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Morris.2005年読書控
Morris.は2005年にこんな本を読みました。読んだ逆順に並べています。
タイトル、著者名の後の星印は、Morris.独断による、評点です。 ★20点、☆5点

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セル色の意味 イチ押し(^o^) おすすめ(^。^) とほほ(+_+)

【神戸 震災をこえてきた街ガイド】島田誠、森栗茂一05129 【いとしさの王国へ】文学的少女漫画読本05128 【真相】ロバート・B・パーカー 菊池光訳05127 【上陸】五條瑛05126
【いろんな色のインクで】丸谷才一05125 【国家と犯罪】船戸与一05124 【田辺写真館が見た"昭和"】田辺聖子05123 【随筆 本が崩れる】草森紳一05122
【パパラギ】 岡崎照男訳05121 【失投】ロバート・B・パーカー 菊池光訳05120 【ダブルプレー】ロバート・B・パーカー 菊池光訳05119 【目白雑録 ひびのあれこれ】金井美恵子05118
【相棒に気をつけろ】逢坂剛05117 【ひさしぶりの引越し】高橋みどり05116 【大志の歌】安野光雅05115 【キムチ百科 韓国伝統のキムチ100】韓福麗著 守屋亜記子訳05114
【恥ずかしい読書】永江朗05113 【橋本治という行き方 WHAT A WAY TO GO】橋本治05112 【物は言いよう】斎藤美奈子05111 【アルボラーダ】入沢康夫05110
【バラの画家 ルドゥテ】シャルル・レジエ著 高橋達明訳05109 【絵本 パパラギ】和田誠 構成・絵 エイーリッヒ・ショイルマン05108 【蜂起】森巣博05107 【噂の真相イズム】岡留安則05106
【生きかた名人】池内紀05105 【火車】宮部みゆき05104 【分岐点】古処誠二05103 【萌え萌えジャパン】堀田純司05102
【少年たちの密室】古処誠二05101 【未完成】古処誠二05100 【柳宗民の雑草ノオト】柳宗民著 三品隆司画05099 【冬の女たち】久世光彦05098
【人生の特別な一瞬】長田弘05097 【サイバラ茸2】西原理恵子05096 【流れ星の冬】大沢在昌05095 【ソウルで新婚生活】たがみようこ05094
【接近】古処誠二05093 【ルール】古処誠二05092 【イベリアの雷鳴】逢坂剛05091 【狐闇】北森鴻05090
【プロレタリア文学はものすごい】荒俣宏05089 【燃える蜃気楼】逢坂剛05088 【七月七日】古処誠二05087 【擬態】北方謙三05086
【随筆 支邦・満洲・朝鮮】中西伊之助05085 【赭土に芽ぐむもの】中西伊之助05084 【ちょうちょむすび】文=今江祥智 え=和田誠05083 【カメラ常識のウソ・マコト】千葉憲昭05082
【BROOCH】渡邊良重 絵 内田也哉子 文05081 【義八郎商店街】東直己05080 【包・装・解 パッキング・マジック】INAX BOOKLET05079 【変貌する韓国経済】朴一編05078
【ちょんがれ西鶴】浅黄斑05077 【関西 小さな町・小さな旅】山と渓谷社05076 【ほやじ日記】倉田真由美05075 【デジカメ写真は撮ったまま使うな!】鐸木能光05074
【天使の牙 上下】大沢在昌05073 【勉強ができなくても恥ずかしくない】橋本治05072 【少年探検隊】池内紀05071 【泣き虫弱虫諸葛孔明】酒見賢一05070
【嗤う日本の「ナショナリズム」】北田暁大05069 【ラムラム王】武井武雄05068 【OUT】桐野夏生05067 【大阪力事典】橋爪紳也監修05066
【インドな日々】流水りんこ05065 【蒼煌】黒川博行05064 【イマジン】清水義範05063 【日本語の起源】05062
【きほんのき】朝日新聞学芸部05061 【異邦人の夜】梁石日05060 【濃厚民族 15大対談】浅草キッド05059 【こどもとおとな スクランブルノート】五味太郎05058
【詩とことば】荒川洋治05057 【カフェオレボウル Le Bol】山本ゆりこ05056 【ためぐち韓国語】四方田犬彦、金光英実05054 【ジャズで踊ってリキュルで更けて 昭和不良伝*西条八十】斎藤憐05053
【オールイン 運命の愛 上下】ノ・スンイル原作05052 【マンガ原稿料はなぜ安いのか?】竹熊健太郎05051 【マンガの深読み、大人読み】夏目房之介05050 【寺山修司少女詩集】05049
【刑務所の前 第一巻】花輪和一05048 【おかしな男 渥美清】小林信彦05047 【探偵伯爵と僕】森博嗣05046 【あの人この人 昭和人物誌】戸板康二05045
【文学から見る「満州」】川村湊05044 【北朝鮮「楽園」の残骸】マイク・ブラツケ 川口マーン恵美訳05043 【社会派くんがゆく! 激動編】唐沢俊一×村崎百郎05042 【アリスの日】三上洸05041
【魔法探偵】南條竹則05040 【女たちの海峡】笹倉明05039 【歌い屋たち】なぎら健壱05038 【美空ひばり--時代を歌う】大下英治05037
【トリビュート特集  ナンシー関】05036 【ナンシー関 激コラム 世情編】05035 【写説 坂の上の雲】谷沢永一05034 【さくらん】安野モヨコ05033
【いつも鳥が飛んでいる】ぱくきょんみ05032 【韓国鉄道の旅】中島廣・山田俊英05031 【ムジカ・マキーナ】高野史緒05030 【秋に墓標を】大沢在昌05029
【銀弾の森 禿鷹V】逢坂剛05028 【ごくらくちんみ】杉浦日向子05027 【在日を生きる思想 『セヌリ』対談集】朴鉄民編05026 【降臨の群れ】船戸与一05025
【あさ/朝】谷川俊太郎/詩 吉村和敏/写真05024 【ど制服】酒井順子05023 【謎とき・坊っちゃん】 石原豪人05022 【写真術プロの裏ワザ 京都を撮る】水野克比古05021
【唐衣】梓澤要05020 【天使の顔写真】森脇真未味05019 【世界戀愛詩集】 堀口大學編05018 【建築はほほえむ】松山巌05017
【KOBE街角通信】中村よお05016 【俳句のモダン】仁平勝05015 【住所 田園調布 職業 ホームレス】青山潜(述) 岡田晃房(記)05014 【江戸狂歌】なだいなだ05013
【在日、激動の百年】金賛汀05012 【けさの鳥】山岸哲・文 田中光常、久保敬親、金子進、吉野俊幸・写真05011 【身近な野鳥ウォッチング】高城芳治 写真/文05010 【冗談 新撰組】 みなもと太郎05009
【近代名建築浪花写真館】 福島明博05008 【普通植物図解】 小笠原利孝著 三橋國豊画05007 【ジャミパン】江國香織:文 宇野亜喜良:画05006 【デジタルカメラを楽しむマクロ撮影の世界】布川秀男05005
【夢の泪】井上ひさし05004 【デジカメ 自然観察のすすめ】海野和男05003 【アール・デコ】ベヴィス・ヒリアー 西澤信彌訳05002 【絵本 ジャズ・ストーリー】笹尾俊一05001
【日ペンの美子ちゃん】 岡崎いずみ05000

05129

【神戸 震災をこえてきた街ガイド】島田誠、森栗茂一 ★★★ 岩波ジュニア 文庫の一冊として04年11月に発行された当時、本屋で立ち読みした記憶がある。震災10年記念ということで、特に地元の本屋では類書が多かったが、本書 は全国のこどもを対象に書かれたということだけでも一味ちがってた気がしたし、ちょっと素人っぽい写真にも身近な場所やお馴染みの店などが多く、それなり に良さそうな本だと思ったが買う必要はないと思った。
ほぼ一年遅れで通読したら、やはり震災10年というのを強調しすぎてるきらいがあるし、著者二人が関わってる町づくり団体絡みの運動や人々の紹介が多すぎ る。60代島田誠は、元町の老舗の本屋海文堂の社長、40代後半の森栗は都市民俗学の大学教授らしい。どちらも神戸出身で、それなりにこの町への愛着も理 解も深いようだし、震災以後のさまざまな復興運動にも関わってきてるようだ。
歴史、地理的にも満遍なく神戸全体を網羅してるし、街角のモニュメントや史跡、地域の特徴、博物館、記念館なども複数の地図を交えてこどもにもわかるように紹介してあり、30年ほど神戸に住んでいるMorris.も初耳なこともいくつかあった。
二人が記事を分担して書きながら、記名がないのはちょっと気になったし、文章的に杜撰なところも目に付いた。
また、これは島田の記事中の安藤忠雄に触れた文章は、Morris.は違和感をおぼえてしまった。島田自身が安藤設計のビルにアトリエ持ってるということもあるのだろうが、しっくりこない。

住みやすさ、使いやすさなどの「やすさ」と、住みにくい、わかりにくいなどの「にくさ」とのせめぎあいを、 安藤さんの代名詞となったコンクリート打ちっぱなしという太い筆で、グイと描いて見せているのです。重く固い素材ですが、細部に見せる美しく、やさしい表 情の中に、安藤さんの本質があると思います。

本書のような性格の本で、こんなお追従めいた感想は無用だと思う。


05128

【いとしさの王国へ】文学的少女漫画読本 ★★☆☆ 「少女漫画で育った 作家9人が、かけがえのないその世界をもう一度、紐解いていく」というのが前書きで、ほんとなら、それだけでもう読む気が失せるところだが、最初のタイト ルが「大島弓子へ捧げるオマージュ」となってるんで、読まずにいられなくなった。くだんの小文は面白くなかったし、その後の各々自家中毒めいた文章も好き になれなかったのだが、対象とされている漫画家と作品たちのいくつかは、忘れられないラインナップだった。
そして総括というか、アウトライン紹介の「文学的少女漫画史」(梅本直志)はすっきりまとめられて、なかなか良かった。これだけでよかったんじゃなかろう か。見開きの系譜図がよく出来ていたが、これを写すのは大変なので、ここに表紙のカット付きで紹介された漫画のタイトルを列記して、Morris.の入れ 込み度をA〜Eでマークしておく。未見のものはしかたない(^^;)

「リボンの騎士」手塚治虫 1953 B
「竜神沼」石森章太郎 1961 D
「星のたてごと」水野英子 1960 B
「アタックNo.1」浦野千賀子 1968 C
「つる姫じゃーっ!」土田よしこ 1973 A
「はみだしっ子」三原順 1975 B
「ベルサイユのばら」 池田理代子 1972 D
「はいからさんが通る」 大和和紀 1975 B
「悪魔の花嫁」 原作池田悦子/あしべゆうほ 1975 未見
「王家の紋章」細川智栄子 1976 未見
「日出処の天子」山岸涼子 1980 C
「ポーの一族」萩尾望都 1972 B
「トーマの心臓」萩尾望都 1974 C
「風と木の詩」竹宮恵子 1976 C
「エロイカより愛をこめて」青池保子 1977 C
「パタリロ!」魔夜峰央 1978 B
「すこしだけ片思い」陸奥A子 1979 C
「雪やこんこん」田渕由美子 1976 B
「なっちゃんの初恋」太刀掛秀子 1977 B
「空の色ににている」内田善美 1980 B
「バナバブレッドのプディング」大島弓子 1977 A
「綿の国星」大島弓子 1978 A
「おしゃべり階段」くらもちふさこ 1978 A
「有閑倶楽部」一条ゆかり 1981 B
「ときめきトゥナイト」池野恋 1982 B
「純情クレイジーフルーツ」松苗あけみ 1982 A
「少年は荒野をめざす」吉野朔美 1985 D
「アイドルを探せ」吉田まゆみ 1984 C
「BANANA FISH」吉田秋生 1985 未見(^^;)
「ホットロード」紡木たく 1986 D
「僕の地球を守って」日渡早紀 1987 未見
「子供はなんでも知っている」岩館真理子 C
「いたずらなKiss」多田かおる 1990 B
「絶対安全剃刀」高野文子 1982 A
「はにほへといろは」さべあのま 1984 B
「しんきらり」やまだ紫 1981 D
「ちびまる子ちゃん」さくらももこ 1986 未見
「動物のお医者さん」佐々木倫子 1988 B
「天使なんかじゃない」矢沢あい 1991 未見
「花より男子」神尾葉子 1992 未見
「おいしい関係」槙村さとる 1993 C
「pink」岡崎京子 1989 B
「メイキン・ハッピィ」桜沢エリカ 1991 B
「南くんの恋人」内田春菊 1987 C
「陰陽師」原作夢枕獏/岡野玲子 1993 未見
「ハッピー・マニア」安野モヨ子 1995 B
「さよならみどりちゃん」南Q太 1996 未見
「ero・mala」やまだないと 1997 未見
「blue」魚喃キリコ 1996 未見
「セックスのあと男の子の汗はハチミツのにおいがする」おかざき真里 2002 未見
「ワレワレハ」かわかみじゅんこ 2000 未見
「twinkle」冬野さほ 1997 未見
「ハチミツとクローバー」羽海野チカ 2000 未見


結構未見の作品が多かったな。評価の高い「BANANA FISH」読んでないのはやはりまずいかな?「カリフォルニア物語」ならかぎりなくAに近いBだけどね。それと、川原泉が無視されてたのは不満である。


05127

【真相】ロバート・B・パーカー 菊池光訳 ★★☆☆ もうしばらく読むまい と言った舌の根も乾かぬうちに近作を借りてしまった。28年前の殺人事件をひょんなことから追及するスペンサーの話で、あまりに漫画チックなそのプロット からして辟易しながら、それでも最後まで読ませるところがパーカーの技なんだろうが、ほんとにこういうのは時間つぶしの最たるものだろう。
事件当時(1974)のヒッピーブームへの著者の嫌悪ぶりや、FBIの独善的処置への怒りなど「今」の時点から過去を描くときの弊害というか、有利さに漬かってるように思えてしょうがない。
そして、主人公の、恋人崇拝ぶり+そのあまりの讃美ぶりは、やはり勘弁してもらいたいものである。もう、読まないぞ(^^;)

私はテイブルの向かいの彼女を見た。スーザンに似た女性はどこにもいない。同じように美しい女性はいるが、 きわめて少ないし、たぶん同じように頭のいい女性はいて、たんに私が出会ったことがないにすぎないだろう。しかし、慎重に化粧し、豊かな黒髪に縁取られ、 彼女のように言葉では表現できない女性らしさに輝く顔の女性は一人もいない。彼女は、雅量と自我没頭、確信と混乱に満ちている。彼女は明敏で厳密。大胆で 井ながら優柔不断、偏見がなく、専横で、素直、短気、情愛深く、現実的で、情熱的だ。しかも、それらすべてがあまりにも完璧に融合しているので、私がこれ までに知った中でもっとも完全な人だ。

もういい、と、言いたくなるだろう。それに、Lady Susan はどうやらMorris.の好みではないようだ。Lazy Susanなら一つ欲しいけどね(^^;)


05126

【上陸】五條瑛 ★★★ 特に深い知り合いでもない3人がセットで建設現場を渡り歩いているという設定の6篇の連作短編である。
元サラリーマン。何があったか知らないが数々の職を経て、いまは現場作業員に落ち着いている中年の金満。同世代くらいのパキスタンからの出稼ぎ労働者アキム、そして二十代の若さながら少年院経由のやさぐれ者の安ニの3人。
もともと一番おしまいに置かれている「上陸 1999年」が最初に発表され、その続編という形で書き接いだものを順序を変え、途中に橋渡しめいた短文を加えて1冊にしたものらしいが、結局その「上陸」だけで充分でないかという気がした。
Y2Kという、今では懐かしさすら覚える西暦二千年問題を利用して、パキスタンから一挙に多数を日本に密入国させるというストーリーで、その手口自体複雑 なものではないが、3人の人物の描きぶりや、国籍を超えた友情、人情にはちょっとほろりとさせられたりもするから、そこそこの書き手なのだと思う。
ただその続編となると、どうもパタンが見え見えだし、売れっ子ホストで、性格も良さそうなパキスタン人が、主人公を含めたみんなを騙して大金を掠めてトンズラするという筋の作品などは、ケストナーの成人向作品を思い出させたりもした。


05125

【いろんな色のインクで】丸谷才一 ★★☆☆ 彼の書評や腰巻、文庫解説その他寄せ集めで、本来ならもう少しましな評価できるのかもしれないが、どうもMorris.の気分的なものか、いまいち食指の動く文章が無かったような気がする。書評は、その素材である本に興味が無ければ初めから読む気が失せるし、Morris.が以前読んではなから否定的だったものを、変に褒めあげてあったりしたものだから、余計に点数が渋くなったのかもしれない。
400p近い大部な本だが、1/3くらいは斜め読みしたので2時間かからなかった。
高崎俊彦の「平野謙閑談」の書評で、書評より平野謙への丸谷の言及が印象的だった。

彼(平野謙)は佐藤春夫を中心とする大賞文学に惚れぬいてゐたのに、中野重治に惹かれると、プロレタリア文学の信奉者となり、終生その傾向に対する愛着を捨てなかった。しかもそれにもかかわらず、戦後ただちにプロレタリア文学に対する疑惑を衝撃的なかたちで表明した。私小説の自他ともに許す愛読者でありながら、私小説作家の人生が演技となつて破綻することを無残なくらゐ率直に指摘した。私小説の息の根を止めたのは彼であつた。明治四十年代にはじまる日本近代文学にひたり切つて生き、文藝雑誌を中核とする秩序のなかで生計を立てながら、純文学といふ制度の歪みと異様さとをはじめて公言した。彼は裏切り者としてそしられることを恐れなかつた。ここには自分が属するものと容赦なく闘ひつづけて来た文学者がゐる。その道筋は充分にヒロイックだつたと言つて良からう。

こういった渋い視点での読み方が出来るのも、丸谷の才能というものだろうが、それにしては、大野晋の日本語タミル語源説への肩入れぶりにはちょっと鼻白んでしまう。
筒井康隆の「わたしのグランパ」への、手放しの讃美に至っては、疑問を通り越して呆れてしまったMorris.だった。


05124

【国家と犯罪】船戸与一 ★★★★ もっと早く読むべき本だった。初版は97年5月であり、名前を知ったのもかなり前のことだったのに、ついつい読まずにいたことが悔やまれる。
小説家としての船戸の作品はほとんど目を通していると思う。豊浦志朗名義で「硬派と宿命」「叛アメリカ史」を著わしてることも知らないではなかったが、こちらもまだ未見である。
本書にはキューバ、メキシコ、中国(2篇)、中東クルド族、ナポリを舞台にしたゲリラ軍、民族独立運動、犯罪組織などをテーマにした6篇のルポルタージュが収められている。それぞれ読み応えがあり、船戸の取材能力の高さと深さに驚かされるが、メキシコ南東部の反政府ゲリラを取材した「幾たびもサパタ」は圧倒的にすごかった。
表紙にもこのゲリラ(サパティスタ)の写真が使われているのだが、平野甲賀の見事なアレンジで、Morris.は最初抽象的紋様だと思ったくらいだ。
メキシコ20世紀初めの伝説的ヒーロー、エミリアーノ・サパタの名を冠したゲリラ組織の話だが、船戸の過去の著書からサパタのアウトラインを紹介した記事も併載されていて、無知なMorris.には助けになった。世界各地での、すさまじい圧制と貧困と反抗の構図とそれに関わる人々と、ぬくぬくとしたぬるま湯の環境で字面を読んでるMorris.とどれほど隔たってることか。それでも知らないよりは知ることがまず一歩であると思う。

政治スローガンはいつだって流動的である。原理よりも効果のほうがかならず優先するのだ。ましてや、この大陸ではただの一度も近代というものを主体的に経験したことがない。近代とは何か?それの具体的表現たる民主制(デモクラシー)とは何か?アメリカ流のどのような花言葉で飾り立てようと、それはゴルバチョフのペレストロイカのなかできっちりと明示された。複数政党制(グラスノスチ)、市場経済制(デモウクラチザーツァ)。システムの根幹はたったこのふたつしかない。これを機能させるためには市民社会の形成がふかけつだった。しかし、この大陸ではいまだにそれが未体験のままだと断じても過言ではない。清朝から辛亥革命を経て中華人民共和国の成立。そして……改革開放路線。ふたつのシステムを支える市民社会は事実上一度も形成されたことはないのだ。この大陸において民族にまつわる政治スローガンと現実の矛盾はひたすら権力内部の抗争の種でしかない。その結果は少数民族の意思や願望を踏みつけにして、さらなる漢人化という歪つな民族主義の表現に収斂していかざるをえない宿命を負っている。(「中華膨張主義の解体」)


05123

【田辺写真館が見た"昭和"】田辺聖子 ★★★☆ 田辺聖子は大阪福島の生れで、生家は写真館を経営していた。祖父が東京で修行して2代目が彼女の父親である。写真館は5名以上の技師を抱えるそこそこ大きな写真館で、いわゆる当時の中流階級(今風に言えば小金持)で育ったということになる。写真館は、終戦直前の空襲で全焼したし、写真のほとんども消失したが、親戚、知人らに送った多くの写真を返して貰ったり借りたりして使用している。戦前、戦中の大阪の割と裕福な庶民の姿が留められているという意味でも貴重だし、商売柄、その写真の出来がプロ仕様ということもあって見応えがある。50葉あまりの写真の大部分が人物写真、それも家族や親族のものが大部分を占めていて、そういった人々への思い出、思い入れ、時代との関わりなどの文章も、あまり過剰にならず、それでいて言いたいことはしっかり記録しているというあたりは、流石である。
誰でも簡単に写真が撮れるのがあたりまえの現在からは隔世の感がある。戦前とは言わず、いわゆる団塊の世代でもあるMorris.の幼少時を例にしても、それほど、家族写真なんて多くない。Morris.の場合は叔父(母の弟)が写真をやってたために、Morris.の幼稚園から小学校前半くらいの一時期に限って多くの写真が残っているが、友人宅に行くと、それほど多くの写真を持ってるものはあまりいない。これが戦前となると、写真を撮るのは年に数回あるかないか、それも冠婚葬祭の記念写真が主で、普通の家族スナップなんてまず無いだろう。そういう意味でも本書に収めらている写真の存在価値は高いと思う。
田辺聖子自身のスナップも多く、まず美人の範疇からは外れそうな彼女の容姿が、かえって初々しく、愛らしい。父や父の写真館の技師たちの愛情が投影されているのだろう。
また、本書には各章ごとに大阪の川柳結社「番傘」の作家を中心にした川柳が引用されていて、これがまた味わいを深めている。Morris.は川柳は古いほど良くて、明治以降の川柳は軽く見ていたのだが、これは、一度近代、現代川柳を見なおしてみないといけないなと思わされてしまった。特に番傘を作った作家岸本水府の作品は素晴らしい。これは田辺聖子が「道頓堀の雨に別れて以来なり 川柳作家岸本水府とその時代」という大部の著書を出しているのだから、まずはこれを読まねば。

酒買いに行かされたのも佳き日なり 岸本水府
四方拝、その名をそっとなつかしみ 岸本水府
昔とは父母のいませし頃を云い 浅生路郎
大阪のどこに一旗あげる余地 生島鳥語
こころもち恋人爪を深く切り 大石文久
末の子は春着のままで寝てしまい 上田芝有
あるがまま生きよと風に囁かれ 角田久子
雛の鼻よくよく見ればあるのなり 西尾栞
日の丸はオリンピックのためにある 北浦太朗
少年の夢ポケットははち切れる 小野登与路
生きていてよかったという日のいくつ 木下愛日
ふるさとを持たぬ子供の夏休み 鳥越藤吉郎


05122

【随筆 本が崩れる】草森紳一 ★★☆☆ 風呂場に入ったときに積み上げた本が崩れて閉じ込められてしまった話を中心にした「本が崩れる」、野球少年だった往時を懐かしむ「素手もグローブ」、煙草に関するあれこれを書いた「喫煙夜話 この世に思いのこすこと無からしめむ」の3篇だけで、新書300pというのだから、それぞれがけっこう長いことがわかるだろう。草森といえば、時々とんでもなく面白い本を書いてるというイメージがあるのだが、本書は、いただけなかった。タイトルに随筆とあるとおり、筆の赴くままに書き散らしたという感じが強い。それはかまわないのだが、どうも本人が面白がるところが、Morris.にはちっとも面白くないのである。
著者撮影の白黒写真も十数点あるが、これもいまいちぴんと来なかった。唯一、煙草のところで、愛飲してるピースに関連して、最近の「煙草有害警告表示」がパッケージデザインを破壊してるという部分は、共感するところ大であった。

それよりもあまりにも激烈なデザインの破壊ぶりである。「ショート・ピース」は、アメリカの著名なデザイナー(レーモンド・ローイ)の手になる傑作である。世界のデザイン会議はこのまま黙って見過し、なにも抗議しないつもりなのか。著作権侵害より、人命尊重、そして世界平和(ピース)というわけか。


05121

【パパラギ】 岡崎照男訳 ★★★☆ 「はじめて文明を見た南海の酋長ツイアビの演説集」というのが副題で、原書は1920年の発行である。それなりに有名な本であるから、知ってる人も多いと思う。南の島の未開人の目からみた、ヨーロッパ文明批判の書としても知られている。「パパラギ」とは「空を破って現われた人」という意味のサモアの言葉で、宣教師に代表される、ヨーロッパ人たちをさしている。
ドイツ人エーリッヒ・ショイルマンが、放浪生活の中でサモアにわたり、当時ヨーロッパを回って帰って来たサモアの酋長ツイアビから聞いた話をもとに、本書を著わしたということになっている。1920年といえば、第一次大戦の終わったばかりの時代で、ヨーロッパも疲弊していたにちがいない。そういった時代に本書は大きな話題を集めたようだ。
パパラギそしてこれが1977年にドイツで再発行され、その3年後に、日本でも発行された。Morris.も、割と早い時期に読んだと思う。その後、数回手に入れては人にあげたような記憶がある。とりあえず、印象深く、面白く、知らない人に教えてあげたくなるような内容で、手軽で、和田誠の装丁も洒落ていて、つい、人に贈呈したくなる本だった。
先般、絵本版の「パパラギ」というのを見つけて、懐かしさから手にとって、読んで見たのだが、どうもこれが、Morris.のイメージと微妙に違ってるようで、変な感じを受けてしまった。絵本を作ったのが和田誠だっただけに、余計気にかかってたのだが、昨日古本市場の百円均一で見つけたので買って帰り、ひさしぶりに、通読したのだが、やっぱり、絵本とはかなり違ってると思った。
1920年、1981年、2005年、と本書が書かれてから85年。日本語版が出てからでも25年経ってしまったことになる。ヨーロッパの文明は、日本にもあまねく浸透してるわけで、今やサモアの島々だって、かなり文明化の波を被ってるかもしれない。しかし、本書の批判は古びることなく生き続けているということに、改めて感動した。
しかし、最初に本書を読んだ時のMorris.と、現在のMorris.では、かなり感動の質が変わってしまってるというのも否めないようだ。
金や貨幣を論じた「丸い金属と重たい紙について」の中で

ヨーロッパでは、お金がないのは頭がないのと同じ。

という、フレーズを見て、思わず吹き出してしまった。西原の漫画に良く出てくるフレーズではないか。そうか、オリジナルはこんなとこにあったのか。

本書の眼目は唯物主義批判の「たくさんの物がパパラギを貧しくしている」、時間論ともいうべき「パパラギにはひまがない」の二つの章だろう。

いうまでもなくパパラギは、そういうものが作れると信じている。大いなる心と同じように強いと思っている。だから無数の手が、日の出から日の入りまで、物ばかり作っている。人間が作る物、私たちにはそれが何のために使われるのか見当もつかず、美しいとはとうてい思えない。
そしてパパラギはいつでもいっそう多くの物を、新しい物を作るのに成功したときには、顔は幸せに輝く。そしてみんなが、その新しい物を欲しがり、崇め、自分の前に置いて、そのために歌を捧げる。

物がたくさんなければ暮らしてゆけないのは、貧しいからだ。大いなる心によって造られたものが乏しいからだ。パパラギは貧しい。だから物に憑かれている。物なしにはもう生きてゆけない。

少ししか物を持っていないパパラギは、自分のことを貧しいと言って悲しがる。食事の鉢のほかは何も持たなくても、私たちならだれでも、歌を歌って笑顔でいられるのに、パパラギの中にそんな人間はひとりもいない。

彼らは物を作らねばならぬ。彼らは物を見張らねばならぬ。物は彼らにつきまとい、小さな砂アリのように彼らの肌をはい回る。彼らは物を手に入れるために、冷酷な心であらゆる罪を犯す。彼らは男の名誉のためでも、力比べのためでもなく、ただただ物のためにのみ、たがいに攻撃し合う。(「たくさんの物がパパラギを貧しくしている」)

そう、彼は日々の新しい一日を、がっちり決めた計画で小さく分けて粉々にすることで、神と神との大きな知恵を涜してしまう。柔らかいヤシの実をナタでみじんに切るのとまったく同じように、彼は一日を切り刻む。切り刻まれた部分には、名前がついている。秒、分、時。秒は分よりも短く、分は時より短い。すべてがあつまって時間になる。分が60とそれよりずっとたくさんの秒が集まって一時間になる。

時間のこの叫びが響きわたると、パパラギは嘆く。「ああ、何ということだ。もう一時間が過ぎてしまった」そしてたいてい、大きな悩みでもあるかのように悲しい顔をする。ちょうどそのとき、また新しい一時間がはじまっているというのに。
これは重い病気だと考えるしか、私には理解のしようがなかった。「時間が私を避ける」「時は馬のごとし」「もう少し時間がほしい」---いずれも白い人の嘆きの声である。
これはある種の病気かも知れぬ、と私は言う。なぜかというとこうなのだ。かりに白人が、何かやりたいという欲望を持つとする。その方に心が動くだろう。たとえば、日光の中へ出て行くとか、川でカヌーに乗るとか、娘を愛するとか。しかしそのとき彼は、「いや、楽しんでなどいられない。おれにはひまがないのだ」という考えにとり憑かれる。だからたいてい欲望はしぼんでしまう。時間はそこにある。あってもまったく見ようとはしない。彼は自分の時間をうばう無数のものの名まえをあげ、楽しみも喜びも持てない仕事の前へ、ぶつくさ不平を言いながらしゃがんでしまう。だが、その仕事を強いたのは、ほかのだれでもない、彼自身なのである。

ヨーロッパで、本当にひまのある人はほとんどいない。おそらく、ひとりもいないのじゃないか。だれもが、投げられた石のように人生をおくる。ほとんどすべての人が、目を伏せたまま、大きく手を振り、できるだけ早く先頭に立とうとする。もし他の人が止めでもしようものなら、彼らは立腹して怒鳴る。「どうしてじゃまをするのだ。おれには時間がない。お前は自分の世話をやくがいい、自分の時間をむだにしないようにな」早く行けば行くほど人はりっぱであり、ゆっくり行く人は値打ちが低いと、まるで彼らはそう考えているようだ。

私たちの中に時間がないというものがいたら、前に出るがよい。私たちはだれもが、たくさんの時間を持っている。だれも時間に不満はない。私たちは今持っている、今じゅうぶんに時間を持っている。これ以上に必要とはしていない。私たちは知っている。私たちの一生の終わりのときが来るまでには、まだまだじゅうぶんの時間があることを。そしてそのとき、たとえ私たちが月の出た数を知らなくても、大いなる心はその意志のまま、私たちを呼び寄せてくださることを。(「パパラギにはひまがない」)


こういった、素朴で力強いアフォリズム(^^;)を読むと、Morris.の日々の暮らしが、いかに物や時間に囚われているかが良くわかる。
だからといって、これらに従って生きるということは、できないのも事実だろう。
本書の全体を覆っている「神」の存在が、胡散臭く感じられるのも、Morris.がすでに「神」から見放された存在だからだろうか。


05120

【失投】ロバート・B・パーカー 菊池光訳 ★★★ 久し振りに読んだ「ダブルプレー」が面白かったので、ついつい同じ野球をテーマにした古い作品を借りてしまった。こちらは、例の私立探偵スペンサーシリーズである。
レッドソックスの若手投手が八百長に絡んでるという噂から、真相を知ったスペンサーが体を張って、解決に尽力するという、ストーリーは単純なものだが、流石に彼一流の語り口と、薀蓄と、ハードボイルドさに、ついつい読まされてしまった。でも、こういう世界にあまり深入りすることは、やめておこう(^^;)


05119

【ダブルプレー】ロバート・B・パーカー 菊池光訳 ★★★☆☆ パーカーの近作(2004)らしい。彼の作品はかなり以前、スペンサーシリーズを何冊も読んだ記憶がある。本書は、ちょと異色といえるかもしれない。1947年米大リーグ初の黒人選手ジャッキー・ロビンソンと、そのボディガードになった白人バークの物語で、当時の人種差別の中での黒人選手の難しい立場や、社会状況を描きながら、著者お得意のハードボイルドタッチの鮮やかな語り口で、裏の世界も含む「男」の世界を描き切っている。著者自身も幼い頃からの野球ファンだったらしく、実録的な白人少年の独白をはさんだり、当時のゲームのボックススコアが複数引用されて、時代を再現するのに力を貸しているし、何といっても主人公の寡黙で頑固でやることはやる男くささ+タフガイぶりは、漫画以上にMorris.を楽しませてくれた。当然、あまりのご都合主義やスーパーマンぶりが目につくのだが、それはこういった作品には必需品といえるだろう。
こういった作品には珍しく、殴り合いなどの肉体的暴力シーンはほとんど描かれない。その代わりに、ヒーローのバークは海兵隊としてガダルカナルで日本軍の銃撃で重傷を負い、その回復の描写が十二分にその代理を果たしている。
37年に設立されたニグロリーグという存在にも興味を惹かれた。それにしても、やっぱり本場だけに、このてのハードボイルドはアメリカものには太刀打ちできないとおもってしまった。
そして、やはり特筆すべきは、ほとんど「剪定」といっていいくらいの、余計な部分を省略した文章構成だろう。そしてそれが、実に読者に実感されるように作られている。上手いもんである。忘れてならないのは、良くこなれた菊池の翻訳である。

リッキーは、ずっと黙って座っていた。今度は口を開いた。
「絶対に気を緩めてはならない」彼が言った。彼はロビンソンを見ていたが、自分も含まれているのがバークには判っていた。「きみは細かいところまで見られている。酒は飲めない。性的に無分別なことはできない。物事について意見を持つことはできない。懸命に、正々堂々とプレーし、口をつぐんでいる。やれるか?」
「多少の運にめぐまれれば」ロビンソンが言った。
「幸運は意図の残留物だ」リッキ-が言った。
生涯打率二割三分九厘の男にしてはなかなかいいことを言う、とバークは思った。


05118

【目白雑録 ひびのあれこれ】金井美恵子 ★★★☆ 朝日新聞社「一冊の本」2002年4月号から2004年3月号まで連載されたもの。「重箱のすみ」というエッセイ集とよく似た装丁だったので、つい見逃していたらしい。世の小説家はたいがい馬鹿であると喝破した上での、言いたい放題も、彼女ならではである。
Morris.より二つ上だからほとんど同時代人で、本書が書かれた時期がちょうど今のMorris.の年で書かれたことになる。身体的衰えや、ボケの始まりめいたぼやきも、身につまされるところ大である。
彼女は原稿をボールペンで書いてるらしいが、

トンボのモノボールという一本百円のボールペンで、これを長年愛用しているのだが、一本でほぼ、四百字詰め原稿用紙に、行変え無しでびっしり書いて十枚書ける見当だから-------以下略

とあったが、これはほんとだろうか?Morris.はボールペンで原稿書いたりしないが、ボールペンというものが、たかだか原稿用紙十枚(四千字)で一本消費されるというのは、意外というより、間違いのような気がする。ずっと昔「暮らしの手帖」の商品テストでボールペンを使ってどんどん書いていくテストがあったが、よくもこんなに書けるもんだというくらい書けるのがボールペンという印象が強かったのだ。いくら行変えなしだって、百枚くらいは軽々と書けそうだがどうだろう。実際に試して見る気はまるでないけどね(^^;)
近作「待つこと、忘れること?」に関して「私が悪口を書くのが(小説はもとより)達者なだけではなく、熟年のつつましい生活人として、料理に、大嫌いな掃除にいかにヴェテランとしての智恵を持っているかについて書かれたエッセイ集」と自画自賛した上で、

この年になると、ただ馬齢のみ重ねる人間と、年相応の幅広さを身につけた人間との差が、なぜかはっきりしてくる、というと、いかにも自画自賛のように聞こえるかもしれないけれど、実のところは、私にしても姉にしても、子供の頃からやっていたことを今もまだやっているということに、『待つこと、忘れること?』を一冊の本にまとめながら、改めて気がついた、

こんなこと、他のおばさんが書いた日には、ほんとにゲーなのだろうが、彼女が書くとそれなりに納まるあたりが、年季の入り方の違いだろうか。
本書の文章は、日記ではなく、批評でもない、雑録あるいはエッセイであり、

エッセイという分野こそ、私のような慎み深い小説家にとって、ある程度、奔放に振る舞える形式であると申せましょう。ある程度ですが。

というのが、あとがきの一節である。書きつづけてくれ。


05117

【相棒に気をつけろ】逢坂剛 ★★☆☆☆ 見知らぬ同士の中年男女の世間師二人が、さまざまなせこい金銭問題を、どたばたと解決?していくという、コミカルピカレスク短編集ということになるのだろう。もともとこの人は長編が面白い作家で、それでなくても短編苦手のMorris.としては、途中から借りてきたのを後悔した。アンチックギターやら、古い映画やらの薀蓄もこの著者の得意?分野だけに本書でも此処彼処で開陳してあったが、上っ滑りである。そもそも著者のウィット?というのが、あまりにも底が割れているので、全く笑えない。もうこの人の短編は読むまい。


05116

【ひさしぶりの引越し】高橋みどり ★★★ 40代の女性スタイリストが、10年前に自由が丘から青山に引越し、10年ぶりに同じ青山の別の部屋に引っ越したことをきっかけに、彼女の住まいのスタイルや、生活スタイルを女性写真家のカラー写真を多数配して紹介した、ヴィジュアル本である。大学で陶芸専攻し、テキスタイルアトリエに通い、大橋歩事務所を経てフリーのスタイリストという経歴からしても、お洒落なライフスタイルであることはいうまでもなく、Morris.とは対極のインテリアの部屋に住んでることは言うまでもないが、とりあえず、シングルライフで、狭い部屋を自分の好みを活かして、自分の生活空間を作り上げていく姿勢というのには共感を覚えた。
もちろん人の生活パタンは人の数だけあるわけで、どれがいいとか悪いとかは根本的には無いのだろうが、そこはそれ、好き嫌いは存在する。著者のインテリア感覚というより、モノの好みの方向性が似ているのかもしれない。内容より、ぼけっと眺めてひとときを楽しむのに適した絵本といえるかもしれない。


05115

【大志の歌】安野光雅 ★★☆ 「童話の学校 校歌・寮歌」と副題にある。人間以外の動物の学校の校歌や寮歌という形式で、34編の新童謡を収めたもので、画家である著者だけに、それぞれの校章もデザインしてあり、それが本書の一番の見ものだったかもしれない。
童謡のほうは、学校の名や、童謡、童話からの本歌取り、言葉遊び、ユーモア綯い交ぜにした努力は感じられるものの、これ、という作品は見当たらなかった。
たとえば、長野県私立 梓川河童高等学校の応援歌というのを引いてみる。

かっぱ踊り

かっぱ傘さし
かっぽれ踊る
からすまねして
かっぽれ踊る

かっぱかえるに
かささぎかもめ
かぜにかみなり
かっぽれ踊る

かっぱ悲しや
かた思いばっか
かんじょうは後
かなしいお酒

かっぱ酔ったら
かわにはよわい
かんな浮かばず
かなづち沈む

かっぱ勝ってよ
かっぱが負けりゃ
かみさま出てきて
かんしゃくおこす

かっぱ勝ってよ
かみさま味方
かみかぜ吹いて
勝ち戦


「か」の字尽くしのことばあそびなのだろうが、どうもリズムも悪いし、しろうとっぽさ/手抜きが目に付く。谷川俊太郎の傑作絵本「ことばあそびうた」中の「かっぱかっぱらった」などと比べるのは、著者に気の毒すぎるかもしれないが、余りに差があり過ぎる。
途中に架空の発表会の招待状やら感想葉書やら、挨拶など細かい芸を凝らしているが、それもあまりに作り物めいている。
本書は童話屋の文庫版サイズハードカバーのシリーズの一冊で、Morris.としてはこの会社が、日本の詩歌受容層の裾野拡大のための努力には、感心もし、期待しないでもないのだが、どうもこういった、安易な発想の作物を出すのは、あまり良くないと思う。安野さんも、やはり得意分野でのお遊びに精を出してもらいたいものである。「森の絵本」や「ABCの本」一連の紀行画本集など、とんでもない才能ある人だけに、余計にそう思う。


05114

【キムチ百科 韓国伝統のキムチ100】韓福麗著 守屋亜記子訳 ★★★ いやあ日本でもこんな本が出る時代になったんだな、と、キムチには目の無いMorris.はとりあえず嬉しがった。しかし以前ソウルで買った、キムチの本には30種類くらいだったから、100種とは多いぞ。本書は平凡社が出してるけど、翻訳ということで奥付見たら99年に原書が出てる。著者は宮中料理研究家で、ドラマ「チャングムの誓い」の料理監修もした女性らしい。単なる韓流ブームで出した一連の本とは、違ってるし、ノウハウ本とも違う、なかなかしっかりした作りになっている。

本書は、レシピを参考にしてキムチを作るだけの本ではありません。韓国のキムチ文化とその背景、各地方のキムチの写真を通して、韓国のオモニ(お母さん)たちが作り、食べてきたキムチの姿を理解していただければ嬉しく思います。

と前書きにある。冒頭に日本でキムチ作るときの留意点があり、続いて、キムチの歴史や語源、地方別のキムチの特徴、材料、製造工程、栄養と効用、貯蔵などについても、興味深い解説があって、これだけでも読み応え充分だった。
たとえば、キムジャンの一般的時期は、
ソウル・仁川・大邱:11月26日〜28日
江陵・浦項・尉山・光州:12月2日〜5日
鬱陵島・木浦・釜山:12月14日〜24日

などと、実に具体的である。他にもいろいろ、引用したいところだが、収拾がつかなくなりそうなので、ともかくも、本書のメインである、百種のキムチの名前だけでも、番号順に写しておこう。おおまかに十くらいに分類してまとめられている。

