Morris.2002年読書控
Morris.は2002年にこんな本を読みました。読んだ逆順に並べています。
タイトル、著者名の後の星印は、Morris.独断による、評点です。 ★20点、☆5点

セル色の意味 イチ押し(^o^) おすすめ(^。^) とほほ(+_+)
【韓国済州島】高野史夫 【詩集 鵲の家】桜井哲夫 【阪神ファンと仏のこころ】ひろさちや 【紅茶屋のぶつぶつ】堀江敏樹
【共犯マジック】北森鴻 【人名詩集】茨木のり子詩集 【心では重すぎる】大沢在昌 【死は炎のごとく】簗石日
【マンガ ホームページつくりの奥義】かづさひろし 【ホーローの旅】泉麻人 町田忍 【撮影現場】リウ・ミセキ 【愛と憎しみの韓国語】辛淑玉
【終わりなき始まり 上・下】簗石日 【丹下左膳】林不忘 現代秀句】正木ゆう子 【李白の月】南伸坊
【漢字のいい話】阿辻哲次 【どうしてアナタは韓国(ウリナラ)に来たんですか?】五味洋治 【妊娠小説】斉藤美奈子 【ザ・勝負】清水義範
【最新愛唱歌集】戦時軍人慰問用歌集 【文章読本さん江】斎藤美奈子 【ジョーカー】大沢在昌 【闇先案内人】大沢在昌
【私の寄港地】今江祥智 【生まれたらそこがふるさと--在日朝鮮人文学論】川村湊 【[在日」のはざまで】金時鐘 【風の名前 風の四季】半藤一利、荒川博
【武玉川・とくとく清水】田辺聖子 【空から恥がふる】藤原新也 【満州鉄道幻旅行】川村湊 【間諜 二葉亭四迷】西木正明
【みみずく英学塾】由良君美 【オーケストラ人間的楽器学 上下】茂木大輔 【アカ】川上轍 【日本鉄道詩紀行】きむらけん
【2002年6月4日】戸塚啓 【寿宴】南條竹則 【炎熱商人】深田祐介 【蝉しぐれ】藤沢周平
【言語文化のフロンティア】由良君美 【ワールドカップの世界地図】大住良之 【THE インテリ・ショウ】清水ちなみ 【みみずく偏書記】由良君美
【書斎曼荼羅 2】磯田和一 【歌集 日輪】永田紅 【砂のように眠る】関川夏央 黄砂の楽土】佐高信
【玩具草子 おもちゃぞうし】長野まゆみ 【レヴォリューションNo.3】金城一紀 【蕭々館日録】久世光彦 【日本の町】丸谷才一、山崎正和
【ぼくのスミレちゃん】今江祥智・文 宇野亜喜良・絵 【余生】北野武 【三屋清左衛門残日録】藤沢周平 【超ビートルズ入門】中山康樹
【GO】金城一紀  【ビジネス・ナンセンス事典】中島らも 【フルーツの夜】本橋信宏 【坊ちゃん忍者幕末見聞録】奥泉光
【鉄輪】藤原新也 【サキエル氏のパスポート】石黒健治 【イマドキ現代用語50】南伸坊+朝日新聞学芸部 【生と死の歳時記】瀬戸内寂聴、齋藤愼爾
【曲者天国】中野翠 【ナムジ-大國主-全5巻】安彦良和 【緋色の時代 上下】船戸与一 【日本語と韓国語】大野敏明
【スタア】清水義範 【孤剣】【刺客】【凶刃】藤沢周平 【おすず】杉本章子 【昨晩お会いしましょう】田口ランディ
【夢の島】大沢在昌 【Windows 終了するのにスタートとはこれいかに?】藤田英時 【はやり唄】小杉天外 【続金色夜叉】長田幹彦
【真性活字中毒者読本】小宮山博史、府川充男、小池和夫 【杉山平一全詩集 上】 【情熱の女流昆虫画家 メーリアン波乱万丈の生涯】中野京子 【石神井書林日録】内堀弘
【用心棒日月抄】藤沢周平 【蒲生邸事件】宮部みゆき 【エノケン・ロッパの時代】矢野誠一 【「溜める」技術】高千穂彰
【文士の逸品】文・矢島裕紀彦 写真・高橋昌嗣 【花筐--帝都の詩人たち】久世光彦 【ホテル・ニュー・ハンプシャー】J.アーヴィング 中野圭二訳 【詩集 ぜぴゅろす】杉山平一
【父の道具箱】ケニー・ケンプ 池央耿訳 【博士の異常な発明】清水義範 【ソウル】長谷川康夫 【Web デザインマナーブック】エ・ビスコム・テック・ラボ編著
【詩集『砂の木』】矢谷トモヨシ 【灰の男】小杉健治 【絵本のあたたかな森】今江祥智 【東洲しゃらくさし】松井今朝子 
【魅惑のフェロモンレコード】みうらじゅん 遊民爺さんと眠り姫】 小沢章友 【新版 インターネットを使いこなそう】中村正三郎 【Webデザイン超入門】太田公士
 【絵本・千一夜物語】寺山修司 え・宇野亜喜良 【四千万歩の男 忠敬の生き方】井上ひさし 【ツインズ 続・世界の終わりという名の雑貨店】 嶽本野ばら 【孔雀狂奏曲】北森鴻
 【フーシェ革命暦 I、II】辻邦生 【ここまできてそれなりにわかったこと】五味太郎  【異文・業平東国密行記】中薗英助 【灰姫-鏡の国のスパイ】打海文三
【花のレクイエム】辻邦生 山本容子  【やむにやまれず】関川夏央 【続・涼しい脳味噌】養老孟司  【ショットガンと女】藤原新也
【書物の森の狩人】出久根達郎  【倫敦巴里 London Paris】和田誠 【バラガキ】中場利一 【ユリシーズの涙】ロジエ・グルニエ 宮下志朗訳
【ジョゼフ・フージェ】ステファン・ツヴァイク 吉田正巳、小野寺和夫訳 【大博打】黒川博行 【文学大概】石川淳 【お言葉ですが】高島俊男
【マンガの社会学】宮原浩二郎、荻野昌弘編  【海の底から地の底から】金石範 【封印】黒川博行 【直感サバンナ】ゲッツ板谷
【デス】廣田尚久 【トッカータ 光と影の物語 日本画篇】林望  【本が好き、悪口言うのはもっと好き】 高島俊男  【グリーティング】山本容子
【「三島由紀夫」とはなにものだったのか】橋本治 【日本数寄】松岡正剛 【風穴をあける】谷川俊太郎 【原野の詩】金時鐘
【第三閲覧室】紀田順一郎  【お笑い 日本の防衛戦略】テリー伊藤 青山繁春 【沈思彷徨】藤原新也 【ホセ・グァダルーペ・ポサダ--生 と死の祝祭--】名古屋美術館編
 【なぜ書きつづけてきたか なぜ沈黙してきたか 済州島四・三事件の記憶と文学】金石範・金時鐘 【音楽少年誕生物語】畑中良輔 【天門】石川淳 【ぼくの絵本美術館】堀内誠一
【ユリイカ 2001,12月号】山田風太郎特集  【あたく史 外伝】小沢昭一 【蜻蛉始末】北森鴻 【開高健の博物誌】奥本大三郎・解題
【虫屋の虫めがね】田川研 【一日の終わりの詩集】長田弘 【日本のコリアン・ワールドが面白いほどわかる本】康熙奉(カンヒボン)  【中島敦全集1】
【われはフランソワ】山之口洋 【図解 ADSL&光ファイバー通信】中山真敬 【突破者烈伝】宮崎学 【神話の果て】船戸与一
 

韓国済州島】高野文夫 ★★★☆ Morris.は韓国に行きはじめて15年近くになるのに、まだ一度も済州島には行った事がない。一度、木浦から船で行こうとしたことがあるのだが、大雨になったので直前にキャンセルしてしまった。
パクサの奥さんの兄弟が済州島に食堂を開いたので、来年の秋には、是非一緒に行こうと言われたので、ひょっとすると行く事になるかもしれないと思っていた。
ところが、全く別口から話があって、どうやら2003年正月の半ばに行けそうな気配になった。
全く知らないので、泥縄式に、知識を得ておこうと思ったが、意外と済州島に関する本は多くない。偶然中央図書館で目に付いたのが本書で、96年発行の中公新書で、立正大学のグループ研究報告を、一般向けにまとめたものらしい。
調査時期が1984年から87年という、ちょっと古いものではあるが、とりあえず、歴史、自然風土、産業、観光、都市化など、分担してまとめてあるので、Morris.には手頃な入門書になった。
とりあえず、あまり面白い本ではない。はっきり言って、高校の地理の教科書みたいだと思ってしまった。でも、自分が行くとなると興味が湧いてくるのは、現金なもので、結構身を入れて熟読してしまった。
しかし、韓国本土とは、すごく違っていて、まるで外国に行くみたいな気になった。(韓国は外国ではないのか、というお叱りの声はおいといて(^o^))
歴史的には耽羅という独立国だった頃から、高麗、李朝の圧制、日本植民地時代と、抑圧されることが多かったが、皮肉な事に、解放後の1948年の4・3事件で、筆舌に尽し難い悲劇的殺戮が行われて、今でも深い傷跡となって残っているようだ。
この事件に関しては、金石範と金時鐘、簗石日などの小説やエッセイでいくらか、関心を持っていたのだが、これは歴史の悪戯ではすまされない大きな問題をはらんでいるようだ。
観光地としてはまだ40年くらいしか経っていない、ということも、やや意外な気がした。
済州島は、古来から三多島、三無島と言う異名を持っている。三つの多いものは、石、風、女であり、三つのないものは門扉、泥棒、物乞である。また「三麗」という言葉もあり、美しい自然、島民の美しい心、豊麗な果実である。
また、本書で、済州島の十二景というものがあることを初めて知った。

・城山日出--島の東端にある日出峰から見る日の出
・沙峰落照--済州東の沙羅峰か羅眺める落日
・瀛邱春花--済州市背後の山から見る景観
・橘林秋色--西帰浦市の山腹の色づいた蜜柑畑の眺め
・正房夏瀑--西帰浦にある瀧
・鹿潭晩雪--漢拏山山頂の白鹿澤の冬の景観
・山浦釣魚--済州市健入洞山地浦からの漁火
・古藪牧馬--漢拏山腹の放牧風景
・霊室奇岩--漢拏山西側の奇岩怪石群の霊室奇岩
・山房窟寺--南西部の山房山中腹にある洞窟と仏像
・龍淵夜帆--西部の漢川下流の龍淵渓谷
・西鎮老星--西帰浦にある天地瀧の下流の城跡西鎮老城から眺望する海

想像つくものもつかないものも混じっているが、字面だけ眺めていても、来月の訪島が楽しみになってくる。



【詩集 鵲の家】桜井哲夫 ★★

題名からして、韓国絡みのものかと思い手に取った。たしかに著者の初めての韓国(釜山)訪問がテーマになっているし、著者は在日韓国人らしいのだが、1924年青森生まれの著者は癩病を患い、53年には失明し、栗生楽泉園で療養中ということで、日本人の妻を持ったことで、自分も侵略者だという自覚を持ち、その謝罪も兼ねての釜山行だったらしい。
作品は詩というよりも、ほとんどエッセイを行分けしたものとしか思えない。

カササギの家 桜井哲夫

高層マンションの十六階の部屋の窓の前に
森田進と二人並んで立った
開いた窓から
2001年5月31日の朝の風がやさしく二人を包んだ
窓の向こうの森の松の木の枝に
大きな大きなカササギの家があった

耳を澄ませば
カッカカッカとカササギの声が聞こえてきた
私が生まれて七十七年 初めて聞くカササギの声だ
カササギの声の向こうに
白亜紀の空飛ぶ姿が浮かぶ
広い草原を走る恐竜の足音が聞こえてくる
遥かな氷河期の森に
カササギは大きな大きな家をつくったのだろうか
カササギよ あなたの肩の白い羽毛はあなたの家の家紋
カササギは空飛ぶ化石だ

森田が教えてくれた
「カササギは韓国の吉鳥」だと
鳴いている
松の枝につくられた大きな大きなカササギの家に栄光あれ と
指のない手を合せた

最後の一行で、読者は著者の病症のことを思い起こさせられるということになるのかもしれないが、やはり、詩はそういう風に読まれるものではないだろう。
解説の森田進が、カササギのことを韓国では「カチッ」というと書いいあるのはいただけない。韓国語をカタカナで表記する無理はおくとして、せめて「カッチ」と表記しておいてもらいたい。


阪神ファンと仏のこころ】ひろさちや ★★★ 2002年8月に出た書き下ろし文庫本で、このシーズンオープン戦と、開幕からしばらくの絶好調を追い風として出された類書の1冊かと思った。たしかにそういう意味合いもありそうだが、内容としては、タイガーズをネタにしながら、仏教の教えをわかりやすく説きながら、日本人論を展開するという、わけのわからないものだった。

世間の物差しにとらわれず、時に仏さまの物差しをもって「デタラメ」任せ、できることはできる、無理なことは無理と「あきらめ」、自分の「いい加減」を知って、人間らしく生きる。般若心経の解く「で・あ・い」の精神にこそ、阪神ファンのまことの姿があるのです。

始まりがこれだもんなあ。
単なるアンチ巨人でなく、カウンターカルチャーというか、セカンドポジションというか、健全な野党というか、、そういうものの体現として阪神に見ると言うのが、著者の基本姿勢らしい。
野村と星野の比較で、野村の野球こそ巨人野球スタイルだというのは納得できる。
また、アマチュアは練習してはいけない。だから高校野球のあり方は異常だというのも、わからなくもないが、カラオケに関しては、ちょっと反対しておきたい。
アマチュアリズムにつづけて、論じられている「学校教育は諸悪の根元」という教育論は、分かりやすく本質をついていると思う。

学校教育というのは、競争を強いるからだけではなく、その存在自体が悪だと、わたしは思っています。本来、子供の教育は、親が、家庭が負うものです。
国家権力が子供を育てるとどういうことになるのかとうと、それは要するに「選手」を育てることにほかなりません。もともと学校教育というのは、18世紀のフランスではじまったものです。フランス革命によって近代国家になったフランスは、国民を教育する必要に迫られました。--中略--つきつめていえば、学校教育というのは、兵士をつくる教育なのです。

表紙カバーの袖にある著者紹介を見たら、本名増原良彦とある。この名前の著書なら何冊か詠んだ記憶がある。雑学エッセイみたいなものではなかったかな。あまり熱心に詠む気はしないが、本書は、阪神ファンならずとも、いい時間潰しくらいにはなるかもしれない。


紅茶屋のぶつぶつ】堀江敏樹 ★★★☆

ムジカの社長の紅茶コラム集である。芦屋倶楽部・人間環境行動研究所というところから発行されている雑誌に連載されたものらしい。内容の半分はRTD-Tea(Ready To Drink Tea)つまり、缶やペットボトルの紅茶飲料への嫌悪と批判といってよい。紅茶好きのMorris.としては、全面的に賛成である。

一時「午後の紅茶」にはまっていた頃があったが、あれはあくまで焼酎とのブレンド用に求めたものだし、当時の午後ティーの甘みが懐かしい甘茶の甘みに似ていた事による。

ティーバッグに関しては、使い方次第では十分美味しく飲めるということを強調してある。確かにティーバッグの中身は紛う事無く茶葉が入ってるんだものなあ。要は普通の茶葉を入れるときと同じように、ポットを使い、カップ1杯に一袋以上を使うことだ。Morris.がいつも飲んでる一人用のポットに二袋か三袋くらい使えばいい事になる。さっそくパニエに行って、100袋400円という格安のりぷとんティーバッグを買ってきた。とりあえず二袋入れて味見してるところだが、一杯目はちょっと薄いような気がしたが二杯目以降は充分濃く出るし、味も結構いける。紅茶1回あたり8円ということになる。缶の茶葉よりかなり経済的だ。これからは、ティーバッグと缶とを上手に組み合わせて使おう。

読書控えが完全に日常茶飯事に寄り道してしまったが、読んですぐ、こういう行動に走らせるくらい、説得力のある事が書かれているというわけだ。

その他関西のチャイ屋(「加奈泥庵」や「チャイ工房」)の紹介、往時のトワイニングのCM、インドの使い捨てチャイ用陶素焼きの器クリへの賛美など、短いながら読みでがある内容満載である。さらに、手作り風の造本が、何か懐かしさを感じさせる。レイアウトも昔のサンボ通信と通ずるものがあるような気がして、好感を持った。発行元にも何となく関心をおぼえた。


共犯マジック】北森鴻 ★★★☆

60年代に出された不幸ばかりを占う「フォーチュンブック」と言う本を買ったことから事件に巻き込まれた5人の若者を中心に、7編のオムニバス短編にまとめたもので、Morris.と同世代の登場人物たちと、世相が描かれているので、懐かしさを感じながら読み通した。

ストーリー自体は、荒唐無稽だったり、当時の二大事件、三億円事件、グリコ森永事件の両方を登場人物がやったことにしたり、金喜老事件や、時代をさかのぼる帝銀事件までも物語に組み込んだりして、あまりにサービス過剰なところがある。

しかし、御都合主義にはこの際目をつむることにすれば、全体として本書は北森作品の中ではかなり上位にランクされる作品だと思う。最終話(タイトル作)が、それまでの挿話を何とか整合させようとギクシャクしてしまったのはちょっといただけない。


人名詩集】茨木のり子詩集 ★★★

1971年に出た彼女の第四詩集である。童話屋がこのところ彼女の古い詩集を復刊している中の1冊で、Morris.はほとんど読んでいるはずだが、あまり印象には残っていなかった。有名無名の人の名が出てくる詩が大部分を占めているので、こういうタイトルにしたとのこと。30年以上前の作だが、彼女は当時からすでに老成していたようだ。

身寄りの無い酔っ払い源さんを歌った作品を引いておく。

居酒屋にて 茨木のり子

俺には一人の爺さんが居た
血はつながっちゃいないのに かわいがってくれた
爺さんには小さな太鼓をたたかせて
三つの俺はひらひら舞った
ほんものの天狗舞いが門々に立つようになると
こぶしの花も咲きだして
ようやく春になるんだったよ

俺には一人のおふくろが居た
八人の子を育て 晩年にゃ五官という五官
すっかり ゆるんではてて
ずいぶんと異な音もきかされたもんだったっけが
おかしなおふくろさ
深刻なときも鼻歌うたう癖あってなあ

俺には一人の嬶(かか)が居た
どういうわけか俺を大いに愛でてくれて
いやほんと
大事大事のものを扱うように
俺を扱ってくれたもんだ

みんな死んでしまいやがったが
俺はもう誰に好かれようとも思わねえ
今ごろおなごにもてようなんざ
これんぽんちも思わねえど
俺には三人の記憶だけで十分だ!
三人の記憶だけで十分だよ!

へべれけの男は源さんと呼ばれていた
だみ声だったが
なかみは雅歌のようにもおもわれる

汽車はもうじき出るだろう
がたぴしの戸をあけて店を出れば
外は霏霏の雪

いくばくかの無償の愛をしかと受けとめられる人もあり
たくさんの人に愛されながらまだ不満顔のやつもおり
誰から愛された記憶皆無で尚昂然と生きる者もある


心では重すぎる】大沢在昌 ★★★

薬物中毒者の更生施設と、それにかかわる探偵が、渋谷の若者たち、やくざ、一世を風靡して消えてしまった漫画家、憎悪を核に怪しい魅力を持つ少女などとの複雑な事件に巻き込まれ、調査のために各種の専門家と会って得た、SMから社会心理学、いじめの考察などまでの知識が手広く開陳されている。

「新宿鮫」とは一風違った作風で、750pもある大作で、力作なのだが、やっぱり彼は女を書くのが下手である。当人もそれをかなり気にしてるらしく、それなりに手を変え品を変え努力してることはわかるのだが、こればかりは持って生まれた資質によるんだろうな。

主人公の、救いがたい一徹さに加えて、非現実な女ばかり登場、それも彼の特徴として、ファンには魅力とうつっているのかもしれない。

2000年の発行だから、当然携帯電話は当たり前の、そして、重要な小道具になっている。

主人公と、昔同僚だった弁護士との会話。

「金や権力が殺意の対象となる時代は終った、と私は思っている。これからは情報の所有者こそ、身の周りに注意を払うべきだ。特殊な情報をもっている人間に危害が及ぶ可能性がある」
「なぜです?」
「インターネットだな。インターネットによって、ひとは誰もが情報の発信源になることが可能になった。インターネットと携帯電話は、どこの世界でもそうだが、我々弁護士の世界でも状況を激変させたよ。情報の移動が速く、広くなり、しかも以前は情報のやりとりといえば即ち、交流でもあり面会でもあったのが、そうではなくなった。情報の動きとコミュニケーションはまったく別ものになったわけだ。私はそこら辺に、若い人の変化の理由があると思っている」
「おもしろそうな話です。またゆっくり聞かせて下さい」
野沢は笑った。
「本当は皆、気づいていることさ、さっきのカルト宗教の話ではないが、世の中を大きくかえるのは、鬼籍や予言なんかじゃない。もっと身近で誰もがかかわっている事象や事情の変化が、ゆっくりと少しずつ、しかし確実に世の中をかえていく。この場合、世の中とは、つまり人だ。どれだけツールが発達し、生活の中にハイテクは入りこもうと、それによって人間間の問題が減るわけじゃない。人や企業の契約書は、ハイテク化が進んでメディアが複数になればなるほど複雑化し、ぶ厚くなっていく。イコール、我々の仕事も増える一方、ということだ」
「人間の心もそれにしたがって変化していく?」
「キィワードは『多様化』だろうな。教育学者みたいなことはいいたくないが、『多様化』はやはり人間をわがままにしている。だがこれほど文明の進んだ資本主義社会世界では、『多様化』によってしか需要を生みだすことができない。需要を生みだすことが、資本主義の経済原則である以上、人はどんどんわがままになっていかざるをえないな」

図式的に過ぎるかもしれないが、こういった考察というか、批評があちこちに出てくる。つまり大沢は、作品内でけっこう、講釈垂れているわけである。
登場人物の売れっ子漫画家の調査のなかで、少年漫画週刊誌の裏方のこともかなり突っ込んで書いているし、いじめの集団真理、責任の分散などにも触れている。どうも彼の作品は啓蒙的かつ、誠心論的な面があり、ほどほどなら小説の味つけにもなるが、過ぎたるは及ばざるに如かずという事になりかねないようだ。


死は炎のごとく】簗石日 ★★★

2001年発行だが、これまで見逃していた。本書は、70年代初頭、朴正熙大統領暗殺を謀った在日の男を主人公とした、ノンフィクションっぽいフィクションである。
400p余りの長編だが、どうもクライマックスが余りにもバタバタしすぎるのと、KCIA、公安、北朝鮮組織の鬩ぎあいの中で、あまりに横着な主人公達の動きが、非現実的に思われた。
エンターテインメントとしても、成功作とはいいがたいようだ。


【マンガ ホームページつくりの奥義】かづさひろし ★★★

バイトでおじの工務店のホームページ作らされる羽目になった大学生を主人公に、試行錯誤しながらのHP制作と、おじの娘である女子高生のページも並行して作り、いろんな経験をすると言うストーリーのなかで、HTMLの基礎と、HPソフトの紹介などもやってしまうという、マンガ入門書。
こういった類の例にもれず、一般書なら数十ページで済む内容が、やたらスペースを取ったり、マンガらしくするために贅肉がついてるのは、置くとして、Morris.にはなかなか有用な一冊だと思えた。
基本は、「インターネットの進化に合わせてHTMLも日々進化してます。HTMLを理解しつつ作成ソフトで作る---両方うまく使い分けるのがかしこいやり方ではないかと---」という、主人公のせりふに尽きるのだが、Morris.は、HTMLはほとんど放棄している上に、作成ソフト(現在はネスケの付録コンポーザー)だけで作りながら、ソフトの不備や癖をよく把握しないままに作っているので、頻繁に不都合が出て、それになかなか対処できずにいるという現状だ。そのことをはっきり確認させてくれたと言う意味で、役に立った。ということにしておこう。
これからMorris.部屋が改善されるきっかけになるかどうかは、大いに疑問である。


ホーローの旅】泉麻人 町田忍 ★★★☆

二人による、琺瑯看板讃歌である。二人が津々浦々で見かけた琺瑯看板の写真と、その魅力をそれぞれコラム風にまとめたり、対談したり、大塚製薬会長や、大村昆に取材したり、琺瑯看板製作工場を取材したりしている。
モリス亭のホーロー看板(ベッドの手すり) Morris.自身も琺瑯看板は嫌いでないし、古いタイプのペコちゃんの看板を携帯の待受画像に使ってるくらいだが、コレクションしようなどと言う気はない。
本書では、かなりの写真が掲載されているが、大半は白黒で、ちょっと物足りない。
小さく「美人豆」の看板の写真が二つ載っていて、撮影地に佐賀県武雄市と、和歌山県田辺市と書いてある。武雄はMorris.の出生地だが、たしかにこのお菓子はよく覚えている。宮本製菓という会社で、三角形に日章旗の柄の紙のパッケージに入っていた。兄弟か親戚が、別会社を作りその名も「麗人豆」として発売したが、こちらはあまり売れなかったようだ。
そもそも琺瑯看板は、紙のポスターや、木製看板より目立つ上に耐久性があるということで、一頃多く使われたし、現在でもかなりの数が残っているのも、琺瑯の耐久性によるのだが、CM媒体としては、ほとんど過去の遺物となり、お宝鑑定団などの番組で、マニアがいることが知れて、盗まれたりすることも多いようだ。それでなくても、これが貼られたような建物はどんどん消えていく運命にあるから、今のうちに記録に留めておくと言うのは、悪い考えではないだろう。
もちろん、著者二人は、それ相応のコレクターでもあるらしいから、本書では、書けないことも大いにあるに違いない(^_^;)
モリス亭にも一枚だけ琺瑯の看板がある。もともと吊り下げ式らしく両面刷りで上方2箇所に穴があいていて、片面にSBカレー粉、もう片面にはSBコショウの容器の図柄がある。45cm角でなかなか洒落ていると思うが、Morris.は、ベッドの手すり代わりに使用している。マニアから見たらバチあたりと思われるかもしれないな。


撮影現場】リウ・ミセキ ★★★

三宅島にスタジオを持つ46年生まれの写真家のエッセイ集。コマーシャル界で活躍後、現在は写真集を出しているとのこと。Morris.は初めて聞く名前だった。
「藪の中で」リウ・ミセキ 基本的に女性写真専門らしく、本書にもその一部が納められている。それなりに水準は高いが、やや作為的過ぎてあまり好きにはなれなかったが、ライトは一灯主義というのには共感を覚えた。

わたしは一灯主義である。
太陽は一つという考え方を、ライティングでは頑固に押し通している。
一灯ライティングは、光源の大きさを「点から面」まで自在にコントロールできる利点を持つ。
太陽はわたしたちの掌中にある。工夫を凝らしたレフ板を駆使して、手の内で転がし、また増幅させていくのが、真のライティングではないかと私は信じている。

また写真構図のポイントの掴み方もシンプルだが説得力を持っている。

画面四隅をおのおの対角に結び、それぞれの対角線上から四隅に向かって直角に線を出すと、画面上に四つのポイントが発生する。そのポイント上に主題のもっとも重要な部分を置くと、構図は一気に「動感」を生み出すのである。

はじめに本文に白黒写真を付し、そのあと同じ作品をカラーで紹介するというレイアウトもなかなか新鮮だった。
著者がフリーになって2年目頃に仏蘭西の女子留学生をモデルに奥日光小田代が原と言う湿原で撮ったという一枚は、印象的だった。金髪の少女が双眼鏡でカメラを見据えているポーズで、これはいい。


愛と憎しみの韓国語】辛淑玉 ★★★☆

作者の名前は以前から良く聞くし、他者の本に出てきたり、関連記事などは読んでいるが、著書を読むのは初めてである。タイトルがちょっと変だが、袖に韓国語のヨッソル(悪口)を多く掲載しているというので、手にとった。
たしかに、悪口雑言、一般の韓国語入門書や、会話の本には出てこない言い回しが、たくさん出てきて、そういう意味では、なかなか面白かった。
しかし、彼女の考え方や、物言いには、共感する部分も多いが、敵を作りやすいタイプだろうなと感じたのも正直なところである。
Morris.自身は、それほど嫌いではないな。遠慮がないというのは、彼女が優れて韓国人の性質を引いてると言う証拠かも知れない。
ケセッキ(犬っころ)、チョッパリ(豚のひづめ-日本人の別称)、インマ(この野郎)くらいは知ってるけど、それ以上となると、ひょっとすると覚えない方がいいかもしれない。
本当に韓国語に堪能なひとならともかく、Morris.程度の語学力で悪口ばかり覚えて使ったら、火傷するのがオチかもしれない。


終わりなき始まり 上・下】簗石日 ★★★☆☆☆

簗石日は今度映画化された「夜を賭けて」が最高傑作だと思っている。しかし、本書は、久しぶりに読み応えのある彼の小説だった。大筋は彼の自伝の変奏なのだが、モデルとして、詩人の金時鐘と作家の李良枝が大きく扱われていて、特にMorris.は金時鐘に関心があるので、興味深く読んだ。
李良枝をモデルにした女性は、主人公(もちろん簗石日がモデル)と恋仲になる、ヒロイン扱いで、現実とどれだけ落差があるかわからないが、金時鐘とのことは、かなり正確に描写されているようだった。
もちろん、その他にもモデルらしき登場人物は多い。というより、ほとんど全てがモデルありではないかと思われる。
これまで、読んだ彼の小説やエッセイからの知識で、ああまたか、と思うことが頻出するが、それでも本書は、これまでの類書と比べて、際立って内容が濃い。
彼の人生観、小説観、社会観、恋愛観、哲学等々が、全篇にぶちまけられてあり、それらの大部分も、これまで読んだ中に出てきたものが多いが、上下2冊800pに近い長編を一気に読み通させる筆力、と、気合には感動を覚えた。
本書には、主人公とヒロインのセックス描写も多いし、露骨でもあるのに、喜びよりも、何か虚無の色にそめられている。死もまた、数多く描かれ、それらも何かやりきれなさを感じさせるものの、彼の手にかかると、日常的なものの一つでしかないと納得させられる。不思議な作家ではある。
彼の小説観の一端を引いて置く。

多くの人間は読書と無縁の人生を送っている。したがって誰のために書くのかという問いは、自分のために書くという答えに結びつかないのである。一つの評言にこめられた言葉が喚起する想像力は確かに人びとを感動させる力を持っている。作家は言葉の力を信じている人間だが、同時に言葉に深い疑いを持っている人間でもある。想像力の欠如した、確信のない、言葉の陥穽に陥った文学ほどみじめなものはない。文忠明には確信がなかった。どうして確信が持てるだろう。生きることにきゅうきゅうとしているのに、どうして文学という野放図な世界に足を踏み入れることができるのか。それは破滅をともなうかもしれない賭けに等しかった。

たまたま本を出版する機会に恵まれたが、文学に対する文忠明の態度は鷹揚であった。文学は聖域でもなければ絶対的なものでもないという、ある意味では非文学的で現実主義的な文忠明の考えが、皮肉にも文学の現状を物語っていた。かつての大家もほとんど忘れ去られ、語り継がれることはない。死んでしまえば、全ては終わりなのだ。生きている間に書くべきことがあるとしても、それは言葉との果てしない消耗戦であり、累々と横たわる言葉の屍を築いていくことにほかならないのだ。文忠明はそのような消耗戦を続けたいとは思わなかった。

左翼系詩人とジャーナリストの会話に出てくる、体制分析と、差別の再生産の会話も興味深かった。

「日本の高度経済成長と左翼陣営の後退は見合ってるんですよ。今の支配者階級には観念の大きさがないですから、労働者階級や総評や日教組を攻撃することに終始しています。それ以外に方法がないわけです。支配層にとって理想的な、いまの若者をつくりあげてきたのは日教組などの功績ですよ。これ以上のものはない。逆にいえば、反動的な右翼思想を教育していれば、むしろ若者は左へ左へと傾いていったと思います。ところが戦中戦後の激動期を生きぬいてきた民衆の身体にしみついた記憶が、いまの若者をつくったということです。だから支配体制にとっていまは理想的な状態だと思います。しかし、それを持続できるだけの支配力、観念のおおきさ、思想の力がない。したがって天皇制というのはどうしても必要であって、それなしにはとうてい支配体制を支えきれないのではないかと思います。」
民衆には天皇制という観念は見えない。みえないからこそ力を発揮するのだと黒田一喜は深刻な表情で言った。
「差別と同じことですよ。まあ、敵は見えるんですけど、なかなかやり口が見えない。わたしの仕事で言いますと、差別されている当事者が差別の存在自体を撮らないでくれという。理論はどうあれ、存在させる、と当事者自身が辛い思いをします。それをいやだというのは当然でしょう。そうすると結果としては----皮肉を言い方をするつもりは毛頭ありません----皮肉なことを言ってもいいテーマですけれども----差別されている当事者が、『差別は存在しないことにしてくれ』というふうに、差別の再生産に加担させられてしまうところがあります。」

詩人は、黒田喜夫がモデルだろうし、ジャーナリストもモデルがいると思われるから上記の引用も、彼らの言葉であると思うし、時代背景も現在とはかけ離れているが、それはどうでもいい。

このように、小説の筋とは無関係なような言説が挿入されながらも、邪魔になるどころか、小説の深みと厚みを増している。
エンターテインメントとしては「夜を賭けて」をとるが、本書もなかなかのものであると、太鼓判を捺したい。


丹下左膳】林不忘 ★★★☆

誕生日に上六の天地均一台で買って来た一冊だが、読み終えるのに結構時間がかかった。戦後まもなくの極悪質な仙花紙(個人的には好き)で、一見200pくらいに見えるのに、えらく薄い紙で400P近くもあった。
丹下左膳 文章がまた時代物で旧仮名遣い総ルビだし、Morris.は丹下左膳は、読んでなかったのかもしれない。隻眼隻腕の主人公ばかりが、映画や、漫画や、劇で、一人歩きして、原作を読んでなかったらしい。
それで、これは、すごく複雑に絡み合ったもの、というか、作者が、思いに任せてどんどん、話を膨らませるのかもしれない。書いてるうちにだんだん収拾がつかなくなった気配もある。
ご都合主義は当たり前、斬り合いでも端役はバタバタと死んでいくのに、主人公や、相手役の美男侍はなかなか傷すら負わない。

出てくる女も、櫛まきお藤という悪年増やら、道場の娘、水茶屋の娘など、いろいろいるものの、ほとんど無茶苦茶な設定で、右往左往させられている。
時代考証もまあ、いいかげんで、大岡越前が出て来て若き日の徳川吉宗を懲らしめるわ、お藤は女だてらにピストル振り回すわ、と、漫画だねこれは。それなのに、これが読んでいてわくわくさせられる。破調の美というか、魅力を持っているのだろう。

しかし、本書は表紙のイラストに惹かれて手に取ったのだが、画家の志村立美という名前は知らないと書いたが、これもネットで検索したら、岩田専太郎とはりあう挿絵の二大巨匠と呼ばれた人らしい。美人画で人気を博したと書いてあった。
しかし、この表紙の左膳は魅力的だぞ。本文の描写とは全く違ってるような気がする。


現代秀句】正木ゆう子 ★★★☆☆

昭和38年に刊行されて「日本秀句」が復刊されれるにあたって、それ以後の秀句を200句あまり集めて別巻としたものである。
後記に「鑑賞した218句はずべて、私が日常折に触れて思い浮かべ、口ずさみ、愛してきた句ばかりである。書きながら、好みの偏りや、目配りの範囲の狭さをたびたび意識したが、新たに句集を渉猟することはせず、私の頭にすでにあった句だけを選んだ」とある。なかなか潔いマニフェストである。
それだけの発言をすることができるだけの、素養が著者に備わっている事が、それぞれの句の鑑賞文を見れば自ずとわかる。
たいしたもんである。
作者に直接親炙したものも多いし、読書の範囲もかなりのものがあるし、一句、一句にそれなりの思い入れが伝わってくる。著者の句集は未読だし、評論も「起きて、立って、服を着ること」を読んだだけだが、これほどの識者とは思わなかった。
能村登四郎に師事して、現在讀賣俳壇の選者らしい。Morris.より3歳若い(^_^;)
飯田龍太の

一月の川一月の谷の中

の鑑賞で、「この句の表記がほぼ左右対称だからである。」という喝破も、やはりただものではない、と思ってしまった。もっとも、この日記のように、横書きだと、良くわからないと思うけど(^_^;)

ただし、こういう著作では結局、引用句の孫引きしか感想の書きようがない。というのも、事実である。

・棺出るとき風景に橋かかる 橋間石

・星影を時影として生きてをり 高屋窓秋

・ほたる火の冷たさをこそ火と言はめ 能村登四郎

・てつせんのほか蔓ものを愛さずに 安東次男

・陰に生る麦尊けれ青山河 佐藤鬼房

・桜蓼たのしきこともまたあらん 藤崎久を

・祀ることなくて澄みけり十三夜 川崎展宏

・さみだれや喰わねば腐るものを喰う 静 人臣

・落椿とはとつぜんに華やげる 稲畑汀子

・夕顔ほどにうつくしき猫を飼ふ 山本洋子

しかも、引用の500句(鑑賞文中の句も含む)ほどから、これくらいしか引用できない(周知の句100句ほどは省いたが)というのは、著者とMorris.の句の好みが相当に違っているということなのだろうな。


李白の月】南伸坊 ★★★☆☆

「仙人の壺」の続編というか、姉妹篇で、中国の怪奇小話を、伸坊が漫画に仕立て、それに小文を付したもので、16編が収められている。
Morris.は伸坊の中国風の漫画の絵柄が大好きで、「仙人の壺」には、くらくらしたものだ。
本書も、期待を裏切らない出来である。ただ一つ、残念なのは「仙人の壺」に出てきた、可愛い少女の登場する作品が、無かった事である。
しかし、伸坊の中国漫画の、絵は、すでに芸術の域に達している。


漢字のいい話】阿辻哲次 ★★★

大修館書店のこの手の本はあまり面白くないというのが、Morris.の偏見である。京大で、漢字を中心とした中国文化史を研究している人らしいが、本書は、雑誌に書き散らかした雑文の集成らしい。
まあ、しかし、ともかくも、漢字の話なら、とりあえず興味は覚えるから、それなりに読んでしまった。露骨ではないが、一般読者にわかりやすくはなしてあげてるんだよ、といった風が見えるのがちょっと鼻に付く。
常用漢字の無意味さや、マゼ書きの馬鹿馬鹿しさを指摘しているところは、当然賛成である。
また「巳」と「已」と「己」の区別を教える歌

巳(み)は上に 已(すでに)已(やむ)已(のみ) 中ほどに 己(おのれ)己(つちのと) 下につくなり

を挙げて、称揚してるのはよくわかった。

活字明朝体の、揺れ、撥ねや、止めなど、あまり些細な差異に固執するのは、現実的でないと、言いながら、やはり漢字の細部にこだわらずにいられないのは、学者としてはやむをえないのだろうなと思った。


どうしてアナタは韓国(ウリナラ)に来たんですか?】五味洋治 ★★★

副題に「ソウル特派員の熱血1000日記」とあるように、筆者は、東京新聞のソウル特派員を2002年3月まで務めた人らしい。
この手の類書は多いし、たいてい面白くもないし、あまり役にも立たないが、韓国から帰ってきたばかりで余韻が残っていたのと、比較的新しいので借りてみた。
それほど面白くはなかったが、いくらかの知識を得る事が出来た。筆者はMorris.よりほぼ10年下の世代だから、決して若い方ではない。
知識というのは、韓国のソジュ(焼酎)事情だ。

朝鮮時代に、各家庭で勝手に作られていたソジュは、1910年からの日本支配によって、製造が免許制になり、大企業が製造を独占するようになった。
これが前史で、1965年に、韓国政府が、簡便な蒸留式焼酎の製造を禁止、各製造業者が本格的にシェア争いを激化させる。アルコール度数も25度に統一され、このときからソジュは国民酒となる。
73年には焼酎製造会社の乱立を防ぐ目的で、焼酎製造会社は各道に一つと制限され、これが96年まで続く。
一番ポピュラーな「真露」は、1924年北朝鮮の平安南道に生まれ、53年にソウルに新工場をたて、66年に現在の商標を用いる。[真露」のソフト版「チャム真イスル露」(22度0が大受けで、現在、一般の食堂や、売店では、普通の真露はあまり見かけないくらいになった。
最近の台頭は、斗山の「サン(山)」で、緑茶成分が入っていて宿酔しないという名目で売上を伸ばした。
宝海醸造も「ソフトコパウ」を発売、2001年末には、ロッテが斯界に参入した。

適当にダイジェストしたが、なかなかわかりやすい、概説だった。
そのほか、韓国ではあまりひとりで飲む酒場がなく、Morris.みたいに、部屋でひとりでのむと、アルコール依存症と見られかねない。(ほとんどあたってるが)とか、トクト(独島=竹島)問題などで、日本人につっかかる韓国人は、本気で議論しようというより、その日本人が韓国寄りなのか、そうでないのかを試そうとしているケースが多いから、真っ向から言い合いをするのは賢い方法ではないと、いう部分などは、なかなか実践的意見である。

Morris.と、基本的にちがうのは、木浦に行って、島巡りの遊覧船に乗り、同乗のアジュマたちが、酒とスルメ持ち込んで、ポンチャクで踊りだしたので、げんなりしたという個所だろう。Morris.の今回の旅行記の、扶余のところで、白馬江の船下りで、日本人の団体と一緒になって、すごくがっかりした描写と対照的である。


妊娠小説】斉藤美奈子 ★★★

「文章読本さん江」が、あまりに面白かったので、何とか他の作品も読まなくては、と、韓国から帰ってすぐ灘図書館で借りて来た。
彼女の筆力、着眼点の良さ、遠慮のなさ(誉め言葉)、分析力、再構成力等の点において、卓越した書き手であるということは認める。
しかし、「文章--」に比べると、Morris.には、その面白さという面では、はるかに及ばなかった。
そもそも「妊娠小説」という発想自体が、とんでもなくすごいと思うし、?外の「舞姫」を父に、藤村の「新生」を母に見立てて、その後の日本文学の流れを、全く独特の尺度で捉えなおすというスケールの大きさ(でっちあげともいうが)には、びっくりさせられたのだが、如何せん。Morris.は、本書に引用された作品をあまりに読んでいないのだ。
それも
・戦前篇 2/6
・1950年代 5/8
・1960年代 5/9
・1970年代 1/9
・1980-90年代 1/13
トータル 14/36
という、惨憺たる結果なのだ。しかも、Morris.が読んでるのは、50,60年代に集中している上に、同一作家の複数の作品が含まれている。これがなければ、さらに読書率は大幅に下がるはずだ。
これでは、いかに、筆者が卓抜な作品論、作家論を展開しても、付いていくのには無理がある。
想像で、言えば、つまり、筆者が注目する作品を、Morris.は、無意識に避けて来たということになる。本書はMorris.とは、無縁の書なのかもしれない。
先にこちらを手にとってたら、「文章読本さん江」も読まずにしまったかもしれない。と、思うと、読書も、万物との出会いと同じく、不思議な因縁に支配されているような気がする。(いいかげんな逃げ口上だ)

末尾にある「避妊をめぐる冒険」の章だけは、何となく興味深く読めた。つまり「妊娠小説」と「避妊」は、相容れない存在である。そりゃそうだわさ。と、片付けることもできるが、筆者は、そこで、開き直りのような結論をぶち上げる。

避妊というのは、愛情ではなく道徳でもなく正義でもなく、ちょっとした知性に属する行為だろう。そのうえで、人間はわかっていても同じテツを踏むおろかな動物で、だからこそ望まない妊娠もし、そこに人生の機微がある、うなずくか。避妊も満足にできないやつらが人生だの生命だのを云々するのは笑止である、と一蹴するか。そのへんんはもちろんあなたの自由だ。
しかし、わたしたちの考えは少しちがっている。軟弱なアンチヒーローにも見えた妊娠小説の主人公たちが、じつは肝のすわった豪傑たちだったことを、この結果は明かしてもいるからだ。
ちっぽけな知性<ひにん>ごときにわずらわされず、予測できる後の困難<にんしん>をものともせず、ベッドの荒波へと乗り出してゆくこと。それはまさに現代の冒険であり、魂の苦闘を求めて旅立つ彼らこそ、現代のヒーローと呼ばれるに ふさわしいのではないか。としたら、畏敬の念とともに惜しみない拍手と喝采を贈るのが、やはり筋だろうと思うのである。

