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Morris.2006年読書控
Morris.は2006年にこんな本を読みました。読んだ逆順に並べています。
タイトル、著者名の後の星印は、Morris.独断による、評点です。 ★20点、☆5点

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セル色の意味 イチ押し(^o^) おすすめ(^。^) とほほ(+_+)

【李箱作品集成】崔真碩 編訳 06142 【眠たい奴ら】大沢在昌 06141 【金正日の料理人】藤本健二 06140 【生かされて生きる真理】池口恵観文 浜田泰介画 06139
【嘘つきアーニャの真っ赤な真実】米原万里 06138 【不実な美女か貞淑な醜女(ブス)か】米原万里 06137 【THE WRONG GOODBYE ロング・グッドバイ】矢作俊彦 06136 【看板建築】藤森照信 文、増田彰久 写真 06135
【棟梁たちの西洋館】増田彰久 06134 【日本の花】柳宗民 06133 【生活と文化の陶磁器】海剛陶磁美術館 06132 【レオナルドのユダ】服部まゆみ 06131
【川辺の風景】朴泰遠 牧瀬暁子訳 06130 【最勝王】服部真澄 06129 【知に働けば蔵が建つ】内田樹 06128 【日本の近代建築 上下】藤森照信 06127
【マンガに人生を学んで何が悪い?】夏目房之介 06126 【朝鮮・言葉・人間】長璋吉 06125 【ソウル都市物語 歴史・文学・風景】川村湊 06124 【人はかつて樹だった】長田弘 06123
【時のかたち】服部まゆみ 06122 【昭和レトロ商店街】町田忍 06121 【おじさんはなぜ時代小説が好きか】関川夏央 06120 【オリガ・モリソヴナの反語法】米原万里 06119
【魔女のの1ダース】米原万里 06118 【韓国の美味しい町】鄭銀淑 06117 【ガセネッタ&シモネッタ】米原万里 06116 【シメール】服部まゆみ 06115
【「本」に恋して】 松田哲夫 イラストレーション内澤旬子 06114 【この闇と光】服部まゆみ 06113 【悲劇週間 SEMANA TRAGICA】矢作俊彦 06112 【絵小説】皆川博子 宇野亜喜良 画 06111
【北朝鮮に潜入せよ】青木理(おさむ) 06110 【首輪物語】清水義則 06109 【ハムレット狂詩曲】服部まゆみ 06108 【本を作る現場でなにが起こっているのか!?】監修 編集の学校/文章の学校 06107
【韓国一周友情ウォーク】金井三喜雄(文と写真) 06106 【在日の耐えられない軽さ】鄭大均 06105 【大好き!旭山動物園】多田ヒロミ 06104 【日本一元気な動物園】多田ヒロミ ザ・ライトスタッフオフィス 06103
【全一冊 韓国 KOREA 道の美と出会うたび】芸術新潮8月号 06102 【神戸の残り香】成田一徹 06101 【王道楽土の戦争 戦前・戦中編】吉田司 06100 【デジカメ時代の写真術】森枝卓士 06099
【目白雑録ひびのあれこれ2】金井恵美子 06098 【韓国現代史】文京洙 06097 【ナンシー関の顔面手帖】 06096 【恋ひ歌 宮崎龍介と柳原白蓮】 斎藤憐 06095
【韓国人の歴史観】黒田勝弘 06094 【万年東一】宮崎学 06093 【蝶】皆川博子 06092 【昭和名せりふ伝】斎藤憐 06091
【ウェブ進化論】梅田望夫 06090 【男女の仲】山本夏彦 06089 【方法叙説】松浦寿輝 06088 【数え方の日本史】三保忠夫 06087
【書林逍遥】久世光彦 06086 【遮断】古処誠二 06085 【韓国大衆歌謡史】イヨンミ(李英美) 06084 【新リア王 上下】高村薫 06083
【王道楽土の戦争 戦後60年篇】吉田司 06082 【本を読んで甲子園に行こう】村上淳子 06081 【千日紅の恋人】帚木蓬生 06080 【『マンガ嫌韓流』のここがデタラメ】朴一他 06079
【パンドラ・アイランド】大沢在昌 06078 【大名古屋語辞典】清水義範 編・著 なかむら治彦 画 06077 【コリアン三国誌】綛谷智雄 06076 【花の名前】 高橋順子 文 佐藤秀明 写真 06075
【「大人」がいない…】清水義範 06074 【ドストエフスキーの青空】宮尾節子 06073 【彼が狼だった日】北方謙三 06072 【病としての韓国ナショナリズム】伊東順子 06071
【安楽病棟】帚木蓬生 06070 【韓国が危ない】 豊田有恒 06069 【母と息子の囚人狂時代】見沢知廉 06068 【調律の帝国】見沢知廉 06067
【悪役レスラーは笑う】 森達也 06066 【インヒズオウンサイト】小田嶋隆 06065 【虫屋の見る夢】田中研 06063 【天皇ごっこ】見沢知廉 06062
【昭和歌謡大全集】村上龍 06061 【デザインの国イギリス】山田眞實 06060 【おかあさん「ぼけ」た?】末永史 06059 【黄色い蜃気楼】船戸与一 06058
【悲歌−古賀政男の人生とメロディ】佐高信 06057 【韓国の若者を知りたい】水野俊平 06056 【自分の謎】赤瀬川原平 06055 【半島を出よ 上下】村上龍 06054
【吉野弘詩集】 06053 【黒田三郎詩集】 06052 【風狂に生きる】三國錬太郎 梁石日 06051 【放浪の天才詩人 金笠】崔碩義 06050
【さらば、ライカ】田中長徳 06049 【バカの壁】養老孟司 06048 【朝鮮の近代】糟谷憲一 06047 【鳥頭紀行 くりくり篇】西原理恵子 他2名 06046
【熱き心に】小林旭 06045 【流行歌(はやりうた)西條八十物語】吉川潮 06044 【4TEEN フォーティーン】石田衣良 06043 【縮図・インコ道理教】大西巨人 06042
【墓石の伝説】逢坂剛 06041 【おっとりと論じよう】丸谷才一対談集 06040 【毎日かあさん カニ母篇】西原理恵子 06039 【日韓「禁断の歴史」】金完燮キムワンソプ 06038
【ニッポン泥棒】大沢在昌 06037 【パッチギ! 対談篇】李鳳宇 四方田犬彦 06036 【反自殺クラブ】石田衣良 06035 【外国語の水曜日】黒田龍之助 06034
【在日ふたつの「祖国」への思い】姜尚中 06033 【三たびの海峡】帚木蓬生 06031 【写楽・考】北森鴻 06030 【勉強ができなくても恥ずかしくない】橋本治 06029
【アキハバラ@DEEP】石田衣良 06028 【夢は荒れ地を】船戸与一 06027 【隠された風景】福岡賢正 06026 【サイバラ茸3】西原理恵子 06025
【小説家のメニュー】開高健 06024 【ダンボールハウス】長嶋千聡 06023 【青春の正体】みうらじゅん 06022 【ちゃぶ台の昭和】小泉和子 06021
【丸ごと 魚柄仁之助】 06020 【模倣犯 上下】宮部みゆき 06019 【カラオケを発明した男】大下英治 06018 【MONEY マネー】清水義範 06017
【じつは、わたくし こういうものです】クラフト・エヴィング商會 坂本真典 06016 【私が愛した金正日】落合信彦 06015 【アフリカの蹄】帚木蓬生 06014 【アフリカの瞳】帚木蓬生 06013
【「おじさん」的思考】内田樹 06012 【子どもは判ってくれない】内田樹 06011 【街場のアメリカ論】内田樹 06010 【古本道場】角田光代・岡崎武志 06009
【呪の思想 神と人の間】白川静+梅原猛 06008 【失踪日記】吾妻ひでお 06007 【文明開化の写真師】 小平豊 06006 【素晴らしい自然を写す】竹内敏信 06005
【元アイドル!】古田豪 06004 【沖縄論】小林よしのり 06003 【沖縄上手な旅ごはん】さとなお 06002 【獅子たちの曳光】赤瀬川準 06001
【美しい国のスパイ】水木陽 06064 【誤読日記】斎藤美奈子 06032

06142

【李箱作品集成】崔真碩 編訳 ★★★☆ 先月山根さんの講演で六甲学生青年センターに行ったとき、隣の朝鮮語講座クラスで、李箱の作品を集めた日本で最初の選集である本書を配布していた。何でも神戸大学文学部とと韓国語文学翻訳院の肝煎りで読書感想文コンテストを企画してて、感想文を書くことを条件に本書を配布しているとのことだった。Morris.は頼まれなくても(^^;) このMorris.日乘で読んだ本の感想文書いてるのだが、強制されて書くのは嫌だなと思い、そのときは遠慮することにした。荷物になるし、本棚のスペースも無いということだったのだが、応募要項みたら2等賞の賞品が韓国旅行券だった。うーーん、これは駄目元でもチャレンジしとくべきだったかな、と思い、後日研究室に電話して、神大文学部朴先生研究室まで貰いに行った。
締め切りは12月10日で、2,3日前にメールで応募すました。とりあえずこの本無料でもらえたということだけでも、損はない(^^;) うまくいけば韓国旅行券、佳作の図書券5千円でも貰えればラッキーと思った。
ところが、応募した直後に応募要綱を見直したら「対象作品:「李箱文学集成」に収録された小説作品に限る」とあった。なんてこったい、Morris.の応募作品は小説でなく、随筆をメインにした感想文(エッセイ)だった(>_<) あいかわらずのドジぶりである。
当然ながら、入選者の連絡にはMorris.の名はなかった。小説を対象にしたものを応募したとしても入選はおぼつかなかっただろう。なにしろMorris.は李箱の小説にはあまり惹かれなかったものね。
李箱といえば前衛詩人というイメージが強かったのだが、本書を読んで、彼のアウトラインを知ることができたのは、ありがたかった。
今さらという気もするが、せっかくだからMorris.の応募作品を、引用しておく。結構長いけど、悪しからず(^^;)

---------引用ここから----------
「李箱の異相」 (エッセイ) Morris.

李箱という名前は、89年に韓国語をかじり始めたころから気になっていた。
彼の作品を最初に意識したのは『朝鮮・言葉・人間』(長璋吉 1989)所収「李箱の児孩」に紹介された『烏瞰図』の「詩第一号」である。他にも数編の詩が引用されていたが李箱といえば長い間この詩だけが記憶に残っていた。フォルマリズムの典型といえそうな、繰り返しと奇抜さが目を引き、理解とは別次元で、その「難解さ」が一目でわかる作品ということと、京城の下町を疾走する13人の子供の不吉なイメージが余程印象的だったのだろう。
ペンネームが、日本人から「李さん」と呼ばれたことに由来するという「神話」もまことしやかに伝えられていたが、これは彼の本名が金姓であることからしても疑わしい。同じ発音の「異常(イーサン)」にかけたものと言うのが通説らしいが、そもそも「箱」という文字を名前に使用するというのも、李箱のやや異常な嗜好の発露だろう。
韓国の詩や韓国文学には冥い方なのだが、彼の名前を冠した「李箱文学賞」が、韓国ではかなり権威のある文学賞と言うことは知っている。また、15年ほど前に爆発的にヒットした歴史童謡?「韓国を輝かす百人の偉人たち」の中に「ナルチャックナイサン 飛ぼうよ李箱」と歌われていたことはよく覚えている。神々、王君、将軍、政治家、学者などがひしめく百人の偉人中に入選する詩人は、他に金笠(キムサッカッ)がいるのみだから、その知名度の高さは推して知るべしである。

しかし、なかなか彼の作品に接する機会は得られずにいたのだが、このたび、ハードカバー400p近い大部の「李箱作品集成」(作品社 2006)が天から降ってくるという僥倖に恵まれた。内容は朝鮮語で書かれた短編小説と随筆の日本語訳合せて20編、雑誌『朝鮮と建築』に発表された日本語で書かれた詩と巻頭言のすべてで、作品だけでも300pを超える。これに編訳者である崔真碩氏の長めの解説、李箱の生涯年譜、作品年譜も付されている。この作品集によって、これまで気がかりでありながら、手がかりをつかめずにいたBLACK-BOXの内部を覗き見ることができるのではないかと、期待がふくらんだ。

年譜、解説、日本語詩、巻頭言、小説、随筆の順に読み進めたが、やはり詩は歯が立たなかった。いくつかの作に、北園克衛の詩集『白のアルバム』(1929)を連想したのだが、この詩集だって、ほとんど理解できていない。

人形たちと私 私はさびしがらない
人形たちと私 私はかなしがらない
人形たちと私 私ははづかしくない
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
人魚たちとあなたたち あなたたちはさびしいのです
人魚たちとあなたたち あなたたちはかなしいのです
人魚たちとあなたたち あなたたちははづかしいです(北園克衛「薔薇の3時」部分)


こういったスタイルが李箱の詩作品にも投影されているように見えるが、これとて類語反復という、技法としては単純なもので、当時のモダニズム詩人たちの常套手段といえなくもない。李箱は日本の『詩と詩論』と後続の『文学』という詩誌に深い関心を寄せていたそうだから、彼らの作品から当時のモダニズムの詩法を学んだのはまず間違いないだろう。自動記述、繰り返しと変奏、数字・記号の羅列、無作為な言葉のパッチワークなど、模倣しやすい技法であるだけに、作品として成立しえるかどうかは、結局本人の「詩質」にかかっている。そういう意味で、李箱の作品は、建築を学び、絵心もあっただけに、語彙の取捨選択、構成などにおいて出色の出来といえるだろうし、直観的に読者に訴える力を持っていることでは、日本詩人の類似作の水準を凌駕していると思う。しかし、李箱の詩作品の真の理解にはほど遠いとの感を禁じえない。

年譜によると李箱は京城高工建築科を卒業して1929年から朝鮮総督府の建築課に勤務したとある。『朝鮮と建築』巻頭言に3度もモホリ=ナギの名前が出てくるから、李箱は当時先端的なバウハウス系の建築理論に惹かれていたようだ。その彼があのルネサンス様式の重厚な朝鮮総督府の、まだま新しい建物(1925竣工)に建築家として勤務したというのも歴史の皮肉な偶然を感じる。
『朝鮮と建築』誌表紙公募に入選した李箱のデザインにはロシア構成主義の影響が見られるようだが、これも日本経由の可能性が高い。李箱の詩やデザインの源泉は当時の日本のモダニズムに依拠するものだとしても、それが単なる模倣でなく、個性と感性に溢れた独特な作品世界に昇華しようとしたところに注目したい。

小説は、まずそのトーンの「暗さ」に参ってしまった。
代表作とされる「翼」からして、どうも苦手なタイプの作品である。妻の「ひも」というより扶養家族のような、精神衰弱気味の主人公が、妻にアスピリンと偽って睡眠薬のアダリンを連日飲まされていたことに気づいた後、「アスピリン、アダリン、アスピリン、アダリン、マルクス、マルサス、マドロス、アスピリン、アダリン。」と、つぶやく中に、マルクスの名をさりげなく混ぜ込ませてるのは意図的なものだろうか。この小説は1936年発表である。朝鮮語で書かれたものだから、日本側の検閲には引っかかりにくかったのかもしれないが、李箱が東京で不逞朝鮮人として逮捕された理由の一つにでもならなかっただろうか、などと、今さら余計な心配をしてしまった。
しかしこの作品を読んで、先の「韓国を輝かす百人の偉人たち」の歌詞に得心がいった。
主人公が三越百貨店の屋上で正午のサイレンを聞いて、これからの身の処し方を思い、突然脇の下の失われた翼を思い出し、「もう一度だけ飛んでみようよ。」と心の中で絶叫するラストシーンからの引用だったわけだ。この作品が国民的に李箱の代表作として認知されている証拠だろう。
この飛翔が自殺願望でなく、李箱自身の新生へのマニフェストだとしても、やはりその後の彼のあまりに短い生を思うと、希望より絶望を感じざるを得ない。

肉体がふにゃふにゃになるくらい疲労したときにだけ、精神は銀貨のように澄み渡る。ニコチンが僕の回虫腹に染みこむと、頭の中に決まって白紙が準備される。その上に僕はウィットとパラドックスを碁の布石みたいに並べるんだ。これはまさに恐るべき常識の病である。

「翼」の前文にある、李箱の「我が創作法」だが、ウィットとパラドックスに飾られながら、彼の生き方と彼の作品の本質が率直に記されているようだ。李箱の一生が「疲労」の中にあったことは年譜からも思い測ることができるが、疲労が精神を研ぎ澄ませることも事実である。「疲労ほどの快感はない」という意味の逆説的フレーズが金子光晴の詩にあったと記憶するが、李箱の場合は慢性的疲労が彼の作品の通奏低音として流れているようだ。

同類の暗さを湛えてはいるものの「逢別記」末尾の、女が歌う唱歌には心揺さぶられた。

「騙されても夢うつつ 騙しても夢うつつ ゆらゆらとゆらめく儚きこの世 陰鬱な心に火を点けてしまえ 云々

最後の「云々」はない方が良いと思うが、この響きには、あの「恨(ハン)」の、凄絶ながらはかなくやるせない「美」が宿っているようだ。
それと「失花」の冒頭、「ひとに/秘密がないとういうことは、財産のないようにまずしくむなしいことである」というフレーズにも注目したい。類似した表現は、他の作品にも散見する。「秘密」は韜晦という形で彼の全作品を覆っている。

そうして、あまり期待もせずに、最後に読むことにした随筆に意外なパンチを食らわされた。
ここにこそ李箱の最良の「詩」心が凝縮されているのではないかとすら思ってしまった。

随筆として収められている9篇のうち数編はコラム以下の短さである。
「EPIGRAM」と「十九世紀式」は自身の三角関係に関する報告、「美しき朝鮮語」はアンケート回答、「幸福」はショートショート、「失楽園」は散文詩連作ということもできそうで、純然たる随筆雑記は4編くらいだろうか。
「山村余情」(1935)と「倦怠」(1937)は、書かれた時期と場所は違うが、どちらも1935年8月の平安南道成川訪問を題材にしている。編訳者の解説にもあるように、両者は文体といい、語彙といい、雰囲気といい、際立って対照的である。
とりわけ、最初に置かれた「山村余情−−成川紀行中の幾節」に心惹かれた。
たしかに、ここには25歳李箱の、モダンボーイぶりを髣髴させる外来語や新語の語彙が溢れかえっている。多分に意識的なものだろうし、日本によって半強制的にもたらされた京城(ソウル)の近代文明と、古い朝鮮時代そのままの前近代的田舎との対比を強調するための小道具ともいえるだろう。しかし、ここで留意すべきは、それらの外来語/新語の、用いられ方/形容のされ方である。

パラマウント会社の商標のような出で立ちの都会少女が出てくる夢
セシル・B・デミルの映画のように華麗で贅沢な黄金色
あらゆる芸術の上に君臨する第八芸術の勝利
頭がそのままカメラとなり、疲れたダブルレンズで
フラッシュバックで流れる淡い哀愁
孤独なファンに送る断腸のスチール
スクリーンが夕暮れの中で見せるバイオグラフィーの予め準備された表情


野外で催された村の映画会を描写している場面もあるためか、映画に関する用語の多さが目立つ。
「パラマウント会社の商標」といえば、あのマッキンレー山を中心に22個の☆がまわりを取り囲む意匠である。もしかしたらコロンビアの商標(少女というより自由の女神だが)との「故意の?」取り違えかも知れない。
またセシル・B・デミル監督の作品といえばこの時期なら「十戒」「キングオブキングス」「暴君ネロ」といった歴史スペクタル中心である。「華麗で贅沢」という形容からは、初期のサイレント時代の作品群が連想されるが、ここでは「スパルタ人のように訓練されたミツバチ」が胡瓜の花に止まっている情景に続く文脈におかれているから、やはり史劇ものと見るべきだろう。
モダニズム芸術に映画の占める位置は小さくないし、李箱も京城の団成社あたりで洋画を観る機会も多かったと思われるが、ここでの映画関連用語の多用は、あくまで、パレットの絵の具、トランプの手札みたいなものとして利用されているように思われる。これらを含むモダン用語群は京城の風景の中に置かれるのとはひと味もふた味も違う、特殊効果の役割を果している。

センシュアルな季節の興奮がこのコサック観兵式をよりいっそう豪華に
キムチの清新な味覚が目薬スマイルを連想させ
ハトロン紙色の皮膚から青菜の匂い


並んだトウモロコシをコサック兵と見なし、キムチの味からモダンな目薬を連想し、青菜の匂いのする村の娘の肌をハトロン紙に例える、才気走った比喩と形容の巧みさは憎たらしいというか、ちょっと嫌味さえ感じられるほどだが、こういった言葉の用法に、当時の李箱の行き場のない精神のはけ口を見てとることもできよう。

蓄音機の前で首をかしげている北極ペンギン

映画を見にやってきて庭の莚に座り込む村人をペンギンに見立てるこの部分を、編訳者は「都会人」の視点から「田舎の住民」を差別した表現と見ているが、ここに蔑視があるとしたら、李箱自身の自己嫌悪、あるいは近親憎悪的な感情ではなかったかと思われる。南半球にしか生息しないペンギンにわざわざ「北極」を冠するのも李箱お得意の苦味混じりのウィットとパラドックスに違いない。
この随筆の4年前の「興行物天使−−或る後日譚として−−」(『烏瞰図』、『朝鮮と建築』1931)という作品に、[北極]」[蓄音機]「ペンギン」という3つの単語が用いられている。先行作では、ヲンナ(狂女)が堕胎してトランクに死胎を入れる場面や、北極星を見るという場面があり、整形外科医に引き裂かれたヲンナの目が北極に邂逅し、ヲンナの持ち運ぶトランクは蓄音機となり、蓄音機は赤い鬼青い鬼を呼び集める。鬼はペンギンである。さらにペンギンは水腫になるのだが、こういったイメージを先の比喩表現に敷衍すれば、単純に田舎と田舎の住人への蔑視と見るのはあまりに皮相的ではないだろうか。

しかし、この随筆の見どころは透徹した自然観察と、その独特な描写、文章表現技術にある。

月も出ない晦日の真っ暗な夜には、八峰山も人が寝床に入るように暗闇の中へと完全にいなくなってしまいます。

星がじつに都会よりも倍もたくさん出ます。あまりに静かなので、星の運行する様子が聞こえるようです。

このような自然への瑞々しい詩心こそ、アクロバティックな表現の奇矯さ、デカダン、頽廃を超えて、李箱が今もなお国民的に愛されている理由なのではないかと思いたい。

朝陽に苛まれて庭がばさつけば、私はその音で眠りから醒めます。一日という「荷」が庭に満ち溢れたなか、真っ赤なトンボが病菌のように活動します。消さずに寝た石油ランプには火が点いたままで、消失した夜の痕跡が古いチョッキのボタンのように残っています。
昨夜を呼び起こすヨビリンです。

「山村余情」には、李箱の田舎への蔑視ではなく、憧憬と愛情が、ややひねくれた形で表現されているのではないか。この「皮肉っぽさ、ねじれ」が、李箱のモダニストとしてのぎりぎりの見栄だったのかもしれない。

年譜1916年の「李箱が自分を理解してくれるたった一人の人間であるといった妹の玉姫が生れる」という記述がずっと気にかかっている。李箱の謎解きのキーワードになるのではないかという予感に捕われたのだが、作品集成にはこの妹に関連する記述は見つからなかった。これは今後の課題ということにしておこう。

結局、李箱というBlack−Boxは、依然として掴み所のない宇宙として存在し続けているが、このたび作品集成を数回読み返すことで、その箱のおぼろげな輪郭だけは体感することができた。それだけでも望外の喜びであるが、彼の作品の中に潜んでいる謎は逆に深まったかもしれない。それがつまりは李箱文学の魅力ということになるのだろう。

作品集成に刺激されて、長璋吉、金素雲、川村湊らの著作を再読したり、新たに読んだり、李箱の友人朴泰遠の「川辺の風景」まで通読して、韓国文学への関心が急速に高まるという思わぬ余得があったことにも感謝したい。

以上です。(イサンイムニダ)

---------引用ここまで-----------

李箱の随筆が気に入ったというだけの、まとまりのない感想文だね。特に課題とずれてたから、というわけでもなく、そのまま審査されても、落選しただろうな(^^;)


06141

【眠たい奴ら】大沢在昌 ★★★ 暴力団幹部が組織に損害を与えたため地方の温泉町に逃避行。ここで観光団体と新興宗教の跡目争いに巻き込まれ、大阪から別の暴力団の大物を追ってきたヤサグレ刑事と職業を越えた付きあいで事態を解決させていくという、いかにも作り物めいたストーリーで、新興宗教教主の元愛人への恋の鞘当て、教主の娘やら、教団内部の寄生虫やら、昔の子分で今は観光旅館を成功させている男とのからみやら、色んな要素を詰め込んで500pほどの長編にしたてあげ、そこそこ読ませる技量はさすがのものである。
10年ほど前の作品だが、当時の若者向けや子供向けの箸にも棒にもかからない作品よりは読み応えがあったし、新宿鮫につながるキャラクタの二人の主人公の描き方にも興味を引かれた。とはいうものの、初めから時間つぶしとして借りたもので、その期待は裏切られなかった。
あいかわらず、というか、女性登場人物が書けてないところは見事なほどだった。
「しばたいた」というのが頻出するのはやはり目障りである。



06140
【金正日の料理人】藤本健二 ★★☆☆ 「まじかで見た権力者の素顔」と副題にあるが、82年に寿司屋をやるため北朝鮮に招聘され、翌年帰国したものの、87年に再び渡朝して、高麗ホテル地下食堂で働いてるうちに、金正日の目にとまり彼の専属料理人になる。その間に金正日の喜び組の若い美人歌手に惚れて、疎遠になった日本の妻子と離婚して、歌手と再婚する。
金正日の側近待遇となり、豪勢な生活を保障され、各国に料理材料の買出しに出かけたりするが、96年伊丹空港で出入国管理法違反扶助で逮捕され、北朝鮮に戻らないという言質を取られて釈放、そのご沖縄の店を転々としているうちにまた北朝鮮の工作員と接触し、98年にまた北朝鮮へ行き、金正日の料理人に復帰するが監視体制が厳しくなり、耐えられなくなり、2001年4月の日本での買い付けを機に北朝鮮へは帰らなかったということになる。
ざっとこういった履歴で、その間に見聞きした金王朝のあれこれをざっくばらんに暴露した本なのだろうが、どうもあちこちに眉唾っぽい記述があるし、著者自身がかなり食わせ者のようでもある。全部ウソともいえないがどうも妄言、作り話、自己宣伝/弁護が多すぎるように思えてならない。
たしかに寿司職人としての腕はあるようだし、スポーツ万能、賭け事に通じていて、金正日に好かれたのは事実のようだが、日朝を行ったり来たり(逃げたり)、そのくせまた戻ったりの繰り返しも、本人が書いている以外にいろいろとウラがありそうでもある。
いくつかの写真はそれなりに珍しいし、希少価値もありそうだが、本文を通して読んだ後に何も残らない空疎さがある。出版元があの「新しい教科書」扶桑社というのも、何となく胡散臭さを増しているのかもしれない。



06139
【生かされて生きる真理】池口恵観 文 浜田泰介 画 ★★★☆ 仏教の六波羅蜜と十善戒を分かりやすく、平明な短い現代文で紹介した本で、Morris.はまず、こういった類の本は読まないのだが、挿絵の蓮の絵をはじめ写真と見誤ったので、この絵を見るためだけに借りてきた。
「蓮の輪廻」というこの十幅の絵は京都東寺の大日堂の障壁画らしい。いやいや大したものである。芽吹きから成長開花して、枯れ果てるまでを通時的に表現したもので、これも仏教輪廻の絵画化にはちがいないが、それぞれが鑑賞に耐える作品である。
そしてついでに、本文の方も短いものだから15分くらいで通読してしまった(^^;) 

この世のすべてのものは、うつろうこと
生れては消える、形あるものは滅びるということ


という「宇宙の原則」は、虚無主義に近いな。

六波羅蜜--六つの善いおこない
1布施(分かち合うこと 与えること)
2.持戒(規律を守った生活をすること)
3.忍辱(苦難を忍受し克服すること)
4.精進(仏法を究めるために修行すること)
5.禅定(修行し真理に近づくこと)
6.智慧(本質を見極め、真理を悟ること)

十善戒--「善」と「真」を得るための十の戒め
1不殺生(ころさず)
.2不偸盗(盗まず)
.3不邪淫(おかさず)
.4.不妄語(いつわらず)
5.不綺語(かざらず)
6.不悪口(そしらず)
7.不両舌(たばからず)
8.不慳貪(むさぼらず)
9.不瞋恚(そねまず)
10.不邪見(あやまたず)


お題目だけでもありがたそうである(^^;) 六波羅蜜の「精進」と、十善戒の「不悪口」を引いておこう。

[精進]
生きることは悩むこと。
生きることはひらめくこと。
生きることは煩うこと。
生きることは輝くこと。
生きることは走ること。
生きることは止まること。
一縷の望みが絶たれ絶望した瞬間。
天に舞い上がるが如く隆盛を極めた一寸。
人の一生は振り子のようなものです。
みんなに楽を与えるのが慈。
みんなの苦しみを取り除くのが悲。
人を哀れむ心、いつくしむ心が仏の心です。
仏の道は日常の生活のなかにこそ、
求められ、また、生かされるものなのです。

[不悪口]
言葉ほど毒にも、薬にもなるものはありません。
言葉は良くも悪くも、強い影響、
命運を左右する結果をもたらします。
悪口は自分自身の身を滅ぼし、
時には国をも滅ぼすことがあります。
他人の尊厳を無視して軽くあしらったり、
誠意のない心で接すれば、
その報いはいつか自分に跳ね返ってくるものです。
しかし、慈悲と慈愛に満ちた言葉は、
多くの人の命を瞬時に救うことも、
世界の人々の意識を平和へと導くこともできるのです。


後のはやっぱり説教臭いけど、前の一文なんかちょっと詩みたいでもあるな。やっぱり宗教って阿片なのかな?


06138

【嘘つきアーニャの真っ赤な真実】米原万里 ★★★ 2001年刊で、大宅壮一ノンフィクション賞受賞作。ギリシャ人のリッツア、ルーマニア人のアーニャ、ユーゴスラビア人のヤスミンカの3人の同級生との15年ぶりの出会いを描いたドキュメントである。彼女がチェコのロシア語学校で一緒に学んだ3人の少女たちの変貌とそれぞれの国の政治事情、それぞれの女性の生き方への著者の感慨や共感や反撥が綯い交ぜになっている。
勉強嫌いだったリッツアが医師として活躍していたり、愛国家のアーニャが英国人と結婚してイギリスで暮らしていたり、絵描きになってるはずのヤースナ(ヤスミンカ)が、外交部で通訳をやってたり、と意外な現実に驚きもするのだが、音信不通だった昔の友を異国の地で探し回り、やっと再会できたときの喜びの場面はいずれも感動的である。この体験が後に長編小説「オリガ・モリソヴナの反語法」に結実したのだろう。まだ彼女の著作の半分くらいしか読んでいないが、このロシア語学校の回想は、何度も何度も繰り返し描かれている。使いまわしとも、ワンパタンともいえそうだが、圧倒的印象深さと、思い入れの強さ、特異な環境での体験が、著者のかけがえのない記憶として刻み込まれたのだろう。
共産主義者の父の影響もあってか、東ヨーロッパの共産主義国家の政治的状況もきちんと把握している。チャウシェスク政権の高官として貴族的生活をしていたアーニャの家族が、チャウシェスク失墜、殺害後も、特権階級として贅沢三昧の暮らしをしていることへの疑問が、批判に変わり、それでも友人のアーニャに直接言えないもどかしさがあったり、ボスニア・ヘルツェゴビナの大統領まで歴任した父を持つヤースナが平均的な暮らしをしていることへの共感を吐露したりしている。島国日本とちがって、複雑に国境が入り組んだ東ヨーロッパの民族問題の複雑さは、Morris.の想像を超えるものがある。


06137
【不実な美女か貞淑な醜女(ブス)か】米原万里 ★★★☆☆ 94年刊の本書は彼女の著書としてはかなり初期のもので、出世作と言っていいのかもしれない。もっとも、Morris.は彼女のファンとしては奥手というか、彼女が亡くなった後で読み始めたファンである。かせたにさんのブログで彼女の名を散見して、いつか読もうと思いながらほったらかしにしてるうちに、彼女の訃報が届き、あわてて読み始めて、ついつい深みにはまりかけている。
日本でも有数のロシア語通訳としてのキャリアを生かした、翻訳を通じてのエッセイ集だが、教えられることの多い一冊だった。
通訳=売春婦論という前書きの中で、通訳を変圧器に例えるところから、うまいなあ、と思ってしまった。「Translater」と「Transformer」は確かに類似した単語ではあるけどね。
翻訳に限らず、ことばそのものへの深い洞察、そしてMorris.がいつも気にかかっていた差別語の言い換えに関しても、気持ち良いくらいの自論を展開してくれている。

例えば、「かたわ」→「身体障害者」→「身体の不自由な方」と進んできた言い換え、現在二番目までが禁句で、このままいくと、三番目もまもなく禁句になるはずだ。
コトバを禁じても、そのコトバによって表現されたことを禁ずることは、不可能であるということに尽きる。概念は、その本質として、必ず表現されることを求める。「かたわ」に蔑視をこめて使っていた人間が蔑視を残したままにしていくら「身体障害者」とか「身体の不自由な方」とか言い換えても、蔑視はそのまま言い換えられるコトバに継承されていくだけ。
ちょうど悪性の病原菌が、あるキャリアから別なキャリアに伝染したての潜伏期間には、病状は顕在化しないものの、そのうち必ず頭をもたげてくるようなもの。安直な言い換えは、症状の顕在化した患者を治療せずにどんどん見捨てるくせに、根本のところの病原菌を退治することには不熱心なものだから、やたら感染者を増やすばかりのヤブ医者に似ていなくもない。


この言い換え以外にも、禁忌事項への抑えがたい人間の意識集中や、「罪深い」単語を禁止するとイモヅル式にその単語に連なる罪のない単語まで禁止されるといった指摘もあるが、差別語を差別する差別語排斥論者を絶対差別したいMorris.としては、まず、この言い換えなんてのは撤廃して貰いたい。

Morris.が昨年センターの朝鮮語講座ですごく効果があったと思う「シャドーイング」に関する、プロの通訳としての意見も興味深かった。

通訳者養成という観点から見ると、シャドーイングは功よりも罪のほうが大きいのではないかと。
ただし通訳者に必要とされる別な技能、すなわち正確で美しい発音やイントネーション、自然で無理のない文型や表現を身につけるためには、やはりシャドーイングは捨てがたいトレーニング方法である。日本語であれ、英語である、ロシア語であれ、その国の標準語のてほんたるべく訓練されたアナウンサーの発話に、耳や口を慣れ親しませていく有効な方法であることだけは間違いない。
だからシャドーイングの教材として、間違った発音やイントネーション、誤った構文や言葉遣いのスピーチなどを取り入れることは、絶対に避けなくてはいけない。


ふーん、なるほど。韓国語の「発音の不自由な人」であるMorris.は、やはりこの訓練は有効なのに違いない。でも、そうなるとシャドーイングの面白さ?はかなり軽減しそうな気もする。
彼女が学んだチェコのソ連大使館付属学校でのロシ語の授業と、日本の学校での「国語」の授業との違いは、確かに日本の義務教育の国語教育の本質的問題を浮彫りにしているようだ。大雑把にかいつまんでおく。

1.教材はダイジェストやリライトされてない文豪達の実作品をそのまま使用.
2.詩や散文の古典的名作の暗誦
3.教科書の朗読の後、内容の要旨を要求。自分の読む速度と理解する速度のシンクロ。
4.作文は自由に書くのでなく、模範的文学作品を分析してコンテを作らせ、それに沿って書き上げる。


おしまいの作文指導には、疑問点が無いでもないが、ともかく、自国の文学作品を徹底的に叩き込むことと、理解するための学習法と言う点では日本の国語学習とは雲泥の差がありそうだ。
しかし、彼女の本には、こういった堅いめの内容ばかりでなく、いや、軟らかめというか、ギャグや落し話やお笑いエピソードなどの方が多いくらいである。
だからこそファンも多いのだろうが、Morris.も遅まきながら彼女のファンとしてこれからもしばらく読みつづけてみよう。


06136

【THE WRONG GOODBYE ロング・グッドバイ】矢作俊彦 ★★★☆☆ 2004年発行のハードボイルド長編である。帯には「『リンゴォ・キッドの休日』(78年)、『真夜中へもう一歩』(85年)に続く、二村永爾の最新作!!」と書いてある。前の2作は読んでないが、7年、9年のスパンでの連作というのはなかなかのものである。
彼の作品では「あ・じゃぱ!」に強烈な印象を受けたのだが、このタイトルをMorris.はずっと「あ・じゃぱん」と思ってた。先日図書館で見たら最後の文字は「!」と「ん」が合成されたもので、Morris.が「あ・じゃぱん」と思い込んだのもむべなるかなである。ちなみにさっき、ネットで検索したら、「あ・じゃぱ!」「あ・じゃぱん」「あ・じゃぱ!ん」という表記が入り混じっていた。
先日読んだ「悲劇週間」が、PCを駆使してチャンドラーの「長いお別れ THE LONG GOODBYE」のハイパーサンプリング再構成したものだという、著者自身のコメントが出てることを後で知ったのだが、こちらは、タイトルがそのまま同作品のパロディになっている。
中年の警部が飲んだくれの日系米人と懇意になり、彼が引き起こした事件に巻き込まれ、警部を解任されて、それでも事件に深くかかわり、台湾のマフィアや、ベトナム生れの天才女流バイオリニストの養母失踪を追う中で、先の米人の事件につながり、日米の裏取引なども関連してやたらスケールの大きな事件の一端に触れてしまうなど、お膳立ても良く出来た作品だと思う。残念だったのは、Morris.が多忙のなかで、細切れに読み進めたため、スピード感が味わえなかったし、途中で中断したためストーリーがよく把握できなかったり(おいおい(^^;))したことだった。
その代わり、というか、細部のおっそろしくモノマニアックな描写や、遊び、薀蓄、スタイリッシュなギャグの応酬などを楽しむことが出来た。
たとえば、バイオリニストの養母のマンション近くの割烹料理屋の娘のどうでもよさそうな発言

「−−そう言えば、お酒だの肉だのえらさら持ってらしたわ」

の中の「えらさら」という語など、初めて見た。意味はおおよそ見当がつくが、辞書やネット検索でも見つからなかった。たぶん方言なのだろうが、こういったことばをわざわざ使うあたりにも矢作のこだわりを垣間見ることができるようだ。
Morris.はハードボイルドとはあまり縁がなく、チャンドラーの件の作品すら読んだかどうか記憶に無いくらいなのだが、本書は日本のハードボイルドとしては破格の、スケールは大きく、表現は緻密な、稀に見る秀作だと勝手に断定しておきたい。こうなると前二作も是非読まねば、と思ってしまった。


06135

【看板建築】藤森照信 文、増田彰久 写真 ★★★ 「看板建築」という言葉は耳に馴染んでいたし、神戸、大阪の下町商店街で良く目にする建物だと思っていたのだが、本書を読んでそれが誤解だったらしいことを知らされた。そもそも「看板建築」の命名者が藤森自身だったとういことすら知らずにいた。

さて、この看板建築の四文字がいつこの世にはばかり出てきたかというと、日付まではっきりしていて、昭和50年10月11日で、場所は東京は大岡山の東京工業大学の一室だった。
なぜ、その日にその場所ではばかり出てしまったかというと、責任はひとえに私にある。僕は、当時27歳の学生で、堀勇良といっしょに東京建築探偵団の活動に熱中していて、その探偵活動の過程でたまたま出会った一群の建築形式に名を与えようと思いたち、堀勇良と無い智恵を絞ってあの四文字を考え出し、忘れもしない13年前の10月11日の日本建築学会大会の席上で発表してしまったのだ。

大正12年の大震災から昭和3年の区画整理完成まで、こうした出来事があった後、はじめて人々は自分の店を本格的に建てることになる。
そして、看板建築が誕生する。
もし、看板建築誕生までの、すべての人々が加わらざるをえなかった5年間の都市計画ドラマがなかったなら、おそらくわが看板建築もあそこまでは盛り上がらなかったにちがいない。


要するに看板建築は昭和3,4年ごろの東京で、関東大震災後の復興期の建築パターンとして登場したものらしい。

看板建築は、洋風デザインをベースにしながら、しかし、洋風だけでは満たされない下町の商店主や職人たちの心の底にたまる江戸の記憶を呼びさまし、形を与えたのだった。
そして、これ以後、東京の街の建物に江戸の記憶が現われることはない。看板建築がその最後の炎であった。

藤森によると看板建築はほとんど東日本のみの特異な建築様式で、西日本にはないと断定している。と、するとMorris.がこれまで看板建築だと思ってたのはなんだったんだろう。「擬看板建築」? それとも、「看板」ということばに惑わされて、看板が目立つ建物や、建物の前面が看板めいた造りのものをそう思い込んでいたのかもしれない。まあ、擬看板建築だってそれなりに面白いので、Morris.もこれから街中で見つけたら紹介していきたい。
本書の出版が1988年。すでに20年近くがすぎている。たぶん、本書に掲載されている看板建築の半分以上が地上から消滅していると思う。いや、ほとんど壊滅状態かもしれないな。
看板建築とは直接関係無いが、何気なく使ってた「しもたや」という言葉の語源がわかったのがありがたかった。

造りは商店でありながら実際にはただの住宅になっている建物を[仕舞屋(しもうたや−しもたや)]という。


06134

【棟梁たちの西洋館】増田彰久 ★★★ 建築探偵藤森照信とよくつるんで写真を担当しているので名前は知ってたが、日本の西洋館の建築写真家としてはかなりの人らしい。本書はいわゆる「擬洋風建築」のアルバム本みたいなもので、役所・病院、学校、ホテル、宗教施設、邸宅の分野別に、約30件の建築物を紹介している。Morris.もこういった和洋折衷の建物の面白さはよくわかる気がするのだが、こうやってずらずらずらっと並べられるとちょっと食傷気味になってしまう。確かに写真は見事で綺麗なのだけど、カラーになるとかなり安っぽさが際立つ気がする。この人の白黒の建築写真は真実素晴らしいだけにちょっともったいないと思った。もっとも一般向けの写真本でいまどき白黒では売れないだろうことは良くわかるから、無理な注文だろうなあ。
エンゼルと龍が同居している長野県松本市の開智学校は機会があれば一度拝観(^^;)したいものである。
こういった建物とは、見知らぬ町で偶然出会うというのが一番望ましいのだが、そうそうそんな機会はありそうにないので、ガイドブックに頼ることになるのだろう。


06133

【日本の花】柳宗民 ★★ ちくまのカラー新書の一冊。著者はあの柳宗悦の四男で、育種花園を経営して、園芸に詳しいようだ。「雑草ノオト」など読んだ覚えがある。本書は春夏秋冬それぞれ12種の草花や花木のコラムにカラーイラストを添えたもので、園芸関連の新聞か週刊誌に一年間毎週連載したもののような気もするが、掲載誌などは明記されてない。
植物名は各コラムのタイトルにはひらがなで、本文ではカタカナで記載されている。せめてタイトルには漢字名も併記してもらいたかった。ラテン語学名はタイトル下とイラスト中にご丁寧にダブって記載してあるだけに嫌な気がした。そのくせ本文では所々で漢字名議論を展開している。
内容は植物こぼれ話に園芸関連の記事を重ねた体のもので、「ハマナシ」を「ハマナス」と呼ぶのは間違いでこれは森重久弥の「知床旅情」の影響が大きいとか、日本の菫で一番匂いが強いのはヒゴスミレだとか、小ネタはあるが、全体としては退屈なものが多い。何か文章がくどいのと、あまりにしょうもない駄洒落が多いのには辟易させられる。

アヤメという言葉は古くは、菖蒲湯に使うサトイモ科のショウブ(白菖)のことであったて、いわゆるアヤメは、葉がショウブに似て、花が美しいところからハナアヤメと云われていたという。これがつまって単にアヤメと呼ぶようになったらしい。ショウブにとっては己の看板を盗られたようなものだ。ハナショウブの方は、葉がショウブに似て、花が美しいためにこの名を付けられたものだが、これも花を略して単にショウブと呼ぶ。本物のショウブは二重に看板を盗られたようなものでさそ恨んでいることだろう。

ね、くどいでしょ。いやくどいというより単なる悪文というべきかも。植物に変に感情移入して「恨んでいることだろう」なんていう表現もやたら出てきてこれも鬱陶しい。
イラストは相田あずみという人が描いてるのだが、出来不出来が極端である。Morris.は表紙の菫のイラストに惹かれて本書を手にした。そのくらいこの菫はなかなか美しいボタニカルアートといえる。ところが、ツバキの絵なんかこれはもうほとんど醜悪に近い(>_<)。 この人は草花が得意で花木はにがてなのかもしれない。アヤメ、イチハツ、ハナショウブなどアヤメ科のイラストは揃って素敵なのに、ボケ、モクセイ、サザンカなどはかなりひどい。それにこれはイラストレイターの責任ではないが、イラストに添えられた和名が、イラストと違ってるときがある。(「キンモクセイ」のイラストに「モクセイ」など)

「ムクゲの語源は木槿の日本読みが転化したのだそうだが」とあるのは、多分「大言海」の語源説からの転用だろうが、「日本読み」というのは理解できない。「大言海」には「音読み」とある。
しかし、Morris.はこれは韓国語ムグンファ(無窮花)の漢字の音読みから来ているのではないかと思う。「木槿」の音読みは「もっきん」でこれが「むくげ」になるとは考えにくい。そのてん「無窮花」は「むきゅうか」、「花」は「華」に通じるから、これを「げ」と読んだら「むきゅうげ」 かなり「むくげ」に近づくんぢゃないかい(^^;) 神戸学生青年センターの朝鮮研究団体「むくげの会」のご意見も聞いてみたいところである(^^;)


06132

【生活と文化の陶磁器】海剛陶磁美術館 ★★★☆ 韓国利川市にある海剛陶磁美術館の「学術叢書第18冊 生活と文化の詰まった陶磁器」と銘打たれた美麗なカラー写真集である。たぶん同タイトルの展示会を開きそのときのカタログとして製作されたものだろう。
Morris.がここを訪れたのは2004年2月で、このとき受付いた大川さんとパクさんという女性二人といろいろ話して、名刺も置いてきたので、それで送られてきたのだと思う。一部に日本語と英語の訳も付されていて、日本語訳が大川久美子、英訳がパクスギョンとなっている。苗字が同じだから受付の女性二人が翻訳担当者と思われる。
陶磁器のカタログというのは、一般的に言って余り面白くない。いくら名品揃いだといっても、陶磁器は地肌の色合いとテクスチャが生命だし、どうしても写真では表面的で、個々の差異がはっきりしない。どれも似たように見えて退屈するのだ。
ところが本カタログは、飲料容器・飲食容器・運搬容器・貯蔵容器・閨房容器・舎廊房容器・建築部材・各種道具・祭礼用器・副葬用器の10分野に区分して、幅広い陶磁器の世界を紹介しているため、普段あまり目にしない面白い陶磁器が掲載されていて、飽きることなく楽しむことが出来た。
70点が取上げられているが、印刷の精度、撮影の技術も高く、巻末の解説(韓国語のみ)も、簡潔で解りやすかった。
陶製の朝鮮将棋の駒や、棒計りのおもし、簾の下に吊るす碍子みたいな陶塊、菓子餅に模様を付けるスタンプ、陶製の薬研、日時計、煙管など、遊びや日用の道具などが興味深かった。
また祭礼用器の白磁の星型の両耳が付いた碗は、紅茶碗として欲しいくらいのものだったし、裏に「茶 仰」の銘の入った白磁碗も日用の湯呑茶碗に使いたい気がした。
海剛美術館の主宰者である柳光烈(海剛二世)は青磁専門の作家で、Morris.は朝鮮の陶磁器では青磁より、粉青沙器(特に魚模様)一押しだったが、ここ数年はどんどん白磁に惹かれている。本カタログでも白磁の鉢やぐい飲みなどにはつい溜息がでてしまった。別に高価な名品など要らない(欲しくても手に入る心配はない(^^;))が、こんど訪韓したら、ガラクタ屋や蚤の市でも冷かして手ごろな白磁の碗を買いたくなってしまった。
ところでこのカタログの最初のページは真っ白で、点字が印されている。なかなかデザイン的には斬新で感心したのだが、盲目の人がこのカタログの内容を味わうことは不可能だろうから、ちょっと真意を測りかねるところでもある。
海剛陶磁美術館のHPはhttp://www.haegang.org/である。所蔵の陶磁器100点以上の画像を見ることができる。


06131

【レオナルドのユダ】服部まゆみ ★★★★ レオナルド・ダ・ヴィンチをテーマに書くとなると、なまなかな手腕ではものにならないことは自明だろう。しかし本書は実に丹念にレオナルド関連著作と、15世紀末から16世紀の史実や人間関係を調べ、レオナルドの弟子や、当時の著述家などを交互に語り手に擬しながらストーリーを進めるというややもすると煩雑になりやすい構成をとっているのに、物語進行に乱れがなく可読性の高い、それでいて当時の空気すら感じさせるような描写、登場人物の性格や容姿の書き分けなど並々ならぬ手腕を見せている。
さらに、モナリザの秘密にも関する大胆な仮説まで立てている。(ネタバレになるので省略) そういった芸術ミステリーの要素もある、実に中身の濃い作品である。
万能人レオナルドの芸術論、人間哲学なども端々にちりばめられているし、著者本人のそれが投影されているようにも思われる。登場するルネッサンスの至高の絵画作品への憧憬と賞賛ぶりも、玄人(銅版画作家)ならではの洞察に裏打ちされているし、人間という存在と人間の創造の価値をとことん重要視する、レオナルドの姿勢への共感が熱っぽく語られている部分は、小説を読んでいることを忘れさせられたりもした。
タイプは違うが、辻邦生の出来の良い方の作品に通じる世界観を感じてしまった。
自然の描写も念が入っている。貴族の坊やとその従者の少年とレオナルドの最初の出会いの時期のアッダ川上流の風景。

逆巻く水の飛沫、渦巻き、流れ落ちる水、上流に行くほどアッダの流れは激しく、風景も荒々しくなり、平坦な緑の野に変わって褐色の岩と崖が目につくようになる。緑はより深く、鳥の数も増えた。川には青鷺、白鶺鴒、山鴫、林には灰色鶲、鶫、小綬鶏、四十雀、末黒虫喰、小百舌…鳴き声だけで師匠は鳥の名前を挙げ、見つけると僕らに示す。小麦畑が真っ赤な罌粟で覆われるようになると川向こうの田園にも行った。燕が滑空し、黒歌鳥が美しく囀り、雀が騒ぎ、負けじと椋鳥の大群がりゃーりゃーと空を横切る。蝶や虻や蝿、干し草の乾いた香りと夏草の強烈な匂いに土の匂い、それらに路上の牛糞の臭いが混じり合い噎せるような熱気が僕らを包む。

鳥だけでも14種類が登場ししかもそれがすべて漢字表記というのもMorris.の好みにかなう。においのJ表現でも「香り」「匂い」「臭い」を使い分けるなど著者の文章美学をうかがうことができる。途中の「変わって」は「代わって」の誤植かもしれないが(^^;)
いずれにしても、彼女の作品はこれまで外れがない。もう少し読みつづけていこう。


06130

【川辺の風景】朴泰遠 牧瀬暁子訳 ★★★☆ 1910年生れの朴泰遠は日本留学してモダニスト作家として注目を集め、朝鮮戦争時に越北して86年に死亡。本書は36年から37年に文芸誌『朝光』に連載されたもので50章もあるが、特に全体のストーリーというものはなく、清渓川の川辺の洗濯場のアジュマたちの噂話に始まり、床屋の小僧の人間観察、貧しい人々の暮らしを実に丁寧に描いた「世態小説」とも呼ばれているが、この9月の韓国旅行で一番印象的だった清渓川の昔の風景をじっくり味わえるという意味で、Morris.には格別の思いがあった。
今やソウルの一番の観光スポットといえそうな清渓川だが、もともとはソウルの下水に近い存在で、半ばスラムめいた一帯だったようだ。
朴泰遠は「九人会」のメンバーで李箱とも友だち付合いと言う関連でこの小説を読むことになったのだが、そういうこととは関係無しに、この小説世界にどっぷり浸かってしまった。
好色な小金持ちと妾とその若い燕の騙しあい、田舎からソウルに連れ出されて売り飛ばされるところを幸運にも侠気ある女給の姐さんに助けられる娘、その弟との感激的出会い、ほとんど唯一幸せな結婚生活を送る漢方薬店の息子夫婦、カタギの家に嫁いだものの旦那の浮気と姑の嫁いじめにあいとうとう母のもとに逃げ帰った女給ハナコ、玉突きのサービス係りの男女子供たちの個性ある描写、等など、いつまでも読みつづけていたい作品だった。著者自身も続編を書く意志はあったらしいのだが、時代がそれを許さなかったというのは、残念である。
長璋吉がこの作品を高く評価していて、本当なら彼の翻訳で読めただろうが、彼の早世によって実現しなかった。本書の訳者は彼の弟子筋らしい。
清渓川はこの小説が書かれた後も、中流以下のソウルの暮らしに密着した存在だったが、戦後朴正熙時代に蓋をされて道路となりその上には高架の高速道路まで走ることになった。それが、数年前に復旧工事が始まり、高架道路は撤去、新しく、小奇麗な清流として復活し、意匠をこらした散策道路になってしまった。いかにも人工的観光的河川なのだが、それなりに良く出来ているし、市民もすっかり馴染んでいる。長璋吉がこれを見たらどう思ったろうか、などとつい思ってしまった。


06129

【最勝王】服部真澄 ★★☆☆ かなり肩入れしてた著者の前作「海国記」に読む前から違和感を覚えて見送りしてたところに、新作が出てたので読むことにした。これまた時代物というので、ちょっと二の足を踏みそうになったが、空海の物語ということで、それなりに期待もあった。
しかし、読後感は×である。
そもそも空海の人格そのものが、曖昧である。二人の主人公の合体という荒唐無稽さが物語を空疎化してるし、肝腎の中国での修行は完全にすっ飛ばしてあり、さらに帰国後は、天皇の後継ぎ問題や遷都に余計なページ数を費やしている。何よりも、空海という存在を余りにも卑小に表現してるのは論外である。
司馬遼太郎の「空海の風景」と比べるのは失礼かもしれないが、両者の差は月と鼈というしかない。「龍の契り」「鷲の驕り」でMorris.を狂喜させた著者のあまりの凋落ぶりは、やはり、舞台選択の間違いだと思う。是非軌道修正して、本領発揮を願う。
文中Morris.が唾棄してやまない「手をこまねいて」表現があったのも本書への嫌悪感を補強したようだ。


06128
【知に働けば蔵が建つ】内田樹 ★★★ 2004年から2005年にかけての著者のブログを適宜編集者が取捨選択して一冊にまとめた、著者お得意のお手軽本らしい。タイトルからして安易であるが、著者の名前が「樹 たつる」という(これまで知らずにいた)ことから命名されてるようでもある。
大まかに5章に分かたれているが、もともとが日々の雑録的なブログの抄録だけにとりたててテーマがあるわけでもなさそうだ。Morris.もときどき彼のブログを覗いてるので、何割かは見覚えあった。
アメリカの極東政策を「日中韓」の緊張状態維持でまかなっていこうとするもの、という著者の持論は、わかりやすいと言えばわかりやすい。

CJK(中国、日本、韓国)が友好的なブロックを形成したら、まっさきにCがJKに要請するのは「在留米軍基地の撤収」に決まっている。
JKが口を揃えて、アメリカに向かって「どうも長々お世話になりました。あとはうちらでなんとかしますから、もう出ていってくださって結構です」というのはアメリカ国務省が想像しうる最悪のシナリオである。その瞬間にペリー来航以来のアメリカのアジア戦略が水泡に帰すことになる。そうなっては太平洋戦争、朝鮮戦争、ベトナム戦争で非業の死を遂げたアメリカの若者たちにどう申し開きができようか。
だから、北朝鮮にはできたらずっとこの不安定な政情のままでいてほし。それがアメリカの「本音」である。
私がアメリカ国務省の小役人なら、毎日神にそう祈るであろう。
万一北朝鮮がクラッシュしてしまった場合、次善の策は日本政府が対応に手間取って、さっぱり実効的な半島への援助ができずにいるうちに、中国韓国から「日本はああだからもうあてにするのはやめようぜ」と言われて「はみご」になり、「ブロック」構想ははかなく潰える…というものである。
だから「ポスト小泉」には、朝鮮半島の危機に対してきわめて非協力的な態度を貫くに違いないアジア外交に対するセンスのない政治家が最も望ましい。
というわけで、私がアメリカ国務省の小役人なら、「安倍晋三」に有り金を賭けることになる。
さいわい『文藝春秋』を読むと、日本の「各界の著名人」たちはこぞって安倍晋三を「次の総理に」と期待しているようなので、アメリカの極東戦略は、朝鮮半島に不測の事態が起きても「日本は何もしない」という形で担保されているのである。


この文章が何時書かれたか知らないが(調べりゃ分かるんだろうけど(^^;)) 現時点で事態はアメリカ国務省の小役人の思惑とおりに進行していることになる。ここらあたりの著者の近未来予測能力はなかなかのもののようだ。(もちろん、本書が出た時点で結果は分かってるから、当り予想の文を選択したとも言えるが)
以上の考察の元になったという、トーブ(Lawrence Taub)の「Konfucio コンフューシオ(儒教圏)」という極東近未来予測が面白かった。トーブによるときっかけは10年以内(早ければ3年以内)にも起きる北朝鮮のクラッシュであるとした上で、その後の半島安定のために中国、日本、韓国が緊密な協力体制をとり、それをもとに、儒教思想と漢字文化を共有する三カ国のブロックが形成されるというものである。

『コンフューシオ』は日本、中国圏、両朝鮮を含む。中国圏とは中国、台湾、香港、マカオを集中的に支持する。これらはいずれ統一中国に編成されるだろう。両朝鮮は南北朝鮮を指す。これもまた遠からず一国(コリア、あるいはコリョ)に統一される。これら諸国に共通する儒教的伝統の影響下で、これらの国々は他のどの国やブロックよりも働くことに夢中であり、働くことに同一化しており、働くことに嗜癖している。(…)彼らは賃金や労働の対価よりも、労働することそれ自体に関心があるのである。(…)日本、中国圏、両朝鮮はブロック形成が容易である。ブロックが円滑に機能するために必要な多くの特質を共有しているからである。同一地域にあり、宗教的、歴史的、言語的、人種的などもろもろの共通点を有しており、それが彼らを他の諸国、諸地域からへだてている。

たしかに、興味深い見解ではある。しかも、これが日本人でも、中国人でも、韓国/朝鮮人でもない、西洋人(たぶん)の言説であることが、一種の客観性を保証しているようにも見える。しかし、これは見方によれば、かの「大東亜共栄圏」に酷似しているのではなかろうか(^^;)

内田樹は当人が「ソフトネオナショナリスト」と自称してるくらいで、彼の言説の端々にどこかMorris.とは相容れない匂いを嗅ぐことが多い。聞くべきところ、読ませるところ多いのだが、どうも胡散臭いというか、引っかかるのだ。これは、あの「たまらんおっさん」山本夏彦のミニチュア版後継者なのではなかろうか、と、ふとそう思ってしまった。褒めすぎだろうか?