[結球白菜のキムチ] 白菜丸ごと塩漬けしたキムチ
01.白菜キムチ02.宮中式漁醤入キムチ03.キョンヂョン白菜のキムチ04.太刀魚の塩辛入キムチ05.柚子入白菜キムチ06.済州島白菜キムチ07.平壌式白菜キムチ
[白キムチ] 唐辛子を使わない白色のキムチ
08.白キムチ09.全羅バンジ10.生の高麗人参の白キムチ
[包みキムチ] 白菜の葉を風呂敷のようにして具を包むキムチ
11.包みキムチ12.白包みキムチ
[トンチミ] 大根に塩水を注いで漬けた簡単キムチ
13.トンチミ14.宮中式トンチミ15.アルタリ大根のトンチミ16.石榴キムチ17.芥子菜の水キムチ
[カクトゥギ] 大根を洗って皮ごと漬けたキムチ
18.カクトゥギ19.ゲゴル大根のカクトゥギ20.スケトウダラのアラ入りのカクトゥギ21.大根のソンソンイ22.茹大根のカクトゥギ23.カムドン塩辛入大根キムチ24.千切大根カクトゥギ
[ソクバクチ] 大根、白菜、ヤンニョム、塩辛、海産物などを色紙切にして漬けたキムチ
25.ソクバクチ26.カブのソクバクチ27.スケトウダラのソクバクチ28.太刀魚塩辛入りソクバクチ
[変わりキムジャンキムチ] 大根白菜以外を使ったキムチ
29.チョンガッ大根のキムチ30.コノシロと大根のキムチ31.うろこキムチ32.細切りイカのキムチ33.かぼちゃのキムチ34.ネギキムチ35.芥子菜のキムチ36.突山芥子菜のキムチ37.大根の葉のソバギ38.イヌヤクシソウのキムチ39.唐辛子のソバギ40.唐辛子と唐辛子の葉ノキムチ41.干し大根のチャンジ42.干し林檎のキムチ43.黄葉した豆の葉のキムチ44.白菜のチャンジ
[プッキムチ] 若い野菜を使った即席漬けなどのキムチ
45.春白菜のキムチ46.夏のオルガリ白菜のキムチ47.白菜のコッチョリ48.おろぬき大根のキムチ49.ニラキムチ50.胡瓜のソバギ51.胡瓜のソンソンイ52.キャベツの包みキムチ53.エゴマの葉のキムチ
[水キムチ] 前菜の役割をする、漬けてすぐ食べる辛くない、漬け水キムチ
54.おろぬき大根とオルガリ白菜の水キムチ55.ナパッキムチ56.鮑の水キムチ57.つる人参の水キムチ58.蔓万年草のキムチ59.夕顔のキムチ60.冬瓜のキムチ61.筍の水キムチ62.醤油漬けキムチ
[変わりキムチ] その他もろもろの材料で作ったキムチ
63.つる人参のソバギ64.ごぼうのキムチ65.桔梗の根のキムチ67.チシャのキムチ68.ニンニクの葉のキムチ69.芋づるのキムチ70.コリアンダーのキムチ71.芹のキムチ72.茄子のソバギ73.朝鮮かぼちゃとおろぬき大根のキムチ74.大根のチャンジ75.オイヂ76.胡瓜の醤油漬
[キムチの応用]
77.キムチ丼78.全州式大豆もやしのクッパブ79.エゴマの葉のキムチ80.白キムチ入り冷麺81.キムチ入り焼うどん82.春川式そば83.キムチ入焼餃子84.キムチ入り酔い覚ましスープ85.朝鮮かぼちゃとおろぬき大根の漁醤入チゲ86.挽き大豆のチゲ87.キムチ入もつ鍋88.キムチ入そば粉のチヂミ89.キムチ入緑豆のチヂミ90.チョンガッ大根のキムチと豚ばら肉の鉄板炒め91.キムチと春雨の雑菜92.おろぬき大根のキムチ入りとうもろこしのムッ93.古漬キムチの蒸し物94.白キムチの煮物95.カクトゥギピザトースト96.キムチチゲ97.キムチ炊き込みご飯98.おろぬき大根のキムチと絹ごし豆腐の冷菜99.カクトゥギのサラダ100.キムチの串焼き


おしまいの「キムチの応用」は、まあ、数字あわせかもしれない(^^;) それにしても、たしかにこれ一冊あれば、たいていのキムチはカバーできそうだし、キムチ事典として一冊持っていても悪くないと思う。


05113

【恥ずかしい読書】永江朗 ★★☆☆ 洋書店に勤めた後フリーライタになった著者の、読書論というより、読書にまつわるよしなし事を、軽いコラム風に綴ったもの。
歯磨きしながらの読書とか、カバーを脱がせる楽しみ(^^;)とか、キーワード読書方とか、目に良い読書方とか、東京書店回りとか、とりとめのないことこの上ないし、内容的にもあまり深みも、突っ込みもないのだが、ところどころ捻りのある奇想が垣間見られるところが撮り得といえよう。
書店勤務の経験からの本棚論や、書店員への言及はちょっと興味をそそられた。
「写しながら読む」という項で、写真集をカメラのファインダー越しに鑑賞するというのは、感心したが、これはやはり一眼レフでないと無理みたいだな。小さなデジカメしか持ってないMorris.としては、ちょっと口惜しい。

むかし、ある雑誌で、写真集を紹介する連載をしていた。マイナーな雑誌だったので、取り上げる本の表紙や中の写真を、出版社から借りられなかった。プロのカメラマンに複写を依頼する予算もなかったので、ライターの私が自分で複写した。複写台なんか持ってないから、撮影用のランプを二つ買って、Zライトにつけて照明を工夫した。
複写しながら不思議な気分になった。まるで自分がいま直に被写体に向き合っているような錯覚に陥るのである。ページをめくっているうちに、自分がロバート・キャパになったような気分になる。ファインダー越しに写真集を見ているあいだだけ、デヴィッド・ベイリーとか、ヘルムート・ニュートンとか、荒木経惟とか、守山大道とか、篠山紀信とか、そうした有名写真家になった。


05112

【橋本治という行き方 WHAT A WAY TO GO】橋本治 ★★★ 「行雲流水録」と題して「一冊の本」2001/07〜2005/01に連載されたもの。橋本治は同世代の書き手の中で、一番、二番に気になる存在(小説以外)で、あまり当たり外れはないのだが、本書はちょっと期待外れだったかな。
著者が「なぜ書くか」とか、自分の批評や時代感やら思想やらへの独自のスタイルを、どうやって手に入れたかというか、そういうスタイルしか取れないことへの弁明みたいなものを聞かされても、いまいちMorris.にはぴんと来ない。

私がなんで「思想」というものをいやがっているのかというと、「他人の作った正解」に自分を当てはめたくないからだ。自分に必要なのは「自分の正解」で、「自分の正解」を探すために「他人の作った正解」を参考にするのはいいが、それが下手をすると、「他人の作った正解に自分を無理矢理はめ込もうとする」になってしまう。その結果は、「思想の鉄砲玉」になって、肝腎の「自分」がどっかへ行ってしまう。それがいやだから、あまり「思想」には近づきたくない。私の十代の終わりは学生運動がピークに達した時代で、「思想に関しては右か左かどっちかを選びなさい。撰べないのはバカです」というような時代だった。私は選べないで「バカ」というところへ行かされた人間なので、そういうことを繰り返したくない。

思想が嫌いだと、一言で済ませればいいのではなかろうか。しかし、すでにして、これまでの著者の多くの著作を眺めれば、橋本治の思想みたいなものも、おぼろげにだが、見えてるような気もする。
薩摩琵琶の詞章を書く行為に関連して、古典芸能についての発言は面白かった。

古典芸能の世界で、「自分が出る」というのは、とても恥ずかしいことである。芸というのは、「自分」を消してからではなければ生まれない。「自分」が残っていればシロートで、シロートというものは、「自分を消す」という表現の基本をまだマスター出来ていない存在なのである。
もしかしたら私は、自分のすることすべてを、「古典芸能」のように扱っているのかもしれない.「自分としてはどうやるのか?」という問いは、「自分のやろうとしているものは、本来的にはどういうものなのか?」という問いとシンクロしていて、「自分のやろうとしているものの本来性」は常に上位に来る。自分のやらんとすることの「本来性」が見えなかったら、「やろう」とも「やれる」とも思わない。私は「自分」よりも「自分のやるべき対象」を信じているのである。
「自分のやるべきこと」は、「自分」なんかよりもずっと寿命が長い。昨日今日のポッと出である自分の主張なんかよりも、自分の前に存在しているものの「あり方」を尊重していた方が、ずっと確実である。だから私は、「自分」よりも「自分の外にある本来」を信用する。信用して、しかし言いなりになるかどうかはまた別の話で、もしかしたら私は、一度も「自分の外にある本来性」の言いなりになったことはないのかもしれない。
「自分を放擲してしまっても平気」という矛盾はこのように存在して、「自分の外にある本来性」というのは、常に「倒すべき敵」になっている。つまり禅宗で言うところの、「仏に会ったら仏を殺せ」である。

「仏に会ったら仏を殺せ」という素敵な文章に出っ喰わしたのは、三島由紀夫の『金閣寺』を読んでいたときで、[仏に逢うては仏を殺し、祖に逢うては祖を殺し、羅漢に逢うては羅漢を殺し、父母に逢うては父母を殺し]と、えんえんと続く。今の人は短絡しているから、本当に「父母」を殺したりもしてしまうが、つまりは、「意味を殺す」である。
「自分」の外側には、強大な「立ちはだかる」とも思えるような「意味を発散するもの」がある。つまりは、「幻想」である。「幻想だから壊してしまってもいい」と思うと、「すべては幻想である」という接続パイプによって、なんにもなくなってしまう。もう少し冷静になるべきで、それが「幻想」でしかないのは、それが「こちらを排除する形で存在しているから」である。だから、「そこに入る」が必要になる。入って、「自分を排除していた要素」を殺す。それが、「仏に会ったら仏を殺せ」である。そんなにめんどうなこととも思えない。


Morris.には、けっこう「めんどうなこと」のように思えたりするのだが、ここには、古典芸能だけにとどまらない、創造への機微と要諦が含まれているようでもある。
著者が大学(東大)に入って、専門課程に進むとき、教授が「授業に出ることを望んでないし、好きに学んで、私らにわかる卒論を出してくれ」と言ったというのを、鵜呑みにして、それで通したのだと言い張っているが、これも、やや眉唾というか、一種のミスティフィケーションのように思える。しかし、橋本治なら何をやってもいいんだよな、という暗黙の了解をすでに、読者との間に取り付けているのだから、何を言ってもよいわけである。Morris.もそのへんのところは、見倣いたいものである。とうてい無理だろうけどね(^^;)


05111

【物は言いよう】斎藤美奈子 ★★★☆☆ 『噂の真相』に「性差万別」と言うタイトルで連載したものをかなり手を加えたものらしい。連載当時のキャッチコピーが「人のふり見て我がふりなおせ。FC(フェミコード)にひっかからないための言説事典」。フェミコードというのは、セクハラに準じる行為を正すためのコードで、ドレスコードのフェミニズム版で、「性や性別にまつわる「あきらかにおかしな言動」「おかしいかもしれない言動」に対するイエローカード」という理解でよろしいとのこと。
斎藤美奈子フリークのMorris.としては、そんなことはどうでもよくて(^^;) 例によっての美奈子節を堪能したいというのが正直なところ、久し振りの美奈子本(といっても発行は2004年11月)を手にとって、わくわくしながら、読み始めたのだが、あれれ?どうも様子が変だぞ。政治家や文筆家などの発言を例にとって、そのフェミコードにひっかかる度合いを採点して、はっきり言えばいちゃもんつけるといった手法である。これが面白くないわけはない、と思って読み進めたのだがなかなか面白くならない。
本書は全体が7章に分たれている。

1.「女の涙には勝てん」問題
2.「女は家にいろ」問題
3.「女は女らしく」問題
4.「男はスケベだ」問題
5.「おんなだからこそ」問題
6.「女に政治はわからん」問題
7.「女はだまっとれ」問題


このうち第1章は書下ろしらしいが、2章ではコンビニやデバ地下の惣菜の充実振りや、インスタント食品の擁護とも言うべき発言、3章では性別によって人を規定するジェンダー・バイアスのジェンダーは「しつけられた性」、バイアスが「偏り」というわかりやすい説明、4章では「セカンド・レイプ」「セカンド・セクハラ」への突っ込み、6章では保守=世襲制であり、世の中のあらゆる不平等が世襲制に由来するという極論にして正論、7章では人種差別主義者(レイシスト)と性差別主義者(セクシスト)を同列に論じて、世の性差別を弾劾するなど、それなりに頑張ってはいるんだけど、いまいち切り口が甘い。Morris.がいつも惚れ惚れする美奈子さんの豪快な切り口に冴えが見えないのだ。しかし、Morris.がわざと飛ばした第5章「女だからこそ」問題篇だけは、違ってた。本書は、Morris.にはこの5章だけでよかった。そのくらいこの章は読み応えがあったし、美奈子さんの辛辣さも絶好調だった。以下引用はすべて第5章からである。

ところでコルセット問題だが、はたしてこれの流行は、山本氏がいうように男性の目を意識したものなのか、戸矢氏がいうように女性独自の価値観によるものなのか。私は戸矢説のほうが正しいように思う。これは万国共通の現象で、近代の日本でも、女の着るものに難癖つけるのはいつも男性のインテリ、女性は独自の価値観でそれを振り払ってきた。
その上で[これは男性側の公式見解で、本心ではないのではないのか]という一文を読むと、助教授の見解は、別の意味でたいへんに興味深い。女の下着ファッションを否定する男性も「本心」ではこれをニヤけた目で眺めていたのだろうか。
「このあたりの素直でない見解は、いかにも中年の男性研究者である」
なんて失礼なことを申し上げたら助教授は憤慨なさるだろう。「いかにも若い女性研究者である」だって同じでしょう。


つまり、コルセットに関しての若い女性研究家の論考に対して、中年男性の助教授が「いかにも若い女性研究者である」と評したことへの、見事な反撃ぶりである。気持ちええ。

「オンナはずるい」「オンナは楽だ」
もの書きのみならず、男にまじって仕事をしていて、この手の言いがかりと一生無縁ではいられる女性は少ないのではないか。こういう手合いを理論的に撃破するのは容易ではない。なぜってそれは理論的な攻撃というより、感情的な違和感の表明にすぎないからだ。私にいわせりゃ「ああら、それは嫉妬?」である。ぼめんなさいね、得をさせていただいて。いっそ、あなたも女性名前の覆面でお仕事なさったらいかがかしら。

これは大月隆寛への批判だが、美奈子さんは当然こういった批判なんか屁とも思わないのだろうが、同性である女性の言説にも目をつぶるわけでなく、言いたいことははっきり言うタイプである。黛まどか主宰の「月刊ヘップバーン」の、自己陶酔的な文について。

自分のことを自分で語っているのだ。これ自体がFCに抵触するわけではもちろんない。ないがしかし、思わずプッとふき出したくなるのはなぜだろうか。
ひとつめの理由は、たぶんエッセイと句の微妙なズレである。ふたつめには、これらがまさに「女だからこそ」のエッセイであり、句だからだ。
世の中には「少女趣味」と呼ばれる領域があって、男社会がよしとする価値観をブッ飛ばすパワーを秘めている点、これには積極的な価値がある。文学史はそれを徹底的に排除し、無視してきた。樋口一葉と与謝野晶子で近代文学史の女性は終わりと考えるのは、そのへんがわかっていない証拠といえる。女性作家をなめてはいけない。
しかし、じゃあ『ヘップバーンな女たち』が、この少女趣味の文化に連なっているかというと、微妙にそこはちがうのだ。アマチュアの文章なんだから許してやりなさいよ、という意見もあるだろうけれど、アマチュアだからこそ興味がわく。
だいたい、そこらのお姉さんがオードリー・ヘップバーンを気取るのは、そこらのお兄さんがハンフリー・ボガードを気取るのと同じなわけで、この自己陶酔ぶりはなに?
「ヘップバーン」文学のツボとはつまり、「世間が望む女性像」に知らず知らずに書き手も同化し、その価値観を内面化してしまっている点にある。


上の引用では、主旨とは離れて「少女趣味」への鋭い指摘があったので引いてしまったのだが、かくのごとき、恐ろしく鋭く重要な定義をぼそっと言っとくあたりも、Morris.の琴線に触れるのだろう。

そして、本書中で、一番印象的というか、衝撃的だったのが、やはり5章中の「【心得43】「僕ちゃん語り」の無自覚は犬も喰わぬ。」だった。若い批評家の批評内容でなく、文章を批評するのだが、ここで問題にされるのが、一人称「僕」である。

この文章のどこが気になるのか。「僕」という一人称、これに尽きる。詩や小説の場合はまた別だが、エッセイや批評を書く男性には「僕/ぼく/ボク」を好んで用いる人と、けっして用いない人がいる。たんなる好みの問題とはいえ、気になりだすと、めちゃくちゃ気になる。169(ヒロキ)と326(ミツル)に共通した表層の印象は「ったく、僕僕僕僕、連呼しよって。よっぽど僕が大事なんだな」である。そんな風に感ずるのは、第一に彼らが自分語りに必要以上に熱心だからであり、第二には、当たり前だが、中性化された「私」ではなく、男のジェンダーが刻印された一人称=僕(ぼく/ボク)を使用しているせいである。
もちろん一人称くらい、好きなのを勝手に用いればよいのだ。ただ、僕僕僕僕と無自覚に連発する人は、自らの「男の子」性を一瞬足りとも疑ったことがないんだろうな、とふとおもったりする。筒井康隆の「おれ」やビートたけしの「おいら」、町田康の「自分」にはまだしも含羞があるけれど、軽い甘えと幼さと感傷を含んだ僕(ぼく/ボク)には微妙に鈍感な感じがある。この鈍感さを感知できない鈍感さが、自分語りを普遍性と取りちがえる、もっと大きな鈍感さへの道を開いたんじゃないのか。と思うとなんだか放っとけない。彼らに必要なリハビリは、新聞記者や雑誌記者式に一人称を排して書く練習をすることかもしれない。

いやあ、「鈍感さ」四連発の「僕ちゃん使用者」攻撃は、えらい迫力だなあ。うっとり。……してるばやいではないんだな、これが(^^;) 実は、Morris.の日記の文章には、矢鱈一人称としての「Morris.」が出てくる。そんなことはまず無いだろうが、万一この日記を美奈子さんが見たら、「僕僕僕僕」の連発以上に、怖気をふるうのではなかろうか。いわゆる甘え世代のオンナコドモがよく使う「ミナコわーー」「これルミコのモノーーっ」なんていう幼稚固有名詞一人称使用方とほぼ同じだもんね。しかも、これを書いてるのが、芳紀56歳(^^;)の男ときた日には!!である。もともと、このMorris.というのは、ネットで発言する時に(niftyのパソ通時代)使うハンドルとして、自分で命名したのだが、それを臆面もなく、一人称的に使っている(それも意識的に多用してる)のは、ネット世界ではいくらかでも別の人格として動けるかも、と、甘く考えた上で、基本的には三人称として使い始めたはずだった。それが、最近はもろ一人称になってしまってるようで、それなのに多用ぶりは、是正されるどころか増加の一途をたどってる傾向にある。うーーーむ、どうしたものか。
しかし先の引用を読んで悩んだのはMorris.ひとりではなかったみたいだ。続けて引用する。

と、こう意地悪に書いたのは、雑誌連載時のことだった。この話には、じつは後日談がある。これがどうも男性の書き手をかなり抑圧してしまったようなのだ。もう「僕」は使用しないと宣言した人、「僕」を使用する意味についてレクチャーしてくれた人、「僕」から「私」にチェンジするキッカケがないと悩みを打ち明けてくれたひと。これほどの反響を呼ぶとは、正直、思っていなかった。みなさん、いいんですよ、気にしないでつかってください。「僕」。

おいおい、これって傷痕に塩を塗る行為ではないかい? おまけに、おしまいに「僕(ぼく/ボク)」って、子供に言うみたいに軽く呼び捨てされた上で、なおも「僕(ぼく/ボク)」を使うというのは、かなりのパワーを必要とするのではなかろうか。まあ、Morris.の場合は、当面、このままだけどね(^^;)

実はこの後に、さらに「僕」に関する言説は続き、小学校の作文教育で「ぼく」と「わたし」の書き分けの区別が性差別の元にもなると敷衍していくわけだが、結論的に、日本語は主語が省略できるという特性を最大限に利用すべきだから「節約は最大の美徳」だと、〆てしまう。これは、ちょっとずるいというか、逃げに見えるぞ。
美奈子さん(きっとこの呼びかけも、美奈子さん本人が見たら怒り(呆れられ)そう)は、現代日本でも、相当芯のあるフェミニストだとにらんでいるのだが、いわゆる自称フェミニストたちとは一線を画している。それは、彼女が、賢こすぎて、見えすぎるからだろう。そして、Morris.は昔から、賢い女性というのに、弱いのだった(^^;) 一生勝てんだろうなあ。
美奈子さんの本を読むと、ついつい引用が長くなってしまう。下手すると、著作権侵害になるんじゃないかと思ったりもするのだが、文章のプロ(レタリアート)を自称する美奈子さんと、文章のアマ(ちゃん)のMorris.の階級差に免じて見逃しておいてもらおう。


05110

【アルボラーダ】入沢康夫 ★★★ 入沢康夫は最初の詩集『倖せ それとも不倖せ』(1955)を愛読したものの、それ以後ほとんど読めなくなってしまった。なんとなく理解できずにいたのだった。本詩集は処女詩集からちょうど50年目に出た最新詩集と思うのだが不思議な読後感を覚えた。川柳もどきや俳句もどきもあり、言葉遊びあり、故郷松江時代の擬古詩あり、アメリカのイラク侵攻を揶揄した戯作もありで、お遊びなのか、真面目なのかよくわからない。要するにこの4年ほどの間に雑誌に発表したものを寄せ集めたせいなんだろうが、やっぱりMorris.には理解不能の詩人なのだろうか。でも、どこか気にかかる存在ではあるんだな、これが(^^;)

(十三番目の……) 入沢康夫


四月が残酷な月だと言つた人があるけれども、月といふ月は程度の差こそあれ 残酷なところを持つてゐて たとへば まつたくたとへばの話だが 五月は犬たちを発情させ孕ませ 六月は麦藁帽子の少女を沼に溺れさせる 七月は瀝青を融かして家長たちの肌に引攣りを作り 八月は大口開けてそれを笑ひ 九月は大アンテナの下でサーベルを無意味に振り回し 十月はもう二度と逢ひたくない人を山のあちら側から連れ戻し 十一月は水鶏(くひな)の頚をひねり 十二月は樫の門扉に罅割れを作り 一月は星々を砂丘の襞々に撒き 二月はその星屑が掻き集められて恥づかしい症病(やまひ)の薬にされる

(月々はまた 慈悲深い一面も持ち たとへば またもやたとへばだが 五月は少年たちに途方もない悪戯を思ひつかせ 六月は沼藻を蔓延(はびこ)らせて水魔の活動を抑制し 七月は掃除ブラシを捨てて八月と取組み合ひの喧嘩をする 九月は着弾点を故意にずらし 十月は泣き泣き海辺を歩き 十一月は聞こえる筈のない蒿雀(あをじ)の声に腹腸(はらわた)を千切り 十二月は早起きして人の門出を送り 一月は夜空の麒麟に潤んだ眼を向け 二月は逆に頭を垂れてしきりに粥を啜る)

だが これらいづれもいささかならず平凡で意外に人間化された十二の月を遥かに凌駕して残酷なのは 十三番目の月 名無しの 十三番目と仮に呼んだが これは十二月の次に来るといふのではなく あたかも太陰暦に於ける閏月(うるふづき)のやうに 時の流れに割り込んでくる いな 閏月とちがつて月の途中でも いつでも構はず割り込み居座つて五十日 百日 容易に去らうとはしない さういふ十三番目の月 一切の形容語が失効する十三番目の月

さういふ人間の境域を絶した「月」を私は これまでに何度か体験したやうに思ふ
けれども「筆舌に尽くせぬ」その「内側」その「実態」そのほんの「欠片(かけら)」なりとも 意味を持つた言葉にして 他人(ひと)に伝へ得る日 そんな日が来るものだらうか 来るものだらうか 果して


なかなかにうがった詩でありそうだし、意識的に三月を省いた理由が何なのか謎であるし、深い(んじゃないかな)と思うのだが、やっぱり良くわからない。でも嫌いではない。なんなんだろう?これは。

もうひとつ「笠置シズ子へのリスペクト」という注のある短い漢字だけの1篇を。(ただしタイトルの「無」は原作では「旡」の左上の点が無い文字で意味は「無」と同じ)。
表題の「是無等等呪」は玄奘漢訳「般若波羅密多心経」の結び近くにある言葉で、「コレニ匹敵スル呪文ハ無イ」、つまり「コレコソ至上ノ呪文デアルゾ」の意である由---という注もある。

是無等等呪(ぜむとうどうしゆ) 入沢康夫

羯諦奄摩尼善良狗

羯諦奄摩尼善狗声


やっぱりこれも、深すぎて、わからんぞ。でも、Morris.も笠置シズ子は大好きだから。まあ、戒名みたいなもんか(^^;)
*これに関しては、後日掲示板で白豚さんという方からコメントがあった。「わてほんまによういわんわ」の地口だったらしい。


05109

【バラの画家 ルドゥテ】シャルル・レジエ著 高橋達明訳 ★★★☆☆ ルドゥテといえば、フランス宮廷文化を代表するバラの画家として有名である。Morris.も以前サンボ通信に歌集『薔薇祭』を掲載したときも、表紙に彼の薔薇図を白黒コピーして使ったくらいのものだ。
でも、その画家自身については、なーんも知らずにいた。そこに本書の登場である。即座に手に取ったが、本書は84年に旧版が出てその改訂版らしい。20年も知らずにいたというのは迂闊だったが、まあ改訂版では、カラーページを大幅に増やしたとあるから、それだけでも嬉しい。
で、結局Morris.は本書の図版、就中60ページほどのカラー図版だけに満足した。
本文記事は、ほとんど面白くなかった。ルドゥテはベルギー人で、彼の一族はもともと画家一族で、薔薇の画家ピエル・ジョゼフ・ルドゥテ(1759-1840)と弟のアンリ・ジョゼフ・ルドゥテ(1766-1852)が著名な画家らしい。フランス革命の時代にフランスを舞台に活躍しながら、外国人ということと、画家は一種の財産みたいな扱いだったこともあって、裕福な生活をして、貴族の庇護を受け、貴族の子女の先生をして、贅沢な暮らしをしていたことくらいしか印象に残らなかった。
ただ、彼の薔薇の絵がそれまでの画家の恣意的空想的な描き方でなく、リンネを総帥とする、博物学者の著書のためにも用いられる、ヴェラン(博物写生図)に基礎を置いてるということで、、それがこの画家の必然でもあったことを教えられた。絵を見ればおおよそわかることだけどね(^^;)
それにしても、往時の植物図譜の図版の美しさは、これはもう荒俣宏が言い尽くしてるとはいえ、素晴らしすぎる。もともと花好きなMorris.だけど、見るたびに嘆声あげずにいられない図が目白押しなのである。
本書でもルドゥテの「薔薇図譜」口絵に始まって、絢爛豪華繊細優美百花繚乱なのだが、ニコラ・ロベールという画家のセンボンタンポポの素朴な図だったというのが、ちょっと皮肉かもしれない。結局Morris.は、園芸種より、雑草の花の方が好きということなんだろう。
本書の評点のほとんどは図版に負っていることは言うまでもない。


05108

【絵本 パパラギ】和田誠 構成・絵 エイーリッヒ・ショイルマン 編集 岡崎照男 原訳 ★★☆ 「パパラギ」は良い本だと思う。Morris.もこれまで数回買ったはずだ。でもすぐ人にあげてしまい今手許には残っていない。サモアの酋長ツイアビが1915年ごろヨーロッパを旅行して帰り島の住人に報告した話をもとに、サモアで暮らしたことがあり、ツイアビとも親交のあった詩人ショイルマンが本にして1920年にスイスで出版したものが原書ということになる。
それが1977年に復刊されて話題になり、日本でも1981年に岡崎訳で出されたのでMorris.が最初に読んだのもその頃だろう。そのときで、すでに60年以上前の記録だったわけだが、西欧の文化への痛烈な皮肉、風刺、批判、問題提起が、大らかなユーモアと素朴な語り口で、実に詩的に表現されていて、すでにパパラギ(空の穴から来た人--白人--文明人)の一員になっていたMorris.は、実に気持ちの良い一発を脳天に食らわされたような気がしたものだった。
たしか日本版の装丁も和田誠だったと思う。これがまた実に良かった。で、本書だが、2002年に和田誠自身が、絵本仕立てにしたもので、「この絵本はもとの書物よりいくらかシンプルに構成されています。」と書いてるように、90pの半分くらいが絵で構成されてる。たぶん文章は元の本の半分くらいになってるんじゃないかと思う。それはそれで良いんじゃないかと思ってた。もともとがシンプルな本で、それを素敵な和田誠の絵で飾って、子供にも読みやすくなってるんだろうくらいに思ってたわけだ。そして、たしかにそういう面もあったのだが、読後感は、何だこれは(>_<)、であった。
一つ一つの挿話は、原本と同じで、それをシンプルにしただけなのに、節の終わりになると、きまって、西洋文明への批判めいた解説みたいな文章が付加されてるのだ。これがMorris.には全くいただけないのだった。蛇足、というか、余計なお世話というか、これがあるだけで、原作のもっていたふくよかさが、ばっさりとはぎとられた感じがする。

パパラギがその仲間を大切にし、「私の物」「あなたの物」の取り合いで戦うことをやめたければ、「私の物」を分けあえばいいのだ。
自然の大きな力によってたくさん物を持ったら、仲間に分けてやらなくてはいけない。だれかひとりがたくさんの物を持つのは大自然の心ではない。
だれかひとりが「私は日なたにいる。おまえは日かげに行け」というのも大自然の心ではない。みんなが日なたに行くべきである。

こんな文章はオリジナルには、なかったと思うぞ。(しかしMorris.のことだから、勘違いかもしれない(^^;))
たぶん、原作自体が、ツイアビの話をショイルマンが大幅に手を加えたり、詩的に変えたり、アレンジしたりしたものであることは間違いないだろう。いや、そもそもMorris.は、ツイアビの話というそのものすら実は存在しなかったのではないかと疑ってるくらいだ。要するにショイルマンという西洋の詩人が、サモアの酋長の話に仮託して、ほとんどすべてを創作したんじゃないかということだ。そして、それは、どっちでもかまわないと思う。出来上がった作品が上出来であればそれで意味がある。
しかして、この絵本版は、原作を結果的に貶めているとしか思えなかった。和田誠に悪意があったわけでなく、いや、むしろ、善意で作ったことははっきりしているのだが、それがほんとうに「余計なお世話」になってしまったようだ。和田誠のイラスト自体は悪くないだけに、困ったものである。


05107

【蜂起】森巣博 ★★☆☆ 「週刊金曜日」に連載されたもので、前に「非国民」というのを読んでそれなりに面白かったので借りてきたのだが、こちらは、小説以前の作品だった。社会的に挫折させられた複数の主人公が、国家破壊に立ち上がるという、単純なストーリーなのだが、実名で汚職事件や政治事件の告発めいた部分が目立つ。それもいかにもとってつけたような提示の仕方である。ちょうど「噂の真相イズム」を並行して読んでたので、その引き写しみたいな部分が目につくわ、鼻につくわ、だった(^^;) どうも、「週刊金曜日」に関してはイメージ悪くなるばかりである。著者も基本に戻って(^^;)自分の好きなスタンスでの小説を書いてもらいたいものである。


05106

【噂の真相イズム】岡留安則 ★★★☆☆ 04年3月に黒字休刊して沖縄在住の「噂の真相」岡留編集長の新著。休刊までの編集長日誌をメインに、斎藤貴男、鈴木邦男との対談、新聞寄稿などを寄せ集めたものだが、流石に面白い。Morris.は「噂の真相」は立ち読み専門(^^;)で良い読者とは言えなかったが、それでも雑誌への評価は高かった。岡留はMorris.より二つ上だからほぼ同世代と言えるだろう。全共闘時代から現役で、その後もジャーナリズムの本道をどうどうと展開して、悠悠自適を掴み取った姿を見せ付けられるだけに、羨望の念を抑え切れないが、そもそもの資質が違うんだろうな。Morris.にとっての雲上人(ヒーロー)の一人である。

『噂の真相』がいよいよ25年の歴史を閉じる日が近づいたが、その『噂真』とは何であったのか、ということをひとことで説明すれば、この別冊のタイトル、「日本のタブー」へのチャレンジそのものの歴史であった、といえよう。天皇制、部落、在日、大手芸能プロ、警察・検察、電通、作家・文化人……、いずれもマスメディアの商業主義の論理が背景に横たわっている日本独自ともいうべきタブーとの闘いである。

運動にかかわっちゃうと、雑誌づくりの方が中途半端になると思っているんですよ。僕は活字を通して火付け役に徹する。「社会には矛盾がありますよ、問題がありますよ、あとは皆さんがその情報を元に運動をやってください」というジャーナリストの自己限定、僕はそれを職分として徹するという役回りですね。


05105

【生きかた名人】池内紀 ★★★☆☆☆ 「たのしい読書術」という副題がある。著者の愛読作家20人の読書コラムという感じの短文を集めたもので、そのセレクションとタイトルのつけ方からして、洒落ている。

・借金/内田百閨E飲み助/吉田健一・心中/太宰治・病気/堀辰雄・妬み/芥川龍之介・退屈/坂口安吾・借用/井伏鱒二・貧乏/林芙美子・反復/小川未明・気まぐれ/州之内徹・おかし男/長谷川四郎・雑学/植草甚一・小言/三田村鳶魚・かたり/柴田錬三郎・腹話術/ 堀口大學・子沢山/与謝野晶子・メランコリー/若山牧水・偏屈/正岡容・ホラ/寺山修司・生きのびる/田中小実昌

Morris.の好みとそうでない作家半々くらいだが、著者にとっては、どこか通じ合うところのある作家ばかりらしい。

・借金はヘンなものだ。金がないので人に借りる。それで借金ができた----ここまではいい。つぎがヘンなのだ。借金を返せ、となる。もともと金がないから借りたわけで、金のない人に、どうして金が返せるだろう?
つねに手にとどまらないとは時間における現在と同じで、一瞬の間に過去になっていく。タイム・イズ・マネーとはよく言った。金は時の現在のごときものであり、そもそも世の中に存在しない。「……さらに考えて行くと、金は単なる観念である。決して実在するものでなく、従って吾人がこれを所有すると云う事は、一種の空想であり、観念上の錯誤である」(「百鬼苑新装」)
これを書いたのは、昭和十年代に至ってからである。借金の手習いより数えて二十数年の歳月が流れていた。(内田百)

・ついでながら退屈とは、ひとことにしていうと、この世、またわが身というもの、自分がもっとも愛しているはずのそれが、かくべつおもしろくもおかしくもないと気がつくことである。とりたてて何一つ言うべきことがない。だからこそ退屈者は、ことのほか大胆な説を立てる。目をむくような主張をして、地の果てまでへも突進する。(坂口安吾)

・貧乏は貧しいとかぎらない。貧乏であって豊かな人もいれば、金持でも貧しい人がいる。貧乏と貧しさとは、べつのものだ。
林芙美子は貧乏の豊かさを、この上なくたのしく描いた。そしてベストセラー作家になった。そして今日、おそろしく物量豊かな時代、かぎりなく豊かで、そしてこの上なく貧しい時代の到来とともに、この作家はおおかたの書棚から捨てられた。(林芙美子)

・この種の趣味的大食漢は、たいてい早かれ遅かれ知的糖尿病になるものだ。しかし、植草甚一は、そんなふうにならなかった。頑迷にも固陋にもならうず、またひからびたり、枯渇したりもしなかった。いつも永遠の青年のような好奇心をもち、軽い足どりで街を歩き、一人で、一人の存在でもって、二度とくり返されない人生を、あざやかに生きた。だからこそ、誰もがひそかに思ったわけだ。
「トシをとったら植草甚一になろう!」(植草甚一)

・意地悪じいさんの小言集のようだが、これは西洋の用語でいうと、注解文学というのにあたる。「舌」をあらわすギリシア語から生れた言い方で、舌の味分けによってたのしく文学を俎上にのせる。さらに吟味の過程そのものが、主題を煮つめ、多様に変化させていく。
当人は西洋のジャンルなど夢にも思わなかっただろうが、三田村鳶魚の『大衆文芸評判記』は、わが国の注解文学にあって、唯一といっていいほどの名作だ。その小言を通してフクイクと花のお江戸がよみがえる。たのしく、おもしろく、ためになる幸兵衛さんの小言である。(三田村鳶魚)

・ショーペンハウアーによると「夢は短い狂気、狂気は長い夢」だというが、柴田錬三郎が代表作の主人公を「眠狂四郎」と命名したのが意味深いのだ。いわば「長い夢」をつむぐための入れもの。錬三郎の名前からもわかるように、これは三男坊であって長兄は剣太郎といった。次兄は大史郎、そして錬三郎、これは父がつけた名前。三男は自分で四男をつくり、「狂四郎」と名づけた。長い夢を語るための短い狂気の役まわり。(柴田錬三郎)

最近は温泉好きが嵩じて、ふやけたような雑文書きになってる感の強かった著者だが、こうやってちゃんとした素材を用いればそれなりの、いや、彼にしか書けないこういった当意即妙、自由闊達、変幻自在な工芸品みたいな文章をものにできるのだから、もう少し風呂は控えて、こちらの世界での遊興に精を出していただきたいものである。


05104

【火車】宮部みゆき ★★★☆☆ 彼女の名前はよく目にしてたし、知人のなかでも彼女のファンは少なくないので、何度か読もうとしては見送ってきた。本書は92年の作品だからデビュー4年目くらいの作品で、まあ、初期の作品ということになるのだろう。
事件で負傷して休職中の中年刑事が、親しくない親類から持ち込まれた恋人失踪を追いながら、自己破産した女性の複雑な人生を少しずつ掘り起こしていくといった、一般推理小説とは一味違ったストーリーになっている。確かに描写もそつがなく、展開も読者を飽きさせないし、文章も下手ではない。そして途中で弁護士の口を借りて20p近くを費やしてのサラ金や信用カード、自己破産などの現代の「消費者信用」の解説、分析、矛盾、恐ろしさなどは、たしかに正論で、特にMorris.のようにその方面に弱い人間は、ほほおっなるほど、と、感心させられるくらいに、念のいった内容だった。また、通信販売会社での個人情報漏洩に関する、やりとりも、発表年代を思うとびっくりするくらい、時代を先取りした内容だし、本当にこの作家の、時代や社会即応の豊かな知識に驚かされた。

斜め前の通路ぎわのシートにもたれている若者が、携帯電話を耳にあて、さかんに何かしゃべっている。わざとらしく大声をあげて、ぞんざいな命令口調でものを言っているところをみると、いっぱし、人を使う立場にいるのだろう。しかし、公共の場所で携帯電話を使ってしゃべり散らしている人間というのは、どうしてそろいもそろって声が大きく、また馬鹿面に見えるのか。

この時期はまだ、爆発普及以前の携帯電話への言及などは、Morris.と全く同感だった。
また、本筋とは無縁だが、東京という都市への言及。

買い替えのきくものに、人は根をおろさない。買い替えのきくものを、故郷とは呼ばない。
だから、今の東京にいる人間はみな一様に根無し草で、大部分は、親や、そのまた親が持っていた根っこの記憶をたよりに生きているのである。
だが、その根の多くはとっくに弱り果て、その呼ぶ声は、とうの昔に嗄れてしまった。だから、根無し草の人間が増える。本間は、俺もその一人だと思う。
だからだろう。仕事でこの大都会を歩き回り、大勢の人間に話を聞いているとき、相手の話のなかに、語尾に、イントネーションに、ことばの選び方のなかに、明らかにその人物の「故郷」を思わせるものを感じとったとき、ちょっと淋しいような気になる。


といったところに、この作家が好まれる理由があるのかもしれない。
本書のラストはちょっと意外な終わり方である。これこそ作者の眼目かもしれないし、発明というのかもしれないが、Morris.はもっとオーソドックスに、始末をつけてほしかったような気がする。


05103

【分岐点】古処誠二 ★★★★ このところ、すっかり肩入れしてる古処作品、それもMorris.が一番注目している戦争ものである。2002年に雑誌に連載されたもので、敗戦直前の内地、動員中学生と彼らを指導する軍人との話である。心身、頭脳体力ともに抜きん出た模範的少年と、やや体力的に劣り、家庭環境にも恵まれなかった少年の対照的二人の主人公を軸としながら、戦争中の日本軍、政府の矛盾を、当時の中学生の視点から徐々に解きほぐしていく手法で描いている。もちろん、当時の劣悪な生活状況、さらに空襲の悲惨、飢餓に近い食料事情、軍人の暴力、横暴、神国日本への信頼と不信、動員中学生同士の軋轢、勤労女学生との淡い交流と悲劇、そして、戦争そのものの不気味さが、例によっての筆致で緻密、懇切に書き込まれてるわけで、やっぱりMorris.はシビれてしまった。

人が理不尽を前にしても懸命になれるのは、帰る家を持っているからだ。そこに親しい人間がいる以上、自分が羞恥の存在になるわけにはいかない。人は、羞恥を予測するからこそ犯罪の欲求を抑える.刑罰の意味はそれが大きい。羞恥心を捨てたものだけが刑罰そのものを恐れる。幸いにして、おおかたの日本人は極限におかれながらも日本人であろうとしている。非国民と呼ばれたくがないために、筋の通らない事実を見ながらも秩序を放棄しない。

皇軍が蝗軍と呼ばれていた現実は密かに囁かれていた。服部もそれを口にしていた。補給の前に前進の命令を受け続ける軍隊は、現地での調達を推し進める他ない。
認識の溝を埋める役目を果たすはずの報道は、逆に溝を覆い隠してきた。
皇軍は蝗軍。
すべてを食い尽くす蝗の群れ。
現にここでもそうだった。
農家を接収し、食料を調達する。すでに物々交換もままならなくなった以上、現地の部隊が機能を維持するためには、供出要請という名の強制的な徴発を行わなければならなくなる。
いや、それはすでに行われている。軍隊の駐屯など迷惑でしかない。もう嫌悪感を隠さなくなっている。自国を守るための軍隊を国民が疎んじている。
大東亜共栄圏の建設という大義があったからこそ日本人は熱狂した。支邦事変では抱けなかったその目的意識が欧米と直接ぶつかることになって一気に形を伴った。
だからこそ誰もが苦痛を耐えた。
自分たちの行動に意義があるからこそ耐えた。
しかし現実には、皇軍は蝗軍だった。
別称や、蔑称は常に本質を突く。
報道はそれを隠し続けてきた。
戦争の意義に反することは隠さねば国民を操ることはできない。
疑問を抱かせてはならない。
信じることができなくなったとき人は離れる。
今がそうだ。
緩み始めた軍紀と乱れ始めた治安。その原因の最たるものは頭上を飛ぶ敵機だった。
誰にも隠しようのない現実を目の当たりにした国民は、疑問を抱き、報道を疑い、動揺した。
騙し続けてきたツケは大きすぎる。
聖戦に両親を失った少年。
歴戦の下士官にも気に入られる少年。
戦争の意義を疑っていない少年。
彼を襲う反動の大きさを意識したとき、片桐は脚に絡みつく雑草を蹴散らしながら叫んでいた。
「成瀬!」


今のところ彼の作品で読んでないのはデビュー作の「Unknown」だけではなかろうか、とりあえず、これは読んどかねばならんな。


05102

【萌え萌えジャパン】堀田純司 ★★★ 最近ちょっとおたくの間でブームになってる「萌え」現象のルポみたいな本である。
メイドカフェ、抱き枕、フィギュア、アイドル、美少女ゲーム、声優などのテーマ別に、当事者へのインタビューや、催し参加記録なども交えて紹介、解説、分析してあるのだが、Morris.としては、小倉優子のインタビューがあったので、借りてみた。ミーハー傾向強いMorris.だけに、「萌え」という現象わからなくもないが、さすがにちょっと違うな、ということがわかっただけでも、良かったとしよう。
ロリコンというのがあって、「萌え」とかなりかぶるところがあるようだが、いちおう「萌え」の方が新しい分だけ、洗練?されているような、どちらにしても、深入りする気も必要もなさそうだ。
あ、小倉優子のインタビューも、全く面白くなかった(^^;)


05101

【少年たちの密室】古処誠二 ★★★☆☆ 彼のデビュー第二作らしい。東海地震でマンション地下の駐車場に閉じ込められた男女6人の高校生と担任教師。そこで二人の少年が殺害される。その謎解き推理小説というわけで、彼の作品で、戦記もの以外は初めて読むことになったのだが、ここでも一種の極限状況の中での生と死のやりとりという意味では彼のテーマが、何となくうかがえる気がする。
作品の真の主人公は、すでに死んでいて、閉じ込められた7人は彼の葬式に向かう途中だったという設定、さらには、主人公の死の謎を暗闇の中で解きほぐしていく過程も重要な部分を占めているし、複雑な人間関係、いじめ、学校側の見て見ぬふりなどの社会的問題意識も生半可でなく、筆者の力量を改めて認識させられた。
地下から開放された後、もう一人の主人公の少年が、新聞記者と事件の真相を探っていくというのが、終盤の眼目なのだが、記者と少年のやりとりにも、含蓄があるし、なるほどと思わせる部分が頻出する。やっぱりこの作家はただものではないと思ってしまった。


05100

【未完成】古処誠二 ★★★☆☆ 著者の3作目らしい(^^;) デビュー作「Unknown」の続編?というか、同じ自衛隊コンビが、内部犯罪の謎を解くというもので、先にデビュー作を読むべきなのだろうが、しかたがない。
東シナ海に面する沖縄の端の島の射撃場で、小銃が紛失するという、ありうべからざる事件を派遣されたコンビが調査するわけだが、事件の真相究明以上に、自衛隊の人間関係や、システムの詳細な描写、分析にまず圧倒されてしまう。もしかしたら著者は自衛隊体験者ではないかとさえ思わされる。それくらいに行き届いているのだ。うーーむ、古処恐るべしである。
コンビそれぞれの個性も際立っているし、適度にユーモアを交えた書きぶりには、余裕すら感じられる。
そして、おしまいあたりで、突然在日韓国人問題への深い洞察に満ちた展開になり、またまた驚かされてしまった。