是非、現代小説の愛読者には、一読をお勧めしたい。(無責任(^_^;)


【ザ・勝負】清水義範 ★★

ソースvs.醤油、米vs.麦、長島vs.王、東京vs.大阪、など10の対決をタイトルにした短編集である。あまり期待しないで借りたのだが、予想をさらに下回る出来で、放り出したくなった。半分は流し読みである。
清水は、パスティーシュの名手で、それなりに面白い本を多数書いてるので、Morris.も、相当読んでるのだが、当たり外れが激しすぎる。
しかし、彼の真骨頂というか、最高傑作は「蕎麦ときしめん」に止めを刺すと、前から信じ込んでいるので、本書の目次を見た時、これは、あれの二番煎じだろうと感じた。二番煎じでも、何とか読めるのではないかと思ったのだが、出がらしもいいところだった。後書きを見たら、本書の前に「ザ・対決」というのがあったらしい。うーーん、三番煎じだったのか。それにしても、ひ・ど・い。
 


最新愛唱歌集】 ★★★

今日、和歌山ぶらくり丁の露店で手に入れた一冊。戦時色の濃い歌集で、昭和18年3月25日発行、発行数20,000部。新興音楽出版社である。ほぼ新書版大で80p。昭和18年というと、ミッドウエー海戦の翌年で、そろそろ日本の撤退が始まる時期だと思う。
当然軍国歌謡、愛国歌が中心になっている。それにしても表紙の少年航空兵は、男装の麗人っぽいぞ。
慰問軍歌集 「月々火水木金々」「暁に祈る」「麦と兵隊」「九段の母」「めんこい子馬」の有名曲もあれば、「海の底さへ汽車は行く」「世紀の若人」「大日本青少年團歌」などという、初めて聞く歌も混じっている。
しかし、当時、発表の場が少なかっただけに、挿絵も多数の画家が力作を投じているし、作詞者には、安藤一郎、大木惇夫、西条八十、作曲者には、古関裕而、弘田龍太郎、古賀政男、山田耕筰、佐々木すぐる、万城目正、服部良一など、錚々たる連中が並んでいる。
大木惇夫作詞、山田耕筰作曲の「なんだ空襲」を引いておこう。

なんだ空襲

1.警報だ、空襲だ
それがなんだよ備へはできてるぞ
こゝろ一つの隣組
護る覚悟があるからは
なんの敵機も蚊とんぼ とんぼ
勝つぞ 勝たうぞ
なにがなんだ空襲が
負けてたまるか どんとやるぞ(以下繰返し)

2.警報だ 空襲だ
焼夷弾なら 護れこの火の粉だよ
最初一秒 ぬれむしろ
かけてかぶせて砂で消す
見ろよ早業どンなもンだ もんだ

3.警報だ 空襲だ
こわい こわいも瓢箪おばけだよ
さほどでもない毒瓦斯よ
もつとこわいが流言だ
どつこい その手に かゝるな乗るな

4.警報だ 空襲だ
どんなマスクも防空壕でもよ
心こめなきやそらだのみ
鉄の心と火の意気で
持場 持場に かけよう いのち

5.警報だ 空襲だ
敵機何台来ようと平気だよ
こゝに頑ばるやまとだま
守るわが家わが町だ
一つ輪になるちからよ ちから

いよいよ空襲が本格化する頃だったんだろうなあ。それにしても、この歌のやり方では、B-25の大空襲には、ほとんどお手上げだったろうと思う。


文章読本さん江】斎藤美奈子 ★★★★☆

おーーーっ、久しぶりのめっけものだったぞーーっ!! いやあ、素晴らしい。ここのところ、読書録が飛んでたのもこの本にかまけていたせいだ。(ホントは酒飲みすぎともいう)
文章読本というジャンルに光をあてて、これを網羅した上で、思い切り良く裁断したって感じ。副題というか裏表紙に「斬捨御免あそはせ!」の文字がある。
文章プロレタリアート(編集者・ライター)としての経験から「上手な文章」とは無縁の衆生と成り果てたという彼女なりの韜晦に続く後書きの一部を最初に引用しておく。

おかげで文章読本も無責任な野次馬の立場で鑑賞できるようになりました。外野席から眺めると、ありがたいはずの文章作法が、あら不思議、滑稽なドタバタ喜劇に見えてくる。名文家をめざすみなさまには、くれぐれも私の轍は踏まないようにと注意を促しておきましょう。

実にわかりやすいし、歯切れもいいし、これだけで彼女の文章技術の高さがわかるだろう。
Morris.は、これまで結構「文章読本」の類は、数多く読んでる方だと思う。
著者が最初に挙げている定番の御三家(谷崎潤一郎、三島由紀夫、清水幾多郎)と新御三家(本多勝一、丸谷才一、井上ひさし)の6冊も、一通りは目を通している。
それぞれの解析、論評も精緻、的確で、これだけでも読み応え充分である。
例えば本多勝一本の、文章におけるヒエラルキー感覚に言及した部分。

主張において「民主的」な本多読本は、引用の面から見るときわめて半民主的、権威主義的なのである。本多読本が引用する文章を扱いの面からよく見ると、細かいヒエラルキーが設けられていることがわかる。上から順に、

文学作品--新聞記事(書名原稿)--新聞記事(無署名原稿)--素人作文(投稿)

である。これは世間が広く認知する「文章のピラミッド」ともいえそうだ。
じっさい本多読本は、上には卑屈、下には横柄である。同じ悪文の事例でも、書いたのが大江健三郎だと[この文章について軽々に良い悪いを論ずる自信は私にはない]が[「わかりにくい文章」であることには間違いない]と、もってまわった丁重なクレームになるのだし、同じ新聞記事でも、先輩格の記者による署名記事はもっぱら「名文」扱いとなる。

世間によくある「文章教室」での指導の無意味さについても、斬捨て御免精神は健在である。

文章におけるプロとアマの差は、文章が上手か下手かではない。人のために書くのがプロ、自分のために書くのがアマチュアだ。いつも締め切りに終われてかりかりしているプロ(レタリアート)の目から見れば、奥様方の文章修業は「文章ブルジョワジーの優雅な休日」以外の何物でもあるまい。文章読本の欺瞞のひとつは、こうした「プロ」の実態を無視して、修業をすれば、あなたも文章の力で出世できますよ、という幻想を読者にふりまくことなのである。

文章の変革者として、一に小説家を置くという「常識」に対しても、

一般に流布しているこの説がマユツバだという気はもうとうない。トップデザイナーがファッション界をリードしてきたのと同様に、小説家が文章界をリードしてきたのは事実である。事実だが、文学中心の文章史には、ストリートファッションをいっさい無視し、パリコレの出品作だけ見て服飾史を語るような馬鹿ばかしさがある。

また文体をおおむね文末詞=語尾の問題に還元するとして、明治以前に前島密が徳川慶喜に「漢字御廃止之儀」のなかに、当時の口語である「つかまつる」「ござる」を使うべしとあるのを受けてこう書く。

近代の国語国字改良運動の嚆矢として非常に有名なこの文は、幕末の慶応二(1866)年に建議されたものでござる。維新前、前島は外国語の能力を買われ、幕府の開成所で翻訳方を務めていたのでござった。残念ながらこの文書は、将軍慶喜のもとに届くことなくひねりつぶされたのでござるが(幕府のえらいさんにしてみたら、倒幕派との戦いで大騒ぎのかかる時世にかような寝言につきあっている暇などないわとの気持ちだったのでござろう)、もしもこのときの前島案がめでたく採用つかまつってござれば、現代の新聞も論文も小説も小学生の作文も、むろん本書もあるいは「ござる体」で書かれていたものでござろうか。忍者ハットリ君のごときこの語尾も、試してみればオツなものでござる。いや、まことに癖になりそうでござる。

「文章読本さん江」 斎藤美奈子 ぎゃははは(^o^) 面白すぎるぅ。このパロディ精神は、随所に発揮されていて、これをいちいち引用していては、先に進まないのではあるが、もうひとつだけ、保科孝一の「棒引きかなづかい」への論評(くすぐりかも)を引いておこう。

採用寸前までいった「棒引きかなづかい」わ、教育界の期待をよそに、保守的な貴族院議員らのもーれつな反対にあって最終的にわ流れてしまい(遺憾なことにこの案お支持した官僚や学者らもそろって保守回帰してしまった)、明治四一年には旧来の「字音かなづかい」に戻るのであるが、もしもこの案がめでたく採用されていたら、女子高生の交換日記のよーなこーゆー表記で、むずかしー論文わもちろん、うつくしー詩さえ書かれるよーになっていただろー。それもよかったなーとゆーふーにもおもー。こーしてみると文章の原則なんてゆーものわ、どこえころぶかわかりゃしない、たいそー恣意的なものなのである。

見事な切り返しぶりだ。とにかく、本書には、まともな議論なのに読者を抱腹絶倒させる部分が、ごろごろしてて、Morris.カ・ン・ゲ・キの連続だった。

日本の学校教育における、作文指導についてもつぶさに主要文献を調べ上げ、遺憾なく大鉈をふるっている。
いくらでも引用したいところだが、後は各自本書にあたってもらうとして、大詰め部分に進む事にする。
井上ひさしの「自家製 文章読本」(1984))あたりで文章読本なんて終るべきだったとして、作家の自己顕示か、韜晦、めくらまし、好み、自惚れの寄せ集めにすぎず、今さら無用なもののはずなのに、無くなるどころかその類は、浜の真砂が尽きるとも、続々登場するだろうことを、ほとんど諦めの気持ちで傍観している。

最後に「文は人なり」ではなく「文は服なり」という、文章(style)=衣装(textile)論に立って、総括のおことば。

文は服である、と考えると、なぜ彼らがかくも「正しい文章」や「美しい文章]の研究に血眼になってきたか、そこはかとなく得心がいくのである。衣装が身体の包み紙なら、文章は思想の包み紙である。着飾る対象が「思想」だから上等そうな気がするだけで、要は一張羅でドレスアップした自分(の思想)を人に見せて褒められたいってことでしょう? 女は化粧と洋服にしか関心がないと軽蔑する人がいるけれど、ハハハ、男だっておんなじなのさ。近代の女性が「身体の包み紙」に血道をあげてきたのだとすれば、近代の男性は「思想の包み紙」に血道をあげてきたのだ。彼らがどれほど「見てくれの良さ」にこだわってきた(こだわっている)か、その証明が、並みいる文章読本の山ではなかっただろうか。
けれども、彼らは肝心なことを忘れている。衣服(文章)は「礼の形」である前に、年齢、性別、役割、階級、地域、財力などに、じつは深く規定されるということである。

オ・ミ・ゴ・ト!!である。

「よくない文章ドク本」の橋本治と「レトリック感覚」の佐藤信夫を評価して引用している部分にも大きな共感を覚えた。
著者の否定的言辞があるとしても、本書こそ、やはり新しいタイプの魅力的「文章読本」の登場であることは間違いないだろう。
本書を読み終えて、Morris.は思わず拍手してしまったよ。今年の私的ナンバーワンになりそうな一冊だ。彼女の前著「妊娠小説」「紅一点論」も、読まねばと思った。


ジョーカー】大沢在昌 ★★☆

この前読んだ「闇先案内人」が意外にも??面白かったので続けて読んでみたのだが、×だった。
ジョーカーという名で、ちょっと怪しい何でも相談屋みたいな商売をしてる男を主人公にした連作6篇が納められている。どうもこの主人公の不徹底ぶりが気になったのと、著者が、この手のちょっと気取ったソフト・ハードボイルド(^_^;)を書くたびに見せる、変な気取りと、女性や子供に甘いこと、そのくせ、女を書くのはうまくないと、いうことで、読むのは時間の無駄という気がした。
93年から2000年にかけて飛び飛びに発表されたらしく、結構スパンが長いだけに、1作目の事件ではPCのフロッピーが盗まれたりしてた。携帯の普及も、各編を読み進んでいくにつれて、その普及振りが良くわかる。
おしまいの「ジョーカーの伝説」では、先代ジョーカーの娘との因縁の葛藤が繰り広げられ、興味半分でジョーカーに近づいた若い女性ルポライターの馬鹿さと、主人公の教条主義の相乗効果で、完全に失敗作となってる。こんなことなら書かずにおけばよかったのにと思われる作品だった。


闇先案内人】大沢在昌 ★★★☆

大沢と言えば新宿鮫だよな、と思いながら、ついつい未読のものがあると借りてしまうのだが、本書は、新宿鮫と同じくらい、いやそれ以上に面白かった。
ぱらぱらと冒頭を見たときには、いわゆる「逃がし屋」の話だと思ったのだが、これが、日本を密かに訪れている某国(北朝鮮というのは見え見え)の権力者jr.を巡るとんでもない政治冒険活劇だった。
某国の特殊機関、在日団体、やくざ、公安、警察のしのぎあいとそれに巻き込まれてしまった主人公の困惑と、智謀、若い女性OSとのコンビネーション(これは読者サービスだろう)、謀略、暴力、探り合いと盛り沢山。
東京、大阪、京都とそれぞれの土地での移動が物語に動きと風景を加えるし、主人公の役者ぶりも際立っている。
某国とアメリカと日本の政治的駆け引きも、図式的ではあるが、なかなかうがった描き方をしているし、お決まりの警察機構への批判もあり、大沢の力作と言えるだろう。


私の寄港地】今江祥智 ★★☆☆☆

サンケイ新聞に毎週連載したエッセイ約3年分176編が収められている。連載時の宇野亜喜良のイラストが付してあり、それだけで羨ましくなる。
今江は、Morris.学生時代からのファンで、「ぼんぼん」4部作までは、ほとんど心酔状態だったが「大きな魚の食べっぷり」あたりから離れてしまった。
1冊を挙げるとなると絵本「あのこ」に決まりで、これも宇野亜喜良との共作だった。
今や日本児童文学の大御所なのだろうが、彼ももう70歳になった事を知って、ちょっと愕然とした。本書の発行日がその誕生日だとか。
1回分3枚というエッセイよりコラムといった分量だし、内容も、好きな歌手、画家、作家、映画、絵本と、身辺の仲間、店主、回想など気ままな取り上げ方で、出来不出来の差が大きすぎるような気もするが、それは読者の方も合わせていけばいいことなのだろう。
ある意味では、彼の交遊録の色合いが強い。もちろん物故者や、海外の事物の話題も少なくは無いのだが、今江の意識の中で、身近なもの感じられるものばかりを取りあげているからそう思うのだろう。
本書の副題は「MY FAVORITE THINGS」だもんなあ。
その「好きなものたち」がMorris.と重なるものが結構多い。、それも、個々の作家や事物より、全般的嗜好の志向と、思考様式までが似通っているというのは、たぶんにMorris.が彼の影響を受けているということになるのだろうか?
幸田露伴をこれから味読したいとか、山田風太郎の「人間臨終図巻」(図鑑ぢゃないよ>>今江)、稲美一良、自由劇場、堀内誠一、花田清輝、藤沢周平の「用心棒日月抄」、カレイドスコープ、ベティ・ブープ、ケストナー、井伏鱒二の「厄除け詩集」、山本夏彦、和田誠、初山滋、まどみちおの詩集「ぞうのミミカキ」の感想など、ほとんど、Morris.自身が書いたみたいな感じになってしまった。
老い+あの身体だから、腰痛などに悩む話などがしげく出てくる。先般夭折のナンシー関も、肥満が間接的な死因に繋がったような気もするので、今江さんも気をつけて欲しいものである。
本書の出版元、原生林のことも最後にヨイショ気味に大褒めしてあるが、確かに見た目は悪くないが、無線綴じの背表紙が折れて、数ページが剥落寸前の状態である。これはいだけない。
読後記憶に残るのは、何といっても宇野亜喜良のイラストだった。うめえなあ。(溜息)


耳のこり】ナンシー関 ★★☆☆

週刊朝日に2000年から2002年2月まで連載されたとあるから、ナンシー関の遺作ではないとしても、最晩年の作ということは間違いないだろう。
彼女のTV批評は突出してたし、消しゴム似顔版画の恐るべき巧さと相俟って、マスコミとマスコミ人を翻弄してMorris.ら野次馬を大いに楽しませてくれた。
特に初期の消しゴム版画のいくつかはほんとに似てたし、可愛い子はより可愛く、ハンサムはよりかっこよく表現しながら捻りがあって、良かったなあ。芳恵のゴム印なんか市販してたらきっと買ったに違いない(^o^)
閑話休題、なんで彼女があんなにTVのウォッチャーに徹して、毒舌と皮肉と非難をあびせたのは、やはりTVと番組、タレントを愛してやまなかったからだろう。 アンビバレンスというやつだろうか。
彼女の筆勢と版画の冴えが少しずつトーンダウンしたのが、TV世界の凋落傾向と期を一にしていることが、その証明といえるだろう。
本書は、全盛期に比べるとずいぶん荒れている。死んだからいうのではないが、元気も無い。舌鋒の鋭さも欠く。何よりも消しゴム版画に生彩がない。
こんなもんじゃなかったはずだあ。ナンシーを悼むつもりが、死者に鞭打つ物言いになってしまった。愛情の裏返しだと理解して欲しい。


生まれたらそこがふるさと--在日朝鮮人文学論】川村湊 ★★★☆☆

どうも相性が悪いと思ってた川村湊だが、本書には感心した。「季刊 青丘」「月刊百科」に連載されたものを中心に、書き下ろし追加を加えて再構成したものである。
在日朝鮮文学の本質、歴史、現在、作家論を、日本人研究者がこれだけ書ききったということにまず拍手である。
タイトルは

<生まれたらそこがふるさと>うつくしき語彙にくるしみ閉じゆく絵本 李正子(イチョンジャ)

の歌から取ったとあるが、作中でそのことがば<>でくくられていることから類推されるように、「はるかな鐘の音」という絵本にあることばらしい。

<生まれたそこ>を<ふるさと>と呼ぶことが出来ない人々、呼びたくない人々が日本にはいて、<ふるさと>と<非ふるさと>との間で揺れ動いていることを知ったのは、いわゆる「在日朝鮮人文学」を読み始めてからのことだった。「祖国」「民族」「統一]「革命」といった"強い"言葉の裏側に<ふるさと>という言葉があり、その感傷的で弱々しげなたたずまいに胸を打たれた思いがしたのである。
私はこの本で「生まれたらそこがふるさとである(べきだ)」などといいたいのではない。そうした"美しい言葉" に傷つき、苦しまねばならない人たちの存在を想起することが必要であるといいたいだけだ。

と、後書きにある。引用後半は蛇足かも知れないが、ともかくも、在日朝鮮人文学の全体像をこうやって明快に捉え提示してくれたことに感謝したい。
本書で挙げられている主な作家を列挙しておく。

金史良・張赫宙・許南麒・李殷直・金達寿・鄭承博・李恢成・金石範・金鶴泳・金泰生・麗羅・梁石日・尹徳祚・李正子・崔然・呉林俊・金時鐘・宗秋月・深沢夏衣・李良枝・柳美里・つかこうへい・飯尾憲士
 

一つでも作品を読んだ事のある作家が約半分、名前だけ知ってるものを入れると4分の3、残りは初めて知った。本書の発行が99年、記事初出が93年から98年だから、最近の作家はもちろん出てこない。
一時集中して読んだ麗羅に、自伝的大河小説「山河哀号」があることもわかったし、黄民基の「奴らが哭く前に」、元秀一の「AV・オデッセイ」、金泰生の「骨片」などは、ぜひこれから読んでみたい。

麗羅を論じた中で、ミステリーが近代の植民地の存在と切り離せないとう説を敷衍して、日本では植民地・朝鮮を舞台とする冒険活劇やミステリーがほとんどないことに触れて、次のように分析している。

宗主国-植民地というあからさまな関係を「日韓併合」とか「内鮮一体」という言葉やスローガンによって表面的には隠蔽してしまうという偽装工作が行われていたからであり、そして日本人も朝鮮人も、そうしたアリバイ工作にだまされるふりをすることによって、共犯者としてすっかり"植民地"という現実を隠しおおせてしまったのである。戦後の一時期、朝鮮人とも中国人とも明示せず、「第三国人」という呼称が用いられることがあった。それは、それらの事件が旧植民地人と旧宗主国人との対決であることを覆い隠し、事件の本質がいったい何であったのかを瞞着してしまおうという底意のものであったが、それと同じように、朝鮮や朝鮮人にまつわる犯罪や事件の物語は、決して虚構の娯楽物語、エンターテインメント小説として"楽しく"書かれることはなかったのである。もちろん、こうした過度にシリアスな「朝鮮」問題の設定が、日本における二面性を持った朝鮮イメージをますます強化させていったことは疑う余地がないのである。

これはなかなかに鋭い指摘である。
特に在日朝鮮人文学を意識して読もうという気もないし、面白くなければ読む気がしないのが、Morris.の読書の指針ではあるのだが、現代の日本の小説の中で、一部の在日朝鮮人作家の作品が、Morris.にとって面白かったのも事実で、その意味でも、しばらく彼らとその同朋の作品からめが離せないということだ。


[在日」のはざまで】金時鐘 ★★★

「猪飼野詩集」の詩人金時鐘の、雑文集。
1980年に友の肝いりで刊行されたものの、出版社倒産でほとんど出回らなかった「クレメンタインの歌」と、そのずっと以前に出されていた「さらされるものとさらすもの」を併せ、さらに最近(といっても、本書の刊行は86年)の雑文も追加したため、500p近い厚手のものになっている。
テーマは、日本語と朝鮮語、日本と韓国、在日のアイデンティティ、光州事件、差別、金嬉老、尹東柱、金芝河、民族教育、殖民者、とさまざまだが、当時湊川高校夜間部で朝鮮語の教諭をやっていた中での出会いや、事件に関することが多く、それも内容が重複するのがちょっといただけなかった。
詩人としての金時鐘は素晴らしいと思うのだが、雑文家としての彼は、かなりテンションが落ちてしまうようだ。
しかし腐っても金時鐘、あちらこちらで、キラリと光り、グサリと突き刺すような言葉の群れに出会うことは出来る。

私などの意識からすると、「チョウセンジン」という陰にこもったこの呼び名は、「朝鮮人」という同じひびきの中でこそ回復されるべき名誉であり、友情であり、愛であるものである。装われた擬態からは、とどのつまり軋轢しか生じないのだ。(差別語について)

日本の短詩型文学が、定型、非定型とも日本民族の伝統の詩形であることを自認している限り、その原音の音律感が変動することは万に一つもないことなのだ。そこからは依然として哲学に出会うことはなく、まみえるのは変わらぬ情感であり、詠歎であり、停滞した陶酔の時間だけである。すぐにも達観ばかりする種族からは批評は湧かない。私はまだまだ身構えていねばならないのである。
和歌、俳句にみるような日本の短詩型文学の持つ揺るがしようのないリズム感は、文学の伝統としてはあまりにも広い裾野をもちすぎてあり、日本人の心情を培う思惟、思考の土壌とさえ言えるぐらいに巨大なものである。(亡霊の抒情)

ここにはもはや、日本的概念の異国情緒は探すべくもない。
ことさらに「朝鮮」を感触する必要もないぐらい、「猪飼野」は生理になじんだ風物としてそこにある。辻々にくぐもっている声高のアクセントから、語りつがれた「朝鮮」が、知ってた通りの形で出店を突き出している道端のたたずまいに至るまで、未知のはずの母国が実在の形そのままに居座っているのだ。確かにそこには、そのような形で、分かち持たねばならない「朝鮮」がひしめいている。にも関わらず、雑踏の中の安らぎとは裏原に私をくるんでくるのは、必死に「朝鮮」を持ちつづけている世代達の哀しさである。手渡す何物もない己れの貧しさが、ふと吹き抜ける風のはざまで立ちすくむのだ。(猪飼野)

また御幸通り(コリアタウン)に行きたくなった。


風の名前 風の四季】半藤一利、荒川博 ★★☆☆

風は好きで 『風雅帖』 という歌集を作ったくらいのMorris.だから、こういうタイトルを見るとほっとけなくなる。
まえがきに、幸田露伴の「水上語彙」のことが書いてあったので、ますます興味を感じた。

目次を見ると、まず四季別の風のラインアップ。

[春]・あい・あごきた・あぶらかぜ・こち・たばかぜ・はやて・はるいちばん・はるかぜ
[夏]・あかいsまかぜ・あさなぎ・あらし・あらはえ・いなさ・かむかぜ・くんぷう・こうじゃくふう・しらはえ・たいふう・だし・とうせんぼう・やませ
[秋]・あかいかぜ・かぜたつ・すずかぜ・にひゃくとおか・のわき
[冬]・あなじ・おろし・きたふき・こがらし・しまき・せちこち・つくばおろし・にし・ねはんにし・ふぶき・ぼうふう・もがりぶえ

付録みたいに「いろいろの風」として16の項目が立てられている。
これはおおもしろそうだと読み始めたら、どうも勝手が違う。風の説明や解釈は、先の露伴の著作や、辞典などに依存し、その言葉を含むL俳句や和歌、詩などを引用してあるが、これまたどうもMorris.の琴線に触れるものが少ない。
昨日読んだ田辺聖子の武玉川といい、本書(平凡社新書)といい、どうも最近の新書の内容の貧弱さが目に付く。


武玉川・とくとく清水】田辺聖子 ★★☆☆

武玉川といえば、川柳以前の高点付句集で、川柳嫌い/苦手のMorris.は何故かこれにものすごく惹かれている。
田辺聖子は近代、現代の川柳も好みらしいが、その彼女が武玉川関連の本を出すとは、ちょっとびっくりと言う感じで借りて来たのだが、岩波新書で、岩波の「図書」に連載されたものらしい。
結局、引用句を楽しむということに終ってしまったのだが、彼女の選句とMorris.の好きな句は、あまりシンクロしないようだった。
神田忙人の「武玉川を楽しむ」と比べるのは酷かもしれないが、あまりに内容が貧弱に思えた。
それでも素晴らしい句がいくつか引用されているので、孫引きしておこう。

うそがきらひで顔がさびしい(12-5)
腹の立つとき見るための海(2-30)
まじめになるが人のおとろへ(3-38)
美しすぎて入れにくい傘(5-10)
白いところは葱のふと股(6-11)

おいおいたった、これだけかよ、と、がっくりしてしまった。


空から恥がふる】藤原新也 ★★★

藤原新也がホームページを持っていたことは知らなかったが、後書きによると2001年の5月だったらしいが、本書には2001/03/17から2002/03/22までの発言が収められている。
9月11日の同時多発テロと、米国のアフガニスタン攻撃が、含まれているし、著者の関心もこれに集中している。
もちろん、日常的な私事、小猫を拾って飼い主を募集するとかいったエピソードも含まれてはいるのだが、一般マスコミメディアでは、発言できないことを発信できるということに、著者のベクトルが傾いていたようだ。
反アメリカ的発言、その直後のサイトへのウイルスや、妨害攻撃。アメリカ、中近東への取材旅行直前の交通事故など、謀略に巻き込まれたような展開も、尋常ではないが、やはり、藤原新也は、インターネット外部者でいて欲しかったような気がする。
それと、彼のCGの猫のイラストがどうも好きになれない。
写真家として、紀行家として、文章家としての彼の才能と魅力を認めるにはやぶさかでないMorris.だが、本書は見ないほうが良かったかな。
ネットの場合、リアルタイムというのが、何よりも重要なのかも知れない。
彼のホームページアドレス
http://www.fujiwarashinya.com
は、何度かアクセスしたがつながらない状態だ。


満州鉄道幻旅行】川村湊 ★★★☆

昭和12年(1937)8月夏休みに小学生男女と共に建国4年目の満州国全土を鉄道を駆使して架空旅行を試みたという設定。
神戸港から大連に入港した後、旅順、奉天、撫順、新京、吉林、哈爾M、満州里、ノモンハンなど、訪問地のホテル、重要建造物、街並み、住民、王族などの写真、地図、パンフレット、メニューやポスター、雑誌、カットなどのスクラップブックよろしく構成してある。
戦前の写真画報にも酷似している。いやそれを狙ったのかも知れない。
満州にはほとんど関心を持っていなかったから、ほとんどがはじめて目にするものばかりだった。解説も小学生同行という体裁もあり、実に分りやすい、説明口調だ。
本書も、「虹色のトロツキー」の影響で手に取ったことになる。本当に早く3巻-8巻を読みたいものである。
著者川村湊は、韓国関係の著書もあり、興味の方向もMorris.と重なる部分が多いのに、なぜかいまいち傾倒できない/共感できない存在である。
当時「半島の舞姫」と称されていた舞踊家、崔承喜が奉天に来ていたという設定で、彼女の架空インタビューと、サイン入り写真が掲載されているのが目を惹いた。
彼女は、前から気にかかっている存在である。


【間諜 二葉亭四迷】西木正明 ★★☆☆

ロシア語堪能で、政界人とも付き合いの深かった文豪二葉亭四迷が、間諜めいた活動をしたというのは、時々書かれたりしているが、本書は、ポーランドの民俗学者ビウスーツキが樺太のアイヌ人女性との間に生した娘との出会いから、四迷につながり、ウラジオストック-ハルピンでの四迷の動き、田中義一との出会いから、帰国した後、来日したビウスーツキやポーランド独立運動家との付き合い、朝日新聞社に入り、軍部や憲兵に使嗾される形でロシア、ペテルスブルグに派遣されるも、活動に向かぬことを悟り、帰国途中の船内で死亡する。
いわゆる「明石工作」の一巻として利用されたということになるのだが、本書は、小説とノンフィクションとのどっちつかずで、物足りなさを感じた。
「虹色のトロツキー」絡みで、このところ、満州や石原莞爾関連の本に気を惹かれがちで、本書はちょっと時代が遡るが、きっかけはやはりその辺にあったために、なおさら白けたのかも知れない。


みみずく英学塾】由良君美 ★★★

中央図書館で借りた3冊をやっと読み終えたということになる。本書は専門の英文学、中でもブレイクに関する小文を多く集めている。ブレイクは、よくわからないままに何となく気になっている存在で、どうも高校時代に読んだコリン・ウィリアムスの「アウトサイダー」の影響が強いのだと思う。
しかし、著者のブレイク論は、Morris.にはあまりぴんと来なかった。あの幻想的な版画と詩が一体となっている、私家版詩集の素晴らしさは想像がつくが、だからといって、単純にブレイクを総合芸術家と決め付けるのは、かえって本質を見失わせることになるのではないかとも思った。
後半に置かれた西脇順三郎へのオマージュ(西脇の没後すぐにかかれたらしい)も、その誉め方がいささか、排他的な口調であるところが気にかかる。
著者が西洋文学全般への広範な知識と、瞠目すべき理解力を有していることは、よくわかるのだが、その語り口が一部から反感を買っただろうことも容易に想像がつく。
ネットで検索した時に、著者が牽強付会であったり、生意気であるといった非難めいた言辞を目にしたものだが、最近数冊読んだ後でなるほどなと思った。
それはそれで著者の姿勢であり、持ち味でもあるのだから、魅力の素の一部でもあるのだろうし、一概に批判はしたくないが、ちょっと勿体無いような気もする。
ともかくも以前に読んだきりの「椿説 泰西浪漫派文学談義」の素晴らしさだけで充分なのかもしれない。
三島自決の後に書かれた「風景画とナショナリズム」に、ちょっと心を引かれた。整理不足というか、矛盾を含んだ文章なのだが、著者の思考パターンが伺われる。

起源を忘れ、起源のなかにこめられている生存の受苦の内実を捨象し、型としての過去を理想化するところに、[伝統]が生れるといえる。したがって、型としての過去を理想化をあくまで拒み、過去の生存の担い手の受苦の内実を、その痛みとともに分けもとうとする者は、[伝統主義者]には、とうていなれないのではないか。さき頃の事件にかんがみて、ますます、そう考えるわたしである。
『葉隠』の著者である山本常朝は、老残をさらすことを辞さなかった男であり、それゆえに、あの見事な[型]の書物を残すことができた。『風姿花伝』にしても、まったく然りである。生きること自体が格好のわるいものであり、またそうであればこそ、生き抜いた果てに、いわば生存という糞の山から、わずかばかりの砂金を掴みとり、それを後世に残しうるものであるとすれば、おそらく、真に恰好をつけるためには、糞にまみれ恥多い生存を、息長く歯を食いしばって、ひきうける何かが必要なのである。恰好のための恰好を求めて、他者までも巻き添えにひきずりこみ、短絡の生をヒステリーによって解決するところには、[起源]の[忘却]が最も有効なのである。
想いだされるのはモンテーニュの『随想録』の、あの二つの矛盾した命題である。曰く、「わたしは、ものごとに入りこむのは苦手だ」(第三巻十章)。「生きている人びとのなかで、生きなくてはならない」(第三巻八章)
起源のはらむ生存の受苦を身にひきうけて生き、その果てに[型]をのこすことこそ、モンテーニュの二律背反をまことに担う方途であろう。おそらく、この方途にはキリストさえもいない。キリストは短絡的に世を購うと称して、再生を約束して殉教した。わたしは彼の恰好のよさが分らない者ではないが、彼は間違っていると思う。わたしの選ぶ道は、キリストの道ではなく、ヨブの道であり、また言うならば、神道の道ではなく仏教の道であり、その仏教も、禅の自力の残滓がどうしても気になるために、これを採る気になれない他力の道である。


オーケストラ人間的楽器学 上巻、下巻】茂木大輔 ★★★☆

CD付きの2冊組で、「大人のためのオーケストラ鑑賞教室」と副題がある。N響のオーボエ奏者でもある著者が、三鷹の芸術文化センターで、八夜にわたり企画したコンサートの書物化である。一回に二つの楽器を選び、その奏者をゲストにその機能、特徴、得て不得手、名曲のサワリを披露するというもので、計16の楽器の解説ということになっている。
付属のCDは、その演奏のまたサワリのみを収録している。

1.ピッコロの奔放
2.コントラバスは天を支える
3.隠れた仕事師第二ヴァイオリン
4.トランペットは天才
5.クラリネットの無限
6.トライアングルの純粋
7.ハープの夢
8.フルートの別格
9.ファゴットの七変化
10.チェロの技巧
11.コンサートマスターのアンテナ
12.ティンパニの重要
13.ヴィオラのいいダシ
14.ドイツの魂ホルン
15.強者のオーボエ
16.偉大なりトロンボーン

フルート奏者の持ち替え楽器みたいに思われているピッコロのいいとこ取りの役割とか、トライアングルの微妙な表現、第一ヴァイオリンと第二ヴァイオリンの対比、コントラバスとチェロの縁の下の力持ちなどなど、クラシックにはほとんど無縁のMorris.には、初耳の話が多かったし、パート別の演奏、ソロ抜きの演奏等、ふだん聞く事の出来ない演奏も耳に新鮮に響いた。
とはいっても、Morris.のマイクロステレオで再現する音には限界があるだろう。
トランペット津堅直弘の作曲による「正露丸の主題による4つの変奏曲」は傑作だ。
著者とゲストとの対話採録では、ちょっとヨイショが鼻につくし、サービスのつもりの親父ギャグが多すぎるのも、ちょっと、だった。


アカ】川上轍 ★★☆

昭和8年(1933)2月4日長野県下で多数の教員が治安維持法違反で検挙された「教員赤化事件」で、著者の父も検挙された。父は獄中で転向し、その後は世間の冷たい目を浴びながら、教育者の道を歩む。その息子である著者は、東大で民青の指導者として共産党に入党するも、後査問事件で、党との軋轢を体験する。
父の死後かなりの時間を経て、父の昔の事件の真相を知りたくなり、父の同僚や教え子などの証言や、資料を発掘して、事件と、共産主義の役割、自身とのかかわりなどを一冊にまとめたもの。当人も書いているが、父と一勝に暮らしている間に、事件に関する話をほとんど聞こうともしなかったらしく、何を今さらという気がしないでもないし、生き残ってる証人は70代、80代ということで、記憶も曖昧のようだ。著者は父の時代はマルクス主義が新鮮でいわば青年期にあたり、自身が関与した時代にはすでに中年から老年期にあたっていたのではないかと回想しているが、それはちょっと違うと思う。
「アカ」という言葉は、戦後生まれのMorris.にも、何となく、ヤバい思想の信奉者といったニュアンスで感得された。マッカーサーのいわゆる「赤狩り」に絡んでの認識と思う。
実質の把握以前に雰囲気としてのヤバさがあった。そういえば、韓国では「赤」を忌み嫌うあまり、日本でよく使われる「紅白」の変わりに「青白」対抗という呼称を使ったりしていたものだ。
それが、先般のサッカーW杯では、真っ赤に染まってしまったというのは皮肉のようでもある。


日本鉄道詩紀行】きむらけん ★★☆☆

日本の詩の中に新たに「鉄道詩」の系譜を発見し、それらの詩という列車に便乗して一つの物語を編んだというのが著者の弁である。
28人の作品を引用して、それぞれに鑑賞+考証(路線、車種、便名などの特定)+ものがたりが付加されている。
発想は良かった、と思うし、選ばれた作品の中には、好きなものもいくらか含まれていたのだが、どうも地の文がいただけない。
著者は童話作家で、テッチャン(鉄道マニア)でもあるらしく、いかにもファンタジーめかした口ぶりと、鉄道関係の薀蓄の披露が目に付く。何よりも擬音語の多用がめざわりだった。
冒頭から「かたとっと、かたとてとっと」という列車のリズム音からはじまり「ふしゅうという制動音」「連結器がごっくんと鳴っ」て、「がしゃるる、ごしょるるという響き」などと、かなり意識的に作り上げられたものばかりで、著者は自慢なのらしいが、Morris.はかなり白けてしまった。
テーマ別の詩のアンソロジーとして、徹底すればよかったのに。
好きな作品は
「見知らぬふるさと」谷川俊太郎
「根府川の海」茨木のり子
「夜汽車」萩原朔太郎
「機関車」中野重治
好きな詩人は他にも数人いるのだが、選ばれた詩がもうひとつだった。

好き嫌いではなく、面白かったのが金子みすゞの「仔牛(べえこ)」という一篇だった。

仔牛(べえこ) 金子みすゞ

ひい、ふう、みい、よ、ふみ切りで、
みんなして貨車をかずえてた。
いつ、むう、ななつ、八つ目の、
貨車にべえこが乗っていた。
売られてどこへ行くんだろ、
べえこばかしで乗っていた。
夕風つめたいふみ切りで、
みんなして貨車を見おくった。
ばんにゃどうしてねるんだろ、
母さん牛はいなかった。
どこへべえこは行くんだろ、
ほんとにどこへ行くんだろ。

これはまさに和製「DONA DONA」ではないか(^o^)


2002年6月4日】戸塚啓 ★★★☆

[勇者が聞いた凱旋行進曲]という副題がちょっと臭いが、2002W杯に収斂する、トルシエージャパンの2001年と2002年を密着取材したドキュメントだ。「SPORTS yeah!」という週刊誌に連載したものに手を加えたものらしい。
2001年3月のフランス戦から、戦況分析と、監督、選手へのインタビュー、代表選抜の浮き沈み、海外移籍選手の動向、ファンとマスコミの関心事など、ほぼ現在進行形で記事にしたててある。
W杯までのマッチゲーム20試合と、W杯での4試合のメンバー表が付してあるので、その時々の旬の選手がひと目でわかるし、本書の力点も日本代表に選ばれる選手の紆余曲折に置かれているようだ。
このての本はめったに読まないMorris.だから、何か新鮮な感じを受けたし、6月の熱気を思い出して、結構楽しく読めた。
著者はややトルシエに批判的だが、全体的には功罪を客観的に指摘している。中村俊輔が代表漏れしたこと、GK川口を本番では使わなかったことは、Morris.も疑問に感じていたので、大いに共感を覚えた。
ラストゲームのトルコ戦に関しては、かなりはっきりとしたトルシエ批判で締めくくっている。これは日本ファンの気持ちを代弁しているのだと思う。

グループリーグでは貪欲なまでに勝利を追い求めたトルシエ監督は、この日、まるでテストマッチのような采配をしてしまった。森島の投入が遅くなったのはともかく、高さのある松田や中田浩を前線へ上げてゴール前へハイクロスを供給すれば、何かが起こるかもしれなかった。それでも何も起こらなかったかもしれない。守備が手薄になって2点目も取られてしまったかもしれない。ただ、0-1で負けているのに1-0で勝っているかのような采配ではなく、最後まで諦めない姿勢を見せてほしかった。
トルシエ監督と日本代表の冒険は終った。まだまだ続きがあったはずの冒険は、いくつかの歓喜となお満たされない思いを残して、6月18日に終焉を告げた。


寿宴】南條竹則 ★★★

中篇「寿宴」と短編「秦檜」「点心厨師」の3篇が収められている。「酒仙」でファンタジーノベル優秀賞を受賞して、その賞金を元に中国本土で満漢全席の豪華な宴を催し、その模様を「満漢全席」という本にしたというなかなかのやり手な作者なのである。
本書は、その続編というか、第二弾にあたる。前作は目新しさもあってそれなりに読めたのに、今回はまるで興を感じなかった。たしかに豪華絢爛な美味珍味、贅沢三昧の料理が次から次に出てくるのだが、料理名と材料の説明だけがいくら出てきてもこちらには面白くもなんともない。
しかし、このての本を楽しむ余裕が、Morris.に無くなってきたのかもしれないな。去年は結構、料理にこってて、宴会もよくやったのに、今年になってからは、ほとんど凝った料理なんて作ってない。
これはいかんなあ、と、小説とは全く関係ないところに思いが飛んでしまった。
著者は英文学者でもあるのだが、中国語ならびに中国料理に造詣と関心が深く、洒脱な文章をよくするし、処女作「酒仙」や、 [虚空の花」 にはすっかり脱帽した位なのに、近作「あくび猫」や「猫城」は、その面白さが影ひそめてしまったような気がする。
他の短編では東京の下町に凄腕の中語料理人が屋台を出してて、食通の主人公が偶然入って、とんでもないメニューを出されて、次回探しに行ったら見つからなかったという、よくあるストーリーだが、これは結構良く出来ていた。


炎熱商人】深田祐介 ★★☆☆

「スチュワーデス物語」の原作者でもある作者の昭和57年(1983)直木賞受賞作である。何で今ごろこんなのを読んだのかというと、石原莞爾関連の本で本書に触れてあったからだ。
時は1970年、高度成長のさなか、商社の鼻息の荒かった頃。フィリピン駐在の中堅商社の支店長小寺と、日比混血の現地採用社員フランク、ベニヤ関連会社からの出向社員石山の3人を中心に、ラワン材取引の現実と、戦争時のフランクの回想が交錯して物語は進んでいくが、好漢石山とフィリピン富豪の娘の恋愛、フランクが少年時代に薫陶を受けた理想主義者の憲兵大尉、本社派遣されたパリパリの商社マン、アウトロー的な地元ブローカー、フランク幼馴染の華僑仲介者、戦中の日本人学校の同窓生など、さまざまな人間関係が複雑に絡み合う。
簡単に言えば一種の企業小説なのだろうが、戦中のフィリピンの状況を描くのに半分近いページを費やしていることからすると、著者の力点は戦中と現代(1970年代の)の比較に置かれているのかもしれない。
小説としてはこんなに長く(文庫上下で800p以上)を費やす必要はなかったと思う。何しろこの人の脇道にそれ方は尋常ではない。しかし、そのそれぞれがなかなかに著者の思い入れが感じられて、ついつい読まされてしまうというところがあって、どうもこの小説はMorris.には感想を述べにくい。
最後は取引上のいざこざから、支店長らが暴漢に狙撃され、死傷者を出すことになるのだが、筆者は、現実の事件からこの小説を構想したと書いてあったので、ちょっとびっくりしてしまった。