06127

【日本の近代建築 上下】藤森照信 ★★★★ 岩波新書2冊セットで、上−−幕末・明治篇、下−−大正・昭和篇となっている。著者は赤瀬川原平や南伸坊らと一緒に路上観察同好会やったり、「建築探偵」を自称して不思議な建物を紹介したりして、いろいろ楽しそうなことやってるのは知っていたが、こんなに正統的で網羅的な日本の建築の啓蒙書を13年も前に出してたとは迂闊にも知らずにいた。本当にもったいないことをしてたことになる。
たとえば北野の異人館などが、東回りで来日したヴェランダコロニアル建築、北大の時計塔などが西回りで来日した下見板コロニアルという簡潔な指摘だけでも目からウロコだった。
擬洋風建築だけでも、木骨石造系擬洋風、漆喰系擬洋風、下見板系擬洋風に分けられるとか、日本の最初の本格的西洋建築が歴史主義で、魅力的なコンドル先生の指導のもと日本の西洋建築家が育ったとか、大正期にア−ルヌーヴォーの流れが入り、これが後にモダンデザインに繋がるとか、アメリカの鉄骨造と鉄筋コンクリートの二つが鬩ぎあっていたが、関東大震災でアメリカの設計事務所の手抜きで鉄骨造のビルが倒壊したため、その後の日本の高層建築は鉄筋コンクリート主流になったとか、木造住宅でも震災の後は防火のため表面をモルタルや銅板で覆うことが奨励されてこれが看板建築を生んだとか、考現学の今和次郎らがバラック装飾社を興して先駆的な建築を試みたとか、モダニズムが世界を席巻したのはライトでもコルビジェでもなく、ミースがその源泉であるとか、とにかく、目からウロコの項目が目白押しである。それも単に建築史の羅列ではなく、興味深いエピソード満載だし、該博な知識と確かな批評眼に裏打ちされた忌憚無い評価あり、ユーモアとウイットに溢れた読者サービスありながら、隅々にまで目配りされた記述、達意の文章と相俟って、申し分ない「面白くてためになる」一冊(2冊だけど(^^;))となっている。
たとえば「文明開化」を彼なりに総括した一文。

日本の近代のとば口には、"文明開化"と呼ばれる一風変った一時期があった。同じ四文字のスローガンでも"殖産興業"や"富国強兵"とちがってどこか深刻さに欠けるというか、お祭り的というか、世相や風俗や生活文化を中心とした国民的な気分の運動で、やみくもに西洋風を取り込んだ。黒い雨傘を日傘にさして羽織袴に革靴をはくとか、ヘンな英語の看板を出すとか、洋風建築に賽銭を上げるといった皮相な風俗現象もあれば、ミルクを飲み牛ナベをつつき、窓にガラスをはめたり天井からランプを吊るすような生活改善もあった。表現の領域では絵画が活発で、高橋由一が初めての油絵具で見よう見まねのリアリズムを手探りし、小林清親や井上安治は伝統的とも西洋風ともつかないタッチで江戸から東京へと移ろいゆく街の光景を写しとった。清親は、海運橋際の第一国立銀行の激しい和洋折衷ぶりを雪景色で消し去っておだやかな異国情緒の中に写し取り、一方由一は、山形の県庁前通りをひき込まれるような共感を持って濃密に写している。
こうした文明開化の四文字で括られるさまざまな動きは、明治十年代後半になると本格的なヨーロッパ派の登場によって無知な現象として笑われ、さらに国粋派からは恥とされ、やがて消えてゆく。
なつかしさと親しみと少々の気恥ずかしさを持って改めてこの時期を振り返るなら、文明開化とは、江戸は終った、しかし新時代の正体は誰にも分からない、そんな真空状態の中で普通の人々が見た夢のようなものだった。ヨーロッパでも日本でもなく、また両方を継ぎ足すのでもなく、何か別の世界を人々は夢見たのだと思う。


たったこれだけの文章からでも著者が単なる建築馬鹿ではなく、社会、芸術全般への理解があり、見識をもち、それを表現する能力に長けていることが知られる。
日本人西洋建築家が登場した時期のヨーロッパ建築様式の概括部分などは、たかだか2ページでヨーロッパ2千年の建築の変遷を見事に要約しきっている。長いけど引用しておく。

ヨーロッパの歴史様式は、クラシック系とゴシック系の二つに大別される。
クラシック系は、ギリシア神殿に象徴されるギリシア様式にはじまりローマ様式に受け継がれ、中世の基督教時代に一時途絶えた後、ルネッサンス様式として復活し、バロック様式へと続く。その後は、フランスの場合、ロココ、ルイ16世式、帝制式−グリクリヴァイヴァル、第2帝制式−ネオバロック−と連なって19世紀末にいたる。イギリスの場合はやや異なり、ルネッサンス−エリザベサン、ジャコビアン−、バロック、パラディアニズム、ネオクラシシズム、グリークリヴァイヴァル、ネオルネッサンス、と続いて19世紀末にいたる。
ゴシック系は、中世のキリスト教会のロマネスク様式に始まり、ゴシックへ続き、ルネッサンス時代にクラシック系にとって代わられ、フランスの場合はその後もクラシック系の隆盛の影に隠れてなかなか陽の目を見ないが、イギリスの場合はすでにコンドルのところで述べたように19世紀半ばにヴィクトリアンゴシックとして華ばなしく復活する。
もし様式の変化が全ヨーロッパ共通ならば理解しやすいのだが、そうはいかない。
まず時間差の問題があり、たとえばイタリアで始まったルネッサンスがアルプスの北やドーヴァー海峡を越えるには時間がかかり、届いたところで現地のゴシックと混じってしまい、折衷的なイギリスのエリザベサン、ジャコビアンやドイツのルネッサンスを産み落し、正確に伝わるのはその後になる。時間差のほか、フランスのロココとイギリスのヴィクトリアンゴシックのように、相手方に共通する例の見当たらない様式もある。
さらに、スタイルとは別に、スタイルが変っても変らないその国固有の屋根の作り方とか好まれる材料もある。たとえば、赤煉瓦はイギリスやオランダやドイツで、石はフランスやイタリアで好まれる。国民的好みは屋根に典型的に現われ、クラシック系の場合、イギリスやイタリアは屋根を見せたがらないのに、フランスやドイツは大きな屋根を誇りとしそのためにマンサード屋根を使うが、同じマンサードでも傾向がちがい、フランスは肩がなだらかにカーブしたマンサードを、ドイツは肩の張った直線のマンサードを好む。日本人建築家の作でいうと、京都帝室博物館(明治28)がフランスの、帝国ホテル(明治24)がドイツのマンサードの好例である。こうした無数の部分が組み合わされて全体のお国ぶりとなり、同じクラシック系の様式でも、地味なイギリス、華やぐフランス、武張ったドイツといった印象の違いが生れる。
全ヨーロッパに共通した流れを縦糸とし、各国の好みや誤解を横糸とし、ある国のある時期の主流のちがいが決まる。
ギリシアからバロックまでは、時間差はあるもののどの国もおおよそ共通に推移し、また、基本的に一時代一様式だから分かりやすいが、バロック以降は多様化がはじまり19世紀に入ると事態は錯綜する。国ごとの好みが国民様式確立のかけ声によって前面に押し出される一方、歴史学、考古学の発達によってエジプトやギリシアはむろん近過去のスタイルまで発掘され再評価されるようになり、いくつものリヴァイヴァル様式やネオのついた様式が短期間に興亡を繰り返し、様式のタンスの引き出しを下から上まで一度に引き出してぶちまげたような状態に立ちいたる。
日本が国を開き欧米と向きあったのは、幸か不幸かその最中にほかならない。


こういった時期に学んだ日本建築家の先達に関して「一番うまいのは妻木頼黄と山口半六、中間が片山東態で、辰野金吾は上手とはいえない。」という著者の端的な評価もある。こういった断定は余程の自信なくしては言えないだろう。最高評価を受けた山口半六の兵庫県庁は、戦災でかなり傷んだものの、修復されて現在は兵庫県公館として現存している。Morris.も何度か訪れて気に入ってただけに嬉しい記述だった。

現代建築の元となるモダンデザインがアールヌーヴォーに始まり劇的変化を遂げているという部分も興味深かった。

まず、世紀末にアールヌーヴォーという植物にインスピレーションを得たデザインが口火を切り、続いて10年代にキュビズムや初期の表現派の鉱物結晶化が起き、20年代に入ると、デ・スティル、ピューリズム、バウハウスなどの白と直角の幾何学の段階に達し、さらにミースの数式のような抽象性にいたる。
植物→鉱物→幾何学→数式
と、変化は次第に層を深めているのであう。

世紀末、ついに行き詰まった建築家たちは、過去や異国といった外に救いを求めることをやめ、自分の内側を見つめはじめ、人間の感受性そのものの中を掘りはじめた。そして最初に見えたのが植物的な感覚の層で、以下、自然界をたどるように、鉱物感覚の層、数学感覚の層、と掘り進んで底を打った。アールヌーヴォーにはじまりミースに終ったのは、おそらくそういうことだった。
物質の究極が原子にあるように、建築の究極は均質空間にある。戦後、モダニズムが世界を席巻する過程で、どこにでも現われたのはコルビジェでもライトでもなくミースの影響だった。20世紀を象徴する戦後の超高層ビルは、例外なくミースの均質で透明な表現の延長上にある。
建築の究極の単位である均質空間の力を解き放ったといういう意味で、ミースの作品は建築史上の原子爆弾である。


最後の一行は、爆発的だね(^^;) 
Morris.が建築における門外漢であり、あまりにも無知なために本書を過剰評価してるのかもしれないが、門外漢にこれだけ感動を与える啓蒙書を提供してくれる著者への感情は紛れも無い心底からの感謝である。


06126

【マンガに人生を学んで何が悪い?】夏目房之介 ★★★ ウェブサイト「ポプラビーチ」に連載されたものを元に加筆訂正したものである。Morris.はそのサイトは見たことがないが、どうもこれまでの夏目のマンガ論の中では、かなり低水準の作のように思える。
最近本当にマンガと縁遠くなったMorris.だが、本書で取り上げられているマンガは、Morris.がマンガに熱中してた時代の作品が多く、半分以上知ってるから、もっと共感覚えたり反撥感じたりしてもしかるべきだと思うのに、何かしらっとしてしまった。
たとえば「老い」というテーマで広兼憲史の「黄昏流星群」と大島弓子の「8月に生まれる子供たち」を並べて論じるという、この取り合わせだけで、Morris.は不愉快になった。続けて大島弓子の「秋日子かくかたりき」でその続編を書いてるのだが、これもどうもピント外れのようだし-----
しかし、何でこんなに不愉快になったのか、どうも、本書ではMorris.の嫌いなマンガ家と、好きなマンガ家の中でもわざわざMorris.の嫌いな作品ばかりを選んでいる傾向があるかららしい。もちろん夏目にしてみれば、そんなつもりはないのだろうが、結果的にそうなってるのだから仕方が無い。
それともうひとつ、本書での夏目はやたら自分の恋愛体験や夫婦生活、子育ての感想などをマンガに即して自解している。これもしらける原因の一つになるだろう。


06125

【朝鮮・言葉・人間】長璋吉 ★★★☆ 1988年に47歳で亡くなった長璋吉の遺稿集であるこの本は、以前半分ほど読んでそのままになっていた。「私の朝鮮語小事典」とその続編「普段着の朝鮮語」の2冊があまりに面白かったのに比べると、本書は、韓国文学史や、作家と作品論が中心で、肝心の韓国文学にはほとんど無知なMorris.にはちょっと敷居が高かったのだ。
今でも、韓国文学とは相変わらず無縁なMorris.だから、やっぱり読んでない作家の作品論は読みづらかったが、「西便制」「祝祭」の李清俊、「烏瞰図」の李箱、「星たちの故郷」の崔仁浩、「川辺風景」の朴泰遠あたりは、前よりは少しは読むことができた。李清俊と酒を飲んで、彼が酔っ払って「韓国文学の秘密を教えてやろうか」といったあと、著者の膝をぴしゃぴしゃ叩きながら「北韓のアンチャンたちが攻めてきたって、おれが日本に逃げ出すと思うか。おれはここでくたばるぞ」と何度も言ったというエピソードは面白かった。

また、フランス象徴詩を朝鮮語に訳したという金億のことが気にかかる。

1918年に発刊された「泰西文藝新報」は、こうした政治的啓蒙主義とはまったく趣を異にするものであった。ヨーロッパの芸術一般に関する翻訳紹介を意図したが、実際には詩に関するもの以外に見るべきものはなかった。それもほとんど金億一人の功績に帰せられる。彼はここでフランス象徴詩を翻訳し、フランス詩壇の動向を伝え、これまでになかった個人の情感をこめた創作詩を発表するとともに、詩のあたらしい韻律を様々に試みている。こうした文学の芸術性に着目しようとした精神は、今までの朝鮮における文学に新風を吹きかけたのであった。(「苦悩の文学者たち 解放前後)

これは一度読んでみたいものだ。ふと思い出して金素雲の「朝鮮詩集」を見たら5編が掲載されていた。最初の作品を引用する。

海棠 金億 金素雲訳

岸辺に咲ける
海棠の
なにを愁ひて
うなだれし。

風の戯れに
羞ぢらひて
染めたる頬の
愛しけれ。


金素雲節が強すぎて、原詩の面影をどのくらい残しているのかわからないが、美しい詩だと思う。

でも、やっぱり、一番面白かったのは「私の朝鮮語小事典」の残りである「娘たちの朝鮮語小事典」で、残念ながら「キムチ」「アンギョン(眼鏡)」「マヌル(ニンニク」)の3つしかないのだが、マヌルの項で、山口百恵が歌番組で「スタミナのもとは何ですか」という質問に、すかさず「にんにくです」と答えたというエピソードが、印象深かった。

山口百恵はいうべきでないことをいったのかもしれない。いうにしても、「にんにくをたっぷりきかせた料理です」とか、ぼかしていうのが日本風の話術というべきか。「にんにくです」といういいかたに、さすが朝鮮民族の血を引く人と思ったものの、そのにこりともしない無表情の表情と挑むような口ぶりに、いうべきでないことを承知であえて突っ張った調子があらわれているようで、ちょっと切ない気にさせられた。彼女はまわりのジャリタレがにんにくとかぎょうざとかいえば、「ワァー」という習慣になってることも、いわなければちょっとした村八分になることも知っていたにちがいない。

本書は長璋吉没後ちょうど1年目に発行されたもので、大村益夫、田中明、尹学準の追悼文と、川村湊の長璋吉論が収められている。
47歳という早すぎる死を惜しむ詞が共通しているのは当然として、4人が揃って、長璋吉の「パラム 風」に関する文章の一部を引用しているのにちょっとおどろかされた。
同人誌「朝鮮文学」第二号の後記からの引用である。

私としては、朝鮮語を話すときに感じるある冷ややかなものの性質はいったい何だろうか、ということについて、いつか語れるようになれたらと思っている。
日本語はあまりに近すぎる。反対に、中国語のfeng、フランス語のvent、英語のwindなどの音の群が、あの空気の移動を名づけているということを了解することはほとんど不可能だ。ただ力技によってかろうじて接触を保たせているにすぎない。ところで、朝鮮語のパラムはこの両者の間にあって、その音の群を、それが担う質量と艶とともに、擬似的にではあろうが、了解しうると感じる。パラムには例の空気の移動を「とらえている」という感覚がともなっている。
この感覚がなければ、私は朝鮮語を読もうとは思わないだろう。


Morris.も「パラム」という言葉は、大好きであるが、長璋吉のように肉体感覚的に言葉を受容する才能は欠けている。
彼の早世が、日本の韓国文学研究にとってどれだけ大きな損失だったかはかりしれないが、せめてMorris.の今の年くらいまででも生きていたら、「朝鮮語小事典」のPart3、Part4くらいまでは読めたと思う。Morris.はそのことだけでも、残念でたまらない。


06124

【ソウル都市物語 歴史・文学・風景】川村湊 ★★★☆☆ 2000年刊の平凡社新書だが、後書きによると原型はその10年ほど前に書かれていたらしい。著者は釜山に4年住んだことはあるが、ソウルに住んだことはなく、それを逆手にとって、他者、旅行者としての視線でこの町を論じようという。
主に近代以降のソウル(漢城、京城、ソウル)の、各時代層を、ソウル生れやソウル滞在の作家の言葉を借りて再構成したものだが、前近代の歴史もきちんと押さえるところは押さえて解説してあるし、特に植民地時代の都市風景論は著者の得意とする分野だけに興味深く読むことができた。
李箱、梶山季之、長璋吉、中上健次、李良枝などが主な作家だが、それぞれで1冊書けそうなくらいのエピソードを持っていそうだ。その他、夏目漱石に始まり、田中英光、後藤明生、中島敦、金達寿、安倍能成、村山知義、黒田勝弘、関川夏央、戸田郁子、田中明、五木寛之、山村美沙など多数の文学者のソウルとの係わりを掬い取ってあり、それだけでも有用だと思った。
8章がソウルを歌った歌謡曲をテーマにしてあり、「ソウル賛歌」「ラッキーソウル」「ソウルよアンニョン」「雨降る永東橋」などお馴染みの曲が並んでいたが、ヘウニの「第三漢江橋」が、現在の漢南橋のことだということがわかって嬉しかった。
また李良枝が、ソウルを転々と移転した後、やっと落ち着ける場所としてえらんだ「タルトンネ 月の町」こそ、Morris.が去年5月の旅でこだわった「落骨(蘭谷)」と同類の、山の上にへばりついたスラム街の類だった。

タルは月、トンネは地域、あるいは町。タルトンネは月の町だ。しかし、月の町というそのロマンチックな響きとは裏腹に、名前に込められた意味は現実的で生々しい。水の便も悪く、交通の便も悪い丘の頂きに密集した都市に住む貧民たち。
高台にあるからタルが、即ち月がよく見える。そこにしか住めない者たちが道を作り、家を建て、一つのトンネが出来上がった。タルトンネは、月がよく見えるそういう不便な丘の頂きにしか住めない者たちが集まった地域という意味が込められている。(『石の聲』李良枝 より)

コルモッキル好きのMorris.にとって、コルモッキルのみで構成されたようなこのタルトンネへの憧憬は強いものがある。しかし、これはすでにソウルからほとんど姿を消してしまったようだ。


06123

【人はかつて樹だった】長田弘 ★★★☆☆ 2006年7月発行の最新詩集。21編の詩が収められているが、大部分は23行になっている。一種の定型の試みかもしれない。最近の彼の作の中では、ひさびさに好ましいものだった。二部構成で一部は雑誌「えるふ」に掲載されたもの、二部は建長寺の機関紙「巨福」掲載作品中心だが、テーマや雰囲気は統一されている。いつもの彼の詩に比べて、暗い、というか、何か悲しみをこらえているような感じを受けたのだが、後書きに、家人の突然の癌宣告を受けて、樹のようにそばにいる日々を送っていたらしい。大きな哀しみの中で詩を書かずにいられない詩人の業と、その作品を愛読する読者がいることもまた、人の営みの「おもしろさ」なのだろうか。

人ひとりいない風景は
息をのむようにうつくしい。
どうして わたしたちは
騒々しくしか生きられないか?
世界のうつくしさは
たぶん悲哀でできている。(「世界の最初の一日」より)

巡る年とともに、大きな樹は、
節くれ、さらばえ、老いていった。
やがて来る死が、根にからみついた。
だが、樹の枝々は、新しい芽をはぐくんだ。
自由とは、どこかへ立ち去ることではない。
考えぶかくここに生きることが自由だ。
樹のように、空と土のあいだで。(「空と土のあいだで」より)

うつくしさがすべてではなかった。
むなしさを知り、いとおしむことを
覚え、老いてゆくことを学んだ。
老いるとは受け入れることである。
あたたかなものはあたたかいと言え。
空は青いと言え。(「樹の伝記」より)

いちばん遠いものが、
いちばん近くに感じられる。
どこにもいないはずのものが、
すぐそばにいるような気配がする。
どこにも人影がない。それなのに
至るところに、ことばが溢れている。

目に見える
すべては、世界のことばだ。
すべてのことばのうちの、
ひとのことばは、ほんの一部にすぎない。(「海辺にて」より)

果物のように
つややかな時間を、
つまらないものにはするな。
自分をいじりすぎるな。
よい焼酎みたいに、心は
すっきりと、透明なのがいい。(「For The Good Times」より)


まだまだ引用したいところだが、このあたりで止めておこう。心に沁みる一行だけでもなかなかありがたいのに、こんなにも豊穣な悲しみの詩を産み出すことのできる長田弘に、感謝を捧げたい。


06122

【時のかたち】服部まゆみ ★★★ このところちょっとはまってる彼女の、これは割と初期(1992刊)の短編集である。同題のエッセイと、インタビューもも収められている。
短編小説は、怪奇趣味の祖父が友人たちと、コレクションや書籍、資料などを持ち寄って「怪奇クラブ」という博物館めいたものを建設中に事件が起きる「『怪奇クラブ』の殺人」、軽井沢の別荘に友人の画家を居候させたことが発端となる「葡萄酒の色」、同級生だった二人の小説家が一方の住まいでもあるホテルを舞台に繰り広げられる表題作「時のかたち」、桜の季節に事故死した美しい伯母の葬儀に始まり、夫である伯父の愛人と親族との込み入った展開の「桜」の4編である。いずれも語り手は、青年/少年であり、その係累の富豪が存在して、その財産を巡っての殺人事件という、ワンパタンだし、彼女お得意の衒学趣味、凝った趣向を垣間見ることができるが、短編ということもあって、何となくプロットだけが見え透く作品が多かったし、トリックというより、どんでん返しの連続が過ぎると、読者はいいかげん嫌になってくる。結末がついても、実はもう一ひねりあったんじゃないかと思ったりね(^^;)
長編好みのMorris.だけに、やはり彼女の長編をもう少し読んでみたい。
小説のいささか病的なくらいの凝り方とは対照的に、エッセイの方はえらく、あっさり、というか凡庸にさえ見える。
ロールプレイングゲームに熱中していた時期らしく、熱烈なほどの「PRG礼賛」が続く。「桜」という作品中も、伯父の愛人が完全にこのゲームの虜になってるくらいだもんね。もっとも、こればかりはやったことのない人にわかってもらえるはずもない、と、断り書きはある。
実直な友から、TVゲームを「そんな無駄なことをして」と言われたことに腹を立てて「憤然として私は思う」

努力して出世して貯蓄に励み、結局死んでしまうのだからそういう言い方をすれば、"生きていること"自体、大きな無駄であり、早く死んだ方がいいのではないか?−−−そこまで過敏にならなくても"実利的でないもの"というのに標準を置くなら、読書も音楽鑑賞も美味に酔うのも無駄である。そして"無駄"と言わせる何ものかが一日中、そわそわせかせかと駆け回らせ、子供を塾に追い、本をダイジェスト版で読み、ヴィデオを早回しで見、本屋の大半を雑誌屋に変えてしまう。そうしてことさらに"心に潤いを"などと声を大にして言わなければならないようにしている。
考えてみると絵を描き始めた時も"女の子だからお嫁に行くまでの"などという言葉をよく耳にした。そして小説を書き始めた時も"暇なんですね"と、よく言われた。確かに社会的には決して忙しくはないけれど、したい事は山ほどあるから暇どころか時間は幾らあってもたりない。そして私のしたい事といえば"無駄なこと"ばかりである。


主旨的にはMorris.も大いに賛同するのだが、あのような小説を書く著者のものいいにしてはえらく乱暴な気がする。
上野動物園に行って、人気ものパンダの優遇ぶり?に腹を立てて、他の動物の施設ももう少し気を使えとか、動物園には普通種の犬や猫がいないから、引き取り手のない犬猫を飼育したら、という非現実な感想もあって、最近動物園フリークのMorris.としては、ちょっと呆れてしまった。
また、最初の短編の中で「高見の見物」という表現があった(42p)。彼女のように表現に神経を尖らせるタイプの書き手は、やはりこういった粗忽な文字遣いはしないで欲しいものだ。前作で「腕を拱く」にちゃんと「こまぬく」とルビふってあって、信頼感をおぼえていただけに残念である。


06121

【昭和レトロ商店街】町田忍 ★★★ 著者は庶民文化研究家として結構知名度が高くなったと思う。Morris.も数冊彼の本を読んでるし、一度Morris.の掲示板に書き込み貰ったこともある。銭湯研究家、パッケージコレクターとしても知られている。学生時代にヒッピーとして世界を放浪した後警察官として勤務、と略歴にあるのが笑わせるが、50年生れだから彼もMorris.と同世代である。
「読んで懐かしい商品たち 見て楽しいレトロなパッケージ ロングセラー商品たちの知られざるヒストリー」と惹き書きにあるように、ケロリン、正露丸、のりたま、仁丹など35点の商品のパッケージやマーク、容器などのカラー図像とその由来や歴史、エピソードなどをコラム風にまとめて、巻末に泉麻人との対談を収めたものだが、「パックピア」という包装業界誌に連載されたものだけに、直接メーカーや工場などに取材に出かけて社長や担当者と話したり、国会図書館で資料調査したり、と、コレクターの自慢話でなく、たしかに研究家の名に恥じない作である。
単行本は早川書房刊で、表紙は「ケロリン」のパッケージが使われている。ケロリンは富山の内外製薬の商品で、そのパッケージは大正時代から現在までほとんど変化していない。かなり稚拙な絵柄だが、そこがレトロを感じさせる所以だろう。
Morris.もパッケージやマークは好きな方で類書もかなり読んでるから、はじめて知る事実はそれほど多くないが、掲載の写真がすごく綺麗で、これらを見るだけで楽しめる。写真は著者と編集部とあるが、多分大部分は編集部だと思う。どう見てもプロの写真である。
カモ井のハイトリ紙とハイトリリボンというのが懐かしかった。これこそ、もうどんな商品か知らない人が多いだろうな。
パッケージとは直接関係内のだが、よく弁当に入ってる、ビニール製の醤油入れにどうやって醤油をいれるのか?と疑問を出して、「大量のしょうゆの中に空の鯛を入れて、後で真空にするといっぺんに中に醤油が入る」という種明かしが面白かった。


06120
【おじさんはなぜ時代小説が好きか】関川夏央 ★★★☆ 岩波の「言葉のために」叢書」の1冊。どうやら著者が岩波の若手の編集者を集めて月一回程度の講義&質疑応答した後、編集者が整理したものに著者が手を加えたもののようだ。それはともかく、山本周五郎、吉川英治、司馬遼太郎、藤沢周平、山田風太郎の5人がそれぞれ1章立て、その他、長谷川伸、村上元三、森鴎外などを総論的に論じている。
Morris.が特に好きなのが風太郎ということは言うを待たないが、司馬の長編はほとんど読んでるし、藤沢周平も本書で取り上げられている「蝉しぐれ」と「用心棒日月抄」は既読である。有名すぎる吉川英治の武蔵と周五郎の「樅の木」は未読(>_<)。それでも、全体の割合としては結構読んでる方だ。
Morris.もおじさんなもんで、時代小説嫌いというわけではなさそうだ。ちなみに関川もMorris.と同じ49年生だから、本書のタイトルは「私はなぜ−−−」でもいいくらいのものである。
時代小説家が純文学者と違って、自分のために作品を書くのでなく、読者のために書くというのが第一、時代小説といってもその時代はほとんど江戸時代(それも安定期がメイン)であることが第二、名前は「時代小説」時代は過去であっても本質はその発表時の時点での「現代小説」であることが第三、著者の力点はこの3点に集約されるだろう。
どれも、言われてみれば「なるほど」と肯けるし、卓見とまでは言わずともなかなか判りやすい良い指摘であるが、こういう風にきちんと言うということはそれなりに評価できる。
本書で面白いのは、枝葉末節的なネタばらし、発表の時代背景、日本人論、その他もろもろのヨタ話(失礼m(__)m)の方である。

時代小説というのは大正時代も終りになってはじまったので、それは社会的ストレスの増加と関係があります。戦後一時すたれたのは、日本社会に復興エネルギーが満ちていて、ストレスを感じるどころではなかったためでしょう。そのころ、剣豪小説はありましたが、時代小説は必要なかったのです。

「剣豪小説」と「時代小説」をはっきり区別してるのも、あたりまえといえばあたりまえだが、一般的にはいっしょくたにされるもんね。

大正時代に、吉川英治や山本周五郎など時代小説の作家たちが作家的出発をしたという事実は重要です。教養をもとめつつも官僚や大会社の社員にならず、あるいは官僚や大会社の社員になれず、市井にあって自活しようと苦闘していた彼ら、吉川英治の八歳年長の長谷川伸も含め、時代小説とは、今日主義の洗礼を受けた大衆のうちの文学的かつ野心的であった人々が、難解さと西洋哲学の直訳調を排除しながら発想した新しいジャンルだったのです。

井上雄彦による吉川『武蔵』の長編漫画化『バガボンド』は、教育によって矯正されない人格があるという話でしょう。武蔵の人間性は誰にさとされてもかわらない。根っからの野生児です。そこに流れる思想は教育の不可能性です。または教育の無意味です。それが現実の解釈として説得力があるからよく読まれるのだと思います。『バカボンド』(原文ママ、しっかりせえよ岩波(^^;))に「吉川英治原作」とあるのが私には皮肉に感じられますが、時代精神とはかくも大胆に変貌するものですね。


過去を裁くのは、歴史の結果を知っている限り、かなりやさしいのです。福田恆存のいう「合鍵を持った歴史観」ですね。いかに裁判官にならずに歴史をえがけるかが問題です。その実践のひとつが司馬遼太郎の『坂の上の雲』ですが、すぐれた大衆小説はつねにそういうことをめざしています。「おじさん」が時代小説を好む理由のひとつでしょう。

これはいわゆる時代小説に限らず、歴史的事件を扱った小説、というか、舞台が現代より過去の小説全般に当てはまる重要な提言であると思う。Morris.がこれまでそういったたぐいの擬似歴史小説を読むたびに、何十回も、何百回となく「それはずっこいぞーーっ!!」と毒づいてきたことである。歴史を知らずして歴史小説は書けないが、その知識を作品の中で自分に都合よくはめ込んで自在に動かすという安易なやり方、これだけは絶対にやめて欲しいもんである。

(司馬遼太郎は)文学至上主義の立場とはほど遠く、さらに、小説は芸術ではないのではないか、とさえいっています。おもしろい話を書きながら、人に何事か考えるよすがとなるものを伝達する。それが小説ではないのかというのです。技術と方法は、人に伝達されてこそ意味があるという考えを、小説でも実践しようとしています。

山田風太郎の作品群のおもしろさは、そんな個性尊重主義やいわゆる自己表現にあるのではなく、日本文学の歴史や日本文学に刺激を与えた外国文学をとりこみ、パロディとかパスティーシュとかいった方法で、日本文学の幅を押し広げたところにあります。

ほんまかあ!?パロディはともかく、いまだによくわからん「パスティーシュ」が風太郎作品だとしたら、清水某の作品が「パスティーシュ」であるわけがなかろう。逆に清水作品がそうなら、風太郎作品をパスティーシュなんていわないで欲しいぞ(>_<) と、ちょっと興奮してしまった。

先人の業績や伝統を評価しつつ、さらにそのうえに新しいものを積み上げようとする、それは教養と想像力がないとできない仕事です。そして教養はユーモアとつねにともにあります。

先の文章はこう続くわけで、どうもここらあたりは、風太郎作品に関しては関川のミスリードのように思える。

小林旭の『渡り鳥』シリーズにはずっと軽妙というかばかばかしい明るさがありますけれども、長谷川伸の股旅ものの翻案です。

そうそう、こういった分かりやすいヨタネタの方が楽しいぞ。
でも、森鴎外が史伝を書いた時代背景とその意義を取り上げた部分は真面目だけど面白かった。

日露戦争後、「国民」はそのまま「大衆」になりかわったのです。
鴎外が歴史小説を書きはじめたのはそういう時代です。自由は規律とモラルがあって、はじめて謳歌され得る、野放図な自由は自由の名に値しない、それはただの自堕落とむきだしのエゴの突出に過ぎない、そう鴎外は考えました。その結果の歴史小説です。
そこには、封建期を未開の遅れた時代とみなす時代の気分への強い反感がひそんでいました。江戸時代をなんら学ぶべきもののない時代と考え、そう教えていた度合は、現代より明治のほうがはなはだしかったのです。革命によって成立した新政府が完全否定したがるのは、おのれの存在理由の正当化のためです。現代日本の強烈な戦前否定、韓国や中国へのはげしい拒絶もおなじ動機からはっしています。しかし否定への情熱がすぎると歴史の連続への信頼を失って民族的無力感に襲われたり、反動として狭量な民族主義、排外主義の病気にかかったりするのは、日本を含め諸国の実情にご覧のごとくです。それが長くつづきすぎると、政権は内政上の危機に瀕しているのだと考えられます。
『興津弥五郎衛門の遺書』をきっかけに歴史小説と史伝の森に分け入って行った鴎外は、当時のモダニゼーションの気運や、個人の「内面」を追求しようとする近代文学の流れから見れば「反動」にほかなりません。しかし、新しいものは往々にして「反動」から生れるのです。鴎外は過去の日本人をつらぬいていたモラルを明らかにし、その原理から生じた歴史上の事件と物語とをえがいたのです。モラルは絶対ではない。そのときどきでかわる。モラルは相対的です。しかし、と鴎外はいいます。どのようなモラルであれ、ないよりあるほうがずっとよい。モラル不在の世の中は生きるに値しない。

うーん、えーど、えーど、である。特に「新しいものは往々にして『反動』から生れるのです」なんてフレーズは関川の最近の何となく反動的な姿勢への自己弁護か?という点を考慮に入れてもカッコいい(オリジナルだとしたら)し、鴎外の「モラル不在の世の中は生きるに値しない」というのもすごい。これは出典明記して欲しかった。



06119
【オリガ・モリソヴナの反語法】米原万里 ★★★☆ たぶん、彼女の唯一の長編小説だと思う。彼女のチェコ時代のプラハ・ソビエト学校での出来事と、それから28年後のロシアでのクラスメートとの再会。ほろ苦い思い出と懐かしさの甘酸っぱい友情物語かと思うと、それだけではなく、スターリン時代の恐怖政治の中での、虚偽の告発、銃殺、ラーゲリでの非人間的生活、さらには、権力をかさにきた理不尽な秘密警察の暴行、それらに負けず逃亡した二人の老女の大冒険−−−−手に汗握り、感動させられ、戦慄させられ、ものすごく思いテーマなのに、どこか朗らかに、そして愛情、助け合い、勇気、希望、そんなこんながごった混ぜになった、素敵な長編だった。彼女はこんなものも書ける力を持っていたんだ。読むほどに感心させられる。
たぶん彼女自身の経験に裏打ちされたことと思うのだが、日本でのバレー、舞踊教室の存在自体のあやうさ/あやしさへの激白は、ごもっともだと思った。

「日本にとってのバレエ自体がそうなのだけれど、わたしが踊ろうとしていたきゃらくたー・ダンスだって、日本人の生活や風習の中から紡ぎ出されて代々受け継がれてきた踊りじゃないのよ。日本のバレエ界の惨状だって、根っこのところにはそれがある」


06118
【魔女のの1ダース】米原万里 ★★★
 「正義と常識に冷や水を浴びせる13章」という副題がある。原本は96年発行だから比較的初期の作ということになるだろう。
メインは通訳者としてソビエトや中国、東欧を回ったおりに見たり聞いたりした、各国の人々の文化の差からくるエピソードと、彼女の忌憚ない世間の常識へのアンチテーゼ、お馴染みのシモネタ小話、通訳修行、語学学習の思い出、一風変わったグルメ話などなど、これまたてんこ盛りの、話のネタ本である。
ただ、3冊目にして、やや同じ話の使いまわしがちょっと多すぎるきらいがある。

核兵器によって多国を攻撃した実績を持つのは、人類史上米国独りだってことを、なぜこうも簡単に失念してしまうのだろう、日本のマスコミも世論も。広島、長崎、ビキニと三度も地獄の辛酸をなめさせられながら、いまだ懲りずにアメリカのお先棒担いで、北朝鮮の原子炉について危惧する云々という前に、国際原子力機関の核査察ってのが、なぜか核保有5か国(国連安保理常任理事国でもある)には決して行われない不思議と不公平についてまともに論じる報道機関がないのだから情ない。


10年前の発言が今もそのまんま有効性を持って迫ってくるというのは素晴らしい。

・日本人が愛してやまないビールとして、好んで注文する「エビス」は、ロシア語ではfuckの命令形に相当する
・「カツオ」は男根を意味するイタリア語の響きに限りなく近い
・ちなみに「カカア」とはロシア語で「うんこ」のこと


まあこういった下ネタは、原語知らないで使ってもつまらないだろう。



06117
【韓国の美味しい町】鄭銀淑 ★★☆☆ 韓流ブームにのって、取材コーディネータや翻訳などやってる40歳くらいの韓国女性らしい。本書は光文社新書という、あまり見たことのない新書で、韓国あちこちの、田舎料理をランダムに取材したもので、特に目新しい記事はないのだが、釜山や南海岸方面の記事が多かったので、そのあたりだけはちょっとチェックしておいた。何となくスカスカな本で200ページ読むのに1時間半もかからなかった。

・東莱(トンネ)パジョン--パジョンはネギを主にして焼いた「ジョン」だ。一般的な「ジョン」とは異なり、小麦粉と卵を具にまぶすのではなく、水で溶いた小麦粉を円盤状に広げ、ネギを載せて焼くのが特徴。小麦粉は主材料のネギのつなぎとして使うわけだ。
大きな鉄板にネギを載せ、その上に味つけした牛肉、貝、カキ、ホタテ、ハマグリ、エビなどを盛り、さらに同じ分量のネギを盛る。その上からもち米、米粉、牛肉などを煮込んだダシ汁でつくった生地を振り掛ける。
しばらくネギなどの具を押さえたり伸ばしたりする。生地によく絡めるためだという。生地が固まる前に溶かした卵をかける。そして蓋をして蒸し焼きにする。
「パジョンを焼く時間は10分以内がいいですね。火加減も大切です。初めは強火で焼いて、蓋をする頃には弱火にして2分ほど蒸らします。油で焼くジョンに、蒸すという調理法が加わって完成するのが東莱ジョンです」

・マッコルリは家庭ごと、上蔵書ごとに作られ、味は千差万別。なかでも特上のマッコルリが味わえるという名所のひとつが、東莱の金井山城という村。山城村中央に位置する中里にある「金井山城土産酒」がその醸造所。1979年、年頭視察のため釜山を訪れた朴正熙大統領は山城のマッコルリについて、「このようないい酒は産業として育成しなければならない」と指示した。密造酒として命脈を保っていた山城マッコルリが国のお墨付きを得ることができ、その5月、大統領令9444号により「民俗酒」としての製造許可が下りた。朴大統領が殺害される3ヶ月ほど前のことだった。山城マッコルリは米と伝統的な麦麹から作られる。

・鉄板に油を敷き、その上でそば練り(水で溶いたそば粉を薄く焼く。みじん切りにしたキムチ、芥子菜キムチニンニク、やネギなどを入れて味つけした具を上にのせ、クレープのようにくるくる巻いたのが「メミルジョンピョン」。鉄板の上にネギと水で洗ったキムチを敷き、そのうえに水溶きそば粉を薄く延ばして焼くのが「メミルチヂミ」

・時間が取れる方におすすめしたいのが、慶尚南道釜山と全羅南島木浦間を南海沿いに移動する"線"の旅だ。
釜山では朝鮮戦争避難民とともに南下した北部の料理をたどることができ、木浦ではホンオフェやジョッカルなど、南道らしい奥深い醗酵味に挑むことができるだろう。アグチムの馬山、キムパブの統営、冷麺やピビンパブの晋州、山菜料理の河東、韓定食の康津・海南などで食べ歩けば、韓国料理の豪快さ、繊細さを一とおり味わうことができ、慶尚道と全羅道の味の違いもはっきりわかるはずだ。


06116

【ガセネッタ&シモネッタ】米原万里 ★★★☆ ロシア語同時通訳でエッセイストでもある彼女のことは、かせたにさんから教えられて読まねば、と思いながらこんんなに遅くなってしまった。その間に、彼女の訃報が(>_<)
図書館検索で彼女の著書を調べると実にあちこちの棚に分散してることにまず驚かされた。地理関係、言語学関係、随筆関係、小説----。とりあえず、本書は分類番号8017だから言語学関連書ということになる。2000年発行で、初出を見ると、新聞、雑誌、広報その他これまたえらく広範囲にわたって発表されたものの寄せ集めのようだ。
1950年生れとあるからMorris.とほぼ同年代である。9歳から5年間父の赴任先のチェコで暮らし、この間プラハのロシア語で教える学校に通っている。ここで彼女のバイリンガルが培養されたことになる。
本書にも書かれているが、日本で同時通訳というとほぼ英語が9割以上を占める、多国参加の国際会議でも、日本語へ/からの訳は英語を仲介することが多いようだ。それに続くのが、フランス語、ドイツ語、スペイン語、イタリア語、中国語、韓国語くらいで、ロシア語となるとかなりマイナーな位置に置かれる。だいいちあのキリール文字という、魅力的ながら不思議なアルファベットが敷居を高く見せている。

それにしても、ロシア語の場合、その数わずか33。大文字小文字両方あわせても63である。ひらがな、カタカナ48字ずつに加えて3000字前後の漢字を書けて、5000字以上の漢字を読めることになっている日本人が怖じ気づき、覚えるのを億劫がるような数ではない。その気になりさえすれば1時間で覚えられる量だろう。それを思えば、むしろ同情と敬服に値するのは、日本語を学ぶ非漢字圏の外国人ではないだろうか。

「日本人が全国民的に文字習得に費やす膨大な時間とエネルギーと記憶容量を考えると、何たる非効率、何たる無駄。同じ時間を何かもっと意味あることの習得に使えないものか」
この思い込みは、ついこのあいだまでわたしに取り付いていた。実際、明治以降ヨーロッパの言語を習得した知識人の一部からも、日本語ローマ字化の声が何度か上がっている。


ここまでだと、よくあるご意見で、その後は、たいてい、日本語(文字表記)への擁護論に傾くわけで、本書でも方向は同じなのだが、そこは同時翻訳者の面目躍如たる識見が披露されている。

ところが、同時通訳業に就いてサイトラ「sight taranslation(黙読通訳)」をするようになって、この考えがコペルニクス的転回をとげた。
そして、活字にして断言できるほどの自信満々な確信を持つにいたった。黙読する限り速さで日本語の方が圧倒的に速く読める。わたしの場合平均6,7倍強の速さで、わたしの母語が日本語であることを差し引いても、これは大変な差だ。
子供の頃から文字習得に費やした時間とエネルギーが、こんな形で報われているとは、世の中の帳尻って、不思議と合うようになっているんですね。
いや、これからは収支を黒字に転ずるために、どんどん読まなくては損てことだろう、と意地汚く本を貪る今日この頃である。


経験に裏打ちされた自信に溢れた卓見を、軽妙なタッチで提出されると、うーん、と唸るしかない。
本書にはこういった、ひらめきや、同時通訳ならではの苦労、努力、学習のコツなど有用な知識のネタが満載されているが、タイトルにある、言葉遊び、ギャグの達人である同業者、著者の快作、珍談、誤訳、迷訳、抱腹絶倒の体験談がこれでもかというくらい詰め込まれている。

このあいだ、ドイツ語通訳者の中山純さんに呼びとめられた。
「通訳者ってみな一匹狼だから、こうして元気なうちはいいけれど、働けなくなったときのこと考えると不安だよね。それで今から共済会を結成して基金を募って、将来的には通訳者たち共同の老人ホームを創れたらいいと思うんだけど、米原さんものらない? 老人ホームの名前はもう決まっているんだ」
「へーっ、気が早いこと」
「アルツハイムって言うの」
同時通訳者たちの中では真面目で律儀なドイツ語族にしてからがこういう調子なのである。生真面目度においては、優劣つけがたい韓国語族も負けてはいない。
「米原さん、金正日総書記の好物、知ってますか?」
なんて尋ねてくるのは、南北対話の進展で最近景気のいい韓国語同時通訳の長友英子さん。
「サンドイッチなんですって。サンドイッチのこと韓国語で何と言うか、知ってますか?」
「エッ、あれは韓国にとっても朝鮮にとっても外来品だから、サンドイッチっていうんじゃないの?」
「ハムニハサムニンダって言うんです」


こんな調子であるから、Morris.としては、彼女の他の著作も読まずにはいられないだろうい。それにしても、こういった書き手が60前に亡くなったということ、そして、Morris.がそれまで知らずにいたということがあまりにもったいなく思われる。



06115
【シメール】服部まゆみ ★★★☆☆ 彼女の本はこれで3冊目だが、脱帽である。
タイトルからは当然ボードレールの「巴里の憂鬱」1篇が連想されるが、本書の扉にもこっそり引用されていた。
妻に先立たれたばかりの30代の新進画家、評論家、芸大教授である男が、落魄した大学時代の同級生夫婦に自宅の1階に住まわせる。目的は14歳の息子である。双子の片割れだが、本人も兄なのか弟なのか判然としないでいる。これはよくあるパターンである。
先に読んだ「この闇と光」の変奏めいたところもあるが、変奏が見事ならいくら繰り返されても飽きることは無い。そして、本書のアレンジはみごとだった。
少年がRPGに夢中で、自分で新しいRPGを作成する部分は、Morris.には苦手な展開だが、ゲームに登場する世界各国の神話や怪物、それらの名前の羅列だけでも絢爛な世界を顕現させる。もちろん、その提示法が、凝りに凝っているからだ。
俗物である少年の両親だが、それもきちんとそれなりの特性を描き分けられているし、画家の白昼夢の欲望も、例によって、主人公二人の間に交わされる芸術論、文学論、美術論風なやりとりにも、魅惑される。

「『ブルトン』と『ナジャ』は人名ですか?」
「そうですよ。『ブルトン』はアンドレ・ブルトン。シュルレアリズムの詩人です。『ナジャ』はブルトンの書いた小説で、その小説のヒロインの名前です。ここは『ナジャ』の中でも素晴らしいところでね、『彼女はぼくに自分の名前を言う。彼女が選んだ名前だそうだ。』とあり、そして『ナジャ。なぜって……』と続くのですよ。正に魅惑的な箇所です」
片桐さんはこの箇所を諳んじていた! その記憶力にも、その言葉自体にも、僕は驚いた。−−彼女はぼくに自分の名前を言う、彼女が選んだ名前−−言葉のはじまり……はじまりだけだからいい−−こんな風に書かれた小説があるんだ……
「素晴らしい小説ですよ」と片桐さんは言った。
「僕が読んでも判りますか?」
「そう思います。十歳過ぎれば、もう小説を読むのに、歳は関係ありませんよ」

おしまいの「十歳過ぎれば……」なんか、そのままMorris.も言いたくなる言葉だもんな(^^;)

僕はただうなずき、「この像、とても素敵ですね」と、ようやく、30cmほどの薔薇色の彫像に触れた。翼を一杯に広げた天使……でも、頭部は欠けている。豊かな胸をしているから、やはりミューズだろうか?顔もなく、両腕もない。
「ミューズですか?」
「いや」と、片桐さんの顔が輝いた。「『ニケ』という勝利の女神です。レプリカ……これも複製ですよ。はは、この部屋は複製ばかりですね。本物は2メートル50近い大きな大理石で、ルーブル美術館にあります。サモトラケ島から出土したもので『サモトラケのニケ』と呼ばれているギリシア彫刻ですよ。紀元前二世紀初めの作品と言われていますが、これを見ると美は衰退の一途を辿っているとしか見えなくなりますね。ニケの像は、他にも沢山ありますが、頭部や両腕が欠落しているにも拘わらず、私はこれが一番好きですね。軍船の舳先に舞い降りた瞬間ですが、その一瞬のポーズに、女神の威厳、優雅さ、躍動感……すべてが見事に表われている。学生の頃はね、この石像ばかり描いていたものですよ」
「ニケ……顔や手がない方が素敵に見えますね」−−言ってしまってから、馬鹿なことを言っただろうかと不安になった。


こういった、ディテールにばかり捕らわれるのはMorris.の貧乏称なのかもしれない(^^;) 「面白くてためになる」願望の発露か(^^;)
たまには、該当書以外からの引用でもしておこう。Morris.幼少時の愛読書、講談社の少年少女世界文学全集第50巻からハンガリー人の詩である。

木になりたい  ペティーフィ 今岡十一郎訳

あなたが花なら
わたしは木になりたい
あなたが日の光なら
わたしはつゆになりたい
おたがいに和合するように

あなたが空なら
わたしは星になりたい
あなたが地獄なら
わたしはそこに住みたい
おたがいに和合するように



06114
【「本」に恋して】 松田哲夫 イラストレーション内澤旬子 ★★★☆☆ 筆者は筑摩書房の偉いさんで、季刊「本とコンピュータ」に連載されてたときに、いくらか読んだ覚えがある。これの前にもう一つシリーズがあって、そちらはまだ未見であるが「印刷に恋して」というタイトルで出ていた。
自分が作った本を解体することから始まり、束見本を作り、中本作り、表紙貼り、くるみから、函作り、製紙工場、インク工場、印刷工場と、これまでの経験と、人脈と、本とコンピュータの権威(^^;)で、思い切り突っ込んだ取材、そして、判りやすく見やすく美しいイラストを得た上で、当然造本にも心配り充分の1冊が出来上がっている。
筆者の矜持もあるだろうし、出版業界の現在置かれている状況もあるだろうし、現役の編集者という実務レベルを知っている著者と現場のベテランとのやり取りはそれだけでも興味尽きないものがあるし、さすがの文章力、編集力。作られた本も、本冥利に尽きるのではなかろうか。
ただ、当時著者が関わっていたちくまプリマー新書の装釘に関してはMorris.は、すごく不満だった。デザイナーはクラフト・エヴィング商会なのに??
本書にもこの新書に装釘のことが良く出てくるが、どうやらカバーのファインペーパーの加工が特殊なもので、それを図書館ではすべてビニールフィルムを上からかぶせるので、そのテクスチャが消えてしまったのが、原因なのかもしれない、と思い当たった。


06113

【この闇と光】服部まゆみ ★★★☆ 「ハムレット狂詩曲」が良かったので、他の作品もと思って借りてきたのがこの一冊だが、いやあ、やっぱりただものではない。
盲の姫が父である国王と、囚われの日々を送る。しかし13歳になったところで、突然姫は、現実世界に放り出される。そこでは、姫は姫でなく、9年前にさらわれた男の子だった。そして少しずつ明らかにされていく真実。さらに高校生となった元姫が、国王と再会するのだが、---といったストーリーは奇想天外なのだが、何よりも本書のすごさは、そのディテールにある。というか、そこにしかないと言い切って良いかもしれない.。
国王が姫に与える物語や音楽、目の見えない姫に聞かせる画家のラインアップだけでも、凝りに凝ったものである。
たとえば画家、ボッティチェルリに始まって
ランブール兄弟、ファン・エイク、パオロ・ウッチェロ、ピエロ・デラ・フランチェスカ、レオナルド・ダ・ヴィンチ、ピーテル・ブリューゲル、ヨハネス・フェルメール、ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ、ジョン・エヴァレット・ミレイ、バーン・ジョーンズ、フェルアン・クノップフ、ギュスタブ・クリムト、ハンス・ベルメール、サルバドール・ダリ……
といったところ。
また父親が読んだり、テープで聞かせる物語へのやりとりも、実にうがったものが多い。たとえば「嵐が丘」

私の感性は変なのだろうか? と私は答えるのを躊躇う。主人公を好きになれないなんて初めてだ。「だって…とっても勝手な気がするわ。リントン家の人が可哀相だわ。リントン家の人は何ひとつ悪いことをしていないのに、ヒースクリフとキャシーによってめちゃくちゃにされてしまう・
「ではこの物語は嫌いかい?」
「よくわからないの……単純に好きとは言えない……でも、惹かれるの。どうしてかしら。とても理不尽なのに」
「『理不尽』か」と父は笑いだした。「お前は変な言葉を知っているね」
「前におとうさまから聞いたのよ。『この世は理不尽だ』って……それから言葉の説明をして下さったでしょう?」
「確かにね。この世は理不尽で、この物語も理不尽だ。だから多分、おまえは惹かれるのだろう。それを好むとか嫌うとかではなく、それがある真実に触れているから、理不尽という真実に触れているから、惹かれるのだと思うよ」
「そうね」と言いながら、私は私の分からなかった気持ちを簡単に言葉にしてしまう父を羨ましく思った。自分で父の言ったことを、すぐに言えたらどんなに良いだろう。でも説明がつくということは気持ちがいい。
「もちろん、それだけで惹かれているわけではないと思うがね。物語というのはさまざまなものが絡み合ってできている。おまえは昔、二つの『赤頭巾』を知り、助け出される『赤頭巾』も、食べられておしまいの『赤頭巾』も、両方好きだと言った。物語は筋だけではないのだよ。リントン家が可哀相でも、理不尽だと思っても、『嵐が丘』にはおまえを惹きつけるものがあり、半年以上も夢中で聴き続けさせる力があるんだよ。それが物語の素晴らしさだ」
「そう、そして、これが『例の本』よ!」
「『例の本』?」
「ええ、あのとき、ほら、『理不尽な本ってあるの?』って聞いたら、おとうさま『うかばないね』って笑われたでしょう? これがそうじゃない」
「偉い!」と、父が叫び、突然私を抱き上げた。「なんてレイアは賢いんだ。そのとおり、これぞ理不尽の例の本だよ」
父が叫ぶことなど、めったにない。私はすっかり嬉しくなった。「それにペローの『赤頭巾』もよ」
「そのとおりだ。そのとおり」と父は上機嫌の声を上げ、わたしを抱きしめた。そして「重くなったね」と笑いながら、またソファに戻した「レイア姫は『理不尽』も『不条理』も、すっかり理解なされた。大したものだ」
「神の意思はランダム!」と私も叫ぶ。


こういった、やりとりがみっちり詰めこまれた、前半部分、虚偽の父娘の交感場面が圧倒的だった。もうしばらく彼女の作品を読み進みたい。


06112

【悲劇週間 SEMANA TRAGICA】矢作俊彦 ★★★☆☆ 2005年「新潮」に連載されたもので、堀口大學の若き日のメキシコでの「恋と死と革命の超大作ロマン」(腰帯の謳い文句)(^^;)
矢作は、寡作だが、ときどき、とんでもなく面白い長編を書くことがあって、98年の「あ・じゃ・ぱ!」なんか、Morris.は戦後日本娯楽小説のベスト10に入れてもいいくらいに思ってる。千ページ超える長編だったが、本当にひと息に読まされてしまった。本書はその半分くらいで、面白さも前書にはおよばなかったが、上質のエンターテインメント作品だった。
大學の父は外交官で、大學3歳の年(1985=明治28)に閔妃暗殺事件に関わり、服役した過去を持つ。本書の舞台では明治末期にメキシコに公使として赴任中。1911年に息子の大學を大学中退させ、メキシコへ呼び寄せる。この年はまさにメキシコ革命の始まりの年だった。
当時メキシコ大統領は、独裁政権ディアスを倒して政権についたフランシスコ・マデーロ、大學の父は外交官の任務を超えて大統領一族との親交が深かった。大學マデーラの姪(妾腹の)フエセラに心を奪われる。本書のメインストーリーは、二人の恋物語なのだが、当然メキシコ革命に関わる歴史小説でもあり、また日本でのスバル、三田文学から繋がる、与謝野鉄幹、晶子夫妻、石川啄木、終生の友佐藤春夫らとの交流を中心とする文芸小説という一面も持つ。さらに若き大學の詩魂の醸成を描くビルドゥングスロマン(成長物語)ともいえる。さらには、外交官の父への憧れとその行動を通しての国際政治小説的部分も興味深かった。
特にアメリカのメキシコへの内政干渉を超えた、侵略的外交政策には、過去の歴史とは思えない既視感(デジャヴ)をおぼえたりもした。
マデーラが、ウエルタ将軍の反革命で、マデーラが苦境に立ち、大學の父が彼の親族を公邸にかくまい、市街戦の中ではぐれた大學がメキシコシティを命からがらさまようあたりは、スペクタクルドラマチックでもある。
ともかく、さまざまな要素を要所に配して退屈させることなく500pを楽しませる手腕には、拍手を送りたい。
メキシコ革命にも興味を覚えたので、いずれちゃんとした本も読みたいと思うのだが、とりあえず、ウィキペディアのお手軽ページを紹介しておく(^^;)

巻頭に置かれたオクタビオ・パスの断章を、孫引きしたい。

パンチョ・ピリャは詩や謡曲の中、今も馬に跨がり北の荒野を疾駆する。サパタは大きな祭りのたびに劇的な死を迎え、マデロは旗を振りながらバルコニーに姿を現す。カランサとオブレゴンは国中で女たちの心をざわつかせ、家々から若者をかっさらい、あの革命列車を乗り継ぎ乗り継ぎ旅を続けている。
皆が彼らについていく。いったい何処へ? 誰も知らない。それは革命という魔法の言葉、すべてを変え、身も世もない歓喜とあっという間の死をもたらすことばなのである。

メキシコ革命に思想などない。それは現実の破裂である。言わば回天と交感であり、眠れる古い実体を引っかき回すことであり、そうなることを恐れるあまり隠してあったいくつもの凶暴やさまざまな情愛、そして気高さの解放なのだ。(オクタビオ・パス)


06111

【絵小説】皆川博子 宇野亜喜良 画 ★★★ 著者お得意の?引用詩を主題にした6篇の短編を集めたものだが、本書はこれに宇野亜喜良のイラストを配している。単なる挿絵でなく、最初に引用詩を宇野亜喜良に渡してそれをイラストにしてもらい、イラストを見て著者が短編を草するという、いわゆるコラボレーション的作品群である。生半可な作家がこれをやったら、ほとんど見る気にもなれないだろうが、流石は手錬れの二人だけに、疎漏無い出来である。皆川が30年、宇野が34年生れということだが、Morris.は60年代の宇野亜喜良のイラストにはほとんど耽溺してた世代だけに彼のイラストとコラボレーションというだけで、何か妬ましい気になってしまった。
皆川の引用上手は知っているのだが、本書では以下の6点である。

冬という字がすきだつた
昔のゆめを 冬とよんだ

匂はぬ霜を 肩になすり
石の閨に 朱い燭涙 こぼして去(い)つた −−木水弥彌三郎「幻冬抄」より 「赤い蝋燭と…」

風が風をさそった
狼を喰いに行こうと
蒼い肉 すばやい血
おお夜の杉 夜の塔 −−多田智満子「風が風を」より 「美(うるわ)しき五月に」

鎧戸よ 海上で磔刑になつた男の
君等はその肋骨(あばらぼね)だ、
窓よ、開かれた君等の硝子の腕の間に
肋骨が透いて見える。 −−ジャン・コクトオ「わるさながらも素晴らしい」より 堀口大學訳 「沼」

四人の僧侶
井戸のまわりにかがむ
洗濯物は山羊の嚢
洗いきれぬ月経帯
三人がかりでしぼりだす
気球の大きさのシーツ
死んだ一人がかついで干しにゆく
雨の中の塔の上に −−吉岡実 「僧侶」より −−「塔」

わたしは名づけるだろう
かつてのお前だったこの城を砂漠と、
この声を夜と お前の顔の不在と
そしてお前が不毛の大地の中に
倒れるだろうとき
わたしは名づけるだろう
お前を支えていた稲妻を砂漠と −−「イヴ・ボンヌフォァ「真の名より」 宮川淳訳 「「キャラバン・サライ」

魂は、泳ぎが大好きだ。
泳ごうとして、
人はうつ伏せになって身をのばす。
魂は関節から外れ、逃れ出る。
魂は泳ぎながら、逃れ出る。 −−アンリ・ミショー「怠惰」より 小海永ニ 「あれ」


6篇それぞれに見どころ多いが、Morris.の独断で「美しき五月に」を採りたい。
十五歳で何度も死ぬ少女とその宿命の男との血と詩と性の煌きの繰り返しの呪詩みたいな作品である。

彼を見殺しにしたことがある。その罪は、彼を救うことで許されはすまいか。わたしを罰した何かの力は、許しの証として、忘れる能力をわたしに与えてはくれまいか。打ち下ろされる警棒が背骨を砕く激痛に泣きながら、わたしはそう思った。この時代には、十五でわたしは死ぬだろう。でも、別の時代に、十五よりもっと先まで生きて、彼といっしょにいられないだろうか。それによって、海に還ることがなくなり、幾つもの生を繰り返すことがなくなってても。つまり、まったく非在になってしまうのだとしても。
わたしと彼のあいだに熱く粘って流れる血が、蜜の剣となってわたしを貫く。この罪の感覚があるかぎり、わたしはやはり許されざるものか。
わたしはほんとうは海にいるのではないか。
すべては、海が見ている夢ではないのか。
敷石のあいだから海はあふれ、五月の太陽を抱き込み、殺しにいこう、とわたしは彼の冷たい耳朶にささやく。


