の現代史」が比較的面白かったが、Morris.は自動車免許証すら持たない人間で車のことは皆目分らない。唯一山口昌伴の「台所戦後史-台所からキッチンへ、そして---」という30ページほどの小論が飛びぬけて面白かった。日本の台所文化は5年ごと変換しているという説での切り取り方がすごい。

1910(明治43)- 瓦斯化台所の普及
1915(大正4)- 第一次台所改善運動
1920(大正9)- 第一次家電ブーム
1925(大正14)- 木製キッチン、文化流しの時代
1930(昭和5)- 欧米キッチンモデル導入時代
1935(昭和10)- 電化の夢破れて代用品時代
1940(昭和15)- コミュニティキッチンの試行、そして台所炎上
1945(昭和20)l- 道ばた台所,床の間台所、肘掛窓台所
1950(昭和25)- 愚妻から愛妻へ、都合により主婦の変貌
1955(昭和30)- キッチンセット×家電製品、日本型キッチンの成立
1960(昭和35)- 建築家の理念実現願望の発展的解消
1965(昭和40)- キッチンの主題の変貌--仕舞えるキッチン願望
1970(昭和45)- セットキッチンの完成と解体
1975(昭和50)- システムキッチンへのプレリュード
1980-1995 三極分化「短いシステムキッチン」「調理台より配膳台キッチン」「プロ志向,プロはだしキッチン」

これだけでは分りにくいかもしれないが日本の台所/キッチンの猫の目のように形態を変えている割には、本質的には変わってないのではないかという気がする。


神戸在住】木村紺 ★★★ 地震の後、神戸に引越し、神戸北野にある大学の美術家に在籍する主人公(=作者)が神戸の街、店やスポットの紹介、そして震災のエピソードなどを、交友関係を通じて、淡々と時には切々と綴っていく、エッセイ風の漫画である。98年から講談社の「アフタヌーン」を中心に飛び飛びで連載されたもので、単行本3巻まで出ていて、現在も継続中。
神戸在住25年になんなんとするMorris.にしてみれば、わが町を舞台にした漫画ということだけでも興味はあったし、稲田さんがプッシュしていたので気になっていた。で、なかば強引に稲田さんから借りて、二日がかりで読み終えた。漫画3冊にしては時間がかかってしまったのは、。ネームが多くかったのと、物語のリズムが、さっさと読み飛ばすのに不向きだったためだろう。
絵ははっきり言ってうまくはない。少女漫画志望の高校生の方が巧いかもしれない。やたら多い登場人物の顔が見分けつかなかったり、風景も写真の引き写しだったりする。最初ぱらぱらと見たとき、やけに白っぽい絵で、下書きみたいだと感じてしまった。いまどきの漫画にしては、スクリーントーンを全く使っていないのは珍しい。おまけにベタすらほとんどなく、影や黒髪などは、すべて手書きの細い横縞で処理されている。
主人公がまた、えらく繊細で、ウブで、素直で、おかげで友人には恵まれているという設定だが、主要な友人はそれぞれに魅力的に描き分けられている。中国人、フランス人などの外国人も多数登場するし、学友の出身地もバラエティに富んでいて、神戸の雰囲気をいろんな角度から描写し得ているのには驚かされた。弟の彼女や、同棲してる友達がいたり、ほほえましい恋愛ストーリーもあるのだが、途中から震災のエピソードがメインになり、ボランティアの内情を深く掘り下げたり、震災後の人間関係の軋轢などもきちんと書かれていたので、読み進むほどに身につまされたりもした。
全体に頻出する、細部へのこだわり、些細なことへの愛情みたいなものが、この漫画を味わい深いものにしている。たとえば、元町高架下の店の紹介、懐かしの絵本、想い出の曲、浴衣の帯の結び方の丁寧な説明ぶりなども、好感を覚えた。個人的には大阪出身美術科の鈴木さんが好きだったのだが、途中で嫌味な行動をとったりするのを残念に思った。。  


俳句の方法 現代俳人の青春】藤田湘子 ★★★ Morris.のぐい句とはほとんど対極に位置するタイプの正統派俳人藤田湘子の俳書は、「俳句作法入門」を読んで、しばらくぐい句ができなくなったことがある(言い訳かも)くらいなのだが、本書は副題にもあるとおり、彼の青春時代、太平洋戦争末期俳句に目覚め、水原秋櫻子の門下に入り、戦後「馬酔木」同人となり、第一句集「途上」を出す昭和30年までの修行時代の半自伝である。もちろん、師秋櫻子や、波郷など当時の代表俳人の句や、自作句の引用も多く、それぞれ楽しむことが出来た。また俳句結社というものの、美点欠点もよく分るような気がした。
戦後まもなく、馬酔木から離れるにあたっての瀧春一の句

・かなかなや師弟の道も恋に似る 春一

から、俳句の師についてさまざまに考えを巡らしたあげく、秋櫻子に着いていこうと決心した筆者も、それから20年後に馬酔木を離れるわけだから、これは伏線なのかもしれない。秋櫻子に寵愛されながら、一時期女性関係のことで疎まれ、再び寵愛を取り戻す経緯など、単に師弟云々関係を越えたどろどろしたものがあったのではないと勘繰りたくさえなるが、それは筆者の本意ではないだろう。
波郷が、秋櫻子第一と推した句と、本書中で印象に残った湘子の句を並べておく。

冬菊のまとふはおのがひかりのみ 水原秋櫻子

愛されずして沖遠く泳ぐなり 藤田湘子
 


緑色の濁ったお茶 あるいは幸福の散歩道】山本昌代 ★★★☆☆ 長いタイトルのわりに全体で168頁と短い。彼女の本は総じて薄手で軽い造本が多い、そして、これが彼女の作風と無関係ではないような気がする。
本書は「奇妙な風味の小説」である。ウォーキングを趣味とする年金生活の父、軽い持病を持つ母、小説を書いている姉、強度の身体障害者で詩を書く妹の4人家族の日常が、妹の独白と、対話を中心に語られていく。父が直腸癌で入院し、手術をするというのが一番大きな事件だが、小説の眼目は、会話の端々のフラグメントが妹の空想世界のなかにはめこまれて一つの作品、たとえば風景画のようなものに再構築されていくところにあるようだ。作風はまるで違うのに、金井美恵子に似たテイストを感じたのだが、錯覚だろうか。
特に、姉(可李子)妹(鱈子)の会話に出てくる作家や詩人などの顔ぶれが興味深いし、そのうち数人の簡単な略歴紹介ぶりは「き人伝」に通じるところがあって楽しめた。
勝海舟の後援者でもあった、竹川竹斎、「山椒魚」の井伏鱒二、インディオの作家レスリー・ウィスコウ(Morris.は初耳)、「センチメンタルジャーニー」のロレンス・スターン、詩人の八木重吉。妹はプロテスタントに入信しているし、教会の人から貰った詩集という設定になっているから不自然ではないのだが、八木重吉が出てきたときは、ちょっと驚いた。そして詩句の引用もある。

「ぽくぽく
ぽくぽく
まりを ついていると」
可李子が読み出した。
「ここがいいの。
まりを
ぽくぽくつくきもちで
ごはんを たべたい」
鱈子さんは不思議な気持ちがした。その詩は、鱈子さんの良いと思った詩だったからである。特にその「ぽくぽく---ごはんを」という箇所は、鱈子さん自身が魅力のある表現だと感じたところであった。
体調が悪くて食事がろくにできない時、この詩のその部分は、本当に切実に胸に迫るものがあった。

Morris.は八木重吉の愛読者ではなく「素朴な琴」一編の美しさをおぼえているくらいだが、手元にある創元社版「現代日本詩人全集12」にあたってみた。件の詩らしきものはあったが、肝腎の「ごはんをたべたい」の部分が見当たらない。


ぽくぽく
ぽくぽく
まりを ついていると
にがい にがい にがいいままでのことが
ぽくぽく
ぽくぽく
むすびめが ほぐされて
花がさいたやうにみえてくる

ぽくぽくひとりでついてゐた
わたしのまりを
ひよいと
あなたになげたくなるやうに
ひよいと
あなたがかへしてくれるやうに
そんなふうになんでもいつたらなあ(八木重吉)

この詩は重吉の遺稿詩集に収められているようなので、全集に当たれば見つかるかもしれない。
 


雑草博士入門】岩瀬徹、川名興 ★★★ 「たのしい自然観察」という副題があり、基本的には小学生向けの啓蒙書なのだろうが、カラー写真、特に拡大写真が多くて奇麗だし、花の造り、葉の付き方、根の形、種の散り方など懇切丁寧に解説してあったので、復習のつもりで借りたのだが、なんの、なんの知らなかったことのオンパレードだった。
紫陽花の花びらみたいに見える部分は実はガクであるくらいのことはMorris.も知っていたが、どくだみの場合は総包片で中央の穂状の花は花びらもガクも持たない珍しいタイプであるということまではしらなかった。またオオバコの種は濡れるとくっつきやすくなり人の足や、車のタイヤについて遠くまで繁殖するとあり、漢字名「車前草」というのが改めてなるほどと思ってしまった。
また踏まれて強い雑草は、もともと姿勢が低いタイプが多いが、それらを「枝分かれ型(スベリヒユ、コニシキソウなど)」「茎が這う型(ギョウギシバ、クローバーなど)」「叢生型(スズメノカタビラ、ニワホコリなど)」「混合型(ツユクサ、カキドオシなど)」に分けて紹介するなど、非常にわかりやすい。たしかに子供にも大人にも有用な一冊である。
発行元が全国農村教育協会というのがいかにもで、同社では「校庭」シリーズというのも出しているらしい。「校庭の昆虫」「校庭の野鳥」「校庭の昆虫」「校庭の樹木」「校庭の作物」「校庭の花」と、多数が出ているから、人気シリーズなのだろうが、最新刊は、なんと「校庭のクモ・ダニ・アブラムシ」だ。これはあまり売れないのではないだろうか。いやいや推薦文中に「先入観で好ましくない生き物ときめつけるのではなく、同じ地球上の生き物として尊重する気持ちを大切にしたい」とあるとおり、あまり目立たないこれらの生物を知ることこそ真のナチュラリストを育てる基盤になるのだろう。
 


睡魔】梁石日 ★★ 例によって主人公は著者をモデルにしているのだが、本書では比較的フィクションの部分が多いような気がする。それがいい方向に出たら良かったのだが、読後感は「げんなり」の一言に尽きる。
昔の仲間とネズミ講まがいの健康マット販売グループに関与して、抜群の成績をあげながらも、持ち前の性分と偶発事件等から破産状態に追い込まれる。主人公は、告発小説の出版を盾に被害金額を取り返すことには成功するが、過去に溯る個人的借金を払い、妻子も離れていってしまい、結局は何もかも無くしてしまうというラストまで、ストーリーはそれなりに繋がってはいるが、販売グループの勧誘方法や、研修会での商品説明、集団心理と洗脳を含む講習の内容が、しつこいほどに(本書全体の半分以上を占める)書き込まれてあり、これでは小説としての体をなしていないと、言い切ってしまおう。
勘ぐれば、過去に著者自身が(あるいは身近でそんなトラブルに巻き込まれた知人がいたのかも)本当に告発小説を書こうとして、それを改めて焼き直したのではないかとさえ思いたくなる。「夜を賭けて」のような傑作を持つ著者のファンとして、応援という意味で、喝を入れたいと思う。
 


青春マンガ列伝】夏目房之介 ★★★☆ 夏目のマンガ論は定評があるし、Morris.と同世代で、好きなマンガも重なる部分多いので、結構よく読んでいる。本書は彼の青春期の自伝的色彩が濃く、それはそれで面白いのだが、そのぶん、マンガ論としてはちょっと物足りない感じもする。もともと「マルコポーロ」で連載始めたものの、同誌が廃刊になり、間をおいて「鳩よ」で連載を再開、両者をまた再編成したものにいくらか加筆したものである。宮谷一彦、鴨川つばめへの論及は読み応えがあった。ほかはバロン吉本の初期作品がアメリカンコミックそのものであったことや、永島慎二への傾倒と卒業、佐々木マキのエピゴーネンになりかけていたこと、「赤色エレジー」(林静一)と「同棲時代」(上村一夫)の比較、師事していたしとうきねおの隠れた傑作紹介、などなど、やっぱり色々気になる話題満載で、しっかり読まされてしまった。岡田史子はやや否定的に取り上げてあったが、引用のカット見るだけで懐かしさが込み上げてきた。
彼が後年、マンガ批評の仕事を始めることに関連して、橋本治の「花咲く乙女たちのキンピラゴボウ」1979に触れて、次のように書いている。

もし橋本治があのままマンガ論を次々展開してくれたら、私は現在のようにマンガ批評にのめり込まなかっただろう。何も苦労して自前の粗雑な批評をつくりあげることはない。読者として橋本を応援していればすむのだ。けれど天才は気まぐれで、待てど暮らせど次の展開はなく、結局私はずっとあとになって自前でマンガ表現に手をつけることになったのである。

現在日本で有数のマンガ批評家の夏目にしてこの言葉あり、ということからも、橋本の一冊がいかに画期的な作物だったかがわかるだろう。Morris.もあれを読んで、当時書きかけていた大島弓子論を反故にしてしまったという、ほろ苦い想い出がある。

後書きの末尾に「この本でとりあげたマンガを全部知ってる人間って、日本広しといえどもそうはいないだろうなぁ」と書いてあるが、確かにMorris.も95%くらいしか知らなかった(^o^)  


ピンの一(ぴん)】伊集院静 ★★☆☆☆ 競輪、麻雀、競艇、競馬、花札、将棋、ちんちろりんまで賭博ならなんでもござれの快男児、花房一太(通称ピンのぴン)が、師匠格の勝千や、身の回りの博打好きと、さまざまなギャンブルの場で大騒ぎをやらかすという連作短編。ストーリーも登場人物も破天荒なものだが、ギャンブルの場面だけは、なかなか本格的みたいになっている。Morris.はギャンブルとは無縁の人間だが、フィクションで疑似体験をするのはきらいではない。これはヴァイオレンスもの、スパイものなどを読む時の気持ちに似ている。本書の長所は、主人公の性格が明るいことで、ギャンブルに関しても純粋に楽しんでるところが、浮世離れして楽しめるのかもしれない。みんなから親しまれ、慕われ、もちろん女にももてて、当人はすぐ照れたりするという、お約束のキャラクターだが、こういった作品ではこれでいいのだ。なにせ、お終いには、ピンがギャンブルで勝った金で飛行機を貸切り、みんなと仏蘭西に行き、アラブの王子と、サラブレッドを集めてロンシャン競馬場で、競馬主催して勝負した上、カジノで馬鹿勝ちし、みんなでラスベガスに向かう機内でギャンブルしてる最中に大西洋に墜落し、無人島にたどり着いて、手作りのサイで博打をやるところで紙数が尽きるというホラ話めいた終わり方である。
ところどころで開陳される人生訓、ギャンブル訓みたいなものもしつこくなくて、破茶目茶小説の香辛料となっている。  


丸谷才一と22人の千年紀ジャーナリズム大合評】 ★★★☆☆  「東京人」に連載された鼎談12回分をまとめたもので、過去に5冊出ているシリーズらしいが、Morris.は初めて読んだ。どんなものかは丸谷の紹介を引くのが手っ取り早い。

たとへば草思社を取上げて日本の出版一般にまで話が及ぶ。「朝日ジャーナル」の失敗の歴史を研究して近代日本の知識人を特異な角度から批評する。テレビと新聞の選挙報道を手がかりにして日本の政治のあり方に新しい光を当てる。小学および中学一年生の国語教科書を拉し来つて日本の教育の実態をさらけ出し---慨嘆これを久しうする。いちいち具体的で、しかも議論の構へが大きい。

相変わらず上手いものである。その他には野球映画/小説、世界文学全集、似顔絵とジャーナリズム、新聞短歌、東アジアの漢字事情などの話題が興味深かった。
たとえば、日本の野球映画がつまらないのは、役者が野球を知らないからで、いっそ長島一茂や定岡を起用して映画を作れという、豊田泰光の意見などは大いに賛同できる。

「世界文学は大学院においてではなく、子供部屋においてはじまる。子供たちはとおい昔から伝わる物語、すべての時代とすべての風土の童話をきかされている。彼らはグリム兄弟がドイツ人だからといって反感を持ったり、シャルル・ペローがフランス人だからといって不服をいったり、アンデルセンがデンマーク人だからといって不満を持ったりはしない」(アルベール・ゲラール「世界文学序説)

丸谷「感想文なんて、子どもになんか、できるはずのものじゃないんですよ。なぜ、難しいかといえば、それは簡単なことで、一つの本について書くには、じつは何冊もの同じ種類の本を読んでなければだめなんです。書評家はそういう蓄積があって、そのうえ文章をかく技術もあるからできるわけ。」


コレクション】山本昌代 ★★★☆☆☆ これは「き人伝」の続編のようなもので、期待して読んだ。期待は裏切られなかった。蘇東坡、ランピオン、蔦重、チェーホフの4人が取上げられている。二人目のブラジルの無法者の頭首ランピオンだけは未知の人物だったが、他は有名な詩人、出版人、劇作家であり、中国、ブラジル、日本、ロシアという出身の振り分けも意図的なものかもしれない。
はじめの2編は、正直言ってちょっと乗り切れなかったが、蔦屋重三郎は、作者お得意の時代、分野でもあり、前作「き人伝」に勝るとも劣らない見事な出来栄えだった。写楽の謎から始めながら「画家は画業を終えていなくなれば、画がその人であろう」で片付ける。蔦屋の出版の推移を冷静に、詳細に書き記しながら、当時の権力と江戸市民の空気への目配りも忘れない。例によって省けるところはどんどん削ぎ落としながら要諦ははずさない達意の文がいい。

江戸の浮世絵史で、ここだけがなぜか時間の流れがとまっているような、奇妙な印象がある。この黒雲母摺りの二十八枚が一斉に蔦屋の店先に並んだ時がだ。二十八体の役者たちは、二百年前のある瞬間をずっと持続させて今に至っている。雲母の光彩の沈み具合が当時と異なるのは当然だが、その一点一点を鑑る度に、写楽が永遠であることを改めて知る。写楽と号した一人の町絵師がではない、その名のもとに創り上げられた絵がである。

チェーホフについてはMorris.はあまり知らないだけに、初めて知る事実にただただ引き込まれるばかりだった。妹マリアの献身的な兄へ愛情と奉仕ぶりは、いささか異常ですらある。
本書で取上げられている4人に共通するのは、「烈しい生き方」ということになるのだろうか。自分に正直な生き方とも言えるかもしれない。  


北上幻想】森崎和江 ★★☆☆☆ Morris.の本名と酷似してることもあって、他人とは思えない著者の本はこれまでに数冊読んでるし、「からゆきさん」を始めとする、虐げられた女性の歴史を掘り起こす作業には敬意を表するものだが、なにぶん、テーマが重いことと、生真面目過ぎるために、あまり楽しい読書体験にはならない。本書は副題に「いのちの母国をさがす旅」とある。
朝鮮生まれの著者が、戦後日本に帰国してアイデンティティを探しながら、からゆきさん、済州島や北海道や玄海町の海女、沖縄の祝女(のろ)、陸奥の縄文遺跡、奥羽地方の安倍一族の軌跡、北上市の鬼剣舞にうぶめ鳥の幻想を見るまでの心の揺れ動きには、正直言って付いていけないものを感じた。
ウィーンの高齢の日本史研究家スラウィク博士からの手紙に、森崎姓に関する言及があったというところが、一番印象に残った。

スラウィク博士は、森崎という苗字は日本にはさして多くはないが、九州に傾くように思われることだとか、長崎奉行が寛文年間に長崎市外浦の旧地名・森崎の地に移ったことや、同地の森崎神社のこと、島原地方の森崎姓の人びとのこと、その他にふれておられた。そして森崎という姓を持つ者たちの由来や歴史についての調査に、何らかの協力をということのようであった。

スラウィク博士の妻の母、森崎れいは、からゆきさんだったらしい。そのことから筆者のライフワークと関わりが出てきそうなのだが、結局詳細はわからないままで終わってしまう。

出雲少女 森崎和江

親のない児をうんでしまった
ゆうやけを食べた駒のように

うんだものが親さ
さざなみは岩にたわむれ

海へ散る雨あしに似て
わがうろこはこぼれつづける

とうさんほしや
かあさんほしや

人の児のしわぶきにぬれ
加賀の潜と(くけど)はがらんどう

われをうみたまいし父のごとく
われをうみたまいし母のごとく

海鳴りにこころうばわれ
親のない児をうんでしまった

とうさんは青い石
かあさんは青い石


三代目柳家三木助】山本昌代 ★★☆☆ 「き人伝」にはまって以来彼女の作品を読みつづけているのだが、本書は、落語家の評伝ということで、「き人伝」に沿った作風のはずなのに、何かいまいち乗り切れなかった。Morris.はあまり落語に詳しい方ではないし、好きだったのは、志ん生、円生あたりだったので、三木助にもうひとつ馴染みがないというのも、理由か知れないが、つい「き人伝」の簡潔にして芳醇な文体の魅力を見出せなかった。落語界の事情にも通じているし、登場人物の機微も的確に描いているとは思うものの、三木助のキャラが立ってないと思ってしまった。  


お笑い創価学会 信じる者は救われない】佐高信、テリー伊藤 ★★★ 二人の対談(放談)と6編の記事から構成されている。テリーの「お笑い」シリーズは、最初の「お笑い北朝鮮」が面白すぎて、次の「金日成」までは良かったのだが、大蔵省、外務省、共産党などになると、ちょっとトーンダウンの観は否めなかった。それでも、他の同系統の本の中ではそこそこ面白い方だったし、内容も見るべきところが多かった。
本書はその点「お笑い」とは名ばかりで、あまり面白くはなかった。多分相方の佐高が真面目すぎるせいだろう。しかし、マスコミ世界でのタブーに近い創価学会と公明党についての批判の書を刊行するというだけでも充分意味があるし、書いてあることも肯けるところが多かった。何しろ、今や、公明党は与党だし、政教分離の正反対を地で行ってるわけだし、池田大作の独裁者ぶりもみんな知ってて知らぬふりをしてる。おりしも、国会ではわけのわからない中小選挙区制なんてのをごり押ししてる最中で、いいかげん、歯止めをかける必要があることも、多くの人が感じながら、「触らぬ何とかに祟りなし」で頬かむりをしている。数の論理で攻めまくる創価学会=公明党の議員が増えるほど、日本の政治は畸形化していく。本書の目的は、創価学会会員ではなく選挙で頼まれて公明党に投票してしまう(させられてしまう)いわゆるF票を減らそうというのが目的らしい。外堀から攻める作戦ということか、確かに正攻法では話にならないのだろう。藤原弘達の「創価学会を斬る」の言論弾圧から30余年になるが、マスコミの状況は改善されてるとは思えない。一方的に非難するためではなく、自らが判断するために情報は必要なのだ。本書が、マスコミの閉塞状況に風穴を空ける一助となることを願う。


Z】簗石日 ★★☆☆☆ 例によって著者自身をモデルにしているが、ストーリーはフィクション色の強い作品。1945年日本の敗戦による朝鮮解放からの混乱期に権力闘争の裏で陰惨な殺し合いが行われた。当時の伝説的な殺戮者、カミソリ男「Z」を追う秘密組織と秘密警察の争いに、自身の戸籍の改竄の究明から巻き込まれてしまった主人公は、深みにはまっていく。
冒頭が死を暗示する夢に始まり,中間140ページくらいが、延々解放後の朝鮮紛争史の解説みたいになっていて、後半では突然、朝鮮戦争時の日本人部隊による朝鮮人虐殺の資料を手に入れ、これが危険の火種となり、終盤ではばたばたと殺し合いが起こるなど、小説としては整合性に欠ける。はっきり言えば失敗作だろう。
それでもとにかく読まされてしまうのは、著者の生の声が聞こえるからだろうか。本筋とは無縁だが、主人公が大阪の大学で講演した中で、「朝鮮」ということばが差別語として定着した軌跡と、わかっていても生理的に喚起される複雑な局面を反芻してしまうというジレンマからの超克のマニフェスト。

「差別は差別を生みます。いわば自己増殖を続ける癌腫瘍のように、いつか自分自身をも差別の対象としてしまうのです。差別は言葉によって指弾され、あるいは沈黙の領域で増幅されていきます。
良識ある日本人は朝鮮あるいは朝鮮人という言葉のもつ響きに神経を使い、極力朝鮮人という言葉の使用を避けようとしますが、しかし避けること自体が差別につながるのをまた気にするのです。といって日本人が朝鮮人というときの響きに、わたしは差別的なものを感じてしまいます。そのことを良識ある日本人は知っていてある種のジレンマに陥るのです。それだけではありません。今度はわたし自身が朝鮮あるいは朝鮮人という言葉の響きに嫌悪感をいだくようになるのです。つまりわたしは差別者の意識を反映するようになっていたのです。
たとえば「コリアン」というような別の言葉に言い替えても差別的な感情が消えるわけではありません。いったん作り出された差別は彼我の関係を果てしなく転倒させて自己増殖を続けるのです。この果てしない自己増殖をたち切る方法は、わたし自身がわたし自身の身体を晒されることで相手の身体をも晒せさせるしかないのです。」

特に著者独自の意見でもないが、やはり当事者の率直な意見として見過ごすことはできない。しかし、先に書いたように、小説としての完成度は高くない。
彼の小説の中ではやはり「夜を賭けて」に勝るものはないだろう。


歌集 椿夜】江戸 雪 ★★★ タイトルより名前に惹かれて手にとってみて、適当に開いたページの

・身体はただいれものにされてゆく蛾がふれてゆく脹脛かな

という歌が琴線に触れたので借りてきた。作者紹介が無いので、後書きなどから知ることができたのは、大阪在住であること、本書が第二歌集であること、河野裕子に縁の歌人らしい(帯に推薦文を貰ったとある)こと、冬に子供を産んだばかりということくらいである。もちろん、歌を読むのにそんなことを知る必要も無いと思うのだが、ひさびさに、響きと、発想の面白さを併せ持つ恋歌に出会ったので、ついつい気になってしまった。

いま君をへだてていたる川の数、木の数、昼にみる星の数

思い出す旅人算のたびびとは足まっすぐな男の子たち

雨の夜に耳もてあましとりとめのない明るさのメイルを送る

雨ふふむあじさいゆらり浮かぶ道走れどもまだ海は見えない

サンダルにつまさきのせて坐る椅子行きたいところは行けないところ

君の掌が思いがけなく君の顔覆ってわれは虹をみている

復讐をおえたる後のような眼を浮かばせる水、秋のいろなり

逢いたいとおもう脳(なずき)に出口なくあかねさしたる椅子をみている

堤防の先は砂浜、海、溺愛 傷つけたくて逢った日がある

春きざす川におとしたイアリング睦月きさらぎ人を愛さず

かんたんに理解されてもこまるのよ朝は祈るし夜には憎む

本書全体が2部に分かれていて、以上までの引用は冒頭の歌以外はすべて一部からのものである。2部は著者が臨月になってから、出産し、嬰児を慈しむ期間に当たるようだ。
ということで、最初の歌の「入れ物にされる身体」とは、妊婦のことだったわけである。Morris.は完全に勘違いしていたようだ。そして2部の歌は、ほとんど採るものが無くなってしまった。特に後半の、母子一体の歌は、味わうよりは、読み通すだけに終わってしまった。女にしか歌えない主題を存分に歌い果せているというべきなのかもしれないが、Morris.には一生わからない世界なのだろう。
蛾の歌の次に置かれている
 

・さびしくて渡りにゆくよ真夜中にふくらみながら橋は待ちたり

という、歌も、同様の文脈のなかにあると、素直に受け取れなくなる。


岡本綺堂】★★☆☆☆ タイトルが作者の名前になっているのは、これが文庫版のちくま日本文学全集の一冊だからだ。Morris.はあまり時代小説は読まない方で、特に捕物帳は苦手な部類にはいる。例外は「顎十郎捕物帳」で、これは贔屓の久生十蘭だから無条件に読んで、その文体に蠱惑された。
最近読んだエッセイや雑誌の記事などで、連続して半七捕物帖を誉めてある文に出会い、ちょっと興味を覚えてたので、手ごろな本書を借りてきた。半七捕物帳から5編、三浦老人昔話から5編、青蛙堂鬼談から2編、戯曲2編の、計14編が収められている。
戯曲は余りに古臭く感じられた。よく言えば形式美に過ぎるということか。名作の誉れ高い「修善寺物語」の将軍の顔を写した面に死相が表れて、それを面作師の娘が身に付けて将軍の身代わりとなり致命傷を負い、父は娘の死に顔を次の面のために写そうとするという筋立ては、ストーリーとしてはひどいと思うが、たしかに芝居の見せ場らしくはある。
肝心の捕物帳は、推理小説としては余りにもシンプルに過ぎる。驚くほどのトリックもないし、事件の動機や方法も単純、被害者加害者の心理描写も淡白に過ぎる。と、まあ、これはMorris.の偏見なのだろう。綺堂は決して、推理小説、探偵小説の江戸時代版を書こうとしたわけではなくて、本当に近過去の昔話をふんわりと語ってあげようとい趣向なのかもしれない。つまり時代の息吹というか雰囲気を定着させるということなら、確かに成功しているといえるだろう。老人になった半七が日清戦争の頃に若い友人(綺堂)に語る回顧談という形式がもともとその証と言えなくもない。
それを加味しても、やはりこういった作風はMorris.ののめり込む分野ではなさそうだ。


ウィスキーボンボン】山本昌代 ★★★ 「き人伝」があまりに良かったので、つられて数冊借りてきた中の一冊。2000年10月発行とあるから比較的最近の作といえる。「ウィスキーボンボン」「ワイングラス」「月の雫」という連作短編なのだろうが、まとめてひとつの作品として読んだ。まだ続きがあってもおかしくない終わり方になっている。
お稚児さんという呼ばれ方をする主人公が、自由な生き方の姉に、複雑な感情を抱きながら、結婚後、姉の前の彼氏とゆくりなくも肉体関係を持ち、妻との間に軋轢を生じたり、妻の不倫の影を感じたり、過剰な非難を受けたり、実はもっと深いところで姉への愛憎があったことを思い知ったりと、けっこうどろどろした話になりそうなところを、乾燥した文体と、語り口と、登場人物の冷静さが、全体のイメージを不思議な透明なものに変成している。
ストーリーはとりたてて面白い筋立てではないが、一息に読み通させる筆力は流石である。


き人伝】山本昌代 ★★★★ 彼女の出世作「応為坦坦録」を読んで若いのに上手い書き手だと感心した覚えがあるが、それがもう18年も前のことだということを知ってびっくりした。江戸の戯作者や浮世絵師などの世界を舞台にしていたので、その素材がMorris.の好みにあったということもあるのだろう。その後数冊読んで、しばらく遠ざかっていた。ひさびさに本書を読んで、進境の著しさに目を瞠った。と、いっても94年の発行となってるから、もう新作とは言えない。タイトルを見て、江戸時代の奇人を扱ったものかと思ったのだが、ちょっと違っていた。

昭和の挿絵版画家谷中安規の「風船画伯」
エリアーデ「金枝篇」の象徴ともいうべき神話的植物「マンドラゴラス」
「露にだに厭ふやまとの女郎花 ふるあめりかに袖は濡らさじ」の遊女「喜遊」
スペイン人によるアステカ帝国の滅亡を主題にした「メシカ」
マン・レイ、デスノス、藤田嗣治などに愛された、モンパルナスの女王「キキ」
空間の鳥などの代表作で知られる、抽象彫刻家「ブランクーシ」
アメリカ女性クリスの中に新しい人格として出現した「サリー」

と、いう史伝的色合いの濃い7編の短編集である。それぞれの長さにはばらつきがあるが、すべてに共通しているのは、主題や主人公につかずはなれずの距離をとっている作者の視点と、贅肉を削ぎ落とすだけ落しながら、言うべき事は言い果せているという至芸の手腕である。
辛うじて江戸時代ものといえるのは、幕末の横浜の遊郭の娼妓「喜遊」だけだが、Morris.には、本書が小説というより、江戸の考証随筆が現代に蘇った奇貨のように感じられた。
たとえば、強烈な個性の持主キキと、マン・レイの、パリでのエキセントリックな暮らしぶりを、冷静に観察しながら、見事なスナップショットとして切り取っている部分を文体見本として引いておく。

キキはマンよりも頭ひとつ分、背が高かった。そして聳え立つような立派な鼻を持ち、こちらもマンのそれより大きいくらいだった。
彼女は部屋に二人きりでいるときはおとなしい仔猫のようだったが、他人の目のあるところ、つまり観客の存在を意識すると、騒ぎを起こす癖があった。「浮気をした」と叫んで、カフェに坐ったマンに平手打ちを喰らわせる。路上での彼らの喧嘩の威勢のよさは、当時のモンパルナスの風物詩のひとつだった。写真用の玩具のピストルなどを手に、マンは応戦した。
冷静なマンの気持ちを引くために、キキはしばしばブルゴーニュの祖母の家へ帰ったり、ニューヨークまで映画のオーディションを受けに出かけていくが、すぐにマンが恋しくなって戻った。
ニューヨーク行きは、アメリカ人の芸人さがしの誘いにのったのである。マンの反対を押し切ってキキは船に乗った。帰る旅費がなくてマンに助けを求めた。彼は援助はしたが、キキが戻った時、平手打ちもプレゼントした。

淡々と書かれているように見えながら、実際にはなかなかこうは書けない。これだけの成り行きを書こうとすれば、たいがいの作家なら5頁や10頁は(ことによれば100頁でも)費やすだろう。ここには高次の抽象があると思う。
「マンドラゴラス」は物語詩のような調べで歌い上げられているし、「ブランクーシ」では、彫刻家自身の言葉を点綴しながら、いつのまにか明晰な作品論に仕上げていたり、小説を超えた何かを目指しているのではないかと勘ぐってしまいたくなる。裏返せば、小説という表現形式の器の大きさと可能性に挑戦していると見ることもできるだろう。
異文化のぶつかり合いが、歴史の悲劇を生む瞬間を透徹した悲しみで哀悼している「メシカ」の掉尾におかれたアステカの詩を孫引きしたい。

われら転生して春の草となる日に
心臓も緑になろう
やがて花びらも咲き匂うだろう
命は薔薇の樹のように
花を咲かせ、やがて枯れ朽ちよう

ただやって来て眠り
やって来て夢見た
真実ではない
われらがこの世に
生きるためにやって来たというのは


完四郎広目手控え】高橋克彦 ★★☆☆☆ 瓦版屋に居候してる旗本御曹司完四郎が、仮名書魯文などと図って、人寄せの企画を企んだり、怪談話を絵解きしたり、事件に巻き込まれたりする12編の連作短編。最初のうちの梅の名所で懸賞句会をやったり、花見客の粋さを選んでこっそり金品を与えて称揚するなどのエピソードは面白かったのに、途中で、未来を予測する娘が出てきて、荒唐無稽な筋になってしまい、おしまいには、江戸の大地震の中で、市民を救済するための瓦版を出すことに価値を見出すというオチは、どういうものか、と思われる。
著者は浮世絵に造詣深いことでも知られるが、各章に広重の「名所百景」から1枚ずつを挿入してるのだが、いまどき白黒というのは冴えないことおびただしい。内表紙のタイトルバックに12枚をカラーでコラージュしてあるのだが、余りに小さくて悲しくなってしまう。


草を褥(しとね)に 小説牧野富太郎】大原富枝 ★★☆ 牧野富太郎には愛着を感じているMorris.だから、迷わず借りてきたのだが、彼の妻寿衛子を主軸にしたもので、おまけにわざわざ「小説」と銘打っている割に、ちっとも小説にはなってない。それでも富太郎の違う一面を知ることができたという意味では無駄ではなかった。挿入されている富太郎の写真と彼の植物図だけでも見る価値はあった。本書は著者の遺作(享年87)だそうだが、あまりにひどい。Morris.の苦手な作風ではある。伝記なら伝記らしい書き方があるのではないか。おまけに津本洋の解説というのが、本書に輪をかけたひどいものでがっくし。そういえば、津本はあの魅力あふれる南方熊楠を扱った「巨人伝」とかいうのを書いたが、これがまた噴飯物としかいいようのないものだった。


社長物語】薄井ゆうじ ★★★ 30代のデザイナーである主人公が、友人のカメラマンやライターなどと共同事務所での活動に限界を感じ、会社を設立して社長になり、さまざまな問題に取り組みながら、考え方も変わっていくが、社員の造反でほとんどが退社して、いっそさばさばした気持ちで出直しをはかるというストーリーだ。
前半などは、会社の作り方マニュアルみたいに、詳細にノウハウが書かれているし、えらくリアルなのでモデルか、経験があるのかと思い作者履歴を見たら、広告プロダクション経営とあったので、やはりこれは自己モデル小説のようだった。大手の広告代理店からの発注や、きれい事に過ぎる面もあるが、小説としてはなかなか読ませてくれる。
面接に来るとんでもない人種たちの誇張された描写もうがっているし、自閉症傾向の妻と陶芸教室を通じて心が開かれる部分や、会社設立前に入院した仲間を見捨てないところなど、ヒューマニズムあふれるエピソードもありで、この作者の本は2冊目だが、もう少し読んでみようと思った。


  夢の裂け目】井上ひさし ★★★ たぶん最新の井上戯曲だろう。昭和25年の東京を舞台に、紙芝居屋の主人公が、戦時中内外で、戦争協力の紙芝居を上演していたことから、東京裁判の証人として呼ばれ、戦前の自作紙芝居と東京裁判の構図の酷似に驚いて行くというストーリーである。「東京セブンローズ」に通じるテイストがあるものの、こちらは比較的面白く読めた。長さが1/10くらいというのが良かったのかもしれない。
東京裁判で、東条英機一人を諸悪の根源として罪を集中させるために、東条の懐刀とされていた田中少将に異例の長期にわたる弾劾の証言をさせた。これは、東条、田中、暗黙の合意の上で、米国もそれを承知(或いは筋書きも書いた?)で裁判を進行させたもので、目的は天皇への責任追求を回避するためだったというオチだ。
紙芝居は、四国屋島の狸の殿さまが、阿波の狸姫に岡惚れして、許婚者の讃岐の殿様の怒りを買い、讃岐阿波連合軍に攻められて敗れ、打ち首になるところを、家臣の次郎狸が、筆頭家臣太郎狸にすべての非があると進言する。これは両者合意の上の猿(狸?)芝居で、太郎狸だけが極刑を受け、屋島の殿さまは助かる。絵解きすれば、太郎狸が東条、次郎狸が田中、屋島の殿さまが天皇ということになる。
先日、TVで「東京裁判」の記録映画を見たのと、最近さとなおさんの日記で、アメリカ、アフガニスタンのテロと報復を、ドラえもんの登場人物に例えた寓話を読んだばかりだったので、何か暗合めいたものを感じた。


古典論】外山滋比古 ★★★★☆ 外山は日本語やものの考え方に関する、分かりやすく刺激的なエッセイを多く著わしていて、Morris.も数冊読んで啓蒙されるところ多かったが、本書は比較的堅めの作品本質論文のようだが、相変わらず分かりやすい表現で、高度の内容を論じていることにまず感心した。全編を通じての論旨も明晰である。
・初めから古典として生まれる作品はない。
・第三者の理解を経て異本が生まれる。
・異本を産まないような作品は古典になりえない。
・異本とは後世による二次的創造である。
・異本の中から古典としての作品が生まれる
以上である。
これまでの古典研究が、オリジナル尊重のあまり、文献学ではより古い写本の発見できることなら著者の肉筆原稿を最高位におくという考え方から、後世の創造的はたらきを無視してきたことに意義を申し立てている。作品の古典化の極端な例として、風刺小説から、児童文学の古典になった「ガリバー旅行記」、おとぎ話のつもりから幻想文学の古典となった「アリスの不思議な国」などのを挙げるなど親しみやすいところもあり、興味深いエッセイとして充分楽しめた。

引用というのは、りっぱにひとつの改変である。引用された部分が、ものとコンテクストでもっていたのと同じ意味をもつことは決してない。引用されたものは、かならず新しい意味をおびて異本になっている。さくしゃがそのことを問題にしないのは、行元の意味についての認識が浅いからである。

Morris.の読書控えにも頻繁に引用がなされているが、それらは、共感を覚えた部分、面白いと思った部分、重要だと思った部分などを引用してきたわけで、これはこれで低次元の批評にもなるだろうし、全体の中で読む場合とは違った受け取られ方をするかもしれないというくらいの認識はあったが、「改変」と言われると、確かにそうかもしれないなあ。

作品の伝承と言うのは物品を後世に伝えるのとはちがった有機的変化である。ものならば保存さえよければ、何百年もそのまま保存される。超社会的であり、超歴史的生命をもつと考えることができる。それにひきかえ、文学作品はきわめてつよく社会的・歴史的性格をおびている。新しい時代、新しい社会に、物品が伝えられるようには、適合しない。変化の必要がある。それは典型という脱社会性、脱歴史性を獲得するのに不可欠の過程である。

子規は、俳句を文学にし、連句の文学性を否定したように書いているが、その実は、連句の解体、改造であった。歌仙の発句のみを独立させて作品にするという、連句の大きな異本をこしらえたに過ぎなかった、と解することができる。俳句は連句の変奏、異本として、すくなくとも出発した文芸様式である。

これも目からうろこであった。

シンボリックな短詩である俳句が、エピソディックでより情緒的な文芸へと移行しつつあり、口語性のつよまるところと相俟って、川柳にも通じるような俳句があらわれた。それはまた川柳を俳句とあまり差のないものにしつつある。
いずれにしても、現代の俳句は、『第二芸術論』をきっかけにして生じた新異本的文芸であると考えて差し支えない。異本をつくる原理は、内部からではなく、外からの異質な思潮をきっかけにしている点がとくに注目されなくてはならない。

自作を川柳と呼ぶ、大西泰世を、Morris.の知る限りの現代女流俳人の作品よりも俳句として魅力があると思っていただけに、上記の意見に、大いに意を強くした。しかし、これから、俳句をやるなら、更なる異本化を目ざすべきなのかもしれない。

推敲は、わが子に手術をするようなものである。ためらいがある。思い切ったことがしにくい。そこへ行くと、添削は他者による推敲である。表現を改良するということからすれば、推敲は添削に及ばないのは考えるまでもなくはっきりしている。

作者作品を景仰するのではなく、解釈して、おもしろさを発見する読者が自立したところで、文学の歴史は新しい段階を迎えることになる。古典文学をつくり出すのも、そういう読者であったのである。これまではそういう古典的読者が自覚もされず、公認をされなかったために、歴史的時間の闇の下で古典化はおこなわれてきた。作者によって古典がつくられるのではない。読者が古典をつくり、そうでない作品を忘却、煙滅させるのであるということをようやくにして認めることのできる歴史的成熟の状態に文学も達しつつあると言ってよいであろう。

異本はヴァージョンである。ヴァージョンの考察と方法とが異本論である。
文献学においては古典成立の原理を解明することはできない。異本論においてのみ、古典の存在が説明できる。