蝉しぐれ】藤沢周平 ★★★★☆

「用心棒日月抄」を読んだことを読書控えに書いたら、稲田さんから、藤沢周平なら、この三冊というお勧めのメールを貰った。
・少年もの「蝉しぐれ」
・青年から中年もの「用心棒シリーズ」
・老年もの「三津屋清左衛門残目録」
これにしたがって、読み進めてきたのだが、少年ものの「蝉しぐれ」を読むのが、遅れてしまったのは、図書館でなかなか見つからなかったからだ。Morris.の利用してる三図書館(灘図書館、中央図書館、三宮図書館)ともに藤沢周平全集はあるのだが、欠巻が多く、以前には見かけた館でも、その巻は貸し出し中だったりしていて、やっと灘図書館の文庫棚に見つけて借りてきたのだが、これもかなり傷んでいた。本作品の人気の高さの表われだろう。
結論から言うと、Morris.はこれが、一番気に入った。久しぶりに小説を読む楽しみを満喫させてもらった。
海坂藩の下積み藩士牧助左衛門宅の養子文四郎を主人公に、彼の少年期から、青年期にかけての成長と試練を淡々と描いた好編ということになるのだろう。父が藩内の勢力争いに関連して切腹させられることで、録を減ぜられ母子の貧しい暮らしの中、道場では頭角を現わし、秘伝を受けるほどになる。二人の親友との交流、隣家の娘との淡い恋情、世間の冷たい目、ライバルとの確執、藩主の側女となった初恋の娘とそれを巡るお家騒動、それぞれのエピソードを、連作短編のように重ね合わせて長編に仕上げた構成で、これが藤沢の得意な手法、というより、本来短編作家なのだろう。
長編好きのMorris.には、ちょっと物足りない点でもあるが、本書では、エピソードの中の伏線が、後になって上手く照応しているし、トータルとしてみても見事に編み上げられている。
最終章で、藩主の死後、尼になろうとする女性と主人公の最初で最後の交情場面は、作者からのおまけ、あるいは、全編をおとぎ話めいたものにするための筆法かもしれないが、Morris.は、父の死にまつわる、藩政への批判、しっぺ返しの象徴ではないかと受け取ったのだが、どうだろう。
実はちょっと困っている。稲田さんとの約束?は果たしたのだが、これだけ見事な手並みを見せられると、つい、他の作品にも手をのばしたくなってしまう。
それなら読めばいいわけだが、なにしろ彼の作品はおびただしく残されている。前にも書いたが、どうもMorris.は彼の作風には、どこかのめりこめない部分があるのだ。これは直観みたいなもので、それがために、長いこと読まずにいたのだし、いくらか読んだ現在でもその印象は変らない。読むか、読まないか?贅沢な悩み、ではなく、まさに、どうでもいいような悩みではあるが、それなりにまじに悩んでいるのである。


言語文化のフロンティア】由良君美 ★★★☆

昭和50年(1975)の発行で、当時、日本ではわりと「言語学ブーム」だったことを思い出した。
新聞や雑誌に掲載された小論を集成したもので、一貫性はなく、内容的にもムラがある。
第二章「日本語の再発見」が一番面白かった。その中の「ルビの美学」はMorris.我が意を得たりという思いがした。
もともとMorris.はルビ(振り仮名)に目がないだけに、ルビ擁護論、ルビの効用を解いた言説には、無条件に称揚する癖があるが。

ルビは甚だ微妙な美的問題を含んで日本語をゆたかにしてきた。そのゆたかさを無視し、切りすてようとすれば、これまた大いに簡単である。その簡単さが幼稚な合理化論を生んできた。原理なら簡単だが、運用は無限に複雑なのがルビであり、ルビの修辞的究明こそ、恐らく日本語の秘密に深くかかわるものの
筈なのだが、遺憾ながら、ルビについて、エンプソン級の議論を展開した本邦の学者を僕は知らない。

[ルビ的性格]は日本語の成立に骨がらみにまつわってきたものであり、たとえルビを廃止しても、あるいは完全な仮名表記化またはローマ字表記化を実現しても依然として、表記の底に消えずに残るものであって、日本語のシンタクス自体が[ルビ的]に出来てしまっている事情を変更することはできないのである。そこから日本文の理解に際しては、ルビの付けられていない場合にも、なお眼にみえないルビを頭のなかでふり付けながら読解されねばならない。外国人には殆んど離れ業的な複雑さに思われるこの作業だが、これは言語学的には性格は違うが、子音表記だけでなりたっているアラビア語を、アラビア人が文脈に応じて自在に母音を頭のなかで付加しながら読んでゆく離れ業に通ずるものと考えれば、言語として、そう不思議な現象ではない筈である。日本語の修辞力を最大限に発揮しようとするとき、日本人が着眼したのは、まさにこの特異性を逆手にとった美的開発の仕方であった。前に使った用語で言えば、日本語の[黙読二国語性]を修辞力の増強に転用するのである。そこに生れるものは、まさしく[手のこんだフォルム]であり、そこに作用するものは[反経済の原則]なのである。まず漢訳し、つぎに邦訳する一種の[ひとり重訳]とでもいうべき二重手続きは、読解法としてみるとき、恐ろしく古臭い感じがするが、創作法として考え直してみるとき、それはシクロフスキー理論そのものといいたいほどの超前衛的な側面を示してくる。

論点としては、Morris.の好むルビの使い方とはちょっと違ってはいるが、それはそれ、ここは大いに賛意を表明しておく。といっても四半世紀前の論考に今さらエールを送っても、遅すぎるような気もする。
それに、この引用でもわかるが、何だか、文章がこなれていない、というか、堅苦しくて、あまり上手くないように見える。あの「椿説泰西浪漫派文学談義」は、本書より先に上梓されてるから、著者の文書能力が退化したとでもいうのだろうか。


ワールドカップの世界地図】大住良之 ★★★☆☆

著者は80年ごろ「サッカー・マガジン」の編集長を務めた経歴を持つスポーツライターで、いわゆるサッカー畑出身ではない。タイトルと発行時(2002/03/29)からしても、2002日韓ワールドカップをあて込んでの本に違いない。その意味では、時期を逸した読書ということになる。
6月はにわかサッカーファンになりきってたMorris.だが、サッカーの歴史や、戦術などへの知識は、恐ろしいほどに貧弱である。だから、W杯も、ひたすら、贔屓国と選手へのエールに終始していた。
もし、大会前にこの本読んでたら、3割くらい深く楽しめただろうと思う。
230pくらいの新書だが、実に要領よく、ワールドカップの歴史、変遷、戦術、大会方式、伝説的試合とプレー、日本代表の道のり、強豪国の比較などをまとめてある。何より、サッカーファンなら常識であろう、エピソード満載で、知らない事だらけのMorris.は、すごく楽しめた。
ゴールの定義、ゴールポストのサイズ、オフサイドの歴史、なんてことすら、目からうろこだったし、東京12chが70年のメキシコ大会のビデオ放映権を安くで買い入れて、3ヶ月遅れで放映したことで、日本にW杯を知らしめることになったとか、66年の北朝鮮チームの伝説、70年のエルサルバドルとホンジュラスのサッカー戦争、86年マラドーナの神の手ゴール、90年のチリ選手の狂言傷害事件等々、いやいや、興味が尽きない事ばかりである。
サッカー解説でよく出てくる「謎の男」セルジオ越後のことも、本書を読んでやっと納得できた。

1972年に日本リーグに昇格した藤和不動産(後のフジタ工業、ベルマーレ平塚、現在の湘南ベルマーレ)は、その夏にブラジルからセルジオ越後という選手を採用した。64年の東京オリンピックに出場したブラジル・アマチュア代表の代表候補だった経歴の持ち主で、サンパウロの名門コリンンチャンスでプロとして活躍したこともあった。----数年で現役を引退したセルジオは、いったんブラジルに帰ったが、その後再来日し、全国の少年たちにサッカーの楽しさを教える仕事を始めた。十数年間の活動で、セルジオが教えた子どもは五十万人以上に達した。そのなかから無数の日本リーグ選手が生まれ、日本代表選手が生まれた。

うむむ、そういうことだったのか。


【THE インテリ・ショウ】清水ちなみ ★★☆☆

「おじさん改造講座」「禿頭考」「大エッチ」など、OL委員会というアンケート集団??を率いて、一部で話題を巻き起こしているらしい清水まなみだが、Morris.はどれも読んだことはない。
本書は、彼女と19人の男性との対談集で、毎日新聞社の週刊詩「アミューズ」に99年の2月から4ヶ月ほど連載されたものだ。毎週対談というのも大変だとは思うが、対談相手によって、面白さががくんと違うのが、面白かった(^o^)
対談相手は、椎名誠、夢枕獏、岸田秀、阿久悠、後藤健生、毛利子来、荒木経惟、大岡玲、イアン・アーシー、五味太郎、魚柄仁之助、室伏次郎、イッセー尾形、早坂暁、野田秀樹、向井万起男、ピーター・バラカン、網野善彦、藤田紘一郎。

面白くなかったのは、岸田、毛利、イアン、室伏、向井など多数あり、面白かったのは、荒木、魚柄、ピーターなど少数だったが、一番面白かったのはおしまいの藤田紘一郎との、寄生虫&ウンチ対談だった。

藤田 そもそもウンチっていうのは、私たちを守ってる腸内細菌の死骸ですからね。腸内細菌っていうのは、ビタミンを作ったり、消化を助けたり、免疫力を高めたりする大事なものなんです。ウンチの2/3が、そうした共生菌の死骸なんですね。ですから、出てきたものは「ありがとうございました」って拝まなきゃいけない。
清水 拝まなきゃいけない!
藤田 それをね、薬でにおいを消すなんて、とんでもないですよ。あのにおいは神様が付けてくれたんです。(今度はインドネシアの子供たちが川で遊んでいる写真を取り出して)ここは、ウンチやオシッコがそのまま流れてる川なんですよ。そういう環境の中で過ごしてる子供たちは、お父さんやお母さん、お年寄りをすごく大事にするわけ。でもにおいを排除して暮らしてる日本の若い人は、お父さんのにおいがすごく気になるわけでしょう?

清水 そうだ私、「ウンチしたことがある」って原稿に書いて、「その原稿は載せられない」って、編集長に言われて、連載やめたことあります。だって、書いちゃダメっていうんですもん。
藤田 僕は「朝日新聞」で連載してて、「ウンチは汚くない」っていう原稿を出したんですよ。そしたら、つっかえされてきちゃって。

たしかに、現代日本の、清潔志向の行き過ぎが、さまざまな弊害を生んでいると言うのは正鵠を射ている指摘だと思う。


みみずく偏書記】由良君美 ★★★ Morris.も学生時代と、卒業後のしばらくの間は、現在より海外文学に関心が深かった。もちろんほとんどすべてを翻訳に負っていた。
その頃青土社から出た著者の「椿説泰西浪漫派文学講義」という本のことは、何故か良く覚えている。秀逸なタイトルのせいでもあるが、内容の濃密さに拠ることはいうまでもない。
かれこれ四半世紀前の記憶で心もとないが、澁澤龍彦の著作に比肩するものではないかと評価した。
しかし、彼の得意分野である幻想小説は、ちょっとMorris.の好みと外れていたこともあって、それ以後の著作はあまり読むことなく終ってしまった。そのうち、彼の訃報を聞いた。
昨日中央図書館の文献検索システムで検索して、書庫にある彼の著作を三冊借りて来た。
本書はその一冊で、刊行は83年。さまざまな雑誌、新聞に寄稿した短文の寄せ集めと言う感じだし、20年前という時間差が、思った以上に大きい。結構、癖の強いことも見えてくる。もしかしたら、Morris.とは「縁無き衆生」なのかもしれない。
でも、どこか惹かれるところがある。しばらく彼の著作に付き合ってみよう。
彼の専門外である、日本の作家への言及に、面白さを感じた。
例えば湯浅半月の「十二の石塚」こそが日本の近代詩の嚆矢であると言う指摘や、夢野久作の父杉山茂丸の文学的意味を提示したり、白樺派の異端児、郡虎彦のコスモポリタンぶりへの称揚などは、とても面白い視点だと思う。

書斎曼荼羅 2】磯田和一 ★★☆☆

「本と闘う人々」という副題がある。講談社の文庫月刊誌に連載されたものらしく、当然、それ絡みの流行作家が多く取りあげられている。
こういった企画はすでに複数のものがあり、目新しさはないのだが、とりあえず他人の書斎を覗くという野次馬根性を満足させると言う意味では、まあ、楽しめるのだろうが、いまいち物足りなかった。こういう企画は、やはりあっさり写真で紹介するほうが説得力がある。
イラストと文章の両方を負担している磯田氏の能力の限界(どっちも下手ではないんだけど)のため、何となく、息切れしてしまう。
この2巻には、鹿嶋茂、泉麻人、喜国雅彦、内藤陳などMorris.も知っている作家が登場するのだが、全般的に「ヨイショ」が多すぎるのが辛い。


【歌集 日輪】永田紅 ★★☆☆

作者の名は初めて目にしたが、馬場あき子の解説によると、ともに歌人の両親(河野裕子、永田和宏)の間に生まれ、中学生の頃から一部では注目されていたらしい。本書は彼女の第一歌集で、出版当時はまだ学生(修士二年)とのこと。
1988年から2000年までの作品500首ほどが収められている。
巻頭歌でもある

人はみな馴れぬ齢を生きているユリカモメ飛ぶまるき曇天

にちょっと惹かれるものがあったので借りてきたのだが、一通り読み通した感想は、あまり強烈なものではなかった。
引用歌でもわかるとおり、基本的には口語体だが、一部文語体が混じっている。このこと自体は、作者の趣味だろうし、Morris.も以前歌を作ってたとき、それに似たことをやったので、偉そうなことはいえないが、作品として読むときには、ちょっと不自然に思える。
大学に入ってからの作品よりは、後半にまとめられている初期歌篇(中学、高校の作品)の、ナイーブで修辞のない歌のほうがまだ好ましかった。

赤犬があんまり速く走るからからすのえんどう見るひまもない
白地図の作業に使う一色に忘れな草色 ツンドラ気候
いつからが夏だというのではないのだし私の夏は明日からにしよう(中学)
辞書の背の金文字ねむくなつかしいロンドンデリーの聞こえる夜に
街なかのアワダチソウの空き地から昼の花火を見たような午後
夜よりも昼に多くの夢を見る君をうらやむ蝉鳴かぬ夏(高校)

作者は京都大学で理学か静物学を専攻しているらしく、しきりに実験器具や、試薬、解剖の様子などが歌われている。始めのうちはそれも目新しくてよかったのだが、後半には、だんだん五月蝿く思えてきた。
年頃の女性のことだから、男性への淡い思慕や別れなども、多くテーマになっているのだが、何か作品としては消化不良のようでもある。

夕暮れて淡き輪郭 膜という概念の中に人は生まれき
骨格の内に林を育てきつ 自分を説明する人きらい
輪郭がまた痩せていた 水匂う出町柳に君が立ちいる
歩きつつ考えるとき川沿いに回想録の文体をもつ

これら、やや観念的な歌のいくつかが、Morris.の印象に残った。


砂のように眠る】関川夏央 ★★★★

副題「むかし「戦後」という時代があった」とあり、半ば著者をモデルにした小説と、当時のベストセラーを主題にした評論が6編ずつ交互に並べられている。本書は平成5年(1993)に刊行されたが、Morris.が読んだのは4年後に文庫化されたものである。
いやあ、改めて関川の「力量」を認識した。。何でこれ、今まで読んでなかったんだろう。
韓国/朝鮮ものでも、Morris.の指針となる本を出し、日本漫画史上の金字塔ともなる「漱石の時代」の原作を書き、漫画論でも一家をなし、と、守備範囲の広さと水準の高さには、かねがね敬服していたものの、本書を読んで、すっかり脱帽である。
関川とMorris.は、同じ学年(1949生)である、関心を持つ分野も似ているし、青春時代の過ごし方も共通点が多い。
特に本書のような、編年体の叙述では、ほとんど追体験のように思えてしまう。単に同じ時代に同じ年齢で同じ空気を吸っていたというだけで、あたかも自分の分身が語っているような気持ちにさせられてしまう。そんなところから、逆に関川を過小評価していたのかもしれない。
とりあげられた6冊の時代を映すベストセラーのラインアップは

1.「山びこ学校」無着成恭 昭和26年(1951)
2.「青い山脈」石坂洋次郎 昭和22年(1457)
3.「にあんちゃん」安本末子 昭和33年(1958)
4.「何でも見てやろう」小田実 昭和36年(1961)
5.「二十歳の原点」高野悦子 昭和46年(1971)
6.「私の履歴書」田中角栄昭和41年(1966)

Morris.は2.と3.しか読んでいないが、6.以外の内容は大体承知している。そのくらい話題になった本ばかりということだろう。
しかし、それぞれの評論は、書評としても秀逸だし、時代批評としても素晴らしい。

現在『何でも見てやろう』という書名は多くのひとびとが記憶していても、実際に読んだものはまれである。いまこそたんねんに読まれ学ばれてしかるべき、1960年代初頭屈指の青春小説、教養小説であり、ナショナリズムとインタナショナリズムの摩擦に関する重要な記録であるのに、現代日本人が自分たちの価値観をかたちづくった戦後時代を検証する努力を怠っているように、やはり誰もがそれをせず、小田実自身もしない。

6編の小説のほうも、それぞれに時代の匂いを色濃く描きだした力作で、評論のつなぎとして当時の雰囲気を醸し出す役割を果たしているが、小説としての出来は言わぬが花かもしれない。

技術の進歩が人間の進歩につながるという楽観こそ、実は戦後最大の誤算だったといえる。貧困は大きく後退し消費生活は著しく豊かになったが、人間の内実はかわらず、社会そのものにも本質的な変化は見られなかった。日本社会は、むかしあったような性格とかたちを温存しつつ全体の生活水準のみ ずりあがり、たとえば、ひとの嫉妬すべき対象がきょうあすの食糧や月ごとの収支から、世襲財産、美貌、血筋など自助努力によっては得がたいものに移っただけだということができる。
誰もが食うに困らず、誰もが意見めいたものを持ちながら自分の存在と仕事の社会的意味を問わずに済み、なにごとに対しても自分の快不快と幸不幸の基準に照らして判断すればこと足りる社会、それが経済成長と消費拡大とを絶対善とした「戦後」時代の到達した高度大衆社会である。無階級にして、ただ嫉妬心の濃淡の差のみが階層をなす、世界史上にもまれなそのような社会は、1970年代なかばには完全に、地域共同体としての「世間」にとってかわったのではないか。
「世間」が消滅しつつあるという不安、刻々と積み上げられる消費物資の豊かさと自分たちの精神の貧しさのアンバランスへの居心地の悪さ、それが1960年代末の青年たちを駆りたて、さらに東西冷戦下の世界には、いわれない貧困と不合理に満ちているという苦い認識が加速剤となって、当時の日本に小規模な価値紊乱期を呼びこんだのだが、この本ではその端境期についての記述を末尾においた。本書で描いたのは1970年代なかばまで、すなわち第一次オイルショックまでである。それ以後についてもおなじ方法で表現したいという希望を、作者はひそかに持っているが、いまだ着手するには至っていない。

後書きの末尾をやや長めに引用したが、関川が、それ以後の時代をとりあげて書いたかどうかは、今のところあまり関心はない。
やはり、本書に描かれた時代こそが、我等フォーティナイナー(1949年生±2,3年)世代のみの人格形成期の記録として価値があるのではないかと言う特権的疑念を押さえきれずにいるからでもある。


黄砂の楽土】佐高信 ★★☆

副題に「石原莞爾と日本人が見た夢」とある。このところ、満州や石原莞爾に関心が湧いてきたので、借りてきたのだが、これが意外なくらいに面白くない。
30章に分かれているのだが、ほとんどが、石原に関する書物の紹介とそれからの引用ばかりで、著者自身の感想は、ほとんどワンパターンの石原批判だった。
後書きによると、本書は朝日新聞の「一冊の本」の連載30回分をまとめたものだそうで、それならそれで、もっとヴァラエティに富んだ、石原莞爾のアウトラインを掴むことができるようなものなら良かったのに、どうも偏向した選択と、視野の狭い論評が、鼻につくばかりで終ってしまった。
石原も佐高も山形県生まれで、佐高は後書きに「郷里(山形県庄内地方)の英雄的存在である石原莞爾の"伝説"を剥ぐ作業を私は続けてきた。」とある。Morris.としては、まずその"伝説"の方を読みたかったのかもしれない。
一番関心のある、建国大学についても、ほとんどけちょんけちょんである。

たとえば中国において建大卒の経歴は強烈なマイナスとなり、「偽満州国的最高学歴出身者」とか「関東軍の手先」とか罵倒され、職を終われたりした。特に文化大革命の時には、虐待や迫害の口実に使われて、自殺する者まで出たのだった。

「北帰行」が建大の寮歌というのは知らなかった。作詞の宇田博は建大生で、建大を去った後、旅順高校を出て、一高、東大に進みTBSに勤務したが、現在歌われていない歌詞に、建大の名が記されている。

建大、一高、旅高
追われ闇を旅ゆく
汲めども尽きぬ悩みの苦盃
嗟嘆 ほすによしなし


玩具草子 おもちゃぞうし】長野まゆみ ★★★

彼女の名前は図書館でよく見かけるので、前から気にはなっていた。どこの図書館に行っても多数がそろっていて、それぞれがちょっと洒落た装丁の薄手なものが多く、タイトルもレトロだったり、幻想的だったり、挿絵入りの作品も多い。
なぜか、Morris.はそれらを読むのがためらわれたまま、今日まで、一冊も読まずにいた。
本書は、表紙にあしらわれた、古びた配色の犬と時計の明治時代のプリント布地に気を惹かれ、中にも多数のそれらの図版が載せられているのにつられて借りて来た。
玩具といっても、やや時代がかりの、昔の少女御用達のこまごましたものたちをテーマにしたコラムが中心である。万華鏡、世界こけし、雛人形、金魚玉、木の葉石、裁縫箱、釦、千代紙、セロファン紙 etc.
選ばれた小物も、文体もやけに和風だと思ったら、本書の原型は、95年ごろ、生花小笠原流の雑誌「挿花」に連載されたもので、それにいくらかの書下ろしを加えたものらしい。
文章自体は、Morris.が敬遠していたのは正解だったと思えるタイプのものだったが、下手ではない。いや、語彙は豊富だし、主題に即した雰囲気を醸し出す手際はなかなかのもの。

凍解の水も温み、桃や蘇枋の咲き初めるそんな季節が、寒がりの私にはことのほかうれしく、毎年、桃の節句の訪れを心待ちにしている。一年に一度だけお目見えする雛は、いまだに昔のままの心を薫らせ、清々とした姿を保っている。記憶にない初節句のころから、はや幾十年。粗忽な私が、よく毀さずに持ちこたえたものだ。そのあいだに、行事の習いもうすれた。菱餅を買い求めることすらむずかしく、しばらく供えていない。鯛や、狗、赤子をあしらった金米糖も、手にはいる舗は消えてしまった。(雛祭 )

「凍解-いてどけ」などという、風雅な単語から始まり、「蘇枋」「毀す」「舗」などの漢字の使い方なども、計算されたものなのだろうが、何故かMorris.の苦手とするところだ。まあ、相性がわるいんだろうな。
たっぷり、紹介されている、明治の子供向けプリント地の意匠は、どれもこれも素敵にのびやかで、お茶目で、楽しいものばかり。これだけで充分本書を読んだ甲斐はあるというもの。もちろん点数の★の大部分はこれらに負っている。


レヴォリューションNo.3】金城一紀 ★★☆☆

「GO」が面白かったので、さっそく借りてきたのだが、そうそう柳の下に泥鰌がいるとは限らないらしく、ちょっと期待はずれだった。
表題作と「ラン、ボーイズ、ラン」「異教徒たちの踊り」の3篇が収められている。登場人物も舞台もほぼ同じで、連作ということになるだろう。
落ちこぼれ高校の悪ガキ集団(ザ・ゾンビーズ)が、お嬢様女子高の文化祭突入作戦に全力を傾けたり、病死した友人の墓参のためバイトして沖縄に行こうとしたり、ストーカーに襲われる女子大生のボディーガードをしたりという、あまりぱっとしない目的のために青春の有り余るエネルギーを浪費する物語である。
主人公のほかに、滅法喧嘩の強い在日朝鮮人、フィリピン混血の色男、厄病神みたいに引きの弱い男、哲学者じみた男など、けっこうあくの強い登場人物が多くて、それぞれをもうちょっと活躍させたら面白くなりそうなのに、どれも中途半端に終ってしまっている。


蕭々館日録】久世光彦 ★★★☆☆

大正から昭和に移る時期、小島政二郎(蕭々)の館に集まる文士、編集者たちの言動を、小島の5歳の娘麗子が描写するという形式で綴られている。
主人公は九鬼(芥川龍之介)と麗子の二人といってもいいだろう。大人と子供という関係を飛び越えた二人の交感が重要なテーマになっている。
登場する文士は、菊池寛、川端康成、岡本かのこ、横光利一広津和郎、泉鏡花、などだが、登場人物たちが、他の文士の噂話で持ち切りだし、漱石、?外、一葉、露伴などの名作の引用が多くて、最近流行りの日本語の名文見本帳のようにも見えてくる。
身心ともに病み疲れながらも、蕭々館を訪れるたびに、皆の注目を集め、不在の時も皆の関心を壟断する芥川の存在の大きさ、麗子の印象批評などから、一種の芥川論ともいえるだろう。
そして、著者が一番描きたかったのは、大正時代の文化の空気といったものだろう。
好きな、歌謡曲や、詩歌をネタにした一連のエッセイを発表していることの続きで、好きな小説の棚卸を試みたともいえるだろう。ともかくも、本書は久世作品の最高峰になるのではないか、と思わせるくらいリキが入っている。
ただ、Morris.は彼の文体に、生理的反発を感じるもので、評点は厳しくなってしまう。
蒲池(菊池寛)が、芥川と谷崎の論争に関して吐くせりふ

「作家というものは、いつも嫉妬しているのです。むろん、褒めもすれば尊敬もする。けれど正直な話、九割は誰かに嫉妬しているのです。相手が[麒麟]と書けば、こっちは[獏]と書きたくなる。けれどそれでは面子がたたないから、我慢する。我慢も過ぎれば体に悪い。だから理知派で通る九鬼でさえ、ちっとは絡んでみたくもなるのです。それなら九鬼だけが嫉妬していて、谷崎さんの方はどうかというと、彼は彼で、もしかしたら九鬼の倍ほど九鬼に嫉妬しているのです。たとえば谷崎さんには、九鬼の、あの典雅な書院造りのような文章は書けない。竹林を走って過ぎた時雨の後の、竹の葉に差す薄い日の光にホッと息を漏らすこともできない。谷崎さんは心乱れ、みだれたままに『神と人との間』を書き、九鬼の冷たい横顔を思い浮かべながら『痴人の愛』を書く。もし谷崎さんがいなかったら「或日の」九鬼はいなかっただろうし、九鬼が現れなかったら、今日の谷崎さんは[筋のない小説]を書いていたかもしれません」

という部分などは、小説の中ならではの、小説論である。


日本の町】丸谷才一、山崎正和 ★★★☆☆

昭和55年(1980)から62年にわたり、数種の雑誌に掲載された、二人の対談8篇を集めたものである。
とりあげられた町と副題は
・金沢---江戸よりも江戸的な
・小樽---「近代的]への郷愁
・宇和島---海のエネルギー
・長崎---エトランジェの坂道
・西宮 芦屋---女たちがつくった町
・弘前---東北的なるもの
・松江---出雲論
・東京---富士の見える町
この中でMorris.が一度でも足を運んだことのないのは弘前だけである。しかし、ちゃんと知ってる町といえば、西宮、芦屋くらいだろう。長崎は、出生地の隣県だったから、10回以上は行ってるが、ほとんどが日帰りだったし、修学旅行コースを回って、チャンポン食って帰るというていたらく。
東京も、10年近く行ってない。小樽と来たら30年ほど前、仕事がらみで札幌に1週間行ったときに半日見物した。その他の町は、仕事で、行ったことがある、というだけだ。
つまり、Morris.は、旅行するタイプではない。最近10年くらいの間に、韓国には20回近く往来したので、Morris.は旅行好きと思われたりしてるらしいが、韓国は例外みたいなものだ。
でも、旅行記を読むのは嫌いではない。本書はユニークな視点から各町を論じているし、小説家と劇作家だけに、筋を心得ていて、うまいものである。
25年近く前の対談だから、現状とはかなり違うと思われる町もあって、小樽の衰退を嘆き、いかにしてこの町が復興するべきかなどと議論しているが、秋本君の話によると、今や小樽は完全に観光地として生まれ変わっているという。そう聞くと、これまた喜ぶべきか、悲しむべきか迷ってしまう。
歴史的故事や、その町出身の作家や学者などの薀蓄もどんどん出てくるし、いい意味での「ヨイショ」もあり、ヨタ話もそこそこ混じってるが、全体的には真面目である。
陣内秀信「東京の空間人類学」という本からの引用だが「江戸の中心は江戸城であると考えるのは間違いであって、むしろ富士山をランドマークにして偏心的にできている町」という捉えかたは面白い。

山崎 長崎に対する幕府の態度は、ちょうど幕府が、いわゆる吉原、その他の悪所に対してとった態度と非常によく似ている。というのは、まず大門を作って外と隔離します。そのかわり、その中は厳しく取り締まるどころか、外にはない自由を与えて、まあ文化の華の咲くような町にする。---
丸谷 九州のほかの町の貧しい律儀な人たちから見ると、あの世界は、羨ましいというより、何か非常に異様な感じのする町だったでしょうね。何ていうのか---一種の軽蔑の対象だったんだろうなあ」
山崎 完全な非日常の世界ですね。
丸谷 そうみてくると、なるほど、悪所理論というのもうまくいく。(笑)

こういった調子である。


ぼくのスミレちゃん】今江祥智・文 宇野亜喜良・絵 ★★☆☆

今江祥智は、現代児童文学では大御所といえるだろう。幼年童話から、少年小説、自伝的小説「ぼんぼん」、歴史小説など、多数の佳作を生み出し、Morris.も一時は、かなり入れ込んだのだが、理論社から全集が出たあたりから、あまり読まなく(読めなく)なった。
本書は、老夫婦の回顧譚で、若い日馬に乗って、プロポーズした少年が、少女と結婚し、馬がいなくなり、その馬を少女が幻想の中で育てていく。そういった、過去と現在が交錯していくなかで、二人の愛が物語られ、描かれている「大人の絵本」である。
少年、少女、馬、絵本ときたら、今江の初期の傑作絵本「あのこ」を思い出さずにはいられない。やはり、今江-宇野のコンビで、Morris.は日本の絵本のベスト10に入る一つだと思っている。これは数回にわたり再発行されたが、Morris.は一番最初のものを持っていて、愛読していたが、いつか友だちの娘にあげてしまったらしく、手元にはない。
しかし目をつぶるとイラストがくっきり浮かんでくるくらい印象に残っている。
あれから数十年を経て、本書を見ると、懐かしさを感じながらも、これは出版しないでおいて欲しかった、という感が強い。宇野亜喜良の絵は、相変わらず素晴らしいし、デザイン的処理も見事だし、少年、少女、馬の美を表現しおおせている。今江の物語も悪い出来ではない。それでも、Morris.は「あのこ」のイメージを、ちょっとだけ壊されたような気がして、切なくなってしまったよ。
今江が1932年生まれ、宇野が1934年だから、そろそろ還暦ということで、老境にさしかかっていることから、こんな作品ができあがったのかもしれないが、爺婆になった少年少女の姿はあまり見たくない。これも、やはり老い始めたMorris.の無駄な抵抗なのだろうか?


余生】北野武 ★★★

ビートたけしは、結構著書も多い。エッセイ、小説、タレント本から詩集まで出している。本書は渋谷陽一のインタヴューをまとめたもので、[死」「愛」「笑い」「テレビ」「映画]の5つのテーマについて北野武が述懐しているわけだが、それぞれに違う撮影者のモノクロ写真が付してあり、これがなかなか渋い。
Morris.はビートたけしのファンではないが、すごい存在だとは思う。
例のフライデー事件の女性(少女というべきか)のことも、実にストレートに話しているし、後輩である明石家さんまへのコメントも単純明快にして、凄みがある。

さんまを見てると、その当時の流れは--今もそうなんだろうけど--こういう人のほうがいいんだろうなって思うよね。創造性はほとんどないと思うんだけど、昔ながらの演者としては最高じゃねえかなあ。与えられたものをどうやってこなすかっていうのは、ほんとうまい。職人さんだよね。俺は設計図描くほうは得意だったけど、職人にはなれなかったなあ。さんまとおんなじ土俵で勝負はできないなあって。ももとその素質もねえし。


三屋清左衛門残日録】藤沢周平 ★★★

52歳で息子又四郎に家督を譲った主人公が、悠悠自適どころか、次々に持ち込まれる相談事や、御家騒動に巻き込まれながらも、時には年を感じ、時にはまだまだ捨てたものでないと思ったりしながら、生きていくさまが、著者一流の筆裁きで綴られている。
舞台は庄内藩をモデルにした東北の藩で、先日読んだ「用心棒日月抄」も同じ藩を舞台としているようだ。
主人公は3年前に妻を亡くした男やもめだが、息子とよく出来た嫁の世話を受ける身分、しかし時々は妻が生きていればと、嘆息したりする。また嫁がせた娘の夫が浮気してるのではないかと心配したり、昔の過ちを後悔したり、財産目当ての縁談をつぶして逆恨みされたり、待合のおかみの力になって、つい一度の関係を持ったり、中風になった友だちを見舞って暗澹とした気分になったり、およそ、現代の人間にも起こりそうな事件ばかりである。
前にも書いたが、藤沢作品は、サラリーマン層に広く受けいられたらしいのも、本書を読むと納得できる。著者自身がそれを意識した部分すらあるような気もする。
しかし、彼の作り出す主人公は、スーパーヒーローではないものの、一本筋の通った気持ちの良さがある。血も涙もある等身大のヒーローということになろうか。
ヒューマニズムと言い切っていいのかどうか、ちょっとためらいはあるものの、そういった部分が、大衆が安心して愛読できたということか。Morris.のように、ややひねくれた読者には、そのまっすぐさが、まぶしいというか、物足りなくも感じられる。
中風になった友人が、壁にすがって歩く練習を始めたのをみての主人公の感想に、藤沢ヒューマニズムの一端をうかがうことができる。

人間はそうあるべきなのだろう。衰えて死がおとずれるそのときは、おのれをそれまで生かしたすべてのものに感謝をささげて生を終ればよい。しかしいよいよ死ぬるそのときまでは、人間はあたえられた命をいとおしみ、力を尽して行き抜かねばならぬ、そのことを平八に教えてもらったと清左衛門は思っていた。


超ビートルズ入門】中山康樹 ★★★☆☆

今さらビートルズ本でもあるまいと思いながら、ちょっと面白そうなので読んでみたら、予想以上に面白かった。
Morris.は、そのまんま「ビートルズ世代」に属するのだが、元来天邪鬼でもあったから、当時は、Rolling Stonesに入れ込んでいた。でも、友人の一木良治が、ビートルズに狂ってて、全てのシングル、LPを買いまくったので、お相伴に与ったMorris.も日本での発売と同時に、ほとんど全てを聴いたことになる。
一木がジョンのファンだったので、Morris.もジョンが一番好きになった。Morris.は、ビートルズに関しては、一木というフィルターを通して見続けてきたようだ。
本書は、ビートルズの現役時代を知らない今の若者に、ビートルズの「正しい聴き方」を指南するという体裁を取っている。14枚のビートルズのアルバムを、聴くべき順番に並べて、聴き所のポイントや、ウラ話などを書いている。
その前に「予習編」として思い切り独断的なビートルズ論を繰り広げていて、その我田引水ぶりが際立っているのだが、結構Morris.が共感できる部分が多かったし、よくぞ、ここまで言ってくれたと拍手したいところさえあった。
ランダムに挙げてみる。

・ジョン・レノンを骨抜き状態にしたのはオノヨーコである
・ラブミードゥは、駄作である
・初期の2枚「プリーズ・プリーズ・ミー」と「ウィズ・ザ・ビートルズ」はライブアルバムである。
・ジョンの最高傑作は「ア・ハード・デイズ・ナイト」である
・ソロ時代のジョンはビートルズ時代を超えていない、つまるところジョンは早熟の天才だった
・ポールの頂点は「アビーロード」
・リンゴのドラムはへたではない、ビートルズサウンドには不可欠である
・「レイン」をきけばリンゴのすごさがわかる
・初心者は「アンソロジー」を聴いてはいけない。これはドキュメントであるから、オリジナルアルバムを聞き込んだ者のみが聴く権利を有する
・「ヘルプ」たんなる名曲集。だからすごい。リンゴの歌は飛ばせ
・ビートルズの[核」を形成する音楽は1.リズム&ブルース、2.ロックンロール、3.ブリル・ビルディング系アメリカン・ポップス(1950年代NYタイムズ/スクエアにあったビルの音楽事務所で、キャロル・キング、ニール・セダカ、バリー・マン、フィル・スペクターなどが、どんどんヒット曲を量産していた)
・「ア・ハード・デイズ・ナイト」は10曲目「今日の誓い」をスキップして聞くべし
・「レット・イット・ビー」はビートルズがフィル・スペクターに、投げ出したアルバム
・「サージャント・ペパーズ」はテーマ・パークである
・100%の完成度を誇る「サージャント・ペパーズ」、100%の崩壊感を描く「ホワイト・アルバム」
・「ホワイト・アルバム」は「アビー・ロード」のために存在する

特に、ジョンとヨーコの関係においては、著者の言うとおり、ヨーコは夾雑物以外の何物でも無かったということは、明白だろう。このところ、何かというとジョンの代理人として表に出てくる小野ヨーコを見るたびにその感を強くする。
マスコミも、彼女に変に及び腰になってて、いかにも「愛と平和」の伝道者というとりあげ方をするが、それと、ジョンの音楽とは、無関係だろう。
本来なら、こんな風に、あるアーチストの作品を、どういう風に聴けなんて物言いは、余計なお世話のはずなのだが、本書からは、そんなおせっかい感を受けなかった。
ビートルズが自分には必要なものだ、と言いながら、神聖視せず、生身で対象に体当たりしているからだろうか。
本書の著者が 「スイングジャーナル青春録 大阪編」 の著者と同一人とは、読み終えるまで気付かなかった。めっちゃ面白かった大阪編の続編(東京編?)を、早く読みたいぞ。


GO】金城一紀 ★★★☆

在日の若い作家の、自伝的小説である。朝鮮学校から日本の高校に進学する時の軋轢、高校での差別を力で跳ね返すやり方、桜井というハイソな日本人女性桜井との恋、親友の呆気ない刺殺、元ランキングボクサーだった父への愛憎、在日による在日を主題にした小説には良く出てくる素材が詰まっているのは確かだが、本書は、あくまでからりと描かれていて、とても面白かった。
朝鮮籍だった父が、韓国籍に変えようとするところから小説は始まるが、その部分で、在日朝鮮/韓国人の状況を実にわかりやすく開陳しているし、朝鮮学校の空気まで感じさせる描写も決まっている。
学識派の親友が誤解から、日本人学生に刺されて死ぬ場面は唐突過ぎるが、主人公も腕力だけではなく、読書、音楽、映画と文化面でも一家言を持っている。
親友や桜井との付き合いの中で、おびただしい、小説、音楽、映画、美術の作品名が披露されて、一種の教養小説として読めなくも無いほどだ。
ミトコンドリアDNAで人間のルーツがわかるとか、人類の祖先はアフリカの一人の女性であるといった説の受け売りみたいなところは余分かな。
主人公がかっこよく書かれすぎてるところがあるが、在日の若い作品としては、出色のものだ。「私的プロバガンダ小説」という言葉が思い浮かんだ。作品を貶める意味ではなく、そうあってかまわないという肯定的な決め付けである。
これはたしか映画化されたと思う。


【ビジネス・ナンセンス事典】中島らも ★★★☆

90年にリクルート社から出された本で、多分その前に同社の雑誌に連載されてたのではないだろうか。どっちにしても10年以上前のコラムなんて、旬を過ぎているどころか、たいてい腐ってるはずなのに、なぜか本書は面白く読み通した。
100個ほどのキーワードを3ページのコラムにまとめ五十音順に並べたもので、同時期に出た「しりとりえっせい」と同工異曲なものだ。たぶん、Morris.は、当時どちらも読んだような気がする。
それを今さら借り出して再読したのは、立ち読みしていて、ちょっと引っかかる部分があったからだ。
「それは温情主義」の項で、著者のスタンスは、もちろんその言葉を、シニカルに捉えて、茶化すのが目的なのだが、温情主義を人格者とみた場合、そんな人はそうそういるわけが無く、ただ一見そう見える人が多いのは、「人格者もどき」ともいうべき人々が多いのだと、枕をふって、彼らのタイプを箇条書きしている。

1.人に憎まれて危害を加えられるのはいやなので、とにかくいつも笑っている。
2.自分に自信がないから,人を叱るということができないで、とりあえず笑って対応する。
3.他人のことなどどうなろうと知ったことではないので笑ってすませられる。
4.そういう宗教にはいっている。
5.ハッパを吸っている。
このジンカクシャモドキをホンモノと錯覚して頼りにしたり、本心を打ちあけたり、愛を捧げてしまったりするとエライ目にあう。本人はただただ自分が可愛いだけの、優柔不断で非力なにんげんだからだ。

何でこれがMorris.の琴線に触れたのかというと、これって多分にMorris.の戯画ではないかと思ったからだ。4.と5.は措くとして(^_^;)
その他「薀蓄」の項で「講釈たれで博覧強記ではあるが、知識は断片的なデータの受け取りだ。体系的に物を勉強した人間のような底力はない」というのも、Morris.のことみたいでもある。
中島らも自身にもそういう傾向があるのかも知れないし、「同病相憐れむ」で、意外とMorris.は彼と似ているのではないだろうか。
本書のカットはひさうちみちおで、これがまた実にいい味を出している。


フルーツの夜】本橋信宏 ★★☆☆

未知の作家の連作短編集で、中に「北朝鮮人民夜想曲」というのがあって、つい借りてきた。1956年生まれの作者自身をもモデルにした、現代版私小説といった趣。一時鬱病に陥り、睡眠薬中毒になりかけたライターである主人公が、20年ぶりに出所してきた左翼の大物、仲間のAV監督、女優スカウト、高校の同窓生などをネタに、ライター本来の仕事に戻ろうとしながら、それぞれの人生模様を物語ろうとしているもので、残念ながらそれほどMorris.には面白いものではなかった。
特に最後のタイトル作は、42歳で結婚して初めての男児を授かる話で、友人の映像業者に家族のビデオを撮影してもらったり、その友人が死んだり、たぶんこれも、事実に基づいている話なのだろうが、面白くも何ともなかった。
お目当ての北朝鮮関係の作も、友人と観光ツアーに参加した話で、ルートである少年少女の技芸を鑑賞するあたりにちょっと興味をそそられたくらいで期待はずれの感は否めない。


坊ちゃん忍者幕末見聞録】奥泉光 ★★

奥泉は現在Morris.の一番好きな作家だから、大いに期待して読んだのだが、完全に肩透かしをくってしまった。
タイトルからも、冒頭の文からしても、漱石の[坊ちゃん」を下敷にしたものだろうから、傑作「吾輩は猫である殺人事件」と同様な作品だと期待して読んだのだが、その期待は裏切られた。
幕末に東北の藩から京都に出てきた主人公と幼友達が、尊皇攘夷、新撰組などで大揺れの情勢に巻き込まれる。沖田総司や坂本龍馬も出てくるが、肝腎の主人公がいまいち魅力に欠けている。
文体だけは、ぼっちゃん風だったりするのだが、ストーリーがあまりにも場当たり主義だし、特に後半、現代と幕末がタイムスリップで交錯する部分などは、ほとんど小説として破綻の態をなしている。
奥泉ほどの作家がこの体たらくに至ったのは、これが、讀賣新聞に連載されたことが大きな原因なのではないかと思う。

年少の頃より『坊ちゃん』を愛読してきた私が、その面白さを自らの手で再現したいとの欲望を出発点にして書いた作品であるのは間違いない。むろん出来あがったものは、あらゆる点で漱石の名作とは異なるが、読者の皆様に楽しんで頂けたら幸いである。