これだけの言葉の連ねには凄みを感じる。大したもんである。しかし、前にも書いたようにMorris.は彼女の感性に感心しながら、馴染めないものを感じてしまう。
そういったこととは、まるで関係なく宇野亜喜良の絵は、相変わらずMorris.を魅了してやまない。


06110

【北朝鮮に潜入せよ】青木理(おさむ)★★★★ 韓国映画「シルミド 実尾島」で、一般の注目を集めた、北派工作員のリポートである。北朝鮮からのスパイ、工作員のことは、良く聞くが、韓国側の諜報、破壊活動はほとんど表に出なかった。特に朴正熙、全斗煥の軍事独裁体制では、完全に機密事項として、マスコミにも言論統制が施されていたことは、想像に難くない。

いずこの権力者も好んで振りかざす「国家機密」という大義名分は大抵の場合、権力側にとっての都合のいい隠蔽と放縦につながる方便である。想像を絶する過酷な訓練を強要された北派工作員もやはり、多くは死を約束されたような無謀な特攻北派に投入され続け、時に権力維持のための謀略工作にまで流用された。通常の軍人に付与される軍番もなく、不要になれば容赦なく捨て去られ、死亡しても家族に通知されることもない。まさに「存在を消された特攻兵士」だったのである。

朝鮮戦争後から72年の南北共同声明までの期間が一番多くの北派工作員が要請、出動されている。特に国防省資料に記載された北派工作員の死亡行方不明の大部分を占める5千人以上は50年代に集中している。その7割以上が反共思想を持った北朝鮮出身者だった。

60年代に北派工作員へと駆り出されたのは主に貧困に喘ぐ孤児や無縁故者、前科者、不良や無職の若者たちで、軍や情報機関要員によって構成された「物色組」と通称される採用組織が町中でスカウトし、高額の報酬などをエサとしてほとんど騙すように誘引していったのである。

まさに権力による詐欺拉致行為である。

68年1月21日に起きた北朝鮮の武装工作員による青瓦台(大統領官邸)襲撃事件、韓国でいう「1・21事態」の報復部隊として、編成されたのが実尾島事件を起こす特殊工作隊(決死隊)で、69年秋に金日成暗殺を目的とする攻撃を実行する態勢を整えたところで、突然計画中止となる。朴正熙の政治的方策といわれるが、そのあとこの決死隊は、飼い殺し状態に置かれ、鬱屈と憤懣が爆発したのが、71年8月23日の実尾島部隊の反乱、ソウル進撃だった。事件の真実は30年にわたって隠蔽された。
金大中、盧武鉉の時代になって、この北派工作員のことが少しずつ明るみにでて、補償に関しても見直される傾向にあるが、北派工作員の生き残りの多くは社会的にもほとんど見捨てられた上、監視や特別扱いされて、不遇な人生を歩んでいる。
こういった政権の裏側を取材する行為は、特に日本人記者にとって困難なものと思われる。著者は66年生れの共同通信社の記者で、2002年からソウル特派員として活動、著書に「日本の公安警察」もあるらしい。なかなか硬派で、しっかりした能力を持っているようだ。
あとがきには彼の拠ってたつ立場を明確に表明してあり、強い共感を覚えた。やや長文だが一部引用しておく。

「韓流ブーム」で急増した日本からの観光客が目にするとおり経済発展と民主化を謳歌する韓国だが、少し入り込めば分断の傷は人々の生活のそこかしこに疼いている。400万人もの犠牲者を出したとされる朝鮮戦争を経て生き別れたままの離散家族は1000万人とも推計され、韓国においては長きに及んだ軍事政権の暴政がもたらした傷もいまだ血が滴るほど生々しい。一方の北半分を眺めれば、困窮の独裁がなお君臨し、韓国が謳歌する豊穣は足下に大きな爆薬を抱えたままだ。
そんな韓国が今、北朝鮮との対話路線に舵を切っている。もちろん韓国内に一部異論もあるし、過剰な「民族主義」には時に辟易もするが、果てなき憎悪と対立の連鎖反応を断ち切って、対話による軟着陸を模索しようとする姿勢には頭が下がる。いや正確に言えば、カタストロフを避けるにはそれしか道がないのだ。
ところが日本はどうか。朝鮮半島に対する浅薄な冷笑と憎悪のみを増幅させ、妙に勇ましい強硬論が跋扈し、果ては為政者たちが長く望んだ国家機能強化に向けた政策実現の梃子にすら利用しているのではないか。
これも言うまでもないが、かつて朝鮮半島を植民地とした日本は分断の責務の一端から逃れることはできない。まして朝鮮戦争によって戦後復興の端緒を掴み、韓国軍事政権と根深い蜜月を維持してきた歴史なども顧みれば、表層的で短視的な日本の佇まいは滑稽であり、犯罪的ですらある。対話を冷笑して妙に勇ましい強硬論が大手を振る日本の方がよほど「平和ボケ」しているといったら言い過ぎか。
繰り返すが、本書で紹介した北派工作員は韓国のいまだ癒えぬ傷の一断面である。筆者としては、本書を手に取った一人でも多くの読者が、北派工作員の存在を通じて韓国に残る生々しい傷に触れ、これほど圧倒的な傷を抱えながらも対話を模索し、分断状態の軟着陸を図ろうとしている思いの欠片でも感じていただければ、と願う。
さらにもう一つ付け加えれば、情報機関なるものが肥大化した社会が暗黒と表裏一体であるという事実も合わせて感じていただければ、とも思う。どうやら最近、日本では「強力な情報機関」なるものを待望する声が高まっているように見られるから。


06109

【首輪物語】清水義則 ★★☆☆ 彼の専門ともいえるパスティーシュ短編8編が収められている。Morris.はパロディとパスティーシュの区別が良く分からないが、要は面白いか面白くないで、はっきりいって面白くなかった(^^;)
タイトル作は当然「指輪物語」の犬版パロディで、原作読んでないMorris.には、全く理解できない。ピーターパンの「ティンカーベルの日記」、若草物語と細雪の「パウダースノー、ピンクレディの歌の「渚のカルメン」、プロジェクトXの「プロフェッショナルX」、真珠夫人の「あこや貝夫人」。スーパーマン、スパイダーマンの「亀甲マン」、西遊記の「ハートブレイクツアー」と、元ネタ知ってるものでも、ギャグのツボが、全くMorris.には通じず笑えない。
たとえば若草物語の4人姉妹を語る部分は大阪弁にしておいて、後で登場する細雪の伏線にしてるが、内容はほとんど原作のダイジェストでしかない。
書く方はそれなりに楽しんでるのかもしれないが、読まされる方としては時間の無駄にしかならなかった。


06108

【ハムレット狂詩曲】服部まゆみ ★★★★ 服部真澄のファンであるMorris.は、いつもその横に服部まゆみという名前を見て何となく気になりながら敬遠してきた。で、服部真澄の新作「海都物語」上下2巻が、どうしても読めなかった(>_<)ので、ついとなりの本書を手に取ってしまった。冒頭に劇場の見取り図などがあって、典型的な謎解き推理小説っぽかったので、あまり期待しないで読み始めたのだが、これが、実に面白かった。
主人公が、元日本人のハムレット役者上がりの演出者で、イギリスで認められ、日本の新派劇場柿落としに招聘されてハムレットを演出するという、けれん味たっぷりの設定の上に、共演者が歌舞伎の一門だったりするわけだが、とにかく演劇のディテールを良く知ってるし、ハムレット&シェークスピアに関しても一流の論を展開している。さらに、劇団女主人の息子でハムレット役の青年が狂言回しのような役割をはたしながら、結構いい味を出してる。
演出家が母を捨てた父親を殺そうとする動機がやや弱いものの、したたかな美少年兄弟のはかりごとや、ちょっと嬉しくなるどんでん返しなど、この作家はただものではない。
演出家がシェークスピアのソネットを朗誦する場面があり、Morris.の一番好きな十八番、それも吉田健一訳を用いてるのも、「手を拱いて」にちゃんと「こまぬいて」とルビをふってることも、評点高くなった理由の一つである。
略歴を見ると、48年生れで、銅版画を学び国際賞も得ている才人らしい。もうすこし読んでみよう。


06107
【本を作る現場でなにが起こっているのか!?】監修 編集の学校/文章の学校 ★★★ 本が売れない、活字離れが言われて久しいが、リアルタイムで現在本を作る現場の最前線にいる実務者へのインタビューを中心に、本作りの現状と、これからの出版への希望や道筋を示そうとしている。

1.書籍・雑誌・マルチメディアの現場
2.広告・営業の現場
3.編集プロダクション・出版プロデューサーの現場


という三部構成になっていて、20の会社やプロダクションが取り上げられている。本の売れない時代でも、売れている本、雑誌、ベストセラーは存在しているわけだし、こういった時代こそ、時代にあったニーズを掘り起こす、作り出すための出版活動への様々な提言がなされている。
全体的にインターネットとの関わりに触れられていて、それはまあ当然だと思いながら、あの「本とコンピュータ」の成果が、実際問題としては結実には程遠いことを実感させられた。
14年前から電子出版に挑戦しつづけているボイジャーという会社社長萩野正昭の「ドットプレス(.press)」 にはちょっと興味をそそられるものがあった。
また企画のオークションという、業界の掟破りみたいなことをやってる「企画のたまごやさん」理事長吉田浩の

ライターは情報を加工して再発信するのが仕事なのに、その人達が、全く新しい波が来ているのに対応策がない。「危機を危機と思わない危機」にがくぜんとしました。

という発言は、出版だけに限らず、今の時代に含蓄のある言葉だと思った。だから、Morris.がどうこうするって、ことはないんだけどね(^^;)


06106

【韓国一周友情ウォーク】金井三喜雄(文と写真) ★★★☆☆ 「61日間1575kmの記録」と副題にある通り、2005年4月1日から5月31日にかけて、韓国を歩いて一周したグループの記録である。Morris.は最初見たとき、韓国好きで歩くのが好きな仲間が集まって韓国一周してその自慢話みたいなものかと思ったのだが、筆者は元朝日新聞のカメラマンだし、この企画自体も日韓のちゃんとしたスポーツ団体の会員の交流から生れたもので、内容的にも実に読みでがあった。韓国の週刊誌「週刊東亜」の取材記事の紹介がうまくまとめられているので引用しておく。

60代以上の日本人7人が「2005年韓日友情年」を記念して4月1日から5月31日まで2ヶ月におよぶ韓国1500kmのウォークを続けている。1500kmの距離を聞いて一般の人は「常識を超えた距離」と驚くに違いない。(略) 韓国の元気な若者でも恐れをなすような韓半島一周であり、世間の関心が集まるのは当然だ。しかも、平均年齢65歳とい高齢日本人たちによるものだから興味津々というものだろう。(略)
長距離徒歩旅行のためには念入りな準備と最新の注意は欠かせない。長期にわたる日程、言葉の障害、初めての土地、特に車の多い道路を歩く場合の安全問題…彼らはそれらの諸問題を巧みに克服していた。車から身を守るために黄色のカバーをザックに付け、不案内な土地を歩くため事前の下見と地図解読の能力を磨いていた。記録係や宿泊、食事の担当などきめ細かなチームワークの形成。(略)
年金で生活している彼らがこの旅に費やす費用は各自60万円ほど、韓国の金で600万wもの大金だ。(略)


ざっとこんな感じだが、全コースを歩き通したメンバーは日本人7人と韓国人3人計10名のメンバー、時には応援部隊が一緒に歩いたり、数日置きに休養を兼ねての交流日を設けたりして、全体のバランスをとっていたようだ。
ともかく韓半島一周を徒歩でということだけでもすごいのだが、75歳のリーダー、65歳平均の連中が、時速5km、一日30km平均、で歩きつづけるということは、確かに、スポーツである。
Morris.も歩くのは好きで、特に韓国に行ったら、日に4,5時間あるくことはざらだが、きっと時速は3kmに満たないと思う(^^;) Morris.の場合、歩くというよりふらついてるというのが正確だろう。彼らの場合は、景色や食事を楽しみ、人との交流を大切にしながらも、目的は歩き通すことにある。
したがって、Morris.はこんな試みに参加するつもりはないが、それでも、田舎町を歩いて行く記録には羨望の念を抑えきれなかった。次回の韓国行きでは、数日でも、田舎を歩く日を日程に入れたいと思った。
朝日新聞社の後援を受けたこともあってか、筆者は毎日日本のホームページに写真と原稿を送り、本書はそれをまとめたような形になっている。25年間新聞社でカメラマンを勤めた筆者だけに、300点以上あるカラー写真も、実に分かりやすくその土地ごとの特長や風景を見事に定着している。メンバー同士の軋轢(特に韓国人との)も、隠すことなく、また感情的になることもなく、きちんと記録されているし、当然ながら毎日の歩行距離、出発到着地点などは国名に略図入りで毎日掲載されていて、実に見やすい。ただ、地図の土地の色が濃いブルーになっていて、どうしても地図を見るとき青い色は海だと思ってしまうMorris.は、見るたびに違和感を感じてしまったよ。
半島一周ということから、海岸線中心の行程になり、内陸部は38度線に並行した、地域に限られる。こうなるとMorris.は是非、彼らの歩かなかった内陸の田舎が狙い目かな?なんてことを考えたりしてしまった。
韓国旅行記は多いが、本書はひと味違った旅行記としてすごく楽しめた。


06105

【在日の耐えられない軽さ】鄭大均 ★★☆☆ 初めて日本語で小説を書いた父と日本人の母の間に生れた著者が自身のアイデンティティを求めて生きてきた半自伝的作品だが、かなり特殊な家庭状況と、著者自身の資質、それと父や妹への近親憎悪的筆法は、読んでいて、嫌な気分になってしまった。
彼の父鄭然圭は1899年慶南生れで20歳前から小説を書き、排日小説として朝鮮総督府から国外追放処分を受け、日本に渡り、プロレタリア文学運動の近辺で活動始めたらしいが、戦争後期には朝鮮人にして「皇道思想家」という、不思議な存在になるし、精神的にも尋常を欠いたようでもある。
疎開した岩手県で、ニ男、一女をもうけ、著者は次男である。
著者はアメリカや韓国で学究生活をしたあと、日本に戻り、2004年には日本国籍を取得したとのことで、本書のタイトルもそれに関連するようだが、どうも歯切れが悪い。

在日はこれからも日本でいきていかなければならないことを知っているし、そのためには日本国籍が必要であることも知っている。というより、そんなことはずっと昔から明らかなことだったが、「帰化は同化である」とか「帰化は民族の裏切りである」といった宣伝を左翼や進歩派系人士たちが繰り返したおかげで、在日たちは日本人になりたいという意志を自己抑制して生きてこざるを得なかったのではないか。

左派・進歩派系の日本人知識人はかつては差別に対する批判者として、今日では多文化共生の実践者として在日の擁護者を装っているが、彼らは在日が日本社会に統合されることに反対してきたおいう意味では、在日たちからライフ・チャンスを奪ってきた人々であるともいえる。日本の多文化共生論者たちに訊きたいが、在日のように、文化的な異質性を喪失し、しかも本国への帰属意識に欠けるような人々がこれからも外国人として生きていかなければならないとしたら、日本国民は永遠の日本人、つまり世襲の日本人だけで構成されてしまうということになるが、それでいいのか?


在日が日本人になれなかったのは日本人左翼、進歩人の責任みたいな言い方は、責任のすりかえのように感じられるし、自分が日本国籍を取得したことの正当化の為の論調みたいに思われる。

在日たちはもう祖国との関係を清算していい。韓国籍から離れたほうが韓国人とのつきあいも透明で公平なものになるだろう。祖先の地とのつながりが絶たれてしまうわけではない。日本人になったからといって、祖先の地とは無縁に生きたっていいし、コリア系日本人として生きたっていい。いまだに祖国統一だとか民族だとかいう者がいるが、そういう浮世離れは相手にしないほうがいい。

という結びのことばは、「妄言」に近いと思うぞ。


06104

【大好き!旭山動物園】多田ヒロミ ★★★ ここ数年やたら話題にのぼってる旭山動物園だが、著者は97年に結成された「旭山動物園くらぶ」代表で、本書は自分の子供時代からの動物園への思いと、くらぶ活動の報告、動物園の歴史と施設飼育係り、園長などとの対話をまとめたもの。施設などは、下記の「日本一元気な動物園」デ紹介する。本書の終りに50pにわたって掲載されている著者と小菅正夫園長との対話が実に興味深かったので、一部を引用する。

多田 動物園というのは人間にとってどういった役割を持っている場所ということになりますか。
小菅 「人間がにんげんであることを確認する場所」じゃないかと思うんです。

小菅 僕は欧米の動物園に追いつくためには、研究部門をしっかりと自分らの基盤におかないといけないと思っているんです。そうしないと日本の動物園は遅れた動物園になっちゃう。
多田 バックヤード(舞台裏)こそ動物園の本質ということなんでしょうね。
小菅 そもそも、「展示」は「新しき動物学」の紹介なんだから、「行動展示」は「新しき動物行動学」の紹介なんですよ。動物園というのはそういう組織でなければ、社会に早晩受け入れられなくなりますよ。日本のような小さな国に92の動物園が必要だと思いますか。

小菅 知るということ、自分の意識で知りたいと思って何かを知るということは、こんなに楽しいことはないんです。
多田 そうですね。求めて学ぶということは喜びに直結するんです。
小菅 強制されて知識を詰め込まれるという、こんな苦痛はないわけですから。

多田 そもそも動物園にとって、園長の役割はなんだとご自身でお思いですか。
小菅 「動物園は何のためにあるのか」ということをみんなが共有するために、「動物園はこのためにあるからこういう方向で進むよ」ということを明確にすること、それから、動物園のそれぞれの人間に「自分が担当している部門は、動物園全体がこういうことをめざしているなかでどういう位置づけにあるのか」ということをわかってもらうようにすることが、私のしごとでしょうね。
多田 全体を知りながら各所を担当するということですね。
小菅 僕は、基本的にはその中で自由にやっていいと言ってますから。マスコミの人たちは、私が「みんなの好きにやれ」「みんな自分の考えでどんどんやっていいよ」と言っているのを、放任主義と誤解しているんです。各スタッフに話を聞いてもらうとわかると思いますが、だいたいみんな同じことを言うでしょう。それは動物園の方向性をしっかりと私が定めているからです。「それについてあなたはこういうことで担当してください。やり方はまかせますから」というのが、僕のやり方です。僕の仕事はそこにあるんです。例えば新しいアイデアがあれば僕も聞きますけれども、基本的にはダメだと言ったことはないです。ほとんど全部やらせています。
それともう一つは対外的に、市役所とか市民に対しては、動物園の役割などを知ってもらうこと、「いま、理想の動物園には何が必要なのか」ということを訴えつづけるのも、私の仕事です。でも、これはたいしたことはないんです。
多田 そうなんですか。すごく大変なことだと思っていますけれど。
小菅 そんなことよりも、僕にすれば、スタッフみんなが意欲を持って働いて、自分を仕事の中で表現していくようになるのが一番いいことなんです。


おしまいの引用部分なんか、まるでビジネス書のリーダーの心得みたいな感じもするが、ともかくも、旭山動物園が、それ以外の動物園と、かなり違う自覚的運営のありかたの一端を垣間見ることができそうだ。
Morris.は、あまり動物園と縁のある方ではなかったのだが、5月に灘駅近くに引越して、王子動物園まで歩いて5分という地の利を活かして年間パス作って、毎週みたいに通い始めただけに、旭山動物園のことも何かと気にかかってたというわけで、本書を読んで、動物園の概念がすこしだけ変わったような気がする。


06103
【日本一元気な動物園】多田ヒロミ ザ・ライトスタッフオフィス ★★★ 副題に「旭山動物園8年間の記録」とある。旭山動物園の開園は1967年だからすでに40年を越えてる。本書が1996年から2004年までの8年間に限定しているのは、94年にゴリラやキツネザルのエキノコックス(寄生虫卵による感染症)事件で一時閉園となり、入場者最低を記録した96年から、2004年には月間入場者日本一を記録するまでに劇的なV字回復を果した8年間を立体的に紹介したもので、前半は動物園の施設や動物たちをカラー写真で紹介した、ガイドブック形式、後半は、動物園職員、とくに飼育係を中心にした魅力的動物園作りの実態調査(^^;) 園長を中心とする運営スタッフの考え方や、これからの方針などをインタビューしてまとめたものになっている。
あざらし館、ぺんぎん館、ほっきょくぐま館、オランウータン舎、もうじゅう館、こども牧場、ととりの村、さる山など、など、個々の施設については、旭山動物園のHPを見てもらいたい(^^;)
たしかに魅力的展示がなされてるようだし、日本一北にあるという地の利を活かしてのペンギン散歩などは、羨ましくないこともないが、現在の過剰ブームだと、実際に入園しても、動物より人間の多さに辟易してしまいそうだ。
Morris.には王子動物園があるし、まぬー(マヌル猫)だけで、十二分に楽しませてもらっている。
ただ、本書と先の2冊を読んで、動物園の見方が少し変わりそうで、嬉しい。


06102

【全一冊 韓国 KOREA 道の美と出会うたび】芸術新潮8月号 ★★★ 7月に図書館でこれを見かけたときは、とりあえず韓流ブームもここまで根を張ったのかという驚きが先にたった。閲覧室でさっと写真だけ流し見たのだが、半分くらいはお馴染みのものや場所だったし、何となく統一されてないな、という第一印象だった。
3ヵ月後にやっと借り出すことができて、一通り流し読み(^^;)したのだが、最初の印象はそれほど間違ってなかったと思う。
百済の跡を追って忠清南道、全羅南北道を回る特集。ソウルのデザイン、食事、ポジャギを3人がTVロケみたいな感じで取材した記事、雪嶽山撮影登山、釜山ルポ、慶州の修学旅行スタイル(南山石仏巡り)、韓国歴史絵ものがたり、そして、ソウル中央国立博物館案内、数人のエッセイ、。と見事に寄せ集めである。雑誌の特集といえばそれがあたりまえかもしれないが、全体を統括する責任者が必要だったと思う。
まあ雪嶽山はMorris.もずいぶん前に一度登ったことがあるが、本格的登山とは程遠かったから本誌の記事は見応えがあったし、中央博物館案内のおかげで、あの吹き抜けにあった石塔のキョンチョン寺の漢字(敬天寺)がわかったのもありがたかった。
あの東大門広蔵市場の黄緑のTシャツに赤いエプロンのアジュマが写ってるのも嬉しかった。
ただ最初の方の百済の跡をたどる記事の中で、腑に落ちないところがあった。

百済はハングルではペクチェと読む。

今さらではあるが、「ハングル」は文字の名称であるから、この文章はおかしいと思う。「百済」の韓国語/朝鮮語での読みは「ペクチェ」であるということだろう。これは文責編集部となっている。


06101
【神戸の残り香】成田一徹 ★★★ 神戸の古くからの酒場やBARを切り絵とコラムで紹介する小洒落た絵本を何冊か出してる著者の、酒場に限らず、神戸の古い店、古い場所、たたずまいなどを切り絵で紹介したもので、タイトルとおり古いもの消えていくものへの著者なりの感慨が篭められている。
神戸新聞憂患に連載された同題の連載を中心に、朝日新聞掲載の小品その他も含めて見開き2ページ80点が収められている。
Morris.の親しんでる場所や店もいくらかある。
一番近いところではJR灘駅、職場でもある摩耶埠頭、御影公会堂、三井桟橋、元南蛮美術館だった神戸市文書館、懐かしいところでは、神戸ハイボール、神戸灯台、−−−拾い出すと切りが無くなるくらい、神戸市全域にわたってさまざまなものをピックアップしている。
著者はMorris.と同じ年に神戸に生まれたとある。Morris.は神戸に住んで約30年だが、母の本籍は神戸だし、もうこれくらい住めば神戸人と言ってもいいだろう。著者は現在東京在住らしい。
ひとつだけ、印象的だったのは下山手通りの「ヒシヤベーカリー」が取上げられていることだった。30年前に神戸に移ったとき、この店の山側の急斜面に貼りつくように建てられたボロアパートに住んで、ヒシヤでときどきパンを買ってた。特に高級とか、独特とかいうことはなくて、本当に地元の手作りパン屋さんという感じで、価格もお手ごろだった。最近はあのあたり通ることも少なくなったが、今でも元気にやってるんだな、と分かっただけでも本書を読んで良かった。
きっと、他の店や場所を見て、Morris.みたいに思った読者も多いに違いない。
切り絵の作風もくどくなく、たしかに神戸のモダンさを体現しているようだ。


06100
【王道楽土の戦争 戦前・戦中編】吉田司 ★★☆
 先に戦後編を読んで、余りの面白さに、こちらも早く読みたいと思いながら、こんなに遅くなってしまった。ところがこちらは、どうも期待外れというか、あまりに脇道にそれたり、古代史をアレンジしすぎたりで、一向に楽しめなかった。やっと最終6章の石原莞爾のところで、身を乗り出しそうになったが、結局は中途半端で、本書はあの後編のための、できの悪い予告編でしかないような気がする。でも、もし、こちらを先に読んでたら、後編は読まなかったかもしれないから、あちらを先に読んでおいて良かったのかもしれない。


06099
【デジカメ時代の写真術】森枝卓士 ★★☆☆ こういったタイトルの本を見るとついつい手を伸ばしてしまうMorris.である。よく「食べ物紀行」みたいな本で見覚えのある著者だが、NHK出版の「生活人新書」ということからしても、モロ初心者向けとは思ったが、何か一つでも実践できるネタがあればいいだろう。
しかし、驚くほど、ネタのない本だった(>_<) 
これならネットの「今日から始めるデジカメ撮影術」の方が百倍くらい役に立つと思うぞ。さっき覗いたら、最新回は猫の撮り方だった(^o^)これは熟読しなくては。


06098
【目白雑録ひびのあれこれ2】金井恵美子 ★★★☆☆ 前作がやたら面白かったのでこちらも期待して読んだ。期待は裏切られなかった(^o^)
「一冊の本」2004年5月号から2006年6月号掲載分である。美恵子さんはMorris.より2歳年長だから、ちょうど本書の雑録書いてる時期はMorris.と同年齢の時期にあたる。老いによるボケや身体の弱り、世間への対応に類似点を感じたりもしたが、彼女はこの時期にワールドサッカーに目覚めたらしく、やたらサッカー関連記述が多い。スカパーで欧州サッカー試合を見まくって、日本サッカーへの罵倒に近い言及も多かった。それにしても、やっぱり彼女はただものではないので、面白いことこの上なかった。
現代版小言幸兵衛である。ランダムに引く。

ところで、何しろ柄谷行人の言ってることなのだから、なんとなく二周遅れの長距離走者めいていてまともに受け取ることはないのだが「近代文学の終り」ということが、文芸ジャーナリズムでは多少問題になっているらしいのだ。新聞のインタヴューに答えて、近代文学は19世紀に終っているとも言えるけれど、行列の出来る下町のトンカツ屋のように書かれ読まれる小説もあるだろう、と発言する松浦寿輝の中途半端(おちょぼぐち)な東大教授発言に比べると、「ある大学の看護学科の非常勤講師」を短い間やっていた小説家向井豊昭の文章は、歴然とした差がある。「あの世に逝きかかっている」向井は、「文学によって社会を動かすことができるように見えた時代が終ったとすれば、もはや本当の意味で小説を書くことも小説家であることもできない」という柄谷の発言にあきれて、「待ってくれ。『文学によって社会を動かす』? 動かさなければ、文学ではないのだろうか?」と書く。彼が講師を務めた講座で小説を書いた女子学生の、書くことで意識していなかった内面と向き合うことができた、という「アイデンティティを探す旅」についてのすなおな感想はさておくとして、「孤高、偽悪、反逆−−時代劇を思わせるような言葉がピッタリの近代文学が死んだということは、武士の時代がようやく終わりを告げたということではないだろうか?」と、向井は、柄谷の「今日新しいといわれている現象には、すべて近代産業資本主義以前に、日本でいえば徳川時代にその雛形があります。自分が時代の最先端だた思っている人はたんに町人に戻っただけです」という発言を受けて書く。「それが本当なら、民草の時代がようやくやってきたということなのだ。/マンガをやりたい奴はマンガをやれ。/政治をやりたい奴は政治をやれ。文学をやりたい奴は、文学をやれ。/アイデンティティへの道は入り組んでいるから、あれもこれもやってしまえ。フリーターよ、めげるな。あれもこれも大事なのだ」
近代文学は終ったという発言に対して、行列の出来るトンカツ屋とフリーターと並べてみれば、アイデンティティはどうでもいいけれど、私としては、フリーター同然に、小説や雑多なエッセイを書いてカスカスに生活しているから、こちらにリアリティを感じる。(2004年10月)

深沢七郎は、人間は屁のように生れて屁のように死んで行く、と、かつて書いていたが、デジタル技術のおかげで膨大な屁のエネルギーが記録されようとしているわけだ。米国防総省の中止された研究にいたっては、プライバシー云々どころか、民主主義社会の根幹を揺がす超独裁国家の出現の懸念そのもんではないか。こういう記事を読むと,私としては五十歳以下の男をアンチャンと呼ぶことにしようと思う。いや、五十歳を超えてもアンチャンは多い。うーっ、気持悪い(2004年11月)

八月というのは暑いところにもって来て、土俗イヴェントとしかいいようのない高校野球大会はあるし、終戦記念日はあるし、お盆ではあるし、なんともいろいろなものが入り混って日本土俗的な霊とやらの季節といううっとおしさがつきまとうところに持ってきての選挙騒ぎである。政局ニュースというのは、そこに登場する者もそれを伝えるものも論評する者も、下品で傲慢なだけではなく、頭がおかしいのではないかとしか思えない。(2005年9月)

Jの夢 世界へ! といった調子でW杯が語られ、国内組、海外組などと言っているのだが、実際のところ、それではJリーグの実力というのは世界の水準の中でどういうものなのかと質問すると、とりあえず公の場でそういうことを口に出来ない立場なんだけど、と、ある知人はにこにこと言うのだった。まあ、カン蹴りっすね。カン蹴り。(2006年2月)


引用しながら、本当に引用したいのはここじゃなくてもっと別のところではないか、と、思ってしまう。同世代の才媛のわがまま放言エッセイだから、ついつい感情移入しすぎるのかもしれない。


06097

【韓国現代史】文京洙 ★★★☆☆ 著者は未知の人だが、1950年東京生れの(たぶん)在日韓国人だと思われる。
袖書きを引用しておく。

日本の植民地支配から解放されて60年。韓国の歩みは分断、戦争、独裁、軍事政権、民主化運動、そして経済破綻など日本では想像を絶するような波乱にみちている。30年余りの歳月を隔てて起こった二つの悲劇−−済州島四・三事件と光州事件を軸に、ダイナミックに描きだす激動の現代史。

まあいちおうそのとおりの内容だった(^^;) もちろん四・三事件直後に起こった、最大の悲劇である朝鮮戦争は必須事項だから、本書ではこの三つの事件発生のプロセスと原因、それに済州島、全羅道への偏見への全面的見直しにも力点が置かれている。
Morris.も、それぞれの事件には関心を持ちながら、いまいちアウトラインをつかめずにいたのが、本書を読んで、なんとなくすっきり流れをつかめたような気がする。
本書は岩波新書だけに、岩波臭というか、教条主義的、決め付けが鼻につくきらいがなくもないが、それは読む側が意識的に読めばそれですむことだろう。
全体の流れとはあまり関係ないのだが、60年代の清渓川への記述があって、ちょうど新しく復元された綺麗な清渓川を楽しんできたばかりのMorris.にはちょっと刺激的だったので写しておく。

60年前後のソウルは人口245万(全人口の約一割)ほどで、いまだ中産層は薄く、一握りの飛びぬけた金持ちと圧倒的多数の貧民がこの街を形づくっていた。中心地のソウル市庁前にも貧相な露天商が軒をつらね、物乞いやチュインガム売りの子供たちが群がっていた。東大門から東西にのびる清渓川は悪臭を放つどぶ川で、その両岸にはタルトンネといわれたスラムが果てしなく広がっていた。そこは、まさに、アジアの多くの都市がそうであったように、スラム、物乞い、物売り、売春、疾病がひしめく貧困地帯であった。
朴政権期に入ってソウルは劇的な変化をとげる。63年には大幅な市域拡張があり、漢江の南と北郊外が新たにくみいれられ、ソウルは空間的にも広がった(2.3倍)。かつては桑畑であった漢江の南は、その後のソウルの発展を象徴するシンボルとなった。重化学工業化の進展した70年代には、工業団地はもとより、高度成長の波に乗って成長した中産層の住宅団地がここに建設され、ヨイドは行政・金融の中心地に変貌した。ソウルの人口も、その間、年平均増加率が4.1%と驚異的なテンポで拡大した。74年には地下鉄(ソウル駅から清涼里を結ぶ1号線、ソウルを循環する2号線は78年に着工されている)が走り始め、清渓地区にはもはや川はなく、暗渠となってその上に一般と高速の二層の道路が走った(2005年9月、川は復元されて市民の憩いの場となっている)。
清渓地区のスラムは、31階建ての三・一ビルディングや平和市場と呼ばれる無数の工場群によって周辺へと押しやられた。70年に劣悪な労働条件の改善を労働庁に訴えて焼身自殺した全泰壱(チョンテイル)は、この平和市場で働く縫製工場の裁断士だった。


うーーむ、今回9月の韓国旅行、この本を読む前に行っといて良かった、正直そう思ってしまった(>_<)。これを読んでから行ってたら、あの綺麗過ぎる自然公園となった清渓川の川岸であんなに無邪気に草花を撮影したり、酒を飲んで(これは本当は禁止らしい)歌を歌ったりはできなかったかもしれない。
すっかり、横道にずれてしまった。
本書では、李承晩、朴正熙、全斗煥、盧泰愚、金泳三、金大中、盧武鉉といった歴代大統領のそれぞれの政治的評価や分析、一般大衆、学生、活動家などとの対峙についても、きちんと解説してくれているが、脱稿時期が盧武鉉大統領誕生直後だったらしく、インターネットと政治との関わりをやや過大に見ているきらいがある。
岩波にしては(いまだにあの胡散臭いT・K生の「韓国からの通信」を絶版にしてないらしい)、なかなかちゃんとした本を出したものだと、誉めておきたい(^^;)


06096
【ナンシー関の顔面手帖】 ★★★★ 1991年7月10日シンコー・ミュージック発行の初版を王子公園前の新古本屋「ARCAM」で手に入れたことは9月2日の日記に書いたのだが、その後、ぼつりぼつりとつまみ読みしてた。今日は雨で外に出るのも億劫だったので、ついついそのまま全部読んでしまった。半分が消しゴム版画、半分がコラムだが、本書は彼女の初期の作だが、もしかしたら、数多ある彼女の本の中でもピカイチかもしれない。第一に造本がよい。A5のやや小型版のざら紙のペーパーバックでその軽さが内容にぴったりだし、全版画のタイトルとモデル名とサイズと制作年月日の一覧表や、使用消しゴム、カッター、スタンプインキのメーカーや製品名が詳細に付されていたりする。遊び心横溢してるわけだ。
彼女が突然亡くなった後の記念本とかならそういうのもありがちだが、デビュー当時にここまでやってるというのも、面白うてやがて悲しい匂いがする。

・決して「美人女優」とは位置づけられないのに、美人役の回って来る女優。市原悦子の七不思議のひとつである。あとの六つはしらないけど。
・白目で演技する男。それが宇津井謙なのである。
・無くなってみて初めて気付く。ドリフと幸せは似ている。


ひとつMorris.が意外というか、ちょっと驚いたのは、みのもんたへのコメントの冒頭だった。

・みのもんたは、現在絶好調である。今が彼の人生で最大の好機であることは、これまで彼の人生を何ひとつ知らない私でも断言できる。

え”っ!?15年以上もみのもんたは絶好調を続けてるってことになるのか。ふーっ。

ナンシー関あとがき自画像付きの「あとがき」を引用しておく。

私も、よもやこんなに消しゴムをカッターで彫る人生を送るとは思っていもいなかった。いや、こんなに消しゴムを買う人生さえも予想だにしなかった。
思えば女子高校生だった頃、授業中に彫った"ゴダイゴ"のロゴマーク。完成した時の喜びと、それをあらゆるところに押しまくる時の、ある種、犬のマーキングにも通じるところがあるのかもしれない征服感は今でも覚えている。大学生になって暇を貪るような生活をしていたとき、ふと何故かまた消しゴムを彫り始めたのも、意識の深層部に高校の時のその思いが脈々と生き続けていたからかもしれない。と、誰にもそんな経験がないのをいいことに、あることないこと言ってるわけだが。
消しゴムを彫るなんていう子供の遊びがこうして立派な本になり("画集"とさえ言う始末)、買ったりしてくれる人がいるということに心から感謝したいと思う。いい世の中だ。
最後に、次から次へと「〇〇のはんこ彫って」と依頼してきてくれた雑誌の編集者の皆さん、おかげさまでした。装幀をしてくださった大野さんとシンコーの君塚さん、本当にありがとうございました。


実質的に本書は彼女の処女作品集ということになるのかもしれないな。栴檀は双葉より芳し、である。
彼女作の柏原芳恵の消しゴム版画は何とか入手しておきたかったなあ、と今になってそう思う。


06095

【恋ひ歌 宮崎龍介と柳原白蓮】 斎藤憐 ★★★ 2003年の戯曲である。発行元の而立社は彼の戯曲を多数出しているようだ。20作に近い。古代史から中世、近世、そして、近代、現代と日本史を縦断しての史劇のオンパレードという趣である。
本書は満州浪人宮崎滔天の息子と、大正天皇の従妹のY子の恋物語であるが、作者一流の仕掛けと斎藤史観(^o^)の披露があるのだが、そのあたりが、鼻につくと言えなくも無いな(^^;)
九州の炭坑成り金の妻になり、何不自由なく暮らしながら、若い壮士への恋に身をまかせるY子のことをやや突き放した視点で見ているし、宮崎滔天、龍介親子の社会運動の無力さにもかなり冷たい。
そしていちおう歌人として名をなしている白蓮(Y子)の歌というのが、実にひどいのが印象的だった。

・吾は知る強き百千の恋ゆえに百千の敵は嬉しきものと
・わが命惜しまるるほどの幸いを初めて知らむ相許すとき
・シベリアの野末の果てもほとぼとし魂のゆくへなほ遥かにて
・寂しさのありのすさびに唯ひとり狂乱を舞ふ冷たき部屋に
・船行けば一筋白き道のあり 吾には続く悲しびのあと
・吾なくばわが世もあらじ人もあらじ まして身を焼く思ひもあらじ
・しずかなる大地のうちにたゞ一人 生まれしやうの寂しさに泣く
・降り積もる雪かと見れば 悲しかり行軍の子の肩に帽子に
・会ひ見てはすねてもみたく 別れては泣きて哀れみを乞はむとも思ふ
・昨日咲きし花は 受胎のいとなみに余念もなくて蝶の遊べる
・この道は魔の淵にゆく方角と 何とはなしに囁き聞こゆ
・ゆくにあらず帰るにあらず居るにあらで生けるかこの身死せるかこの身


しかしこの人の戯曲は機会があればもう少し目を通しておきたい。できれば芝居を見ることができればそれが一番いいのだろうが、今のMorris.は、映画館に足を運ぶのすら億劫になっているのでむずかしそうだ。


06094
【韓国人の歴史観】黒田勝弘 ★★★ 99年発行の文春新書だから、ちょっと今の日韓関係の現状とはタイムラグがあるかもしれない。しかし彼は80年から84年まで共同通信の、そして89年からは産経新聞のソウル支局長を勤めている、いわば、日本の韓国ジャーナリストの先端に位置する存在で、彼の韓国への視点には教えられることが多かった。
本書は以下の10章に分かたれている。

1.従軍慰安婦問題−−日本コンプレックスの深層
2.対日「抵抗史観」の神話
3.韓国人作り−−反日教育はなぜ必要か
4.はてしなき「謝罪」要求の根拠
5.中国の影−−「日王」という呼び方
6.日帝風水謀略説−−「光復五十周年」の反日風景@
7.旧総督府解体−−「光復五十周年」の反日風景A
8.日帝の残滓−−「光復五十周年」の反日風景B
9.新たなる「日本」の影
10.「日韓問題」は存在しない


章のタイトルを見るだけで、かなり論旨が「サンケイ寄り」になってる気がする。
Morris.も実は、韓国人の、教条的な「反日」にはいささかうんざりすることもあるし、「親日派」=「絶対悪」という捉え方には、何だかなあという感慨を覚える方なのだが、本書の黒田の「開き直り」にも、やっぱり何だかなあ、と思ってしまった。
10年ないし15年前くらいから韓国に親しみを覚えた日本人たち(Morris.もその中に含まれる)の中で、少しずつ、「嫌韓」っぽい発言をする人が増えているようで、ちょっと気にかかってたのだが、黒田勝弘までがそうなのか、と、ちょっと気になるような部分が垣間見えたということだ。
もちろん、個々の記事では、それなりに教えられることも多かったし、悪い本ではないと思うんだけどね。


06093
【万年東一】宮崎学 ★★☆ 愚連隊の神様といわれる万年を主人公にした小説とのことだが、はっきり言って小説になってないね、これは。
これがハードカバー上下2冊で計840pだぜ(>_<) 読む方の身にもなって欲しいと思った。
宮崎の「突破者」など一連のドキュメント風の作物にはかなり入れ込んでたことがあるだけに、本書のようなズタボロ作品を見ると、おいおいと言うしかないが、小説と思わなければ、あちらこちらに宮崎節が聞こえてくるわけで、とりあえず、読み通してしまったわけだ。
戦前戦中の、出征や軍部とのやりとり、戦後の警察、三国人、ヤクザとのやりとりなど、それなりに面白いエピソード満載なのだが、脈絡がまるでない。そして万年が動くと全てが彼を中心に事態が回っていく。ご都合主義といえばそれまでだが、これは限度を超えてると思う。
おしまいあたりでは、突然学生運動活動家の宮崎自身が登場して、万年に気にいられて、一緒にベトナムへ向かうという、これまた、噴飯もののフィナーレであった。宮崎には、こういった変てこな小説まがいでなく、ストレートなものを書いて欲しいものである。


06092
【蝶】皆川博子 ★★★☆ 「オール読物」に1999年から2005年に掲載された8編の短編が収められている。それぞれに和洋の詩や句が引用されている。皆川はこういう趣向が好きらしく、以前にも童歌や俗謡を引用した短編集を出していたと思う。そしてMorris.はこのての皆川作品は、結構好きだったりする。
本書で引用されているのは、堀口大學訳、ポールフォールの「空の色さへ」、上田敏訳ハイネの「花のをとめ]、別所真紀子、上田五千石などの句、横瀬夜雨の複数の詩、伊良子清白の「初陣」、薄田泣菫の「春夜」、西條八十訳のダンセーニの「巨きな罌粟」などで、これらの選択眼の良し悪しがかなりの比重を占める。ある意味では、ずっこいやりかたであるともと思うが、引用好きなMorris.としてはあまりえらそうなこともいえない。
とりあえず、孫引きで印象に残ったものを紹介しておこう。

・冬に入る白刃のこころ抱きしまま 別所真紀子
・萬緑や死は一弾を以て足る 上田五千石
・次の世もまた次の世も黒揚羽 今井豊
・滾り立つもの皆眠らせよ春の雪 音羽和俊

……かう云つてかれは再びその古い曲を吹きはじめた。その間にも、罌粟のねむたげな葩をゆする風は「想ひ出すなよ」「想ひ出すなよ」と呟いていた。ロオド・ダンセイニ「巨きな罌粟」西條八十訳


8編の大部分は、戦時、戦後の世相の中での悲喜交々(主に悲劇だけど)を美文調で、綴っていくスタイルで、なかなか巧いのだが、どうもMorris.は彼女の作品にはのめり込めない。
気の触れた華族の姫と小間使いの情交を描いた「幻灯」の冒頭部分。

伏した眼に蟋蟀の交尾が巨大に映り、己が身はひと雫の露の心地で、息も絶えているような、いや、蟋蟀がくちなわほどにも巨大なら、わが身は雲つく大入道。なれど伏したままであれば天にはとどかず、泥の山にひとしい。泥土の塚に象嵌された己が眼球は艶の失せた紛い物の真珠、しゃぶり尽くされた魚の目玉の白い芯にも似ようが、視力は失せず、視野を一杯に蟋蟀の眼が占めて、湿りを帯びて黴の生えた古畳は、寝ころがったからだの重みをささえかね、奈落に落ち沈んでいくような。

まあ、ざっとこんな感じである。Morris.はもともと美文は嫌いではないのだが,美文なら何でも良いというわけでは、なさそうで、あっさり言えば相性の問題だろう。
この作品には薄田泣菫の詩「春夜」の一部が引用されている(おしまいに作品引用一覧があってそう書いてある)のだが、手元の改造社の詩人全集で確かめたら、明治32年発行の「暮笛集」(金尾文淵堂)のなかに「春の夜」という題名で収められていた。何で「の」の字が消えてるんだろう? 引用元は昭和3年発行の「泣菫詩抄」(岩波書店)となってるから、このときにタイトル変更されたのかもしれない。


06091
【昭和名せりふ伝】斎藤憐 ★★★☆ 斎藤憐といえば「上海バンスキング」というイメージが強すぎて、その後の著作はかすんで見えてた嫌いがある。先般西条八十の評伝みたいなのを読んで、なかなかの書き手であると再認識したのだが、本書はタイトルがタイトルだし、いわゆる、昭和の流行ことばをネタに時代の移り変わりを面白おかしく描写したものぐらいに、思ってたのだが、いやいや、それはMorris.の大勘違いだった。骨太な警世の書といっていい。
昭和を、三幕仕立ての芝居に見立てるあたり、いかにも戯曲作者らしい。

・戦争の一幕(元年〜20年)
昭和元年 1926 何が彼女をそうさせたか(藤森成吉の戯曲のタイトル)
昭和4年 1929 山宣一人孤塁を守る(共産党只一人の代議士だった山本宣治の演説)
昭和7年 1932 話せばわかる(5・15事件で暗殺された犬養毅首相)
昭和8年 1933 サイタ サイタ サクラガ サイタ(尋常小学校国語読本巻一)
昭和11年 1936 定吉二人キリ(阿部定の血文字)
昭和12年 1937 馬鹿は死ななきゃなおらねえ(広沢虎造の「石松代参」)
昭和15年 1940 ぜいたくは敵だ(官製のスローガン)
昭和19年 1944 進め、一億火の玉だ(同上)
昭和20年 1945 堪へ難キヲ堪へ忍ひ難キヲ忍ヒ(玉音放送)

・復興の二幕(20年〜43年)
昭和21年 1946 あっそう(天皇の口癖)
昭和25年 1950 オオ・ミステイク(日大ギャング事件の主犯山崎逮捕時のせりふ)
昭和26年 1951 老兵は死なず、ただ消え去るのみ(マッカーサー退任時のせりふ)
昭和31年 1956 もはや戦後ではない(この年の経済白書)
昭和33年 1958 ご誠実、ご清潔(皇太子と美智子妃)
昭和35年 1960 声なき声(60年安保闘争)

・金権の三幕(43年〜63年)
昭和43年 1968 とめてくれるな おっかさん(東大駒場祭ポスター)
昭和47年 1972 恥ずかしながら(横井庄一伍長帰還)
昭和50年 1975 やむを得ないこと(天皇が米国の原爆投下に対して)
昭和54年 1979 ジャパン・アズ・ナンバーワン(ハーバード大教授ヴォーゲルの著書タイトル)
昭和62年 1987 バブルの中の懲りない面々(バブルと安倍譲二ヒット小説タイトル)
昭和64年 1989 Xデー(天皇の死)

取上げられたせりふと内容は必ずしもシンクロしてないが、天皇、戦争に関連する項目が多いことが目立つ。しかし、それ以上に本書のメインテーマは、天皇の戦争責任論と言っても言いすぎではないくらい、そちらに力点が入っている。
多くの資料や参考書を読み込んですごく勉強しているのも大したものだが、彼自身の事件や運動への関わりの多様さと深さには驚かされてしまった。たとえば60年安保ではトロツキストと呼ばわりされながら、デモに参加しているし、ベトナム戦争の脱走兵をかくまう経験もあるし、韓国被爆者のための映画撮るために70年に朴正熙軍事政権下の韓国に出向いてる。それぞれがかなりのハードな体験である。
アングラや黒テントなどの演劇活動が政治闘争と密接に繋がってた時代があったのだということを改めて確認させられた気がする。

昭和2年から太平洋戦争のはじまる昭和16年まで『ニューヨーク・タイムズ』の特派員として東京に在住したヒュー・バイアスは、西欧の国家理念からは理解不能な日本の政治システムについてこう表現する。「政治的に日本は個人から成り立つ国家ではなく、比喩をもって表現すれば、巣箱の防衛のために集団で活動し、騒ぎ立て、戦う、ひと箱のミツバチだからだ」と。
それこそが、コミンテルンが「27年テーゼ」で理解できなかった天皇制だ。

戦前に米国では、これだけの日本理解がなされていたということだけで、戦わずして負ける気配濃厚だね。

僕は御前会議が本土決戦を諦めたいちばんの理由は、第三、第四の原爆投下の恐怖とともに、ソ連政府による仲介の夢(外務省の情報収集能力のなさと外交オンチ!)が、8月9日のソ連軍の参戦でくずれたからだと考える。
アジア各地で住民を皆殺しにし家々を焼き払った皇軍兵士と、大日本婦人会のたすきを掛けて千人針を縫った「目覚めた」女たちは玉音放送を聞いたとたん、この列島から蒸発した。

確かにあの「玉音放送」というのは、とんでもない効果を発揮したようだ。録音で聞くと、ほとんど何を言ってるのか分からないのだけど。

本能の代わりに人間が築いた文明は本能ほど十全に環境に適応することができない。動物は、本能によってこの世界とトラブルを起こさないが、人間の作る社会は不自然な法律によってがんじがらめにしなければ維持できないし、つねに不満分子、違反者、脱落者を多数抱えている。
働けなくなった老人を社会が支えなくなって無理心中が起こるのも、能力の劣った労働者をリストラするのも、人間の究極の目標を生産性だとした現代の哲学だ。

これはまあ、良く見かける論だけど、間違ってはいないと思う。

世界史のなかで、議会制民主主義を非暴力で手に入れた国民はいない。議会制民主主義はもちろん、欧米各国の民草が人権を手に入れるまでには、権力との闘いのなかでたくさんの血が流れた。日本の国民だけが、一滴の血も流さず、占領軍司令官の書いた紙切れ一枚で人権や選挙権を手に入れた人類史上に例をみない国なのだ。

作用反作用の法則と言うか、安易に得たものは、安易に失われがちである。

艦船のほとんどを失った日本軍はやむを得ず航空機と人間魚雷による特攻攻撃をくりかえした。
米軍の本土上陸をおくらせるため、沖縄へ戦艦大和を特攻をうながした天皇は『独白録』で、沖縄戦は「作戦不一致、全く馬鹿馬鹿しい戦闘であった」とのべている。

昭和22年、GHQ外交顧問シーボルトはマッカーサーに覚え書きを出している。
「天皇はアメリカが沖縄を始め、琉球の他の諸島を軍事占領し続けることを希望している。天皇の意見によるとその占領はアメリカの利益になるし、日本を守ることにもなる」「アメリカによる軍事占領は日本に主権を残存させた形で、長期の−−25年から50年ないしそれ以上の−−貸与をするという擬制の上になされるべきである。天皇によればこの占領方式は、アメリカが琉球列島に恒久的意図を持っていないことを日本国民に納得させることになるだろうし、またそれによって他の諸国、特にソヴェト・ロシアと中国が同様の権利を要求するのを差止めることになるだろう」

昭和天皇の沖縄への視線は、はっきり言って弾除けでしかなかったのね。それが敗戦後もそのまま持続してるというのは、すごいとしか言いようが無い。

地雷を1個埋めるには千円もかからないが、地雷1個の除去には10万円がかかる。全世界64カ国に1億個埋まってるという地雷を取り除くには千年、40世代が必要だという。世界60カ国で、NGOが年に10万個の地雷を掘り出しているが、自国の安全保障を叫ぶ人々が、毎年数百万個の地雷をあらたにを埋めている。

「文化大革命」の失敗やポル・ポト派の横暴と壊滅を経て、僕たちは、世界的に進む「金持はより金持に、貧乏人はより貧乏に」というグローバル化に抵抗できなくなった。
ポル・ポト派がプノンペンを制圧する4年前の1971年、ジョン・レノンは、私有財産を否定する『イマジン』を歌った。
この地上に国境のない楽園を創ろうと夢みたユートピアが、その実現の過程でことごとく地獄を作り出してしまったのが、僕たちの二十世紀だった。

松下電器貿易に在職した経験もある草野厚慶大教授は『ODA一兆二千億円のゆくえ』で、問題点を次のようにまとめている。ODAは三つの顔をもっている。
日本のODAはあの十五年戦争の賠償からはじまった。だから、その7割が、中国、フィリピン、インドネシアといったアジアむけだ。
もう一つの顔は、外交上の手段。国後島に作られれた「ムネオ・ハウス」や発電所も、北方四島返還という外交意図が露骨だ。(効果があるかどうかは別だ)。
1961年には年間1.7億ドルだったODA予算が、バブル期になると三十八億ドルにふくれあがり、今や一兆円産業だ。
ODAは、外務、財務、経済産業、農水な各省からの出向スタッフによって運営されている。途上国の開発援助に、なぜ財務省や経済産業省が入っているのか?
北方四島のディーゼル発電施設は一見、人道支援に見える。
だが、2月27日、この工事を受注した三井物産が、自民党の政治資金団体に4年間で6千5百9十万円の献金をしていることが判明した。これを援助交際という。
ODAとは、国家賠償なのか、人道支援なのか、外交的手段なのか、日本企業の金もうけなのか、それとも自民党の政治資金のためにあるのか。

船戸与一や帚木蓬生の作品で、ODAに関する矛盾、没義道は教えてもらったが、何といっても桁が半端じゃないものね。一兆円というと、大まかに計算して、日本人一人が1万円出してることになる。

あのバブルの日々、一人一人の生活の豊かさを上げるために、大量生産大量消費から脱却する社会システムにソフト・ランディングできなかったのか。
日本人は焼け野原のなかから勤勉に働いて、莫大な富を築いた。だから、東に災害が発生すればいち早く救援輸送機を飛ばし、西に難民が出れば大型船で助けに行き、南の発展途上国に技術者を送り、北に紛争が起これば行って「つまらないからやめろ」ということだってできたはずだ。それを半世紀つづければ、自国の安全保障など心配することもないと夢想するのは餓鬼の戯言なのか。


戯言とはいえないが、日本人がそんなことができるわけもない(^^;)か。


06090
【ウェブ進化論】梅田望夫 ★★★★
 今年出たちくま新書で、Morris.には全く未知の著者だが、実に読みごたえある、教えられるところの多い一冊だった。
著者はMorris.より一回り若いIT技術者で、アメリカのシリコンバレーに住み,ベンチャービジネスを興し、はてなの取締役でもあるとのこと。
序章 チープ革命が社会を変えるという宣言に始まり、ネット世界とリアル世界の「二つの世界」の相互理解は可能か。
第一章 オープンソースとこれからのネット世界の変化は産業革命より重要な転換と位置づけ。
第二章 グーグルが単なる検索エンジンではなく「情報発電所」というべき、革命的存在であることを詳しく紹介。
第三章 ロングテール現象をアマゾンを例に解説、Web 2.0時代の到来と、API公開の意義。
第四章 ブログと総表現社会の到来から、玉石混交のネットコンテンツから自動秩序形成、ブログを知的生産の道具に。
第五章 オープンソース現象をウィキペディアを例にとって解説、著作権問題とのからみ。
第六章 ウェブ進化は世代交代でという結論

各章のタイトルでなく、大まかなトピックのピックアップである。
Morris.としては第四章の、ブログへの言及が一番面白かった。というか、ずっと、ブログというのがよくわからないままだったのが、本書を読んでやっと、大まかにでも理解の糸口を見つけた気がした。
色々引用したい部分も多いのだが、著者のブログ「My Life Between Silicon Valley and Japan」をMorris.のリンクに入れることで引用に代えることにする(^^;)
本書を読んで、Morris.のはてな日記「ノレ番Morris.8090」は、ブログとしての使い方としては最低のやり方だということに気づかされた(>_<)


06089

【男女の仲】山本夏彦 ★★★ 自分の雑誌『室内』のコラム「日常茶飯事」の一番おしまいの単行本ということになる。言うなれば遺作でもあるのだろうが、山本夏彦の場合、ほとんど同じことを繰り返し繰り返し語っていて、その語り口調が絶妙で、何度聞いても飽きないという、いわば、名人落語家みたいなところがある。
2002年10月に逝去、本書の最後の回はその年の10月号に掲載されている。おしまいあたりはさすがに、老齢と死期が近づいていたためか、少々支離滅裂だったり、与太ったり(^^;)しているが、それがまた、5代目志ん生の晩年の語り口を髣髴させる、などというと、夏彦ファンから叱られるかもしれない。
「ラジオ・テレビ」という章から引用しておく。

山本 子供のためによくないというのではない、そもそもいらないもんだって思っていた。やがて僕もそう思うようになった。今から二十年ほど前に、ある細君に聞いてみたことがある。あなたテレビがないときどうしていました? しばらく考えた末、退屈してたって答えた。テレビがない時代に、ないものに退屈はできないよ。でもそれは言って分からせられないんだよ。
テレビが出来てしまったら、それを取上げることはできない。ただあんなもの無用だってことを納得させることはできる。それを納得させます。
−− いくら納得しても、私から取上げることはできないでしょう。
山本 あたり前です。なかった昔に返れないって何度も言ってるでほう。それがテレビくらいならまだいい、原爆だって取上げることはできません。先進諸国が山ほど持っているのに、どうして後進諸国が持っていけないのか問われたら−−答えられないでしょう。
ところが答えられるのです。いかにも私たち先進国は持っている、けれども今それを減らそうと努力しているところだ。だからあらたに核保有国になることを禁じるのだ、こんな理屈に説得力があるかないか。テレビの「週刊こどもニュース」という番組で子供に問わせてみるがいい、返事できまい。返事ができないと予想される質問を子供はしない。子供は何でも知っているのです。
−− 大人と子供の知的レベルは同じだと仰有りたいのですか。
山本 同じだよ。話は一変するが「浅間山山荘事件」あれはスペクタクルでした。赤軍派でも警官でもどっちでもいい、互いに撃ちあって目の前で血だらけになって息絶えるのを見たい。自分は安全地帯にいて、人が死ぬのを見たいんです。ビデオで見ればいいじゃないかと言ってもダメです。リアルタイムで死ぬのを見たいんです。我々人間どもは、こういうイヤな存在なのです。


まあ、ざっとこんな調子である。
Morris.はこれまでに何度も書いたと思うのだが、山本夏彦に対して「かなわん親父であるなあ」という印象を持ちつづけている。「かなわない」というのは敗北宣言でもあるのだが、かなり好きという意味もふくまれてるのだろう(^^;)
1992年にネスコから出された「何用あって月世界へ 山本夏彦名言集」というのがMorris.唯一の蔵書で、これ一冊あればOKという気もする(^^;)


06088
【方法叙説】松浦寿輝 ★★★ Morris.にとっては全く未知の作家だが、1954年生れの詩人、小説家で、東大教授で、芥川賞作家とのことだから、根っからのエリートみたいだね。
本書は自作の創作過程を、30ほどの断章を連ねることで、開陳したものだが、けれん味あふれる文体と、「知的窓口の広さと深さ」には、圧倒されながらも、ちょっと引っかかるものも感じてしまった。著者が影響を受けたと書いている、ロラン・バルトの諸作の模倣に見えたからかもしれない。
タイトルはもちろんデカルトからの借用だが、小林秀雄がこれを「わたしのやりかた」と訳したことにヒントを得たらしい。
ともかく文体見本をひとつ。

文章を書くこと、すなわち思考に言葉を与えることとは、ナルシズムの自閉性をそぎ落とし、思考に多少なりと社会化された客観性を帯びさせてゆく過程にほかならず、だとすれば、ひとたび発想されながら結局は書かれることなく終った文章には、辛うじて馴致することにさえ失敗した[わたしのやりかた]の、もっとも強度の高い状態が露出しているはずではないか。