魂の流れゆく果て】簗石日(ヤン・ソギル) ★★★☆☆ 彼の小説は大概が自伝的な要素が強く、先般話題になった「血と骨」に代表される父との葛藤が表に出がちだが、本書は、それ以外の個人的なエピソードや、思い出を断片的な連ねた14編のコラムと、「大阪曼荼羅」と題された9編の地名に絡んだこらむ、それぞれに?昭(ペ・ソ)のモノクロ写真を配してある。
彼の作品は以前のものは、ほとんど読んでいるので、2/3くらいは既知のできごとだったが、写真と併せて読むとイメージがくっきりしてくるし、知らなかったエピソードの中には興味深いものもあった。彼が住んでいた猪飼野の長屋の前の斎場などは、今度是非見ておきたい。
それにしても凄まじい人生であると思う。
ある意味では鬼のような父を持ち、闘争し、事業を起こし、放蕩し、借金し、倒産し、逐電し、無一文になり、タクシー運転手しながら詩や小説を書き始める。父との確執からして命がけで、借金に絡んで数回、タクシーでは事故で2回は死に損なったり、と、表面をなぞっただけでもこんな風だから、Morris.には別世界の人間のようにさえ思える。また彼と家族親戚との関係は言うにおよばず、友人知人との付き合いの激しさ、濃厚さにも、とてもこんなことはできないと引いてしまう。Morris.は20年来家族親戚とは無縁だし、友達付き合いも、一定の間をおいてでなくては間がもてない体質になってしまっている。卑怯なのかもしれないし、薄情なのかもしれない。ぶつかって、傷ついたりする以前に、傷つくかもしれないと言うことを恐がっていてそれを避けるため、つまりは保身のためそうしているのではないのか--などなどと益体も無いことを、あまりに対照的な彼の生き方を読むたびに思わされてしまう。嫌な作家だが、読まずにはいられない、そんな作家bネのかも知れない。
本書には60点余りの写真が掲載されていて、そのうちの幾つか(特に街の風景)は悪くないのだが、簗石日の映像がモンタージュ(合成写真)されているように見えるものが数点あるのが、気になった。作品の技法として用いるのならかまわないのだが、いかにも間に合わせのように見えるのが気持ち悪い。


刑務所の中】花輪和一 ★★★★ 異能漫画家花輪和一が1994年12月に改造銃試射などの容疑で逮捕されたニュースはMorris.も新聞で知った。彼のファンではないがそのおどろおどろワールドに不思議な魅力があることはよく知っていた。初犯でもあるし執行猶予がつくだろうと言う予想に反して懲役3年の実刑が下る。このことはいつのまにか忘れてしまったが、昨年本書が出版されたことを知り、読みたいとは思っていたのだが買うまでにはいたらず、灘図書館で見つけたので借りてきた。うーーむ、これはすごい。クソリアリズムといいたいほどの描画と、刑務所と言う特殊状況の中での生活が淡々と語られながら、濃密な空気まで感じさせる。とりわけ食事に関する記述は執念としか言いようがない。詳細な献立メモや、2ページに渡る献立の図は感動的でさえある。不便、不潔、拘束、規則だらけの毎日のはずなのに、花輪はこれに反発や不満を表に出さない。時には刑務所生活を楽しんでいるようにすら見える。すべてが本音とは言えないかもしれないが、花輪の今回の受刑によって本書が生まれたことは、無責任を承知で言えば「僥倖」だったのかもしれない。偶然の「適材適所」が、日本漫画界の歴史に残る稀有な作品を生み出してしまったのだから。


颱風娘】薄井ゆうじ ★★★ 民間の気象情報会社に勤める主人公が、不思議な老人に頼まれて南の島に古い天気図を埋めることを委託されたことから物語りは始まる。島の娘風子との出会い、帰国してから老人の推輓で気見の法を学ぶことになり、徐々に天気や気象を読み取る超能力を身につけていく。風子は実は台風で、父母とともに日本に上陸して色々な事件を巻き起こす言う、ラフなファンタジー小説なのだが、結構ディテールがしっかりしていて、軽妙な文体とあいまって楽しめた。言葉遊びの趣味もあるらしく、各章のタイトルに「ハロー、注意報」とか「台風一家」とか「香水確率」とか「起床情報」とか気象用語の駄洒落を使うなど(Morris.の標語に近い)いろいろサービスに努めてる様子が伺える。ユーモア小説と言えなくもないが、作者はそれなりに真面目な人間論を披露したりもしている。これだけ書けるのなら、思い切ってエンターテインメントに徹してもらいたいものだ。

「精神で,お天気がどうなるものでもないでしょうに」
「違う。すべてのものには心がある。心を読まなければ何ひとつわからない。台風にも心がある。地球がひとつの生命体だという発想を聞いたことがあるかね。たとえば単細胞の生物の中身を見ると、それは蛋白質とか水分とか、そういうものの集合体なんだ。人間のなかにも、カルシウムや水などといっしょにリンパ液や大腸菌や、様々なものが詰まっていて、それが人間と言うひとつの環境をつくりだしている。そう考えると,地球は無機質と有機質、つまり生命と物質がひとつになって、地球という一個の生命体を維持していると考えることができるわけだ。これは単なる理論ではなく,私は実際にそうだと思っている。地球には心がある。そうは思わないか」
「考えたこともありませんが。もしそういうものがあるとすれば、誰がそれを司っているんでしょうね」
「きみを司っているのは誰かね。きみを動かして、きみに思考させている張本人は、きみのなかの誰なのかね。わかるはずはない。そういうことはどうでもいい、心があるならそれを読みとれるはずだということが大切なんだ。大気の表情を読んで,その心を読むんだ」


二十世紀】橋本治 ★★★★ 毎日新聞社のムック「シリーズ二十世紀の記憶」の年頭言として掲載された、1900年から2000年まで各年ごと101本のコラムと、総論(「広告批評」掲載)をあわせたもの。同世代の書き手の中では一番共感を覚える橋本の数あるコラム集の中でも本書は極め付きではないかと思う。Morris.は愛蔵本「情報の歴史」を傍らに置いて、これと対照しながら読み進めたこともあって、1冊読み上げるのに3日もかかったが、それだけの価値はあった。

・誰かがなにかを発明したとしても、その発明が"実用"の域に達するまでは、けっこうな時間がかかる。なにしろ、"最初の現代文"である「浮雲」の冒頭が、いきなり"千早振る"の枕詞つきなのだから、現代文が現代文になるまでにはまだまだ時間がかかるし、まだまだ改良の余地はあった。
1900年「オズの魔法使い」「ちびくろサンボ」、1902年「ピーター・ラビットの話」、1906年「赤毛のアン」 日本人がシチめんどくさいことをやっている間に、海の向こうでは、さっさとこういう"成熟"が生まれていた。日本人は、まず日本語を作り直さなければならなかった。しかし、日本に近代を教えた西洋諸国にはそれは必要なかった。だから彼等は、もう高度な童話を書けていたのだ。羨ましいというのは、こんなことでもあろうか。(1906)

・十九世紀の後半から二十世紀までがなんで激動のゴタゴタ続きの時代かといえば、その根本は"商売"にある。十九世紀の中頃にいち早く産業革命をなしとげたイギリスが、商品を多く作りすぎて、それを外国に売りつけるためにさまざまなムチャをした--その先例を、日本も含む他の国が真似したから、ムチャが世界に及んで,世界戦争になる。商売をするのに暴力をちらつかせるという風習は、さすがに二十世紀の半ばにはなくなって、しかしそれでも、「作りすぎた商品を売りつける」という風習は、まだあまねく残っている(今でも)。だから、世界に富の偏差はあって、それで世界は相変わらずガタついているのである。(1909)

・"無意識"の発見は、やっぱり二十世紀最大の発見である。"無意識"なるものを発見されて,人間はそれ以前とはまったく違うものの考え方をしなければならなくなったからだ。それまでは"呪術"や"超自然"といった領域に属すると思われていたものが、「人間に必須の構造」として説明されるようになってしまった。(1919)

・人間というものは,豊かさの中で破滅への準備をするものらしい。豊かさの中で、人はそれを失うまいとして,足をすべらせて破綻へと至る。第二次世界大戦前の世界を「暗い時代」と言う人は多い。しかし、その暗さは、豊かさの中に忍び寄るものなのである。(1939)

・「共産主義への恐怖」は、既に十九世紀からある。その恐怖は、「私有財産を否定する共産主義は、せっかく得た我々の財産を奪う」という恐怖である。しかし一方,共産主義は「他人への痛み」を前提とする思想でもある。世の中には貧困に苦しむ人間がいる--それはなぜだろうと考えて,共産主義は多くの共感を得た。
共産主義が思想として画期的だったのは、そこに「他者」を発見していたからである。
「他者」を発見して、共産主義はたやすく「敵」を作った。「他者の発見」は「愛の発見」であり、「不和の発見」であり、「敵の発見」でもあった。

・団塊の世代は大挙して大学へ行った。そして、大学に象徴される既成の価値観と衝突した。それが大学闘争である。大学闘争の結果がどうなったかは、誰も知らない。
意味のないところへ行って,社会の変革を叫んで,社会はその声に応えず、意味のないところで四年間を過ごした団塊の世代は、社会を変革する力を育てられなかった。(1977)

・インベーダー・ゲームとウォークマンは、やがてコンピューター・ゲームと携帯電話という、二十世紀末日本の最大産業へと発展する。社会の中で、人は公然と自分自身の孤立を表明して、しかし悩まない。悩む理由が無い。悩む必要が分からない。社会は、その基本構造を変えないままにあって,人の孤立は、もう"当たり前"になっていた。(1979)

・中東和平ということになると、「民族対立」とか、「宗教対立」と言われる。こういうことになると、「日本人には分からないもの」になる。しかし、それは本当なのか?
イギリスがパレスチナを「委任統治領」にしていたのは、十九世紀ヨーロッパの帝国主義が、アラブ人の澄む中東地域を支配化に置いていたからである。そして、その頃のヨーロッパ=キリスト教社会は、ユダヤ人を追い立てていた。つまり、その後のパレスチナに起こった「宗教対立」は、本来ヨーロッパで処理されるべきものではなかったのかということである。
1940年代の欧米キリスト教徒にとって、ユダヤ人とは「出てってくれりゃ嬉しい」というような存在だった。だからこそ、それを持ち越した中東問題は"難解"なのである。それをしたヨーロッパに、ユダヤへの差別は無いのか?アラブへの差別は?貧しい人への差別は?--中東和平とは、その問題を二十一世紀に問うようなものなのだと、私は思う。(1993)


サイキック戦争】笠井潔 ★★★ 暗い血の呪いから逃げるようにパリに留学し、革命の任務を帯びて日本に戻ったものの、先祖の山に篭っていた主人公竜王翔が、戦乱のベトナム、クメール・リュージュ侵攻のカンボジアを舞台に、かつての恋人と息子を救う闘いの中で、自己の超能力を見出して行き、最後は、闇の超能力者とのサイキックな戦いになると言う、伝奇SFである。もともと86年と87年に2冊に分けて刊行され、93年に文庫化されるにあたって、最終章を加えて一応の結末をつけたとある。
超能力を発揮するまでにえらく時間がかかるし、主人公が自分の力に懐疑的だったり、財閥の客家の娘や友人の助けを借りながら、周りの仲間はどんどん死んでいく中で、変に虚無的なくせに、自虐的だったりと、どうも素直に感情移入できないストーリーだったが、作者自身の青春期の思想的背景が影を落としているらしい。
ソ連の共産主義体制も、アメリカのベトナムへの暴挙(枯葉剤散布)も、カンボジアの内乱もすべて、数万年前からの正邪の闘いの一部だと言うのも、何だかなと思ってしまう。
それでも何とか読み通させるのは、筆者の力量というものだろう。
野阿梓という人の、18ページにわたる解説がえらくリキが入っていて、第二次大戦後の東南アジアの独立運動に絡まる情勢分析などは教えられることが多く、本編よりよほど印象深かった。これでは笠井の立つ瀬がないだろうなあ。


血と夢】船戸与一 ★★★☆ 「小説推理」81年6月号に掲載された「アフガン血風記」に加筆したものを翌年単行本化されたもので、20年前の作品である。ソ連によるアフガン侵攻を背景に、新式自動小銃とその発明者を拉致するためにCIAが派遣した日本人が、イスラムゲリラに紛れ込んで戦渦の中で、義兄弟の契りを結んだゲリラ主導者を裏切ることになる。アフガンに非合法的に潜入した経験に裏打ちされた描写と情勢の分析などは、今読んでも臨場感を失わない。えらく古いものを読んでるなと、自分でも呆れたが、先般の同時テロに対する、米のアフガン攻撃が現実に迫ってる今、タイムリーな読書と言えるかもしれない。筆者の心情は多分にアフガンの民に同情的で、大国の勢力争いの犠牲になる彼らの怒りに共感を覚えているようだ。アフガン・イスラム党の指導者ミジャル・グルヴァザが、捕虜の処刑に不満を表明する香港のジャーナリストに吐く台詞に端的に表わされている。

「聞かなくたってわかっている。あんたがた文明人とやらの夢は実にみすぼらしい。立身出世の夢、物質を所有する夢、そしてせいぜいが家族や個人的な関係を持続する夢だ。だが、アフガン人は違う! この小さな国は絶えず外国の侵略に晒されてきた。イギリスの次はソ連だ。アフガン人の夢はな、そういう外国勢力を撥ねのけ、アフガン人がアフガンの大地を自由に跳びはねる夢だ。いかなる外国の策謀も跳ねのけ、アフガン人がイスラムの戒律だけに生きる夢だ! もちろんその夢が簡単にかなえられるはずもない。そういう夢はいつだって血塗られた夢となるからだ!」
陳東明は黙りつづけていた。
「血と夢!」ミジャル・グルヴァザは張りのある声でそう言った。その声は陳東明ではなく、すでにじぶん自身に向けられているようだった。「アフガンではいつだってこのふたつは密接に結びついている! そのことを確認するためにこのような処刑が行われるのだと言ってもいい。アッラーもそれはお赦しになるだろう」

新発明の自動小銃の大きなメリットとして、コストダウンがあげられ、戦闘員一人の殺害値段に換算して云々といったくだりや、戦闘殺戮への血の滾りへの肯定などは、ちょっと辟易するところもあるが、船戸の初期の作品には、近作にない情熱みたいなものが感じられる。


夕やけを見ていた男 評伝梶原一騎】斎藤貴男 ★★★☆☆ 「巨人の星」「あしたのジョー」の原作者として、一世を風靡し、後、空手、格闘技の世界にはまり込み、映画製作、プロモートなどやりながら、スキャンダルにまみれて、さびしく消えていった男、梶原一騎だが、Morris.はどちらかと言うと苦手に属するタイプの人間で、「あしたのジョー」以外はほとんど認めていなかったのだが、やはりその軌跡を、丹念にたどり、丁寧に絵解きした本書を読み終えて、彼も一個の「巨人」であったのだと、改めて驚かされた。子供のまま大人になった、という形容がしばしば使われるが、そういう人間は、いくらでもいるわけで、梶原の場合、並外れた体力と、欲望の強さ、文才などを兼ね備えた上での子供っぽさということで、それが、隆盛期にあたる漫画文化の世界で、思いのままに振舞える舞台を与えられたことで、あのような破天荒な生き方をすることになったのだろう。ともかくも、筆者は本書を単なる編年体にせず、トピックごとに大きな部立てにして、それぞれを丁寧に分析しながら、主だった出来事を遺漏無く網羅しながら、インタビューや取材で知りえた意外な事実やエピソードを配して、全体が浮かび上がってくるような構成に仕立てている。梶原に肩入れしすぎることも無く、客観的に批判を加えながらも、底には、梶原の世界への愛着があるため、一方的非難にはなっていない。後期の荒乱ぶりも、梶原の自己責任とともに、他律的原因も挙げて、公平を期している。漫画の原作者という特殊なジャンルだけに、その相棒と言うべき、漫画家にもあたう限り直接取材して、彼らの生の声から梶原という個性を語らせるという方法も成功している。筆者のライターとしての力量が伺われるところでもある。しかし、本書を読み通して、Morris.は、梶原一騎という人は「かなわんなあ」という思いを新たにした。


群蝶の空】三咲光郎 ★★☆☆ 全く未知の作家だが、タイトルと京大俳句事件がらみらしいので借りてきた。ストーリーは日米開戦直前の関西を舞台に、新進女流俳人である海運会社専務夫人と関連会社の社員との、愛のもつれと逃避行ということになるのだろう。京都の喫茶店で西東三鬼なども出席する新興俳句の親交会があり、彼女はそこで俳誌を主宰することを勧められ、その気になっていく。夫はそれを知り、前から嫌っている新興俳句を、治安維持法を縦に、官憲の力を借りて糾弾しようと目論み、京大俳句の同人を逮捕させる。彼女はそんな夫に愛想を尽かし、家を出るものの、理解を示してくれた関連会社社員と、北陸まで逃げ、嵐の中、彼女一人が行方不明になってしまうという結末で、これまた尻切れとんぼになってしまっている。お目当ての俳句関連部分も、期待はずれだった。


新宿鮫 風化水脈】大沢在昌 ★★★☆ 99年7月から2000年8月まで毎日新聞夕刊に連載されたもの。Morris.は大沢の新宿鮫シリーズはほとんど読んでいるが、熱狂的なファンというわけではなく、図書館で見かければ借りると言った程度なので、本書も刊行後1年以上経っている。中国人と暴力団協同の高級車窃盗グループを追うなかで、40年前の殺人事件の屍蝋死体を発見、これが脇役と深い因縁のあるもので、事件が進むうちに過去の事件と現在の結びつきが顕になっていくと言う筋立て。例によって鮫島警部は、警察機構の矛盾と、職務遂行に悩みながらわが道をひたすら行くわけだが、若い恋人との間にちょっとした亀裂ができかけていたり、古いタイプの暴力団員への友情に似た感情、過去を持つ元警官への複雑な思いなど、エピソードの丁寧な描写は、読ませるものがある。ただ、本書では新宿の歴史や地勢についての描写がやや煩わしいくらいに書き込まれていて、ストーリーの進行を妨げているような感じも受ける。それでも、やっぱりこのシリーズは、Morris.にとって、得がたいエンターテインメントであるという定評を、本作も裏切らなかった。


みだら栄泉】皆川博子 ★★☆☆ 枕絵の異才として知られる浮世絵師、菊川(渓斎)栄泉を主人公にしたもので、なかなか目の出ない画家とその妹たち、三流の出版元、長二郎(後の為永春水)、北斎と娘のお栄、国貞、国直、国芳などが登場する、となると、Morris.の好きな江戸の大衆文化世界を垣間見るだけでも楽しめる作品だと期待したのだが、読後の感想はあまりかんばしいものではなかった。栄泉のキャラクターに馴染めなかったと言うことが大きい。皆川の江戸戯作の知識はなまなかではないし、時代色の描写も堂に入ってるのだが、物語を楽しもうとする側からすると、疲れてしまう。
栄泉といえば、Morris.は杉浦日向子の「百日紅」の善次郎を真っ先に思い出してしまう。ここでも若き日の栄泉(善次郎)は、売れない絵師として屈託のある生き方をさらしているのだが、杉浦の手によると、彼は悩みながらも陽性で、魅力的に描かれている。それに比して皆川は、栄泉を、女と絵のデーモンというか業に憑かれたおどろおどろしい性格に仕立て上げているわけで、実際がどちらに近かったか、全く別タイプかも分からないが、圧倒的に杉浦の方が感情移入できるし、読後感も爽やかだった。
「百日紅」が漫画アクションに連載されたのが83年11月から87年8月、本作の初出が小説新潮88年12月号だから、皆川が百日紅を読んだ後に本作を書いた可能性は充分にあると思うのだが、同一人物がこれだけ違うとなると作為すら感じられる、というのは深読みに過ぎるだろうか?


龍神町龍神十三番地】船戸与一 ★★★ 無防備の強姦殺人犯を射殺したことで、5年の刑期を終えた元刑事が、長崎県五島列島の辺鄙な町の町長となった同級生に招聘され、そこで、因習にまみれた複雑な連続殺人事件に巻き込まれ、長崎のはぐれ刑事や、若い新聞記者、過疎地教育に燃える女教師などと絡まりながら、腐敗しきった警察署長や政治家の陰謀を暴いていくというミステリーなのだろうが、ほとんど推理などの入る余地はなく、ひたすら事件が連続して、それに流されるように登場人物たちが動き回るというストーリーだが、例によってのご都合主義、あまりの偶然の連続などが鼻につく。大橋建設の公共工事で一時的に潤った田舎町のその後の荒廃や、不毛を描いているあたりは、手馴れたもので、説得力があるが、主人公が何度も絶体絶命になり、そのたびに偶然に助かったり、鋭敏な地元の子供に懐かれ、情報を得たり、船を操縦してもらったりというのはやりすぎだと思う。しかしついこの前読んだ「虹の谷の五月」よりは、面白く読み通した。


愚か者の楽園】畑中純 ★★★☆ 「小説新潮」96年2月から2000年3月号まで50回にわたって連載されたもので、連載中は図書館でよく立ち読みしたものだ。北九州のマンマロ温泉に落ちてきた人生落伍のダメ五十男が、はずみで宿に住み込むことになり、宿のおかみや村の人々との暮らしの中で、土地に溶け込んでいくという、ユートピア物語だが、畑中のことだから、当然向日的な性のユートピアであることは言うまでもないし、地べたからの理想社会論、人生論、文学論ありで、なかなか楽しめる一冊だった。「まんだら屋の良太」に比べると、主人公が中年の分だけ、パワーダウンかもしれないが、その分ペーソスにあふれている。木版の表紙絵が少ないのもちょっと物足りなかったが、明るくスケベーな漫画を描かせたら彼の右に出るものはいないだろう。
後書きではちょっとシリアス現代のおじさん像を書いている。

"もはや戦後ではない"とスタートを切り、みんなで豊かになろう、とビシバシと身体にムチ打ちながら経済成長を突き進み、一時かりそめの繁栄と自由に酔っぱらって浮かれていましたが、ふと気がつけば行き道も帰り道も分からない寒風ふきすさぶ荒野の旅人だったという訳です。
修身は自分らで足蹴にしてきた。平等の名の下に師も年長者も対等に扱い、結果自分の子の世代からぞんざいに扱われるようになった。自由を掲げてわがままを通してきた。繁栄の前に道徳は無力だった。不況下でもまたしかり。人格美学は将来の可能性を願う貧困の上にしか成立しないのか。グズグズ考えながら歩いていると若い衆に殴られる。酒場で愚痴ても誰も聞かない。たっぷりヤケ酒を呑めるほど懐は暖かくない。
父権の不在だと。今さら何をいう。戦後五十余年みっちりと時間をかけて"父"や"男"を踏みにじってきたではないか。怒り方もとっくに忘れたよ。それより再就職はどうする。ローンはどうなっている。ああ、全部捨てて静かな世界に行きたい。といっても自殺するには気力も体力も要るぞ。一杯呑んで寝るに限る。せめてパラダイスでも夢見て。

荒れた野もいつか花実よ桃の園


虹の谷の五月】船戸与一 ★★★ フィリピン、セブ島を舞台に、ジャピーノ(日比混血)の少年と元ゲリラの交わりを軸に、貧困地区の惨めな暮らし、腐敗した警察と政治家、誘拐事件、プロのスナイパーなどが絡み合う、船戸お得意の辺境戦闘もの。98,99,2000年と年を追って3章に分けられている。ほぼ同時代のフィリピンの一現状を伝えてもいるわけだが、平和ボケしたMorris.には、なかなか実感できにくい話でもある。少年は元反日活動家でもあった祖父と暮らしていて、近辺に雨期になると円形の虹がかかる谷があり、そこに元ゲリラが潜んでいて、戦闘の大部分もここで行われ、最後には少年と愛する娘がここで結ばれるるのだが、どうも、この谷の象徴性がぼやけている。少年と祖父が飼う軍鶏と、街での闘鶏の場面などはリアルでいいのだが、登場人物が多い割に尻すぼみだったりで、全体に散漫になってしまっている。「砂のクロニクル」「蝦夷地別件」といった傑作を産んだ作者だけについつい多くを望んでしまう。


鬼譚草子】夢枕獏+天野喜孝 ★★☆☆☆ 平安時代の妖異譚をアレンジした3つの中、短編からなる。夢枕獏の作品は、面白そうだが、どうも肌に合わない気がしてこれまであまり読まずにいた。本書は天野のイラストが良さそうなので借りてきた。ファイナル・ファンタジーで名をあげたイラストレーターで、これも、Morris.の好みとは違うのだが、本書のえらく現代風な平安女性?のイラストはなかなかよろしい。もともと作者の二人が、平安時代の鬼と女をテーマにして、Hなものをやろうという思いつきから実現したものらしいが、内容は決していやらしくはないし、いっそ端整で擬古文めいた文体も(活字も平体かけた新聞活字風)悪くない。おしまいの「篁物語」は、言葉遊びの名人でもある小野篁が主人公なので、期待したが、漢詩の引用や、解釈が主で期待はずれだった。カラーと、白黒それぞれ30点ずつのイラストが配されていて、そのうちのいくらかは、独立して鑑賞できるくらいの出来だと思う。もともとがアニメ系の人だけに、女性の顔がモロアニメ顔、漫画顔になったりするが、色遣いのセンスは流石だし、身体や、髪の繊細な線の美しさもなかなかである。Morris.は、一種の絵本としてこれを評価したい。


トン考--ヒトとブタをめぐる愛憎の文化史】とんじ+けんじ ★★★★ ブタをネタにして、薀蓄と博学をひけらかした最近流行りの面白本の類だろうと思っていたのだが、なんの、なんの、これは、ひさびさのヒットだった。共著者である二人は、かたやイラク・エジプト大使を歴任した元外交官、かたや農業に詳しい化学技術者で、本書の構想は20年前に始まるというから、半端ではない。そうして出来上がった本書には30ページにわたる、カラー図版、ブタと人間との関係史、イスラム教などのブタ忌避タブーの源泉と経緯、ブタ博物誌、ブタの有用性、ブタマニア紹介など、多岐にわたり、しかもブタへの愛を基調とする、熱意にあふれる一冊となっている。時間をかけただけあって、精緻な数値資料あり、関連図版あり、逸話も山ほどあり、軽妙なユーモアと辛口のエコロジー批評ありで、よくもまあこんなコンパクトな本にこれだけ詰め込めたもんだと感嘆してしまう。

日本では男神で表されることが多いが、摩利支天のルーツはインドでは太陽や月の象徴である女神・マリーチである。マリーチとは、パーリ語で「陽炎」を意味する。自らの姿を隠して利益を施す神で、信仰する者の旅の安全を守ったり、発財にご利益があるとされている。マリーチは中国にも伝わり、道祖神の女神、斗母元君、即ち北斗七星の母となる。唐の玄宗朝の一行上人の奇瑞譚として、七匹のブタを甕に封じ込めるとそれが北斗七星であった、というおが『西遊記動物園』(實吉達郎)にも出ている。

日本の食料自給率の低さ、それも年々低下している。いま、なにかと飽食、捨てても平気の風潮が現実にこの低自給率の中で拡がっている。
ところがこうした食糧の何と30%以上はポイ捨て、つまり食べずに捨ててしまっているのである。
まだある。外食、食品工場から出る食べ残しや調理くずは全国で年間2000万トン、これは国内で生産する食料の30%に匹敵、この大半が高価なエネルギーを使って焼却されている。このおなじ地球上に飢えに苦しむ人が多数いるなかで、この飽食そして捨てっぷりは、驕りと言うにしても凄まじく空恐ろしくなる。現実に食物を無駄にしている人が述べる主張や論理の、何が「地球にやさしい」だと、言いたくなる。
この残飯、生ゴミは処理のしかた一つでブタの餌となる。となれば、まさにブタは今すぐ、食を節約、無駄なく活かすことの苦手な日本にとって、その恥部を覆い、食を有効利用させてくれるホープになるとも言うべきであろう。少なくとも他の動物でこれくらい役立つ家畜はいないと言ってもよいであろう。


血族 アジア・マフィアの義と絆】宮崎学 ★★★ あの宮崎学が小説書くのかと驚いたが、どうもいつもの宮崎らしくない。客家に生まれた中国人が、第二次大戦ではイギリス軍に、戦後は国民党の分派として中国・東南アジアで、戦闘を繰り返すうちに、「将軍」と呼ばれる、国家の裏面史を縦横無尽にあやつり、非合法すれすれの活動を通じて、国際的な陰の大物になるまでを描く、波乱万丈のピカレスクドラマ、にするつもりだったらしいのだが、変に昔の熱血小説風だったり、エピソードがブツ切れだったり、繰返しだったり、尻切れとんぼだったりのうえ、途中に延々と内戦や、国際紛争の事情の説明があったりするので、読みにくいったらありゃしない。将軍の殺し屋となって、漫画みたいな超活躍する日本人がプロローグから登場して、サブストーリーにもなっているのだが、これは別の本にするか、もっと省略すべきだったろう。小説としては、構成も何もあったものでないし、文体もころころ変わるし、先に書いたとおり、宮崎らしからぬところがあるから、たぶんゴーストライターというか、本文にも出てくるジャーナリストのモデルあたりが、大部分を書いたのではないかと想像される。誰が書こうと、面白ければそれでいいんだけどね。とりあえず、本書の取り得は、中国、東南アジアの、紛争の現代史を裏面から解説してくれてるということだろう。巻頭見開きの登場人物関係図には、孫文、毛沢東、トウ小平、蒋介石から、アウンサン、フラミャイン(ビルマ)、ポルポト(カンボジア)、南機関まで出てくる賑やかさだし、冷戦時の、CIAの東南アジア介入の方法や、ベトナム戦争の絵解きなどは、たしかに分かりやすくて興味深かった。


すべて君に宛てた手紙】長田弘 ★★☆☆ 「世界は一冊の本」の詩人、長田弘の新詩集かと勇んで借りてきたのだが、39通の手紙の形を借りたコラム風のエッセイ集だった。ちょっとがっかり。もちろん、詩や絵本や音楽、言葉の問題などなどに関する、それなりにいい話も書いてあるんだけどね。
手紙23は「のこしたい10冊の絵本」というタイトルで、もちろん10冊の絵本の名が挙げられているのだが、Morris.の好きなあるいは記憶に残っているのは、1から6までで、7から10は記憶に無い。最初にこれだけはという5冊を、とあるから、まあ有名なものが前に来ているのだろう。で、長田弘の「残したい」絵本ベスト10は

1。「ちいさいおうち」ヴァージニア・リー・バートン
2。「100万匹のねこ」ワンダ・ガアグ
3。「もりのなか」マリー・ホール・エッツ
4。「あおくんときいろちゃん」レオ・レオーニ
5。「かいじゅうたちのいるところ」モーリス・センダック
6。「こねこのぴっち」ハンス・フィッシャー
7。「時計つくりのジョニー」エドワード・アーディゾーニ
8。「ありがたいこってす!」マーゴット・ツェマック
9。「ことば」アン・・ランド&ポール・ランド
10。「きりたおされたき」武井武雄

日本のものが一つしか入ってないのがちょっと気になるところだが、Morris.も真似して10冊挙げてみよう。Morris.の場合「残したい」とかでなく、とりあえず好きな絵本。本当は10冊なんて絶対無理な注文だけど、資料など見ないで、思いつくままに書き出すから、とんでもない抜けがあるかもしれない。

1。「ちびくろさんぼ」ヘレン・バーナマン、フランク・ドビアス絵
2。「花の好きな牛」(フェルディナンド)」
3。「森の絵本」安野光雅
4。「穴はほるとこ、おっこちるもの」モーリス・センダック
5。「しろいうさぎとくろいうさぎ」ガース・ウイリアムズ
6。「ことばあそびうた」谷川俊太郎、瀬川康男絵
7。「100万回生きた猫」佐野洋子
8。「眠りの国のリトル・ニモ」ウィンザー・マッケイ
9。「妖精の国」リチャード・ドイル
10。「ぼうぼうあたま(もじゃもじゃペーター)」H・ホフマン

ほら、ケート・グリーナウエイも、ベアトリクス・ポッターも、ディック・ブルーナも抜けてしまったじゃないか。グリーナウエイなんか、どれもこれも好きで、どれに決めていいかわからなくなってしまったのが敗因かも。1。の「ちびくろさんぼ」を除いて順不同である。(為念。)しかし「花の好きな牛」の作者は完全に失念している。Morris.は部屋に、友達の子供が来ると、手元にある絵本をすぐあげてしまうくせがあるので、きっとこの本もだれかの、娘が(^o^)持っているに違いない。

しかし、なんと言っても長田弘は、詩人だから、詩集を読みたい。彼はMorris.好みのなかなかいい詩をたくさん書いているのだが、就中「世界は一冊の本」は、最高に好きで、Morris.は頼まれもしないのに、韓国語に翻訳して、知り合いの韓国人に片端から送ったことがあるくらいだ。手紙9はこの詩にかんするものだった。

・風景を見るということは、風景をよむということ。そして、世界を見るということは、世界を読むということです。
・そんざいするものは、かならず自分の物語といえるものをもっています。その物語をじっと聴きとる。そしてわたし自身の言葉で書きとってゆく。
・「世界は一冊の本」というわたしの詩は、「本」という隠喩によって「読む」という人間の営みを主題として書かれたものでした。(『世界は一冊の本』所収、晶文社)
この詩を読むことで、あなたが、あなたの「世界」を、あなたの「本」として開いて、「読む」という好意の魅惑に囚われるようにと、わたしはこの詩の作者としてねがっています。

あーーあ。何て散文にするとさぶいんだろう。こんな御託を聞かないで、ストレートに作品に接して欲しいと、切にMorris.は願うものであります。
それから、本書の装丁に関して一言。おなじみ晶文社のハードカバーで、造本はしっかりしてるのに、カバーデザインのあまりのセンスの無さにはちょっと悲しくなってしまった。手紙だから切手を使うと言うのはわからないでもないけど、それにしてもねえ。


あなたに語る日本文学史 近世・近代篇】大岡信 ★★★★ 梁塵秘抄と閑吟集に付いて書いてあるので借りてきたのだが、期待以上に面白く、さらに後半の、連歌、俳句論は、俳人の俳句論とは一味違った面白い論で、さすが「折々の歌」の筆者だけのことはあると、改めて感心した。中でも子規から虚子に繋がる「写生」を噛み砕いて解説している部分は、これまで読んだ中で一番分かりやすく、納得できるものだった。

高浜虚子は、正岡子規から受け継いだ「写生」という概念を広げていって、写生主義、客観写生と言った。恐るべき魔力に富んだことばです。ほとんどのひとは、「写生」と言われるから馬鹿正直に写生してしまう。虚子はそういうことを言っていない。「写生はとても大事だ」と言っているけれど、「いちばん大事なことは五七五のことばだよ」と言っている。ほかの人は、見たものを一所懸命書けば写生になると思ってはいるけれど、そうではない。写生をするというのは、「私はこれを見たから写生になります」というのではない。「全部きちんと見ました」、その後で「こういうことばに表しました」というところで勝負が決まる。その勝負は、結局写生主義なんかではないわけです。自分のもののとらえ方、ものを見る目が決定的です。それはどこで表れてくるかというと、五七五のなかに入っていることばによって示されます。
けれど、ほとんどの俳人はそこに気がつかないというか、写生主義ということばで誤解してしまう。これは、現代の文章についてもまったく同じ観点で批評ができます。「私はこう思って書いたから、それでわかるだろう」というけれどそうではなくて、「私はこう思って書いた。その文章はこうだ。それを読んで読者がもう一回、私が感じたことをこの文章を読んで感じてくれるかどうか」というところまでいって、はじめて評価になる。ところが大抵の場合が、「私はこう思って、こう見て書いたのだから、それで分かるではないか」というふうに言う人が多いですね。批評というものはそれでは成り立たない。そこが大きな問題です。高浜虚子という人は、そういう巨大な問題を、俳句という器のなかできちんと押さえて、死ぬまで悠々とその道を突っ走った人です。

語りおろしの文体のため、冗長なところがあるのだが、たしかに目の前に大岡信がいて、その話を聞いているような気にさせられる。

じつは写生というのは、外にあるものをただたんに見て書くのではなく、それと自分はどうかかわったのか、ということが問題です。すなわち自分自身の生き方と一緒です。これをもう少し突っ込んで考えると、題詠というものがあります。俳句は季語があるから題詠ですが、歌にも題詠があります。--略--写実的にものを見ている人と、ぼうっと見ている人の違いが出てくる。だから題詠が写実の反対だというのは、とんでもない話です。題詠でちゃんとしたものができる人は、じつは写実している。ものを見ているから書けるのです。

子規、虚子の流れに対立するものとして、現在ほとんど文学史的に問題にされない、尾崎紅葉の句を挙げ、紅葉の句が言葉の錬金術であり、前衛俳句であったという指摘は実に面白い着眼点だと思う。

・その男恋はあらじ甘酒を飲むこと七椀
・蛙恨みを呑みて草むらに蛇の衣を裂く
・危き哉古き軒端に梯子かけて菖蒲葺く
・泡盛の瓶を鼓して涼床に人呼ばふ頻りなり
・途中の夕立面を洗うて三斗の俗塵落つ
・落第の秀才哀なり小夜すがら蛾を撲つ
・李を沈め瓜を浮べて腹下すなくんば幸い
                   尾崎紅葉

ひとりよがりの破調の句ばかりだが、大岡のいうように「へんてこりんな面白さ」がある。しかし、これでは、たしかに大衆化は望めそうもないし、早晩行き詰まるということも想像がつく。もっとも紅葉もこんな難解句ばかり作ったわけではない。巻末に別傾向の句が挙げられている。

・星既に秋の眼をひらきけり
・鶏の静に除夜を寝たりけり
・死なば秋露の干ぬ間ぞおもしろき(辞世)
                   尾崎紅葉

本書には姉妹篇「古代・中世篇」もあるらしい。今度見かけたらぜひ読んでみたい。


あの紫は】皆川博子 ★★★☆☆ 8篇の短編が収められている。「わらべ唄幻想」と副題にあるように、それぞれに日本の伝承童謡(近代のものも多少含む)が引用されて、それぞれが各編の核となっている。しかし、この8篇は実は一つの物語の変奏ともいえるし、「眠りは恩寵」という言葉が繰り返されることから、八つの夢の記録であるかもしれない。近親相姦、両性具有、祖母との交歓、捨て子伝説、時空を超える繋がりなどなど、言葉を羅列するとおぞましそうだが、筆者の練達のことばで語られると、聖俗混交の怪しくも美しい世界が現出する。ベルゴレージの「スタバト・マーテル」それも、CT(カウンター・テナー)盤とか、「神変麝香猫」「恋愛双曲線」「湖族の秋」などのマニアックな作品紹介、「聞香(もんこう)」の解説、手袋の歴史といった薀蓄など、筆者の博識と雰囲気の出し方はなかなかのものである。
墜落する飛行機内での因縁の男女が「時間」と「時」の違いを論じるやり取りも興味深かった。

「<時間>ていうと、水平か垂直か、とにかく動いているけれど、<時>っていうと」
彼が何気なく思いついたことを口にすると、
「あ」と、相手は嬉しそうに小さい声をあげた。
「そうなの。<時>と<時間>とは、ちがうって、わたしも思うの。すごくそう思っちゃうの」
「ちがうって、ぼくも今感じたんだけど、言葉でうまく言えないな」
「もしかしたらね、<時>は、刹那だし、永遠でもあるの。そうじゃない?」
「ああ、言葉で言えば、そういうことか」
「だからね、一瞬間が、実は、無限なの。始めも終わりもなくて、そうして、過去とか現在とか未来とかも、ないの。飛行機に乗っていると、ことに、そう感じる」
「自分の位置がわからなくなるからかな」
「この飛行機の外の空間にね、過去も現在も未来も、存在するの。永遠て、そういうことだと思う。過去の<時>は、過ぎちゃったことではなくて、今、ここに在るの。未来の<時>も、今、ここに在るの。飛行機の中は<刹那>なの。一瞬なの」

最初に伝承童謡と書いたが、参考文献に挙げられている、岩波文庫の「わらべうた」を参照したら、そのまま引用されてるものはほとんどなくて、一部を変更したり、全くの創作も多いようだ。そうだとしたら、筆者の詩的才能も相当のものということが出来る。
富山県の伝承童謡「花折りに」のオリジナルと、皆川アレンジ版を並べておく。

花折りに (手毬歌 富山県伝承)

吾等子供ども 花折りに行かんか
何花折りに 牡丹芍薬菊の花折りに
一本折っては 腰にさし
二本折っては 笠にさし
三本目に 日がくれて
あっちの小屋に 泊まろうか
こっちの小屋に 泊まろうか
あっちの小屋は 煤掃きで
こっちの小屋は 餅かちで
中の小屋に 泊まったら
筵はしこて 夜が長て
あした起きて そら見たら
足駄はいて 棒ついて
雛のような 姫たちが
参れ参れと おっしゃれど
肴がのうて 参られん
あなたの肴は 何肴
大鮒三つに 鯉三つ
ジョロジョロ川の 鮎三つ

花折りに 皆川博子版

花折りに 行かんか
何の花 折りに
彼岸花 折りに
一段のぼれば 父の墓
二段のぼれば 母の墓
三段四段は 血の涙
花折りに 行かんか
何の花 折りに
彼岸花 折りに
一本折っては 腰にさし
二本折っては 笠にさし
三本折目に 日がくれて
あっちの小屋に 泊まろうか
こっちの小屋に 泊まろうか
花折りに 行かんか
何の花 折りに
彼岸花 折りに


【ラングストン・ ヒューズ詩集】木島始訳 ★★★☆☆☆ 今日古本屋で買ったばかりで、もう感想書くというのも、実はこれ、Morris.の愛読書だったのだ。地震で処分したか散逸したかしたらしい。で、百円均一で出てたので買ってしまったというわけ。帰りの電車の中でさっと目を通した。流石に半分くらいは忘れていたが、好きな詩はまるごと覚えているものも多かった。ヒューズ(1902-67)は、アメリカの黒人詩人である。などと、説明の必要も無いかもしれない。それくらいに、ヒューズの名は市民権を得ていると思いたいのだが、どうだろう。ブルースを基調にした(実際にブルースの歌詞も多く手がけている)彼の作品は、分かりやすく、ユーモアがあって、切なくて、憂鬱で、優しくて、力強くて、美しい。

助言 advice

みんな、云っとくがな、
生まれるってな、つらいし
死ぬってな、みすぼらしいよ--
んだから、掴まえろよ
ちっとばかし 愛するってのを
その間にな。

自殺おぼえがき Suicide's Note

おだやかな
冷ややかな 河の顔が
わたしに 接吻を のぞんだんだ。

夢の番人 The Dreamer's Keeper

きみの夢を のこらず もってこい、
きみたち 夢みる人びとよ、
ぼくのところに のこらず もってこい
こころの 旋律を、
この世の 粗っぽすぎる
指に ひっかきむしられないように、
ぼくが 青い 雲の 布をきせて
そっと 包んでやることができるように。

そういえば、70年代の日本のフォークシンガーが、この木島始訳のヒューズの詩をギターの弾き語りで歌っていたのを思い出した。
「七十五セントのブルース」「ホームシック・ブルース」「短いおなじみの手紙」などなど。そういえば、あのころは、Morris.もブルースにしびれていた。一番すきなのはロバート・ジョンソンだったが、日本語のブルースといえば、やっぱり憂歌団が最高、最強だった。Morgan's Barの秋本節も、出会った頃は「秋本屋商店」というブルースバンドをやってた。先日、ヌーベル・ヌーベルというフリーコンサートで、スカンク・ウォーターというブルースバンドを見て久しぶりにブルースの素晴らしさを再認識させられてしまった。
ヒューズに限らず、黒人の身体の中にはブルースが染み込んでいるのだろう。
絶望と呻きの果てに生まれる不思議なユーモアがブルースの根っこにあって、ヒューズの詩にも、それが、顕著に現れていたりする。

愛についての嘆き Lament over Love

わたしの子どもは ぜったい もう
男なんて 愛さなきゃ いいと思うの、
ね、わたしの子どもは ぜったい もう
男なんて 愛さなきゃ いいと思うの。
愛するってことほど あんたを
傷だらけにできるものは ないんだもの。

河の方へ 降りてくるところよ
泳ぎにってんでは ないの、
河の方へ 降りてくの
泳ぎに ではないの。
本気で 惚れたひとが いなくなって
そのひとのこと 河で 考えてみたいんで。