朝鮮が嫌いだからと、すべての朝鮮人を嫌う理由などどこにあるだろう。
日本が嫌いだからと、すべての日本人を嫌う理由などありはしない。
だが、この国では、いまだに他民族を見下す意識から抜け出すことができない人たちが経済を動かし、行政を司り、政治を牛耳っている。だからこそ、高須のような、「溝」には関係のない人間までが障害を受け続ける。
高須に入社試験さえ受けさせなかった会社の長も、朝鮮人を嫌いながら、「もう、わたしたちは戦争を放棄しました。平和を愛してます」などとぬけぬけと主張していることだろう。
ボケているとしか思えない。
借金を踏み倒した過去も忘れて--踏み倒されたことで今も苦しむ人がいることを忘れて--「日本人は優秀だ」などと口にする羞恥心の欠片もないジジイをメディア上で見るに至っては----

在日の人たちの中には、日本に住まわされた上で帰れなくなった人が多い。それはつまり、家族を肉食獣の檻に入れられたようなものかも知れない。--俺はそんなふうに思ってしまった。
家族が食い殺されないようにするには、憎い肉食獣のためにエサを調達しなければならないし、もしかしたら自分の体をもってその空腹を満たしてやる必要もあるかも知れない。ときには家族に肉食獣の真似をさせて仲間だと思いこませるようなプライドを捨てる真似もしなければならない----。
「半島でミサイルが飛べば、チマ・チョゴリをカミソリで切る日本人がいる」
戦争を放棄した---などという立派な主張がちゃんちゃらおかしく感じられてしまった俺だった。なんとなく猫を被っているような……。
まずいことに、この国が未完に思えてきた。
工程を大幅にはしょった、実は未完成の船に乗り込んでしまっているような心地になってくる。今まで底の水漏れに気づかずにいたから安心しきっていただけで、本当はあちこちに不満があって……。


05099

【柳宗民の雑草ノオト】柳宗民著 三品隆司画 ★★★☆ 著者は名前からすぐ想像されるように、柳宗悦の息子(三男)である。京都生まれで、現在は武蔵野あたりで育種花園を経営しているらしい。
本書は、主に花の可愛い雑種60種ほどを季節別に、3ページくらいの短文にまとめた植物エッセイで、それぞれに附されたカラー挿画に惹かれて借りてきた。
内容は種名、科名、別名、生態、学名をきちんと表記してあり、それぞれの種の特徴、大まかな説明とエピソードで、Morris.部屋のbotanical gardenに通ずるところもあるようだが、商売柄、品種改良や、渡来地の情報などに触れている部分が多くて、そこが他の類書とちょっとちがってる特徴ということになるだろう。植物名の語源に関しての記述も少なくないが、いまいち恣意的に過ぎるきらいがあるのが気になった。

日本名クサノオウは、切ると黄汁を出すところから「草の黄」とする説が有力のようだが、その汁が腫れ物などに外用すると効くことから「瘡の王」だという説もあり、あまり定かではない。
語源説の一つに「草の王」の意とするのがあるらしいが、どうして草の王なのかがよく解らない。意外にしぶとい性質からとも思えなくもないが、もっとしぶとい雑草はいくらでもある。薬用に使えるということを加味してもなお理解しがたい。私は、その黄汁が強烈な印象を残すので、「草の黄」説を採りたい。(クサノオウ)

「大言海」は「瘡の王」か?とした上で、「胃癌ニ効アリトス。」と記してあるから、それからすると「草の王」としても良さそうだが、Morris.は普通の草にしては大輪の黄色い花から命名されたと単純に思っていた。

このタビラコも春の七草の一つであるが、七草の歌では「ほとけのざ」と呼ばれている。ところが、植物学上でのホトケノザという植物は、タビラコとは無関係のシソ科の植物で、よく混同されて始末が悪い。
以前、某社の大辞典で、春の七草の項を引いてみたら、本文の解説は間違いなく、「ほとけのざ」をタビラコとして解説してあったが、掲載されている写真を見たら、何とシソ科のホトケノザの写真が載っていたことがある。文句を云おうと思っているうちにそのままになってしまったが、その後修正したかどうか、どうなっているだろう。(タビラコ)

タネツケバナの名は、「種漬花」の意で……と云っても何のことか解らないかもしれない。ちょうどこの花時が、発芽をよくするために、稲の種籾を水に漬ける時期に合致するからだと云う。いかにも、稲作国のわが国らしい名の付けようだ。(タネツケバナ)

わが家の農園にも、ヒメジョオン、ハルジオン、ヒメムカシヨモギのエリゲロン三点セットが至る所に生えてくる。ハルジオンは花が咲くと、その花の優しさにどうも引き抜きがたく、心の中で「ごめんヨ」と念じながら抜くが、残った根からやたら芽生え出てくると始末に負えず、憎さ百倍となる。ヒメジョオンの方は咲き出すと、ちょっと可哀想かナ、という程度。ヒメムカシヨモギは放っておけば人がかくれるほど大きく茂り、そこまでおくと大骨が折れるし、その花はどうしても美しいとは云いがたい。この三点セットの中で取り除くのに最も抵抗感がない、などと云うと差別待遇だと怒られるかもしれないが、正直云ってこれが私の本音である。(ヒメジョオン)

最近はハーブばやりで、いろいろなハーブの苗が市販されているが、この中にウォームウッド Wormwoodというのがある。これもヨモギの仲間で、ヨーロッパ原産のニガヨモギのことで、わが国のヨモギとよく似ている。ハーブというと、何でも料理に使えると思われやすいが、これは大変な間違いで、ハーブとは本来薬草のことだから、有毒植物がかなりある。トリカブト、スズラン、クリスマス・ローズなどの猛毒植物もハーブの一種で、用い方によっては、この毒成分が薬用になる。(ヨモギ)

アサマリンドウというと、信州の浅間山産かと思いがちだが、この「アサマ」とは伊勢の朝熊山(あさまやま)に由来する。学問的には植物名は片仮名で記載することになっているが、地名を植物名に付けられた場合には、片仮名ではなく漢字で書いてもらわぬと誤解してしまいやすい。(リンドウ)


動植物名のカタカナ表記が「学問的」とは思えないが、今や一般化してしまったことは否めない事実である。しかしやっぱりMorris.は地名に限らず、全ての固有名詞はできるだけ漢字表記に固執したいと思うぞ。「リュウグウノオトヒメノモトユイノキリハズシ」なんて表記は絶対ナンセンスだろう。そもそもの命名のナンセンスさは愛すべしである。


05098

【冬の女たち】久世光彦 ★★☆ 「死のある風景」という週刊新潮に連載したものをまとめたもので、単行本3冊目らしい。60歳から連載始めたとある。長さは一定していないが総じて短文で、エッセイでなく随筆だと本人は言い張っているが、ほとんどコラムに近い。テーマとしての「死」にむすびつけるために、いろいろ苦労もしてるようだし、とりあげる人物も作家や著名人、身近な友人知人と、多岐にわたっているが、とりあえず著者が死ぬまで書きつづけるつもりでいるみたいで、そこのところが面白いと言えなくもない。

ほんの四、五年前まで、毎朝の新聞の死亡記事からまず読む習慣があったのに、このごろそれがなくなった。つまり、死者の年齢が、いまの自分より上か下かが気になって仕方がなかったのが、さほどではなくなったのだ。別に、この世の命を悟ったわけではない。長生きの自信が生れたのでもない。六十半ばというのは、ある端境期というか、エア・ポケットというか---風の凪いだ束の間の<時間>なのではないかと思う。(場所)

こういった御託は、個人の好き勝手であるが、

こんどの事件で、アメリカは炯(ひか)る眼の狼になるだろう。それがアメリカの矜持である。それに引き比べ、私たちは、自分たちの国がどんなに辱められても、人の好い温和な眼をしばたく羊でありつづけなければならないのだろうか。(God Bless America)

などという、アメリカの「愛国主義」を曲解援用したようなモノローグには付き合いたくもない。更には、「炯(ひか)る」などという難しそうな漢字使う前に、「しばたく」などという舌足らずな誤用をしないよう願いたいものである。


05097

【人生の特別な一瞬】長田弘 ★★★ 2005年3月発行だから、著者の最新作といえるだろう。しかし、読後、これは詩集じゃないよな、と思ってあとがきを見たが、特にことわりはない。表紙カバーの袖に「詩人の新しい詩文集。余韻あふれる32編」と書いてあった。これはたぶん編集子が書いたんだろうが、その苦労がしのばれる表現なんだろうな。
明記はしていないが、どうやら「旅行読売」に連載されたものみたいだ。いちおう散文詩みたいなものが、並んでいるが、Morris.には、これらはとても、詩とは思えない。あちこちに行ったり見たりしたことの感想めいたものが、乾燥した筆致で綴られているようにしか見えないのだ。
以前から愛読者とまでは言わないが、結構、関心もって読みつづけてきた著者だけに、いまさらこんなものを「詩文集」みたいなものとして出されてもなあ、という感想を覚えるしかない。
「メランコリックな怪物」「言葉殺人事件」そして、最高傑作「世界は一冊の本」を書いた長田弘だけに、Morris.のがっかり度が大きいことを理解してもらいたい。何も考えずに読めば、本書のあちこちにも、それなりに含蓄のある言葉や、美しい表現が無い訳ではないのだ。ただ、Morris.としては、彼の、もっともっと良いものを知ってる(と思い込んでる)だけに、物足りなさを感じることになるのだ。

紙は水なり 長田弘

しっかりとしてうつくしく、しっとりとして手に優しく、それでいておそろしく強靭で、あくまでも渋い。和紙というのは、まったく独特の、ふしぎに懐かしい紙だ。
紙は水によわい。紙の、水は天敵だ。けれども、和紙はちがう。水につよい。それもめっぽうつよい。紙は紙でも、和紙という紙は、もともと水の紙とされる紙なのだ。
「紙は水なり」。江戸時代には、和紙漉きは、そう言われたらしい。
「夫、紙は水を以て製す。古人曰く、紙水一斗を損すといへり。一紙の紙といへども、水一斗を損して、白紙となる」(山本和『紙の話』による)。
流れるという水の条理を、よく活かすことができるかどうか。水のつかい方で、水際だった仕上がりにも、水の泡にもなってしまうのが、和紙とされる。
旅の途中、和紙をつくる小さな町の小さな工房で、紙漉きの実際をみせてもらったことがある。
きれいな水をいくどもくぐってきて、水の滴るしなやかな紙ができてくる。かたちなき水のかたちとなって生成してくる、和紙という紙のたおやかさ。
目に見えるものが、もののすべてではないのだ。目に見えるもののなかには、かならず、目に見えない、本質的なものが隠されてあるのだ。
「紙は水なり」
ひとの記憶を確かにするものは、いつでも見えるものが隠している、目には見えないものにふと触れたと感じられるときの感触だ、と思う。しっとりとして優しい一枚の和紙が、そのときおしえてくれたことだ。

このタイトルには惹かれたのだが、それが古人の言葉だった(^^;) というのはまあ、それはそれでもかまわない。しかし、それならそれできちんと引用してくれよ。孫引きというのはあんまりだし、その後の、安っぽいギャグめいた比喩がさらに足を引っ張る。
結びの哲学公理めいたフィニッシュにも、いまいちキレがない。ぜったい、彼の力量はこんなもんじゃなかったはずだ。
長田弘は1939年生れで、Morris.のちょうど10歳年長で、「世界は一冊の本」が94年発行だから、今のMorris.くらいの年になってから、あの素敵な詩を書いたことになる。あの詩を書いたそのときこそ、長田弘の「人生の特別な一瞬」だったのではなかろうか?!


05096

【サイバラ茸2】西原理恵子 ★★★ 他人の小説やエッセイなどに付随したサイバラマンガだけを切り取って一冊に、いや、2冊にした本の2巻目である。数年まえに本屋でこれを見たときにはちょっと鼻白んでしまったが、結局こうやって読まされてしまい、それなりに楽しまされてしまったのだから、手に負えない(^^;)
大部分が清水義範の「面白くても理科」「どうころんでも社会科」などのシリーズ5冊分で、他にロッキンオンの「渋松対談」や「怒涛の虫」などからの抜粋で、Morris.もそのうちの数冊は読んだはずだが、確かに記憶に残ってるのは、サイバラのマンガだけ(^^;)だったこと間違いなしということを、再確認させられた。サイバラ恐るべしである。
投げやり、開き直り、埋没、逃げ、能天気、居丈高、居直り、ばっくれ、ノンシャラン、破天荒、反則、裏ワザ、怒り心頭、ゲログロ、何でもありのサイバラ世界は「真物」であることが、読めば分かる仕組みになっているわけだ。
大出し小出しの恐ろしい過去のあれこれもすごいし、ラッセン(ヒロヤマガタ、ケンダン(Morris.は知らんが)含む)へのストレートな嫌悪表現だけでもMorris.は肩入れせざるを得ない。サイバラ、サイコーッ!!でも、お近づきにはなりたくないかも(^^;)


05095

【流れ星の冬】大沢在昌 ★★☆☆ 戦後の混乱期に盗賊団やってた初老の主人公(短大の教授)が、仲間とのごたごたもあって、過去の決着を付ける羽目になるという、よくわからないストーリーで、ゲイの甥やら、死んだ仲間の娘との情交やら、恋人の銀座のママやら、いろいろ小道具を使って賑やかにしたてたつもりだろうが、いかにも嘘っぽいままで終わってしまってる。10年以上前の作だし、いわゆる書き飛ばした作品なんだろうが、時間つぶしにはなった。

「じゃ電話をしなさい」
琴美は頷いた。葉山はサイドボードにのったコードレスホンを手渡した。琴美は受けとり、ボタンを押した。
電話機を耳にあて、葉山を見た。
「車に電話すると社長がでるかもしれないから、ポケットベルで呼びます」
「かまわない」
電話機を耳からはずし、再びボタンを押した。

こんなやり取りを見ると、いかにも古くさいと思わずにいられない。「ポケットベル」というのは、近いうちに解説無しではわからない謎の機器になってしまうんだろうな。


05094

【ソウルで新婚生活】たがみようこ ★★★☆ 95年に北京留学で知り合った韓国人男性と遠距離恋愛関係になり、2000年に結婚して、韓国暮らしを始めた著者が、インターネットの日本語学習サイトで連載した4コマ漫画とミニエッセーを本人が日本語に訳したものである。漫画には元の韓国語も付いているので、半分勉強の意味も兼ねて借りてきた。
漫画は趣味らしく、決して上手いとは言いがたいのだが、著者本人のキャラが変に可笑しい(服も髪もないシンプルスタイル)し、韓国へのスタンスが、気負わず自然で、しっかり見るところは見てるし、要するになかなか面白かった。
漫画の会話文も短いながら、実に自然な言葉遣いで、旦那が韓国人だけに信頼感ももてる。彼女に限らず、こういった素人なりに読ませる韓国関連本が出てきたというのも、韓流ブームの一余滴なのかもしれない。
型見本として、1篇まるまる引用しておく。

恐ろしいことに、韓国に住んでたった四年でもう日本語が怪しくなっている。日本にいたときからすでに怪しかったという声もあるが、とにかく何十年も使ってきた母国語能力がこんなにもろいものだったとは自分でもショックだった。
日本の情報にあまり触れていないから、携帯やインターネット関係の新しい言葉、時事問題、流行語、ギャグ、人名などになかなかついていけない。やっとギャグを覚えた頃にはすでに死語になっていたりする。
時には日本語の会話の中に、自分でも気づかずに韓国語の単語をまぜて話して日本人に変な顔をされることもある。
話し言葉でさえこれだから、書く機会の少ない漢字などはもうめちゃくちゃだ。小学校から漢字テストに費やした時間と労力は一体何だったのか…。
日本語から遠ざかっているからといって、代わりに韓国語がぐんぐん上達してるわけでは決してない。ある程度生活できると、それ以上勉強しないのが悲しい人間の性である。私だけか。
とにかく言葉とは、常に見聞きし使い続けないと、どんどん追いつけなくなるもののようだ。(「ショック」)


言葉に関する考察も、こういった風に、何気なくおしゃべり風に述べながら、要点はきっちり把握していると思う。これはMorris.のこれまでの韓国語学習傾向にとっても、ちょっと兎の逆立ち(耳が痛い)な文章だった。


05093

【接近】古処誠二 ★★★★ またまた彼の戦記ものである。舞台は沖縄。ハワイ出身の語学兵が出てくるし、前に読んだ「七月七日」の続編みたいな感じだが、こちらの方が先に書かれたものだし、主人公は沖縄の小国民(国民学校生)である。
沖縄防衛ラインの崩れと、地元民との軋轢、逃亡兵の横暴、琉球を植民地のように思う内地から来た皇軍の意識、ここでもまた戦争の悲惨さといった図式的なものを超えた、著者一流の分析がなされているし、状況や人心の活写には目を見張るものがある。

北里中尉は、弥一の目をのぞき込んだ。
「安次嶺。人の行動というものは、第三者が簡単に推し量れるものではないということだ。逃げてきたという朝鮮人軍夫にしても同じだ。君の言う通り逃げてきたのだとしたら、それは確かに誉められたことではない。だが逃げる理由にしても怖かったからだとは言い切れはしない。むしろ、いつ砲弾が飛んでくるか分からない後方の方が、ここでは危険だとさえ言える。首里やその北方の住民が、前線が近くとも壕を出ることをためらうのはだからでもある。違うか? 少なくともわしは石兵団からの離隊者にとやかく言うつもりはない。君も少しは許容することだ。気にくわないことすべてに憤っていても君が損をするだけだ」
暗に、壕の住民たちとも折り合う努力をしろと言ってるのだと感じた。


そして、恐ろしいほど悲しく美しい結末。こういった小説を書ける人格とはどういったものなのだろうか。Morris.は、畏怖を覚えるしかなかった。

少年は標準語のままだった。それは、より日本に近づくために沖縄県民が習得した言語だった。標準語を話せることと標準語を発音することが根本的に違うのは、サカノ自身が体で知っている。日常をすべて同化に傾けなければ違和感のない言葉は身に付くものではあに。少年の完璧な発音の日本語は、琉球処分以降の沖縄を象徴していた。苦悩の結晶であり、方言撲滅運動というアイデンティティを否定するような苦痛の結果だった。

著者の視点には、いつも言語を通しての支配者の傲慢さへの批判が含まれている。だからこそフィクションがそれ以上の重みをもって迫ってくるのだろう。ふーっ、である。


05092

【ルール】古処誠二 ★★★★ 彼の本読むのは2冊目だが、うーーむ、大したもんである。これも戦記もので、フィリピンでの日本軍の敗走と飢餓の記録であるが、やはり細部の描写が凄いし、上手い。
食べるものも、鶏や水牛、味噌、米から、生の芋や野菜、そして、血を吸った蛭、果ては竹炭、虫にいたり、更には弱った仲間に自分の血を飲ませることまでやって、そうして、行き着く先は人肉食いである。
しかし、それを決して興味本位でなく、たんたんと写しながら、きちんと回りの状況や人間関係を見据えながら綴っていく力は、おそろしいくらいである。

はじめに言葉ありき。
クリスチャンの朋輩が言った言葉だ。
聖書にはそう書いてあるらしい。
鳴神の耳に届く三種類の言葉はしかし、言葉など大した問題ではないことを教えてくれている。むしろ、統一されすぎた言語は人を容易に欺く。対象の姿を自在に欺瞞してしまうそれは諸刃の剣だ。退却を転進にし、集団自殺を玉砕にし、敗北を勝利にする。そんな偽りの言葉を必要としてしまう人間の集団など、所詮老いを化粧で誤魔化しているだけだ。
気づくのが遅すぎただろうか。
バベルの塔を崩壊させたのは言語の混乱だったと聞いた。言語が混乱することで文明の進歩が止まるのだとするならば、人はそれぞれの土地と言葉とだけで生きていくのが分相応なのかも知れない。現に今、鳴神の耳に届く三種類の言葉は、人間生活の基本的な響きを持っている。渾然一体となったそれは思考や理解を必要とせず、直接体に染み込んでくる。イゴロットの老婆がどんな表情で、どんな身振りをしているかが手に取るように分かる。それで充分だ。


言葉の根源についても、これだけの考察が出来る著者ならではの、創作境なのだろう。
捕虜になったアメリカパイロットと日本兵の不思議な関係、そして、ラストで米軍の手に落ちた日本兵士の末期のパイロットへ願いの言葉の重さも、この著者だから書くことが許された、というべきだろう。

「お願いがあります。うちの中隊はみんな戦死したことにしてください。お願いですから」
ゲリラに襲われて消滅したと嘘を吐き通すから協力してくれ--脚を揃えて土下座するヤギサワは、オースティンにだけ聞こえる、しかし力のこもった声で言った。
「すべて忘れてください。私たちが飢えて死んだとか、何を食べていたとか、仲間同士で殺し合ったとか、そんなことは誰にも言わないでください。お願いですから」
遠巻きに集中する日本人の虚ろな目も、アメリカ兵の何事かといった好奇の目も構わず、ヤギサワは地面に頭をこすりつけた。
「もしあなたが、私たちのことをあちこちで話すようなことがあったら---」
全身の力を動員してしゃべる彼は、濁り澱んだ目を向けてきた。
「絶対に許しません。あなたが小隊長殿や軍曹殿の尊厳を踏みにじったとき、自分は、あなたを絶対に許さない。たとえ魂魄となってもラッセンに近い町までおいかけて---」
殺します。
そう告げる彼の目から涙が落ちた。


本当に、ひさしぶりに骨の有る作家に出会えた。しばらく彼の作品を追いかけてみよう。


05091

【イベリアの雷鳴】逢坂剛 ★★★☆☆☆ 彼のライフワークと銘打った連作の第一部で、先日その第三部を読んでから、この初篇を読んでなかったことに気付いて、あわてて借りてきた。
第二次大戦に日本が巻き込まれる時期のスペインを舞台に、日系ペルー人の宝石商北都昭平が主人公で、三部に出てくる人物の大部分がすでに登場している。本書はたしかに良質のエンターテインメントの佳作といえるだろう。
ヒトラー、フランコ、ウィンザー公など歴史上の有名人も出てくるし、北都が偽装結婚するスペイン女性ペネロペとのなれそめ、イギリス女性スパイとの出会いも描かれていて、やっぱり、こちらを先に読んでおけば、三部ももっと面白かったかもしれない。
内戦後のスペインの状況などは、さすがによく調べているようで、まるでノンフィクション、ルポを読んでるような気にさせられたりもした。
スパイ小説という趣はあまりなく、どちらかというと歴史小説みたいでもある。このくらいの作品ができると、ついつい続編を書きたくなるよな、と思わせるくらいに、よく出来ている。


05090

【狐闇】北森鴻 ★★★☆ 旗師、冬狐堂こと宇佐見陶子シリーズで、彼女が謀略で飲酒運転事故と贋作造りの冤罪で骨董商免許を取り消されたところから始まる。明治の仁徳天皇陵盗掘から延々と続く旧家のお家騒動に巻き込まれる中で、別のシリーズの蓮杖那智も登場して、一緒になって事件の解明にあたるという、なかなか凝った展開だし、事件の発端が三種の神器の一つである三角縁神獣鏡だったり、堺県令で蒐集魔税所篤が出てきたり、征韓論と明治政府の目論見、蘇我氏、物部氏、弓削氏の古代の争いまで遡る仮説のオンパレードに、民俗学やら骨董の薀蓄も満載で、けっこう楽しませて貰ったのだが、いつものことながら物語の終息がほとんど滅茶苦茶で、肩透かしである。


05089

【プロレタリア文学はものすごい】荒俣宏 ★★ つい中西伊之助なんか読んでしまった勢いもあって、借りてきたのだが、なんだ、これは(>_<)の一冊であった。これは平凡社新書だが、最近の新書の氾濫は玉石混交というよりほとんどが滓ばかりではないかと思わされてしまう。
「読んでみれば予想外に楽しめる」というイントロの書き方からして、もうこれは駄目だろうな、と思ってしまった。無理やりに現代の視点でプロレタリアものを見直して、おもしろおかしく冷かしてみようという意図が見え透いているし、内容はそれを上回る(下回る)出来としか言いようが無かった.中西に関しては、平凡社に出入りしてた作家たちの中に含まれているくらいで、作品の名前さえ出てこなかった。
ホラーや、スプラッタや、エロ、グロ小説として読めるというのも、いかにも作り上げだし、引用や要約も杜撰に過ぎる。日本で一番広く読まれたプロレタリア文学は壷井栄の「二十四の瞳」ではないか、とか、江戸川乱歩の「芋虫」がプロレタリア文学として出色のものだ、といった逆説めいた言辞が面白かったくらいだ。
昭和3〜6年に平凡社から出された「新興文学全集」が内容的にはプロレタリア文学全集ということになるらしいが、その別冊月報解説のハチャメチャさも、当時の平凡社の異常さを知らせてくれると言う意味では貴重である。

本誌は全読者諸君に向つて開放し無産文壇の登竜門として提供する。奮って投稿してほしい。熱あり力あり自信ある作品を大に歓迎する。僕たちはもうだらけきつた商売雑誌の商品的作品には何程の期待もかけてゐないのだ

こんな全集がはじめから売れるはずもないと思う。


05088

【燃える蜃気楼】逢坂剛 ★★★ 「イベリアの雷鳴」「遠ざかる祖国」に続く、彼のライフワークの第3弾ということになってるらしい。Morris.は「遠ざかる祖国」は読んでたが、最初の「イベリアの雷鳴」というのはどうも読んでないみたいだった(topページの自部屋検索による)(>_<) 図書館でよく見かけてたのだが、てっきり読んでるものと思い込んでたようだ。
第二次大戦時のスペインを舞台に、ペルー国籍の宝石商を装った日本人スパイ北都を主人公に、英独米西のスパイたち、そして米国籍の日系女性スパイ、北都に心を寄せる英スパイなどの謀略戦を、彼一流のお得意の筆致で描いた長編スパイ小説なのだが、いかんせん、Morris.はすでに「遠ざかる祖国」のストーリーの記憶総てが遠ざかってしまっていた。これは別にシリーズの前を知らなくてもそれなりに楽しめるストーリー作りにはなっていて、650pの長丁場を楽しませてくれたのだから、エンターテインメントとしては充分合格点をつけることができるものと思う。まあ、スパイ小説の常として、騙し騙されする登場人物の遥か頂上に作家が君臨してる印象が拭えないのは仕方ないとして、これが三部作ではなくまだまだ続いて行きそうな気配で、本書の結末がいかにも中途半端の尻切れとんぼ状態なのは物足りなかった。
スペイン通で、スペイン語にも堪能らしい著者のいつもの伝で、登場人物の台詞のあとに、いちいちそれぞれの語学の実力や特徴などを得意満面に解説するあたりは、はじめのうちはまだ我慢できるとして、あまりにしつこいと、嫌味に見えてくる。スペイン料理や、酒、音楽に関しても同様な部分が見えるのだが、一種のスペイン案内小説を兼ねての読者サービスと考えているのなら、サービス過剰だと思う。
真珠湾作戦直後は本書の舞台で、結果的に敵国となった英国の女スパイと主人公のやりとりも、あまりにつくりものめいた安っぽさを感じてしまった。どうも本書の650pは水増し傾向にあるような気がするぞ。


05087

【七月七日】古処誠二 ★★★★ 全く未知の作家だが、これは、最近稀に見る掘り出し物だった。戦争小説である。それも太平洋戦争のサイパン攻撃の短期間の戦記もので、Morris.の趣味とは反する作品なのに、読後感の重さと満足感は、かなりのものだった。
主人公は米軍の語学兵、つまり日系米人の志願兵である。日本軍や民間人に投降を呼びかけ、捕虜の説得と情報収集などを行うのだが、当然、日米両方からの軋轢に悩まされる、複雑かつ微妙な存在であるということは読む前からわかることだが、筆者は、この問題に血肉を通わせ、さらに大きな戦争、人種、国家論までを、細密な戦闘の描写の中から描き出している。
もちろん、主人公とその家族の受けた収容所での迫害や、移民してからの歴史、日本の恥の文化や、皇軍の矛盾と戦略の誤謬、米軍と米人の人種差別、さまざまな問題をきちんと表現している筆力と態度に感心した。
無差別殺戮の中で、かすかな糸のような命の重みを忘れずにいる主人公の、それでいながら殺戮を繰り返す行為との軋轢、ぎりぎりの極限状態での心理描写、捕虜の写真を使った伝単(降伏宣伝ビラ)に込められたメッセージなど、どこを切り取っても、臨場感溢れ、説得力に富んでいる。いまどきこんな戦記小説が「戦争を知らない世代」(たぶんそうだと思う)の作家によって書かれたということに、驚嘆するしかない。

アメリカでそこそこの財を成し、あるいは日系人の指導的立場にあった者は、残らず連行された。実質的な逮捕であり監禁だった。アメリカは、ショーティの両親をブラックリストに入れていたのだった。日本人学校の設立に尽力し、子供たちに日本同様の修身教育を施すような日系人は不穏分子でしかない。少なくともアメリカという国はそう位置づけていた。日本人学校が陸軍情報部日本語学校の土台となったことも棚に上げて、西海岸の日系人を収容所に入れる。都合の良い部分だけを利用してババを押しつけるそのやり方に、受ける風当たりは一部の心ない人間の仕業だと信じようと努力していたショーティは、しょせんは肌の色なのだという単純な真実を認めた。国家に裏切られてまだ認めない人間がいるとしたら、それは聖人であり同時にただのバカでしかなかった。

本書には著者略歴などないが、「ルール」、「分岐点」「接近」などの作品名が挙げられているから、是非これから読んでみたい。


05086

【擬態】北方謙三 ★★★☆ 肉体派でボクシングジムに通ってる中年男性が、仕事とのトラブルの中で、暴力団と関わり、とんでもないスーパーマンぶりを発揮、偶然手に入れた拳銃までマスターして、極道はだしで逃げ出すほどの、暴力と殺戮、そしてカーチェイスも繰り広げる、ヴァイオレンス小説だが、主人公の仕事のやりかた、ボクシングジムでのスパーリングなどの描写がえらくこまかくリアルだし、展開もたるみなく、意外性もありの、ちゃんと複数女性との絡みもしっかりありで、なかなかに読ませてくれた。もともと腕力も体力もないし、暴力とは縁遠いMorris.は、いわゆる無いものねだりで、このての小説を好む傾向無きにしも非ずだが、読むからには三流劇画みたいな小説は御免蒙りたいから、このくらいの筆力を見せ付けられると、つい誉めてしまいたくなる。
終盤の、やはり同類の刑事との、狂犬どうしの噛みあいめいた道行きや、やくざのアジトで痛めつけられたあとの、逆襲ぶりは、あんまりぢゃという感じもしたが、これだけの超人めいた異形のヒーローを描き出したと言うことだけでも評価しておきたい。
ストーリーとは外れるが、主人公の勤務会社のリストラを含んだ社員間のやりとりなどに、奇妙な既視感を覚えたのはどうしてだろう?

「会社をやめろ、と言われているわけですね」
「君は、そこそこ仕事をしてきた。須藤よりは上だった、と私は思っているがね。だから、解雇の理由はない。君がやめてくれるのを待つ、ということだな」
立原は、温くなったコーヒーを啜った。
「組織というのは、個人の能力を問うんじゃない。上にいる人間次第だな。須藤は、大場室長と近く、大場室長は吉岡専務の子飼いだから」
「私は、仕事はきちんとやったつもりです」
「しかし、上に対する関係を、きちんとやらなかった。私は、何度か誘ったはずだよ」
小平に、酒に誘われたことは何度かあった。なにか意味があると、立原は考えなかった。
「福田君は私についていたし、うまく私と連合してくれれば、大場、風間のラインをひっくり返せたんだがね」
「考えてもみませんでした」
「そこが、君の抜けたところだな」
「会社、やめますよ」
「君のように抜けた男は、思う壺に入るわけだな。ちょっと干せば、やめてくれる。期待した私も、人を見る眼がなかったということだ」


ね、なかなかリアルなやりとりでしょ(^^;) でも主人公は割と平気である。

立原は、コーヒーの残りを飲み干すと、パソコンにむかった。養わなければならない家族がいるわけではない。ローンは残っているが、マンションを売り払えば、手もとにはいくらか残るだろう。なにも残らなくても、明日から肉体労働ができる躰はある。

スーパーヒーローぶりを発揮する前から、このくらいの強者ではあったわけだ。そういうところは、Morris.としてはちょっとひがみたくもなるところだ。


05085

【随筆 支邦・満洲・朝鮮】中西伊之助 ★★★ 中央図書館で中西伊之助の著作を書庫から出してもらったとき、長編小説「赭土に芽ぐむもの」と一緒に借りてきたものだ。昭和11年、實践社発行とある。大正11年から昭和10年までに、雑誌や新聞に発表したものを寄せ集めたものらしく、タイトルにあるとおり、三つの国(と言っていいのだろうか?)の紀行やエピソードや感興や時評や報告や何やかやが雑多に詰め込んである。
中には下手な花柳小説のできそこないみたいなのや、内容が重複したものも混じってるが、当時の当所の空気を感じることができるような気がして、なかなか興味深かった。

ここに収めた随筆は、しかしわたしのイデオロギーに因つた、小めんどうな理屈をならべたものではない。そのときどきの旅に、また諸植民地の街頭に、村に、朝に、夕に、わたしの眼に映ったさまざまの自然と人生を、感興にまかせて書きつづつたものである。

支邦、満洲、朝鮮にかんしては、従来、読者は食傷せられるほど、色々な出版物を手にしてゐられるだろう。が、それらの出版著述は、凡そ次の二種に分けることができると思ふ。すなはち、
一、通の書いたもの
ニ、視察、観光者の書いたもの
通の書いた著述はなるほどよく地理、人情、風俗を知つてゐる。だが、それは案内記以外の何ものでもない。彼は「眼」を持たない。従つて世界観がない。従つてまた今日が描かれてゐない。
視察、観光者の書いた著述は、カメラを筆に代へたにすぎない。その筆のカメラは、始終ピントが合つてゐない、滑稽なほど合つてゐない。中には故意に歪曲したものさへある。全く、以つての外である。

わたしの書いたものは、そのどちらでもない。そのどちらでもないことは、この著を読んで下さつた方ならよくわかることだらうと思ふ。

自序「だれも書かないもの」の一節だが、なかなか自信に満ちたマニフェストである(^^;) たしかに現代の、韓国、中国関連紹介本にも通じるような類書批判でもある。しかし、本書を読み終わったMorris.は、そのまま彼の言葉に素直には肯けなかった。
たとえば満州事変(昭和6年)以降(たぶん昭和10年)に書かれた「北支邦を横切る」の一節。

日本人が欧米のどこを旅行したつて、たとひ生命に危険を感ずるやうなことはあるまい。満州だつて匪賊の襲撃はあるがどの線でも日本人の五十人や百人はいつも乗つてゐる。だがここのやうな線になると日本人の旅客は甚だ稀でたまにチラホラと乗るばかりだ。座席の前を通り過ぎるたれの眼も此奴日本人だな? といつた風な表情で尻目にかけて行く。決して愉快なものぢやない。どういふ訳で日本人は支邦でこんな思ひをしなければならないのかと思ふと全くいやになる。もつと朗かに和やかに彼等と談笑しながら旅をする愉快さを味いたいものだ。

戦後生れのMorris.だからこう言う文章に違和感を覚えるのかもしれないが、無産運動家で、プロレタリア作家の視点がこういう能天気なものだったということには、やっぱり驚かされる。
「最近の朝鮮を語る」中の(朝鮮旅行者の為めに)と添え書きのある文中にも次のような部分がある。

鉄道当局や、その他鮮満の各方面でどんなに旅行者に愉快な印象を与へようとしても、たつた一つ、折角の愉快な印象を一気にブチこわしてしまふものがある。それは関釜連絡船あたりから乗り込んで来てゐる特高警察観の不審尋問である。
たとへば、わたしのやうに、名前を船客名簿に書けば身分がすぐ当局に知れて、此方でもそんなことに慣れ切つてゐるのだから、彼等がたづねて来てどんなことをきいても決して不愉快でもないが(しかし愉快でもない)。一般の旅客は決してそうではない。

中西伊之助「改造」をよんだり、マドロスパイプをくわえたりしてゐると、警察官から名前や、職業や、行先きをきかれたりする。---この事実は警察官といふものの常識不常識を問題にするより前に、一般旅行者に実に不愉快な印象を与へる。殊に初めて鮮満に足を入れた旅行者を、鮮満を息苦しい警察国家のやうに感ゼせしめる。この点何んとかもつと考慮して貰ひたいものである。

こちらは、まだユーモアが感じられるが、それにしてもやっぱり活動家の感想としては、上滑りしているように思えるのだが、これはやはり、振り返って過去を見る側の倣岸だろうか?
本書の扉に「著者近影」の白黒画像がある。真ん丸眼鏡に真ん丸顔で、支邦服を着て、かたわらに面長の頭蓋骨を配してポーズをとってる中西伊之助は、プロレタリア文学者より中国の富豪みたいに見えてしまった。
同じ出版社から彼の著作はこの時点で「軍閥」「裁判官を裁く」「随筆 冬の赤い實」の三冊が出ていたようで、巻末にその広告がある。「冬の赤い實」の惹句が彼の紹介にもなりそうなので引いておく。

著者黎明期の労働運動に投じてより二十年、勇敢なる幾多の労働争議、農民争議を指導し、この国にプロレタリア文学勃興するや忽ちその先駆をなしてブルジョア文学と勇戦す。その陣中折にふれ筆にあたり、純情の闘士の眼に映りたる自然と人生に対する火の如き感慨、絵のやうな小品、そこに他の随筆に見られざる特異風景を展開して興味津々、冬に熟する茨の、實情熱の詩人たる著者のスケッチ・ブック。無産運動二十年の横顔!


05084

【赭土に芽ぐむもの】中西伊之助 ★★★ 1922年(大正11年)東京改造社発行のプロレタリア小説である。もともとMorris.はプロレタリア文学とは縁遠い。小林多喜二の「蟹工船」、葉山嘉樹「海に生くる人々」のタイトルくらいは知ってるが、きちんと読んだ覚えもない。
まして、この中西伊之助なんて、名前すら知らない存在だった。どうして突然こんなものを読む気になったかというと、韓国トロット関連でネットで知り合ったKさんが、彼の研究者でもあり、この作品が当時の朝鮮を舞台にしたもので、実に詳しくあの時代の朝鮮の風土や生活を活写しているということを教えられたので、関心が湧いたのだった。
神戸中央図書館3階で書庫から彼の著作を出してもらった。この作品は戦後に出たプロレタリア文学全集にも収められているが、ハードカバーの初版本もあったので、迷わず初版を借りることにした。総ルビ、旧仮名遣いというのが嬉しいし、圧倒的に存在感がある。
しかし、冒頭、いきなり「土人の金基鎬は」と、始まったので狼狽してしまった。「土人」が「朝鮮人」のことと理解するのに数秒かかったが、当時の日本人の朝鮮人蔑視が如実に表われている。中西伊之助という社会派、プロレタリア派の作家にしてこれである。
ストーリーは、土地を奪われようとする朝鮮人金基鎬と、食い詰めて朝鮮、平壌で新聞記者をする日本人填島の二人の物語が相互に綴られていくのだが、はっきり言ってえらく読みにくい文章だった。
何故か地名をアルファベット頭文字で表記してある。朝鮮はC植民地だし、日本はN国、平壌はH市、ソウルはK市(京城)、東京はTといった具合で、NR戦争(日露戦争)、NS戦争(日清戦争)などという表記になるとナンセンスな気がした。
しかし、作家の分身でもあるらしい槙島の朝鮮観察眼はなかなかのもので、確かに興味深い描写が散見する。アリランの歌を「アララン」と表記して日本語訳を引用したり、漢字語に朝鮮語のルビをふってるものも多く、そちらにMorris.は目を引かれがちだった。

竜胆、茘枝、唐大棗、
可愛い郎君にみなあげた
アララン アララン アラリーヨ、
アララン唄つて遊びましよ……
あいご、あいごと泣くなかれ、
死んだ郎君は帰りやせぬ
アララン、アララン、アラリーヨ、
アララン唄つて遊びましよ……

・瓢瓠(ぱかぢ)・温突(おんどる)・酒家(すりちび)・色酒家(かるぼちび)・笠(かつ)・働き手の日(いさくんなる)・濁酒(まつかり)・盞(さばる)・周衣(つるまき)・上衣(ちよごり)・一、二、三(はなー、つーる、そーい)・妓生(きいさん)・貴人(やんばんさらみ)・蝎哺(かるぼ)・諾(いえー)・有難う(こうまふすめだ)・痛い?(あっぱ)・腹(ぺえ)・総角(ちよんがあ)・私解らない(うり もうらあ)


そして、次の一節、朝鮮人と朝鮮語に関する著者の把握は、なかなか穿ったものである。

もし人間の環境が、常にその成人生活を決定し、支配する--言葉を変へれば、人間の思想や性状は、いつも彼等の住つてゐる自然や、実生活から受けた影響で、殆ど作りあげられる--と云ふ考へ方がほんたうであれば、この土人ほどその考へ方を、実際に証拠立ててゐるものはあるまい。彼等は、いつも極めて平静に、長煙管の朦朧たる煙の中に独処自適してゐるが、一旦或る発作を感ずるか、又は軽微な動機でもあれば、彼等は事故を忘れて急転驀進する。彼等はロシヤ人のやうな鈍重性を帯びた半面に、徹底性をもつてゐる。フランス人のやうに華麗を好む半面に激情性をもつてゐる。かうした民族性は、どうしても彼等がこの半島に渡つて来てからの、長い伝統によつて作り上げられたものであるに違ひない。なぜなら、彼等の祖先は決して純一な種族ではなかつた。普通の人類史によるも、彼らは十幾種の祖先をもつてゐる。蒙古族、漢族、扶余族、貊族、ふい族、かん族、沃沮族、契丹族等が重なるもので、その他もつと深く考察するならば、更らに尚ほ幾種をも数へることができるかもしれない。殊にその言語は複雑を極めてゐる。母音が十一、子音が十八、それに急促音と称する頗る面倒な発音法がある。かうした雑多な種族が、西から北から南から東から、大河の流れを合して三角州を作るやうに、むかうの海岸ここの嶺の谷と落ち合つて来たのであつて、最初から独立の民族性をもつてゐたのでは決してない。故にその民族性は、突飛に変化する半島性気候が、彼等の性情を決定し、支配した最も大なる原因であらう。彼等の温突は、牢獄のやうに陰鬱である。彼は三寒に悩まされる間は、こゝに閉居して終日終夜苛烈な唐辛子や胡椒を用ひて酒精の強い焼酎や薬酒を呷る。或る者の如きは三日、四日と徹霄痛飲する。そして沈酔する。彼等はどうしても鈍重性を帯び、徹底性を喜ぶことになる。けれど、彼等が一度四温に会すると、彼等は眼を輝かして温突を飛び出す。そして明るい太陽の熱を浴びながら山野を駆けめぐる、彼等はどうしても激情となり、華麗を好まざるを得ぬ。怕ろしき民族よ!