ね、なかなかのもんでしょ。

アネクドート(逸話)、それはゴシップとはまったく別ものである。他人を想像的に引きずり下ろして嗤(わら)い対象と化し、みずからの怨念や劣等感をひとときなりと忘れることを人々に許してくれるさもしい言説の娯楽がゴシップである。一方、アネクドートとは食べ物の味を引き立てる香辛料のように、言説自体とは異質なマテリアルから成り立っているがそれが内に紛れこんでいることで言説全体の意味作用の磁場がいっそう強くまた豊かになるといった、微量の物語の断片のことであり、それを舌先で探り当てるとき感知されるかすかな苦味とか甘味が、世界をわたしにとっていささかなりと耐えやすくしてくれるようだ。だとすれば、先ほど挙げてみた[わたしのやりかた]の特徴的な志向ないし嗜癖のリストにもう一つ、アネクドートへの偏愛という項目を付け加えてもいいかもしれない。

こういった、ゴシップの定義などは、面白い。そして、より重要なアネクドートの定義も。

だが、アネクドートとはいったい何か。それは小説そのものではないし、その萌芽や断片でもない。技術者なり建築家なり映画監督なり、直接的な自己表現をめざしたわけではない職業人たちの仕事をめぐる客観的叙述の中に、いっさいのディテール抜きで、またいかなる文学的想像力の広がりをも欠いたかたちで、不意に現われる、一行とか二行とかのそっけない報告のことだ。古臭い伝記批評も浪花節的な人生論(私の人生観…考へるヒント…)も嫌悪しながら書いてきたにもかかわらず、エッフェルやマレーの場合であれ、ヴァレリーや吉岡実の場合であれ、わたしの批評的欲望にどこかしらアネクドートの魅惑によって方向付けられてきた部分があることは否定できない。

日本の伝統的定型詩への皮肉めいた言説もある。

ひとたび波が立ち、きれいな同心円状の波紋が幾つも重なり合い干渉し合いながら広がってゆくということが起こってしまった今になってみれば、すべてはそうあるほかなかったとでもいった確固として運命的な揺るぎなさの印象が生まれることになる。これらは何と、すべて[計算されうる]ものかという驚き…。詩のフォルムとはそうしたものにほかなるまい。もしそうした偶然と必然の戯れを忍耐強く待つということをする気がなければ、五音七音に刳り貫かれた型に小麦粉を流しこみ、餡子をくるんで表裏ほどよく焼き上げるといった鯛焼き職人みたいな[やりかた]もあるけれど、これはまあ共同体の娯楽ゲームの一種だから詩とは少々違った話だろう。

うむむむ(^^;) 「歌を忘れた歌人」「俳人ならぬ廃人」になりはてたMorris.では、あるが、これには反論したくもなる。「共同体の娯楽ゲームの一種」というのは、桑原武夫の第二芸術論の二番煎じ、いやそれ以下の妄言だろう。
映画論などもかなり書いてる著者らしいが、その映画への暴論?もあった。

映画好きというものは、結局は何でもいいのだ。とにかくスクリーンに[何か]が映って、それが動いていさえすればいいのである。要は、イメージに、ということはすなわち映写機=スクリーンという投射の装置の助けを借りて拡張・拡大され、世界大にまで延長された自分自身の想像界にすっぽりとくるみこまれてあることだ。三百六十度のぐるりいちめんの光の耀(かがよ)いに囲繞され、「この現世に剥き出しに投げ出されてあること」のよるべなさからほんの束の間癒されることなのだ。スクリーンに瞳を投げるとは、「水!」への祈願だったのであり、今でもなおそうなのだ。死ぬまでそうだろうと思う。

当人がそう思うのは勝手だけどね、とでも言うしかないか。

わたしが様々な言語態を試してみたかったのは、畢竟、単数であることを絶えず厭悪してきたからであり、そこにはたぶんバルトのテクスト実践から受け取った教訓が大きく働いているかもしれない。一なるものへと鈍化し収斂しかけると、ただちにその統一性混濁させてくれるものを喚び入れたくなり、そんなふうにして詩から散文へ、映画から文学へ、またその逆へという具合に滑走してきたのである。白川静のような力強い人生への憧れがなかったわけではないけれど、生涯を賭して一つの巨大な問題に取り組み、それを徹底的に解き明かそうという生のかたちを模倣することがどうしてもできなかったのは、単なる飽きっぽさのゆえか、弱さのゆえか。バルトに触れながら「独身者の弱さ」を肯定的に喜寿する文章をわたしは早い時期に書いたが、「弱さ」というこの一語をまた[わたしのやりかた]の一つとして挙げることができるだろう。

どうも著者は自信家であるとともにナルシストでもあるようだ。いろいろ興味深い部分や、面白い部分もあったし、理解に苦しむところも含めて、どうもMorris.との相性は良いとはいえなさそうだ。


06087
【数え方の日本史】三保忠夫 ★★☆ 最近やけに、助数詞に関する本が目に付く、Morris.ももともとこの物の数え方に関しては興味をもってたので、ブームみたいになってることも歓迎している。
本書の裏表紙の惹句

一匹、一双、一振…、日本人は物をどう数えてきたのか、中国の史書や正倉院文書に源流を探り、数え方の作法、方言など、日本独特の表現法を育んだ歴史を現代までたどる.数の世界を分りやすく説いた"数え方事典”

に、だまされて読んだのだが、この文は、看板に偽りあり過ぎだと思ってしまったよ(>_<)
著者はきっと真面目な研究者ではあるのだろう。助数詞の研究を地道に続けていて、吉川弘文館から啓蒙書として助数詞の本を依頼されて、つい、「わかりやすく、親しまれる」ように書こうとしたのではなかろうか。それが裏目に出た、というか、そもそも、そういう文章は似合わない人だったらしい(^^;) 冒頭から砂川しげひさの4コマ漫画を引用してのサービスも完全に暴投気味だし、そのあとスーパーのレシートを例にとっての例証も冷笑するしかない(^^;)出来具合。
続けて奈良時代、平安時代、そして大部分は近世の助数詞の羅列になるのだが、何となく退屈極まりない。そのまま、明治、大正、昭和、平成にわたる助数詞に関しては数ページでお茶を濁している。
こういう本を「数え方事典」などと銘売って出すというのは、良くないと思う。


06086
【書林逍遥】久世光彦 ★★☆☆ [小説現代]2004年1月号から06年3月号まで連載されたものである。06年3月に急逝した久世の遺作と言ってもいいYだろう。まあ、あちこちの雑誌に連載してた久世だから他にも遺作はあるかもしれないけどね。
2ダースの「好きな本」への感想&オマージュである。

・お伽草紙/太宰治・人間椅子/江戸川乱歩・柴田錬三郎/うろつき夜太・おはん/宇野千代・半七捕物帳・人情馬鹿物語/川口松太郎・潮騒/三島由紀夫・雪夫人絵図/舟橋聖一・おとうと/幸田文・奉教人の死/芥川龍之介・天の夕顔/中河與一・片腕/川端康成・吾輩は猫である/夏目漱石・されど われらが日々…/柴田翔・夕暮れまで/吉行淳之介・乳房/伊集院静・吉村昭/少女架刑・明治断頭台/山田風太郎・村のエトランジェ/小沼丹・戦艦大和ノ最期/吉田満・あ・うん/向田邦子・黒髪/近松秋江・海潮音/上田敏・秋風秋雨人を愁殺す/武田泰淳

Morris.の好きな作家もいるが、作品はMorris.の好みとは違うものが多い。何となく全体的に自己の性的思い出を前面に出しての回顧録めいてるのがちょっと気持ち悪かった。
山田風太郎を語ったおしまいにある

風太郎という人は、あまり文章の上手くない人だが、風太郎にしてみれば、そんなことは些細で、どうでもいいことなのかもしれない。

という一文には、どうしても異議申し立てせざるを得ない。つまり、久世は文章を見る視覚が異常に狭かったのだと思う。


06085
【遮断】古処誠二 ★★★☆ 久し振りの古処の新作(と、いっても2005年12月刊)である。沖縄戦を舞台とする戦争ものだ。防衛隊に徴用された当時10代だった島の男が60年後、老人ホームで癌の手術を控えて、当時のことを回想するのだが、そのきっかけが戦争中深く係わった女性の子どもからの手紙で、これが回想の合い間に途切れ途切れに開陳され、実に効果的である。
例によって、沖縄戦の模様や、軍人の行動、考え方など実にリアルで、Morris.よりずっと若い著者がどうしてこのような視点を持てるのかが不思議である。そして抑制されながら、緊密な文体も相変わらずで、小説を読む喜びを与えてくれる。
伏線も多く、ミステリアスなところもあるが、圧巻は、半身不随になりながら主人公と女性を支配する少尉の、異常なくらいの皇軍兵士ぶりだろう。日本軍人の象徴とでもいうべきこの少尉に、嫌悪感を感じながらも、善悪の彼岸みたいなものを感じさせられた。
日本軍と富士山の比喩を中心とした、主人公と少尉の会話部分はとりわけ印象的である。

「だがな、名高く美しい山は登ってみるとつらいものだ」
「寒くて息苦しいと聞いたことがあります」
「そんなことは問題じゃない。富士山は本当は美しくない。それがつらいのだ」
弁ヶ岳がまたたく。まるで電球でも飾り付けられたように雨の夜を輝いていた。
「登ってみると、ただの休火山だった。黒いだけの山だ。無骨な岩がゴロゴロしていてな、登れば登るほど草木の緑は消えていく。他の登山者が歩を進めるたびに汚い砂塵が舞い上がる。富士山は、遠目に見ているから美しいのだと俺は悟った」
「大げさですね」
「この世の真理だからだ。何ごとも踏み込んでみると幻滅させられる」
華々しい皇軍に憧れない男子はいない。軍服姿の兵隊たちは、りりしい顔で写真におさまる。真市自身、皇軍の無様に気づいたのは去年のことであり、それは島で兵隊と同居し始めたからだった。そして防衛召集されたからだった。
そこは、横車を押せと命じる将校と、横車を押せと鞭をふるう下士官と、横車を押そうと悲鳴を上げる兵がせめぎ合う場所だった。全滅する部隊が相次いでも、敵に勝つという前提がくつがえることはなく、やがて横車の車体は壊れ始めた。押せないはずがないのだから押し続けろと叱咤が続き、押せないのは車の方向がおかしいからではなく、力が足りないからだと叫ばれる。壊れそうだと告げる者は矯正される。誰もがおかしいと感じていながらおかしくないと言い張る世界だった。
「富士山には登るべきではなかった。もう何度も登っているという常連もいたが、あいつらはきっと後に退けなくなったから登り続けてるんだ」
美しい山に登った話をし、その素晴らしさを誰かに語って聞かせた者は、そんなに美しい山ならまた登りたいはずだという声に応じねばならなくなるのだと少尉は言った。
「馬鹿な話だろ」
「中には本当に好きで登っている人もいるでしょう」
「少なくとも俺は登るべきではなかった」
「後悔してもおそいでしょう」
「そうだ。だから俺は、富士山は美しいと言い張るつもりだ。わざわざ登って馬鹿を見たとは誰にも言わせない」
「迷惑です。そんな話」
弁ヶ岳を横目に、真市は込み上げた涙を瞬きで払った。弁ヶ岳の戦闘はますます美しさを増し、ときおり砲弾の炸裂光がまぶされる。あがる爆煙は、光に照らされながらゆっくりと巨大化していった。
「だがな、富士山も良いところはある。あの山は下界を美しく見せるのだ。人の芥に満ちた下界をだ」
滑稽だろ。
そう言って少尉は鼻で笑った。
自嘲だった。
志の高い男たちは、わざわざ軍に志願して苦労を重ねて上を目指す。あげくの果てに帰郷を夢みる。「誰もが結局、下界に戻りたがるのだ」と重ねられた言葉に、真市は自嘲を返した。
「馬鹿馬鹿しいですね」
「馬鹿を見て初めて馬鹿馬鹿しいと気づくのだ」
しかしそれは、おそらく大切なことなのだろう。おぼろにだが真市にも理解できる。美しい富士山が実は汚いと知っていれば、自分の立たされた場所を呪わずに暮らしていける。それこそが幸せな生き方に違いなかった。かつてハワイに憧れた自分は、少尉と大同小異だった。


8月15日も近づくこの時期に、こういった本を読むと言うのもめぐり合わせだろう。沖縄は行ったことがないが、日本人が戦時中、この島を本土の楯として使い、現在も米軍基地の島として、楯にしたままであるということを、いま一度考える必要がある。

「親が先に死んだのだ。それだけでお前は幸せだ。少しはそう思いこむ努力をしろ」
「死ぬのは軍人の役目のはずです。勘違いして欲しくない」
「軍人は国を守るために死ぬのだ。お前も勘違いするな」
「沖縄は日本だ」
「本土より大切でない」
はっきりと言うだけ、この少尉はまだ対処しやすい。もし友軍が本土を守るためにお前らは死ねと明言していたら、ここまでの犠牲はなかった。今なお友軍に命を預けている青壮年や、弾雨の中で食糧や弾薬を運ぶ年寄りや子供は、もっと早くこのような少尉に会うべきだったのだろう。


06084

【韓国大衆歌謡史】イヨンミ(李英美) ★★★☆ 先月の読書記録が落ち込んだ第一の原因はこの本にある。320p程度の本だが、当然すべて韓国語だから、読むのにえらく時間がかかったわけだ。
韓国大衆歌謡史前に韓国語ジャーナルでこの本のことを知り、その頃韓国に行ったムックさんに買ってきてもらったのだが、なかなか読み出せなくて、やっと先日読み終えた。読み終えたといっても、ほとんど辞書なしで読んだから理解の不充分なところや誤読もあるかもしれない。それでも、Morris.が今一番関心を持ってる韓国歌謡の歴史だし、知ってる歌や歌手名がぞろぞろ出てくるから、そのおかげで読み通すことができたのだろう。
著者は1961年ソウル生れの女性評論家で,専門は演劇関係らしいが、本書では、楽譜も多数引用して音楽理論も盛り込み、歌詞の内容に関してもしっかりした解説を施している。何よりも韓国歌謡の黎明期から90年代までを時間軸を追ってきちんと整理解説してあったので、Morris.の韓国歌謡理解に大きく裨益した。と思う。とりあえず、裏表紙の本書の紹介文を引いておく。

本書は1920年代から1990年代末の現在までの、韓国大衆歌謡に関する、最初の通時的な著述であり、大衆歌謡界裏話や体験談、歌詞中に顕われる単語の社会的事件の強引な連結、外来様式や形式、技法、導入の記録、個々の作家主義的創作者や特定様式の系譜調査などのお約束から逸脱したりと、やや型破りなところのある大衆歌謡史の著作である。
ある時期の大衆的人気を享受する大衆歌謡が、それを選択した当時の大衆庶民の社会心理、欲望と適応するところに焦点を合わせて書かれたこの研究書は、トロット、イージーリスニング、フォーク、ロックなどの様式を、単に形式的特性ということだけで弁別するのではなく、社会に対するそれぞれの態度の違いを明らかにするよう分析している。
読者は、ナミンス、イミジャ、チョヨンピル、キムミンギ、ソテジなど、身近に感じられる名前に出会う喜びを確認しながら、彼らがどうしてあんなにも、あの時代の大衆たちを熱狂させたか、そしてそれがどういう意味を持っていたのかを、真剣に見直す楽しみを持たれることになるだろう。


いやはや、たったこれだけを訳するのにたっぷり1時間かかってしまったぞ(>_<) でも、だいたい本書の内容と姿勢が分かってもらえたと思う。とにかく真面目、とにかく真剣、とにかく大衆文化研究書なのである(^^;)

本書は8章に分たれている。煩をいとわず、各章のタイトルと小目次を写しておく。先に白状しておくと、Morris.は第一章と第八章は、ほとんど斜め読みで済ませてしまった(^^;)

第一章 韓国大衆歌謡史を始めるにあたって
1.書誌研究比較
2.韓国大衆歌謡の一般的特性
3.作品、様式、受容者
・作品と受容者・受容者の世界の作品・作家の作家意識
第二章 流行唱歌と大衆歌謡の始まり
1.伝統の断絶と唱歌の登場
・自然発生的近代性不充分な発展と断絶・親外勢的開化志向の唱歌・流行唱歌の特性
2.大衆歌謡の誕生
・流行唱歌の音盤化と大衆歌謡の誕生・形成期の大衆歌謡の特性
第三章 日帝時代 トロットと新民謡の両立
1.トロットの文法と世界認識
・トロット様式の成立・日帝時代トロット歌謡の世界認識と情緒
2.新民謡とトロット二頭立馬車が意味するもの
・新民謡様式成立とトロットの駆け引き・新民謡の世界認識と態度
第四章 1940年代後半と1950年代、トロットの再生産と新しい様式の混沌
1.題材の変化とトロット再生産
・トロットの維持と新民謡の衰退・戦争、分断の悲しみとトロット再生産・微細な変化と兆し
2.米国文化の流入と大衆歌謡の変化
・快報以前米国文化の流入・1950年代米国大衆音楽流入の意味・誇示的異国趣味と米国大衆音楽の痕跡・大衆の欲望と都市の享楽
第五章 1960年代、イージーリスニングの定着とイミジャのエレジー
1.イージーリスニング定着
・1960年代イージーリスニングの大衆音楽史的性格・1960年代イージーリスニングの音楽的特性・都市の楽しみと庶民の希望・イージーリスニングの抑制された悲劇性
2.トロットの変化と維持
・トロット安定感と緩み・近代化の落伍者と引き裂かれた痛み
第六章 1970年代、青年文化の光と影
1.青年文化 フォークソング
・フォークソング台頭と社会的脈絡・西洋音楽定着の新しい進展・自由と純粋と観照
2.1970年前半期、ロックとイージーリスニング、そしてトロット
・柔らかいロックとシンジュンヒョン・イージーリスニングとトロットの維持
3.マリファナ事件と1970年代後半の変化
・マリファナ事件とフォークの挫折そして変質・トロットの復活とロック歌手の投降・大学歌謡祭とロック第二世代キャンパスバンド
第七章 1980年代、チョヨンピルとバラッドの時代
1.スーパースター、チョヨンピルとロックの新しい全盛期
・大衆歌謡界の天下統一、チョヨンピル・主流の別の歌手たち・ロック大衆化時代の人間観と世界認識
2.トロット、ダンスミュージック、バラッドの鼎立とバラッドの隆盛
・後半期の主流ポップバラッド・ダンスミュージックとトロット
3.アンダーグランドの本格化と民衆歌謡の大衆歌謡圏への進出
・アンダーグランド・民衆歌謡の大衆歌謡圏進出
第八章 1990年代、ソテジとポストソテジ
1.1990年代新世代大衆歌謡の新しい版図
・1990年代の火斗、新世代・ダンスミュージックとアンダーグランドの構図の中のソテジ
2.1990年代大衆歌謡の世界認識と態度
・孤立した個人の自我探求・引き裂かれたメチャクチャな世間・トロットとフォークの命運
3.ソテジの引退とポストソテジ


ふーっ(>_<)目次だけでもまた1時間以上かかってしまったぞ。目次見ただけで、著者の本気さとやる気はわかってもらえると思う。
本当は各章ごとのMorris.の感想など書くつもりだったが、そんなことやってたら膨大な量になってしまうし、引用など始めたらどれだけ時間がかかるかしれやしない。とにかく韓国歌謡は、実に目まぐるしく変化していて、日本の影響もかなり大きい。アメリカの影響も大きいし、韓国の伝統音楽とは完全に別物になってる観もあるのだが、それでも韓国独自の歌の心みたいなものはたしかにあると思う。エピソードや、興味深かった部分は、また「ノレ番Morris.8090」で、取り上げることにしよう。(ホントカナ??)
Morris.が本書で唯一残念だったのは、ポンチャックディスコメドレーと、イパクサ、キムヘヨンの名前が出てこなかったことだ。その代わりに、チュヒョンミ登場の部分にポンチャックメドレーと関連する記事があったので、これを援用して、おしまいにする。

トロットの流れは1984年「サンサンパーティ」というトロットメドレー音盤の主人公チュヒョンミの登場でまた新しい変化を見せた。同じテンポで長時間流れるダンス用音楽として発生したトロットメドレーは、聴きなれた歌を、すごく単純化した一律的機械的な編曲で続けるため、違う曲もほぼ同一な感じだし、速度も一定しているので、休み無く同じ調子の歌を聴いてることになる。ここで重要なことは歌一曲一曲でなく、もともとそれぞれの歌が持っている切実な感動を完全にとっぱらってしまったということである。この休みなしに一定なリズムで歌が流れていくというのが、いっそ重要な点である。主に運転手を中心にして仕事をしながら歌を聴ける層に普及していった。

これは確実にイパクサのポンチャックディスコメドレーのルーツだな。


06083
【新リア王 上下】高村薫 ★★★ 前作『晴子情歌』の続編、というか、前作は予告編だったのではないかと思わせるようなリキの入った長編(上下で771p)である。青森県の代議士福澤栄と、栄が晴子に生ませた息子彰之との4日間の対話という形式で、政治哲学と宗教(彰之は禅宗の仏家)哲学のかなり突っ込んだ薀蓄、論争みたいなものが詰め込まれた上に、87年の福澤家を中心とする政争、秘書の自殺の真相の解明というミステリーも加味されている。
はっきり言って、Morris.には理解できない部分が多すぎたし、はじめの200pくらいなんか、退屈でさえあった。やっと面白くなってきたのは上巻の後半あたりからで、その後も話が錯綜したり、飛んだりで、読むのに難儀したが、下巻の後半からの急展開は、思わず一気に読まされてしまった。
著者一流のしつこいほどのディテール描写が本作でも遺憾なく発揮されていて、たしかにその筆力、活写に魅力があることは否めないのだが、どうも、Morris.は馴染めない。トリビアリズムではないかと思うこともあるくらいだ。そのくせ、途中で投げ出すことも出来ず、読んでしまうというのは、彼女の全作品に共通する読中感である。ようするにMorris.は彼女のファンではないのだろう。それなのに無視できないだけのものを書いてるとういことは認めざるを得ない。一種のアンビバレンス状態に陥ってしまう。
永田町を中心とする政界での描写の中には、実在の政治家の名前が頻出するし、当時の事件もそのまま物語りの中に織り込まれていて、時代を髣髴させる部分には、感心したりもした。
しかし著者は結局この作品で何を書こうとしたのか、Morris.には良くわからない。わかろうとする気力も能力もないというのが正直なところだろう。壮大な駄作だと思う。


06082
【王道楽土の戦争 戦後60年篇】吉田司 ★★★★ 三里塚闘争、水俣病闘争に深く係わった著者のことはほとんど知らずにいた。
本書一読して感嘆するしかなかった。
満州経営ノウハウが戦後の日本の経済成長のルーツであり、バブルを産み、バブル崩壊後、日本は経済戦争の限界を感じて、再び軍事国家、管理国家の道を歩みはじめているという、実に明解な論理で、戦前戦後の日本論を展開。目からウロコの思いを何度もさせられてしまった。
同じ時期に読んだ高村薫の「新リア王」と時代的、内容的に異様にシンクロしながら、印象度では圧倒的に本書だった。こちらも2冊セットで「王道楽土の戦争 戦前戦中篇」もあるらしい。これも早急に読まねば。
吉田の文体も突然タメ口になったり、独白調だったり、戯文になったりと自由自在だし、何と言っても引用の洪水(自著の引用も多)とその的確さと引用への切り返し方の見事さは例をみない。
戦後の始まりを、日米開戦時におくという視座だけでも、すごい。つまりマンハッタン計画が開戦によって現実味を帯び、開発が急ピッチで進んだためにヒロシマ、ナガサキに間に合ったのだ、という持って行き方なのだ。
田中角栄の列島改造は、日本の八百万の神々殲滅作戦だったとか、石原慎太郎、三島由紀夫に共通する戦時体制への憧憬、美輪明宏の象徴的意味、団塊世代=経済軍隊、バブル後の管理体制への警鐘などなど、興味尽きないとともに、ほぼ同じ時代を生きてきながら、なんと多くのことが見えないままに生きていたことか、と、茫然自失の感さえ覚えてしまったくらい、Morris.にとっては中身の濃い一冊だった。


06081

【本を読んで甲子園に行こう】村上淳子 ★★☆ 当然阪神ファンの本だと思って手に取ったさ(^^;) しかし本書は高校球児に、絵本などの読み聞かせをした、女性教育者の自慢話だった(>_<) 
著者は1937年生れで、小中学校の先生を40年近くやって、その間に読み聞かせ教育活動を熱心にやった人らしい。現在は常葉学園大学で専任講師をやっていて、この大学の付属高校で、高校生相手に読み聞かせを始め、何故か野球部の朝練の代わりに読み聞かせをしたところ、これまで大した成績をあげたことのないこの野球部が、予選を勝ち抜いて静岡県大会の決勝戦まで進出した。読み聞かせで部員が精神的に成長してこんな結果を生んだのだ、とは、はっきり書いてないが、こんな本を出すということが自信の表われに他なるまい。
今日の感想文は、いやに意地悪な書きかただと思うし、著者の誠意と、生徒の熱意が全く絵空事だというわけでもないことはわかるのだが、Morris.は、こういった集団読書とか読み聞かせといった行為が、嫌いなのだ。読書くらい、個人の好み、自分のペースでやらせてくれよ。
しかも本書は、県大会の球児の各試合結果をスコアまで引用して紹介してる割に、筆者は結局一度も球場に足を運ばない。何だかなあ、である。野球部の監督や、教務職員への賞讃の嵐といい、生徒たちの発言の持ち上げ方といい、これは校友会雑誌にでも掲載するべきものではなかったろうか。


06080
【千日紅の恋人】帚木蓬生 ★★★ 40前の女性と30前の男性の恋物語ということになるのだろうか?どうも帚木蓬生の恋愛ものは外れが多いので、あまり期待せずに読んだのだが、やっぱり大したものではなかった。ただ、ヒロインが父が設計したアパートの管理人と、パートで老人介護施設で働いているという設定で、アパートの住民それぞれの描写が細やかで、本書の眼目はそちらにあるのかもしれない。
介護施設の場面では、帚木独特の老人論みたいなのが展開される。
また、ヒロインの母親が通うカラオケ教室の場面も繰り返し出てきて、70歳の先生の持論も詳しく披瀝されるなど、ストーリーより、個々の薀蓄やら含蓄などの方が楽しめた。

溝上先生の指摘は大方決まっている。喉と口先だけで歌っていると、手で実際に腹を叩かれる。ただ単に大声を張り上げていると,口の前に竹筒を当てられる。声はコンパクトに、竹筒に吹き込むようにして出せというのだ。
歌は押しつけてはいけない。演説ではなく、語りなのだから。
ある歌詞を聞いたら、次の歌詞が頭に浮かぶように発音すること。そうすれば、何と言っているか瞬間瞬間に聞き耳を立てなくてすむ。じっと聞いているだけで、歌詞が理解できる。
たとえば[雨に]と聞いたとき、耳は既にそれに続く[濡れる]か[泣く]か[かすむ]かを待ち受けている。[雨の]と聞こえれば、[日][朝][夜][舗道][プラットホーム]などを待ち構えている。ところが[が]と[の]の発音が不明瞭になると、耳は迷ってしまい、文字どおり聞き耳をたてざるをえなくなる。だから疲れてしまう。疲れるから、その歌の世界にはいり込めない。
[の]と[に]の違いは、当然その前の[雨]の発音の仕方にも影響を与えずにはおかない。本物の歌手が、一音一音に音の表情をこめるのはそのためだ。
一音一音に情感を込めていると、[悲しい]ときに悲しい表情などしておれない。
溝上先生がいつも強調するのは、歌の始めと終わりだ。途中は気を抜いても構わないが、歌の頭としっぽだけは大切にしなくてはいけない。特にエンディングは、自分の声を確かめるように、丁寧に歌を閉じましょう---


ね、なかなか実践的でしょう(^o^)カラオケ好きのMorris.には勉強になった。ような気がする。
実はヒロインも母につられて、カラオケ教室の生徒になってるのだが、彼女が課題曲として歌う「サイゴン驟雨(スコール)」というのがあって、元歌は韓国人の新人女性歌手が歌ってそれなりに人気が出たもののその後はすたれた、という設定になっているが、どうやらこれは創作で、歌詞も筆者が作ったのだろう。そして、この歌詞が3度も4度も引用されていて、この歌詞がヒロインの恋に連動していくという仕掛けになっていく。
ただ、どうもこの恋が、煮え切らないことこの上ない。男性の方はスーパーマーケット勤務で、ハンサムで真面目で、老人や身障者への理解もあり、申し分ないキャラクタとして描かれているのだが、それだけにいまいち魅力に欠ける。ヒロインは2度の離婚経験があるため臆病にもなっているのだが、それにしても結末のあまりに取ってつけたような、ハッピーエンドはあんまりだと思うぞ。ネタバレになるから詳しくは書かないが、こういうハッピーエンドは現実にはありえないし、あってもならないと思う。まあ、これは大人のお伽噺ということにしておくべきなのかもしれない。


06079
【『マンガ嫌韓流』のここがデタラメ】朴一他 ★★★ Morris.にとっては、ちょっと難儀な(^^;)本だった。
半年以上前に「マンガ嫌韓流」というのを書店で見かけて、ちょっと立ち読みして、あーあ、と思ってそれっきりになってたのだが、今年の5月にその批判書が出版されるという噂があちこちから入ってきて、さらに、10人の執筆者のうち何と2人(かせたにさんと吉美ちゃん)が、Morris.の極く親しい友人だということがわかったので、読まないわけにはいくまいと思う気持ちと、元ネタのマンガを読まずに批判本だけ読むのも何だかなあという気持ちがぶつかって、結局、二人の記事だけを鶴橋の書店で立ち読みしてすましてた(^^;)
その後Morris.の掲示板で二人のやりとりがあって、それからしばらくして、かせたにさんの手配で、本書が出版社経由で送られてきた。1週間以内に一通り読み終えたのだが、この感想がまた書きにくくて、ぐずぐずしてるうちに、すでに半月が過ぎてしまった。
マンガが9話と特別篇の10章からなっているので、それぞれ一人ずつが各章を担当し、事実を検証しながら、自分の所感と、マンガの誤謬、捏造、作為、作者の無知といいかげんさを摘出するという形式になってるわけで、やっぱり本書をきちんと読むには、そのマンガを読む必要がありそうだ。でもMorris.は読む気にならないから読まない。という堂堂巡りである。
吉美ちゃんの稿の中にこれに該当する部分があった。

「嫌い」と言うなら、理由を聞いておきましょうと、本屋でパラパラめくってみると、チマ・チョゴリの切り裂き事件が「自作自演だった」と臭わせるような許し難い章にたまたま行き当たり、思わず読んでしまって、吐き気をもよおした。以来、手に取ることのなかったこの本の「対抗本」を書くために、熟読しなければならないはめになるとは、なんとも皮肉なことである。

わはは(^^;) 吉美ちゃんは書くために熟読を余儀なくされたわけで、Morris.は本書を読むために、マンガを熟読する気にはなれなかったってことだな。

取り上げられている事象は、日韓共催W杯、戦後補償問題、在日コリアン、文化の剽窃、反日マスコミ、ハングル、外国人参政権、日韓併合、竹島=独島問題、冬のソナタ(韓流)などで、かせたにさんが「外国籍住民への排除と同化の圧力」というタイトルで外国人参政権問題、吉美ちゃんが最後の特別篇「『冬のソナタ』がくれたもの」というタイトルで韓流に関して寄稿している。

かせたにさんの稿は、在日韓国/朝鮮人に限らず、日本に定住、永住する外国籍住民すべてを対象にして、同じ地域に定住する限りにおいて、国籍民族を問わず、その地域におけるメンバーとして共通の権利と責任を有するのが当たり前だという見地から、マンガ作者の視野の狭さと偏見を批判している。

外国籍住民に対して、あるときは、「居候」「外人」として排除して参政権を認めず、またあるときは、「日本人と同じだから」と利用する。このような排除と同化の圧力がつねに作用する閉鎖社会の先には、発展どころか、衰退・破綻しか待ち受けていないのではないだろうか。
「閉鎖社会」選ぶのか、それもと「開かれた社会」を選ぶのか。
それを決めるのは私たちだ。


どう考えても、今の地球には「閉鎖社会」しかないような気がする(^^;) いや人類の歴史をさかのぼっても、「開かれた社会」なんて存在したことはあるのだろうか?

吉美ちゃんの場合は在日コリアンである自己の歴史と身近な人間関係の体験のなかでの「韓流」の光と影、韓国ドラマの本質と、日本人に受ける理由の分析。そして「嫌・嫌韓流」の気持ちを率直に吐露している。

本書の所々に「引用」されてるマンガの絵は、今風で、特に下手とは思わないが、韓国人はすべて画一的かつ醜悪に描かれていて、これはゴーマニズムの小林よしのりのやりかたを学んだのだろう。
10人も執筆者がいるということで、ばらつきやムラがあり、統一感に欠けるきらいがあるし、中にはMorris.の神経を逆なでする言葉の使い方をする稿もあった。(8話)
また独島問題を論じた半月城の論旨は、民団新聞にも掲載されていたが、理解しやすかったし、共感を覚える部分が多かった。

最後に、人を差別する言論の自由の恐ろしさに気づかせてくれた『嫌韓流』の筆者に感謝したい。

というのが、本書のまとめ役でもある朴一の後書きの締めで、皮肉を効かせたつもりだろうが、Morris.は何か釈然としないものを感じた。

やさしい日本語、優しくない日本人、同情より理解より愛より恨(ハン) 歌集『冬の旅』より


06078

【パンドラ・アイランド】大沢在昌 ★★★ 小笠原近くの小さな島青國島(たぶん架空の島)に保安官(^o^)として着任した元警察官が主人公で、彼が来たとたんに事件が続発。この島の裕福さの秘密、前任保安官の謎の死、公娼めいた女性、この島出身の富豪の別荘、島に住み着いたアメリカ人医者、やたら登場人物が錯綜して、医者の死で東京から出動した警察隊のボスが主人公の元上司で、主人公が別れた元妻は警察のキャリアでかなり上のポストに上りつめていてと、いかにも作り話めいたストーリーだが、これもまた大沢のエンターテインメント提供のサービス精神だろう。2002年から2003年にスポーツ新聞に連載されたものだということだから、その匙加減もわかってしまう。
彼の作品読むたびに同じ事を書いてしまうMorris.だが、とりあえず、これだけの長編を最後まで読ませてしまう力量は評価する。
チナミという公娼?への主人公の関心の高さから、きっとふたりは恋愛関係になるというMorris.の予想は外れてしまったが(こういうのもネタバレになるんだろうか?)、やっぱり大沢は女を描かせると、下手っぴである。
小説とは関係ないが、彼の言葉遣いでちょっと気になったことを書いておく。

「正直、受け取ったはものの、どうしてよいか迷いました」

「ところがマル害が一歩先にいった。いったはものの、そいつを危いと見た誰かに消され」


前者は島出身の富豪、後者は主人公の元上司の台詞である。
普通なら「受け取ることは受け取ったものの」「いくはいったものの」と書くべきなのだろう。それをこんな形で省略するというところにMorris.は、何となく違和感を覚えた。発生箇所が台詞だけに、登場人物特有の言葉遣いという「逃げ」も可能だろうが、出身地も立場も違うふたりが同じパタンということになると、これは大沢の癖かもしれない。
意味は取れるのだから、そう目くじら立てるほどのことでもないのだろうが、他に書くこともないので(^^;)つい書いてしまった。


06077

【大名古屋語辞典】清水義範 編・著 なかむら治彦 画 ★★★☆☆ 94年発行だから、もうかなり前に出てるし、もともとはPC通信のフォーラムみたいな形で形成されたようだし、マッキントッシュエキスパンドブックでも発売されたなどと書いてあり、いかにもPC黎明期の気分を感じさせる雰囲気がある。
もちろん著者は「蕎麦ときしめん」で名古屋論の金字塔を打ち立てた作家であるから、本書も、その余得みたいな部分もあるだろう。もしかしたら発行された当時に読んだかもしれない。でも、今回読んでも初めて読んだような感じでもある。面白いといえば面白いし、旬が過ぎたといえばそう思える。なんと言ってもあの傑作「蕎麦ときしめん」と比較すると、二番煎じという感は免れない。
青柳は「ういろう」、大須は「ういろ」とか、名古屋人がえびフリャーを好きなのは、金の鯱鉾にその姿が似てるから、とかいう、雑学のいくつかは面白かったが、どうもいまいちである。
巻末にあった、共通語-名古屋語索引を引用しておく。

共通語 名古屋語
熱い ちんちん
あの… あのよう
いいかげん えーころかげん、おおちゃく
いいかげんに だだくさ
いい気になっている ちょーすいとる
言う こく
行きましょう いこまい
いけない いかん、かん
いじめる かまう
いそいで ちゃっと
いらっしゃる ござる、みえる
居る いりゃーす、おらっせる
うらやましい けなるい
追う ぼう(bou)
大きい でゃあ
着る おもる
お先に失礼する ごぶれいする
教えてもらう おそわる
おちょくる ちょうらかす
覚えられる おぼわる
お前 おみゃあ
帰る きゃある
からかう ねぶる
考える かんこうする
気がとがめる きがずつない
きちんと ちゃんと
気取る しこる
気持ち こんころもち
具合い あんびゃあ
臭い くせゃー
くだらない よったような
来る いりゃーす
ごちそうになる よばれる
こらしめる ねぶる
怖い おそがい
触る なぶる
さん
…したい てゃあ
支度 まわし
してあげます たますわ
していらっしゃる りゃーす
している tlrj
してほしい ちょう
してもらう まう
しない せん
しなさい しやー
しほうだい からかす
しましょう まい、みゃあ
…じゃなくて なて
知合い つれ
少しの間 ちいとねゃあ
捨てる ふてる、ほかる
すべて もろ
ずるい こすい
…するということ さいが
折半 もうやーこ
それなのに そんだのに
それみなさい ほれみやー
大変な えりゃあ
耐えられない もたん
だから だで
たくさん ようけ
だめだ だちかん、かん
だもの
直接的に もろ
疲れる えりゃあ
つらい もたん、やめる
…である がや、ぎゃあ
であろう だら
ですか きゃあ
ですね があ
ではなくて のうて
とっくに いっつか、つっか
とても
ない あらすか、ねゃあ
仲間外れ はば
なさる しやーす
なにもかもぶちこわし わや
鈍い にすい
ねえ なも
ばかり ばっか
腹が立つ ごがわく
久し振り やっとかめ
人見知りする おくめする
ふざける おちょける
ふざける なぐったろか
ボロな ぼっさい
参る みゃある
間抜け とろい
めんどうをみる かまう
もう まあ
もう一度 まっぺん
もうすでに はい、もうはい
もっと まっと
者、物 もん
…ものだから もんで
やめなさい おきゃあ
ゆでる うでる
よくない いかすか
乱暴な あらけねぇあ

06076

【コリアン三国誌】綛谷智雄 ★★★★ 「列島・半島・大陸の隣人たち」と副題にある。列島は日本列島、半島は朝鮮半島、大陸は中国で、この3地域に住むコリアン(在日コリアン、韓国人、中国延辺朝鮮族)それぞれの特徴や差異を、実際にそこで生活した日々の中で出会った彼らとのエピソードを中心に考察したもので、数年前に韓国でこの原本というべき「韓国人 チョーセンジン 朝鮮族」が出版されている(もちろん韓国語)。
Morris.は著者の綛谷さんと、ひょんなことから親しくさせてもらっていることから、この韓国版をいただき、ほぼ一年がかりで何とか読み通した。そのときすぐに読書録に掲載するべきだったのを、ついついさぼってしまい、ずっと気になっていた。Morris.の韓国語の読解力の不足と、長期間にとびとびに読んだ(実はこの本はずっとトイレの棚に置いてあった(^^;))ために、はじめの方の内容の記憶がおぼろになってしまったこともある。
それでもこの本の面白さは充分評価してたし、綛谷さんの知らない面をうかがうという意味でも大きな収穫があった。そして、何といってもこの本は、日本人にもぜったい読んで欲しいと思ってた。だから読書録の結びはこう書くことに決めていた。
「韓国語版の著者本人による日本語版の出版を心から祈念する」
かせたにさんの新著「コリアン三国誌」そして、このたび日本で出版された本書のことを知ったとき、Morris.は大喜びしたのだが、またまた綛谷さんから本書を送っていただいてしまった。本当なら真っ先に購入するべきなのに、ありがたいというより申し訳ないという気持ちが先にたってしまう。
韓国で出されたものとは、章立ても、記事の順序も変わっているし、新しく書き下ろされた記事も多い。Morris.は、同じ記事を韓国語、日本語対照させて、読み進めようとしたものだから、またまた読書がスローペースになってしまいそうだった。これではかえってよくないと、途中から日本語だけで、一気に読み通すことにした。韓国版とはかなり印象が違う部分もあったが、それぞれのコリアンに対する厚く深い愛情に裏打ちされた、真摯な人間観察と、社会矛盾や偏見への異議申し立て、ユーモラスな些事日常、食べ物談義や歌や映画、市井の人とのつきあいなど話題は広範にわたっていて、10年ほど前にTVドラマであのイビョンホンと共演する機会に恵まれたなどというびっくりエピソードも含まれている。
雑誌「ほるもん文化」を顕彰した文のなかの一節が琴線に触れた。

「ほるもん文化」に掲載される文章には、深刻なテーマを扱いながらも、ユーモアが盛り込まれたものが多い。これも、私がこの雑誌を愛読する理由のひとつとなっている。
人を説得しようとしたり、人々の注意を喚起しようとする時、ユーモアは効果的な武器となる。日本社会のさまざまな問題点を指摘する際、「お前ら日本人は反省しろ!」という具合に声高に叫ぶよりは、「ほるもん文化」のように、ユーモアを盛り込みながら冷静に、そして低い声で語りかけるほうが、はるかに効果があるのではないだろうか。
すぐれたユーモアは、他人を笑いものとすることや、珍妙な身振りや語り口を披露することから生まれるのではない。それには、自分自身に対する冷徹な監察力が必要だと私は考える。そしてそれは、開かれた視野の持ち主にのみ可能であろう。

Morris.は「ほるもん文化」の愛読者でもなく、これまでに一冊だけを瞥見したに留まるが、この「ユーモア本質論」には深く肯かされた。ここに「監察力」というあまり見慣れない表現があり、「観察力」の間違いかと思って、韓国版を見たら「洞察力」になっていた。なるほど「観察」+「洞察」という意味で「監察」という語を選んだのだろう。こういった瑣末的なチェックも韓国版を持っているMorris.の特権(^^;)である。何か嬉しい。
本書が「ほるもん文化」を発行している新幹社から出されているというのがまた、いい感じである。

本書は三部構成で、当然、それぞれ、韓国人、中国朝鮮族、在日コリアンが主題になっている。在日コリアンの章は、時間の経過もあって、あらたに書き下ろされた記事が目に付く。その中の「北朝鮮籍のJリーガー?」は、在日韓国/朝鮮人に関して、日本人の多くがいまだに誤解してる問題を分かりやすく説明している。これは、少しでも在日韓国/朝鮮人問題に関心ある人にとっては常識以前の事柄だが、誤解している人があまりに多いので、引用しておこう。

公共の電波で、「北朝鮮籍のJリーガー」なることばが何の疑いももたれずに使われている現状は、在日コリアンに対する日本社会の認識の程度を如実に反映するものだ。
朝鮮半島をルーツに持ち、現在日本で生まれ育っている人々の「国籍]は、大きく「朝鮮籍」「韓国籍」「日本籍」に分けられる。
日本の敗戦から二年後の1947年、最後の勅令として出された「外国人登録令」により、在日コリアンは、日本国籍をもちながら(日本による朝鮮の植民地支配により)、「外国人」として登録されることになった。国籍欄には、出身地である「朝鮮」という文字が記された。それから五年後(1952年)、サンフランシスコ講和条約が発効し、日本が占領状態から主権国家へと移行する際、日本政府は在日コリアンの日本国籍を、一方的に抹消した。
登録令が出された翌年に成立した朝鮮民主主義人民共和国と日本は、現在も国交を結んでいないが、同じ年に成立した大韓民国は、1965年に日本と国交を樹立し、これにより「朝鮮籍」から「韓国籍」へ切り替える在日コリアンが増加することになる。
このような経緯を見ると、「朝鮮籍」というものは、朝鮮民主主義人民共和国籍では決してなく、「朝鮮半島出身者」という意味の「記号」にほかならないといえよう。


実にすっきりした説明で、これを読んで理解できない人はまずいないと思うのだが、それでも一向に誤解はなくならない。ということはこういった文を読むことがない人が多いのか、読んでもすぐ忘れてしまうのか、そういうこともあって綛谷さんは「在日コリアン」を常用しているのだろう。言葉は一度使い慣れると後で変更するときに「違和感/異和感」を覚えるもので、Morris.は実はこの「在日コリアン」という用語にはなかなか馴染めずにいる。普段は「在日」ですましてるのだが、文章で書くときは「在日韓国/朝鮮人」を使うことが多い。どこかで綛谷さんも書いてたように、自分を「在日日本人」と自覚した上での表現なのだが、「在日」という言葉に不快感を覚える「在日韓国/朝鮮人」も少なくないが、韓国では「チェイルドンポ 在日同胞、チェイルキョッポ 在日僑胞」または「キョッポ、ドンポ」で済ませることも多いが、もちろん日本人がこれを使うわけにはいくまい。「北朝鮮」の呼称や「帰化」という用語への疑問なども含めて、なかなか難しい問題である。

本書にはこういった硬い?話題ばかりではない、むしろ軽く楽しめる話題の方が多いくらいなのだが、Morris.がまだ一度も触れたことのない中国朝鮮族自治区で2年間の教鞭を取ったなかでの、朝鮮族の食文化や風物紹介には大いに刺激を受けた。特に、彼の地の三大美味「羊串焼肉・冷麺・犬肉」の部分は大いに食欲をそそる。そういえば、このところ心斎橋の羊串焼肉「延辺香」にもすっかりごぶさたである。近いうちに出かけなくては。そうだ、綛谷さん、今度こちらでお会いする機会があったら、何をおいてもこの店にご一緒しましょね(DMモード(^^;))
韓国人の「血のこだわり」について批判的に書かれた文の中に、Morris.の十八番の一つ「シントプリ--身土不二」が傍証として挙げられていた。

この曲のヒットにより、「シントプリ(身土不二)」という言葉は韓国社会に完全に定着することとなったが、現在、キムチの材料であるニンニクや唐辛子にも、中国から輸入されたものが、ごく当たり前に使われており、歌が示す理想と現実には、大きな隔たりがある。

確かにMorris.もこの歌を歌いながらちょっと皮肉っぽい気分になるものなあ。

「身土不二」を高らかに歌い上げるのも結構だが、韓国社会は韓国人だけで構成されているのではないということを、もっと多くの人に理解していただきたいと、切実に思う。日本と同様に、韓国も「単一民族の国」などでは、決してない。

これが綛谷さんの一番言いたかったことになるのだろう。

こんな調子で、Morris..の印象に残った部分を拾い上げていったらいつまでたってもきりがない。ここはやっぱり、是非本書を通読してもらうしかあるまい(^^;)。
少しでも韓国、朝鮮に関心のある方には、絶対面白くてためになる(^^;)本だし、関心ない方には格好の入門書になると思う。日本人と韓国/朝鮮人両方に読んで欲しいとずっと思ってたMorris.の希望はこれでいちおう叶ったわけだが、後は一冊でも多くの人に読まれることを期待したい。綛谷さんの「開かれた視野」を追体験するだけでも意味ある一冊である。知人だから提灯持ちをしているわけではないし、それは一読すればただちに理解してもらえるはずだ。



06075
【花の名前】 高橋順子 文 佐藤秀明 写真 ★★★☆☆ 小学館の「空の名前」などのシリーズの一冊である。四季、二十四節気、七十二候を季節の花の写真と異名やコラムを添えたお手軽企画の本だと思ったが、とりあえず七十二候の名前を覚えるのに手頃かなと思ったのだった。名前だけでも充分風雅を味わえる。
Morris.は、二十四節気をテーマにした歌集『花信風−はなだより』なんてのを作ったことがあるくらいだから、こういった類は大好きである。
そして、本書は写真も解説も水準をクリアしている。特に写真はため息が出るくらい素敵なものが多数あり、小さ目の写真が多いからMorris.部屋のデジカメ画像撮影の参考にもなりそうだった。
解説の方もなかなかうがったものが多く、面白くてためになる1冊だった。
とりあえず、七十二候一覧表を写しておこう。月日はもちろん旧暦である。PCでは使えない漢字があるので、便宜上( )内に組み合わせる漢字を並べて表記している。


[第一節気 立春]
第一候 東風解凍 とうふうこおりをとく 02/04〜02/08
第二候 黄鶯(目見)v こうおうけんかんす 02/09〜02/13
第三候 魚上氷 うおこおりにのぼる 02/14〜02/17
[第二節気 雨水]
第一候 土脈潤起 とみゃくううるおいおこる 02/18〜02/22
第二候 霞始(雲逮) かすみはじめてたなびく 02/23〜02/27
第三候 草木萌動 そうもくきざしうごく 0228〜03/04
[第三節気 啓蟄]
第一候 蟄虫啓戸 ちっちゅうこをひらく 03/0503/09
第二候 桃始笑 ももはじめてわらう 03/10〜03/14
第三候 菜虫化蝶 なむしかしてちょうとなる 03/15〜03/19
[第四節気 春分]
第一候 雀始巣 すずめはじめてすくう 03/20〜03/24
第二候 桜始開 さくらはじめてひらく 03/25〜03/29
第三候 雷之発声 かみなりすなわちこえをはっす 03/30〜04/04
[第五節気 清明] 
第一候 玄鳥至 げんちょういたる 04/05〜04/09
第二候 鴻雁北 こうがんきたす 04/10〜04/14
第三候 虹始見 にじはじめてあらわる 04/15〜04/19
[第六節気 穀雨]
第一候 葭始生 よしはじめてしょうず 04/20〜04/24
第二候 霜止出苗 しもやみなえいず 04/25〜04/29
第三候 牡丹華 ぼたんはなさく 04/30〜05/04


[第七節気 立夏]
第一候 蛙始鳴 かえるはじめてなく 05/05〜05/09
第二候 蚯蚓出 きゅういんいず 05/10〜05/14
第三候 竹筍生 ちくじゅんしょうず 05/15〜05/20
[第八節気 小満]
第一候 蚕起食桑 かいこおこってくわをくらう 05/21〜05/25
第二候 紅花栄 べにばなさかう 05/26〜05/30
第三候 麦秋至 ばくしゅういたる 05/31〜06/04
[第九節気 芒種]
第一候 蟷螂生 とうろうしょうず 06/05〜06/09
第二候 腐草為蛍 ふそうほたるとなる 06/10〜06/14
第三候 梅子黄 うめのみきばむ 06/15〜06/20
[第十節気 夏至]
第一候 乃東枯 なつくさかるる 06/21〜06/25
第二候 菖蒲華 しょうぶはなさく 06/26〜07/01
第三候 半夏生 はんげしょうず 07/02〜07/06
[第十一節気 小暑]
第一候 温風至 あつかぜいたる 07/07〜07/11
第二候 蓮始開 はすはじめてひらく 07/12〜07/16
第三候 鷹乃学習 たかすなわちわざをならう 07/17〜07/22
[第十二節気 大暑] 
第一候 桐始結花 きりはじめてはなをむすぶ 07/23〜07/27
第二候 土潤溽暑 つちうるおってじょくしょなり 07/28〜08/01
第三候 大雨時行 ああおめときどきおこなう 08/02〜08/06


[第十三節気 立秋]
第一候 涼風至 すずかぜいたる 08/07〜08/11
第二候 寒蝉鳴 かんせんなく 08/12〜08/16
第三候 蒙霧升降 ふかききりまとう 08/17〜08/22
[第十四節気 処暑]
第一候 綿柎開 わたのはなしべひらく 08/23〜08/27
第二候 天地始粛 てんちはじめてしゅくす 08/28〜09/01
第三候 禾乃登 いなほはじめてのぼる 09/02〜09/06
[第十五節気 白露]
第一候 草露白 くさのつゆしろし 09/07〜09/11
第二候 鶺鴒鳴 せきれいなく 09/12〜09/16
第三候 玄鳥去 げんちょうさる 09/17〜09/22
[第十六節気 秋分]
第一候 雷乃収声 らいすなわちこえをおさむ 09/23〜09/27
第二候 蟄虫坏戸 ちっちゅうこをはいす 09/28〜10/02
第三候 水始涸 みずはじめてかる 10/03〜10/07
[第十七節気 寒露]
第一候 鴻雁来 こうがんきたる 10/08〜10/12
第二候 菊花開 きっかひらく 10/13〜10/17
第三候 蟋(虫率)在戸 しっそつこにあり 10/18〜10/22
[第十八節気 霜降]
第一候 霜始降 しもはじめてふる 10/23〜10/27
第二候 霎時施 こさめときどきふる 10/28〜11/01
第三候 楓蔦黄 ふうかつきなり 11/02〜11/06


[第十九節気 立冬]
第一候 山茶始開 さんちゃはじめてひらく 11/07〜11/11
第二候 地始凍 ちはじめてこおる 11/12〜11/16
第三候 金盞香 きんさんかんばし 11/17〜11/21
[第二十節気 小雪]
第一候 虹蔵不見 にじかくれてみえず 11/22〜11/26
第二候 朔風払葉 さくふうはをはらう 11/27〜12/01
第三候 橘始黄 たちばなはじめてきなり 12/02〜12/06
[第二十一節気 大雪]
第一候 閉塞成冬 へいそくしふゆとなる 12/07〜12/11
第二候 熊蟄穴 くまあなにちっす 12/12〜12/16
第三候 (魚厥)魚群 けつぎょむらがる 12/17〜12/21
[第二十二節気 冬至]
第一候 乃東生 だいとうしょうず 12/22〜12/26
第二候 (鹿の下に米)角解 びかくおつ 12/27〜12/31
第三候 雪下出麦 せっかむぎをいだす 01/01〜01/04
[第二十三節気 小寒]
第一候 芹乃栄 せりすなわちさかう 01/05〜01/09
第二候 水泉動 すいせんうごく 01/10〜01/14
第三候 雉始(句隹) きじはじめてなく 01/15〜01/19
[第二十四節気 大寒]
第一候 款冬華 かんとうはなさく 01/20〜01/24
第二候 水沢腹堅 すいたくはらかたし 01/25〜01/29
第三候 鶏始乳 にわとりはじめてにゅうす 01/30〜02/03


06074

【「大人」がいない…】清水義範 ★★★☆☆ ちくま新書の一つの柱らしい、現代日本人論の一環なのだろうが、日本から「大人」がいなくなったという論調は、最近あちこちで見受けられる。清水は間口の広い小説家だし、面白い文化論的エッセーの傑作「蕎麦ときしめん」の著者でもあるし、初等教育学科を娯楽的切り口で紹介するシリーズでもいちおうの成功をおさめているだけに、本書も読んで面白く、わかりやすいものいなっている。
社会論であり、文化論であり、一種の教育論でもあるのだが、意識的にばらばらの問題をさまざまなスタイル(自作小説引用、架空対話、漱石の「坊っちゃん」論など)を駆使して、散漫な形で呈示して、そこから読者に一種の雰囲気を感じ取らせる方法を取っている。それが完全に上手くいってるとはいえないが、あちこちに印象的な意見や提示があった。
「大人」に対して「子供」ではなく「大人でない」を対応させ、それぞれの長所と短所を表にしたものをまず引用しておく。

「大人」のよい面 「大人」の悪い面
・豊かな経験をもとに正しい判断ができる。経験と知識の豊かさ。
・自己のコントロールができる。欲望に流されない。孔子のいう「自律」。
・対人関係が構築できる。自他の違いを認めることができ、相手の言い分にも耳を貸す。
・子を教育する。先ずは自分の子。大きくは社会の力で次世代の子を教育するのが大人だ。
・個人の自由を認めない。全体を自分の意思で統率しようとする。時として専横にもなる。
・つきつめず、おりあいをつけてしまう。事なかれ主義。その場その場をごまかしてやり過ごす。本質的な解決ができない。
・他人のことに口をはさむ。図々しい、詮索する。
「大人でない」のよい面 「大人でない」の悪い面
・自由にものが考えられる。常識に縛られない。
・新しいこと、未知のことに挑戦する意欲がある。可能性にかける。
・学んだだけ向上する。
・自分本位になりがちである。欲望のコントロールができない。他人の迷惑を考えることができない。
・視野が狭い。経験不足。自分に知らないことがあると想像する能力もない。
・生活力がない。基本的な生きていく力の不足

たしかに図式的(^o^)だし、やや観念的すぎるきらいもあるが、著者が必ずしも両者の一方を評価するのではなく、それぞれの長短あいまって世の中バランスが取れるという考えかたであることがわかる。
Morris.ははっきりいって「大人でない」ね(>_<)
モラトリアム(懐かしい(^^;))から、フリーター、ニート問題に触れてネオテニーに集約するあたりも、よく見かける論調だが、清水が書くと、ついついそうだとなっとくさせられそうになる。
日本のアニメやゲーム文化を切り口にして、日本の「お子様文化」の特質を論じた部分は優れた文化論だと思う。これも特に清水の創見というわけではないのだが、手際の良い整理ぶりは巧い。
最近の「萌え」ブームを「なまめく」という言葉の古来の用法を引きながら光源氏にまでもって行くあたりもおもしろかった。

つまりもともとは、なまめかしい女性とは、何でもできるかのようにしゃしゃり出るのではなく、未熟でうまくできないとか、よくわからないかのようにふるまうところに魅力のある女性、という意味だったのである。この、未熟さを愛するという日本人の好みは、まさしく今の「萌え」好みに通じるものだ。
ただ、そのようにチャーミングな女性をたたえる言葉だったために、後には、女性の魅力を言う言葉に変化していき、平安後期には今と同じような、女っぽい魅力、セクシーなみりょくをあらわす言葉になったのである。だがもともとは、なまめかしいは、「萌え」に近い意味だったのだ。日本の男性は、何かがたりないようにふるまう女性が昔からすきなのである。
考えてみれば、『源氏物語』で、光源氏がまだ幼い紫の上を見つけて、なんと可愛らしいと惚れ込んで、養育してやがては妻にするという展開は「萌え」好みそのものではないか。


ちょっとくどいがわかりやすい、という清水の文章の見本みたいだ。
また、携帯電話をドラえもんのポケットに例えてそのとんでもない機能と異常な普及ぶりを、驚きを込めて、やや冷ややかに分析してるところも共感を覚えたし、携帯電話用ストラップとその飾りから根付を連想して、日本人の縮み志向論に展開するあたり、

日本人は遊びと実用の中間ぐらいにある小物をデザインさせると、やたらうまくて、面白いものを作るというところがあるかもしれない。半分おもちゃに近いようなものを作らせると生き生きとして、魅力的なものを生むのだ。
はっきりと気がついている人は少ないかもしれないが、我々はかなり可愛らしい国を作って、可愛らしい社会に生きているのである。おもちゃ箱をひっくり返したような環境の中、毎日がカーニバルのような浮わついた生活を送っているのだ。


清水はここでもこう言う傾向を否定してはいない。だが、「遊びなら」許せるという姿勢である。
そして、2ちゃんねるの怒涛の匿名書き込みへの考察。

考えてみれば、そこに自分の意見を書き込みたい人というのは、そもそも不機嫌なのだ。自分が無名で、誰も発言を求めてこず、意見を述べても誰もきかないのだから。その不機嫌のせいで、社会を呪うような気分になっていて、とりあえず毒をまき散らしたいのだ。
そういう人が、まるで社会に復讐をするかのように、2ちゃんねるという場を得て、匿名で発言している。おそろしいほど意地悪な発言がとび出してくるのは当然のことなのだ。
そういう横暴な書き込みをするのは、偉くなったような気がして気分のいいことだろう。だからここに自然に人が、集まってくるのだ。
これは小学生が先生のいない日にやる学級会のようなものだ。
つまりそれが、子供の思考力なのである。2ちゃんねるという現象について私は、「大人でない」思考というものが、野放しにされているのだなあ、である。