愛って まるで ウィスキーみたい
愛って まるで 赤い 赤いブドウ酒みたい。
愛って まるで ウィスキーみたい
甘くて 赤いブドウ酒みたい。
幸せに なろうと 思うなら ね
しょっちゅう 愛してなきゃ ね。

わたしは 塔に 登ってくところ
木みたいに 高い 高い 塔。
塔に 登っていくところ
木みたいに 高い 高い 塔。
わたしの 彼氏のことを 考えに--
そいで わたしの阿呆らしさ 落っことしに。


猫城】南條竹則 ★★☆☆「酒仙」が気に入って、数冊読んだが、これはちょっとハズレという感じだった。著者の分身とおぼしき詩人が、九州大分(たぶん)の温泉町に逗留して、猫の一族の婚礼のための史料製作をやるはめになるという筋立てで、麦焼酎とカボスの晩酌の風景などは、個人的に懐かしさを覚えるのだが、ストーリーが散漫で、途中に猫の逸話が複数挿入されたりして、どうも退屈してしまった。


虚空の花】南條竹則 ★★★☆☆☆ 久しぶりに大阪府立中之島図書館に行き、何気なく手にとって、読み出してそのまま、読み通してしまった。いやあ、面白かった。リラダンの「未来のイブ」の新解釈を小説に仕立てたものだが、リラダンの紹介としても、小説としても成功していると思う。リラダンと「未来のイブ」にはかなり思い入れがあるため特にそう思うのかもしれないが、本書を読んで、Morris.の読解の余りの皮相でしかないことに思い当たった。赤面である。
コンピュータ時代のVR(ヴァーチャルリアリティ)と、「未来のイブ」をリンクさせるというのも上手いが、精神の高貴と卑賤、イデアと現実の対立、宿命としての悲劇----貸出できなかったので引用できないのが残念だが、特にラストの、上海版「未来のイブ」の挿絵のエピソードは秀逸、というか、無条件降伏するしかない。この漢籍趣味は、酒見賢一に通ずるものがあるかもしれない。


【日本 ウラ経済学】宮崎学 ★★★ 「突破者」が余りに面白かったので、それ以後の彼の本は、面白いことは面白いけど、やっぱり物足りない。アウトローの立場から、権力(政治家、官僚、財界、マスコミ、検察、警察)批判するのは、ずっと変わらないスタンスで、主張するところも明快で、一服の清涼剤みたいな本ではある。

「いっぺん血ぃ見るか、コラ」と脅す。「オイ、これどないしてくれんねん」とゴネる。「殺せるもんやったら殺してみい」と居直る。「脅す」「ゴネる」「居直る」はヤクザの三大行動バターンである。ヤクザはこの三つを時と場合に応じて使い分けて、カネを稼いだり借金を踏み倒す。ところが、これとまったく同じことをやっている国がある。「いうことを聞かんとミサイル打ち込むぞ」とイラクを脅す。「お前とこの国は人権を守りよらん」と中国にゴネる。「お前とこに返すカネなんぞない」と日本に居直る。いうまでもない、アメリカである。アメリカ経済の好景気は、すでに10年近く続いている。98年度には30年度ぶりという財政黒字を計上し、その額は1000億ドルを超える。しかし、その一方で3000億ドル近くもの貿易赤字を膨らましているのだから、アメリカも相当なタマだ。何のことはない、周りの国から借金しまくって、自分の国だけ贅沢三昧しているだけの話である。

ざっとこんな調子である。「グリコ・森永事件」のキツネ目の男に擬せられた過去を逆手にとって、電脳キツネ目組を名乗ってインターネットのホームページでの活動もなかなかの盛り上がりを見せていて、一時期(グリコの時効前後)はMorris.もシンパといった感じで、時々巡回していたが、このところ久しく覗いていない。


空山】帚木逢生 ★★★☆ 環境問題というか、ゴミ処理を主題にした小説らしいということで借りてきたのだが、「空夜」という前作の続編らしいことがわかり、以前読んでうんざりしてたことが思い出され、読もうか読むまいか迷ったのだが、結果としては一息に読み通してしまった。
九州の山あいに建設中の大規模なゴミ処理場を巡って、近隣の村や市の村長や市会議員が、環境問題に目覚めていくという、社会正義派的啓蒙小説なのだが、Morris.自身がやはり、ゴミ問題には無知なだけに、色々と蒙を開かれるという意味で、有用な読書ではあった。いちおう中年女性二人を主人公とするラブストーリーなのだが、こちらの方は、ちょっとMorris.の好みには合わず、さらに村や町おこし運動、伝統の継承や自然保護などあまりに図式的な地方政治のご都合主義的展開には鼻白む部分も多く、Morris.の星印はほとんどゴミ処理の実態や行政の杜撰さなどに関する啓蒙書への評点である。

「こういう事態になるのは、もう十年前に分かっていたはずなんです。それを政府は何にも手を打ってこなかった。焼却炉から出るダイオキシンが問題にされたのも、ここ四、五年のことでしょう。それまで国民には何ひとつ情報を与えなかった。諸外国ではとうの昔に対策が始まっていたというのにです。
要するに、政治家が動かなかったのです。ごみの焼却場や処分場を作る話を持ち出しても、地元の住民には嫌われる。それよりも、産廃業者や排出大企業から献金を受け取って、手心を加え、何も打開策を打ち出さないのが一番の得策だったのです。新聞も、なかなかそこをつかなかった。自分たちも毎日毎日何千万部という紙屑を出していますからね。最近になってようやく、自分ところの新聞紙は回収するようになりましたな。それで少しはごみ問題の記事が増えました。しかしもうあとの祭ですよ。
こうして見ていると、銀行の不良債権の処理と同じやり方を目論んでいるのではないかと勘繰りたくなります。銀行がつぶれたら日本も沈没してしまうと危機感をあおりたて、問答無用で何兆円もの税金を救済のためにつぎ込んだでしょう。他に選択肢がないというので誰も異を唱えられない。そうした最悪の事態まで至らしめた責任者は誰ひとり明らかにならない。今回のごみ問題も同じような気がします。ともかく捨て場を作らないことには、日本全体がにっちもさっちもいかなくなる。問答無用で、どこかに強制的に処分場を作るという策です。国が自分で作らなくても、民間の業者に補助金を出してどんどん作らせる。背に腹は替えられぬから、あまり厳しい基準を押しつけることはしない。目こぼしをして、何よりも作らせるのが優先です。多少作りが悪かろうが、産廃を裸で捨てられるよりはましだというわけです。」副島は一気にしゃべり終え、湯呑み口に持っていく。
「そうなると、天に向かって唾を吐くようなもので、いずれは自分に災いが降りかかってくるでしょうがね。」仁郎が苦々しい顔で応じた。
「自分への災いというより、あとの世代に降りかかる災いでしょうな。つい最近、政府は原子力発電所から出る放射性廃棄物の最終処分場作りには何十兆円かかると言い出しました。地下数キロの穴に貯蔵するのですからそのくらいの金はかかるでしょう。費用は電力料金にはね返ります。初めはそんなこと言いませんでしたよ。ずっと口をつぐんでいて、どうにもならなくなって公表する。全くの泥縄式政治です。」

村の診療所の医師が、公聴会で説明する極悪ごみの分析と対策も、実に分かり安く説得力がある。
まずごみを昔ながらの自然循環するごみと、現代で問題とされる極悪ごみとに分けたうえで

極悪ごみの五大別
1。重金属。水銀、カドミウム、亜鉛などで、使用後は回収して厳重に封じ込めない限り、周辺に害毒を及ぼしつづける
2。有機塩素化合物。ダイオキシン、DDT、PCB、フロンその他の有機溶剤。ほとんどが分解不能で、環境中に蓄積していく
3。アスベスト。せ印異が水道水に溶け出して発癌剤となる
4。放射性廃棄物。プルトニウム、
5。兵器。地雷、毒ガス

ごみに対する五対策
1。焼却主義の見直し。焼却炉で安全に処分するためには燃やすものの厳選が必須
2。有害物生産に対する漢詩と規制の強化
3。製品の生産者が、ごみとなった後の始末まで責任を負う。
4。リサイクル促進。デポジット制、過剰包装廃止
5。ごみ処理に関する情報公開、行政の政策決定に対する住民参加

小説では10ページにわたって開陳されているのを無理に箇条書きにしたので説明不足は否めないが、アウトラインはわかるだろう。
しかし、環境問題にしろ、ごみ処理にしろ、こういうことは知識として頭で理解しただけでは意味が無いことは言うまでもない。以前からこういった問題に積極的にかかわっている、信長さんや稲田さんからは、何を今さらと思われるだろうが、自分が無知であることを知ることができたということは、全くの無駄ではないと思う。


放送禁止歌】森達也 ★★★★ 99年5月23日午前4時15分からフジTVで放映された「放送禁止歌--歌っているのは誰?規制するのは誰?」という番組を制作した著者が、放映後番組の取材、インタビュー、資料、その後の調査などを再編成して一冊にまとめたもので、4章に分かれていて、1章で番組の紹介と推移、2章は放送禁止歌の歴史的背景、3章は日米の放送規制の違いをデ-ブ・スペクターと対談、4章は「竹田の子守唄」のルーツを探りながら部落差別と放送禁止歌との関係を描いている。
まずびっくりしたのは「放送禁止歌」という言葉はあくまで通称であるということ。1959年に民放連が「要注意歌謡曲指定制度」をスタートさせ、これに指定された「要注意歌謡曲」が放送禁止歌なのかと思ったのだが、こちらはあくまでガイドラインで、強制力は無く、自主規制の色が強かったようだ。しかも83年以降指定された曲は無く、制度としては存在しないということになる。それにもかかわらず、放送されない歌というものは何曲もあり、これは「風俗紊乱、猥褻、差別、悪影響を与える」などの理由で、自主規制しているわけなのだった。
1971年「放送禁止歌」というタイトルを歌った山平和彦は「実際に放送禁止になるなんて、全く予想していませんでした」と語っているが、予想に反して放送禁止になった。一番の歌詞(白井道夫作詞)を引用する。

世界平和 支離滅裂
人命尊重 有名無実
定年退職 茫然自失
職業軍人 時節到来
皇室批判 人畜無害
被害妄想 言論統制
七転八倒 人生流転
七転八起 厚顔無恥
放送禁止 自主規制
奇妙奇天烈 摩訶不思議

たしかにこれだけで放送禁止になるのは解せないのだが、タイトルに、放送局のエライさんが、カチンときたのかもしれない。しかし歌詞の中に「放送禁止 自主規制」とあるのは、当時から放送禁止の本質は明らかだったということにもなるだろう。
放送禁止歌は放送局側の、保身、臭いものに蓋、さわらぬ神にたたりなし、といった体質の産物であり、しかもそれが、「過剰防衛」だったことがよくわかる。
それを端的に物語るのが次の二つの笑い話みたいなエピソードだろう。
1。あるTV番組で、5,4,3,と指を折ってキューを出す映像の、4本指になったとき、指の部分にモザイクがかけられたという。
2、ブラック・サバスというグループの人気が上がっても、彼らの曲の放送を自粛する局があった。理由は「部落差別」ときこえるからだったらしい。
2番目なんか全く「部落冗句=black joke」である。

それにしても件のTV番組は見たかったなあ。


鳥類学者のファンタジア】奥泉光 ★★★★ 30代の女性ジャズピアニストが、祖母に導かれるように時空を超えて、第二次大戦末期のドイツで心霊音楽協会の儀式に巻き込まれるという、一見SF風なストーリーだが、タイトルにもあるとおりファンタジーの色が濃い。大部分が主人公の分身が物語を観察して報告するスタイル、つまりその年頃の女性らしい文体で書かれている。「「吾輩は猫である」殺人事件における、擬古文というか漱石の文体模写の手腕に脱帽したものだが、今回の文体も入魂の出来??で、それだけで読み応えありだった。漫画のタイトルや、音楽家の名前が頻出するし、いかにもその年頃の女性らしい表現を散りばめてあるところなどは、金井美恵子の「恋愛太平記」に繋がる一連の作品を連想させる。積極的で行動的な若い女友達、怪しい天文学者(実はケプラー)、猫のような女性ライター、俗物の権化で憎めない声楽家(実力皆無)など、脇役にも魅力的なキャラクタを配しているし、テンポも悪くない。音楽で律されている宇宙というアイデアはそう珍しいものではないが、自分でも楽器をやってるだけに楽曲の解釈や「宇宙オルガン」のディテールの説明なども説得力があるし、音楽の本願を真善美の「善」への奉仕だとする考え方なども面白かった。

つまり、ジャズとは、わたしにとって「いいもの」なのであって、その「よさ」はどこか倫理的なものに関わっている気がする。ソロの場合はまた話が違ってしまうのだけれど、何人かでセッションする現場というのは、それぞれのプレイヤーが他人の音に耳を澄ませつつ、互いの音でもって互いを活気づけ勇気づけていくわけで、きわめて対話的であり、対話的であること自体が創造的であるような過程である。個々のプレイヤーは「真」にも「美」にも奉仕するわけでなく、ただひたすら対話をすることで「いいもの」を生み出そうとしているとしたら、これはつまり「善」に奉仕していると考えていいのではないか。

ファンタジー仕立てだからこそ、骨格はしっかりしている必要があり、本書はそれもクリアーしている。時空の超越に、フィポナッチ音律(オルフェウスの音階)と、光る猫(「猫殺人事件」でおなじみ)が使われるあたりは、奥泉のファンサービスなのだろう。サービスといえば、おしまいにオプションとして付け足された、ニューヨーク、ミントンズ・プレイハウスでのジャズの巨人たちとのセッションもそうだが、これはちょっとサービス過剰だったかもしれない。(Morris.は大喜びしたけど)
女性を主人公なのにしきりに尿意を催しては便所のことを気にかけたり、用便のシーンが出てくるあたりや、登場人物の容姿は読者の想像にまかせるといったところも既成の小説へのアンチテーゼといえなくも無い。

人生を旅にたとえるのは昔からよくあるが、よく考えてみると、人生というのは別に本人がはじめたくてはじめるわけではない。人は誰も「ふと気がついたら」この世界にいて、ものごころついた頃には、もう後戻りはきかず、人生についてちゃんと考えなくちゃいかんよ、などとオトナに諭されて、仕方なく人生を考えたりする。その意味では、人生は「旅」というより、やはり「漂流」や「遭難」に区分できるのではないか。だから、人は、生活のなかで抱えるさまざまな悩みや不安とは別に、「自分がそこにいること自体についての不安感」を持つので、ひょっとしたら、こういうのをジツゾン的不安というのかもしれない。

こういったさりげない省察にも共感を覚える。
99年に「グランド・ミステリー」読んで以来の新作だけにMorris.の期待の大きさはわかろうというもので、その期待にちゃんと応えてくれるのだから立派なものである。

この世界には廃墟じゃない場所はどこにもなく、生きている人間も、死んだ人間も誰もが廃墟を旅している。旅人は疲れ切って柱の陰に座り込み、ふと耳にした音楽に慰められる。癒される。ジャズとは、きっと、そんな音楽だ。

ジャズとはそんな音楽ではない、とMorris.は思うのだが、主人公がこう思って自分のジャズを再会するのなら反論はしないでおこう。


花迷宮】久世光彦 ★★★ 月刊「太陽」に連載された13篇に、2篇を追加した、読書と愛唱歌をネタにした回想エッセイだ。先般読んだ「マイラストソング」の原型みたいなもので、平成元年から2年にかけてのものだけに、元号と天皇に関する記述がそこかしこに見え隠れする。金木犀の窓近くに掲げてあった御真影の記憶から天皇崇拝、というより天皇親愛の情が吐露されているのだが、何か含むところがあるようで何となく気に入らない。戦中の少女小説や、乱歩、歌謡曲、漱石、間諜映画、伝承歌、宝塚など、ノスタルジーを掻き立てる主題には興味をそそられるし、事実それぞれ楽しめるのだが、この人の体臭というか、回想のスタイルにはどうにも馴染みにくいものがある。隔靴掻痒ということばがぴったりの、違和感は、ひょっとするとMorris.の親近憎悪なのかもしれない。幼少期の耽奇、猟奇趣味も、少女趣味も共通しているのだが、オブラートに包んで開陳されているようで辟易してしまう。
しつこいほどに繰り返される金木犀の追憶で、昔の金木犀は現在のものより香りも色もはかなかったような気がするとあったが、もしかして、それは銀木犀だったのではないだろうか? Morris.は、昔から銀木犀贔屓である。九州の生家の庭には2本の銀木犀があり、よく木登り木をしていた。花の季節になるとかすかに黄色みを帯びた小さな花とその香りにつつまれて、いい気持ちになったことを思い出す。関西に来てからは、強烈な香りの金木犀ばかりで、銀木犀にはめったにお目にかかれない。そういえば矢代まさ子の 「ノアを探して」 に収められた佳作「セント・レニの街」は「ぎんもくせいのような花のかおりがただよう街」だったな、などと、さまざまに思い出話を誘い出すくらいの喚起力をこの本は有しているらしい。
「聖 しーちゃん」という毛色の変わったエッセイの中で「兄妹心中」の歌のヴァリエーションを多数引用してあるのは面白かった。Morris.も以前この歌の別ヴァージョンを聞いたか読んだかしたことはあるが、近親相姦という主題はギリシア悲劇の時代からあり、タブーでありながら特別視されたりもしてきたようだが、日本ではとんでもなく陰鬱で土俗的なものに変身する。

浪華町なら大阪町よ 大阪町なら兄妹心中
兄は十郎で妹はお菊 お菊十八兄さははたち

兄の十郎が妹に惚れて いとし恋しの病の床に
ある日お菊が見舞いに見えて これさ兄上病はいかに

わしの病はわけある病 医者もいらねば薬もいらぬ
せめてお前のお腹の上に 乗れば病はぴたりと治る

お菊兄さのためだとあらば 肌身合わすも死もいとやせぬ
お菊痛かろ兄さはよかろ お菊泣くなら兄さも涙

兄と妹じゃ夫婦になれぬ 世間悪いか二人の罪か
雪の降り積む浪華の町に 紅が散る散る兄妹心中

ポーの「アッシャー家の崩壊」が、アメリカ版兄妹心中の物語だという指摘は的を射ていると思う。


ボードレール詩集】福永武彦訳 ★★★★ 今さらボードレールを読んだというのも気恥ずかしいが、昭和42,3年発行の河出書房「ポケット版世界の詩人」12巻は、実に安手な装丁のペーパーバックで、表紙には泰西名画、巻頭には絵葉書めいたカラー写真数ページをあしらい、巻末には子供向けみたいな解説がついているという、Morris.のイメージする詩集とは、対極に位置する悪趣味なシリーズなのだが、現在でもMorris.はその中の4冊を持っている。シリーズのラインアップは

1。ゲーテ詩集 手塚富雄訳
2。ハイネ詩集 高安国世訳
3。ホイットマン詩集 木島始訳
4。ボードレール詩集 福永武彦訳
5。ヴェルレーヌ詩集 橋本一明訳
6。ランボー詩集 清岡卓行訳
7。ジャム詩集 大岡信訳
8。リルケ詩集 生野幸吉訳
9。ヘッセ詩集 高橋健二訳
10。ロレンス詩集 松田幸雄訳
11。プレヴェール詩集 小笠原豊樹
12。愛の詩集 谷川俊太郎編

で、Morris.の持ってるのは、4,6,11,12巻だ。定評のある訳者も混じっているが、概ね斬新な訳者という印象が強い。おしまいの「愛の詩集」はアンソロジーで訳者もさまざまである。小笠原訳のプレヴェール詩集なんかは、長いことこのシリーズしかなかったので、Morris.は数冊買って友人に配った記憶がある。定価260円というのが、時代を感じさせる。
さて、ボードレールだが、Morris.はフランス語などまるで歯がたたないから、全面的に訳者に寄りかかるしかないのだが、「悪の花」は村上菊一郎訳、散文詩「巴里の憂愁」は福永武彦訳の文庫本を愛読して来た。本書でも「悪の花」の福永訳にはどうしても馴染めなかった。それでもこの本を手放せないのは、ところどころに散りばめられている宇野亜喜良の挿絵30数点が素晴らしいからだ。ロットリングみたいな細い線描で、デフォルメされた繊細でエロティックな女体のカットが中心で、ロールシャッハテストみたいな淡彩のインクの染み模様が添えられていたりする。そういえば1960年代の天井桟敷のポスターや寺山修司の本にも宇野亜喜良はよく起用されていた。何よりも時代を彷彿させる絵柄だ。

人と海と ボードレール 福永武彦訳

自由人よ、君は常に海を愛するだろう! 宇野亜喜良のカット
海は君の鏡、波の無限に揺れやまない
繰返しに、君は自分の魂を映すだろう、
そして君の精神も、そのにがさは深淵に劣ることはない

君は自分の面影に進んで身を沈めよう、
君はこの面影を瞳に腕に抱きしめる、そして胸に
苦しげに燃え上がる想いさえ、ふと紛れよう、
野獣のように人馴れぬ波の哀歌に。

暗い心の持主で、君等の口は共にかたい。
人よ、誰が君の深淵の奥底までを測っただろう、
海よ、君のひそかに隠す財宝を知る者はない。
それほど一途に、君等は自分の秘密を守るだろう!

しかも君等は悔も感じず、憐れみもなく、
力の限り闘い合った、劫初の遠い昔から、
死と殺戮とにそれほど君等の血は乾く、
おお永遠の闘争者、憎しみとけぬこの同胞(はらから)!

この詩などは、Morris.の愛唱詩の一つだった。人工の美を称揚したとされるボードレールなのに、自然への渇望を歌ったものも多い。本書を買った当時、ボードレールは高踏的で、大人になるまで理解が及びがたい産物のように思っていたが、今こうやって読み直してみると、やはりこれは、青春時代にこそふさわしい詩ではないかと思える。
ボードレールが「悪の花」を出したのは36歳の時で、それから10年後の1867年8月31日46歳で亡くなっている。19世紀はまだ「人生五十年」の時代だったようだ。


銀河がこのようにあるために】清水義範 ★★★ 2099年宇宙に大異変が起こりそうになる。自我のない子供が100人以上生まれて彼らが新しい人類の進歩形態かも知れないとか、人類の進歩はすべて遺伝子が見せかけた幻想ではないかとか、時間軸こそ錯覚の根本だとか、多重人格者の変身ぶり、世紀末終末思想の破壊的新興宗教団の暗躍あり、力学に反する巨大惑星の出現など、これでもか、と畳みかけるSF的ストーリーなのだが、これはSFマガジンに連載されたものだからそれも当然かもしれない。Morris.はSFといえば、アシモフ、クラーク、ブラッドベリ、スタージョンの世代で、当時はSFマガジンには熱中していた。最近はすっかりSF離れしてしまった感があるが、それでもこの雑誌には専門誌として一定の敬意を持ちつづけていた。だから、清水がこの雑誌に連載したということだけでちょっと驚いてしまった。清水の器用さと、パロディの才能は認めているし、本書もそれなりにSFらしくまとめられている、いや、SFそのものと言っても別条ないだろう。それでも何となく違和感を覚えるのは、Morris.の偏見かもしれないのだが、清水の「お勉強」の成果が見え透いてしまうからだろう。いちおう小説としては面白く読み通せたのだし、ドラマあり、オチあり、だから文句はないのだけど---


椿の花に宇宙を見る】寺田寅彦 池内了編 ★★★☆☆ 岩波文庫の寺田寅彦随筆集六巻はMorris.も以前古本屋で購って、時々つまみ読みしたものだ。本書は、編者が宇宙物理学者だけに、その中から科学の方法や考え方が読み取れる傾向のものを選んだものだ。
日常現象の観察から科学の本質に迫るもの、畑違いと思われる草花,昆虫、人間の性向を物理的に捉える可能性を暗示したもの、専門の地球物理学関連のものなど、30数編が収められていて、どれもこれも読み応えがある。しかし、寺田にとっては、何でもが科学になるところがすごい。科学になりながら文学にもなってるというのがさらにすごい。池内の言うように「明治の人間らしく凝縮された時間を密度高く生きた」のにちがいない。平易な説明なのに、半世紀以上前に現代の問題を先取りした点も数多く見られるし、彼の提示した中から発展した研究も多い。そして、物理的事象から人間一般に敷衍しての感想めいたものが、寺田節とでもいうべき味があって、いいなあ。

西洋の学者の掘り散らした跡へ、はるばる遅ればせに鉱石のかけらを捜しに行くもいいが、我々の足元に埋もれている宝をも忘れてはならないと思う。しかし、それを掘り出すには、人から笑われ、狂人扱いにされることを覚悟するだけの勇気が入り用である。(線香花火)

それにしても、この面白い金米糖が千島アイヌか何ぞのように亡びていくのは惜しい。天然物保存に骨を折る人達は、ついでにこういうものの保存もかんがえてもらいたいものである。(金米糖)

鼻は口の上に建てられた門衛小屋のようなものである。生命の親の大事な消化器の中へ侵入しようとするものをいちいち戸口で点検し、そうして少しでも胡散臭いものは、そくざに嗅ぎつけて拒絶するのである。(匂いの追憶)

蝿が黴菌を撒き散らす。そうして我々は、知らずに年中少しずつそれらの黴菌を吸い込み呑み込んでいるために、自然にそれらに対する抵抗力を我々の体中に養成しているのかもしれない。そのおかげで、何かの機会に蝿以外の媒介によって多量の黴菌を取り込んだときでも、それに堪えられるだけの資格がそなわっているのかもしれない。換言すれば、蝿は我々の五体をワクチン製造所として奉職する技師技手の亜類であるかもしれないのである。
あえて蝿に限らず、動植鉱物に限らず、人間の社会に存するあらゆる思想風俗習慣についても、やはり同じようなことが言われはしないか。(蝿の効用)

これは全くよけいなことであるが、「人間」の人間である所以も、やはりその人間と外界との「境界面」によって決定されるのではないか。境界面を示さない人間は不可視人間であり、それは結局、非人間であり無人間であるとも言われるかもしれない。善人、悪人などというものはなっくて、他に対して善をする人と悪をする人だけが存在するのかもしれない。同じように、「何もしないがえらい人」」とか、「作品はあまりないが大文豪」とか、「研究は発表しないがえらい科学者」とかいうものも、やはり一種の透明不可視人間かもしれないのである。(透明人間)

自分は高等学校の時、先生から大変にいいことを教わった。それは、太陽や月の直径が約半度であること、それから腕をいっぱいに前方へ伸ばして指を直角に曲げ視線に垂直にすると、指一本の幅が視覚にして約二度であるということであった。---樹を見ることを教えて森を見ることは教えない今の学校教育では、こんな「概略な見当」を正しくつけるようなことは、どこでも教えないらしい。高価な精密な器械がなければ一尺と百尺との区別さえもわからないかのように思い込ませるのが、今の教育の方針ではないかと思われることもある。これも考えものである。(視覚)

本書の出版元夏目書房は、梶山季之の「せどり男爵数奇譚」 を復刻したりして、なかなかユニークな企画でがんばってるようだ。注目したい。


あなたの想い出】高平哲郎 ★★★ 「小説CLUB」と晶文社ホームページに連載したものに書下ろしを加えたもので、個人的に親しかったり、インタビューしたりした故人の想い出を、それぞれにアメリカのミュージカルから生まれたジャズソングのタイトルを配して回想エッセイとしてまとめたもので、イラストとタイトル解説を和田誠が担当していて,それだけでも読む価値があると思って借りた。取り上げられているのはたこ八郎、トニー谷、林家三平、植草甚一、勝新太郎、中上健次、小野二郎など24人、死人に口なしというわけでもないだろうが、結構意地の悪い感想も書かれているし、自分がいかに故人に重要視されたかとか、交友の広さと親密さのの自慢話めいたことも目に付く。それよりも、タイトル曲にあわせてオチをつけるための無理が過ぎるのには鼻白んでしまった。植草甚一の押しかけ書生やって、宝島の編集やったり、バラエティ番組の構成や,演出などやってるのは何となく知っていたが、小野二郎の義弟にあたるというのははじめて知った。
それにしても、ジャズソングのタイトルをエッセイや短編小説のタイトルに流用するというのは、誰でもやりたくなると見えて、和田誠、色川武大、今江祥智などの成功作を思い出すが、Morris.も以前、「 DITTIES-西洋小唄 」という歌集をモノしたことがある。こちらは25首だが、本書と重なるナンバーが4曲あった。

君故にただ君故に狂ひしが言ひ出しかねて腦髄の冷え
                              I CAN'T GET STARTED

汝が胸に暗き焔の燃ゆる時眼に沁む煙泪誘ひて  
                              SMOKE GET INTO YOUR EYES

若き月冷えし愛情凍る夜畏みて吐く<請 君 歸 去 來>
                              LOVER COME BACK TO ME

満天の星に願ひを掛くる時嘘をつくのも許さるる時
                              WHEN YOU WISH UPON A STAR


與謝蕪村】山本健吉 ★★★ 一冊の研究書ではなく、雑誌などに掲載した小論、エッセイなどをまとめたもので、半分は蕪村以外の俳人の句評釈などだから、ちょっと看板に偽りありかもしれない。蕪村の画業は67歳で亡くなる前数年のものが評価に値するとし、中でも「夜色楼台雪万家図」にとどめをさすと決め付けているのは、やや疑問を抱いた。たしかに同図は、素晴らしいが、Morris.は降りしきる雪の中で二羽並んで木の枝に留まっている「鴉図」に肩入れしたい。それはさておき、「夜色楼台雪万家」蕪村

「雪」三好達治

太郎を眠らせ、太郎の家に雪ふりつむ。
次郎を眠らせ、次郎の家に雪ふりつむ。

を引いて、これが「夜色楼台雪万家図」の賛であるというのは、なるほどと膝をたたいた。もっともこれは、山本の発明ではなかったようだが、もう一つ、図の中にいくつかある、ほの明かりの灯った楼台を、タイトルの元となった万庵原資の漢詩から、寺の楼台と取るのではなく、実は遊郭の明かりで、そこに蕪村の俳味があるという解釈は、面白かった。
もちろん、蕪村の絵ばかりではなく、句に関しても論じられていたが、中核をなす「蕪村発句抄」はあまりに有名な句ばかりで、蕪村贔屓のMorris.にはちょっと物足りなかった。それより、其角、嵐雪、素堂、鬼貫、去来、凡兆、丈草、7人の俳人の作について評釈したものは、あまりおなじみでない句が多くて、興味深かった。もちろん、彼らの句に、蕪村や芭蕉の句を引いたりしてあり、それはそれで楽しかった。

鶯の身をさかさまに初音かな
ゆく水や何にとどまる海苔の味
うつくしき顔かく雉子の蹴爪かな
たが為ぞ朝起昼寝夕涼
傾城の小歌はかなし九月尽
              其角

はぜつるや水村山郭酒旗の風
黄菊白菊其外の名はなくもがな
              嵐雪

浮葉巻葉立葉折れ葉とはちすらし
西瓜独り野分をしらぬ朝かな
われをつれて我影帰る月夜かな
市に入りてしばし心を師走哉
              素堂

猫の目のまだ昼過ぬ春日かな
恋のない身にも嬉しや衣がへ
飛鮎の底に雲ゆく流かな
ひうひうと風は空ゆく冬牡丹
              鬼貫

手のうへにかなしく消る蛍かな
石も木も眼にひかるあつさかな
鳶の羽も刷(かひつくろひ)ぬはつしぐれ
              去来

はなちるや伽藍の枢(くるる)おとし行
市中は物のにほひや夏の月
下京や雪つむ上の夜の雨
              凡兆

大はらや蝶の出てまふ朧月
行秋の四五日弱るすすきかな
木がらしの身は猶かろし夢の中
鷹の目の枯野にすはるあらしかな
淋しさの底ぬけてふるみぞれかな
藍瓶に切れを失ふ寒さかな
              丈草


スピン・キッズ】中場利一 ★★☆☆ 「岸和田少年愚連隊」シリーズが面白かったのでファンになってたのだが、最近の作品は、いまいち迫力に欠けるというか、はっきり言ってつまらなくなった。それでも本書を借りたのは表紙のイラスト(奈良美智)に惹かれたためだ。ちなみにMorris.は奈良美智は女性イラストレイターだと思い込んでいたのだが、クレジットには「YOSHITOMO NARA」とある。この読みなら男性である確率が高い。なぜかちょっとショックを受けた。作品のほうだが、母に死なれた少年が、友人と家出して大阪新世界の木賃宿に住み、ヤクザな大人たちとコミカルでバイオレンスな日々を過ごす中で、蒸発していた父との出会い、恋したり、孤立したり、癒されたりとさまざまな体験をしながら一皮向けていくという青春ストーリーだが、やっぱり、Morris.には、中途半端に見えてしまった。主人公にしろ友人のピータにしろ、登場するときはそれなりに迫力あるのに、どんどんトーンダウンしてしまうし、他の登場人物も大方その傾向がある。漫画を貶める意味で言うのではないが、あまりにも漫画的なのだ。小説には小説なりの表現方法があるような気がするのだが---
ピータの元彼女の友達で「公衆便所」と呼ばれる女の子がいて、その事情と言うのがあまりにも悲惨で、それを主人公が捨て身で惚れるくだりは、なかなか泣かせるのだが、これにしたって漫画的だなあ。


活字狂想曲】倉坂鬼一郎 ★★★ 「怪奇作家の長すぎた会社の日々」と副題にある。嫌人癖傾向のある作者が大手印刷社の校正者として11年勤める中で、日々の鬱屈やエピソード、会社への反発などを同人誌に連載した漫文(自称)をまとめたものである。
怪奇小説はMorris.の得意分野ではないが、確かにこの漫文にはどこかブラックユーモアめいたものを感じる。校正者としてはなかなか優秀だったらしく、その記憶力の良さと、職人としての自負心を吐露する部分も多い。QC運動とか研修会とか宴会とか、会社社会では健全な常識とされる愚行への嫌悪と、回避、心ならずも上級職に進まされそうになっての悪あがきなどなど、確かに作者は会社に向いてないことがわかるし、回りにもそのような不適応者がいて、彼らの描写はさすがに急所をついている。
久生十蘭、シオラン、など読書傾向ではMorris.の好みと共通するものがあり、山本夏彦に傾倒しているらしく、章のタイトルにも再三流用している。古い歌謡曲ファンで、おまけに俳句もひねるらしい。さらに次のようなエピソード

朝目覚めると、怪奇小説を入れた本箱の位置が九十度変わっていた。これはてっきり怪異かと思ったが、いま思えば、夢遊病の発作だろう。それにしても夜なかに重い本箱をかかえて位置を変えるというのは、何の意味もない行為である。我ながら自分が怖い。

実はMorris.十数年前、石屋川の文化住宅に住んでいたある朝、目がさめたら六畳の和室に隙間なくカーペットが敷かれていたことがある。酔った帰りにカーペット拾って夜中に本棚や机動かしてカーペット敷いたらしい。カーペットは一枚でなく2枚に分かれていたのだが、素面ではやりたくない作業だが、全く覚えていないというのはすごいと思う。
そんなわけで、この作家とMorris.には結構共通点が多いような気がする。だから好きになるかというとそうではないのだが、こういう記録はあまり目にすることはないし、貴重だと思う。


マイ・ラスト・ソング】久世光彦 ★★★ 結局このシリーズは3巻から1巻までちょうど逆順に読んでしまった。本書には25章が収められている。
「アラビヤの唄」「港が見える丘」から始まって、スタート時は、友人、知人のラストソングを誂えるみたいな感じだし、無名の忘れられた歌には、楽譜をつけるなど、2,3巻とはずいぶん雰囲気が違っている。「蘇州夜曲」「十九の春」など、Morris.生れる前の曲なのに、すごく懐かしい気持になるのはどうしてだろう。「十九の春」は沖縄民謡が元唄で、今日の昼前にNHKでやってたドラマ「ちゅらさん」の中で堺正章が偶然この歌を歌っていた。韓国のエレジーの女王イ・ミジャの初期のヒット曲に「十九の純情」というのがあって、これまた、単純ですばらしい。
「時のすぎゆくままに」と「As Time Goes By」を別々に章立てして、同じエピソードを刳り返すあたりが、久世節といえなくもないが、ジュリーの唄が、カサブランカの挿入曲を元歌にしてることは、タイトルからして自明だが、阿久悠詞、大野克夫曲だが、同じ詞で曲は6人に頼んで、結果的に大野の曲に決ったらしい。後の5人も錚錚たる顔ぶれで、荒木一郎、井上堯之、井上忠男、加瀬邦彦、戸倉俊一というのだから、今ではちょっと信じられないくらい贅沢というか、もったいないことをしたものである。
本書には、末尾にJASRACのコピーライト承認の表記があるから、ここ数年の間に、少しは歌詞の引用規制が緩くなったのかもしれない。


五重塔】幸田露伴 ★★★☆ 露伴初期の傑作の誉れたかいこの小品を、読まねば読まねばと思いながら、とうとう今日まで読まずにいた。実は改造社日本文学全集の昭和2年発行の「露伴集」は、ずっと以前に古本屋で買って持っているのに、なんとなく読み損ねていたのだ。図書館で岩波文庫を借りて、一息に読み終えた。
江戸時代の大工二人が、五重塔を巡って争い、結局融通の利かない大工が塔を任され、完成させるというだけの物語で、完成直後の大嵐の場面の、迫力満点というか、異常なくらいの描写には圧倒されてしまった。露伴は実にこの場面を書きたいがために、この小説を思い立ったのではないかと思われるくらい、この部分は際立っている。なにものかに憑かれたような、この嵐の表現を露伴のデーモンの発露と見ても間違いではないと思う。
しかし、Morris.は、本文に出てくる、漢語の不思議な訓みに、気を取られっぱなしだった。宛字というより、本来の意味での訓詁なのだろうが、露伴の闊達なルビの振り方を、存分に楽しませてもらった。

・下婢(おさん)・太息(ためいき)・強て(たつて)・粗略(おろそか)・堪忍(がまん)・冷語(ひやかし)・現然(ありあり)・補綴(つぎ)・誰何す(ただす)・情無く(つれなく)・醇粋(いっぽんぎ)・軽忽(かるはずみ)・大概(あらまし)・那箇(いずれ)・表面(うわべ)・戦々(わなわな)・迂闊迂闊(うかうか)・到底(とても)・温順(すなお)・行状(みもち)・瀟洒(あっさり)・性質(もちまえ)・普通(なみ)・日外(いつぞや)・接待(とりなし)・喝采(やんや)・白癡漢(たわけ)・快活(さっぱり)・躊躇ひ(たゆたい)・鉄槌(げんのう)・光景(ありさま)・徐々(そろり)・雲霧(もやもや)・挙動(そぶり)・既(もはや)・鈍痴(どじ)・火炎(ほむら)・偶然(ふと)・準備(ようい)・疎漏(てぬかり)・長へ(とこしなえ)


みんな夢の中】久世光彦 ★★★ 「マイラストソング」2である。19章だから、先に読んだ3集に比べると曲数が少ない。Morris.も共通に感情移入できる歌は「みんな夢の中」「林檎の木の下で」「春の歌」くらいで、軍歌や右翼っぽい歌が多いのにはちょっと閉口した。中でのベストは「星影の小徑」(昭和25年 詞・矢野亮 曲・利根一郎 歌・小畑実)だ。この歌は、前から知ってはいたものの、数年前、ちあきなおみのアルバムで聴いてすっかり参ってしまった。

私のベスト・ワンの「星影の小徑」は、とにかく洒落ていた。細く澄んだ高い声で囁くように歌うのを「クルーン唱法」といい、そういう歌手を「クルーナー」ということも、この歌ではじめて知った。それまでの小畑実といえば「勘太郎月夜」や「湯島の白梅」のような和服が似合う歌ばかり歌っていたから、私たちは突然の変貌にびっくりした。

小畑実は、たしか在日ではなかったろうか。当時は、朝鮮名でデビューするなどということは考えられなかったに違いない。


萌えいづる若葉に対峙して】辻征夫 ★★★☆ 94年から97年にかけての詩26編が収められている。いちおう3部に分かたれているが、第三部は「ワイキキのシューティングクラブ」という散文詩一篇だけで、その中にこの詩集の成り立ちが書かれている。十数年前、自分の詩を読み返して、少年時代に夢見た詩と現実の作品とのギャップに落胆して、やり直してみようと思った、とある。第二部の朝日新聞日曜版に10回にわたって連載された、児童文学をテーマにした作品は、ライトヴァースとして、なかなかに楽しめた。アリス、トム・ソーヤー、ほらふき男爵、ピノキオ、宝島、絵の無い絵本、ロビンソンなどMorris.にもお馴染みの物語が目の前に浮んでくる。
辻征夫は以前「俳諧辻詩集」を読んで、タイトルだけに感心した覚えがあり、それ以来読まずにいたのだが、矢谷君がこの詩集を地鶏BBQの時に持って来てて、すごくいいと誉めちぎってたので、つい借りてきたのだった。
矢谷君は宝島をテーマにした「船出」が一押しとのことだが、Morris.は召波の句が引用されている「鶴」が印象深かった。

鶴 辻征夫

あるときは頬かむりして
天高しといへども頭(こうべ)を垂れ
地厚しといへどもつよく踏まず(河竹黙阿弥)
ぬきあし
さしあし
餌をあさり

あるときはその姿
その声に淑気を発し
あるひとが
春たつや
静かに鶴の一歩より(黒柳召波)
と詠むほどに

またあるときは遠く旅立つ
ひとの思いのかたちして
空のかなた
はるかに






紙屋町さくらホテル】井上ひさし ★★☆☆ 標題作と「貧乏物語」「連鎖街のひとびと」計3編の戯曲が収められている。Morris.は演劇やドラマを見ることは滅多に無いのだが、戯曲やシナリオ読むのは嫌いではない。井上ひさしの本も結構読んでるはずだ。それを基準にしても本書の作品はどれもあまりいただけない。
三作とも太平洋戦争末期を時代背景に、演劇と国家権力の軋轢が描かれている。「さくらホテル」では、本土決戦に備えて国民の士気を調査する海軍士官と、それを監視する憲兵が、広島で新劇の舞台に巻き込まれるし、「貧乏物語」では主のいない川上肇宅で、妻子と使用人、カフェの女給(新劇女優)が、川上肇を転向させようとする内務省の工作に踊らされるし、「連鎖街」では終戦直後大連に進駐したソ連軍のために演劇を行わねばならなくなった日本人の物語だ。それぞれに舞台の上で演劇論が展開されるのだが、どうもこれがワンパタンなのが気になる。特に「連鎖街」では、シェークスピアとモリエール、浅草ギャグなどの意識的摸倣というけれんみたっぷりなのも、鼻につく。先般の小説「東京セブンローズ」に、失望させられたが、戯曲の方でも、なんだか井上ひさしらしくないのは、ひょっとしてかなり重症なのかもしれない。


壬生義士伝 上下】浅田次郎 ★★☆☆ 浅田次郎の短編は苦手だが、長編はそこそこ面白いというので借りてきたのだが、やや期待外れだった。
南部藩の足軽吉村貫一郎が脱藩して新選組に入り、官軍に破れて大阪の南部藩蔵屋敷に逃れ来たが、差配役に切腹を申し付けられる。というところから話が始まり、これからえんえんと、過去の因縁話が続く。大正時代になってから、吉村の事跡を調べる作家か記者によって、生き残っている当事者や、その子弟使用人などから話を聞き、徐々に事の真相を露わにしていくという、浅田得意の手法で、語り手の口ぶりをそれぞれ文体を変えて、性格を浮かび上がらせるあたりは、語りのうまさがでているのだが、主人公の性格が相手によりえらく違っていたり、裏の裏の裏を暴くというパターンのやり過ぎで、話が薄っぺらになってる気がする。新選組での内ゲバと主人公のからみ、子孫の消息や出会いにも、御都合主義が全面に出過ぎている。お涙頂戴はかまわないのだが、安手の人生訓みたいなので結論づけられると鼻白むしかない。週刊誌連載というのが枷になったのかもしれないが、このくらいのストーリーなら上下700頁を使う必要はなかったろう。いつも同じ愚痴になってしまうのだが、傑作「きんぴか」を上回るとまでは言わないが、せめてあの半分くらい面白いエンターテインメントを提供して欲しい。