「急促音と称する頗る面倒な発音法」というのは濃音のことだろうか?朝鮮民族の祖先説などは、Morris.から見てもちょっと胡散臭いと思われるのだが、民族の性情を土地の気候環境に起因するものとしての捉え方は注目に値すると思う。
思想以前の真情吐露といった感じの「人類愛の地下線…」と題する、填島の原稿に、作者のぎりぎりのヒューマニズムを見ることができよう。

「人類愛の地下線…。」しかし、その名は、彼のそのあまりに複雑な心象から見れば、単純、雑駁すぎる。けれど彼は、今その外に適当な名を発見することができなかつた。彼はともかく、その雑駁な、不満足な名の下に、彼の考へを推し進めて行かねばならなかつた。(地底深く潜行する人類愛の地下線は、人類の棲息する地球の内面に、それは蜘蛛のかけた細密な網の如く、人体の極めて末梢にまで走行する毛細血管の如く、或は神経繊維の如く、地上に小さく限られたる各の版図、言語、習慣、道徳、法律、宗教、教育及び皮膚の色素を超越して、脈々として涛摶ち、炎々として燃え立ちながら遍満してゐる。年を閲みすること幾千年。地球上の人類はどのくらいこの一線に向つて憧憬れたことか!彼等はそこの唯一永遠の自由、平和、幸福を求めて、どのくらい遣る瀬なき情念に懊悩したことか!勇敢にして焦燥な先駆者は、幾度か満目の荊棘を蹂躙してその一線に向つて驀進せんとした。けれど彼等はすべて惨ましく敗れた。明るさを慕ふて、累々として死屍を横へる夏の夜の虫の如く破れた。おゝ、眼も遥かなその一線よ!しかも人類はこの一線のためにのみ、総て死ぬことを得る歓喜をもつ、尊くも心憎きその一線よ!そしてもし人類にその一線が無かつたならば、彼等はどんなに寂しいことであらう!慕しきその一線よ。人類よ、鯨波を作つて、その一線に向つて進め!……)

600p近い本書の450pあたりから、填島がS炭鉱の悪辣な労働状況を新聞で攻撃して、その筆禍で投獄される場面になり、この監獄内の描写から、俄然生彩を帯びてくる。日本での監獄より更に過酷な状況が、現実味を帯びて迫って来る。これは作者の実体験に裏打ちされたものだろうか?最近の傑作漫画花輪和一の「刑務所の中」より更にリアリスティックな部分である。もう一人の主人公金基鎬が死刑囚として填島の前に現れるくだりや、一年ほどの刑期を終えてからの填島の動向など、かなり省略された形で投げ出されていて、小説としての結構には問題が多いが、荒削りだったり、無骨だったりするところにかえって本書の魅力があるのかもしれない。
今後彼の小説を読みつづけるつもりはないのだが、こうしたプロレタリア文学というのも、角度を変えて見ていけば、そこにはたしかに興味深い側面があることは何となくわかったような気がする。
Morris.には、貧しさや悲惨さを描いた作品を読むことで、一種のカタルシスを覚える傾向があるのだが、これはハーレクインロマンスを読んで、恋愛のカタルシスを覚える女性たちと同類なのかもしれない。


05083

【ちょうちょむすび】文=今江祥智 え=和田誠 ★★★ 1963年に私家版として発行されたものを復刻したもので、沼辺さんが大分からの帰りに福山で開かれていた和田誠展で2冊買って、一冊お土産に貰ったものである。B5ハードカバーの小型絵本だが、表紙は豹柄で、ひげのないヒョウのこどもペポネのことを心配する両親が、なまずを食べさせたりしていろいろ苦労する話だが、はっきりいってストーリーはあってないようなもので、ただただほんわかとした気分だけを楽しむようになっている。和田誠の黒と茶色だけの単純化された絵がまたいい雰囲気を醸し出している。和田誠の多才なことは言うまでもないが、Morris.はついついタバコhi-liteのデザイナーという先入観から抜けきれない。
そのタバコのパッケージが最近、とんでもないことになってる。箱の半分に「健康に悪いから吸いすぎに注意」といった類のコメントがかかれているのだ。本当に何という愚かなことをするのだろう。Morris.は喫煙家ではないが、嫌煙権とかいうのに嫌悪を感じる方だが、それは別にしてあのタバコパッケージを破壊する仕儀には、心から反対を叫びたい。
書籍の裏のバーコードも、相当に見苦しいものだが、今回のタバコデザイン殺しはそれを数倍上回る(下回る??)暴挙である。デザイナーも、一般人も、これにはもっともっと怒ってしかるべきだと思うぞ。


05082

【カメラ常識のウソ・マコト】千葉憲昭 ★★★☆ 講談社BLUE BACKSの1冊である。このシリーズは新書ブームのうんと前からのシリーズで、ポリシーが鮮明で好感を持っているが、どうも装丁造本がやぼったいので、損してると思う。
本書は「デジカメ時代の賢いつきあい方」と副題にあるとおり、デジカメ本だが、筆者はプロの写真家ではなく、コンピュータ、デジタルオーディオの著作を持つセミプロみたいな立場らしい。最近デジカメのハウトゥ本も増えて、Morris.はもともとこのての本きらいでないので、目に付いたら読むようにしてるのだが、そうなるとあまり目新しい記事は見つからないことになりがちである。
本書でも、周知の記事が大部分だが、ひとつでもふたつでもヒントや、アイデアがあればそれでよしとしたい。そういう意味でも本書は合格である。

・こうして吟味していくと、完全なアナログなど世の中に存在しないことがわかるのだ。不連続なものが便宜的にアナログ(連続系)と呼ばれているに過ぎない。
・「完全オート」というのは別の人格がカメラの中に存在するようなもので、なだめすかしてようやく撮影者の意図が反映できる。そういう観点からすれば、実に不便なものだ。
・ファインダー用の液晶さえ改善されれば、一眼レフ以上に理想的なシステムになると考えられる。
・F8症候群(絞りF8の「ピントぴったり、画像くっきり」に依存する)の人たちが撮った写真は通称「業務写真」と呼ばれている。この症状は一般にメカに詳しい人が陥りやすく、「技術点」はクリアであるが、「芸術点」を評価するすべを知らないがゆえに発症する。妙に自信を持っているだけに、一生治らない症例も多い。
・光学フィルタとPCの画像ソフトのフィルタ効果とは全く違う。人間の目で感じる光の滲みなどは光学フィルタが即している。両者は適材適所で使うべき。
・明るいときこそストロボをうまく使って他人に差をつけるチャンスである。逆光の花びら、昼間の陰での人物、キャッチライト。
・カラー画像を白黒に変換するとき、彩度ゼロにする方法と、グレースケール変換で、結果が違う。グレースケールの方が通常効果的だが、これも場合によって違うので、疑問あるときは両方の効果を比較する。


05081

【BROOCH】渡邊良重 絵 内田也哉子 文 ★★★☆☆ 画家も作家も未知の人だが、ちょっと不思議な絵本だったので思わず手にとってしまった。絵本の本文の用紙がパラフィン紙みたいな紙質で、2、3枚後のページの絵が半分透けて見えるようになっている。もちろん片面印刷で、60葉余りだが、ページをめくるごとにあたらしい組み合わせが変化していき、走馬灯を連想させてくれた。絵は稚拙といえるくらいの単純さだが、それなりに余白を活かした構成で、ところどころとてもいい感じだった。本文は心象スケッチめいたライトヴァースといったところ。
秋になって、ちょっとセンチメンタルになっていたMorris.のこころにすんなりと入ってきたようだ。

絵本ブローチの表紙むかし むかし 忘れものに 気付いたのは ずっと昔
世界中を 歩き回っているうちに
あまりに いろいろなことが ありすぎて 忘れてしまいました
だいじなもの それは けっして重たくないのに
おごそかな存在感に溢れていて
ひかりをたっぷり浴びた日には
ここぞとばかり艶やかなぬくもりをたたえ
どこにでもあるようで どこにもないもの
必死に探す 闊歩する あくびする おなかも空く
くりかえされる日々 隣のひとが 笑っている
「なに 笑ってんの?」
よせばいいのに むっとする
そのうち 何だか おかしくなる
わけもわからず けたけた からから 伝染する笑い
絵本ブローチの一場面時には わけがわからないくらいの方が
いまを味わえるのかもしれない
なんて のんきに思ったり
そして 何だか 空しくなる
またか 
誰が何人まわりにいようと たったひとりの孤独
泣いてみたりする 叫んでみたりも
沈黙と勝負する
溜め息をしすぎたら 深呼吸になった
それから 青い空を 青く憶った
外の世界を見ることは 内なる自分に耳を澄ますことに似てるはず
なのに 気付くと 見失ってしまうこと しばしば
所在地さえも わからなくなる
たった今 踏み出した一歩 ここまで 連なる幾千の足あと
後ずさりしても スキップしても たとえそこに 立ち止まったとしても
途切れることのない あゆみに 放心する
時折 どうでもよくなったりもするけど
きょうは どんな 出会いがあるのか なんて
歩きながら 思い巡らせてみる
てくてくが 徐々に どきどきに 変わって
あれ なんだろ なんなの この胸騒ぎ?!
そっと 右手でおさえると ここに あった
わたしのブローチ
この先も道は はるか遠くつづく
足りないことを数えすぎて 満ちているいまを 忘れてしまわないように
小さな祈りを 胸にかざる


リトルモア社の出版だが、なかなかお洒落に仕上がってると思う。「わたしのブローチ」という一行だけが、他のページと逆の面に刷られているのも、面白かった。ありがとう。


05080

【義八郎商店街】東直己 ★★☆☆ 架空ではないが、老人とちょっと変わった住人たちの住む郊外の商店街を舞台にした、連作幻想小説みたいなものだろうが、いまいちであった。これでおしまいにしても良いのだが、つまりは、地上げや市民運動や切羽詰った放火犯や中国窃盗団などを、各種武闘に長けた老人と、土地神みたいなホームレスが守るという御伽話で、著者の眼目は、すこし斜めから文明批判をしようとしてるらしいのだが、それが、上滑りしてるようなのだった。
月刊雑誌に連載したためか、同じ情報を、コピーしたように何度も繰り返して説明されるのにはうんざりさせられるし、ユーモアのつもり(だろう)の、ギャグや繰り返し、誇張表現も、笑えないものばかりだった。
ネタばれになるが、おしまいで、実はこの街の住民がすでに死んでいて、それが、現実の市民団体との争いの中でぽつぽつと消滅していくという終わり方にも納得いかないものを感じてしまった。


05079

【包・装・解 パッキング・マジック】INAX BOOKLET ★★★☆☆ INAXのこのシリーズは前から関心があってすでに10冊以上読んだはずだが、これは96年に出されてるのに見落としていた。
総論の後に、素材(9章)、機能(13章)、流通(5章)、輸送(4章)とコラム風にまとめられているのだが、素材と機能が抜群に面白かったのに対して、後半の流通、輸送のページは、別の本かと思うくらいのつまらなさだった。量に比例してるのかもしれないがそれにしてもあまりに落差が大きすぎる。執筆者が12人もいるから差が出るのは仕方ないとしても、あまりに酷い記事と同じ誌面に掲載されると、せっかく良い記事を書いた筆者に失礼ではないかとさえ思ってしまった。

・考えてみれば、私たち日本人の生活は、草、とりわけ藁によって包まれていたといえます。衣生活においては、藁帽子と呼ばれる被りものを着用し、背や肩や腰を蓑でくるみ、手には藁手袋、足には脛巾(はばき)、草履や草鞋などを装着しました。私たちの身体は、頭の上から足の先まで、藁で包まれていました。食生活においては、櫃入れ、束子、鍋敷きなどの用具類がつくられました。住まいも、屋根組み縄、畳床、莚など、
藁に満ち満ちていました。運搬、生業、遊び、祭りなど、生活のあらゆる場面に藁は活用されていました。
・こうして、日本人は、自然に対して、「包む」「包まれる」の関係をもち続けてきました。苞(つと)の文化には、人間と自然との深遠な関係、いわば「自然との共生」の哲学が内包されているのです。(素材1.藁 宮崎清)

・1897年、アメリカで「二重巻絞法」が完成される。これは缶蓋と缶胴の間に液状コンパウンドを充填して密着させ、胴と蓋を接合部で合わせて二重に巻き絞めるというものなのだが、要するに今の缶詰がそれである。=3ピース缶
・現在国内で生産されている缶ビールのほとんどはアルミの2ピース缶だ。底の部分を見てもらえばわかるが、缶胴と一体になっている。アルミはぺらぺらで空き缶なら簡単に手で潰すことができる。これは「陽圧缶」と言って、ビールや炭酸飲料などの缶内の気圧が高いものに使われる。(素材2.缶 笠原邦暁)

・PETボトルは機能性樹脂のひとつであるPET(ポリエチレン・テレフタレート)を100%材料にして成型されたボトル。
・注ぎ口をより頑丈にするために、注ぎ口に熱を加えて、耐久性を出している。だからこのボトルは注ぎ口に白いプラスチック(実は同じPET)がついているのだ。
・PETボトルにはもうひとつ、無菌ボトルと呼ばれる種類がある。これは形状的には他のものと見分けがつきにくいが、ボトルを飲料水メーカーに納入する際、無菌状態で、つまり外気に一切触れない状態で納められるものだ。腐敗しやすいミルクティや麦茶には、この無菌ボトルが使われている。ウーロン茶になると、普通のPETボトルでも問題はない。(素材5.ペットボトル 石本君代)

・コーヒー豆や粉コーヒーの袋をよく注意して見ると、その表面に、直径2cmほどの透明な円形のものが貼られていることがある。じつはこれは、袋内部の炭酸ガスを抜くためのバルブなのである。
・バルブは、袋の中の炭酸ガスは放出するが、外の空気は中に入れない、一方通行の構造になっている。袋の中の炭酸ガスの圧力が5〜9hPa(ヘクトパスカル、水深5〜9cmでかかる水圧と同じくらいの、ごく低い圧力)になると、弁が開いてガスを放出し、圧力が下がると自然に弁が閉じる。その機能が、わずか直径2cm、厚さ0.5mmという、小さな装置に凝縮されている。(機能2.ガス抜きバルブ 山本雅也)

・言葉は悪いが、農産物の鮮度を保持するためには、生かさず殺さずの状態をつくるのが望ましいのである。そこで、農産物に適度な酸素を与えて呼吸させつつ、一方で二酸化炭素の密度を上げて呼吸を抑制するという、呼吸コントロールの方法がいくつか開発されている。そのひとつが、MA(Modified Atomosphere)包装である。
一般的には、酸素1に対して二酸化炭素を3〜5倍透過させる低密度ポリエチレンやポリスチレン、ポリプロピレンなどがフィルムの素材に選ばれることが多い。(機能5.MA包装 石本君代)

・かまぼこ板は、かまぼこの余分な水分を吸収し、逆に乾燥しているときは、木に含まれてる水分を放出して補っている。そうしてかまぼこの品質劣化や腐敗を防止する機能を持っている。(機能7.かまぼこ板 山本雅也)


05078

【変貌する韓国経済】朴一編 ★★★ 世界思想社の「世界思想ゼミナール」シリーズの一冊で、13人の研究者が共同執筆している。タイトルからしてMorris.が読みそうな本ではないのだが、執筆者の一人かせたにさんから数ヶ月前に送られてきたのだった。受け取ってすぐに読み終えたのだが、ついつい感想書くのをさぼってた(^^;)
大きく3部に分かれていて、第2部の韓国と関係の深い4ヶ国(日本、米国、北朝鮮、中国)それぞれの論考と、3部の韓国内の「地域対立」に関する章(かせたにさん担当)が興味深かった。
特に、慶尚道と全羅道の対立、全羅道差別は、前から気にかかっていた。いわゆる歴史的理由--「新羅」と「百済」の対立と遺恨が現在まで尾を引いてるとする説への反証は、新鮮だった。
百済の首都扶余のある忠清南道でも全羅道への嫌悪感を抱く人の割合が高いことから、必ずしも歴史的対立が原因でないことがわかる。

近代化・都市化の流れの中で、首都である巨大都市ソウルにおける低所得者層として定着した人たちへの蔑視が全羅道出身者にスティグマ(否定的存在としての烙印)を押すことに結びついてきたようにも思われる。
また、朴正熙政権から全斗煥政権と続く軍事政権下ににおける有形無形の圧力によるストレスのはけ口として、さらにマジョリティである慶尚道出身者の既得権維持のために、全羅道がスケープゴートにされてきた可能性もある。

「ハン」は、単なる恨みではない。それは怨恨・悔悟・無念・悲哀などの思いが複雑に絡み合った、澱のような情緒であり、韓国社会におけるキーワードのひとつといえる。
全羅道に、「ハン」をいだかせたのは、政治・経済における疎外のみではない。1980年に全羅南道の道庁所在地・光州(クァンジュ)で発生した光州事件は、全羅道の「ハン」をいっそう深いものにした。


歴代の韓国大統領が慶尚道出身で、地縁、血縁意識の強い韓国社会で、彼らの支配力が強まるなかで、取り残された形の全羅道地方の人々の中に醸成された「ハン」が光州事件で決定的なものとなったというのは、間違いないところだろう。
全羅道出身の金大中大統領の出現、その後継者ともいえる盧武鉉大統領が、この地域対立緩和に向けてどのような政策をとっていくのかが注目されるところだ。というところで、本論は終わっているが、韓流ブームの日本ではそういったことは話題に上ることすら無いようである。


05077

【ちょんがれ西鶴】浅黄斑 ★★☆ これくらい面白くない本を読んだのはひさしぶりである。この著者の作品読むのは初めてだが、図書館にはかなりの数の本が置かれている。現代もののミステリー中心のようで、本書はタイトルの西鶴に惹かれて借りたものだが、期待を大幅に下回るつまらなさだった。最近面白くなさそうな本は途中で投げ出すことも少なくないのだが、本書は西鶴に関して何なりと、面白そうなことが出てくるかもと、ぶつくさ言いながらお終いまで読んで、残ったものは「何だこれは?」であった。
若い西鶴が義父と江戸に生き、某藩のごたごたに巻き込まれて刺殺され、それを後年西鶴が知ってどうのこうのという、ストーリーらしいが、肝腎の事件とストーリーが一向に交わらないし、どうでもよい脇道に逸れること逸れること(^^;) おまけにこの作者の書き癖なのか、一つの事件が起きるとその成り行きをほのめかすので、先を読む楽しみは失せるし、西鶴自身の人となりが、全く描けていない。
やっぱり、これは10pくらいで止めておくんだった。


05076

【関西 小さな町・小さな旅】山と渓谷社 ★★★ Jガイドホリデー161というシリーズものの、旅のガイドブックの一冊で、ご想像どおり、青春18切符使いきりのためのアンチョコとして借りて来た。
「関西」と銘打ってあり、滋賀、兵庫が多く、後、京都、奈良、そして三重、和歌山、大阪がちょこっと載っている。元来このての本はあまり読まない方だが、今回の彦根と龍野の日帰りの旅には実に役たった。主な名所の写真と説明、交通の便と簡単な地図だが、この本の傾向として単なる風景写真でなく、子供や土地の住人のスナップが風景に溶け込む形で表現されているので風景写真集としても楽しめた。
国内旅行とは本当に縁の無い(といっても海外旅行は韓国ばっか(^^;))Morris.も、こういった近場なら、たまには足を延ばして楽しむことが可能である。
本書に掲載されてる中で、ちょっと行って見たくなったところを挙げておく。(遊びに行ったことあるところは除く)

[滋賀県]近江八幡、坂本、堅田、五個荘
[京都]伊根、加悦(かや)、海津
[兵庫県]平福、坂越、室津、柏原
[三重]伊賀上野
[大阪]平野
[和歌山]湯浅


05075

【ほやじ日記】倉田真由美 ★★★☆ 著者は「三十路バツイチ子持ち」の女性漫画家で、「だめんず ウォ〜カ〜」という、だめ男ばかりを渡り歩く女性の告白記みたいな漫画で人気を博してるらしい。Morris.は全く知らなかったが。
本書は中高年のおやじたちの中で、著者がちょっと「惚」れそうないいお「やじ」たち(で、「ほやじ」(^^;))を、似顔絵と漫画短評を添えたコラムに仕立てたもので、60数人が取り上げられている。
絵の方はとりたてて上手くもないが下手でもないといったところだし、文章だって似たようなものなのだが、彼女の男性への視点が、変に覚めていながら、ときどき無性に捨て鉢になったり、没入したり、自身の弱点をさらけ出しながら、きっちり言いたいことは言ってしまうみたいな、要するになかなか面白かった。
本書に出てくる、いちおう花も実もあるおやじたちにくらべると、きっと「だめんず」に近いMorris.だが、それでも、本書に教えられること(^^;)が多かった。
だめな男にだまされる、というか、どうしてもだめな男としか関わり合えない女性たちと、数多く対面してることから、さまざまなことを感得したらしい著者の発言には、妙な説得力がある。
たとえば星野監督のところで

私は精神的にも肉体的にも強いので、本当に守られたい訳じゃないけど、強い男に上からモノを言われるのってしびれる。フェミニストに怒られそうだが、負けたくないけど負けたいんだよね。

なんて書いてるのがそのあたりで、これはあまり一般的に女性が吐く意見ではない。以下、ランダムに引用してみる。

会話とは相手あってこそ成り立つもので、お笑いのショーのような一方通行ではない相互の絡み合いだ。楽しくて面白い男女の会話はSEXの前戯のようなものである。(松本人志)

だめ男はなぜだめかというと、自分の「だめ」を自覚できない、あるいは自覚しようとしないからだめなのである。逆に、仮に今うまくいってなくても「だめ」である事実を客観的に捉えることができ、前に進める男はだめじゃないのだ。変われる能力がある男はハナからだめにならない。だめ男は変われないからこそだめ男なのである。(羽賀研二)

私は昔からスペシャリストってあんまり興味がない。スペシャリストの天才性より、ジェネラリストのバランスの良さの方が愛せる。なぜかって、それは私の遺伝子が言っているのだ、「バランスのいい男にしろ」って。(古田敦也)

十代のころ私のバイブルは少女漫画だった。少女漫画の世界観に染まり、乙女の夢を思いっきり詰めこんだヒーローにうっとりした。むちゃくくちゃもてるかっこいい男が、平凡だけど一途で一生懸命なテンションの高い主人公にいつの間にか夢中になっていくという黄金の設定は、しばらく私の中にがっしり根を下ろし、現実での恋の邪魔をしてくれた。「少女漫画的アプローチ」がリアルには通用しないことに、長いこと気がつかないでいたのである。(リバー・フェニックス)

何度でも言うが私はやっぱり「働く意欲のある男」が好きだ。今の私は息子とあと成人男性一人くらいなら養えるし、実際家で家事育児をやってもらう方が便利かもしれない。でもどうしても生理的にだめなのだ、そういうスタイルって。これはもう「トマトジュースが嫌い」と同じ、好みなのでどうしようもない。(長嶋一茂)

頭がいいことと博識なことは同じではない。聞く側の都合も考えず、ただ博識をひけらかす男は頭がいいとは言えない。うんちく語りは吐いている自分だけが気持いい、非常に自慰的な行為なのだ。(上田晋也)

男性諸君に言っておきたいのだが、女性の前でうかつに女体の部位に対する己のこだわりを露呈するのは要注意だ。乳の質量が乏しいことに密かに胸を痛めている女子の前で、巨大な乳を讃美しつくすのは礼を失する行為である。実にデリカシーがない。(有田哲平)


何がどうとうまく言えないが、上記のような言説を読みながら、そうだよな、と頷いてるもう一人別の自分がいるようで、ちょっと恐い気もする。
このコラムは「週刊朝日」に連載された。ということは、読者の大部分が、おやじで、著者はそのことをわかってこういうポジションで書いてるのかもしれない。だとしたら、なかなか大したタマである(^^;)
あとがきの、マニフェストめいた一文

「ただ年齢を重ねただけでまるで成長のないおやじ」は、若い柔軟な奴よりうんとだめだ。他人の話を聞かない、話も通じない、価値観も世界観も固着してしまって他人と交流する喜びがまるで感じられない中年。男も女もそうだが、仮に中身が同じなら入れ物は若い方がいいに決まっている。でも若い入れ物をはるかに凌駕する内的成長があるからこそ、人間は年齢を重ねる意味があるのだ。

いやいや、これこそ、全国5千万人親父への熱い応援メッセージだね。しかし、こんだけ書けりゃ、バツイチだろうと子持ちだろうと、世の中恐いものなどありゃしないだろう(^^;)


05074

【デジカメ写真は撮ったまま使うな!】鐸木能光 ★★★ 岩波アクティブ新書(本当に最近はわけのわからん新書の洪水である)の1冊。
筆者は小説家らしい。まあ、素人による素人のためのデジカメ指南書ということになるのだろう。Morris.も同好の士に違いないし、ともかく本をだすくらいだから、それなりのノウハウや、ヒントも教えてもらえるかもしれないから、こういう本はつい読みたくなってしまう。
実はこれは稲田さんが貸してくれたもので、先般、青春18切符で東京に行ったとき、ほとんど片道かけて読み終えた。
「ガバッと撮ってサクッと直す」と副題にあるように、彼の基本方針は、デジカメはフィルム代気にすることないから、とにかくどんどん撮って、その中から使えそうなものをピックアップし、構図も広めに写しておいて後でトリミング、色や明るさなども編集ソフトで加工すればよいというものらしい。これは最近のデジカメの高画素数に対応したもので、Morris.のように、いまどき200万画素愛用者には、即応してないきらいがある。
しかし、本書で紹介されてるフリーソフト「縮小専用。」「Jtrim」「Irfan view」「ViX」「Print Album」「Z絵本」「セーバーメーカー」の中にはMorris.にも便利なものがいくつかあるようだ。とりあえず最初の二つだけは、すでにインストール済みである。
画像編集ソフトは、MSDOS時代からいろいろ使って来たが、たいてい一長一短があるものだから、どうしても複数のソフトのなかから「一長」を利用するしかないという結論に達している。本書で紹介されてるソフトも同様で、使い方に寄っては役に立つことは間違いなさそうだ。
結果的に、本書でMorris.に役立ちそうなヒントは

・近くても人物は望遠で撮る(背景をぼかす)
・ストロボは暗いところでは使わず、明るいところで使う
・明暗は明るさ補正でなくガンマ補正、ヒストグラム(ノーマライズ)を使ってみる
・初対面の人に会ったときは顔写真と名刺も連続して撮っておく
・RGB調整では、とりあえず青(B)を落としてみる


何となくMorris.には、違和感を覚えたヒントは、

・しつこく同じ場面を何度も撮る
・トリミングを前提とした撮影
・デジカメの最大欠点はぼけないこと
・三脚は使わない


等である。
Morris.はデジカメでも、なるべく同一の場面の撮影数は抑えたい方だし、トリミングなしでそのまま使える構図で撮影することを旨としている。ぼけよりピント合うことのほうを優先したいし、三脚は常時携帯して大いに活用したいと思っている。
でも、結論としては「素人だから、何をやってもかまわない」という筆者の意見には、おおむね賛成なのだから、どっちでも良いわけである(^o^)
携帯電話内臓デジカメの高品質化に伴って、超小型デジカメ機は淘汰されていくだろうし、デジカメ一眼レフはマスコミ、出版関係ではすでに主流になりつつあるし、プロ写真家においてもデジカメ依存傾向が強くなること間違いないと思う。もちろん光学カメラが無くなることは無いだろうし、無くしてはいけないと思う。
Morris.の場合は、あくまでネットサイトでの使用が第一目的なので、しばらくは二百万画素機で充分だと思うし、基本画像サイズ200ピクセル幅で、とりあえず「見られる」画像を取得することを最大優先項目におきたい。


05073

【天使の牙 上下】大沢在昌 ★★★☆☆ 脳移植を受けて甦ったヒロインアスカと、やはり脳移植で恐るべき殺人マシンに生まれ変わったロシア人「狼」が、日本で因縁の争いに巻き込まれるという、根本が荒唐無稽のストーリーだが、その上で作者お得意の警察官や麻薬捜査官の使命感と心の綾、強い男と女の互助愛(^^;)、公安、CIA、SVRを巻き込んでの、陰謀戦、情報戦、フェイク、そして本書のメインにもなる超人的身体能力と戦闘能力、殺戮技術の披露が展開される。Morris.はヴァイオレンスは現実でも、フィクションでも苦手なのだが、このての作品では、常駐スパイスとして欠かせないもののようだ。
大沢作品を読むたびに、女の描けない作家だと悪口を言ってきた(そこがこの作家の長所かもという保留をつけてだが)Morris.だが、本書のアスカは、マフィアの情婦の身体を借りて生まれ変わったということから、心身の乖離に悩みながらそれを自分なりに咀嚼、解釈して一つの人格に止揚しようとする努力の中で、それなりの魅力を感じさせるキャラクタになりかけている。大沢も努力してるのだと感心させられた。
ラストではお約束どおりのヒロインと悪ヒーローの直接対決で、ヒーローがほとんど壊れかけながらも勝利を得るという結末に終着するのだが、その後のエピローグめいたオチは、あまりにとってつけたようでいただけなかった。
ストーリーとはほとんど関係ないのだが、悪ヒーローに傷めつけられたロシアの工作員の日本人論がなかなか面白かった。

「……ある意味で、この国ほど平等な国はない。人並みの暮しをするチャンスなら、誰にでも与えられる」
「金持になるチャンスは?」
セミョーノフは首をふった。
「金持になれるのは、システムと直接つながるパイプをもっている人間だけだ」
「じゃあロシアと同じだな。軍隊や役所とつながった奴が儲ける」
「この国の軍には力がない。軍隊として認められていないからな。力があるのは、政治家と官僚だ。特に政治家の力が強い。日本とロシアの大きなちがいは、マフィアが政治家に強い影響力をもたないことだ。マフィアは政治家と組まなくとも金儲けができるのだ。大企業の弱みを握ったり、小銭をもった市民をカモにする。日本人は奇妙な民族だ。大きな夢をもちたがらない。小銭で車を買ったり、洋服やバッグを買えれば満足する。ほとんどの人間は、あきらめて生きている。自分が大きな夢をかなえることなどありえない、と」
「お前はそれにつけこんで、子供の体を楽しんだというわけか」
「いっておくが、私は嫌がる娘としたわけじゃない。大人を馬鹿にしているくせに、その大人がもっている金が欲しくてしかたがない連中と利害が一致しただけだ」
「それが本当なら妙な話だ」
「金が好きなのだ、大人も子供も、バブルと呼ばれた、経済が異常に好調だった時代からこっち、日本人は金をつかうのが大好きになった。そのくせ、人は大金持にはなれないと思っている。今、この国で大金持になる夢をもっているのは、中国人だ。この国で稼いだ金を元手に、本国で何かをやってやろうと」
「中国人は商売がうまいというからな」
セミョーノフは青ざめた顔に笑みを浮かべた。
「その通りだ。日本人は働くのはうまいが、商売はうまくない。だからいずれ、中国人に働かされるようになるだろう」


おしまいの台詞なんか、かなり皮肉が効いていると思う。新宿鮫シリーズにも、彼一流の社会観とか、人間論とかがちりばめられていて、それがファンにとっては、こたえられないのかもしれない。なんだかんだ言いながら、上下で千頁近いこの長編をしっかり楽しんで読んだのだから、やはりMorris.にとっても貴重なエンターテインメント作家と言うことができるだろう。


05072

【勉強ができなくても恥ずかしくない】橋本治 ★★☆「 1.どうしよう…の巻」とあるから、まだまだシリーズでつづくのだろう。ちくまプリマ-新書という、シリーズらしいが、どうもこれはMorris.には向いてない新書のようだ。装丁にクラフト・エヴィング商會とあったので、表紙を見直したが、これがあの傑作「クラウドコレクター」の著者とは思えない出来である。なかなか肝心の橋本作品にたどりつかない。あまりたどりつきたくないのである。いつも書くがMorris.は同年代の物書きの中では橋本治が一番、とはいわないまでも、かなり肩入れしてるつもりである。もっともそれは小説以外の作物についてで、どうも彼の小説は、評論やエッセイに比べると面白くない。そして本書もまあ小説の部類に入るから、Morris.の嗜好に合わないということなのだろうが、どうも本書は小説の形を借りた、問題児を考える問題解決本らしいから、うっとうしくなったのだ。
主人公ケンタ君が小学校になじめず、母から叱られてますます落ち込み、読書好きなことから、みんなが読めない漢字を読めるようになって、希望を見つけたような気になるというところで、本書は終わっている。予告によると2部では友達も出来、学ぶ楽しみを見つけ、3部完結篇では、好調な学生生活を送るケンタ君が高校に入り、受験生となるが、ただ一人「正しい高校3年生をやろう」と決心する。となっている。
ふーん、先に書いた、単なる問題児解決啓蒙小説ってわけではないのか。そうなると最後まで読んでから、評価すべきなのかな。
とにかく、この1部は読むには読んだが、全く面白くなかったというに留めておこう。


05071

【少年探検隊】池内紀 ★★★☆ 92年の発行だから以前に読んだかもしれない。19篇の懐かしの少年読物を素材に、著者得意の斜に構えた視点から物語を物語るという仕掛けになっている。撰ばれている作品ははそれほど奇をてらったものではなく、ポピュラーなものばかりでMorris.は全て読んでいた。タイトルのみ挙げる。

岩窟王、家なき子、ジャングル・ブック、覆面の騎士(アイヴァンホー)、鉄仮面、黒いチューリップ、ノートルダムのせむし男、フランダースの犬、宝島、ロビン・フッド、西遊記、奇巌城、源平盛衰記、クオレ、王子と乞食、ああ無情、ロビンソン漂流記、海底二万里、ピノッキオ

確かに全て読んでるのだが、好き嫌いでいうと、半分くらいはあまり好みでないものがある。いや、はっきり言ってMorris.の好みとはほとんど逆といっていいくらいのセレクションだ。Morris.の子ども時代の読物ベスト10に入れたい作品は皆無といってよい。以前.思い出の児童文学、童話、絵本を主題にした歌集「偏奏曲--ヴァリエテ」を作ったことがあるが、50首の歌のテーマにした50冊と本書の重複作品は7篇に過ぎない。Morris.の「少女趣味」が「少年探検隊」と相容れない部分もあるだろうが、かなり嗜好が違うことは否めない。もちろん好みはひとそれぞれで違っていて当たり前だが、本書に満載されている往時の挿絵など見ると、Morris.好みの本が取り上げられていれば、さらに興味深い一冊になったのにと思う。
以上の御託は決して本書をけなすための物言いではなく、一種の無いものねだりである。池内のこういった軽いエッセイの文章ときたら、ページごとに「上手えなあ!!」と声を上げたくなるくらい上手いし、短文の多用も小気味良い。さらにどこから探し出してくるのかわからないくらいの薀蓄と、捻りの効いた解釈が付くのだから、いうことなしである。最近の温泉回り系統の隔靴掻痒的文章に比べると、天と地の違いがあると思うぞ。
ハードカバーのしっかりした造本で、先にも書いたようにカラーも交えた挿絵の多さがこの本の値打ちを上げてることは言うまでもない。特に「クオレ」の杉浦非水、「西遊記」の水島爾保布、「海底旅行(海底二万里)」の樺島勝一、「フランダースの犬」の名前不詳の画家などは、最初に読むときにこういった挿絵の本で読みたかったという思いを誘う。

珠玉の文体見本をいくつか拾っておこう。

ここではいたるところに金の力が顔を出す。脱獄囚エドモン・ダンテスがモンテ・クリスト伯爵となりえたそもそもが莫大な宝物の力だった。彼はことあるごとに宝石をふりまくが、それは慈愛の心よりも成り金の作法にそっくりである。そして銀行の手代として住みこんで以後、戦争中に濡れ手にアワの財産を築き、投機や土地売買で百万長者にのしあがったダングラールが宿敵だった。全編にわたって星のように、取引や、値段や、歩合や、支払いや、支払停止や、勘定や、手形や、信用や、目算や、目算外れや、担保や、破産や、持参金や、遺産や、金策や、訴訟やらがちりばめられている。
作者のデュマ自身、ペン一本で巨万の富を稼ぎ出し、湯水のように濫費した。その生き方、また肖像画の伝えている威風堂々とした体躯は作家というよりも一代にして富を築きあげた金満家にふさわしい。その勤勉さは、熱っぽい目つきで売り上げ帳簿をのぞきこむ投機家の勤勉である。(巌窟王)

少年は時間の外にいる。外の者の目から見れば、世界は明るくなったり暗くなったりするばかりだ。人が現われたり消えたりする。少年は季節の変化を愛でたりしない。悲しんだりもしない。それは彼にとって一年の推移を示すしるしではないのである。少年にとって時間は、彼が生きる然空間のなかにひろがっている。彼はたえず現在にいる。つまりは世界の中心にいる。(家なき子)

黒いチューリップに限らない。そもそもチューリップという花自体が比類のない造化のいたずらというべきだろう。これは燃えるような色をもちながら、ひややかで冷たいのだ。匂いたつように咲きほこりながら、花の香りをしらない。何十、何百と兵隊のように列をつくって並びたがり、風に吹かれるといっせいにお辞儀をするくせに、一つ一つは貴婦人のように高慢ちきだ。あれほど人を魅惑しながら、まるで魂のない花である。その魅惑を生み出すもとといえば、たわいもない球根であって、シチューの鍋に放りこんだ料理人を責めるわけにはいかないのだ。だれだって玉ねぎとまちがえる。(黒いチューリップ)

つまりは魑魅魍魎という手合いだろう。古書にいう魑魅は「山林の異気によって生じた怪物」で、人面獣身四足にして、好んで人を惑わすという。魍魎というのは「形は小児のごとく、体は赤黒色、耳長く、よく人声をなして人を惑わす」。こちらは元来、水神ともいうし、木石が化したものだともいう。
山中の魔王や化け物たちは、さしずめ魑魅にあたる。これに対して悟空や八戒、悟浄は魍魎の類にちがいない。(西遊記)

どれほどの人が子供向きの『ああ無情』でとどまって、どれだけの人が原作にたどりついたかはわからないが、しかし、その感動の深さの点では、あまり違いはないのではなかろうか。ちょうど一つの簡明な公式のなかに、そこからはじまる複雑な数式の一切が含まれているように。二千頁の『レ・ミゼラブル』は、なんら本質を損うことなく二百頁の『ああ無情』に縮小がきくのである。この点でも「愛の書」の条件をとどこおりなくみたしている。(ああ無情)


05070

【泣き虫弱虫諸葛孔明】酒見賢一 ★★★★ 久し振りの酒見の新作である。「陋巷に在り」13巻が完了して流石に彼も脱力したのだろうかと思っていた。本書は酒見版「三国志」の序章とでもいうことになるのかもしれない。世間では三国志ブームのようだが、Morris.は小学生時代に子ども向けの三国志を読んだくらいで、あまり関心は持っていない。
本書では、孔明が劉備に三顧の礼を持って迎えられるまでを描いている。つまり三国志がいよいよ盛り上がる直前までである。だから序章だと思ったのだが、もしかするとそうではなくて、酒見らしい切り取り方法なのかもしれない。
とにかく、Morris.は酒見の文章の巧みさに舌をまいた。もともと中国文学に造詣深いだけに漢文漢語はお手のものだから、端正で達意の文を書ける作家として認めてはいたし、「語り手の事情」で創作の裏の裏まで熟知してることも承知の上だったが、本書では、一見無造作と思えるくらいの破格の文章で、それでいて見事にポイントは押さえている。とんでもない達人である。故意にだろうが、やたら()付きで作者の異見/意見を強調したり、一人突っ込みあり、ハチャメチャギャグあったり、韜晦あり、造語(例えば「陽謀」)あり、大法螺ありと、融通無碍で作者が楽しみながら書いていて、それで読者をも楽しませるという、Morris.にはこたえられない作品になっている。
遊びの一つとして、三国志の英文訳をネタにした部分を引用しておく。

まあ、要するにロング・ロング・タイム・アゴー……イン・トゥーブレント・エイジ(乱世)に、ロイヤル・ブラッドのベリー・ナイス・ヒーローを二人のスーパー・ストロンゲスト。グラジエーターがサポート&アシストしながらテリブルに暴れ回り、ある晴れた日、ハーミットであったドラゴン・ウィザードまたはドラゴン・ソーサリーが出てきて、プラン・オブ・スリー・キングダムズ(天下三分の計)でまやかし、マジックやオカルティック・アートを駆使してドミネーション・オブ・ザ・ワールド(天下制覇)のために邁進していくレジェンド・ストーリー、それが『三国志』なのだっ。持ってけ、ファンタジー!歴史解釈とか考証なんか糞食らえな感じといおうか。荒唐無稽で上等、男の生き様とかロマンも、その場がかっこよさえすればべつにどうでもいい。

たぶん三国志を英語で読んだらマカロニウエスタンならぬ、支邦ソバウエスタンになるということを証明してるわけだし、その後に続く異国語間の小説の翻訳論議も面白いのだが、ここでは省略する。
酒見は孔明のひねくれぶりと、劉備のしつこさのせめぎあいを面白おかしく描きながら、歴史小説そのものへの壮大なパロディを試みたのではないかと思う。しかも、それをあからさまにしないで、どんどん有名なエピソードのアレンジの連続で読者を煙に巻く作戦に出ている。
そのうえ、要所要所では歴史家の度肝を抜くような仮説も仕掛けてあるし、まさにこれこそ、歴史エンターテインメントの最たるものではないかと思ってしまった。
たとえば、孔明が幼馴染の徐庶を訪ねて、彼の茶を淹れなおして見せる場面などは、ハウトゥー・フィクス・ザ・ティー+中国の茶論+存在論にまで発展しそうな勢いである。

「茶葉はまあまあだが、元直よ、淹れかたがなってない」
とあつかましい。
「どれ、茶具をかしてみよ」
孔明は急須と茶漉しを受け取ると、湯の温度を湯気にて確認し、ゆっくりと小量を茶葉を盛った茶漉しに注いだ。茶葉が蒸れて開くのを待ち、最初急に、次にゆっくりと湯を注いでいった。それからまたしばし待ってから徐庶に、
「まあ、飲んでみよ」
と茶碗を差し出した。
徐庶が受け取ってみるとまず香りの立ちがちがう。やや舌に熱めながらその味は、自分で淹れたものとは比べものにならない旨さであった。雲南の最高級品だ、と言われれば信じてしまったかも知れない。
「こ、孔明、おいしすぎる!」
と徐庶は感極まったように言った。孔明は、なっ、そうだろう、と言わんばかりの顔で頷いている。
「どんな魔法を使ったのだ」
「葉に適するよう、ただしく淹れただけのこと」
「おれは恥ずかしい。今まで、お茶なんぞ、と適当に淹れていたせいで黄金の香湯を馬の小便にしてしまっていたのだ。ゆるしてくれ---」
孔明の茶は徐庶のお茶に対する認識を一変させ、悔い嘆かせるほどおいしかった。
「何事も識ろうとすれば奥深いものだ。旅先で茶の名人と知り合い、感激したわたしは拝み倒してその法を伝授していただいた。湯の温度と蒸らし、時間にコツがあるのだよ。このさき茶事というものも世に広くなってゆくことだろう。元直、そもそも茶というものはだな」
と孔明論じ始める。
中国の茶の飲み始めのことは定かではないのだが、呉の韋曜という者はアルコールが駄目で、酒と色が似ている茶を飲んで酒席を誤魔化した(それがバレたせいか、孫皓にぶち殺された)というから、この時期にはそこそこ飲まれていたようだ。『茶経』という薀蓄本、茶道の古典は唐代に撰せられているが、それによると喫茶の起源となるとさらに古代に遡るとし、権威付けようとするあまり無理が見られる。とはいえそれが中華的な書き方というものであり、書くとき張り切ってしまうのか、ついつい大仰にしてしまいがちである(まあ、言ってしまえば『三国志』もそうなのだが)。
ちょっと変わった中国的教養人、孔明のような男に茶を語らせるといつの間にか話が宇宙にまで及んでしまうのもやむなし要注意というところである。


醜女のため婚期を逸しそうになった黄氏の娘との婚姻のエピソードも興味深いし、孔明の弟の、兄とは対照的な存在も笑わせてくれるし、もちろん劉備と関羽、張飛の「親の血をひく兄弟よりも」深い契りのトリオのあれやこれやもまさに抱腹絶倒だし、いやあ、やっぱり酒見は凄い。
願わくは是非続編を、早く読ませて欲しいものである。


05069

【嗤う日本の「ナショナリズム」】北田暁大 ★★★☆☆ 71年生まれの著者が70年代から現代までの若者の文化感性を、時代を象徴する事件、「反省」の形式、人間内面の形態に即して社会情報学的に分析した論考である。
Morris.よりほぼ二世代若い著者の分析だが、まさにMorris.の享受したさまざまの感性項目をなぞっていて、非常に身につまされる思いで読まされた。
連合赤軍の浅間山荘事件から、糸井重里に代表されるコピーライターの思想、田中康夫の消費社会的シニシズム、ナンシー関の突出性、そして、2ちゃんねる、「電車男」、窪塚洋介に代表される現在のロマン主義的シニシズムまでを、Morris.がリアルタイムで向き合ってきた諸々のキャラクタや媒体(高橋和巳、津村喬、ビックリハウス、PARCOのCM、サラダ記念日、少女漫画24年組、小林よしのり---)の揃い踏み+なかなか鋭い分析ぶりに、Morris.はひさびさに興奮させてもらった。
しかし、この人は頭が良すぎるのか、Morris.には何度読んでも理解できない文章が多すぎる。たとえば2ちゃんねるへの次のような言及。