2ちゃんねるに関してはMorris.も同様の感慨を持って、敬遠しているが、翻ってMorris.部屋の書き込みを見ると似たような傾向がありはしないかと、ちと不安になってしまった(^^;)

何をやってもうまくいく順調な時には、「大人でない」まま浮かれてもいられるし、それは楽しいことである。しかし、苦境を乗り越えようという時には、「大人」の思考力と、知恵と、巧みさが必要になってくのだ。だから、全面的に「大人でない」ばかりではやっていけないってこをちゃんとわかっていましょう、というのが、この本で私が言いたかったことだ。

この締め括りは、あまりにとってつけたようでもあるが、この時期にこんな本を出す本音でもあるのだろう。そして、Morris.もそう思わざるを得ない状況にあるのかもしれない。


06073

【ドストエフスキーの青空】宮尾節子 ★★★☆☆ 昨夜眠れずに読んでしまった詩集である。もしかしたら眠れなかったのはこの詩集のせいかもしれない。まったく未知の作者だが、ぱらぱらと立ち読みして、ひっかかるところがあったから借りてきたのだろうし、読後の印象もそれなりに強く残っている。
詳しいことはわからないが、93年に何かの新人賞をとってるようだから70年前後の生れで、まだ小さい子供のいる母親ではないかと思われる。
北朝鮮拉致被害者のことをテーマにしたり、自由学園の卒業祝いの詩を作ったり、ネットで知り合った人に感化されての作品があったり、極端に漢字の少ない作品、言葉遊びめいた作品、長いもの、短いもの雑多で、作品として完成度が高いものもあれば、やや八方破れ的なものもあったりと、雑多ではあるが、ところどころ、これまで読んだことの無い面白さを感じさせられた。



てんしのこなら
てんにもどしてあげねばならない
わたしがてをそえて

あくまのこなら
あくにもどしてあげねばならない
わたしがてをそめて

なにもしらずに
おちてきたのだから巣から
わたしのてのひらに

しんでいいいのちはどこにも
おちてこない



あれはつゆ草
それは花たで
これが小鮒草
都忘れ ほととぎす 花びし草 えのころ草
ひめつるそば 垣どおし 黄水仙

こうして名前を並べてみると
どれを抜いて
どれを残せばいいか
わからないでしょう
なにをしにきたのかここへ
わたしは
宮尾せつこ


結構語感は研ぎ澄まされているようで、そのくせ自動記述めいた率直さで綴られている詩句たち。彼女の詩は短いものほど良いような気がした。



生きた
火をかぶって

死んだんじゃない
生きた


それなりの背景のありそうな死の詩だが、そう言ったことを問うべきでないという拒絶の姿勢を感じさせる。

らんぷ

照らすが愛するなら
愛されるは照らされる

らんぷがひとつなら
こたえもひとつ

夜になれば
わかる

欲しいところより
必要なところに


まったく別次元なのに八木重吉を思い出した。
そして、Morris.が一番印象的だった作品。

祈り

たれがおってくれたのかこころにうかぶかみのつる

誰が折ってくれたのか
心に浮かぶ
紙の鶴


この作品には仕掛けがあって、一行目は105pに、後半三行は106pに印刷してある。つまり読者はとりあえずひらがなの一行を読んで意味を掴もうとする。Morris.は「祈り」というタイトルから「かみ」を「神」と思い、「つる」は「蔓」か「弦」あたりだろうと見当をつけたのだが、ページをめくって思わぬ驚きを覚える。これはきっと作者の思惑なのだろうが、Morris.は「祈る」と「折る」の漢字の類似性に感心してしまった。これはひょっとしたらMorris.の深読みかもしれない(^^;)
ともかく、ひさしぶりに新しい、そして気になる詩人と出会えたということで嬉しかった。


06072

【彼が狼だった日】北方謙三 ★★★ 10年ほど前の作品である。作品の多い著者なのに何でこれを借りてきたのか良くわからない。ひょんなことから殺人を犯し、ヨットで海外逃亡して、ひょんなことから、傭兵になり、過酷な訓練を受けて、日本に戻ってヤバイ仕事をするという話で、最初の殺人、4年後、10年後と時間を隔てた3部作になっている。例によって肉体派の主人公は超人的だし、年配の元超人みたいな探偵が出てくるし、おしまいは子供まで巻き込んでのセンチメンタルハードボイルドになってしまうのだが、それなりに面白かった。序破急でなく序破緩だったのが尻すぼみだと思う。
たしか著者は佐賀県出身だったと思う。同郷のよしみなんて感じないのだが、近くに北方という炭鉱町があったから、もしかしたらそのへんが出自なのかもしれない。

人を殺す時は、その人間の人生の終りに、たまたま立ち合っているだけだ、と考えるようにしろ。考える余裕があればだが。パラシュート降下で作戦行動に出る直前に、大佐はのんびりとそんなことも言った。大事なのは確実に殺すことで、残酷に殺すことではない。おまえは興奮することがあるから言っておくが、残酷さは兵士の美徳ではないぞ、トト。確実さこそが美徳だ。
美徳という言葉が大佐の口から出るのもおかしなものだったが、俺はそれを忘れないようにしてやってきた。


訓練を受けた大佐の思い出だが、このあたりが北方らしいといえるだろう。


06071

【病としての韓国ナショナリズム】伊東順子 ★★★★ 洋泉社新書として2001年10月に発行されたもので、著者はMorris.には未知の人で、最近流行り?の韓国悪口本かと思ったのだが、嬉しい誤解で、実に内容のある良い本だった。
著者は61年生れで、90年から11年間ソウルに住み、語学堂に通い、日本語教師、TV番組制作会社、新聞社に勤務したあと今はフリーライターらしい。韓国の悪口ではなく批判がメインだが、韓国への愛情、深情けが感じられる。
語学堂で知り合った外国人と韓国人の対応から韓国/北朝鮮人の民族ナショナリズムがかなり特異なものであり、それが実は南北統一を妨げてもいるし、深刻な病弊でもあるという主旨につながるのだが、中国朝鮮族や在日韓国人、在米韓国人、華僑などへの根強い差別意識や、孤児輸出?問題、南北首脳会談の本質など色々教えられるところが多かった。

学問の分野にナショナリズムが入り込むと事実を歪曲する。戦前の日本の皇国史観、北朝鮮の金日成伝説、極端な例は山ほどあるが、そうならないためにも外国人の研究者は重要である。日本には外国人の意見をよく参考にし、右翼から「自虐史観」と罵られているグループがあるが、韓国にはそういう人たちがまったくいなかった。

こういったふうに自分が感じたことを率直に記す筆法なのだが、視点がくっきりしているのが良い。
友人、知人にも恵まれているようで、サムルノリのキムドクスの奥さん、金利恵の在日の立場からの発言の引用、

「日本には北朝鮮系の学校以外に韓国語を勉強できる学校がほとんどなく、日本で進学や就職をするためには日本の学校を出たほうが圧倒的に有利だし、また知ってのとおり日本の差別社会にあって、両親は生きていくために必死で子どもの民族教育にまで手が及ばなかった。われわれが韓国語をしゃぺれないことについては、日本政府の同化政策やわれわれの怠慢ももちろんだが、じつは在日同胞の民族教育に対して北朝鮮ほどの支援もしなかった韓国政府にも責任の一端はある」

は、かねがねMorris.が思っていた、韓国人の在日韓国人の語学力不足への言われなき非難への反論としてまったく正当なものだと思う。
日本の敗戦後の朝鮮人国籍に関する日本の対応の理不尽さに対する著者の感想にも共感をおぼえた。

終戦当時、日本には二百万以上の「朝鮮人」がいたとされるが、彼らはその時点ではまだ法制度的には「日本人」であり、それ以後、故国に帰る人も、また戻ってくる人もいたりしてしばらく混乱していたが、やがて1952年のサンフランシスコ講和条約の締結後、日本に残っていた「朝鮮人」の日本国籍はすべて剥奪され、「朝鮮籍」あるいは「韓国籍」の外国人として登録されることになった。
36年間、「あんたは日本人だ。日本のために尽くしなさい」と言われつづけ、「じゃあ」と思って、日本で一生懸命働いていたところ、こんどは「あんたはやっぱり日本人じゃないから。このままいたいんだったら、ちゃんと外国人登録してよ。外国人なんだから多少の不便は我慢してもらわなきゃね」ということになってしまったのである。
これはやっぱり人の道にはずれている。植民地として支配して、勝手に日本人にして、無謀な戦争にまで動員したあげく、こんどは外国人に戻れ……。あんなに迷惑をかけたのだから、やっぱりキチンと懺悔するべきである。
「そのまま日本国籍をもっていてもいいし、朝鮮や韓国の国籍にしてもいい。いますぐ選べなかったら、迷惑をかけた36年間は両方の国籍をもっていてもいいよ」
1952年の時点でそうするべきだったと、私は思う。


この問題については、これまでにも色んな本でMorris.もひどいと思いつづけてきたが、日本人の立場からこれだけ明確にわかりやすく書けるというのは立派である。
金大中と金正日の南北会談から1年ちょっとの時期にその本質をきっちり捉えていたということも評価したい。

民族主義だけが大切だった。そして、それはまさに北朝鮮のねらいだった。韓国がまだ貧しい独裁国家だった70年代とは違い、今の北朝鮮に民主主義や経済力といったほかの尺度で優位に立てる条件はまったくない。唯一、民族主義だけが、北の政権が韓国に勝負を賭けられる最後の武器なのだ。だからこそ金正日はのっけから在韓米軍撤退の問題をちらつかせながら、民族の自主性ということをしきりに強調した。南北共同宣言も「統一問題は、その主人であるわが民族同士でお互いに努力して、自主的に解決していく」ことが一番に謳われている。
とても悲しいことだけど、もう統一への幻想は捨てなければならないのかと思う。少なくとも、金正日をいう人を傑出した政治指導者だとかオープンな性格だといって称えるべきではない。彼は経済的に破綻した王国を延命させるための援助が欲しいだけだ。アメリカに対してはミサイル、日本に対しては戦争責任、そして韓国に対しては民族主義と、武器を使い分けているだけである。そしてそれは残念ながら的を射ている。北朝鮮を好戦的と責めるほどアメリカは平和主義ではないし、日本は戦争責任を十全に果たし終えていない。そして韓国は民族主義から決して自由ではない。


お見事である(^o^) Morris.なんか南北会談の上っ面だけしか見てなかったような気がする。少なくとも2年くらいはすっかりだまされていたもんね(^^;)。
そして、やや悲観的な結論。

韓国人はよく、「世界で唯一の単一民族国家」が「世界で最後の分断国家」であるアイロニーを嘆く。でも、もうここまできたから言ってしまうが、そんなことを言っているから南北は統一できないのである。前にも述べたが、世界中のどこを探しても純粋な単一民族国家など存在しない。生物界でもなんでも純粋種だけというものはなく、奇形種を含んだいろいろなものの混在こそ、生物体としてのパワーを強める。単一民族であることに固執しつづけるかぎり、統一はありえないだろうし、また統一したところですぐ分裂するだろう。

この結論は概ね間違っていないとは思うのだが、Morris.としては瓢箪から駒でもいいから統一の夢は失いたくない。


06070

【安楽病棟】帚木蓬生 ★★★★ 帚木作品はたいてい見かけたら即読むのにこれはなぜか敬遠していた。老い、痴呆、安楽死といったテーマがすぐ思い浮かび、避けていたのにちがいない。
しかし、これは傑作だった。
福岡の私立病院の痴呆病棟を舞台に、さまざまな痴呆老人と、新人看護婦、医師らが非日常的日常を送るさまを、仔細に描きながら、人間が避けられない老いと死、生命の尊厳など重い主題を、専門家の視点も駆使しながら460pの長編に仕上げている。
前半で、病棟に入る老人たちそれぞれの生涯の物語が語られて、それぞれが一つの短編作品のようだ。そして中盤から語り手を兼ねる新人看護婦のみずみずしくもヒューマニスティックな看護ぶりと、見様によっては地獄めいた痴呆老人たちの日常、病棟内の人間関係、看護婦、主任、介護士、患者の親族たちの患者への対応ぶり、そのあと、主題となる安楽死の考察、看護婦が敬愛する医師の高説と隠された治療行為。最後に(途中から気づかされるが)明らかにされる医師への告発。ストーリーなんかなくても、充分読ませる描写の連続だった。
オランダの安楽死事情を紹介しながら、現在の安楽死に対する一般的解説は、わかりやすく、それでいて驚かされてしまった。

先生の講演で、[積極的安楽死]と[医師の幇助による自殺]という言葉を初めて知りました。これまで安楽死というものは、どちらかというとあくまでも患者さんの意志で行われるとばかり思っていました。実情はそうではないのですね。安楽死といっても、患者さんの意志に基づくのが[自発的(ボランタリ)]で、そうでないのが[非自発的(アンボランタリ)]、また治療を中断して死に至らしめるのが[受動的(パッシヴ)]。医師の手で致死量の薬剤を投与するのが[積極的(アクティヴ)]というように、さまざまに分類されるのも驚きでした。
現在オランダでは[安楽死]という用語をあまり使わず、[生命終結行為(ライフ・ターミネイティング)]という表現をするのですね。安楽死という漠然とした言葉よりは、より一層実際の行為を定義していて、妙な言い方ですが[良心的]です。その対象となるのは、重篤な障害をもった新生児、長期の昏睡患者、そして重篤な痴呆患者です。この最後の痴呆患者に対しては、[生命終結行為]の代わりに[生命短縮行為(ライム・ショートニング)]という用語を当てています。何故なら、先生の説明によると、積極的に生命を終結させるのではなく、患者の要請にもよらずに生命を縮めるからだというのです。


また痴呆患者、障害患者を看護する中で、看護婦が気づいたこととして、視覚障害者と聴覚障害者の一般的社会対応の型の違いとその原因を推察する部分は非常に示唆的かつ興味深かった。

今年の初めでしたか、一時期、目の不自由な患者さんが入院していました。そのときわたしが思ったのは、同じ感覚器官でも目と耳では全く性格が違うということでした。見ると聞くですから、役目が異なるのは当然ですが、そうではなく、もともとの性質がちがうのです。
ひとことで言えば、目は疑い深く、耳は慎み深いのです。その目の不自由な患者さんは、静かに話しかけるとすぐにこころを開いてくれ、手はかかりますが、こちらの気持ちもまっすぐ伝わっていく印象がありました。ちょうど同じ頃ですが、ショートステイで、全く耳が聞こえない患者さんが入院してきました。もちろん目は見えます。ところがこの患者さんの場合、何事も曲解してしまうのです。看護婦が他の患者さんの世話をしているのを見て、自分だけ相手にされていないと腹を立てます。わたしたちが詰所で話をしているのを眺めて、自分の悪口を言っていたと怒ります。
どうやら目は、本来疑い深くできているようです。目は唯一脳が頭蓋骨の外に飛び出している箇所だと、大学時代に習った記憶がありますが、目の役目は何よりも危険の察知だったに違いありません。身の危険をいち早くとらえるために、わざわざ脳が外に出たと考えればいいわけです。そのため、小さな変化でも危険だと感知する傾向が、初めから備わっているわけです。前方の樹々の葉が揺れるのを見たとき、目はまず敵がこちらを窺っていると結論するのです。一陣の風が吹き渡ったのだとは決して考えません。
これに対して耳のほうは、もちろん目と同じく警戒の役目を担ってはいますが、目ほどにはびくびくしていません。それよりも、仲間の声を聞きつけたり、求愛の鳴き声を聞き分けることに重きがおかれているのです。いうなれば、目は生まれつき疑い深く設定されているのに対して、耳は親しさを感知するようになっているのです。


むむむ、これが帚木のオリジナル説だとしたら素晴らしい観察眼だと思う。Morris.のばやい、目は昔から近眼だったのが、最近は老眼が進んでるし、耳も遠くなってるような気がする。ということは、この理論とはあまり関係なくなるのかな。

その他「初老は医学的に40歳から」などという発言など、いろいろ考えさせられるところも多かったが、患者の一人である婆さんが自宅近くの石地蔵の赤い帽子とちゃんちゃんこを縫って、それを着せ替えに行くのに、患者や看護婦らが同行し、婆さん宅に立ち寄っておにぎりをいただくシーンや、大連あたりの当番兵だったじいさんの「おてもやん」の踊りの場面、お茶会で痴呆老人たちが突然一期一会のときを持つなど、感動的なエピソード満載で、帚木の物語りの巧さも存分に発揮されている。
それだけに、ラストのとってつけたような看護婦から医師への手紙はもったいないと思った。
安楽死への著者の婉曲な発言は、現役の医師でもあることからしてやむをえないが、基本的には安楽死には反対のようである。たしかにめちゃくちゃ難しい問題だし、その難しいということがわかるというだけでも読む意味がある一冊だと思う。


06069

【韓国が危ない】 豊田有恒 ★★ SF作家でもあり、アニメの原作者でもあり、70年代からの親韓ウォッチャーとして、それなりに知名度のある著者だ。最近は「いい加減にしろ韓国」など嫌韓ムード一辺倒のようだが、今は島根県立大学の教授になってるらしい。本書はPHP新書という媒体からしておおよその傾向はわかるのだが、保守色の強い論調である。
内容はノムヒョン大統領が反日、反米、親北朝鮮政策に傾き、このままでは、北朝鮮のゲリラ部隊に侵攻されてしまうのではないかという、かなりキワ物っぽいものである。
もちろん北朝鮮寄りというわけではなく、日本側に不利な動向を心配するが為の苦言、進言らしいのだが、どこか思いつき、無責任な発言が多いような気がする。
金大中と金正日会談に象徴される韓国の太陽政策が形骸化してるのに韓国世論が、何となく北朝鮮への警戒感を無くしたままだし、ノムヒョン政権の中枢に多くの社会主義者(北朝鮮のスパイとさえ言ってる)が潜り込んでいる、いや、ノムヒョン自身が北朝鮮よりの社会主義者である、というのが著者の一番言いたいことらしい。
たしかに、Morris.が韓国にはまった88年頃は、韓国人の中には南北統一という言葉に本気が感じられたのに、例の南北会談頃から統一への意欲が減退した気がする。両国の経済力の差異がはっきりしたためでもあろうが、それと韓国人が北朝鮮へ警戒心をなくしてるというのがシンクロするのかどうかよくわからない。
南北の軍事力の比較にかなり熱が入ってるが、北朝鮮の核開発に関しては、思い切り恣意的な風聞をつなぎ合わせて、実用の段階ではないとほぼ断定してるあたりも疑問である。
ただ、北朝鮮はともかく、韓国のあまりにワンパタンの反日の姿勢にはMorris.もときどきいいかげんにしてくれといいたくなることはあるな。
日本では「マンガ嫌韓流」というのが一部で話題を呼んでるようだ。Morris.は本屋でぱらぱらと立ち読みしただけだが、かなり杜撰な内容のようだが、どうも韓国人の反日に類似する匂いを感じてしまった。


06068


【母と息子の囚人狂時代】見沢知廉 ★★★☆
 「天皇ごっこ」がかなり衝撃的内容だったので見沢の他の作品も読んでみようと思ったが、彼は2005年9月にマンションから飛び降り自殺していたらしい。
本書は出獄後に書いた「囚人狂時代」の舞台裏で、小説というよりレポートに近い。内容は当然刑務所での生活だが、彼を支えた母親の信じられないほどの献身ぶりに心を打たれざるをえない。いや、正直、驚いたというのが正直なところである。
長期囚としての過酷な状況報告の描写も体験者/表現者だけに迫るものがあるし、心身への耐えられない攻撃の中を反抗的に生き延びる見沢の意思の強さも尋常ではないが、その母の辛抱強さ、生活苦と病気を抱えながら暗号めいた通信のやり取り、判読不明に近い秘密原稿の清書、世間の冷たい目に負けなかった精神力などは、まさに神話めいたものを感じた。
けして、感動とか羨望とか美談とかでなく、その逆の恐怖、地獄、阿鼻叫喚という感想が先に立つのだが、刑務所がこういったものを生み出したという意味では、花輪和一の傑作「刑務所の中」を思い出さずにはいられない。しかし両者の印象のあまりの違いに改めてびっくりする。
罪状と拘留期間と状況の差が大きいのはもちろんだが、結果的に刑務所は見沢を自死(釈放後とはいえ)に追い込み、花輪は新しい境地を会得したということになる。
「天皇ごっこ」でも描かれていた、主人公が昭和天皇の死による恩赦を期待するあまり、天皇心酔者になるというのがフィクションでなかったことがわかったし、キャンディズ(特に伊藤蘭)フリークで、差し入れに彼女のグラビアを希望し、取り上げられると異常に執着するあたりが、ちょっとおぞましかった。(自分を見てるみたいで(^^;))


06067
【調律の帝国】見沢知廉 ★★☆☆ 94年発表されたフィクション、とは言っても、つまりは獄中記の焼きなおしであることは言うまでもない。「天皇ごっこ」「母と息子の囚人狂時代」につづいて3作目となるとさすがに、もういい、と言いたくなるのは、読者のわがままかもしれない。見沢はこの後10年間生きたことになるから、また違うテーマの作品があったり、活動もあったに違いないのだが、もう、これでMorris.は見沢作品は封印することにする。


06066


【悪役レスラーは笑う】 森達也 ★★☆☆ グレート東郷という悪役レスラーの名前くらいは聞いたことがあるが、試合をTVで見た記憶は無い。何といってもプロレス=力道山の時代をリアルタイムで過ごしたMorris.なのだが、田舎育ちゆえテレビ普及も都市部よりはかなり遅れてて、町内に1軒か2軒にしかTVがなく、それでもプロレスのある日はその家に大勢が集まって力道山の活躍に夢中になっていたはずだ。しかしMorris.の場合、単に回りの熱に感染していただけで、それよりはまだラジオ中継で西鉄ライオンズの実況を聞いてたことのほうが印象に残っている。
日系米人レスラーとして、戦後アメリカで日本色を強調して米人の日本への憎悪のはけ口的役割を演じていたようだが、日本プロレスとの縁も深く、1959年に初来日して力道山とタッグを組んだり実戦も行ったが、プロモーター的役割で重要な存在だった。しかし金に汚い、平気で裏切るなど関係者にはすこぶる評判が悪い。彼を高く買っていた力道山の死後、日本プロレス界から追放され、表舞台からは消えたようだが、アメリカでは富豪としての余生を過ごしたらしい。
著者がグレート東郷に関心を持ったのは、そのあまりの評判の悪さと、謎の多い彼の生き方に興味を持ったためとあるが、もともとプロレスへの関心は強くいわゆる「活字プロレス」=試合を見るより専門誌などで試合結果や裏話を読むことに熱中するマニアで、雑誌でグレート東郷に関するコラムや記事を見つけて、TVドキュメントにしようと思いながらなかなか果せず、岩波新書に書き下ろすことになったものらしい。
すでに関係者の大部分が鬼籍に入ってるなか、少ない生き残りレスラーやスポーツ記者などを訪ねて当時の裏事情を明らかにしていくのだが、肝心のグレート東郷の核心に触れるものはみつからない。
彼の出自にしてからが、熊本出身、沖縄出身、母が中国人、さらには韓国人の血が混ざっているのではないかという曖昧さ。結局本書はグレート東郷を探しきれないまま中途半端で投げ出された感じがする。その代わりというか、ちょうど同じ時期にスタートした日本のプロレスとテレビ放送の黎明期の、力道山が韓国訪問したとき中日スポーツが彼が在日であることを報道して大騒ぎになったことや、やはり韓国人レスラー大木金太郎が力道山に桔梗はトラジのことだと教えられたといったエピソードのほうが興味深かった。ルーテーズ、ブラッシー、ブッチャー、グレートアントニオなんて名前を聞くと、やっぱりあの頃のプロレスブームが思い出される。
著者は深夜TV枠で「放送禁止歌」番組や、オーム真理教のドキュメント映画「A」などを撮ってる人ということで、グレート東郷への視点も彼の国籍や社会的な意味合いを掘り下げた作業にしたかったらしいが、結果として不完全燃焼に終っているようだ。


06065


【インヒズオウンサイト】小田嶋隆 ★★★ 「ネット巌窟王の電脳日記ワールド」と副題にあるとおり、彼のインターネット日記の抜粋である。98年8月から2005年までの6万行ほどの書き込みを1/10くらいに圧縮したとある。400p近い本だから、全部収録したら4,000pかあ。
このMorris.日乘も開始が98年11月だから、ちょうど本書と期間が重なる。量的にはちゃんと調べてないのでわからないが、ほぼ同じくらいあるかもしれない。内容の差は明らかだろうけどね(^^;)
浴室で体調170cmもあるイグアナを飼ってるとか、家族構成など、彼の個人的なことを初めて知ったりもできたが、やはり彼のユニークな(偏屈、シニカル)パソコン論、社会論、サッカー観、テレビマスコミ観など、自由に書いてるところに面白さを感じた。

それにしても、どうして私は原稿料を貰える方の原稿を後回しにして、こんな一文にもならないHPの更新に労力を割いているのだろうか。わかっている。責任を伴わないからだ。結局、責任を伴わない原稿であるこのページの運営は私にとって娯楽なのだ。仮にこのHPが1アクセスあたり10円でも稼ぎ出すということになれば、それなりの責任が生じる。
そうなると、きっと私にとって更新作業は重荷になる。読んでいる側にだって、タダで読んでいるからこそ、面白がっている部分があるはずだ。無料の読み物であれば、面白いと思える一節を見つけた時に得をしたような気分になれる。つまり、無料原稿の読者は得点法で読んでくれるわけだ。
ところが、その彼らとて、金を払って読むということになると、にわかに厳しい減点法の判定基準を持ち出してくるにちがいない。冗長な描写にはうんざりするだろうし、ひとりよがりの表現には鼻白むだろう。それどころか、自分の考えと違う主張が展開されていれば、腹を立てるかもしれない。
なるほど無料というのは、書く側にとっても、読む側にとっても素晴らしいことであるようだ。
インターネットがもっと普及すれば、ライティングの主流は、ボランティアということになるかもしれない。たぶん、そうなるべきなのだ。(1999/08/12)


プロのライターならではの、ややレトリカルな意見の展開だが、結局こうやって単行本になってるのだから、やっぱり金になる文章になったというオチがつくな。


06064


【美しい国のスパイ】水木楊 ★★★ 未見の作家だがタイトルに釣られて借りてきた。95年に出た近未来スパイ政治小説らしい。舞台が10年後くらい、ということは、ちょうど今の時代を舞台に10年前に書かれたもので、どうしても著者の近未来予測が当ってるかどうかが気になってしまう。
アメリカの諜報機関ラングレーのエージェントが主人公で、アメリカに都合よい日本政界の操作を計る。最初はミニアメリカ的経済開発政策を取る政党に肩入れするが、後に方向転換してゼロ成長の超回帰的日本を目指す政党に鞍替えしたつもりが、実は利用されていたというネタバレを書いてしまうと身もふたもないが、ストーリーより、日本の政治シーンのシミュレーションを楽しむのと、主人公と日本女性の交際、プロダクション化した派閥とタレントになった政治家、裏で仕切る黒い組織、なかなか細かい描写あり、駆け引きあり、マスコミ操作ありで面白く読めたのだが、当然のことながら同時多発テロもアメリカのイラク侵攻も「無い」ままの現在が舞台というだけで違和感を覚えざるを得ない。
ポケットベルがしつこく生き延びていたり、情報先端を行く登場人物たちが「パソコン通信」で連絡を取り合うなど、アラに見えてしまう。
村上龍の「半島を出よ」も似たようなシチュエーションがあったが、本書の方がズレが大きいように感じた。
著者は日経新聞のアメリカ特派員などを経てかなり出世した人らしいが、こういったリスクの大きい作品(近未来もの)を好んで書いてるらしい。勇気があるというべきか。それでも、バブルの後、再び経済力持って、大東亜共栄圏の再来を目指しながら、結局は泥沼に沈んでいく日本という予測は、時期を別にすれば外れてはいないようだった。まあ、悲観的な予測というのはよくあたるのだろう(^^;)
2010年頃、政権を奪取した政党の「美しい国」政策理念というのがものすごい。

マクロ経済部会では、新規の設備投資を抑制したゼロ成長を打ち出し、循環型の落ち着いた経済を導くべきと説く。
資本・貿易部会では、そうした循環型経済を維持するために必要な輸入量を確保すべく、日本の貿易港を新潟、名古屋、長崎のみに限定、厳しい為替制限を設ける。
人口部会では、最終的に日本の人口を八千万人程度に減らす目標を立て、海外移住を奨励するとともに、児童手当ての廃止などによって育児コストを高める。
「中央集権部会」では、固定資産税、住民税などの地方税を廃止、すべて国税としたうえ、自治体に補助金を分配することとし、食糧・エネルギーは配給制度とする。
田園ルネッサンス部会では、全ての成人に対して年間一定時間農作業、林業、畜産業いずれかの労働を義務付け、食糧を自給化する。一切の開発を禁止する。
「情報特殊部会」では、官僚に対する情報公開義務を廃止。情報ネットワークを国有化し、海外からの不必要な情報流入を抑制するとともに出入国の管理を厳しくする。また電子報道機関法を活用して全てのメディアの検閲体制を強める。新聞、テレビ、出版は各分野一社に集約していく。
教育部会では、全ての教科書から進歩思想を排除する。学生のみならず成人にも質素な国民服の着用を要請する。
防衛部会では、海外からの核兵器による恫喝を排除するため、現在のTMD(広角ミサイル防衛)システムを維持する。国民皆兵製を取り、一朝時ある事態に備える。
以上の目的を円滑に実現するため、調整部会では、政府出資による特殊法人を極力多く設立し、各種特殊法人一元管理する「日本特殊法人管理事業団」を新設する。


著者は心情的にこの政策へのシンパシーを表明しているようだ。フィクションとは言え、それはないだろうと突っ込まずにはいられない。


06063


【虫屋の見る夢】田中研 ★★★★ Morris.が感動した前作「虫屋の虫めがね」から4年ぶりに出たケンさんの昆虫エッセイ第二弾である。期待通りの楽しい本だった。今回は挿絵も全て本人が手がけているが、画力もますます上達してるし、何よりも対象への愛情が溢れている。
自分のことを「ケンさん」と書いてるのも、ネットでのMorris.のパタンに似てるので親近感を覚える。
ケンさんのユーモアと、ひたむきな蝶や蛾への傾倒ぶりと愛情の深さは相変わらずで、日本の虫のコラムニストとしては奥本大三郎に次ぐ、いやMorris.の好みとしては奥本を超える書き手ではないかと思う。専門家ではあるが、研究家ではなく、あくまで在野の虫屋であるという立場がいいのかもしれない。
キアゲハの幼虫を飼育するのにスーパーでパセリを買って、餌にした時の記録。

最初の何日かは、むさぼるように食べていた幼虫たちであったが、そのうちようすがおかしくなり、ほとんどがあの世へ行ってしまったのである。羽化までこぎつけた幼虫も、非常に小さかった。これはなぜであるか、いろいろ考えたが、薬の成分がパセリにしみこんでいるからであるということ以外に原因はないであろう。人間は体が大きいから、買ったパセリを食べても健康でいられるとしても、それはキアゲハの幼虫が食べると死ぬパセリなのである。人間が、大して頭のいい生物でないことが、これでわかる。(キアゲハとパセリ)

確かに農薬は小さな幼虫には劇薬になるのだろう。
世間で「蝶」と「蛾」の評価、愛憎が極端なことを嘆いて、「蛾」の美しさ、面白さを強調する部分ではMorris.も大いに共感した。蝶と蛾はほとんど種的にも区別はないし、蛾の美しさがわからない人は可哀想だとすら思う。

名前を知るということは、存在認識の確実な第一歩である。名を知らぬものは、心のなかに存在しないのとおなじことである。対象の名を知ってはじめて、その対象がくっきりと精神の片隅にとらえられて、一定の場所をあたえられることは、他人と知り合いになる段階をかんがえればすぐわかる。名前を知らぬひとは、いつまでたっても無名の集団のひとりにすぎない。
ケンさんは、人々がもっと生物の名前を知ればよいと思うが、もちろん、これは自戒の念をこめたうえでのことである。野外に出て目につく植物の名と特徴をすべて知っており、昆虫類の種名がぜんぶわかったら、世界はもっとこまかい隅々まで、その鮮明な形をあらわすであろうに。日本産のすべての蝶の名を知っていたところで、どうということはない。しかし蛾となると、蝶の種類数の比ではなく数千種もおり、鱗翅目のなかで蛾の一部が蝶になったのだなどと気やすめをかんがえたところで、どうにもならない。ましてや、一般のひとは蝶でも十種類の名を言えるのがせいぜいであって、蛾の名ときたら毒蛾とイラ蛾くらいしか知らないのではあるまいか。だから、ウスバツバメもホタル蛾もミノウスバも……となるのだが、とにもかくにも、人間が名をつけるまえから、あらゆる生物はいて生きつづけていいる。(ほたる蛾・うすばつばめ・みのうすば)


「唯名論者」を標榜していたこともあるMorris.としては上の発言には満腔の賛意を表明したい。これに加えて、最近の動植物名のカタカナ表記への発言も、プッシュしておきたい。

ケンさんは、自分の標本箱に入ってる日本産の蝶や蛾のラベルは、種名をひらがなで書いている。そのほうがこの国の昆虫の名らしくてケンさんは気に入っている。いちいち図鑑や専門書のまねをする必要はない。
カタカナにはどうしてああも色気や情緒がないのであるか。大むかしはべつとして、本来、カタカナはまだ日本語になってないことばや、強調して目立たせる語を書くためであった。外国の固有名詞は日本語になっていないどころか、どうひねくっても外国語そのものであるか、じょーじ・ぶっしゅ大統領とか、あらびああのろれんすとか、ぽーる・まっかーとにー、などと表記すると、読むほうの顔の筋肉が痙攣をおこす。ドヒャーとか、ヒネクレもの、などは後者の例である。
なにが悲しゅうて、われわれは日本の虫の名をカタカナで書かにゃならんのか。おおかた本にそう書いてあるからであろう。ケンさんはこういうことは納得するまでかんがえる血を体内にもっている。カタカナ書きに賛成できる理由はケンさんには、ひとつしかない。それは文章中にひらがなで生物の名を書くと、前後のひらがなといっしょになって読みにくくなるという点である。(紅・瑠璃・大和・燕)


ケンさん、そこまで言うのなら、どうして漢字名復活と、はっきり言挙げしてくれないんだい? この章のタイトルを見れば、必然的にそうなるはずなのにい。
今となっては、Morris.も、何でもかんでも漢字で書けというつもりはない。(なくなった(^^;))。でも、漢字で書いたらたちどころにイメージが喚起される名が多いことは子どもにもわかるはずだし、無用な誤解を避ける功徳も大きいと思うぞ。
前作もそうだったが、偕成社は本書を、低学年の子どもから老眼の進んだ世代まで幅広く対象にしようと考えてか、極力漢字を少なく、活字も大きめでゆったり読みやすいレイアウトになっていて、非常に好感を覚えたが、それと生物名漢字表記とは矛盾しないと思う。
紋白蝶、大水青、天狗蝶、碁石蜆、褄黒豹紋-------漢字名の美しさと合理性を見直すべきではないか。いくらかでも共感を持たれた方は、参考になるかどうかはわからないが、Morris.の歌集『異端蝶』『鞘詩目』『雑季鳥』などをご覧いただきたい。(自己宣伝ぢゃ(^^;)


06062


【天皇ごっこ】見沢知廉 ★★★☆?? Morris.はうかつにも本書の存在すら知らずにいた。新左翼活動家から新右翼民族派に鞍替えして82年英国大使館ゲリラ、スパイ粛清事件で逮捕され12年間懲役生活。その中で書いた「天皇ごっこ」が94年新日本文学賞佳作。
「天皇ごっこ」は4倍ほどに加筆されて95年に単行本化される。Morris.が今回読んだのはこれを更に改訂した99年の文庫版である。
刑務所、右翼、左翼、精神病院、北朝鮮を主な舞台/テーマにして5章に分たれているが、著者の分身である田村のパラノイアックな思想表明が、さまざま登場人物の口を借りて形を変えながら変奏されてる思想小説ということになるだろう。

「ブタ野郎どもめ……テロで世の中は変わらない? きれいごとだ! 浅沼を殺らなきゃ社会党は政権を取ったろう。嶋中事件や本島や赤報隊がなきゃ、マスコミはイギリスみたいに皇室をセックスジョークにしてるだろうよ! 右翼がいくら屁理屈こねまわして地道に頑張っても、新聞もテレビも絵にならねえからと相手にしやしねえ。マスコミが、右翼右翼とおだてんのも、企業の総務がびびるのも別に右翼のオツムが怖いからじゃねえ……暴力……テロル!……その幻覚に怯えて金も敬語も出んだよ…… そいつを、またおもいしらせてやる。」

在日朝鮮人右翼の若者の台詞だが、これもきっと見沢自身のストレートな思いなのだろう。そしてこれは一面の真理を衝いている。

三里塚闘争の場面での戸川反対同盟委員長のアジ演説も、裏返しの著者の本音だろう。

「アジア人民を侵略し、南京で大虐殺し、朝鮮人や慰安婦を強制連行し、沖縄人民は、虐殺されるにまかせ、アイヌ人民を抑圧蹂躙し、部落大衆を差別弾圧した反動と反革命の元凶、全抑圧人民、否、全人民、全アジア人民の究極の敵、天皇を絞首台へ!」

そして圧巻のTの偏執的言説の嵐(@ @)

要は、ハイテク革命は第二の産業革命で、今はプラス面が出ているものの90年代後半にはマイナス面が出て、産業革命がラッダイトから革命へといたったようにこのハイテク革命も上部構造と生産関係が矛盾し必ず破綻が来る。それもハイテク王国日本がひどい。そこでボルシェヴィキやNSDAP(ナチス)のような綿密な計画と世界観を持った前衛ジャコバン党が現われて、没落したホワイトカラー、工員、農民、小商人などの弱者や、優良な官と軍、学と政財界、宗教と組んで権力を奪取する。国家を更に超ハイテク国家に仕立て、かつてイギリスが世界の工場だったように、日本が世界のハイテク工場になり、第三世界有色人種と組んでゲオポリティックスを遂行し、世界革命をする。世界維新の長州に日本がなり、薩摩は新生した中国やアジア。今、やけくそで反米を闘うイスラム、キューバ、リビア、北朝鮮、ベトナムは水戸や土佐で、米露が幕府だ。ECやオセアニアが列藩同盟の役を演じ、日本は世界を統一する。すべての大国を分解し世界を民族に還元し科学と軍事を一ヶ所に集め、他は牧歌的な老荘的ユートピアを創るという。

「(革命は)今の状態じゃあ、できませんね。これも大学いってますからね。けれど、例えばホルムズ海峡に何隻かのタンカーを沈めれば、日本経済はパニックですよ。今のこの平穏はきわめて脆弱なんです。ほんの一揺れすれば、フランス革命でジャコバンが女装の陰謀をしたように婦人たちをヒステリーに扇動したり、市場を占拠して食糧をストップしたりしたように、社会の倒壊も簡単だ。市場の代わりに今なら、オンライン・システムを破壊すればすべてが麻痺する。それでマスコミを占拠して、あたかもすべての国民が立ちあがったかのようにテレビや活字の魔術で神経戦を展開して大衆を街頭に出す。出たらアジテーターが扇動する。警察庁と防衛庁のキャリアを人質にして治安部隊を動けなくする。あとは民社共産ぐらいの勢力があれば、ムッソリーニになれますね。」

「鉄は国家なり、の時代は終りました。もはやハイテクが国家であり軍事です。日本はその最先端にいます。これで再軍備すればたちまち米中に急迫する。しかしそれだけじゃ足りない。日本の権力を奪取したら、国家や議会、政治屋など非効率で無駄なものを一掃する。教育機関を一変させ、ゼロ歳から英才教育を義務教育化する。大学の95%は理工系にする。全国を筑波都市化する。税制でハイテク企業を徹底的に伸ばす。それと国家が宇宙、軍事、化学の大プロジェクトをくむ。非ハイテク産業は関税などで淘汰する。民族の徹底合理化だ。非機能的な一切の機構を排除する。コンピュートピアを実現してしまう。バイオ、核、オプト、LSI、宇宙の最先端研究の頭脳を世界から集中する。いや、胎児から義務教育化して青少年の90%を科学者にし、残りをグリーンベレー的な特殊部隊やモサド以上の諜報機関員にする。陸軍なんかほとんどいらない。世界一の宇宙軍とNBC軍を建設する。20年で他国と日本人のIQ差を40から50にまで高めあげる。チンパンジーと人間並みの差をつける。そして、人間量をもつ第三世界の非白人カラードと軍事同盟し、米露の核をSDIや電子戦や粒子放射で無力化して、BC兵器に万能のワクチンを開発し、すべてのICMB、SLBM、戦略爆撃への抑止力をそなえ、白人の大量殺戮兵器を無力化し、そこの第三世界同盟の大量兵士が白兵戦で怒涛のごとく流れ込むんです。-----

おしまいになるにつれて、どんどん無茶苦茶になってるが、ともかくもこういった調子でTの大マジメ法螺説教が続いていく第4章は本書の中核をなしていると思う。
そして、95年、出所直後の北朝鮮行き実体験を下敷きにした第5章には「特にこの章はフィクションであり、実在の国、団体、人物とは一切関係が無い」という、見え透いたウソの注を付してのレポートだが、金日成、金正日の世襲独裁者=天皇制であり、北朝鮮の統制国家こそ右翼の理想郷であるという逆説めいたパロディっぽい結論は、実はMorris.の前からの思いでもあったりする。

「いいかい、あいつはな、この国に幻の天皇制を見たんだよ。ニ・二六事件の将校や血盟団、朝日平吾や甘粕、中野や三島が夢見て、あてどなく繰り返してきた"天皇ごっこ"という名の血のゲーム、その彼らが成しえなかった夢幻と理想、それを近藤はこの国に見たんだよ。まあ、偶然じゃないだろうね。古い古いアジアの原型、そこへのロマン溢れた先祖返りなんだろうなあ。老賢人、親の中の親にして、万能の族長、神秘的な力を持つ、神の代理人、最も仁慈溢れ、全てを理解し、かつ武装の統率者……その、古い古いアジアの族長社会への先祖返りなんじゃないかなあ。この面倒な現代文明を捨てて、老荘的な牧歌的アナーキズムのへ帰りたいという、原始的な本能の表現じゃないのかな。なんで三島はどの知性が天皇へ回帰したのかって人は言うけれど、赤軍派ほどの知性がなぜ金日成の牧歌に回帰したのかって問うけれど、共産主義や国家主義も超えてさ、理解や理屈を超越したところに、最も素朴なものが待っていたんじゃないかなあ……」

これが結論かい(^^;)とチャチャをいれたくもなるが、本書にはまだまだ引用したくなる個所が目白押し、というか、著者自身が、過去の自作や参考文献などからパッチワークよろしく貼り付けて作り上げた作品でもあるようだ。
Morris.は本書を理解でなく、評価できずにいる。刺激は受けたし面白かったと思うのだが、どうも手放しで誉めるべきでもなさそうだし。批判するには力不足を認めざるを得ない。困った作品である。


06061

【昭和歌謡大全集】村上龍 ★★ この前読んだ「半島を出よ」があまりに面白かったので、同じ登場人物が出てたという本作を読むことにしたのだったが、期待はずれだった。6人の規格外れの男たちと、やはりズレまくってるおばさんたちとの命をかけたゲーム的攻防というのがいちおうの筋なのだろうが、著者の「遊び」がMorris.には全く伝わって来ず、読み終えるのにえらく苦労した。やっぱり村上龍との相性は良いとは言えないみたいだ(^^;)
おしまいに4人の仲間を殺されて残った二人が、FAE(Fuel Air Explosive--燃料気化爆弾)を手作りして、おばさん連の住む広い地域を殲滅させるというところだけはちょっと刺激を受けた。といってもストーリー的にではなく、「貧者の核兵器」という異名をもつその爆弾への興味だけで、サイト検索したら連続爆発写真のあるページをはじめ数百のサイトがヒットした。
本書の発表は93年となってるから、アメリカによるイラク攻撃をパロったものではありえないが、現時点で読んだMorris.は、ついついそう思ってしまった。


06060

【デザインの国イギリス】山田眞實 ★★★☆ 著者は47年生れと書いてあるからMorris.とほぼ同年代である。副題に「[用と美]の[モノ]づくり」さらに「ウエッジウッドとモリスの系譜」とあったので、読む気になった。もちろんモリスに関心があったのだ。
Morris.のモリス好きは言うまでもないと思うが、日本でのモリス人気はいまいちという気がする。そこがまたMorris.の気に入ってるところでもあるのだが、ある程度ちゃんとした評価はして欲しいというのも本音である。
本書は97年に出されているが、95年がジョサイア・ウェッジウッドz(1730-95)の没後二百年、96年がウィリアム・モリス(1834-96)の没後百年にあたるので、それを記念する意味もあったようだが、二人がほぼ百年の時間差を生きたということはちょっと意外な気がした。ジョサイア・ウェッジウッドは名前からわかるように、英国陶器ブランドの開祖みたいな人で、現在もこのブランドの人気は大したものだし、モリスといえば、壁紙のデザインが生き延びてるとは言ってもかなりマイナーだし、ケルムスコット版の見事な出版物はほとんど重要文化財みたいな扱われ方だから、Morris.はウェッジウッドの方が近い過去の人物のように思っていたのだった。モリスより百年も先に死んでたとは思いもよらなかった。それ以前に、ウェッジウッドという人物のことは何一つ知らなかったというのが正直なところだ。18世紀のウェッジウッド、19世紀のモリス。その間にイギリスの産業革命があったことが重要である。
ウェッジウッド社設立は1759年、今から250年も前に「デザイン・マネジメント」を実践、成功させたという意味で、ジョサイア・ウェッジウッドを評価すべきだというのが著者の意見である。

ウェッジウッドの業績は,高級品である「装飾陶器」の分野におけるものと、「日用陶器」におけるものに大別される。極めて個性的で華麗な装飾陶器によって「ウェッジウッド」の名前をイギリス国内のみならず、ヨーロッパ全土に浸透させ、その知名度を利用して自社の日用食器を一般庶民の家庭に普及させた彼の経営戦略の独自性と卓越性は、今日なお高く評価されよう。

品質の高さを維持しながら、デザインに細心の注意を払って、近代的な経営法で大量生産を行った。このウェッジウッドの業績は、産業革命の黎明期にいち早く大量生産システムのモデルを創造したという意味でより高く評価されるべきである。このよきモデルをもち得たイギリスの産業社会であったが、19世紀に入り「商業主義」が産業社会全体を支配するようになるにしたがって、大量生産品のデザインは売らんがための俗悪なものとなり、その品質も悪化の一途をたどり始めた。


この「商業主義」のアンチテーゼとして登場したのがモリスを中心とする、アーツアンドクラフト運動ということになる。

19世紀末から20世紀初頭にかけて、ヨーロッパ大陸諸国でモリスの影響のもとに展開される様々なデザイン運動は、ついにはウォルター・グロピウスの率いるバウハウス運動に至る。さらに国際的に展開するバウハウス運動は、「機能主義」に基づく最良のデザインとは何かという問題を追及する気運を大いに盛り上げた。19世紀後半にモリスが繰り広げたアーツアンドクラフト運動は、これら一連のデザイン活動の原点であり母胎とも言える。ただモリスの運動が他のデザイン運動と異なる点は、明確な反工業化の旗印を掲げたことである。そして、この反工業化思想は、当時のヴィクトリア朝社会に対する痛烈な批判として生れたものだということを忘れてはならない。

つまり、モリスの「反工業化」がモリスの運動を結果的に成功させなかったと言いたいんだろうな。モリスが理想として手本としたゴシック建築や写本に代表される「中世」への憧憬が、結局はアナクロニズムであり、イギリスのデザイン工業化の足を引っ張ったとも言える。

また「商業主義」によって瀕死の状況に追い込まれている装飾芸術の救済にも、モリスは渾身の努力を惜しまなかった。機械で産み出される粗悪かつ醜悪な日用品に対して怒りをおぼえたモリスが、デザイナーとして、実作者として、アーツアンドクラフト運動の指導者として費やした、膨大なエネルギーと時間を思わずにはいられない。自然と芸術を破壊してやまない「商業主義」は、人間生活そのものを脅かす。生の充足感も得られないで機械と時間の奴隷となって働かざるをえない労働者の現状をみて、モリスが感じた憤りは、そのままユートピア創造へのエネルギーとなったと考えられる。
モリスが19世紀後半のヴィクトリア朝社会の諸悪に対して抱いた怒りは、百年後の日本に生きる我々自身の怒りでもある。近代主義、商業主義、自然破壊、人間関係の希薄化、複雑化する社会構造、ハイテクノロジー時代の到来など、つまり近代文明そのものに対するモリスの深い問題意識は、今、我々自身のものでもある。


言ってることは間違ってないと思うが、もう少しどうにかならんかいな、という文章ではあるなあ(^^;) 現在の日本の状況へのシフトもやや性急かつ粗雑な感を拭えない。

民衆の芸術の喪失は、労働の喜びの喪失でもある。ぜひともしなければならない日々の労働の中で、すなわち日常生活に必要な品々を造り出す仕事の中で、その品々に「美」と信じるものを付加する−−−これこそモリスが求める労働の喜びである。「労働とはする価値のあるべきもの」であり、「労働はそれ自体に喜びを伴うべきである」と考えるモリスにとって、当時の労働者の現実は我慢できないものであった。ゆえに、せめて身の回りのガラクタを排除して「生活の簡素化」を図れ、と警告する。つまり、労働の喜びの中から生み出され「用」と「美」を兼ね備える生活必需品以外は身辺に置くな、というのである。「簡素で、たしなみのある生活」が民衆の生活様式となったとき、はじめて民衆の芸術である「小芸術」は復興し、人々に「造る喜び」と「使う喜び」をもたらすことになる、とモリスは考えたのである。

「必要かつ美しいもの以外は身の回りに置くな」という、このモリスの警告は、ものすごく魅力的なのだが、実行するのもものすごく難しそうだ(^^;)
それでも、Morris.は出来るだけこのテーゼに沿いたいものだと切望してる。でも、きっとできそうにない。こういった矛盾めいたモリスが好きなのだ。

しかし、結局、モリスの社会主義の実践運動は、工場労働者や社会に対する根本的な救済を実現できなかった。また、彼が紹介の活動を通して到達したのは、新しい工業デザインではなく、極めて質の高い工業芸術であり、結果的には特権階級のための手工芸品であった。
疎外された労働と、その労働が生み出す醜悪で粗悪な製品を、手づくりという生産形式への後退によって解決しようとしたモリスの試みが、大きな成功をおさめえなかったことは当然であろう。アーツアンドクラフト運動が、工業デザイン運動の発展に対してブレーキをかける働きをしたことも、事実である。


モリスはつまるところ、理想主義者であり、夢想家であったという、結論に終着しそうな文章だが、Morris.はモリスのそういうところが好きなのだと繰り返しておきたい。モリスの手づくり志向は、日本の民藝運動に通ずるものがあると思ったが、本書でも、ハーバート・リードのモリス評を引用しながら、そのことについて言及があった。

リードはモリスをウェッジウッドと比較して、「モリスの姿勢はウェッジウッドの姿勢の裏返しである」と述べている。すなわち、ウェッジウッドは美術というものが産業として採算のとれるものであると考える「産業人」であり、一方モリスは工業を美術とは両立しないものとして捉え、工業を改革するか廃止することが必要であると考える「芸術家」であった。またウェッジウッドの態度はモリスに比べてずっと単純で、モリスの態度はその中に秀れた倫理的見解を含んでおり、それだけ複雑化していると指摘する。
今日、日本をはじめ欧米諸国でみられる民芸運動は、各国で事情は異なるであろうが、機械生産に対して「手づくり」を尊重するという基本的な態度はモリスの思想の延長上にあるといえよう。しかし「手づくり」は良質になればなるほど、大衆のものでなくなっていくという皮肉な運命をもっている。これはモリスの思想そのものがもつ矛盾であり、アーツアンドクラフト運動の限界でもあったが、モリスは社会主義的な社会改革によってこの矛盾あるいは限界を克服しようとした。かたやリードは、後述するように「手づくり」の限界を認め、それに代わって「工業製品」に新しい価値を見いだそうとしたのである。


リードの優位性を匂わせる形で本書はまとめに入ってるが、それでもMorris.のモリスへの愛着は変わらない。
本書を読んで、また、改めて小野二郎のMorris.関連の本、就中愛すべき名著「紅茶を受け皿で」を再読したくなった。
最後に、本書のタイトルは、いただけない、ということを指摘しておきたい。何じゃ、これは?である。副題見てやっとわかるのでは情けない。直裁に「ウェッジウッドとモリス」でいいんじゃないかと思って、表紙を見たら、こっそり淡い文字でWedgwood & William Morrisと印刷してあった(^^;) わかってるなら、日本語タイトルもそうしておいて欲しかった。


06059

【おかあさん「ぼけ」た?】末永史 ★★★☆ 何でこんなのを借りてきたのか、Morris.の「ぼけ」具合が気になってたためか、それもあるかもしれないが、著者の名前にすごく懐かしさを感じたからである。彼女は漫画家で、20年以上前の作品にはかなり強烈な印象があったような気がする(^^;)Morris.だった。
東京在住だが仙台の実家の父親がガンで亡くなり、そのあと母親(79歳)に認知症の傾向が出てきたことから、それへの対応を漫画エッセイみたいにまとめたものらしい。遠距離介護という難しい立場ながら、実践的かつ具体的な「ぼけ」への対応ぶりが描かれている。彼女は父親の遠距離介護ぶりをクロワッサンに連載するなど、この方面では結果的にエキスパートになったらしく、クリニックで精神保健福祉士として医療活動をおこなってるらしい。
母親も刺繍の先生をやってる積極的なタイプなのだが、80歳直前にして何もかもが面倒くさくなりかけている状態で、いわば「ぼけ」予備軍。
筆者が母の「ぼけ」に気づくまでと気づいてからに分けて、ぼけの徴候、特徴、ぼけの進行を遅らせる方法や対応などをコラム風に書き綴っているが、今のMorris.にも役立ちそうなことや、目から鱗の知らなかったことがあちこちに書かれていた。
たとえば、

・認知症、すこし前まで痴呆症と呼ばれていたが、それは脳の老化による衰えではなく、脳の病気だという。
気づくのは、早いほうがいいのはもちろんだが、遅くても、そこからできることはたくさんある。


そうか痴呆症は老化とはまた別のもので、進行を遅らせることは可能なのか。とか、

・整理整頓が出来なくなる
・綺麗好きだったのにかまわなくなる
・状況の変化についていけない
・ちょっとしたことで突然怒り出す
・得意料理の味付けが変わる
・ずるずるTVを見つづける
・地名や人名を忘れるようになった
・新しいものへの順応を嫌う
・集中力が減少


といった、ぼけの徴候を羅列されると、あれもこれもわが身にあてはまりそうで、ひっくり返りそうになった(@ @)
そして、対応編のいくつかのアイデアはMorris.も実践せねばと思ってしまったさ(^^;)

・メモ用にはホワイトボードを
・カレンダーや手帖を秘書がわりに
・暮らしまわりをシンプルにする
・思い出す訓練をする。(覚える訓練とは別物)


特に最後の「思い出す訓練」というのは、盲点を突かれた気がした。そういえば、思い出せなくなるのは当たり前と諦めてた。これからは思い出す訓練もしなくては(^^;)。
本書はぼけの解説書というより、初歩の初歩案内みたいなものだが、ぼけのことは本当にぼける前に考えておかなければどうしようもないということを教えてくれた、というだけでも感謝したい。


06058


【黄色い蜃気楼】船戸与一 ★★★☆☆ 89年から92年頃「小説推理」に連載された二つの中篇(たぶん)を加筆修正合成して92年に単行本としたものらしいが、Morris.はつい読み逃していたらしい。
アフリカ、カラハリ砂漠に墜落した旅客機から助かった数人の乗客の中に、娘の命を救うために機密書類を持った主人公(元自衛隊員)がいて、イギリス人スチュワーデス、二人の日本女性観光客とともに灼熱の砂漠を脱出しようとする。これに主人公を追う日本人とアメリカの謀略組織の手先、南アフリカの白人と黒人のゲリラ部隊、バイク乗りの女性殺し屋、復讐に燃えるプッシュマンなどが次々に登場する冒険活劇である。アパルトヘイト問題や、社会批評めいた文言もないではないが、本書は完全にエンターテインメントに徹してるという意味で、楽しめる一冊であると思う。
最初の飛行機事故からしてご都合主義のてんこ盛りである。しかし、それを何とか一つの物語に仕立て上げる船戸の手腕はなかなかのものである。面白ければいいのさ(^^;)
追う側と追われる側の二つのストーリーを章ごとに入れ替え、途中にまた別の物語や事件をレイアウト変えて挟み込み、それでも抵抗なく読み進めさせながら、それぞれが最後にきっちり平仄合わせるようになってる、というあたりに船戸の力技を堪能できる。


06057

【悲歌−古賀政男の人生とメロディ】佐高信 ★★★ 戦前「酒は涙かため息か」「影を慕いて」でデビュー、戦後も演歌作曲家の大御所として君臨した古賀政男の評伝なのだが、「東京スポーツ」に連載された原題は「悲歌韓流--古賀政男の失郷」だった。これからもわかるように、古賀が多感な少年時代を朝鮮で過ごしたことと朝鮮音楽との関連、、韓国の作曲家で日本でも活躍した韓国人作曲家孫牧人のことなどに触れてあったのに関心を覚えた。
古賀の過剰な多感さ、男色趣味、わがまま、菅原都々子養子事件などにも忌憚なく触れているが、これは彼の没後だからこそ書けた事だろう。
また古賀のライバル作曲家、江口夜詩、船村徹、作詞家、歌手などとのからみも突っ込んで書いてある。
一時「日本の演歌の源流は韓国にある」というキャンペーンめいた動きがあったが、そのときまず取り上げられたのが「古賀メロディ」で、朝鮮で一時暮らしていた古賀が韓国歌謡に影響されて生れたという説がまことしやかに論じられたものだが、さすがにこれに関しては本書でも否定されている。
「カスバの女」の作曲家久我山明とは、韓国人作曲家孫牧人の別名で。孫は戦前「他郷暮らし」「木浦の涙」などのヒット曲を書いている。姜信子が96年に孫にインタビューしたときの回答が先ほどの演歌の源流への正解のように思える。

「日本はだいたい二拍子が基本、韓国は三拍子でね。でも、それは伝統音楽の話。歌謡曲と伝統音楽は違うんですよ。もともとの韓国の音楽があり、日本の音楽がある。それぞれ百年くらい前に西洋の音楽と出会った。歌謡曲というのは、その出会いから生まれたんです。日本の支配が始まると、たくさんの日本人が韓国に住むようになったから、日本の歌謡曲も韓国でたくさん流れました。でもね、流れ込んで来たのは日本の音楽だけじゃない。世界音楽が韓国にも流れ込んできたんです。世界の音楽に出会うことで、歌謡曲という新しい音楽は創られたんですよ。それは日本も韓国も同じです」

「連絡船の唄」の作曲家金海松と孫牧人の因縁話も興味深かった。戦時中に日本を巡業していた孫のところに、日本の警察に追われていた金が助けを求めに逃げ込み、孫は朝鮮への切符を買って金を逃がした。その後朝鮮に戻った孫は警察に捕まる。拷問と刑務所生活を送ることになったが、これは孫の人気を妬んだ金が密告したためだったらしい。日本の敗戦で開放された孫は、土下座して誤る金を張り倒した。

孫作曲の「木浦の涙」を歌ってスターとなった李蘭影は、こんな金海松と結婚し、のちにキム・シスターズやキム・ブラザーズとして活躍する子どもをもうけた。
しかし、金は朝鮮戦争当時、親日容疑と韓国駐在の米軍慰問などの罪名で北朝鮮に連行されていく途中、爆死する。その事実を、一緒に連行され、脱出して助かった人が確認していたが、李はそれを信じなかった。夫は必ず帰ってくると思って待ちつづけたのである