写楽】皆川博子 ★★★☆☆ 何となく気になりながら敬遠し続けていた作家だが、写楽ものということもあって借りてきた。いやあ、想像以上の書き手である。ストーリーと、写楽の謎解きは、やや疑問点もあるが、もともとこれは映画のシナリオが先に書かれ、それをノベライゼーションしたものらしい。篠田正浩監督、フランキー堺主演の映画は、あまり話題にならなかったのかMorris.は初耳だったが、フランキーの写楽好きは前から知っていた。機会があればビデオでも探してみよう。
ネタばれを承知で書くが、本書で写楽に擬されているのは、足のけがで出番を無くした下積みの役者ということになっている。本文中では前半「彼」という三人称で表現され、後半は「とんぼ」という仇名で呼ばれる。彼の母が砂絵師だったこと、馴染みの女の主人が身体の不自由になった浮世絵師で、手ほどきを受けたということになっているが、これはやや無理な仮定のように思える。
写楽ものには欠かせない、蔦谷重三郎、山東京伝、歌麿などお馴染みの連中のそれぞれについても、なかなか堂に入った書き振りだし、手鎖の刑をがこれほどリアルに書いたものはこれまで読んだことがなかった。写楽の大首絵の製作次第の仮説も、いささか無理が多い。どちらかというと、実証ものではなくフィクションにバイアスがかかっているようだ。
それはともかく、筆者の筆力は大した物である、しばらく彼女のものを読みすすめてみようと思った。
特に江戸の芝居小屋と役者の世界には精通しているらしく、微に入り細を穿った描写はよみごたえがある。第一、語彙が桁外れに豊富である。本書に出て来る芝居関係の語彙の一部を引いておく。

羅漢台-舞台の下手の隅に作られた見物席
吉野-羅漢台の上に張り出した2階席。共に役者の背中しか見えない安座席
稲荷町-役者の最下層、下立ち役の別名
シン-主役
筋斗-とんぼ返り
柝(き)-拍子木
いた-舞台
ぶんまわし-回り舞台
控え櫓-江戸三座が興行できないとき代理を務める座


風翩翻】斎藤史 ★★★ 93年の第10歌集「秋天瑠璃」が最後の歌集かと思っていたのだが、2000年にこの第11歌集が出ていたのは知らなかった。80後半から90歳までの歌488首が収められている。斎藤史といえば、昭和15年の第一歌集「魚歌」があまりに高名で、その後の作品は処女歌集を越えられないまま、一線を退いたかとも思われたのだが、それがMorris.の中では「秋天瑠璃」が事の他気に入ってしまったので、本歌集も期待して読んだのだが、トーンダウンは否めなかった。それでも調べの高さは流石だし、諦観に裏打ちされたユーモアのある歌もある。

・去来また定まりてゐて翔べざるは見捨てられつつ見捨てつつ去る
・古沼は水の墓場と見てゐしが無数の黒き蝌蚪育てゐつ
・終着の地名のみ知り乗りてゐて通過してゆく駅名おぼろ
・すでにしておのれ黄昏 うすら氷(ひ)の透けるいのちに差すや月光(つきかげ)
・風は鳥を浮かせ沈ませ羽撃(はばた)かせ空の隈処(くまど)に消し去りにけり
・千羽鶴幾百万羽供ふるとも帰り来る無し失せたる一羽
・鬼門にはひひらぎ植ゑて裏鬼門には 白彼岸花・赤彼岸花
・秋終る石蕗の黄も打乱れ夜空流星群死へなだれたり
・朱の色を好む若さも過ぎにけり 錆朱・洗ひ朱・朱夏のち白露
・風翩翻 はるか虚空にうたふらし わがみづうみのはつか彩(いろ)ふは


平然と車内で化粧する脳】澤口俊之・先生 南伸坊・生徒 ★★★☆ 「生徒の達人」南伸坊の、講座もののひとつだが、タイトルは「日本人はなぜ恥知らずになったか?」という意味らしい。澤口は認知神経科学、霊長類学専門で、養老孟司とおなじく「唯脳論者」の仲間らしい。
日本人(モンゴロイド)はネオテニー(幼形成熟)が進んでいて、成熟に時間がかかる傾向があるのに、戦後、コーカサイド(白人-この場合はアメリカ人)的育てかた(食生活も)を、はめこんだために、発達障害が起きているというのが澤口の結論だ。脳の前頭葉にある「前頭連合野」が未成熟なのが日本人で、しつけによって完成されるはずのこの部分が、しつけレスの現代日本人は、恥を感じる感覚を無くしてしまったというわけだ。前頭葉が、人間の知能と自我、自覚に大切だということは、生物の授業ではなく、SF(主にコリン・ウイルソン)で、知ってるつもりになっていたのだが、それも空想の域でしかなかった。
本書でのもう一つの論点になっている、脳内物質の話も、数年前流行した、ドーパミンとかエンドルフィンという名前だけは記憶に残ってたが、今回はすっきりした一覧表が載ってたし、「快感汁(ドーパミン、αエンドルフィン)」の他に「幸福汁(セロトニン)」という脳内物質の重要さが説かれていて興味を持った。

澤口 セロトニンは幸福汁と命名しましたが、もともと愛情に関係する伝達物質でもあり、子育てに必要な"脳内愛情ホルモン"とさえいわれています。−−モンゴロイドはセロトニン=ニコニコ系で、コーカソイドはノルアドレナリン+ドーパミン=ファイト系、という傾向は言えると思いますね。
伸坊 外向/内向・衝動・神経質さって分けるより、汁で分けたほうがなんか説得力ありますね。「セロトニンで性格改造」とかって本できそうですね。
澤口 かもしれませんね。でも、あまり極端に走るのはどうかと思います。セロトニンの機能が暴走すると、うつとはまったく逆の「多幸症」という状態になることもあるんです。これは文字通りどんな場面でも幸福を感じてしまうという症状です。患者さんは、本当にいつも幸せそうにボーッとしちゃってます。
伸坊 ボーッとして幸せそう---ってよさそうじゃないですか。
澤口 いあy−、まあ、なりたいとは思いますけど、やっぱり遠慮します。いつも幸福というのは、逆にいえば、ああ、幸せだと感じる瞬間がないわけでしょう?そもそも、多幸症もセロトニンひいては前頭連合野の機能障害なわけですから、果たして本当に幸せかどうか、私は疑問に思います。

恍惚の人いわゆるボケ老人は、見かけは幸福そうだったりするが、実はそうではないというのと同じ論点なんだろうな。いがらしみきおの「のぼるくんたち」で、川馬鹿センセーが、介護婦のキヨミさんに言う台詞を思い出した。

「おまいらから見れば地獄のように見えるじゃろ。しかしボケとる本人は天国にいるようなもんじゃよ。もっとも、地獄のような天国じゃがの〜〜〜」

本書には、その他にも、だいたいの男性が美女だと思う顔は「平均顔」であるという、灯台下暗しみたいな話が出てくる。整っているということは、つまり顔のパーツのそれぞれが平均的なもので揃い、均整がとれているということでもあるし、生物学的には、あまり突出したものより、平均的な女性に「自分の遺伝子を託す」気持になるのだとある。この部分にはMorris.としては納得できないところもあるが、一般論としては面白い。

例によって南伸坊は生徒として、実にうまく先生の講義を引き出し、咀嚼し、面白い方向に持って行くことに成功している。ただし今回の先生は、ちょっと基盤のあやふやな仮説が多くて、明快にわっかりましたという、爽快な気分にはなれずじまいだった。


ブックハンターの冒険 古本めぐり】 牧眞司 ★★★  SF、幻想小説好きな著者が古本屋や市で買った本の話や、古本仲間とのエピソード、海外古書店めぐり、インターネットでの書籍購入の実践、デパート古書展レポートなどをまとめたものだが、早川の「異色作家短編集」への思い入れの強さが一番印象深かった。3期18巻に及ぶこの叢書のなかには、Morris.も大好きなものがいくらか含まれているし、たしかにあの箱の装丁は出色のものだった書名、著者名、訳者、月報の内容などの一覧表が掲載してあり、これを見るだけで結構楽しめた。
Morris.のベスト5は

1。メランコリーの妙薬 ブラッドベリ 吉田誠一訳
2。一角獣、多角獣 スタージョン 小笠原豊樹訳
3。レベル3 ジャック・フィニイ 福島正実訳
4。虹をつかむ男 ジェイムズ・サーバー 鳴海四郎訳
5。特別料理 スタンリー・エリン 田中融二訳

といったところだろうか。世評の高い第一巻「キス・キス」(ロアルド・ダール 開高健訳)が入ってないのを意外に思われるかもしれないが、どうもMorris.はダールと、相性が良くないのだ。
著者は編集者を経て現在はフリーのライターだが、コレクターとしてはそれほど病気の方ではなさそうだ。それでも、すでに持っている本でも、美本だったり、カバー付きだったりするとつい、買ってしまうとか、目録で複数あるととりあえず両方注文してしまったりする程度には、マニアックである。稀覯本や高額本にはあまり手を出さない(出せない)というのは、理解できるが、値段を「立ち飲みコーヒー1杯分」「昼食代くらい」「軽く飲みにいくくらい」「昼食1ヶ月分」などと、意識的に曖昧に表現する癖?があり、これはなんとなく嫌な感じがした。古本好きの本には、当然掘り出しものや、自慢話、失敗談などがつきもので、本書も例外ではないが、手放しで喜んだり、悲憤慷慨したりしないで、割と冷静なタイプらしい。読書傾向はMorris.と重なる部分も多いが、評価は隨分違う。まあ、それは当たり前だが、Morris.と決定的に違うのは、書庫を持つほどに蔵書があるということだ。表紙には、その本棚の写真が用いられているが、このレイアウトは、いくらなでもそれはないだろうというくらい、ひどい。ちょっとかわいそうになった。


浮かれ三亀松】吉川潮 ★★★☆ 柳家三亀松といえば、粋な都都逸やさのさを思い出す、とはいいながら、生はもちろん、録音でもそれほど数多く聞いたことはない。ただ、いろんな芸談や、落語、芸能関係の本を読むと、彼の名前は頻出するし、都都逸自体がすきなもので、つい読んでみようという気になった。同じ著者のものでは浪曲の広沢虎造を暑かった「江戸っ子だってねえ」を読んだことがある。
本書は小説仕立てにはなっているが評伝に近い。しかも、宝塚出身の高子夫人と、次男(妾原)の二三夫、弟子の声帯模写白山雅一の三人から多くの資料と回顧談を提供してもらったらしく、この三者への気配りがききすぎているきらいがある。三亀松の行動や事件に関しても同様の気配りというか、大甘な部分が見え透いてしまう。それを差し引いても高子夫人の賢婦ぶりは際立っていて、彼女を主人公にしたほうが小説らしいものになったかもしれない。
遊びと、気風と、金離れの良さが芸人の身上だという考え方からすると、藤山寛美、勝新太郎と併せて芸人らしい芸人の三羽烏かもしれない。晩年この3人がお互いに仲良かったのもうなずける。
三亀松が演じた都都逸は、自作より伝来のものや、角屋忠兵衞という、専属に近い都都逸作者のものが多かったようだ。その角屋忠兵衞が三亀松の葬儀で仏前に捧げたものを、辞世の代わりに引いておく

江戸の都都逸
抱き寝の三味線(しゃみ)に
今日も旅行く
伊達男


赤目四十八瀧心中未遂】車谷長吉 ★★★ 先ごろネットで知り合ったかわうそ亭さんの読書録に釣られて借りてきた。「己れの無能にしがみついて」世を捨てた男が尼崎のアパートでモツの串作りをさせらている間に、同じアパートに住む、わけありの朝鮮人女性と関係を持ち、心中に付き合わされそうになるといったストーリーで、いまどき珍しいがちがちの私小説らしい。Morris.は、この手の作品は苦手だが、確かに一種の迫力はある。文章も自分のスタイルを持っているのだが、言う、食うなどワ行五段活用動詞を「言うた」「食うた」と表現したり、強調する語を句点付で「」で囲む癖は好きになれなかった。


月がとっても青いから】久世光彦 ★★★ 副題にマイ・ラスト・ソング3とある。雑誌「諸君」に連載された愛唱歌エッセイをまとめたもので、本書以前に2冊出ているようだが、Morris.は全く初めて。好きな歌について綴るエッセイというのは安易な企画の割に興味と共感を呼びやすいので、古今数多くの同工異曲があると思う。サンボ通信でも、秋本たかしが「My favorite songs」というタイトルで連載してくれていた。
副題の意味は、自分の末期のときに聴きたい曲という意味らしいが、それにしては、曲数が多すぎるんではないかい、という突っ込みを入れたくなるのは、本書だけで33曲、1,2集を併せるともう100曲になるからだ。
久世は向田邦子ドラマの若手演出家としてのイメージが強いのだが、奥付けの紹介を見ると35年生まれで、もう66歳というのは意外な気がした。また、Morris.はずっと「くぜみつひこ」と思ってたのだが「くぜてるひこ」が正しいというのも初めて知った。
本書に取り上げられている曲は著者のノスタルジー世界BGM棚卸しといった感じで、はっきり言って古臭いものが多い。それだけに大ヒット曲より、中ヒット、隠れた名曲、意外な曲が目白押しだが、Morris.としては西岡恭造さんの「プカプカ」が一番印象的だった。

70年代のフォークを一つだけ選べと言われたら、私はためらわず「プカプカ」と答える。無為にただ走っていた私たちの時代の、あれはシニカルなテーマソングだった。
その西岡恭造が、死んだ。奥さんの祥月命日に首を吊って、死んだ。
歌の命は永遠だという人がいる。「荒城の月」も「みかんの花咲く丘」も「明治一代女」も、いまだって生きているとも言われる。でもそれは、程なく死んていこうとしている私たちの、弁解めいた感傷なのかもしれない。たった四半世紀前のフォーク・ソングでさえ、私たちはその結末をこうして見ているのだ。だとすれば、「マイ・ラスト・ソング」というのも、今わの際の切なさが、虚空に手をさし延べて、もうとっくに死んでしまった歌を道連れに探しているだけの話だろう。

本書で特筆すべきは、全編を通じて、歌詞の引用が多い、というか、引用だらけなのに、どこにもJASRACの承認という文字が見られないことだ。ドラマの中でも既成の曲を使用することが多いのだから、著作権に関しては人いちばい敏感なはずだから、これは、ちょっと不思議だ。単に表記のみ省略で、使用料は払っているのかもしれないが、以前も書いたように、正当な引用は自由に行える状況を望みたいMorris.にとっては、気になるところではある。


幻談・観画談】幸田露伴 ★★★☆☆☆ 露伴晩年の小品を収めた岩波文庫版で、標題の2編以外に「骨董」「魔法修行者」「蘆声」の3編の計5編だ。これらは随筆のようでもあり、史伝のようでもあり、小説のようでもあり、考証のようでもある。露伴当人が言う「漫筆雑文」でいいのだろうが、露伴の蘊蓄の深さと、融通無碍な文章(この時期のものは口述筆記らしいが)の魅力は比類がない。いつかは露伴を本格的に読もうと思いながらも、なかなか果たせず、ちょこちょことついばんで見るだけに終っている。
本書冒頭の「幻談」は一首の怪談なのだが、溺死人から取り上げる釣竿の描写などは、極めたものだけが為せる境地が伺われる。Morris.好みだったのは「骨董」で、中国古代の名品陶器にまつわるエピソードを連綿と綴って行くところが眼目なのだろうが、本筋に入る前の前振りの面白さったらない。巧まずして醸し出されるユーモアがあり、しかもツボを押えていること言うまでもない。

食欲色欲ばかりで生きている人間は、まだ犬猫なみの人間で、それらに満足し、もしくはそれらを超越すれば、是非とも人間は骨董好きになる。いわば骨董が好きになって、やっと人間並みになったので、豚だの牛だのは骨董を捻くった例を見せていない。骨董を捻くり出すのは趣味性が長じて来たのである。それからまた骨董は証拠物件である。で、学者も学問の種類によっては、学問が深くなれば是非是非骨董の世界に頭を突っ込むようになる。イヤでも黴臭いものを捻くらなければ、いつも定まりきった書物の中をウロツイている訳になるから、美術だの、歴史だの、文芸だの、その他いろいろの文科の学者たちも、ありふれた事は一ト通り知り尽くして終った段になると、いつか知らぬ間に研究が骨董的に入って行く。それも道理千万な談で、早い譬が、誤植だらけの活版本でいくら萬葉集を研究したからとて、真の研究が成立とう訳はない理屈だから、どうも学科によっては骨董的になるのがホントで、ならぬのがウソか横着かだ。マアこんな意味合いもあって、骨董は誠に貴ぶべし、骨董好きになるのはむしろ誇るべし、骨董を捻くる度にも至らぬ人間は犬猫牛豚同様、誠にハヤ未発達の憐れむべきもであるといってもよいのである。

この後、利休の目利きの凄さと、それを使い切った秀吉の話など、面白い話が次々と繰り出された揚句に先の中国宋時代の超名品、定窯の鼎を巡る逸話へと繋がるのだが、このエピソードがエピソードを生んで止まるところを知らず状態で、読者はだんだん不思議な世界に拉致された気分になってしまう。
「観画談」では、苦学生が神経をやられて、放浪して歩く中で、山寺で見た細密画によって一首の悟りを開くという筋で、これには、若き頃の露伴の体験が投影されているようだ。


建築ことば漫歩<道具篇>】矢田洋 ★★★☆☆ 山本夏彦の雑誌「室内」に連載されたものをまとめたもので、50回文を1冊にして本書は3冊目。一冊目で「動物篇」、2冊目は「昆虫篇」だった。実は本書の発行が88年だから、すでにこのシリーズは5冊目を数えているはずだ。Morris.は建築とは無縁な方の人間だが、本書は門外漢でも楽しめる仕組みになっている。というより、建築ことばをネタにした軽妙なコラムが、毎回酒の話に(強引に)収斂するあたりがMorris.の酒心に共鳴するという理由もある。言葉遊び精神の横溢する文章は余儀ではない。なにしろ、彼は、言葉遊びの好事家知久章名で「言葉のブティック」を、建築家丹羽小丸名で「どうも住みません」、考現学・道具学の山口昌伴名で「台所空間学」など、さまざまなペンネームを駆使してそれぞれに蘊蓄ある著書をものしている。Morris.は「言葉のブティック」が著者との最初の出会いだった。
しかし知久章(ちくしょう)、矢田洋(やだよう)とペンネームでも散々遊んでるひとではある。
「鏡絵」の項から一部を引く。

日本の鏡台、姫鏡台には、小紋の鏡覆い(領布=たれ)がかけられ、その前に座布団が置かれるなど、すっかり和風に見えるが明治の舶来文化である。東海道四谷怪談のお岩さんは、手鏡をすかして自分の顔の変貌に驚いたのであった。当時のカガミはその字が金偏の鏡、鑑、鑒と書くごとく青銅、白銅などの鋳物で、これを鏡筥から取り出して鏡立て(鏡台=かがみだい)に懸けた。
鏡は建築用語としていろいろ使われ、ずいぶん重要な位置を占めている。まず、空間の中でもっとも重要なところを鏡と呼んでいる。床の間の正面の壁、何もないまったいらな壁、これを鏡という。能舞台の正面奧の大きな老松の描かれている羽目板のところも鏡という。歌舞伎ではこれが松竹梅にかわる。
四方に框がまわってその中は一枚板の戸を鏡戸という。図面に鏡戸と指定されているのを見て、等身を映すミエミエミラーなんか取りつけて怒られないように気をつけよう。
円形、八稜形のものも鏡という。鏡餅、おかがみがその好例。鬼瓦の中央に円形の凹面がある、これも鏡。そこでご存知酒樽の、丸い蓋を鏡という。建物の上棟式の振舞に鏡をふたつも抜いた、などという。ここではもう、鏡といえば、四斗樽こもかぶりの酒樽のことをいっている。枡の隅に塩を置き、小さな曲げものの円い杓に柄をつけた鏡柄杓で酒を注ぐ。


旧字旧かな入門】 府川充男 小池和夫 ★★★★☆ ワープロ、コンピュータの普及で、日本語の文字は大幅に制限を余儀なくされている。ワープロの第一水準漢字は3千ちょい、第二水準を加えても6,355字で、6万以上あるといわれる漢字の1割しか利用できない、ということは衆知の事実で、もちろん、これは国語審議会の漢字制限政策に、ワープロ開発者が安易に迎合した産物でもあるのだが、旧字というものの定義すら、めいかくでないままに制定された恨みがあるらしい。
本書は、コンピュータ上で、旧字旧かなの文章を作成するための、正しい旧字旧仮名遣いを表示するとともに、現状における、問題点、誤りがちな漢字の指摘、さらに、漢字制限に伴う代用語と、元の形を対照させた用字・用語集を併せて列記してある。前書き(旧字旧仮名遣いで表記されている)の一部を引用する。

情報化時代に生きる私達は、紙に筆で文字を綴ることなく、キーボードを叩き、機械(マシン)の力を藉りて假名を漢字に變換することで、文章を綴ってをります。其處に用意されてゐるのは「現代表記」に最適化された漢字と變換プログラムであり、そのやうな道具を用ゐて舊字舊假名の文章を綴るには正しい智識のみならず、其れなりの工夫と努力があらまほしきこととなりませう。
本書では、明朝體活字の舊字體を常用漢字と對照表として示し、歴史的假名遣・字音假名遣の一般原則をポータブルに纏めると共に、現在ではなかなか見られなくなつた用字法や用語の一覽を掲げて舊字舊假名の文章を綴るための手引となるやう編輯しました

ふーっ、たったこれだけ打つのに、えらく時間がかかってしまった。そのくらい、Morris.のワープロ環境と旧字旧かなとの相性の悪さが実感できる。
本書第一章は、常用漢字と人名用漢字をJIS X 0208の、区点番号順に並べ対応する旧字体と異体字の一部を併記しているのだが、全ての旧字体が、JISに登録されている訳ではなく、文字によっては、複数の漢字が一つの漢字に集約されていたり、別字が代用されていたり、新旧がぎゃくになっていたりと、複雑な様相を呈していたりする。JISのバージョンによって字形が変わっていたり、あったり無かったりしたりと、さらに混乱を助長するファクターもあって、まさにデジタル漢字の世界は魑魅魍魎の跳梁跋扈している。したがって、これを引用しようとしても、不可能(つまりMorris.の環境では打てない、表示できない)なものも多い。
一般に旧字と新字は、「舊」と「旧」、「變」と「変」、「體」と「体」のように、画数を減じて、簡略されたものが新字体というケースが多いので、同じ意味を持つ漢字なら画数が多いものが旧字と認識されやすいが例外も多い。
たとえば「芸」という字は「藝術」の「藝」の新字体として用いられているが、もともと「芸」は「うん」と訓み、「芸香」などに用いられていた全く別字だったのだから、旧漢字旧かなの文章で表わす場合でも「藝香」という表記は明らかに間違いということになる。「台」と「臺」も同様で、「天台宗」を「天臺宗」とは書きかえらない。

・着の旧字は著の旧字体と同じです。着は著を崩して書いたものが、「チョ」「チャク」の遣い分けを生じて、固定化したもので、康熙字典にはないようですが、活字には明治の初めからあり、夏目漱石も遣い分けています。石川淳などは着でよいところを著の旧字にしていますが、それを文庫本などで常用漢字にした時に「著物」「著付」などとなっているのは大笑いです。

・欠は「ケツ」ではなく「ケン」と読む字で「あくび」の意味です。缺の略字として当用漢字になりました、同時に「闕席」などの闕(7977の略字としても欠が用いられることになりました。缺と闕は、もともと遣い分けの難しい字で、熟語によってはどちらでも通用します。また略字として欠を用いることも古くから例がありますが、正式な用い方ではありません。余談ですが「欠伸(あくび)」を旧字で書こうとして「缺伸」とした小説がありました。大笑いです。

以上のように誤用を笑う類の指摘もあるが、全体的に、事細かに差違を指摘していることには脱帽せざるを得ない。Morris.は結構自分では、漢字の読みや、新旧字体についてはよく知ってる方だと思ってたのが、これを見ると、その水準は「お子ちゃま(by さとなお氏)」レベルだったことが判った。

・晴、清、精、請などの旁「青」は康熙字典体では下部を「月」でなく「円」に作りますが、楷書では昔から「月」ですし、字源的には「丹」です。

・遊の異体字に游(6266)があり、この形の方が多く遣われました。

・欲と慾には遣い分けがありました。新旧の関係ではありません。

・乱は亂の略字ですが、「波乱万丈」「乱読」などと守備範囲を広げています。乱を上手に成敗しないと旧字で文章を書くことはできません。

そうか、正しくは「波瀾万丈」「濫読」だもんな。これはMorris.も普通に使ってるし、ワープロにも始めから両方登録されている。
等など、目からウロコの蘊蓄が満載されている。これはハンドブックとして手元に置きたい一冊である。本書の発行元柏書房は、Morris.愛蔵の「宛字外来語辞典」も出してる出版社で、本書の姉妹編「宛字書き方辞典」というのも出ているらしい。えらいぞ、柏書房。拍手。
しかし、Morris.が一番嬉しかったのは、第三章の用字・用語対照表と、その難読語索引だった。もちろん、例によって、漢字クイズとして出題しておく。何と今回は一挙50題!!!!解答は数日後に発表します。とりあえずはチャレンジしてみて下さい。

1。七葉樹木 2。加爾叟母 3。南燭 4。壁虎 5。大鋸屑 6。天蠶絲 7。射干玉の 8。事前葉 9。山慈姑 10。巧婦鳥 11。弱竹 12。御虎子 13。戒克 14。望江南 15。東海婦人 16。根發子 17。桃鼻鳥 18。椿象 19。水雲 20。海鹿 21。海扇 22。浮塵子 23。烏拉乖 24。烏頬魚 25。牛麥 26。石斑魚 27。秦吉了 28。秦皮 29。紫花地丁 30。繍眼兒 31。胡枝子 32。行夜 33。赤柳 34。赤裸蛇 35。鬼蜻蜒 36。黄道眉 37。俄羅斯 38。峙つ 39。瓢蟲 40。薯蕷芋 41。老成る 42。打切棒 43。熱り 44。驀地 45。逆つく 46。蔦撥鼠 47。明明後日 48。邪曲 49。臆れる 50。捏焼

解答
1。トチ 2。カルシウム 3。ナンテン 4。ヤモリ 5。おがくず 6。てぐす 7。ぬばたまの 8。カタクリ 9。カタクリ 10。ミソサザイ 11。なよたけ 12。いがぐり 13。ジャンク 14。センダイハギ 15。イガイ 16。コンパス 17。トキ 18。カメムシ 19。モズク 20。アメフラシ 21。ホタテガイ 22。ウンカ 23。ウルグアイ 24。クロダイ 25。ナデシコ 26。ウグイ 27。キュウカンチョウ 28。トネリコ 29。スミレ 30。メジロ 31。ハギ 32。ヘッピリムシ 33。ハンノキ 34。ヤマカガシ 35。オニヤンマ 36。ホオジロ 37。オロシア 38。そばだつ 39。テントウムシ 40。トロロイモ 41。ねぶる 42。ぶっきらぼう 43。ほとぼり 44。まっしぐら 45。むかつく 46。モルモット 47。やなあさって 48。わだかまり 49。わるびれる 50。つくねやき


俳句的人間 短歌的人間】坪内稔典 ★★☆☆ 題名につられて借りてきたが、ちょっと期待外れだった。読んだ後で岩波の本だと言うことに気が付いた。
俳句と短歌や詩に関わる雑文を寄せ集めた本だが、「鴎外の短歌、漱石の俳句」という小論から、著者のいう俳句的人間と、短歌的人間の特徴などをひろってみる。

短歌的人間
・長嶋茂雄、大江健三郎、曽野綾子
・主観的、情熱的、自己陶酔的、真面目
・勉強好き、自己主張的
・森鴎外−武士、長男、ドイツ留学、軍医、堅くて真面目

俳句的人間
・野村克也、井上ひさし、田辺聖子
・客観的で冷靜、自己をも茶かす道化的精神
・夏目漱石−町人、五男、イギリス留学、くだけて、気楽

しかし、これでは、ほとんど何も言ってないに等しい。Morris.は、一時期短歌を作っていたし、昨年から突然ぐいぐい俳句なんてのを始めた(最近はちょっとサボり)のだが、だからといって、前は堅くて真面目だったのが、いまはくだけて気楽になったわけではない。著者は、俳句作家で、俳句嫌いの短歌好きを標榜してるらしいが、おどろいたのは、奥付の著者紹介で、代表作として4句が列挙してあったことだ。小説家なら代表作は○○、××などと、小説のタイトルを書いてあることは珍しくないが、俳句は短いから、そのまま全文引用できる、のだから驚くことはないのかもしれない。しかし何となく現存してる俳人が、己の代表作はこれこれだと、書き付ける神経がわからない。その「代表作」4句。

・三月の甘納豆のうふふふふ
・そのことはきのうのように夏みかん
・口あけて全国の河馬桜咲く
・たんぽぽのぽぽのあたりが火事ですよ

確かにどこかでお目にかかったことのある句だが、Morris.好みではない。
他の文の中で「名句には二句一章のものが多い」という指摘は、例句をみて、なるほどと思った。
内容とは離れるが、この著者の文章の癖なのか、時々、唐突な体言止めや、形容動詞の語幹だけで止めてあるのは、舌足らずで、何か気色が悪い。著者の句にも似たところがありそうだ。

実は、二句一章の文体と取り合わせをどのように連携させるかが、俳句における最大の表現技術の開拓。具体的には、新しい取り合わせの発見が、すぐれた二句一章の俳句の誕生を促すだろう。

上記引用中、最初の文章の止めがその例である。


精神の氷点】大西巨人 ★★★ 「神聖喜劇」「三位一体の神話」の著者の小説第一作で、1947年に執筆されたものだ。主人公水村が虚無思想的立場から、悪徳(陵辱、盗み、姦通自殺未遂など)を無感情に行使し、徴兵前日には、見知らぬ他人を殺害して、戦争で肉体、精神の死に望みながら生き長らえて、戦前の姦通の相手との関係を通じて、ますます虚無的になりながら、女性からの離別の後、過去の罪を自首するところで終る。ストーリーは単純なのだが、しつこいほどの心理描写と、観念論に、筆者独特の事細かな写生風文章もあって、150頁足らずの中篇小説なのに、読みとおすのにえらく時間がかかったし、読後感は、異状に重苦しいものだった。半世紀以上前の作品だから、戦争、戦後の重圧から餘程遠ざかった現在から見るとアナクロでしかない視点もあるのだが、だからといって、これがつまらない作品というわけではない。たしかに読むものに訴える何物かはあるのだが、今のMorris.には、ちょっとしんどい、というのが、正直な感想だ。
若さのためか、最近の作品の魅力である、ゆとりと苦いユーモアに欠けているが、大作「神聖喜劇」のためのステップボードという意味でも、重要な作品であることは間違いない。

二十二歳。まさしく青春。「時は五月、所ははいでるベルク」、--鬱勃たる気概をもって人生と社会とに立ち向かうべき季節。生産的であることが不可能もしくは不合理であるとの理由から「不愉快な時代」とニーチェが呼んだ年頃、「まだ渋みを多分に持っている最初の成熟」の時期、倨傲の年代。苦悩は、苦悩のままに、叛逆は叛逆なりに、美しく、絶望も、現実変革への「情熱の逆説」にほかならず、虚無観も、瑞々しい「生への意志」の裏返しであるはずの時間。二十二歳。

1930年代に以上のような青春を享受していた主人公が、兵隊になり、死に損なって帰還し、夢魔に責めさいなまれるようになる。

---醜悪、汚辱、エゴイズム、エゴティズムその他、あらゆる否定的・背日的なものを含有する全体。その「全体」の丸ごと承認の上も尾手に負えぬ<虚無>が、やはり支配する。
すべては、物質であり、人間(の精神ないし魂)も物質である、ということにこそ、人間の真実の開放ならびに自由が、存在し、本来の在るべき人間そのものが、存在する。「神(超越者)」は、存在しない。具体の消滅(死)後には精神でも肉体でもない人間は、まさにそれゆえに、一瞬をでも真に生きるとき、彼は無限を生きるのである。

ということから主人公は自首するのだが、Morris.はやっぱり主人公に感情移入できない小説は苦手である。


ざぶん】嵐山光三郎 ★★★ 同著者による「文人悪食」「追悼の達人」の2作は面白かった。本書はその時の資料を使いまわしして連載小説に仕立てたものといえるだろう。副題の「文士放湯記」というのはなかなかうがったもので、明治大正の文士の放蕩ぶりと、彼らの(嵐山自身も)温泉好きとを掛けているし、舞台設定も温泉や風呂場を多用し、有名作家総出演オールスターキャスティングの大盤振る舞いで、大概がお馴染みなので、それぞれに楽しめるという仕組みではある。
後書きで白状しているが、ネタ元の第一は伊藤整の「日本文壇史」らしい。この全十八巻という膨大な労作??は、文学の歴史とはまるで違って、日本の一時期のみに存在した「文壇」という特殊社会の特殊風俗、エピソード、評判記、ゴシップ記録、毀誉褒貶、人気盛衰等などがドキュメント風に描かれている。
本書ではそれらのエピソードを、ほとんど興味本位にアレンジして、特に下半身的興味への偏っているのが特徴で、いわば、写真週刊誌みたいなスタンスなのだが、それを興味本位で読んでしまうというのも、読み手側の下衆根性にフィットしたということかもしれない。
元編集者だけあって、エピソードの連結、按配は上手いのだが、毎度のことながらこの人の意地悪な視点というのが、そこかしこに見えて、その部分は読んでいて嫌な気分になる。


アリランの誕生】宮塚利雄 ★★★☆ 「歌に刻まれた朝鮮民族の魂」と副題にある。「韓国文化」に「民衆史としてのアリラン」と題して89〜92年に25回にわたって連載されたものを95年に加筆して上梓したもので、前から読もうと思いながらついつい読みそびれていた。なにしろ、あの名著「日本焼肉物語」の著者の作なので、期待して読み、期待は裏切られなかった。
羅雲奎ラウンギュの伝説的映画「アリラン」(1926)こそが、現在のアリランの原型であるという見地から始まり、映画、レコードになったアリラン、日本人が歌ったアリラン、近代以前の伝統的民謠としてのアリラン、また日本に渡った朝鮮人のアリラン、特攻隊として死んでいった朝鮮人の歌ったアリラン、古賀政男とアリラン、半島の舞姫崔承喜が踊ったアリラン、アリランの語源、アリランの発祥地とされている江原道(カンウォンド)の族善(チョンソン*チョンの漢字は正しくは族の矢の部分が生)訪問記など広汎にわたっていて、朝鮮近代史専攻の学究でもあるだけに綿密な調査と資料を駆使して、なかなかに読み応えがあった。特に映画アリランの製作過程や時代背景を克明に記録している部分は圧巻だった。ただ、取り上げられる時代が時代だけに、当然、日本による侵略、文化統制、弾圧、略奪等の事実を突きつけられるだけに、辛いものがある。
件の傑作「アリラン」のフィルムは現在失われて見ることが出来ないが、これだけ後世に影響を与えたというからには、凄い作品だったのだろう。本当に出来ることなら一度見てみたいものである。
アリランの語源としては、峠の名前説、女性の名前説、知らないという意味から来たという説、女真族のアリン由来説、赫居世(ヒョッコセ)の妃アルヨン説、妻との別れを惜しむ我離娘(アイラン)説など、地名や人名に由来したり、漢字語や言葉の意味に由来するという説から、ロシア、アメリカ、日本、イギリスに気を付けろという意味での「俄・美・日・英アミリョン」のことだという突飛な説までさまざまだが、筆者は特定を避けている。その代わり、徐廷範「韓国のシャーマニズム」中のアリラン説を掲げている。

「アル」は卵の意味を持たせた「アル」だと思える。「アル」は新羅王朝始祖の朴赫居世、高句麗王朝始祖の高朱蒙、駕洛王始祖の金首露王が生れた卵と関連すると思われる。
「アリラン」の「アル」も卵の意味であろうし、また朴赫居世の王妃アルヨンにより近い。すなわち王妃の出生地がアリヨン(アルヨン)だからである。アルヨンは地名であるが、「アリラン峠」も民謡では地名になっている。こう見てくると、「アリラン」は結局、祖国、民族、民族魂を喩えたものであろう。アリラン峠は、祖国と民族の受難の危地を意味していると見られる。すなわち、日本の植民地原住民の受難の危地である。「私を捨てて行く君は」の「私」は、祖国・民族を暗示しているといえる。その祖国と民族を捨てて行くような人は、一里も行かないうちに足に豆ができるぞと愛国心を高調した内容である。表現としては恋人を指しているように喩えているが、これは日本帝国主義の監視を避けるためだった。「青い夜空には星も多いが、私の胸には悩みがいっぱい」は、植民地原住民の苦しみ、悲しみは多いが、しかし希望は決して失うなと激奨する趣旨である。

ちょっと強引な印象も免れ得ないが、アリランの意味は、一言で言えない複雑な内容を併せ持っている(持たされてしまった)というのは事実だろう。
アリラン保存連合会の金煉甲の著書「アリラン」中にあるアジテーション風の文章が印象的だった。。

慟哭だ。血だ。憤怒だ。抗弁であり、絶叫であり、反乱だ。いや旗だ。消化剤だ。むしろ里程標だ。よく熟れたアジュカリ(唐胡麻)だ。悲しい浮気者であり限りない懐かしさだ。不思議にもこの地にあるものの中で殆ど唯一の国産だ。それゆえ土だ。米だ。韓服だ。この地の声だ。それゆえ地下放送であり、真言だ。この地に住む人が、この地に住む人々の声を聞けない時笑う。風刺であり、詰問し、いやらしく皮肉る。また調子が早くなるかと思えば、ふらりふらりと搖れ、素知らぬ振りをしたかと思えば、慇懃ともなる。そして証言するのみだ。いつもその"峠"を越え証言するのみだ。それは力があるからだ。多くの歪曲と受難の峠を越え、今日もこの地の風音のごとく聞こえてくるのは、すなわちこのように力があるからだ。つまりこの民族の力であるからだ。


今夜の魚 呑む銘酒】魚柄仁之助 ★★★☆ 安く手抜きで美味しく食べるというコンセプトの魚柄のヴィジュアル料理本。本書は素材を地魚に限り、毎月2素材×2=48メニューの簡単なレシピと、それに合わせた地酒の紹介までを、例の変な九州弁混じりのお茶らけたコラムで、それなりに読んで楽しく、ためになる(ような気になる)一冊である。
なに、本当のところは、「ひと品平均200円」といううたい文句に、貧乏性のMorris.がつられてしまったというわけだ。
6月のメニューから、カツオの鉄板焼きのレシピを

・材料--カツオのサクどり、昆布、味醂、醤油、葱、大根
1。醤油3:ミリン1の割合で漬けダレを用意し、切った昆布を入れて30分おいておく
2。カツオを刺身にひいてつけダレに30分間漬ける
3。熱した鉄板に引上げた刺身をのせ、すぐに裏返し、皿に取る
4。大根おろしと葱を散らす

たしかに簡単ではある。これに合う酒は長野の「真澄 純毎吟醸あらばしり」\2910となっている。

酒の紹介の中から、気にかかる銘柄を、メモしておく。
・十四代(山形)・大七(福島)・明鏡止水(長野)・越後鶴亀(新潟)・伊佐美(鹿児島 芋焼酎)・北の錦(北海道)・八万八百(鳥取)・黒牛(和歌山)・日置桜(鳥取)・鷹勇(鳥取)・黒龍(福井)・神亀(埼玉)


てのりくじら】 枡野浩一短歌・オカザキマリ絵 ★★★ 枡野浩一の名前を知ったのは糸居重里のサイトからだった。自分のページと掲示板を持ってて、なかなか盛況のようだった。もちろん自作の短歌もいくつか読めるようになっていて、Morris.の感想は、可も無し不可も無しといったところだった。本書は歌集というより、最近流行りのヒーリング豆絵本といったおもむきの本で、太い単純な線の魚や動物のイラストがちょっといいな、とおもって借りてきた。全体で64頁、歌の数も50首足らずで、歌そのものも、ライトヴァースというか、ひねりを加えた、31文字の川柳のようなものだった。

こんなにもふざけたきょうがある以上どんなあすでもありうるだろう
殺したいやつがいるのでしばらくは目標のある人生である
本当のことを話せと責められて君の都合で決まる本当
怪談をおりる自分をうしろから突き飛ばしたくなり立ちどまる
ついてないわけじゃなくってラッキーなことが特別起こらないだけ
だれからも愛されないということの自由気ままを誇りつつ咲け
「たとえば」とたとえたものが本筋をいっそうわかりにくくしている
もっともなご意見ですがそのことをあなた様には言われたくない

エスプリというか、くすぐりみたいなものもあり、結構面白かったけど、でも、それだけかな?