と、後書きに、いいわけめいたことが書かれているが、これは、奥泉の失敗作だと断定したい。


鉄輪】藤原新也 ★★★

「かんなわ」と読む。地名である。大分県別府のすぐ北方にある温泉の名だ。生まれ育った門司の旅館が倒産したあと、藤原少年が移り住んだのがこの地だった。
本書は彼の自伝小説と銘打ってあるが、見開きごとに、カラー写真と、タイトルを付した短文を交互に配した、写真絵本みたいなもので、全体で120ページほどだから、文章量は少ない。
2000年1月から6月まで毎月配本された「藤原新也の現在」の一冊で、シリーズ6冊の内訳は写真集や自伝、エッセイなどとりどりだが、これだけを一気に出すというエネルギーには感心する。
もちろん本書は、数十年後の追体験、再構成、創作でもあるのだが、やはり藤原少年の目の記憶が大事に扱われている。小さいエピソードの積み重ねから、土地と時代が幻のように浮かび上がってくる。
文章も悪くないが、やはり写真がすばらしい。紙質がMorris.好みのザラ紙というのがさらにすばらしい。しかし、このくらい写真が撮れればいいだろうなあ。

美術の教科書のシャルダンの静物に惹かれ、その模写をはじめ、マチェールを出すために溶き油を作ろうとして、油と水をアルコールランプで煮詰めて事故を起こす。

ランプの火勢をいくぶん強めたとき、水が沸騰し爆発が起こった。油は部屋中に飛び散り、私は火傷を負った。誰にも言わず急いで鏡に自分の顔を映してみた。私はそのとき鉄輪に移ってはじめて自分の顔をまじまじと眺めた。顔に油飛沫を飛び散らせた少年のまなざしには、まだ何ものも手にしていない者の不安の色と、底無しの自由とが同居しているように見えた。(「鏡」より)

Morris.も佐賀県の温泉町に生まれ、生家はやはり温泉旅館で、小学生時代に家業が傾き、高校時に完全に破産したという、藤原少年といささか類似した状況におかれていたのだが、その対処方や、したたかさにおいてはあまりにもかけ離れていたんだな、と、今さらながら思わざるをえない。どちらがいいとか悪いの問題ではないけどね(^_^;)
●肥前なる生家湯の町「小桜」の屋号の宿も灰燼に帰す ( 歌集『櫻-はな』 )


サキエル氏のパスポート】石黒健治 ★★★

第二次大戦末期4千人のユダヤ人に通過パスポートを出した杉原千畝のことがTVドキュメントを機に話題を呼んだが、杉原以外にも同様の行為を行った外交官がいたらしいという情報を得た著者が、TVプロダクションの仕事として、事実を追って行くうちに、満州国と日本政府ぐるみでの隠された事実が明らかになる。
資料館、図書館での調査、多くの証人インタビュー、数回にわたるアメリカ調査を行いながら、次々に明らかになる新事実をドキュメンタリーにまとめたもの。
ユダヤ人逃亡、建国、にまつわる戦前戦中のユダヤ工作エピソードと、日米開戦前の情報戦、満州国の推移など、時期もエピソードもあちこちとびとびになったり、まとまりのない部分が多い。
しかし、一時は満州か支那の一部にユダヤ人の建国をというプランまで出たとか、結果的に日本政府はユダヤ人を利用しようとして利用されたとか、杉原とそれ以外のビザ給付もヒューマニズムというより多分に政策的、あるいは混乱を避けるための成り行きで便宜的なものだったとか、興味深い事実をいろいろ知ることが出来た。
参考文献に「虹色のトロツキー」が挙げられていたのは嬉しかった。実は、件の漫画の影響が、本書を手に取る動機となっていたからだ。


イマドキ現代用語50】南伸坊+朝日新聞学芸部 ★★★☆

98年4月から2000燃画妻で朝日新聞夕刊に連載されたもので、50の用語を、朝日記者が識者のインタビューなどを通じて平易に解説し、それに対する南伸坊のコラムを付した構成。
50の用語のうち
・ほとんど初耳の語「アカウンタビリティー」「クィア」「セレブ」「サバルタン」「ディアスポラ」「エイジング」
・聞いたことはあるがよくわからない語「インフォームド・コンセント」「ガイドライン」「ひきこもり」
くらいで、後はまあ、だいたい知ってるつもりの語だったのだが、いざ読んでみると、けっこう意味を取り違えたり、狭い部分しか捉えてなかったりで、思ったよりためになったような気がする。でも、眼目は、やはり伸坊のおとぼけ風で正鵠を射る感想がおもしろかった。
50の語のうち半分は、読む必要もないものだったけど、この手の本では、そのくらいは許容範囲だろう。
「在日」という語に関する伸坊のコラムの一部を引用する。

戦後の日本人は、朝鮮人を「朝鮮の人」と、間にのの字を入れて言い換えをしたのだった。
「なんで朝鮮の人なの?」
と、きかれたことがある。きいたのは「日本の人」だったが、私はそのころ、特に考えもなく、世間並みにその「の」をつかっていたから、虚をつかれた気がした。二十年前のことである。
いまコトバ狩りといって、さまざまなコトバが「言い換え」されている。これには批判もあって、私も大いに同調する者だけれども、かといって言い換えが全く無意味であるとおもっているのでもない。
コトバというのは、そんなに理屈通りのスッキリしたものではない。
たとえば、在日というのは、日本にいる、という意味だ。だから「私は在日日本人だ」といえば、人は屁理屈だといって笑う。
私が「言い換え」にも意味があるというのは、こういう下らない冗談もふくめているのだ。
そんなこと言ってみたところで、イヤな思いをした在日の人の気持ちがわかるわけでは、無論ないけれども「在日」というコトバを、対象化してみることはできる。
そんなワケで私は、朝鮮人だろうが、在日だろうが、在日朝鮮人だろうが、在日コリアンだろうが、なんでもいいじゃないか、とは思わない。次々、色々に言い換えたほうがいいのだと思っている。

なかなか要諦を押さえて、言いたいことは言いいおおせていると思う。Morris.はこれに100%同感ではないものの、彼の言いたいことは充分に理解できる。それなりに達意の文章なのだろう。
「生徒の達人」として、多くの学者、研究家とのおもしろ講義録をものしてる、実績が本書にも生かされていると思う。
各項目ごとのカットも秀逸だし、装丁もこなしている。こうした八方美人(韓国語的意味で)の人といえば、和田誠など、数人が思い浮かぶが、実に羨ましいし、こういう人材は、我々凡人に神様がプレゼントしてくれたお宝ではないかと思ってしまう。


生と死の歳時記】瀬戸内寂聴、齋藤愼爾 ★★★☆☆

二人の共著となっているが、ほとんど齋藤が、選び集めた句を編集し、、瀬戸内のこれまでのエッセイの中からの引用(これも齋藤の選)、齋藤のコメントを加えて、構成された、人間の生死を中心にした選句集という趣の一冊である。
齋藤愼爾は、俳人で深夜叢書を主催し、朝日の文庫版俳句の選集を企画したりして、昨今の俳句ブームの火付け役とも目されているらしいが、確かに、本書でもよくもまあこんな色んなところから見つけ出してきたなと感心するくらい間口広く佳句を集めている。それだけで、本書の価値は定まっている。
約200ほどのキーワードを提示して、それぞれ6句を引用し、それに合わせた二人のコラムを配合するといった按配だから、ざっと1200句くらいが収録されている。生と死にばかりこだわらず、人体や、喜怒哀楽、愛憎解離、花鳥風月、行事、季節の物事広くとりあげながら、つまりは、タイトルに収斂するわけだから、一般の歳時記に比べるとかなり生臭い句が多い。それでも安っぽさや、抹香臭さはあまり感じられないのは、作品の質を選択の基準に据えているからだろう。
齋藤という人をあまり良く知らなかったが、なかなか出来る人であると見た。

・この風の冬の含有率いかに 峯尾文世

・種撒きし手や火を創り火を育て 有馬朗人

・落椿われならば急流へ落つ 鷹羽狩行

・体内も枯山水の微光かな 橋關ホ

・死は畳いちまいのくに天の川 三森鉄治

・わが山河まだ見尽さず花辛夷 相馬還子

・いのちあらば鈎にしておくにかぎる 阿部鬼九男

・凍蝶に待ち針ほどの顔ありき みつはしちかこ

・女若くあやめ切るにも膝まげず 桂信子

・ゆめにみし人のおとろへ芙蓉咲く 久保田万太郎

・雁がねや残るものみな美しき 石田波郷

・とほのくは愛のみならず夕蛍 鈴木真砂女

・虹二重神も恋愛したまヘリ 津田清子

・あひみての後を逆さのかいつぶり 柿本多映

・乳房みな涙のかたち葛の花 中嶋秀子

・世をいとふ心薊を愛すかな 正岡子規

・溺愛のもの皆無なり冬座敷 佐藤朋子

・菖蒲園この世あの世の人歩む 秋澤猛

・後の世に逢はば二本の氷柱かな 大木あまり

・忘年の女が鬼となる遊び 原裕

・一期は夢一会はうつつ旅はじめ 石寒太

・みちをしへいくたび逢はば旅はてん 高橋睦郎

・金亀子擲つ闇の深さかな 高浜虚子

・白粉花や月の出端は闇に似て 長谷川草々

・風立ちて月光の坂ひらひらす 大野林火

・秋灯し机の上の幾山河 吉屋信子

・秋の雲立志伝みな家を捨つ 上田五千石

・皆行方不明の春に我は在り 永田耕衣

・天の川死につつ渡る役者かな 摂津幸彦

・月光にいのち死にゆくひとゝ寝る 橋本多佳子

・黴の世や言葉もっとも黴びやすく 片山由美子

・音楽を降らしめよ夥しき蝶に 藤田湘子

・瞳に古典紺々と降る牡丹雪 冨澤赤黄男

・わが死後の植物図鑑きっと雨 大西泰世

・老子霞み牛霞み流沙霞みけり 幸田露伴

・老いながら椿となって踊りけり 三橋鷹女

・手毬唄かなしきことをうつくしく 高浜虚子

・蛍火や明治の夜は暗かりし 渋沢渋亭

・日本にひらかなの美や星祭 大橋敦子

・金魚売病める金魚を捨ててゆく 塩川雄三

・絶滅のかの狼を連れ歩く 三橋敏雄

・芽はこころの最も暗き部分かな 河原枇杷男

・花びらやいまはの息のあるごとし 長谷川櫂

・苔の花踏むまじく人恋ひ居たり 中村汀女

・水鳥のあさきゆみし声こぼす 青柳志解樹

・人殺す我かも知らず飛ぶ蛍 前田普羅

・花に花ふれぬ二つの句を考へ 加藤郁乎

・一度死ぬふたたび桔梗となるために 中村苑子

・桃のなか別の昔が夕焼けて 中村苑子

・菜の花に少年海を好みけり 五所平之助

・二十の恋五十の恋や花大根 石塚友二

・薔薇よりも淋しき色にマッチの焔 金子兜太

・合歓の花沖には紺の潮流る 澤木欣一

・銀漢やどこか濡れたる合歓の闇 加藤楸邨

・一蝶を放ちて蓮華浄土かな 富安風生

・紅葉して桜は暗き樹となりぬ 福永耕二

・木犀の金の着崩れはじまりぬ 加倉井秋を

・萩咲くやかしこの山も歌枕 石橋秀野

・枯れすすき海はこれより雲の色 平畑静塔

・狂死てふ死に方もあり曼珠沙華 能村登四郎

・鰭酒や鬼籍となりしひとのこと 瀬戸内寂聴

・いちまいの蒲団の裏の枯野かな 齋藤愼爾

1冊の選集から、さらに孫引きして60句以上というのは多すぎるかもしれないが、それだけ好みに適う句が多かったということになる。以前から親しんでいる既知の句も百句以上はあったが、これは省いている。


曲者天国】中野翠 ★★☆☆

山中貞雄、嵐寛寿郎、杉浦茂、松本かつぢ、古川緑波、式場隆三郎、斎藤達雄、清水宏、森雅之、桑野通子の10人をネタにした「好きな人コラム」で、往年の監督俳優が多い中、二人の漫画家に主に気を惹かれて借りてきたのだが、その二人に関してはMorris.の知らない事はほとんど書かれていなかった。
著者が初めから「あまりしらない」と書いてるのだから、そこに文句をつける気もないし、彼女なりの「発見記」というのが、本書(に限らず大概の人物コラム)の、売りなのだろう。
そういう意味ではミーハー系のノリと、手放しの偏愛ぶりには共感を覚えないでもない。
たとえば杉浦茂の絵について

すべてが丸く丸く、均質な線で描かれたキャラクターたち独特に曲芸的なポーズ。服や背景の壁などにあしらわれた水玉模様、ハート模様、マーガレット模様----。空に浮かぶ雲、街道の松、道ばたの草花のクッキリパッチリした描き方。動きを表わす線やビクビクしたときの冷や汗のマークまで、なんだかたまらなくかわいい。ポップなタッチで古風な講談文化の世界を描くというその混合ぶりも何とも言えず、味わい深い。
ディテールのすべてにポップな愛が宿っている。モダンアートの美が息づいている。
今の私は、この一コマ一コマをまさに舌なめずりするような気持で眺めてしまう。

こんなふうに身も世もあらぬていで子供のように「好き」を露わにしながら、それなりに押さえるところは押さえているようなスタイルが彼女の人気の秘密かもしれない。

松本かつぢに対しては

描線がスッキリ、サッパリ、キッパリしていてすばらしい。動きがある。リズムがある。モダンなのである。明朗なモダン美。ほれぼれ。

これである。なかなかこうは書けないよな、やっぱり。
松本かつぢの「少女趣味」は「おてんばな少女趣味」で、著者はこのおてんば少女趣味が好きなのだと言う。

もう一人映画畑でない人物、式場隆三郎の「二笑亭綺談」を巡る話題は、赤瀬川源平らの再評価で知っていたのだが、当の式場隆三郎自身の多面体的活動が、今ひとつ掴めずにいたので、とっかかりになるかと思ったのだが、これも空振りに終わった。
日本のクラシック映画に関しては門外漢のMorris.ゆえ、あまり知らない事ばかり出てきて、それなりに目新しいとは思いながらも、エピソードとともいえない、記述なので、結局読まなかったのと余り変らないだろう。
名前すら知らなかった、斎藤達雄という、2枚目半の俳優の写真がちょっと印象に残った。何となく聞き覚えがあるような気がしたが、これは能斗也の父である、斉藤辰夫さんと同じ発音だからだと後で気付いた。
そういえば、このところ、斉藤さんや能斗也に会ってない。元気でやってるんだろうか?


ナムジ-大國主-全5巻】安彦良和 ★★★☆

「虹色のトロツキー」2巻目までで、すっかりはまってしまい、サンパルのMANYOで、同じ作者のこの作品を買ってしまったのだが、日本古代史というのは、Morris.の苦手な分野なのだった。

ナムジの一場面 ほんの半世紀以前、日本人は大戦争をやらかした。何百万の日本人が死に、その十数倍の他国人を殺した。その蛮行の背景に古代史に発した選民思想があった、思えば日本の古代史ほど罪深い歴史は世界に例がない。その古代史が実は全然謎なのだ。これは重大な問題だと思わざるをえない。
かつて日本史は神話の熟読から始まった。九九のように二百有余代の皇統を諳んじた。大戦をはさんでのあまりの変わりようだ。その狭間に、たぶん真実の日本古代史は深く沈み込んでいる。古代史はすさまじい両極端に引き裂かれているといってもいい。不幸な、そして危険なほど不毛な状況なのではないか。(第一巻あとがきより)

確かに日本の古代史は、あまりに曖昧模糊としている。邪馬台国のみが派手にとりあげられていたり、古事記、日本書紀の神話は、戦前の皇国史観を忌避するあまり、ほとんどタブー視されていたし、古墳の発掘は天皇陵とみなされて制約が多すぎる。
安彦が取った方法は、古代英雄としては、やや地味目な大国主を主人公にして、古事記の神話を自分なりのフィクションに換骨奪胎する作業だった。

2世紀後半の出雲に流れ着いたナムジ(大国主)が、スサノオの娘と通じ、さまざまの試練を経て、地位を確保する。九州の邪馬台軍を討ちに向かったスサノオはヒミコに絡めとられ、援軍に向かったナムジも捕えられる、幽閉の後、ヒミコの娘と結ばれ、邪馬台軍として、出雲軍に向かう。
安彦は、3巻で物語をまとめるつもりが、結局5巻までふくらんでしまったようだ。「ナムジ」4巻目から、ちょっとそれまでとは勢いが変化しているようだ。
ガンダムの原画を担当した経験もある安彦の画は、達者である。ストーリー構成もしっかりしている。アニメっぽさがところどころに出てきたり、女性の顔が画一的で変化に乏しいが、それでも充分魅力的ではある。
ナムジの続編「神武」5巻も出ているようだが、やはりMorris.は、トロツキーの続きを読みたい。


緋色の時代 上下】船戸与一 ★★★

86年のアフガン戦争戦場で出会った4人のソ連兵士と、秘密警察+諜報局員が、16年後、ウラル地方のエカテリンブルクに集結し、敵味方に分かれて争うことになる。日本の諜報員や、サウジアラビアのイスラム原理主義者なども絡み合う、国際的犯罪ドラマということになるのだろうが、ソヴィエト崩壊後のロシアの無法状態の描写が凄まじい。
「週刊ポスト」1999/05/28号から2001/08/10号に連載されたとあるが、まさにアメリカ同時多発テロ直前に連載終了したことになる。上巻の半ば過ぎに、大型テロを匂わせる原理主義者の発言がある。カレーニン(元KGB局員)とムンギス(イスラム原理主義者)との会話の部分である。

「おもしろいとは思わんか、カレーニン」背なかにムンギスの声が降りかかって来た。「世のなかはまったく」
「何がだね?」
「ソ連邦の侵攻を食い止めるためにアメリカはおれたちアフガーニを使い、用済みになると芥屑のように棄てた。まるで使用後のコンドームみたいにな。そのアフガーニがアフガニスタンの谷間に咲く真っ赤な芥子によって資金を調達し、アメリカに爆弾を仕掛ける。」
「で?」
「社会主義を防衛するためにアフガニスタンで血みどろになって戦いつづけたあんたらアフガンツィは撤退後は存在さえ無視された。そのアフガンツィが芥子を使ってこれからロシア全体をさんざん食い散らかす」
「それがどうしたんだね?」
「歴史の皮肉だとは思わんかね、これは?」
「ちがうね」振りかえって言った。
「どうちがう?」
「これは歴史の必然なんだよ」
ムンギスがふいにげらげらと笑いだした。カレーニンは立ち停まってその表情を眺めつづけた。このアラブ人がこういう笑いかたをするのをはじめて見たからだ。ムンギスが笑いながら言った。
「そのとおりだ。あんたの言うとおり、これは歴史の必然だ。おれたちアフガーニはその必然に則り、唯一神アッラーのために行動を起こす。一、二年後には世界を震撼させるようなでっかいことをやってみせる」

連載時にもこの通り書かれていたとしたら、あまりにタイムリーというか、予知小説めいて見えるが、単行本にする時に多少手を加えたのではないだろうか。(未確認)

昔ロシア小説を読むときにも苦労させられたことだが、本書でも登場人物の大部分を占めるロシア人(さまざまな人種)の名前には悩まされた。そもそもが長い上に、愛称、別称が多い。「主な登場人物一覧表」を何度も見返す必要があった。
そんなややこしいおびただしい登場人物を操って、最後まで引っ張っていく、船戸の力量には感心せざるを得ない。ただ、人物の紹介や、事情説明に重複する表現(ほとんど、コピー&ペースト状態)が頻出するのは鼻白むところ。


日本語と韓国語】大野敏明 ★★☆☆

著者は産経新聞の人で、1998-2000年に同紙夕刊土曜日版に連載されたものをまとめたものだ。特に韓国専門ではなく、10年ほど韓国語を学んだらしい。内容としても、韓国語をネタにした肩のこらないコラムで、読むほうもひまつぶしに読むといったものである。
別に専門家でないから良くないなんてことは言うつもりもないし、話題も多岐にわたり、共通点、相反するところをランダムに挙げたり、韓国/朝鮮の呼称、敬語、諺、誤解しやすい言葉など、要領よくまとめてある。新聞記者らしく、読みやすい文章だ。
しかし、Morris.はやっぱりいいかげん退屈しながら読み終えたことになる。Morris.自身がやはり10年近く韓国語を学習(後半はほとんどさぼったけど)したから、既知のことが大半を占めていた事も一因だろうが、どうも、日本語と韓国語を同根と見る姿勢がどうも鼻についたのかもしれない。
単語の関連を類推するやり方が、時々、あまりにも民間語源説(フォーク・エテモロジー)っぽかったりするのが、みえみえというのが気になった。韓国語の単語や諺の説明するのに、ハングル表記がないというのにも不満が残る。最近は日本の小説でも、ハングル表記が併載される事もあるので、特にそう思ったのかもしれない。
一読、損も得もしない、あるいは、毒にも薬にもならない、そういったタイプの一冊だろう。
本書は文春新書の1冊である。しばらくまえから、書店で、やたら新しい新書が目立つと思っていたのだが、内容的には、このての「毒にも薬にもならない」ものが多いような気がする。手軽さが、内容にまで反映されているのではないか。一時カッパブックス、ワニブックスなどを代表とする、ベストセラー志向やハウトゥもの中心の新書が一世を風靡した。昨今の新しい新書ブーム(^_^;)は、あれの再現なのかもしれない。
文庫の雑誌化に続いて、新書も使い捨て読書傾向に拍車をかけているようだ。などと、偉そうな書き方してしまった(^o^)


スタア】清水義範 ★★★☆☆

30歳の女性タレントのインターネット日記と、地の文を交錯させて、主人公の本音を浮き彫りにしていくというスタイルは、いまどきありふれた手法かも知れないが、本書の場合、そういった形式より、内容がシンプルで、タレントと視聴者の関係性を明快に解き明かしているという点に、小説としてより小論として評価したくなった。
ストーリーとしては、それほど起伏はなく、ちょっと飽きられかけたタレントが、後輩歌手の自殺未遂で悪い噂を立てられたり、同じ傾向のタレントに活躍の場をうばわれそうになったり、イメージチェンジをはかろうかとか、ヌード写真集の話に迷ったりしながら、タレント(スタア)という存在の危うさ、根拠のなさ、そのくせ捨てきれない魅力などをいろいろ考えていくというもので、ミーハー気質のけっこうあるMorris.は、ついつい裏面からスタアの立場をおもんぱかったりできたような気がした。
ライバルタレントの交通事故で、主人公の活動の場が開けそうな雰囲気になったところでの結末というのは、何となく後味の悪さを感じさせるが、これも、作為的なものかもしれない。
清水はとにかく「蕎麦ときしめん」という傑作に瞠目させられていらい、けっこうよく読んでいる。守備範囲が広く、パスティーシュ(文体模写)も達者で、アイデア豊富で、読者へのサービス精神にも富んでいるのだが、どうもムラがありすぎる。たまに彼の作としては毛色の変わったものに好篇があったりする。本書や「春高楼の」などが、その好例といえるだろう。


孤剣】【刺客】【凶刃】藤沢周平 ★★★☆☆

先日読んだ「用心棒日月抄」4部作の、ニ、三、四部である。全集の9巻と10巻に収められている。昭和51年(1976)から平成3年(1991)の15年という長いスパンで、書き継がれているが、最後の「凶刃」だけは、3部から16年後の話で、主人公は北国の藩士にもどり、江戸に来ても用心棒などはやらないのだから、正確には後日譚ということになるだろう。
第一部は、忠臣蔵の裏話仕立てで、用心棒シリーズにするつもりはなかったらしいが、二部、三部では御家騒動がらみで、再三脱藩を装って江戸にのぼり、用心棒を続けながら、藩の機密を記した書状を取り戻したり、藩の隠密組織を助けたり、ハードワークをこなしていく。
忍び組の頭である女との色事もあり、用心棒仲間との連帯もあり、周旋屋とのやりとりもあり、単なる剣豪小説に終わらないところは、一部と同じである。
四部だけは、中年になった主人公が、藩士として、御家の秘密を探り、守っていく中で、用心棒をやってたころの自由さを懐かしんだり、仲間の落剥をつぶさに見ることになったりと、やや回顧的だが、確かに読者を飽きさせずに最後まで引っ張っていく、ストーリー構成と、ディテールの細かい描写と端正な文体は、見事といっていい。
NHKで「腕に覚えあり」というタイトルでドラマ化されたらしいがたしかに、そうしたくなるような筋立て、キャラクタ揃いである。
主人公は剣の腕は抜群だし、命を懸けて藩のために貢献するのだが、その割に藩からの報いは少なく、心の底では不満を抱きながら、結局与えられた情況で我慢していく。まるで、現代の中小企業の勤勉なサラリーマンみたいなところがあって、これがそういった読者層の共感を呼んだだろうということは、想像に難くない。
ひとつだけ気になるのは「腕をこまねく」という表現で「拱く/こまぬく」が正しい。最近は「こまねく」というのも辞書に「こまぬくの転用」という形で掲載されているから、間違いと目くじらを立てることもないのだろうが、これが、やたら頻出するので、そのたびに鼻白んでしまうのは、Morris.の偏屈なのだろうか。
「目をしばたく」「高見の見物」「腕をこまねく」、この3つはMorris.の文体評価では、減点対象となる。


おすず】杉本章子 ★★★

「信太郎人情始末記」と副題にあり、5篇の連作短編が収められている。呉服問屋息子信太郎は、女性関係で勘当を食らい、愛人のつてで河原崎座勘定方の手伝いをしている。タイトルのおすずというのは、信太郎の元許嫁で、彼女が別の男に嫁ぐ直前に、強盗に襲われ自害した事件の真相を追う信太郎は、岡引の手下になっている友人の助けを借りて、犯人を突き止める。
これが初篇で、愛人の亡夫の隠し子出現や、材木問屋と役人の収賄に絡む殺人事件、などに、信太郎は時には自腹を切ってでも情報を集め、事件を解明していく、時代推理小説といえるのだろうが、本書の眼目は、ミステリー的興味にはなく、登場人物たちの人情の機微、市井の営みの描写、そして主人公の二人の女性への愛情模様。
杉本章子は「写楽まぼろし」 を読んで感激し「東京新大橋雨中図」 にすっかりはまったものの、その後はいまいちこれといった作品には当たらないし、寡作なので、ひさしぶりに本書を見つけて、これは、と期待して読んだ割には、物足りなかった。
本書は連作短編とせず、一本の長編にするべきだったような気がする。


昨晩お会いしましょう】田口ランディ ★★

ウェブマガジンに掲載したものや書き下ろしなど5編の短編を集めたもの。すべてsexを主題にしたもの。かなり露骨な書き方をしている割に卑猥さを感じさせないドライな表現は、内田春菊、岡崎京子などのマンガと共通点を持っているようだ。ただ、Morris.の好みではないな。 絵本「転生」 には、すごく感心したのだが、本書ではあの寓意性が影をひそめ、赤裸々風(赤裸々ではない)な文体に鼻白んだ。
彼女はネットコラムニストとして注目され、そこから出版界にデビューしたのだが、さとなおさんも指摘されてたように、ねっと文体の匂いが抜けきれない。
複数の短編の主題に取りあげられているそふとSMの「ソフト」の部分が、彼女の人気の秘密でもあり、限界でもあると、原律子あたりは思うんじゃないだろうか(^_^;)


夢の島】大沢在昌 ★★★

新米カメラマンである主人公が2歳のとき生き別れになった父の死が知らされ、遺品の[夢の島」という油絵を手に入れたことから、周囲に不穏な事件が頻発する。どうやら東北地方の日本海にある無人島に広壮な大麻畑があり、それを巡って、やくざや密売組織の抗争があっているらしい。
その島の大麻は、70年代に、主人公の父が男女の友人と3人のコミューンを維持するために始めたもので、女性は今は有名な作詞家となりプロダクションを経営している。主人公は彼女の助けを借りて、島の大麻を焼き尽くしに行くのだが、そこにはやくざたちがいて、闘争が繰り広げられる。
そもそも今の日本で、無人島にマリファナ畑が手付かずで残っているという設定からして無理があるし、主人公の行動も理解しがたい部分が多いが、Morris.は、冒頭から、本書は「大人の童話」だと直感して読みつづけたので、さほど抵抗無く最後まで読みとおした。
主人公と恋人とゲイの友人との三角関係?が、往年の夢の島のコミューンに投影されていたり、事件絡みで依頼されたカメラマンの仕事のこともそれらしく描きこんであって、なかなか頑張ってることがうかがえる。
大沢は「新宿鮫」シリーズが好きで、つられて他のものも読むのだが、それほどがっかりさせられることはないかわりに、瞠目させられることもない。
98年に「小説推理」に連載された作品だが、ちょうど携帯電話が定着し始めた時期なので、主人公が始めて携帯を使う場面や、島の地域によって使えたり使えなかったりするなどがことさらに強調されたりしている。すでに、携帯電話が日常のものになり始めた時期の作品という事になる。


【Windows 終了するのにスタートとはこれいかに?】藤田英時 ★★☆☆☆

「ふつうの言葉「新解釈」でウィンドウズを理解する」と副題にある。Morris.も以前からコンピュータの世界での、わけのわからないカタカナ用語の氾濫には、業を煮やしていただけに、もしかしたら画期的な内容の本ではないかと、手に取ったのだが、結果は満足すべきものとは言いがたかったが、それなりに触発されるところはあった。
ありていに言えば、新書版の本書は、いわゆるウィンドウズ入門の一つで、切り口が用語の言い替えというところが、ちょっと新趣向であるということになるだろう。
内容的にはそれほど際立ったものではないが、その新解釈の努力は認めよう。
タイトルに掲げてあるスタートボタンは「操作開始」と訳して、「終了作業を開始する」ボタンでもあるということで、いちおうの整合性に持ち込んでいる。MSがWIN95の発売に際して2億ドルの広告費をかけてキャンペーンを行った時、ストーンズの「スタートミーアップ」を流して、スタートボタンのわかりやすさの宣伝に努めたというこぼれ話は知らなかった。
CD-ROMを「読むだけディスク」、ハードディスクを「ずっと記憶」、フロッピーディスクを「一枚記憶」などと、舌足らずに訳したり、ダブルクリックを「カチカチ」と擬音で逃げたりと、笑わせるものあれば、デリートキーとバックスペースキーをそれぞれ「右削除キー」、「左削除キー」と意味を明確にする訳にしたりと、玉石混交状態だ。
ウィンドウを「窓」、アイコンを「絵柄」、ドライブを「円盤型記憶装置」というのは(ディスクドライブのことだろう)あまりいただけない。
Shiftキー「入替えキー」、Ctrlキー「特別キー」、Altキー「交代キー」というのは、わかったようで、わからなくなる。
全体にマイクロソフト一辺倒ではないところには好感を覚えた。


はやり唄】小杉天外 ★★

これもセンターの古書展の中から 取りおきしてもらってたものの一冊。昭和5年(1930)発行の改造文庫である。小杉天外といえば、読んだことはないが「魔風恋風」という印象的なタイトルの作品を思い出すくらいだ。
宇都宮郊外にある淫乱の血筋であると噂される素封家での情痴小説ということになるのだろうか、画家である入り婿の浮気と、嫁の確執、東京から来た医学士と嫁との肉欲、ほとんど、これだけの筋である。
面白かったのは、地元の分家で養蚕をやっていてその描写があることと、例によって、ルビのコレクションがいくらか出来た事くらいだろう。
本書には短い序文が付してある。天外の小説論みたいなものだが、いかにもふるっているが、このマニフェストと本書の中身との乖離もなかなかのものと思う。
自然は自然である、善でも無い、悪でも無い、美でも無い、醜でもない、ただ或時代の、或国の、或人が自然の一角を捉へて、勝手に善悪美醜の名をつけるのだ。
小説また、想界の自然である、善悪美醜の孰に対しても、叙す可し、或は叙す可からずと覊絆せらるる理屈は無い、ただ読者をして、読者の官能が自然界の現象に感触するが如く、作中の現象を明瞭に空想せしむればそれで沢山なのだ。
読者の感動すると否とは詩人の関する所で無い、自然は、唯その空想したる物を在のままに写す可きのみである、画家、肖像を描く方に方り、君の鼻高きに過ぐと云て顔に鉋を掛けたら何が出来やうぞ。
詩人また其の空想を描写するに臨んでは、其の間に一毫の私をも加へてはならぬのだ。


続金色夜叉】長田幹彦 ★★☆☆

あの金色夜叉の続編である。といったところで、今どきの若者は知らない方が多いだろう。貫一、お宮の恋物語、熱海の海岸の名台詞「来年の今月今夜のこの月を僕の涙で曇らせてみせる」なんてのも、知ってる方が年寄りの証拠かも知れない。ともかくも、尾崎紅葉の「金色夜叉」は、明治の大ヒット小説で、帝大生間貫一が、寄宿先の娘、お宮と相思相愛になるが、富山という成金に求婚され「ダイヤモンドに目がくらみ」それにお宮が応じたため、怒った貫一が、熱海でお宮を下駄で足げにするという、今なら即婦人団体から糾弾受けるようなことをやって、貫一は、学問も出世も諦めて高利貸しになって、金の夜叉になるという物語だったと思う。Morris.が読んだのは学生時代だから細かいところは忘れてしまった。
「続金色夜叉」表紙 見返し版画 さて、本書だが、続編といっても作者が違っている。名前だけはどこかで見たような気もするのだがよくわからない。ネットで調べたら、明治後期から大正時代の、流行作家で、「祇園小唄」の作詞をしたことで有名な人らしい。
大正7年(1918)春陽堂発行で、文庫本の面積を変えずに縦長にした小型本で、700ページ近いから長編といえなくもない。
本書はあれから7年後、富山の豪邸新築の園遊会の場面から始まる。富山の妻となったお宮が、いまさらながらに貫一のことを思い切れずいて、そのため、身心ともに優れない。富山はそれとなくお宮が、自分に馴染まないのを不満に思い、うすうす貫一のことも疑っている模様。
高利貸しで、かなりの富を築いた貫一は、お宮からの詫びの手紙など貰っても、決して彼女を許そうとしないが、役人崩れの友人に諭され、人倫に外れた高利貸しを止めて、友と北海道で事業を興すこととなる。曽於前後偶然であった、お宮は、富山によって熱海の別荘に幽閉状態になっている。
貫一は、それらを振り切るように北海道網走付近の原野を開拓し始める。製材の機会の買い付けに東京に戻った時も、またお宮とのすれ違いがあり、貫一の心もじょじょに解けてきつつあるのだが、北海道に戻ったら、友人が暴漢に殺されてしまい、すっかり世をはかなんで、自殺を考えたところに、橇に乗ってお宮が飛び込んでくる。今は9年前の相思相愛の二人となり、新しい人生を始める決心をする。
たいがい、こんな筋である。
途中に貫一に懸想する女高利貸しの果敢な誘惑や、貫一が恩義を受けた人の息子が肺炎で死んだり、富山の腰ぎんちゃくになった同窓生、心中するところを貫一に助けられた夫婦など、物語の糸は元祖金色夜叉を元に、いろいろ展開していくのだが、小説としてははっきり言って面白くはないし、展開のいい加減さは、なかなかのものだし、北海道開発の場面が延々と続くし、肝心のお宮の事情や、曲折はほとんど描かれていないのだが、時代が匂ってくるのがとりえといえばとりえだろう。
いちおうこの続編もひっとしたらしく、同年に映画化(白黒サイレント)されたらしい。
この頃の本を読むときの楽しみの一つが、強引なルビを見つけることだ。
たとえば「高利貸」に「アイス」というルビが付されている。これは「高利貸→氷菓子→アイス」というながれなんである(^o^)
実はこの本、例の六甲学生青年センターの古書展に出ていたのを、鹿嶋さんと中野さんが、いくらかMorris.用にと取り置きしてくれた数冊の中の一冊だった。
かなり汚れてはいるが、布装の表紙に描かれている和服姿の女性の絵は、竹久夢二ではないかと思う。見返しの木版画風の植物の意匠も如何にも夢二らしいと思うのだがサインがないのではっきりしないが、どうだろう?


真性活字中毒者読本】小宮山博史、府川充男、小池和夫 ★★★★

いわゆる本好きをやや自嘲的に「活字中毒者」と称する傾向があるが、本書は「真性」の冠は伊達でなく、本当に活字そのものに憑かれた者による日本の活字にまつわるもろもろが扱われている。
副題に「版面公證/活字書体史遊覧」とあり、
「真性活字中毒者」とは? 前書きの一部を引く。

「真性活字中毒者」とは、活字書体ソノモノに中ってしまっている連中、何というか「絶対文字感」の持主のことである。この場合の活字とは、教義の活字、すなわち膠泥活字や木活字、また彫刻や鋳造された金属活字等に限られない。和文のmovable type全般、すなわち写植やディジタル・フォントを含む「広義の活字」のことである。新聞の切れ端から朝毎読を見分けるくらいは朝飯前、築地活版・秀英舎・精興社・三省堂・岩田母型・モトヤ・日本活字工業・錦精社等々、主要な活字の系統は細部に至るまで諳んじている、仮名なら何でも来いで、明朝体の漢字だけを見ても活字の系統をほぼ判断できる。一度アタマのなかに書体のイメージを叩き込んでしまえば、一年や二年くらいはその書体を目にしなくとも、再び同じ書体を用いた資料に出会った瞬間、記憶が一気にフィードバックされてくる----というようなのが、まあ真性活字中毒者の]症状に外ならない。

要するに「活字オタク」ってわけだね。こういう人から見ると、Morris.の活字好きなんて、小学生水準だろう。
本書は、彼ら活字オタクの印刷史研究の派生物とのことで、あちこちに発表されたものの寄せ集めだから、長さも話題も水準も面白さもまちまちである。
面白いのは、抜群に面白い。

1.日本語組版の歴史
2.古書温故知新
3.タイプフェイスとディジタル・フォント
4.明朝体の歴史とデザインを考える
5.神字と新字
6.千字文
7.印刷史研究と電子組版の往復運動
 
の7章で、講演や対談、小論、見本紹介など筆者を替えて並んでいるが、Morris.には、第一章、第四章が特に興味深かった。


杉山平一全詩集 上】 ★★★☆☆

先日「ぜふぃるす」を手に入れてその感想を書いたが、せっかくだから、こちらも、中央図書館で借りてきた。700p近い大冊だが、下巻は、童話や散文が中心なので、この上巻だけで実質的な「全詩集」といえなくも無い。
刊行された4詩集「夜学生」(1943)、「声を限りに」(1967)、「ぜぴゅろす」(1977)、「木の間がくれ」(1987)と、それぞれの拾遺、さらに150pほどの未完詩篇という構成で、詩人としてはかなり寡作ということになろう。
最後の刊行詩集「木の間がくれ」などは、限定八十七部ということだから、彼の詩業の全貌は、本書が出るまではほとんど窺い知る事が出来なかったということになる。
えらそうに言うほど、Morris.がこの詩人の事を知ってるわけでなく、矢谷君からその名を聞いて関心を持ったに過ぎない。
一通り読み終えた感想は、処女詩集より、後期になるほど、いい意味で枯れて良くなってるような気がする。特に寸言に近い短い作品に惹かれるものが多かった。

月へ

いまにきつといい事があるよ

心がおもく沈んでくると
月光に海底のやうな青い夜 私は酒をのむんだ
すると海底に からだはかるく 力はぬけて行く
呼吸(いき)をつめ 月たかく手をさしのべる内に
からだは風船のやうにゆつくり浮んで行つた

楽天家よ
あかるい海原まで もうしばらくだ

わるい事がいつまでも続くもんか

感傷について

その夜 木造洋館とポプラの町神戸を出発した阪神特別急行電車が 左手の窓に脈脈とつらなる漆黒の六甲連峰を従へ 右手の窓に海へ堕ちかゝる血のやうに朱い三日月をひきつれ 滅茶苦茶につゝ走る速度と轟音の真只中に 乗客である私は ひそかに持つたねぢ廻しを取り出し 木ねぢを一本一本はづして行くと
 その電車はゆるゆると核砂糖のやうに崩れはじめた (詩集『夜学生』より)

船出

夜ふけてやつと辿りついた寝床
船のかたちに足をのばして目を閉ぢれば
一日のはら立ちやお金のやりくりが
もうしずかに遠のいてゆきます
ボン ボワイヤージュ
僕の船出を送るかすかな犬の遠吠え

あけがたまたこの港に戻るのはいやですね (詩集『声を限りに』より)

まっしぐらに

まっしぐらに
闇のなかを
パラシュートを負って
墜ちてゆく

もうひらくはずだ
いまか いまか (詩集『ぜぴゅろす』より)

いま

もう おそい
いつも
そう 思った

いまから思うと
おそくはなかったのに

まだ 早い
いつも そう思った

そうして いつも
のりおくれた

大事なのは いまだ
やっと 気がついた
もう おそい

万有引力

私の身体も荷物も強くひっぱってやまない地球の引力こそ 神と呼ばれ イデアと呼ばれるものではないか。この実体なく姿なきものに、ひたすらひかれ あこがれ 我々は統一されるのだ。大建築において、幾千万の石が、そこにひかれて組み合い均衡安定するように。

進歩

人は同時に両側を見ることはできない
右なら右の 片側の景色ばかり見ているので
車がいつのまにか同じ道を 帰っているのに
行きと反対側の景色に接して
前へ 前へ進んでいると 思い込んでいるのだ
生涯の道に於いてもまた (詩集『木の間がくれ』より)

竪琴
歩むにつれて
ハープのような梢をぬって
冬の星がりんりんと鳴る

最後の一発

銃なら最後の一弾を
カメラなら最後の一枚を
つねに残しておくべきだ
その使い方によって
きみは評価される (『木の間がくれ』拾遺)
 

白と黒

太陽は 雪を溶かしますが、闇も溶かしますよ。

人は、目をとぢて世界は暗いという。人は、目をあけて世界は明るいという。

ドア

ドアを押すとき
出るつもりだった

うしろ手にしめるとき
気づいた
入って行くのだ と

いくたびも出て
それだけ入ったのだ

出たいと思って
いつも 入っていた

辞書
辞書の中に迷いこんで
行きつけないで
よその家へ上りこんで
紅茶をのんで帰ってきた (未完詩篇より)
 