マスメディアのための内輪ではなく、内輪のためのマスメディア。社会学的にいえば、2ちゃんねるとは、公共的秩序を指摘する目的合理性に対し、行為が次なる行為へんと接続されていくことを指向する接続合理性(場の空気を乱すことなくコミュニケーションを続けていく技量)が極限まで肥大化した社会空間といえるかもしれない。

そのほか、著者の癖なのか、カタカナ語の過剰もなんだかな、と思わせる。アイロニカルやシニシズムくらいはともかく、ゾンビやらメタ広告なんてのが頻出すると、それだけでMorris.は、ふんっ、と言いたくなる。
わかりにくいということが本人にもわかっていたのか、終章で、議論の「総括」というのをやってくれてて、そこで4つの時代区分の表を提供している。これを見ると大まかな著者の時代定義と分析パターンを知ることができる。
そのまま引用したらいいのだろうが、ここでは表組みがめんどうなので、箇条書きにして引いておこう。

1】政治的反省の時代(60年代〜70年代前半)自己否定から総括へ。
あさま山荘事件、連合赤軍(森恒夫、永田洋子)
思想=世界と「私」のポジションの突き合わせを過剰に要求→反省の純粋化⇒反省の極限(思想ではなく形式の突出)
思想による自己形成→自閉的なゾンビたちの行為空間(純粋な「人間」が「ゾンビ」「動物」になる⇒自意識亡き内面

2】60年代的なるものへの反省の時代(70年代なかば〜80年代初頭)
糸井重里、津村喬=コピーライターの思想(記号論的・メディア論的感性)、メタ広告(西武-PARCO)→転態・パロディとしての類型化(「見栄講座」「金魂巻」)・オタク化(「ファンロード」「OUT」)
(60年代への)抵抗としての無反省=消費的アイロニズム(パロディの戦略的領有)
消費による自己形成→西武-PARCOなどの資本が人々の内面を律する擬似超越者となる→転態・メタを競いあうセンスエリーティズム・共同体主義の蛸壺化

3】60年代的なるものとの断絶の時代(80年代)
田中康夫(「なんとなく、クリスタル」)、島田雅彦→転態 川崎徹=純粋テレビ(「元気が出るテレビ」「オレたちひょうきん族」)
抵抗としての無反省(抵抗の対象そのものを否認)→転態 無反省(60年代への距離感を欠落)=消費社会的シニシズム(構造化・制度化されたアイロニー)
消費社会的ゾンビ⇒内面なき自意識(「思想」との折衝を断念) 内輪の共同体がマスメディアに拡大

4】反省的であることを再び希求する時代(90年代〜2000年代)
2ちゃんねる(「電車男」)純粋テレビの変容(純粋テレビ的アイロニー) ナンシー関、窪塚洋介、雨宮処凛
シニシズムと相まって人間=反省への欲求が起こる(80年代への抵抗としての反省)=ロマン主義的シニシズム(「無反省」への反省としてのロマン主義:「ナショナリズム」「反市民主義」=ロマン的対象の導入)
他者との接続可能性=「[繋がり]の社会性」の上昇(擬似超越者としての「ギョーカイ」「資本」の失墜) 人間になりたいゾンビ(「消費社会的ゾンビ」は「人間」たることを希求する⇒内面なき実存

以上を見れば一目瞭然、とはいかないだろうなあ(^^;) どうもわかりにくい構造になってるようだ。ともかくも、こういった形で明示してくれると、Morris.がこれまで無自覚的に引きずられていた部分のいくらかを、認識するのに役立つという気はする。
研究者の常として、本文中にやたら引用注が多用されて読みにくいし、その引用への言及も何となく及び腰なのが鼻につく。明らかなケアレスミス(「サラダ記念日の短歌に字余りが多い」など)も目につく。とは、いえ、この世代による同時代分析としてはかなり健闘してるというべきだろう。


05068

【ラムラム王】武井武雄 ★★★☆☆ 児童雑誌「金の星」大正13年(1924)3月号に掲載された短編が初出で、その後7回連載され、大正15年に単行本化されたもので、本書はその復刻版である。もちろん挿画も武井武雄本人である。
実はMorris.は童話というのはあまり好きでない。武井武雄のイラストも以前からお馴染みではあるがそれほど好きな方とは言えない。しかしこの「ラムラム王」は、とても面白かったし、挿絵も好ましかった。
ラムラム王は本名「フンヌエスト・ガーマネスト・エコエコ・ズンダラー・ラムラム王」で、貧しい珊瑚削りの家に生れた赤ん坊で、実際の王ではないのだが、変身の術を身につけ、色々な世界を漫遊して歩く。巨大な磁石に吸いつけられた金属部品のもろもろの中から馬車に乗ったお姫様を助け出し結婚しながら、黒曜石の釣り針を求めて姫を置いて遁走したり、ゴム人形になったり、流れ星の精とホテルに泊まったり、いかにも御伽噺めいたエピソードが開陳されるのだが、Morris.が気に入ったのは、そっけなく思えるくらいの渇いた文体で、事件が語られることと、ラムラム王の無思想、無頓着、無節操、ノンシャランぶりである。
ラムラム王と星の精との会話。

「僕は旅行をするのが目的ではないんだ。……西へ西へと行けばだね、いいかい、黒曜石の釣針がある。これを手に入れると本当の生まれがいというものがはじめてわかる……とまあこういう夢を昔見たのでね、珊瑚屋の自分のおやじの家を飛び出して西へ西へとずいぶん久しい旅をしてきたのさ。その間に四へんまでも本物の王様になったんだけれど、まだ釣針の見つからないうちはこんなことが本当の生まれがいというのものではあるまい、とまあこう思っていつも位を捨てては自由な旅人になって今期よくそれを探しているんだ」
ラムラム王は真面目になってそんなことを言い出しました。
「うん釣針か、うん生まれがいか、なるほどね、懸賞クイズのようだね。しかし人間の生まれがいなどというものはひょっとすると一本の釣針くらいに引っかかっていないものとも限らない。星にはそんなことは一切わからない。ただ君の一生のことだけはわかっている。どうしてどうして、どうなる、といったようなことはね。
それからずっと向こうの二十世紀や三十世紀の頃君は何に生まれ変わって何をやってる、なんていうことも大体僕にはわかっている。だがそれを言ってしまうと君のその生きがいという奴が無くなってしまうからやめさ。
さし当たりその釣針だが、君はかつてそのつい近くまで行って、そこにしばらく暮らしていたくせにそれとは知らずにまただんだん遠ざかってしまったのだね。これからはまず途中で王様になどなって遊んでいないで、三界をめぐらなくてはならない。三界と言っても過去、現在、未来というようなものではない。空中と、地上と、水中だ。地中はすべてのもののねむるところだからはいっていはならない。
まず鳥と魚とになれば虫にはならなくてもよろしい、それで充分三界へ行けるからだ。ところが地上はもう知ってる、などと言ってはいけない。君は王様だとか旅人だとかいう者の眼からしか地上を見てはいないのだ。今度はラムラム王などという名前も捨てて、ただ一匹の獣となってこの地球の上を、頭を低く垂れて這ってみるがいい。そうこうしているうちには釣針もまあ見つかるというものさ」


なかなかクールな会話と思うのだがどうだろう? しかもこの三界への旅は、直後に「ラムラム王の三界めぐりをくわしく書いていると、それだけで辞書より厚い本ができてしまいます。で、それはまたいつかの時にまわしておいて」と、あっさりの肩透かしを食わされてしまう(^^;)
おしまいで、作者自身がラムラム王の生まれ変わりだというオチが付けられたりするが、ともかく、時代を超えて楽しめる作品であることは間違いない。


05067

【OUT】桐野夏生 ★★★ 名前だけは見覚えがあるが読むのは初めての作家である。Morris.は意味もなく男性作家だと思ってたのだが、女性作家だった。
夜中に弁当工場で働く女性の一人が弾みで主人を殺し、同僚が、死体をばらばらにして処分することから物語が始まる。風呂場で死体を処分する場面などは、実に詳細に描写が続くが、いわゆるスプラッタ小説にはならずにすんでるあたりも、なかなか書ける作家なんだと思う。
死体処分を手伝うことになった二人の同僚のうち、年配の方は寝た切りの舅と不良の娘の世話で自分の生活を犠牲にしている同情すべき存在だが、もう一人は浪費家で、ローン、サラ金に追われ、それでも買い物を止められないという、どうしようもないキャラクターで、いいかげんにしろ、と、読みながら悪態をついてたが、もう一人の犯罪的主人公に嬲り殺されたので、すっとした(^^;) おしまい部分では、その殺人鬼が、死体処分を主導したヒロインを工場に連れ込んで犯しながら殺そうとするが、その部分の描写もえらくしつこい。殺人鬼の過去の殺人経験が男の深い意識のところで、性と死の同時に絶頂を迎える至高の時間を希求するといったことの説明が、延々と繰り返されるが、これはMorris.がずっと前に読んだバタイユの持ちネタのバリエーションにしか見えなかった。


05066

【大阪力事典】橋爪紳也監修、大阪ミュージアム文化都市研究会編 ★★☆☆ 2002年に大阪ガス文化研究所の肝いりで「博物的新大阪文化名鑑」という報告書を、手直しして1冊にまとめたものらしい。
意味のないこじつけキーワードのA-Z順という順列からして何とも見にくい事典であるが、70人以上による解説(というより舌足らずのコラム)で、まとまりがない上に、突っ込みのない内容になっている。
おもろい大阪のあれこれを事典風にしたてるからには、とにかく、面白く読めて興味を喚起するふうに作るのが当たり前だろうに、中途半端にアカデミック、中途半端に手を広げて、面白みに欠けるものになってしまったようだ。
前から気になっていた、法円坂の「難波宮遺跡」と、人工島舞州のごみ焼却場について、そのアウトラインを知ることができたことはありがたかった。
しかし、これらも、ネット検索したらもっともっと詳細な情報が容易に得られるだろう。
写真が小さくてモノクロなのは、我慢するとして、ちょこちょこ出てくるイラストは邪魔としかいいようがない。これは絶対省くべきだったと思う。


05065

【インドな日々】流水りんこ ★★★☆☆ インドおたくの少女漫画家による、インド漫画である。小田空の中国留学漫画に通ずるものがあるが、本書の作者は、インド人と結婚して、子どももできたようで、すでにオタクを超越している。
プロだけに絵はちゃんとしてるし、インドへの視点も、捉え方も、表現方法も「おとな」だし、下ネタや、死体を扱ってもそれが、ちっともいやらしかったり、おぞましかったりしない。
インド礼賛一辺倒ではなく、嫌なところははっきり嫌だと言ってるし、それでいてインドへの愛情の深さは隠すべくもない。
日本人の海外旅行ブームとはまた違ったレベルでの、外国との付き合い方を教えてくれる好著である。
いろいろな雑誌に掲載した10篇の漫画とそれぞれに関連したコラムが付されているが、やはりこの人は漫画のほうが面白い。
本書が出たのが2000年で、もう続編が出てるはずだ。機会があればそれも読みたい。


05064

【蒼煌】黒川博行 ★★★ 芸術院会員を目指す、京都の二人の画家の壮烈な選挙戦を中心に、画壇の長老、画廊主、使い走りの画家、画家の親族などの人間模様を描いた作品で、著者も以前高校の美術教師をしていたというから、満更知らない世界でもないのだろうが、旧態然というかまるで腐ったような画壇のヒエラルキー構造と、派閥、賄賂、謀略などを実にリアリティスティックに書いていて、ほとんどそれだけで読まされてしまった。
やたら、シーンが切り替わり、Morris.としては苦手な展開だったが、選挙という筋がはっきりしてるだけに、あまり気が散らずに読める。おしまいの結果とその後のどんでん返しも、何となく察しがつくが、先に書いたように、本書の眼目は芸術院やら文化勲章やら叙勲やらの権威に固執する画家の浅ましさや弱さへの批判的姿勢なのだから、まあ、どうでもよいということになるのだろう。
選挙の投票権を持つ先生に対する、両陣営の贈り物合戦も第三者から見ると、馬鹿馬鹿しくもあり、数百万円、数千万円という金額で、票を買おうとする異常さと、政治家まで巻き込んで、スキャンダルの種になるあたりも、それなりに楽しめる仕掛けになっている。
著者が、芸術院会員候補の老画家とその孫娘(新進画家)の会話借りて言う絵画論?は、面白かった。

「日本画って、宗達や等伯の時代から進歩してないんやろか」
「梨江のいうとおりかもしれんな」
健児は筆をおいて上体を伸ばした。「むかしの絵描きは東の空にお日さんがあがってから西の空に沈むまで、一刻も惜しんで絵を描いた。それこそ、日のあるうちは一心不乱に筆を動かしてたけど、いまの時代はほかにすることがいっぱいある。テレビ見たり、本読んだり、飲みに行ったり……。絵や写生に費やす時間が少なすぎるのは確かやな」
「けど、画集を見たり、美術館巡りができるようになったメリットはあると思うわ。照明があるから、夜も絵が描けるし」
「そら便利な時代にはなったけど、運筆の力は明らかに落ちてる。一本の線を同じ太さでひくこともできん。絵は絵描き個人の修練でしか進歩せんのや」
「個人の修練……」
「絵というのは人間ひとりひとりの技や。科学みたいに社会が進歩することはない。たとえば一という発見がされたら、それを土台にしてニという発明がされる。ニの発明をもとにして三ができるというふうに、科学全体が進歩していくけど、絵の世界はどこまで行っても個人や。稲山健児という絵描きが長谷川等伯という絵描きの研究をしても、等伯より優れた絵を描けるとはかぎらん」
健児は笑って、「いまの時代はなんぼでも情報があるから、技術や技法を追求する手助けにはなるけど、自分の絵を確立するのはあくまでも個人や。等伯にしたって、自分の絵が何百年後の絵描きに賞讃されるとは夢にも思てなかったやろ。自分がいま描いてる絵が後世に残るか、時代をくぐり抜けられるか、それは誰にも分からんことやと思うな」
「そうか、画家はいつの時代もひとりなんや」
「絵描きはなんべんも行き詰まる。それを克服するのは、我を忘れて描いてるものの中にフッと現れるなにかや。うまいことよういわんけど、絵の神様が天から降りてきて、そこからまた新しい絵が描けるような気がするな」
「わたしなんか、絵の神様が降りてきたことないわ」
「いっぱい絵を描くんや。それしかない」


05063

【イマジン】清水義範 ★★★ 夏風邪休暇?中に読んだなかの一冊。この人はパロディもの(本人はパスティーシュとかいうがよくわからん)が得意なのだが、本書は、割と真面目な青春小説みたいだったので借りてきた。結構彼の青春ものは、それなりにおもしろかったりしたことがあるのだ。
ところが突然主人公の青年が2003年の現代から1980年にタイムスリップして、4歳ほど年上の父親に身分を隠して会うという展開だったので、ちょっと肩透かしくってしまった。でもSFというわけではなく、普通小説風にストーリーは進む。ただ、ソ連のスパイにPCのOSの漏洩事件などがからむし、異常な事件もちょこちょこ出てくるし、タイトルの由来であるジョン・レノン暗殺にからむエピソードで、しめくくられるのだが、Morris.としてはそれならタイトルは「ダブル・ファンタジー」にすべきだったと思うが、これはやっぱり知名度の差かなあ?
こういう小説の常として、過去の世界のあれこれは、年表や資料から当時の代表的事件や、映画や歌や商品やファッションなどを羅列すればそれらしい雰囲気を出すのはむずかしいことではないのだが、清水はちょっとそれをやりすぎるというか、あまりにも見え見えで鼻白んでしまう。しかしそれよりも、問題は「現代」であるはずの2003年の世界で、Morris.がこれを読んだ時点(2005年7月)からしてもすでに2年前の「過去」になっていて、しかもその近過去の情景がいかにも上っ面だけで、しかも「古ーっ」と思わせられることだ。この手のタイムスリップものの宿命なのかもしれないし、いっそ、これが書かれて相当の時間が経過すれば、その二つの時代、それぞれが懐かしさと時代性を感じさせるのかもしれないが、ちょっと前のこのての作品というのは、一番見たくないものを見せられる感じがするのかもしれない。10年前、20年前のヒット曲なら懐メロというか、それなりに感慨を持って聴くことが出来るのに、ついちょっと前のヒット曲は、聞き飽きた感じがするのに似てるのかも知れない。
本書の主題は、父と息子の乖離を、同世代としてあいまみえさせ、ある種の解決を図ろうとしたものといえるかもしれない。しかしこういう状態を無理やり現出させるためにタイムスリップまで使った割に、成功してるとは言い難い。
しかし500pを超える長編を、通して読ませるだけの水準はクリアしてるのだから、けなすことはなかろう。時間つぶしになったわけだ。


05062

【日本語の起源】 ★★★☆ 河出書房が15年程前に「ことば読本」というシリーズで出した10冊ほどの中の1冊である。Morris.も日本語の起源への関心は無いわけではなかったが、どうも研究者がてんでに自説の都合の良い部分ばかりを強調して、変にまとめる傾向があるので、いつの間にか敬遠するようになっていた。
今回なんで今ごろこんなものを読み返す気になったのかわからないが、ついつい通読してしまった。
司馬遼太郎と大野晋の対談に始まって、モンゴル語、朝鮮語、南方語、アイヌ語、南島祖語、オセアニア語、中国語、はては完全に否定されたはずの安田徳太郎のレプチャ語説まで取り揃えてあり、一種の見本市状態の内容だったが、中本正智という人の「文化と波及」という論考に、強い印象を受けた。もともと昭和59年「ユリイカ」に掲載されたものらしい。ということは20年前のものということになる。あの頃読んでなかったのかなあ?

従来の日本語系統論で論じられてきた祖語説、混合説、移動説は、日本語の多くの側面を明らかにしたけれど、日本語の形成と発達段階の総体的な考察という点で、必ずしも十分であったといえないのではないだろうか、論者それぞれの立場から主張するにとどまっているため、論議がかみ合わないままに終わってしまうことが多かったように見受けられる。

冒頭からMorris.と同意見(^^;)であるな。
東アジアの強文化圏の第一である中国語の陰で、併呑された諸民族の異系統の言語が失われていったことは想像に難くない、として、漢字の特徴に触れていく。

漢字の本質は表意文字である。字形を見て意味を読みとる。発音の全く異なる異系統の言語があったとしても、漢字の字形によって、あるていどのコミュニケーションは可能である。筆談を想起するまでもない。漢字が近代まで表音文字に移行せず、表意文字として機能してきたのは多くの異系の民族と言語をかかえてきたという中国の国情があったからではないだろうか。
事実朝鮮半島においても、日本においても、中国語と異系統の言語であるにもかかわらず、部分的であるにせよ、漢字を使用しているということが何よりも良い証拠であろう。

人種の変容は民族の移動があって混血するというゆるやかな速度で起こるのに、言語は民族の移動で変容するほかに、民族の移動がなくても、言語や文化だけが人から人、地域から地域へ、はやい速度で波及してしまうからである。人種の変容が言語や文化より保守的であるために起こるくいちがいということだ。

結局、アジアにおける言語分布の情況は、過去にさまざまな地域で、いくつもできた大小の強文化圏が、どこまでどう及んでいったかとう結果であり、その及びかたのちがいによって、それぞれの言語が独自に発達し、強文化圏同士の言葉の溝を深めていったということなのである。東シナ海沿岸地域は、島嶼部といい、大陸沿岸側といい、四方からの強文化圏がぶつかり合った地域であり、日本語が北方系にも南方系にもつながる要素を含んでいる原因は、まさにそこらあたりにあるのであって、これまでの系統論者が説いてきたようにどこかの土地では日本語の性格を完成させてから、この列島へやってきたのではないことが了解されたと思う。

こうやって引用してしまえば、この人もつまりは自説を主張してることには違いなくて、ただその主張がMorris.を納得させる度合いが高いということだろうな。
最後に安本美典の論考の中から、彼が引いてる別人の意見二つを孫引きしておこう。最初は時枝誠記「国語学言論続篇」の中から。

国語史は国語をその根源よりの分化発展として、樹幹図式に捉えるべきではなく、異分子の総合として河川図式に捉えるべきである。
日本の文化は、外来文化の絶えざる波状的な進入によって、古い文化の残存の上に新しい文化が積み重ねられて、ここに文化の重層性ということが起こってきた。


そしてもう一つは、統計学者、増山元三郎の言葉「統計的検定のない調査は随筆と大差はない」である。
日本語起源論や、語源論が得てして「随筆と大差ない」次元でこと挙げされるからこそ、Morris.のような素人がつい首をつっこみたくなるのかもしれない。


05061

【きほんのき】朝日新聞学芸部 ★★★ 「プロが教える暮しの知恵」と副題にある。96年から3年にわたって朝日新聞家庭面に連載されたものを編集したもので、生活雑学編、クッキング編、趣味編、健康編、子どもと一緒編、マナー編と部立てしてあるが、複数の記者が、それぞれの専門家にインタぴゅ-してコラムに仕立てたもので、テーマや内容に寄って、興味あるものとないものが混じっているのはいうまでもない。
タイトル通り、基本的な事柄中心だから、読むまでもないことが大部分だが、中には、なるほどとおもわせられることもいくらかあった。Morris.は、一種のチェックリストとして斜め読みしたことになる。

・早く研ごうと、一度に刃を幅広くと石にあてるのは禁物だ。砥石がいびつに減るし、よく研げないからだ。刃先から刃元の「アゴ」と呼ばれる部分まで、研ぐポイントは4ヶ所。包丁を少しずつ動かして研ぐ。指先の力を抜いてリズミカルに研ぐのがコツ。(包丁研ぎ)

いざ、メモしようと見直したら、あまり引用するほどのところは見当たらない。フローリングの手入れは乾拭きが基本とか、キャベツの千切りは葉を繊維に合わせて重ねて丸めるとか、ビデオのここ一番のシーンはローアングルを使うとか、ちょこちょことあるにはあるんだけどね。
それより、このてのコラムを新聞記者が書くときの癖というか、最後のオチめいた部分があまりに陳腐でワンパターンなため、これを続けて読むと、なんだか馬鹿馬鹿しく思えてくる。


05060

【異邦人の夜】梁石日 ★★☆☆ サンデー毎日に2003年から1年以上連載したもので、単行本で500p超す長編である。日本に帰化した在日の父娘と、日本で事件に巻き込まれたフィリピン女性の二つの物語を強引に繋ぎ合わせたようなストーリー構成で、事件の進行や、偶然の出会い、図式的な改名裁判説明など、小説以前の作品という感じがした。
朝鮮での「父殺し」が、つまりは核心なのだろうが、その現場に娘と友人が訪ねる場面なども、あまりにご都合主義+説明的+粗筋みたいで、しらけてしまった。
連載小説の常として、毎週盛り上がりと、次回への伏線を入れようとして、結果、物語全体の構成が平板なものになってしまうという弊害を本作も犯している、というより、それ以前の問題かもしれない。


05059

【濃厚民族 15大対談】浅草キッド ★★☆ Morris.は浅草キッドという二人組は、名前すら知らない。ビートたけしの弟子らしい。対談相手の15人のうち、Morris.が知ってる名前だけを引いておくと、深作欣ニ、田原総一朗、山城新伍、テリー伊藤、力也、古舘伊知郎、野村克也、甲本ヒロト、萩本欽一、ビートたけし---結構有名人ばかりではないか。しかし、その内容ときたら、なんともスカスカだった。
対談相手へのよいしょ、追従、自慢話、部外者の悪口に終始してるといっても過言ではない。
比較的好きな数人の話は、まあ読めたが、もともと嫌いな大部分の話は、いいかげんすっ飛ばして読んだ。
山城新伍の話の中で、ボス、藤山寛美のエピソードは、面白かった。

博士 寛美さんって、自分がお金がないのに、ご祝儀どんどん出すんですよね。
山城 そうそう。変な金銭感覚なんだよね。例えばご祝儀一万円もらったら3万円にして返せと。そうしたらそれが9万円になって返ってくると。(笑)
玉袋 ねずみ算みたいな(笑)
山城 1が3に、3が9にっていう考えなんだけど。返ってきたためしがないよ(笑)
博士 ダイアナ・ロスに祝儀切った話がありますよね。
山城 ダイアナ・ロスがシュープリームスを辞めてソロになるという時期にね。寛美さんはダイアナ・ロスも知らないけど、ショーを見に行こうって話になって行ったの。それで聴いているうちに「新伍ちゃん、あの娘は素晴らしい」と。
博士 名前は知らないんだけど、芸はわかると。
山城 それで「チップやってくれ」って(笑) 100万円。あいつら世界中で稼いでいるのにさ(笑)。でも行かないと機嫌悪くなるから俺が行ったんだよ。そしたら「サンキュー」ってほっぺたにキスしてくれて、寛美さんにもキスマーク見せて「受け取りました」って言って。それを若山さんに言ったら「ほれ見ろ!世界中どこでも芸人は困っとるんじゃー」って(笑)


どうせ、ヨタ話するなら、こういった類のものを、もう少し揃えておいてほしかった。


05058

【こどもとおとな スクランブルノート】五味太郎★★☆ 「おとなは/が/のもんだい」シリーズの続編というか、出し殻という感じで、どうも力がぬけてしまった。いつも言うことだが、Morris.は五味太郎には一目置きながら、どこか、胡散臭さを覚えてしまう。本書では、一目置くところがほとんど無くなってしまってるような気がした。この人の面白さは、逆説のキレにあるわけだが、要するにキレが悪いということだ。

花を愛するこころ優しいひと…というような表現が苦手です。そういうとらえ方がきらいです。花が好きで、たまたまやや優しげな人がいる、というのなら話はわかります。とくに花が好きではないけれど、かなり優しいやつというのもわかります。花が大好きで、けっこうキツイひとというの、よくいます。
花を愛するということはこころ優しいことであるというような図式で、当人もまわりもとらえあっているという風景が苦手です。でも、これがけっこうあるんだな。

ね、くどすぎるでしょ。前の本なら、これは「花を愛するから心が優しいとは限らない」くらいにシンプルに片づけてたはずだ。本書ではどうも、こういった同語反復的表現が目につく。どうしたんだろう。五味はMorris.より5歳ほど年長で、本書は5年程前に出てる。ということは、まさに今のMorris.くらいの年齢の作ということになる。Morris.と同様、ボケが入ってきたんだろうか?


05057

【詩とことば】荒川洋治 ★★☆ 「詩のかたち」「出会い」「詩を生きる」「これからのことば」という4部に分かれているが、別に系統だっているわけではなく、詩や詩人に関するコラムを適当に並べたもののようだ。

テーマをもうけずに、ひとつの長いエッセイを書くつもりで、思いつくままにつづった。項目と次の項目がつながらないものもあるが、書いているときは、つながっていたようである。
四つの文章を書いたというよりも、四つの長い詩を書いた。そんな感じのものになった。あちらこちらに飛躍、省略がある。まとまりはないし、わかりきった話が多いけれど、どこかひとつでも、おもしろいね、と思ってもらえたら、うれしい。(あとがきより)

いったい、これが「詩人」の記した文章なのだろうか?文章もひどいが、内容は、これは単なる言い訳ぢゃないか。いや、それ以上にどうしょうもないな。「おもしろいね」と思ったページも無かった。
いちおう荒川という詩人は、現代詩の中でも見所があるという話を聞いて、いくらか読んだ覚えはある。Morris.の好みとはずれてると思ってたが、本書を読んだ限りでは、見所もなさそうである。
引用された詩の中には、Morris.が以前から好きだったものもふくまれてはいるが、それらの詩について斬新な意見があるわけではない。
ちょっと荒川洋治には、失望させられてしまった。まあ、岩波の本にありがちな、駄作である。


05056

【カフェオレボウル Le Bol】山本ゆりこ ★★★
青絵のカフェオレボウルフランス人はカフェオレボウルのことを、シンプルに「Bol ボル」と呼ぶ。カフェオレボウルというのは、おそらく日本に輸入されたときにつけられた商品のアイテム名だとおもう。カフェオレボウルは19〜20世紀に、フランスの朝のテーブルには欠かせないアイテムだった。私たちがちょっと古いものを見て「あっこれ、おばあちゃんちにありそう」となにげなく言う。ボウルもフランス人にとっては同じニュアンスのオブジェで、少し前の時代のものというイメージがある。そして食器を持ち上げる習慣の無いフランス人が、手で抱えて使い、他人のものと区別して自分のものが決まっている唯一の器。(前書きより)

要するにフランスのミルク珈琲用の茶碗である。著者も書いてるが、骨董というよりガラクタ市に近いところにたくさん置いてあるしろものである。日本でいえば蕎麦ちょこに近いか、いや、もっと安物っぽいかな。
でも、その形と意匠の「ぼんじゃり」感が実になごみを醸し出している。著者がこれをコレクションして、こうやって1冊の「絵本」に仕上げたくなったことには共感を覚えた。
意匠のメインカラーで青、赤、緑、黄の4色に分けた一部と、ボウルの産地で分けた二部、蚤の市や骨董店での入手歴、コレクターの紹介などの三部で構成されているが、全体的にはカタログというよりやっぱり「絵本」テイストが感じられ、ボウルのイメージからしてこれはおおむね成功していると思う。Morris.は青のボウルが一番気に入った。伊万里の藍のような深みはないが、いかにも青インクといった風合いのライトで明るい青色と、デザインの素朴な美が実にうまくマッチしている。稚拙といえるものも多いが、それがまた可愛い。手描きや染付けなど手法も色々だが、ステンシル使用とおぼしいものが一番この器に似合ってるようだ。
全体に白地に染め絵したものが多いのに、掲載写真のバックがほとんど白っぽいのが玉に瑕である。輪郭が見にくいのだ。しかし、こういうものは実物を手にしないと本当のところはわからないんだろうと思う。


05054

【ためぐち韓国語】四方田犬彦、金光英実 ★★☆☆ いわゆる韓国語のバンマル(ためくち)を100個ほど並べて、二人が1ページずつくらいコラムめいた短文を書くという、お手軽な造りである。四方田はもちろん、共著の女性もネイティブではない。韓国に留学したり滞在したりしてる中で覚えた言葉ということになる。巻末にはいちおうハングル表記付きの一覧があるが、本文では、ハングルなししかも、何故かひらがな表記である。それはいいとして、どうもMorris.は特に四方田の物言いがしっくり来なくて、ほとんど彼のコラムは読み飛ばしてしまったような気がする。
これも韓国ブームを当てこんでの作なのかもしれない。そのこと自体別にかまわないと思うのだが、こういったバンマルを覚えて使うようにという姿勢はあまり実際的ではないのではないか。韓国語万年初心者のMorris.が言うのもなんだが、バンマルはとりあえず正規表現を知った上で身に付けるのが望ましいと思う。
本書には喧嘩するときに使うことばというくくりで、悪口雑言めいたものも並んでいる。中には罵倒に近いものや、いわゆる猥語も混じっている。もしも、韓国語何も知らない読者が、これだけ覚えて韓国に行って実際に使ったりしたら、結構危なかったり、相手に不快を与えるに違いない。
日本に来た外国人が、日本語できないくせに「クソッタレ」だの「オマンコ野郎」「ズベ公」なんて言葉のみ使ったとしたら、どんな気がするか考えるまでもなかろう。
まあ、覚えておいて役に立ちそうなものの中からアレンジして20程並べておこう。

アニョン(こんちわ)
ノロカジャ(遊び行こう)
ハンジャンハジャ(いっぱい飲ろう)
マシッタ(うまい(^o^))
マドプタ(まずい(>_<))
ペコッパ(おなかすいた)
パリパリ(早く早く)
モシッタ!(かっこいい!)
ムソヲ(怖い)
ケンチャナ(かまへん)
チェミッタ(楽しい)
シンナンダ(おもろい)
ミアネ(すまんm(__)m)
コマヲ(サンキュー)
マジャヨ(その通り)
チョワ!(いいね!)
チョアヘ!(好きっ)
シロ!(きらい)
マメドロ(気に入った)
アラッチ?(わかった?)
アラヨ(わかった)
モラヨ(わからない、知らない)
チャルガ(バイバイ)


05053

【ジャズで踊ってリキュルで更けて 昭和不良伝*西条八十】斎藤憐 ★★★☆☆ 「上海バンスキング」が懐かしいな。もう四半世紀前になるのか。斎藤は今でも現役の演劇人なのだろうが、あれだけインパクトのある自作があると、なかなかやり難いかもしれないな。
97年に「カナリア」で岸田戯曲賞を受けているが、タイトルからも分かるように、これがそのまま西条八十を主人公にした評伝劇で、本書はその時の資料や調査を評論の形にしたものと言えるだろう。「上海バンスキング」の後に「昭和のバンスキング」を出したのに似ている。
Morris.は西条八十のファンといっていいと思う。もっとも戦前、戦中、戦後を通じて、彼のファンで無かった日本人なんてほとんどいなかったろう。
かりに西条八十の名前は知らずとも、彼の作詞した歌を一つも愛唱しなかった日本人はいないと言い切っていいのではないだろうか。
童謡「かなりや」「お山の大将」、本書のタイトルが歌詞にある「東京行進曲」、「侍ニッポン」、日本中を踊りの渦に巻き込んだ「東京音頭」、「支邦の夜」、「蘇州夜曲」、軍歌「同期の桜」、「そうだその意気」「若鷲の歌」、戦後流行歌「青い山脈」、「芸者ワルツ」、「トンコ節」、「この世の花」「王将」「越後獅子の唄」「サーカスの唄」「誰か故郷を思わざる」「旅の夜風」「涙の渡り鳥」----どれもがその時代を生きた人々の大多数に愛唱された。
本書では、八十のみに限らず、野口雨情、北原白秋、佐藤惣之助、サトウハチローなどの作詞者、中山晋平、古賀政男、服部良一、吉田正などの作曲家の作品がふんだんに引用されていて、タイトルさえ変えればそのまま昭和歌謡史の書として通用するのではないかとおもわれるくらいだ。しかも、それぞれの曲への思い入れや、分析がなまなかでない。そんなに歌謡曲に詳しい人だったのかと改めて驚いたが、あとがきに、70年から15年間にわたって青江三奈ショーの構成を担当したとあったので、合点が行った。

大衆歌謡のことをまったく知らなかった僕は、「港が見える丘」「上海帰りのリル」「カスバの女」「波浮の港」といった大衆歌謡を、青江さんの声ではじめて聞き、毎年構成台本を書くなかで、日本のジャズの発祥の地が上海だったことも知った。フルバンドの楽隊15人を含めた「青江三奈様御一行」に加わることによって、ココロザシなんか持たないバンドマンたちの自堕落な日々も学んだ。

そういう経緯があったんだね(^^;)
それはともかく、Morris.は西条八十の処女詩集「砂金」は好きだった。以前元町の古本市でこれの再版が割と安くで出ていたのに買わずしまいだったことを、結構長いこと後悔しているくらいだ。「トミノの地獄」のような怪作(これも好きだけど)もあるが、総体的には端正な象徴詩が多い。そして彼の言葉選びの才能は紛れも無い。

海にて

星を数ふれば七つ、
金の灯台は九つ、
岩陰に白き牡蠣かぎりなく
生るれど、
わが恋はひとつにして
寂し。


こんな短章ひとつにしても、昨日引用した寺山の少女詩集とは次元を異にしていることがわかるだろう。
Morris.の持っている創元社の「現代日本詩人全集5」西条八十篇に収められている「砂金」は、童謡などが省略されているが、本書に引用してあった「薔薇」こそは「砂金」の白眉だと思う。

薔薇

船のなかに
忘れた薔薇は
誰ぁれが拾った

船のなかに
残ったものは
盲人がひとり
鍛冶屋がひとり
鸚鵡が一羽

船のなかの
赤い薔薇を
拾ったものは

盲人がひとり
見てゐたものは
青空ばかり


これほどの才能に恵まれた詩人が、歌謡曲の作詞に手を染めた、いや、完全にそちらに力点を移したということは、日本人への、とんでもないプレゼントだったように思える。
著者も、八十の俗受けを狙ったり、戦中の戦意高揚のみを目的とした詞を非難しながらも、全体としては八十自身と八十作品への敬愛を終始持ちつづけていることが感じられて、それが本書に血肉を通わせている大きな要因だと思う。
それだけに、序章の八十のヒット曲を羅列している部分で「荒鷲の歌」とあるのは気になった。これは「若鷲の歌」の誤植ではなかろうか。一般に「荒鷲の歌」として知られている曲は、東辰三作詞作曲のもので、多作だった西条八十がもしかして同題の歌詞を書いていたとしても、代表曲とは見なされまい。著者でなく、編集の校正ミスと思うのだが、最初のページだけに、何となく情ないぞ。


05052

【オールイン 運命の愛 上下】ノ・スンイル原作、チェ・ワンギョ脚本、宮本尚寛/安岡明子翻訳、田渕高志ノベライズ ★★★☆ 日記でも触れたが、現在放映中の韓国ドラマのノベライズである。Morris.は本来なら絶対こういうのには手を出さないタイプなのだが、これは二ヶ国語放送のドラマを日本語と韓国語で2回見る手間を省くための便法として読むことにしたのだった。ストーリーは天才ギャンブラーの一代記で、当然主人公イビョンホンとヒロインのラブストーリーが絡む、というより、そちらの方が本線でギャンブルは彩りなのかもしれない。韓国ドラマの常として、幼い時代からの導入があって、男の友情、ヒロインの両天秤、乱闘、重病などが賑やかに繰り広げられる、やくたいも無いものだということはわかっていたが、それなりにこのノベライズは楽しく読み通せた。ちゃんとしたプロの仕事だった。見くびって御免m(__)m
これを読んでから見たのは1話分だけだが、初めから韓国語で見ても筋は分かってるから、問題なさそうだ。もっとも、ドラマの楽しみ方として先にストーリーを知ってしまえば興が殺がれることは言うまでも無い。
まあ、Morris.はこのドラマは1/3は韓国語の聞き取り練習のつもり、2/3は「冬のソナタ」のオチェリン役のパクソルミを見たいがためのものだから(^^;)筋なんかどうでもいいと言えなくも無い。ソルミン(パクソルミのことね)はジニというホテルカジノ所有者の娘という役で、出番もまずまずありそうだ。おおまかに彼女の出番がどのあたりかも見当が付けやすくなったという意味でも、本書はありがたかった。


05051

【マンガ原稿料はなぜ安いのか?】竹熊健太郎 ★★★☆☆ メインは、2ちゃんねるでの論争が元になって、ネットのオンライン書店bk1で連載したものらしいが、竹熊といえば、相原コージとタッグ組んでの「サルまん」で名を売った編集者だ。本書でも付録みたいに「サルまん」誕生秘話みたいなのが載っていて、Morris.はこれを読みたさに借りてきた。
現場の人間だけに、部外者のMorris.などの窺い知れない情報や現状報告もあり、漫画出版社の内部事情にも通じているから、面白いエピソードには事欠かないようだし、漫画家、原作者、編集者の三つ巴の愛憎模様も描いてくれている。

では、なぜ近年のマンガがいたずらに「長期化」するのかといえば、ひとつは出版システムの要請である。現在のマンガ出版の主流派週刊誌だが、週単位で「人気」をとろうと思えば、その場その場の盛り上がりを作る必要がある。たとえばある週は山場だが、次の週が全部谷間、では困るのだ。そこで毎週盛り上げるいちばん手っ取り早い方法が「試合」をしてその回のうちに勝敗を決することだったりするわけだ。
有名な少年ジャンプの「武闘会方式」はここから来ているわけだが、こと「毎週の盛り上がり」という点から考えると、たしかにこれは効率がよい。だがその反面、長期的な伏線が張りづらいという欠点がある。また山あり谷ありが本来の「物語」なのだとすると、「山」を盛り上げるためには「谷」が必要になるはずだが、ここで谷を恐れるあまり山ばかりにしてしまうと、それは結局「山」ではないことになってしまう。


これは以前Morris.が新聞小説の面白くなさについて、感じたことに通じるものがあるし、連載ものの限界とジレンマを感じさせてくれる。
また、最近マンガ評論、批評が目に付くようになった事に関しての次の指摘はなかなか鋭いと思った。

だが、評論や研究というものは、往々にしてその対象が「停滞」した時に進歩するものなのだ。これは評論の持つ本質的なジレンマかもしれない。戦後50年というもの、マンガは作品としても商売としても右肩上がりの成長を続けてきたが、その間、批評や研究がそれに追いつかなかったという面は否めないと思う。その意味では、皮肉にもマンガバブルがはじけて実作が「停滞」することで、ようやく研究の機が熟してきたといえるのかもしれない。

本書の半分近くは、タイトルとは別の漫画家論、漫画作品論、というより、著者の注目してる作品、作家の紹介に費やされている。Morris.と著者ではマンガへの嗜好がかなり違うので、未知の作家も多く、画像引用も単行本の表紙、それも豆粒みたいに小さいものしかないので、イメージがつかみ難いのだが、興味を惹かれたものをいくつか列挙しておく。
「黒旗水滸伝」竹中労作 かわぐちかいじ画 皓星社 2000年
「神罰」田中圭一 イースト・プレス 2002年
「ニュー土木」横山裕一 イースト・プレス 2004年


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【マンガの深読み、大人読み】夏目房之介 ★★★☆☆ 1部「マンガ読みの快楽」2部「『あしたのジョー』&『巨人の星』徹底分析」3部「海の向こうから読むマンガ」という三部構成である。各章のタイトルを見れば大まかにどんな作か(夏目著の愛読者であるMorris.には?)よく分かるようになっている。
結論から言えば、Morris.は世界の中のマンガという視点にはほとんど興味がないし、ジョーと飛雄馬についてはやや食傷気味ということもあって、1部中心に読んだのだが、それでも、やはり日本マンガ批評では、今のところ夏目がイチバンだという思いを強くした。

・主題の深刻さと子ども向けマンガの混在。これが手塚の特徴であり、また戦後日本マンガが欧米コミックスの世界から「こんな子ども向けマンガの絵でシリアスな主題を語るなんて!」と驚かれるにいたる、奇妙な幅広さの出発点だったのである。
それにしても、こうした「漫画的」な絵や手法をシリアスな主題の混在に対して、結果的にとはいえ日本の読者はじつに許容度が高かった。絵の絵画的完成度、シリアスな主題と写実的な絵が強固に結びついた欧米のコミックス世界では、これは相当衝撃的なことのようなのだ。

・鳥山明ほど無垢を正面から描ける作家は、そういない。
「無垢」こそが「強い」ことなのだと、ミスター・ボボのようにまっすぐに教えてくれるとき、すれた大人読者の僕も、思わず座りなおしてしまう。
これこそ、近代児童向け文化の王道でもあったからだ。

・4コマ作家で才能のある人は、ある意味ですごく不器用で、ツブシがきかず、4コマと心中しかねない内向性をそなえている場合が多いと思われる。それは、経済効率を無視して、身をけずるようにアイデアを4コマにまでけずる才能といってもいい。
いしいひさいちには、もちろんその才能があった。
が、それ以上に重要なのは、彼がある時期に出現したことによって、4コマを複数並べてのせる形態を、同じネタの連続的展開という、ある意味で横紙破りな表現様式にまで拡大し定着させてしまったことだ。これが、いわゆる4コマ・マンガ誌ブームをつくりあげた掲載形態なのである。

ちばてつやのインタビュー中で「あしたのジョー」のハイライトとも言える力石の死のコマに関して、の二人のやり取りは印象深かった。

夏目--力石の死前後の演出はすごいですね。『BSマンガ夜話』っていうテレビ番組で、いしかわじゅんが指摘したんですが、死んだ力石の控え室に段平が入ってくる場面が、無音で2ページ続く。葉子は力石から目をそむけ、葉子の父親は正面に座って現実を見すえている。人の表情、位置関係が見事に計算されていて、すごい緊張感がある。
ちば--計算ていうより本能ですよ。この場面で、一言でもしゃべっちゃうとピーンと張りつめたものが崩れちゃう。表情も大事でね。一人ひとり、思いがちがうから。
夏目--しかも、これは僕が気づいたんですが、全員背後に影が描かれていて、影の伸び方をよく見ると光源は力石の死体なんです。そんなこと、ありえないんだけど、この効果はすごい。無意識に描かれたんでしょうが……。医者や看護婦の表情まできちんと描いてるのが、いかにもちばさんらしい綿密さで。
ちば--ああ、ほんとだね。アシスタントにそう指示したんだろうねぇ。医者と……? 本当だ描いてますね。そんなもの、忘れてた、そうか。
夏目--なんで僕がちばさんに解説しなきゃいけないのか、よくわからない(笑)。


05049

【寺山修司少女詩集】 ★★★ 角川文庫が寺山の作品をシリーズとして1ダースほど出してる中の一冊である。Morris.としては、シリーズ前からある「寺山修司青春歌集」一冊があれば他は無くてもいいと思うくらいだが、多感だった頃のMorris.は、新所館フォーレディズシリーズとして出された寺山+宇野亜喜良の「ひとりぼっちのあなたに」「愛さないの愛せないの」「さよならの城」などはきっちり愛読していたのだった。本書はおおむねそれらに掲載されたポエム(^^;)を集めたものである。
先の3冊は地震を機に、とっくに手許から消え去っている。そういえば「ひとりぼっちの--」はドラマ「ファインティングガール」(ふかきょんと平山綾が姉妹役でMorris.は綾ちゃんにちょっとしびれてた(^^;))の中で小物として登場したことがある。その頃、元町のちんき堂で\1,500くらいで出てたな。
今更ながらと思いつつ、ぱらぱらと見てしまった。たしかに寺山らしくて、上手いなと思わせる作品もあるが、本歌取りが見え見えのものや、いかにも「作った」ものが多くて、ちょっとこそばゆいものが多かった。寺山が生きてたら、こんなの上梓させなかったかもしれない。新書館版は、宇野亜喜良のイラストあってこそのものだったと思う。

無題(海?)