寄せては返す波の音】山本夏彦 ★★★ 使い回しの帝王、山本夏彦が、週刊新潮に連載している写真コラム集成の10冊目である。100回分で1冊にするそうだからすでに1000回を越えたことになる。内容はほとんどが、山本語録の繰り返し(変奏)なのに、それなりに読ませらえれてしまう、山本の語り口、いや「騙り口」にMorris.は、手も無く乗せられてしまう。つくづくイヤな親父だと思う。
このあたりの機微を当人が簡潔に説明してるのが「ちがうのはタイトルだけ」と言うコラム。

・俗に不易流行と言う、私は万古不易なものにしか関心がない。故に結局はいつも同じことを書いて「ちがうのはタイトルだけ」になって読者の寛恕を請うよりほかないのである。

こう開き直られては、あっさり兜を脱ぐか、無視するか、どちらかしかないのだろうが、そのタイトルだけでも、面白いのでついつい、中毒症状みたような仕儀になってしまうのだ。

・暮らしの手帖の使命は終ったとプロは見た。それは決して花森の恥ではない。古往今来食い物を捨てる国は滅びる、その時代にはいったことを花森は感じたがいかんともしがたいこともまた感じたのだろう。暮らしの手帖は次第に衰え、読者は暮らしの手帖と共に老いた。
花森の言葉で強く記憶しているのは、英語の字引の訳語を日本語だと思うな、全文ひら仮名で書いてみよ。その上で漢字で書いて許される文字だけ漢字にせよ。 同感にたえない。

・文字は言葉の影法師だとギリシャ人は見ていた。ソクラテスもイエスも問答しただけでジブンは書いてない。書いたのは弟子たちである。本を読むのは死んだ人と話をすることだ。死んだ人は返事をしない。十年二十年たって読み返すとハタと思い当る。すでに書いてあるのを発見してようやく問答がなりたったのだ。
人間の知恵は古典に尽きている。それに加える何ものも現代人にはない。学ブニシカザル也と古人はそこまで言っている。けれども同じことでも同時代人の口から聞くのはまた格別である。だから本は少しはでてもいい。そんな本でも読む人は稀である。

・私は昔話をしているのではない。インテリ! この獅子身中の虫、自分の国をあしざまにいって良心的だと思っている者、安全地帯にいてなお左翼的言辞を弄する徒輩、それは学校に官庁に、ことに新聞社にいる。 わが同胞はそのインテリの支配下にある。


漱石俳句を愉しむ】半藤一利 ★★★☆☆ 熊本日々新聞に連載された「漱石くまもと100句」に松山代の句を合わせて、コラム風に論じたもので、漱石の初期の句好きのMorris.にととって、面白くない訳が無い。というより、同じ著者の前作「漱石先生大いに笑う」を読んで、気に入った句を引用したら、ソウルの杉山さんが「ぐいぐい俳句」と批評されて、それが縁でMorris.が「ぐい句」を作ることになったのだから、あだや疎かにはできない。
著者の細君は、漱石の長女の娘だから、漱石との縁もあさからぬものがあり、著者自身が文藝春秋、週刊文春の編集長を歴任しただけあって、蘊蓄あり、逸話あり、ツボを押えたコラムの手本みたいになっている。
しかし何よりも漱石の初期の俳句は楽しい。「草枕」の中で主人公に

十七字は詩形として尤も軽便であるから、顔を洗う時にも、厠に上った時にも、電車に乗った時にも、容易に出来る。十七字が容易に出来るという意味は安直に詩人になれるという意味であって、詩人になるというのは一種の悟りであるから軽便だといって侮蔑する必要はない

と言わせてる漱石ならばこそ、の、どんどん作る姿勢が、初期の句に、破天荒な魅力をもたらした(駄作も当然多いが)のは間違いない。

・朧故に行衛も知らぬ恋をする(明29)
・或夜夢に雛娶りけり白い酒(明30)
・抱一は発句も読んで梅の花(明32)
・木瓜咲くや漱石拙を守るべく(明30)
・菫程小さき人に生れたし(明30)
・あつきものむかし大阪夏御陣(明29)
・累々と徳孤ならずの蜜柑哉(明29)
・凩や海に夕日を吹き落す(明29)


このバカを見よ!】高橋春男 ★★★☆ 毒舌似顔絵で定評のある高橋春男の、辛口人物コラム(似顔絵付)だが、出たのが93年、約3年かかったとあるので、ざっと10年前の芸能ニュースみたいなものということになる。鮮度はのぞむべくもなく、その落差を楽しもうと借りてきたのだが、意外にも面白かった。マスコミでは褒めるより、けなす方が難しいという部分もあるだろうが、高橋はなかなか善戦しているといえるだろう。バカの1位から百位までをバカベスト100として見開きで寸評、通知表風な採点、各人2点ずつの似顔絵(戯画)を配している。類書として思い出したのがナンシー関の一連の芸能コラムだが、彼女自身が80位(消すに消せない消しゴムバカ)で堂々入選させられている。
記事はないが、101位から300位までの人名とキャッチフレーズが列記されているし、一味捻った馬鹿ベスト10も数編載ってるから300人以上を「バカ」でぶったぎっていることになる。そこはそれ、ほんとにこき下ろしてるのから、ほとんど褒め殺しみたいなものまで千差万別、玉石混淆ではあるが、はっきり「バカ、ブス」発言を出来る人というのはやっぱり、すごいと思う。文体を使い分けたり、駄洒落を駆使したり、筆力もかなりあると見受けられるし、キャッチーなバカコピーだけでも充分笑わせるものがあった。
しかし、10年という歳月はやっぱり短くはないようで、ベスト100のなかですでにこの世にいない方も数人見受けられる。その中のひとり、チャールズと別れたばかりの48位(ブリテンバカ)のダイアナを、POPS歌詞とタイトルで茶化したものを抜粋して引用しておく。

お〜ダイアナ 旦那と別れたんだって?
なんてこった アイムソーサッド お〜ダイアナビッグホール
エゲレス一の馬鹿ウーマン 憎みきれないシックスナッシング(ろくでなし)

サドンリー 君があいつと結婚した日 オーマイゴッドと叫んださ
アイムクライング一晩中 バット 君が幸せになるならば
ボクはファーラウェイ ボクは遠くへトラベリン

いまからでもノースロー(おそくない) やり直そうぜワンスモア
お〜ダイアナカンバック ボウのハートはツーホットイエット
ツーダン満塁ピンチはチャンス なんていったらドウユーノー?

お〜ダイアナビッグホール お〜エゲレス一の馬鹿ウーマン
それでも僕はアイラブユー なんていったらドウユーノー?
憎みきれないシックスナッシング イエスタデイをワンスモア

キャッチフレーズだけでもいくつか
・長嶋茂雄(バカの理想像)・村上春樹(バカに詮索されるバカ)・野村監督(華を摘み取るバカ)・大江健三郎(題名だけ面白いバカ)・シドニーシェルダン(買う方もバカ)・筑紫哲也(グダグダグダグダグダグダしゃべるバカ)・紀子様(笑顔の美しい馬鹿)・雅子様(作り笑顔の美しいバカ)


韓国のおばちゃんはえらい!】渡邊真弓 ★★★ 特派員の夫に随いて、94年から2年間韓国で暮らし、その間の体験を98年韓国の書店から「韓国オンマ礼讃」として上梓。本書はそれの日本語版として新たに書き下ろされたもの。
結構これに類した本は多く出されているし、あまり韓国に関心も持たず、言葉も全く知らないで生活を始めた主婦が、たかだか2年間、他国で暮らしたくらいでたいしたことはないだろうと、期待せずに読み始めたのだが、これがなかなか面白かった。日本ではイラストの仕事もしていた女性だからだろうか、観察力にすぐれているし、夫婦の関係や、韓国人との関わり合いにしても、実に正直で、大らかなのだ。3歳と4歳の娘を保育園に入れ、心配したり、焦ったり、反省したり、自己満足したり、普通なら書き辛いことも、さらっと表白できるのは、才能というより、性格なのだろうな。
韓国語学習にしても、最初は日本に留学した娘に習い、これがだんだん馴れ合いになったので、専門学院に行くまでのすったもんだ、そして教師に対する評定、語学学習へのあらたな目覚めなど、羨ましいくらいの素直な向上心がある。
おばちゃんに混じってのキムチ作りや、恋愛相談、酔いつぶれた夫の尻拭い、近所付き合いの難しさなどのエピソードも、さらりと書かれていて、嫌味がない。本書の元となった本が韓国で好評を得たのも、そういった、彼女の姿勢が好意的に受け止められたからだろう。と、Morris.にしてはえらく褒めてしまったが、本当は羨ましかったというのが本音なのだろう。
学院の金ジネ先生の言葉が印象的だった。

「ワタナベさんは、文法的な正確さより、感情表現などの形容詞にこだわりがあるのだから、それを今後勉強してゆくといいですよ。所詮、言葉というのは道具です。肝心なのは、その道具を使って相手から何を感じとり、自分が何を表現したいかです。」


始祖鳥記】飯島和一 ★★★ 先日「汝ふたたび---」を読んで感心したので、大いに期待して読んだ。たしかに人物描写や構成はしっかりしているし、物語の運びも緩みなく力量を感じさせるのだが、思ったほど楽しめなかったのは何故だろう? 主人公が糸の無い凧を使って大空を飛翔したいと言うデーモンに取りつかれるくだりが、Morris.にはよく理解できなかったためかもしれない。400頁近い大作で、鳥人のエピソードより、塩を扱う問屋と回船業者の、義憤をバネとする活動の方に力点がおかれ過ぎて、全体がまとまりを欠いてるきらいがある。
しかし相変わらず、人間の身体の動きや、複雑な細工を文章に写し取る技量は感嘆に価する。
ただ「目をしばたいて」「腕をこまねいて」という、Morris.が嫌う表記があったのが残念だった。特に「腕をこまねく」と言う語が、繰り返し出て来るのには閉口した。

人は皆同じものを見、おなじものを聞いたとしても、同じ思いを抱くわけではない。いや実は、人それぞれが見たり聞いたりしているものは、すべて異なるものなのだ。ところが世の中には、己の見聞きするものと、同じものを感ずる人がいる。


韓国歌謡史 1895-1945】朴燦鎬(パクチャンホ) ★★★☆☆ 87年の発行で、たしかMorris.は90年頃一度借りて読んだはずだが、当時韓国にはまりかけたというものの、好きな歌手はイジヨン、キムワンソあたりだったから、本書の扱っている戦前の歌謡史にはほとんど関心が無かったからあまり印象も残っていなかった。改めて読んで、その内容の濃さに感心してしまった。歌謡曲にとどまらず、唱歌、新民謠、童謠、歌曲から、ジャンルを越えた音楽関係の資料を漁り、社会、政治、人間関係までに目配りを聞かせた、社会思想史にもなっている。
本書に出てくる楽曲は900を越え、300曲の歌詞の一部が引用されている。本書自身が高い資料的価値を持つことは確かだ。
個人的には、前から気になっていた「タバンエプルンクム−茶房の青い夢」の成立事情と訳詞が掲載されていたのも嬉しかった。韓国の服部良一とでも言える金海松が愛妻李蘭影のために1939年11月新譜として発表されたものとのこと。
全体を通して、日本帝国による弾圧、統制などが色濃く影を落していて、特に最終章「闇黒期歌謡曲」は、読むのが辛かった。
本書が扱う時代とはずれるが、625(ユギオ、朝鮮戦争)による、分断と越北/連行によって、多くの音楽人も辛酸を舐めたり、行方不明になったりしている。ここらあたりの事情も含めて、本書の続編を望みたい。


トンデモ一行知識の逆襲】唐沢俊一 ★★★ とにかく無用な知識、それも断片的なもので、面白くて意外性に富むというだけで、集めまくり、それを誰かに知らせたいと言う欲求のままに披露するという、毒にも薬にもならない本なのだが、それを持続している唐沢俊一の熱情??には、感心と言うか、呆れると言うか、参った、と言わざるをえない。
どんなものか、の紹介を兼ねて、Morris.の印象に残ったものを引いておく。

・竹ヤリの正式名称は「引殺(ひっそぎ)槍」である
・サンリオの社名は、社長が山梨県の出身で「山梨の王」になるとの志から「山梨王(サンリオ)」と名づけられた
・徳島市役所では新人研修の一環として阿波踊りの特訓をさせられる
・中国軍関係イベントで演奏される「人民解放軍行進曲」のメロディは「花咲かじいさん」の歌である
・カレーにワカメを入れるとまずい
・ラジオ体操第一は「作業員用」、第二は「事務員用」である
・「了解」を意味する「ラジャー」は中国語(方言)
・猫科の中で唯一、国際保護動物に指定されていない動物は、猫

ちなみに唐沢俊一の「一行知識」ホームページURLは
http://member。nifty。ne。jp/uramono/


【とびきりお茶目な イギリス文学史】テランス・ディックス 尾崎寔訳 ★★★ 本を読まなくなった若者のために、イラストを使い、気楽な文体、興味を引きそうなエピソードを添えてイギリス(アメリカも含む)の作家を、総ざらいして紹介したもの。取り上げられるのは、チョーサーからヘミングウェイまで30人。たしかに有名作家勢揃いで、前半は詩人のオンパレードだったりして、昔馴染みにひさしぶりに再会したような気持ちになったりもしたのだが、ルイス・キャロルとポーが入ってないのは大いに不滿だった。
本書の長所としては、引用文には英文が併記してあることなのだが、肝心の引用がいまいち魅力に欠けてるのが情けない。
収録作家をMorris.の個人的好き嫌いで分類すると

1。大好き−−シェイクスピア、エミリーブロンテ、コナンドイル、スティーブンスン
2。好き−−ワージワース、ブラウニング、ディッケンズ、トウェイン、ワイルド、ショー、ウェルズ、
3。ちょっと好き--デフォー、バーンズ、オースティン、シェリー、キーツ、ハーディ、キプリング、DHロレンス、ヘミングウェイ
4。嫌い--コールリッジ、バイロン、テニスン、トルーキン、
5。読んでない−−チョーサー、ポープ、ジョイス、ヴァージニアウルフ、フォークナー、ジョージエリオット

ざっとこんな感じかな。しかし、英米文学に限らず、翻訳ものは長いこと読んでないな。


夜明けあと】星新一 ★★★☆ ショートショートの達人星新一が、父星一について書いた「人民は弱し官吏は強し」と、祖父小金井良精伝「祖父・小金井良精の記」はどちらも大長編で、著者の力量を改めて認識させてくれた労作だったが、それらの資料として明治時代の新聞や雑誌を渉猟していて、面白い記事が多い事から、それを編年体に、ピックアップして新潮社の「波」に2年余り連載。それを一冊にまとめたもの。政治や大事件より、小ニュース、それもどこか笑いを誘うようなトピックが多い。こういう形式を思いついたのは、アメリカの一齣マンガをテーマ別に集成した「進化した猿たち」がヒントになったという。そういえば、SFマガジンに連載されていたのを思い出した。
明治時代のマスコミのスタンスをうかがうこともできて、興味は尽きなかった。星新一の選択眼って面白い。

・漁業をしている青年、希望すれば水兵に採用する(太政官)明4(1871)
・奈良の若草山を牛の牧場にする計画。外国人から反対意見が出た(新聞雑記)明5(1872)
・一銭銅貨が発行される。新しいために、金色に輝いて、十円金貨とまぎらわしい。夜の料亭でばらまき、芸者たちをさわがせる者が出た(東日)明7(1874)
・京橋で安物のマッチを買った男。タモトに入れると発火。着物が燃え、ヤケドも。商人は気の毒と、一箱を無料で進呈(曙)明9(1876)
・人糞を大鍋で煮て、粉末肥料を製造しようとした男。あまりの臭気に近所から文句が出て、中止させられる(郵便報知)明9(1876)
・山梨で西洋ブドウの栽培がはじまった。名産となるか(朝野)明10(1877)
・進化論が大流行。絵入りの本が出たが、春画まがいのものもある(かなよみ)明11(1878)
・内務省から出る時、一本の傘を盗んだ男、四十日の刑。本社の記者なり(東日)明13(1880)
・北海道を函館、札幌、根室の三県に分け、開拓使は廃止となる明15(1882)
・大阪。造幣局の桜の通り抜けが、はじめて許可される。4月20日 明16(1883)
・立派な家のそばの、貧しい家はみっともない。それらをどこかにまとめる方針を、東京の知事が立てた(朝野)明19(1886)
・神奈川県の海岸の海水浴。男女の場所を区別して、違反者は罰する(東日)明21(1888)
・電話での新年のあいさつ、流行明24(1891)
・社説。坪内逍遥君は、ショークスピアの劇の全部の翻訳をすべきだ(毎日)明28(1895)
・「よくッてよ」の言葉がはやる。山の手の下層から、屋敷町の令嬢へと(早稲田文学)明29(1896)
・小学生の女の子に、歌舞伎役者の写真を持ち歩くのがはやる(読売)明32(1899)
・麹町で少年が殺され、尻の肉を切り取られると言う、怪事件が発生(時事)明35(1902)
・今日までの本年の流行は、エスペラントと浪花節(東朝)明39(1906)
・リボンが大流行。輸入をへらそうと、大急ぎで会社と工場を作る(時事)明40(1907)
・デアボロという遊びが流行。ヨーヨーのようなもの。すぐにすたれた(英学生)明41(1908)
・池田菊苗博士、コンブのうま味を分離。量産開始。翌年より「味の素」の名で発売明41(1908)
・不二家洋菓子店が、横浜で開業。コーヒー、紅茶、洋菓子を出してくれる明43(1910)
・米国の福の神、頭の大きいビリケンの人形が、日本で流行(都)明45(1912)


天使のウインク】橋本治 ★★★☆☆「中央公論」に3年ほど連載された同題の月間時評?を集成したもの。神戸の酒鬼薔薇事件を皮切りに、少年問題、団塊の世代(橋本もMorris.もそう)の諸問題、橋本の少年時代回顧、サッカー論、父性喪失論、価値観の変化、大学トンネル論、人間関係論、差別の問題、映画論等々、さまざまなテーマを取り上げながら、橋本らしい独得な分析と解釈を見せてくれる。
Morris.は前から橋本のファンであり、アンチファンでもある。そもそもレベルが違うことを承知で、馬鹿を言わせてもらうなら、Morris.のやりたいことをさっさと先にやってしまう、すごい奴で、ちょっと嫌な奴だと思ってしまう。そもそもは、ン十年前、大島弓子にはまってて、大学ノートに、しこしこと彼女の作家論、作品論みたいなものを書いていたことがあるのだが、同じ頃に橋本の「花咲く乙女たちのキンピラゴボウ」2冊本(表紙絵が大島弓子だった、というのも衝撃だった)が上梓され、その中の大島弓子論「ハッピーエンドの女王」に、完全に圧倒されてしまった。Morris.のノートは、その時点で破棄されてしまった。そのくらい、完璧に(戦う前に)負けてしまったという、いわばトラウマ(^○^)を与えてくれた存在でもある。彼の小説はあまり買ってないが、詩や評論、コラムなどは、いつも関心と共感をもって読んでいた。さすがにいいかげん橋本離れしなくてはと、しばらく見てみぬふりをしていたのだが、ひさしぶりに本書を読んで、ああ、やっぱりかなわないな、と思ってしまった。発表した媒体とタイトルのギャップでも分かるように、橋本はマスコミでも、超越した存在になりおおせている。
「ガタカ」という近未来SF映画(遺伝子操作で優秀な人間が中枢に集中する社会で生きる普通の人間の物語)を語りながら、人間の本質的な矛盾を突く。

単一の思想で出来上がってしまった全体主義国家は、その単一な思想に合わせて国民のデザインをしたがるものでもある。しかし、全体主義国家もまた国民の中にある願望を吸収反映することによってできあがるものなんだから、よく考えてみれば自分のデザインをしたがるのは、理想というものを追い求める国民自身なのだ。
自由はある。どこにも強制はない。しかし拒絶はある。それだけ人間的な社会の中に、どうして画一的な「遺伝子としての優秀」が信じられるのか、私には分からない。しかし、人というものは、柔軟な自由の中で、いたって画一的な選択をするものでもあるらしい。
「差別」というものは「区別」というものをどこまでも明確に適応してしまった結果でもあるらしいから、「差別」を嫌う自由な社会では「区別」が内規のようなものになって隱される。隱されても歴とした内規であるものは、いつの間にか風評によって外部に広がり、「常識」として定着する。


汝ふたたび故郷へ帰れず】飯嶋和一 ★★★★ うーーん、久しぶりに熱中させてもらった。数年前に「雷電本紀」というのを読んで感心したことをおぼえているが、三宮図書館には同じ著者の本は他になかったので、ついそのままになっていたのだが、偶然中央図書館で2冊並んでいたので借りてきた。本書は89年発行で88年の文藝賞受賞作とあるので、彼の出世作なのだろう。
トカラ列島の宝島出身のミドル級ボクサーが、東京で挫折し、島に戻りカムバックするという、ストーリーは至って単純で、特異な事件が起きるわけでもないのだが、丹念に書込まれたディテールが素晴らしい。登場人物たちはおおむねクールだし、人間関係も神話のように、俗世から超越している。何よりもボクシングという格闘を描く時の著者の才能、というより「膂力」を感じてしまった。雷電を描いた作品の相撲の描写もそうだったが、ともに門外漢のMorris.に、肉体の臨場感を味あわせてくれるというだけでも、生半な筆力ではないだろう。主人公はもちろん、ジムの老会長、先輩ボクサー、応急処置名人のトレーナー、旧友の息子、カムバックを助けるアマチュアジムのオーナー等など、脇役も、それぞれいい味をだしている。7歳までしかいなかった島に戻った時の島人との交流も感動的だ。タイトルは、逆説的なもののようだ。
すっかりファンになったMorris.なのだが、どうも、この作家も寡作らしい。あまりあせらず、じっくり読んでみたい。


現代四行詩集 こころの果実】伊藤海彦他 ★★☆☆ 9人の詩人の四行詩を、1ダースずつ集めたもので、92年末発行。伊藤海彦、川西健介、岸田衿子、木島始、清岡卓行、高橋順子、田口義弘、谷川俊太郎、花田英三というラインアップの半分くらいしか知らない。何でこんなのを借りてきたかというと、以前ここでもとりあげた詩集「影の変奏」の作者伊藤海彦の名前があったからだ。本書には著者紹介が無いので、あいかわらず、どんな経歴の人か分からない。
四行詩といえば、ペルシャのルバイヤット、漢詩の絶句などを思い出す。近代西洋にも形式としての四行詩はあって、フランス語ではQuatrains(カトラン)と呼ぶらしいが、韻文形式にはすこぶる弱い日本語の場合、四行詩は言葉遊びの器として利用される他は、良くてライトヴァース、はっきり言ってぽえむの世界になりがちだ。日本語で4行というと、ひとつの文を3回改行しただけだったり、4つないしそれ以上の文だったりするわけで、形式として成立しにくい。本当に短いものならそれこそ俳句にしたほうが、決るのではないかと思う。金子光晴が一時期、よくやってたように、4行を一連として、詩編を構成して行くというのなら、可能性はあるだろう。
とはいうものの、もちろん、すぐれた四行詩もあることあるわけで、それらは短いだけに、一層愛唱されるという利点もある。本書に登場する中で、岸田衿子の作品などはMorris.も以前から愛好している。ことばあそびの色が濃い「くるあさごとに」が本書でも最初に載っている。

くるあさごとに 岸田衿子

くるあさごとに
くるくるしごと
くるまはぐるま
くるわばくるえ

この詩を含む四行詩集「ソナチネの木」は傑作といっていいだろう。

谷川俊太郎には、タイトルも「ことばあそびうた」という、これまた大傑作があって大好きなのだが、これには四行詩は少なかった。本書の作品では、蕪村の「いかのぼりきのふの空のありどころ」からインスパイアされた

そんなに高く
おまえは今日も空を探す
凧よ
空はやさしい嘘にすぎないのに(谷川俊太郎)

が目をひいたが、四行詩というより、お馴染みの作品の一節のように思える。

それに比して、清岡卓行がいかにも四行詩らしいのをものしてるのは、意外だった。

ひとりごと -モンスリー公演で 清岡卓行

ねむりたいだけねむりたい
ゆめみたいだけゆめみたい
めざめたいだけめざめたい
えがきたいだけえがきたい

そのほか印象に残ったものをいくつか。

晴海埠頭 花田英三

とにもかくにも海なのだ
七つの海の海なのだ
これ行けば世界の果てに行けるのだ
ここも世界の果てなのだ

花火の
一瞬の凍結
裏返った夏に降る
死者たちの嫉みの驟雨(田口義弘)

この季節は 岸田衿子

この季節は あかるすぎて
文字が読めないから
水の底の小石の数を 数えよう
えのころ草の穂をしらべよう

それで、肝心の??伊藤海彦の作品なのだが、正直言って、いまいちである。あまり器用な方ではなさそうだし、動植物の名前をカタカナ書きしてるのも減点対象となった。

ひなびた墓地のそこここに 蝶が翅をやすめている
アカタテハ ルリタテハ・・・・・クジャクチョウ
遠く去った無数の夏と 今また終るこの夏の
儚さからの 死者のことづて いきづく絵文字(伊藤海彦)


クラウド・コレクター 雲をつかむような話】クラフト・エヴィング商會・著 坂本真典・写真 ★★★★☆ クラフト・エヴィング商會というのは、吉田浩美(作品制作)、吉田篤弘(文)二人のユニットらしい。二人が夫婦なのか、兄弟なのか、他人なのかは明かにされていない。本書は幻想的な物語と、幻想的なオブジェの混合物で、両者がそれぞれ水準高いし、美しい。かれらの最初の本「どこかにいってしまったものたち」を書店で見て、そのデザインセンスにはすっかり魅了されたのを覚えている。博物標本みたいなオブジェと、百科全書的イラストと文字擬きによるラベル類、素材やガラス壜などのチョイスも的確で、それだけで評価は大甘にならざるを得ない。21番目の酒壜のラベル
ストーリーも、自分の祖父の架空旅行記という形式を巧みに利用して、タロット、秘数術、言葉遊び、堂々巡り、懐かしさ、忘却の哲学など、実に様式的に編みこまれた布地のような見事さで、感心してしまった。高級な遊び感覚が横溢してるし、それを形にする手の技も、大した物で、このくらい、技術とセンスがあれば、さぞ楽しいだろうなと、羨ましくなる。
イントロは昭和9年の「雲、売ります」の広告で、その広告主が著者の祖父。祖父が残した様々な不思議ものたちの中に、1943年の手帳数冊が残されていた。内容はアゾット国21エリアの旅日記で、と物語りが始まる。この国はユートピアの一種で、実在しないものの懐かしいという、よくありがちで、実は滅多に無いそんな国の話だ。
こういった作品の常で、深さには欠けるが、これだけ雰囲気を感じさせてくれれば、文句はない。写真もたしかにプロらしく、物語とものたちに、拮抗している。物語に合わせて、21種類の酒壜が登場して、それぞれのラベルがみな素晴らしい。もともとMorris.はラベルやレッテルに目が無い方なので、これ、みんな欲しい(^_^;)
意地悪で(やっかみ半分で?)瑕瑾をあげつらえば、タイポグラフィデザインやや弱いような気がする。レイアウト、段組で変化付けたり、フォントも色々変えてるのだが、なんとなく、統一感に欠ける(ちょっと読みにくい)と思ってしまった。  


お金をちゃんと考えることから逃げまわっていたぼくらへ】邱永漢+糸居重里 ★★☆☆ 二人の対談で、小説家としてよりお金の神樣の異名が有名な邱永漢が、糸井の有名サイト「 の寄稿者になった縁から生じた本らしい。大部分が、糸居による邱永漢への「ヨイショ」ではないかと、感じてしまった。内容も「金のことをちゃんと考える」とは程遠い抽象論に見えるし、後半部分の、自分のサイトの意味付けと、大量読者(一日35万アクセスだとか)を、いかに有効利用しようかというところに力点が置かれてるようだ。それが悪いとは思わないのだが、彼らとMorris.の価値観は、相当に違っているようだ。
これを機会に久しぶりにイトイ新聞を覗いてみた。確かにコンテンツはてんこ盛で、執筆者も著名人(含邱永漢)多士済々だが、仮にこの1/10でも、毎日読むとすれば、それだけで、ものすごい時間を使わざるを得ないだろう。普通人より閑な時間の多いMorris.でも、自分の部屋いじりと、友人のサイト、掲示板を巡回するだけで手いっぱいな現状からすると、あまりあちこち手を広げる余裕はないと思ってしまうのだが、これは、Morris.の時間の使い方が下手な証拠かもしれない。


おもしろ比較文化考】ロビン・ギル ★★★ 先日メールもらったロビンの書いた本らしいので借りて来た。7年前の発行で、紹介によると51年生、ハワイ大学の院で日本語学び来日してこの本を書いたらしい。英語(米語)と日本語を通しての比較文化論ということになるだろうが、歯に衣を着せぬ常識破りの論調だが、それなりに面白かった。あまり俳句に及んだ部分はなかったが、ナンセンスライム紹介の章に、自作の川柳として

大雪やむな毛におよぶ猫歩き ロビン

というのを披露していてこれは結構笑えてしまった。


【季刊  本とコンピュータ 15 】2001年冬 ★★★☆ この雑誌は、創刊されたときは4年間だけの雑誌と謳っていたが、状況の変化と要望によって、さらに継続することになったらしい。創刊当時から気にはなって、書店で立ち読みしたり、数回は借りて拾い読みしたのだが、今回は通読してしまった。「対談特集 21世紀、本はどうなる?」という、Morris.の関心あるテーマだったからだ。10組20人の対談が収められているが、冒頭のロバート・ダーントン(米国の歴史学者)と加藤敬事(みすず書房社長)の「「読書革命」以後を生きる」の中で、。読書革命はすでに起きてしまったという前提で、本といものの本質を掘り下げ、出版衰亡史を生きていると実感しながら「快活なペシミスト」でありたいという、加藤の発言が印象に残った。
名和小太郎と高村薫の著作権に関する対談は、期待して読んだのだが、どうも作者側である高村の及び腰とデジタル文化の、コピーという概念への突っ込みが足りないような気がした。
本誌編集長津野海太郎と、編集者坂下裕明のこれからの編集に関する対談は年下の坂下の方が変に保守的というか、頭の固さを感じさせた。坂下は現在平凡社新書に関わってるためか、新書の必要性と擁護に傾いている。インターネット時代で、出版側の唯一の防衛策が、文庫新書のスタンダード化というのは、余りに情けない。
等々、共感したり、反撥を覚えたりしながら、結構楽しめてしまった。
「永く保存したい本が読まれない」という、柏木博のコラムの中から・

書籍も消費する情報としてしか扱われなくなってしまったということだ。
そうした事態は、膨大なネット上の情報の浪費と相同的である。電子情報が悪いというのではない。ネット上に溢れる情報のほとんどがジャンクでしかないということに人々が気づき、読み捨てられる本しか存在しないことの恐怖に人々が気づきはじめるのは、すでに時間の問題なのでははいだろうか、とたかをくくっているのは、かなり楽観的なのだろうか。
 


花の図譜 春】太陽シリーズ ★★★☆ いわゆるムックというジャンルに入るのだろう。昭和62年(1987)発行だからそれほど新しいものでもないが、実はこれはボタニックガーデンの 「けなり」 のために図版を使いたいがために借りてきたのだが、内容充実、日本古来のボタニカルアート満載で、ついつい読み(眺め)ふけってしまった。

椿・菫・猫柳・蓮花草・蒲公英・蕗の薹・梅・桜・沈丁花・木蓮・土筆・桃・梨・海棠・林檎・枸橘・躑躅・黄楊・山吹・柳・薊・桜草・連翹・山査子・浦島草・片栗・雪の下・甘野老・猩猩袴・ライラック・クロッカス・チューリップ・ヒヤシンス・エリカ・一人静

おしまい辺のカタカナの花は省略して和風に統一して欲しかったが、それ以外の花の図はどれも素晴らしい。
エッセイや花の名所案内などの附録は無くもがなだが、こういう本の性質としてやむをえないのかもしれない。また「花のうた」と題して、歌謡、和歌、俳句、川柳などを12頁にわたりピックアップしてある。中から連翹の句を引いておく。

・連翹や黄母衣の衆の屋敷町 炭太祇
・連翹の莟喰ふかかわら鶸 酒井抱一
・連翹に一閑張の机かな 正岡子規
・連翹の一枝圓を描きおり 高浜虚子
・連翹に人住みかはる小家かな 高橋淡路女
・行き過ぎて尚連翹の花ざかり 中村汀女
・連翹やうすうす懸りゐし銀河 田中牛次郎

このシリーズは、他に3冊(夏・秋・冬)が出てるのだが、冬の号はどんなラインアップなのかちょっと気にかかる。


キムチの国】李御寧・李圭泰・金晩助 金淳鎬訳 ★★★ 100頁余りの薄での本に50点以上の写真が入ってる、ヴィジュアル本だが、なかなかにその写真が美しい。「縮み志向の日本人」の李御寧(イオリョン)が「キムチの味と韓国文化」、「韓国人の意識構造」の李圭泰(イギュテ)が「キムチの民俗」、食品工学博士の金晩助(キムマンジョ)が「キムチの起源と歴史」というタイトルでそれぞれ小論を書いている。キムチ紹介のパンフレットみたいなものだ。もともと韓国で「キムチ千年」のタイトルで出されたものの訳書である。17世紀に日本から唐辛子が伝えられて300年しか経っていないのだから、千年というのは、無理があるような気がする。もちろん唐辛子のはいっていない、塩漬け、トンチミなどを挙げてはいるのだが、たかだか300年の間にこれほど多彩で、豊かなキムチ文化を達成したことこそを誇ってもらいたい。二人の李さんの文章は、流石と思わせるところがあるが、どうも、訳がところどころ生硬で、かなり原書の魅力を損なっているような気がするのが残念だ。

キムチをつくるには、時間を引き入れなくてはならない。時間が経てば自然物は、枯れ、朽ち、腐る。誰も防ぎ得ない腐敗の時間性を逆利用して、新しい味をつくり出したのが発酵食の知恵である。
赤ちゃんが産まれるには、暗い母胎の中で一定時間を待たなくてはならないように、発酵の味が誕生するためにも熟成の絶対時間、くらやみの時間が必要である。そのためだろうか、キムチを漬ける甕は、妊娠した女性の体つきに似ている。(李御寧)

昔の母親たちは、手でととのえた青物の味とそうしなかった味を区別することができた。ととのえているときから、手の味がつき始めるからだ。
料理を作るとき、真心を込めるほど味がよいということは科学である。ととのえることは、料理に真心を込める最初の過程だ。ひとつひとつととのえる過程で込められた真心は、その後のすべての料理過程にまでつながる。多くの真心を込めた料理は、より少なく真心をこめた料理より味が良いのは当然であろう。(李圭泰)

どちらもいいことを言ってるんだけど、特に後者の訳文はいただけない。原文を読まずに言うのだが、「ととのえる」は「下ごしらえする」という意味なのだろうが、「ととのえる」というのは、いかにもキムチ臭い日本語である。「より少なく真心をこめた」というのも、中学生の英文和訳みたいだね。


笑う長嶋】夏目房之介 ★★☆☆ 著者があちこちに書き散らした漫画エッセイ、コラムなどを集めた物で、面白いの、面白くないのごちゃ混ぜだが、落ち穂拾いという感は拭えない。マンガにおける長嶋のイメージの変遷から日本漫画の成熟、発展を見たり、ゴルゴ13を現代戦争史として読んだり、ブラックジャック変人説、少年マガジンの解析などなど、それなりに興味深く読めた。手塚治虫が死んだ頃から、マンガ評論家を自認した夏目は、確かに現在の日本まんが評論としては、先端にいると思うのだが、それは、ある程度テーマを絞って本腰を入れた場合に限るようで、短くなるほどとりとめがなくなる傾向がある。要するにコラムは上手くない。
それより、本書ではマンガ作品の引用に一石を投じていることが重要だと思う。あとがきから引く。

本書の私のもの以外のマンガ図版は、スタッフとともに検討し引用と見なせるものを採用した。---(中略)---つまりこの本の他の図版については、いずれも図版使用の許諾申請をしていないってことである。著作権法の第32条「引用」の、<報道、批評、研究その他の引用の目的上正当な範囲内>であれば本來許可は必要でないし、そろそろまっとうな批評ときちんとした図版引用を世間に認知してもらいたい、という意味でもある。

この意見には大賛成である。漫画家や出版社によっては、著作権をたてにとって、図版の使用を制限したり、法外な使用料を取ったり、批判的著書や、自分に都合の悪い内容のものには使わせなかったりすることがあるようだ。人気漫画を利用して安易に売ろうとする「他人の褌で相撲を取る」類のものは別として、まともなマンガ批評なのに、図版ひとつない本があるというのも、先に書いた事情が原因となってるのだろう。
ついでに、JASRACの歌謡曲の歌詞の引用へのいちゃもんの付けすぎは、程々にしてもらいたいものだ、と言っておきたい。


山原バンバン】大城ゆか ★★☆☆☆ タイトルは「やんばるばんばん」と読む。ヤンバルクイナのヤンバルである。沖縄島北部に住む女の子が描いた、超ローカル漫画である。絵ははっきり言って、下手である(^_^;) しかしどことなく魅力がある。方言(沖縄の中でもまたローカルなヤンバル弁)ばりばりの台詞、田舎であることを自覚した上での愛郷心が、さりげなく出てるところに味がある。同じキャラクターで、顔の三分の一ほどのギョロ目と、点目の混在も川原泉以来の少女漫画のお約束だが、それが全く違和感を感じさせないのも、世代ってやつだろうな。主人公夏美(高一)の家族が実に土着というか、沖縄に行ったこともないMorris.にも、それらしく描かれていると思わせるのは、かなり根性入ってるということなんだろうな。


【チャーリー・ パーカーの芸術】平岡正明 ★★★☆ 学生時代、平岡正明の評論にはシビレていたものだ。過激で扇動的で威勢が良くて、その文体はピカピカに輝いて見えた。
竹中労と組んでのゲリラめいた活動にも羨望をまじえながら共感を覚えていたこともある。ジャズ、革命、歌謡曲、筒井康隆、浪曲とどんな分野を論じても彼の色は変らない。正直言って、その色に飽きを感じて、しばらく読まずにいて、久しぶりに本書を借りてきたのだが、相変わらずであることよ、と、まずそのことに呆れもし感心もした。本書が2000年末刊で、前作「マイルス・デヴィスの芸術」というのも出してるらしい。400頁という薄くはない本で、その密度も相当に濃い。あわててチャーリーパーカーのCD(ベスト集の廉価版)と、先週エアチャックしたMDを聴きなおしながら読んだ。こんな泥縄やったためか、音楽にも本にも集中できなかった。もともとMorris.はジャズはヴォーカル、それも女性ヴォーカル専門なので、楽器のジャイアントたち、マイルスも、パーカーも、コルトレーンもモンクも、名前だけはよく知ってる割に音はわからない。まあ、そんな馬鹿な読者にも、読んでなるほどと思わせるところが平岡の芸でもあるわけだ。フランツファノンの革命論やビート詩人、バルトークや石原慎太郎のジャズ小説へと、めまぐるしく視点を変えながら、パーカーの天才という一点に収斂させるあたりは、こちらも読む前から分っていた(^_^;) ともあれ、ひさしぶりに平岡節を楽しませてもらった、といっておこう。


間諜】杉本章子 ★★☆ 遅れ馳せながらファンになり、焦って続けて読んで寡作の彼女の作で読んでないのはこれだけ、となってしまい、美味しいものは後にとっといたつもりで、やっとのことで読んだのだが、これが、残念ながら期待外れだった(>_<) 500頁の堂々たる長編だし、導入部は実に面白そうだったのに、だんだんだれて来て、半ばから先はほとんど義務的に読むことになってしまった。生麦事件にからむ、英国公私vs。幕府、薩摩藩との駆引き、ラシャメンとなり間諜行為を行う日本女性(花魁)の開化直前の歴史物語なのだが、作者は当時の外交をあまりに、今風に解釈し過ぎていることと、全く訓練のない素人女を間諜にする(片言の英語すらできない)という無理な設定で、始めからぎこちない展開となった上に、ヒロインと、彼女が思慕する薩摩藩士との描写もほとんどマンガでしかない。
写楽や清親をあれほど生き生きと描した彼女の筆は、本書ではほとんど鈍ってしまっている。作家にも波があることはわかるのだが、彼女の場合、本当に寡作で、次作がいつ担ったら読めるか、見当がつかないところが辛い。でも、やっぱり、次作に期待したい。


想像力と創造力】永六輔 ★★★ TBSラジオ「土曜ワイドラジオ東京」の放送当日に毎日新聞に連載したコラムをまとめたもので、当然放送の広告とゲストの紹介、こぼれ話し、リスナーの反応や、楽屋裏などを、例の語りそのままに文章にしている。Morris.は永六輔という人が、好きなのかどうかよく判らない。時々その著書を借りて読んでることからすると、嫌いではないのだろうし、共感を覚えるところも多いのだが、どこか距離感を覚える。当人が繰返し強調する通り、ラジオの世界が彼の本舞台なのだろうが、Morris.がほとんどラジオ聴かない事が、その理由かもしれない。ラジオという媒体は、TVとは完全に違うことは判る。だからといって、今からラジオ中心の生活に戻る気にはならない。といったところかな。やっぱり良く判らない。
番組に長女千絵がゲストに出た時のコラムに、自分の父親の言葉を引用して娘への餞+訓戒にしてたのだが、彼の照れが表れて面白かった。

生きているということは誰かに借りをつくること。
生きてゆくということはその借りをかえしてゆくこと。
これは千絵クンの祖父の言葉。


【ちくま日本文学全集  中島敦】★★★★ 文庫版の全集の1冊だが、読み通すのに随分時間がかかった。このところ、読書控えが少なかったのは、忙しさ(仕事+飲み会)のせいもあるが、この文庫に没頭していたためでもある。高校の教科書に「李陵」と「山月記」が載ってて、当時他にも数編は読んだし、長編「光と風と夢」を神戸に移った頃読んだ記憶があるが、今回の再読??で、彼の凄さにあらためて、というか、やっと、気付かされた。解説で池澤夏樹が言う通り、この文庫450pの中に彼の主要作品21編中15編が収められているという、少なさ(寡作ではなく、これからというときの死による)は、実に惜しんでも余りある。
寓話を完璧にものするる実力を見せた「文字禍」「夢」、漢学の素養の深さを知らせる「李陵」「弟子」「山月記」、絶品である、「わが西遊記シリーズ」の「悟浄出世」「悟浄歎異」は、傑作というしかない。さらに「遍歴」という歌群には、彼の教養の深さと傾向、それにユーモアまで感じられる。
中島敦こそは、もっと早くに再読すべき作家だった。しかし「後悔役に立たず by Morris.」だから、これからぼちぼち読み直すしかない。
「山月記」の虎になった主人公李徴の嘆き節を

なぜこんな運命になったか判らぬと、さっきは言ったが、しかし、考えようによれば、、思い当ることが全然ないでもない。人間であった時、おれは努めて人との交を避けた。人はおれを据傲だ、尊大だといった。実は、それがほとんど羞恥心に近いものであることを、人々は知らなかった。もちろん、かつての郷党の鬼才といわれた自分に、自尊心が無かったとは云わない。しかし、それは臆病な自尊心とでもいうべきものであった。おれは詩によって名を成そうと思いながら、進んで師に就いたり、求めて詩友と交って切磋琢磨に努めたりすることをしなかった。かといって、また、おれは俗物の間に伍することもしなかった。共に、我が臆病な自尊心と、尊大な羞恥心とのせいである。己の珠に非ざることを惧れるが故に、あえて刻苦して磨こうともせず、また、己の珠なるべきを半ば信ずるが故に、碌々として瓦に伍することも出来なかった。おれは次第に世と離れ、人と遠ざかり、憤悶と慙恚とによってますます己の内なる臆病な自尊心を飼いふとらせる結果になった。人間は誰でも猛獣使であり、その猛獣に当るのが、各人の性情だという。おれの場合、この尊大な羞恥心が猛獣だった。虎だったのだ。これがおれを損い、妻子を苦しめ、友人を傷つけ、果ては、おれの外形をかくのごとく、内心にふさわしいものに変えてしまったのだ。今思えば、全くおれは、おれの有っていた僅かばかりの才能を空費してしまった訳だ。人生はなにごとをもなさぬには余りに長いが、何事かをなすには余りに短いなどと口先ばかりの警句を弄しながら、事実は、才能の不足を暴露するかも知れないとの卑怯な危惧と、刻苦を厭う怠惰とがおれのすべてだったのだ。おれよりも遥かに乏しい才能でありながら、それを専一に磨いたがために、堂々たる詩家となった者がいくらでもいるのだ。虎と成り果てた今、おれはようやくそれに気が付いた。それを思うと、おれは今も胸を灼かれるような悔を感じる。おれにはもはや人間としての生活は出来ない。たとえ、今、おれが頭の中で、どんな優れた詩を作ったにした所で、どういう手段で発表できよう。まして、おれの頭は日ごとに虎に近づいて行く。どうすればいいのだ。おれの空費された過去は? おれは堪らなくなる。そういう時おれは、向うの山の頂の巌に上り、空谷に向って吼える。この胸を灼く悲しみを誰かに訴えたいのだ。おれは昨夕も、かしこで月に向って咆えた。誰かにこの苦しみが分かってもらえないだろうかと。しかし、獣どもはおれの声を聞いて、ただ、懼れ、ひれ伏すばかり。山も樹も月も露も、一匹の虎が怒り狂って、哮っているとしか考えない。天に躍り地に伏して嘆いても、誰一人おれの気持ちを分かってくれる者はない。ちょうど、人間だった頃、おれの傷つき易い内心を誰も理解してくれなかったように。おれの毛皮の濡れたのは、夜露のためばかりではない。

蛇足を承知で書いておくが、中島敦の文章こそは、彼以後の作家が失ってしまった、格調に充ちた文体であった。


現代作家100人の字】石川九楊 ★★★ 文庫版で借りてきたのだが、実は前に読んでた「書の交響」に40頁ほど加筆したものだった(>_<) 追加分の中では、中上健次の生原稿が圧巻だった。集計用紙にびっしりと埋め込まれた文字は、異常なものを感じさせる。同じ和歌山・熊野出身の南方熊楠も、隙間なく文字を埋める原稿で知られるが、偶然なのだろうか? 他では工芸かで裝丁もやる望月通陽の文字は良寛の秋月帖を思わせて印象に残る。
本書の追加部分でも石川のワープロ反対論はしつこく展開されている。