ここにも日本の植民地支配と朝鮮戦争に翻弄された半島の悲劇があった。


06056

【韓国の若者を知りたい】水野俊平 ★★★ 岩波ジュニア新書の一冊。著者は68年生れで全南大学で日本語講師しながらKBSの番組でコメンテータなどもやってるらしい。本書は日本の中高生向けに、韓国の学生の実態を知らせるという目的で書かれたものだが、韓国おたくを自称してるMorris.にとっても、なかなか知る機会のない若者の生態や特殊事情などがやさしく解説してあっていろいろ教えられることが多かった。
学制の仕組みの違い、韓国高校の時間割、日本を上回る受験熱、詰め込み教育、徴兵の影響、日韓学生のお互いへの認知度、両国若者の気性の違い、などなど、一般論としては知っていても、細かいところがわかりにくかったが、著者の教えてる学生を中心としたアンケートの内容やグラフでいくらか理解できたような気になった。
たとえば大学入試は各高校ごとに父兄や後輩が応援団よろしく繰り出して、応援歌を歌ったり、休憩時間にはコーヒーなどのサービスをするとか、高校生の大部分は朝早くから夜遅くまで学校に拘束されるということなどは興味深かった。
著者は「韓国・反日小説の書きかた」という本も書いてるようだが、やや韓国人の対日感を図式的に捉えすぎる癖があるようだ。


06055


【自分の謎】赤瀬川原平 ★★★☆☆ 「こどもの哲学 大人の絵本」という赤瀬川の故人シリーズの2冊目らしい。漫画風のイラストと短文で構成された5章の疑問とその解釈みたいな形式だが、赤瀬川初期の櫻画報と似ていなくもないが、歳を重ねた分だけ練れた感じがする。
尾辻克彦名義の小説や雑文にはあまり興味が湧かないが、赤瀬川名義の「老人力」やら「路上観察」やら「新解さん」やら「ライカ」やら「骨董カメラ」やらはなかなかに面白いし、ときには凄みさえ感じたものだ。
本書はそれらをさらに噛み砕いて絵本化したもので、彼の真骨頂はこういうところにあるのかもしれない。「目の問題」「痛い問題」「国境問題」「一つだけの問題」「強い自分 弱い自分」の5つの考察が収められているが、個々の作より、後書きの文章がいたく心に響いた。

若いころは文章を書くのに難しい言葉ばかり使っていた。難解なものほど凄いという風潮もあり、よけいそうなっていたと思う。でもそのうち「難解」がただのスタイルだとわかり、自分で恥ずかしくなってやめた。世の中に難解な問題はたくさんあるけど、言葉が難解では肝心の問題までたどりつけない。

これはMorris.には結構耳の痛い言葉かもしれない。徳にMorris.の短歌や俳句にはその傾向が強かったと思う。
難しい言葉で難しいことを書く。やさしい言葉でやさしいことを書く。やさしい言葉で難しいことを書く。といろいろ並べると、どうもMorris.はこれまで「難しい言葉でやさしいことを書く」という、最悪のパタンだったような気がして、ちょっと恥ずかしくなった(^^;)


06054

【半島を出よ 上下】村上龍 ★★★☆☆☆ 村上龍も村上春樹もMorris.はほとんど読まない。本書はタイトルに惹かれて借りてしまった。北朝鮮の反乱軍(実は違うのだが)が北九州に侵入して福岡を占領するという、近未来(2011年)小説である。上下巻で千頁近い長さはともかく、冒頭の登場人物紹介に百名以上が並んでいるのにはさすがに驚かされた。これ見ただけで読むのをやめようかと思ったりもしたのだが、これはこけおどかしというか、著者のメモみたいなものだろう。別にこれなくても読むのに障害はなかった。
「昭和歌謡大全集」という作品の登場人物の生き残りが福岡でテロを計画してるところに、先に北朝鮮のコマンドが福岡を制圧するというプロットからして、おしまいがどうなるかは見えたようなものだが、かなりの取材をおこなったしく、そのディテールだけで充分楽しめる作になっていた。
最初に潜入した生え抜きの先発コマンド9名それぞれの略歴や個性の描きわけ、日朝のカルチャーギャップ、精神構造の対比、空路経由の増援隊「高麗遠征軍」の占領政策、違法所得者を中心とする重犯罪者逮捕と処遇、公開処刑、福岡側と中央のねじれ、まるで主体性のない内閣の対外政策、社会からはみ出した若者たちの異常な情熱と彼らを率いるイシハラグループの奇抜な武器たち、地域マスコミ人の思惑と対---などなど、さまざまな小道具を使っての活劇作りのうまさには感心してしまった。村上龍、なかなかやるじゃないか。
それにしても、近未来、それも年号まで指定しての小説は、あっという間に賞味期限が切れてしまう食品みたいなもので、普通の作家ならやろうとしないはずなのに、それを強引にやりおおせたという意味でも賞賛を送りたい。
村上龍は1952年長崎県佐世保生れだから、同じ西九州生れのMorris.は何となく土地鑑みたいなところで理解しやすい部分があった。登場人物の「博多弁」のところどころが不自然だったりしたのは、博多人でないからだということもよくわかる(^^;)
そして「脱北者」のインタビューによって形作られたと思しい北朝鮮のことこまかな状況紹介は、小説以前の感じも受けたりしたが、ともかくよく調べているようだし、朝鮮語のカタカナ表記にもほとんど間違いがなく(これは専門家に校訂してもらったのだろうが)、色んな意味で、本書は虚構を成立させるためのリアルな情報をかなり読み込んでいるという面でも評価したい。

そして人間の中でもっとも殺しやすいのはホームレスだ。ホームレスは子どもに、自分は人生に失敗するだろうからいずれああいう風になるかも知れないという恐怖を与える。また、経済的な負け犬は貧乏くさくて目ざわりで、競争社会の敗残者で、二度と立ち直れないから、成功を漁り、汚い服を着て、からだから悪臭を発し、粗末な家に住まなければならないという風に、マスコミは脅す。銀行預金が引き出せなくなり、そのあとインフレになってから、より露骨に貧乏人は軽蔑されるようになった。貧乏人を軽蔑していいのならホームレスは殺してもいいのではないかと子どもたちは考える。

イシハラグループに参加する直前の少年タテノの心象を借りて、ホームレス狩りをする少年の気持ちを代弁しているのだが、当たってるだけに恐い。

実際問題として九州の警察官と自衛隊を総動員しても、本州に忍び込もうとする高麗遠征軍のコマンドを阻止することはできないだろう。それなのに政府は封鎖を選んだ。つまりそれは形だけの封鎖で、自分たちはこれほど必死で日本全体の治安を考えているんですよというパフォーマンスに過ぎないのだ。福岡および九州以外の国民向けのパフォーマンスだ。実は国民もメディアもそのことはよくわかっている。政府は北朝鮮のゲリラを福岡に封じ込めたのではなく、福岡市民、九州の住民を日本から切り離した。首相の木戸も官房長官の重光も涙ながらに福岡の封鎖を発表した。あの涙はいったい何だったのだろう。犠牲となる福岡および九州の住民への同情と哀れみの涙だったのだろうか。太平洋戦争末期の特攻隊員も涙ながらに指揮官に送り出された。この国の権力者は一部の国民に犠牲を強いるときには泣いてみせると決めているようだ。そして泣いたあとにきれいさっぱりと忘れてしまう。

やや図式的とはいえ、痛烈な風刺と批判である。

ジャズの女性歌手は、あなたが家に帰ってきてうれしい、と英語で歌った。共和国にはかすれた声の歌手はいない。国立芸術団のソロ歌手はもちろん、普天堡電子楽団のような現代風楽団も、歌手の声は透明で一片のかげりもない。かげりというのが退廃に関係しているのだろうか。あの長山串のパンソリの歌い手もしゃがれた声をしていた。八月の月が私たちの頭上で燃え上がっていて、という意味の歌詞が聞こえた。これは恋の歌なのだ。聞いているうちにかすれた声というのは、心に薄くひっかき傷のようなものを作るのではないかと思った。あなたの声は私にまるで恋人たちの激しい愛撫のような甘美な傷を作ってしまう、チョ・スリョンはそういう即興詩を作って作り、何度か声に出さずに繰り返し朗読して、愛撫という言葉が直接過ぎて深みがないと思った。

先発コマンドの一人でハンサムで詩人でもあるチョ・スリョンのハスキーボイス論(^^;)であるが、こういったうがった論も、本書の調味料としてうまく用いられていると思うが、個人的には「退廃」でなく「頽廃」の文字を使って欲しいし、「声を出さずに朗読」というとんでもない誤用には思わず笑ってしまった。声を出して読むことを朗読というのじゃないのかい??
チョ・スリョンの退廃への考察は別のところにも出てくる。公開処刑の場面。

チョ・スリョンは、退廃は胸をときめかす女性への思いや肉欲などとは無縁なのだと思った。退廃は魅惑的なものではなかった。昔父親が教えてくれた外国の童話で、幸福の青い鳥を探し回る兄妹の話があった。兄妹はあちこち青い鳥を探すが見つからない。そして家に戻ってきて、自分の家の籠に入っている鳥が青い羽をしていることに気づくのだ。
チョ・スリョンは退廃とは何かを考えてきた。だが、それは自らの足元にあった。真の退廃とは、多数のために力のない少数者が犠牲になることだ。アリラン祭が頭に浮んだ。あの祭りは、多数派とその権力の正統性を誇示する大規模な催しに過ぎなかったと思った。退廃だけが足りなかったのではなく、退廃そのものだった。大河の中に水溜まりや水滴を残しても見つかるわけがない。軍内公開処刑は不快だ。だが、おそらく必要不可欠で、他に軍紀を維持する方法はない。臨時司令部の統治が間違っているわけではない。統治や政治というものは、力の弱い少数者を犠牲にする装置を最初から内包しているのだ。集団や軍や国家の均衡がとれている間、その装置は穏やかで目立たない。だが危機に際して装置は稼動し、必ず少数者が犠牲になり、少数者に組み入れられることを誰もが忌避しようとして、その瞬間隠蔽されていた退廃が露になる。


これは、これは、なかなかリキの入った考察である。この文章を含む章のタイトルが「退廃の発見」だもんね。
船団を組んで福岡に向かう後続部隊への動向を巡って地方記者黒田の見解。

後続の十二万人が来ると、いったい何台の携帯電話が必要になるのだろうか。福岡経済は弱りきっていたので、利益を計算してほくそ笑んでいる業者が大勢いるのだろう。十二万人の移住は大きな需要を生む。だが高麗遠征軍の本質を見抜いている人間は少ない。こいつらが福岡に順応すると思ったら大間違いだ。病気の人間や虫に対する態度でわかったのは、こいつらの排他性と閉鎖性だ。異質なものは排除するという考え方が、頭ではなく内蔵に刷り込まれている。だから非協力的で反抗的な組織や人間を社会から排除するのは、彼らにとっては善なのだ。金日成や金正日はそういう国民的特性をうまくりようして政敵を粛清し恐怖政治を維持したのだろう。
絶対に好きになれない連中だと黒田は思った。言葉遣いもていねいだし、驚くほど礼儀正しいが、それは排他的で閉鎖的であることの裏返しだ。外部と距離を置くだけではなく、外部を信用していない。そもそも外部そのものが嫌いなのだ。集団い忠誠を誓うエリートは大事にされるが、異議を唱える者、違う価値観を持つ者、病弱な者、障害をもっている者などは徹底して排除される。

これは村上の正直な意見なんだろうな。続けて、ぼやきともいえそうなつぶやき。

日本政府の態度は、友人の会社に誘われたときの夫の態度に似ていた。今の会社を辞めるのもいやばってん、あいつの頼みを断るわけにもいかんもんね、というのが当時の夫の口癖だった。十二万の部隊に日本領海を越えて福岡に入られるのも困るが、テロを起こされても困る、というのがこれまで一貫した政府の態度だった。何かを選ぶというのは同時に別の何かを捨てることだが、それがわかっていない人間が大勢いる。夫はその典型だった。たぶんあの嫌味な母親にあまやかされたというよりも、押しつぶされたということかも知れない。夫の母親は、後悔と不幸と自尊心が顔の皺に埋め込まれているような女だった。わたしの言う通りに生きればすべてが手に入るが、背くと何も得られないと脅しながら子どもを育てたのだらおう。自分で考え、自分で判断して決定することに何の利益もないと刷り込んできたのだ。

こうやって、ついついあちこち長々と引用をしてしまったが、それだけMorris.を捉えるところ多い作品だったということにもなるだろうし、村上の語りにのせられたのかもしれない。
しかし、本書は、そういったエピソードの面白さを含みつつダイナミックな事件小説としてのストーリー展開も充分楽しませる構成になっているし、むらはありながらも、とりあえず最後まで読者を引きずっていく力をもっているということだ。どうもデビュー作があまりMorris.と合わないことから、食わず嫌いでいたのかもしれない。登場人物が重なる「昭和歌謡大全集」あたりを読んでみようかと思っている。


06053

【吉野弘詩集】 ★★★★ やはり、現代詩文庫の1冊で、昨日読んだ黒田三郎詩集と同じ頃(1972)に買ったものらしい。定価\320というのが時代を感じさせる。
吉野弘は前から好きな詩人で、時々読み返したりもしていたのだが、また一通り読み通しながら、新鮮な感動と驚きを感じずにいられなかった。やさしい言葉を使いながら、実に魂の深い部分を突いてくる詩句のオンパレードである。
「奈々子に」「日々を慰安が」「burst」「I was born」「みずすまし」「夕焼け」などタイトルを見てすぐ思い出せる詩が多いのはMorris.が愛読した証拠でもあるのだろう。そして「身も心も」

身も心も

身体は
心と一緒なので
心のゆくところについてゆく。

心が 愛する人にゆくとき
身体も 愛する人にゆく。

身も心も。

清い心にはげまされ
身体が はじめての愛のしぐさに
みちびかれたとき
心が すべをもはや知らないのを
身体は驚きをもってみた。

おずおずとした ためらいを脱ぎ
身体が強く強くなるのを
心は仰いだ しもべのように。

強い身体が 心をはげまし
愛のしぐさをくりかえすとき
心がおくれ ためらうのを
身体は驚きをもってみた。

心は身体と一緒なので
身体のゆくところについてゆく。
身体が 愛する人にゆくとき
心も 愛する人にゆく

身も心も?

形而上詩人と呼ばれるイギリスの詩人ジョン・ダンの詩みたいでもあるが、おしまいのクエスチョンマークなんか、絶妙だな。吉野は言葉の選び方にしても、こういったちょっとした工夫にしてもかなりのテクニシャンでもある。

−−−誠実でありたい。
そんなねがいを
どこから手に入れた。

それは すでに
欺くことでしかないのに(「雪の日に」)

ひとが
ひとでなくなるのは
自分を愛することをやめるときだ。

自分を愛することをやめるとき
ひとは
他人を愛することをやめ
世界を見失ってしまう。

自分があるとき
他人があり
世界がある。(「奈々子に」)

やさしい心の持主は
いつでもどこでも
われにもあらず受難者となる。
何故って
やさしい心の持主は
他人のつらさを自分のつらさのように
感じるから。(「夕焼け」)


挙げていくときりがない。実は今回の再読の目的は血友病をテーマにした詩が吉野弘か黒田三郎にあったような気がしてそれを確かめるためだった(吉野の「命名」という詩がそれだった)のだが、結果として、Morris.が吉野弘の詩の世界に思った以上に影響を受けていることを再確認することになった。
そして今回、以前はあまり注目していなかった、吉野作品への関心も生じたようだ。



なめらかに圭角のとれた
かしこい小石を
思うさま 砕いてやりたい。
砕かれて飛散する忍従を見たい。
収拾できない破片の上に
呆然と立つ恥辱を見たい。
むきだしにとんがった刃からすべてを
はじめるようにしてやりたい。
するどく他を傷つけ、自らも傷つく刃から
すべてをはじめるようにしてやりたい。
刃を自他に容赦しない 無数の石の
かけらの間から
新しい思索と生甲斐とが
苦痛と共に語りはじめられるのを
聞きたい。


ちょっと前に内田樹が安原顕を「圭角のある人」と呼んで評していたことが条件反射的に思い出されたのだが、たしかにこの詩は、内田に捧げたくなるような部分を持っているな(^^;)


06052

【黒田三郎詩集】 ★★★ ちょっとしたきっかけで、現代詩文庫の数冊を引っ張り出して読み返すことにした。黒田三郎はそれほど好きだったわけでもないが、いくつかの詩のいくつかのフレーズは印象的だった。

道はどこへでも通じている 美しい伯母様の家へ行く道 海へゆく道 刑務所へゆく道 どこへも通じていない道なんてあるのだろうか(道)

死のなかにいると 僕等は数でしかなかった(死のなかに)

あいつも死に こいつも死んだと 知らせてまわらねばならないのか(微風のなかで)

歳月は ただ過ぎ去るために あるかのように(ただ過ぎ去るために)

落ちてきたら 今度は もっと高く もっともっと高く 何度でも 打ち上げよう 美しい 願いごとのように(紙風船)


思潮社の現代詩文庫は現在もあるが、始まりが1967年で、この黒田三郎は6冊目で、Morris.の持ってるのは72年の第8刷である。ともかく40年くらい前の本ですでに「現代詩」とはいいがたいのかもしれない。それでもこのシリーズはMorris.には思い出深い。
本書の最終ページに全60巻の一覧が載っている。72年の時点で48冊が発行されている。もちろん、このシリーズはずっと継続されて第一期、第二期、と巻を重ねているし、同一詩人の続編や、世界篇、近代詩人篇など多様化しているが、やはりこの時期の価値と重さはとっくに無くなっているようだ。
黒田三郎は大正8年(1919)広島生れ。Morris.の父とほぼ同世代である。1947年「荒地」創刊からのメンバーで、戦後詩人の精鋭の一人といえるだろう。
詩集「ひとりの女に」が有名で、本書にも全作が収められているが、今読み返すとかなり古びた感じがするのは否めない。
今回読んだ中で一番心に沁みたのは、一人娘ユリちゃんのことを歌った詩集「小さなユリと」だった。

夕焼け

いてはならないところにいるような
こころのやましさ
それは
いつ
どうして
僕のなかに宿ったのか
色あせた夕焼け雲のように
大都会の夕暮れの電車の窓ごしに
僕はただ黙して見る
夕焼けた空
昏れ残る梢
灰色の建物の起伏

美しい影
醜いものの美しい影


06051

【風狂に生きる】三國錬太郎 梁石日 ★★★☆☆ 約半分が二人の対談。二人の知人による紹介的エッセイ。そして、三國の全映画、簗の全作品の自己解題という構成。
Morris.は梁石日の作品はほとんど読んでるが、三國に関してはほとんど知らない。釣りバカ日誌で好々爺のスーさん役を思い出す程度だった。しかしこの対談と、出演作解説の語りにはすっかり魅了された。すごい人物である。脚本の読み込み書き込みなどは尋常でないし、自作の評価も厳しく、監督への苦言もはっきり言ってる。

ここで川島さんの天才ぶりに接したわけですね---。つまり映画というのは時空を越えたものであるという演出に魅せられました。『幕末太陽伝』とはひと味違う実験的なものです。
井上靖さんの原作なんですが、井上さんのものは筆先に幻惑されて映像にしにくいきらいがありまして、少々蹈鞴を踏んだという記憶があるんですが、あえて挑戦しようと腹を決めたんです。(「あした来る人」1955 川島雄三監督)


 昔のお坊さんというのは、そういう総合的な何かをやっていたんでしょうね。ヨーロッパも昔は一人の人間が。宗教家であり、哲学者であり、数学者であり、天文学者であり、医者であったりしますが、基本は人間学だったと思います。それがだんだん専門的になって分化していくわけですけれども、その結果、人間学が欠落していく。
三國 ぼくもいろいろな方とお会いして話をお聞きするんですが、日本の学者先生は理屈好きのくせに議論が嫌なんですね。僧侶にしても然りです。あまり深く質問してはいけないんですね。僧侶の説教は一方的に喋るだけと決められてるようなんです。不思議な申し合わせがあるんでね(笑) 質問されたことに答えるヒマがないということでしょうか(笑)
 聖と俗の世界がありますが、大体そういうふうに色分けすること自体、じゃ聖とは一体何かということでしょう。聖と俗というのは、要するに身分制ではないですか。

三國 ある意味では再生産された日常が崩壊しない限り、永遠に制度という構図は尾をひいて、これからも続くんじゃないかとおいう気がしますがね。
 頂点に天皇制があって、その次に政治家とか財界とかいて、下のほうに被差別部落がある。もし被差別部落をなくしたら、いちばん根っこが崩れるわけだから、全部崩れるんじゃないかという恐れがあるんじゃないかと思うんです。どうしても必要になってくるわけですよ。差別対象としては。
三國 「必要悪」という言葉はあるべくしてつくられたんですかね。
 どうしてもそういう対象がないと具合悪いわけですよ。---、また、最底辺と言われる被差別部落と天皇が非常に近いんですね。ある意味で、観念的なことや儀礼的なことでつながっていたり、ある権力の代行として「非人」が実際に権力を持って取り締まったりする。ある種循環の構図みたいなものがありますね。

三國 ただ、生理的に終始一貫して、ぼくは権力嫌いというところがあります。権力を笠にきて何か言われますと、ものすごく反抗心が沸くんですね。
 それはどんな映画でも、画面に出ていますね。
三國 そうですか、やっぱり凡優なんですね(笑)
 何となく出てますよ。画面で感じます。それがまた、三國さんの強い独特の個性にもなってると思います。
三國 だからですかね、何回も業界から干されたことがありました。監督もそうですが、脚本家の方にも、「こんな子どもだましみたいなこと演らせるな!」なんてちょこちょこ言いますからね。


こうなると、やはり、三國の代表作といわれる「飢餓海峡」「神々の深き欲望」「利休」くらいはビデオでもいいから見ておきたくなった。


06050

【放浪の天才詩人 金笠】崔碩義 ★★★ 朝鮮李朝時代末期の詩人金笠(キムサッカ)(1807〜63)の名前だけは知っていたが、どんな詩を書いたのか皆目知らずにいた。本書は新書なので、手軽にアウトラインを知ることができるだろうと思って借りてきたのだった。結果は、まずまず満足だが、金笠の詩は基本的に漢詩なので、素養のないMorris.にはちょっと敷居が高かったが、著者の現代語訳はよくこなれていて(こなれすぎという気がしないでもないが)解りやすかった。
金笠の「笠 サッカ」というのは一種の仇名である。もともと安東金氏の名門生れだが、祖父が民衆の乱に巻き込まれて身分を剥奪されてしまい、金笠はそれを二十歳の時初めて知り、それを契機に放浪詩人になったらしい。彼の死後、その存在は伝説的なものとなってしまったが、日本支配下の1920年から30年代に李応洙(イウンス)が金笠の詩や逸話を蒐集して39年に初めての「金笠詩集」を出版した。
作品への理解とは別に、金笠の人気は一人歩きしていて、KBSが1964年から25年間、毎日昼夜2回にわたって「金笠放浪記」というラジオ番組が人気を博し、国民の間に現実とはかなり違うイメージを植え付けたようだ。
ところでMorris.は、ソウルのパゴダ公園で、金笠に会ったことがある(^o^) 右にあるのがその証拠写真である。詳しくは2004年2月韓国旅行記を見て欲しい。
金笠が特に好んだ金剛山の短い詩を一つ挙げる。

[金剛山]
松松柏柏岩岩廻 松と松、柏と柏、岩と岩のあいだを廻ると
水水山山処処奇 水また水、山また山、至るところが奇景だ

簡単な漢字だけでいかにも金剛山の素晴らしさを誉めたたえている見事な詩だと思う。金笠はこのように畳字を使うのが好きで、上手かったようだ。その最たるものが次の是是非非の詩である。

[是是非非詩]
是是非非非是是 是を是とし非を非とする是は是に非ず(否定)
是非非是非非是 非を是とし是を非とするは非に非ず是なり(肯定)
是非非是是非非 是を非とし是を非とする是こそ非の非なり(肯定)
是是非非是是非 是を是とし非を非とする是の非こそ是なり(否定)

この詩はあたかも、世の中に絶対的な善悪、黒白は存在しないという禅問答のようでもある。すべてのものを相対的に捉えようとする思考で、いわば、金笠独特の超俗、滑稽、韜晦の哲学かも知れない。全く奇妙な詩である。


これは完全に言葉遊びで、こけおどしだと思うが、こうやって人目を驚かす作は、金笠の伝説化に一役買っていると思う。
もう一つだけ、畳字を使った作品を挙げる。Morris.はこれが一番気に入った。

[白鴎詩]
沙白鴎白両白白 砂も白く鴎も白い、両方とも白と白なので
不弁白沙与白鴎 白沙なのか白鴎なのか、見分けられない
漁歌一声忽飛去 漁夫の舟歌ひと声に、鴎がにわかに飛び立ち
然後沙沙復鴎鴎 それでやっと砂は砂に鴎は鴎に戻った


その他、ハングルの形象を面白おかしくからかったり、漢字の音と固有語の通音で洒落た詩なども面白かったが紹介がややこしいので、パスする。
本書には約50編の金笠詩が収められているので、入門書としても有益であると思う。ただ、Morris.個人的にはそれほど好みの詩人とは言い難い気もする。
また、金笠とは関係ないが、韓国朝鮮に関する雑学めいたことがいくらかあったので、これも引いておこう。
いわゆる朝鮮八道の地方別の性格定義と、朝鮮の雅称である。

畿中(京畿道) 鏡中美人 温厚
関東(江原道) 岩下老仏 質朴
関北(咸鏡道) 泥田闘狗 勇猛
海西(黄海道) 石田耕牛 執念
関西(平安道) 猛虎出林 活発
湖西(忠清道) 清風明月 穏和
湖南(全羅道) 風前細柳 鋭敏
嶺南(慶尚道) 泰山峻嶺 剛直

通常三千里はきわめて遠い距離をいう場合の表現であるが、朝鮮では、その国土が南北に三千里に及ぶほど広大だという意味で主に使われてきた。すなわち、ソウルから北の咸鏡北道慶源(キョンウォン)までが二千里、ソウルから南の全羅道海南(ヘナム)までが約千里、合わせて三千里になるという計算である。そこから「三千里錦繍江山(サムチョルリクムスガンサン)」というような言葉も生れた。さらに朝鮮を意味する雅号としては青丘、青邱、鶏林、槿域、韓、東国、東土、海東、東邦、檀国、大東など、きわめて多い。


06049


【さらば、ライカ】田中長徳 ★★★ 
副題に「アナログ派のためのデジカメ活用術」とある。Morris.は良く知らないが著者は1947生れの商業写真家で偽ライカ同盟員らしい。ライカマニアだけにデジタルカメラも、エプソンのライカレンズ交換できる機種を愛用、CMや撮影テストなどにも関わってるらしい。それでも一眼レフだけでなく、コンパクト機種も使って、一味ちがったデジカメ論を繰り広げている。かならずしも実用的ではないし、チョートク節(と呼ばれてるらしい)という、癖のある文章には、いささか辟易させられたが、それでもさすがに、年の功、なるほどと思わせる部分も少なくなかった。

デジカメは普通のシーンが「普通の明るさ」に撮影できるような露光の自動調整がなされているわけです。そんなことは当然ではないかと言われるんですね。でもそうではないのです。たとえば明るい晴天とか明るい曇天の光景なら、それはデジカメの自動露出でオーケイなわけですが、夕景とか夜景でも、デジカメはそれが夕景とか夜景とかはわかりませんから、「通常の明るさ」になるように露光を設定してしまうんですね。
つまり、夕景なり夜景を撮影しても、そりゃ無論、ネオンや街路灯が点灯しているのだから、それが夜景であるのはわかるわけですけど、一般に明るく撮れてしまうので、夜らしい感じが出ないんです。そこで露光補正をしてあげる。
素人さんは「夜は暗いんだから」というので、明るく写るプラス補正をやりがちなのですが、これは反対の効果になってしまう。この場合、夜は人間の心理で「暗い」光景であるから、露光補正をマイナス1がマイナス1段半くらいにしてやると、後で自分の記憶の夜のシーンに近づいて見えるので、面白いものです。


これは、何となく気づいてはいながら、Morris.もついつい暗い場面では露光を明るく補正することがままあるので、覚えておこう。

デジカメの場合、綺麗な色彩を得るには単一の光源を利用すること。これに尽きる。--商品写真なら、部屋のブラインドはおろしてなるべく自然光が室内に入らないようにする。

カラーバランスオート補正というのがデジカメの最大の利点だということになるらしい。フィルムカメラ時代は、このカラーバランス(ホワイトバランス)を決めるのにどれだけ気をつかったか、くらいは理解できるので、たしかにこれは、昔からのカメラマンにとっては、大きな利点なのだろう。

若い頃から広角レンズを主に使用してきた俺としては、まず広角レンズの描写は「世界をあたかも舞台の書き割りのように写し込む」というメタフィジカルな空間描写をしてくれることで、必須のレンズなのだ。その広角レンズはまずはその写し込む角度が対角線で76度くらいあれば十分なのである。これはライカの場合28ミリの広角レンズに相当する

この部分が本書で一番共感を覚えた。Morris.もずいぶん前に富士のTIARAというコンパクトフィルムカメラを愛用していた時期があって、これが28ミリで、この角度が気に入ってただけに、デジカメの画角の狭さにはいつも不満を覚えていた。この欲求不満の反動が、例の魚眼レンズ多用の原因となってるのに違いない。
たぶん、筆者に限らず、フィルムカメラの愛好家からすれば、デジカメは消耗品の最たるもので、愛着をもてない存在でしかないのだろう。逆にデジカメしかしらない、若い世代からは、フィルムカメラなどは骨董品としか見えないかもしれない。
Morris.はどちらも好きだが、どちらにも深入りしてない、つまりはいつまでも門外漢でしかないのだろうし、それで良いのだと思う。


06048


【バカの壁】養老孟司 ★★☆☆ 
基本的にベストセラーは読まないMorris.である。そして本書は2年ほど前のベストセラー上位になったと思う。本屋には続編、続々編なんてのも並んでいるようだ。実はこの本、先月仕事にいった現場の処分品の箱の中に入ってたのだった。Morris.はこれまで養老の本は何冊か読み、結構面白がってたかということもあったので、つい持ち帰ることにした。新書版200pくらいの本だから2時間もあれば読み終えるだろうと思ったのだが、何かこれが一向に進まない。何を言ってるのかよくわからないのだ(>_<) ベストセラーになったということは、相当数の人間がこれを面白がって読んだ、はず、なのに、Morris.に解らないというのはどういうことだろう、と、トラック内で隣で運転してた矢谷君に言ったら、あっさり「それは森崎さんが、バカだからですよ」と、断定されてしまった。うーーむ、Morris.がベストセラーは読まないというのは、Morris.がベストセラー水準に達してなかったがためだったのだろうか(^^;)
養老本人の「頭がいい人」の定義は


社会的に頭がいいというのは、多くの場合、結局、バランスが取れていて、社会的適応が色々な局面で出来る、ということ。逆に一つのことに秀でている天才が社会的には迷惑な人である、というのは珍しい話ではありません。

バランスと適応ね。そう言われると、確かにMorris.のばやい、ちょっとやばいようである。

ある時、評論家でキャスターのピーター・バラカン氏に「養老さん、日本人は"常識"を"雑学"のことだと思っているんじゃないですかね」と言われたことがります。私は「そうだよ、そうなんだ」と思わず声をあげたものです。まさにわが意を得たりというところでした。
日本には、何かを「わかっている」のと雑多な知識が沢山ある、というのは別のものだということがわからない人が多すぎる。


これは「わが意を得たり」とまではいかないが、本書の中では比較的共感できる部分だった。

「個性」というもののうさんくささへの言及も、聴くに値する。


誰が「個性を伸ばせ」とか、「オリジナリティを発揮しろ」とか無性に言いだしたのでしょうか。この狭い日本において、本当にそんなことが求められているのか。混んだ銭湯でオリジナリティを発揮されたら困るだけ、と私は常々言っているのですが……。
そんなことも考えずに、ひたすら個性を美化するというのはウソじゃないか、と考えることこそが、「常識」だと思うのです。考えたら当たり前のこと、なのです。
個性が大事だといいながら、実際には、よその人の顔色を窺ってばかり、というのが今の日本人のやっていることでしょう。だとすれば、そういう現状をまず認めるところからはじめるべきでしょう。個性も独創性もクソも無い。


ここまで、言うかという気がしないでもないが、「個性」というのは、誰にでも何にでもあるわけで、ことさらに「個性的」たらんとする必要も意味もないとは、Morris.も前から思ってた。韓国語で「ケソンチョク」といえば、ブスな方への婉曲用語だったりする(^^;)

近代的個人というのは、つまり己を情報だと規定すること。本当は常に変化=流転していて生老病死を抱えているのに、「私は私」と同一性を主張したとたんに自分自身が不変の情報と化してしまう。

「情報」は変化しない、人間は時々刻々変化しているというのが、本書で養老が何度も繰り返してることで、そういう見方もあるという意味では、否定しないが、どうも詭弁とか逆説とかで、だまされているような気もする。

賢さについては、このように脳から判別していくのは非常に難しいのですが、他方、昨今問題になっている「キレる」という現象については、実はかなり実験でわかってきています。結論から言えば、脳の前頭葉機能が低下していて、それによって行動の抑制が効かなくなっている、ということなのです。

ここらあたりが、養老の専門分野的発言らしいが、この「前頭葉」という言葉は、Morris.は昔から何となく懐かしい。コリン・ウィルソンの哲学的SF「賢者の石」などにしつこく登場してきたからだろう。もうずいぶん昔の話だから、その頃からこの前頭葉への研究や言及は盛んだったのだろう。だからといって、前頭葉への知識が増加、充実したというわけではない。
「武器」や「金」への「人間」からの乖離、一人歩きへの言及もそれなりに共感を覚えるが、これは、これまでに散々どこかで聞かされた覚えがある。
こうやって色々引用したり、反論(でもないか(^^;))しながら、ざっと本書を読み返したことになるが、結局、良くわからないという第一印象は変らない。それに、なんでこんな本が、ベストセラーになったのか、という理由がますます解らなくなってきたようだ。Morris.の「バカの壁」は、とてつもなく高くて分厚くて頑丈なのかもしれない(^^;)


06047

【朝鮮の近代】糟谷憲一 ★★★ あまり聞き覚えのない山川出版社というところが出している「世界史リブレット43」となってる。90pに満たない薄い冊子みたいな本だが、1910年、日韓併合までの朝鮮の近代史をひととおり知っておくのも意味があるだろう、と思って借りてきた。小さな写真と簡単な注解がついた高校教科書みたいな内容で、一通り読み終えたのだが、一向に頭に入らなかったような気がする。Morris.の記憶力&理解力がどんどん後退してるせいか、それとも元から無かったのか、ともかくも、これならちょっと詳しい年表でも見てる方がよっぽど良くわかったと思う。
まずもって、詳細目次がないのが良くないと思う。しょうがない、Morris.が作っておこう(^^;)。

1.李朝後期の朝鮮
 ・李朝後期の支配体制
 ・李朝後期の経済と税制改革
 ・世道政治の成立と展開
 ・李朝後期の対外関係
 ・思想・文化の新しい様相
2.開国と開化
 ・大院君政権
 ・衛正斥邪と鎖国の維持
 ・閔氏政権の成立と開国
 ・開化政策への転換
 ・壬午軍乱
 ・甲申政変
 ・甲申政変後の閔氏政権
3.民族運動の形成と近代改革
 ・甲午農民戦争と日清戦争
 ・甲午改革
 ・初期義兵と露館播遷
 ・独立協会
 ・皇帝・宮中勢力の独立維持政策
4.朝鮮の植民地化
 ・日露戦争と朝鮮
 ・保護条約の調印
 ・統監政治
 ・義兵運動
 ・愛国啓蒙運動
 ・「韓国併合」


見出しの立てかたも不親切なところ多々あるが、これだけでも冒頭にあったら、全体を掴むことができるではないか。欲を言えば見出しの後にポイントや年号などを列記しておけばもっとわかりやすくなるだろう。こんな小冊子といえども、歴史を紹介解説しようと思うのなら見出し、目次くらいはきちんと作っておかないと、全体を把握する妨げになると思うぞ。


06046


【鳥頭紀行 くりくり篇】西原理恵子 他2名 ★★ ああ、読むんじゃなかった(>_<)本である。いや、ひどいぞ。ミャンマーの寺で1週間剃髪して修行するに始まり、九州でタコとり、ドイツ結婚式旅行、付録ともいえない雑な作品。どれも西原漫画は例によってのオールカラーで、それはそれで読めるのだけど、後の他2名の雑文ともいえないモノは、なんじゃこれは??である。こう言うのがあるから「サイバラ茸」なんて企画も生まれるのだろうが、それにしてものひどい本であるなあ。この時期はまだサイバラがカモちゃんに愛想尽かしながらも愛情に繋がれてた頃だったらしいが、それにしても、である、ああ(>_<) 


06045


【熱き心に】小林旭 ★★☆☆ 2004年に出たタレント本だが、何でこんなのを借りてきたのか良く分からない。まあ、Morris.は小林旭はそれほど嫌いな方ではないし、「自動車ショー歌」「ダイナマイトが150t」などは好きな歌である。
自伝ではなく、いわゆる語りおろしなのだが、ひばりを始め、悪仲間たちも半数以上死んだから、今なら話せるみたいな感じでさらっと語ってるスターの話を聞くつもりですらっと読んで、それなりに面白かった。
毎月シリーズで新作映画を撮ってた日本娯楽映画の量産期の、裕次郎、勝新太郎、旭らの豪快な遊びっぷり、借金地獄からの脱出、ひばりへの愛惜などなど、読み終わってやっぱりスゲエと思ってしまった。
巻末にある白黒グラビアの50枚の写真だけでも見る価値ありだ。


06044


【流行歌(はやりうた) 西條八十物語】吉川潮 ★★★★ 西條八十の伝記的小説といえば、最近斎藤憐の「ジャズで踊ってリキュルで更けて」を読んだが、本書の方が本格的で読み応えがあった。Morris.の八十への思いは斎藤本の感想に書いたので繰り返さないことにする。
著者の父は八十の妻晴子の長唄の師匠という縁もあり、著者の「潮」という名も八十が名付け親らしい。以前都々逸の三亀松、浪曲の虎造の一代記みたいな作品を読んだ覚えがあるが、それらとは段違いに本書はリキも入ってるし、内容もしっかりしてる。あとがきに「私はこの小説を書くために作家になったのだ」とあるくらいだものなあ(^^;)
それはともかく、日本希代の大作詞家である八十の作品が所狭しと引用されてるだけで、Morris.はいい気分にさせられてしまった。
時代時代にほんとうにびっくりするくらいのヒット作をものにしている八十だが、そのこぼれ話を拾うだけでも楽しい。
たとえば、「同期の桜」が、もともと「少女倶楽部」昭和13年2月号に掲載された次の歌だったというのには驚かされた。

二輪の桜

君と僕とは二輪のさくら、
積んだ土嚢の陰に咲く、
どうせ花なら散らなきゃならぬ
見事散りましょ、皇国(くに)のため

君と僕とは二輪のさくら、
同じ部隊の枝に咲く、
もとは兄でも弟でもないが、
なぜか気が合うて忘られぬ。

君と僕とは二輪のさくら、
共に皇国(みくに)のために咲く、
昼は並んで、夜は抱き合うて、
弾丸(たま)の衾で結ぶ夢。

君と僕とは二輪のさくら、
別れ別れに散らうとも、
花の都の靖国神社、
春の梢で咲いて会ふ。


まあ、もともと軍歌っぽい内容ではあるが、一年後にキングがこれを歌にしたいと言ってきて、ちょっと手直しして「戦友の歌」というタイトルにしたのだが、吹き込み時に、海軍兵学校の帖佐裕(人間魚雷第一期訓練生となる)が「君と僕とは、では軟弱な感じがする、海軍なら貴様と俺だ」と思い、それに、どうせなら同期生の連帯感を高めるように「二輪の桜」でなく「同期の桜」。「部隊」でなく「兵学校」のほうがいいや、と勝手に歌詞を変えたらしい。こうなると、ほとんど共作に近い。
また昭和6年に八十が「アリラン」を訳して小林千代子が歌ってヒットしたとある。これも初耳だった。

アリラン

アリラン アリラン アラリヨ
アリラン越えて ゆくところ
咲けよ花よ わたしと
涙おちた 峠に


一番しか引用してないのが残念だ。これは機会があれば全連を見たい、いや、音源があれば聴いてみたいところである。
八十は晩年、日本著作権協会の会長に担ぎ出されて、かなり強引に活動したらしい。

ボードレールの死期近く、自分の生涯の収入を考えてみたら、たった1万6千フラン弱だった。人はこれを清貧と呼ぶが、八十に言わせれば冗談ではない。およそ貧乏は汚いもので、清貧などという言葉は、資本家が芸術家から搾取するための言い訳に過ぎない。芸術家だって人間らしい生活をする権利がある。そのための著作権協会と考えている。

ここまでいうと我田引水だが、八十の通俗性というか、正直さが表われている様でもある。
本書は6章に分けてそれぞれ「東京行進曲」「かなりあ」「同期の桜」「青い山脈」「王将」「銀座の柳」と八十の代表曲をタイトルに使っているが、たしかに、どの一曲だけでも歴史に残る作ばかりである。本書全体のタイトルにあえて「はやりうた」を持ってきたのも、肯けるし、平野甲賀の装丁も見事である。前にも書いたが、西條八十という詩人があえて、庶民、大衆の好む流行歌の歌詞を書いてくれたということに、日本国民はいくら感謝しても足らないくらいであると思う。
昭和45年8月12日眠るが如く誰にも知られず息を引き取った八十だが、遺作となったのが朝日新聞5月1日掲載の戯作めいた詩というのが、皮肉にも、悲しくも、いかにも八十らしくも思われる。

おお現代

たった一度の敗戦のために
「日の丸」の国旗も
「君が代」の国家も
サムライ精神も
「降るアメリカに袖は濡らさじ」と詠った
一遊女の心意気も、みんな忘れ、
うまれの国の仮名づかいまで満足に書けなくなった
オッチョコチョイの大和民族。

とぼとぼと歩く生き残りの老人の胸には
大陸に、南海に花と散ったあの若人たちの
勇ましい面影が、空虚な万歳の声が、
今も閃めき、鳴りわたり、遠くに消える。

それを嘲るように笑っている
壁の、毒々しいパリまねびの白粉の広告、
その下にうず高く積まれた
色気ちがいの教科書、週刊雑誌。

Quo Vadis? おお現代!


06043


【4TEEN フォーティーン】石田衣良 ★★★ 14歳の中学同級生4人を主人公にした連作短編集。8篇がおさめられている。金持だが難病にかかってるナオト、貧しくて食欲の塊のダイ、秀才のジュン、語り手でもあるぼくテツロー。月島に住む彼らの、日常と非日常のあわいに生じるさまざまの事件に、いまどきの少年のスタイルで対応していく、少年小説なのだが、あいかわらずこの作者のクールで小じゃれた文体に引き付けられながら、それはないよな、という、ギャップも感じながら読みとおした。
カバー折り返しにあった60年生れという著者の顔写真が、いかにもという感じで好感をおぼえた。広告会社勤務、コピーライターとして活躍とあり、なるほど、と納得。
文体見本を一節、引用しておこう。

ジュンがひと声かけて、映画のセットのような勝どき橋をぼくたちはわたった。なんだってそうだけど、ものごとの始まりにはなにか不思議なエネルギーがある。そういうのはだいたい期待はずれに終わることが多いのだけど、それでもつぎになにかを始めるときにはまた同じときめきを感じるのだ。
その朝、隅田川は青く、海風は背中に心地よく、空は眩しく曇って、都心は朝もやでかすんでいた。ぼくたち四人が長い坂道を駆けおりたとき、口々に意味不明の叫び声をあげていたのはとても自然なことなんだ。

何か爽やかさと、親しさと、新しさを感じさせる、わかりやすい文章である。


06042

【縮図・インコ道理教】大西巨人 ★★★ タイトルを見れば「オウム真理教」を捩ってることは分かるだろうが、著者のもともと意味する原題は「「皇国」の縮図・インコ道理教」であったと最後に書かれている。

「皇国」すなわち天皇制国家は、神道系であり、インコ道理教は仏教系である。神道系と仏教系との相違ならびに規模の大小の差異はあれ、両者はいずれも宗教団体・無差別大量殺人組織であり、前者の頭首は、天皇にほかならず、後者の頭首は、深山秘陰にほかならぬ。
かくて、「宗教団体インコ道理教は、「皇国」日本の縮図である。」という命題と、「宗教団体インコ道理教にたいする国家権力の出方を、人が[近親憎悪]なる言葉で理会する。」という命題とは、いかにも彼此照応する。

つまり本書は小説の形をとった(まるで小説らしくないが)天皇制批判の書であるわけだ。
著者自身をモデルにした小説家大圃宋席と、その担当編集者、友人、喫茶店主人などの、哲学、社会学論議の継ぎはぎみたいな構成である。

本篇はむろん「仮構作品(ワーク・オブ・フィクション)」の「独立小宇宙」であるが、現実の「オウム真理教事件」ないし、「地下鉄サリン事件」を、作者は、作者の文学創造方法としては極めて例外的に、言わば「借景」として用いている。

しかし、Morris.は、その借景から逸脱した、一葉の小説の体言止終始などから演繹される、文体論の披瀝などが印象的だった。

私は、一葉のたとえば「不憫やお新が心の内。」や泉鏡花のたとえば「行方知れず、上野の鐘。」やのごとき名詞止めになる効果的な結びを見返すにつけても、[われわれの口語体(言文一致体)は「雅文(文語体)の中に何か貴重な物を置き捨てにして来てしまったのではなかろうか(われれの口語体(言文一致体)は「雅文(文語体)」の美点・積極面をずいぶん不十分にしか摂取・継承しなかったのではあるまいか)。]という疑いと恐れとを痛感する。


また「近親憎悪」という言葉が、一般の辞書には収められていず、Cain Complexという心理学用語が出所ではなかろうか、とか、天皇制が三千年ないし千数百年もの長期間存続してきたことが、賛成論の支柱になっていることに対して、ライ病や被差別部落への長期にわたる差別意識無知の存続と比較することで、その無意味さを証明するなど、細部の論の面白さ(奇抜にして鋭い)を楽しませて貰った。
それにしても、大西巨人というのは、何者なのだろう? 神聖喜劇をはじめ彼の小説はほとんど読んでいるが、未だにその正体どころか、一部でさえつかめずにいるような気がする。


06041

【墓石の伝説】逢坂剛 ★★☆☆ 表紙には西部劇のガンマンらしい絵が描かれてたので、ちょっと引いてしまった。逢坂剛のウエスタンものでは一度えらい目にあったことがあるからだ。
しかし本書は、大御所の老監督が、畢生の西部劇を撮ろうと考えるという、現代日本を舞台にしたものだったので、安心した。語り手でもある中年の男性、ガンマニアの映画評論家、西部開拓時代の研究家、民放TVの女性ディレクタ、監督の姪の広告社員などを配して、映画の舞台となるワイアットアープの「OK牧場の決闘」の現場ロケ。西部劇映画の薀蓄話満載で、ファンなら見逃せないだろうが、門外漢のMorris.には、どうもノレなかった。現実に出版されているワイアットアープ伝へのよりかかりが強すぎるのと、その引用みたいな部分の退屈さには、げんなりしてしまった。
著者の癖というか、趣味なのだろうが、語学についてのこだわりも、これだけ毎回やられると嫌気がさしてくるし、図式的な文明論も、いいかげんにしてほしい。老監督と地元米人郷土史家との会話。

「日本人の視点と、われわれの視点の間にどんな違いがある、というのかね」
「視点というより、考え方や感じ方の違いといった方が、いいのかもしれません。アメリカはもともと、大西洋を越えて移住したヨーロッパ人が、先住民と戦いながら切り開いてきた、新しい国ですね。法のないところでは、自分で自分自身や家族を守るしか、すべがない。要するに、みずからが法にならざるをえない。言い方を変えれば、自分の進路に立ち塞がるものはすべて、敵として排除しなければ生き残れない、ということです。西部開拓時代には、それが暗黙の了解事項でした。フロンティアの消滅が宣言されてから、百年以上たった今もアメリカには、その精神が残っている。アメリカがしばしば[世界の警察]と呼ばれるのは、いまだに西部開拓時代の辺境の保安官意識が抜けないからです。アメリカがビンラディンやフセインを目の敵にし、イラクや北朝鮮をならず者国家と呼んで敵視したのは、いわばアープ兄弟がカウボーイ組と対決する姿勢と、基本的に変わりがありません」


逢坂は国際舞台で活躍する日本人の動きを描くのは上手いし、ストーリングテリングの才能もあるのだから、もっと読者を楽しませる物語に仕立てて欲しいと思う。思わせぶりに登場しながらとりたてて必要のない登場人物が多すぎるのも興味を減じる原因だろう。


06040

【おっとりと論じよう】丸谷才一対談集 ★★☆☆ 丸谷才一は対談の名手として知られていて、Morris.もこれまでにかなり読んでいると思う。たしかに面白いものもあったが、対談だから、相手によっては、まるでかみ合わなかったり、ヨイショが入ったり、いまいちなものも多かった。本書はハズレの方だった。大岡信、岡野弘彦と桜を歌った詩句歌をもちよって誉めあうもの、山崎正和との漱石&明治論、井上ひさしとの日本語論、鹿島茂、三浦雅士と3人で選ぶ「日本美100」なんてのもあったが、いずれも、何だかなあ、だった。
Morris.もベスト10とか選びモノは嫌いな方ではないから、最後の「日本美100」というのには興味を覚えたのだが、選ばれたのがこんな感じである。このとりとめのなさを見ればどういったものかおおよそわかるだろう。

1.源氏物語 紫式部
2.平家物語
2.奥の細道
2.歌舞伎 仮名手本忠臣蔵
5.新古今集
5.鳥獣戯画 鳥羽僧正
7.源氏物語絵巻
7.姫路城
9.富士山
10.能 井筒 世阿弥
10.東京皇居付近
10.花火 両国川開き


この調子で百位まで続くのだが、こういうのを「おっとり」なんていうのなら、いらないね。
唯一、鳥居民、井上ひさしとの鼎談で、鳥居の労作「昭和二十年」という著書のことを知ることができたのが収穫といえるかもしれない。


06039


【毎日かあさん カニ母篇】西原理恵子 ★★★ 毎日新聞に連載されてる西原のカラー家族漫画。いかにもサイバラらしいおおざっぱなタイトルである。内容的にも作風も名作「ぼくんち」の流れだが、私漫画だけに、生臭いところも多いし、育児漫画に堕したところも見え隠れするのだが、ところどころに出てくるサイバラ風味にはついつい、Morris.は甘くなってしまう。
それにしても、サイバラ描く、おおざっぱな風景の緑は美しい。


06038


【日韓「禁断の歴史」】金完燮キムワンソプ ★★☆☆☆ 韓国人の著者が2002年から03年にかけてSAPIOに連載した「日韓「禁断のテーマ」を斬る!」に加筆再構成したものである。

日本が一日も早く国際的な孤立主義から抜け出し、普通の軍隊を保有する普通の国家として再生する日、東アジアは日本を中心に団結し、安定するようになると私は信じています。そのような状況においてのみ世界は、米国、欧州、東アジアという3機軸が互いに協力し牽制し合う望ましい構図の下に平和と繁栄を謳歌することとなるでしょう。今のようにどの国家も米国を牽制できない状態は人類の未来のために決して望ましくないと思います。

これは前書きの一部だが、まずもって韓国人がこういった発言するというのが驚きである。いかにもSAPIO向きの言説であるが、本書の中にはさらに驚くような発言が目白押しである。一言で言えば乱暴な言説だが、ところどころに、目からウロコの意見があったりもする。
四章に分たれていて、一章では植民地時代の日本擁護+伊藤博文賞賛、二章では北朝鮮へ日韓の対照的姿勢への言及、三章では韓国の反日教育批判、四章では日中韓による東アジア共栄圏構想。おまけみたいに石原慎太郎との対談がついている。
これだけでも、著者がどんな人物なのか知っておきたくなる。巻末の紹介によると、著者は63年光州生れで、高校時代光州事件に関連して逮捕、投獄され、その後、ソウル大で物理学を学び、雑誌記者を経てフリーランサーになり、2002年韓国で発禁処分の「親日派のための弁明」を日本で出版。本書はその続編みたいなものらしい。

(韓国の)若い世代は統一を望んでおらず、「我々の願いは統一」という歌はいまや単なるスローガンに過ぎない。

これはMorris.もうすうす感じていたことだが、韓国人がこうはっきり言うとなると、おお、と思ってしまう。

北朝鮮のような飢餓状態はアフリカにもある。それなら北朝鮮とアフリカは同じなのか? 私はアフリカの飢餓国に食糧と医療支援をすることについて懐疑的だ。体系的な統治がなく、人道主義という名の下に食糧と医療サービスだけを提供したなら、アフリカの人口は果てしなく増え続けるだろう。現在アフリカの飢餓は人口を一定水準に維持しながら生態系を保全する役割を結果的に果たしている。北朝鮮の場合はこれとは違い、周辺国である韓国と日本は富裕な資本主義国家として2000万人の北朝鮮住民に食糧程度は十分に提供できる力があり、またそうする意志ももっている。

ね、なかなかナイーブで正直といおうか、こういった物言いが著者の特徴である。
このところ日本人の注目の的となっている北朝鮮拉致問題に関しては、いわゆる「拉致被害者」だけでなく、帰国事業で悲惨な状況に置かれた「元・在日朝鮮/韓国人」も拉致被害者と同じだという彼の意見は正論だと思う。

強制的に連れ去られた日本人とその家族が拉致の被害者であることは疑いようのない事実だが、北送事業で北朝鮮に送られた人々も、そこから出ることが許されない監禁同様の生活を強いられている点で拉致同様の境遇に置かれている。もちろん「北朝鮮入り」は本人の意思だが、朝鮮総連のみならず朝日新聞なども北朝鮮を「地上の楽園」と喧伝して送り出した当時の状況を思えば、メディアぐるみの拉致といっても過言ではない。
そして北朝鮮は、彼らを帰さないばかりか、彼らを人質として日本に残った家族たちからおびただしい金品を巻き上げてきた。犠牲者の規模と年月、さらに依然として省みられない現状こそ痛ましい。


そうだ、そのとおりである。こういった意見は在日の側からは頻繁にあげられるが、韓国人がはっきりいうのは珍しい。

1987年の大韓航空機爆破事件は北朝鮮政府の指令により、金賢姫らが実行したこととして知られているが、韓国ではまったく違った見方もある。個人的にも、この事件は政権を維持しようという韓国の軍事政権と米国の合作劇だったとう疑いを捨てきれない。
韓国社会の386世代(200年当時30代で1980年代に学生だった1960年代生れ)なら、こうした認識はほとんど常識ではないかと思われる。

386世代というのが、懐かしかった。たしかに著者は386世代だし、あの事件が韓国国内で、北朝鮮でなく自国の政府と米国の合作と見る人が多いというのも驚きである。

西大門刑務所跡地のそばに立つ独立門は、日韓併合前に建てられた。このフランスの凱旋門に似た建造物を独立記念館では列強からの独立を高らかに宣言するために建てられたものと説明しているが事実は全く異なる。当時朝貢関係にあった宗主国清国に対する独立を謳いあげるために建設されたのが歴史的事実だ。しかし、韓国民は日本を含む列強からの独立のための門であると学校で教えられて育つのである。

この独立門についてはいつも気になりながら、何となくはっきりしなかったので、これですっきりした。こうやって部分的に引用すると、いろいろ教えられるところのある本のようでもあるが、全体を覆うのは、小林よしのりの「戦争論」にも通底する一種の我田引水史観である。
自分の都合の良い資料だけを大きくとりあげ、大雑把な推論と、粗雑な仮説の組み合わせで自説を正当化しようとする姿勢。それでも、一般的な親韓論の弱点を攻撃するくらいの力は有しているわけで、どうも困った状況であるということを再確認するためには、読んでおいて損のない本であるといえなくもない。


06037

【ニッポン泥棒】大沢在昌 ★★★☆☆ 彼には珍しくインターネットに隠されたシミュレーションソフト「ヒミコ」を主題にしたSFっぽい長編。中年、というより初老の元商社マンの男性が突然ソフトのカギに選ばれたことを知り、もう一人のカギになった40代の女性、ソフトを作ったハッカー、CIAやらNAS、公安、元過激派老人たちが虚々実々の駆け引きをしたり、拉致されたりしていく、冒険小説だが、主人公が年の割りにしたたかで、やたら社会論、日本人論などを論じたりして、これは中高年向けの少年小説(^^;)ではないか、と、思ったら、実は産経新聞に連載されたものだった。きっちり大沢が掲載媒体の要望に応じたものだったというわけだ。それにしても、そういった条件をクリアした上で、充分以上に560pを退屈させずに読ませるところは、流石である。
奥付の紹介欄に「日本のエンターテインメント小説界の牽引車的存在である」とあるのも、あながち嘘ではないと思うぞ。
問題のシミュレーションソフトがもともと世界の秘密情報をハッキングして作り上げたもので、その情報価値+各国のVIPをイレーズしてその後のシミュレーション予想で、簡単に言えばテロ優先順位を決めることができるというものだ、ソフトを起動する二人のカギがどのように作動するかというあたりに作者の苦労があるにしろ、どうしても漫画チックにしか感じられるのは、そもそもの舞台設定上の限界かもしれない。
例によって、大沢の語り/騙りを楽しむのが一番正しい享受のしかただろう。

海賊版やコピー商品がこれほど問題化した最大の理由は、奇妙な話だが、製品の精巧さにあるのだろう。かつてのコピー商品は、作りが粗雑で、すぐ故障したり、明らかにコピーと知れる安っぽさが露見していた。しかし現在のものはちがう。たとえば、映画や音楽のコピーは、技術の進歩で、オリジナルと極端な差異を認めない。腕時計やバッグなどのコピーも、簡単には故障せず、長期間の使用が可能となっている。そのことが、オリジナルブランドの正規商品を圧迫し、それに不況が拍車をかけているのだ。

お互い、今の日本に不満を持っている、主人公ともう一人のキーである女性の会話、

「尾津さんは、尾津さんの世代の人たちは、決して使えないような人間ではありません」
尾津が見つめると、佐藤かおるは言葉を続けた。
「わたしは仕事がら、いろいろな世代の人たちを見ています。今、むしろ使えないと思うのは、尾津さんより若い世代の人たちです。バブルの時代に浮かれて、会社の舵とりをあやまった人たち」
「それは我々の世代にもいる」
「でもあの人たちは、学生時代、ほとんど勉強もせず、デモだ、学生集会だと浮かれていた。なのに世の中が景気のよかったおかげで就職に苦労することもなく、企業に入り、さらにバブルで浮かれたんです。そして今はただしょんぼりしているだけ。それより若い人たちはもっと駄目。自分の身の周りの幸せさえつづけばいいと思っている。みんな、腐っている。芯のある人がぜんぜんいない」


まるで「いまどきの若いもんは」談義みたいだが、40代の女性に仮託してこういう物言いをするあたりが、大沢の商売上手なところでもある。
そして主人公と、ソフトを奪おうとするアメリカ側の手先となった日本人との会話

「アメリカ人の欠点は、自らと同じ形の繁栄を他の国に押しつけたがることにある。だがそれは、アメリカで発達した商業資本主義の価値観を背景においたものでしかない。敗戦後、もちろん日本もそれに染まり、アメリカに追いつこうと、私の年代の日本人は努力してきた。私たちにとってアメリカは憧れの国であり、その判断に誤りはないと、繁栄を見るにつけ信じこんできた」
「それが現在の繁栄を生んだ。まちがっているというのかね」
「まちがってはいないだろう。おおまかな部分では。しかし過去の五十年間と、これからの五十年間では、人やモノが移動するスピード、情報が伝わる早さがあまりにちがいすぎる。すべての場所のすべての人間が均一化されることを望んでいるわけではなく、しかも望んでいない人間たちには、望まない結果がどのようなものであるか、はっきりと認識できる時代だ。行く手に待ちうけているのがいかなる世界なのか、テレビやインターネットで見通せてしまう。当然、反発は強くなるだろう。我々にはそれが見えていなかった。だからこそもがいたし、努力もできた。見えることが必ずしも全員にとって幸福とは限らない」
「その意見には反対しない。だが平和についてはどうなんだ? 独裁者の出現を未然に防ぎ、それによって戦争を回避できるとしたら? それこそ平和に伴う犠牲というものじゃないか」
「歴史は計算通りには動かない」
「初歩的な反論はやめたまえ。その言葉をすべてに適用するな、あらゆる情報機関も外交努力も無意味になるぞ」