つきよのうみに
いちまいの
てがみをながして
やりました

つきのひかりに
てらされて
てがみはあおく
なるでしょう

ひとがさかなと
よぶものは
みんなだれかの
てがみです

あなたに

書物のなかに海がある
心はいつも航海を許される

書物の中に草原がある
心はいつも旅情をたしかめる

書物のなかに町がある
心はいつも出会いを待っている

人生はしばしば
書物の外ですばらしいひびきを
たてて
くずれるだろう

だがもう一度
やり直すために
書物のなかの家路を帰る

書物は
家なき子の家


05048

【刑務所の前 第一巻】花輪和一 ★★★☆☆ あの至高の怪傑作「刑務所の中」のカルト漫画家が、それに至るまでの経緯を描くように依頼されて、ビッグコミックに連載したものだが、これがまた、何とも常軌を逸した素晴らしさ(@ @)だった。ともかくも、おぞましい時代劇と作者の回想が入り混じってる構成からしても普通ではないし、ほとんど廃物の土に埋まっていた拳銃を掃除して分解して復元していく作業のマニアックな記録と、気の遠くなるくらいのしつこさに辟易しながら、引き込まれていく。
ほんとにこの人は異常である。しかし異常さのない漫画家には絶対に描けない漫画を描いてくれる得がたい漫画家でもある。絵柄からして、とんでもなく下手なようで、とんでもなく深い。怖い作家であるな。


05047

【おかしな男 渥美清】小林信彦 ★★★☆ 96年8月68歳で亡くなった渥美清だが、本書は97年から99年に「波」の連載を大幅に加筆訂正したものである。評伝というより、渥美清と個人的親交の深かった著者のメモアールという色が濃い。

彼は複雑な人物で、さまざまな矛盾を抱え込んでいた。無邪気さと計算高さ。強烈な上昇志向と自信。人間に対して幻想を持たない諦めと、にもかかわらず、人生にある種の夢を持つこと。肉体への暗い不安と猜疑心。非情なまでの現実主義。極端な秘密主義と、誰かに本音を熱く語りたい気持。ストイシズム、独特の繊細さ、神経質さをも含めて、この本の中には、ぼくが記憶する彼のほぼすべてを書いたつもりだ。
しつこく繰りかえすようだが、これは彼についてのぼくの記憶の集大成であり、ポルトレエ(肖像、風貌描写、性格描写)とでも称すべきものである。日本語でいえば、[風貌姿勢]であろうか。時が長きにわたるので、伝記のように見えるかも知れないが、それは結果に過ぎない。(あとがきより)

小林信彦は、Morris.にとっては「ヒッチコックマガジン」の名編集者、「日本の喜劇人」「笑う男」などの日本の喜劇役者論で素晴らしい仕事をした中原弓彦名義での印象が強い。というか、はっきり言えば、小林信彦より中原弓彦が絶対に好きなのだった。本書は名義こそ小林だが、内容的には中原の系譜に位置するもので、彼の喜劇への理解の深さ、愛情、憧憬、分析、批判、事情通ぶりが存分に披露されている。
怪物的超ロングセラーシリーズ「男はつらいよ」の「寅さん」のイメージが巨大すぎて、渥美清=寅さんというのが、世間一般の常識みたいなものだが、それとは別次元での、渥美清論(+日本喜劇界論)という意味で、注目すべき労作であることは間違いないのだが、渥美清にも日本喜劇にもそれほどの思い入れのないMorris.には、若き日の中原弓彦名義の喜劇評論の残滓でしかないような印象が拭えなかった。
寅さんが、虚像だとしても、それでいいのでないかい、という気持もある。「寅は死んで名を残した」わけだ。


05046

【探偵伯爵と僕】森博嗣 ★★☆☆ あまりこの著者の作には食指を動かされないのだが、本書の造本に惹かれて手にとってしまった。ちょっと小ぶりのハードカバーで、大きめの活字、2色刷りの挿絵、Morris.が小学生時代に愛読した少年少女向け娯楽小説本を髣髴させる装釘である。
講談社の「ミステリーランド」というシリーズで、惹句が「かつて子どもだったあなたと少年少女のための」である(^o^) Morris.の世代(いやな言葉だが団塊の世代)と、その子供たちをたーげっとにした、あざといシリーズといえるかもしれない。しかし、Morris.としてみれば面白ければそれでよいわけで、先にいえば、本書はそれほど面白くも無かったが、30人近くも挙げられているこのシリーズの執筆陣を見渡すと、必ずや何作かは、面白い作にめぐり合えそうな期待を持ってしまった。
本書は小学生の「僕」が中年男性探偵「伯爵」と知合い、誘拐された友だちを追って、自分も狙われてしまうが、伯爵と、警察の連携で事なきを得た事件を「僕」の日記としてまとめたという、ストーリーとしてはたわいの無いものである。作者の眼目は、それより、「僕」と伯爵の会話のなかの哲学的クイズめいたやりとりや、犯罪者(と犯罪そのもの)へのうがった見方にあるのだろうし、事件自体でなく、「僕」の意識的粉飾のどんでん返しにあったのだろう。このあたりちょっとわかり難いが、いちおうミステリーを冠した作品だけにネタバレを避けてるのだ。
たしかに、この仕掛けで、ストーリーの読み直しが可能になる(強要される)のは、新しい試みでもあるのだが、Morris.は、あまり感心しなかった。
こういう類の作品では不可欠と思う、主要登場人物の魅力が、あまり感じられないのが致命的だと思う。


05045

【あの人この人 昭和人物誌】戸板康二 ★★★☆☆ 1993年1月に88歳で亡くなった著者が、90年から93年5月まで「オール読物」に連載したものだから、文字通りの遺作ということになるだろう。「ちょっといい話」につながる交遊録みたいなもので、以下の34人の挿話が収められている。

江戸川乱歩、徳川夢声、有吉佐和子、菊田一男、芥川比呂志、小泉喜美子、三島由紀夫、川口松太郎、岩田豊雄、古川緑波、伊馬春部、奥野信太郎、田辺茂一、藤本真澄、三宅周太郎、十返肇、小宮豊隆、花森安治、寺山修司、大谷竹次郎、田村秋子、川尻清潭、円地文子、渋沢秀雄、宇野信夫、玉川一郎、辰野隆、武智鐡二、土岐善麿、安藤鶴夫、小泉信三、久保栄、東山千栄子、渥美清太郎

中には未知の人物も含まれるが、ともかくもこれだけの著名人と親しく付き合ったというだけでもなかなかのものである上に、生来の人好きと、観察眼の鋭さがあいまって、読み応えのある回顧録(物故者中心)となっている。
それぞれにちょっといい話が含まれていて、引用するときりが無くなりそうだが、フランス文学者辰野隆(たつのゆたかと読むことも初めて知った)の項に出てきた、ルナールのアフォリズムだけを引いておく。

・微笑は渋面の始りだ
・彼のために拍手をしなければならない時の手の優柔不断
・燕---風の一番気に入りの玩具


最後の燕の句なんか最上の詩だね。
遺作ということで、あとがきを妻の戸板当世子が書いているが、これが、また実にすばらしい弔辞になっている。

戸板は人間が好きで、こういう人物に関することを書くのが、大好きでした。この仕事も、毎回、とても楽しんで書いて居りました。いつもの、食堂のテープルで書いていた姿が、思い出されます。

私は戸板の書くものは、随筆にしろ、小説にしろ、こういう「人物誌」「ちょっといい話」など、大好きでした。一番のファンだったかも知れません。五十二年も一緒に暮らし、戦争を除いては、楽しい、幸せな日々でした。殊にお互いに年をとってからは、いたわり合って、一日一日を大切に暮して参りました。本当に心のあたたかい、やさしい人でした。
すーっと消える様に、突然亡くなってしまい、納骨も終えたというのに、私はまだ信じられない様な気持で、とまどっています。
いかに大切な人を亡くしたのかと、胸が痛みます。我が家の門のそばの、白木蓮の花も散り、桜がほころびかけております。いつも二人で楽しんでみていたのが今年は一人です。一緒に見ていたテレビも一人です。何もかも、ひとり、ひとり、という感じです。
二人共旅行が好きで、パリ、中国、京都など、随分方々へ旅をしました。銀婚式には一ヶ月、ヨーロッパをまわり、楽しい思い出が一杯です。大切に胸に秘めて、心新たに、暮らして行こうと思っております。こうして書いているそばで、「お茶にしようか」という声がきこえて来ます。


「もって冥すべし」である。


05044

【文学から見る「満州」】川村湊 ★★☆☆ 「「五族協和」の夢と現実」と副題にある。満州への思い入れが特に強いわけではない。ただ「虹色のトロツキー」を読んでから、ついつい覗いてみるようになった。川村の仮想旅行記「満州鉄道まぼろし旅行」はけっこう楽しめたのだが、本書は満州文学という、初めから不毛な分野を主題にしているだけに、期待もしてなかったし、予想通り面白くも何とも無かった。
満州国の理念「五属協和」は、日本人、満州人(漢人、中国人)、蒙古人、ロシア人、朝鮮人の5つの民族の大同団結を意味するのだが、これはお題目に過ぎず、日本の属国であることは誰の目にも明らかだったし、その中での文学運動は体制に迎合するものが優遇され、反対するものは出版不可能ということも言うまでもない。
戦争が本格化するにつれて、日本国内でも文学どころではなくなった時期に、満州でまともな文学運動が起こるはずもなかった。結局川村の結論も、満州の文学には見るべきものはあまりなく、満州の作家のレベルも、二流以下ということになる。それより、当時満州で少年時代を送り、敗戦、満州崩壊を体験した日本人小説家の戦後の作品に注目している。三木卓の「ほろびた国の旅」、赤木由子の「柳のわたとぶ国」などは、Morris.も読んだ覚えがある。
日本人以外の各民族の作家の作品については、ほとんど関心を持てないというか、著者自身も当時の翻訳(あるいは日本語で書かれたもの)でしか読めないだけに、一種の資料としての価値しか認められない。

「満州」や「満州国」に関する歴史学的、政治学的、経済学的、社会学的研究は近年とみに発展している。だが、文化研究、文学研究についてはは、いくらかの基本的資料の復刻が目立つ程度ではかばかしく進展しているとはいえない。そうした研究の手薄さを少しでも補い、しかも文芸批評としても成立するような本を目指したが、その成否は読者の皆様の判断に委ねたい。


とあとがきにあるが、残念ながら、あまり高い評価ができかねるようだ。そして、その原因は著者の側ばかりにあるわけでも無いようで、そのまずしさこそが、満州という国の空ろさを表わしているといえるのかもしれない


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【北朝鮮「楽園」の残骸】マイク・ブラツケ 川口マーン恵美訳 ★★★ 「ある東独青年が見た真実」という副題がある。1973年東独生れの著者が、99年から2003年にかけてNGO援助活動で北朝鮮に入り、その時撮影した写真と、回想を綴ったものである。
16歳で東西の壁の崩壊を体験した著者だけに、共産圏社会を追体験して懐かしさを感じたりもしているが、おおむね、北朝鮮の特異的独裁体制と貧しい庶民の暮しへの批判的態度が伺われる。
しかし、Morris.は、文章より写真(それもほんの一部)にのみ関心を覚えた。これらの写真も、すんなり持ち出せたわけではなかったらしく、生の北朝鮮を写したものとして貴重なものである。
枚数を稼いでいる、国威誇示のためのマスゲーム風景や、金父子の銅像、ポスターなどは、良く見かけるものなので、珍しくも無かったが、地方の病院や農作業、工事現場の写真には目を引かれたし、なんといっても、子供たちの姿には心をうたれてしまった。
Morris.が生きてる間に、彼の地へ赴くことはできるのだろうか?もちろん、今でも金を出せばおし着せのパック旅行はあるのだが、ああいう旅行はしたくもない。


05042

【社会派くんがゆく! 激動編】唐沢俊一×村崎百郎 ★★★ 唐沢は周知だが、村崎という人は初めて知った。紹介によると「鬼畜ライター」で、根本敬と「電波系」を共著したとある。ちょっとアブナい系であるらしい。
本書はWebマガジンで連載されている「社会派くんがゆく!リターンズ」の2002年分をまとめたものらしい。
鈴木宗男、ワールドカップ、タマちゃん、米のイラク攻撃準備、北朝鮮拉致被害者などがメインニュースである。
この手の作物は、鮮度が第一なので、こうやって2、3年あとくらいに読むといちばんタイミング外れになりがちなのだが、この二人の過激なやりとりは、それなりにMorris.には刺激的だった。
初っ端から、雪印食品牛肉偽造事件に関連して

村崎 オレ、うれしくてたまんないのがさ、また兵庫県でしょ? 去年の明石の将棋倒しや大阪の手錠女子中学生事件の時にさんざん言ってた「関西でヘンな事件が多発するのは、阪神大震災の時の貰い癖で住民の根性が腐ったから」って持論がまた的中しちゃった(笑)

という、神戸在住のMorris.に喧嘩売ってるのか、と思わせる発言である。そりゃないぞ、と反撥しながらも、心のどこかをチクリと刺されたような気分にもさせられてしまった(^^;)
どっちかと言うと、唐沢(ボケ)と村崎(ツッコミ)パターンで、唐沢の発言にはニヤリとさせられたりする部分が多いのだが、「鬼畜」を自認する村崎の発言はかなりヤバい。

われわれは社会時評をやってるフリをしながら、実は各種事件の被害者、加害者、遺族、警察、マスコミ報道関係者に一切の配慮&哀悼の意を表することなく、規制の倫理&道徳&社会常識&ヒューマニズムを完全に無視して、善悪の悲願を超えたはるか彼方の暗黒領域から、真にふざけきった現実的無立場で、論理もクソもない手前勝手な意見やたわごとを好き放題に語り合っているだけである

という村崎のあとがきのとおりである。
ネットで展開されるということで、2ちゃんねる掲示板ののりに似たものがあるし、本文中でも2ちゃんねるを意識してるが、こういったやりとりはROMに徹するに限る(^^;)


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【アリスの日】三上洸 ★★☆☆ 少女娼婦?アリスと、借金から組織の下働きになった男の逃避行といった趣のストーリーである。ヒロインの描写はいかにもロリータ心をくすぐるようにしつこく、それ風に書かれているが、主人公の男性は、自閉症気味で精神安定剤中毒で、投げやりで、体力も知力もそれほどないくせに、アリスへの「純愛」ぶりは異常で、体力も知力もあまりなさそうなくせに、身体的打撃にはおそろしくタフだし、相手のことを思いやって、別れたはずの元恋人宅にアリスといっしょに転がりこみ、結局は彼女を犠牲にしてしまう。散々追いかけられ、捕まり、痛めつけられながら、彼とアリスは生き残るというあんまりなご都合主義だった


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【魔法探偵】南條竹則 ★★★☆☆ サントリーファンタジー受賞のデビュー作「酒仙」がすごく良くて、彼の作品を読みつづけてきた。しかしリラダンの新解釈といった風情の「虚空の花」以外は、どれもいまいち物足りなかった。
本書はひさしぶりにデビュー作に通じる雰囲気で、一気に読まされてしまった。作者の分身ともいえる、詩人で迷い猫探し探偵が、幽界の友人?の助けも借りて、不思議な探し物をする13話の連作短編である。主人公の秘書役になる骨から甦った美少女と、脱サラ離婚して居候になる友人とのデコボコトリオの掛け合いもそれなりに楽しませてくれるが、作者自身のディレッタンティズムが本書の眼目と言うことができるだろう。
英文学者で、漢詩にも造詣が深いだけに、ここ彼処に詩や文学の薀蓄が披露されるし、それ以外にもストーリーとは無関係の著者の随想めいたおしゃべりも多く、これは夏目漱石の「我輩は猫である」に通じるものがある。いやはじめから、
そういえば、先日名古屋に行ったとき食堂で「中日新聞」を見たら、漱石の「猫」が連載されていた。はじめは漱石に関するコラムみたいなものかと思ったのだが、読んでみると漱石の原文そのもので、末尾に現代人にはわかり難い単語の解説が付してある。たしかにすでに明治文学は注釈なしでは読めない世代が多くなっている。だからこういった試みは意味のないことではないと思う。

A little while and night shall come,
A little while, then, let us dream.

しばしのち 夜は来らむ
しばしの間 されば夢見む

我輩は近頃、よくこんなふうに些細なきっかけから、記憶の函がポッカリと開くことがある。これは老化現象だろうか? 心の病だろうか? 思い出が次から次と脳裏をめぐり、この天地に身の置きどころもなくなる苦しさ。"現在"をおしのける、かえらぬ日々--懺悔の情!
ああ、人はどうして思い出すのであろう! それは天地が思い出すからか? しかし、天に情があるなら、天もまた老い、鬢に霜をおいてもよさそうなものを、蒼天は何故にいつまでも青いか!

記憶とは、一つの謎だ。なぜなら、それは"我々"自身だからだ。
我々の魂は記憶である。記憶がないところに反省作用はなく、自我もない。
されば、記憶こそ宇宙の本体。そして記憶だけが、我々が墓まで持って行かれるものだ。我々は老いて肉体の健康も、覇気も、情熱も失う。友は死に絶える。古い思い出の場所は消えてゆく。過去は幻よりもはかない。どこにもない。記憶の中以外には--
"過去"は、"現在"の未来の姿だ。してみると、"現在"だって、とどのつまり幻ということになる。記憶だけが実在する。そして、それは我々の脳の一器官に宿っている。その器官には大権を揮う役人がいて、現在と過去の間に越えられぬ関をつくり、我々を現在に閉じ込める。しかし、彼の機能も絶対ではない。眠ればその力は弱まり、壁は崩れる。人生の終わりに脳が衰えてくれば、壁はやはり崩れるだろう。その時、過去と現在のけじめはない。かくして過去が最終的に現在に還るとすれば、それは今も--いつでも現在なのだ。なつかしい、死せる人が目の前にあらわれて、昔と同じ笑顔で笑うのを、我々は現実と認めたってかまわないのだ。
だがそれなら、生者の巷に齷齪している我々は一体、何だ?


哲学的考察というより、観念遊戯に近い。そしてこれはやはり漱石の「猫」に酷似している。本書は、ストーリーは二の次で寄り道を楽しんでいるようで、それはそれでMorris.を楽しませてくれたのだが、主人公と霊界の少女との物語の続編も読みたいと思う。
最終話が70年の大阪万博の再現で、時間に間に合わないと現在に戻れないと言う設定だったから、Morris.はきっと二人が遅れてしまい、少年少女の二人が、70年からまた新たな人生をやり直すことになるのではないかと予想してたが、作者の方が一枚上手で、うまくかわされてしまった。
いまどきめったにいない、良質のファンタジー作家だから、これからもこのての作を連作して、Morris.を楽しませてもらいたい。


05039

【女たちの海峡】笹倉明 ★★★☆ 30年前に生まれたばかりで別れた父が韓国に生きていると知らされて、当地に赴く未婚の母子と恋人。不案内な異国で父の前妻、義理の兄との巡り会い、父の悲惨な過去と複雑な事情が少しずつ明らかになり、主人公の意識も旅の前後では大きく変化する。ストーリーとしてはあまり山のないものだが、90年発表作品で旅の時期が86年の韓国ということで、Morris.にとっては未知の韓国を追体験しているようで興味深かった。
88年から韓国にはまったMorris.だが、この作品も作者も全く視野に入っていなかった。この時期にこれだけしっかりした韓国事情を小説に描いたものは珍しいと言えるかもしれない。当然著者は韓国の取材というか、旅行はしっかりすましているはずだ。たとえば「恨(ハン)」に付いて主人公の彼が述べる説明も堂に入ってる。

それはこの国の民衆史を語るとき、見逃すことのできない重要な情緒もしくは情念のことだという。いわば、耐え忍ぶという精神の状態をいい、たとえば農民は地主からの重税と搾取に、女性は地位の低さに耐えながら、いつかそこから解き放たれる日を願った。恨(ハン)を晴らすことはしかし、大変むずかしいことで、歴史的事件としては、李朝末期に起こった[東学党の乱]という農民の反乱など、ごく少数であるといわれている。
つまり、この国の民衆は、国家的な抑圧と日本の侵略にいかに苦しんできたか、その悲哀に満ちた歴史を表わしているというのだった。
「一方、女性に関する恨というのは、儒教精神に基づいた封建的な因習に耐え続ける心の状態をいうんだ」
彼は、ゆっくりと酒を口に運びながら続けた。「たとえば、こんな話がある。女は、親の決めた年下の男と結婚させられるのがふつうで、十二、三歳のころに七つ八つ年下の、それこそ子守りをして育てなきゃならないようなのと一緒にさせられることは、ざらにあったそうだ。自分が年頃になっても、相手はまだ子供だ。他にいい男がいても、こころを移すわけにはいかない。我慢する。やっと相手の男が二十歳くらいになると、自分はもう年増になっている。男が浮気をして、よそに女を作っても、耐え忍ばないといけない。嫁にいくと、台所でメシが食えない。竈のそばで、残り物をこっそりと食べる。あれこれとしきたりがあって、一つでも欠けると叱られる。そうやって我慢に我慢を重ねて生きていると、当然、心に積もりくるものがある。それを恨というんだ」
「女性の場合のそれは、どうやって晴らせばいいの」
「それがまたむずかしいことらしいよ」
と、彼は手酌をしながら、「たとえば、そうやって抑圧に耐えながら子供を育てて、その子供が非常に立派な人物になったとする。そのときやっと、恨が晴れるというようなことがいわれるけれども、実際は簡単じゃない」


「恨」に関してはMorris.も一時関心があって色々本を読んだり人に聞いたりしたものだが、このくらいわかりやすくしかも正鵠を射る説明はなかなか見当たらなかった。十五年前の作だけに驚いてしまった。


05038

【歌い屋たち】なぎら健壱 ★★★ 自伝的というか、彼の青春時代を舞台にしたモデル小説である。なぎらといえば、今やフォーク歌手というより、テレビのコメンテーター、下町評論家、みたいな観が強いが、フォークおたくともいえるくらいに、日本のフォークへの造詣は深い。「日本フォーク私的大全」なんか、レファレンスブックとしてMorris.も所蔵してるくらいのものである。
本書でも、彼のフォーク観みたいなものが随所に出て来てそれが見所のひとつと言えるだろう。

「あの頃は面白かったな〜」
「えっ?」
「いや、<春一番>の頃は面白かったですよね。みんな燃えていましたもの。フォークがフォークらしかった最後の時代ですよ。わたしはあの時代の音楽が一番面白かったと思いますよ。若者が手作りの音楽を始めて、それが若者の間に根付いて。これからもっと面白くなるぞって思っていたら、すぐにニュー・ミュージックなんて、わけのわからないものが流行り始めてしまって、やがてみんな歌謡曲みたいになってしまいましたもの。つまらなくなっちゃいましたよね」
マスターは相当おしゃべり好きなのか、初対面のわたしに屈託のない笑顔で饒舌に語る。
「なんだかみんな明日のことより、今日を楽しく生きようってそんな時代でしたよね。金はなかったけれど楽しかった……。責任感がないから、好き勝手にやってましたもの」
「そうかもしれませんね。社会的には混沌としていた時代かもしれませんが、面白い時代だったことは確かですよ」
「そうですよね。この店に来る若い者にそうした話をしても、みんなわからないんですよ。もっとも、若い連中に70年代を語ること自体。歳を取ってしまった証拠ですかね」


上のマスターの意見が一般的な見解なんだろうが、なぎらをモデルにした主人公はいちおう肯いながら、もう少し遠くのほうを見詰めているようだ。Morris.はなぎらとほとんど同時代を生きてるのだが、フォークにはあまり馴染めないままだったが、春待ちとのつきあいで、昔のフォークの一部に心惹かれるようになった。とはいうものの、これは一種のノスタルジーのようなものかもしれない。


05037

【美空ひばり--時代を歌う】大下英治 ★★★☆ 昭和から平成の変わり目に「週刊新潮」に連載され、単行本は平成元年7月発行である。ひばりの死は平成元年6月24日だから、まるで彼女の死を前提に書かれたものとさえ思えるタイミングである。
生前のひばりへは無関心に近かった。もちろん日本の一時代を代表する顔だったから無知ではなかったが、基本的に日本の歌謡曲にはそっぽを向いた青春を送ってきた。そして今になってそれを残念に思っている。今更ながらこの伝記本を読んで、ひばりの才能と不幸の尋常でなさ加減に驚くというより、納得してしまった。
デビュー当時の酷評、山口組との因縁、一卵性双生母娘と言われるほどの絆、揃いも揃ってクズな弟たち、浮気性の父、初めから破局の見えていた旭との結婚、塩酸をかけるファン、食い物にしようとする人々の群、業病との戦い-----まさにあんまり、である。
川田晴久とのアメリカ行きについては以前別の本で興味深く読んだが、彼がもう少し健康で長生きしたら、ひばりの人生も違ったかもしれない。
著者はあたう限りの資料を集め、500人近い関係者にインタビューしたらしい、かなりの労作である。同時代の歌手や、俳優、関係者の記事だけでも読みでがある。
ひばりの育ての親ともういうべき福島通人が、第二のひばりとして売り出そうとして失敗した「浪花けい子」こそ、後に「アカシアの雨がやむとき」の西田佐知子だったというエピソードは特に印象深かった。
山口組との関わりや、関係者への配慮もあったろうが、それなりに思い切って突っ込んだ取材がなされていると思う。ただ巷間で根強く囁かれているひばりの国籍問題には一切触れられていないのが、心残りでもあった。


05036

【トリビュート特集  ナンシー関】★★★ 河出書房の文藝別冊である。ナンシーの早世についてはすでに多くの人が語っているが、生前親しかった人々の追悼文と、ナンシーとの対談、思い出話などなどである。彼女の得意分野がTV番組とタレント、スポーツ選手などの動向だったから、1年もしたら読めたものでなさそうなのに、そうでもないのは、何といってもあの消しゴム版画のおかげである。ナンシー死んで版画は残る、わけだが、やっぱりもっと長生きして欲しかった一人である。


05035

【ナンシー関 激コラム 世情編】★★★ これもまたナンシーの寄せ集めである。この他にTV関連2冊とあわせての三部作ということになるらしい。本書には彼女の初期の作品「けしごむ歳時記」が載ってるのが値打ちかな。しかし、こうやって彼女の残滓を眺めてうじうじするのは、健康に良くないかもしれない。しばらくこのての本は手に取らないようにしよう。


05034

【写説 坂の上の雲】谷沢永一 太平洋戦争研究会 ★★☆☆ 司馬遼太郎の長編小説『坂の上の雲』を、当時の写真を多用して解説したグラフィック本で、当然日露戦争の記事が大部分を占めている。
「太平洋戦争研究会」という名称からしてキナ臭いが、内容的にも戦争オタク向けではないかと思えそうな雰囲気だった。執筆者として谷沢の名が挙げられている。彼が司馬作品の賛仰者だということは良く知られているし、やや右よりとは言いながら、それなりにしっかりした視点を持っている論客として、Morris.もそれなりに評価していたのだが、本書の文章は、とても彼の筆によるものとは思われないくらい、雑で、無責任な放言が多い。文章自体が変で、どうも、これは彼が話したことを、第三者が適当にリライトしたのではないかと思われる。誤植も多く、谷沢当人が知る知らぬに関わらず、こういう本に名前を出すというのは恥だと思う。とくに朝鮮への偏見に満ちた言及はひどすぎる。「新しい歴史教科書」がまたまた韓国で批判の槍玉に挙げられているが、本書に比べるとたいしたことは無いようにすら思われてくる。

日清戦争も日露戦争も、その原因はすべて朝鮮半島にある。朝鮮人の根性にある。朝鮮人の事大主義にある。自力で独立をかちとり独立を貫こうとしない負け犬のへたりこみにある。

朝鮮は要路(重要な地位いや権力をもつ人)の者が時勢にうとかったとしても、日清戦争が終わって清の軍隊が去った時点で、今こそ独立のチャンスであったにもかかわらず、また嬉嬉としてロシア軍をむかえに走る。おまえら、キンタマ、あるのか。我が国は泣く泣く乏しい国力をあげて、血の出る思いで日露戦争の準備をしなければならなかった。

日本を尻目にかけてロシアに付いたところには朝鮮人の日本に対する腹の底からの嫌悪感が、しみじみと実感されるではないだろうか。覚えておくべきことである。

清国における軍閥の巨頭、袁世凱が、大軍を擁して朝鮮半島の京城に駐留している。有史以来、朝鮮半島に独立国家ができたことはない。この当時の主権は李王朝である。支邦の皇帝から朝鮮の王であることを認可され、代替わりごとに認可更新を受け、支邦の年号を用いている。型通りの属国である。これではいつ日本が侵されるかわからない。朝鮮半島は日本の生命線である。


こういった、駄文に等しい谷沢名義のコラムはともかく、本書の記事自体はそれなりに、当時の社会状況や欧州、ロシア、アメリカの情勢分析や、戦争の動向などについてわかりやすく解説してあって、悪いところばかりではなかった。
奉天会戦や日本海海戦での日本の勝利も、かなりの幸運と、ロシアの自滅的作戦の拙さにあったことなどが、よくわかる仕組みになってるし、その後の日本軍部の驕りと、戦争は儲かるものという考え方が、太平洋戦争へとつながったというのも、わかりやすかった。


05033

【さくらん】安野モヨコ ★★★★ 先日センターの古本市で百円で手に入れたものだが、いやあこれは値打ちモノだった。
今をときめく少女漫画家が花魁を主人公にした作品を描くというのも大胆だが、ヒロインの絵柄からしてなんとも斬新である。東北から買われてきた意地っ張りの少女が、禿時代から花魁になるまでの間のエピソード13話が収められている。「イブニング」に連載されたものだが、舞台設定上からも、かなり際どい濡れ場シーンあり、それでも嫌らしさは感じさせないところはさすがというか、玉に瑕といおうか(^^;) 吉原の風俗や衣装、小物までなかなか良く勉強しているし、なんと言ってもキャラが立ってるのは、気持良いくらいである。
もちろん江戸時代の吉原というのはあくまで舞台で、作品はあくまでモヨコモード、女性の顔はそのまま今のギャル顔だ。数ヶ所ある色刷りの扉絵では、CGを利用したとおぼしい、小細工が効いている。特に7話の藍と灰色をずらし刷り風に彩色した駒絵なんか、とんでもなく綺麗だ。
ヒロインを水揚げする粋人のご隠居が出てくるのだが、このキャラはあまりにも酷いと思う。だいたいが少女漫画家の描く爺さんは異物になりがちだ。
第5話にだけしか登場しない(というか、死んでしまう)、別店のお染ちゃんというのが、えらく可愛くてMorris.好みだった。


05032

【いつも鳥が飛んでいる】ぱくきょんみ ★★☆☆ 詩や絵本、そして根っこである韓国のポジャギや舞踊、伽耶琴などについてのコラムやエッセイを集めたもの。
ガートルード・スタインの詩集の翻訳で彼女の名前を知ったのだが、先般読んだオリジナル詩集も本書も、Morris.の好みとは違うようだ。
あるエッセイの末尾にあげられている彼女の読書遍歴風の好きな作家一覧を見ると、驚くほどMorris.の好みと一致してるのになあ(^^;)
石垣りん、山之口貘、富岡多恵子、ガートルード・スタイン、金関寿夫、長璋吉、李箱、フローベール、幸田文、石井桃子、金史良、エミリー・ディキンスン、高野文子。
嗜好が一致するからといって、相性がいいとはいえないということだろうか。
前に詩集を手にとったのは表紙の千代紙めいた装釘に心引かれたからだが、本書の表紙の雀模様の日本の着物の端布を取り込んだポジャギ(チョガッポ)もなかなか素敵だった。


05031

【韓国鉄道の旅】中島廣・山田俊英 ★★☆☆ 「KTXで拓く新しい韓国の旅」と副題にあるとおり、昨年開通した韓国の新幹線KTXを中心に韓国の鉄道や列車、駅舎、周辺の名所旧跡などを紹介したガイド本である。いわゆる鉄道マニア向けの本といえるだろう。Morris.は鉄ちゃんの気はほとんどないから、ぱらぱらと見ておしまいにすることにした。それでも、前回ソウル新村駅から都羅山まで出てDMZ観光しながら、デジカメ盗難にあって画像が残っていなかった京義線の写真などを見るとちょっと胸キュンとなったりした。
しかし、Morris.が本書で注目したのは、付録みたいに掲載されていた「韓国に残る日本時代の建築」の中にあった「ウンヒョングン洋館」である。これは去年の2月の韓国旅行の最終日にウンヒョングンを訪れたときすごく気になってた洋館だった。

興宣大院君の私邸として知られるウンヒョングンの母屋である老楽堂の真裏に、フランスルネッサンス様式の見事な木造2階建て洋館が建っている。この洋館は日韓併合で李王家一族が皇族に編入されて間もなく大院君の孫で高宗の孫に当たるイジュン公に日本側が贈った屋敷で「李剏邸宅」と呼ばれる。かつてのウンヒョン宮の建物ながら、この建物のみ徳成女子大学平生教育院の所有物で一般公開されていないのが惜しまれる……

と説明があり、白黒ながら正面からの写真が掲載されていた。Morris.が見学を頼んで、にべもなく断られたのだが、何となくその理由もわかったような気になった。


05030

【ムジカ・マキーナ】高野史緒 ★★★★ 19世紀ヨーロッパを舞台にした音楽の究極を追求するファンタジー物語である。ファンタジーこそ、細部の描写と構成がしっかりしてなくてはならないというのがMorris.の持論だが、本書はそれをほぼ完璧に満足させてくれた。クラシック音楽オタクらしい作者の細部を穿つ音楽分析と、この時代にありうべからぬシュールリアリスティックな音楽製造装置とそれに携わる天才音楽家、そして極めつけの音楽麻薬、さらにこれまた超人的権謀術数の遣い手たち。あの異常な傑作リラダンの「未来のイヴ」の再来と言えるかもしれない。
これだけ小説の世界を堪能させてくれる作品に出あったのは本当に久しぶりである。
実存する音楽家、たとえばブルックナーをも重要な脇役として登場させたり、1世紀以上後のパンクやらメタルやらプログレ音楽とDJミュージックシーンを象嵌したりと、読者の目を眩ませる仕掛けも多く、ストーリー展開もたるみなく、最後まできっちりメリハリつけたフィナーレで飾るあたりも凡百の音楽ファンタジー作品とは一線を画している。おまけにその文章も緩みのない硬質な文体でありながら、ちゃんと遊びも個々彼処に用意されている、と、Morris.には珍しいベタ誉め感想になってしまった。

「だろうな。ホワイト・チャペルからライム・ハウスあたりにたまってる連中ってのは、いわゆるポスト産業革命ヘヴィ・メタルだ。そいつらは[クリムゾン大王]亭だとか[真紅のツェッペリン伯爵]亭だとかの伝説的パブ、[薔薇と拳銃]亭、[生きた屍]亭、[巨万の死]亭……まあ、そんなとこでアコースティックなプレイをするのが普通だが、そういう奴らでもアンプでの増幅は当たり前だし、時にはドラム・マシーンを使う奴らもいる。メタル連中はお前さんも知ってるだろう?」

主人公の一人ウイーンの天才音楽家がロンドンの音楽機械によるホールでのDJとして他のDJと交わす会話だが、パロディとして笑える。

「僕は最近思うね。人間の音楽に対する理想は二つあると。一つは僕がいつも言っているやつだ。自分自身の理想の音楽をそのままの形で存在させること。そしてもう一つは、何処でも好きなところで好きな音楽を聴くことだ。演奏とは関係のないところに音楽を存在させることだ。家にいようが、山奥の小屋にいようが、大西洋を渡る船の上だろうが……とにかく、ありとあらゆる場所で、何をしていようともだ。熱にうなされて自分の狭い寝室のベッドに横たわったまま、何十人もの歌い手やオーケストラを必要とするあのレクイエムを好きなだけ聴くことだ。それは言わば、音楽を蓄えておいて別な場所で放出する術だ」

オーディオマニアが読んだら、大喜びしそうな個所であるな。
作者はあとがきで、「セックスより強烈な快楽は存在するか?」という設問を掲げ、その解答が「音楽」だという意見にくみしながらこの作品を構想したらしい。本書のテーマのひとつは、現代の音楽シーンをほとんど牛耳ってるともいえる、音楽の機械化、コンピュータミュージック、への警鐘なのかもしれない。
単に最近のコンピュータ音楽に留まらず、バッハ、モーツアルト時代の平均律の発明、パイプオルガン、各種の楽器の発明発展そのものに音楽の機械化傾向を見るという、実に鋭い視点がある。
音楽小説のポイントは、小説の中では読者が音楽を想像することしかできないことである。だからこそ作者は思い切り空想の羽を伸ばせるのかもしれない。


05029

【銀弾の森 禿鷹V】逢坂剛 ★★★ 超人的悪玉警官禿鷹シリーズの3作目で、新宿の対立するヤクザ組織と南米マフィアのごたごたを禿鷹が演出して相変わらずのとんでもないゴリ押しやりたい放題するのだが、本作では、ヤクザ若頭の妻とのからみが大きな柱になってて、最後に禿鷹が彼女に突き落とされて貨物列車に左手を切断され、警察病院で繋ぎ直すという荒技まで飛び出してMorris.の度肝を抜いた。
それにしても、これまでにこれほどのワル警官主人公というのは小説の上でも見たことがない。ピカレスク小説でも、たいてい主人公には可愛げなり、人間的な弱さなり、真摯さなりがありがちなのだが、この禿鷹ときたらまるでそんな気配なしで、仁義も人間性もあったもんじゃない。それでもとりあえず最後まで読ませるというのは、作者の手腕というべきなんだろう。正直言ってどこが面白いのかよくわからないままについつい読まされてしまってるというところだ。果たして第4作があるのかどうか、ちょっぴり気になる作品でもある(^^;)


05028

【秋に墓標を】大沢在昌 ★★★ 前から大沢は女が描けないということは思ってたが、本書もかなりひどかった。以前六本木で洒落た店を経営して、廃業して漫画原作者になり、勝浦で仕事と釣りを両立させてる中年男が、謎の女性に一目惚れして、姿をくらました彼女を追い、国際的事件に巻き込まれて行くという、いかにも漫画チックな展開である。Morris.は、主人公の説明的な女性讃美と、あまりのひとりよがりさに呆れるを通り越して、何度も大笑いしてしまった。彼女との初対面の場面での杓子定規な描写ぶり見本を。

声が聞こえた。ふりあおぐと、一瞬息を呑んだ。それほどきれいな女性だった。生身でこれほどの美人を見るのは、東京を離れて以来だろうと思った。
髪が長かった。腰の近くまである。肌は白く、それが初夏の陽ざしのせいでうっすらと赤らんでいる。ワンピースの下はストッキングに包まれた形のよい脚とサンダルだった。


過去の相棒だった混血の男との交友ぶりなどはなかなか上手く描けているだけに、やっぱり大沢は女性アレルギーみたいなところがあるのだろう。Morris.が彼の作品をついつい読んでしまうのは「新宿鮫」シリーズが好きだったからというのが一番の理由だが、いかにも作り話めいていて、そこがまた疲れずに時間つぶしさせてくれるというところも、ある種の魅力といえるのかも知れない。本書も400pを超す長さを、一気に読ませてくれる程度の面白さはあったわけだから、それ以上いちゃもんつけることもないのだろう。ただ今回借りてきた本は371〜382pが欠落していて、ちょっとだけ興を殺がれた。でも、筋を追う分には大して障害にはならなかった。
脇役にモリスと言う名の禿のCIA諜報員が登場したのには笑わされてしまった。いかにも陽気なアメリカ人という設定だった。

「陽気でいい奴だと思っていた」ハゲ、ハゲ!と自分の頭をさして叫ぶ、大柄な白人の姿しか思い出せない。
「この世界じゃ、陽気にふるまえない奴は出世しない。いつもにこにこしてる奴こそ、一番危ないんだ」

日本製ハードボイルドという奴は野球以上に彼我の差が甚だしいと思う。


05027

【ごくらくちんみ】杉浦日向子 ★★★☆☆ 「小説新潮」に5年半に渡って連載されたイラストコラムである。くさや、から、馬のたてがみにいたる68篇が収められている。珍味としてポピュラーな、からすみ、うるか、じゅんさい、あんきも、名前も知らない珍味、ゲテ物などそれぞれの紹介にとどまらず、ちょっとしたショートストーリー仕立てあり、しつこくない薀蓄あり、筆者の飲みっぷりを伺わせる描写ありと、原稿用紙3,4枚の文章もそれ自体珍味といえそうな、小あじの効いたものばかりである。
そして当然彼女自身のイラストが付されているところが何といっても本書の魅力の最たるものだろう。彼女の漫画を偏愛していた一人として、今やこういった挿絵を見ることで少しでもその渇を癒すしかない。
「さなぎ」なんてのは、もろMorris.の韓国での天敵的食い物「ポンテギ」であるし、さまざま「虫の味」というコラムの最後の一文などは、なかなか女性でこうしらっと書ける人は少ないと思う。

ぎざ虫は清流にしか棲まない。噛み締めると、ほんのりしたホロ苦さとともに、清涼感が広がる貴重な逸品。蝗は歯当たり良く癖がなく、なんぼでもいける。蜂の子は絶品。昭和天皇の晩年、食欲が落ちた時、蜂の子飯だけは召し上がったという。いずれも虫中の高級珍味だ。
もっと、簡易に大量飼育できるのに、チャバネゴキブリ、ゴミムシダマシ、ラセンウジバエ等があるが、飼料を管理すれば、衛生面で、なんら不都合はない。虫はうまい。


海鼠のはらわたであるこのわたをホヤを加えた酒肴「ばくらい」なんてのは、名前は知らないながら、一度味わってみたいものの一つだったが、この項の始めに江戸落語の枕よろしく、珍味の定義づけがなされている。

「そもそも珍味たあ何ぞや」
「そもそも? よせやい、そもそも、なんざ気障ったらしい」
「たあいえ、ぜんたいこんたびぁ、この趣向自体がきめうだ」
「酒肴が乙ってこったろ」
「いよいよ二十一世紀か」
「おきゃがれ。それがどうした
「どうもしやしなけれど、おだやかならぬ珍味を礼賛して」
「ナニサ、おだやかならねばこそ珍味で、おだやかなら常味だ」
「どこぞの辞書じゃ『めずらしい、味のよい食物』と、十二文字でかたづけてるぞ。いけぞんざいな。珍味は旨い食いもんたあかぎらねえ。むしろ奇妙で異常な味だろう」
「うさあねえ。まんいち山盛り丼でかっこむ珍味はねぇな」
「まず、ぜひになくとも一向に差し支えない余技の産物だ。腹の足しにならねえところが値打ちさ」
「世の中に絶えて珍味の無かりせば呑み助の心のどけからまし」

氷頭なますと、鮭の皮の珍味を併せて「ほねとかわ」と題した項ではおしまいに、彼女の達観的人生観までが披露されている。

たいしたことない。裕福に暮らそうが、倹しく暮らそうが、長生きしようが、短命だろうが。たいしたことない。祖父は、自分自身の人生をたいしたことなかった、と言ったのではなく、三途の川が、ちょろっとした一跨ぎの景色だったのではなかったか、今になって思う。
世界中で、生れては死んで、死んでは生れる。日常茶飯。殺したり殺されたりは番外だろうが、生れた限り死は約束。たいしたことない。たいしたことがあるはずない。
生きてる今が、与えられた現実のすべて。解ったつもりでも、死は誰にとっても初体験なのだから、その瞬間は怖い。なにせ、その後が解らない。ともあれ、とりあえず生きている。骨と皮の間に命がある。たいしたことない、唯一の命が。