ワープロなる機械は、書字の必要が生んだ機械ではない。軍事通信技術を廃物利用的に民生化し、またむりやり家庭用品化し、「キーを押せば印字された文字が出てくる」機械をつくり上げたものにすぎないワープロでは、「文字を書く」「言葉を書く」上で必要不可欠な、言葉の一部でもある、書くという行為(筆触)がないがしろにされているからである。

書家である筆者の言い分も分からぬではないが、今Morris.がキーボードで文字を打つのを禁止されたら、文章を作るなと言われるに同じい。


影の変奏】伊藤海彦 ★★★ 数年前、宇仁菅書房の二百円均一台で見付けた。裝丁と作者名に惹かれてつい買ってしまった。1980年湯川書房刊、限定626部となっている。125×220の縦長、函入りで、エンボス紙のクリーム色のハードカバーに背は金赤、表紙の角は三角に貼りあわせてある。裝本 香川邦章とある。造本にこだわり過ぎかもしれないが、とにかくこの本は「ジャケ買い」という印象が強い。レコードでもジャケットに釣られて買うことがあり、たいてい後悔はしなかった。本書もそれなりに気に入ってしまった。
84頁と薄手の詩集で、19編の詩が収められている。あとがきも作者紹介もないのが、いっそすがすがしい。内容は抒情と感傷で味付けされた感想回顧詩みたいなものだが、重過ぎも軽過ぎもしない程の良さで、愛唱に耐えるものと思う。マイナーポエットという言葉を思い出した。伊藤海彦詩集 影の変奏

迷路                伊藤海彦

季節が変ると ほどけかけた迷路が
いつも もつれてくる

蔓のさきに蔓 枝のさきの枝
雨降りにつづく雨の日

迷うために この世にやってきたと思えたのは
あれはすいぶん昔のことだ

午後のむこうの午後 言葉のうらの言葉
階段はきれめなく 昇って降りて・・・・・

見ることは迷路だと あなたはいうのか
それなら祈ることは迷路ではないのか

眠りが生む眠り 根からのびる根
夜のふかみ ふえてゆく夜

なぜ 迷路ばかりが生き残って
記憶を編みつづけるのか

なぜ このまま優しく
迷路に住みつくことはできないのか

なぜ 迷路のはじを
あなたの迷路のはじに結べないのか

変る季節のなかで
私は私にいう いいきかせる

−−迷路なんかどこにもないのに
今日も迷ったふりをしている と
 


  俳句作法入門】藤田湘子 ★★★ 俳句の入門書はしばらく読むまいと、決心したのに魔がさしたのか、本書を借りてしまい、読み進めていくうちに、全巻がMorris.への批判のように思えて来て、ぐいぐい俳句は4月になって一句も出来なくなってしまった(>_<)
本書は「俳句研究」の選句講評80回分をまとめたもので、掲載句の大部分が投稿句である。それら玉石混淆の句をネタに、正統派で硬派の著者が、自信満々正論を掲げながら、褒めるところは褒め、叱るところは完膚なきまでに叱咤するのだが、ここかしこにMorris.には耳の痛い寸言が散りばめられている。
小見出しを見ると

・潔い俳句・すっきり作る・姿を正す・作意を消す観察・比喩より写生・飾らぬよろしさ・贅肉を取る・作り急ぎをするな・無理な言葉・陳腐な比喩・添削できぬ観念句・わけ知り顔はケガのもと・雑感は無用・理屈ではない・「慣れ」の怖さ

など、御尤もな注意とも取れるが、批判は總じて辛口である。たとえば、ルビについて

ルビを振って無理な読ませ方をする例も少なくなかった。---私に言わせればこれは俳人の甘ったれで、自分で自分の首を締めるようなもの。つねに正しい日本語を使うという気持ちを忘れてもらいたくない。

とある。その他ランダムに拾ってみると

一見巧そうな感じだがオリジナルではなくむしろ相当手垢にまみれていて、いわゆる俳句的にしつらえてきた嫌味がふんぷんと漂ってくる。

頭の中であれこれ捏ねくりまわすのではなく、見たものを描いて、その「もの」におもいをこめるものである。

正直言えば、名ある作家の四月馬鹿の作でも、私は感心したという経験がない。まあそれほど品格の乏しい季語だと言ってさしつかえないであろう。

こうした自己満足、独断も戒めるべきところ。

「見る」ことをやめて頭の中の操作によって案出した言葉はやはり脆いし、もっときびしい言い方をするならば、月並みの第一歩なのである。私は、人間の機智や小主観や知的操作といったようなことは、俳句表現には無用と思っている。そういいうことを駆使してコネ上げた句をつくっても、はじめからカビをいっぱいつけた作になっているはずだし、かりに読むに耐える句ができたとしても、けっして一級の作にはなり得ぬのである。

俳句で「何かを語ろう」とすると、たいてい浪花節になる。ことに句歴の浅い人、あるいは句歴が長くても詩としての自覚を持たぬ人の場合は、必ずそうなるといってもまいちがいではない。

十七音に詰めるだけ詰めてしまえ、という句づくり。読んでいると十七音の悲鳴が聞こえてくるようだ。これでは十七音ははたらいてくれない。十七音だって余裕を持たしてやらねば可哀想だ。ついでに言っておくと、こういう人にかぎって漢字で書ける字はみんな漢字にしてしまう。だから、よけい息苦しく感じるわけである。

頭で案出したフレーズは自己陶酔に陥りやすく、一見スマートのようだが、たちまち類想を呼んで腐りやすいことを承知しておきたい。

(「ここ」「そこ」というような)「ちょっと便利なことば」は、すぐ真似されて悪しき流行を呼びやすい。便利なことばには便乗しないことが賢明である。

常套的手法や常套語を安易に試用するのは結局写生の不足による「つくり急ぎ」に原因がある。ゆっくり詩情の昂揚を待って、自分の表現・ことばを探すことがすべての基本と言えるのである。

「うまさ」を見せようとするのは、内容や着想が平凡で自分の発見がないことに起因するのではないか。

主観語をさらけ出してしまうと、それだけで俳句はもう薄っぺらになって詩を失うことになる。「さみし」「うれし」などの思いは、あらわに出さないで、一句の後ろに
隠しておくことが大切だ。

私はいつも「眼でとらえたものを詠った俳句は添削可能だけれど、頭の中の観念でこしらえた俳句は添削ができない」と言って、観念的表現に陥ることをつよく戒めている。眼でとらえて描写を心がけた句には行き止まりはないけれど、観念をもてあそんだ句は、すぐ袋小路にはいってしまうのである。

平凡ならざる句を成そうと発想に苦労しているのはわかるけれど、これはただ奇を衒っただけで薄っぺら。まる見えの楽屋から、観客に拍手をうながしているような作り方だ。

すこしでもひとの匂いのするフレーズは避けるのが、自分を大切にする作者のありようである。ひとの匂いを極力ふりはらう。そのためにはまた、自分のものの見方を信じる自負が必要になる。

うーーむ。確かに、一理も二理もあるようで、引用しているうちに洗脳されそうになってきた。しかし、Morris.にはMorris.の道があることを信じたい(^_^;)


漢字の常識・非常識】加納喜光 ★★★☆☆☆ 89年発行の講談社現代新書で、Morris.は、その頃読んだと思うのだが、今回読み直しても教えられるところ多い本だった。最近多く見られる漢字クイズ、蘊蓄、誤用チェック、検定アンチョコなどとは一線を画して、著者の漢字への真摯な思いに裏打ちされた、漢字論、中国と日本の漢字交流、代用漢字の危険、新聞見出しの洒落、簡体字、漢語のシンタックス、女偏の文字、陰陽字など、実に広範に漢字への問題提起と考察が詰め込まれている。

・漢字の偏を取り違えた語もある。「拍手」が「柏手」になり、「かしわで」という変な和訓ができた。「独擅場(どくせんじょう)」は「独壇場」に独り歩きされ、「独擅場」と書くのがかえって気が引ける「渾名(あだな)」の「渾(こん)」は「諢(たわむれ、冗談の意)」の取り違えである。太っ腹という意の「剛腹」はもともと「剛愎(強情で人に従わない)」であった。

・「人間到る処青山あり」もしばしば誤用されている。人間はどこにでも死に場所があるという意味ではない。第一、「人間」はもともと「ジンカン」と読み、世間のことである。したがってこの成語は、世間はどこにでも骨を埋める場所があるから、広く世間に出て活躍すべきだという意味である。

・「発展途上国」は変な言葉であるが、それを縮めた「途上国」は輪をかけておかしい。途上というのは、目的地に向かう途中とか、一つの過程の中ほどの意味である。この言葉に嫌悪感をいだくのは、言葉もおかしいが、それを使う心にひそむ暗黙の前提にある。途上の反対はゼロか全、つまり、行程を歩きだしていないか、完走したかのどちらかであろう。たぶん日本人の頭の中にある経済発展のレースであろう。これを尺度として、ある国を「レースをまだ終えていない」と見る。レースは一つだけではないとか、そもそもレースは必要かという視点は全くない。文明は一朝一夕に成らない。「途上国」史観で文明を判定しては、たいてい見誤ってしまうと思う。

本書掲載の、間違い訂正問題と、Morris.が読めなかった漢字熟語を、漢字クイズとして引いておきます。

A 次の熟語の間違いを正してください。
1。致命症
2。白内障。
3。発煙燈
4。心身耗弱
5。暗唱番号
6。屈身運動
7。減価消却
8。珍味佳香
9。悪評嘖嘖
10。雨後の大木

B難読熟語
1。蘆薈
2。肝斑
3。吃逆
4。慫慂
5。轆轤
6。焙炉
7。四脱舞
8。霓虹灯
9。維他命
10。百事可楽
 

[解答]
A 1。致命傷2白内障。3。発煙筒4。心神耗弱5。暗証番号6。屈伸運動7。減価償却8。珍味佳肴9。好評嘖嘖(悪評芬芬)10。うどの大木(雨後の筍)
B 1。アロエ2。あせも3。しゃっくり4。しょうよう5。ろくろ6。ほいろ7。ストリップ8。ネオン9。ビタミン10。ペプシコーラ


熱血! 日本偉人伝】三波春夫 ★★☆ 高田屋嘉兵衞、大石内蔵之助、勝海舟、平清盛、二宮尊徳、児玉源太郎、織田信長、豊臣秀吉、聖徳太子、スサノオ、日霊女(ヒミコ)という有名人について、著者が独断と偏見で、褒めまくる講談調の偉人伝だが、かなり噴飯もの、いわゆる「トンデモ本」のたぐいだと言える。
歌手三波春夫が、幼くして浪曲家としてデビューし、軍隊に取られ、シペリアに抑留されたことは、永六輔との対談で知った。本書もその流れで手に取ったのだが、ちょっと、困った。本人は大真面目で、悪気はないのだろうし、よく勉強もしてるようなのだが、あまりにも我田引水、親方日の丸、天皇賛美に傾いていて、個人による、歴史改竄、歪曲、神話作りといった感じを受ける。まあ、それほど、世間に影響を与えることはないだろうが、いいかげんにしておいて欲しい。実のところ、お客様は神樣ばかりとは限らないのである。


堤防決壊】ナンシー関・町山広美 ★★☆☆ 二人のTVこき下ろし対談。雑誌「クレア」に98年〜99年に連載されたもので、このての毒舌はリアルタイムなればこそなので、本当は連載を見るしかないのだろうが、単行本化されてさらに1年たってから見ると、予想以上に滑ってしまう。それを考慮に入れても、対談という形式が、安易で、後で読むと内容に乏しいと思わずにいられない。ナンシー一人のコラムなら、ここまでひどいことにはならないだろうに。対談には、相手へのおもねり、遠慮、つまり気遣いがはしなくも露出してしまうのだ。そんなことは読む前から分かってるはずなのに、で、なんでこんなのを借りてくるかっていうと、それはやっぱりナンシーの消しゴム版画を見たいがためなのであった(^_^;)


世界衣裳盛衰史(よのなかはきぬぎぬのうつろい)】清水義範 ★★★ ビートルズ伝をパロった「伝説の展開図」と標題作の中篇2本が収められている。どちらもそこそこ面白かったが。標題作は、ファッションデザイナー9人の小傳をそれぞれ違った文体模写で綴るというかなり凝った趣向。日本でパスティーシュ作家を名乗るだけに、模写ぶりもうまいものだが、デザイナーの特質の切り取り方と手際の良い紹介ぶりに感心した。これを読むだけで、20世紀ファッション史の大概を楽しみながら一挙に理解できてしまう。ような気にさせる。取り上げられたデザイナーと、模写された作家は次の通り。
1。ポール・ポワレ(尾崎紅葉)
2。ココ・シャネル(夏目漱石)
3。エルア・スキャパレリ(永井荷風)
4。クリスチャン・ディオール(?)
5。ピエール・カルダン(志賀直哉?)
6。イヴ・サンローラン(川端康成)
7。アンドレ・クレージュ(野坂昭如)
8。高田賢三(殿山泰二?)
9。ジョルジュ・アルマーニ(椎名誠)
あじゃじゃ、結構誰の模写かわからないのがある。これは著者のせいではなくMorris.の不明に原因がある。それにしても、清水は、啓蒙書みたいなものを書かせると上手いものだ。きっと「お勉強」が好きなのだろうな。


江戸の見世物】川添裕 ★★☆☆ 見世物というとお化け屋敷や奇形や人間ポンプやなんとなく、おどろおどろしいものを連想するのだが、本書は江戸の見世物を、細工物、曲芸・演芸、珍しい動物、生き人形などに分別して、江戸の見世物の本流は、浮世絵の見立ての具現化である細工ものだという立場を取っている。その他、象、火喰鳥、豹、虎などの舶来の動物、なかんずく駱駝の異常な人気に触れた部分は興味深かったし、幕末から明治の軽業師第一人者、早竹虎吉のアメリカ公演の舞台裏なども新しいはっけんではあったのだが、どうも全体として、見世物の面白さが浮かび上がってこないきらいがある。筆者に研究者志向が強すぎるためかもしれない。それとかなり多数の図を採録しているのだが、新書版という制約もあって白黒で小さいし、鮮明さにも欠けるものが多く、面白そうなのに、よく判らないというもどかしさを感じた。こういう本は、ある程度大判にして、ヴィジュアルな面を充実するべきだと思う。


みんな家族】清水義範 ★★★ 著者自身とその一族郎党をモデルに、昭和という時代を描いた作品で、彼の作の中では比較的異質なものだが、21章の連作短編形式をとっている。複雑な人間関係をわかりやすく自然に物語化する手際はあざやかだ。パロディやひねりを利かせる作品では伺えない部分を知らされた。鴎外の史伝を読んだばかりで、昭和の史伝めいた作品を読むのも何かの因縁かもしれないが、Morris.は年表と照らし合わせて、楽しみながら昭和史を復習することができた。井上ひさしの「東京セブンローズ」と時代もほぼ同じくし、良く似た構成をとっているが、両者を比較すればMorris.は文句無しに本作を押す。


東京新大橋雨中図】杉本章子 ★★★☆☆☆ 明治初めの版画家小林清親を主人公にした4つの連作短編だが、長編として読んでも違和感はない。
直参くずれの清親が、老母を連れて浜松に流れ、江戸に戻り、ひょんなことから絵師になり、江戸から東京への移り変わりを哀切こめて描きとめるたつきのなかで、所帯を持ち、親類縁者の浮き沈み、問屋の無理な要請などにも心労しながら、時代に流されずに生きるさまを手堅い筆致で書き上げている。期待を裏切らない労作だった。文庫版解説田辺聖子の評が懇切を極めている。

杉本さんは、決して声高でもなく、こわもてでもなく、ほのかな微笑みのうちに、全くあたらしい時代小説を拓いていかれるようにみえる。易しい言葉を用いながら気品たかく、作中人物へのまなざしは暖かいが、きちんと客観性を獲得している。

こうなると、ますます寡作の彼女の未読作品をじっくり読みたくなる。


渋江抽斎】森鴎外 ★★★☆☆ 鴎外の史伝の最高峰という評価はかねてから聞き及んでいたものの、敷居が高そうで敬遠していた作だが、今回思い切って読み始めたら、すっかり熱中して、読み通してしまった。
幕末、弘前津軽藩の医官で考証学者渋江抽斎(1805-58)と、その係累、周辺人物の伝を、資料を漁り、客観に徹して丹念に記述したもので、いわゆる小説とは一線を画するものなのだが、事実の積み重ねが全体を雄大なドラマとしてたちあがらせていく。流石というか、とんでもないというか、鴎外の才の大きさに圧倒されてしまった。と、いって、Morris.に本作の全てが理解できたというわけではない。渋江抽斎と、その妻五百(いお)の人格は畏敬すべきものであるし、本筋はこの夫婦の伝記といえるのだろうが、煩雑とさえ思われそうなまわりのさまざまの人士との事細かな関係の記述が、読み進むうちにかけがえのない記述として作品の血肉となっていることに気付かされる。鴎外は初めからこれを小説とは別物として書き進めたらしいが「文学」であることは間違いない。まあ、こんなことはMorris.の言うまでもないことだが。
個人的には、真摯で、人格者の抽斎夫婦が、奇人ともいうべき朋輩連と放蕩息子から迷惑を蒙りながら愛情と援助を惜しみなく与え、人の短を見ず、長を用いたことが印象深く、ある種、感動を覚えた。明治になる前に没した抽斎の末裔のことをも、本書が書かれた大正期までにわたって、詳しく書き及んでいるのも、付けたしのようで、そうでない。最近杉本章子の開化ものを読んで、その時代の描きぶりに感心していたのだが、本書を読むと、桁が違いすぎる。鴎外と比べては可哀相だが、上には上があるものだと得心した。


残映】杉本章子 ★★★☆☆☆ このところはまってる彼女の作品集。中編「残映」と「影男」「供先割り」の短編2つが収められている。やはり表題作が読み応えがあった。江戸から明治に移った時代を舞台に、男二人女一人の心中事件を、高禄旗本から指物師になった主人公が謎解きするという、推理めいたストーリーなのだが、特殊な時代相、転換期の人々の意地や悲哀や愛憎を、濃やかに描き上げた佳作で、Morris.が肩入れするのもむべなるかなと思わせる、物語紡ぎの技量が伺える作品だった。治外法権をいいことに阿片を扱う英国商人、台頭したばかりの新聞社のネタ屋、主人公を陰ながら慕う義姉など、作り物めいた登場人物なのに読み手に不自然な感じを与えないのは、それだけ上手く出来上がってるって事なんだろうな。
「影男」は、明治の浮世絵師小林清親の反骨を描いたもの。同じ清親を主人公にした直木賞受賞作長編「東京新大橋雨中図」を読むのが楽しみだが、寡作な作家だけに、未読の作品がどんどん残り少なくなってしまう。あまり急いで読むのは勿体無い気もする。


疫病神】黒川博行 ★★☆☆☆ 産業廃棄物処理場の利権を巡って、業者、やくざ、政治家の凌ぎあいにまきこまれたばかりに、ばりばりの金ボタンと強引にコンビを組まされてしまった主人公が、えらい目にあいながら、事の真相を突き止め何とか、報酬を得るものの、心身ともにずたずたになるという、ハードなストーリーなのだが、大阪弁と、適度にちりばめたギャグのおかげで、それほど重くない仕上がりになっている。解体屋、廃棄業などとやくざの付き合いや、政治家とのやりとり、騙しあいなども、微に入った描写で、リアリティもあるし、土地の権利書などの煩雑な部分もそれらしく書込んであり、著者の力量と努力は分かるのだが、今のMorris.には、読むのがしんどいタイプの作品だった。


爆弾可楽】杉本章子 ★★☆☆☆ 開化期に旗本から噺家になった可楽が、彰義隊に肩入れして寄席に爆弾を仕掛けようとするが、思いとどまるものの、結局未遂として刑を受けるというタイトル作と、彰義隊から噺家になった男を描く「ふらふら遊三」の2作の中編が収められている。2作は微妙に関連し合っているし、若き日の永井荷風が可楽の弟子になったというエピソードもあり、開化期のアンニュイと、ニヒリズムのような空気が上手く描かれているとは言うものの、やはり、何か食い足りない物を感じた。


妖花】杉本章子 ★★☆☆ 開化期の花魁の浮き沈みを描いたタイトル作を含む6つの短編が収められている。杉本章子にはまって、ここしばらく読み進めているのだが、生来寡作の人らしく、すでに半分くらいは読んだことになる。しかし、最初の「写楽まぼろし」を超えるものがない。Morris.の長編好みもあるのだろうが、本書の短編は、かなりムラがある。タイトル作は花魁が店を移ったり、店の亭主と浮気して流されたり、心中した花魁の2代目になって外連を使ったり、岩崎彌之助から金をまきあげたりとストーリーを作っているのだが、これがあまり成功していない。他の短編も、飛鳥時代、戦国時代、江戸時代と、さまざまな舞台、登場人物も目先をかえているものの、中途半端な感じがする。しかし、ぶつぶつ文句を言いながら、読み続けているのはやはり、魅力があるのだろう。


父の形見草】堀口すみれ子 ★★☆☆ 堀口大學の娘による、父親回想コラム集。大学の詩の引用や、ゆかりの写真などもあり、父親崇拝の娘の文章というものも悪い物では無い。
著者の母は21歳で40歳の大學と結婚したから、大學にとって著者は孫といっても可笑しくないくらいの年の差がある。それだけに猫可愛がりされたようだ。
大學と佐藤春夫の交遊の深さ、若年時からメキシコ、欧州に住まい、フランス語を自家薬籠中のものとして、極東の島国に絢爛たる仏蘭西象徴詩を移植した「月下の一群」の訳者としての大學にばかり、重きを置いていたMorris.に、大學オリジナルの詩を思い出させてくれた。

東天の虹 堀口大學

時はひとつよ
東天に
虹の匂うと
西天に
日の傾くと

また、大學のフランス時代の思い出話を娘なりにアレンジして回想したり、コクトー、ローランサンなどとの交流のエピソードも、印象深かった。ローランサンと大學は惹かれ合うものがあったらしく、「月下の一群」にも収められている「日本の鶯」が、大學を歌った詩であることも本書ではじめて知った。

日本の鶯 マリー・ローランサン 堀口大學訳

彼はご飯を食べる
彼は歌を歌ふ
彼は鳥です
彼は勝手な気まぐれから
わざとさびしい歌を歌ふ。


朝鮮民謡選】金素雲編 ★★☆☆ 同著者の「朝鮮詩集」を愛読しているMorris.だが、同じく岩波文庫に収められているこちらは、味読だった。ぐいぐい酒場常連のきよみさんに触発されて借りてきた。韓国歌謡大好きのMorris.で、民謡の方はあまり詳しくないのだが、それでも「アリラン」「舟歌」「トラジ」「焼き栗打令」「カクソリ打令」くらいは歌える。しかし、本書に収められているのは、そういった類の民謡とはちょっと違っていた。前半に「意訳」として並べてある短いものは、ほとんどが「都都逸、小唄」のスタイルで、タイトルや詞の中に朝鮮特有の語がなければ、日本の小唄と思い込みそうなくらいだった。
後半の数え歌や、労働歌、親を思う歌、女性歌なども、Morris.のイメージする朝鮮民謡とは乖離が大きすぎた。
この本の大元は1933年(昭和8年)第一書房から出された「諺文朝鮮口伝民謡集」で、これは金素雲が、「日韓併合」政策で日本に来た朝鮮人労働者たちから採取したり、ソウルで新聞社に勤めながら採取した稿本を、東京に戻って発行したものだ。
本書は同じく1933年に」そのハングルの大著から一部を選択して日本語に訳したもので、同時に「朝鮮童謡選」も出されている。そういう事情もあってか、Morris.が思う民謡とは一線を画すものとなっているらしい。
Morris.には、本文より、附録の「朝鮮口伝民謡論」の方が興味深かった。当時新しく作られたアリランの歌詞は特に印象に残った。

[新アリラン]

口のきける野郎は 監獄に
野良に出る奴ア 共同墓地に
餓鬼の一匹も生めるあまっちょは 色街に
もっこの担げる若え野郎は 日本に、
こんで何もかんもすっからかんよ
八間新道のアカシヤ並木
自動車の風に浮かれてる。

今回読んだものは1972年改定版だが、それ以前の版にも、この過激な(戦時中の世相の中では)歌詞は掲載されていたのだろうか?


ザ・対決】清水義範 ★★★☆ ソクラテスvs。釈迦、シェイクスピアvs。近松門左衛門、ロビンソン・クルーソーvs。ガリヴァー、コーヒーvs。茶など十組の対決という形で史実、実際とおちょくりを適当に按配した短編集で、最近の清水作品の中では一番面白かった。
各対決ごとに、スタイルや語り口を工夫し、テーマに合わせた作品作りをするなど、手が込んでるし、アイデアの豊富さには感心した。空海vs。最澄の対決を60年代の洋楽評論家二人に重ねあわせるあたりは思わず「うまい」と思った。絵解きというか、現代啓蒙文学というか、「面白くてためになり」そうなところ(結局のところ大して役には立たないのだが)がMorris.の好みに合うのかもしれない。ラーメンvs。カレーライス対決で、正月のおせち料理の後のメニューにどちらを選ぶかというつかみもうまいし、コーヒーと茶の蘊蓄も楽しい。こういったストーリーより、対比をうまく生かした作品こそ清水の土俵ではないだろうか、そういえば、彼のデビューにして最高傑作「そばときしめん」が、そもそも、この対決ものだった。


紅雀】吉屋信子 ★★★ 吉屋信子は、晩年に歴史小説の大作を書き上げ、当人もそれらを代表作と自負していたかもしれないが、Morris.にとっては「花物語」に始まる、少女小説の神様としてしか認知していない。本書の前書きによると1932年(昭和7年)の作らしいが、Morris.が持ってるのは、昭和23年発行のもので、時代を反映してものすごい紙質である。褐色じみてざらついてて、混ぜものが所々で固まってたりする。めちゃくちゃ軽い。表紙もぺらぺらのペーパーバックだが、いちおうカラーで、いかにも、というイラストが悲しくなるほど美しい。10年くらい前どこかの均一台で手に入れたと思う。少女小説「紅雀」吉屋信子
ストーリーは大連から東京に向かう汽車中で母を亡くした姉弟が、貴族の家に引き取られ、その才能を妬まれたりしながら、最後は由緒有る家の親族であることが解るという、典型的なものだ。彼女の本を読むときは特に筋を追うより、登場人物の容貌や心理の描写と、彼女独特の文体を楽しむにしくはない。
主人公まゆみを、貴族の家の家庭教師順子が、初めて見る場面。

その瞬間藤間順子は思はずはつとした、それは何故か−−勿論その双の瞳が世のなみならぬものであつたのは言ふまでもない、黒曜石の如くあくまで黒く、しかもその冷い澄んでゐること! 喜びも悲しみも愁いも皆その瞳の奥深く黒き宝石の光の中に秘め包んで、太古の湖水の面小波一つ立てぬ静かさである、その瞳の奇すしい美に打たれたのもはつとした一つの原因ではあつた。けれどもも一つの原因は−−たゞ漠然とぼんやりと何んといふことなしに、順子は曾てかゝる瞳を此の世でか、もしくは生れぬ以前のあの世でか、ちらと、ほんのちらりと心の陰に映じられたやうな気持が、これもちらつと感じたのである。それで彼女はその瞳の主を見た。その美しくも怪しきばかりの凍れる宝玉の双眸の持主は十四五歳の少女である。

このての文章は苦手だという方も多いと思う。しかし、この文体無しには彼女の少女小説は成立しないのだ。非現実的で、怪しいところにしか、夢を見ることの難かった時代の少女たちには、麻薬だったのだと思う。Morris.がことのほか、彼女の文体に魅せられるのには、何か根深い理由があるように思われる。


名主の裔】杉本章子 ★★★☆ 「江戸名所図会」「武江年表」を著した斎藤月岑を主人公にしたタイトル作と、「江戸繁昌記」の寺門静軒を扱った「男の軌跡」の中編2つが収められている。デビュー作「写楽まぼろし」が力作だったので、次作である本書を借りてきた。ご一新で「江戸名所絵図」が二束三文で売られるのを見る月岑の悲哀や、仮名書魯文に「江戸繁昌記」を道楽呼ばわりされて発憤する静軒など、しみじみとした見せ場を作ってるし、前作と同じく、考証に裏打ちされた手堅い背景描写と人物が生きてる。やはりただ者ではないようだ。でも2篇で220ページというのは物足りない。特に歴史ものだけに長編を読みたいものだ。


木曜の男】G。K。チェスタートン 吉田健一訳 ★★☆☆ チェスタートンといえば、ブラウン神父もので、これは学生時代に一通り読んだはずだ。本書は1098年の作で、著者唯一の長編推理ということになっている。今回初めて読んだのだが、実は昔本書のペーパーバック版を手に入れて、辞書引きながら読もうとしたことがあったのだが、数頁も進まずにそれきりになっていたのだった。Morris.の英語力は、無いに等しいのだが、今回読み終えて、何と無謀なことを試みたかがよく解った。何しろ、日本語で読んでもよくわからなかい部分が多かったのだ(>_<)
無政府主義者の集まりに警察の密偵として入り込むことになった詩人が「木曜日」というコードを与えられ、その他の曜日を冠した不思議なメンバーと、幻想的な事件に巻き込まれていく物語で、途中のエスプリのきいたエピソードなどは面白いのだが、全体としてはつかみどころのない印象を受けた。「長編推理」という伏線こそが、ミスリーディングを誘うトリックだったということにでもなろうか。吉田健一の訳も雰囲気だけは出ているものの、読みにくい文章だ。230頁くらいなのに、やたら時間がかかって、時間の無駄遣いと思ってしまったし、いらぬ出費までかさんでしまった。つまり、図書館で借りて無くした本というのがこれだったのだ。


わらう伊右衛門】京極夏彦 ★★★ ご存知「東海道四谷怪談」を下敷きにした新解釈だ。著者の名はよく目にするのだが、初めて読んだ。お岩と伊右衛門が相思相愛でありながら、皮肉な運命で別れてしまうという設定は、他でも見たことがあるような気がするが、本書の眼目は、ストーリーより、その雰囲気を醸し出すことが眼目のようだ。事件のほとんど全ての黒幕とも言うべき、お岩の父の上司である男の、嗜虐趣味、放資な好色、無感動、狡猾、弱い者苛め、天の邪鬼、マザコンなどが交錯した「呪われた性格」を描き込むことこそ、著者の目的だったようだ。改行の多い、擬古文的文体もそれなりに、著者独自のスタイルとなっているようだし、特殊な宛字ルビなどは、Morris.をよろこばせたりもしたが、どんどん、読んでみたい作者とは言いかねるようだ。


神保町の怪人】紀田純一郎 ★★☆☆ 古本商や古書収集家と古書にまつわるミステリー仕立ての3編が収められている。3作とも著者と思しい語り手が伝聞した形をとるので、なんとなく、古書にまつわるエッセイを読んでるような気がする。著者は書誌学者、図書館学などの専門家で、読書ノートや、専門分野の啓蒙署やエッセイは、以前から良く読んでるし、なかなか卓越した存在だと、一目置いているのだが、どうも小説はいまいちである。ミステリーにしてるため、無理矢理トリックや、謎解き畫筆用となり、どうも、故事付け、あまりに窮屈だったりする。それより、所々に出てくる、古書収集家のえげつないやり方や、駆引きなどのエピソードが面白い。要するに小説仕立てにする必要はないように思われる。


スプーン一杯のビール】立松和平 ★★☆☆☆ ここ数年書き散らしたエッセーをまとめたもの。福島泰樹の歌に関する連載エッセーが冒頭40頁ほどあったので、ついつい借りて来た。著者は福島とは早稲田の後輩に当たるらしい。歌集「バリケード・1966年2月」の歌を中心に論じるというより、自分との関わりを中心にした、感想文みたいなものだが、福島の初期の歌を久しぶりに目にして、懐かしかった。

ここよりは先へゆけないぼくのため左折してゆけ省線電車
三月のさくら 四月の水仙も咲くなよ永遠の越冬者たれ
あじさいは雨に翳りていたるともよしや ひとりのわれとおもうぞ
酒飲んで涙を流す愚かさを断って剣菱白鷹翔ける 福島泰樹

他では金子光晴の「マレー蘭印紀行」をネタに、アジア放浪の詩を引いて自分の旅を重ねていくエッセイが目を引いた。
Morris.は著者の小説は一冊も読んだことがない。このエッセイ集を読んだ限りでは、これからも読まないような気がする。


メイン・ディッシュ】北森鴻 ★★★ 小劇団の女優と劇団主宰の作家が、女優と同棲していた料理のうまい謎の男が関わる過去の事件を推理していく、長編推理だが、いちおう連作短編の形を取りながら、おしまいで強引にまとめている。読むほどに器用な作家だと思ってしまう。料理のメニューも以前のものに比べると具体的で美味しそうだし、ギャグもかなりはまっているし、登場人物のキャラクタ設定も無難にまとめているしと、最近の娯楽作家では、いち押しだな。相変わらず、トリックやミステリー風味はいまいちなのだが、これもいつものことながら、面白ければ其れでいいのだ。


写楽まぼろし】杉本章子 ★★★☆☆ 写楽ものということで借りてきたのだが、写楽より、蔦屋重三郎が主人公で、戯作者や浮世絵師も多数登場するし、実に当時の文芸をよう読み込んでいるし、考証もしっかりしてるようだし、読み応え満点だった。著者は江戸文学専攻で院まで出ているとあったので、納得した。本作品は昭和57年に「歴史読本」に連載されたというから、かなり前の作品だ。写楽の正体は重三郎の幼くして別れた父親だったという、やや無理な設定だったが、短期間の大量製作、急速な筆の衰え、さらには贋作と思しい作品が出回ったことにも、それなりの解決を与えているところなどは、お見事と言ってよい。はじめ、杉本苑子かと勘違いしたくらいだ。他に月岑(武江年表の著者)や、明治の版画家小林清親を描いた作品があるらしいので、是非読んでみよう。


【詩集  祝婚歌】北山冬一郎 ★★☆☆ 文庫本サイズだが横長になっている。数年前、鶴橋の楽人館の均一棚に並んでいたのを、とりあえず表紙の大胆さに釣られて買ってしまった。昭和21年4月20日発行とあるが、改訂版第二刷になってるから、戦時中が戦前の作品という可能性が高い。発行は京都の新風社で、詩人も、出版社も知らない。えらく寒々しい名前だが、これはペンネームなのだろうな。
島崎藤村風のなかなか古臭いスタイルだし、センチメンタルなものが多く、昔の恋人が別の男と結婚するにあたって標題の詩を作ったようでもある。見本にいくらか引いておく。流石に、こんな詩は書こうとは思わないが、でも、読むのは嫌いではない。詩集「祝婚歌」北山冬一郎

[序詩]
わがうたは
かなしきいのり
若き日の過失に似たり
風ふける
ちまたに立ちて
うたふうた
君よきかずや

[祝婚歌]
少女はもはや
見えないところにゐた
あてどなく
とほいそのむかふ
たづねる術もなく
雲青く
せんせいばか
先生の馬鹿
お酒は駄目
聲は空から地に落ちた

[慟哭抄]
なさけあらずと いふなかれ
なさけなければ かのきみの
ひとづまなるを ひとの子の
そのはゝなるも いかでしる

されどれんぼの 身はいかに
きみそを云ひて せむるなよ
なさけありせば そがゆゑに
またひとつまも おもはるゝ

どうやら北山氏は、高校の教師か何かで女生徒に恋して、破れ、祝婚歌を書き、結婚したその女性に未練があったような雰囲気なのだが、どうだろう。
それにしても、この大胆な裝丁だけは、実に素晴らしい。


奇書! 奇書! 奇書の達人】歴史と文学の会編著 ★★☆☆☆ 一見、ゾッキ本めいている。造本といい裝丁といい、実に素人っぽいし、全頁白黒で上部が灰色のグラデーションのデザインでなんとなくコピー本みたいでもある。4章に分かたれているが、27人の奇書の著者と作品を紹介してる第2章だけが、Morris.の関心を惹いた。
取り上げれらているのは、都良香、紀長谷雄、源隆國、大江匡房、根岸鎮衛、宮武外骨、梅原北明、夢野久作、井上円了、斉藤昌三、正岡容、木村荘平、添田唖蝉坊、斉藤夜居、牧逸馬、高橋鐡、稲垣足穂、渋澤龍彦、寺山修司、水木しげる、つげ義春、荒俣宏、高橋克彦、夢枕獏、鈴木光治、京極夏彦、団鬼六。
奇書というより、妖怪、怪談、猟奇を主にしているようだが、面白ければなんでもよいMorris.なので、先の作家の中で幾つか面白そうな作品の候補が見つかっただけでも読んだ甲斐はあった。しかし、もうちょっとデザイン、レイアウトには気をつかってもらいたいものだ。


らんぼう】大沢存昌 ★★☆☆ 凸凹コンビの刑事を主人公に暴力コメディタッチで描いた連作短編。10編全てに「ちきこん」「がんがらがん」「ほろほろり」といった擬態語めいたタイトルを付けててるのと表紙がサイバラのイラストだったのにつられて借りてし余ったのだが、いまいちだった。やっぱり彼の本領は長編、はっきり言えば新宿鮫シリーズに尽きるようだ。


福田繁雄のトリックアート・トリップ】 ★★ 騙し絵のデザイナーでもある著者が、世界各地でであった、トリックアートや作品を写真とコラムで紹介するというもので、毎日新聞日曜版に2年半連載されたらしい。遊び心のあるアートやデザインは嫌いではないのだが、ビルの壁に描かれた巨大アートは、どうも苦手である。
著者自作のポスターには、それなりに感心したこともあるので期待したのだが、本書はいまいち、意外性に欠ける気がした。
本書の裝丁も著者自裝で、三方をクリップで留める、騙し絵というスタイルをとっているのだが、この出来があまりにもお粗末なのが、淋しすぎる。


【『 古今和歌集』の謎を解く】織田正吉 ★★★ 以前同じ著者による百人一首の謎解き本「絢爛たる暗合」にシビれたことがあるので、大いに期待して借りてきた。
古今和歌集を、笑いと言葉遊びの歌集として捉え直すという視点は悪くないのだが、百人一首の謎に比べると、数段面白味に欠けるようだ。
紀貫之が書いた、古今集仮名序にある人麻呂紹介の部分の矛盾から、人麻呂は実は編集中に亡くなった紀友則に仮託しているとしたり、喜撰法師を空想上の人物(貫之の捏造)としたり、歌や序文に、選者らの頭文字を折り込んでいたり、身分の低いことを愚痴ったりしているなどと、例証を重ねて実証?しようとしているのだが、やや牽強付会は免れ得ないようだ。著者の例証が杜撰なわけではなくて、Morris.はかねがね著者の資料の読み込みと推理力には一目も二目もおいていて、本書でも、その慧眼にはたびたび驚かされたし、面白いところもあったのだが、謎自体が、いかにも弱いということになるのだろう。
考えてみれば、中国文化偏重の時代、まして「和歌」という芸術が「漢詩」に比べると段違いに貶められていた時代に、古今集が、最初の和歌の勅撰集とはいえ、まだまだ歌人の地位は定まっていなかっただろう。こんなことは、なかなか普通の文学史では教えてくれない。勅撰集という名には幻想をもってるだけに、貫之等の地位の低さというのは意外だった。ついつい「貫之」という活字が「貧乏」と見えてしまったよ(^○^)そういう意味でも、発見は多い本だった。


厨師流浪】加藤文 ★★★ 戦後日本で薬膳料理店を開いた中国料理人の幼少から青年期までのノンフィクション的小説。日中戦争下の中国で裕福な漢方医師の息子として生まれた主人公が、腹違いの兄との確執や偶然の事件から家を出、さまざまな苦労と歴史に翻弄されながら料理の腕を磨くというストーリーなのだが、いわゆるグルメ小説、料理小説とは違い、社会情勢、当時の厨師(料理人)の仕組みなどを解説しながら、主人公の成長を描いたもので、最後まで一息で読み終えた。陳健民という耳馴染みの料理人も登場するし、冒頭とラストに老年の主人公とその同僚との感激的出会いのエピソードなども置かれて
結構よく出来た小説と思うのだが、ストーリーがぶち切れになる傾向があるのは、新聞連載の弊かもしれない。
主人公に薬膳料理の師が言う台詞

「才能とは生きていくためのずば抜けた能力のことなんだ。おまえの強みは、賢さだけじゃなく、天性の味覚の尺度を持っていることだ。ほとんどの厨師は、過去に食べた旨い料理の記憶を味覚の基準にしている。つまりな、手本から離れられないんだ。手本でなく自分の味覚だけを信じればいいおまえは、他の厨師にできない発見ができる。醤油を味噌に替えたり、鶏を家鴨に替えるのを思いつく発見でなく、料理の捉え方の発見だよ。薬膳は、技術じゃない。人が生きて、食って、死ぬという道理さ。料理の作り方でなく食い物と食うことの関係を薬膳でじっくり身に付けてごらん。そこから見える風景に、きっとお前なりの発見がある。俺の真似をしようなんて考えるな」


五高生殺人 思いや狂う】飯尾憲士 ★★★ 標題作を含む6編の短編集。連作ではないが、ほとんどが「報復」の物語で、微妙に内容が交錯したり、絡んだりしているのが、確信犯かそうでないかの問題だ。小学生の娘を暴行して殺し、十五年の刑を終えて出所した犯人を殺す老夫婦や、未亡人。姦通された夫が相手の男を恨むでなく、殺してしまうなど、人間の心の奥深いところを抉り出すような筆者の力技には、感嘆するのだが、やっぱり後味が良くない。この人の作品を読むたびに同じ感想を書いてるようで、それなら読まなければいいようなのに、読まされてしまうのは、その圧倒的遡及力と構成力なんだろうか。これは、高村薫の作品に通じるものがありそうだ。


江戸風狂伝】北原亞以子 ★★☆☆☆ 江戸の商人、浮世絵師、講談師などの反俗、意地、諷刺などをテーマにした7編の短篇集。テーマにつられて借りてきたのだが、どうも相性は良くなかったようだ。
權威に反抗するそのやり方があまりにも、リアリティを欠いていたり、おとぎばなしだったり、尻すぼみだったりで物足りなかった。下手じゃないと思うんだけどね。
平賀源内をモデルにした「爆発」という小品は、源内の乱心の一解釈としては興味深かった。


【奇想天外・ 英文学講義】高山宏 ★★★☆☆☆ アカデミックな英文学界からは、異端とか、はみ出し者と目されている(だからこそMorris.のような門外漢には面白い)著者の総括的な私的「超」英文学史(17世紀後半〜20世紀)研究の報告書である。実はこれ、講談社メチエ200号として、ほとんど2日間の「語り起こし」が核となってるらしい。それだけでも奇想天外といえるかもしれない。

英文学研究の世界では、「アンビギュイティ(ambiguity)」は「あいまいさ」ではなく「両義性」「多義性」という意味だとする積極的な展開が問題の1920年代にすでにあらわれ、そこから一世風靡のニュー・クリティシズム(新批評派)が出てきた。新批評派は文学作品の価値を、アンビギュイティ、パラドックス、そしてアイロニーの使いかたの上手いか下手かに置いた。

未曾有の断裂は未曾有の結合をうむ、とでもいうか。まにえりすむ・アートが「アルス・コンビナトリア(ars combinatoria=結合術)と呼ばれるのは、そのためである。合理的には絶対につながらない複数の観念を、非合理のレヴェルでつなぐ超絶技巧をマニエリスムという、といってもよい。
マニエリスムの表面に表れる狙いは、「人を驚かせること」である。これがマニエリスムの一番の根本義である。人を驚かせることに情熱、人生を賭ける人間類型があるんどあ。ところが日本ではこの「人を驚かせる」ことを「外連(けれん)」といって軽視する風潮がある。

