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Morris.2008年読書控
Morris.は2008年にこんな本を読みました。読んだ逆順に並べています。
タイトル、著者名の後の星印は、Morris.独断による、評点です。 ★20点、☆5点

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セル色の意味 イチ押し(^o^) おすすめ(^。^) とほほ(+_+)

【韓国語弱点克服】林京愛 08096 【愛と悔恨のカーニバル】
打海文三
 08095
【下流志向】内田樹 08094 【ドリーミング・オブ・ホーム&マザー】内海文三 08093
【大人の日本語】外山滋比古 08092 【下北サンデーズ】石田衣良 08091 【鎖された海峡】 逢坂剛 08090 【仲蔵狂乱】松井今朝子 08089
【再訳 朝鮮詩集】金時鐘訳 08088 【ハルビン・カフェ】打海文三 08087 【禁じられた歌 朝鮮半島音楽百年史】 田月仙(チョンウォルソン)08086 【オタク論!】唐沢俊一×岡田斗司夫 08085
【人間噂八百】足立淳 08084 【瑠璃の契り 旗師・冬狐堂」北森鴻 08083 【どんぐりの図鑑】北川尚史監修 伊藤ふくお著 08082 【廃墟をゆく】小林伸一郎写真 田中昭ニ文 08081
【二枚目】松井今朝子 08080 【暮らしの手帖 300号記念特別号】 08079 【一の富】松井今朝子 08078 【断層海流】麗羅 08077
【吉原手引草】松井今朝子 08076 【秀句の鑑賞】山口誓子 08075 【世路第一歩 求婚時代】佐々木邦 08074 【世にも奇妙な職業案内】ナンシー・リカ・シフ 伴田良輔訳 08073
【コケの謎  ゲッチョ先生、コケを食う】盛口満 08072 【黄金旅風】飯嶋和一 08071 【上海ブギウギ1945 服部良一の冒険】上田賢一 08070 【求めない】加島祥造 08069
【思索の淵にて 詩と哲学のデュオ】茨木のり子 長谷川宏 08068 【反転 裏社会の守護神と呼ばれて】田中森一 08067 【小沢昭一的 流行歌・昭和のこころ】小沢昭一 大倉徹也 08066 【灰色のピーターパン】石田衣良 08065
【京都文具探訪】ナカムラユキ 08064 【真相はこれだ! 「昭和」8大事件を撃つ】祝康成 08063 【Gボーイズ冬戦争】石田衣良 08062 【源内狂恋】諸田玲子 08061
【テヅカ イズ デッド】伊藤剛 08060 【ソウルケイジ】誉田哲也 08059 【僕は在日「新」一世】ヤン・テフン 構成・林信吾 08058 【群狼の舞 満州国演義3】船戸与一 08057
【必要悪】田中森一 宮崎学 08056 【逃亡日記】吾妻ひでお 08055 【ゴー宣・暫 2】小林よしのり 08054 【Value in SEOUL】山下マヌー 08053
【一編の詩があなたを強く抱きしめる時がある】水内喜久雄編 08052 【クレーの旅】新藤進 08051 【黙読の山】荒川洋治 08050 【日本怪死人列伝】阿部譲二 08049
【J】五條瑛 08048 【権力に迎合する学者たち】早川和男 08047 【ジウ 三部作】誉田哲也 08046 【北朝鮮・驚愕の教科書】宮塚利雄 宮塚寿美子 08045
【蝶舞う館】船戸与一 08044 【春を嫌いになった理由】 誉田哲也 08043 【疾風ガール】 誉田哲也 08042 【国境事変 Border Incident】誉田哲也 08041
【紅茶を受皿で イギリス民衆芸術覚書】小野二郎 08040 【丸ごと韓国骨董ばなし】尾久彰三 写真大屋孝雄 08039 【少将滋幹の母】谷崎潤一郎 08038 【魔女の笑窪】大沢在昌 08037
【京都語源案内】黒田正子 08036 【海のロマンス】米窪太刀雄 08035 【鍵】 谷崎潤一郎 08034 【白川静さんに学ぶ 漢字は楽しい】小山鉄郎 08033
【街場の中国論】内田樹 08032 【さばきもわかる 食材魚図鑑】池田書店編集部 08031 【晴れたらライカ、雨ならデジカメ】田中長徳 08030 【一杯の珈琲から】エーリヒ・ケストナー 小松太郎訳 08029
【ステレオ日記 二つ目の哲学】赤瀬川原平 08028 【氷結の森】熊谷 達也 
08027
【はぐれ鷹】熊谷 達也 08026 【バングラデシュ選詩集】 丹羽京子編訳 08025
【七夕しぐれ】熊谷達也 08024 【春琴抄】谷崎潤一郎 08023 【東京DOLL】石田衣良 08022 【日本名歌選】久保田正文編 08021
【細雪】谷崎潤一郎 08020 【事変の夜 満州国演義2】船戸与一 08019 【冠婚葬祭の秘密】斎藤美奈子 08018 【古書狩り】横田順彌 08017
【すべては夜明け前から始まる】李和馥(イファボク)著 金井修省訳 08016 【和箪笥】NHK美の壷 08015 【ラ・ロンド】服部まゆみ 08014 【Kの日々】 大沢在昌 08013
【東西食卓異聞】 高橋哲雄 08012 【父の時代・私の時代】堀内誠一 08011 【ひらがなの美学】石川九楊 08010 【大人のための残酷童話】倉橋由美子 08009
【完全マスターハングル会話】イム・ジョンデ 08008 【ゴー宣 いわゆるA級戦犯】小林よしのり 08007 【図説 アメリカ軍が撮影した占領下の日本】太平洋戦争研究会編 08006 【写楽 江戸人としての実像】中野三敏 08005
【柿喰ふ子規の俳句作法】坪内稔典 08004 【落日燃ゆ】城山三郎 08003 【敵影】 古処誠二 08002 【まいにち薔薇いろ 田辺聖子A to Z】田辺聖子全集編集室編 08001