情熱の女流昆虫画家 メーリアン波乱万丈の生涯】中野京子 ★★☆

マリア・シビラ・メーリアン(1647-1717)の名前を初めて知ったのは、80年代半ば頃、荒俣宏の本の中だったと思う。何よりもまずその「花虫図」の異様な美しさと面白さの虜になった。
これを描いたのが18世紀の女性で、それも五十歳を越えてから、南米スリナムに赴き、採集とスケッチしたものをヨーロッパに戻ってから彩色銅版画集として出版したと知って、ますます興味を覚えた。伝記的にもかなり起伏のある一生を送ったみたいだし、その最高作品集「スリナム産昆虫の変態」は、Morris.の幻の書となっていた。
その後断片的に図版を見るたびに、溜息をついていたのだが、91年にやはり、荒俣編著でリブロポートから出た「ファンタスティック12」シリーズ8巻「昆虫の劇場」に、完本が収録された時には嬉しくて、嬉しくて、もちろん即買った。
「昆虫の劇場」は、B5版ハードカバーで画集としてもしっかりした装丁で、Morris.の愛蔵本&愛玩本となっている。メーリアンの他に、エーレト「花蝶珍種図録」、ハリス「オーレリアン」も併載されていて、エーレトの画風も雅やかで味わい深いものだが、メーリアンの前には、顔色を失う。一枚の図の中に、美麗な植物と虫を配合する方法は、前例のないことでもないが、メーリアンは、蝶や蛾の一生を、一枚に描き出している。つまり、卵、幼虫、蛹、成虫を同時に描いているのだ。そしてそれが、構図としても不自然でなく、Morris.には見るたびに眩暈に襲われる。
世の中には、虫が嫌いな人種がいることは知っている。だから、万人に向く画集ではないだろう。でも、これほど凄い画集は、無い、と、断言したい。
メーリアンは、子供の頃から、虫に異常な愛情をもっていたらしい。誰もが「虫愛ずる姫君」の話を思い出すだろう。父がドイツの版画家だった事もあって、その才能を遺伝として受け継ぎ、技術の基本も身につける事が出来たというのも彼女の天職を全うするための天の配剤だったに違いない。
やはり版画家の男と結婚したものの、こいつがとんでもないぐうたらで、とうとう彼女は宗教的コミューンに入った兄の元へ逃げ出してしまう。
兄の死後、コミューンが経営していた南米スリナムに渡り、2年間観察とスケッチと採集を行い、帰国後、博物図集の奇跡「スリナム産昆虫の変態」を上梓したことは先に書いたとおりだが、彼女の数奇な伝記が出たとなると、これは、読まないわけにはいくまい。
と、いうわけで、えらく長い前置きになったが、2002年に出されたばかりの本書を、期待して読んだのだった。
だが、 読後感は、はっきり言ってちょっとがっかりであった。
たしかにメーリアンの一生というものを俯瞰して知ることはできた。家族や暮らし、技術の習得、コミューンから南米へ行った経緯などもわかったし、簡単ながら年譜も付してあるから彼女の一生を総覧することもできた。
それでも、物足りないと思った第一原因は、図版があまりに貧弱ということだった。例の「昆虫の劇場」より一回り小さいA5版だし、伝記という読本なのだから図版はおまけだとしても、これでは、本書によって始めてメーリアンに接する読者が、過小評価するのではないかと怖れざるを得ない。
本文中に挟まれているモノクロ図版はまだ許せるのだ。読者もそういう視点で見るだろうし、想像力を喚起するだけの力はある。困るのは冒頭4ページの光沢アート紙のカラー図版で、リブロポート版と比べても、あまりに貧弱過ぎる。
表紙のバナナの花はまだましだが、これもレイアウトとレタリングの拙さが足を引っ張っている。
贔屓の引き倒しではないのだが、傾倒している作家や作品を、紹介する本が、読者にマイナスイメージを与えるのにはがまんできないのだ。
著者がメーリアンに関心を持ったきっかけは「数年前ある雑誌にドイツマルク紙幣の肖像画に関するエッセイを書くことになり」その中にメーリアンの図があったからだと言う。しかし彼女の文献は日本にはほとんど無かったと前書きにある。
これもMorris.にはちょっと文句をつけたい。先にあげた「昆虫の楽園」は91年に出ているし、それ以前にも荒俣の著作の中に書かれていたことも先に書いたとおりだ。
著者がこの2冊を知らなかったとしたら、あまりに杜撰だし、知っていて無視しているとしたら、失礼だと思う。
本文に関してもいくらか気になる部分がある。たとえば時間軸で、伝記的事実を叙述しながら、文末に断定的未来形を使いすぎる。要するに小説家風に将来のことを暗示的ににおわす筆法のことで、

「これからの5年は、そのための蛹の時となるだろう」「マリア・シビラの住まいが昆虫やら標本やらで埋め尽くされるのもまもなくである」「いや、マリア・シビラ・メーリアンにこんなことは起こらないだろう。---この世で与えられた使命を、全力あげて果たすだろう」

などなど、意味のないもったいぶった口調、ともかく、Morris.の嫌いなタイプの文体だということになるのだろう。
本書一冊より、荒俣の4pの紹介の方がよほど分りやすく、要諦を掴んでいる。
悪口を書くために読んだわけではないのだが、メーリアンと彼女の図像を、多くの人に知ってもらいたいが、それを矮小化することになってはたまらないという、ディレンマに陥ってこんな歯切れの悪い物言いになってしまってるのだろう。
ちなみにMorris.in Wordland のトップにある、マッチラベルの中の蛾の図こそメーリアンの作品そのものである。注意深い読者ならとうに気づいてるだろうが、左右の翅の模様が微妙に違っている。これは、図鑑的理由から、片方(多分右)は、裏側の模様を見せているのだと思う。


石神井書林日録】内堀弘 ★★★

目録専門の古書店石神井書林の店主の日記風エッセイで、最近読んだ「古本屋 月の輪書林」に似てるなと思ったら、お友達関係らしい。著者の専門分野は詩歌句関係で、特に昭和初期のモダニズム、北園克衡、春山行夫など有名な詩人はもちろん、名前さえ知らないマイナー詩人、雑誌の発行者、画家や運動家などの名前がぞろぞろ出てくる。ちょっとMorris.とは趣味が違うようだし、古書市での本漁りも当然素人向きではないので、あまり面白くなかった。
昭和6年発行の「現代猟奇尖端図鑑」というグラフ本のことに触れてあったのがちょっと懐かしかった。学生時代に買った記憶がある。
内容的に重複する文が多いのもちょっと何だかな、と思う。
石神井書林にしろ月の輪にしろ、テーマを絞っての目録を作り、それが玄人むきで、評判になっているらしい。いわば「見えない古本屋」というわけだが、やはり、Morris.は直接本を見ることのできる古本屋が好きなのだろう。
そういう意味では、ブックオフや、ビデオコミック専門の最近のチェーン展開しているニュースタイルの古本ショップへの著者の嫌悪には、共感を覚える。


用心棒日月抄】藤沢周平 ★★★☆

婚約者の父である上司をよんどころない事情で切り捨てて浪人になった主人公が、江戸に出て、国元からの刺客に狙わる境遇の中で、糊口をひさぐため用心棒などをしながら、赤穂浪士と、吉良家の暗闘に巻き込まれていくという連作短編である。
用心棒の職を世話する周旋屋、妻子もちの浪人の相棒、ひとくせありそうな小唄の女師匠など、脇役もしっかり書き込みながら、忠臣蔵の裏話という、時代小説読者好みの設定を、無理なくストーリーにはめ込んでいて、確かに達者な書き手であると、感心した。
Morris.は、もともと時代小説は得意分野ではないし、筆者の名前も知ってはいても敬遠してきた。これが、最初に読むことになるかもしれない。
10篇の短編は、それぞれ独立しているが、やはりこれは、一つの作品として読みとおすべきものだろう。昭和53年発行とあるから、かなり古い。全集を見たら、このシリーズは後2冊くらいは続編があるようだ。
それくらいは読んでもいいかな、という気になってるくらいには面白かった。
しかし、図書館に並んでいる全集を横目で見ながら、藤沢作品にはまり込むのは、ほどほどにしなくてはと警戒の念を抱いている。


蒲生邸事件】宮部みゆき ★★☆☆☆

この作家も名前だけは知っていながら、初めて読んだ。現代(95年)の受験生が、二二六事件(昭和11年)の現場近くの蒲生大将邸にタイムスリップし、
、大将の自決(殺人?)に巻き込まれる中で、現代史を体験学習しながら、現代に戻り、過去を改めてふりかえるという、よく分らない筋立てだ。
ミステリーとしては、トリックも、殺人事件も大雑把だし、ファンタジー色は薄いし、ロマンスとしても迫力に欠ける(^o^)のだが、とりあえず、最初から最後まで、よどみなく読ませる技量は、さすが最近の「国民小説家」と呼ばれるだけのことはある。のかな?
ジャンルもスタイルも幅広い作家ということらしいので、この1作だけで決め付けるのは早計かも知れないが、軽さと、明解さ、適度なセンチメンタリズムと、ロマンチシズムを適度に併せ持ってるところが、世間に受けいられているのではないだろうか。
しかしこれらの特徴は、そのまま、欠点、物足りなさにもつながりそうな気もする。
タイムトラベルものにつきものの、タイムパラドックスに関しても、新味は無いものの、過去への旅人の優位性をあまり表に出さず、「狡さ」と見るあたりに、彼女の良識みたいなものを感じた。二二六事件などの資料の読み込みや、紹介は、なかなか手際よくやっていると思う。
 


エノケン・ロッパの時代】矢野誠一 ★☆

このところ岩波の出版物をちょっと見直そうかという気になってたのだが、この岩波新書の一冊には、がっかりしてしまった。
いちおう啓蒙書、手引き、覚書みたいな著作のつもりらしいが、あまりにもおざなりな作にしか見えない。いちおう、戦前戦中戦後を通して、エノケン・ロッパの活動状況、主要出演作品、映画、共演者、当時の劇場と、松竹などの動きを、網羅してはある。
しかし、筆者が、エノケンにしろロッパにしろ、いかにも他人行儀なのである。
評伝なら当然、時代や、公演の記録でも、その人物、作品などへの思い入れがあればこそ、読むに価するものが書けるのではないだろうか。本書では、それがほとんど感じられない。
つまり、こんなものを書くことは無かったのだと思う。
エノケンに関しては「エノケンと呼ばれた男」(伊崎博之)、ロッパは自伝と日記からの引用が多すぎる。それらは確かに一級資料だろうが、それぞれを読んだほうが手っ取り早い。
とりあえず、岩波新書の質の低下は相当にひどいことになっているようだ。
 


【「溜める」技術】高千穂彰 ★★★☆☆☆

「情報氾濫時代を軽快に乗り切る」と副題にある。最近良くある、IT時代の知的活用啓蒙書の一つだろうと、あまり期待もせずに借りてきたのだが、Morris.にはとても役に立つ本だと思えた。
内容は明快で、個人情報を活用するためには、データベース構築するという無駄な努力は、はなから諦めて、ハードディスクに大きな「箱」を作り、そこにtxtファイルなり、HTMLファイルなりをどんどん溜めて、検索ソフトを駆使して、活用するというものだ。
検索ソフトとしては、インターネットブーメラン(ジャストシステム)や、WZ Editor(ビレッジセンター)、秀丸(シェアウェア)、MIFES(メガソフト)の「grep」を利用すると書いてあった。
GREPというのは、以前にも何かで読んで、使いたいと思いながらそのままになってた機能である。
秀丸にも入ってるというので、あわてて、ヘルプを見たが、Morris.にはちんぷんかんぷんだった(+_+)
ともかくも、本書の言わんとしている主旨には大いに触発された。
Morris.はMS-DOS時代の「桐」とWindowsの「ACCESS」という二つのデータベースソフトを使おうとしながら、ほとんど使えずにいた過去を持っているだけに、とりあえずファイルを溜め込んで、必要な時には検索で探し出すという方法には、非常に惹かれる。
筆者は日経の記者らしいが、文章も、主張も明解でわかりやすいのだが、タイトル(副題も)をもう少し分りやすいものにしてもらいたかった。

デジタル画像やデジタル映像も結構で、それにももちろん重要な意味がある。しかし、知識の言語表現すら満足に扱えない現実に、少し物足りなさを覚えるのはひっしゃだけだろうか。そこであえてデジタルなパソコンのアナログ的活用を提唱しているのだ。

電子メールとは12時間程度の時差を見込んだメディアだ。リアルタイム・メディアではない。相手の仕事に割り込んで邪魔をするための手段ではない。相手の邪魔をしないのがマナーだ。すぐに返信を期待してはいけない。すぐに連絡が取りたければ電話を使えばよい。特に携帯電話のメール・サービスが始まってから、この点をはっきり理解していない人が増えた。

コンピュータは万能の人工知能ではない。携帯電話やテレビ、オーディオ、自動車などと同じ便利な道具の一種である。思考や執筆、コミュニケーションのツールと考えるのが妥当な位置付けと考えて間違いない。だから、記憶の増幅エンジンの役割を与えたとしても、過剰な依存は避けよう。道具である以上、故障やトラブルと無縁ではない。ただ、データさえきちんとバックアップしておけば、コンピュータ本体を元の状態に戻すのは難しくない。

インターネットが突如として登場した救世主であるかのような熱狂は避けたい。熱狂はすぐに冷める。もっと長い目で便利な「世界図書館」に育て上げよう。みんなが情報の提供者であり、受益者であるような社会のために。

確かにインターネットは経済的活力のインフラとなる可能性を秘めている。エンターテインメントの配布手段になるかもしれない。新しい通信手段であることは自明だ。しかし、だからといってテレビや電話を駆逐するような革命的転換をもたらすものではない。
通信手段がまた一つ増えただけだ。

肝腎のGREP関連部分は、とうとう分らず仕舞いに終わったが、これは必ず近い将来、使えるようにしたい。と、固く心に誓った。(とりあえず現時点ではね(^_^;))


文士の逸品】文・矢島裕紀彦 写真・高橋昌嗣 ★★★☆

物故した小説家、詩人、評論家などの遺品の中から一つを選んで、モノクロ写真とコラムで構成したもの。115人の文士の遺品が取りあげられている。
「文藝春秋」97年7月号から2001年9月号まで50回連載されたと言うことだから、1回に2,3人を掲載したのだろうか。いかにも文春が考えそうな企画ではあるが、アイデアの勝利だと思う。
世に文学館や、文学者の記念館は山ほどあるから、たいていの文士の形見の一つや二つ見つけるのは容易だろう。
現存の作家となると、アポイントメント一つでも制約が多く、金も時間もかかるだろうことは容易に想像がつく。その点この企画は、お手軽と言えばこれくらいお手軽なものはないかもしれない。
前書きにはこう書いてある。

四年前の初夏、いまは亡き文士たちの愛用品を訪ねる旅をはじめた。道連れは、謝意Sんかの高橋昌嗣氏。けっして金銭的価値の多寡を測る「お宝さがし」の旅ではない。世間的にはがらくたでもいい。作家と人生の歩みを共有した強烈な記憶を持つ物が、私たちが追い求める「「逸品」だった。ひとつひとつの遺品を眼前に置き、つぶさに眺めながら、そこにかつての主の体温や眼差し、息づかい、そして胸奥にひそめた思いまでも探ろうとした。

はい、はい、そうでございますか、と肯くしかないが、ありていに言えば、野次馬根性ではないかと思う。そして、あまり根性のないMorris.も、この野次馬根性だけは結構もちあわせているから、つい、どれどれどんなんものかな、と覗きたくなる好企画なのだった。

印象に残ったもの

・高村光太郎の長靴--十三文半(32.5cm)という大きさにまず度肝を抜かれた。
・中勘助の匙--あの名作の素が、そのまま残っていると言う驚き。
・萩原朔太郎のギター--イタリア再高級品「つばめ印」というのが、いかにも。
・幸田露伴の煙管--煙管は小型の携帯用だが、収納袋の相良繍のしぼがすばらしい。
・谷崎潤一郎の長襦袢--背中に雷神の図、三人目の愛妻松子の父から譲られたものとか。
・江戸川乱歩の映写機--十六ミリでも八ミリでもない、9ミリ半というのがなんとも。
・久生十蘭の麻雀牌--象牙の牌も良さそうだが皮製ケースの天蛾の刻印は彼の作品を彷彿とさせる。
・牧野富太郎の胴乱--説明無用。
・大宅壮一のパスポート--計八冊。今の時代のそれとは重みがちがう。
・寺山修司の人形--モデルは大山デブ子なり。
・斎藤茂吉のバケツ--外側に「茂吉山人便器昭和十五年」と書かれてある。晩年持ち歩いたと言ういわくつきの逸品。
・武者小路実圧篤の硯--名品澄泥硯だが、実篤が愛用すること長年にわたり、中央磨り減った挙句穴があいてしまった。

こういう取材の旅ならMorris.もやってみたいものだ。コラムも、写真も悪くはないが、壺井栄の姫鏡台をわざわざ小豆島の海岸まで持ち出したり、宮沢賢治のチェロのガラスケースに星座パネルを写し込むなどの作為が多少鼻についた。


花筐--帝都の詩人たち】久世光彦 ★★★

の思い出の詩を中心に、23章のエッセイとしてまとめたもの。取り上げられた詩人は、北原白秋(「秋の日」「紺屋のおろく」「たんぽぽ」)、三好達治(「乳母車」「おんたまを故山に迎ふ」「花筐」)、西條八十(「空の羊」「お山の大将」「蝶」)、佐藤春夫(「少年の日」「海辺の恋」「秋刀魚の歌」)、伊藤静雄(「水中花」「八月の石にすがりて」「若死」)、津村信夫(「小扇」「千曲川」)、萩原朔太郎(「天上縊死」「猫街」「漂泊者の歌」)、中原中也(「朝の歌」「雪の宵」「含羞」)の8人
で、それぞれ3篇(津村のみ2篇)ずつが選ばれている。タイトルは三好達治の同題の詩集に依る。
四季派の詩人が中心だが、いわゆる研究書ではなく、著者は故意に、従来の定説から離れて自分の思い入れの中にこれらの詩を取り込もうとしているように思える。
達治の「乳母車」の「母」が「天皇(昭和天皇)」の暗喩であるという、ちょっと奇を衒い過ぎた解釈や、中也、小林、泰子の三角関係が、ニーチェ、パウル・クレー、ルー・サロメのそれを下敷きにした小林の演出だったという説などにはちょっと鼻白む気がする。
朔太郎の「天上縊死」が、当時発見されて話題を読んだ「梁塵秘抄」に触発されて、オリジナルを超えたものとしたり、「猫町」が乱歩を介して知ったブラックウッド「いにしえの魔術-Ancient Surerise」の剽窃ではないかという指摘は興味深かった。
総じて、我田引水に流れやすいが、詩を愛玩するには、目で読むより口ずさんで、響きを楽しむという意見には一面の真理があると思った。

ある詩との出逢いは、ある女との出逢いに似ているところがある。しかもその多くは、性悪女との悔いの残る記憶のように、二十年、三十年どころか、半世紀の月日が経っても老いた体内の血をかき乱し、女とのはじめての夜羞恥と殺気とともに蘇り、その日夢想した女の死を願う理不尽な衝動をさえ、私の中に呼び起こすのである。

私小説という日本で一世を風靡したジャンルがあったが、本書は久世の「私詩評論」とでもいうべきもののようだ。


【ホテル・ニュー・ハンプシャー】J.アーヴィング 中野圭二訳 ★★★★☆

取り立てて映画ファンではないが、学生時代から、まあ人並みに映画も見てきた。それが地震を境に、ぷっつりと見なくなったような気がする。だから想い出の映画といえば、70年、80年代が中心となるのだが、好きな映画を一本だけ選べと言われれたら「ホテル・ニュー・ハンプシャー」をあげることになる。
84年ごろの公開で、Morris.は多分封切りではなく、2番館で見たように記憶している。第一印象は熊のスージーをナスターシャ・キンスキーが演じていたことだった。
「テス」でその美貌の虜になっていただけに、彼女が自分を醜いと思い込んでいる役、それも熊のぬいぐるみに閉じこもるということに虚を衝かれて作品全体を見ることができずにいたようだ。
その後民放で流されたものを録画して、何度か見るうちにこの世界にはまってしまった。当時10回くらいは見ただろう。とんでもないストーリー展開、夢想家の父、理想的母親、ホモの兄、奔放で傷つきやすく美しい姉、大きくなれない妹、更に幼い弟、熊使いのユダヤ人、強姦、50年代のアメリカからまるで世紀末の様相を髣髴させるウィーンでの過激派と娼婦の群れ、、爆弾、撲殺、近親相姦、飛び降り自殺、復讐、これでもかと詰め込まれたエピソードとファクターが、最後までその緊張を失わずに夢に収斂されていく、まさにMorris.の映画の理想だと思われた。
原作は81年に書かれ、邦訳は86年だから、読もうと思えば機会はあったはずなのに、なぜか読まずにいたのは、上下2巻というボリュームが原因ではなく、映画の圧倒的完成に今さら付け加えるものはないだろうと思ったから、いや、映画のイメージダウンを避けたかったのだろう。
それでも、これまで読まずにすんだのは、何故か図書館でこの本が開架の棚に見当たらなくなっていたためだと思う。それが、先日中央図書館に行ったら、海外小説の「ア」の棚に、本書を含めて10冊以上のアーヴィング作品が並べられていた。新しい本ではないから、リクエストとか何かの事情で、書庫の本を開架に移したのかもしれない。とにかく、それがきっかけで、とうとうこれを借りて読んでしまった。
さすがにここ数年ビデオは見てなかったので、割と平穏に読みすすめることができた。ほとんど丸一日を費やして、読み終えた感想は、映画を冒涜するものではなかった。小説としても実に面白素晴らしい作品であることは間違いない。
Morris.は、読後、久しぶりにビデオを見た。うーーーん、すごい。あらためて、好きになったよ。そして、映画製作者のテクニックに改めて舌をまいた。
そもそもこういった物語をリアリティを感じさせるように映画化するなんて、不可能ではないかと思う。原作を先に読んでたら、そう思ったに違いない。しかし、現実に映画が先にあり(Morris.にとっては)15年遅れで原作を読んで、不思議な幻覚を見たような気になってしまった。
アーヴィング。初めて作品に接したわけだが、大したもんだ。もっと早く読むべきだったかもしれない。だが、ちょっぴり、後悔してるのも事実ではある。そのことを説明しようとすると長くなりそうだし、今はその気になれない、ということで、Morris.の混乱りだけを伝えたままここで止める。


【詩集 ぜぴゅろす】杉山平一 ★★★☆☆

Morris.には全く未知の詩人だったが、矢谷君が入れ込んでいて、しきりに話題にするので、中央図書館3階にあった大部の全詩集の上巻だけざっと目を通した。下巻は散文中心だったので敬遠したのだった。悪くはないなというくらいの感想だった。
それからしばらくしてメトロ地下の上崎書店で本詩集が千円で出てるのを見つけた。函の背の一部が破損していたが本自体は保存状態が良かったし、買おうかどうか迷ったものの結局買わずに矢谷君に報告だけしておいた。
杉山平一詩集 ぜぴゅろす それからまた1ヶ月以上経ってメトロでこれが店ざらしになってるのを見て、つい買ってしまった。昭和52年(1977)発行で、限定500部となっているからほとんど私家版に近い。見返しには著者のサインもあるし、装丁がなかなか凝っている。本文用紙もいいし、何よりもゆったりとしたレイアウトで、同じ詩でもかなり受ける感じが違ってみえた。やはり詩集は、一冊の本として享受するのが望ましいと改めて思った。
本詩集は1,2部に分かたれ、1部には28篇の短詩、2部には25篇の散文が収められている。散文は、短章から、散文詩、小エッセイまでとりどりだが、杉山作品はあまり形にとらわれていないようだ。
彼の持ち味は、たくまずして滲み出すユーモアと人間愛、感傷に流れすぎない抒情性にあると思う。

星のように

美しいものは つねに
上への思いに支えられて
在る
星のように

ニジンスキイが跳躍すると
一瞬
空中に止まって見えたという

ニジンスキイは二十世紀初頭の伝説的ロシア人ダンサーだが、彼の跳躍は、よほど素晴らしかったらしく、さまざまのところで、さまざまの人が賞賛している。

生きるというのは、隠すということである。
言葉は、隠すためにある。言葉は衣服である。装飾である。お白粉である。
しゃべったり、書いたりするのは、自分がいかに立派であるかを見せるためである。
一生懸命しゃべっている人を見ると、一生懸命なにかを隠そうとしているな、と思う。黙っている人からは、犇々と裸が追ってきて痛々しく切ない。
書くことは自分を隠す喜びである。
嘘は表現のはじまりである。
とにかく、僕は隠す。なにを隠すのか、それがわからない、でも、なにかを隠しつづける。隠すべきなにものもなくなったとき、僕はどうしようかと思う。(「隠す」より)

詩人

黒部の奥の奥に
誰も見たことはないが
声だけきこえる滝がある

天から降りてきて
堪えに堪えたものが
せきを切って
鳴りひゞいている


父の道具箱】ケニー・ケンプ 池央耿訳 ★★☆☆

一アメリカ人の父親の記憶をエッセイ風に描き出したもので、その父親も特に非凡な人物ではないのだが、息子にとっては特別の存在だったことは言うまでも無く、思い入れたっぷりに父の生前のエピソードを綴っている。
原題は「DAD WAS A CARPENTER」とあるが、実際は薬局の事務員で、戦争中は飛行機乗りで、ガレージを作業場として、一生趣味で修理や日曜大工にいそしんでいたということらしい。
Morris.は本文より、18章の短章の扉にある、大工道具の力強い木版画と、格言めいた短文に心惹かれた。

ハンマー 1.青写真 Blueprint--神と取引する時は、用心して、きちんと責任を果たさなくてはいけない。
2.刷毛 Paintbrush--何でも継ぎを当てて繕うこと。とりわけ人間関係にはこれが大切だ。
3.巻尺 Tape Maesure--子供をインディ500に連れて行くより、一緒にゴーカートを組み立てる方がいい。
4.結線 Connection--充実した価値ある時間、クウォリティ・タイムと言うのはまやかしだ。時間はすべてクウォリティ・タイムである。
5.鋸 Saw--木を避けて家を建てられるなら、その木は伐るな。
6.接着剤 Glue--記憶は強靭だ。火事を潜っても生き延びる。
7.ドリルの刃 Bits--物を壊したら自分で直すこと。結果に勝る教師はない。
8.T定規 T Square--子どもたちを教会へやればいいというものではない。親が連れて行くことだ。
9.コンパス Compass--とにかく、求めることだ。何を与えられないとも限らない。
10.下げ振り Plumb Line--敵を愛せと言われても、なかなかむずかしい。だからといって、憎むばかりが能ではない。
11.電源 Power--物事すべて、その目的や存在理由は一つだけではない。人間もまた同じ。
12.鑿 Chisel--いい質問をして、相手の答えにじっくり耳を傾けること。
13.丸鋸 Blade--はじめるに価する仕事は、すべて、完成するだけの価値がある。
14.万力 Clamp--答はきっと目の前にある。
15.墨壺 Chark Line--どんな仕事にも、そのための道具がある。道具はいつも手許に置いておくことだ。
16.釘 Nails--釘を叩いて伸ばす。その行為が結果よりも大切だ。
17.鉋 Plane--家族旅行は親の努め。テーマパークに用はない。
18.ハンマー Hammer--大工になって、値打ちのあるものを作れ。手はじめは自分からだ。

改めて一覧してみると、保守的過ぎたり、宗教的だったりして違和感を覚えるものも混じっているが、確かにこういう言葉を本気で言えるのは、アメリカ人の美質の一つではあるだろう。


博士の異常な発明】清水義範 ★★★

タイトルで想像がつきそうな9篇の短編が収められている。相変わらずアイデアは買うのだが、作品によってムラがありすぎる。
不老不死、透明人間、植物人間、プラスティック捕食菌etc.---たしかに人類の夢といえそうな発明は、もし実現したら、人類を脅かすものが多いのではないかということを、ユーモラスに提示したものとみれば、なかなかにうがった作品とも言える.
本書の中で一つ選ぶなら「半透明人間」だろう。ウェルズの「透明人間」の裏返しだが、たしかにこんな薬ができたら、大変なことになるということはわかる。


ソウル】長谷川康夫 ★★☆☆

同名の映画のノヴェライズらしい。脚本も同人が書いている。別件でソウルに派遣された日本の刑事が、現金強奪事件に巻き込まれ、韓国の警察と衝突しながらも、最後には協力して事件を解決にもっていくという、よくありがちなストーリーだが、それなりにスピード感もあり、人物描写も描き分けられて(マンガ的ではあるが)、語楽小説として楽しめた。いかにも映画の場面らしくなるシチュエーションをわざわざ作っているような部分もあり、韓国警察の部長刑事が、実は、日本人刑事の兄と、以前日本で共同捜査にあたり、兄は殺され、部長刑事は部下を誤射して殺したという因縁があったという、ご都合主義もあった。
ところどころに、ハングルが使われていて、時代の流れを感じさせられた。部長刑事に思いを寄せている通訳の女性警察官が、ヒロインというにはあまりに存在感を出し切れないのも物足りなかった。


【Web デザインマナーブック】エ・ビスコム・テック・ラボ編著 ★★★

ホームページデザインの入門書と、専門書は山ほど出ているわけで、Morris.も入門書はいくらか読んだが、ほとんど同工異曲で代わり映えせず、かといって専門書は歯がたたない。というところで、本書は、ちょうどその中間くらいを狙った水準らしいということで、借りてきたのだが、やっぱり結論から言うと歯が立たなかった(+_+)
書いてある内容は理解できるのだが、自分のサイトに反映しようとすると、お手上げなのである。
タイトルに「マナーブック」とあるように、最近乱造されているホームページのルール無視の横行に一石を投じるという意味合いもあるようだ。
とりあえず本書は、いちおうHTMLタグを自分で打ち込んでホームページを作成している者をターゲットにしているので、Morris.には、敷居が高く感じられるのだろう。
Morris.部屋は、最初から、ネスケに付随しているHTMLエディタ(Netscape Composer)で作成している。最近Ver.4からVer.6に移行したので、それに伴い、エディタもヴァージョンアップしたのだが、これがまた改善とばかりはいえないし、不都合も多々目立つ。
あまり分らないままに増殖を続けてきただけに、現在Morris.部屋にはHTMLファイルで246ページもある。中には2002年の韓国旅行記のように、画像を含めて1ページ3MB近いものまで含まれているし、これら全てを手直しするのは大変そうだ。
いっそ一から構築しなおす方が簡単かも知れない。
どんどん、本書の感想から離れてきたが、HTMLの世界は、まだまだ文法や法則が確立されてない上、ブラウザ提供メーカーの思惑や、新しい技術の登場ネット環境の変化に対応仕切れない面など問題が多すぎるようだ。
本書の中では、主に「フォント」「テキスト」関連記事を熱心に読んだのだが、スタイルシートの勉強が必要なようだ、ということだけが印象に残った。でも、きっと手をつけるにはいたらないんだろうなあ、という、確信に似た予感がある(^_^;)


【詩集『砂の木』】矢谷トモヨシ ★★★

矢谷君の第三詩集である。30ページ足らずの私家版の小冊子で、20篇ほどの詩が収録されている。過去3年を中心にした作らしい。
Morris.はシンガーソングライターの矢谷君の昔からのファンで、好きな曲もたくさんあるのだが、本詩集に収められた作品は、歌うためのものではなく、読まれるためのものだと思う。
全体を貫くテーマは、愛と別離と出発、といってしまえばそれまでだが、それらの感情を生で吐き出さず、しっかり自分の中で発酵させて、言葉による作品として昇華させている。
大袈裟な言葉や、難解な言い回しもせず、素直にわかりやすい言葉だけで、ここまで表現できているのはなかなかのものである。
表紙を始め、本文のあちらこちらに作者自身によるデジタルカメラの画像がモノクロで掲載されていて、これが複写とは思えないくらいいい感じに仕上がっている。
レイアウトは山口さんで、何故かsupecial thanksにMorris.の名前も記されている。これはMorris.が彼のHB「 Singin’Arrow 」を作成していることへの答礼なのだろう。

詩集「砂の木」 砂の木 矢谷智克

すべてのものに
影ができる
砂の上に
のびた影
僕からこぼれた
はなびらが
影の上に咲く

風よ
吹かないで
しばらくは
このまま
花を散らさないで

僕は行く
花を残し
だけど
風よ
影だけは
連れて行くよ (020320)

残部も多くはないようだが、購読希望者は 矢谷君へのメール に問い合わせてみてください。定価\200だから、郵送料込350円くらいで入手できると思う。


灰の男】小杉健治 ★★★☆

東京大空襲によって、運命を狂わせられた複数の人物を中心に戦後、そして現代までの長いスパンの中で、その隠された事実を明らかにして、責任を回避しようとしてほぼ成功したアメリカと、戦時体制に阿った政治家、マスコミの隠蔽工作を弾劾しようという意図のもとに、書かれたジャーナリスティックな小説といえるだろう。
3月10日の東京下町への大空襲が、実は9日のうちに始まり、その手引きをしたのが日本人スパイだったということが、物語の焦点になるのだが、そこに持っていくまでの、人間関係を丁寧に書き込み、戦中戦後の空気や、切羽詰った状況を垣間見せてくれる。さらにその極限状況の中での、愛憎、肉親の絆、学徒出陣、特攻、挺身隊、慰安婦、横流し、保身など、これだけ丹念に拾い上げ、長大なストーリーに纏め上げるというのは、作者の力量を感じさせる。
小杉健治は、裁判や、弁護士、検事など法曹関係の作品が多く、本書でも、正義感の強い弁護士が複数登場する。
しかし本書のメインテーマは、先に書いた通り、東京空襲で亡くなった、膨大な犠牲者への鎮魂、そして無抵抗な庶民への無差別爆撃をなしたアメリカへの怒り、それを誘発した天皇、軍事政府、マスコミへの告発の気持ちが、本書を書かせたにちがいない。
広島、長崎原爆は、慰霊祭が開かれているのに、東京空襲が、忘却の闇に葬られそうになっていたことへの憤懣やるかたない登場人物の言葉は、そのまま作者の思いを代弁しているとおぼしい。

「今の社会の荒廃に対する失望です。政治家をはじめ、新聞・マスコミ、企業家、医師、教師、警察官などあらゆる分野での無責任さです。誰も責任をとろうとせず、自分の損得だけしか考えない。今の世の中は十万人のひとを犠牲にしてまで敗戦後のことを考えていた人間たちがあらゆる分野で指導的立場でいるのです。」

「あの戦争で、有為な若者は戦死し、心ある軍人は自決して行きました。敗戦後、GHQに登用されたのはうまく立ち回ったひとたちです」
和平グループはすでに敗戦必至を知っていた。もちろん軍部につられて一億玉砕に突き進むつもりは毛頭ない。彼らの胸にあったのは、敗戦後の国家再生であった。そのとき、指導的立場に立つことだ。


絵本のあたたかな森】今江祥智 ★★★

内外の絵本40冊の紹介コラムである。半分カラー印刷なのだが、一作品3Pにしたため、レイアウトが変則的になり、ちょっと見づらい。レイアウトに関しては、図版をかなり縮小して余白を多くしてあり、たしかにデザイン的にはすっきりして見えるのだが、一つ一つの図版が小さくなりすぎて、鑑賞に堪えなくなってしまっているということがある。まるでサムネール写真みたいなのだ。
詳しくは原書に当たれということかも知れないが、やっぱり不親切な気がした。
選ばれた40冊のうち既知の本と未知の本が半々くらいで、既知のものも取り立てMorris.好みというわけではないから、今江祥智の好みは、かなりMorris.とは違っていることが知られる。
それでも、やはり絵本には不思議な魅力がある。特に色遣いなんかは、HPのデザインに利用できそうだ。そういえばこの本自体が、何となくウエッブサイトを見ているような気にさせるつくりだ。
今後手にとって見たいと思った作品は、

『急行「北極号」』クリス・ヴァン・オールズバーグ作
『夜に導かれて』スティーブ・ジョンソン & ルー・ファンチャー絵、ロイシン・ダンカンズ文
『ふるびたくま』クレイ・カーミッセル作
『夜くる鳥』味戸ケイコ絵、岩瀬成子文
『河原にできた中世の町』司修絵、網野善彦文

くらいかな。本書より先に「はじまりはじまり」というのがあって、これが絵本100選だから、そちらを先にチェックすべきだったかも知れない。


東洲しゃらくさし】松井今朝子 ★★★☆☆☆

東洲斎写楽ものときくと、ついつい手がでてしまうMorris.だから、謎とき本や、小説など、これまでに20冊以上は読んでると思う。正体不明の写楽が、想像力を刺激されるらしく、写楽別人説も十指に余る。
本書では、上方歌舞伎の道具絵師が江戸に出て、蔦屋の肝いりで心ならずもああいデビューをさせられてしまったのだと、このての本には珍しく、最初から犯人??を登場させて、謎解きより成り行きを読ませる方法をとっている。
上方の脚本家が江戸に下るに当たって、かねて目をつけていた道具絵師を先に江戸にやって、下調べさせるつもりだったのが、はからずも絵師が、他方面で頭角をあらわしてしまう。両人の思惑の食い違いと、江戸歌舞伎界の複雑な仕組みのなかで、脚本家は翻弄されそうになるが、名女形路考(瀬川菊之丞)の後ろ盾で、立ち直る。一方絵師は、自分の描きたい大首絵が役者の反発から描けなくなり、次第に意欲を欠き、最後は姿をくらましてしまう。
筋立ては簡単だし、謎解きとしては新味もないのだが、本書の眼目は、当時の歌舞伎界、出版界の機微を描き出していることだろう。
作者は松竹歌舞伎の企画制作に携わり、「マンガ歌舞伎入門」「ぴあ歌舞伎ワンダーランド」など、若年層への歌舞伎啓蒙書などを出してる人で、流石と思わせるところが多い。
蔦屋重三郎を始め、当時の文人、画人が数多く登場するのも、Morris.が、写楽ものを好む理由の一つだが、本書でも、鶴屋南北、十辺舎一九、太田南畝、歌麿、馬琴、京伝などが、顔を出す。なかでも一九は、絵師の兄弟分として、物語の狂言回しの役まで受け持っている。
もちろん歌舞伎の名優、芝居の勧進元の描写は懇切で、全体を引き締めている。最近久々に、時代の空気を味わえる好篇にまみえる心地がした。
文章もこなれて読みやすいが、面白かったのは、時代色をつけるつもりか、作者の趣味なのか、独特の宛字を施した熟語が頻出することだった。特殊用語も含めてそれらを見ていくこともMorris.の趣味を満足させてくれた。

・怪体(けったい)・暖味(ぬくみ)・脚色(しぐみ)・冗談(てんごう)・達者(まめ)・秋(とき)・臨終(おわり)・恟り(びっくり)・所為(しわざ)・値曳く(ねびく)・下帯(ふんどし)・?(すくも)・与る(あずかる)・破れんばかり(われんばかり)・終る(はねる)・癖(へき)・可惜ら(あったら)・京洛(みやこ)・見える(まみえる)・斉う(ととのう)・質す(ただす)・拵える(あつらえる)・鈍らせる(なまらせる)・吉原(ちょう)・深川(たつみ)・?(きゃん)・入費(かかり)・燗筒(ちろり)・経緯(いきさつ)・制作費(しこみ)・衽(おくみ)・燭剪(しんきり)・泥んで(なずんで)・?し(やつし)・肯する(がえんずる)・飯(まま)・焦れる(じれる)・悄気返る(しょげかえる)・硬ばる(こわばる)・詰る(なじる)・頽れる(くずおれる)・伸るか反るか(のるかそるか)・塞く(せく)・牢屋入り(こんぴらいり)・杳として(ようとして)

とにかくこれだけの語彙を使いこなしてることだけでも端倪すべからず、だ。かなり近世の作に親しんでいる証拠だろう。
こんな著者にして「手をこまねいて」と書いているのは残念に思う。

作中、戯作から足を洗った太田南畝が蔦屋の前に登場するが、回想としてあげらる狂歌のいくつかが懐かしかった。

・いざさらば丸めし雪と身をなして浮世の中を転げ歩かん
・いたずらに過ぐる月日もおもしろし花見てばかり暮らされぬ日は
・世の中はいつも月夜に釜の飯さてまた申し金の欲しさよ


魅惑のフェロモンレコード】みうらじゅん ★★★★

1994年に出た単行本を97年に文庫化したものだが、六甲道駅地下の「ブック・キオスク」の芸能関係の棚の箱にずっと並べておいてあり、Morris.は、ここに寄るたびに、ついつい手にとって立ち読みしては笑っていた。あまりに毎回見てしまうので、これでは変態だと気付いて、とうとう買ってしまった。
「マイ・ブーマー」みうらじゅんがコレクトした、レコードジャケットの大蔵浚えである。ざっと500枚以上のオバカでエロ??なジャケットがずらずらと並んでいて、それぞれに軽妙なコメントが付してある。
圧巻は奥村チヨのジャケット30枚を披露しながら、これはコレクションのほんの一部だと威張ってるところだろう。Morris.は彼女の現役をリアルタイムで体験している(小倉での学生時代に「恋の奴隷」が出た)世代だが、みうらじゅんはMorris.より10歳若いから、当時小学生だったはずだ。たぶん、後になって発掘したのだろうが、病が嵩じて、後に2枚組みベストアルバムをプロデュースしてしまったくらいの熱のいれ様なのだった。
凄い人はいるもんである。
コスチュームといえばセーラー服?? その他のジャケットも、それぞれ自己主張を過剰にしている珠玉品が多すぎて、たしかに、見てるだけでくらくらとしてくる。そこに実にツボを押さえたコメントがスパイスとなってMorris.の笑い袋を刺激する。
たとえば「タイにはハヌマーンという神がいる。サルの顔をした神様である」 というコメントは、それだけ読めば、何てことないものなのだが、これが、北島三郎の[愛の道」のジャケットの下に置かれてしまうと、爆笑するほかなくなってしまう。
「フェロモン顔」というパートに採りあげられた栄えある面々は

東てるみ、武田久美子、中村晃子、畑中葉子、夏木マリ、渚まゆみ、朝丘雪路、カルーセル麻紀、辺見マリ、坂本スミ子、三田悠子、川島なお美、緑魔子、三原順子、たちばな麻紀、杉本美樹、原あつこ、大谷裕子、小林麻美、渥美マリ、フラワー・メグ、アマンダ・レア、ブリジット・バルドー

これでだいたい著者の好みもわかろうというもの。Morris.もおおむね異議なしである。
さらに、乳、尻、脚などの身体各パーツごとのジャケット群があり、夫人、黒下着、セクシーポーズなどのジャンルわけもあるが、コスチュームというジャンルのトップに、柏原芳恵の「春なのに」のジャケットがおいてあった。本書の高得点にかなり貢献していることは間違いないだろう(^o^)
しかし、レコードジャケットって、本当に存在感あったなあ。CDになって、ジャケットは地に落ちたと言い切っていいだろう。
30cmLPのジャケットサイズはタブローとして必要充分な大きさだったし、シングル盤でも、それなりのデザインができるぎりぎりのサイズだったと思う。


遊民爺さんと眠り姫】 小沢章友 ★★★

3年ほど前に読んだシリーズの第三作だと思う。初篇 「遊民爺さん」 と「遊民爺さんパリへ行く」は同時に借りて読んだ。作者が、Morris.と同年生まれの佐賀県出身という共通点にも惹かれて借りたのだが、語り手のぼくは、24歳のコピーライターになっている。作者も同じ職業から作家になったと経歴にあるから、これは作者の若き日の分身だろう、60過ぎの遊民爺さんも、また一つの分身かもしれない。
今回はこの二人と、眠り病(ナルコレプシー)のオペラ歌手志望の少女、過去の果たせなかった恋を抱きつづけるガン患者の常務、などの絡み合いが中心で、ユーモアとペーソスのペーソスが勝ちすぎた感じがする。
作り事のわりに、何故か一生懸命辻褄を合わせようとするところが、また、ちょっと可笑しくてちょっと悲しい。
爺さんが眠り姫を発見した、バーン・ジョーンズ展や、眠り姫が出演するモーツァルトのオペラ「フィガロの結婚」のバルバリーナのカヴァティーナの一節とその薀蓄、文学少年だった常務の愛読書など、ストーリー以外に読ませる部分はあるのだが、Morris.は「ぼく」が郷里の母の台詞を思い出して再現する場面での佐賀弁が懐かしかった。
数年前の社長と2泊3日の温泉旅行を別にすれば、ほとんど20年くらいご無沙汰だもんなあ。

「ねえ、近所の白木さんの息子さんは、N生命保険会社に入って、暮れのボーナスがうんと出たといって、お母さんに三万円もくんさったてよ。よかねえ。渡辺さんところの息子さんは、超一流のS銀行やろう、給料がよかさい。もうお母さんはにこにこして、言いんさるよ。ほんにねえ、銀行さまさま、ありがたかよって---」
Morris.の記憶にある佐賀弁(武雄弁)とは、微妙にニュアンスが違うところがある。一般向けの小説だから、アレンジしたのか、作者は佐賀生まれとあるから、佐賀市の方言と武雄では多少違っていても不思議ではない。


【新版 インターネットを使いこなそう】中村正三郎 ★★★★

岩波ジュニア新書の一冊だ。つまり対象は中学高校生ということになるのだろうが、Morris.にとって必要充分すぎるくらいの内容、水準だった。
作者は「電脳曼荼羅」でMSに噛み付き、掲載された雑誌「ザベ」(だったかな?)がMSの圧力で記事を差し止め、大きな話題になったこともあるし、そもそもMSDOS時代にお世話になったワープロ「松」を作った管理工学のFEP開発プログラマとしても有名だった。
現在はオープンソースを推進するRing Serverプロジェクト代表、大学講師を務める傍ら執筆活動、自サイトで活躍している。
Morris.のPC師匠である稲田さんも彼には絶大な信頼をおいているくらいだから、これまでに彼の著作(一般向け)の大半を読んだが、本書はその性格上、いつもの過激さがないぶん物足りないものの、インターネット全般にわたる平明かつ良識的入門書として、おそらくおびただしい類書の中でも最良の一冊ではないかと憶測する。
内容説明は本人による サポートページ を見てもらったほうが早いかも知れない。
ついでにトップページ 「中村正三郎のホットコーナー」 もブックマークにいれることをお勧めする。
って、これだけでMorris.の書くことは無くなってしまったではないか(^_^;)
屋下に屋を架すことを承知で、印象的な部分を引用しておく。