十八世紀半ばから、絵自体が、自分で意識しないうちに言語と同じ構造を目指そう、近づこうとする傾向が始まる。先鞭をつけたのは、1728年のチェンバーズの「サイクロペディア」で、このあたりから、現実に近い精密な絵が出現した。これ以後、視覚文化とは、きちんと分けられたものを見る快楽であり、その快楽が「合理」「理性」という名前で人間の頭脳の構造として説明されていく。

「ディテールを積み重ねると、必ずリアリティに突き当たる」というリアリズムの根本の観念は、細かいディテールを積み重ねていけば必ず犯人に行き当たると信じ込んでいる探偵の確信とぴったり重なる。推理小説とはつまりメタ・リアリズム小説なのだ。この脈絡がわからないと、推理小説をちゃんと文学史の中にとりこめない。早い話、推理小説は「観相術」そのものの解説書なのである。
結局あらゆる小説が覗き小説であり、屋根をはがして上から見ている構造である。

かつて分類学者のリンネは、明解に区分した。区別できないものはぜんぶひとまとめに「パラドクサ」と呼んでいるのが面白い。博物学はそういった区分をやってきたから、キャロルの皮肉な博物学は、むしろどちらにも属さない、中間のミックスされた「パラドクサ」ばかりを作ることになる。

「見える」こと即ち「わかる」こと。見えないものは断面にしてでも切り割いてでも何でもいいから、とにかく「見える」ものにする。これはこれで合理という名の、狂ったファンタジアなのだ。
幻想(ファンタジー)とは、光の対蹠地にあるものではなく、光そのものが何かの形で変質していくものである。

Morris.も読みたくなった、推薦文献の一部
・「曖昧の七つの型」ウィリアム・エンプソン 岩崎宗治訳(研究社)
・「シェイクスピアのアナモルフォーズ」蒲池美鶴(研究社出版)
・「大江戸視覚革命」荒木正純(作品社)
・「独身者の機械」ミッシェル・カルージュ(ありな書房)
・「ディアロゴス演戯」由良君美(青土社)
・「空想旅行の修辞学」四方田犬彦(七月堂)
・「ストイックなコメディアンたち」ヒュー・ケナー(未来社)
・「博物学の黄金時代」リン・バーバー(国書刊行会)


ゴミの定理】清水義範 ★★★ 清水の本は、何度か、もう読むまいと決心しながら、ついつい、他に読むのが無いと借りてしまうことがある。本書には12編の短編が収められている。表題作は、ある数学者がゴミというものを数式で解明する、というスタイルをとっているものの、数式はほとんど冗談で、ゴミ定義を説明しながら、これが結構現代のゴミ問題のレジュメとしてわかりやすく整理されている。作品中に出てくる、主なゴミの定理を引いてみる。

・金をのぞくゴミではないすべてのものは、ゴミになろうとスキをうかがっている。
・ゴミでないものをゴミと化す力は伝染力を持っている。
・ゴミは無秩序さの産物である。
・整理整頓とゴミは反比例する。
・ゴミを、ゴミでなくすることがまれに、整理によって可能である。
・長時間たてば、いずれすべてのものはゴミとなる
・ゴミの量は経済繁栄度と比例する。
・分別されないゴミはゴミの王である。
・ゴミのうち、再利用できるものは再利用することによってゴミではなくなる。
・人類はゴミのために滅亡する。

最後の結論が、突然みたいだが、これが眼目でもあるのだろう(^_^;)
他にケータイの行き過ぎた使い方を茶化したものや、現地ガイドのいいかげんさ、夢の分析、旅行や、文豪のボケや、その他もろもろのよしなしごとについての感想、エッセイとも小説とも解らないものが多かった。著者の発想自体が一つのスタイルになってるので、読んでる時はそれなりにふんふんと、思うのだが、読後はほとんど何も残らない。時間潰しのためのものと割り切れば、それはそれでいいんだけどね。


青い月曜日】開高健 ★★★ 64年から65年にかけて書かれた、少年〜青年期の自叙伝的色彩の濃い長編で、戦事中、戦後の2部に分かれていて、間にベトナムへのルポ取材が入ったため、1部と2部ではかなり作品の雰囲気が違っている。
欝屈した文学少年である主人公は、戦時中は勤労奉仕、空襲、戦後の焼け跡、飢えと、混乱の中で、読書に逃避しながらも、食うためには働かざるを得ず、製パン工、旋盤工、英会話教師、海外文通の翻訳などをしながら、高校、大学に進んでいく。同人誌を通じて知り合った女性(牧羊子モデル)に、子どもができるあたりで、物語は閉じられるが、全体的に重苦しいムードが漂っているのは、時代の影ともいえるだろうが、著者自身にとってもあまり振り返りたくない記憶だったのかもしれない。それでも書いてしまうのは作家の業なのだろうか。
Morris.は、開高健の若き日の読書傾向が伺える部分が一番興味深かった。

「李陵」を「わが西遊記」のうえにおく批評家のおごそかな文章を読むとたちまち知的俗物だと思い込んでしまった。バルザックはたいくつだった。ソラはわずらわしかった。バーナード・ショウはすばらしい芸術であった。モームはおそるべき検閲官であった。「歎異抄」は偉大な自然であった。有島武郎は鮮烈、深刻であった。志賀直哉より井伏鱒二のほうが紺も増し買った。太宰治は「ロマネスク」一篇が傑作であった。「失われし時を索めて」より「ガリヴァー旅行記」のほうが好きだった。チェーホフは愛して尊敬し、ドストエフスキーは好きではないとしても尊敬した。ゴーリキーは初期の短篇の方がいいと思うのになぜみんな「母」を激賞するのかわからなかった。

ジョイス、プルースト、サン・テクジュベリ、マルロオ、リルケ、シュペルヴィル、アポリネール、オーウェル、ハクスリ、ローレンス、すべてある。何もかも語りつくされ、書きつくされてしまった。明晰な大岡昇平もいる。混沌たる武田泰淳もいる。透明なきだ・みのるもいる。荒野の空気そのもののような高杉一郎もいれば、地平線そのもののような長谷川四郎もいる。私は感嘆し、発見させられ、謎が発掘されたのを眺め、吐息をつくばかりであった。


だいこんの花】向田邦子 ★★★☆☆ NETテレビ(現・テレビ朝日)で74年9月から75年3月まで放映された30回分のシナリオ。Morris.は当時(今でもその傾向はあるが)TVドラマには興味無くて一度も見た覚えはないのだが、四半世紀も後になってシナリオを読んで、ドラマの情景と人間が目の前に鮮やかに浮かび上がってくることに驚かされた。元海軍大佐の父子家庭を中心に、息子の結婚、周辺の人情劇が、シニカルかつコミカルに目まぐるしい中小事件の積み重ねで展開していくのだが、著者のドラマ作りの上手さには、感嘆するしかない。けれんあり、時にはあざといほどの感情操作あり、毒にすらなりかねない悪意を、その直前で逆転させたり、見る側、読む側を翻弄し、また楽しませるという曲芸だね、これは。文庫本2冊で計1,300ページほどの本書は、「だいこんの花・第4部」に当たるらしい。第1部、第2部までは向田邦子を含む複数の作家の競作で、3部から最終5部までは向田一人に委ねられたと解説にある。老父永山忠臣(森重久彌)と次男誠(竹脇無我)、次男の嫁まり子(いしだあゆみ)の3人が主役で、周りの癖のある脇役陣(金子信雄、真野順子、大阪志郎、加藤治子、松山英太郎、牟田悌三、春川ますみ、都家かつ江、水之江滝子等)が、縦横に個性を発揮しまくる構成になっている。
放映当時、シナリオというものは、どちらかというと日陰の存在だった。シナリオライターも、いわゆる小説家、作家と比べると一段低く、或いは軽く見られていたといって間違いないと思う。それを、質実ともに重要な役割として力技で世間に認知させる魁となったのが、向田邦子だったと言いきってもいいのではないかと思う。この世界には暗いMorris.なので間違っているかもしれないが、そのくらい、彼女のシナリオは作品として鑑賞できる。もちろん、戯曲というジャンルがあることは知らないではないし、TV以前に映画のシナリオ(脚本)の優れた作品があったことも想像はつくのだが、それでもシナリオの世界で向田以前、以後という区分けができるくらいに大きな存在だと、贔屓の引き倒しと思われようと、そう思っている。


断層海流】梁石日 ★★★ 93年発表の未完長編で、何故か読み損ねていた。不法入国のフィリピン女性、日本に帰化した不動産業者と政治家、やくざなどがバブル時代を舞台にやりたい放題やってる怪作だが、北朝鮮のレアメタル開発のため暗躍する部分などは、政治裏情報ものとしても面白かったし、父が日本に帰化したことを婚約者から知らされて混乱する娘と家族、その父の暗い過去等々、興味津々のストーリーが、絡みあって、これから物語りが佳境に入ろうとするところで、終わっているのが、なんとも心残りだ。
何とか続編を書き続けて欲しいのだが。


さかしま】梁石日 ★★☆☆ 7編を収めた短編集。99年刊で2作を除いて書き下ろし。戦後の大阪朝鮮人部落周辺の事情を、夢に託して描いたり、金融関係の仕事をして負債をおって逃避する自伝的作品や、タクシードライバー時代のエピソードなど、ごたごたしていて、やはり、この人は、長編作家だと思った。


漫画の文化記号論】大城首宣武 ★★★ 87年発行で、当時流行の記号論を漫画に援用したのだろと、丸分かりのタイトルで、実際そうだったのだが、取り上げられている作品の大部分が長編もので、その半分くらいが衆知だったため、面白いというより、懐かしさを感じた。筆者は沖縄の人で、それが漫画を見る視点にも微妙に関わっているようだ。最終章で新里堅進の「沖縄決戦」という、いささかマイナーな作品を取り上げ、熱く語っている。

沖縄決戦とは何だったのか。それは、大本営にとっては日本本土決戦の時間かせぎ、そして、牛島中将にとっては「沖縄の住民を将兵とともに玉砕させ、その事実によって日本民族の運命を示し、戦争継続を断念させる」ことであった。苛酷な選択であった。

スーパーヒーローがいつまでも年を取らないのは「完成された確固とした自己を実現しているので成長する必要がない」とか、少年、少女漫画によく出てくる転校生は「マレ人」であるとか、料理漫画、会社漫画は「未知の扉」を開けるものだとか、いう指摘は当時としては、鋭い視点だったと思う。個人的には、木原敏江の「夢の礎」が高く評価されていたのが嬉しかった。その結びのくだりを引用しておく。

絵柄は華麗の一言に尽きる。歌舞伎のようなきらびやかさ、武人、公家、庶民の生活が微細に描かれ、史実に沿いながらも力技とも思える想像力の限りをつくした歴史解釈、人間の生の営みがドラマの源泉であることを示している。虚実皮膜、絵巻の世界である。この解読には歴史と文芸と美術の素質が動員されなければならない。


パンドラ 'S ボックス】北森鴻 ★★☆☆ 最近良く読んでる北森の短編集で、デビュー以前のものから最近のものまで7編と、それぞれに作家生活の歩みを赤裸々??に綴るエッセイを並列していて、彼の小説作法や来し方、思考方法などを知ることができて、面白かった。作品はジャンルも対象もばらばらで、多方面な知識、興味のあり方を知らしめるが、水準はそれほど高いとは言えない。久生十蘭の「顎十郎」のパロディには、ちょっとびっくりした。贋作アンソロジーの一編として書かれたものだそうで、Morris.は久生の文体を敬愛してるのだが、文体模写としてはなかなかよくできている。


耽羅紀行−街道をゆく28】司馬遼太郎 ★★★ 関川の本に刺激された訳でもないが、韓国からみと言うことで読んでみた。「耽羅」とは「済州島」の古称で、昭和61年(1986)二度の済州島の旅の記録である。「街道をゆく」の韓国本土編はこれよりずっと前に書かれ、Morris.も以前読んだはずだが、こちらは済州島のこととは思わず読まないでいた。
在日の姜在彦や編集者との旅で、当地の学者、ジャーナリストの案内を請う、一種の大名旅行だから、Morris.の旅とは全く違ったタイプに属するし、司馬の紀行文は、半分以上が、横道に逸れるエッセイとして読むしかない。しかし、本当に久しぶりに司馬の語り口に再会して、嬉しかった。やっぱり、上手いなあ。
李氏朝鮮を支配した儒教、就中朱子学がこの国を駄目にしたという、怒りに似た持論も、半分は当たっていると思う。島の風土、歴史に関しては、泉靖一の著わした「済州島」に、朱子学に対抗しようとした実学者に関しては、姜在彦の「朝鮮の開化思想」に多くを依ってると書いているが、そういった他人の著書の骨子を血肉化して自分の文章に取り込む手際も名人芸だ。
ところどころに配してある独白めいた感想も実に効果的で、これは彼の小説にも頻出して、大きな魅力となっていた。

海というのは、ふしぎなものである。
水だけのとりとめもない世界なのに、人間がそこへ押しだす場合、風むきや海流の方向などによって、陸地のように道ができてしまう。朝鮮半島は、その道からわずかに北へそれている。
このため、十五、六世紀の大航海時代、ヨーロッパは日本を"発見"したあとも、ながく朝鮮を"発見"しなかった。

ナショナリズムは、どの民族、郷党にもあって、わるいものではない。
ただ浅はかなナショナリズムというのは、老人の場合、一種の呆けである。壮年の場合は自己についての自信のなさの一表現かもしれぬ。若者の場合は、単に無知のあらわれでしかない。


生死不明】新津きよみ ★★★ 意地になって、未知の作家のものを読んでいる。夫が結婚半年で失踪した後、書道教室を営む主人公が、父子家庭の父との結婚を考えている頃、夫にからむ電話や、手紙、裁判などにまきこまれ、友人夫婦とも関連する過去の事件を知って云々という、ミステリー色は薄い事件もの。主人公をはじめ、女性刑事(夫は主夫業)などの描写がなかなかうまいので、引き込まれてしまった。20年も前の盗難事件や、15年前の過失致死事件、共犯者同士のもつれなど、展開には無理なところもあるが、女性でなくてはわからない、仕事と家庭の軋轢などふーんと、感心するところもあった。
本文中に、家族三代が同じ日に誕生日を祝う確率の譬えがあり、女性刑事が「単純な偶然性だけから言えば、365の三乗分の一、約4千8百6十万分の一の確率です。つまり
日本中に二組あるかどうかの確率ですね」と言ってて、さらに「そういうケースは報告されている限り、日本に一例存在していますから−−」と続くのだが、三代と言えば、たとえば、親、子、孫、が同じ誕生日なら、確率は2乗分の一じゃないのかな?数字にはからきしのMorris.だから、勘違いかもしれないけど、よくわからない。まあ、これは、作品とはあまり関係ないことだった。


装刀 チャンドウ】杉洋子 ★★☆ 未知の作者だが、タイトルで借りてしまった。「チャンド」は鞘のある小刀で、朝鮮の女性が護身用、装飾として身に付けるものだ。豊臣秀吉の朝鮮出兵時に、ハフェ村のヤンバンの若い妻とその侍女が、日本兵に捕らわれ、日本に連れて行かれる。九州の武将村上景観が、若い妻を見初めたためだが、本書の主人公は侍女の方で、彼女は女主人の不興を買って遁走、やはり日本に連れて来られた朝鮮人の男と隠れ暮らす殊になる。やがて江戸時代になり、1607年の最初の朝鮮通信使に紛れて帰国を図るが、結局果たせず、元の女主人に仕えることになるというストーリー。それなりにドラマチックな話のはずが、平板に感じられた。逃亡が有り、流産があり、事件だけが一人歩きして、人間の感情や心理が活写されていない。展開も不自然な部分が多く、不満ばかりが残った。どうもこのところ、小説の選択がハズレることが多い。乱読のたたりだろうか。


司馬遼太郎の「かたち」】関川夏央 ★★☆☆ 司馬遼太郎が晩年の10年間、文藝春秋の巻頭随筆として連載した「この国のかたち」を、司馬が歴代編集長に送った手紙の文章から検証したもの。つまり、文藝春秋からの委託作品みたいなものだが、関川はなかなかがんばっている。たしかに適役だったろう。
Morris.は司馬遼太郎の長編はほとんど読んだと思うのだが、決して良い読者とは言えない。「司馬史観」とさえ呼ばれる彼の歴史観にはちょっと異議があったのだ。確かに司馬の歴史小説は、面白くて、読み手(日本人)をいい気分にさせてくれるし、ありていに言えば好きなのだが、なにか、違うよなと思わざるを得ない。はまることなく、醒め読んでいたということになる。
司馬の短編と随筆、対談、紀行文の類はあまり読んでない。本書のテーマ「この国のかたち」も同様だ。したがって、関川の文脈で想像するしかないのだが、結局司馬の歴史観は、現実社会、特に80,90年代の日本に対してはほとんど無効だったといえそうだ。加えて司馬の晩年の心身の疲労が露わになっている、ボケの徴候すら伺えて、ちょっと辛くなってしまった。司馬は「エッセイを書くと小説が書けなくなる」というのが口癖だったらしい。こんなことなら、最後に小説の一つでも書いてもらいたかった。


個人のたたかい 金子光晴の詩と真実】茨木のり子 ★★★ 1967年刊「うたの心に生きた人々」の中の金子光晴論のみを豆本にしたてたもので、以前読んだ山之口獏の続編に当たる。30年以上前の作だが、現在読んでも、優れた(しかも無茶苦茶わかりやすい)光晴論である。実はMorris.の卒論は光晴だったから、ちょうど同時代の産物ということになる。著者は光晴門下といっても良いくらいの間柄だったこともあって、光晴へのオマージュに終始してる感が無きにしもあらずだが、それはそれでいいのではないか。

(金子光晴は)昭和50年(1975)急性心不全により、八十才でこの世を去りました。
その半世紀にわたる長い詩業には、恋唄もあり、抒情詩もあり、ざれ唄もあり、弱さをそのままさらけだした詩もあり、一読考えこまざるをえないエッセイ集もたくさんあり、じつに大きなスケールと、振幅をもっていますが、とりわけその時の、もっとも鋭い切っ先は、権力とわたりあい、個人の自立性は、たとえ国家権力によってだってうばわれないといった、まことに「無冠の帝王」にふさわしい、人間の誇りをかがやかせたのでした。


百年の旅人たち】李恢成 ★★★ Morris.は在日作家のの作品はあまり読まない。例外は梁石日くらいだ。2冊本で500ページを超える本書を借りた動機はよく分からない。タイトルとカバーのイラストに惹かれたためかもしれない。
昭和27年頃、サハリンから強制送還される、朝鮮人の家族など20名ほどが、鈍行列車で長崎県の収容所まで移動して、船で出港するまでの短い期間の中で、各家族、お互いの過去と事件、民族問題、愛憎、歴史、宗教、思想などが、複雑にからまる、はっきり言うとかなり鬱陶しい作品だった。
特に主人公は特定できないが、徴用で炭坑で強制労働され、解放の日(8月15日)に日本人現場監督を殺害した男の孤高な態度が際立って印象的だった。しかし、やっぱり、この手の作品は苦手に属する。


冥府神(アヌビス)の産声】北森鴻 ★★★ 臓器移植に関連する「脳死」臨調の答申を巡る殺人事件を機に、大学研究室、製薬会社、政治家などの動きに、大学を追放されたジャーナリストと、浮浪者の群れに潜む男の反抗を社会小説風にしあげたもの。これまで読んだ著者の作品とは、全く雰囲気の違ったもので、ちょっと驚かされた。脳死の判定基準の取り扱いが大きなポイントとされるが、実は完全脳死と見られる死体から脳波を測定する解剖実験結果が極秘裏に行われ、その結果を握りつぶすため政治がらみの展開となる。新宿の浮浪者と予知能力を持つ少女(実はロボトミー手術されていた)、女性写真家の卵などが配されて、ストーリーが伝奇風になったのにはしらけてしまうし、ラストでの帳尻合せ、身内の患者によってころりと主張を代える二人の教授など、杜撰な部分も多いが、それなりの力作だと思う。


詞人から詩人へ】宮沢和史 ★★☆☆ 著者はTHE BOOMのボーカリストだそうだ。Morris.はこのバンドは名前しか知らない。朝日新聞夕刊に連載されたもので22編の詩が収められている。前に茨木のり子も紹介していた、吉野弘の「祝婚歌」が本書にも載っていた。中原中也、谷川俊太郎、寺山修司、友部正人、三好達治、室生犀星、リルケなど、ほとんどが衆知の詩人だったが、冒頭に置かれた無名のまま戦死した竹内浩三の「骨のうたう」は、伝記のタイトル「こいびとの眼や ひょんと消ゆるや」という一節だけが記憶にあったのが、全編を読むことができた。悲しい詩だ。

骨のうたう
                    竹内浩三(1911〜45)

戦死やあわれ
兵隊の死ぬるや あわれ
遠い他国で ひょんと死ぬるや
だまって だれもいないところで
ひょんと死ぬるや
ふるさとの風や
こいびとの眼や
ひょんと消ゆるや
国のため
大君のため
死んでしまうや
その心や
白い箱にて 故国をながめる
音もなく なんにもなく
帰っては きましたけれど
故国の人のよそよそしさや
自分お事務や女のみだしなみが大切で
骨は骨 骨を愛する人もなし
骨は骨として 勲章をもらい
高く崇められ ほまれは高し
なれど 骨はききたかった
絶大な愛情のひびきをききたかった
がらがらどんどんどんと事務と常識が流れ
故国は発展にいそがしかった
女は 化粧にいそがしかった

ああ 戦死やあわれ
兵隊の死ぬるや あわれ
こらえきれないさびしさや
国のため
大君のため
死んでしまうや
その心や

ところで、本書には CDが付属していて、著者による詩の朗読が収められている。試しに最初の数編を聞いてみたのだが、途中で止めてしまった。Morris.は好きな詩を、時々低声で愛唱することはあるが、他人が詩を朗読するのを聞くのはあまり好きでないようだ。


日本語おもしろ雑學練習帳】日本雑学能力協会編著 ★★★ この手の本は、暇つぶしとネタ繰りのため時々借りるのだが、たいてい、新書版や文庫でいいかげんな出版社から出されていることが多い。本書はわりと装丁が洒落ていて「新潮社」とあったので、期待して借りたのだが、帰ってよく見たら「新講社」という知らない会社だった(^_^;)
それでも10数個読めないものがあったので、例によって、ワープロにあるものに限って引用しておく。(解答はこのページのどこかに隠してあります。ひとまず、漢字の訓み方クイズとして挑戦して見てください。)

1。動もすれば
2。黄髪番番(白髪がさらに黄色みをおびるまでになった老人)
3。貪官汚吏(むさぼる官僚、汚職官吏)
4。已己巳己(互いに似ているものをさす)
5。交喙(鳥の名)
6。羊蹄(植物名)
7。春北風
8。庶幾くは
9。擢んでる
10。謙る
11。御侠

[解答]1。ややもすれば 2。こうはつはは 3。たんかんおり 4。いこみき 5。いすか 6。ぎしぎし 7はるならい。 8こいねがわくは。 9。ぬきんでる 10。へりくだる 11。おきゃん 


狂乱廿四孝】北森鴻 ★★☆☆ 最近、数冊続けて読んでた北森のデビュー作。明治初期の歌舞伎の世界を舞台に、役者、作者、絵師、作家志望の娘、仮名垣魯文などが、幽霊の絵の謎解きから、時の人気役者で壊疽のため両足と腕を切断した沢村田之助の秘密を探るという時代物ミステリー。先に読んだ数冊に比べると、あまり面白くなかった。それなりによく調べて書いてるし、雰囲気も出そうとしてるのはわかるのだが、ドラマとして盛り上がりに欠ける。殺人のトリックも無いに等しいし、伏線も無く突然新たな事実を持ち出したりするのは、反則かもしれない。Morris.は今はミステリーファンではないし、どっちにしろ面白い小説であればいいという立場だが、そういう意味でも物足りなかった。


読書人志願】森村稔 ★★☆☆ 著者が20年にわたってスクラップした、読書に関する名言、エピソードなどを、テーマ別に分けてまとめたもの。割と平凡なものが多かったし、読書の形や、態度、分野も千差万別だから、それほど裨益するものは多くなかったが、読書家の自己批判めいた、苦言、反語の類には面白いものがあった。

・Reading does not make a man wise。it only makes him learned。(読書は人を聡明にしない。ただ物知りにするだけだ)サマセット・モーム

・多くの人にとって、読書が意味するものは、立派な呼称で偽装された、ごくつまらぬ時間潰しの途である。エルネスト・ディムネ

・わたしは読書する怠け者を憎む。フリードリヒ・ニーチェ

・多くの書物を読み、しかも彼自身の思想を持たないところの人は、通例、気位が高く、痴呆のようにぼんやりしている。萩原朔太郎

・愚なる人は一書を読みてこれを解せず。凡なる人は悉く解したりと思ふ。善く読むものは時として悉くは解し得ぬことあり。暗きを暗く見、明きを明しと見るなり。森鴎外

・読書は思索の代用品にすぎない。ショーペンハウエル

・書物こそもっとも恐ろしい毒物である。なにしろ書物には人類の呪いがこめられているのだ。ベンジャミン・ディズレリー


グリコ・森永事件】宮崎学・大谷昭弘 ★★★☆ キツネ目の男に擬され、電脳キツネ目組を主宰している、宮崎と、読売の事件記者からフリーになった大谷の、個々の言説と対話、質疑応答などで、グリ森事件を総括している、いわば、締めくくりの書とも言える。限りなく当事者に近い宮崎の話が面白くないわけはない。昨年の時効直後に出されたものだから、今読むとちょっと旬を過ぎた気がしないでもないが、本書は、グリ森にいくらかでも関心ある者なら読んでおいて損はないだろう。
警察の失態、腐敗、責任逃れなどへの追求は相変わらず厳しいし、6-4ないし7-3でMorris.も宮崎側に、肩入れしてしまう。
宮崎・大谷は同い年(1945生)だ。大谷もジャーナリストとして、かなり事件に肉薄しているが、やっぱり宮崎の方が一枚も二枚もしたたかな気がする。
おしまいに、宮崎の見方によっては「勝利者宣言」とさえ受け取られかねない締めくくりのことばを引いておく。

いまでも警察やマスコミは、私が「真犯人」だと疑っているようだが、残念ながら、当時、私にはアリバイがあった。それでも万一、私が犯人だったら、どうするか? どうしても私を犯人に仕立て上げたい警察やマスコミのリクエストにお応えして推測するが、私が犯人だとしても、時効が成立したらけっして真実を語らない。なぜならば、刑事事件からは逃れられたとしても、恐喝された各企業が被った莫大な被害の損害補償という民事裁判のリスクが犯人側には残るだろうし、一方、企業側もいまさら当時のことを蒸し返されたりすることは企業イメージのマイナス面からも絶対に避けたいことであろう。
いずれにせよ、真相は闇に包まれたままである。


一本の茎の上に】茨木のり子 ★★★ 詩人茨木のり子の散文を集めたもので、好きな詩人や、他人の詩に関するエッセイ、韓国工芸に関する点描、山本安英、木下順二の思い出など、内容はいろいろだが、いずれにも詩人の目を感じることができる。本人は、詩に比べて、散文は苦手だと正直に告白している。タイトルもそのままずばり「散文」というエッセイのなかで、森鴎外の「阿部一族」こそ日本語の規範だと思い、日本の口語文はまだ完成に程遠い、未成熟なものだと規定し、「鴎外の散文がいいのは、口語体であっても文語体に等しい骨組を持っているからではないか。さらに溯れば彼の深い漢文の素養へと至るだろう」というあたりは、山本夏彦に通ずるところがある。口語自由詩を書く自分の作品に思いをはせ、「口語形の未成熟ということでは詩も共に同じ運命を担ってい」ると、結論づけている。
吉野弘の「祝婚歌」を谷口俊太郎のアンソロジーで見つけ、気に入って色んな人に紹介してるという話は、現代詩の中では珍しい部類に入るかもしれない。世代、国境に関わりなく広く愛唱されるとき、詩は、作品以上のものに生まれ変わるのかもしれない。孫引きしておく。

祝婚歌
                             吉野弘

二人が睦まじくいるためには
愚かでいるほうがいい
立派すぎないほうがいい
立派すぎることは
長持ちしないことだと気付いているほうがいい
完璧をめざさないほうがいい
完璧なんて不自然なことだと
うそぶいているほうがいい
二人のうちどちらかが
ふざけているほうがいい
ずっこけているほうがいい
互いに非難することがあっても
非難できる資格が自分にあったかどうか
あとで
疑わしくなるほうがいい
正しいことを言うときは
少しひかえめにするほうがいい
正しいことを言うときは
相手を傷つけやすいものだと
気付いているほうがいい
立派でありたいとか
正しくありたいとか
無理な緊張には
色目を使わず
ゆったり ゆたかに
光を浴びているほうがいい
健康で 風に吹かれながら
生きていることのなつかしさに
ふと 胸が熱くなる
そんな日があっていい
そして
なぜ胸が熱くなるのか
黙っていても
二人にはわかるのであってほしい

この詩は、既にかなり広汎に流布していると見られる。本当かどうか知らないが、離婚調停にたずさわる女性弁護士が、この詩を愛し、最終チェックとして両人に見せ翻意を促すのに使っているというエピソードが付してあった(^_^;)


【「 ケータイ・ネット人間」の精神分析】小此木啓吾 ★★★☆ 「モラトリアム人間の時代」で一世を風靡した著者の最近の著作。「少年も大人も引きこもりの時代」と副題にあるが、ゲーム、インターネット、携帯電話(特にiモード)の浸透による、日本人と社会の劇的変化を、精神分析の視点で検証している。
少年犯罪の数自体は減少しているのに、マスコミを騒がせる「無目的的」な少年犯罪の頻発は、ゲームやネットなどハイテク社会の引きこもりから、現実世界への切り替えが出来なくなったことに原因があるという説は、これまでも言われたことだが、ゲーム機、携帶、ネットを、人と機械の中間の位置とみて、人と人との「1対1」の関わりでなく「1対0。5」(著者言うところの「1。5」の世界)であるとし、この居心地のよさが、引きこもりを助長するというところは面白かった。
モラトリアム人間が増殖しているばかりか、その存在を否定できない社会構造になってしまったと言う指摘は、また、Morris.にとっても耳の痛い苦言でもある。

もはや、このモラトリアム人間社会で生まれ育った人々には、本当の意味での働く人、そして、社会に責任を持ってストレスを抱えながら運営していく当事者と、働かない人、そして、吉良kにその社会の世話になりながらいいたいことだけを口にしてればよい人、この二種類の人間のその意義の違いがはっきりのみ込めなくなっている。むしろ彼らの教育環境は、この区別を曖昧にし、平等を説くことに教育の主眼を置いてきた。現代は戦後の日本社会の悪弊としての平等幻想---現実がきびしい競争社会であるにもかかわらず、みんなが特有な平等幻想を抱く社会である。--中略--このような環境の中で、人間、誰が何といってもまず働かなければならないのだ、ということをうまく子どもたちに伝えることがむずかしくなってしまった。どうやって「絶対に働かなければいけない」ことを子どもに教えることができるのか。「苦労して働かないで、楽をして養ってもらったほうがいいじゃないの」という気分が、子どもたちの心にいつの間にかしみついてしまった。
このモラトリアム時代のジレンマは、いまやますます深刻なものになっている。

これは「依存」の認識が、正しく理解されていない(しようとしない)ところから来るもので、

さらにこの心理が進むと、私の言う「支配的な依存」の状態になる。それは、王様が家来をこき使って、本当は王様のほうが家来に依存しているのに、依存している王様は威張っていて、「おまえの世話の仕方が悪い」といって相手を怒るような依存関係である。
この、王様と家来のような関係になってしまう親子関係が、引きこもって家庭内暴力を働く子どもたちには顕著に見られる。それは、もともと親は、子どもを自分に依存させて世話させるのが当たり前という心理に発している。

確かに、現代の子どもたちの問題の多くが、こういった親権の歪んだ愛情に起因するような気がしてくる。
著者の現状分析は分かりやすく的を射てると思うのだが、その解決方法となると、途端に切れ味が悪くなってしまう。本書は問題定義の書ではあっても、処方箋ではないということだろうか。症状を知ることは大事なことだとは思うし、最終的には個人が解決しなくてはならないことなのだろう。
それとは、別のことだが、著者に限らず心理学者ってのは、どうしてこんなに、と呆れるくらい「造語好き」だ。元祖のフロイトが「エディプスコンプレックス」なんてのを発明してるから、右に倣えということかもしれないが、本書に出てくるのをざっと見渡しても

・モラトリアム症候群・自己愛人間・パラサイトシングル・山アラシのジレンマ・ヒッキー・ネットマニア・誇大自己・ホテル家族・あと1分シンドローム・ケータイネットタイムワープ・ケータイネット依存症・デジタルチルドレン・燃え尽き症候群・短縮定型化・かのような人格・シゾイド人間・アズイフ人格・一卵性母娘・スーパーウーマンシンドローム・スーアーウーマン挫折症候群・アダルトチルドレン・劇場家族・カーソナリティ

半分はマスコミが面白がって作った感もあるが、そもそも実態のない「心理」を扱うから、譬えやもどきによりかかってしまう傾向があるのだろう。

現代の進歩は、私たちの生活から「苦あれば楽あり」の「苦」の部分をどんどん消去して「楽」だけを追求する。苦痛があることで初めて、その苦痛を何とか処理しようと思う欲求や衝動が生まれる。空腹があるから食欲が生まれる。暑さがあるから、何とか涼しくなろうという欲望が生まれる。
ところが、この欲望を、本人の自然の営みを通して身体的な工夫や努力でみたすという部分が消去されている。現代の若者たちを無気力と呼ぶが、意欲そのものが発生する根源的な自然の状況を、大人たちが商品化してどんどん奪っているのが現代の社会である。彼らの願望を先取りして、若者たちを無気力化するのが現代文明の根本原理である。

これは、なかなかに痛烈な皮肉(文明批評)であると思う。


死もまた愉し】結城昌治 ★★★ ミステリー作家で、俳句もよくした著者が、死の前年(1995)にラジオ番組のために語りおろしたもので、後半に彼の句集二つも併載されている。
少年時代に海軍に志願し、戦後は結核にかかり、胸郭成形手術で背部の肋骨すべてを取りさり、死を身近に感じざるを得ない一生を送った著者が、図らずも70歳近くまで生きて来て、生と死のことを、淡々と語っている。つい先日読んだ生島治郎の半自伝小説と、重なる部分もあり、両者のニュアンスの差異みたいなところ(人間関係)も別の意味で興味深かった。
結核療養所で、石田波郷、福永武彦と出会ったことが、著者の生涯を決定付けたことは間違いないだろう。「俳句は遊び」と言いながら、波郷仕込みの句風は格調高いものがある。

・耀きて驟雨に落つる蝶見たり
・風船のまぎれむ雲もなかりけり
・緑陰に置かれて空の乳母車
・降る雪や余生といふもやすからず
・來し方の見わたすかぎりおぼろかな
・花あんず母と旅せし記憶なく
・ぼうふらも生きるいとなみ死ぬなかれ
・ゆゑ知らぬ疲れ金魚を憎みけり
・秋風や逢ひたきひとはみな故人
・いわし雲どこへゆくにも手ぶらにて
・夕虹や夢はかなはぬままがよし
・いくたびも死にそこなひしゆかたかな


【お笑い  外務省機密情報】テリー伊藤 ★★★ 「お笑い北朝鮮」(1993)で、抱腹絶倒させてくれたテリーのお笑いシリーズの97年に出たもの。本書の前に「お笑い 大蔵省機密情報」が出ているので、その続編なのだろうが、そちらはまだ読んでない。
北朝鮮ほどのインパクトはなかったが、それでも、この人のおちゃらけぶりは、なかなかにしたたかでもある。ペルーの大使館人質事件で、はからずも露わになった、日本の外交官の海外での常軌を逸した暮らしぶりを始め、その特権意識、怠慢、調子の良さ、閨閥、利権と、それに寄生するもろもろの企業や人たちのことを徹底的に皮肉っている。そこそこ毒のあるユーモアもたっぷりで、面白かった。
大使は、当地では天皇陛下というのも、たぶん本当の事だろう。
それにしても、官僚って、ほんっとにいい商売だと思ってしまった。


熾天使の夏】笠井潔 ★★★ 20年以上草稿のままお蔵入りになってた、著者の処女作ともいえる作品。「バイバイエンジェル」(1979)でデビューして今日まで、難解かつ挑戦的なミステリーを書き続けている笠井の作品は、長いほど面白いと思っているMorris.だが、本書は350枚ほどで、流石に文章も生硬、ストーリー展開もややギクシャクとしているものの、笠井の資質(良くも悪くも)が生で出ていて、面白かった。
全共闘〜地下活動者になった主人公が、爆破テロに関わり、それとは別に「完璧な自殺」を図る中で、死と性、世界の存在意義などを直観する、精神小説でもあるが、冒頭の思想のあがき、あるいは虚無の暴力のようなモノローグからして、非凡なところを見せている。

暗黒の宇宙空間は絶対零度、太陽の表面温度は六千度だという。生命とは惨めなほどに脆い壊れやすい存在だ。温度という条件ひとつを想定しても、極限から極限に至る無限階梯の、きわめて小さな領域でしか生存を維持することができない。絶対零度と六千度のあいだで、生命が存在可能である温度帯は、今にも切れそうに張りつめた細い糸に過ぎない。生命とは宇宙のきまぐれがほんの一瞬だけ形あらしめているもの、ようするに偶然の産物なのだ。人間は自らが無意味で卑小な存在であることを明晰に意識しなければならない。その無意味さ、その卑小さにおいて、蛞蝓と人間とのあいだにどんな違いがあるといえるだろう。もちろん、どんな違いもありはしない。もし違うとすれば、自身の無意味、自身の卑小を自覚しない蛞蝓にたいして、人間はそれを意識しうるという点においてだけだ。

漠然となら、類似した感覚を抱く若者も多かったろうが、これほど明確に提示できてるのは凄い。
また、活動家としての付き合いの中で、一般の交友関係を

君が友達や仲間と呼んでいる、曖昧な人間関係ほど厭わしく愚劣なものはないと感じるからだ。繕われた表情の背後で行われる陰湿な探りあい、安酒の肴に過ぎない苦労話や身の上話、大仰に肩を叩き合う一夜限りの意気投合、汗ばんだ皮膚を押しつけあうような愚痴と自己憐憫の交換。馴れ合いの暇潰しに似た空疎な議論---。

ここには、著者の自己批判も混じっているかもしれないが、これでは実も蓋もない、と思いながら、否定できないものもある。

陰謀家、爆破寸前の少年、純真な女性活動家との交わりの中で、70年代の内ゲバ、暴力、拷問などが、苦さとともに描写されていく中間部は、あまり読みたくない気になってしまった。後半、主人公が死を賭してルーレットの勝負をする中で、真の生存を悟り、賭けに負けて金を失った代わりに、実存意識を得るというところが、本書のハイライトなのだが、ここも、今読むと、安易に過ぎるかもしれない。ランボーの一節「永遠−海に交わる太陽」のイメージを援用して、

死の顎(あぎと)に捉えられ、死を眼前とした瞬間にのみ、生はこのようにも激しい燃焼を見せるのだ。一瞬が永遠である真実の時間を生きた者だけが、耐えがたい眩暈の輝きのなかで死を迎えることができる。生きるためには、まず死ななければならない。死の永遠が一瞬に転化する今、生の瞬間が永遠に変貌する今。渇望し続けたリアルな現在が、ここにある。眩いきらめきに充ちて果てもなく回転するこの世界が現在だ。この現在一瞬一瞬が永遠だ。穏やかな安らぎに充ち、この一瞬を永遠として生きている。駆け抜ける瞬間のすべてが宝石のきらめきで魂を奪う。

と、意識の開放を描写している。これは、ランボーというより、バタイユに影響されているように思える。
20年前の作品、ゆえに、タイトルを変更(原題は「夏の凶器」)以外は手を加えなかったという、著者の言葉を信ずるならば、確かに本書は、発表される時期を20年間待って、時機を得て世に出たものと言うこともできるだろう。Morris.は笠井と同世代で、あの時期も、そろそろ「歴史」として客観的に見ることができそうだということを、本書を通して確認できたような気がする。


自決】飯尾憲士 ★★★☆☆ 2年ほど前に「静かなる自裁」読んで以来だが、初出は雑誌「スバル」(1982年6月号)に一挙掲載されて、8月には単行本化されている。著者自身が所属していた陸軍士官学校の直属長官上原重太郎大尉が、終戦時の軍部クーデタに関連して、森近衛師団長惨殺事件に関わり、8月19日に自決した事件が、後の週刊誌の記事などで、歪曲されている事を知り、その事実を明らかにするため、関係者から丹念に事情聴取して、真実に迫っていく、ルポルタージュ、ドキュメント小説なのだが、著者が、長官に親炙していたこともあり、当人も巻き込まれる可能性が高い集団の事実の洗い出しであるだけに、異常な空気が漂って来るような作品だ。いわば戦前の悪夢を掘り起こすという、ためらいを抱きながら、証人の一人一人と真剣に渡合い、資料も丹念に読み込んで、確証を得るまでの推理と実証の手続きが周到かつ鮮やかで、久々にぞくぞくする感じを受けた。約1年で、これだけの取材と編集をこなすだけでも、驚くべきだが、著者の周到な再構成の手際にも溜息が出る。著者の粘り強い性格も、尋常ではない。
戦争時士官候補生だった事を、表に出さずにいた著者が、ことの真相を明らかにしたいがために身分を明らかにして、当時の同期生や上官に接触することだけでも大変なことだろうに、よくぞここまでという、聞き込みが出来たのも、誠意が認められたためだろう。
こういう作品は、この著者で無ければ成立しない性格のもので、何よりも、上官への真の意味での供養になったことと思われる。戦争、軍部、陸士教育などへの批判、反発を抱きながら、抑制を効かせ、テーマを凝縮させているのも、本書の価値を高めている。
作中何度も「おざなりにされている」という言い回しが出てくる。きっと著者は「おざなり」というのが、許せない性格なのだろうな。
戦後半世紀を過ぎ、戦争を知らぬ日本人が大半を占める時代になった。Morris.は戦記物は嫌いだし、戦略論なども興味はないのだが、本書を読んで、戦争の時代と、その時代を生きた人々のことについては、もう少しよく知る事が必要なのではないか、と考えさせられてしまった。


播磨ものがたり】池内紀 ★★★ 姫路生まれの著者が、省みる事のなかった故郷を舞台に、紀行風の創作を、姫路市文化振興財団発行の季刊誌「BanCul」に20回連載したもの。著者本人と、博学の民族学者、酒井抱一専攻の女子の院生、の3人が、2,3人で播州の各地を回り、研究の取材をしたり、ぶらりと徘徊したり、夢か現かの感想を記したり、ちょっと不思議な作品だった。Morris.は池内の文章の上手さにはかねがね感嘆していた。特に翻訳や、評論、紀行、エッセイなどのかっちりして、無駄のない、達意の文章は、一時Morris.の理想形だったくらいだ。乾いたユーモア、抑制のきいた蘊蓄、すべてがお手本のように思えた。ただ、彼が時々書く小説には、ちょっと違うんではないかい、という感じを受けた。本書は、小説臭さを感じさせないし、得意の紀行文の要素も強いためか、比較的、気持ち良く読了した。表紙と、各篇ごとに著者撮影の写真(モノクロ)が一葉ずつ挿入されていて、素人にしてはなかなかのものだが、とりわけ裏表紙の浜辺で釣り人をシルエットのように写した一葉は、すばらしい。海岸線が放物線状になり左方に開けているのだが、岸辺の波と沖の光の質感が見事に捕らえられているし、全体が緻密な銅版画のような雰囲気を醸し出している。
本文でなく写真ばかり褒めるのは、悪いかな。ちょっとだけ文体見本を