このあたりの図式的すぎる会話も、小説の筋としてならそれなり読まされてしまう。いつも書くがこういったあたりが、ファンは好きなのだろう。

東南アジアでかつて日本の商社が進めた、数々の"国家事業"を、尾津は思いおこしていた。
利権とは、簡単にいえば、税金の使いみちだ。なぜなら、国家には税金という収入がある。これは決してなくならず、担保として全国民をおさえているに等しい。さらにその国の税収が不足であれば、"融資"の道を商社マンはつけてきた。"融資"とはすなわち、別の国家による対外援助で、この場合はもちろん日本だ。日本から、"国家事業"を進行中の外国に経済援助をおこなう。それには、日本政府の合意が不可欠だ。これをとりつけるのも、利権があってこそだ。
日本の国民から吸いあげた税金が、援助として外国に流れる。その国で、政府から事業を受注した民間企業はその国の政府と日本政府の両方に、投下された金の一部を還流させる。日本政府への還流を橋渡しするのが、対外援助を演出した商社の役目だ。
すべての国家事業が、民間企業ではなく、国家の企業に依託されるなら、そうした利権は発生しない。だから、民間企業の存在しない社会主義国家に商社は長いこと目をくれなかった。


これも同前である。特に本書は産経新聞読者層をターゲットにしているだけに、こういった視点での薀蓄というか、サービスは効果的だろう。
そして繰り返すが、こういったことをクリアしながらともかくも、読ませるブツを作り上げる大沢の力量には、参った、というしかない。


06036

【パッチギ! 対談篇】李鳳宇 四方田犬彦 ★★★ 1998年に出た「先に抜け、撃つのは俺だ」という対談の再版に、2004年製作映画「パッチギ!」の後日談みたいな2005年の対談を加えたもので、ちょっとキワ物めいたところもある。
李鳳宇はシネカノンの代表だが、Morris.は95年9月に開かれた 「おおさかコリア映画祭」 とその後の親睦パーティで彼と会っている。しかしこのときはアンソンギが主賓だったので、どうしてもアンソンギに釘付けになって李鳳宇の印象は薄かった。
それはともかく、98年の対談に出てくる挿話のいくつかは、実際に映画「パッチギ」の中に直接、間接的に登場するし、パッチギの朝鮮高級学校の雰囲気がリアルなのも、李鳳宇と友人たちの学生生活を下敷きにしているからというのはよく分かった。
98年の対談も、Morris.はどこかで読んだような気がする。それでも「パッチギ」のことを思い出しながら充分楽しく読ませてもらった。
ただ対談相手の四方田の発言は、今読むと何となくピントがぼけがちで、ついついMorris.は李鳳宇発言だけをきっちり読むという結果になったようだ。
喧嘩の話や、映画の話、母が金を積んで北朝鮮に帰った弟に会いに行った話など、面白い話や、考えさせる話も多いが、朝鮮総連に深く関わっていた李の父が、韓国のエリートである甥が来日したとき総連幹部に会わせて、その結果甥は韓国で逮捕され、李の父が親類中から非難されていたたまれなかったというエピソードは胸に痛かった。

 74年です。親父には兄弟が3人いたんですね。二人死んじゃって、弟が今済州島にいます。それで死んだ長男に息子がいまして、親父からすれば甥っ子ですね。その子がすごいエリートで、ソウル大学を出て、韓国電力に就職したんです。韓国電力の課長をやっていて、研修のため半年間日本に滞在していたんですよ。大阪万博のあと。
四方田 そりゃエリートだ。
 すごいエリートで。ドイツ語、日本語ペラペラで。その彼が日本に来て…。
四方田 当然叔父さんのところに挨拶に来るよな。
 ええ、挨拶するじゃないですか。もちろん。韓国から来たっていっても…。
四方田 親戚だからね。
 そのときに、親父が……これは親父のミスかもしれないんだけど……朝鮮総連の幹部が「会わせてくれ」っていったんです。甥っ子は韓国のエリートでいろんなことを知っているから、親父もすごく躊躇して、「危ないかな」と思ったんだけど、とりあえず紹介して…。
四方田 韓国から来たらまずいんじゃない、それ。
 会わせたんです。もちろん家で。甥がわが家に来たときに、たまたま友人が来てるからっていうんで会わせた。会ったのはその一回だけなんです。家で。俺もいましたから。それで甥は韓国に帰ったんです。そうしたら一月後に「東亜日報」の一面に出たんです。トップ記事になって−−「韓国電力の課長がスパイ容疑で捕まった」。
四方田 そうか、朴政権でも一番悪い時期だったしね。
 それで、鳳永っていうんですけどね−−僕らの世代はみんな「鳳」がつくんですよ−−鳳永はとにかく親戚の中でもエリート中のエリートだったんです。一家の期待を担って。それが捕まって懲役十年って刑が下されて。親父は落ち込んじゃってね。もちろん親戚中から非難されるし、韓国からすごい電話が来て、「おまえは家族を売ったのか」「なんということをしてくれたんだ」。親父泣いてましたけどね。そんなつもりなかったし。そういうときも総連は何も助けてくれなかった。
四方田 ひでえ話しだね。
 政治っていうのはこういうことなのかって、親父はそれで徹底的に……。甥は三年ぐらいで出てきました。恩赦があってでたんです。出たあと、大学の先生に迎えられて、それで、去年すい臓がんで死んだんですけど。
四方田 学者になった。
 博士号を取って物理学の先生になったんだけど、でも、死ぬまで、一回もうちには連絡してこなかったですね。奥さんの実家が学者一族で、彼を一切李家とは結びつかないようガードしてました。死ぬまで。親父からしたら非常に暗い過去で、その話はもう触れて欲しくないという…ショックだったんじゃないですか。


06035
【反自殺クラブ】石田衣良 ★★★☆☆ 
この前読んだ「アキハバラ@DEEP」がなかなか面白かったので、同じ著者のものを読む気になった。「池袋ウエストゲートパークX」とあり、同じシリーズの5作目らしい。池袋の果物屋の息子で、コラムニストで揉め事解決人を主人公にした連作短編のシリーズらしく、本書には「スカウトマンズ・ブルース」「伝説の星」「死に至る玩具」「反自殺クラブ」の5編が収められている。そしてどれも、いちおう読ませる作品揃いだった。文章もかなり上手い、というか、自分の文体を意識してる書き手であることが見てとれる。主人公がコラムニストであるという設定を効かしてか、小洒落たアイコンカットで細かく章分けして、まるでそういったコラムが並んで小説になってるといった工夫もこらされている。

この春のおれのマイブームといえば、なんといっても俳句だった。中学の夏休みの宿題で無理やりつくらされてから、いい思い出などひとつもなかったのだが、本屋で手にした一冊の近代俳句集でガツンと後頭部をやられてしまったのだ。だいたい俳人の名が、みなGボーイズみたいで、カッコいい。三鬼とか、亜浪とか、水巴とかね。男っぽいのでは、不死男、不器男、赤黄男なんて男の中の男の三連発もいる。間違ってもマコトなんて間の抜けた名前ではないのだ。
おれが読んだ感じでは、どんな俳人でも文句なしの名句は十句あっても二十はなかった。だが、その十句を得るために、さして見返りのない俳句の道に一生をかけなければいけない。おれのコラム書きといっしょだった。どこに読者がいるのかわからないし、たいした金にもならないのだ。
だが、俳人たちのなげやりだかまじめだかよくわからない真剣な軽さが、なんだかおれにはおもしろかった。イメージや表現は、十七文字に爆発的に圧縮されて、抜群の冴えを見せている。きっと来シーズンには、びしっとクールな近代俳句の技を、おれのコラムでパクってみせるから、数すくないおれのコラムのファンは期待していてくれ。


まるで小説とは無関係な、こういったけっこう読ませるフレーズをさりげなく挿入するあたりは、なかなかのものである。
ストーリーは、風俗嬢のスカウトやってるやさ男や、一発屋の中年ロックシンガー、人気人形にからむ中国女性の訴え、自殺サイトの首謀者を追う若者など、バラエティに富んでいるし、主人公の性格設定もよく出来ている。好きな音楽がクラシックで作品ごとにそれなりの曲が使われているという趣向もなかなか面白い。社会問題意識みたいなものも表現しようとしているみたいなのだが、決して深入りはしない。よく言えばクール、悪く言えば傍観者的立場の作品だ。でもまあ、最近のエンターテインメント作品としては悪くないと思う。


06034

【外国語の水曜日】黒田龍之助 ★★★★☆ ロシア語の専門家で理科系の大学で第二外国語の教授をしている著者が、特定の言葉に限らず、さまざまな外国語の学習という面から、言語学者の立場で論じたもの。というと、えらく難しそうな感じがするが副題に「学習法としての言語学入門」とあるように、学生や一般人が、新しい外国語を学ぶときの問題点や、ポイント、を実にわかりやすく、それでいてツボをはずさない名調子で論じている親しみやすく、ためになる一冊だった。
著者が実際に学生と一緒に韓国語の集中講義を体験したレポートや、副題のタイトル名で行った講義録+生徒のテスト解答、お薦め外国語学習本の紹介、外国人に日本語を教える技術、学習の秘訣中の秘訣(^^;)などなど、盛りだくさんの内容で、Morris.はすっかりこの本に「洗脳」されたような気がするぞ(錯覚だというのはわかってるけどね) 何といっても著者が外国語学ぶことは苦しみではなく、楽しみであるということを強調しているところが、Morris.には嬉しかった。紙の上だけの研究でなく、実践のなかで身についた納得できる卓説であることが良くわかる仕組みになっている。
とにかく、ここはチェックしておかねばというところだらけで、引用がいつもにまして大量になるが、勘弁してもらいたい。ああ、韓国語学び始める前に読んでおくべきだったあ(>_<) って、本書が出たのは2000年だ。

わたしは楽しい雰囲気がなければ語学の学習は絶対にできないと信じている。授業中も学生に言う。楽しい授業にしようよ。恐怖をもってしても語学はうまくならない。先生に厳しく脅されれば勉強する気になるだろうか? だったら学習者の背中にトカレフを突き付けてあげてもいい。でもそんなことしたってダメなことは誰にでも想像がつく。では、どうすれば楽しい授業になるのか。それにはどうしたって、学生の協力が必要だ。先生が一人で頑張ったって、それだけでは無理である。授業は教師と学生の両方で作って行くものだ。もちろん、知識は先生が提供する。では、学生は? それぞれが受講者の気持ちになって考えて欲しい。(愛と駄洒落のハングルレッスン)

いちおうMorris.もセンターで朝鮮語講座を受けている身だが、これを読んで反省しきりである(^^;) 何ができるか、今からでも考えてみよう。

ことばはコミュニケーションの手段。ただし情報を伝えるだけがすべてではないことは、世界のあらゆる言語でことば遊びがあることからも分かる。そう、ことばを楽しむということからすべてが始まるんだと、私は信じている。(愛と駄洒落のハングルレッスン)

このことばに、120%の賛意を表明しておきたい(^o^)

外国語の会話を勉強するのは結構なことである。しかし道を教えてあげられるようになったところで、外国語能力が一定のレベルに達したわけではない。道案内を外国語学習と結びつけないほうがよいだろう。
ということは、ことばができなくたって、困っている外国人を助けてあげることができるはずである。でしょ?(どうして道を教えたがるのか?)

教科書は一定のスピードをもって進めるように心がけたい。途中で分からなくなったら、また戻って復習すればいいのである。「三課を完璧にしてからでなければ、四課に進めない」と思いつめていると、いつまでたっても同じところでつまずき、そのうちに学習そのものがいやになってしまう。三課で分からなかったことも、五課になって分かるときもある。ある程度の「いい加減さ」も必要なのである(これには自信がある)。(独学に限界はあるのか?)

どうも「文法」という語は評判が悪いが、それは誤解だ。文法とはマニュアルである。本来なら例文を山ほど覚えるところを、効率的にまとめてあるのだから、嫌うどころか有り難く感謝しなくてはならない。
外国語の実力は総合的なものである。読めるけれども話せないというのは本来おかしい。こういった総合的な能力は、部門別に測定するものではないだろう。
さらに「聞き取りはダメだけれど、会話は得意」という人がいたら、それはもうまったくどうかしている! 会話は相手があってこそ成立するもの。一方的にしゃべりまくるのではなく、ちゃんと受け答えになっていなければ、いくら単語をたくさん使っても、文法が正しくても、そもそもダメである。外国語の会話という特別な世界はない。会話は会話である。(「文法」よりも「会話」が好き)


「読めるけど話せない」という状態は、実際問題としてMorris.は一時それに近い状態だったので、ちょっと異論があるが、後半の「聞き取り出来なくて会話無し」というのは、身にしみてわかる。

発音をよくするのには、歌が大変に効果的であるということだ。
まず、歌はただ文章を丸暗記するよりも覚えやすくて楽しい。さらに音符に合わせて音節が切ってあるので、音節の切り方の法則も「母音間の一つの子音と語頭の二つの子音は後の母音につくが、母音間の二つの子音は異なる音節に属し……」などという難しい規則を覚えなくても自然に体得できる。(「分かる発音」と「うまい発音」)

おお!!まさに「我が意を得たり」発言ではないか。これがあったから本書の評点が高くなった。わけではないし、これまでにも何度か聞いたり自分で言ったりもしてるのだが、こういったきちんとした本に書いてあると、嬉しくなってしまう。

日常会話をナメテはいけない。日常会話はある意味では会話能力の総決算、最高段階なのである。知識がしっかりあれば、語彙が限定されている専門分野での会話のほうがむしろ楽なのだ。(「日常会話」という幻想)

これもMorris.が最近思い当たったことである。そうだよね、「日常会話ができればよい」なんて言うのは百年早かった(>_<)

この考え方(比較言語学)に従って、一つのことばが分かれていって生まれた諸言語のグループを「語族」という。また、はっきりと証明することはできないがおそらくは語族同様の関係があったと考えられるものを「諸語」という。
以下に、語族、諸語の例を挙げる。(語派とは語族の下位区分である)。

インド・ヨーロッパ語族
 ゲルマン語派:英語、ドイツ語、スウェーデン語……
 ロマンス語派:フランス語、スペイン語、イタリア語……
 スラヴ語派:ロシア語、ポーランド語、ブルガリア語……
 イラン語派:ペルシャ語、クルド語……
 インド語派:ヒンディー語、ウルドゥー語、ネパール語……
ウラル語族:フィンランド語、ハンガリー語……
アルタイ語族:トルコ語、モンゴル語……
アフロ・アジア語族(セム・ハム語族):アラビア語、ヘブライ語……
モン・クメール語族:カンボジア語、ヴェトナム語……
シナ・チベット語族:中国語、タイ語、チベット語……
オーストロネシア語族:インドネシア語、タガログ語……


これは「世界の言語」という章からの引用だが、「語族」に関しては前から関心ありながら、いまいち分からずにいたので一覧表を引用せずにいられなかった。日本語も韓国語もこの表に入ってないが、要するにはっきりしてないってことだ(>_<) 日本でも朝鮮半島でも古い資料は漢文で書かれていることが研究を難しくしているらしい。

言語学における「言語」とは何か?
1.二重文節性(double articulation) すべての言語にはメッセージを伝えるためのまとまり(=文)がある。このまとまりは意味を持っている単位、いわゆる単語に必ず分けることができる。さらにその単語は、音の単位に分けることができる。このように二段階にわたって分けることができるので、これを二重文節という。ただし、この意味の単位も音の単位も、どのように分けるのかは言語ごとに決まっている。あらゆる言語にはこの音の並べ方の規則と単語の並べ方の規則がある。そしてその限りある規則を駆使することによって、ほとんど無限の文を作り出すことができるのである。
2.恣意性(arbitrariness) 表現と内容の結びつきには必然性がまったくない。すなわち恣意的であるということだ。
3.線条性(linearity) 言語は時間の流れに沿って一定の順番でメッセージを伝えるということである。書きことばでも文字を順に追うことによってメッセージを受けるわけだから、やはり線条性があるわけだ。
4.その他いろいろ 過去や未来を語ることができる、老若男女でも同じ基準で話すことができる。嘘をつくことができるなどなど(記号論)


こういうのを、アカデミックというのかな。結局良く分からないのだが、こうやって写していると勉強してる気分になってしまう(^^;)。

声の上がり下がりなどのことを音調またはトーンという。この音調によって意味が変わってくることがあることは、日本語でも経験があるだろう。その中でもすべての意味単位が一定の高・低などの制約を受けている場合にはこれをとくに声調といい、このような特徴を持つ言語を声調言語という。中国では四つ(四声)、タイ語では五つ、ヴェトナム語では北部で六つ、中・南部で五つ、広東語ではなんと九つもある。
ある言語においてある部分を目立たせて意味の区別をしたり、その言語特有の音パターンを示したりするものをアクセントという。その中でも日本語は音の高低(pitch)によるアクセントを用い、英語などのは息の強さという強勢(stress)によってアクセントを示している。
この区別がしっかりとできていないと、外国語学習において障害となる。日本人が英語の音を学習するとき、強勢の代わりに声を高くして発音しているといつまでたっても英語らしい音にはならない。

どうせ外国人なんだから完璧は無理。でも相手に分かってもらえなければ何にもならない。そのときに何を押さえるべきかということを、音韻論から学ぶことができるのである。(音韻論)

がぁ〜〜〜〜〜ん!!これはMorris.には目からウロコというか、耳からモロコの指摘だった。そうか、日本語のアクセントはピッチで英語のアクセントはストレスだったんだ。言われてみればなるほどなんだけど、言われなければ分からないことだと思うぞ。1億2千万人の日本人英語学習者はまず、これを肝に銘じておかねばならなかったのだ。(って、知らぬはMorris.ひとりだったりして(>_<))

文字の困難は、言語習得のごく初期に克服されるものだ。どんな文字だって誰でも必ず覚えられる。しかしその習得にはある程度時間がかかる。韓国語のように非常に明快で論理的な文字体系でも、字を見てすぐに認識できるようになるには慣れが必要だ。それどころか馴染みのある文字を基本としている言語を学ぶときだって、初めはとまどう。どの言語の文字にもそれぞれの約束事があるのだから、その「字面」に馴れるためには一定の時間が必要なのである。(文字論)

ハングルだって覚えるのはそれなりの努力と慣れが必要というのは、同感だが、やはり「漢字」は別格だと思うな(>_<)

大まかな類型的言語分類
1.孤立語 語形が変化することなく、語順や語彙によって文法的な関係を示す。中国語などが代表例
2.膠着語 助詞や助動詞を付加することによって文法的な関係を示す。日本語やトルコ語などが代表例
3.屈折語 名詞や動詞の一部が変化することによって文法的な関係を示す。いつでも同じ要素を付加するわけではないところが膠着語と違うところ。ロシア語やラテン語などが代表例
4.抱合語 スワヒリ語のように、一単語が一文章のようなタイプ
 *ただし、すべての言語はこの四つのうちのどれか一つに当てはまるというのではなく、多くの場合二つ三つのタイプを兼ねている。(文法論)

ふむふむ、日本語が膠着語というのは知ってたが、当然韓国語も膠着語だよな。それに動詞の変化はあるから屈折語でもあるし、孤立語だって含まれてるだろうから、この分類はそれぞれのタイプの割合で考えるべきなのだろうか。

ピジンとは土着の言語と新たに入ってきた言語との混成語だが、その体系にはある規則性が備わっており、一定の社会において共通に用いられている。多くの場合は商売のために必要なコミュニケーションの補助的手段として成立したものと考えられる。この「ピジン」という名は、もともと広東語と英語が混ざり合ってできた商業語を"business English"と呼んでいたのが、"pidgin"というように変わったのだろうと想像されている。
この「ピジン」を使いつづけていると、この言語を生まれながら母語として使う世代が現われてくる。このような状態になったとき、この混成語は「クレオール」という。(社会言語学)


ここは、単純にMorris.の雑学的好奇心を満足させてくれた部分。

一つだけよくない教科書の特徴をあげておう。それは習うより慣れろ、外国語の発想を身につけよ、というようなことを強調しているタイプの教科書だ。すでに子供時代が過ぎてしまったわたしたちにとって、母語を学習したときのように外国語を身につけることはできない。またその言語が話されている環境にいるとも限らないから、馴れるのはなかなか難しいことだ。そして、なんといっても外国人なんだから、そう簡単に外国語の発想が身につくはずもない。そういうできるはずもないことを謳っている教科書は、文法をきちんと書くことのできない、インチキな人が作った場合が多いのである。

(*¨)(*・・)(¨*)(・・*)ウンウン←by つかちゃん(^^;) そうそう、語学コーナーに行ったら、こういう類の本が、やたら多いよなあ。インチキ参考書。こういった本は撲滅して欲しいものだが、こういうのに騙される入門者は後を絶たない。せめて「悪貨は良貨を駆逐する」というグレシャムの法則が適用されないことを祈りたい。
いやあ、最初に断ったけど、やっぱり引用しまくってしまった。それだけ、Morris.の金銭に、ぢゃなかった、琴線に触れるところの多い、内容の濃い本だったということだ。とどめの一発引用で、フィニッシュにしよう。
「外国語学習にとって最も大切なこと」という章にあった標語に近い言葉である。ご丁寧に一部ゴシック太字になっている。
そのお言葉とは、

外国語学習者にとって最も大切なこと、それはやめないことである。

がっはっはっはっは(笑)(笑)(笑)。というわけで、長めの読書感想(でなくて講義録だね)を終えるm(__)m


06033
【在日ふたつの「祖国」への思い】姜尚中 ★★☆☆ 新書200p足らずの本なのに、えらく読むのに時間がかかってしまった。50年生れの政治学者で、よく名前は聞くのだが、これまで著書を読んだことがなかった。本書は朝鮮総督府が置かれた1905年からちょうど100年目にあたる2005年にあたって、在日二世の学者がこの百年を総括し、さらにこれからの南北統一の道ならびに、日本と、韓国・北朝鮮との未来を考える主旨で書かれたものらしい。対象は日本人と在日三世のようだが、過去の歴史の解説や分析は見るものがあったが、近未来の展望というか統一試論の部分は肩透かしだった。

壊滅的な敗北に打ちのめされた国家が、誰も予想しなかったような有数の経済力をもつ大国として甦り、過酷な植民地支配から解き放たれた「開放民族」がなぜ分断と内戦の茨の道を歩まなければならなかったのか。この目も眩むような格差こそ、劣等と半島の百年の始まりに勝るとも劣らない断絶を刻印した逆説だった。
朝鮮半島の人々の心の中に澱のように沈んだ日本に対するわだかまりの感情は、こうした敗北と開放の逆説に由来する半世紀の歴史に向けられているのである。


本書に限らず、在日朝鮮人/韓国人が、日本の現代史を顧みるときの根本にあるのが、この「逆説」への恨みつらみだろう。
日本人の一員であるMorris.には、頭では理解しても、体感することは難しい。
半世紀の、日本の南北国家への態度や評価の逆転、米中ソの思惑に翻弄された半島の悲劇、平和の名のもとに保身と経済発展を遂げた日本への疑問など、著者の歴史を見つめる目は、間違ってはいないと思うのだが、どうにも読み進めるのが難儀だった。面白くなければ、読みつづけるのをやめたらいいようなものなのに、それもできない、という複雑な気持ちにとらわれたのも事実である。
はっきり言ってしまえば、文章がまずいのではなかろうか。
最終章に、朝鮮戦争開始直前の丸山真男の言葉を引いている。

「政治的な底辺の広がりによって、下から支えられたところのナショナリズムが、上からの官僚的な国家主義によって吸収されてしまうことになると、国民を国民として内面から把握するところの思想というものは最早ない訳であります。したがって国民思想は一方には個人的内面性に媒介されないところの国家主義と、他方には全く政治的な、つまり星や花を詠い、感覚的本能的生活の開放に向かうところの個人主義という二者に分裂して相互に無媒介に並存する様になるのであります」(丸山真男「明治国家の思想」)

この悪文としかいいようのない丸山のことば(この短い文章の中に「ところの」が4回も出てくる(>_<))を、引用して現代の状況に対応させようとする「センスの悪さ」が、本書全体を読みにくくしている原因なのではなかろうか。 内容的には見るものがある、とも思えるのだが、文章があまりにもいただけない(>_<)Morris.はそう思ってしまったよ。そして、姜尚中の本書にも、全く同じような感想を抱かずにはいられなかったのだ。
先に本書を読むのに難儀したと書いたが、この、感想を書くのにもえらく時間がかかった。というか、打っては削除し、打っては削除しての連続だった。結果的にここにある5倍くらいを削除したと思う。内容よりも、文章でケチをつけるのも、そういったMorris.の苛立ちの表れかもしれない。
巻末に資料として、年表や条約本文、南北交流の年次変化の表などがあるのだが、とくにこの表ときたら、素人がPCで作ったようなちんけなもので、実に見にくく、不様である。こういった連続的数量変化は、グラフにでもするなり、表を使うとしても、ちっとはましな作り方はあるだろうに。ここまでナンセンスなデザインは、読者を馬鹿にしてるのか、喧嘩売ってるのか、と思いたくなってしまった。


06032

【誤読日記】斎藤美奈子 ★★ Morris.いち押しの斎藤美奈子さんの本だから、大喜びで借りてきたのだが、★ニつというだけで、Morris.の期待をどれくらい裏切ったかわかるだろう。週刊朝日とアエラに連載されたものらしいが、とにかく面白くなかった(>_<)
どうしたんだろう。とりあげられた本はタレント本やらベストセラーやら文芸書やら170冊くらいを適当に集めてあるが、いつもの美奈子さんの切れ味がなりをひそめている。そりゃあ美奈子さんのことだから、ポイントの抽出や紹介の仕方はそれなりにツボを押さえてるようだし、作者へのおちょくり、文体模写などのサービスもなくもないのだが、Morris.はどうしてものめりこめなかった。コラムみたいなスペースの狭さが美奈子さんには手枷足枷になったのかもしれない。うーーん、Morris.はちょっと悲しいぞ。彼女は今や売れっこで、忙しすぎるのかもしれない。あの「文章読本さん江」の感激をもう一度味あわせてもらいたい、というのがMorris.の偽らざる魂の叫びである。
つい4,5年前の発表時の世相や事件を紹介してる部分が多いので、今読むと一番「旬が過ぎた」感じに思えるので損してるところがあるとも思った。


06031

【三たびの海峡】帚木蓬生 ★★★☆☆ 帚木の出世作と言えるだろう。92年刊だから、15年前の作品か。たぶん、Morris.はその頃読んだと思っていたのだが、どうも記憶が曖昧だったので借りてきた。ストーリーは知ってるような気もするが、初めて読むようでもある。これは、95年に映画化されているので、それをTVで見たのではないかと思う。
戦争中に、朝鮮半島から九州のN市(直方だろう)の炭坑に父の代わりに徴用された若い主人公が、過酷な労働と日本人主任と朝鮮人労務担当の暴力に苛まれ、逃亡、終戦直後に自分の子を身ごもった日本人女性と故郷へ戻り、男子を設けるが周囲の目は厳しい。結果的に母子は日本へ戻り、主人公は釜山で新たな人生を始め、事業的には成功をおさめる。そして50年後に、炭坑で無くなった朝鮮人の亡霊たちに呼び戻されるように三度目の海峡をわたり、息子と感動の対面。N市の市長になっている日本人主任と、帰化して土建屋として成功をおさめていた朝鮮人労務担当に積年の恨みを果す、というストーリーだけを記すと、単純すぎるが、著者ならではのヒューマニズムが、綿密な細部の描写とあいまって心に突き刺さってくる、感動的作品になっている。

誰かが言った。人は自分よりも不運な人間に出会うと、自分の幸福を信じて無条件に安心するものらしい。

これは主人公が徴用されて日本に向かう船の中で、足枷をつけられて奴隷のような状態で炭坑へ送られる人の群れを見ての感想だが、実は自分たちも同じく炭坑へ運ばれていることを知らないからの感想だったことが、後でわかる。

そして50年後三回目に海峡を越えて、日本の若い女性を見ての主人公の感慨。

この国はドイツとともに戦争に敗れ去ったくせに、ドイツのように分断されなかった。あたかもその身代わりであるかのように私の祖国が南北分裂の運命を背負わされた。35年におよぶ植民地支配と半世紀の分断国家という具合に、八十余年にわたって私の国は日本によって踏みにじられてきたといっても過言ではない。しかもこの不幸はまだ終わっておらず、私自身はもう祖国統一の日をみることはできない。
ドイツが事あるごとに自らの非を悔い改め、絶えず歴史を掘り返しているのとは対照的に、日本は自分の行為に目をつぶり、他国を蹂躙した足跡を忘却で埋めようとしている。韓民族に[退歩した劣等民族]という烙印を捺し、武力侵害と経済的搾取を用意周到に進めていった日本。統監府や朝鮮総督府を根城にして、民族の抵抗に暴圧を加え続けた日本。三千年の歴史だけでなく、固有の言葉と文字を奪い取り、父祖代々の姓名までも改変させた日本。そうした過去の日本を等身大で思い描くことのできる日本人が、はたして何人いるのか。もっと具体的に言えば、1895年に軍隊と暴徒を送り、当時の皇后であった閔中殿を殺害した歴史的事実や、対韓侵略の立役者であった伊藤博文をハルピン駅頭で射殺した安重根義士が、民族の英雄として尊敬されている事実を、どれだけの日本人が知っているだろうか。
[水に流す]という表現は朝鮮語にもあるが、少なくともこれは害を被った側が発する言葉で、加害者は口にすべきではない。

「自虐史観」などという面妖な言葉で歴史を故意に歪めようとする言説が最近大手を振って横行しているが、そう言った妄言に真っ向から対立する感想である。どちらが妥当性を有しているかは自明だろう。この物語のどれほどが事実に基づいたものかは詳らかにしないが、あの時代の真実が本書にはきっちり描かれているということは間違いないと思う。

ところで、本書の内容とは全く関係ないことだが、

汗を流し、一厘のヒゲも残さず剃り上げた顔にローションを塗り

という表現があった。ヒゲは「一厘」と表現するものだろうか?「厘」といえば、何割何分何厘といった単位の一つだろう。「一分の隙も無い」といった表現に通じるのだろうか。ここでは「ヒゲ」が対象であることに鑑みて、いっそ、もう一桁下げて「一毛」を使うのがぴったりのような気もするのだが(^^;)


06030
【写楽・考】北森鴻 ★★★☆ 蓮杖那智フィールドファイルVである、Morris.はこのシリーズはお気に入りで、もちろん前の2冊も読んでるし、旗師シリーズで蓮杖那智が登場するものも読んでる。
ヒロインが超美人で、頭脳明晰で、異能な民俗学教授というだけでMorris.の弱いところを直撃するだけでなく、事件毎にやたらペダンチックな民俗学的薀蓄やら仮説などが出てきて、良くわからないながら凄そうだという気にさせられる。「面白くてためになる」というのがMorris.の一番好きなファクターだから、そういう意味でもこのシリーズは見逃せない。もっとも、その学問的内容とか薀蓄が本当に中身のあるものかどうかは疑問というより、たぶん装飾みたいなもので、つまりMorris.は研究のシミュレーションを楽しませてもらっているに過ぎないのかもしれない。いわば「ヴァーチャル民俗学」かも(^^;)
型見本をちょこっと引用しておく。

民俗学は答えのない学問である。研究者の数だけアプローチが存在するし、説は説として議論されることはあっても、その先に着地点はない。明らかな誤りがないかぎり、研究者の立てた学説は、別の研究者に引き継がれ、変質し、そしてまた違った説を生みだしてゆく。その点のみを抽出するなら、式直男が発表した「仮想民俗学序説」もまた、ひとつの成果として受け入れられるべきものであろう。
−−−だがこれは……あまりに危険すぎる。那智先生が生み出す奇想以上に!
民俗学とは、残された事象について考察を行うことを基本としている。民話・伝承しかり、古文書、祭祀、習俗、古民具、あらゆる事象から過去へとその根元に向かって旅する学問と言い換えても良い。自らの日常生活を問い、どのような経緯を経て現在に到ったのかを、己の言葉で考察するという基本は、厳然として存在する。
だがアプローチはそれだけではない、と式直男は説く。そして解く。
残された事象そのものを根元とし、そこから仮想の手法と論理的思考方法どおり用いてまったく新しい進化の道筋を立てることは可能ではないか。たとえば、と「マレビト」を彼は取り上げ論じている。
ある学者は、異界との境界線を越えてやってくる彼らこそは、内部社会の秩序を維持するための装置であると説く。内部の秩序を維持するためには常に外部を意識し、比較対照することが、必要なのだと。だが、それはひとつの説であって事実ではない。もしも「マレビト」について別の進化と変化の過程(ファクター)を与えてやることが可能ならば、全く別の社会を想定することができるのではないか。そこから現代のフィールドワークに結びつけ、まったく違った系統のマレビト形成を可能にした集団を割り出す。


ね、なかなか説得力あるような良くわからないような説でしょ(^^;)
本書には「憑代忌」「湖底祀」「棄神祭」「写楽・考」の4編の短編が収められているが、100p近い表題作が一番だろう。
登場人物はお馴染みの面々で、旗師シリーズの宇佐美陶子も出てくる。自分のシリーズの主人公をクロスオーバーで別シリーズに出演させるというのが北森のお得意みたいで、これは愛読者へのサービスでもあり読者層を広げる作戦のようでもある。
海運業で財を成した富豪の末裔で地方洋館に住む独身の主人が失踪、残された遺産と古文書からとんでもない絵画のことが浮かび上がってくる。というところで、当然読者はタイトルにある「写楽」にまつわる話になると思うのだが、読み終わってみると、これは「看板に偽りありすぎ」だった。初出タイトルは「黒絵師」だったらしい。これもあまり良いタイトルではないが、単行本のものよりは納得できる。何でこんなタイトルにしたのだろう。「写楽」という名があれば、とりあえず手に取って見ようと思う多くの潜在的写楽ファン(Morris.もその一人)向けの商魂だとしたら、あまりにあざといと思うぞ。


06029


【勉強ができなくても恥ずかしくない 2.3.】橋本治 ★★
 去年第一部を読んで、あまりのつまらなさに半分投げ出したのだが、3部作ということだったので、とりあえず全部読んでから評価しようと書いたはずだが、この2部「やっちまえ!の巻」、3部「それからの巻」まで読み通して、結局時間の無駄だったということがわかった。字間のひろい新書100pちょっとが3冊だから、全体でも普通の単行本1冊分くらいの量だろうが、これをわざわざ3冊にしたということもよくわからない。
著者をモデルにしたとおぼしい、少年の小中高時代を描いたものであるが、どうも、こども問題への啓蒙的作品にしようという思惑が透けて見えるし、その思惑がほとんど機能していないというのが情けない。「橋本治ともあろうものが」というのが、橋本ファンMorris.の不満の全てである。


06028

【アキハバラ@DEEP】石田衣良 ★★★☆☆ 若い病気のおたくたちが、AIにより自己成長する検索エンジンを開発するが、それをネットビジネス会社に強奪され、それをとりかえすためにさまざまな作戦をたて、最後には実力行使で会社に突入するという、近未来SFというか、ゲーム小説みたいなものだが、思ったより文章もしっかりしてるし、ストーリーも楽しめた。
主人公の若者たちの役割分担がはっきりしているし、紅一点のパワフル美少女も出てくるし、PC、ソフト、ネット、ブログ、検索エンジンなどの薀蓄めいた部分も面白かった。

ぼくたちの会社は利益を制限しよう。おおきくなるのも、有名になるのもやめよう。ちいさなまま自分たちが満足のいく暮らしができて、ぼくたちの同類を手助けしてあげられるくらいのぎりぎりの利益で満足しよう。大企業がでかいダイヤモンドなら、ぼくたちはそれを構成する炭素分子の素粒子の、そのまたかけらのクォークだ。パンくずひとつあればひと冬暮らせる羽虫みたいなものだ。一生懸命でもなく、死ぬほどがんばることもなく、ゆるゆると生き延びる。もし会社がうまくいかなくなったら、すぐに休眠させる。

という、主人公たちの出発時の姿勢(これはすぐ駄目になるのだが)にも好感をおぼえた。

作者の分身と思えるページ(あだ名)のネット文章論?も、それなりに納得させられる。

いい文章とそうではない文章を見分ける方法があるはずだとぼくは考えた。
言葉を紙に固定されたものではなく、もう一段まえの状態から考えなおすんだ。言葉の謎を解く鍵は、言葉が生まれる場所にあった。そこでは言葉という存在は、人間の意識がただの表音記号で固定されたものへと還元される。意識というのはほんの数秒から数十秒しか続かない心の動きなんだ。集中力なんて簡単にいうけど、高度な集中力はほんの一瞬しか続かない。そこでぼくは、いい文章とはその人の心の動きをなるべくいきいきと再現した文章なのではないかと、単純に考えるようになった。
ぼくたちの意識は、なにか主題を選び、立ちどまり、連想する。のろのろと動くかと思えば、稲妻のように正反対に跳躍し、はるか先方を予想する。同じところをぐるぐるまわり、深く潜ったり、その場に縛られて円を描くだけだったりする。ためらいやだらしなさ、それにあるとき突然やってくる発見や至福のとき。立派でも正しくなくても、美しくなくてもいい。心のおもてを流れる電磁パズルのような生のきらめきを表現すること。心の弾みをいきいきと紙のうえに映すこと。ぼくにとって素晴らしい文章を計る基準は、そこにおかれることになった。


ここから、天才プログラマのイズム(あだ名)はAI検索エンジンのアイデアを実体化していくのだが、ただの文章論としても考えさせられるものがある。そしてイズムの作ったAI検索エンジン(クルーク)プロトタイプの4つの「人格(パーソナリティ)」は

最初の4人の名前は、跳ねるもの(ジャンパー)、ぐるぐるまわるもの(ラウンダー)、反対するもの(オポーザー)、となりに住むもの(ネイバー)と呼ばれていた。
例えばサーチエンジンの使用者が、「白」というキーワードで詮索をかけたとする。ジャンパーは白いシャツや船の帆から積乱雲に跳び、ラウンダーは分光器をとおした白い光りの波長を調べ、網膜の光感受性や脳の色覚路へ「白」の概念を拡大していく。オポーザーは正反対の「黒」にワープし、光りのない状態と黒の使用例をサーチし、ネイバーは淡い灰色やベージュ、白に隣接する色へと検索のフィールドを移動していく。そうして「白」について考えをラディカルに広げながら、意味を有する可能性のある情報を世界中の数百万というサイトから収集するのだ。


とにかく、こうやって始まった新しい検索エンジンを巡っての攻防戦は、ゲーム的に進行していくのだが、後半になって、どんどん尻すぼみになっていく。これは作者の力量不足というより、こういったゲーム的小説の必然的弱点だと思う。会話や作戦そのものも、あまりに図式的なところが鼻につくし、登場人物のキャラがパタン化され過ぎてたりというところもあるが、それなりに健闘した作品だと評価したい。
ただ強度の吃音症であるページの台詞が、吃音の原則とかけはなれているのが気になってしょうがなかった。語頭の歯擦音や破裂音に多く現われる吃音が、語尾や母音の部分で多出したり、複数音節の繰り返しなどは、あまりに不自然であると思う。


06027
【夢は荒れ地を】船戸与一 ★★★☆ 船戸のカンボジアを舞台にしたもので、2002年ごろ「週刊文春」に連載されたものらしいが、つい見落としていたようだ。いやあ、やっぱりこの人の海外取材を元にした作品は、実に読み応えがある。
現役の自衛隊員が公休を取ってカンボジアに行き、元同僚の男を追う中で、現地のクメールの子供の学校を作ろうとする日本人や、クメール人ガイト、売春組織のベトナム人などと出会い、さまざまな経験の中でカンボジアのあまりにひどい現実を知らされる。
筆者が直接取材したとおぼしいカンボジアの辺境や、軍隊政府と、海外の援助依存体質、人種間の複雑な現況などを紹介している。Morris.はいかに上っ面の情報しか知らずにいたのかと反省させられることも多かった。
たとえばこの国の火急の問題であるはずの地雷についての記述などは見落とせない

現在政府はカンボジアには人口と同じ量の地雷が埋まっていると発表している。つまり、その数は一千万個以上だと。この地雷撤去のために世界の先進国から毎年三千万ドル以上の援助資金が集まって来る。そして、世界のジャーナリストたちは地雷のほとんどはクメール・ルージュが施設したように報じている。しかし、撤去される地雷の90%以上が旧ソ連製のものなのだ。そのことは地雷がベトナム軍かカンボジア人民党軍によって施設されたことを意味した。クメール・ルージュが埋めた地雷は中国製だったのだ。チアはそんなことは何も知らなかった。ひたすら新しい村の建設に励みつづけただけだ。チアにとってあの日本人はカンボジアでいま何が起きているのかを教えてくれる貴重な情報源の役割を果しているような気もする。
あの日本人はこうも言った。
国連カンボジア暫定統治機構UNTACがはいって以降、このクメールの地には地雷撤去のために世界各国からいくつものボランティア団体が押し寄せて来た。しかし、政府は次々とそれらを事実上撤退させ、政府直轄のカンボジア地雷撤去センターCMACと、地雷撤去にもっとも伝統と実績のあるボランティア団体ハロートラストのふたつの機関にその作業を委せた。
理由は明白で、外国から集まって来る地雷撤去援助資金をプノンペンの高級官僚たちが一手に握るために他ならない。現在、地雷撤去技術のある人間でもこのふたつの機関に属さない連中は眼の前に地雷が埋まっていることがわかっていたとしても勝手に撤去することは法律で禁じられている。違反者が逮捕された例もあるらしい。
政府にしてみれば、それは独占を乱す行為なのだ。クメールの地に多量の地雷が埋まっているという事実はいまや完全なビジネス源として機能している。それさえあれば毎年三千万ドル以上の援助資金が外国からはいって来るのだ。何の輸出品目も持たないカンボジアでこれが利権化するのは当然だった。地雷の早期撤去はこの利権の消滅を意味する。撤去作業が遅々として進まないのは政府のこういう思惑に基き、資金は潤沢にあるのに一年前に半年間撤去作業者への給料の遅配が行われたのも計算ずくだったのだ。それだけじゃない。外国からの資金援助の呼び水はひとえにカンボジアへの同情なのだ、そのためには年間4、50人の地雷による犠牲者が継続的に発生することが望ましい。


カンボジア地雷撤去センターCMACの職員に聞いたことがある。地雷はもっとも安価な兵器だ。地雷の製造コストは1個につき、ほぼ3ドル程度でしかない。だが、これを撤去するとなると、1個につき9百ドルばかりかかるらしい。
現在カンボジアで使われている地雷探知機はオーストラリア製かイギリス製だった。その輸入は政府によって制限されている。多額の撤去助成金を出している日本のものははいって来てない。武器輸出禁止という日本の法律に抵触するのだという。日本では地雷探知機も武器の一種にあたるらしい。


本来こういう情報は小説で知らされるのではなく、ルポや報道として提供されるべきものかもしれない。しかし、日本のマスコミで、こういった海外の国内状況が正しく報道される機会はほとんどないし、多くの日本人は望んでもいないのだろう。
もちろん本書では、こういった国家の犯罪的行為への告発は従で、あくまで物語の厚味をますための小道具でしかないのだが、船戸自身が、ルポとして発表するよりこうやって小説の中で知らせる方が、効果的だと思ってるのかもしれない。
小説としては、登場人物の行動が時としてあまりに急変したり、人間関係が図式的に過ぎたり、裏切り、密告、惨殺などがあまりに恣意的に扱われているのに疑問を覚えた。そう言った不満があっても、充分読みがいのある力作であることは間違いない。


06026


【隠された風景】福岡賢正 ★★★★ 副題は「死の現場を歩く」。2000年、毎日新聞西部版に連載されたもので、著者は毎日新聞の記者である。
ペットや浮浪犬猫の処理場をルポした「ペットの行方」、食肉加工場をルポした「肉をつくる」、自殺者の遺書による考察「遺書を読む」の三部構成だが、いずれも一般的には新聞ではタブーに近いテーマで、連載前には社内から危惧する声も出たらしいし、取材に応じてもらえず、かなり苦労もしたらしいが、結果的には読者や取材対象からの反応も良かったとのこと。

「死」は、やさしいもの、かわいいもの、心地よいものを求める人々の価値観と真っ向から対立し、我々の日常生活に不安の影を落とす。そのため社会は「死」を徹底して見えない場所に隔離し、我々はそこから目をそらして生きている。
生き物は必ず死ぬ。
例外はない。
そしてだれかが死ぬからこそ、これから誕生する新しいいのちの生きる余地がその場所に生まれる。だれも死ななかったら、この世はたちまち生者であふれ、破裂してしまうだろう。動物が自らの「生」を糧にして食らい続けねばならないという自然界のルールも、その事態を回避するための巧妙なシステムと言えなくもない。
無数の「死」があるからこそ我々の「生」がある。そして人が自らの「生」を実感するのは、他者の「死」にふれた時である。その「死」と生活の場で身近にふれることができなくなったことが、「生」をかけがえのないものとして悲しむ契機を人々から奪ってしまったのではないか。
我々の「生」を支えている無数の峻厳なる「死」から目をそむけたまま唱えられる「いのちの大切さ」という言葉に、「うそつけ!」と悪態をつきたいような衝動に駆られて、私はこの企画を立て、取材にとりかかった。


さすがは新聞記者らしくわかりやすい文章だが、語られている内容は深い。

いずれも動物たちが処分されねばならなくなった原因は人間側にあって、動物たちにはない。それが分かっていて、当の人間社会を守るために処分しなければならない。
その心の痛みを、我々に代わって負っている人たちがいるということに、社会はもう少し自覚的であっていい。


普通ならこのくらいの表現まででとどめておくのだろうが、 実際にペットの処分業務に関わる人が、自分の仕事を「必要悪」と言うのを聞いて筆者は憤る。

不要犬や不要猫を処分する仕事は悪ではない。善である。

新聞記事でこうはっきり、書いたというだけでも大きな意味があるだろう。
食肉業者へのいわれの無い偏見についても同様である。

つまり、日々動物の肉を食しながら、「動物を殺すことは残酷でいけないことだ」と考え、その仕事をしている人たちに白い目を向ける。そんな漫画のようなことが今もまかり通っているのである。その傾向は「動物好き」を自認する人たちにことさら強い。肉を食べる者が、家畜を育てたり、屠畜して肉をつくる者から完全に分離されていて、そこから目をそらすとができ、いのちをもらうことに伴う心の痛みを感じなくてすむ仕組みになっていることが、その戯画化された構図を支えている。

また自殺に対する日本人の意識的というしかない、無関心への告発も、中高年の一員であるMorris.は身につまされるものがあった。

警察庁が2001年に発表した「自殺の概要」によると、99年の自殺者は3万3048人、戦後統計を取り始めて以来最多だった。交通事故の死者は1万人弱だから、その3倍以上、実に16分にひとりが自ら生命を絶ったことになる。
空前の数の人々が自殺しているのに、奇妙なことに我々にはその実感も危機感も全くない。というのも大半の自殺が人々の目から隠されているからだ。
日本では自殺者とその家族への偏見が強く、のこされた子どもの就職や結婚への影響などを恐れて、遺族は死因を極力伏せようとする。メディアも、著名人やよほど耳目を引いた自殺以外は取り上げないから、大半の「普通の自殺」は人知れずひっそりと処理されていく。
その結果、空前の自殺者が出ているのに、人々はそれを実感できず対策を求める世論が形成されることもない。そうやって増えるに任されているのだ。偏見による隔離と隠蔽の結果放置されたハンセン病問題と全く同じ構図である。

経済的な理由のために一年間に自殺する人の数は、バブル崩壊後の「失われた十年」で5倍に増えたのである。
日本の完全失業率の推移と、この経済生活問題での自殺者数の増減とは見事に連動している。日本では不況で失業者が増えれば、そのままストレートに経済苦で自殺する人が激増するのである。倒産やリストラで個人が経済的な苦境に陥った時の社会的なクッションが不十分であるとを、この事実は教えている。
現在、この国が推し進めている構造改革の基本理念は競争と自己責任だ。競争原理を導入し、民間の自助努力によって経済の活性化を図るというそれは、「痛み」を伴うと言われている。その「痛み」がどんなものか、ほとんどの自殺が隠されている今、人々は実感できていない。

自殺とは主に老・壮年期の人々の問題なのである。
この年代層の自殺の激増について、全国過労死ネットワーク事務局を勤める弁護士の川人博氏は『サラリーマンの自殺』(岩波ブックレット)の中で、今の日本全体に「中高年いじめ」とでもいうべき雰囲気が漂っていることを指摘し、そういった社会風潮が深いところで自殺者の心に影響を及ぼし、自分たちが社会から見放されているという絶望感を感じさせているのではないかと問いかけている。
自殺者が三万人を超える異常事態にもかかわらず、自殺予防のための施策が何ら検討されることもなく、そのことをメディアが全く問題にすらしていない現実が、その一番の証左だろう。なぜならそれは、病者や老人、経済競争の敗者が自殺することを、社会も我々メディアも容認しているということにほかならないからである。


メディアの内部の人間がこうやってメディアへの批判をすることは、個人の自己批判や反省より、大きな意味を持つと思うし。わかっていてもなかなかやれないことと思う。
著者のよって立つところは、突き詰めれば「ヒューマニズム」なのだろうが、この言葉の本質的な意味をもう一度考えてみたうえで、実践していく覚悟が必要不可欠ではなかろうか。


06025
【サイバラ茸3】西原理恵子 ★★★ 結局また読んでしまったさ。実は「サイバラ茸1」もあったのだが、これは大部分が「恨ミシュラン」だったから、それ以外を立ち読みで済ました。この3巻には「むいむい」「山ちゃん物語」「アジアパー伝」「たぬきランド1,2」が収められているが、結局なんとか作品として読むに耐えるのは「むいむい」のみ、最低シリーズ「アジアパー伝」(全体の半分近く占める)は鴨ちゃんへのバッシングのために書かれたみたいな気がするし、山ちゃん=たぬきシリーズも、山ちゃんへの恨みつらみがストレートに出すぎぢゃ。それでもついつい見てしまうのが、サイバラ菌(茸は菌類)の強力さなんだろうな。鴨ちゃん、山ちゃんの零落への道のりを容赦なく描き出すサイバラの度胸というか作家魂というか、その姿勢にはまたまた嘆息するしかない。


06024

【小説家のメニュー】開高健 ★★★ 開高健の食い物関連の本はたいてい読んでたつもりだったのが、本書は何故か見落としていたようだ。90年に単行本化されているが、「ザ・ステイタス」に連載したものと書いてある。この雑誌は知らないが名前からして、いわゆるお金持向けの無料提供雑誌なのではないかと思ってしまった。12編のエッセーだから一年間連載したのだろう。
目次には
美味・珍味・奇味・怪味・媚味・魔味・幻味・幼味・妖味・天味
という味のついた熟語十個を十二行並べて、そのうちの二つか三つが太文字になっている。各章に登場する食べ物の味を示唆してるわけなのだろうが、ちょっと凝りすぎのきらいがあるな。
でも内容は流石としか言いようの無いものが多い。何と言っても、世界各地を渡り歩き、直に当地のキワものを食べてるという元手のかかった贅沢なエッセイ集といえるだろう。各章登場の食べ物とその味熟語を羅列しておく。

・ベトナムのねずみ[奇味 魔味]
・モスクワのアイスクリーム ベルギーのチョコレート[美味 天味]
・アマゾンのピラニア[奇味 魔味]
・サイゴンのドリアン モンキーバナナ ブラジルのパイナップル[媚味 妖味]
・山菜「珍味 媚味 天味]
・シューマイ ワンタン ギョーザ[美味 天味]
・ニューヨークのソフト・シェル・クラブ サイゴンのドロガニ[美味 妖味]
・スープ[幻味 妖味]
・フランスのムール貝 チリの生ウニのオムレツ 徳島撫養のニタリ貝[珍味 怪味 魔味]
・マツタケ[珍味 天味]
・フォークォック島のはたの清蒸[美味 幻味]
・水[幼味 妖味 天味]


開高健は美食家とはちょっと違うようだ。彼の場合、自分では作らないというのを信条にして、あくまで名手名品の分析と解釈に徹すると表明しているようなので、とりあえずそれらしいものを作ってみようとするMorris.とは対蹠的だと思う。


06023

【ダンボールハウス】長嶋千聡 ★★★☆☆ 著者が名古屋の中央大学在学中、卒論のために始めたダンボールハウス、いわゆるホームレスの人々の住居のレポートをまとめたもので、調査時期が2002年から2004年。つまり愛知万博の直前に公園からダンボールハウスが一挙に撤去されるまでの時期だけに、実に貴重な記録となった。
若人にしては、地道な調査態度も好感もてるし、住人との触れ合いや、克明なスケッチもなかなかがんばってる。
38件のダンボールハウスそれぞれの紹介があり、大まかな分類(小屋型、テント型、小屋型+テント型、寝袋型、キャンピングカー型、ロープ型、ツーバイフォー型、自然素材型、モノ構造体型、無脊椎型(建築以前)、価格、材料、特長、特徴、生活サイクル、細部の工夫、地域とのかかわりなども、丁寧に取材している。
ダンボールハウス見本調査の中で住人との交流も深まり、飲食をともにしたり、人生論を戦わしたり、付き合っていた女性を住人に取られたり(^^;)もしたらしいが、たんなるフィールドワークを超えたものになったようだ。

ぼくたちは、あたりまえのように働いて、稼いだお金と引き換えに好きな洋服を買ったり、車を買ったり、旅行したりする。「お金で買えないものはない」とまで言い切る人もいる。けれども彼らの場合は、お金にもまして、自由になる「時間」を所有しているという意識がはたらいているのではないかと思った。

割と平凡な感想だが、基本は外れていないと思う。Morris.もどちらかというとこの住人の考えにちかいところにいるのではなかろうか。
吾妻ひでおの「失踪日記」を読んだばかりなので、つい連想してしまうが、人は誰でも自由な時間を持ちたいという希望と、富を得て楽な暮らしをしたいという願いをあわせ持っているのだろう。どちらにしろ何かに「囚われ」るのが人間の宿命なのかもしれない。

ダンボールハウスは生きている。そして、ダンボールハウスに住まう人々もまた生きている。その様は、見る者によっては"生々しい"と映り、また"生き生きとしている"ようにも見える。住み続けるうちにヒトとダンボールハウスは、次第に重なり合い、やがて同化していく。昨日−今日−明日という一連の時間の流れの中で、ダンボールハウスは、衣服を身にまとうように住人を包み、刻一刻と変化し続けているのだ。ぼくは、ダンボールハウスを通して、「人間」と「家」との根源的なつながりを見たように思う。



06022

【青春の正体】みうらじゅん ★★
 マイブームという流行語作ったり、「魅惑のフェロモンレコード」でMorris.を楽しませてくれたみうらの本なので読んだのだが、これがもう、壊滅的に面白くなかった。どうやら彼の若書きの復刻版らしい。
奥付にはたしかに書いてあったが、こういうものは出さないで欲しい。


06021

【ちゃぶ台の昭和】小泉和子 ★★★☆ 河出書房新社のらんぷの本というヴィジュアル&カルチャー叢書の一冊である。著者は1933年生れの生活史研究所主宰で東京大田区の「昭和のくらし博物館」の館長でもある。本書はこの博物館の企画展をもとに再構成したものらしい。
「ちゃぶ台」がテーマだけに、昭和庶民の暮らし、特に家庭での食生活が中心に論じられ、戦前、戦中、戦後の家庭のメニューを紹介、また実際に当時のレシピ通りに料理を再現したものがページの半分近くを占めている。
戦前の家庭料理の代表として「焼き魚、煮魚」「たくわん漬、白菜漬」「味噌汁」「ほうれん草の胡麻よごし」「切り干し大根の煮物」「蕗、蕗の葉、いもがらの煮物」「竹輪煮」「五目煮豆」「そぼろ」など、今となっては却って「和食」として縁遠くなったメニューのように感じられるし、昭和初期の洋風家庭料理の代表、ライスカレー、ハンバーグなどは、現在の同じ名前のメニューとは似て非なるもののようでもある。
戦争中の代用食となると、流石に美味しそうというより、引いてしまいそうになるものが多いが、すいとん、ふかし芋あたりは懐かしさを誘うだろう。
戦前の定番おかずの中からちょっと気になった「鉄火味噌」のレシピを写しておく。

[鉄火味噌] ・材料 赤味噌200g、大豆1/2カップ、牛蒡小1〜2本、ごま油大さじ1〜2、砂糖90g、酒大さじ4、水大さじ4
1.牛蒡は皮をこそげとり、小口切りか笹がきにして水に放す。大豆は香ばしく煎っておく。
2.フライパンにごま油を熱して水切りした牛蒡と、炒り豆を炒める。
3.鍋に味噌、砂糖、酒、水をまぜあわせ、「2.」を加えてとろ火で木杓子で練りながら、なめ味噌のかたさになるまで煮つめる。


また「ちゃぶ台」の語源については、正確にはわからないとしながら、以下のような考察がなされている。

Morris.愛用のちゃぶ台ちゃぶ台は、また卓袱台(しっぽくだい)、飯台(はんだい)などとも呼ばれている。しかも卓袱台と書いてチャブダイとも読むし、茶袱台・茶部台、あるいは食机と書くなどさまざまである。
このうちシッポクダイ系統は、いうまでもなく卓袱料理からきた言葉であろうし、飯台は用途から名づけられたものであろう。ただし箱膳や飯櫃のことを飯台という地方もある。
ちゃぶ台の語源は次の三つが考えられる。
1.卓袱の南中国音説
卓袱をシッポクと呼ぶのは唐音であるが、福建省など中国南部の発音ではチャフとなる。
2.中国語の「吃飯]説
やはり福建省など南中国では、食事することを「吃飯」と書いてチャフンとかジャブンという。
3.米国化中国料理名「チョップスウイ」説
明治初期、開港地横浜や神戸などの外人相手の食べ物屋でチョプスウイを出したのでこういう店屋は「チャブ屋」と呼ばれた。このチャブ屋で使われた食卓がチャブ台になった。


今となってははっきりしたことはわからなくなってるようだ。いずれにしてもちゃぶ台が日本に登場するのは明治以降で、いわゆる文明開化の落とし子の一つであることはまちがいないだろう。それまでは日本人は銘銘膳を使っていた。ちゃぶ台が本格的に普及したのは大正から昭和初期になってからだ。Morris.幼少の頃からこのちゃぶ台には親しんでいたが、生家(佐賀県武雄市)ではたいてい飯台と読んでいたように記憶する。
ちゃぶ台は円形のものと四角形のものがあるが、Morris.はちゃぶ台といえばぜったい円形のものに固執する。現にMorris.亭も丸いちゃぶ台を愛用している。サイズは直径88.5cmで、これは中型のちゃぶ台の標準サイズらしい。円形の特長は何処に座っても卓の中心までの距離が同じで料理がとりやすい。座る人数に融通が利く。上座下座の区別がない。何となく和やかな雰囲気を醸し出す。(角が立たない(^^;))といったところだろうか。


06020

【丸ごと 魚柄仁之助】★★★☆☆ 台所リストラ術とか、面白そうな料理の本などMorris.も結構楽しんで読ませてもらった。本書は彼のエピソード的自伝みたいな本である。
ギター弾いて、中古バイク屋、古道具屋、そして料理研究家などいろんなことを楽しげにやってるようだが、高校時代ギターの弦で左目を失明したというのは、初耳だった。
実家が福岡の食堂だったということもあって、文章も博多弁を多用して、結構読ませるし、明るく前向き怖いもの知らず、しっかりちゃっかりの一面もあって、たしかに、こういう生き方は方向として間違っていないと思う。
ドライヤーを改良した、ニクロム線でワインボトルからボトルネック作る専用の器具作ったり、三味線の棹を削ってペーパーナイフ作ったり、乾物利用の安上がりメニュー開発したり、それを本にしたり、講演してまわったりと、人生を楽しんで稼いでるさまが生き生きと描かれている。
56年生れだから今年で50歳ということになるな。うーむ、いまさらながら生き方を学ばせて貰いたくなったぞ。
あとがきにあった魚柄流「関係作り」5条を写しておく。