Morris.が初めて知ったもので、一度味わってみたいと思った珍味を羅列しておこう。

・うばい(烏梅) 熟して自然落下した梅の実に煤をまぶして燻し、天日で干す
・このこ なまこの真子と白子を乾燥させたもの
・いぬごろし まぐろの尾ひれ
・ゆべし(柚餅子) 柚子を刳り貫き餅米粉、味噌などを入れて蒸したもの
・ジコイカ ミミイカの地方名


あまりあてはまるものがないな(^^;)
この際Morris.の好きな珍味をあげておこうと思ったが、歌集『嗜好朔語』を見てもらう方が早いということでパス(^^;)


050026

【在日を生きる思想 『セヌリ』対談集】朴鉄民編 ★★★☆ 93年から2002年までに雑誌『セヌリ』に掲載された対談の中から12篇を選んでまとめたものである。
朴慶植&宮田節子、李恢成、小田実、金石範&金時鐘、金奎一、梁石日、十四代沈壽官、金芝河、金敬得、金容雲&鄭煥麒、姜尚中、前田憲二
名前だけなら8割くらい知ってるが、興味があったのは、金時鐘、姜尚中、くらいだった。しかし金石範と金時鐘の対談は別書で読んだものとほとんど同じ内容だった。こういった寄せ集めだけに、質的にも内容的にもムラがあるし、「ハングル語」なんてのが平気で使われているのも何だかなであるが、もちろん有意義な意見や、共感覚える発言も多かった。

姜尚中 戦争で負けたということが、すべてアメリカという問題に還元されました。本来、日本が敗戦を迎えたときに朝鮮半島でもいろいろな動きがあり、中国でもありました。こういうものが集積されながら、最終的には日本の戦後処理に朝鮮半島と中国はほとんど発言権を持ちえなかった。二つの国が分断され、両方とも南北にわかれた(北朝鮮/韓国、中国/台湾)。結局、敗戦処理は全部、アメリカが中心として行ったのです。よって、日本はアジアとの関係における戦後処理をやらなくてすんでしまった。これをある人は「消失のメカニズム」と呼んでいます。それで、アメリカとの関係だけがすべてになってしまったのです。

朴鉄民 だとすれば、地域差別はいつから生れたのですか
金容雲 地域差別を政策的に利用したのは朴正熙政権のときで、KCIAが軍事独裁の基盤とするためにつくったと記録に残っています。中央日報の『青瓦台秘書室』という本がそれです。民主主義は望ましいもので、選挙を基礎とするそれを逆利用し、地域感情を煽ったのです。
鄭煥麒 李承晩の本貫は全羅道の「全州金氏」。私の家内の故郷は慶南だが、本貫は全羅道の「綾州具氏」です両班地域差別とはほとんど関係がない。それよりも問題は族譜です。
金容雲 皮肉なことに、全国に家系譜が流行った時期は植民地時代と一致しています。日本は朝鮮半島を植民地化し、いわゆる近代的な法律制度を持ってきました。そのため両班・常民制度の区別ができなくなった。昔は常民には族譜がありませんでした。族譜を持っているのは両班だけで、両班はそれで威張っていたんです。ところが日本が植民地にし、近代の法律を持ってきたから、だれが族譜をつくろうがかまわなくなった。お金が少しあれば、みんなつくってしまった。家門の田んぼがあれば先祖の祭祀ができるよう、村ごとに祭閣をつくれるようになりました。昔は常民にはできなかったが、法律上やっていいことになった。だからみんない家門田を持って、世居地化し、族譜をつくりました。すなわち、どの家門も形式に関しては両班になったのです。
いま、韓国族譜のない家庭はほとんどありません。韓国人に「お前の家は常民か」と言えば、だれでも怒りだす。常民はひとりもいない。みんな両班です。
この政策は日本の植民地支配を非常に成功させました。というのは、何かあれば朝鮮人同士で争う絶好の種をまいたからです。伝統や正当性よりも、大きいことをいうやつが両班になる。とくにお金がある人は何でもつくれるから両班になった。朝鮮独立運動が挫折した大きな原因の一つは、朝鮮人同士の争いです。独立闘争のなかで独立軍の指導者金佐鎮や、解放後、金九も同じ朝鮮人が殺した。満州でも独立運動家同士が、争って、殺し合った。朝鮮人同士を対立させて統治するのが、日本植民地政策のやりかただったんです。「分割して統治せよ」(Divide and rule)、文字通り分割統治でした。


おしまいの前田憲二という映画監督は以前「恨・芸能曼荼羅」という映画を見たことがあるが、他の映画やTV作品も見てみたくなった。


05025

【降臨の群れ】船戸与一 ★★★☆☆ ひさびさに彼の本領発揮の作品に巡り会えた。インドネシア東部のアンボン島を舞台にしたイスラム派とプロテスタント派の争い、それに軍部やCIAの情報機関が絡んだ国際事件小説になっているが、丹念な取材に裏打ちされた詳細な背景描写と、9.11テロ以降の同時代世界情勢分析を含む物語だけに、ドキュメンタリ的関心も喚起されながら一気に読みふけってしまった。
そもそもが世界情勢に疎いMorris.だけに、インドネシア国内でこういった争いがあること自体を知らなかったし、両派それぞれの主張や歴史的背景、心ならずも争いに巻き込まれる中年日本人の葛藤、太平洋戦争、それ以前にまでさかのぼるこの国の苦難の道を改めて思い知らされる気がした。
ただ、章ごとに行われる場面転換が煩雑なのと、登場人物の多さ+覚えにくい名前のため、ともすればドラマの筋がこんがらがって興を殺ぐところがあった。Morris.の記憶力不足によるところも多いのだろう。
政治と宗教、民族、それに金が絡んでのごたごただから解決にいたる道は無いだろうということは初めから予想される。それにしても、インドネシアのような多数の島からなる国家の存在自体がすでにして矛盾を孕んでいるということが良く分かった。同じ島国でも日本とはよほど事情が違ってるようだ。

本筋とは関係ないところで、船戸の本音が出てくるところがある。たとえば本書では端役に近い殺し屋の台詞

「グローバリズムってえのは何だかんだと言っても結局アメリカの世界制覇だ。金銭を持ってるやつが好き放題をするってことだ。その結果産みだされるのは大量の難民だよ。いまはイスラム圏の難民が多い。しかし、今後インドとパキスタンがどうなるかわからねねし、アフリカも北朝鮮も大量難民の産地となる。」

そして事件が一段落した後の日本人中年の独り言

想えば、これまでじぶんはぼんやりと生きつづけて来た。いやじぶんだけではないはずだ。ほとんどの日本人が狂おしいほどの情熱を傾ける対象を発見できずにだらだらと生きている。たぶん、父・征市の生きた時代はそうではなかった。今日性こそ問題なのだろう。個々の目標はきわめて私的でちっぽけだ。裏切りですらがちまちましている。それは現在の日本で生れた宿命だと思う。

このドラマでの船戸の視線はどこか虚無的である。絶対悪の化身として現れた男の捨て台詞にそれが集約されているようだ。

歴史が歴史のつけを支払わないかぎり、わたしのような人間はかならず現われる! それは二度や三度じゃない、永遠に現われると思って欲しい! そして、歴史のつけは絶対に支払われることはない!

充分に物語を楽しみながら、欲張りなことを言わせてもらえれば、やはりどこかに救いのある物語を提供して貰いたいと思うMorris.だった。


05024

【あさ/朝】谷川俊太郎/詩 吉村和敏/写真 ★★★☆ 「朝」をテーマとした12編の詩と、「あさ」という短文、それに多数のカラー写真で構成された一種の詩画集である。
Morris.ははじめ新作と思って読み、うーーむ、久しぶりにいい詩を書いてるなと思ったのだが、すべて過去の詩集の中からの抜粋で、古いものほど良いような感じがした。
それに本書は詩は縦書きで右開き、文は横書きで左開きだったのを、Morris.は詩の方からそのままおしまいまで読んで、ちょっとした違和感(逆回り)を感じてしまった(^^;)
写真は大部分がカナダのプリンスエドワード島の朝の風景で、これはまあ、文句なしに美しかった。
しかし、こういった取り合わせが、一種の安易さを思わせるのはいたしかたないだろう。

朝 谷川俊太郎

また朝が来てぼくは生きていた
夜の間の夢をすっかり忘れてぼくは見た
柿の木の裸の枝が風にゆれ
首輪のない犬が陽だまりに寝そべっている

百年前ぼくはここにいなかった
百年後ぼくはここにいないだろう
あたり前な所のようでいて
地上はきっと思いがけない場所なんだ

いつだったか子宮の中で
ぼくは小さな小さな卵だった
それから小さな小さな魚になって
それから小さな小さな鳥になって
それからやっとぼくは人間になった
十ヶ月を何千億年もかかって生きて
そんなこともぼくら復習しなきゃ
今まで予習ばっかりしすぎた

今朝一滴の水のすきとおった冷たさが
ぼくに人間とは何かを教える
魚たちと鳥たちとそして
ぼくを殺すかもしれぬけものとすら
その水をわかちあいたい
            (詩集『空に小鳥がいなくなった日』より)


谷川俊太郎はやはりこういったライトヴァースを書かせたら一流だな。TVで流れてる日生のCMを見てもそれがよくわかる。深みはないけどね。
「あさ」という短文は、書き下ろしだから、実はこれは最新の彼の詩ということになるかもしれない。

あさ 谷川俊太郎

だれよりもはやく めをさますのは
そら

おひさまのてがふれると
よるははずかしがって あかくなる

ゆめのくにへ かえっていく
ゆめのこどもたち

みんなまっている
いきをひそめて

ちきゅうがまわっている
ゆっくり とてもしずかに

はじめての おはようのまえの
かすかなものおと

あんなにとおいのに
こんなにちかい おひさま

ひかりが そっとはいってくる
ゆめでまいごになった
こころのなかへ

まぶしい まぶしい まぶしい
きょう はじめてのきょう

だれのものでもない ほうせきが
いっぱい

はっぱもくきも ねっこまでわらってる
ひかりにくすぐられて

もう とりたちはおきている
ありもおきている たぶんもぐらも

おわってしまうものは ひとつもない
すべてがはじまり

くさのかおり かぜのかおり
いのちのかおり

おはよううみ

おはようそら

おはようきょう


いやいや、こうやって写真抜きで、文字だけでまとめて読むと、また違ったイメージが広がって、これはこれでなかなかいい詩ではないか(^^;)
ところで、彼の苗字をMorris.はずっと「たにがわ」と発音していたが、本書の著者紹介には「たにかわ」となっていた。そうだったのか。「たにがわしゅんたろう」と「たにかわしゅんたろう」ではずいぶんと響きが違う。
先日も飛田さんの名前を飛騨と書いたり、韓国人俳優の名前の誤記も頻発してるようだ。これでは「唯名論者」の看板を降ろさなくてはならないかもしれないな(^^;)


05023

【ど制服】酒井順子 ★★ 小中高など学校の制服を始め、スチュワーデス、看護婦、作業衣、軍服などについての気ままなエッセイと、朝日新聞の記者(写真)との取材などをあわせたもので、新聞に連載されたものかと思ったが巻末には「書き下ろし」と書いてある。
彼女は観光ものなどでそれなりに面白いものを書いてたような記憶があったのだが、本書ははっきり言ってスカだった。
99年発行だから、やや時事ネタっぽい内容を含むこういったものが一番ずれて見える時期に読んだということもつまらなかった理由かもしれないが、とにかく突っ込みが足りない、取材が及び腰、文章にも切れがない、小学生の女子の制服姿について

すでに出るところは出ている大柄な女の子がいかにも子供っぽい制服を着ているのを見る時も、いたまれない気持になるものです。

といった視点しかもてないところで、すでに勝負あり(>_<)って感じだね。おまけに「いたまれない」なんてのは論外である。


05022

【謎とき・坊っちゃん】 石原豪人 ★★☆☆ 著者は挿絵画家である。美少年タイプを得意とし、後年は「さぶ」に変名で挿絵を書いてたというからホモへの関心が高かった(たぶん本人にもその気があったろう)らしい。
本書は著者が生前に残しておいた原稿と、インタビューの記録などを、編集者が一冊に纏め上げたものである。
主旨は坊っちゃんの登場人物のほとんどがホモで、坊っちゃんの行動全てがホモとしての愛欲によるものであるという、いわば「トンデモ本」に属するものと思う。
なんたってあの清がフケた女形あがりの男色家であり、坊っちゃんが一番好きだったのが赤シャツだったというだけでもおおよそのことは分かるだろう。もちろん赤シャツもホモ、その取り巻きである野ダイコもホモ、うらなり君も、山嵐までもホモという設定である。
赤シャツに関する部分を行変えを省略して引いておく。

赤シャツは、独身主義者なのか。いやいや。これには、もっと違う原因があるはずだ。赤シャツという、赤い発情した色--誘惑するカラーを臆面もなく着ているという事実。教師たる人物、しかも教師のなかの教師である教頭が、よりによって昼間から赤シャツを着ているなんて。よっぽど、なにかあるにちがいない。ホモなら、すぐにピンとくる。
「赤シャツって、私たちがよく着るやつじゃないの」「赤のシャツって、私はホモです、って言ってるようなものよ」「それに独身っていうんだから、これはもう教頭ったら、全校中に自分はホモですって言ってるようなものね」

おい、おい、ちょっと待てよ。Morris.の持ってるアロハの半分以上は赤系であるぞ。別にMorris.は世間にホモですって言ってるわけではない(>_<) ホモっけもないと思うのだが-----

野だいこへの言及はさらにエスカレートする。

いつの世でも、男も女もホモも、モテる人間のところに集まりたがるものだ。モテない男、モテない女、山嵐のようなモテないホモには、全く寄ってこない。しかし何ゆえに、画学教師・吉川先生=通称・野だいこが、これほどまでにホモたちにモテモテなのか、読者は不思議に思われるかもしれない。ここで、彼のホモ魅惑を、おさらいしてみようではないか。
これが男たちを虜にする野だいこの5大ホモ魅惑だ!
1.玉三郎風の細面が、ホモの保護本能をくすぐった
2.赤シャツの会話に、すぐ対応できるインテリジェンス
3.男たちをその気にさせるウィスパー・ボイス
4.駒下駄を履きこなす、粋な遊び人
5.うらなり君の送別会で、陰茎を惜しげもなく披露する、サービス精神


とにかく、こじつけと我田引水、強引な牽強付会で坊っちゃんをホモ小説だと決め付ける本書はパロディとしての面白さより、馬鹿馬鹿しさが勝っているようで、面白ければそれでいいと思うMorris.としても、ほとんど評価できなかった。
本書の編集者と石原氏の間に何となく妖しい関係を想像させるあたりが本書の醍醐味なのかもしれない(^^;)


05021

【写真術プロの裏ワザ 京都を撮る】水野克比古 ★★ 京都生まれで京都の風物専門写真家で、古い民家を買って自宅を「町家写真館」として公開してるという、京都べったりの写真家らしいが、「タイトルに偽りあり」という感を拭えない。簡単にいえば自分の得意分野の写真の羅列で、「プロの裏ワザ」というのは、200字にみたない囲み記事にすぎないし、その内容がこれまた、裏ワザというほどのものではない。

・[大判カメラの描写力]私が撮影に使うカメラは大判カメラが多い。35mmカメラに比べ、細密な描写ができるというだけでなく、シフト(レンズ面を平行に移動)などができるからだ。(一部省略)

こんな説明が何の役に立つんじゃあ(>_<)

・[月は望遠レンズで撮る]空に浮かぶ月はけっこう大きく見えるのに、写真に撮ると小さくなってしまう。作例の多重露光でも、通常の撮影でも、望遠レンズを使うといい。

これのどこが「プロの裏ワザ」なんじゃい。

・[レンズの解像力をアップする三脚]レンズは通常、絞り込むほど解像力が増す。細密に描写したければf16やf22で撮る。その分シャッター速度が遅くなるので三脚を使う。三脚は鮮明な写真を撮るための必需品。

同上、である(^^;)
あと項目のタイトルだけを拾うと

[風景写真は晴れた日を避ける]
[空がバックだと紅葉が沈む]
[雨が紅葉を鮮やかにする]
[適正露出の±1絞りも撮っておく]
[ゼラチンフィルターで腕前アップ]
[脚立があれば]
[寄りを撮るならマクロレンズ]
[順光で撮るときは偏光フィルター]
[花には時間をかけること]
[ISO感度800以上は非常用]
[交換レンズはなるべく使わない]


やはり常識以前といった内容のものばかりということが分かるだろう。
そして、本書に掲載されてる写真は、たしかに綺麗なことは綺麗だけど、ほとんどが、絵葉書的で、Morris.としてはなるだけこういう写真は撮りたくないという反面教師になるようなものばかりで、そういう意味では有意義なのかもしれない(^^;)
この作者得意の額縁構図は、たしかに便利そうではあるのだが----


05020

【唐衣】梓澤要 ★★★ Morris.ご執心の女流時代小説家の新作(といっても2004年3月発行(^^;))である。「日輪薨したまひぬ」「迦楼羅のくちばし」「上官婉児」「羽人」「朝靄」「しゑやさらさら」「龍になった皇女」の7編の短編が収められている。いずれも、彼女得意分野である明日香奈良時代を舞台にしたもので、遣唐使として唐にわたった留学生や僧などの出てくる作品もいくつか混じっている。
しかし、Morris.としては期待はずれの作だったとしかいいようがない。93年に40歳で「喜娘」でデビューした遅咲きの作家で寡作な方だから、現在までに出てる本はようやっと十指を越すくらいで、Morris.はほとんど目を通しているのだが、何となく、処女作に近いほど良かったような気になってしまう。はっきり言えば最初に読んだ傑作「百枚の定家」のあまりの素晴らしさのために、Morris.は夢をもう一度の思いで、図書館に行くたびに「あ」の棚をうかがう癖が付いたくらいなのに、その後はデビュー作を除いて、ずっと裏切られたり、いまいちの感を味あわされっぱなしなのだ。
彼女の特長は歴史をきちんと踏まえながら、想像の翼を縦横無尽に羽ばたかせて、Morris.の大好きな「面白くてためになる(^^;)」たぐいの小説を提供してくれることにあると思う。実際にためになるとか、役に立つとか、そういったことは本当はどうでも良くて、ただ、そんないい気分にさせてくれる小説を書ける作家だと見込んだのだ。
本書は天皇家を巡る権力闘争、特にそれに巻き込まれた女性の立場からの視点による作品が多い。そのことはかまわないのだが、どうも、女子供への提供作品という感じがしてしまうのは、弱点である。

飛鳥時代から奈良時代、この間わずか百年余。しかし、まさしく激動の時代でした。諸外国に目を向け、ことに大国・唐を真似て国際的に通用する国家体制を創らんと懸命に模索した時代です。遣唐使を送り出し、留学生に学ばせ、文化、先進技術、風俗、衣服や女性の化粧にいたるまで、貪欲にとり入れました。
古来の伝統から新しい価値観へ。急激な変化は歪みを生み、その歪みを力ではねのけました。その中で人々は、喜びや悲しみをたっぷり味わいながら、生き抜きました。歴史に名を残した者、無名の人、皆それぞれの火花をきらめかせ、燃え尽きて消えていったのです。
そんな火花を描きたくて、そして私自身も自分の火花を燃やして書いた作品を集めたのが、この作品集です。(あとがきより)


基本線はそれでいいんだけど、作品としては実に物足りない。どの作品も結末が何となく尻切れとんぼの感がするし、生き生きとした人間があまり出てこない。笠郎女を主人公にしたらしい「しゑやさらさら」が、本書の中ではまずまず楽しめる作だったのだが、彼女の歌

わが背子が来むと語りし夜は過ぎぬ しゑやさらさらしこり来めやも 万葉集 巻十二-上

の解釈を、作品の初めで、主人公の口を借りて、まるで桃尻語訳みたいに開陳してるあたりからして、いかにも読者を軽視してるのではないかという気にさせられた。

われながら、なかなかいける歌だと思います。
夫にすっぽかされた妻の悔しさ、いらだたしさ。しゑやさらさら……。はしたないとわかってはいるけど、口汚く罵らないではいられない気持が、よく出ているように思います。
しゑやさらさら、しゑやさらさら……。しゑやは、ええいッくそったれッ、さらさらはいまさら。もちろん。人前では間違ってもいいません。胸の中で吐き散らすだけ。


これでは、この歌をモチーフにした意図がそのまま見え透いて、余韻のかけらも無くなってしまう。ここはもうひと工夫もふた工夫もあってしかるところだろう。
いつも書くことだが、Morris.が悪口を言うのは、たいていその作家を買ってるからこそで、その力を出し切ってMorris.を喜ばせてくれ、という、いかにも身勝手な気持からのエールであるのだ(^^;)
それにしても梓澤要には、ちょっと長く待たされすぎてる感じがするぞ。次作こそ実りある作を期待したい。


05019

【天使の顔写真】森脇真未味 ★★★☆ 懐かしの漫画家の作品がハヤカワ文庫になってるのを見てちょっと驚いた。彼女は80年代前半くらいに「プチコミック」などで活躍してた。少女漫画の中ではちょっと異色といった感じで、けっこうMorris.は好きだった。特に「おんなのこ物語」「緑茶夢--グリーンティードリーム」はお気に入りだった。
本書には9編の短編が収められているが、半分が80年代後半、だが、97年の作品が3編あって、Morris.はこの3編が飛びぬけて水準が高いと思った。中でも「山羊の頭のSOUP」という作品が一番良かった。同じタイトルのストーンズのアルバムを思い出すが、もちろん悪魔の話で、オチが上手く出来てるし、途中の筋運びも、台詞も洒落ている。Morris.が少女漫画フリークだった頃の漫画家がレディスコミックなどで、何かおぞましい変身を遂げてる中で、彼女が現在でも充実した作品を描き続けているということが何か無性に嬉しかった。


05018

【世界戀愛詩集】 堀口大學編 ★★★ 昭和26年発行の撰詩集である。つい先日サンパル2Fの倉地書房の百均棚で見つけた。太平洋戦争直後の仙花紙よりはちょっとはましなくらいの、それでもかなりくたびれた風情のペーパーバックでその表紙のあまりのシンプルさに惹かれてつい買ってしまった。表紙裏には「from Fujiwara to Akagi」というサインがあり、東京・神田の山田書店の証紙が貼ってある。たぶん今は70歳くらいになる人物が、恋人へのプレゼントに贈ったものだろう。
あとがきによると、昨今の「コッピーライトの手続の煩雑」さのため、原作者の死後50年を過ぎたものだけを集めたものらしい。
それに「世界」と銘打ちながら、全体で170pのうちフランスに70pも割いてるのは、いかにも彼らしい。
ギリシャ、ペルシア、ドイツ、フランス、イギリス、アメリカ、ロシア、イタリア、スペイン、印度、中国と部立てしてあるものの、アメリカはポーの「アナベルリー」一篇だけだし、中国編は佐藤春夫の「車塵集」からの5編のみだ。按ずるに、戦後の口鬻ぎとして、堀口が知り合いの詩人仲間の数人に声をかけてOKの出たものから選出したものだろう。
世界戀愛詩集 昭和26年 羽田書店発行奥付の前のページに「世界戀愛文學名作選」全八巻の広告があり、7冊並んでいるから、本書もその一巻にあたるのだろう。

フランス戀愛小説集 河盛好蔵編
ドイツ戀愛小説集高橋健二編
日本戀愛小説集 河上徹太郎編
ロシヤ戀愛小説集 神西清編
英米戀愛小説集 阿部知二編
ハイネ戀愛詩集 番匠谷英一訳
日本戀愛詩集 草野心平編


錚々たる編者であるが、なんで、突然「ハイネ詩集」が混じってるのかがちょっと不可解というか、いわく言い難い味を醸し出してもいる(^^;)
おしまいの草野編の一冊は見てみたい気もする。
「真実の恋愛こそ若人の生命である。ここに世界の純情なる恋愛文学珠玉篇を若き人々に贈る」というこの全集の惹句が、いかにも時代を感じさせる。

Spleen ポオル・ヴェルレエヌ 堀口大學訳

薔薇の花は紅く
蔦の葉は黒かつた。

戀人よ、あなたがちよつと動きでもすると
僕の絶望は忽ちにまた生れます。

空の色あまりに碧く、あまりにやさしく、
海あまりに緑に、空気はあまりに甘かつた。

僕は何時も恐れます、---これが待つ者の心です!---
あなたにむごく逃げられるのではないかと。

つやのいい葉を持つ柊にも、
つるつるした葉を持つ黄楊の木にも、

はてしない廣野にも、あれにもこれにも、
あなた以外のすべてに、私はもうあきました!


05017

【建築はほほえむ】松山巌 ★★☆☆
この本は高校生たちに、大学ではじめて建築を学ぶ人たちに向けて書いたつもりである。建築とはなにか、建築家はどんな仕事をするのか。そのことを考えるためにいくつかの短い言葉を綴り、小さな絵をいくつか画いた。縁を画くとまた言葉をいくつか加え、それから絵を画き、さらに写真を添えて、ふたたび言葉を書いて……、という風にして一冊の本が生まれた。

おっしゃるとおりだが、Morris.には、ほとんどが屁のようなものにしか受け取れなかった。
あちこちにある引用のいくつかの方が印象に残ってる。

茶の湯、生け花、俳句。これらは人間の欲望を小さくし、感覚を開放するレッスンからはじまる。自由とは放埓に生きることだけではない。「自己を強制する自由」(石川淳)、もある。

いいものばかりを見よ。決してわるいものを見るな。わるいものでよごれた眼には、いいものを見ても判らぬ。つねにいいものを見なれてゐれば、わるいものは一眼で見やぶることができると、ある骨董の目利が後輩を戒めたさうである。(石川淳「雑文について」)

もともと明治以降、日本の建築はヨーロッパの建築のかたちをコピーすることからはじまった。だからヨーロッパの古い建築を見ると、かえって日本の明治時代の建物に似ているなと感じる人もいるはずだ。そしていつの間にか、明治時代に建てられて建物こそが、私たちは本物だと思ってしまう。


この最後の文だけは、レトロ建築に惹かれてるMorris.への警鐘のように聞こえた。


05016

【KOBE街角通信】中村よお ★★★☆☆ 震災後「朝日新聞」連載のコラムと「雲遊天下」に連載された神戸の音楽仲間やアーチストたちとの交流、コンサート活動、ライブハウス、飲み屋、映画館、書店の紹介などを、日記風、回想風に綴ったもエッセイを併せたもので、Morris.が読む彼の本としては3冊目になるが、これまでのうちでは、一番読み応えがあったし、例によって身内や知り合いの名前がぼろぼろ出てくるので、そういう意味でも興味深く読ませてもらった。
連載時と同じく、WAKKUNがカットを描いてて、これがいいアクセントになっている。
なんといっても、春待ちファミリーBANDに関する記述が多いというのがMorris.にとってはうれしいことである。
春待ちメンバーの数人(元メンバーも含む)とは親交の深い著者だけに、バンドの始まりや変遷、母体となった店(春待ち疲れBAND)の草創期についても詳しく調べていて、Morris.の知らなかったこともいくつかあって驚かされた。なんといっても、身内以外からの客観的な紹介文というのは貴重である。いくらか引かせてもらおう。

春待ち疲れBANDは、JRの六甲道から北へ上って行った商店街のビルの2階にあった。店の名前は斎藤哲夫さんのうたの曲名から来ている。小さな店だったけれど、ピアノも置いてあり、神戸の音楽好きの溜まり場になっていた。マスターの澤村重春さんはロックンロールやジャグバンドをこよなく愛し、自らもうたう人。18年に及ぶ歴史の中で随分たくさんの人がこの店でライブをやった。阪神淡路大震災で店のあった2階から上の部分が1階を押し潰す形で壊れてしまった。その後、春待ちファミリーBANDは被災地のあちこちで演奏活動を行い、CDも作り、今では神戸を代表するバンドとなった。亡くなった西岡恭蔵さんとの活動でよく知られるようになった秋本節くんもメンバーだし、有山じゅんじさんのレコーディングやライブで魅力的なウォッシュタブベースを弾いている神田修作くんもオリジナルメンバーの一人だった。
春待ち疲れBANDの開店は神戸で地道にやってきた人たちにとって大きいことだったようで、店ができてしばらくして、魚崎の東灘文化センターで開かれた「東灘なんでも祭り」のステージで以前から顔見知りだったこれらメンバーが一堂に会し、その二次会を春待ちの店でやったことから春待ちがこうした人たちの溜まり場になっていったのだ。
春待ちの社長こと澤村さんは、当時は店とおなじ「春待ち疲れBAND」というバンドをあんずさんという女性とやっていた。神田修作くんは春待ちのバイオリン奏者松尾のりひこくんと「愛暮里(あいぼりー)」というバンドをやっていた。小さな店であったけれどYANOMANが言い出しっぺとなって、やがて春待ちでもこうした人たちのライブをやるようになった。

YANOMANが抜けたことでパーマネント・ジャグ・バンドは解散を余儀なくされた。しかしなんとか神戸からジャグバンドの灯を消さないようにと、中川みつおくんは春待ちの澤村社長、神田くんらと春待ちファミリーBANDを結成した。春待ちの店のハウスバンドで、ジャグバンド。当初は店に来ていた十人以上がメンバーになっていたが、やがてこの三人に田辺秀一さんを加えた四人組に固まった。これに小谷しんじくんも時々加わった。日曜日の昼間、店で練習をし、夜ライブをやるということが多かった。
店でライブをする人との交流も深まって行った。現在は写真家として活躍しているよっちゃんこと外賀嘉起さんは当初「つゆ草」というバンドをやっていたがやがて「居眠りよっちゃんバンド」を結成。元町にあった神戸の劇団・道化座の劇場で椿ハウスコンサートをやっていた。また「下町のミュージシャン」というバンドをやっていた千秋光雄さんも放句の会というコンサートをつづけており、これらのコンサート、春待ちでのライブ、春日野道にあった神東珈琲館のライブなどで春待ちの出演者たちは活躍の場を広げて行った。

そして秋本節くんと井山明典くんの二人、当時は秋本君が「秋本屋商店音楽一座」、井山くんが「ハウス・レント・ブギー」という別のバンドで春待ちに出演するようになった。二人は店の常連ともなり、春待ち疲れBANDの練習にあれこれ口を出したりするうちにいつのまにかメンバーになっていたという。並行して「ジャンゴ」というバンドを一緒にはじめ、その時、シングル盤も一枚発表している。秋本くんはそれ以前のソロ活動でのうたやギターのテクニックにみんな一目置いており、井山くんのピアノのテクニックの凄さには誰もが圧倒された。やがて二人は「モーガンズバー」を結成する。この二人が加わることで春待ちファミリーBANDの演奏テクニックは飛躍的に向上した。ソロやそれぞれのバンドで春待ちに出演していた野村あきさん、勝木てつよしさん、松尾のりひこくんらもメンバーに加わり、みつおくんも戻ってきた。店でのライブやコンサートのほか、各種イベントへの出演も増え、春待ちには徐々にその活動の幅とファン層を広げて行った。
しかし音楽性や音楽に対する姿勢の違いなどの問題もあり、やがて勝木さん、神田くん、野村さんの三人は春待ちを抜け、神戸のフルーグラス界では知られた存在であるジョッシュ大塚さんを加えてノーブレイク楽"タイムバンドを結成する。
春待ち周辺のミュージシャンはファミリーBANDのメンバーを含め、他に仕事を持ちながら音楽をつづけていた。唯一スキップ楽団だけが音楽で飯を食っていた。春待ちの店自体が最初は昼間も開けていたものの、やがて夜だけの営業となり、社長も昼間別の仕事をするようになる。そんな中でファミリーBANDにも土日のイベントなど営業の仕事が入ってくるようになってきた。それに対する意見の相違、ほんとうにやりたい音楽の違いなどがあったようだ。でも、今となってはそのことによって個性豊かなたくさんの神戸のグループ、ミュージシャンが枝分かれして新しく生まれていったことを喜びたいと思う。

こんなふうに見てくると春待ちというのは本当に地元神戸で音楽をやりつづけている人が集う場だったなあとつくづく思う。しかも長いキャリアを持つ人から、うたいはじめたばかりの人まで……。排他的にならず、みんなが交流したり枝分れしたりしながらここで神戸の音楽を作って行ったのだ。とは言え、決して地元の人だけが出演していた訳ではない。横浜の伝説のジャグバンド・アンクル・ムーニーが初めて関西に来た時にはYANOMANやみつおくんがぜひにと声をかけ、彼らは拾得やバーボンハウスのスケジュールの合間に演奏しに来ている。アンクル・ムーニーは解散してしまったけど、メンバーとの交流はつづいていて、今もファミリーBANDはアンクル・ムーニーの曲をレパートリーにしている。みつおくんはおなじく有山じゅんじさんにも声をかけ、有山さんや中川イサト、金森幸介さんも何度か春待ちの店でうたっている。もちろん店の名前のもとになった斎藤哲夫さんもうたいに来た。
震災で店はなくなってしまったけど、春待ちファミリーBANDはその後も精力的な活動を続けている。一昨年発表されたセカンドアルバムは、結成当時の色合いを出すものとして、オリジナル・メンバーの神田修作くんや、田辺秀一さんも加わって、結成当時のレパートリーがレコーディングされた。みつおくんと神田くんによる「ストリート・オブ・六甲」を聴いているとそこに脈々とつづいてきた春待ち周辺の神戸のフォークシーンの最良の部分を感じられて、聴く度に僕は熱い感動に包まれる。


ちょっと引用が長くなったが、Morris.部屋を訪れる人の中でもあまり春待ちファミリーBANDのことを知らない人への紹介文としても役立ちそうだという下心もあってのことだが、なかなかこれだけにまとめるのは大変だったと思う。一部省略してるので、続きぐあいが不自然なところもあるがそれはMorris.の責任である。
Morris.が春待ち疲れBANDの常連になったのがちょうど開店1年後くらいからで、それから後のことはほとんど熟知してるが、開店早々のあれこれはなかなか勉強になった(^^;)
春待ち疲れBANDの店への思い入れはそれぞれだろうが、このくらい好意的にとりあげてもらえればいうことはない。本書への評点の高さのいくらかはそのお礼の意味も含まれている(^^;)
こういった本ではしかたないことだろうが、前著を含めて同じ内容の記事の重複が目に付くし、世話になった人や現在も交流関係にある人を多くとりあげることから、遠慮ないし配慮、お愛想、ヨイショなどが見え隠れして、ちょっと鼻白むところもあるが、それは読者であるMorris.の知り合いが多く出てくることにも関連するのだろう。人名の呼び方も、さん、くん、愛称、呼び捨てなど、同じ人物でも時と場合で変わったりと、これは難しいところだろうが、気にし始めると気になるかな。


05015

【俳句のモダン】仁平勝 ★★★☆☆ ぐいぐい俳句などと銘打って勝手にぶいぶいやってたのもすでに旧聞に属する今日この頃のMorris.は、俳人ならぬ廃人への道をひた進んでいるわけだが、たまにこうやって、俳句関連の書に手が出るというのは未練というものだろうか?
本書はモダン派と目される、8人の俳人の一句集を中心にした評論である。
ラインナップと副題を目次から引いておく。

水原秋桜子「葛飾」--知性の反乱
山口誓子「黄旗」--写生からの飛躍
日野草城「花氷」--モダニズムの出発
石田波郷「鶴の眼」--伝統俳句の変貌
西東三鬼「旗」--異端の俳句
渡邊白泉「白泉句集」--無季俳句の頂点
三橋鷹女「向日葵」--「性」の演出
橋本多佳子「紅糸(糸+糸)」--最後のモダン

名前だけならいちおう全員知ってるが、親しんだ俳人となると秋桜子、三鬼くらいかなあ。そして本書でMorris.が一番興味深かったのは、渡邊白泉だった。本書に引かれた彼の句をあげてみる。

あまりにも石白ければ石を切る
街灯は夜霧に濡れるためにある
鶏たちにカンナは見えぬかもしれぬ
昼休み長きいつぽんの煙草すふ
戦争が廊下の奥に立つてゐた
銃後といふ不思議な町を丘で見た
憲兵の前で滑つて転んぢやつた
三宅坂黄套わが背より降車
戦争はうるさいし煙し叫びたし
玉音を理解せし者前に出よ
ひらひらと大統領がふりきたる 渡邊白泉


無季俳句というのは、一部では否定されているが、Morris.は引かれるものがある。というか、季語はあってもなくてもいいんじゃないかという立場である。そして、白泉の句の中では「街灯」の一句にしびれたというのが正直なところかもしれない。好きなのもはじめの三句だけだ。
この句についての筆者の言及は以下のとおりである。

街灯が夜霧に濡れているという、ありきたりの風景をとらえて、そこに比喩的な解釈を持ち込んでいる。その点で、これは赤黄男(蝶墜ちて大音響の結氷期)より窓秋(ちるさくら海あをければ海へちる)や鳳作(蟻よバラを登りつめても陽が遠い)の句に近い。ここで「夜霧」を題とすれば、詠まれている風景は季語にたいする解釈といえる。ただ、窓秋と鳳作の句が季語に比喩を背負わせているのにたいして、この句は「街頭」のほうに比喩が関わっている。いってみれば「街灯」は一句の裏の主題なのである。
裏の主題は、季語がなくなれば、必然的に表の主題になる。白泉の方法は、その移行がいつでも可能なのであり、それは季語でなくても一句の題になることを意味している。すなわち白泉は、自身の散文的なモチーフを、題詠の方法と合体させたのだといっていい。これはきわめてだいじなことだ。
大事なことはもうひとつある。ここに詩的なレトリックがあるとしても、赤黄男のそれに比べればそれほど高度なものではない。言葉だけを見れば、むしろ歌謡曲に近いともいえる。しかし白泉は、下五に「ためにある」という言葉を加えただけで、街灯が夜霧に濡れるという風景を比喩に転化してみせた。すなわち五七五という定型自体に、比喩の仕掛けを発見したのである。これは先のように詩的なレトリックと同義ではなく、文字通り俳句的な比喩と呼んでいい。


なかなか穿った、しかし充分納得できる論である。とはいうもののMorris.は、そういった説明抜きで「街灯」の句にしびれたのだから、やはり作品は論を超えたところにあるというべきなんだろう。
筑摩の現代日本文学全集91「現代俳句集」の渡邊白泉の作品(250句ほど)を読んでみた。戦前、戦中、戦後と分けて掲載されているが、やはり戦前の作品に見るべきものが多いようだ。「街灯」の句は冒頭に掲げられていた。

象使ひ白き横目を緑陰に
雪の日のそばかすの子を恋ひそめし
泣くことのあれば饒舌の霧一夜
花原理飛躍水槽足生命(いのち)
遠き遠き近き近き遠き遠き車輪
極月やなほも枯れゆく散紅葉
冬の旅ここも孤(ひと)つ眼の国 渡邊白泉


本書には、他にもいろいろ見所があり、けっこう刺激的でもあったわけだが、タイトルにある「モダン」についても、あとがきで次のように総括している。

たとえば俳壇では、昭和の初期に現れた俳句の新しい潮流を「新興俳句」と呼び、それに対抗して前世代のスタイルを守ろうとする人たちは、自分たちの立場を「伝統俳句」と呼んでみせた。そして後者が文字通り伝統的な俳句だと信じている人もいる。しかし「伝統俳句」もまた、昭和という時代の申し子にほかならない。そもそも「伝統俳句」が模範とする虚子の句そのものが、かつて明治の「モダン」だったわけである。

いよっ、と、掛け声をかけたくなるような提言である。つまり、そういうことなんだよな、とMorris.は思わずうなってしまったよ。
これに続けて俳句という古典詩型が現在まで支持されてるかということに関して、定型が自由を制約するように見えて、かえって表現の自由を生み出すというあたりは、Morris.も我が意を得たりで、大いに共感した。

俳句と川柳の違いは、それぞれの発生に本質がある。俳句の発生は発句であり、芭蕉が「謂ひおほせて何かある」というように、すなわち「いいおおせない」ことを本質とする。いっぽう川柳の発生は、いわが発句のパロディとして、七七に五七五を付ける前句付けであるり、発句とは逆に「いいおおせる」ことが求められる。

という、俳句と川柳の差異論も実に分かりやすく納得できたし、日野草城論の中にあるモダニズムの揺籃が俳句以外のところからもたらされたという意見にも賛成したい。

俳句におけるモダニズムとは、じつは俳句の外側からやってきた想像力のことだといってみたい。そして草城の想像力を俳句の外側で育てたのは、前の項でも述べたように、やはり読書三昧の時間なのだとしておこう。完成した俳人は(自分でそう思っている俳人も含めて)、この種の想像力を、あえて俳句の外側から呼び込もうとはしない。だから俳句は、決して内側から新しくなることはないのである。

そこまで言い切れるかどうかは別として、いわゆる俳人の不勉強ぶりというか、夜郎自大ぶりは俳句を面白くなくする原因の一つであることはまちがいないだろう。

ついつい、引用が長くなりすぎたきらいもあるが、本書に取りあげれている句のうちMorris.の琴線に触れたものを引いて終わりにしたい。

人殺す我かも知らず飛ぶ蛍 前田普羅

ところてん煙のごとく沈みをり
春の夜や檸檬に触るゝ鼻の先
秋の夜や紅茶をくゞる銀の匙
刺青に通ふ女や花ぐもり
源氏名の昔もありぬ衣更 日野草城

バスを待ち大路の春をうたがはず
あへかなる薔薇撰りをれば春の雷
吹きおこる秋風鶴をあゆましむ 石田波郷

汽車と女ゆきて月蝕はじまりぬ 西東三鬼

蝶とべり飛べよと思ふ掌の菫
日本の我はをみなや明治節
みんな夢雪割草が咲いたのね 三橋鷹女

罌粟ひらく髪の先まで寂しきとき 橋本多佳子

Morris.周知の句は省略している。引用句のない作者の句は無視したというわけではないので、為念。


05014

【住所 田園調布 職業 ホームレス】青山潜(述) 岡田晃房(記) ★★☆☆ 1950年石巻生まれの青山氏(偽名だろうけど)は下水道工事会社経営していたが、倒産失業して多摩川の川原でテント張り自給自足生活に入ったとのことで、フーライターの岡田氏が聞き書きして作ったノンフィクションドキュメント風の一冊である。
それなりに腕力も人望もあり、普通の浮浪者のように、残飯食ったりはしないで、何とか食いつなぎ、地元の人との付き合いもできるという、いわばホームレスの中でのエリート(^^;)の立場を確立してるみたいな述者は、記録係である岡田氏に来歴や生活哲学めいたことを問わず語りするのだが、どうしてもそこには、粉飾が見え隠れする。「人みな飾って言う」とは山本夏彦の寸言だが、特に世をはばかる立場の人間はそうせざるを得ないだろう。それでも、面白ければかまわない(^^;) しかし本書はMorris.にはそれほど面白くも何ともなかった。
ただ、ホームレスの世界でのしのぎである、ダンボールや空き缶拾いの相場などを書いてあるところは興味深かった。

現金は朝早く劇画やエロ本を回収して古本屋に持っていく。
あるいは、空き缶を大量に集め、つぶしてリサイクル業者に売る。
空き缶はキロ当たり80円。新聞や段ボールがキロ2、3円にしかならないことを考えると、はるかにおいしいシノギだ。

それで、最近神戸でもダンボールをリヤカーに乗せて引いていく人間の数が減ったんだろうな。空き缶なら自転車でも回れるから効率的なのだろう。
本書で、青山氏が「世捨人」という立場から今の社会への警鐘めいた説教が頻繁に吐かれるが、どうもその半分は記録係の岡田氏の作品のようでもあるし、何となくうさんくさい、というか薄っぺらな感じを受ける。
別れた妻と息子への連綿とした未練や愚痴も、勝手に言わしておくしかない、といった類のものである。
しかし「ホームレス」の「ホーム」が「家族」「家庭」なら、青山氏より、Morris.の方が、はるかに年季の入った「ホームレス」であるかもしれない。