ネットワークによって小さなものが、柔らかい構造で連携することで、一枚岩の巨大組織を凌駕し、旧来の動きの鈍い巨大なものは流れに取り残されていく。この感覚は、個々の地衣差何コミュニティの充実こそが全体の充実につながると考えるインターネットに、実にフィットする感覚です。こういう価値の転換が肌で感じられる世界、それがインターネットです。

HTMLでページをつくるときも、レイアウトに凝るよりもまず、見出し、段落といった、文書の構成をしっかりタグづけすることが重要です。

[ホームページ作成の留意点]
1.文章は、はっきりと簡潔に。
2.ひとつのページ内に関連することを上手にまとめる。
3.派手な色や強調表現はあまり使わない。
4.画像の利用はほどほどに。
5.画像を利用しなくてもりようできるように。
6.ウェルカムページ(ホームページの入り口)へのリンクを、すべてのページに用意する。
7.全体のリンクの関係を、どこに何があるかわかりやすい構造にし、あまり複雑なリンクにしない。
MSへの攻撃姿勢もかなりセーブした形になっているが、Outlook Expressや、IE、ActivXなどへの批判と危険は、はっきり書いてあるので、MSにとって、中高生には読ませたくない一冊ということになるに違いない。
かなり岩波への圧力もあったかもしれない。日ごろ岩波の悪口を言ってるMorris.だが、ともかくこれを出したということで、岩波の姿勢を評価したい。
サイト紹介の写真に、Morris.愛用のネットスケープの画面が多く用いられてるのも嬉しい。


【Webデザイン超入門】太田公士 ★★☆

Morris.部屋もそろそろリニューアルしなくては、という気持ちだけはあるのだが、なかなか実行に移せずにいる。何かのヒントになればと思いこの本を借りてきた。
HTMLの技法などには全く触れず、イメージを中心に論じた本と言うのが、ちょっとユニークだと思ったのだ。
サイトのイメージとして、さまざまなキーワード(かっこいい、フォーマル、ファンキー、エレガント、都会的、親しみやすいetc.)別のサイトの紹介、配色、レイアウトの説明などそれなりに役立つかもしれないのだが、Morris.は、付録の「WEBで使える色見本」が一番気に入った。
約250種色を日本語or英語の色名を掲げてそれに対応する16進数値を明記しているので、気に入った色のいくつかをメモしておくことにした。
Peach #FCDCC1
MAIZE #DBB284
Buff #CB9566
Asparagus Green #BFCAA2
Apple Green #8DBF20
Celadon Green #83A084


【絵本・千一夜物語】 寺山修司 え・宇野亜喜良 ★★★★

仕事忙しくて図書館に行くひまも無かったので、押入れから引っ張り出して再読したこの本。昭和43年(1968)発行で制作の表記からすると雑誌「話の特集」に連載されたものらしい。
Morris.は寺山の歌集には愛着を持つが、それ以外はあまり熱心な読者とは言えない。本書は、一種の戯作に近いものだろう。内容よりもたたずまいに惹かれて古本屋で手にいれたのだろう。
タイトルに絵本とあるとおり、Morris.好みの宇野亜喜良が、表紙はもちろん、本文にもふんだんにイラストを描いていて、これが実に素晴らしい。ページの途中にカラー印刷で本書のPRポスター(185x750mm)が綴じ込まれているのは、単行本としてはちょっと珍しいと思う。
本文用紙がこれまたMorris.の大好きな藁半紙で、薄いピンクや黄色がランダムに使われているのも嬉しい。
前口上に

原典と一切の関はりを持たない。まったく独自の千一夜の幻想と魔術の物語である。しかも催笑的効果があるからと言って、喜劇的であるなどと買ひ被ってはならない。これは喜劇と言ふほど大袈裟なものではなくて、ほんの冗談なのである。

とあるが、王と弟と双方の妻の不実から、王が女性不信となり、毎夜処女を犯しては殺し仕儀を続けて稀代の話者シェラザードによって物語の世界になだれ込む導入部分などは、時と場所と登場人物を60年代の新宿のヤクザ世界に置き換えて忠実にパロディ化しているし、細部で、原典の固有名詞を茶化したり、背中に地下鉄路線図を刺青した地下鉄サブ(^o^)、レスラーのアリ馬場などという言葉遊びから生まれたような登場人物を用意するなど、楽しめる仕掛け満載の戯作である。
実に要諦を押さえた歌謡曲のフレーズ(JASRAC承認無し)や、自作他作の歌や詩の引用、パロディ、故事付け、衒学、はぐらかしなどなど、寺山の「陽」の部分が溢れている感じがする。
セックスとヴァイオレンス(殺人)の二本柱で物語が進んでいくのも原典と同じで、そこに寺山好みの、畸形やプロレス、競馬などのアイテムが登場するのも当然といえば、当然で、劇団天井桟敷の舞台を絵本に仕立てたものと言うこともできるだろう。
本文では擬古文めかすためか、旧仮名遣いを用いているのだが、これがかなりいいかげんなところも笑いを誘う。
終盤に突然

夕顔乾酪色にしていて惨劇のわが家明くなり おはよう刑事
という、塚本邦雄の歌が引用されていてちょっと驚いた。
宇野亜喜良の70点以上のイラストが60年代の空気をそのまま現出させる風情で、Morris.はすっかりノスタル爺さん化してしまっていた。評点の大甘さは、それによるところが大きい。


四千万歩の男 忠敬の生き方】井上ひさし ★★

5年がかりで4千枚を費やし、それでやっと伊能忠敬の測量行程1年半分のところまでしか書けなくて、とうとう途中で筆を止めたという大作「四千万歩の男」に関する、作者自身のコメントや単行本の後書きや、対談、作中に登場する有名人の解説などをかき集めたもので、これでもか、というくらいに、作者の同語反復を読まされる仕組みになっている。
嫌なのは、人生を二度生きる生き方の手本としての伊能忠敬像を押し付けられるということだった。
ひょっこりひょうたん島の頃から、彼の才能、言葉遊び、洒落,地口、奇想天外の面白さの大ファンだったのに。どうも最近生彩に欠ける気がする。
近作の「東京セブンローズ」は全くの期待はずれだったし、本書の元となる作も、いちおう読んだのだが、どうにもかったるい読後感だけが残る。
忠敬の日記に忠実に歩調を合わせ省略をせず、一歩一歩を書き記すことで、主人公に肉薄していこうと言う試みが、小説としては失敗だったという弁明でもあるようだ。「四千万歩」と「四千枚」で語呂をあわせたつもりかもしれないが、読者としてはたまったものではない。
先日読んだ辻邦生の「フーシェ革命暦」とほとんど同じ轍を踏んでるような気がした。


ツインズ 続・世界の終わりという名の雑貨店】 嶽本野ばら ★★☆☆ 以前「花形文化通信」というフリーペーバーで作者のエッセーを読んだ記憶がある。それ以来、初めて手にした本書だが、タイトルからすると、前作があって、それは広告によると「ミシン」という単行本に併載されているもので、映画化されたらしい。
京都で恋人に死なれた男が、彼女への惜別の手紙を書きそれが編集者の目にふれて出版されて、いちおう以上のヒットとなり、東京に移り、異端宗教に囚われた少女と関り一旦は彼女の負担に耐え切れずロンドンでファッション評論などして平穏な暮らしを取り戻しながら、やはり少女のもとに戻り、運命の愛に殉じようとする。と、粗筋だけ書けば、いかにもの作品である。
しかし、細部と文体を見ると、なかなかに変な作品である。第一に主人公が虚無的というか、衣食住の衣装のみに異常に執着しているキャラクタで、それも数種類のブランドに固執しているし、異常な少女もやはり同病である。なにしろ「お洋服」という表現が頻出するだけで、Morris.は拒絶反応を示さざるを得ない。
確かにこの文体は今までにはあまり見かけないたぐいのもので、それなりの魅力もあるのだが、肌に合わない。
本屋で見かけたとき、腰巻に吉本ばななが絶賛してたように記憶するのだが、ばななというのもMorris.は駄目だから、要するに年を取ったということかも知れないね。

孔雀狂奏曲】北森鴻 ★★★☆☆

骨董店雅蘭堂の店主越名を主人公とする連作短編8編が収められている。贋作がらみの作品が多かったのが、Morris.の好みにあったから高得点というわけでなく、トリックもストーリー運びも、エピソード作りもなかなかの手際で、正直感心した。
第一話の事件から店のバイトとして転がり込んだ女子高生との掛け合いも、全編のカラー統一に役立っているし、メルヘン味も加えている。
テーマになるブツも、ジッポーライター、ジャンクカメラ、古久谷、孔雀石、江戸切子硝子、油絵、根付、ジュモー人形とヴァラエティに富んでいる上、それぞれの薀蓄披露がねんごろで、それだけで、読んで得したような気になるところがある。
著者は料理も好きで、自分でも作るらしいから、小説を書くときも、レシピを作りそれに沿って作品を仕上げていくのだろう。

[ベトナム ジッポー]はその名前が示すとおり、ベトナム戦争において軍事介入を行ったアメリカ軍兵士が、生命線のひとつとして愛用したライターの、現物である。手彫りの文字やエンブレムは、当時サイゴン市内にあった何でも屋で彫られたものだ。好きな言葉や弾除けの呪文、中には罰当たりな文句もあり、それと所属部隊のエンブレム、自分の名前を掘り込んだジッポーは、戦場における兵士たちの名刺であり、身分証明書であり、重要なサバイバルツールであったという。寒さに震える夜にはカイロの代わりをし、ときに携帯食糧を温めるバーナーにもなった。また夜間着陸をする軍用ヘリへの誘導灯にもなったことは、ベトナムからの帰還兵の多くが語る事実である。

元々根付けは印籠や煙草入れ、巾着といった提げものを、帯に垂らすときの滑り止めである。根付けという名前が一般化したのは慶長年間の頃であるらしい。当初、根付けを専門に作る細工師はあまりおらず、仏師や画工、指物職人といった人々が片手間に、ごく簡単な細工で作っていたという。ところが町人文化の勃興と共に根付けはその細工技術が急速に発達し、やがて専門職人も現れるようになった。ことに元禄の爛熟した時代には、目を見張るほどの細かい細工が施された根付けが数多く作られた。それはまさしく「小宇宙」と呼ぶに相応しい、極小の芸術品が生まれたのである。

ビスク・ドールとは、フランス語の「ビス(二度)」と「キュ(焼く)」が語源になっているとされる。その名の示すとおり、いったんは素焼きにされたパーツに上薬をかけ、もう一度焼くことで極めて人間の肌色に近い風合いを出した人形のことだ。蜜蝋を原料としたワックス・ドールが、より人間に近づく製法としての作陶技術を受け入れ、ビスク・ドールが完成されたのは十九世紀中頃であるとされている。

まあ、どれも一般解説書に載ってるくらいの知識だが、小説の中で上手く挟みこまれていると、なんだか得したような気になってしまうのは、やっぱりMorris.の貧乏性のなせるわざなのだろうか。


フーシェ革命暦 I、II】辻邦生 ★★

あーーあ、疲れてしまったよ。このところ読書控えが少なかったのは、仕事で草臥れてたこともあるが、本書にてこずらされていたためだ。1巻650p、2巻600pという分厚さだから、それなりに読みでがあることはわかるが、もともとMorris.は長編歓迎タイプなのだ。辻邦生も、長編はほとんど読んでる。
「背教者ユリアヌス」「嵯峨野明月記」「安土往還記」は寝食を忘れて読みふけったほどで、「春の戴冠」も小説を読む喜びの中に読み終えた。つまりMorris.は彼の歴史長編小説のファンといってもいいくらいで、本書もタイトルから分るようにそのジャンルに含まれるから、図書館に入った時点で即読んでしかるべきはずだったのが、ついつい読まずにいたのは、フーシェという人物にあまり興味を覚えなかったのと、冒頭を立ち読みして躊躇したことによる。
ツヴァイクの評伝「ジョゼフ・フーシェ」を再読して、圧倒された余勢をかって、とうとう本書2冊を借りて読み始めたのだが、予想にたがわず、面白くない。フーシェが政界から追放同然となった晩年に書かれた回想録という形式なのだが、まず、何と言ってもテンポが悪い。はっきりいえばくだくだしい。別にツヴァイクと比較する必要もあるまいが、ツヴァイクの明晰な筆致とは対極にある、華麗な悪文(^o^)だと思ってしまった。
幼いときのエピソードから初めて、ところどころにフーシェの周辺で起きる事件(あまりに作り事めいた)の数々、多くの登場人物が実に都合よく現われては消える不自然さも、小説家の特権ではあろうが、肝心の主人公フーシェの描写が図式的だったりする。
何よりも、Morris.はフーシェのフランス革命以降の活躍(暗躍?)ぶりを見たかったのに、何と本書のストーリーの歩みののろさは驚くべきで2巻の最終章でやっと1789年7月14日の場面だ。おいおい、あんまりではないの、と思いながら、2巻の最終ページを見たらなんと「第二部 了」とあるではないか。長いことあちこちの図書館で、この本を見てるつもりだが、どこもIとIIが並んでいるだけだ。IIIなんて出てるのだろうか。あまり読みたくもないが、ここまで読んだのだからMorris.の性格からすると続編があれば最後まで読むんだろうな。
本書の刊行は1989年だが、初出は「文学界」1978年1月号から1989年4月号まで連載されたらしい。実に2巻で11年かけてることになる。
で、インターネット検索かけてみたのだが、なんと、辻邦生は1999年7月に死んでしまってて、結局「フーシェ革命暦」は未完で終わったらしい。
「西行花伝」(1995)が最後の長編歴史小説となったらしいが、これもあまり感心しなかったなあ。やっぱり年には勝てないというか、才能も年取ってしまったということなのだろうか。
何故かちょっと、ほっとしたMorris.だった。

まだ若いフーシェと年老いた没落貴族ラベリエール男爵の会話。

「老年が男爵のように過ぎるものでしたら、老人になるのも悪くありませんね」
「老年を迎えるとは、君、人生を完成させることだ。老年を十全に成熟したものとして受けとるためには、それなりの準備が要る。むろん、心の、だ。それさえあれば、老年は,生の何であったかを、実によく教えてくれる。生は、君、その中にいる時は分らんものだ。それとの別れが近いとき、徐々に美しい姿を現わしてくる。それは実に美しい。だが、その時は、もう先があまり残っていないということになる。」
「それは男爵の持論ではありませんか?」
「そうかもしれん。だが、今ほど人生が美しいと思ったことがない。」
「老年には不自由や孤独がつきまとうのでは?」私は露骨に訊いてみた。
「それが生の味わいを深めてくれる塩なのだ」老人は灰色の好人物らしい柔和な眼を大きく見開いた。「わしは足が動かん。眼もよく見えん。だが、それがかえって歩くことの幸福を教えてくれる。見るということが何だったかを教えてくれる。見えるということが何だったかを教えてくれる。君は何気なく歩いているね。だが、歩くというのは恩寵的なことなのだ。君は物が見えるのが当たり前と思っている。だが、それは奇跡なのだ。奇跡に匹敵するほどのことなのだ。だが、道が歩けるといって、小躍りして喜ぶ人間はいない。物が見えるといって、涙を流すまでに感動する人間もいない。だが、老人になると,それがわかる。老人は持つことは少なくなったが、それだけ豊かになっていると言うことができる。豊かさとは、その有難さをどれだけ知るかに依っているのだからね」


ここまできてそれなりにわかったこと】五味太郎 ★★☆☆

絵本作家五味太郎のアフォリズム集。以前読んだ 「大人問題」 が割と面白かったので借りてきたのだが、前作よりやや生彩を欠くようだ。基本的には、シニカルに世間を見て、ちょっぴりユーモアを交えて、「--ということ」で終わる150篇の短章が収められ、それぞれをイラストで絵解きするという趣向。見本としていくらか引用しておく。

7.実力のないやつが救助におもむいた場合に起きる、いわゆる二次遭難みたいなやつ、社会のあっちこっちで起こっているな、ということ。
11.「発想の転換」という発想に凝り固まっちゃうんだよな、ということ。
14.賢い人は賢いし、賢くない人はやっぱり賢くない、ということを証明するためには学校は役立つ、ということ。つまり、賢くない人を賢くするためには学校は役立つということはない、ということ。
16.「わび」「さび」の感覚が鋭くなるのは、相対的に体力が低下している場合が多い、ということ。
35.「がんばれ!」という言葉は、いちおう気にはしているけれど、とりあえずそれはお前の問題であって、自分には直接関係ないことなのよ、というところをはっきりとさせておくためのアピールである、ということ。だから「がんばれ!」と言われて奮い立つ必要はないのよ、ということ。
79.「遠くに行きたい」ということは「ここには居にくい」」という意味だ、ということ。
103.バカにされないようにがんばったりすると、残念ながらバカにされちゃうんだなあ、ということ。


【異文・業平東国密行記】中薗英助 ★★

伊勢物語の東下りは、業平が朝廷から密かに命を受けて、蝦夷の勢力状況を視察するためのものだったという、俗説を下敷きに、著者自ら現地を踏査してトラベル・ミステリーにしたてたものらしい。
もともとスパイ小説の草分けとあるので、業平が諜報活動を行う歴史スパイ小説と思ってたのだが、どうも最初から勝手が違う。
あまりに著者の取材旅行の報告めいた地の文が多く、それに、伊勢物語の孫引き+解説が頻出するわ、主人公の描写が十篇一律で興を削ぐことおびただしい。
まあ、業平の名歌をこれでもかというくらい引用してあり、Morris.はほとんどこの歌のみを、独立して楽しんだ。

起きもせず寝もせで夜を明かしては春のものとてながめ暮らしつ
世の中にたえて桜のなかりせば春の心はのどけからまし
狩り暮らしたなばたつめに宿からむ天の河原にわれは来にけり
月やあらぬ春や昔の春ならぬわが身一つはもとの身にして
白玉かなにぞと人の問ひし時露とこたへてけなましものを
かち人の渡れど濡れぬえにしあればまた逢坂の関は越えなむ
いとどしく過ぎゆく方の恋しきにうらやましくもかへる浪かな
君により思ひならひぬ世の中の人はこれをや恋といふらむ
唐衣着つつなれにしつましあればはるばる来ぬる旅をしぞ思ふ
暮れがたき夏のひぐらしながむればそのこととなくものぞかなしき
駿河なる宇津の山辺のうつつにも夢にも人にあはぬなりけり
わが方に寄ると鳴くなるみよし野のたのむの雁をいつか忘れむ
名にし負はばいざこと問はむ都鳥わが思ふ人はありやなしやと
人知れずわれ恋ひ死なばあじきなくいづれの神になき名負ほせむ
春日野の若紫のすりごろもしのぶの乱れかぎり知られず
問へば言ふ問はねば恨む武蔵鐙かかるをりにや人は死ぬらむ
眼離るともおもほえなくに忘らるる時しなければおもかげにたつ
花に飽かぬ嘆きはいつもせしかども今日の今宵に似る時はなし
つひに行く道とはかねて聞きしかど昨日今日とは思はざりしを 在原業平

引用するのも恥ずかしいくらい、人口に膾炙した歌目白押しだが、それだけ業平の歌が、すごいということだろう。


【    灰姫-鏡の国のスパイ】打海文三 ★★★☆

93年横溝正史賞の優秀作となった作品。そういう方面にはうといMorris.だが、北朝鮮絡みのスパイ小説ということと、タイトルに惹かれて借りてきた。
外務省から下野した民間調査機関東亜調査会が小説の舞台である。CIAと北朝鮮情報局の摩擦に巻き込まれて、日本人調査員が拉致され、拷問を受け瀕死の状態で逃れたが、結局死亡。この事件は「灰姫」という女性が指揮する北朝鮮の地下組織の存在の有無が焦点となる。物語は、情報機関内部の主導権争いや、調査員、事務員間の駆け引き、だましあい、尾行、盗聴などの描写が細かく、リアルで、これは新しい日本のスパイ小説の傑作ではないかと思いながら読み進めた。
灰姫は情報機関創設者の娘で、太平洋戦争末期大陸で生まれてすぐ生き別れになり、育ての親である韓国人とともに来日、さらに、北朝鮮に移り、北朝鮮情報局に入り、ヨーロッパで日本人拉致の役割を果たすという数奇な運命の女性である。彼女が仕掛けた地下組織(北朝鮮内部の反政府勢力)があるのか、ないのか、それが時計の振子のように揺れ戻りしながら物語は進行する。灰姫も、噂や証拠ばかりで実体は現われない。
物語の最後で、灰姫が情報機関の主だったメンバーの前に現われ、査問に近いやり取りの中で、彼女の真実(「架空の、反政府地下組織なるものを作って、それを支援する海外グループを組織する。しかし架空のはずの地下組織は実際に存在する」)を話すのだが、その真実がまた、反転また反転する可能性を秘めているようで、読後感は結局煙に巻かれたような感じだった。いっそ、最後まで灰姫を表に出さずに通せば、それなりに余韻を残すことが出来たのではないだろうか。細部には見るべきところが多い作品なのに、全体としてははぐらかされた印象をあたえるというのがもったいない。
それと、著者は朝鮮や朝鮮語に造詣が深いことをうかがわせる。たとえば、「46情報」というコードが、朝鮮語読みで「サユク=死肉」となるという部分や、死んだ情報員の恋人だった女性の台詞。

「日韓併合以来、名前も言葉も土地も何もかも奪われて。あんただって知ってるでしょ」笑子は不意に怒った顔つきになり、河原の方に下りはじめた。小林は後を追った。
「三十五年経ってようやく解放されたというのに、圧制者のファシストどもが進駐軍の庇護下で復活してきている、おまけに悔しいことにコリアの男どもが自己変革してない」笑子は歯ぎしりしていった。「あいかわらず暴君、大言壮語の内弁慶で一発屋の大酒飲み、フェミニズムの敵。こっちは朝から腹ペコ、靴もない、教科書買う金もないのに、親父は酒飲んで女房子供を殴ってる。やってられないわよ。絶対火炎ビン作るわよ。だからといって、マスコミのお粗末なコリアキャンペーンが免罪されるわけじゃない。日本人の主体性の問題として。わかるでしょ。だって敗れ去った植民地主義者の身の処し方というものがあるわけでしょ」

ところで灰姫のフルネームは金灰姫だが、本書では1箇所だけ「キム・チエヒ」とルビがふってある。「灰」という漢字は韓国語読みでは一般に「フェ」となるのだが、「灰」という意味の純韓国語は「チェ」だから特別にこんな名前の読みをしたのだろうか。もちろん、この命名にはサンドリヨン=シンデレラ=灰かぶり姫の、暗喩も含まれているのだろう。
最近このての小説を読むときにチェックしている携帯電話普及前と後の違いだが、この作品でも、調査員が、指定された公衆電話から電話しようとして、酔っ払いや、女高生のおしゃべりにいらいらしながら待っていたり、自動車電話を使うという場面が出てくる。



sazanka 花のレクイエム】辻邦生 山本容子 ★★☆

雑誌「挿花」95年に一年間連載されたもので、毎月の花にまつわる、掌篇と、山本容子の銅版画で構成された絵本で、先日読んだ「グリーティング」の姉妹篇みたいな本だ。

・一月/ 山茶花
・二月/アネモネ
・三月/すみれ
・四月/ライラック
・五月/クレマチス
・六月/紫陽花
・七月/百合
・八月/向日葵
・九月/まつむし草
・十月/萩
・十一月/猿捕茨
・十二月/クリスマス・ローズ

という、ラインアップである。
ただし、こちらの文章はプロの作家が担当しているのに、Morris.はどうもこれに拒否反応を起こしてしまった。手抜きではないかという気すらする。たとえばクリスマスローズを扱ったものでは、花びらみたいに見える部分が実はガクであるというのが、メインテーマとして使われているが、そういう植物は結構多く、本書にも出てくる紫陽花だってそうなのだから、ちょっと鼻白んでしまう。山本容子のイラストも、グリーティングと比べるとちょい粗い感じだ。ただ一枚、一月の山茶花だけは、すっごく気にいってしまった。50点あげたのも大部分はこの絵に負っている。山本のイラストに出てくる人物、特に女性の顔は「醜悪」に近い。なんであんなにセンスのいい絵を描くのにあんな顔を描くんだろうといつも不思議に思う。Morris.が、この山茶花のイラストがいたく気にいったのは、女性の顔の部分が花で隠れていることが勝因かもしれない。
花をテーマにした小品集といえば、まず吉屋信子の「花物語」が思い出される。澁澤龍彦の「フローラ逍遥」も愛蔵の一冊である。Morris.の記憶に残る一番懐かしい一冊は、たちはらえりかの「わたしのはなものがたり」で、佐野洋子のモノクロペン描きのちいさなカットが秀逸だった。この本は、是非もう一度手にとってゆっくり読み返してみたいものだ。


やむにやまれず】関川夏央 ★★★

「小説現代」連載の18編の短編集。それぞれいしいひさいちの四コママンガを附している。マンガは早稲田の客員教授となった関川を茶化したもので、本文とはまるで無関係なのが可笑しい。実名が頻出する、関川流私小説といえよう。50歳という年齢にこだわった作が多い。嘘話といいながらかなり本音を吐露しているような気もする。
関川とぴったり同世代のMorris.としては、身につまされる台詞が多かった。

「やっぱり60年代文化が骨がらみなのかな。ハナの先では笑っていても、自由とわがままをとりちがえ、個性的な生き方と常識はずれをあえて混同しつつ、ついにヨワイ五十に到った。反省はしても、とり返しはつかない。反省が身にしみない。
---ダンカイの世代ってそういうタイプが多いですよ。
「どんなタイプ?」
---悪いのはオレだ、としつこくいう。まるで相手を叱っているみたいにいう。申しわけない 申しわけないといいながら、人を踏みつけにする。
「ダンカイの世代とひとまとめにされるのがいちばん不愉快なんだけど。オレは違うと全員がいうところが共通しているんだろうな。なんだか情なくなってきた。」

Morris.も、大いに情なくなってしまった。
関川の本領は、評伝にあるのではないかと思う。初期の韓国モノでも、人間観察が主体だったし、名作「坊ちゃんの時代」しかり、山田風太郎のインタビュー構成しかりで、本書のようなフィクションだと、微妙に構えたり、なまぐさくなったりするので、あまり好きになれない。大学での講義を模した「仁侠映画講義」や、「講演「"おフランス"について」」などの客観的対象の作は、非小説として楽しめた。

土地買収と再開発は高度成長時代のありふれた現象です。そこに新しい雇用も生まれ、経済も活性化して、1968年には日本のGNP(国民総生産)は世界二位になるわけです。それがヤクザ映画の時代と重なります。それでもGNPはアメリカの五分の一くらい、ひとりあたりとなるとアメリカの3・5分の一くらいです。だが、とにかく飢える人はいなくなったし、車も買える。なのに日本人には経済成長を憎む空気があったということです。昔の方がずっといい、時代はくだればくだるほど悪くなるという下降歴史観は日本人には根強いんですね。こういうのを"文化"といいます。


【続・涼しい脳味噌】養老孟司 ★★★☆  

続とあるからには正編があるわけで、Morris.はそちらは10年ほど前に読んだ覚えがある。この続編が95年発行だから、すでに発行後7年経ってることになる。「諸君」連載のエッセイと「文藝」連載の書評をあわせたもので、この後、東大を辞して研究&文筆活動に入ったらしい。
「唯脳論者」である著者は、「唯幻論者」岸田秀ブームの後を覆って静かなブームになった感がある。心というあやふやなものも、つまりは脳が生み出したものだという養老の論のほうが、確かに説得力があるような気がする。ちなみにMorris.は「唯名論者」を標榜しているのだが、世間に認知されているとは言いがたい。
脳の研究家だからかどうか、とりあえず著者の頭脳がなかなか優秀であることは疑いのないところで、その洞察力、突飛な視点から本質を喝破する力はたいしたものである。もっとすごいのは、そういうことを、一見軽そうに披瀝して、読者に自己満足(錯覚なのだが)させる筆法を弄していることである。

・ピアノという楽器は、鍵が周波数の対数をとって並んでいる。ところが大脳皮質の聴覚領での細胞の配列も、そうなっているのである。私はこれが、偶然の一致であるはずがない、とおもっている。聴覚領での細胞の配列が外に出てくると、ピアノという楽器ができる。ピアノをはじめて創った人は、頭の中にそういうものがあるとは、気がついていない。「自分が考え出した」のだと思っている。私は、フロイドとは違って、こういうものを「無意識」と呼んでいる。

・墓というのは、死んだあとに残される、自分のイメージである。
墓は不要だという意見が生じてきたについては、現代における、自己意識の肥大がまず問題になろう。
紛争世代つまり団塊の世代は、自己意識が強い。オタクの世代はその子どもたちであろう。
子どもの方は、いわば本能的に、「自己」という親の価値をむろん引き継いでいる。ところが、その親の自己と、未発達の子どもの自己が喧嘩したら、親の自己が勝つにきまっている。それは子どもの自己の破滅である。それなら、それに対する最大の抵抗は、相手の中にある自分のイメージを、可能な限り消すことである。それなりにオタク化することであろう。墓が消えれば、オタクが増える。風が吹けば、桶屋が儲かるのである。

・戦争の利点はなにか。要するにドサクサまぎれであろう。戦争によって未来が膨らむ。
戦争の暗黙の利点とは、まさにそこにある。先が読めないのである。パンドラの箱に残った最後の存在とは、ひょっとすると戦争だったのではないか。ギリシャ人の皮肉屋が、それを「希望」と呼んだのであろう。希望というのは、先が読めないことを、楽天的に表現したものである。
戦術と戦略という区別がある。戦術は具体的で、戦略はいわばその前提だが、専門家は前提をあまり考えない。

・私が理想と考える表現は、表現形式と、表現の内容が一致するということである。むずかしい内容は、同じむずかしさの程度をもって表現されるべきである。むずかしいことを、やさしく言う。それは、表現の正確さから言えば一種の詐欺である。やさしい表現とは、要するに見合い写真ではないか。


ショットガンと女】藤原新也 ★★★☆  

旅に関するエッセイで、やっぱり藤原新也は旅を書くと生き生きするなあ。最近の身辺雑記や時評めいたものも、悪くはないが、彼の本領は旅人としての観察記録だろう。
本書には32編のエッセイ+モノクロ写真が収められている。「GEO」連載の「アジアの一瞬」「旅の残像」、「プレイボーイ」連載の「旅する葦」をまとめたもので、タイトルだけで、おおよその内容がわかる。これまでのさまざまな旅の回想的旅行記なのだが、あとがきに「短い文章の中で描かれる、旅の事実に即した、きわめて単純で即物的なエピソード」というコンセプトで書いたとある。たしかに、それは表面的にはそのとおりだが、本文はあいかわらずの藤原新也だった。
インド、中近東、韓国、香港、トルコ、ラダック、バリ島、アイルランド、セーシェル、与那国、キューバ、門司、ロスアンジェルス、テキサス---旅した地域の多様さ、ドラマチックで思いがけないエピソード、男気あふれる骨太な文章には、毎度のことながら圧倒される。
たとえば、バリ島で、グラミという美味なる魚を花で釣るという話、ギリシャでストーカー的詐欺師に付きまとわれた話、アメリカで人種差別された(誤解だった)話、キューバのヘミングウェイ所縁の老人の虚像、韓国の木浦で親切にもてなしてくれた住民から実は監視されていた話、セーシェルの海胆と帰らぬ主人を毎日海辺に迎えに行く犬など、エピソード自体が面白いものもあれば、平凡な暮らしの中に真理を見出そうというものもある。また、歯に衣着せぬ率直な発言もある。

・日本以外のアジアの国々には日本人をはるかに凌駕するような人間味の豊かな、そして日本人が失ったような徳を持った人々がたくさんいる。またそれとは逆に日本にはいない種類のドブに這いずり回るゴキブリのような連中もたくさんいる。80年代以降に大挙して日本に押しかけてきた不法滞在者は残念ながら私の目からはゴキブリとしか思えないような連中だらけだ。本当に日本に来て"クレオール"化してほしいような立派なアジア人は来ずに、目つきの悪い人間が大挙して押し寄せるというこの無明の事態を目にしながら「差別を無くしましょう」などと学生が頭で習ったような奇麗ごとを言ってはおれないというのが私の正直な感想だった。
彼らは日本人や日本文化になんの興味も未練もあるわけではなく、ただ日本人の持っている財布の中身に関心があるだけなのだ。そんな(愛のない)関係の中で豊かなクレオール文化など発生しようもないのだ。たいいち彼らは銭を稼げばあとは野となれでさっさと日本を引き揚げ、たとえば現地の田舎に帰って家電製品のそろった妙に成り上がりな家を建て、現地では生活環境の均質性を破壊している。ここでもあっちでも良いことがなにもないのだ。

よりによって、不法滞在者への苦言を引用してしまったが、きりっと美しいエピソードも数多くあるのだから、そちらは本文にあたってもらいたい。
なによりも、本文用紙に印刷された写真の雄弁さは、さすが、である。

・遠くの他人を愛することより「汝の隣人を愛する」ことの方が難しいのは、日本人に限らず地球のいずこの国の人種においても同じことのようである。日本人が隣国の韓国人を差別してきたように、中国は隣国のチベットを、ベトナムは隣国のカンボジアを、ドイツは隣国のポーランドを、アメリカは隣国のメキシコを、印度は隣国のネパールやパキスタンを、というように、ある国のかたわらには常にその差別と収奪の対象となった国が隣接している。

上の引用はイギリスとアイルランドの関係を記したエッセイの枕として置かれた一節だが、17世紀イギリスのクロムウエルが、宗教改革の名目でアイルランドを侵略した時に書いた詩というのが、すごい。

吊るす木もない。
流す水もない。
埋める土もない。

アイルランドは、イギリスによって、それほどの不毛の地にされてしまったのだった。


書物の森の狩人】出久根達郎 ★★★  

古本屋主人で、作家でもある著者が、折に触れ印象に残った雑本を原稿用紙5枚程度で紹介したもの。 Morris.愛蔵本 と似たような企画だが、さすがは商売だけに珍奇な本と出会う頻度も多いらしく、ジャンルも多岐にわたっている。70冊近くの本が紹介されているが、読んだ本は一冊も無かった。作者の名前を知ってるのが20冊くらいか。まあ、そこが雑本の雑本たるところで、これからも、お目にかかる機会がないものが大部分だろう。
読んでみたいと思ったのは以下の4冊くらい。

「流行歌のつくり方」西條八十 昭和33年 平凡出版株式会社
「カツドウヤ紳士録」山本嘉次郎 昭和26年 講談社
「三十六人の好色家」斎藤昌三 昭和31年 創藝社
「談話売買業者」村松梢風 大正11年 アルス

最後の村松梢風は、Morris.は何故か日本画家だと勘違いしていた。ネットで検索かけたら「女経」「近世勝負物語」など面白そうな作品があり、多くが映画化されているようだ。今度読んでみよう。


倫敦巴里 London Paris】和田誠 ★★★★  

昭和52年(1977)の発行とあるから四半世紀が過ぎたことになる。もちろん再読である。いや、図書館などで、読み返したことも入れると3度や4度ではないだろう。和田誠の初期の傑作パロディ本である。本人はパロディとはおこがましい、「もじり」に過ぎないとかわしているが、どうして、どうして、今読み返しても思わずうなってしまうパロディのてんこ盛りである。

・「殺しの手帖」(66年・話の特集)言わずと知れた「暮らしの手帖」のパロディ。花森安治の手書き文字とレイアウトを完璧にコピーしている。そして有名な巻頭言。

これは あなたの手帖です
いろいろのことが ここには書きつけてある
この中の どれか 一つ二つは
すぐ今日 あなたの殺しに役だち
せめて どれか もう一つ二つは
すぐには役に立たないように見えても
やがて こころの底深く沈んで
いつか あなたの殺し方を変えてしまう
そんなふうな
これは あなたの殺しの手帖です

記事としては「リヴォルヴァー拳銃をテストする」「毒入りのおそうざい」「殺しの中で考える」など、タイトルだけ見れば、ありそうなものだが、細部にこだわる和田の技が冴えている。

・「ふとどき風土記」(70年・オール讀物)世相を皮肉った時評的なもので、山藤章二「毒舌時評」の和田誠版といったところ。
・「初夢ロードショー」(75年・報知新聞)自作の名作「お楽しみはこれからだ」のパロディ?!奇想天外の映画キャストスターリング。例の似顔絵がまた秀逸。
・「はめ絵映画館」(72年・話の特集)福田繁雄出題の不思議な形に当てはめてさまざまな似顔絵の数々。実はこれ中華人民共和国地図だった、というオチ。

その他にもマンガのキャラクタやビートルズをパロディしたイラストレーターの本領を発揮したものや、政治マンガ風のもの、谷岡ヤスジの鼻血ブーのパロディなど、いろいろあるが、「兎と亀」と「雪国」の連作が双璧だろう。

・「兎と亀」(66年・話の特集)「新・兎と亀」(77年・話の特集)世界の映画作家たちがイソップの寓話「兎と亀」をテーマに映画を作ったという想定でシナリオにしたてもの、監督とお好みの配役、性格から台詞回し、カメラ技法から音楽まで、凝りに凝った構成で、映画マニアには、たまらん企画。洋モノがメインだが、ここは、山田洋次版のシナリオを。

兎(倍賞千恵子)にワニ鮫(吉田義夫)が襲いかかろうとしている。兎、恐怖におののいている。
大国主命の扮装をした亀(井川比佐志)が登場、小槌でワニ鮫を撲りつける。ワニ鮫、水中に逃げる。
兎「ありがとうございました」
亀、目をさます。亀は夢を見ていたのだ。現実は船の中である。隣に兎が寝ている。
タイトル。
船着場。桜が咲いている。兎と亀が船を降りる。
兎「今日の仕事を探さなくちゃね---」
亀「そうだなあ」
遊び人ふうの虎(渥美清・特別出演)が声をかける。
「しけたつらすんなよ。向うの山のふもとに働き口があるぜ。雇うのは一人だけどな」
兎「じゃあ競争ね」
兎、駆け出す。亀、あとを追う。
子どもたちが、「もしもし亀よ」の歌を歌いながら通り過ぎる。
兎、山のふもとの飯場につく。労務者ふうの犬(犬塚弘)がニヤニヤ笑っている。
犬「悪いな。俺が先についたんで、仕事はもらっちまった」
兎、とぼとぼ引き返す。懸命に山を走ってくる亀と出会う。
亀「そうか、じゃあまた一緒に行こう」
兎「ええ」
二人は山を下りる。旅の僧(笠智衆)とすれ違う。
僧は二人の後姿に「困った、困った」とつぶやく。
が、二人の表情は明かるい。二人はまた船に乗り込む。カメラがひくと静かな海。島々の緑が美しい。
---終

・「雪国・またはノーベル賞をもらいましょう」(66年)「雪国ショー」(72年)「新・雪国」(73年)「又・雪国」(75年)「お楽しみは雪国だ」(77年・話の特集)川端康成の「雪国」冒頭部分を、作家、漫画家、詩人などの似顔絵と文体模写でパロディに仕立てたもの。10年間に4回も同一企画をやるというのもすごいが、それぞれの出来もなかなかのもの。和田誠の文才が伺えるし、彼の文章修行のひとつだったのかもしれない。
取り上げられた順に列挙する。

庄司薫/野坂昭如/植草甚一/星新一/淀川長治/伊丹十三/笹沢佐保/永六輔/大藪春彦/五木寛之/井上ひさし/長新太/山口瞳/北杜夫/落合恵子/池波正太郎/大江健三郎/土屋耕一/「ねじ式」式/筒井康隆/川上宗薫/田辺聖子/東海林さだお/殿山泰司/大橋歩/半村良/司馬遼太郎/村上龍/つかこうへい/横溝正史/浅井慎平/宇野鴻一郎/谷川俊太郎(マザー・グース)

以上30数名の中で、物故者がかなりに上るのには、時代を感じさせられるが、ともかくも本業の画才に加えて、この文才、アイデアは、まさに和田が遊びの天才であることを証明している。前にもどこかで書いたが、こういう人がこの世に生まれてきたというのは、我々凡人への神様からのプレゼントだと思ってしまう。更にいろいろ引用したいが、これ以上やるとあまりにスペースを取りすぎるので、断念する。
本書のタイトルは「ロンパリ」のパロディ(原義??)だが、最近ではこの言葉すら知らない輩が多いのではないかと思う。はしがきで和田自身が「ロンパリっていうと差別用語になっちゃうのかな。ロンパリって言葉も好きなんだけどね。」と言ってる通り、言葉狩標的の一つにされたのは間違いないだろう。


バラガキ】中場利一 ★★  

「岸和田少年愚連隊」が劇的に面白かっただけに、後続作品がどんどんしょぼくなっていくのが悲しい。本書は、新撰組の土方歳三を主人公にした著者にとっては異色な作だが、基本は本領の「喧嘩屋」をメインテーマにしたものだろうということは読む前から予想がついたし、それは間違ってはいなかったが、思ったよりは、参考書を読んで勉強したらしく、いちおう歴史小説らしくできあがってはいた。しかしながら、面白いとは言いがたかった。近藤、沖田、芹沢のキャラ付けも、漫画風であり、ステロタイプでもある。どうせなら、史実に囚われず、もっとはちゃめちゃな展開にすればよかったのではないかと思う。岸和田シリーズはネタ切れで、いろいろ模索中なのだろう。岸和田とはいろいろ因縁のあるMorris.だけに、何とか良い方に大化けして欲しいものである。


ユリシーズの涙】ロジエ・グルニエ 宮下志朗訳 ★★★☆☆☆  

タイトルと表紙写真に惹かれて借りてきた。ユリシーズというのは著者グルニエの愛犬の名である。本書はそのユリシーズの思い出を含めて、主にフランス文学の中に出てくる犬のエピソードを、恣意的に、しかも、厳選して集めた短章集である。引用された作家は、ホメロス、ヴァージニア・ウルフ、ボドレール、カフカ、セルバンテス、スピノザ、スターン、ボードレール、サルトル、リルケ、ガートルード・スタイン、スティーヴンソン、クンデラ、、アラゴン、セリーヌ、オーウェル、シュペルヴィエル、ジッド等々、錚々たる作家からの引用はもちろん、著者の仲間や友人である作家たちからの引用も多い。1919年生まれの著者はガリマール書店文藝顧問という、いわばフランス文壇の重鎮であるだけに、その交友関係の広さにも驚かされる。先にあげた作家のうち少なくとも5人は顔見知りらしい。
無邪気な愛犬家の、ペット礼賛エッセイでは決してない。皮肉に過ぎる部分さえ見受けられるが、根底にはやはり骨の隋までの犬好き魂は隠れもない。

・数年前のこと、セートの町にある「海辺の墓地」を訪れた旅行者が、「ポール・ヴァレリーの墓はどこですか?」と番人に聞いたという。すると、その市職員は犬を起こし、命令するような調子で「ヴァレリー!」といった。
犬が単独で、詩人の墓まで案内するようになっていたのだ。(謎)

・飼いならされた動物とは、生命のおとろえに対する防波堤のようなもの、世界にあらがう最後の手段であり、たしかに愛されているといういくぶんか空しい確信にほかならない。要するに、さして孤独ではないかにみえながら、より孤独な存在のありかたなのである。(フローベル、ニシキヘビからオウムまで)

・犬とその飼い主は、なんやかんやいっても、相手のことを自分のことのように思うようになるのだ。(一体感)

・倒錯趣味、これはロマン・ギャリが『白い犬』で告発した主題でもある。カリフォルニアで、著者は捨て犬のシェパードを引き取る。そして即座に、これが「白い犬」、つまり黒人を襲うように訓練された犬であることを発見する。今度は「ブラック・モスレム」につながる訓練士が、この犬を再教育する。やがて犬は、白人ののど元めがけて飛びかかっていくのである。(乱暴者)

著者は日本文学に関してもいささかの知識を有しているらしく、谷崎潤一郎が子供の頃使い古した筆を狛犬の足の間に隠したことで、天神さまから作家という天職を授かったのであろうとか、漱石の「吾輩は猫である」などにも触れている。