1.とりあえず「笑う」
あたしゃ、アホと思われても一向にかまわんので、人と会うときにはほとんどヘーラヘーラしとります。
2.一度の出会い、ワンチャンスをひきずりまくる
「おもろい!!」と思ったが最後、トコトン付き合うとりますよ。
3.誘いにのるか、誘われるか?
誘い誘われたとき「そのうち、また」って答える人は、その段階で半分パーですわ。テンションのあがったときに行動をおこし、相手を誘い、また誘われ、互いに関係づくりをしてゆく。これを続けてきとります。
4.手紙を書く
電話だ、ファックスだの時代だからこそ、肉筆の手紙をいただいたときの嬉しさは格別ですもん。だったら他人にもそうしたいと思ってのことです。
5.約束は守る
約束を守れない人とは縁が薄くなっていきますが、こっちから約束をポイにしちゃうことだけは絶対にしないようこころがけとります。


06019

【模倣犯 上下】宮部みゆき ★★★☆☆ 「週刊ボスト」に95年から99年にわたって(^^;)連載された長編(上下で1,400p超える)である。
若い男二人による、連続女性拉致殺人事件を中心に、犯罪を愉快がるというより一種の創作と感じる主犯男性がいちおうの主人公ということになる。別事件で家族を殺され自責の念に苛まれる少年、事故死を機に冤罪に陥れられた犯人の元クラスメートとその家族、家庭記事専門だったのにいつの間にか事件に深入りしてしまう女性ライター、被害者の祖父、警察の一癖ありそうな面々等など、多数の重要脇役が多数登場して、それぞれが場面場面で主役クラスに扱われて、これだけの長丁場を退屈させず引っぱっていく力技には、この作者の並々ならぬ力量を感じさせるし、登場人物の描きわけも上手いと思う。
読者に先に真犯人を知らせて、それを知らない登場人物の動きを描くと言うアクロバチックな手法だが、前に読んだ「火車」のラストといい、どうも宮部はいわゆる「けれん」が好きなのだろう。
Morris.は長編好きだから、面白くさえあれば長いほどありがたいと思うタイプである。そういう意味でも本書は充分Morris.を楽しませてくれた。
犯罪における加害者と被害者への世間の対処、マスコミによる情報操作、結局は野次馬的見方になりがちな大衆、男女性差による犯罪への見え方の違い、幼児期の家庭環境の後世への影響などの問題意識を盛り込んで、それぞれに登場人物の口からあるいは文章から説明させる。こういうところが多くの読者の共感を呼ぶのかもしれない。

「ルポを書いて、事件について解説するってことは、川のこっち側からもあっち側からも書くってことだ。どっちに肩入れしたって、まともなものは書けやせん。でしょう。だいいちあんた、誰があんたのルポを読むと思っていなさるね? あんたの書いた物に飛びついて、事件の詳しいところを知りたがる人たちは、事件には関係のない人たちばっかりだよ。そうだろ? あの事件が対岸の火事だから、詳しいことを知りたがるんだよ。あんんたはそういう人たちのために書いてるんだ。ほかの誰よりも、あんたがいちばんの野次馬だ。」

筆者自身が投影されているような女性ライターに、被害者の祖父が吐き出す台詞だが、本書の登場人物の中で、この老人が際立って超越した行動や発言をする。主犯への電話でもこんなふうである。

「あんたがこんな非道いことをして殺したのは、あんたのいう"大衆"とやらのなかの、取り替えのきく部品みたいなもんじゃなかった。どの人も、一人の立派な人間だった。その人たちを殺されて、傷ついて悲しんでる人たちもそうだ。みんな一人一人の人間なんだ。そしてあんた自身だってそうだ。どうあがいたって、どんな偉そうな理屈をこねたって、あんただって一人の人間に過ぎん。歪んで、壊れて、大人になるまでに大事なものを何ひとつ掴むことができなかった哀れな人間に過ぎんよ。そうしてあんたは日本中の一人一人の人間の目には、そういうあんた自身の姿をさらしてるんだ。あんたをじっと見つめているのは、あんたが頭のなかでかんがえてる"大衆"なんてお人よしの代物じゃないよ。」
「あんたはさっき、自分のことを、誰もが忘れられない名前だって言ったな? そう言ったな? だが、それは違う。みんな忘れるよ。あんたのことなんか、みんな忘れちまう。ケチで、卑怯で、コソコソした嘘つきの人殺しのことなんざ、みんな忘れちまう。私らはそうやって、要らないことは忘れて生きてきたんだ。済んだことは忘れて生きてきたんだ。戦争のことだって、そうやって片づけて、忘れて生きてきたんだからな。だけども、あんたは忘れられないだろう。みんなが自分のことを忘れても、あんたは忘れられないだろう。そんで、なんでみんながあんたのことを忘れちまうのか、あんたなんか最初からこの世にいなかったみたいに忘れちまうのか、わからなくて悩むんだ。どうしてもわからなくて、悩むんだよ。それがあんたの受ける、いちばんの罰だ。」


なかなか迫力があるし、犯罪を独創的な創作物と思いたがってる主犯への告発にもなってるが、何かいまいち物足りない気がした。
タイトルが初めから気にかかっていて、結局残り100p足らずになってからトリックとして用いられたことにもちょっとひっかけられたようで、鼻白むおもいがしたし、犯罪の経過でのあまりの偶然の多さとご都合主義も、この小説の「嘘っぽさ」を感じる。登場人物の個々の細部を書き込んでいながら、肝腎の事件の展開に杜撰さがあるのでは、本末転倒というしかない。こうやってぶつくさ言いたくなるということからしても、やっぱりMorris.は宮部の小説の良い読者にはなれないんだろうな。


06018

【カラオケを発明した男】大下英治 ★★ 
昭和15年大阪の十三近くで生れた井上大祐は、昭和45年に、8トラックのカートリッジに歌でなく曲だけを入れて、「8ジューク」と名づけた。これがカラオケの嚆矢といわれる。彼がそのとき特許を申請していれば後に莫大な特許料を取得できたに違いないが、結局は後の祭りになったらしい。彼はその後、カラオケリースメーカーでかなり奮闘したが、レーザーディスクに乗り遅れて、第一興商が業界トップになった後、カラオケとは縁を切ったが、平成十一年にアメリカの「タイム」誌が「二十世紀のアジアに影響を与えた日本人」という特集記事を企画した際に、6人の中に選ばれてしまった。その後、イグノーベル賞を受賞するなど、話題になったので、あらためてこういう本を出すことになったようだ。
筆者大下英治は美空ひばりや都はるみなどの歌手や政治家の評伝というか、一代記みたいなものをよく書いてる人で、これまでに2,3冊読んだが、いまひとつぴりっとしないと思っていたが、本書は、それら以上に(以下にというべきか)ひどい出来だった。ひばりなんかだと、芸能生活自体が華やかだったり、エピソードに困らないが、本書の主人公は色んな商売に首を突っ込んで、新しい会社作ったり、潰したり、小銭を稼いだり、借金を作ったりの繰り返しで、傍から見て、とりたてて面白い人生ではない。それを本書は、子供時代の回想をそのままだらだらと写したり、どうでもいいような商売のあれこれを細かく書いたり、一つの流れでなく、とりあえず伝聞事項と、カラオケ業界の動向、主人公の家庭の事情などなどをてんでんばらばらに羅列してるふうで、だらだらとページ数を稼いでいるという感じだった。カラオケ好きなMorris.なので、ついつい手に取ってしまったが、はっきり言って時間の無駄だった。



06017
【MONEY マネー】清水義範 ★★★☆ 8編の犯罪を主題とした短編集で、それぞれのタイトルに、犯罪によって得られた\3,480から一千万円超すものまでヴァラエティ豊かな金額が明記してある。
犯罪も小学生の発明した?ネズミ講、主婦の万引きから、窃盗、現金輸送車殺人強盗までいろいろだが、作者お得意のサービス精神が横溢していて、なかなか読ませる成功作だと思う。特に最初と最後に同じ主人公が出てきて一つの話としてまとまるようになってるあたりの構成は上手い。
旅行会社の顧客名簿を手に入れた若者がこれを使ってオレオレ詐欺を企み、結果として1万円の小遣をせしめる話なんか、よくできた新作落語のようだし、知人の子供を誘拐して一緒に解決に持ち込み借金を帳消しにする親父の話も犯罪と言うよりおとし話めいている。
ただ、借金に追われる小企業経営者が、サラ金からウラ金に借金しておしまいに開きなおる話だけは、ちょっとアブナイなと思ったら、作者もそうおもったらしく、末尾に

(作者注・これはフィクションであり、実際にこんなやり方でうまくいくと思うのは、大変に危険です。闇金融にかかわって悩んでいる方は、弁護士に相談することをおすすめします)

と、注意書きがある。これも作品の一部なのか、それとも雑誌掲載時(「問題小説」連載)にはなくて、単行本になるときに付け加えられたのか知らないが、ここでMorris.は大笑いさせてもらった。



06016
【じつは、わたくし こういうものです】クラフト・エヴィング商會 坂本真典 ★★★★ 雑誌「太陽」2000年に連載されたものを中心に増補されたもので、18の不思議な仕事をする人を写真と短文とクラフトで紹介している。
月光密売人/秒針音楽師/果実勘定士/三色巻紙配達人/時間管理人/チョッキ食堂/沈黙先生/選択士/地暦測量士/白シャツ工房/バリトン・カフェ/冷水塔守/ひらめきランプ交換人/二代目・アイロン・マスター/コルク・レスキュー隊/警鐘人/哲学的白紙商/シチュー当番
それぞれをクラフト・エヴィング商會(以下商會)の吉田浩美、吉田篤弘の友人知人が演じ、扮して、かっちりした白黒写真に収まっているが、この写真だけでも独立した作品になっている。本書は素人が演じる不思議な人物写真集ということもできるだろう。もちろん商會らしい小間物、ラベル、ノートなどの逸品がこそっと配してあるし、御伽噺めいたそれぞれの仕事を紹介することばたちも実に丁寧に練られている。

神秘体験?
いえ、そうではないと思います。
土に種を植え、大事に育ててゆけば、最後に果実が実る。そしてまた果実は新しい種を宿す。そういう循環のなかに自分はいる。それを青い空の下で学んだということではないでしょうか。こう言うと、なんだか堅くるしく聞こえるかもしれませんが、もっと単純に「いいなぁ、嬉しいなぁ」と思ったんです。
くだものが好きです。植物はやさしいです。こんなにもやさしく生き、ときに結実し、やがて枯れてゆきます。
けれども、また芽生えてきます。最初に戻ってゆく。ふたたび新しい結実に向けてです。これは、すごいことです。やさしさの芯に、すさまじく強いやり方が隠されているのです。
葡萄を、オレンジを、林檎を、あるいは人知れぬ果実たちを数えながら、私はいつでも思ってきました。くだものというのは、文字通り「結実」であり、同時に「はじまり」でもあるんだなと。
いえ、果実を数えて歩くのは私だけの仕事、私ひとりでいいのです。ただ、私はそうして世界中のくだものを数えながら、このうちのいくつかが、さまざまなくだもの屋さんの店先に並ぶことを想像します。そして、そこにいつでも美しい色と季節があること。それらが繰り返し循環していること。しかも「おいしい!」ということ。そのことにふと
「いいなぁ、うれしいなぁ」
と、多くの人に感じていただけたら、と思っています。(果実勘定士)


なかなか詩的で哲学的ですてきな文章ではないか。それがナンセンスな仕事人の独白として開陳されてるところが、眼目である。
Morris.は商會の「雲をつかむような話」を初めて見てそのデザインワークとセンスと手際のよさに舌を巻いたものだが、本書はまた違った方向でヴィジュアル本の世界を作り出している。それにしてもやっぱりきちんとした白黒写真の世界はすばらしいっ。ここに登場した19人の仕事人にとって、本書は生涯の宝のアルバムになるだろうな。羨ましすぎるぞ。
「雲をつかむ…」でも、オリジナルのワインラベルの素晴らしさを褒めちぎったが、本書のあちこちにこそっと出て来るカードやラベルやカタログやタグなどのデザインは、本当にため息が出る。



06015
【私が愛した金正日】落合信彦 ★★☆☆ 日本の民放TVが、金正日へのインタビューと北朝鮮の自由取材を許されるが、じつは国際的謀略だった---という、ドキュメント風のフィクションである。
Morris.は落合作品はほとんど読まないのだが、本書はタイトルに惹かれて借りてしまった。だが、後から思うと、これは、テリー伊藤の「お笑い北朝鮮」の副題と同じだな(^^;)
TV局のプロデューサ沢田が主人公で、彼は北朝鮮についてもかなり詳しく、金日成の出自や収容所の実情などについて突っ込んだ取材をするし、拉致被害者5人とのインタビューにも成功する。しかし、どうもこの取材全体に疑問を持ちつづける。帰国して放映直前に中国に潜んでいる金正日と相思相愛だった「喜び組」の女性との接触で恐ろしい秘密を手に入れるが、TV局社長はその発表を許さない。主人公は怒ってTV局を辞めるが、裏でちゃっかりCIAと取引したりする。そこで北朝鮮のとんでもない真実?が明らかになるのだが、ネタバレになるので止めておく。
かなり雑なストーリーだし、主人公と北朝鮮幹部らとのやりとりも、不自然すぎる。つまりは小説ではないんだろうな。それでは何なのかというと擬似フィクションとでも言うしかないだろう。


06014
【アフリカの蹄】帚木蓬生 ★★★☆☆ アパルトヘイト南アフリカ共和国の黒人貧民地区で絶滅したはずの天然痘が発生。心臓移植の研修でこの国に来た日本人医師が、黒人差別に憤り、診療所の助けをする中で、国家的陰謀に巻き込まれながら、抵抗を試みるという、正義の物語なので、下手すると勧善懲悪の陳腐な物語になりそうなところを、医者である筆者の専門知識と、力量で読み応えのある作品に仕上げている。反体制運動家ニールの妹パメラと恋仲になり、それをバネとして行動する主人公が、あまりにかっこよく書かれていて、ちょっと鼻白むが、これはやっかみというべきだろう。

「この国の経済が傾いたって、黒人たちの生活はもうこれ以上傾くことはない。大不況になって本当に困るのは白人連中だ。ベンツに乗っていたのをBMW、BMWに乗っていたやつはオペルに格下げせざるを得なくなる。ぜいたくに慣れ切ってしまうと、生活水準を落とすのは地獄の苦しみさ。白人たちはパニックになるよ。だから、あんたが国に帰ったら、声を大にしてみんなに言ってくれ。この国と取引するのは、丸々太った白ブタ共に上等な餌をやるようなものだと。俺たち黒人たちのことは心配しなくていい。どうせ俺たちは白ブタの残飯しか食べさせられていない家畜だ。良い餌が悪い餌に変わったところで、俺たちは何ともない、とね。却って白ブタが倒れたほうがいいんだ。」

ニールが主人公に投げる台詞である。Morris.はついつい黒人側に立ってこの文を読むのだが、日本人は当然白ブタ側に分類される立場だったんだろうな。
おしまいあたりで、パメラが主人公が日本から持ってきた文庫本の中から印つけた詩の一節が引用されている。

いや、私は憎まない。山の頂きに透きとおる陽射しが満ちているのに、どうして憎むことができよう。

いや、私は苦しまない。緑の野原に風のような音楽が流れているのに、どうして苦しむことができよう。

いや、私は泣かない。豊かな川に群れなす魚が跳ねるのに、どうして泣くことができよう。


これを英訳しながら主人公が言う。
「これは朝鮮の詩人が書いたものさ。日本が朝鮮半島の人々を弾圧していた時代に異を唱え、獄に繋がれたときに書かれた詩なんだ。作者は拷問を受けて死に、詩が残った。」
突然朝鮮の詩人が出てきたので驚いた。たぶん尹東柱だと思うが、はっきりしない。後で調べとこう。
そういえば、帚木蓬生の出世作は「三たびの海峡」だったから、朝鮮への関心は深かったんだな。
本書はTVドラマ化もされたらしいから、それなりに注目されたらしい。Morris.は帚木蓬生の作品はたいてい読んでるつもりでいたのにこれは見落としだった。



06013
【アフリカの瞳】帚木蓬生 ★★★☆☆ 「アフリカの蹄」と舞台を同じにして、その12年後の物語らしい。主人公は同じだが、南アフリカ共和国はアパルトヘイトを引っくり返していちおう黒人政権の国となっているが、不幸は終わっていない。本書のテーマはエイズである。主人公はあのままアフリカに根を下ろし、パメラと結婚、子供もいる。そして、利益優先で価格を下げない製薬会社や、ほとんど無効な薬を使いつづける政府のやり方に反対する主人公は妻子を誘拐されるなどの脅迫を受ける。それをはね返し、国際医学会議で詳細を暴露していく。
本書は2004年刊だが、巻末に同じ著者の作の宣伝があり、その中に「アフリカの蹄」が出ていたので、あわてて一緒に借りてきたのだった。
主人公をはじめ、同じ登場人物が多数出てくるし、前作で子供だったのがすっかり一人前になっていたり、主人公はやや老いを感じたりという時間差も丁寧に書き込んである。
しかし、何といってもほぼリアルタイムでのアフリカの危機的状況をわかりやすく紹介しながら、植民地支配の傷跡と、いわゆる文明国の「援助」の無効ぶりを叫ぶ部分は迫力があった。

つまり植民地主義は、アフリカ人に自らが消費しない物を生産させ、生産しない物を消費するような仕組みを築いた。だから、独立によって植民地政府を駆逐したあとには、自分たちが消費するパンツもマッチも鍋も製造できない、石器時代のような国ができてしまったのだ。
他方、ヨーロッパの列強国は、アフリカ大陸で土地の分捕り合戦を繰り広げた。その挙句、植民地政府の消滅後に残ったのは、国境で寸断されたモザイク状のアフリカだった。アフリカの半数の国で、人口は一千万人に達していない。国と国とを結ぶ交通網のインフラ整備はほとんどなされず、一国の首都から隣国の首都に行くのに、直接移動するより、飛行機でロンドンやパリを経由したほうが早いという笑えない現実がある。
こうしたアフリカの現状に対して、世界各国からさし伸べられる援助は、おしなべて無益なものが多い。使い道のない大がかりな農機具は、いったん壊れると修理不可能だ。北欧のある国が大きな製靴工場を作ってやったが、そもそも現地では西洋風の靴など必要としないので、意味をなさない。
加えて、援助が被援助国の文化経済を破壊する加害者にもなっている。好例が食糧援助だろう。豊かな国にとっては、余った食糧を貯蔵するのにも金がいる。それよりも手っ取り早く、アフリカの貧困国に食糧援助したほうが得策になる。しかし、そうやって先進国から放出された余剰食糧がどういう帰結をもたらすか。飢えた国の自前の食糧生産を妨げ、さらに飢えを強めて援助依存の悪循環を生むだけだ。つまり小麦の援助が、現地の小麦生産を困難にするだけでなく、もともとアフリカにあった伝統的な主食をどこかに追いやってしまう。
こうした皮肉な弊害は食糧だけにとどまらない。中古の衣料品が大量に援助物資としてはいってくると、もうその国の伝統的な手製の織物はたちまちたちゆかなくなり、消えるしかない。
やみくもの援助は、被援助国の国民の食い物から着る物まですべてを模様替えして、再びもとの奴隷の国につき落とす。そうした実情を真に理解している先進国がどこにあるだろうか。おそらく無理解のまま、善意の援助が節操なく続けられている。


本書の各章には短い詞章が付けられている。黒人の歌から採られたものと憶測されるのだが、物語にふくらみをもたらし、効果的である。

1.あなたへの信頼 それが 私たちを強くするのです
2.あなたは私たちを見つめる 月の光となって
3.山の頂きで 谷底で 私はあなたを称えるでしょう
4.鳥が木々の間を飛びまわる 夏に挨拶をしながら
5.溢れ出る私の涙 大河になって谷を下れ
6.私は燃える 逃げ場もなく燃え尽きる
7.私たちの家はここにない 星のように遠い所にある
8.高い塀の向こうに肥沃な土地がある 汲めども尽きぬ井戸と かぐわしい花畑
9.そこに私たちはもう帰らない 父祖が死んだ土地だから
10.私たちに大地を 時を 石を 風を語って下さい
11.この静寂(しじま)のなかで 私たちは今こそ歌うべきだ
12.鳥も 兎も 風さえも どこに行くのか知っている しかし私たちはどこに行けばいいのか
13.聞かせて下さい あなたの声を
14.違うと言おう 違うと NOこそ私たちの言葉
15.死の谷を歩く 私は怖くない あなたがともにいるから
16.私たちは歩く 道の先にあなたが見えます
17.強く歌うには友がいる ひとりで歌う声はあなたに届かない
18.私たちには夢がある 私たちの眼を開かせ 世界を見つめさせる夢が
19.ともに種をまき 刈り入れよう 私たちの汗と血は未来に向かって流れる

こうやって並べるとそのままで見事な抵抗詩になっている。
そして主人公の若い仲間たちが新しい社会への希望を託して作った劇の終わりにおかれた歌は、本書のタイトルともなっているようだ。

アフリカには瞳がある
大きなどこまでも深い瞳だ
瞳はもう涙を流さない
涙は何年も前に涸れてしまった
涙の無い瞳でアフリカは見つめる
大地の緑を 大空の先を
人類の未来を

本書はいちおうのハッピーエンドだが、これからのアフリカのきびしい未来を確信させる終わり方でもある。帚木蓬生のヒューマニズムというか、真摯で善意に満ちた正義感みたいなものは、ともすれば教条的に陥り、彼の作品の厚味を損う原因にもなるのだが、とにかくこれだけの形として呈示されると、Morris.らしくもなく、頭が下がってしまう。
前作の末尾にあった「本作品に登場する、国家、人物、機関などはすべてフィクションです」という断り書きが、本書には省かれているのが、時代の移り変わりを伺わせる。


06012
【「おじさん」的思考】内田樹 ★★★☆☆ 先日の日記でも書いたが「内田樹の研究室」というサイトを稲田さんに紹介してもらい、時々覗いていたのだが、灘図書館に行ったら3冊あったので借りてきた。本書は2002年4月版でそのうちでは一番古い。先のサイトのコラムにそのままアップしているものもあった。とりあえずディスプレイで読むのは疲れるから、これはこれで助かる。
著者は50年生れで現在神戸女学院大学の教授らしい。専攻はフランス現代思想。レヴィナスという哲学者に入れ込んでいるとのことだが、コラムめいた短文の中にやたらMorris.には刺激的なフレーズが頻出する。引用の仕方が実に上手かったりする。

「武は不祥の器也」。これは老子の言葉である。
武力は、「それは汚れたものであるから、決して使ってはいけない」という封印とともにある。それが武の本来的なあり方である。「封印されている」ことのうちに「武」の本質は存するのである。「大義名分つきで堂々と使える武力」などというものは老子の定義に照らせば「武力」ではない。ただの「暴力」である。(「護憲派」とは違う憲法擁護論)


これは、刑法199条殺人罪を引き合いにして、「人を殺してよい」条件規定していないところに着目して、憲法九条で「戦争をしてよい」条件を確定すべきでないと、しごくまっとうな意見を述べている。このあたりが、なんかうまいと思ってしまった。

それでもなお努めて私の嫌悪感のよってきたるところについて語るならば、それは、性的サービスを商品として売り買いすることが「お金の稼ぎ方」として本来的ではないと心のどこかで思っているからである。
本来「お金を稼ぐ」というのは、ある種のスキルを身につけ、その行使をつうじて、「顧客のレスペクト」と「適切な対価」を得るということである、と私は考えている。
人間的ファクターが充実している労働環境にいれば(「フレンドリーなクライアント」「公正な勤務考課のできる上司」「有能な同僚」などなど)、私たちはかなり過酷な労働でも、相当の薄給でも、それを楽しむことができる。(だって、職場に行くのが楽しいんだから)
ふつうのひとはそのような「楽しい労働環境」を求めて、努力をする。
性的商品は、成り立ち方がその逆である。(売買春と自尊心の問題)

売春行為がスキルを必要とせず、レスペクトの反対の行為であるという。これもMorris.は共感をおぼえる。

私がインターネットであれこれと持説を論じたり、私生活について書いたりしているのを不思議に思ってか、「先生、あんなに自分のことをさらけだして、いいんですか?」とたずねた学生さんがいた。
あのね、私のホームページで「私」と言っているのは「ホームページ上の内田樹」なの。あれは私がつくった「キャラ」である。
あそこで私が「……した」と書いているのは、私が本当にしたことの何万分の一かを選択し、配列し直し、さまざまな嘘やほらをまじえてつくった「お話」なのである。
「私」はと語っている「私」は私の「多重人格のひとつ」にすぎない。(「私」は私の多重人格のひとつにすぎない)


上手い逃げ方だ。自己韜晦かもね(^^;)

人は幸福に生きるべきだ、と人は言う。私もそう思う。でも、たぶん「幸福」の定義が少し違う。そのつどつねに「死に臨んで悔いがない」状態、それを私は「幸福」と呼びたいと思う。幸福な人とは、快楽とは「いつか終わる」ものだということを知っていて、だからこそ、「終わり」までのすべての瞬間をていねいに生きる人のことである、そう私は思う。だから「終わりですよ」と言われたら、「あ。そうですか。はいはい」というふうに気楽なリアクションができるのが「幸福な人」である。「終わり」を告げられてもじたばたと「やだやだ、もっと生きて、もっと快楽を窮め尽くしたい」と騒ぎ立てる人は、そのあと長く生き続けても、結局あまり幸福になることのできない人だと思う。
幸福な人は、自分が幸福なだけでなく、他人を幸福にする。だから、私はみんなに幸福になって欲しいと思う(なんだか武者小路実篤みたいになってしまった)。(「お先にどうぞ」という倫理的生き方)


間違いではないと思うのだが、ここまで悟ったようなことを、しらっと書くのは難しい。まあ、当人も「オメデタキ人」を持ち出して逃げは打ってるようだ。

明治が起業期で、昭和のはじめに世間知らずのまま夜郎自大的に事業を拡張、中年で倒産して路頭に迷い、一念発起でニッチビジネスで再起を果たし。いつのまにやら大金持ち。それを無意味に蕩尽し果てて、無一物の晩年、というのが近代日本の「人生」である。(老人国にむけてのロールモデル)

仰せのとおりの「日本庭国盛衰死」。

必要なのは「知識」ではなく「知性」である。
「知性」というのは、簡単に言えば「マッピング」する能力である。
「自分が何を知らないのか」を言うことができ、必要なデータとスキルが「どこにいって、どのような手順をふめば手に入るか」を知っている、というのが「知性」のはたらきである。
学校というのは、本来それだけを教えるべきなのである。(学校で学ぶべきただひとつのこと)


これは似たようなことをこれまで何度も聞いてきたような気がする。何度聞いても耳が痛むのはどうしてだろう。

子どもというのは(教育学者が夢見がちに語るような)「無垢な存在」ではない。
子どもの頭はみすぼらしい偏見と予断とトリヴィアルな知識であふれかえっており、子どもはそのゴミのような情報とスキルを命がけで守り抜こうとする。
ゴミ知識とゴミ・スキルを量的に拡大することを「学ぶこと」だと思っている限り、子どもは永遠に子どものままである。
「大人」というのは、「いろいろなことを知っていて、自分ひとりで、何でもできる」もののことではない。「自分がすでに知っていること、すでにできることには価値がなく、真に価値のあるものは外部から、他者から到来する」という「物語」を受け容れるもののことである。言い方を換えれば、「私は***ができる」とかたちで自己限定するのが「子ども」で、「私は***ができない」というかたちで自己限定するものが「大人」なのである。「大人」になるというのは、「私は大人ではない」という事実を直視するところから始まる。自分は外部から到来する知を媒介にしてしか、自分を位置づけることができないという不能の覚知を持つことから始まる。(「大人」になること−−漱石の場合)


これもMorris.には兎の逆立ち(耳が痛い)的言辞である。でも、とっくに「大人」になることは放棄しているもんね(^^;)。

恋愛から悲劇が生れたのではなく、悲劇から恋愛が生れたのである。
人間は大事なことについては必ず原因と結果を逆にして記憶する。でも、それはしかたのないことだ。なぜなら「人間の欲望は[他者] の欲望」だからだ。(「大人」になること−−漱石の場合)


これはヘーゲルの受け売りであるらしいが、何か「詩」を感じてしまった。



06011
【子どもは判ってくれない】内田樹 ★★★☆ 2003年10月刊。やはりこれもホームページからの再録が中心らしい。

「現在の実年齢」に8分の5を乗ずると、漱石や鴎外の時代の「精神年齢」が得られる、というのが私の計算式である。
その等式で計算すると、今の大学新入生は昔の十一歳。『たけくらべ』の美登利くらいの年である。なるほど。
かくいう私は、その計算式で言うと、三十二歳。『それから』の代助の年恰好である。なるほど、なるほど。(漢文がなくなる不幸)


ドッグイヤーではなくこういうのは、引き伸ばしイヤーとでも言うべきか。Morris.は人生五十年のつもりで生きてたから、こういった計算はしたくない。

私は自分のホームページに書いているものについては「コピーフリー」を宣言している。インターネット上に載った時点で、そのテクストはもはや私の所有を離れて、ある種の「公共性」の水準に帰属する、と考えているからである。(オリジナルとコピー)

これも、開き直りなんだろうね。彼の場合は私の所有を離れず、こうやって単行本になるわけだから。

論理的に思考できる人というのは、「手持ちのペーパーナイフは使えない」といういことが分ったあと、すぐに頭を切り替えて、手に入るすべての道具試してみることのできる人である。金ダワシでウロコを剥ぎ落とし、柳刃で身を削ぎ、とげ抜きで小骨を取り出し骨に当たって刃が通らなければ、カナヅチで出刃をぶん殴るような大業を繰り出すことさえ厭わないような、「縦横無尽、融通無碍」な道具の使い方ができる人を「論理的な人」というのである。
よく「論理的な人」を「理屈っぽい人」と勘違いすることがあるが、「理屈っぽい人」と「論理的な人」とはまったく違う。
「理屈っぽい人」は一つの包丁で全部料理をすませようとする人のことである。
「論理的な人」は使えるものならドライバーだってホッチキスだって料理に使ってしまう人のことである(レヴィ・ストロースはこれを「ブリコラージュ」と称した。(論理的な人と理屈っぽい人)


これもMorris.への直接的指導と受け止めよう(^^;)

書評においては、「その本の蔵しているいちばん豊かな可能性にピンポイントする」というのが私のポリシーである。
誤解している人が多いようだが、けなすのは簡単で、ほめるのはむずかしい。−−ほめるときには対象への適切な理解(と少なくとも書き手自身に承認されること)が必要である。(ヨイショと雅量)


なるべくこれからそうしよう。

「リストラ」というのは「替えの利く社員」を切り捨て、「替えの利かない」社員を残すというかたちで進行する。どれほど有能な社員であっても、その人の担当している仕事が「もっと給料の安い人間によって代替可能」であれば、逡巡なく捨てられる。
人間の市場価値は、この世に同じことのできる人間がn人いれば、n分の1になる。そういうものなのである。
だから、人間的な経緯というのは、「この人以外の誰もこの人が担っている社会的機能を代わって担うことができない」という代替不能性の相互承認の上にしか成り立たない。
だが、競争社会というのは、全員の代替可能性を原理にしている社会である(だから「競争社会」は必ず「マニュアル社会」になる)。
そのような社会で、個の多様性や一人びとりの「かけがえのなさ」への経緯がどうやって根づくだろうか。(ネオコンと愛国心)

「かけがえのない」ということばは、胡散臭いことでもある。


06010
【街場のアメリカ論】内田樹 ★★★☆☆☆ 2005年10月刊だからかなり最近の作である。これは、ホームページでなく、大学での講座11回分をテープ起ししたものをもとに仕上げたもの、というので、期待しないで読んだのだが、いやいや、なかなかで、今日読んだ3冊の中ではこれがいちばん興味深かった。初めに「専門外のアメリカを論じるから気が楽だし、素人だから無知は承知の上」などと煙幕をはりつつ、アメリカの国家成立時から、思考方式、その異常さなどを、実に新鮮な視線から打ち据えている。
まえがきで、明治以降近代日本150年のアイデンティティが「アメリカにとってどういう国か」に取り憑かれ、アメリカを欲望してきたという仮説から、憲法九条と自衛隊のねじれた構造こそ、アメリカの呪いだというところからして、実に興味深い。

「親米は反米、反米は親米」。『マクベス』の魔女のように、アメリカは日本人が決してアメリカに対して「すっきり」した関係を取り結ぶことができないような呪いをかけたのである。(まえがき)

救いようのない結論というのがあるが、これはかなり強固なジレンマということだな。

どこの国でも、「食品」にかかわる運動は強い政治性を帯電します。「自然食」運動は例外なしに反近代、反都市、反資本主義、反市場主義的なメンタリティを惹きつけ、ある種の「大地信仰」にむすびつきます。その土地に生きる人間は、その土地で生育された固有の食物を、固有のレシピで食べるべきである。なぜなら、その土地に生きる人間が必要とするすべてのものは、その土地の自然な食物のうちに含まれているから……というものです。
これは使い方次第ではかなり危険な思想だとおもいます。(ファーストフード)


反射的にMorris.の十八番「シントブリ--身土不二」を思い出した。やばいかな(^^;)

アメリカのような国はアメリカ以前には存在しなかった。
アメリカは自分で自分を作り上げた。それと同じように、アメリカ合衆国は自分で自分を作り上げた国なのです。
このアメリカの「起源における完成」という異常事態についてはこれまで多くの賢者たちが洞察に富んだ答えを提供しています。
アメリカの統治システムは「ベネフィットを増やす」ことよりも「リスクをヘッジする」ことの方を優先しているわけです。人間をどう賢明で有徳に育てるかよりも人間の愚かしさがもたらす現実の災厄をどうやって最小化するかを気遣っているわけで。ここには成熟したというよりはむしろ老成した人間理解が感じられます。
それも当然で、アメリカの建国の父たちは、「アメリカが今よりよい国になる」ための制度を整備するより、「アメリカが今より悪い国にならない」ための制度を整備することに腐心したからです。だって、アメリカは理想の国をすでに達成した状態からスタートしたんですから。それ以後、その理想国家をどう「よく改善するか」ということは問題になりません。(アメリカの統治システム)

呪われた国家の誕生と発展というわけだね。

アメリカがナショナルアイデンティティを強化するという政略上の必要から、数少ない戦闘経験を過剰に物語化したこと、そのせいで戦争に対するアレルギーが押さえ込まれたこと、これは前提としてふまえておくべきでしょう。
アメリカ人が最多の戦死者を見たのは南北戦争、つまりアメリカ人同士の殺し合いにおいてです。このときの死者が62万人(ただし80%が病死)。第一次世界大戦のアメリカの死者は5万3千563人ですが、全世界での戦死者は千三百万人と言われています。第二次世界大戦のアメリカの戦死者は29万人、全世界の戦死者は測定不能ですが、7千万人ぐらいと言われています。
そうやってみると、アメリカは戦争はたくさんしているけれど、戦死者数が相対的には少ない国だということがわかります。第二次世界大戦における日本の戦死者は3百万人ですから、アメリカの十倍ということになります。
戦死者比では圧倒的にアメリカが少ないにもかかわらず、アメリカ人が第二次世界大戦について強い被害者意識を持っているのは、たぶん[ホロコースト]で6百万人のユダヤ人が死んだことが関係していると思います。「6百万人の同胞が死んだ」という深い被害者意識を抱いたユダヤ人たちはアメリカのメディアで一貫して大きな影響力を持っていました。ですから、アメリカ人の実感としては第二次世界大戦でのアメリカの戦死者は実数よりはに多く記憶されていると思います。
真珠湾攻撃と東京大空襲はどちらも空襲による一日の出来事です。ふつうのアメリカ市民に被害の規模について訊ねてみたら、たぶん同数かアメリカの被害の方が多いのでは、という答えが返ってくるでしょう。実際には真珠湾の死者は3千人、東京大空襲は被災者百万人、死者十万人です。
真珠湾攻撃を除けば、アメリカ領土への攻撃はなかったわけですから、太平洋戦争でアメリカの非戦闘員にはほとんど死者がいません。にもかかわらず(というのも変ですけれど)アメリカの戦況がほぼ確定した戦争末期に、なお原爆投下に踏み切ったのはアメリカ将兵の戦死者をこれ以上増やすことにアメリカの世論から強い不満があったからだと言われています。そして、二発の原爆で、太平洋戦争でのアメリカの全戦死者数より多い三十万人の日本人(そのほとんどは非戦闘員です)が殺されました。
このあたりの「計算の狂い」方がアメリカの戦争観の際だった特徴のような気がします。どの国も自分の受けた被害は過大評価し、他人に与えた被害は過小評価するものですが、アメリカはどうもその程度が尋常ではない。そこにはおそらく戦争によって生身の非戦闘員が殺傷され、都市が焼尽し、文明が壊滅するというリアルな事実を自分自身の国土の中では一度も経験したことがないという歴史的事実が関与しているようにおもわれます。(戦争経験の話)


内田は自称「ネオソフトナショナリスト」らしい。こういった戦争犠牲者を、数量化して呈示するやり方は、あまり「ネオ」とも「ソフト」とも思えない。Morris.はこの数字覚えていつか使おうと思って、引用しておいた。そういえば今日「ネオソフトマーガリン」買ってきた。

日本の弁護士の数は約2万人、アメリカはその50倍、百万人の弁護士がいます。訴訟件数は日本がおよそ年間42万件で、アメリカが千8百万件。弁護士の数が50倍で訴訟の数が約40倍だから、両者の数はほぼ正比例しているわけです。
でも、大きな違いがあります。判決率がアメリカではわずか3%で、日本は30%という点。つまり、アメリカでは97%の事件は実際に裁判所まで行かないでその前の段階で、和解や略式判決で終わります。

数字で比べるとわかりやすい。
とりあえず、内田本を3冊読んで。Morris.個人として、内田は、頭が良い。着眼点が面白い。発見がある。といったプラス評価と、ずるい。エリート意識。逃げが多い。といったマイナス評価が拮抗してる感じだった。ともかく面白かったのだから文句はない。


06009

【古本道場】角田光代・岡崎武志 ★★★☆☆ 40代の古本達人に30代の女流作家が教えを請うという形式で、東京方面のナウい??古本屋を回り、そこで見つけた本や、古書店主、倉庫、古書市などの模様を紹介したりするもの。
最近、とんと古本屋、古本市などと縁遠くなりかけているMorris.だが、やはり親愛の情は無くしていないだけに、こういった本にはついつい目がいってしまう。
二人ともMorris.には未知の人だったが、角田は直木賞作家らしいし、岡崎は神保町ライターのニックネームを持つ古書関連のライターとのこと。本書をみるかぎりでは二人ともなかなか良い感じで、それぞれの他の著書も読んで見たくなった。
岡崎には「均一小僧」のあだ名もあるくらいで、百円均一棚から掘り出すのも好きらしい。この一点においてだけMorris.と同じである。
神保町に始まり、代官山、渋谷、東京駅(地下街の八重洲古書館は要チェック)、銀座、早稲田、青山、田園調布、西荻窪、鎌倉と、ちょっと毛色の変わった地域やお洒落な地域もおりまぜながら、書き下ろしの神保町篇で終るという構成もすっきりして読みやすかった。
実は本書は発行社ポブラ社のウエブマガジンに連載されたもの。ネットと出版の融合もいろんなカタチで進んでいるようだな。
角田は早稲田出身らしいが学生時代を含めてあまり古本屋との付き合いは深くないらしく、ときどきえらくウブい言動があるが、性格というか感性が素直で実にすんなりと古本世界に溶け込み楽しんでいるところ(演出かもしれないが)に好感を覚えた。彼女が本書の中で購入した古本のなかからMorris.の印象に残ったもののタイトルと作者のみを挙げておく。

「女経」村松梢風
「ベトナム戦記」開高健
「ロング・グッドバイ」岸田理生
「ちいさいモモちゃん」松谷みよ子
「香具師の旅」田中小実昌
「四百字のデッサン」野美山暁治
「風浪の旅」檀一雄
「物語ソウル」中上健次・荒木経惟
「みほとけとの対話」岡部伊都子・五味義臣
「ことばの食卓」武田百合子・野中ユリ
「手しおにかけた私の料理」辰巳浜子
「巣鴨プリズン13号鉄扉」上坂冬子


角田のあとがきにある「本というものが、ただの消費物でない」という言葉をかみしめたくなった。



06008
【呪の思想 神と人の間】白川静+梅原猛 ★★★☆ 二人の3回にわたる対談集である。いちおう梅原が白川に教えを請うということだったが、それでちょうど良かったのだろう。
1回目は二人の立命館大学での出会い、思い出、高橋和巳、漢字の話。2回目は孔子。3回目は「詩経」に篭められた「興」の精神。
Morris.は二人の著作の良い読者ではない。ただ白川の字書「字統」は十数年にわたる枕頭の書(実際にベッドの枕もとに置いてある)で、ちょくちょく読ませてもらっている。漢字の起源である甲骨、金文の研究を基に、中国の研究を跳び越える業績を達成したとんでもない学者というイメージが強い。
梅原は何となく眉唾モノ、きわものという偏見を持っていて、今回の対談を読んでもその印象は拭えなかったが、面白そうなヒトではあるという前からの思いを強くした。
内容としては2回目の孔子が一番面白かった。白川は70年の学生運動の時期に「孔子伝」を著わしていて、その内容の革新的なことを強調されていたが、Morris.は読んでもいないのに、えらく耳馴染みのある気がしたのだが、ああ、これは酒見賢一の金字塔的傑作長編「陋巷に在り」の世界だということに思い当たった。そういえば、酒見は作品各巻に漢字一字のタイトルをつけ、冒頭にその漢字の解説を白川の字書から引用していた。Morris.は知らず知らずに、酒見を通して白川の孔子像を享受していたらしい。単なる受け売りではなく、呪や巫や礼や媚や儒など、お馴染みの漢字の世界で、しっかり通底している。これは研究者と小説家の稀有にして幸せな出会い、そして読者にとっても僥倖に違いない。
対談としては、やはり梅原のややエキセントリックさが、白川の足を引っ張ってる感がするし、ちょくちょく対談にも口を挟む平凡社の編集子(たぶんあとがきを書いてる西川照子)の口ぶりが、邪魔な気もした。ところどころ挿入されている写真とそれに付随するコピーみたいな文の舌ったらずさも目障りだった。古漢字の図や古代中国の地図は別として、本書は活字のみの本にして欲しかった。
ところで白川発言中で(119p)に「手をこまねいて」という表記が出て、驚いてしまった。Morris.がことあるごとに文句つけてる「こまねく」だが、まさか専門家の白川がこんな間違いするわけなかろうし、対談だから記録ミスか校正ミスだろうと思った。でも念のため「字統」の「拱」の部をみたら、しっかり「こまねく」と訓読みしてあった(>_<) 確信犯だったらしい。最近は巷間の国語辞典でも「こまぬく、こまねく」両方を載せてるものが多いことからしても、いわゆる緩用訓みになってしまってるのだろう。しかし、白川には「こまぬく」を使って欲しいぞ。



06007
【失踪日記】吾妻ひでお ★★★☆ 美少女マンガ家として?カルトな人気を持つ著者の身体を張ったというか、実際に失踪してホームレスやったり、配管工になったり、重度のアル中になり入院生活した話などをマンガに描いたものである。これも稲田さん経由。
Morris.はそれほど吾妻の作品は読んでないし、キャラも特に美少女とは思わない(嫌いじゃない(^^;))のだが、結構根強いファンがいるらしいし、SF作品は星新一のベスト5に入ったりしてるらしいから、なかなかの曲者なのだろう。Morris.も本書は読まされてしまった。かなりヘビーな体験をマンガ作品にするというのはかなりのテクニックがいるはずだ。
こうやって自分の非日常体験を漫画にするというと、すぐに花輪和一の「刑務所の中」を連想するが、吾妻はちょうど花輪と逆のベクトルで作品を仕上げてる感じがする。
当人が冒頭で「この漫画は人生をポジティブに見つめ、なるべくリアリズムを排除して描いています。 リアルだと描くの辛いし 暗くなるからね」と宣言して、有言実行している。花輪の場合は、リアリズムに徹しているもんな。それで暗くならないところがまたすごいけど(^^;)
吾妻は1950年北海道生れ。ほとんどMorris.と同世代だね。最初に師事した漫画家が板井れんたろうというのも懐かしい。
89年に最初の失踪して、92年に二度目の失踪、そして97年のアル中強制入院だから10年近い期間にわたり、その間に創作は続いているのだから、確かに漫画家という商売も因業なのだろう。秋田書店のチャンピオンで連載始めて仕事と編集者に追い詰められたようだが、こういった漫画家残酷物語のことは仄聞してる。先日読んだアイドルインタビューを思い出してしまった。
巻末にとりみきとの対談があり、これがなかなか読ませるし、カバーの裏側にある「裏失踪日記」というインタビューもファンにとってはたまらないものだろう。

とり 描かれている内容は十分悲惨なのに、あんまりそういうふうに見えない。その微妙な距離の取り方が、読んでいてすごく面白くて。すごいぶっちゃけた話をしますと、往年のガロ系の漫画家の方で、一回[向こう側]に行って戻ってきた方々が、やはり何人かいらっしゃいますけど、そういう方々の作品って……やっぱりどこか、まだちょっとおかしいじゃないですか(笑)。またそれが面白さになってはいるんですけれど。吾妻さんの漫画は、視点が昔と変わらずクールなんですよね。そこは相変わらずというか、コントロールされてる感じ。自分を冷静に、ギャグの対象として見ている感じがあって。
吾妻 自分を第三者の視点で見るのは、お笑いの基本ですからね。
とり 失踪してる最中も、そういうふうに客観的に見られてました?
吾妻 いやぁ、そんな考えるどころじゃなかった。(笑)。寒さとかはね、ほんとに死ぬかと思った(笑)。一週間眠れないんだから。……失踪から帰ってきてから、これをネタにしようかなぁと思って、「寒くて死にそうだった」とかノートに書き出してたんだ。で翌朝見たら、そこに奥さんが「…こっちはもっと悲惨でした」って書き足してあった。
(一同爆笑)
吾妻 そりゃ家庭はぐちゃぐちゃですよ。だからこの原稿描いて、仕上げを奥さんに頼むときもすごいドキドキするんです。能天気に描いてあるから、また怒られるんじゃないかと思って(笑)
とり あー(笑)。……でも逆に、そういうのをギャグにしちゃわないで、パンツの中まで見せて、ドロドロとした部分もさらけ出したほうが凄いとかいわれがちじゃないですか。評論家とか実作者でも。「作家たるもの」みたいなね。僕はそれ、絶対に違うと思うんです。それを一旦ギャグにして出すという、その辛さ、芸として見せることのほうがいかに大変なことかと思うんですけれど。
吾妻 悲惨な状況でも、どっか自分を笑ってるんでしょうね。


うふふ。最後の台詞はMorris.も座有銘としていただきたいくらいいい台詞だね。

「裏失踪日記」のギャグマンガ創作活動のおそろしさみたいな部分を。

物描きはみんなそうだと思うんですけど、自己模倣をやってることに気がつくと限りなく落ち込んでくるんです。特にギャグマンガは、前と同じことをやってもウケないから。だから逆にマンネリを恐れない[永遠のパターン]を持っている人は強いですよね。そのマンネリがたまらなく気持ちいいっている読者もいるから。でも常に新しいギャグを考えようとすると、だんだんと精神が病んでくる。描いてて「あ、これ前にも描いた」って思い出す。そうすると描けなくなっちゃう。でも締め切りは来るから、「あー、もうイヤだー」ってなる。僕もそうだと思うんですけど、基本的にマジメすぎると追い込まれるんですよ。だからほんとは土木工事をやったほうが精神的にはずっと楽なんですけど、人間関係がそれはそれで難しいんですよねイヤな奴ばっかりいるから(笑)。そういう意味では、マンガ家はひとりでできるからラクかなと思ったら、ラクじゃない。内にこもっちゃうから、だんだん追い詰められていく。

そうだよなあ。漫画家の中でもギャグマンガ家の生命は短い気がする。たしかにずっと残ってるギャグマンガ家はマンネリを武器にしてるし。しかし本書を読んで、Morris.も吾妻の他の作品を読みたくなった。まず狙うべきはやはり本書タイトルが本歌取りしてる「不条理日記」あたりかな。


06006
【文明開化の写真師】 小平豊 ★★ タイトルを見てまず、連想するのは上野彦馬だろう。もう一人なら下岡蓮杖あたりだろうか。本書のサブタイトルには「片岡如松物語」という、未知の名前がある。この人は、下岡蓮杖の弟子である横山松三郎から、写真技術を学んだ栃木の写真師らしい。
評伝と思って読み始めたら、突然日光東照宮に大鳥圭介がなだれこんで、宮の事務官であった主人公とのやりとりが、まるで講談みたいで驚いた。途中からは評伝らしくなったりもするのだが、どうも文章と、話のつなぎがぎくしゃくして読みにくいことこの上ない。
途中で著者紹介を見たら、「栃木市生れで、本書の主人公写真師と二代目の写真撮影に生命をかける姿に深く感動し、本著を書く。」とある。そさらに「これまで、ハワイ王朝ロマンを描く」だと。よくわからん。発行所も栃木県だし、どうやらこれは、栃木ローカルものということはわかった。別にローカルが悪いというわけではないのだが、やたら、本筋と無関係な話が出てくるのには閉口させられる。
主人公が写真場をかまえた栃木ではなく、宇都宮がどうして栃木県の県庁所在地になったかという、経緯などを教えられたから、それなりに読んだ甲斐はあるのかな(^^;)
当時の湿板写真や乾板写真の数葉も、時代を写してるという以上の価値を認め得なかった。明治43年8月の大洪水を撮影しようと大病を押して被災地を写し、それがもとで早世した二代目武の行動もよく理解できなかったが、父である主人公の撮影した遺影(デスマスク)だけは、異常に美しかったのが印象に残っている。ヘンな本だった。


06005
【素晴らしい自然を写す】竹内敏信 ★★★ 89年の発行というだけで、「35ミリ風景写真マニュアル」という副題無しでもデジカメ本じゃないことはわかるだろう。特に参考書という意味でなく、ただあまりに綺麗な写真が多かったので借りてきた。横長本で見開きの片面に1枚の写真、対面に解説やポイント、データなどが書かれている。50点ほどの写真(うち15点ほどは白黒)どれもが、「作家意識のある綺麗な写真」だった。

掲載の作品はすべて、ノートリミング、フルフレームである。35ミリ判の撮影は厳密なフレーミングが基本。従って後からトリミングするような撮影姿勢では、作品そのものが甘くなる。

と、あとがきにある。これはMorris.ももろ手を上げて賛成である。デジカメだって同じだと思う。ところで、Morris.のいまどき200万画素の愛機がどうも年末あたりから問題発生だ。2年足らずで4台壊れた(した??)前科を持つ機種だけに、次回は機種変更すべきなんだろうな。悩むところである。


06004
【元アイドル!】古田豪 ★★★ 「アクションカメラ」「Chuッ スペシャル」に連載された22本のインタビューを並べたもので、著者の肩書きには「女の話をじっくり聞きだす」とある。

杉浦幸/矢部美穂/いとうまい子/細川ふみえ/大沢逸美/安原麗子/吉井怜/生稲晃子/新田恵利/岩井小百合/伊藤つかさ/中村真由/大西結花/我妻佳代/胡桃沢ひろこ/宍戸留美/嘉門洋子/藤岡麻美/八木小織/緒方かな子/花島優子/杉田かおる

Morris.は結構アイドル好きな方と思ってたのだが、以上の半分は名前も知らないし、好きだった娘はゼロに近い。おニャン子クラブ、少女隊、乙女塾とかグループの一員だったり、ミスマガジンなどでデビューした子などで、まあ、Morris.の好きだった頃のアイドルよりはかなり若い世代が中心なんだろう。
それはともかく、アイドルというのは、なりたい子は星の数ほどいて、何とかデビューできても生き残りは熾烈な争いの上、給料は驚くくらい少なくて、衣装も何もかも自前で、売れ出したら商売でこき使われ、人気が落ちたらヌード写真集だされて、お払い箱なんてケースが多いんだろうな、と思ったが、たしかにその通りで、半数くらいはそれに心身の病気に襲われるわ、男には騙されるわというケースも多い。それでもアイドルになれた子というのは、それなりのオーラがあるし、それらの逆境をバネに、力強く生き延びてたりもするし、何か説明できない魅力があるんだろうな。


06003
【沖縄論】小林よしのり ★★☆ 新ゴーマニズム宣言シリーズで、これは2004年から2005年にかけて「SAPIO」に連載したものらしいが、400p近い分厚さで、ともかくも小林の健筆ぶりだけはいつもながら感心せざるを得ない。しかし本書はいまいちインパクトに欠ける。それなりに沖縄の歴史や政治、米軍との軋轢など勉強しながら書いてるとは思うが、どうも付け焼刃みたいな感じが拭えないのだ。Morris.も沖縄に詳しいわけでなく、一度も行ったことすらないのだが、何か違うよな、と思ってしまった。
先般、若い秘書に交代してから、ゴー宣面白くなくなったような気がする。前のカナモリは存在感があったし、キャラとしても立っていた。別にゴー宣の応援するつもりもないが、秘書交代は戦略的に失敗だったと思う。


06002
【沖縄上手な旅ごはん】さとなお ★★★ 「うまひゃひゃさぬきうどん」でお馴染みのさとなおさんの本だが、やはり沖縄に行ったことのないMorris.には、ぴんと来なかった。第一本書はもともとJTA(日本トラストオーシャン航空)の旅サイトに連載したもので、アゴ足+稿料付きで、そのぶん、ヨイショが多すぎる。たしかにグルメで筆は立つし、ユーモアもあり、ディープな店や食材への果敢な挑戦もありなのだが、いかんせん、どこか隔靴掻痒の気分がするのだ。
その代わりというわけでもないが、ウニや豆腐の項での薀蓄には、目からウロコの思いをさせてもらった。

ウニは昆布などの海藻を食べて生きている。でもって、食べる海藻により、ウニの味が変わるらしいのだ!
ウニの身とは、ウニの卵である。黄色とかオレンジ色しているウニの身。これは生殖巣の部分。つまり卵の部分である。つまりメスなら卵巣、オスなら精巣。卵巣か精巣かは見た目ではまず区別できない。目かくしで食べ比べても味はほとんど変わらないという。
ウニは放っておくとすぐ型くずれして溶けてしまう。だから「ミョウバン」を使って型くずれを抑えているのだった!

ニガリを入れると豆乳の中にふわふわ固形物が浮いてくるが、もちろんまだ(あの売っている豆腐みたいに)四角くない。これを四角い型に流し込んで固めるといわゆる四角い「豆腐」になる。ちなみに型に流し込んだままのものを「絹ごし豆腐」と呼び、これに重しをして水切りしたのが「木綿豆腐」である。知ってました? 別に絹で漉すとか木綿で漉すとかの違いではなく、単なる口当たりのなめらかさで呼び分けているのである。同じ大きさなら、固形分の多い「木綿豆腐」のほうが栄養は豊富なわけですね。ふむふむ。
型に流し込む前の状態、つまりカタチが定まっていないフワフワのものを、大和では「おぼろ豆腐」とか「汲み豆腐」とか呼ぶ(ざるに取ると「ざる豆腐」)。これを沖縄では「ゆし豆腐」と呼ぶ。

ふむふむ、絹ごしと木綿の違いがそういうことだとは知らなかった。それよりも、ふわふわの「おぼろ豆腐」こそ、Morris.の好物の韓国料理「スンドゥブチゲ」の「スンドゥブ」に違いない。是非「おぼろ豆腐」を手にいれて本式のスンドゥブチゲ作ってみよう。
そのほか、泡盛の原料がタイ米というのは常識らしいが、Morris.は知らずにいた。

みなさんご存知の通り、泡盛はタイ米から造る。タイ米に、酸が強いために雑菌が混ざりにくいといわれる黒麹菌を使い(南国だから雑菌が混ざりにくいのは大事)、醗酵させ蒸留したお酒なのである。日本米に黄麹菌を使う日本酒とは成り立ちからして違う。
ただ意外と勘違いされているが、このタイ米は沖縄産ではない。すべてタイから輸入したタイ米から作っている。「A1スーパー」という品種の新米を一括輸入して、それを47酒造所で分け分けして使っているらしいのだ。


いやいやこうやって引用するとなかなかに有用な本ではないか、と思いつつ、沖縄との距離はどんどん遠ざかっていく気にさせられる。沖縄はMorris.にとって、体感的には、ソウルの10倍くらい遠いところにあるぞ。


06001
【獅子たちの曳光】赤瀬川準 ★★★★ 「西鉄ライオンズ銘銘伝」と副題にあるとおり伝説の西鉄黄金期の監督選手一人一人にインタビューして、1冊にまとめたものである。もともとは89年から90年に雑誌「Number」に連載されたものを、91年に単行本化し、それに1章を加えて95年に文庫本として出されたもの。こんな本が10年以上前に出ていたとは知らなかった。先日仰木彬が亡くなったとき、稲田さんがこの本のことを教えてくれたのだ。そして結局稲田さんに貸してもらい、年末年始かけてちょびちょびと楽しませて貰った。いっぺんに読むのがもったいなかったのだ。
Morris.は九州佐賀県の生れで、ちょうど小学校時代が昭和30年代始め西鉄の黄金時代と重なるから、当然西鉄ファンだった。稲尾が何故か一度だけ小学校を訪れたことがあり、そのとき運動場で子供たちにもみくちゃにされながら細い目で微笑んでいた顔は忘れられない。
とりあえずラインアップを写しておこう。
・仰木彬--谷落しされた仔獅子
・豊田泰光--疾走する暴れん坊
・和田博実--強気の韋駄天キャッチャー
・滝内弥瑞生--いぶし銀のユーティリティ・プレイヤー
・稲尾和久--ダイヤモンドの守護神
・関口清治--磊落な兄獅子、不動の五番
・藤本哲男--オールラウンドの野球人
・河村英文--黄金時代の序曲を奏したエース
・河野昭修--不屈の万能内野手
・三原脩--自発性を引き出した教育者
・大下弘--「超凡人になるべく努力せん」
・中西太--花は咲きどき咲かせどき

こうやって選手の名前書くだけでも、わくわくしてくる。これにプロローグ、エピローグ、長嶋、中西との対談までの実に充実した一冊だった。
赤瀬川準は野球小説書いてる人だということは知りながら、これまで読まずにいたが、野球への造詣はもちろん、インタビューの中身も文章もなみなみならぬ腕前である。
西鉄球団の成り立ちについても著者は簡潔にまとめてくれている。

昭和25年、プロ野球がニリーグ制になってスタートした年にはまだライオンズは生れていない。福岡をフランチャイズとして、セントラル・リーグでは西日本パイレーツが、パシフィック・リーグでは西鉄クリッパーズがそれぞれ名乗りをあげた。---2シーズン目、パイレーツとクリッパーズは合併してパシフィック・リーグに属し、名称を西鉄ライオンズと改め、ここに「獅子」が呱呱の声をあげたのだった。

パイレーツやクリッパーズという名前はかすかに記憶にあるようだが、その2チームが合併して西鉄になったとは知らなかった。例のNとLを組み合わせたマークが、豊田と三原監督の共同制作になるものだったとか、中西は2シーズン目の昭和28年から6年の間に三冠王に今一歩というシーズンが4回もあったとか、いろいろ美味しいエピソードも満載されているが、野球ファンとして、管理野球では味わえない、あの頃の西鉄の野球の魅力を分析し尽くしているところが本書の真価だろう。
いろいろ引用したいところだが、ここは、三原脩自身が名づけた「遠心力野球」の定義(まさに詩である)を引くにとどめる。

選手は惑星である。それぞれが軌道を持ち、その上を走ってゆく。この惑星、気ままで時に軌道を踏みはずそうとする。そのとき発散するエネルギーは強大だ。遠心力野球とは、それを利用して力を極限まで発揮させる。私が西鉄時代に選手を掌握したやり方である。(三原脩著「風雲の軌跡」より)


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