外光の変化につれて大天守閣の白い壁が微妙に色合いを変えていく。それとも眺めている自分の眼差しが、感情の起伏につれて、たえず、われ知らず、変わっていっているのだろうか。
「やがて百年がたち、まもなく千年がたつだろう・・・」
園田友子はふと思い出した。はたして、だれの詩であったものか、詩人は呟くようにしてうたっていた。こと上もなく正しいと信じた行いのあとに、二度とは地上に下りてこないだろうあの星へまで、悔恨にも似た一筋の水脈をのこして去っていった者たちのこと。
雲が流れて地上に大きな影が走った。とたんにひんやりとした風がおこって、パラパラと松葉が落ちてきた。どこかで鳥の啼き声がする。
園田友子は啼き声をまねて、外国語の練習でもするように唇をとがらせていってみた。
「ジェ・トゥ・エー・ジェ・トゥ・エー」
綴りにすると、Jai tueといったふうになる。フランス語では「ワタシハ人ヲ殺シタ」の意味。

ところで、中途半端に引用してある詩編は、誰の作品だろう? 聞き覚えがあるような気はするのだが、出てこない。ご存知の方は、Morris.まで、乞連絡。


浪漫疾風録】生島治郎 ★★★ 日本のハードボイルド作家の草分けとも目される(らしい)著者の作品は、彼の再婚にまつわる半ノンフィクション「片翼だけの天使」?くらいしか読んでない。で、本書も著者が早川書房の編集に潜り込み、退社して作家を目指すまでの半自叙伝なのだった。当時の早川書房のEQMMの編集長が詩人田村隆一だったことくらいは知っていたが、彼が都筑道夫、福島正美、常磐新平、それに生島と、まるで作家養成所の態をなしていたことには驚かされた。編集の仕事を通じての原稿依頼や、業界同士の付き合いで多くの作家--江戸川乱歩、高木彬光、開高健、佐藤春夫、吉行淳之介、陳舜臣、星新一、佐野洋、水上勉、田中小実昌、中原弓彦、結城昌治等々と交流する場面での彼等のスナップショット的描写は興味深いものがある。
この作品の中で、登場人物はほとんど実名なのに、当の生島自身は越路玄一郎と言う変名になっていて、違和感を覚えるが、これはあとがきで、「私小説にしたくなかったし、自分を客観的に小説の中で動かすため」と言い訳している。
編集者から作家への転身は、今でも割と多いケースだが、そういった中にあまりMorris好みの作家は見当たらないようだ。


花の下にて春死なむ】北森鴻 ★★★ 6編の短編が収められていて、連作ではないが、登場人物も交錯しながら、複数回登場するし、「香菜里屋」というビールバーとマスターは全作品に出てくるから、店のマスターを探偵役とする連作短編と言えない事もないが、それにしては短編ごとの力点がばらばらだ。それでもとりあえず面白かったのだから、言う事はない。タイトル作では、山頭火を髣髴させる自由律俳句の老作家の死と、故郷喪失の謎を30代の女性ライターが追うというもので、挿入された俳句も、著者が作ったとあり、なかなか器用なところを見せている。ミステリーとしてはそのトリックや解明方法が、まだるっこかったり、現実ばなれし過ぎたりして、何だかなと思わせるのだが、別にミステリーを読みたいわけでないので、2作目にして(Morris.にとって)この作家のものを、しばらく読み続けてみようと思ってしまった。
短編で、それぞれ雑誌に掲載されたからと言う事はわかるのだが、店やマスターの紹介などが、同じ文章で何度も繰返されたり、話の導入が画一だったり、必ず一品以上出てくる料理が、いかにも借り物っぽかったり、会話が不自然だったりと、まあ、文句はあるのだが、なんとなくMorris.との相性は悪くなさそうだ。


凶笑面 蓮杖那智フィールドファイル1】北森鴻 ★★★ と、言う訳で同じ作家のものが続くのだが、本書は2000年発行で、これまで読んだ中では最近の作だ。5編の短編が収められていて、これは、女性民俗学者の助教授が探偵役を果たす、連作シリーズで、タイトルからすると、まだまだ続けるつもりらしい。惹句に「最新の民俗学を大胆に取り入れ、日本人の根源を容赦なく抉り出す。本邦初、本格民俗学ミステリー」とある(^_^;)民俗学をテイストに使った作品は過去にいくらもあるだろうが、これだけ大仰に冠したシリーズは初めてかもしれない。面白いところに目を付けたものだ。Morris.は民俗学は、敬して遠ざける立場だが、興味や関心は人並みにはある。本書のヒーローは齢30前後の冷徹な美女で、頭脳明晰、学会では異端と見なされながら一目置かれると言う、まあ、こういう筋立てではありそうなキャラクターだし、彼女のワトソン役を務め、物語の進行係りにもなる助手の内藤を配した、オーソドックスな舞台設定。
しかし「狐罠」から数年後の作品なのに、ずいぶん文章も読みやすくなってるし、余裕まで見えるのはなかなかのものだ。本書にも、ビールバー「香菜里屋」や、他の作品の登場人物が、しばしば登場する。つまり著者は、自分なりの疑似社会を仮設して、そのなかで、さまざまの物語を生起させようとしているらしい。これも、アイデアとしては面白い。本書の中で繰り広げられる民俗学の講釈は、期待外れとは言わぬまでも、やはりまだ、借り物と言う感じは否めなかった。著者はそれなりに関心もあり、勉強もしてることは分かるのだが、パッチワークでしかないようだ。でもこの作家はまだまだ、楽しませてくれそうな予感がする。


狐罠】北森鴻 ★★★ Morris.にとっては初めての著者だが、贋物をテーマにしたものらしいので借りてきた。どうも、Morris.はこのてのテーマには目がない。
骨董屋どうしの騙し合いの話だが、主人公が30歳くらいの女性で、欲のための贋作でなく、意地で始めた贋作作りが、結局は30年も昔の因縁劇に巻き込まれていたという展開で、すご腕の贋作者、在日韓国人富豪の末裔、大英博物館、日本の博物館のキュレータ、凸凹警察コンビ、女性カメラマンなど、登場人物も書き分けてあり、保険を裏手に取った詐欺の手口や、贋作専門の材料屋、古色とつけるテクニックなど、それなりに面白かった。
陶器、ガラス、漆器の贋作、骨董界の手管などに関する蘊蓄は、通俗書からのダイジェストが多くて、ちょっと物足りないし、贋作の動機や、事件の展開が甘い、キャラクタが立ってないなど、弱点も多かったりなどと、欠点も多いが、暇つぶしに読むには充分だった。


幸田露伴のために】篠田一士 ★★★☆ このところずーっと気にかかってる幸田露伴なのだが、手強そうなので、予習を兼ねて借りてきた。63年から83年の間に雑誌や新聞、単行本解説などをまとめたもの。著者は露伴を「ヨーロッパを必要としない、近代日本文学者の中で希有の存在」だと規定している。つまり自然主義に代表される近代日本文学はほとんどすべてがヨーロッパの影響なくしては成り立たなかったという論法である。
露伴の恐るべき教養、知識は、日本、支邦、印度の仏教などに依るというのは、その通りだが、科学知識は西洋のものも広く学んでいる事も忘れてはならないだろう。
露伴が現在、ほとんど無視されている状況なのも、漢文脈の文体と、空間的広がりを主体として、時間的物語の流れの希薄さが、日本文学の流れと乖離しているとの指摘も、一応は首肯できる。
露伴と漱石が同い年生まれというのは、にわかに信じがたい気がする。漱石が「猫」でデビューした明治38年(1905)、露伴は新聞連載中の「天うつ浪」を未完のまま放棄して、以後長い事小説を書かなくなった。つまり、文学史から見ると、露伴から漱石へバトンタッチされた形になる。漱石の小説家としての活動期間は12年足らずで49歳で死んだが、露伴はその後30年生きて、世間からはあまり注目されない中で「芭蕉七部集評釈」「連環記」「幻談」「蝸牛庵聯話」などを完成させた。
本書のおかげで、露伴のアウトラインを知る事が出来たし、その重要性もわかったが、やっぱり、現物を読まねばならないことも分かってしまった。
本書に引用してあった、露伴の随筆「潮待ち草」の中から一部を孫引きしておこう。

世に酒を飲むを極めて健康に害あるやうに思ひて非常にむづかしく論ずる人あり。わらふべし。智者大師の言に、身あるは即ち病なり、とあり。身体ある以上は病もあるべし、生れたる咎には死することもあるべし。其の本をいへば酒の為にはあらず。聚楽の第の成りし時、奢るもの久しからずと貼札して嘲りしものありしに、秀吉笑つて、奢らざるものも久しからずと云ひしといふ。豪傑の一語鉄鏃鉄的を貫くといふべし。酒を飲む者も病を得、酒を飲まざる者も病を得、伊達の薄着も風邪をひき、野暮の厚着も風邪をひくなり。−−中略−−道理は正しくとも人情に遠きことは好き結果をば齎さぬなり。ただに凡根凡機の人を強ひて酒を断たしむること難きのみならず、おのれもまた強ひて酒を断たんとはすべからず。


大相撲こてんごてん】半藤一利 ★★★ 相撲に関する言葉を五十音順に並べ、その来歴や、語源、個人的四方山話を書き記したもの。Morris.は決して相撲ファンではないが、角界独得の用語にはかねがね関心があった。著者は「漱石先生 大いに笑う」という著作で、漱石の初期の俳句を取り上げていて、これが、Morris.のぐい句の始まりになったという、因縁もあって、好感を持っていた。著者は五十一代横綱玉の海が大の贔屓だったらしく、随所に贔屓の引き倒しが見られるがそれもまた、微笑ましかったりする。
織田信長が、相撲好きで、土俵を作ったのも彼ではなかろうかという説など、興味深い記事満載だった。

「一富士、二鷹、三ナスビ」という初夢の縁起は「日本三大仇討ち」からきている。すなわち富士の裾野の曽我兄弟を筆頭に、鷹の羽のぶっちがいを紋とする浅野家の家中におこった元禄忠臣蔵、それと伊賀上野の荒木又衛門の三十六人斬り。これを「一に富士、二に鷹の羽のぶっちがい、三に名をなす伊賀の上野」と江戸の人は歌った。で、「名をなす」が「なすび」になったんだそうな。

木村家は軍配を持つ右手のにぎりこぶしを上に掌が下になるように構える、これを陰という。式守家は反対で、にぎりこぶしを下に掌が上になる、これを陽という。

土俵は、ぐると描いた円が「天」を表わし、それをとりかこむ四角が「地」を意味する。その上で取り組む力士−−かくて「天地人」がそこにできあがる。つまりここには一つの宇宙の万物がある。聖なる世界があるのである。

ところでちゃんこ鍋だが、煮食いとちりがあるのはご存知のとおり。煮食いには鶏肉を使い、ちりには白身の魚を使うのがほぼきまりとか。しかも白身の魚といっても鱈はいけないらしい。アラがいちばん歓迎される。というのは昔のはなしで、いまはそんなことはいっていられない。

貧乏神−−相撲番付で十両の筆頭力士

・雲を抜く力見せけり時鳥 稻妻雷五郎
・うす暗き角力太鼓や隅田川 一茶
・月のみか雨に相撲もなかりけり 芭蕉
・夕霧や伏見の角力ちりぢりに 蕪村
・相撲とりならぶや秋の唐錦 嵐雪
・嵐雪かその唐にしき角力見ん 白雄
・相撲取の屈託顔や午の雨 漱石
・夏場所やもとよりわざのすくひなげ 万太郎
・土付きし角力の肩の残暑かな 句仏
・大関にならで老いぬる角力かな 子規
・負すもふ食事日頃に十倍す 大江丸
・はね太鼓両国橋に風かほる 一利


大穴】団鬼六 ★★★ 昭和32年に書かれた作者(当時26歳)の2作目に当たる小説で、出版社の事情で、ホテルに缶詰にされ3日間で書きなぐったものという。いわゆるSMもので名をあげることなど考えもしない時期のもので、相場でひと山当てようと言う大学生を主人公にした、ピカレスクロマンで、それを、角川春樹事務書が、2000年に新たに刊行したものだ。
学生のくせに、大金を小豆相場に張って、失敗し、その後博打と会社乗っ取りに絡んだ株の買い占めで、大金をつかむというストーリーは、ありそうなもので、主人公を始め、下級生の子分みたいな暗い男や、落ちぶれた株やとその娘、やまっけのある芸者上がりの女実業家などの性格描写も、筋の展開も荒っぽいし、強引な符合もあるのだが、ぐいぐいと最後まで読まされてしまった。不思議な小説である。

−−安いところで買って高いところで売り抜ける。高いところで売って安いところで利喰いする−−相場に勝利を得るためには、ただこれだけを間違いなくやればいいのである。だが、これだけのことが仲々むつかしい。奇妙なことに買えば相場は下がり、あわてて売りに転ずると今度は上がり出し、半泣きになってまた買いに戻ると、次にはせせら笑うように相場は下がり出したりするものである。売った買ったするたびに店側に取られる手数料も馬鹿にならない。このようにチグハグなことばかりつづくと、しまいには神経がやられてしまい、何が何だかわからなくなり、狐つきみたいな目つきになってしまうものだ。相場とは、このように得体の知れぬ不気味なものなのである。


ページをめくる指】金井美恵子 ★★☆☆ 雑誌「母の友」に連載された絵本エッセイ24編をまとめたもの。うち5編が「ピーターラビットの絵本」に割かれているのを始め、大半が動物が主人公だったり、重要な脇役として出てくるのも金井美恵子の作為がうかがわれる。3回にわたってモーリス・センダックを取り上げ、後期の不気味とさえいえる作品「ミリー」「まどのそとのそのまたむこう」を「逸脱」と規定する視点にはMorris.も深く頷いてしまった。センダックの最良の部分は「あなはほるものおっこちるとこ」の、単純、陽気な世界にあると常々思っていたからだ。
また、気になる画家バルビュスが、10歳の頃に書いた「MITSOU-ミツ」という猫の絵本(言葉のない40枚の絵)は、是非手にとって読んでみたくなった。
バージニア・リーバートンの「小さいおうち」「せいめいのれきし」を「大きなテーマ性と巧みな技術を、小気味よく魅力的に見せる良く出来た絵本であり、名作と呼ぶのにふさわしいものではあるのだろうが、ブロードウエーで大あたりしたミュージカルをMGMで映画化したような、大作主義的退屈さと感動巨編につきもののうんざりする調子を感じる」と切り捨てている部分などは、彼女の本領発揮だ。
絵本を選ぶのは楽しい行為ではあるのだが、実は読み手の方こそが絵本に選ばれているのかもしれない。本書のここかしこに金井美恵子一流の毒や、皮肉、を読み取る事が出来て、それはそれで面白いと認めながらも、絵本論は(たとえそれが、読み巧者のものであっても)不要なものなのではないのか、そんなことを思ってしまった。
それとは別に、Morris.の偏愛する金井の「新古典女流おしゃべり体」ともいうべき、読点先送りして句点のみで連綿と繋いでいく息の長い文体が、このエッセイでも生かされているのが可笑しかった。

豚肉の薄切りのなかにうさぎの肉を混ぜ込んで売る、という悪い評判の肉屋があったり、朝には刈ってきた草のエサをやったうさこちゃんが夕飯の食卓の鍋の中でグツグツにえていた、という戦後の食糧事情のトラウマになりかねない経験を見聞きしている者にとっては、「うさぎ」が食肉であり、毛皮でもあって、アンゴラうさぎだったらセーターに編み込まれるということは常識なのだけれど、今日では、幼稚園や小学校で情操教育用にペットとして飼育されている「うさぎ」が、何者かによって、面白半分に殺されたという事件が新聞に報道されることがあり、それはたとえば、「いじめ」や、ホームレスを襲撃する少年たちの心理と同じに、きわめて現代的な問題としてジャーナリスティックに伝えられr、ピーターラビットの絵は、若い母親向けの愛らしい育児日記の表紙を飾ったり、マヨネーズのびんにプリントされたりして、家庭的な安らかさと豊かさと、野菜がヘルシーであることのシンボルとなり、私たちとうさぎとの関係は、それを殺して「食べる」ことから切り離されたままで、弱者としての愛らしい幼児というイメージにおさまってしまいつつあるようだ。

以上が、一つの文であり、本書中で、特に長い文と言うわけでもない。金井だからこそ、この調子でも読めるのだが、一般庶民は眞似すべきではないだろうと思う。


どうしやうもない私 わが山頭火伝】岩川隆 ★★★☆ 一時山頭火がブームになった時、ぱらぱらとその句集を見た記憶はあるし、人口に膾炙した数句は覚えているのだが、なんとなく、肌が合わない気がして、そのままになっていた。ひょんなことから、本書の著者が気にかかって、彼の競馬関係の本を借りようと思ったのだが、三宮図書館には無くて、こちらを借りて来てしまった。
既刊の山頭火伝は、俳人や、彼の信奉者の書いたものばかりで、実像とかけ離れていることから、著者が距離をおいて、山頭火伝を書き始めたとの事だが、付かず離れずのほどよい距離を置いて、手際よく伝記事項を書き進めながら、それに並行して山頭火への、共感と、嫌悪を率直に吐露する文章を書き綴っている。読むほどに、気が滅入ってきた。山頭火の弱さ、ずるさ、矮小さ、いやらしさ、俗気−−−といった、いやな性格が多かれ少なかれ自分の中にもあることに気づかされるからだ。存在が周囲の恩情によってのみ支えられているくせに、口でだけ感謝を述べて、自力ではなにもしない、まったくもって「どうしようもない」存在なのだった。特に酒に関するだらしなさは、全く他人事でないと暗澹たる気分になる。
岩川自身が同様の感想を漏らしている。

私が山頭火のことを思うとうっとうしくなるのは、よくよく考えると、どうも私自身が山頭火によく似ただらしなさや生活無能の本性を宿しており、あたかも近親憎悪のような、伝染をおそれるような恐怖感があって、それがときに嫌悪の情や敬遠の気持ちを抱かせるらいし。

数ヶ月前から急に俳句を捻り始めたMorris.だから、全く関心が無い訳ではなかったが、山頭火のいわゆる、口語自由律俳句は、Morris.とは無縁のものだと改めて思った。
荻原井泉水を中心とする「層雲」の仲間との交流が中心となってるので、自ずと引用されてる句も、自由律のものが多い。確かに、作品には、思わず笑いをさそうもの、ほろりとさせるもの、なるほどと合點がいくもの、詩としてすぐれたものなどがあることは否定しないのだが、どうもそりが合わない。
江戸後期の乞食俳人井月や、若くして亡くなった朱鱗堂、尾崎放哉などと比較すると、山頭火の「どうしようもなさ」は、際立っている。しかし結果的に彼の作品が、評価されているのも、その「どうしようもない」人間が残した句だからこそ、という面もありそうだ。

死によって山頭火の人間臭い悩みは消滅し、あとには多くのひとたちに愛される、わかりやすい、自然に没入した人間の名句が残った。もって瞑すべしである。

という、本書あとがきにある一節が妥当なところだろう。
それにしても、先に読んだ「天涯茫茫」といい、本書といい、著者の評伝は、資料を適切に取捨選択し、読ませる作品に仕上げる手腕には、感心しながら、読む方は鬱々として楽しめない、というのは、困った傾向ではある。

つまりは山頭火の句や呟きや文は、生臭い生の世界に迷える小羊の、凡愚の、亡者の、俗人の救いを求めて得られない、甘えと感傷のことばといってよかった。これは、とりもなおさず、私ども凡人みなの呷きでもある。

散々、山頭火嫌いと書いてきたのだが、それでも彼の句には、忘れがたい魅力を持っているものがある。有名過ぎる句も混じっているが、いくらか引用しておく。

分け入っても分け入っても青い山
うしろ姿のしぐれてゆくか
しぐるるや死なないでいる
鉄鉢の中へも霰
やつぱり一人がよろしい雑草
やつぱり一人はさみしい枯草
空へ若竹の悩みなし
洗へば大根いよいよ白し
いちにち物いはず波音
どうしやうもないわたしが歩いている


末法眼蔵】藤原新也 ★★★ 朝日新聞読書欄に連載されたもので、写真集や映像を主題にした書籍の書評コラムで、それぞれ、取り上げられた書物を著者自身が背景を替えて撮影した白黒写真を付しているのが、風変わりというか目新しい。しかし200頁くらいの本で、コラムと写真が見開きになってるから、1点当たり4ページといっても、文章量はあまりに少なすぎる。写真を見てくれといいたい訳だろうが、その写真というのが、該当本の表紙であったり、開いた一部であったり、ひどい時には、破られたり、水かけられたり、くしゃくしゃになったり、と、虐げられているのが、本好きのMorris.には耐えられなかった。
一世代前の海外放浪者のバイブルともなった、一連の、写真と紀行渾然一体となった作品群と比べるのは、見当違いかもしれないが、ちょっと期待外れだった。写真と文章を同位に並列するスタイルが、著者の血肉となっているにしても、これは安易すぎる。海外放浪から「東京漂流」への流れは瞠目ものだったが、その後の身辺エッセイやら、タレント批評、さらにこの書評への動きには違和感を覚える。
著者が只者でないことは間違いなく、本書の視点や切り口(もちろん、写真にも)に、煌くものを感じるしそれなりに評価は出来るのだが、それでも、これは、はっきり言って手抜きではないかと思う。

写真というのは、そこに作者が写っていないのに、作者自身の内面を人前にさらけ出してしまう不思議なメディアである。かりにある人の旅の写真を見ると、その人がどのような気分でそこに立っていたのか、あるいはどの程度の思想で世界を眺めていたのかという、込み入ったところまで読み取れてしまう。

という一節などは、そうである場合もそうでない場合もあると思うのだが、これを藤原新也が書いたら、嫌味になってしまうんじゃないかなあ。


百年分を一時間で】山本夏彦 ★★★☆ 自身が出版してる雑誌「室内」に連載されている、問答コラム?を集成したもの。社主山本に、女性社員が黒子として話しをうかがい、インタビューとしてまとめた体をとっているが、結局は山本が全面校訂していると思う。内容は、これまで出した本の中に書いてある事とほとんど変わらないが、二人の掛け合いの間のおもしろさで、どんどん読まされてしまう。本書は2冊目らしいが、1冊目も読まねばと思う。タイトルは20世紀のあれこれを簡単に瞥見してみようという意味らしい。
山本は、古狸である。煮ても焼いても食えぬくせに、人を煙に巻き手玉にとってしまう。かくいうMorris.も相当彼の術中にはまり込んでいるようだ。「世はいかさま」なんてキャッチフレーズを嫌みなく本気で言えるとなると、すでに人徳のようにさえ思われてくる。社会主義を論じるのに「社会主義には正義がある。資本主義には正義がない。大正デモクラシーにあきたりない全国の学生が、正義になびいたのはもっともです。」と、あっけらかんと、本質を突く。
スポーツ、芸能のスキャンダルを好んで載せるマスコミは批判されるが、それを好んで読む読者がいるからそうなるのであって「マスコミとお客はぐるである」と喝破する、などなど、山本流春秋の筆法は、何度繰返しても飽きさせるところが無い。まさに、言葉の手品使いだと思う。


植木等と藤山寛美 喜劇人とその時代】小林信彦 ★★★ 名作「日本の喜劇人」(1972)を書いた小林信彦が、その20年後に出したもの。植木、寛美二人の取り合わせは意外な感じを受けるが、小林は、二人の共通点として「戦中派後期生まれ、心情の持ち主である事。超メジャーな存在なのに、一部のマニア向けのおかしさをもっていて、それが魅力の核となっていること。真骨頂は生の舞台にあること」を挙げている。本書は「日本の喜劇人」とちがって、小林自身が関わった部分に力点がおかれているため、客観的な批評になっていない感じを受ける。
とは言うものの、Morris.が、TVや映画でしかしらない二人(寛美にいたっては、映像もほとんど無知)の生のエピソードや、人気の出初めから絶頂期、凋落を的確に捉える手腕は流石のものである。
Morris.は個人的に植木等のファンなのだが、その大部分は彼の歌に負っている。クレイジーキャッツの全盛期に中高校時代を送った割には、悲しいほど番組を見ていない。釣り逃がした魚が大きいという諺を改めて味わわされてしまった。
タイトルはダブルキャストだが、副題に「その時代」とあるとおり、60年後半から70年半ばまでの、喜劇人の寸評には、目を引くものが多い。特に森重久弥、渥美清の二人の、本質を突いた部分は出色で、いっそ、この二人を独立させて4部構成にしたらもっと面白かったかもしれない。


とんちんかん道具館】朝日新聞日曜版編集部編 ★★☆☆ 98〜99年朝日新聞に連載された63のコラムをまとめたもの。執筆者は30人ほどもいる。タイトルに「とんちんかん」とあったので、Morris.は、トンデモ道具、オモシロ道具、ビックリ道具などが出てくるのかと思ったが、案外、まともなものばかりだった。
「頓珍漢」という語は大辞林には
とんちんかん【頓珍漢】(名・形動)[鍛冶屋の相槌の音から来た語。いつも交互に打たれてそろわないことから]1。物事のつじつまが合わないこと。行き違ったりちぐはぐしたりすること。また、そのさま。「−な会話」2。とんまな行動をすること。またその人。
とある。
これを是とするなら本書は看板に偽りあるということになるが、目くじらをたてるほどのこともないだろう。要は日曜の紙面の埋め草だし、何がしかの暇つぶしになればいいといった程度のものだろうから。そして、Morris.はこういった暇つぶしの雑文は割と好きなのだった。当然こういう本だから、むらがあるのは当然だが、重複して取り上げられている「携帯電話」(執筆者は違う)のコラムなど見ると、2年前と現在とのギャップに唖然とならざるを得ない。やはり、こういうのはリアルタイムで読み捨てるべきものらしい。
しかし、中でひとつだけ「左利き用ハサミ」の項だけは印象に残った。一般に左利き用の道具は、論理的には右利き用を鏡返しにすればOKと思われがちだが、ハサミの場合そういう製品を作っても左利きの人には使いこなせないという。

ハサミはお互いの刃が強く固定される方向に力を入れなければならない。右用ハサミの使い方に慣れた左利きの人にとっては、鏡像構造の左用ハサミでは、刃の離れる方向に力が入ってしまい、刃が緩んで切れなくなる。だから右用の刃に左用のハンドルを付けて、左利き用としたというのだ。子供用は、右用に感化されていないから鏡映しスタイルである。納得!

これは経験論者にとっては、我が意を得たりの例証になるかもしれないが、Morris.はただただ、うーん、面白いなあで、終ってしまう。


殘酷人生論】池田晶子 ★★☆☆ 【考える日々】池田晶子 ★★☆ 灘図書館の哲学コーナーに2冊並んで目を引いた。このコーナーで女性名は珍しいし、両方に載ってる著者近影がなかなか美人だし、ぱらぱらと見たら何かえらく威勢がよさそうなので、ついつられて借りてきた。「60年生、慶大卒、専門用語によらない哲学実践の表現を開拓する」とある。両書とも雑誌に連載したコラムやエッセイ中心で、彼女の「哲学する=ものを考える」というスタンスだけはよくわかった。そのコラム「私」「死」「神」「わかる」など、大まかな概念に分けて並べているのが前者、社会問題や事件をネタにしている後者という違いはあるが、内容はほとんど同じようなものだ。
彼女の場合、俳句でいう「根元俳句」みたいな志向があって、見たいものしか見ないらしく、それがMorris.には「威勢がいい」ように見えたらしい。
このところ日記に夢の事ばかり書いてるMorris.には「夢を見ない眠りほどの幸福は人生にはない。死もまたそうであれば」というソクラテスの言葉の引用が、一番印象に残った。
「専門用語を使わずに哲学を語」る見本をあげる。

最初の項で私は、「わかる」の文法に「わかろう」はない、「わかる」は意志することはできないと述べた。しかし、本当言うと、わからないものをわかることができるのは、じつは、「わかろう」という不断の意志でしかないのである。「わかろう」という意志のない人に、「わかる」ことは決してないのである。
ところで「わかろう」という意志、これは何か。言うまでもない、優しさである。わからないものをわかろう、自分ではない他人をわかろう、この想像的努力のまたの名は、ほかでもない、愛である。愛のない人にはわからない、愛のない人が、わかっている以上のことをわかることはあり得ない。なぜなら、最初から、わかる気がないからあである。わかる気のない人に、なぜわかるわけがあるか。愛していないものを、なぜわかる気になれるか。(「殘酷人生論」140p)

かなりの悪文だなあ(^_^;)。言いたい事は「わかる」ような気がするのだけど。
ついでにもう一冊の方から、これは比較的妥当な意見を引いておく。

道徳と倫理の違いとは、単純明解、強制と自由との違いである。「してはいけないからしない」、これは道徳であり、「したくないからしない」、これが倫理である。「罰せられるからしない」、これは道徳であり、「嫌だからしない」、これが倫理である。ここには天地の相違がある。「教育」が不可能だと、私が言うゆえんである。道徳は、外的規範によって強制できるが、倫理は、内的自由によって欲求されるしかないからである。

しかし、なんて回りくどい文章なんだろう。


シェエラザード 上下】浅田次郎 ★★★☆ 「蒼穹の昴」「朕妃の井戸」と続けて読んで、結構面白かったので、これも上下揃っていたのでついでに借りてきた。金塊をつんだまま沈んだ徴用客船「彌勒丸」を巡る、現代と近過去の冒険物語で、前半は1章毎に現代と昭和20年のストーリーが交代して描かれているが、その繋ぎの上手さには感心した。捕虜への糧食、衣類などをナホトカで積み、台湾、香港など連合国の捕虜収容所を巡回して、最終地シンガポールで、日本への帰国民を載せて戻るはずが、軍上層部の決定で、航路に入っていない上海に金塊を運ぶ命令を受け、その結果、2千人もの人命を無くす結果を呼ぶ。これを現代になって、引き上げようと画策する生存者と、責任者、それに巻き込まれる30代の男女、戦争末期には、夢のような豪華客船(徴用で病院船になっているが)の装備や習慣を、ロマンチックに飾り立てながら、話はどんどん御都合主義で進められる。著者は隠された財宝とか、膨大な量の金塊とかの話が好きらしく、名作「きんぴか」や、「日輪の遺産」も同工だが、本書では、財宝を引き上げる根回しが終るところで筆を止めてるところがちょっと変わっている。新聞連載だったらしいので、その弊害としての細切れの寄せ集めといった部分が目についたりするが、やはり浅田のストーリーテリングの才能は認めざるを得ない。短編は今も読む気がしないが、長編は、また読んでみよう。ただ、いつも出てくる安手のヒューマニズムは、物語を御伽噺にするための調味料なのだろうが、どうもあまりに安直だと思ってしまう。


珍妃の井戸】浅田次郎 ★★★ さっそく借りて、一気に読み終えた。やっぱり面白かった。「蒼穹の昴」を先に読んでて良かった。光緒帝最愛の珍妃殺害の謎を、英独日魯の貴族外交官が、関係者の訊問によって解明しようとするが、証人の証言がことごとく食い違うという、「薮の中」パターン。前作の登場人物がほとんどそのまま揃い踏みで、キャラクターによっては前作とかなり変容してるものもあったし、光緒帝が狂ってしまうというラストは、ちょっと頂けなかったが、それなりに読ませる作品となっていた。


されど君は微笑む】北方謙三 ★★☆☆ 日本のハードボイルドの人気作家で、時代小説も書いてる事は知ってたし、隨分以前に2,3冊読んだような気もする。本書は年末に図書館の新着コーナーにあったのを考え無しに借りたのだが、「約束の街」というシリーズの6冊目らしい。ファンなら登場人物に親しみ持ったり、それぞれのエピソードを知ってて面白く思うのかもしれないが、Morris.には登場人物が思い入れよろしく昔話始めるのについていけなかった。著者の趣味でもあるのだろうが、ヨット、クルーザーなど船の整備や操縦の蘊蓄を語る部分も多く、Morris.にはちんぷんかんぷん。枯れたり、円熟したり、悟ったり、真っ盛りだったりする「男」がぞろぞろ出て来る、シニカルなヒロイズムの讚歌も、Morris.とは無縁のもので、まあ、その、無いものねだりではないが、まさに本の中でしか味わえない(味わいたくない?)暴力、苦痛、絶望---などの疑似体験をするには、なかなかよく出来てはいる。しかし、もうしばらくは、このてのものを読むのはやめておこう。


蒼穹の昴 上下】浅田次郎 ★★★☆ この2冊本が出たのは94年で、当時はまだ浅田のファンだったので、読みたいと思いながら図書館で揃ってるのに当らず、そのうちしょうも無い短編読んで、見切りつけた形になってたのだが、年末に揃って並んでいたので借りて来た。さすが名作「きんぴら」の作者だと思わせるところもあり、長編約800頁を飽きずに読み通すことができた。
清朝末期、西太后の時代を舞台にした伝奇色を加味した歴史冒険ドラマである。自らの手で宦官になり西太后に仕える李春雲と、同郷の郷氏の息子で首位で進士になり光緒帝に仕える梁文秀の二人の主人公の出世譚を軸に、清の六代乾隆帝に溯る皇室の秘密、イタリアの万能画家、神懸かりの女占い師、租界に集る日米欧のジャーナリストたち、勤皇の志士群像、伊藤博文、李鴻章、袁世凱等歴史上の有名人も多数登場し、サービス精神にあふれている。浅田はなかなか物語るのがうまく、本作はスケールの大きな講談みたいになっている。その分、キャラクターは画一的で、善悪、優劣に分れ過ぎだし、お約束の御都合主義のてんこ盛だし、とって附けたような歴史付会や故事付けも多いし、説明のためにあつらえた台詞にも行き過ぎが見られる。小説だから、いくら嘘を書いてもかまわないが、あまりに見え透いた嘘だと読む方はしらけてしまう。しかし、まあこのくらいの作品なら、充分エンターテインメントとして楽しめる。続編(というより派生作品)の「珍妃の井戸」も読んでみることにしよう。


存在の堪えられない軽さ】ミラン・クンデラ 千野栄一訳 ★★★★ 以前からタイトルに惹かれながら、読めずにいた。冒頭からニーチェの永劫回帰云々とあるので、七面倒臭いのではないかと敬遠していたのだった。
思い切って借りて来て良かった。哲学的な考察や、錯綜した構成、状況や時間、舞台の交錯(Morris.はけっこうこれが苦手)といった要素も含めて、実に素晴らしい作品だった。
哲学や思想や倫理や歴史や心理分析、メタ小説的技巧、その他もろもろの背景も、複数のそして結局は一つの愛の物語に収斂されていくための大道具、小道具であり、つまるところこれは実に稀に見るピュアなラブストーリー、あるいは神話の再構成なのだった。しかもこの単純なテーマをおびただしいエピソードで多数の角度から照射しながら、読者の視点を錯乱させつつ最終的に美しい物語と納得させる著者の技量は凄い。Morris.は読書中、複数の物語をそれぞれ独立して楽しみ、読了後には素晴らしい1册を読んだという充足感を味わった。

彼(パルメニデース=紀元前5世紀のギリシャ哲学者)は全世界が二つの極に二分されていると見た。光−闇、細かさ−粗さ、暖かさ−寒さ、存在−不存在。この対立の一方の極はパルメニデースにとって肯定的なものであり、一方は否定的なものである。このように肯定と否定の極に分けることはわれわれには子供っぽいくらい単純にみえる。ただ一つの例外を除いて。軽さと重さとでは、どちらが肯定的なのであろうか?
パルメニデースは答えた。軽さが肯定的で、重さが否定的だと。
本当かどうか? それが問題だ。確かなことはただ一つ、重さ−軽さという対立はあらゆる対立の中でもっともミステリアスで、もっとも多義的だということである。

Einmal ist Keinmal(アインマル イスト カインマル=一度は数のうちに入らない)と、トマーシュはドイツの諺をつぶやく。一度だけおこることは、一度もおこらなかったようなものだ。人がただ一つの人生を生きうるとすれば、それはまったく生きなかったようなものなのである。

人生のドラマというものはいつも重さというメタファーで表現できる。われわれはある人間が重荷を負わされたという。その人間はその重荷に耐えられるか、それとも耐えられらずにその下敷きになるか、それと争い、敗けるか勝つかする。しかしいったい何がサビナに起こったのであろうか?何も。一人の男と別れたかったから捨てた。それでつけまわされた? 復讐された? いや。彼女のドラマは重さのドラマではなく、軽さのであった。サビナに落ちてきたのは重荷ではなく存在の耐えられない軽さであった。

悲しみは形体であり、幸福は内容であった。幸福が悲しみの空間をも滿たした。

クンデラはチェコの人で、プラハの春以後、政治的理由でフランスに移りそこで作家活動をしているという。本作品のなかにもチェコの重苦しい政治状況の反映を見ることが出来る。Morris.は何故か彼をこれまで、南米の作家と錯覚していた。


天涯茫茫】岩川隆 ★★★ 初めて読む著者の作。明治から大正にかけて日本の貧困社会を、直接取材して新聞雑誌に寄稿、「日本の下層社会」を著わした横山源之助の傳記的小説だが、こちらも初耳の名前である。天涯茫茫というのは横山のペンネームの一つだが、確かにそれが似つかわしい一生を送ったようだ。
北陸魚津に私生児として生れた横山は、上京して法律を学ぶが、思うにまかせず、当時台頭していた社会運動に刺激されて貧民を知ることから始めねばとの考えで、貧民窟に住み込んで様々な暮らしぶりを観察する。その間に二葉亭四迷、内田魯安らと出会い、毎日新聞記者となり、地方の女工の窮状をルポして記事を書き認められ、大阪、北陸の各地工場を回るが、結局新聞記者の限界を感じ退社してさらに貧民の実態を細かに調べて、「貧民問題の權威」と目されるまでになるが、当人もほとんど貧しい生活、身なりに甘んじていた。後半生は生きるために売文稼業に近い境遇になったが、その苦しい生活の中で、故郷の家族を養い、さらに地方の身売り娘を助け出したり、樋口一葉に不器用な恋心を燃やしたりと、大変な生涯を送った。
著者は横山を、客観的に見つめながら、彼をフィルターにして明治の下層社会を炙り出そうとしているのかもしれない。小説として面白いとは言い難いのだが、資料を読み込んだ上で、慎重に選んだ上で再構成する技量は並みの物では無い。
明治の貧乏というものがどのくらいひどかったかを知ることが出来ただけでも読んだ甲斐はあった。しかし、どうせこれだけ時間かけて読むのなら、より興味深い内容のものを読みたいとぶつくさ言うのはMorris.の「貧乏性」のなせるわざなのだろうか。


老子】奥平卓訳 ★★★ 中国の古典などは正月に相応しいかと思って年末に借りてきた。徳間書店の「中国の思想」シリーズの一冊だが、何故老子にしたかというと、これが一番短そうだったのと、なんとなく道教には親しみを感じていたからだ。老子は中国春秋戦国時代の楚の思想家で、唯一残ってる著作「老子道徳経」2册のことも、一般に老子と呼ばれる。老子自体の来歴も不明で、一人の著作ではなく時代を経て色々改訂付加変容されたものであるらしい。それでも漢代にはほぼ現行の体裁にまとまっているのだから、かなり古い思想であることは間違いない。
本書は老子の研究書ではない。どちらかというと通俗解説書。あるいは平明現代語訳といった感が強い。原書が漢字で訳五千字を81章に分けているから1章平均60字前後という短さで、それだけ内容が凝縮されて、解釈の違いも多い。本書ではとりあえず老子の雰囲気を知ることができればそれでいいという、超入門書に位置づけられるだろう。

・上善は水のごとし。水はよく万物を利して争わず、衆人のにくむところにおる。故に道に近し。(最高の善とは水のごときものをいう。水は万物を助けて育てながらも自己を主張せず、誰しも嫌う低きへ低きへとくだる。だから、「道」に似ているといってよい。)

・曲なれば全。枉なれば直。窪なれば盈。敝なれば新。少なれば得。多なれば惑。ここをもって聖人は一を抱き天下の式となる。(欠けているから、完全になる。まがっているから、まっすぐになる。うつろだから、滿ちる。古いから、新しくなる。少なければ得。多ければ失う。これが自然の法則である。この法則を体得した聖人は、自己を主張せずに「道」にのっとることによっておのずと天下の規範となる。

・反は道の動なり。弱は道の用なり。天下万物は有より生じ、有は無より生ず。(つねに対立する状態を含み、対立する状態へと転じようとする。それが「道」の運動法則である。つねに消極を守ることによって、限りない積極に通ずる。それが「道」の作用の形式である。万物をその根元に溯っていけば「有」すなわち物一般に到達する。その「有」のさらに根元となるのは、「無」というより表現しようのないある物である。それが本体としての「道」である。

・大白は辱のごとし。広徳は足らざるがごとし。建徳はかりそめなるがごとし。質真は
かわるがごとし。大方は隅なし。大器は晩成す。大音は希声なり。大象は無形なり。(真の白さは汚れて見え、広大な徳は欠けているように見え、堅固な徳はその場限りに見え、変わらぬ徳はうつろいやすく見える。またとなく大きい四角は角が見えず、またとなく大きい器は完全な器とは見えず、またとなく大きい音は耳に聞えず、またとなく大きい形は判別できない。)

・信言は美ならず、美言は信ならず。善なる者は弁ぜず、弁ずる者は善ならず。知る者は博からず、博き者は知らず。(真実を語ることばは飾り気がない。飾ったことばは真実を語らない。行いが正しい者の口は雄弁ではない。雄弁なものは行いが正しくない。真の知者はもの知りではない。もの知りは真の知者ではない。)

おしまいの引用は、特にMorris.には耳の痛いことばである。
「大器晩成」のこういう解釈も初耳である。
しかし、どうもこの「道」の思想は、胡散臭さが付き纏う。そこが魅力といえば魅力なのだろうけど---(^_^;)


バンコク発カオサン通りに吹く熱風】花田一彦 ★★ タイのバックパッカーの溜まり場カオサンについては、昨年読んだ新井克弥の本が、カオサンの変化をビビッドに活写しながら、学究的な考察を披瀝して面白かったが、本書はそれとは対極的な内容だった。簡単に言えば、風俗と、安宿街でのチンケないざこざ、観光客とタイ人とのだましあい、ついでに卑近な旅の情報やバンコクこぼれ話みたいなものを、だらだらと書き連ねた感じで、あまり得るところが無い。別にMorris.は聖人君子ではないし、風俗関係の記事だって、面白いものは面白いと評価するのだが、本書はそちらの方もいかにも不徹底なのだった。


マガジン青春譜】猪瀬直樹 ★★☆☆☆ 「ミカドの肖像」で話題になった著者による、雑誌創生期のドキュメンタリーで、文壇が雑誌の台頭によって変化していく樣を、川端康成、大宅壮一、菊池寛などを中心に、ルポルタージュ手法で綴っている。例によって参考文書の数だけで圧倒させられるが、そのわりに何を書きたかったのがよくわからない作になってしまっているようだ。資料に振り回されたというか、資料の取捨選択に難がありすぎる。川端、大宅らの家庭の事情や、交友関係も不要な部分まで詳細に書いたかと思えば、菊池寛の行動などはえらく大雑把に書いたり、焦点がぼけている。脇役の芥川、今東光などの小さなエピソードの方が面白かったり、当時ベストセラーになった島田清次郎の「地上」、賀川豊彦の「死線を越えて」の、創作過程や、二人の生き方の対照などは初めて知ることが多く、読んで良かったと思う。つまりは、こうやって群像を描いたために主役が不在になったのが敗因なのかもしれない。ある一時代の、特殊な世界の雰囲気を味わわせることには成功しているようだ。やはり、誰でもいいが、著者が一番関心を持つ人物を柱にして欲しかった。


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