・注釈家たちの指摘によるならば、クノーというのは、ノルマンディ方言で犬を表すquenとかquien--英語でもkennel「犬小屋」として残る--という言葉の指小辞だという。「ルーアンでは、庶民は子犬のことをquenotという」と、『会話辞典』も請け合ってくれる。
あまり脇道にそれるつもりはないけれど、日本語でも、犬は「けん」kenである。19世紀はじめに滝沢馬琴が書いた『南総里見八犬伝歌という、とても有名な大長編小説があって、これは大名が一匹の犬に敵から娘を救ってくれれば結婚させようと約束したことをきっかけに展開され、これに孔子の八つの徳を体現した八人の犬士の物語がからみあう。犬士はいずれも、その姓に「犬」の字がつけられている。(ディノ、クノーの犬)

「犬をめぐる、このような格調の高い文章」(訳者あとがき)を、読むのは確かに楽しいものだった。しかしこの「格調の高さ」が、ちょっとだけ鼻につくのも否めない。原著はフランスのガリマール書店、日本版はみすず書房から出されているということだけで、おおよその雰囲気はわかってもらえるかもしれないな(^_^;)


【ジョゼフ・フーシェ】ステファン・ツヴァイク 吉田正巳、小野寺和夫訳 ★★★★  

再読である。再読すること自体が珍しいが、再読してこれだけ感心したといいうのも稀有な例といえるかもしれない。前回読んだときは、ツヴァイクの魔術的な手際におどろくばかりだったが、今回は主人公フーシェの「業」に力点をおいて読んだような気がする。現代のフーシェは、必ずインターネットやメールを、フルに活用しているのだろうな。いやあ、それにしても、本書の、圧倒的な「面白さは」たまらない。評伝と言うものがこんなに面白いのなら、小説など読んでいる場合ではない、と思ってしまった。

・残念ながら世界史は、たいていの本に書かれているような人間の勇気の歴史であるばかりでなく、人間の臆病さの歴史でもある。また、政治とは、もっぱら世論を指導することとと、信じこませたがるものだが、実は、指導者が自分で創設して勝手に左右した法廷に、奴隷的に服従することなのだ。戦争はつねに、危険なことばをもてあそび、国民の情熱をあおりすぎることから起こるのだが、政治犯罪も同様である。この世のいかなる悪徳や残忍さでも、人間の臆病さほど多くの血を流しはしない。

・芸術家や、将軍や、政治家を、もっとも堕落させるものは、万事がいつも、意のまま、望みのままに成功することだ。失敗してはじめて、芸術家は自己と作品との真の関係を学び、敗北して初めて、将軍は自分の誤りを知り、失脚してはじめて、政治家は真の政治的展望を授かるのだ。不断の富は人を惰弱にし、不断の喝采は感覚を鈍らせる。中断のみが、惰性的なリズムに新鮮な緊張と、創造的な弾力を与える。不幸だけが、世の現実を深く広く見てとる力を授けるのだ。

・ちょうど、ばくち打ちはばくちがやめられず、酒飲みは酒がやめられず、密猟者は猟がやめられぬように、ジョセフ・フーシェは政治がやめられないのだ。

・このたんげいすべからざる男は、あらゆる党派、あらゆる思想にたいして、不誠実で気まぐれでありながら、彼の不美人の妻にたいしては、きわめてやさしく誠実で、きわめて気のつく夫であり、この上なく心配性の父親でもあったからだ。無味乾燥な事務家の仮面のかげに、神経質で陰険な策謀家がひそんでいたように、ぶっそうで信頼のおけないこの人物の背後には、おもてからは見えないが、ひっそりと、フランスの田舎によくいる、誠実な市民にふさわしい善良な夫がかくれていた。いいかえれば、自分の家庭という狭い囲いのなかでしか安全でのうのうとした気分を味わえない孤独の人がかくれていたのだ。

・どんな英雄伝説でも、つねに歴史の一種の精神的後方地帯のようなものだ。どこの後方地帯でもそうなりがちだが、英雄伝説というものは、それ自身が同じ苦しみを味わう必要がないものだから、ありとあらゆる美徳を安直に要求するきらいがある。たとえば無条件で人間が犠牲になったり、たとえ英雄的妄想であろうと、それにとことんまで傾倒したり、自分と縁のない英雄的な死だとか、無私の忠誠だとか、そうした美徳が求められるわけだ。ざらにある、白か黒かの筆法によったナポレオン伝説には、この伝説の主人公に対する「忠臣」と「裏切り者」の二種類しか姿をあらわさない。そういう伝説では聡明さとエネルギーによって祖国に平和と秩序をとりもどさせた、初期の執政ナポレオンと、やがて戦争を行う事が病みつきになり、自分一個の権力意志のために、無謀にも世界を何度となく殺戮の場に変え、「予のごとき人間は、百万人の人間の生命くらい屁とも思わぬ」と、チムールまがいのことばを、メッテルニヒに向かって吐くにいたったナポレオン、つまり、独裁者的妄想のとりこになった。後年のナポレオンとのあいだに、何の区別も設けてないのだ。

Morris.が感動したのは、文体にも多くを負っていると思う。二人の訳者による翻訳も上出来といえる。「高見の見物」という表記があったのがちょっと残念。
それにしても、ツヴァイクの歴史分析能力の高さと深さは、端倪すべからざるものであり、時に鋭すぎたり、ニヒルに近づいたりするほどだ。しかし、この透徹した頭脳の持主が、ナチから逃れて、亡命したブラジルで、ヒトラーに捕えられて殺される」というノイローゼから、1942年2月に妻とともにガス自殺したというエピソード(月報による)は、皮肉である。
「ジョゼフフーシェ」のMorris.2000年の読書控え を読み返してみたが、読後かなり興奮していたことがわかる。その割に点数が辛いぞ。今回は☆☆を加点することにした。


大博打】黒川博行 ★★★☆☆

 営利誘拐犯を主人公にした作品だが、犯人と警察官が交互に一人称で語る構成になっていて、最初ちょっと違和感を覚えたがすぐ馴れた。このての話では身代金(金塊20億円分)の受け取り方法がポイントになるが、本書では船を使ったトリックがあり、双方のしのぎ合いも見どころがある。本書の一番独創的な部分は誘拐犯人と、誘拐された老人との対応にあるといえるだろう。掟破りの設定だが、ユーモアを交えながらリアリティを感じさせるあたり、作者の腕の見せ所なのだろう。リアリティといえば、身代金の金塊の形状、重さ、容積、移動方法どを事細かに説明する部分も、読者を物語に引き込む力を持っている。被害者の息子であるチケット会社社長の、煮ても焼いても食えない性格、警官数名のキャラクタの描き分けもなかなかうまい。ストーリーも起伏がありながら、たるみが無く最後まで興味を持続させてくれる。エンターテインメントとしてはかなり上出来だと思う。
犯人が人格的にかっこよすぎる(モラリストではないかと思ってしまった。)点や、姉の存在が弱すぎるなど、気になるところもあるが、そのくらいしかけなすところが無いという反証かもしれない。91年発行だが、古さは感じさせないが、自動車から、携帯電話を盗んで使う場面だけは、やはり10年前だなと思った。


文学大概】石川淳 ★★★  

非常に評価の難しい本というのが、読後第一印象。これを知ったのは、88年「すばる」の石川淳追悼記念号に掲載された、丸谷才一による中公文庫版(1976)の後書きだった。褒め上手の丸谷が「石川淳のあらはした文学入門」だとして絶賛していた。図書館の開架では見かけなくて、読まずじまいになっていた。ふと思いついて中央図書館3階で倉庫からひっぱり出してもらい、借りてきたのが、昭和17年8月15日発行の初版本だった。真珠湾攻撃で日米戦の始まった翌年に出たことになる。
時代がどうであろうと、面白ければそれでいいのだが、どうもしっくりこないのだ。冒頭の「文章の形式と内容」から「短編小説の構成」に続くあたりは、とりあえず「文学入門」と言えなくもないが、その後は、俳諧、能、歴史と文学、文化映画雑感と、雑多な評論だし、後半はヴァレリー、マラルメなどフランス文学者5人の批評だから、丸谷才一の話とはえらくちがう。何よりも丸谷が、「殊にすばらし」く、「江戸文学の勘どころはこの一文に尽きてゐるし、さらには江戸の軟文学を話のいとぐちにして、わが文学史全体の広やかな眺望が与へられ---」とベタ褒めの「江戸人の発想法について」が、今回読んだ本のどこにも出てこないのには、焦った。どうも、本書初版と、戦後の文庫版ではかなりの異同があるらしい。

・縦書にされる象形文字といふ図形と、横書にされる音標文字といふ符号との相違はやがて東西の文章の構成にも影響する筈である。(文章の形式と内容)

・黄表紙、洒落本、人情本だけの関係で云へば、洒落本はコント、人情本はヌウヴェルで、別に黄表紙といふいたづらものがあつて、洒落本の影を薄くさせるほどえげつなく、コント的要素を横取りしたのだと見ることができる。(短編小説の構成)

・芭蕉は見るべく夢みた花や月を、現実の花や月に見つけやうとした。そして時には見つけ、時には見つけるに至らなかつた。その間を埋めるために、四季を貫いて肉体が疾走した。(俳諧初心)

こういった、寸鉄の批評は石川淳の本領が発揮されているが、次のような書きぶりは、時代風潮に足をとられたと見られてもしかたないかもしれない。

・ドイツに関する限り、ヒトラアはみごとな指導者に相違ない。現在彼がさうであるためには、会て必然の諸条件があった。今後万一彼が失敗したとしても、それは美しいものだと想像される。かういふ簡単なことには、文学者は誰もけちなどをつけはしない。ただヒトライズムはどこにでも融通できるといふやうな考へ方に、どこの国でも、現実の諸条件があはてて飛びついては行かないだけだ。そして、文学論は常に現実に即する。(文学の今日)

たぶん、戦後の文庫版などには、上記部分などは、カットされているのではないだろうか。その代わりに「江戸人の発想」などが加えられたのかもしれない。


お言葉ですが】高島俊男 ★★★

 この前読んだ「本が好き---」が面白かったのでこれも期待したのだが、ちょっとトーンダウンだった。本書は週刊文春連載で、読者からの声に答えるといった、安易なものが多かったのと、メジャー雑誌だけにあまり毒舌がふるえなかったのではないかと思う。それでも、なるほど、と思う指摘や、薀蓄はあった。

・いまこれだけ横書きが普遍化している時に、なぜ本だけ、本来横のものを、わざわざタテになおして出すのか、理由がわからない。読者が読みにくい、というのだろうか。しかし、教科書も参考書も横書きので勉強し、自身何でもすべて横に書く人たちが横の本は読みにくいなどと言う道理がなかろうと思う。
タテのものはタテのまま、横のものは横のまま、というのがわたしの主張である。それが一番読みやすい。第一まぎれがない。

・よほど以前から「震撼させる」という言い方が生じているが、誤用である。『新選国語辞典』なぞは誤用を正用と思っているらしく、「世を震撼させる大事件」と例文をこしらえて掲げているのは大いに疑問である(「世を震撼する」が正しい)。他動詞に「させる」をつけるのは、「AがBに命じてCを殺害させた」のようなばあいには可能だが、「震撼」や「ゆるがす」にはもちい得ない。

・「すべからく」は「--せねばならぬ」を予告する。昔は「すべからく」とくればかならず「すべし」だった---これを要するに、漢文訓読から生まれた本来けったいな「すべからく」は、望ましいことを予告する語として現代文のなかによみがえり、確たる地位を得たのである。
その「すべからく」が近ごろどうもおかしい。---たいていは「すべて」と同義のつもりで用いているようである。

・昔から学生に「西暦5年の10年前は何年だ」ときいてやる。すると学生めらは例外なく「紀元前5年!」と答える。
「バカヤロ。紀元ゼロ年なんて年があるものか。数は一からはじまるんだ。十年前は紀元前六年だ。指を折ってかぞえてみろ」
と言うと、四、三、ニ---と指を折って、それから不思議そうに自分の指を眺め、キツネにつままれたような顔をするのである。


マンガの社会学】宮原浩二郎、荻野昌弘編 ★★☆☆ 

関西学院大学社会学部の教授を中心にした論考中心のやや学究的マンガ論で、あまり面白くはないだろうと思って読み始めたので、読み終わってもそれほどがっかりはしなかった。少女漫画に多い、双子や変身を扱った「分身」論(藤本由香里)や、「ゴーマニズム宣言」を素材にした「マンガのリミット」(瓜生吉則)などは力作だった。Morris.の専門分野?を扱った「「少女」という読者」(灘波功士)は物足りなかったが、関学には1961-92発行の19社、96種類の少女漫画雑誌の大部分を所蔵するコレクションがあるらしい。これは凄い、と思った。


海の底から地の底から】金石範 ★★★  

済州島四三事件50周年記念行事で、故郷済州島へ赴いた著者の体験をフィクションを交えて書いた作品で、おしまいに詩人金時鐘が仮名で登場し、四三事件のことを語る部分が、最近読んだ対談集に繋がる。対談を読んだ時にも感じたことだが、直接事件に関って日本に逃亡して口を閉ざしてきた金時鐘と、14年かけた大作「火山島」を始めとして、常に四三事件をテーマにしてきた金石範の、事件への対照的態度を見て、Morris.は、ついつい金時鐘の深さを斟酌してしまう。金石範はどこか傍観者なのだ。本書でも、事件関係で日本に帰化した老人を、自分なりの解釈をするばかりで、相手の心情には無頓着だったり、済州島でも、虐殺され埋められた死体の場所にこだわる割には、それに対する鎮魂の情と言うものは上っ面だけでこちらに伝わってこない。ソウルに飛んでからの知人との出会いや話も、主題から遠ざかるばかりで、小説としては中途半端なものになってしまっている。
本当は「火山島」を読んでから評価を下すべきなのだろうが、あの長さと、彼の他の作品から受ける、冗長さに二の足を踏んでいるところだ。


封印】黒川博行 ★★★☆ 

元ボクサーの釘師が、過去の警察上層部の犯した事件に巻き込まれる。秘密の鍵となるビデオテープを餌に、誘拐された師匠を助けるため、ヤクザや警察の黒幕などと渡り合うヴァイオレンス小説なんだろうが、パチンコ業界と、警官汚職などの利権構造の実態を要領よく分らせてくれるという意味で、なかなか啓蒙的な本でもあった。
著者の作品は最近良くTVドラマ化されたりしてるようだし、構成も、描写力もしっかりしている。社会の巨悪に対しても目をそらすことなくはっきり取り組んでいるし、かといって、正義感を振り回すわけではないところには好感を持った。

「全国のパチンコ店は一万六千軒、台数は三百三十万台。中規模店の年間売上が二十億。これがすべて現金商売で領収書なんぞない。国税庁によるごまかし所得の業種別一位は常にパチンコ店で、一軒あたりの申告漏れ所得は四千万円。業界の年間総売上げは二十兆に達して、いわば自動車産業や家電業界より巨大な産業やあのに、納税額ときたら、その十分の一しかない。この脱税の温床であるパチンコ業界に対して、元警察庁のキャリアが摘発防止のための政界工作を示唆し、許認可に関する助力を表明したら、金は何ぼでも徴収できる。公共遊戯調査会は、久野にとってめちゃくちゃ大きな賽銭箱なんや」


直感サバンナ】ゲッツ板谷 ★☆

 「パチンコ必勝ガイド」連載のコラムを集めた、クズのような本で、なんでそのクズ本を借りてしまったかというと、著者が、西原理恵子の身内で、彼女の作品中にもしばしば顔を出すし本書の表紙やカットもサイバラということで、つい手をだしてしまった。自分と仲間内、家族などをネタにした私的コラムで、当人や家族仲間が結構過激らしいので、ちょっとは非日常的な内容もあってとりあえず、最後まで読み通しはしたのだが、時間の無駄使いをしたという感想は否めない。


デス】廣田尚久 ★★★ 

「黙示小説」と副題にある。著者は弁護士の資格を持ち、一般向けの民事紛争解決のノウハウ書などを複数書いてるらしい。本書は近未来小説という形態をとって、先物ストックオプションなどデリバティブの本質的欺瞞をあばこうとした啓蒙小説であり、バブルの見直し、先取り社会の必然的滅亡など、経済音痴のMorris.には、苦手なテーマを、とりあえず読んでる間はわかったような気にさせてくれたという意味では、なかなかに面白かった。ただし小説としては、かなりひどいものと言わざるを得ないだろう。
日本の(円)も米国の(ドル)も亡び、汎アジア的通過「ウエン」という通貨が流通している日本で、先物買いのとばっちりで失墜した弁護士が、過去の日本の作家の小説の先見性に驚き、それの引用と、自分の体験を重ねて書いたという設定になっているのだが、高度成長期の日本に触れるときのもったいぶった説明や、日本の典型的金持ちの寓話風三代記のあまりにも図式的展開には鼻白んでしまった。
素人の金持ちをだしにする玄人の使う専門用語への、皮肉な解説などは、うがっていて面白い.。

まずプロは、素人にひとつかふたつの専門用語を教え、素人に仲間入りができたという幻想を抱かせ、相応の満足感を与える。そして次に、もう少し難しい言葉を教える。これをマスターする頃には、素人はいっぱしの玄人になったような気分になる。すると今度は、さらに難しい専門用語を浴びせ掛ける。たちまち素人は焦りだす。こういう段階が玄人のビジネスチャンスである。なぜならば、素人は、専門用語を覚えられない劣等感と、買えば専門用語を覚えることができるという期待とに急き立てられて、商品を買い捲るからである。
つまり専門用語というのは、単純なことを複雑に見せるために、意味のないことを意味があると思わせるために、偉くないのに、偉いと言わせるために、こけおどしの姿をしているだけなのだ。
そして専門用語は、人を支配し、人から収奪するために専ら使用される。
このことは、なにもデリバティブについての専門用語にかぎられるわけではない。
中世では神学上の専門用語がそのように使われたし、近代に入ってからは法律上の専門用語がそのように使われた。
ヒトが平和に暮らそうと望むのなら、くれぐれも専門用語に近づいてはならない。

バブル景気について「バブルではない。先取りだ!」というマニフェストから始まる、小説内小説の主調も、Morris.には、その通りだと思えた。

彼によれば、バブルなら消えてしまえばそれでおしまいだが、先取りは消えることがない。しかもいろいろなところに潜り込んで、先の先まで人々を拘束し、人々を苦しめ、経済を破壊する。
地価が高騰したのは、国債によって先取りされた虚の価値が、その空白を埋めようとして拘束力を発揮したものである、と言うのである。
たしかに彼の言うとおり、地価が暴騰したために、人々や企業は高い固定資産税を支払うはめになって、国家に大金を召し上げられた。そればかりではなく、人々は土地を売れば高い譲渡所得税を、土地を相続すれば高い相続税を払わされた。また企業も経理上の利益が膨らんで、高い邦人税を支払わなければならなくなった。そのうえ地価税が新設されて、土地を持っているだけで多額の税金が貸されるようになった。
こうして国債の発行による虚の価値は、地下の高騰によって税金の形で穴埋めされた。彼は、国債の発行と地下の暴騰はリンクしており、価値の先取りという点では同じものだと言うが、彼の予測どおり、地価が暴騰している間は国債を発行せずにすんだものが、地価の暴騰がいったん止まると、国は洪水のように国債を乱発したのである。

あの小説家は、人類の歴史は先取りの歴史であり、ある社会や国家が崩壊するのは例外なく先取りによるものであると言う。ひとつの社会なりこっかなりが崩壊すると、新たに所有の形態と所有者を変えてつぎの社会や国家が出てくる。新たにできた社会や国家ははじめから先取りするのもあれば、はじめは先取りをしないがやがてするようになるのもある。しかし、いずれも早晩先取りをはじめ、だんだんその量が増え、次第に加速度的に膨らんで、ついには自滅する。そして、その社会や国家の構成員は、長い将来にわたって稼ぐはずの価値を今すぐ吐き出さされることになり、自分が何のために生きているのかわからなくなる。


トッカータ 光と影の物語 日本画篇】林望 ★★☆☆☆ 

十三点の絵を選んで、それぞれから誘発された掌編をあしらったという風情の絵本??なのだろう。自称リンボウ先生のエッセイは以前続けて読んだが、創作的なものは、2,3冊読んで敬遠していた。本書は選ばれた絵が原色で掲載してあり、そのうちの数点がとても美しかったのでついつい借りてきた。想像どおり、短文は、作品以前のものが多く、読み通すのがしんどかったが、絵画の選択眼には感心した。評点が50点超えてるのはそれに負っている。

・与謝野蕪村「暗夜漁舟図」 絹本墨画淡彩 130.2×47.2cm
◎牛田?村「藁街の夕 蟹江二題」1926 絹本着色 63×113cm 
・小林清親「御茶水蛍」横大判錦絵
・池田遥邨「蚊帳の中でまんまるい月昇る 山頭火」紙本着色 63×91cm
・小川芋銭「待鶏鳴」1937頃 絹本淡彩 141.5×42cm
・帝都雅景一覧「詩仙堂」 22×28cm
◎下村観山「倫敦之夜景」 絹本墨画金彩 124.5×50.5cm
・川瀬巴水「清洲橋」木版 24.×136.4cm
・藤島武二「黄浦江」1938 水彩 紙 27.5×36.2cm
・清水登之「パリ夜街」1926 油彩 麻布 88.9×116.2cm
・鏑木清方「寒月」1897 絹本着色 66.5×29.7cm
・露殿物語絵巻「六条三筋町の景」
・有元利夫「Toccata」エッチング 12.9×9.1cm

以上十三点どれも、悪くないのだが、就中◎を付けた2点は飛びぬけてMorris.の琴線に触れた。


本が好き、悪口言うのはもっと好き】 高島俊男 ★★★☆☆☆  

中国文学専攻、大学で教えるのを放棄して、琵琶湖畔に隠棲する著者が雑誌や新聞に掲載した短文を集成したもの。
日本語の乱れを糺すにしても、馬鹿の一つ覚えのMorris.とちがって、流石にその学識の深さが違う。

「旗色」は、勝敗の形勢、ということである。ようほうは、「旗色がいい」「旗色が悪い」の二つしかない。勝っている時は旗の色も美しく見え、負けてくると旗の色まできたなく見えることからそう言われ出したのだろう。
一方、「旗幟」という言葉がある。これは、「はたじるし」という原義から、「立場」の意に用いられる。「旗幟鮮明」「旗幟を明らかにする」などのほかに用法はない。
「旗色を鮮明に」はこの両者がごっちゃになっているのである。なぜごっちゃになったのか。わたしが思うに、多分こうである。
まず誰かが「旗幟鮮明」を「キショクセンメイ」と読んだ。これは「幟」の字の読み方がわからず、「職」や「織」が「ショク」だからこれもたいていショクだろうと思ったのである。

また「新聞醜悪録」と題して、よく誤用されている言葉「子息」「指摘」「分析する」「巻き込まれる」「と見る」などへの明解な分析と指摘。
Morris.が憎んでいる「まぜ書き」(「誘かい」とか「だ捕」など、漢字で書ける熟語を漢字とかなと混ぜて書くこと)を論じた「いやじゃありませんかまぜ書きは」では、Morris.が言いたくて言い切れなかったことを、理路整然と述べてくれている。

このまぜ書きというやつは、見てのとおり甚だ見苦しいものだが、単に見苦しいだけでなく二つの点で間違っている。
いったい、当用漢字(ないし常用漢字)の思想、つまり国民の用い得る文字の範囲を制限しようという思想そのものがまちがっているのであるが---文字を制限することは事実上言葉を制限することである。
「花き栽培」などとけったいな書きかたをせずに、花を植えるとか育てるとか言えばいいのだ。「は種」より「たねまき」のほうがずっとわかりいいではないか。
それを、土台から出てきた規制だけを受け入れて、漢字は使えないからかなで書いておきましょう、というのが、第一のまちがいである。
二つ目のまちがいはもっと大きな問題である。日本語の字音語は、音が(特に漢字一字の音が)なんら意味をになえない。まぜ書きの不可の第二は、そのことを見落としているところにあるのである。

そのほかにも「支那」という言葉の正当性、書評の型見本、李白と杜甫の対照、狩野亨吉の奇矯な生き方、「歌仙」論などなど、どれもこれも、Morris.の渇を癒すに足る快作だらけだった。世の中にはまだまだ、Morris.の知らない達人がいるのだと、感じ入ってしまった。
 


グリーティング】山本容子 ★★★

 水温む、花衣、山笑う、風光る、春興、夏近し、午睡、日傘、風薫る、花火、舟遊び、麦酒、浴衣、月、天高し、秋の声、山装う、水澄む、木染月、炬燵、暮早し、冬木立、雪、息白し、あらたまの年、着衣始め、御降という28の季語にそれぞれ、銅版画とミニエッセイを添えた、瀟洒な絵本に仕立てた、彼女の個人的歳時記である。
と思ったのだが、読み終えて見返しみたら、

「雪」山本容子

本書は、ホテルニューオータニ大阪の広報誌"Greeting"に1993年から1999年にかけて掲載された銅版画とエッセイに季語をつけ、加筆・改稿して構成したものです。

と、あった。どうりで、全体にハイソなアダルトカップルが、余裕こいて楽しんでる風景が多かったわけだ。タイトルも、つまりは出自を重ねている。それにしても、山本容子の版画は、色彩といい構成といい、お洒落だよなあ。装飾画としては現在ピカ一かもしれない。Morris.のこのみとは微妙にずれるのだが、大いに感心する。エッセイの方は、イラストの邪魔にならないくらいの、軽い作風のものがよい。

バーズ・アイ---鳥瞰でものを見ると、世界が拡がるので気持ちが良い。日常でその気分を味わえるのは飛行機に乗った時。一定の速度で飛行しながら眼下の世界を見ていると、創造主になったような気持ちがするが、鳥のように急上昇や急旋回して自由に世界とたわむれていたいとも思う。私はパノラマのような視点で見た世界を描くのが好きだ。その時私は空間と時間の壁を超え、天使になった気分で世界と遊んでいる。(風光る)

イラストのうち一番好きだったのは、季節が外れだが、雪を見ながらワインを飲んでるものだった。雪を白いスキーヤーに見立てて空中に浮遊させるイメージが秀逸である。
こういう世界は、スノップなのだろうが、これはこれで幸せなんだろうな。


【「三島由紀夫」とはなにものだったのか】橋本治 ★★★

 あまり相性よさそうにない、橋本-三島という取り合わせだなと思いながら借りてきたのだが、やはり面白くはなかった。「作家」である橋本にとって、三島という「文学者」は別世界の住人である。らしい。

私の中で、三島由紀夫はとうの昔に終わっている。二十一世紀の今になって、わざわざ終わらせる必要はない。私にとって、三島由紀夫は「目の前にたちはだから大きな存在」ではなかったのである。
この本を書くことは、私にとって、「行かなくてもいい領域に一歩ずつ足を踏み入れる」ということだった。
戦後25年が過ぎた三島由紀夫の死は、ためらいの末に得られた不十分な一歩の上にあった。だったら、そんな「戦後」は捨ててしまえばいいのである。(あとがき)

あとがきで、こんなことを書くくらいだから、橋本にとってこの本は、別に書かなくてもよかった類の本だったのだろう。鬼才橋本だから、そんな本の中でも、ユニークな視点、発見、小説論をくりひろげて見せてはくれるのだが、いかんせん、Morris.の唯一の評価基準である面白い/くないからすると、駄目本の部類になる。その割に評点が高いのは、内容がいまいちでも、橋本の文体が好きなことと、作品の構造を手品の種明かしをするように鮮やかに明示する手際に見惚れてしまうからだ。たとえば、「サド侯爵夫人」論の一部などがその好例だ。

修辞(レトリック)と論理(ロジック)は一体となって、論理(ロジック)が複雑になればなるほど、装飾(レトリック)もまた過剰に盛り上がる。そして、その過剰に装飾的となった文体の中から、我々は明確なる作者の論旨を聞き取ることが出来る。そういう完成度を示した戯曲は、三島由紀夫の中で『サド侯爵夫人』が隋一である。
装飾(レトリック)は骨格(ロジック)を容易に見失わせる。しかし、『サド侯爵夫人』にそれはない。なぜそれがないのか?つまりは骨格がはっきりしているからである。そして、だからと言って、『サド侯爵夫人』という戯曲の構造は、「装飾を全部剥ぎ取っても、明確な骨格は健在である」という質のものではない。なにしろこれは、[譬へでしか語れない人]を語る劇なのだ。かくも骨格が明確であるにもかかわらず、『サド侯爵夫人』からその装飾を剥ぎ取ることは出来ない。それをしたら、その骨格もまた同時に消え失せてしまう---『サド侯爵夫人』は、そのように不思議な構造をもつ戯曲なのである。それはどういうことなのか? つまりは、この戯曲の中で、装飾における「論理を迂回させる機能」が完璧に作動しているということである。
「論理を迂回させる機能」とはなにか? つまりは、「隠す」である。「言いたいことを隠しながら、言いたいことを存分に語る」という矛盾が可能になってしまっているのが、この『サド侯爵夫人』である。

実に巧いもんである。この後に導き出されるのが、サド公爵夫人ルネを三島由紀夫自身に、モントルイユ夫人(ルネの母)を三島の庇護者である母に見立てて、その関係、確執を隠しながら、存分に書きおおせ作品だという、やや拍子抜けの結論となる。Morris.としては結論より、過程のほうが面白かった。
どうでもいい作家について、こんな本を書けるのなら、次は、ぜひ、久生十蘭論、山田風太郎論、石川淳論などを物してもらいたいものだ。


日本数寄】松岡正剛 ★★★

 雑誌「遊」の頃から、松岡正剛の知識のパワーには圧倒され続けている。
編集工学研究所というシンクタンク(ちょっと違うかも)での、情報の捌き方ひとつとっても、ただものでない。著作でも彼の編集した「情報の歴史」などは、使い過ぎて表紙が破れそうになっている。単独の本でも「ルナティック」「フラジャイル」などにはほとんど手放しで賞賛したものだ。ただ、彼の著作は、かなり出来不出来があり、本書は、どうやら不出来の方に属するようだ。
発表日時も、媒体も、テーマもばらばらな短文を日本の意匠、神仏論、茶道と数寄、江戸文化の四本柱に「編集」した手際は、見事といえなくもないが、やはり、求心力を欠く。
とはいえ、彼の核白な知識と、薀蓄、殊にジャンルの違う人や物を結びつけて新しい体系を立ち上げるやり方などには、感心するほかなかったりする。

日本ではどの文字システムを選定するかではなく、入ってきた漢字と従来からの倭語や和語をくらべて、どの読み方やどの意味あいをどんな文字アソシエーションに含意していくかということが、文字文化の最初の重大な編集作業になっていったのである。
こうして、文字づかいと意味づかいの相互的編集関係をどのようにつけるかが、いいかえればどのように生かしあうかということが、新たな文化編集技術の眼目になった。いわば古代日本は早々にして、メルロ=ポンティのいう「ふくみあい」(implication)の編集術を創意工夫することになったのである。
漢字の渡来は「漢字という文字システム」の導入ではなかった。
日本は中国語を使いはじめたわけではなかった。
漢字の表意性と音標性を別々に、かつ巧妙に利用しつつ、和語(倭語をはじめとした各地の言葉)を生かしていこうとした。いわば漢字はプログラミング文字として重宝され、古来の和語のもつミームがそのまま生かされたのだ。(編集文化数寄)


風穴をあける】谷川俊太郎 ★★☆☆  

文庫解説や添え書き、新聞雑誌の記事、故人への思い出など、短文を集めて一冊にしたもので、読む側も、興味のある部分だけはちゃんと読んだが、後はとばし読みしてしまった。内容も玉石混交というか、かなりむらがある。

短歌、俳句などの定型の伝統を選ぶ道を私はとりたくない。七五から離れることで私たちは詩の秩序を失ったかもしれないが、同時に大きな混沌を得たのだ。その混沌のうちにひそむ可能性を私は信じている。もうひとつ、我々のいわゆる現代詩もまた、広義の「詩的なるもの」にその根を下ろしていると思うが、その「詩的なるもの」からいかにして「詩」を析出させるかということが、変わらぬ課題であるのは時代を問わないと思う。(なぜ「詩」を選ぶか 詩学 1988・11)

あれだけ明晰な詩を書く著者が、散文になるとなぜこんなに、回りくどい悪文を書くのだろう。「析出」という、Morris.の見慣れない言葉が出てきた。大辞林によると「液体の中から固体が分かれて生成してくること。--以下略--」らしい。詩人は、詩について語るより詩を書くべきなのだろう。

若い時の寺山修司との交流、思い出話は、ちょっと意外で面白かった。
漱石の「猫」の文庫解説は、文体模写しながら「猫」の本質を突いた良いものだった。

『吾猫』に登場する高等遊民どもは、有り体に申せば現代の「おばさん」である。アンドレア・デル・サルトルなどは、カルチャー・スクールに通う現代のおばさんなら誰でも知っている。吾輩はそう考えて胸のつかえが下りたような気になった。いい年をした働き盛りの男たちが世間話に日を暮らすのは、彼らが実はおばさんだからである。金持ちを嫉妬羨望するところもおばさんである。しかし吾輩も認めざるを得ないが、これには先見の明というべきところがないでもない。声高に天下国家を論ずるより、日常の瑣事にも波瀾あることを察知して世間話に低徊するワイドショーの流儀は、男女の別が徐々に曖昧になりつつあるこの世紀末においてはむしろ人間性の深淵をかいま見る方法として有効なものだろう。漱石という男はそこを見通していたのに違いない。(牛の涎 集英社文庫解説 1995)


原野の詩】金時鐘 ★★★☆☆☆ 

「地平線」(1955)、「日本風土記」(1957)、「新潟」(1970)、「猪飼野詩集」(1978)、「光州詩片」(1983)という既刊の5詩集に、若干の未刊詩を加えて1991年立風書房から出された、金時鐘集成詩集である。詳細な年譜も附された大部(893p)の著作で、さすがに読み応えがあった。「猪飼野詩集」だけは、以前に目を通したことがあるが、先般金石範と金時鐘の対談を読んだ後だけに、この詩人のトラウマ/恨(ハン)としての済州島事件の影が、全体に色濃く残っていることが視て取れた。特に長編詩「新潟」に、その痕跡が顕著である。
本書は、新しいものから古いものへと並べてあるが、Morris.は逆順に読んだ。初期の作品は、組織の中にあっての制作だけに窮屈な感じは否めない。それでも詩人の詩心は隠れもないのではあるが、組織と一定の距離をおいてからの作品とりわけ「猪飼野詩集」の、すこーんと突き抜けた感じを受ける作品がやはり一番好ましい。

人はそれぞれ自分の詩を生きているのであり、詩人はたまさか、ことばによる詩を選んだものに過ぎない。その「ことば」に依らない詩を生きている多くの人たちのつかえたことばを、だからこそ詩人には自分のことばに重ね合わす責務が栄光をともなって負わされているのだ。私の詩がぜいたくなまでに時をむさぼってばかりいるのも、この無口な他者の喩に通底する喩を、己れのことばとして対置できないでいることのもたつきである。ひねりだすことばに窮しているのではなく、すでに在ることばをかかえきれないでいるもどかしさなのだ。(1983「図書」)

こういう覚悟で詩に臨んでいる金時鐘の詩を、ことばによる作品としてのみ見ることは、詩人の望むところではないだろうが、Morris.は、好き嫌いしか言えない。そして彼の作品のいくつかは、Morris.にも不思議な光芒を放ちながら胸に突き刺さってくるのだ。

自分の祖国を 勝手に変えさせ
行きたくもない国へ 無理じいに送りこみ
仇敵売国奴どもの 矢面に立たせようとする
そんなやつばらどもに まつ向きつてのデモ行進だ(キャメラ「地平線」)

このようなストレートな意思表示にさえ、金時鐘の言葉選びの巧さを見てしまうのは、Morris.の眇目なのだろうか。

働くとこない 朝鮮人。
使つてくれない 朝鮮人。
子供をよく生む 朝鮮人。
もつともよく食う 朝鮮人。
なにして食うのか? 朝鮮人
ドロボーして食え 朝鮮人。
ドロボーはいやで やみ商売
やみが恐いで 屑ひらい
屑をひろって 朝鮮人
泥にまみれて 朝鮮人
朝鮮人の金持は
きまつて同じ たて看板。

何んでも買います。「よせ屋」
 同族同士の あいだの中で
 身ぐるみ売つても 足らなんだ。(在日朝鮮人「地平線」)

ここには、差別や矛盾に対する怒り以上に、同朋を鼓舞する力と愛を感じ取ることができる。

うなだれる
白昼の闊歩より
跳梁を秘めた
原野の
夜の
徘徊を選ぼう!
捕われた
国の中で
捕えたものを
捕えるのだ。
闇に
青白く
眼光を燃やし
豹変する
豹へのイメージに
爪を研いだ。
通路を無視したものにとって
世界は 
なんと
自由であったことか!

病魔にあえぐ
故郷が
いたたまれずにもどした
嘔吐物の一つとして
日本の砂に
もぐりこんだ。
ぼくは
この地を知らない。
しかし
ぼくは
この国にはぐくまれた
みみずだ。
みみずの習性を
仕込んでくれた
最初の
国だ。
この地でこそ
ぼくの
人間復活は
かなえられねばならない。
いや
とげられねばならない。(雁木の歌「新潟」)

一つもないのに
二つもあって、
朝鮮と呼んでは
けんつくを喰って
韓国とてもくになのに
反共とかで朝鮮でなくて
それでも子らには一つをいうのさ。
いまにその日が来るんだよ。
一つのくにに帰れる日がさ。
おれすら知らないそのくにを
おれが頒けておれが聞く。
アパのくりごと、 年ふりたこと。
いつとはなしに しみついて
知りもせぬのに忘れないのさ。
いまに来る日があるんだよ、
来たからには 帰れる日がさ。

あーア、そうだとも!
居つくにしてはつらすぎる。
なじんだにしては はみでてる。
異国ぐらしが 旅であるなら
だれにも終わる 旅はあるさ。
いまにその日がやってくる。
焦がれて消えたその日が来る。(それでも その日が すべての日「猪飼野詩集」)

なくても ある町。
そのままのままで
なくなっている町。
電車はなるたけ 遠くを走り
火葬場だけは すぐそこに
しつらえてある町。
みんなが知っていて
地図になく
地図にないから
日本でなく
日本でないから
消えててもよく
どうでもいいから
気ままなものよ(見えない町「猪飼野詩集」)

おしやられ
おしこめられ
ずれこむ日日だけが
今日であるものにとって
今日ほど明日をもたない日日もない。
昨日がそのまま今日であるので
はやくも今日は
傾いた緯度の背で
明日なのである。
だから彼には
昨日すらない。
明日もなく
昨日もなく
あるのはただ
狎れあった日日の
今日だけである。(日日の深みで「猪飼野詩集」)

明け方か
日暮れ
パタンと板が落ち
ロープがきしんで
五月が終わる。
過ぎ去るだけが歳月であるなら
君、
風だよ
風。
生きることまでが
吹かれているのだよ。
透ける日ざしの光のなかを。

誰かを知るか。
忘れるはずもないのに
覚えられないものの名だ。
日が経ち
日が行って
その日がきてもうすれたままで
揺れて過ごす人生ならば
君、
風だよ
風。
死ぬことまでも
運ばれているのだよ。
振り仰げない日ざしのなかを
そう、そうとも。
光州は さんざめく
光の
闇だ。(骨「光州詩片」)


第三閲覧室】紀田順一郎 ★★★ 

古書収集家である私立大学学長が手に入れた、幻の詩集の真贋の謎を巡る、古書ミステリー。燻蒸中の図書室質での女性殺人事件をに巻き込まれた出版学の研究者と知人の古書店主、さらには紙博士、新聞記者、図書館員などが得意のジャンルの知識を駆使して真相を解明しようとする。彼の作品としては、ミステリーとしてもなかなか力作といえるのだろうが、トリックや、動機、犯行方法などが不自然に過ぎる。Morris.の興味は、書誌的記述、偽古書を作るテクニック、希覯本談義などに集中して、その意味でも本書は楽しめた。戦前の詩集を偽作するための用紙に改造社版の円本文学全集のみ返しを使うというアイディアは、分らないでもないが、何故わざわざ全巻揃いのものを破砕して使ったのかがよく分らない。この全集なら、現在でも破本なら、1冊百円くらいで手に入るくらいありふれたものなのに。
幻の詩集を、古書店主が、こっそり見せてもらう時の描写などは、かなりこっている。

震える手で、岩下はその濃茶色の表紙を開いてみた。灰色の見返しの次に薄葉紙が一枚。扉は本文用紙と共紙で、やや黄ばんでいる。「陽炎」という書名、「滝口謙三」という著者名、そして「ロン書房」という出版社名、「1941年」という刊年がそれぞれ明朝体の横組みで印刷されているだけの素っ気ないものだが、さすがに活字の大きさや配置には高いセンスが感じられる。
目次はニページ見開きとなっていて、「花粉」「端艇」「鹹湖」「寓話」「異邦」ほか自選と思われる作品が、目分量で二十篇ほど並べられている。みな有名なものばかりで、まちがいなく滝口の詩集である。全体は八十二ページ。奥付に「一九四一年六月十五日発行」、「定価三円」とあるが、おそらく自費出版であろう。
岩下は慌ただしく本文を覗いてみたが、彼もきおくしている「座標」の「村は凍結した湖底に沈み、血のように赤い月が、裂けた氷海の涯に漂う」という一節や、「寓話」の「無言の年代が、耐えている人蒸気の中から、熱した灰色の猛鳥が飛び立つ」などという表現が目にとびこんできた途端、何かこわいものを見るような気分になり、本を閉じてしまった。

滝口という詩人が作者の空想の産物だとしたら、拍手ものだね。引用の部分だけでも、本字、旧仮名遣い表記を用いたら、もっとリアリティがあったろうに、と惜しまれる。


沈思彷徨】藤原新也 ★★★☆☆ 

70年代、アジアを中心に世界を遍歴し、写真と紀行を発表、83年の「東京漂流」でセンセーションを巻き起こした筆者の69年から96年まで27年間の「語り」(インタビュー、対談、モノローグ、講演)を集成したもの。「東京漂流」と「メメントモリ」はMorris.も発表当時読んで強い印象を受けた。また彼の旅の書は、その後のバックパッカーや若い旅行者に大きな影響を与えた。
本書はおおむね、時代順に
1アジア放浪期(-82) .2.東京漂流期(83-87) 3.アメリカ観察期(88-90) 4.ホワイトアウト(91) 5.家郷/門司(91) 6.その後(92-96)の6章に分けられ、最後の7章('96/05)は本書のための語りおろしとなっている。

・インド人の生き方というのは基本的には人生讃歌です。いちばんそれが表われているのはインンドの歌だね。特に女の声はこの世のものとは思われないほど汚れがない。('87)

・アメリカの美学は、若さとか新しさ。いわゆるニューということが価値です.老いや死の美学はなく、あるのはそれに対する嫌悪ですね。インドや中国ではまだ老いの美学があります。日本にもかつてはあった。そういった美学を持った老人は美しかった.('84)

・中学生のいじめに性の問題抜きに語るというのは公平を欠くね。あれはひとつにセックスの代わりみたいなもんだ。---あれは一つの小学生中学生のSM状況と考えられなくもない。二者とも犠牲者なんだ。ガス抜きとしての、イジメ・イジメられって関係があって、それを、また管理していくわけでしょ。そうすると、もうあと、自虐しかなくなっていくのね。('86)

・カタストロフ願望というのは破壊願望じゃないんですよ。本当はここまで人間阻害してしまった世界をどこかで再編成するという再生願望が、破壊願望につながっている。あれはあくまで希望的な言葉です。('87)

・この震災(神戸地震)は、地面を蔽うコンクリートがめくれるように、人間的な感情を覆い隠していた皮膜を一気にひっぺがした気がする。そのとき私たちは、思い出したんだ。私たち自身を。自分と地続きの日常的な風景のなかで、人間の喜怒哀楽が惜しげもなく吐き出されている。そんな具体的な映像を地上から見せられたところで、記憶喪失者があるショックで自らの過去を思い出すように、忘れていた人間的な感情をふたたび思い出したんだ。あの神戸の他者を思う熱狂は、そういった自分を思い出した感動でもあったと思う。俯瞰映像と、地上からの映像と、二つのものが日本人に与えた感情はそのように分裂していた.その分裂は今げんざいの日本人の人間性や、社会と人間との関係をよく現していたと思う。---震災は封殺されていた感情を思い出させるとともに共生の感情をも強く刺激した.。なによりもテレビで毎日映し出された被災者たちが互いに無私の感情で共生しようとする涙ぐましい助け合いの風景に、奇妙なことに私たちが忘れていたあの共生のユートピアを垣間見たんだ。ボランティアで熱狂的に神戸へと走っていく若者たちの姿は、私には崩壊という名のユートピアに向かって行く迷える羊のように見えた。('96)