05013

【江戸狂歌】なだいなだ ★★★ これはずっと以前に読んで(1986年発行)えらく感心した記憶があっての再読だったが、再読では、それほどの感動は無かった(^^;)
岩波の「古典を読む」シリーズの一冊で、今読むと、何となく活字が大きくゆとりがあって、老眼の進んだMorris.にはすごく読みやすく感じられた。
狂歌は江戸時代、それも天明年間を中心にした短期間に爆発的に流行したものである。なだいなだはそれを我田引水的に引用して本書をまとめているようで、その理由もわからないではないが、今読むと視野が狭い気がした。

そうしてまとめられた狂歌集を読んでも、ぼくは少しも笑わなかった。面白いものがあるなあ、と思う。しかし、大笑いするには、何かが欠けているのである。それが何かを、突き止めねばならないと、ぼくは感じた。そして様々考えた末に、ある結論に達したのである。
笑いは情況のなかで生きている存在なのだ。
だからこそ、狂歌は決して単独にとりあげられても笑えないのだ。もし狂歌を生かすのなら、引用によって生かされるべきである、それが、正当な現代への復活の仕方である。ぼくはそう結論したのであった。

Morris.は当時、これに賛同していたものと思う。それから20年近く経って、考えが変わったとみえる。

細川幽斎の甥である雄長老の狂歌から豊臣秀吉時代の庶民の気持ちがわかったという。

さて、この歌の作者が生きていたのは、当然のこととして、花鳥風月を歌うような時代ではなかった。僕は歴史の向こう側に行って見て、そのことに気がついたのである。
一握りの人間を除いては、日本人の大部分が、一日一日を、その日暮らしで生活していた。なにしろ戦国時代という何十年も続いた動乱の後である。第二次世界大戦の戦後の焼け跡で暮らしていた時代を思えばいいのだ。焼野で花鳥風月を歌う気持になれるものではない。歌ったところで歯のうくような、うそうそしい感情の発露でしかない。それと同じ風景が見え出したのである。
インテリにとっても(当時のインテリは没落貴族であった)、生きるのは難しく、生活のことが頭から離れなかった。もちろんインテリは、そうした現実に埋没した生き方を迫られている自分に満足していた訳ではなかった。それはもちろんである。しかし、いかに不満であっても、現実は厳しい。自分には手も足もでない。そのことも分かるのである。なんと情けないことだろうか、と自分の無力さ加減に愛想をつかしたくなったろう。だから、そこで自嘲の気持ちを歌に詠んだのである。


こういったものいいに、当時のMorris.は惹かれていたらしい。

天明のころの狂歌作者たちの集まりをみていると、ぼくは自分たちの同人誌時代を思い出さずにはいられない。ぼくたちの雑誌には、実にいろんな仕事を持った人間たちが集まっていた。医者もいれば先生もいる。高校の教頭も小学校の校長もいた。また、昔の小学校の小使いさんのような仕事をする人もいた。だが、こと小説を載せる雑誌に属しているあいだは、ぼくたちは、そうした社会的な地位など全く忘れて、互いに議論することができた。まるで小さな共和国がつくられたかのようであった。そこでは小説のうまさと文学に対する造詣の深さだけが尊敬の対象となっていた。ぼくは、その同人雑誌に集まった人々の姿に似たものを、天明の狂歌を支えた人たちの姿のなかに、見るのである。

Morris.は反射的に、ネット世界の集まりのことを思ってしまった。とりわけ一昔前のパソ通時代の集まりのことである。インターネット普及以前のかなり不自由な時代のパソコン通信の世界は、ちょっとした異次元世界という感じで、特に初心者のMorris.はそこに一種の共和国めいた感じを持ったものである。しかしそういう時代が長続きしないということも思い知らされたりもした。
なんだか、本書の内容から離れたがってるような気がする。本書に引用された狂歌をいくつか引用して言い訳に代えよう(^^;)

世の中は色と酒とが敵なり どふぞ敵にめぐりあいたい
朝もよし昼もなほよし晩もよし その合ひ間にチョイチョイとよし
盃に飛び込むのみものみ仲間 酒のみなれば殺されもせず
飲みに来たおれをひねりて殺すなよ のみ逃げはせぬ晩に来てさす
口ゆゑに引き出だされてひねられて 敷居まくらにのみつぶれけり
まがりても杓子は物をすくふなり すぐなよふでも潰すすりこぎ
世の中に人の来るこそうるさけれ とはいふもののお前ではなし 蜀山人

世の中に人の来るこそうれしけれ とはいふもののおまえではなし内田百

げに酒は愁をはらふはゝきとて たはこともはく青反吐もはく 宿屋飯盛

人の恋季はいつなりと問はゞ 面目もなし何とこたへん 横井也有

とれば又とるほど損の行く年を くるゝくるゝと思ふおろかさ 唐衣橘州

月みてもさらにかなしくなかりけり 世界の人の秋と思へば 頭光

いつ見てもさてお若いと口々に ほめそやさるゝ年ぞくやしき 朱楽菅江


おしまいの朱楽菅江の歌に、Morris.は深い共感を覚えざるを得ない(^^;)


05012

【在日、激動の百年】金賛汀 ★★★☆☆ 200p余りのペーパーバックだが、読み終えるのにえらく時間がかかったし、読んでる間ずっと陰鬱な気分になってしまった。本書のタイトルを「在日、絶望の百年」と変えてもあながち間違いではないだろう(^^;)

この書は在日朝鮮・韓国人の百年を記述した書であるが、それは日本人とは違った立場にいた人々から見た日本の百年である。

と、前書きにあるが、たしかにこういう視点からの著作はあまりにも少なかったと思う。在日朝鮮・韓国人(以下便宜上「在日」)自身の複雑な事情もあるだろうし、加害者でもある日本側からことさらにこの問題に触れたくないという意識的、無意識的心情もあったかもしれない。
Morris.は在日の友人も何人かいるし、平均的日本人よりは在日への関心も知識もある方だと思っていたのだが、本書を読んで、自分がいかに無知だったかを思い知らされてしまった。

1905(明38)の第二次日韓条約で日本の保護国にされ、1910(明43)日韓併合、1923(大12)関東大震災時の朝鮮人大量虐殺、太平洋戦争、解放後の南北分裂、1950(昭25)朝鮮戦争、1958(昭33)からの北朝鮮帰還運動、朴正熙軍事政権による弾圧---それぞれは歴史的知識として知っていてもそれが在日にとってどういう意味を持つかをきちんと把握できずにいたのだ。
それにしても在日の歴史はあまりにも不運としかいいようがない。さまざまな局面で、これ以上ない悪い籤ばかりを引き続けてるといった気がする。日本政府からの抑圧に限らず、南北に分断された祖国からも政治的に利用されたり、無視されたりばかりだし、在日同士の対立、戸惑い、迷いが泥沼化してどんどん悪い方に悪い方に向いてしまったようでもある。
1945(昭20)の日本敗戦後の在日の立場のめまぐるしい変化もその一つだが、占領国である米国の反共主義とそれにおもねりながらそれを利用して自治権を取り戻そうとする日本の政策に翻弄されるばかりだったような気がする。
1956年から運動が始まり59年から実行に移された北朝鮮帰還事業の結果が以下の状況を生んだこともその極端な一例だろう。

北朝鮮帰還事業は在日社会にさまざまな影響を与えたが、その最大のものは在日の人々の意識が帰国願望から日本への定着に転換したことである。特に総連系の人々は北朝鮮の生活の厳しさと、在日朝鮮でせいかつしていく上には文化的・感覚的な強い違和感があり、その地では生活できないことを痛烈に思い知らされ、日本で定着し、生活する道を模索し始めた。朝鮮総連組織が受けた影響も大きかった。帰還事業以降、総連組織は毎月新潟港に入港する帰還船でやってくる北朝鮮当局の直接的な指示、命令を受けるようになり、それを拒否できない体制が強固に作り上げられていった。それは総連組織内に朝鮮労働党の日本分局ともいうべき秘密の前衛組織「学習組」を張り巡らし、幹部をそこから選抜し、思想と組織両面から金日成に忠誠を誓う組織に作り上げたことである。さらに北朝鮮帰還事業が推進されているとき、総連は帰還することが愛国的行為だとの宣伝を繰り広げ、愛国的であると自認する多くの総連活動家は自分の家族を率先して北朝鮮に帰還させた。その人々はまさに「人質」であった。総連幹部は北朝鮮の指示に造反すれば自分が罷免されるだけでなく、帰還した家族が迫害を受けることになり、幹部たちは一切の北朝鮮、金日成批判を封じられる結果になった。総連は在日の自主的な権利擁護団体から北朝鮮の末端機関へと変貌し、金日成独裁政権を海外から支える主要な機関になっていった。

韓国の軍事政権は在日朝鮮人の声を意識して、支持をえるため、新たな在日政策を提示した。それは民団系民族学校に対する韓国から教員をはけんするなどのてこ入れや、在日師弟の本国留学制度の実施などであるが、民団組織の強化のために本国から職員を派遣するとともに民族職員を韓国に派遣して、研修を受けさせるなど民団組織の統制・監督の強化に力を注いだ。このような組織の統制、監督強化は民団組織を韓国政府の完全な末端機関に作り上げる結果になった。戦後、この時期までは在日社会は思想上の違いなどで対立し、抗争を繰り返してきたが、日本政府の在日抑圧策には基本的に一致して反対する姿勢があった。しかし総連は北朝鮮帰還事業以降、北朝鮮の政府末端機関と化し、民団もまた軍事政権成立以降、韓国政府の統制と監視を強く受けるようになったことで、両団体はその支配を受ける政府の政策遂行を最優先し、在日の生存権や人権問題は軽視されていった。両団体幹部の視線は在日よりも、ソウルとピョンヤンに向けられるようになった。


日本の高度経済成長が、朝鮮戦争の軍需景気から始まったことは良く知られているが、それが在日を日本に留める大きな原因にもなったことはよく理解していなかった。そういったことも含めて、現在約100万人の在日とのより良い共生を目指すためにも、一人でも多くの人に本書を読んでもらいたいと思う。
著者は37年京都生まれで、朝鮮大学卒業だから、総連系に近い立場だったと思われるが、本書を読む限り、総連、民団双方を客観的に批評している。そういう意味では、在日社会の意識も確実に変わってきていることがわかる。ただ、本書のような著作には、略年表をつけて欲しいと思った。


05011

【けさの鳥】山岸哲・文 田中光常、久保敬親、金子進、吉野俊幸・写真 ★★★☆ 朝日新聞に2003年5月から一年間連載された写真コラムの集成である。大岡信の「折々の歌」の鳥版みたいなものである。ともかくも300種以上の鳥を集めて130字という制限で特徴やエピソードを取り上げて、読者になるほどと思わせる手際というか、手管はなかなかのものである。Morris.は特に愛鳥家というわけでもないが、それなりに鳥は嫌いでないし、特にその名前と姿の美しさには惹かれるものがあるから、こういった手軽な企画というのはありがたい。写真も4人の写真家がこれぞというショットを提供しているだけに見甲斐がある。ほとんどの鳥名に漢字名が付記されているのが嬉しかった。
以前に「雑季鳥」という歌集を作ったこともあるが、もともと近視で、かなり前から老眼も重なって実際の鳥の姿を詳しく観察することは難しい。望遠レンズを使っての撮影などは考えたくもないので、結局はこういった写真集を楽しんでお茶を濁すことになる。本書の中の一葉の写真を撮影するためだけにもどれだけの時間と忍耐力と撮影技術が必要だったかは、想像に余りあるが、まあ、こんな写真が撮れたら苦労も報われるだろうなと思うようなものも数点あった。
主に見られる場所で4つくらいに分けてあるが、おしまいに索引と、分類表からたどり着けるような配慮がしてあり、煩雑さをいとわなければ、図鑑としても利用できそうだが、おおまかにMorris.の好きなタイプの鳥は、いかにも「小鳥」っぽいスズメ目、とりわけツグミ科に多く属することがわかった。本書に取り上げられてるツグミ科の鳥は

コマドリ/駒鳥、アカヒゲ/赤鬚、ノゴマ野駒、コルリ小瑠璃、ルリビタキ/瑠璃鶲、ジョウビタキ/尉鶲、ノビタキ/野鶲、イソヒヨドリ/磯鵯、トラツグミ/虎鶫、マミジロ/眉白、クロツグミ/黒鶫、クロウタドリ/黒歌鳥、アカハラ/赤腹、アカコッコ/赤鶫、シロハラ/白腹、マミチャジナイ/眉茶[耶+鳥]、ツグミ鶫

の17種である。もちろん、個別に好きな鳥は他のいろんな科にわたっているにはいるのだが、やっぱり猛禽より小鳥が好きなんだろう。

コラムの文も中にはくすりとさせられるものや、目からうろこの新知識も含まれていた。いくつか引いておく。

ヤブサメ 籔雨 漢字で「籔雨」と書くが、この名は「シシシシシシシ……」という虫のようなさえずりが、籔に降る雨音のように聞こえたからか。雄は他の巣へ子育てを手伝いに行くこともあり、それをヘルパーというが、そこの雌と駆け落ちをし、繁殖に入ることがあるというからとんでもないヘルパーである。ウグイスの仲間で、全長11cmほど。

カワウ川鵜 30年ほど前には数が減り、国が保護を図ったが、その後各地で増え、今では漁業被害と糞害などで嫌われ者になったのは皮肉だ。ときに雄同士のつがいが見られる。巣つくりは主に雄がするので普通より立派な巣ができるが、もちろん子どもはできない。なぜこんな無駄なことをするのかは不明だ。全長81cm。

カワセミ 翡翠 美しさから「飛ぶ宝石」の異名をもつ。緑色なので宝石の「翡翠」を漢字にあてたと思われがちだが、実は逆で、先に鳥の名があり、それが宝石に転用されたという。平地から低山までの湖沼や川などに生息し、水辺に張り出した横枝、杭、岩石などにとまり、獲物の魚を狙う。全長17cmほど。

ゴイサギ 五位鷺 後頭部に2本ある冠羽が特徴。「クワッ」と鳴くので「夜ガラス」の別名も。平安時代、帝の命で六位の家来がこの鷺を捕らえに行き、「官旨である」というと鷺はおとなしく捕まった。それを聞いた帝は「神妙である」と、家来より高い位を与え「五位鷺」になったと『平家物語』にある。全長57cmほど。


05010

【身近な野鳥ウォッチング】高城芳治 写真/文 ★★☆☆ 「六高山と神戸・播磨で出会える110種」と副題にある。著者は神戸在住の野鳥風景写真家で、鳥を風景の中において作品化してるらしい。神戸新聞出版センターが出してるもので、まあ地元の鳥の本ということで借りてきた。
だいたい1ページ1種で3点ずつくらいの写真が掲載されていて、先に読んだ「けさの鳥」の一鳥一点写真より多様な姿が見られるのだが、その写真の出来に関しては、かなり落ちるという感じを受けてしまった。そこそこいい写真もあるのだが、比較するとシャープさが違うし、「風景」のなかというのを意識するあまり、肝腎の鳥の印象が薄くなったりしてるのだ。
Morris.としては、前の本でも触れたが、実物の鳥にはなかなか親しく近寄れないし、観察するのも難しいからこういった本を眺めることで満足せざるを得ないのだが、そうなればなったで、少しでも鮮明な、感動的写真を見たくなるのが人情というものだろう。
いちいち自分の写真の解説みたいな文章を読まされて、ちょっと鼻白む思いもした。
MEMOとある、説明文は「けさの鳥」と同じくらいの分量だが、こちらは、図鑑からの受け売りみたいなあじもそっけもないものであるが、これはこれで役にたつのだろう。ただムクドリの項で説明には「ねぐらでは何万羽という大群になることもある」と書きながら、写真には「数十羽の大群が」とあったのには、笑ってしまった(^^;) 
鳥の写真に関して、やたら「フォトジェニック」なんて言葉を多用するのも何だかなあ、と思ったが、それ以上に鳥の写真家や鳥好きの人のことを「バーダー」と呼ぶのは気色が悪かった。英語でBirderなんてことばがあるのかどうか知らないが、愛鳥家でいいんじゃないかい?


05009

【冗談 新撰組】 みなもと太郎★★★★ 「風雲児たち」ですっかりお気に入りになったみなもと作品である。タイトルの「新撰組」と、論文形式牽強付会漫画「仁義なき忠臣蔵」の2編が納められている。前者が72年、後者が99年に雑誌発表とあるから四半世紀以上の時間的隔たりがあるが、絵柄はそれほど違わないのは、著者の力量なのか、後から描き換えたのか不明。Morris.は圧倒的に後者のほうを興味深く読んだが、本書が昨年のNHK大河ドラマを当てこんで出されたためにタイトルがこうなったのだと思われる。
「風雲児たち」がもともとは幕末の模様を描く作品だったのだから、新撰組は当然あちらでも取り上げられてるはずだが、Morris.は、まだ30巻中17巻目で止ってるので、そちらのほうは未見である。しかしさすがに新撰組を描いてもひと味ちがうみなもと史学?に染めあげられてて、随所に高級ギャグがちりばめられていて面白かった。
しかし、忠臣蔵は、これはもう、星のかずほどある忠臣蔵作品の中でも異色かつ特異な(おんなじか(^^;))快作/怪作だった。赤穂藩だけがなぜああいった行動をとったかの原因を、播州弁にあるとして、いわゆるヤクザ映画の言葉がまさにこの播州弁であることから、忠臣蔵こそヤクザ映画の濫觴であると決め付ける(牽強付会)ところが、妙に納得させられるだけに、おかしい。当然、浅野内匠頭も、大石内蔵助も、他の赤穂浪士もみんな東映のヤクザ映画の台詞と同じ口調である。
そういった外面の面白さ以上に、実に冷めた目で史実を解析してるところに感心させられた。随所に見所があるのだが、おしまいにおかれた「テロ論」ともいうべき見事な論調の部分を引用しておく。

「忠臣蔵」ともてはやされている元禄赤穂事件も、一皮むけばヤクザ世界の論理、テロリストの論理にすぎないのではないか? というのが、僕の一貫した主張でありました。
しかし、ヤクザ=テロリストではありませんし、テロ行為がヤクザの専売というわけでもありません。これは本来切りはなして考えるべき別の問題であります。
古今東西、テロリストは無数に出現しております。彼らの心に去来するものはいったい何だったのでありましょうか?
他人(ひと)の意思を代行して行うような、半ば職業的暗殺者(テロリスト)は除外いたします。
ヤクザの鉄砲玉、幕末の暗殺者、ゲリラ兵といった人たちは---ごくわずかな例外を除き、ほとんどがテロリストの範疇から外れてしまいます。
テロリストは孤独でなければならず、何の見返りも求めてはならず、かつ公共の利益と正義を貫くものでなければならない……というのが、僕の考えるテロリストの条件ですから。
男を上げる、家名を上げる、みんなを見返す、などという動機はすべて不純であり、テロリズムに反します。
そうやって見ていくと---結局、純粋なテロリストなんて居やしないのです。
当然だと思います。テロリズムは、本来矛盾した思想なのです。


これだけでも、明確に自論を展開していて、立派なものだが、さらに続けて具体的な例を挙げて、自説を補完している。そこで取り上げられているのがほかならぬ安重根(アンジュングン)だから注目せざるを得ない。

テロリストでありながら、英雄として祀られ、一国国民が崇めている人物というのは、世界広しといえど、僕は一人しか知りません。
1909年、ハルピン駅で伊藤博文を暗殺した安重根がそうです。
犯行までの彼の経歴、犯行後処刑されるまでの言動、どれをとっても、彼は一級の人格者でありました。
安重根の輝かしい生涯に、たった一つ汚点があるとすれが---熟考した末に、僕はこう言わざるを得ません、「それはテロを実行してしまったことだ」と。
これは非常に矛盾した考えです。論理が破綻しております。しかし何百遍考えぬいても、僕にはこの結論しか出てこないのです。「それはお前が間違っとる」と言われれば、僕は沈黙するしかありませんが。
真面目な、正義感のある人間であれば、テロは必ず一度はたどり着く思想であると思います。人間のみが持つことのできる純粋さではないかとさえ考えます。
しかし、それを実行に移したとたん、人間は何かを踏み越えてしまうと思うのです。人間たることを否定する何かを。


うーーーむ、これはなかなかに穿った意見であることよ。と、Morris.はまたも感嘆の溜息をついたのだが、

理性を失った情熱家は、テロリズムにはしる他ありません。
逆に情熱を捨てた理性家は皮相的な世捨て人になってしまうでしょう。
理性と情熱をあわせ持ってこそ、はじめて人間なのではないでしょうか。
大情熱を実現させるためには大理性が必要であり、大理性をつきうごかしていく原動力になるのが大情熱だと思います。
正義の怒りをテロに向けず、人間を生かす方向に梶をとっていく---そんな強い意志を持ちたいと願う、今日この頃です。

と、いう結論になると、やはり実効性のない、理想論に見えてしまうのは、まあ、仕方ないことかもしれない。
しかし、歴史を学ぶことが、未来を学ぶことにつながるのだとすれば、みなもとの「歴史とは決して『有名な事件』だけで成り立っているのではない」という歴史全般への対処方は、これまでの凡百の歴史学者のやり方よりよほど説得力を感じさせることも事実である。
忠臣蔵に関する本もいくらか読んでいるが、本作品は、丸谷才一の「忠臣蔵とは何か」に匹敵するユニークさと面白さを持ったものだった。


05008

【近代名建築浪花写真館】 福島明博 ★★★ 「明治・大正・昭和を生きる建築ロマン109選」と副題にあるとおり、大阪の古い建物を写真で紹介するもので、ちょっとだけレトロ建築に関心を持つようになったから、借りてきた。もともと古いモダン建築は好きだったけどね。
大阪も空襲でかなりの範囲が焼野原になったから、戦前の建物が残ってる地域は限られている。
まずは何をおいても中之島で、これを中心にした一帯だけで本書に取り上げられた建物50軒近くが集中している。天気のいい日にこの本ガイドに散策したら楽しそうだ。
始めに失われた建物と題して5件の建物を紹介しているが、本書が出てから10年経つので、さらに失われた建物も少なくないだろう。
旧大阪市役所なんか、写真で見ても、取り壊すべきではなかったろうに、と、今更ながら口惜しくなってしまう。
旧飛田新地の「鯛よし百番」が載っていたのは何か嬉しかった。96年にアメリカ村タワーレコードでイパクサのキャンペーンライブがあり、初めて会ったMorris.とうり丸さん、あしやんの3人は、この鯛よしで催された打上げに参加した。あれが無ければパクサとの親交も無かったかもしれない。そんな意味でも思い出深い建物である。
浪速区市下寺2-8にある「大阪市営下寺第一住宅」は、著者が特別の愛着を持っているらしいが、恵比寿町から歩いて行けそうだから、今度日本橋に行くときついでに見物しよう。
付録に香港、ソウル、台北の日帝総督府の建物が載ってたが、ソウルの総督府(国立博物館)は、とっくに無くなってしまったなあ。
こういった古い建物の写真集はやっぱり白黒写真のほうが絶対良いと再認識させられた。


05007

【普通植物図解】 小笠原利孝著 三橋國豊画 ★★★★ 去年(2004)の12月始め、今津の古本屋「蝸牛」で\500で手に入れた。ポケット判の植物辞典である。初版は明治42年(1909)だがMorris.が買ったのは大正10年(1921)の7版である。著者の小笠原氏は、大阪市立茨木中学校教諭である。今で言えば高校の生物の教師といったところだろう。
ポケット植物図鑑に折込の花鳥図もともとMorris.は古い植物図鑑は好きで、牧野富太郎のものを始め数冊を持ってるが、本書は大部分が1ページに1品種掲載なので、ポケット判にしては、図が大きく、説明の文章も短い。何よりも植物の図自体が丁寧で美しい。ただ印刷インクが切れかけていたのか、ページによってはインクがかすれて、ほとんど消えかけてるところさえある。
しかしMorris.がこれを買ったのは、巻頭に数ページあるカラー版の図、就中折込になってる花鳥図に見とれてしまったためである。折込といってももともとの判型が小さいから、15cm四方くらいの大きさである。しかしこの狭い空間に描かれている花と鳥の図は、植物図鑑の一挿絵とは思えない、とんでもなく素晴らしい一幅の芸術作品のように思えた。なるべく本は買わずにすまそうとしているMorris.でも、これが\500では、買わないわけにはいかない。
そして、その本を買った足で、西宮の大森宅を初めて訪問してご馳走になったのだが、意地汚く酔いしれたMorris.は、あろうことかこの本を忘れて帰宅してしまった。当座は、途中酔って、鞄を取り落としたことだけ覚えてたので、そのときに紛失したに違いないと泣き暮らしたのだが、後日メールで大森宅に置き忘れたことが判明。月末の忘年会のときに返して貰うことになって一安心。
そいで、忘年会で久しぶりに再会し大喜びしたものの、またもや酩酊したMorris.はきっちり、またまた本書を忘れて帰宅、翌日の大晦日に電話して取りに行く始末だった。
ゼニアオイの彩色図そんなこんなで?この本はMorris.にとってなかなかに印象深い愛蔵本になりそうだ。
大きく草本、木本に分かたれて、約600種が紹介されているが、「付録」として、菌類、藻類、有用植物、有害植物、地理書などに現はるる植物、主要なる科の特徴、類似植物の差異、教科書記載植物の参考事項、救荒植物、学校園の植物、植物分類表、植物科名表が掲載されている。実に力の入った、好著である。と思う。
興味深かったのは31種が挙げられている「救荒植物」で、大半が、若葉、若苗を茹でて水にさらして食べることになっている。

イヌガラシ、ハコベ、ハハコグサ、ギシギシ、オオバコ、クコ、タンポポ、スミレ、フジ、アカザ、ハハキギ、イタドリ、ヤハズソウ、ウコギ、ヒルガオ、エノキ、ユキノシタ、ミヅタガラシ、スズメノヒエ、ミノゴメ、ヘチマ、オミナエシ、カラスウリ、ハマエンドウ、カタバミ、ドクダミ、アオギリ、アキノノゲシ、ジュズダマ、ヒガンバナ、ハギ

以上のうち、ミノゴメ、カラスウリ、ハマエンドウ、アオギリなどは種や果実を、オオバコ、ヒルガオ、ドクダミは根を食べる。ヒガンバナは鱗茎からでんぷんを取るなどと、簡単に説明してあるが結構危ない気もするぞ。
また、有害植物のトップに「タバコ(煙草)」が挙げられているのも面白かった。
ところで、上に引用したカタカナの植物名表記に疑問を感じないだろうか?時代色を感じさせないというか、まるで新仮名遣いみたいな表記であることに驚かれるかもしれない。これは著者が索引に不便なことから「簡易なる一定の標準に依りたる表音的仮名遣法を用ふ」と、述べている。実に合理的精神の持ち主だったことが、これだけでも知られる。

序文は著者が教鞭を取った同校の加藤逢吉校長によるが、これがまた、なかなかに味わい深いものである。
前半で、昨今の教育関係出版の隆盛と、それを金儲けに利用する風潮への慨嘆などを述べた後、著者の紹介に移る。

僚友小笠原君、近著普通植物図解ヲ携ヘ来リテ序ヲ余ニ嘱ス。余素ト斯学ノ知識ニ乏シク、本書ノ内容ニツイテ、其ノ価値ヲ批判スル能ハズト雖モ、著者ノ人格ヨリ推シテ、彼ノ疎漏杜撰誤ヲ伝ヘ人ノ子ヲ賊フモノト、夐ニ其ノ撰ヲ異ニスルヲ断言セントス。君ハ温厚篤実ノ君子人ニシテ、夙ニ斯学ヲ専攻シテ造詣甚深ク、此ヲ以テ中等教育ニ従事スルコト殆ド三十年、孜々学ンデ厭ハズ、諄々教ヘテ倦マズ、特ニ実地ノ研究ヲ重ンジ、暇日ヲ得レバ採集ニ奔走シ、関東ノ原九州ノ野、北越ノ山南紀ノ浜、殆ド跋渉セザルトコロナク、其ノ熱心実ニ驚クベキモノアリ。今此人ニシテ此ノ種ノ書ヲ著ス。余ハ其ノ精確懇到ニシテ、後学ニ嘉恵スルコトノ大ナルヲ信ジテ疑ハズ。乃拙文ヲ顧ミズ、此ノ意ヲ巻端ニ書シテ序ト為ス。

いかにも古き良き時代の、校長と教師の親愛の情溢れる文章だなあ。


05006

【ジャミパン】江國香織:文 宇野亜喜良:画 ★★★ やたら彼女の絵本が書店で目立つような気がする。一種のブームなんだろう。Morris.は立ち読みしたこともあるのだが、いまいち食指が動かずにいた。本書は宇野亜喜良のイラストに惹かれて借りてきたのだが、やっぱりそれだけのものだった。
父不在の母娘と母と弟の近親相姦を匂わせる淡く淫靡な雰囲気のストーリーで、女の子が物語るスタイルである。どうしてこういうのが受けるのかがおぼろげにわかるような気もするが、しかしやっぱりMorris.の好みではない。
宇野亜喜良の絵はそういったエロティックさを物語以上に巧みに表現している。彼の少女のイラストは昔からMorris.を蠱惑し続けている。絵本でいうなら今江祥智の「あのこ」が最高峰ではないかと思う。ポスターや挿絵など、膨大な作品を残してるが、Morris.個人的には、集英社の安っぽい造本のボードレール詩集のイラストに固執している。ロットリングみたいな細い線だけのイラスト30点ほどで、そのうちのいくつかはいインクの沁み(心理テストに使われるデカルコマニ-みたいなもの)を効果的にバックに使ってあり、じつに魅力的だった。

母は美人というわけでもないのによくもてた。そして、これは私が母から学んだことの一つなのだが、もし男の人の興味をひきたいのなら、結局のところ、問題なのは美人かどうかということではなく、美人らしくふるまうかどうかなのだった。
母はそうふるまった。


こういったところが、女性読者を惹きつけるのかもしれないな。少女漫画に通じるものがある。


05005

【デジタルカメラを楽しむマクロ撮影の世界】布川秀男 ★★☆☆ 海野さんのジュニア新書といっしょに、デジカメ撮影マニュアル本のつもりで借りたのだが、これはどちらかとういと写真集みたいなものだった。おまけにその写真があまりMorris.好みではなかった。
著者は結構古ての新聞社所属カメラマンだったらしいが、あまり文章もうまくないし、特に本書はリコーのデジカメの宣伝みたいなところもあって、なんだかな、であった。
たしかにリコーのデジカメはコンパクトな機種でも2cmの接写が出きたりしてその点は羨ましかったりするのだが(Morris.のCanonは5cmまで)、やはり一般的な撮影のヒントなどが欲しいものである。
ただ、逆光をうまく使うとMorris.好みのハイキーで、夢幻的写真が撮れることがわかった。わかったからすぐ撮れるってわけじゃないんだけどね(^^;)


05004

【夢の泪】井上ひさし ★★★ 昭和21年東京を舞台に、弁護士夫婦と娘、在日朝鮮人やくざの息子、進駐軍相手の女性歌手二人、日系アメリカ軍大尉などが登場する戯曲で、東京裁判への批判が大きなテーマになっている。先般の「東京セブンローズ」につながるテーマの作品なので、あまり期待しないで読んだが、思ったよりは楽しめた。
やや挿入歌の部分が多すぎて、目で読むと空疎に感じられるということもあるだろうが、井上ひさしのあぶらののった時期の面白さを知ってるものには、ここ数年の作品はものたりないことこのうえない。
日本の平和憲法と民主主義への愛情、擁護の気持ちはわからぬでもないが、そういったドグマにとらわれてしまうと、意地悪な読者からすると読む前から先が見えてしまうので、読書意欲を殺ぐ結果になってしまうようだ。
本書では、日系アメリカ人の太平洋戦争中の強制集要所送り、日系志願兵、日本の中の朝鮮人などの問題をうまく取り入れてた分だけ、物語にふくらみが出ている。ただし、肝腎の東京裁判の虚偽性、作為性、日米両国政府の国家的エゴなどが、暗示的に示されるだけで、本当の意味でのドラマにならないまま終わってるのには肩透かしを食わされた気がしてしまった。

秋子 こんどの裁判はこれからの国際法をつくるはずなのよ。市ヶ谷の法廷に提出される証拠は、この国の指導者たちが、わたしたちが、どこでどうまちがえたかを教えてくれるはず。この裁判のために集められた証拠はそっくりそのまま貴重な歴史資料になるはず----。それなのに、一方は証拠を焼き捨て、一方は証拠を操作する。ちっとも大丈夫じゃない。
永子 (強く)母さん----!
秋子 (ハッとなって)-----あ、おかえり。
永子 ただいま。それでね、母さん、この二日間k健ちゃんの顔を見ながら考えたことがあるの。云ってもいい?
秋子 -----?
永子 連合国に----というか、ひとさまに裁いてもらっても仕方がないんじゃないかしら。ひとさまに裁いてもらうと、あとであれはまちがった裁判だった、いや、正しい裁判だった----そういって争うことになるでしょう。
秋子 じゃあ、だれが、だれを裁くの?
永子 (考え考えしながら)----わたしたちが、わたしたちを-----。
秋子 (ショックを受けながら)-----わたしたちが、わたしたちを---?
永子 (さらにゆっくりと)日本人のことは、日本人が考えて、始末をつける。----捨てられたはずのわたしたちが、わたしたちを捨てた偉い人たちと、いま、いっしょになって逃げているような気がするの。東京裁判の被告席に坐る人たちに、なにもかも負いかぶせてね。----上手に云えないけど、そんな気がして----健ちゃんはもう大丈夫よ。

この舞台設定から60年が過ぎた昨今、NHKの戦争責任論に関する番組の中での日本人によるあの戦争に対する擬似裁判のシーンが、自民党政治家の圧力で事実上放送禁止になったことが話題になってる。そういう意味では、なかなかタイムリーな読書だったような気がしている。


05003

【デジカメ 自然観察のすすめ】海野和男 ★★★☆☆ このところMorris.に受けの悪い岩波だが、この岩波ジュニア新書はそれなりに好感を持っている。小中学生向けの新書だが、それなりにちゃんとした著者がちゃんとした内容で、しかもわかりやすく書かれているから、Morris.みたいなタイプにはぴったりなのかもしれない。本書もその1冊で、昆虫写真の専門家でもある海野さんの近著である、といっても2004年6月発行だから、Morris.は半年以上待たされたことになる。
最近の新書でときどきあるカラー版というのがまず嬉しい。なんたってデジカメの本だから画像見本が白黒では興味半減だもんね。
そして、前から知ってはいるのだが、その写真がすべて素晴らしい。芸術的にとかでなく、虫好きでなくては撮れない写真ばかりだからだ。ここで画像をスキャンして紹介しても意味がない。興味ある方は海野さんのホームページを見てもらいたい。毎日更新の小諸日記が一押しである。
海野さんが初めてデジカメ使ったのが98年11月と書いてあるから、デジカメに関してだけならMorris.の方が早かったくらいだが、その後の差は歴然というか、天と地ほどの違いがある、というより、そもそも姿勢も機材も次元も別ものである。
しかし、本書のあちこちに、Morris.にも役にたつ情報やヒント満載である。

・デジカメの場合はCCDが小さいので、35ミリフイルムカメラと同じ画角で撮影しようとすると、ずっと短い距離の焦点距離のレンズが必要となります。たとえば2/3インチCCDを使った比較的大型のデジカメでは12ミリレンズが、34ミリフイルムの50ミリレンズに相当します。1/3インチCCDを使った小型のデジカメでは同様に、6ミリレンズが、35ミリフイルムカメラの50ミリレンズに相当します。

・花の写真でよく起こす失敗は、たいてい離れすぎていて小さくしか写っていない場合と、そのカメラの限界以上に近づきすぎてしまってのピンぼけです。

・手ぶれを防ぐには、速いシャッタースピードで写真を撮るのが一番です。だいたい、花にとまっているチョウなどあまり動かないものでも、ぼくは1/125以上の速いシャッター速度を使います。できればどんな場合でも1/250以上は切りたいところです。飛んでいるチョウは最低、1/500以上は切りたいところです。完全にとめるためには1/800以上が望ましい。----慣れない人は。最初はシャッター優先モードで1/250に固定して撮影した方が失敗が少ないのではないかと思います。

・夕方の明かりを夕方らしく撮るには、色味を調整するホワイトバランスは「オート」より「デーライト」に固定した方がよいでしょう。全体に赤っぽくなりますが、その方が夕方の雰囲気が出るのでぼくは好きです。

・被写界震度浅いマクロ撮影で、マニュアルフォーカスでのピント合わせの極意を一つお教えしましょう。まずピントを合わせたい場所を2ヶ所選びます。そこにピントが合ったら、もう一ヶ所ピントを合わせたい場所を選ぶのです。その三点にピントが合うカメラアングルを探します。そうすると任意の3点で平面ができます。平面ならかならずピントが合いますから、絞りを開放で撮っても、ピントを合わせたい場所にはちゃんとピントが合うのです。

他にもいろいろあるのだが、結局こういうことは自分でデジカメ写さないかぎりわからないし、デジカメの世界は分進秒歩の進みぶりだから、Morris.の場合は、二百万画素の愛機を自分なりに使いこなすほかはない。


05002

【アール・デコ】ベヴィス・ヒリアー 西澤信彌訳 ★★★ 原書の初版が1968年、日本語版が1977年、本書はその新版で86年にPARCO出版から出されている。まあアール・ヌーヴォーに関する本は結構数多く出ていてMorris.もいくらか読み漁ったこともあるが、アール・デコというのは、直線的でキッチュなイメージくらいであまり明確な定義もわからずにいた。本書の表紙のカッサンドラのポスターに惹かれて借りたようなものである。
どうやら初版の白黒画像に、パルコの「アールデコ展」からのカラー画像多数を加えての焼き直しで、ちょっと宣伝臭さも感じられるが、アールデコという存在自体がそういった胡散臭さをたぶんに含んでいるようで、そういう意味ではなかなか本質をついた一冊といえるかもしれない。
アール・デコは基本的に1920年から1930年前後、つまりは第一第二の両大戦の狭間の時期の芸術運動を一括して総称するネーミングのようで、色んな流派を強引にひとまとめにしたという感が強い。玉石混交というより、多数のゴミの中にいくつかのきらめきを認めることができるというべきかもしれない。だいたいが、カッサンドラがアールデコといわれると、えっ??と思ってしまうMorris.だったくらいだもの。本書に掲載されてる作家の中で、比較的まともそうなのは、ファッションイラストのエルテ、ガラス工芸のラリック、出来スタイルデザインのオッペ、いくつかの本の装釘くらいである。
それより、イントロに出てくる、アールヌーヴォーとアールデコの異称、別称の多様さが面白かった。

[アール・ヌーヴォー]ヨット様式/1900年様式/グラスゴー様式/うどん様式/世紀末(ファン・ド・シエークル)/リバティ様式/近代性(モデルニスタ)/植物様式(スティル・フロレアーレ)/青春様式(ユーゲントシュティル)/モリス様式/百合様式/地下鉄様式/波様式/鞭の一振り様式/ベルギー様式/マクシム様式/ヴェルド様式/ウナギ様式(スティル・アンギーユ)/ステューディオ様式/二十人展様式/サナダ虫様式/ガウディ様式/ウナギ様式(パーリング・スティール)/ギマール様式/分離派様式

[アール・デコ]ジャズ・モダーン/アステカ風通風孔/ポアレ様式/シャネル様式/バウハウス様式/新精神(エスプリ・ヌーヴォー)/デ・スティル/フォルカ様式/パリ25年様式/1925年様式/1925年型


そして著者のアールデコの一応の定義は以下のとおりである。

すなわち、1920年代に発展し、30年にピークに達した断定的な現代様式。アール・ヌーヴォーの最も簡素な側面、またキュビスム、ロシア・バレー、アメリカ・インディアン美術、バウハウスなど、さまざまな源泉から着想を得た。ロココあるいはアール・ヌーヴォーとは異なって、新古典主義のように、左右非相称(アンシンメトリイ)よりも左右相称(シンメトリイ)、曲線よりも直線にむかう傾向のあった古典主義的な様式。機械の要求に、またプラスチック、鉄筋コンクリート、強化ガラスといった新素材の要求に対応。そしてその究極目標は、ある程度まで芸術家たちを手工業に精通させることによって、だがそれ以上にデザインを大量生産の必要条件に適合させることによって、芸術と産業の間に昔からあった争い、芸術家と職人の間に残っていた貴族趣味的な差別を終結させること。

主旨はわからんでもないが、何ともひどい文章ではあるなあ(^^;) この部分に限らず訳者の日本語はかなり変である。
本文の途中に適当に挟み込まれた図版ページは本文と対応させるのがむずかしいし、ページの下部にある程度の余白を持ちながら、注釈は昔風に末尾に掲載するなど、レイアウトの杜撰さも読みにくさの一因である。くりかえしになるが、そういったどこかいいかげんなところがアールデコの本らしいと思うしかないようだ。


05001

【絵本 ジャズ・ストーリー】笹尾俊一 ★★★☆☆ 中央図書館で見つけて借りようと思ったが、中庭で黒猫を見張りながら読んでしまった(^o^)
副題に「ルイとビリーとレスターと」とあり、ルイ・アームストロング、ビリー・ホリデイ、レスター・ヤングの3人を取り上げているのだが、レスター・ヤングはビリーの添え物扱いだから、つまりは、jazz草創期の二人の巨人、サッチモとビリーの二人の絵本ということになる。
最初にはアフリカから奴隷としてアメリカ大陸に拉致されてきた黒人とニューオーリンズのクリオールのことなども取り上げてあるし、おおまかなジャズ発生の説明もあるのだが、絵本ということもあって、いかにも絵に描いたような要約に留まってる。本編の二人の音楽活動も、愛情を持って描いてるのだが、それだけに、ちょっといいとこ取りというか、オブラートがかかってるような感じがした。しかし、絵も文もてきとーに下手でそれでいてほんわかと暖かい雰囲気を醸し出していて、それなりに素敵な絵本だと思う。
サッチモの後半を全く評価してないのも、ビリーの悩みや苦しみを見て見ぬふりをしてるのも、それはそれで筆者の見識なのだろうが、二人には特別の思い入れのアルMorris.からすると、やっぱり物足りなくもあった。


05000

【日ペンの美子ちゃん】 岡崎いずみ ★★☆☆ 少女漫画雑誌の裏表紙中心に掲載されていた「日ペンの美子ちゃん」の復刻版というか、マニア本みたいなものである。正式書名は「あの素晴らしい日ペンの美子ちゃんをもう一度」だ(^^;)
著者はサザエさんをだしにした「磯野家の謎」の人で、他人のふんどしで相撲を取るのが得意なタイプらしい。本書は半分ほどが見開きカラーで、過去の作品を復刻、のこり半分に著者のコラムみたいなものがおかれている。実にお手軽なつくりだが、ともかくも72年から99年にわたる作風(漫画家4人)の変化などを見るだけでも楽しめるわけで、少女漫画ファンだったMorris.は、懐かしかった。
美子ちゃんキャラクタは4代いるそうで、いちおうそのラインナップだけを引用しておく。

初代美子ちゃん 1972-1984 矢吹れい子(中山星香)画 飯塚よし照案
2代目美子ちゃん 1984 森里真美(聖原玲音)画 飯塚よし照案
3代目美子ちゃん 1984-1987 まつもとみな(さとう元)作
4代目美子ちゃん 1988-1999 ひろかずみ画 がくぶん社員案


これによると、99年で雑誌への掲載は終わってるようだ。最近はほとんど少女漫画雑誌と縁遠くなったMorris.は、今でも掲載されてると思ってたので、驚いてしまった。ワープロ、PCの普及で、ボールペン習字の人気ががた落ちしたことから、日ペン(がくぶん)としてもそうそう雑誌広告に予算を割けなくなったのではないかと思われる。
4人の作品?を通して見ると、やっぱりMorris.は矢吹れい子作意外は、ぴんとこない。2代目は短期間で作品も少ないし、3代目はアニメタッチ、4代目は初代を地味目にした感じだし、時期的に雑誌見なくなってたから記憶にもない。
ストーリーといっても、9コマのうち3コマは、同内容のCMが使われてるから、同工異曲だらけであることはいうまでもないし、それでいいのだろう。
Morris.が、広告まんがで、思い出すのは、なんといっても、ロゼッタ洗顔パスタの「白子さん黒子さんである(^^;) あれも数回キャラクタが変わったような記憶がある。漫画キャラクタは結構いろいろあったと思うが、ストーリー風展開になってるものといえば、これと、中島らものカネテツくらいかな。たしかに美子ちゃんは、歴年の長さと頻度、定位置、カラーといった要素で突出していたと言えるだろう。



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