・多国籍国家であるアメリカの唱える平等思想はクリーン思想と同じようにそれ自体で間違っているとは言えない。しかしクリーンシンドロームが免疫不全を生んだように、平等思想がやがて人間の自由な心を縛るようになる。みんな平等であらねばならないという強迫観念が極端な差別排除を生み出し、今では自由にものが言えなくなっている。人間は言葉の動物だ。言葉を縛るというのは心を縛るということに等しい。私はこれを言葉のアパルトヘイトと呼んでいる。('96)

・宇宙規模で大きく言えば、人間という生物がそんなに生き延びる必要があるのかどうかという問いも私の中になくはない。あらゆる種が寿命をもっているのと同じように人間という種も寿命を持っているだろうし、人間だけがそれから逃れられるわけはない。('96)

・(日本は)戦争に負けて、戦前まで日常生活の中に根づいていた儒教や仏教や神道的な規範も薄れた。そして農業というものがあらかじめ持っている自然というものによる人間への教えも戦後に農業社会から産業社会に移る過程で非常に弱くなった。そして悪いことに農耕を営む過程で日本人の基本的な性格となった他力本願的な側面と、本音志向だけが居残ってしまった。本音を正直と評価する傾向もあるが、身体の本音に従うと快感原則に向かうわけだ。つまりこの時点でどこの国にも自明のこととしてある精神的なあるいは宗教的なタガのない、ただ本音垂れ流しの快感原則と物質や自分の勝ち負けを追うだけの奇妙な民族が出来上がった.GNP世界一になったって威張ってがことがあったが、逆を言えば私たちはそういったものに歯止めをかける精神的なタガを持っていなかったからこそここまで異常に肥え太ったと言える。八十年代までかろうじて暴走の歯止め機構になっていた左翼的なタガもなくなり、やがて全部が右肩上がりとなる。「功利全体主義」時代到来だ、その行き着く先がバブルだった。('96)

東京漂流以来、一貫して著者の批判の舌鋒は鋭い。
殊に日本人と日本の現状への対応は、それこそ「自虐」にすら見える。しかし、これを否定するのではなく、肯定的に乗り越えるしか、道はないのだという思いは否めない。しかし、本書が出てすでに6年が過ぎての、今の日本の現状はどう考えても、一層悪化しているとしか思えない。


【お笑い 日本の防衛戦略】テリー伊藤 青山繁春 ★★☆☆  

テリーのお笑いシリーズの一冊のはずなのだが、これは「お笑い」に×印がついている。笑い事ではないということなのだろうが、その分面白味に欠けるものになった。NYの貿易センタービルテロの直後に行われた対談をまとめたもので「テロ対策機密情報」と副題がある。青山氏は「戦略アナリスト」らしい。
憲法9条戦争放棄が、日本の防衛と自衛隊を矛盾したものとしている、という意見はめずらしいものではないが、原発のあやうさと、米軍基地の存在の理由、北朝鮮の本音などを分りやすく教えてくれるという意味では、それなりに有意義だったが、やっぱり面白い本ではない。


ポサダ版画展カタログ 【ホセ・グァダルーペ・ポサダ--生と死の祝祭--】 ★★★★  

1989/05/26から07/16まで、名古屋市美術館で開かれたポサダ版画展の、カタログらしい。ポサダの名は長田弘の詩集のカットでお馴染みだったし、昨年読んだ「 詩人であること 」でも、ポサダに一章が割かれている。
これは先日サンパルの巨大古本屋MANYOで見つけたのだが、ビニールで密封してあったので内容がわからないので買わずに帰った。その後、ずっとり気になって、1週間後に買いに行った。売れてなくて良かった。想像以上に素晴らしい本だった。50点近くの版画が収められていて、そのうちMorris.のお気に入りの骸骨ものは14,5点だが、なにしろ紙質が素晴らしい。ほとんど藁半紙である。ポサダの作品を刷るのにこれ以上の紙は考えられない。これが光沢のあるアート紙だったら、魅力は半減するだろう。レイアウト、装丁も秀逸だ。一枚刷りの雰囲気を出すためと、裏写りを考えて、ほとんどが片面印刷になっている。更に骸骨絵の絵葉書8枚がふろくに付いていて、おまけ好きのMorris.を狂喜させてくれた。これが入っている袋がまた洒落ている。故意か偶然か、挟み込んであった展示会のチラシも、カタログの表紙をモチーフにしてあり、見惚れるくらいの出来栄えだ。いやあ、これはもう、絶対最初見たときに買うべきものだった。よくもまあ、1週間もたなざらしになっていたものだ、と、今さら安堵の溜息が漏れる。
手に入れた興奮ばかりを書いてしまった。肝心の版画と、版画家について紹介しておかねば。

ポサダ(JOSE GUADALUPE POSADA)は、1852/02/02メキシコのアグアスカリエンテス市で、貧しいパン屋の息子として生まれ、幼い頃からリトグラフ、エングレービングを学び、15歳で職業画家となる。
1870年代には、風刺画家としても活躍を始め、84年からは中学教師としてリトグラフを教えたりもした。
88年メキシコシティに移り、ポサダ工房を開き、大衆新聞、チラシや、詩集、童話、劇場案内など、大衆の愛好するあらゆる出版物に挿絵を提供した。彼の政治風刺画は、革命を影で顫動したと言われるくらい、民衆の心を掴み、鼓舞し、昂揚させた。
ポサダは生涯に1万点とも2万点とも言われる膨大な版画を制作している。そのほとんどが赤や緑、ピンクや黄色の安っぽい粗悪な紙に一枚刷りされている.
最も評価の高い骸骨(カラベラ)をモチーフにした作品は、大部分が、メキシコの伝統行事「死者の日(11月2日)」のチラシのために制作されたが、「死ぬべき存在」としての人間を痛烈に皮肉りながら、生きている人間よりも生き生きした骸骨の姿で描かれている。西洋の「死の舞踏」と類似しながら、それを突き抜けた明るさを持っているのも、ポサダの版画の魅力である。そのほか、宗教、災難、政治風刺、事件など多様なテーマを取りあげて、当時台頭し始めた写真を寄付けない強烈な描写で、人心を捉えてやまなかった。
しかし、彼は1913/01/20、61歳で孤独と貧困の中で死ぬ。
後のメキシコ・ルネサンスの巨匠、オロスコとリベラは、ポサダの再発見者でもあり、ポサダの影響力の大きさを評価してやまない。

うーむ、いけない。ポサダについてはほとんど何も知らないMorris.が、カタログの年譜と、解説の孫引きでえらそうに説明するというのは、そもそも無理があったようだ。
画集というものは説明するものでなく、見るものだ。「百聞は一見に如かず」である。
もともとヴィジュアルには甘いMorris.が、これだけベタ褒めの画集に80点とやや辛口なのは、やはり骸骨シリーズの点数が少ないのと、もう少し色つきのザラ紙を使ってほしかったためである。

美術におけるユーモアの発生は、明解で純粋な形式として、私たちに極めて身近な時代に起こったことのように思われる。その第一の実践者は、メキシコの画家ポサダである。その素晴らしい民衆版画において、1910年革命における戦闘のすべてを私たちに実感させてくれる。その喜劇の経緯を、思惑から行動まで語り尽くし、その実に見事な葬式に相応しい玩具として、:メキシコがブラック・ユーモアの聖地であることを感じさせてくる.。---アンドレ・ブルトン

ポサダは最も偉大な巨匠たちに匹敵する画家であり、純真、謙遜、平静、威厳において、賞賛に値する教訓的な存在である。現在におけるありふれた憎悪や卑怯な態度とは実に強烈な対照を見せている。---ホセ・クレメンテ・オロスコ

誰がポサダの記念碑を打ち立てるのか? いつか真実の革命を成し遂げるものたち、すなわちメキシコの労働者や農民たちである。ポサダの名前は偉大であるがゆえに、おそらくいつの日にか忘れ去られるだろう! メキシコ民衆の魂と統合するがゆえに、ポサダという個人は完全に消え去ってしまうことになるだろう。---ディエゴ・リベラ

この展示会の出品作は名古屋市美術館所蔵らしいから、機会があれば、現物(といっても、印刷物にはちがいないけどね)にお目にかかりたい。


【なぜ書きつづけてきたか なぜ沈黙してきたか 済州島四・三事件の記憶と文学】金石範・金時鐘 ★★★★  

済州島出身の作家と詩人、「鴉の死」「火山島」などで、済州島事件をテーマに書きつづけた金石範と、事件に直接かかわり日本に逃亡して事件に関してはほとんど口をつぐんできた金時鐘との対談を中心に、文京洙の概説、関係者の証言、詳細な年譜などで、構成された非常に重い読後感を与える一冊だった。
光州事件なら、まだしも人口に膾炙しているし、韓国国内での論及も少なくないが、済州島の四・三事件となると、ほとんど知られていない。Morris.も、簗石日の本ではじめて知ったくらいだ。朝鮮戦争直前の時期に始まったこの事件は、韓国では、「共産暴動」として片付けらてきたが、短期間に3万から6万もの人が、虐殺された事実だけからも、簡単に見過ごすことのできる事件ではないことが想像される。これまで、知らされてこなかったことの理由は、本書を読んである程度理解できたが、表ざたになりにくい事情自体に、問題の根の深さがあるということもわかった。
四・三事件という名称は、1948年4月3日の済州島武装蜂起に由来するが、47年3月1日の済州邑で独立運動記念集会後のデモに軍政警察が発砲し、十数名の死傷者を出した日に始まり、54年9月21日漢拏山に布かれた禁足令が解除されるまでの6年間にわたる長期の事件だった。その間に朝鮮戦争が勃発している。
済州島という孤島が、「アカの根城」とみなされ、アメリカ軍の後押しで、韓国警察と、北朝鮮から南下した反共グループによって、壊滅的弾圧を受け、始めは島民の支持を受けて、優勢だった抵抗勢力が次第に追い詰められ、ほとんどが虐殺されるばかりか、一般の村人たちも、協力者として集団処刑されるという悲劇が、長期間継続した裏には、米ソの綱引きと、南北分割体勢を前提とした、外交の駆け引き、「反共」を旗印にした大韓民国の国威昂揚としてのデモンストレーションの意味もあったようだ。
この事件に限らず、朝鮮半島の戦後の混乱のすべてが、日本の植民地支配の影響/遺恨/悪縁を引きずっていることはいうまでもない。在日問題ももちろんその延長縁上にある。

本書の編集に関った唯一の日本人関正則の編集後記の一部

日本の植民地支配と米ソの冷戦に身を引き裂かれ、終にいずれの国家にも帰属することなく、統一朝鮮に祖国を幻視しつつ、「日本語」文学にディアスポラとしての自らの歴史と思想を構成した二人の文学者。その対談の中で通奏低音のように響いているのは、こうした逆説と不条理に身をねじるように搾り出される、「不在」と、「在日」「離脱」と「残留」とのねじれた意味の問いかもしれない。植民地支配から「解放」されたはずの人びとが、なぜ解放された祖国で生きることができず、植民者の国家で、しかも再び差別の下に生き延びなければならなかったのか。植民地を解放したはずの「解放軍」は、なぜ植民地支配の同盟者と結託し、解放された人びとを殺戮したのか。戦後の「ねじれ」をいうならば、日本の戦後の内部ではなく、まさにこうした朝鮮半島と日本列島のはざまにこそ、それは指摘されるべきだったのではないだろうか。

これこそ、在日朝鮮/韓国人の本音の代弁だろう。

金時鐘  四・三事件というのは、アメリカのいう正義とか自由とかの本質を明かす歴史的事件でもあるんですよね。第二次世界大戦以後のね、米ソの二大超大国が角突き合わせる中で、アメリカ軍と民衆の側がね。限られた地域で衝突したのは済州島しかないんですよね。それもひと月やふた月のことじゃなくて、実質二年近くもかけてね。これはもうそのまま、アメリカの戦後政策というのかな、うちの国をめぐっての戦後処理、これは日本も含まれますが、「反共」という「大義」のためには手段を選ばないアメリカの、残忍な体質をもっとも露呈した事件だとおもいますね。それに日本とのしがらみもアメリカの占領政策とからんで四・三事件をより残酷なものにしている。ぼくたちは当然、帝国主義日本の植民地統治から解放された戦勝国に準ずる国民であったにもかかわらず、国を分割されたり、思想信条を規制されたり、拘束されたり閉じ込められたりね。民族受難を強いられたのは戦争犯罪国の日本ではなくて、ぼくたち朝鮮人のほうなんだよな。

金石範  日本語は戦前、鞭と脅迫によって覚えさせられたものだ。それは戦後一旦、否定されたはずのものだった。ところが今度は、日本にやって来て再び日本語を使って詩を書くとなった時、時鐘にとっての日本語の意味は、心理的にもずっとおった人間とは違う要素をもってくるんじゃないかと思う。そこに見えるのが論理性である。私の言う論理性というのは、意志の力だ。時鐘の詩は意志だ。意志は必ず論理性を持っている。構想的な力です。

金時鐘  ぼくは、在日の関係では自分が主人公になってはならないんです。たとえウリマル(母国語)の蓄えが浅かろうと、日本で生まれ育った朝鮮人たちが、在日を生きる主人公ですよ。「在日を生きる」というのは、そういうことを言っているんだ。あれはぼくが言い出した言葉です。
そうして自分の言葉とは何かを必死で考えるようになりました。ぼくは「在日朝鮮人語としての日本語」というい言い方をしています。在日の古い世代の使っているのは「日本語」ではないんです。「在日朝鮮人語」としての日本語なんです。そういうことが表現の世界で復権できれば、という思いを「在日を生きる」中で考えたりしてきている。それで世に受けない生活ばかりやってきているわけです。

二人の在日文学者の著作を今一度読まねばならぬと、いう気になった。



【陋巷に在り12.聖の巻】酒見賢一 ★★☆☆☆ 小説新潮に長期連載されている作品で、Morris.は雑誌は読まないし、単行本も図書館に出るまで待つので、本巻も雑誌購読者より1年以上遅れて読んでることになる。それはまあいいのだが、これだけの長編を1年に1冊か2冊かのペースで読むというのが、だんだんMorris.には苦痛になってきたらしい。特に筆者が遅筆というわけではないのだし、物語は粛然と進行しているわけだが、Morris.の方がだんだんじれて来たのだろうか。孔子の弟子顔回を主人公とした奇譚なのだが、従来の歴史小説にはなかった呪術、巫術の哲学的考察と、端正な筆捌きに惚れこんでいたのだったが、本巻に到って突然読むのが苦痛になってしまった。ストーリーが孔子と顔回の故郷尼丘の壊滅、成城を巡る不毛の争いといった、重苦しい場面が多かったせいもあるのだろうが、できることなら全巻完結したものを一気に読みたいものだ。特に本書の一つの柱である、術者と巫者の争い、戦闘の場面が、他の哲学的部分とかけ離れて、そこだけが、TVゲームめいて安っぽく浮き上がるのが目に付く。著者のサービスなのかもしれないが、Morris.は、好きではない.


音楽少年誕生物語】畑中良輔 ★★★ 

大正11年(1922)生れの現役最長老バリトンの自伝的小説と、帯にあるが小説とは言いがたい。功なり名遂げた音楽家の回想記ということになるのだろう。「音楽之友」に連載中のうち東京音楽学校(現東京芸大)に入学するまでの分をまとめたもので、これから続編も出される予定らしい。
実は本書は、ひょんなことから、著者から進呈されたものである。話せば長くなるので詳しいことはMorris.日記を読んでもらうことにして、こういった献呈本は、義理で読むことが多いのだが、本書はなかなか面白くて一気に読み通した。著者は若い時に文学少年であったというだけあって「書く」ことに関してもいちおうの水準をクリアしているし、戦前の時代の記録としても価値があると思う。しかし、それよりも著者の少年としての観察、感想のみずみずしさが、本書の魅力だと思う。門司で生まれて、受験のため上京する少年の何でもみてやろうの好奇心が、半世紀以上を経て蘇った感がある。


天門】石川淳 ★★★★

 84,5年に「昴」に連載されていたものらしいが、Morris.は全く知らずにいた.もともと石川淳は、何となく敬遠していたのが、一昨年「鷹」を読んで感心して、しばらく読み漁ったものの、またしばらく遠ざかっていた。本書は中央図書館でなんとなく手にとったものだが、非常に面白かった.
幼い時偶然に最愛の祖母を殺したという原罪を負う男が、虚無的に暮らしていたのを、海運業主に見込まれて、海外育英会の顧問を引き受けたことから、海外特にアジアへの関心を深めていく。男は幼馴染の女性の愛で、原罪から救われたいと思いながら、別の愛人との関係も続けていく。地域も時代も漠然と曖昧にしながら、個々のディテールは実に緻密だったりする、石川淳特有の幻術的文章に、いつのまにか虜にされてしまった。
本書はどちらかと言うと彼の娯楽性の強い作品に属すると思うのだが、それでもやはり巧いとおもわずにはいられない。性行為の描写など、何も書かずに理解させるという、至難の業を披露してくれるし、ご都合主義的人間の連環も、優れた将棋さしの駒の詰手とか、熟練した画家の絵の具の配合の妙といったものと同様に、思われた。多数の登場人物それぞれを、祝着させる大団円は本書が御伽噺仕立てであることを、示唆している。つまりこれは、現代(当時)の浮世草子、裏返しの好色一代男といえるだろう。ラストで男が貨物船でアジアに赴くところも一代男の末尾に対応している.
高踏的であり、虚無的であり、現実的であり、空想的でもあり--とさまざまなスタイルを「物語り」に収斂させる手際は見事であるというしかない。文体は前から感心しっぱなしで、言葉の選び方もさすがとうなるところが多いが、なぜか「高見の見物」という表記が出てきてちょっと驚いた.意識的なのか、それともケアレスミスなのだろうか。重箱の隅をつつくと言われれば、そのとおりなのだが。
本書では、性格の違う男たちにそれぞれの恋愛観を開陳させている。なかなかにうがった言い回しもあって、その部分だけでも、面白かった.

「---ただそのとき湯殿さんのおつしやつたには、なまけものには恋愛はできない、男は蟻だ、蟻のすることを見習つてその智慧を取れと、かうでございました。蟻は仕へる主人もないのに,夏のうちに食をそなへて、かりいれのとき糧にこまらない。男は女のためにつとめて、恋愛のあぶない橋をわたつても、そこに精神上の糧をもとめるといふ意味のやうにきこえましたけれど、よくわかりませんでしたわ。男はほんとに蟻でせうか。」
「それは女次第で蟻にもなりきりぎりすにもなるでせうよ」
東吉が投げるやうにいつた。
「恋のために死ぬやつがゐる。おれは死ぬものとは考へない。生きるためにこそ恋ではないか。一回きりのいのちだ。いのちに油をそそぐ。火をつける。はつきり目をみひらいて、恋に燃えきつてこそ、生きがひがある。そのこころは女のひとにも通ずるだらうな。」

韓国から戻って最初に読んだ本がこれだったと言うのも、不思議な因縁を感じた。発表された時代のアジア志向への雰囲気が、Morris.の目を韓国に向けさせることになったのだろうからと、今さらながら思われるからだ.しかし、それから15年を経て、Morris.のアジア/韓国への関心も、最初の思惑とはかなり変化してしまったような気がして、ちょっと寂しくなった.
主人公の旅立ちの台詞が、まぶしく響く.

東吉はふりしく光をあびて、たけ高く波止場に立つた。
「海のかなたにいつも月夜の都市があり田園がある。たれもおれを知らない。こつちも向うをしらない。そこがおれの逃遁(のがれ)の邑(まち)だ。おれは突然この世にうまれたにひとしい。」
出発の時刻が迫つた。船はくろぐろと月に照つた。


ぼくの絵本美術館】堀内誠一 ★★★☆☆☆ 

上質紙300ページのA5ハードカバーで、100ページはカラー図版が占めるという、ヴィジュアル本で、見て鑑て視て楽しめる一冊だった.堀内誠一生前のエッセイや雑誌連載記事を、集めて一冊にしたものらしい。5章に分かたれている。

1.絵本の絵を考える--ラスコー壁画、ボッシュ、ブリューゲル、ホガース、ブレイク、くれーん、コールデコットなど
2.ギャラリー 絵本の楽しみ--一枚絵の伝統、コールデコット、ホフマン博士の「ぼうぼう頭」、モンヴェルの絵入り楽譜本、ジョーンズの「ラベンダーズ・ブルー」、ビリビンのアールヌーヴォー民話絵本、子供之友、ソヴィエト1920年代の絵本
3.さまざまな絵本のなかで--童画からイラストレーションへの移行、長新太、瀬田貞二、瀬川康男、自作絵本
4.子ども・大人・絵本--長谷川摂子との対談、安野光雅、岸田衿子との鼎談
5.子どものための展覧会--「母の友」に15回にわたって連載された、テーマ別の絵の誌上展覧会

3.と5.をのぞく大半は「こどものとも」の折り込み付録に連載されたものだ.1969-86のものだけに、今読むとちょっと、時代を感じたりもするのだが、絵本の世界に、長く深く関わってきた著者の熱意と鑑識眼の高さには共感を覚えるところが多い.エッツや長新太などへの偏愛ぶりも、読んでいて微笑を誘う。海外の国際絵本見本市での、見聞や感想には、少しばかり気負いが感じられたりもするし、好みがMorris.とは多少ずれてたりもするが、何といっても、ふんだんに収められている、図版を眺めるだけで充分この本の価値は堪能できた。
堀内といえば、Morris.は「an・an」の黄金時代の、アートディレクターとしての印象が強い.パリに住んでいて、いかにもそれらしい、洒落た感じのスケッチと短文も悪くなかった.発行所がマガジン・ハウスというのも、それを思うとなるほどと納得した.
ブリューゲルの画集をひっくり返したり、ブレイクの詩を読み直したり、コールデコットの豆本を開いたり、とMorris.の思い入れの深い画家や画集を、思い出させてくれたという意味でも感謝したい.
本書で初めて知った、ソヴィエト1920年代の絵本には、強烈な印象を受けた.

モダンデザインの火が消えたかに見えた1921年、それまでの造詣の実権がいっせいに実を結んだような、みずみずしい絵本が国立出版所からあふれるように出版され始めたのです.
文学者ではマルシャーク、画家ではレーベデフが中心となって作られたこれらの絵本は、マキシム・ゴーリキーが提唱した、国の宝である子どもたちに文学と知識を「楽しい言い方で、種子を説く」原則を実現するものでした。
物資不足の条件下、普及を旨としたたため、紙質の悪いペーパーバックで、外国から輸入した印刷用紙を包んであった灰色の紙などに刷られ、印刷の精度も低いものでしたが、それらを計算に入れ、直接、版に画家が描いた図柄は素朴で暖かい版画の味と、単純で直截なデザイン感覚にあふれています。
ソヴィエトのその後の社会主義リアリズムは革新的グラフィックデザインを発展させず、これらの絵本は1920年代に限られた幻の絵本群となりました。


ユリイカ 2001,12月号】 ★★★☆☆ 

2001年7月28日に亡くなった山田風太郎の特集が掲載されていたので借りてきた.単行本未収録の切支丹もの短編2篇と、対談、執筆年譜、スケッチ、12人ほどが小論やエッセーで、風太郎の作品や想い出を述べている.約150ページで、中には退屈だったり、Morris.の関心外のものもあって、くまなく読んだわけではないが、懐かしい作品名が出てきたり、知らなかったエピソードなどもいくつかあり、それなりに楽しんだ.小説は、初期の推理もの、忍法シリーズ、明治もの、という三本柱が、それぞれ一時代を画しているが、名作「八犬伝」や、「妖異金瓶梅」は忘れがたいし、記録としても貴重な二冊の日記、そして、何よりもMorris.愛蔵書「人間臨終図巻」を逸することはできない。
山田風太郎、享年七十九。七十九歳で、亡くなった人々には、次のような人がいる。

法然(1133-1212)
藤原定家(1162-1241)
本阿弥光悦(1558-1637)
大久保彦左衛門(1560-1639)
銭屋五兵衛(1773-1852)
北里柴三郎(1852-1931)
河口慧海(1866-1945)
ガンジー(1869-1948)
幣原喜重郎(1872-1951)
長谷川伸(1884-1963)
谷崎潤一郎(1886-1965)
山田耕筰(1886-1965)
桂文楽・八代目(1892-1971)
林武(1896-1975)
今東光(1898-1977)
山手樹一郎(1899-1978)
マウントバッテン(1900-1979)
沢田美喜(1901-1980)
横溝正史(1902-1981)
武見太郎(1904-1983)
山田風太郎(1922-2001)

もちろん、風太郎以外は「人間臨終図巻」に掲載されているものだ。Morris.は、忍法帖から、リアルタイムで楽しんだ年代だから、初期の推理ものは、半分くらいしか読んでいないと思う.これから、ぼちぼち、未読のものを読んでみたいと思った.
雑誌「ユリイカ」を、じっくり読んだのも、久しぶりのことだった.学生時代からしばらくの間は結構愛読していたのだが、日本の現代詩というものへの興味が薄れた頃から読まなくなった.本号は特集号だから、一般の記事は少ない方なのだろうが、それでも、幾つか目を惹かれるものがあった。WORLD CULTURE MAPスペインの欄では、「ならず者のソネット」と題して、シンガーソングライター、ホアキン・サビーナが「飛び去る百の十四」という詩集を出したことなどの記事があり、未知のこの詩人/歌手に興味を持った.この号で最終回になってる中村稔の「言葉について--人間に関する断章」」は、中也、賢治、達治、朔太郎、光太郎、犀星などの近代詩人の「名辞以前」の言葉の捉え方を、芭蕉の句を引き合いにして「物の見えたる光」をいかに、言葉に定着したかを論じている。うーむ、これは、全部読みたいものだ.早く単行本にしてくれえっ。


あたく史 外伝】小沢昭一 ★★☆

「シルラ5」と新潮45」に連載された「小沢昭一的こころ」のコラム版みたいなもので、和田誠の想定と挿絵につられて借りてきたのだが、これまた、ほとんど時間の無駄に近いものだった。若い頃の思い出、個人の話、日常のくすぐり、ぼやき、広告---まあ、語りはベテランで、定評があるから、よんでてもその口ぶりを連想して、読み通してしまったが、どうもなあ。



蜻蛉始末】北森鴻 ★★☆☆

 幕末から明治の激動を縦糸に、長州出身の商人藤田傳三郎とその陰守りとんぼ(宇三郎)の不可解な関係を横糸にした歴史ミステリーということになるのだろうか。薩長の軋轢から、紙幣偽造事件に巻き込まれた傳三郎の逮捕と取り調べに始まるイントロは大いに期待できたのだが、だんだん途中で嫌気がさしてきた.どうもこの人の作品は、登場人物を、あまりにも簡単に操作しすぎるきらいがある.御都合主義はこの手の小説ではしかたないとしても、余り簡単に人を殺したり、意思変更があったり、統一感が無い.もっと面白くなる素材なのに、尻すぼみになってしまっているようだ。


開高健の博物誌】奥本大三郎・解題 ★★ 

開高健の作品の中から、魚、鳥、獣、虫,植物などに触れた部分を抜き出して、1冊の本にしたもの。集英社新書の一冊で、小さなカットや写真が相当数、付されているので、文章の量はたかが知れてるし、でてくる動植物も際立って変わったものが多くでてくる訳でもない.
よくわからないのが、奥本「解題」という表記である。普通なら「編、註」とするのを、こんな変な書き方をしたのは、文章の編集などは、集英社の編集部に任せて、名前を貸しただけではないかと、勘繰りたくなってしまった.たしかに、末尾に「開高健はほんまにナチュラリストか」という20p足らずの「解題」(なのだろうか?)が載せてあるが、これがまた、タイトルからしてわかるように、やや否定的色の濃いものだった。
Morris.は開高健のファンではないが、それなりに評価をしている作家ではある.だから、本書にピックアップされた文の半分くらいは、どこかで読んだ記憶がある.そして、その中の大部分はなかなか,読ませるものであることも認めるが、こうやって編まれた全体を見ると,いかにも索引だけの作物のような気がしてしまった.アンソロジー、選集こそ、編者の手腕によって、出来不出来が異なるのは当然だが、これは不出来に属すると言ってしまおう。同じようなことは、カットにも言えるようで、60点以上ある、これらの小カットは、一つ一つを見るとそれなりにしっかりしたもの、いいものもあるのに、本書のようにあてがいぶち風に置かれてしまうと、調和もバランスも無い、安っぽい包装紙の柄と同じで、無くもがなの思いが強い。


虫屋の虫めがね】田川研 ★★★★ 

「昆虫に関する、おもしろい読み物がほしくてたまらなかったケンさんだが、今までにも北杜夫氏をはじめ、すぐれた作品はあるものの、最近見かけない。これはあかん、いつまでも待っていたら死んでしまう,自分で書いたほうが早い、と誇大妄想におちいったケンさんが書いたのがこの本である」と後書きにある.かつて昆虫少年だったMorris.は思わず膝をたたいた。そうそう、当時北杜夫の「ドクトルまんぼう昆虫記をはじめとする北杜夫のどくとるマンボウシリーズをむさぼり読んでたことを思い出した.あのわくわくする読書体験にこのところ恵まれてないのはたしかである.ファーブル昆虫記が聖書みたいに思えた時代だったから、伝道の書として熱心に読んだということもある。
最近では奥本大三郎が、それらに近い本を出していたが、この田川研の本は、戯作という要素が強く、それでいて真剣に虫(特に蛾)への愛情と、観察が見て取れるし、両者の塩梅が程よくて、すっかり楽しませてもらった.
著者の本業は英語とフランス語の塾の講師らしいが、仲間のヤマグチ、トンボ大臣と三人での採集の記録や、自宅での幼虫や蛹の飼育日記など、結構苛酷だったり、骨折り損の行為など虫好きでなくてはできないことどもを面白がって書いてるあたりもなかなかだ。自分のことを「ケンさん」と三人称で表記し、自分を戯画化してるのも成功している.
戯文を書けるというのは、かなり文章力があるということだ。おまけに彼は昆虫の観察図もなかなか巧い。本書にも30点ほどの図が収められているが、どれもプロ級の水準だ。それなのに、自作の図は、小さく掲載しておいて、もうひとり川島逸郎の点描画1頁全面大6葉の蝶と蛾の図が掲載されていて、これがまた、溜息が出るほど美しい。特にウスタビガの羽化の様子と、オオミズアオなどは見とれてしまった。一点だけでもスキャンして貼付しようかと思ったが、点描が飛んでしまうのが判りきってるので断念した.点描としてはそれほど細かい点ではない。いや、極端に点の数は少ないのだが、それらが的確な位置に置かれて鱗翅目特有の翅のテクスチュアと腹部の柔かさなどを余すところなく捉えている。グールドの「ワンダフル ワールド」に掲載された、バージェス頁岩の化石動物の復元図を精密に描き出したマリアンス・コリンズのイラストに匹敵するものと誉めておきたい。しかし、このMorris.激賞の作品も、世の多くの虫嫌い,特に蛾アレルギーの人からすれば、気持ち悪い、嫌悪すべき絵ということになるのだろうなあ。
本書には30篇のエピソードが綴られているが、やはり、オオミズアオのエピソードが一番印象的だった.ケンさんが中学生の時「日本昆虫記」と言う本を手に入れ,その中に小学校の教科書に一部引用されていたオオミズアオの飼育日記の全文が載っていて、作者に手紙を出し、オオミズアオの標本を送ってもらい、文通が始まり、大学受験で上京した時には会いに行った。それから交際は途切れ、30年後に再開するという話だが、これだけの話を、感傷的にならず、ユーモアを交えながらも情の細やかさまで伝える文章力は大したものである.

月冴えて津波忍び寄る過疎の漁村 むら蒼白き寡婦の密かな愉悦 Morris. ( 歌集『異端蝶』 )

造本もしっかりしたハードカバーだし、本文活字もちょっと大きめで子供から、老眼までに優しく読みやすくできている。階成社さん、いい仕事してますねえ(^o^)


一日の終わりの詩集】長田弘 ★★★☆☆  

2000年9月発行の詩集である。80ページ足らずの薄手の作物で、25編の詩が収められ,「いま、ここに在ること」「マイ・オールドメン」「一日の終わりの詩」というタイトルでで全体が3つに分けられれている.書名は20世紀の終わりに出す詩集と言う意味もあるらしい.例によって彼らしい、示唆に富んだ詩句がふんだんにちりばめられ、言葉遊びの精神も横溢している。やはり彼の詩の世界はMorris.にとってMy favourite thingsの一つでありつづけているようだ.
全体の約半分12編の詩の最終行が、一行空きの疑問文になってるのも、遊びの一つかもしれない.

・一人の私は何でできているか?「人生の材料」
・一人の記憶は何でできているか?「記憶」
・まだ信じられる語彙がいくつあるか?「深切」
・愛すると言えるものがいくつあるか?「愛する」
・ひとの一日はどんな時間でできているか?「間違い」
・一人の言葉は何でできえいるか?「言葉」
・一人の魂はどんな言葉でつくられているか?「魂は」
・一人の意気地は何でできているか?「緑雨のふふん」
・一人の夢は何でできているか?「露伴先生いわく」
・一人の孤独は何でできているか?「鴎外とサフラン」
・一人の希望は何でできているか?「二葉亭いわく」
・一人の手紙は誰に宛てて書かれるか?「頓首漱石」

この羅列だけでも一つの詩として立っていける。長田弘の詩句は、それぞれが独立しても成り立つ。オブジェクト指向の詩なのかもしれない.
他にも引用したい詩句はいくらでもある。

石に彫りこむように
単純さにむかって書く言葉
考えるとは、知恵の
悲しみを知ることである「人生の材料」

どんなときにも感情は嘘をつく。

単純なものはたくさんの意味をもつ。

人をちがえるのは、ただ一つ
何をうつくしいと感じるか、だ。「言葉」

人が誤まるのは、いつでも言葉を
過信してだ。きれいな言葉は嘘をつく。

誰でも何でも、いうことができる。だから
何をいいうるか、ではない。
何をいいえないか、だ。「魂は」

人生は、跡形もなく、生きることである.「経歴」

無くなったものなしには、何もないだろう.
わたしたちをつくったのは無くなったものだ。
存在しない魂なしに、存在はないように。「哀歌」

ひとは黙ることを学ばねばならない
沈黙を、いや、沈黙という
もう一つのことばを学ばねばならない「自由にひつようなものは」

考えるとは、ゆっくりした時間を
いま、ここにつくりだすということだ。「空の下」

俗にいう運不運は、じつは幸福不幸福のことである。
幸福つまり幸せであるというが、それもちがうネ。
幸福は、じつは福である。福というのは、ソレ
自前手製のもの。忌憚なく言えば愛です。
人の世の味わいは、愛の多少による。「露伴先生いわく」

時は過ぎるというのは嘘なのだった。
時はなくなるのだった。
思いだすことなど何もないのだった。
新しいものは見知らぬものなのだった。

微笑むべし。
海辺の午後の日差し
砂州のかがやき。
水鳥の影。
人のいない光景のうつくしさ。「午後の透明さについて」

わたしたちの不幸は、不幸のようでない。
死さえ、わたしたちの死のようでない。

ことばというのは、本当は、勇気のことだ。
人生といえるものをじぶんからあいせるだけの。「新聞を読む人」

憎むものは憎むことを憎むことができない

あなたは誰? ではない問わるべきは
誰があなたなのか? ということだ「意味と無意味」

言葉を不用意に信じない.
泣き言は言葉とはちがう。「Passing By」

還暦を過ぎた詩人は、40年以上前から同じことを繰り返しつづけているのかもしれない。そして、その繰返しは何度繰り返されても、そのたびにみずみずしく聞こえる。ここには、選ばれた精神の均衡がある。


日本のコリアン・ワールドが面白いほどわかる本』康熙奉(カンヒボン) ★★☆☆  

東京生まれの在日二世による、在日の現状と文化、コリアタウンなどを紹介した、入門書みたいな本で、既知の事柄が大部分だったが、いくらかは、知らないことも載っていた.文章も、イラストも、造本も何となく素人っぽい本で、分かりやすいといえばわかりやすい。
本書Morris.が新たに得た知識といえば
・大阪の在日に済州島出身者が多い理由。戦前大阪-済州島間に定期船が運航されていたため。
・チェサ(祭祀)の料理にはニンニクと唐辛子を使わない。
・チェサ(祭祀)の料理の並べ方は、祭壇に向かって右が東で左を西と考えたとき「魚東肉西」とする。
・1952年から1999年までの47年間に23万3,920人が日本に帰化している。現在の在日韓国/朝鮮人の3分の一にあたる。


中島敦全集1】★★★★ 

筑摩書房が2001年に発行した最新の4巻の全集で、この第一巻に彼の全小説が収められている.そのくらい寡作、というか、これからと言う時に死んでしまった作家だった。惜しんでも余りあるとはこのことだろう。ここしばらく読書控えが無かったのは、これと鴎外の「椋鳥通信」にはまっていたせいだ。

「狐憑」「木乃伊」「山月記」「文字禍」「斗南先生」「虎狩」「光と風と夢」「幸福」「夫婦」「雛」「寂しい島」「夾竹桃の家の女」「ナポレオン」「真昼」「マリヤン」「風物抄」「悟淨出世」「悟淨歎異」「盈虚」「牛人」「かめれおん日記」「狼疾記」「名人伝」「弟子」「李陵」

〆て25編、長編は無いから全部で500頁。ほとんどは、以前読んでいたが、伯父のことを綴った「斗南先生」、朝鮮を舞台にした「虎狩」は初めてだった。出来不出来、好き嫌いはあるものの、やはり彼の文章は漢文を修めたものでなくては書けないものだろう。
「光と風と夢」は宝島のスティーブンソンのニューカレドニアでの記録という体裁を取りながら、中島敦自身の生き方と創作原理が投影されている。
やはり「悟淨出世」「悟淨歎異」が、飛びぬけている。言うだけ詮無いことではあるが、もう少し長生きして「わが西遊記」をまとめて欲しかった.「文字禍」「名人伝」のような、寓話の巧さには舌を巻くしかないし、「山月記」の人間観察の深さは類を見ない.
悟淨が悟りを開くために訪れた、さまざまな師の一人藝術至上派の蒲衣子の弟子の美少年の逸話などは、それだけで夢のようにはかなく美しい。

弟子の中に、一人、異常に美しい少年がゐた。肌は白魚のやうに透きとほり、黒瞳は夢見るやうに大きく見開かれ、額にかゝる捲毛は鳩の胸毛のやうに柔かであつた。心に少しの憂がある時は、月の前を横ぎる薄雲ほどの微かな陰翳(かげ)が美しい顔にかゝり、歎びのある時は静かに澄んだ瞳の奥が夜の宝石のやうに輝いた。師も朋友も此の少年を愛した。素直で、純粋で、此の少年の心は疑ふことを知らないのである。たゞ余りに美しく、余りにかぼそく、まるで何か貴い気体ででも出来てゐるやうで、それがみんなに不安なものを感じさせてゐた。少年は、ひまさへあれば白い石の上に淡飴色の蜂蜜を垂らして、それで ひるがほの花を画いてゐた。
悟淨が此の庵室を去る四五日前のこと、少年は朝、庵を出たつきりで戻つて来なかつた。彼と一緒に出て行つた一人の弟子は不思議な報告をした。自分が油断をしてゐるひまに、少年は ひよいと水に溶けて了つたのだ、自分は確かにそれを見た、と。他の弟子達はそんな莫迦な事がと笑つたが、師の蒲衣子はまじめにそれをうべなつた。さうかも知れぬ、あの児ならそんな事も起るかも知れぬ、余りに純粋だつたから、と。
悟淨は、自分を取つて喰はうとした鯰の妖怪の逞しさと、水に溶去つた少年の美しさとを、並べて考へながら、蒲衣子の許を辞した。(「悟淨出世」)


われはフランソワ】山之口洋 ★★★  

「オルガニスト」が面白かったので、これも期待して読んだ。仏蘭西の泥棒詩人ヴィヨンを主人公とした、冒険譚であり、伝奇小説であり、詩物語でもある。数奇な生まれのヴィヨンが、司祭である養父のおかげで学問を修め、パリ大学に入るも、仲間との馬鹿騒ぎから殺人に巻き込まれ放浪中に盗賊の仲間に入り、パリに戻ってからも悪事を重ねる。持って生まれた詩才により、詩人でもあるオレルアンのシャルル大公と親炙し、その若い妻マリーに惹かれる。放蕩と乱脈な生活の中で、一度はマリーとも情を通じるが、これが後にルイ12世となったというオチがつく。ヴィヨンの父が実はジプシーだったとか、悪と美の相関関係など面白そうな仮説や、当時の英仏関係、仏蘭西の歴史などもしっかり捉えて説明してあるし、ヴィヨン詩の新訳(なんだろうな)も詰め込んであり、なかなか多様な内容で、作者の凝り性なところも出てるのだが、フィクションとしていま一つ楽しめなかった.こういった作品では、なんと言っても主人公に魅力を感じるかどうかが決定的なだけに、本書のヴィヨンの描かれ方が、どうもぴんとこなかった。前作のパイプオルガンに関する薀蓄と同様、本書でもヴィヨン詩、盗賊団、教会、大學などの描写と知識は端倪すぺ刈らぬものがあるのは、みとめながらも、物足りない思いを禁じえなかった。


【図解 ADSL & 光ファイバー通信】中山真敬 ★

 本来この手の本は、これからADSLを導入しようかどうか迷ってる人のために書かれたもので、遅まきながらもYahooにつながったばかりのMorris.にはあまり意味が無いと思いながら、光ファイバーがどんなものかという興味もあって読んだ。しかしほとんど意味が無かった.2001年7月の発行だから、それほど古いことはなさそうだが、通信やPC世界では半年前の知識はすでに過去の領域だったりする。「図解」と明記してあるが、大半がフローチャート図や下手糞なCGだし、中央16pの「カラー図解」のお粗末さには情けないを通り越して笑ってしまった.いまどきこんなお手抜きは、公社のパンフレットにもないと思うくらいのしろものだった。


突破者烈伝】宮崎学 ★★☆☆

快作「突破者」のおまけみたいな本で、この手の本も数冊読んで、いつも物足りなく思っていた.本書も右にならえである。200ページくらいなのにこれを4章に分けて、それぞれが短い上に、更に各章がコラムというか、こぼれ話の寄せ集めという観がある。著者が子供の頃から親しんできた、故買屋夫婦、ダンプ屋の親父、を始め、土建屋の社長、北九州の親分などが取り上げられている。それぞれ面白い人物であることは間違いないのだが、どうも著者の視点がワンパタンになってるために、読んでるほうはだんだん飽きてしまうところがある。表紙と本文中に数葉挟まれている、畑中純の版画だけが印象に残ってしまった.


神話の果て】船戸与一 ★★☆☆ 

1984年「小説推理」に連載したものを翌年加筆単行本化されたもので、Morris.が読んだのは88年に文庫化されたものだ。どちらにしても相当古い.元文化順類学の研究家で、破壊工作員になった日本人が、CIAの依頼で、ペルーの山岳インディオゲリラの首領抹殺を図る.ゲリラはそれまでになかった組織形態を持ち、主人公は任務を全うしたのに、それが無意味だったことを知ったあと死んでいくという、筋だけ掻い摘むと、あまりにもそっけない話だが、船戸一流の書き込みと、思い入れがあるのでそれなりに読まされる。主人公とそれをめぐる諜報員、テロリストの個人の資質や性格描写はしつこいくらいなのに、肝心の場面で突然投げ出したような表現ですませたり、事件の進行がご都合主義過ぎたりと、あまり完成された作品とは言いがたい.長編好きのMorris.だが、この作品は長すぎる(文庫上下で350p近くある)、いいところ半分くらいにまとめるべきだったろう。例によって、虐げられた先住民族への共感する視線などは嫌いではないのだが--- 


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