08096

【韓国語弱点克服】林京愛 ★★☆☆ 六甲学生青年センターの朝鮮語講座に10数年通って、やめてからもう7,8年になるだろうか。Morris.の韓国語歴はそれなりに長いのだが、いつまでたっても初級を超えられないというのが実情である(^_^;)
まあ、観光旅行なら、初級クラスで別に問題なく動き回れるので、そのままほったらかしていたのだが、去年の旅でやはり韓国人ともうすこし突っ込んだ話をしたいという気持が出て、今年は2,3冊参考書を買って独習した。とりあえず、忘れないためという意味もあった。
そういうとき中央図書館で本書を見つけた。

この教材では中級、上級を目指している人に、今まで学習した内容を修めてもらうと同時に、これからの学習の方向性を提示するという二つの役割を果たすことを目指しています。つまり初級と中級・上級をつなぐ教材になることを目標としています

おお、これはMorris.にぴったりの教材ではないかと11月に借りて、なかなか進まず、結局延長を続けて、1ヶ月半がかりでやっと一通りさらうことができた。150pくらいで字も結構大きめだから、そんなにかかるわけはないのだが、そこはMorris.のサボリが原因である。それで本書のおかげでMorris.の韓国語能力が中級へ向かうかというと疑問である(^_^;) 


08095

【愛と悔恨のカーニバル】打海文三 ★★★☆ また幼馴染の男女を中心に、猟奇殺人と近親相姦、カニバリズムが繰り広げられる。ややスプラッタ傾向もあってMorris.好みとは外れるが、それでも充分楽しめた。
ヒロイン姫子の性格と行動様式がなかなか魅力的である。
翼と姉むぎぶえとの究極の愛、姫子を守ろうとする探偵事務所の面々の愛、翼が拉致した女性レポータ帆木との微妙な関係、敵役の不良青年グループの首魁悠介の恐ろしい執念と残虐ぶり、探偵社らしい隠しマイクや探知機、警察との裏情報網、携帯電話の複雑な持ち主移動、多数の登場人物のそれぞれが丁寧に描き込まれているようで、それが却ってそれぞれの異様さを際立たせるようであもる。
本書にはストーリーに直接関係ない形で2冊の本が紹介されている。1冊目は全く未知だった三島憲一著「戦後ドイツ」(1991年岩波新書)。

「読んでた本、おもしろい?」姫子は翼の肘を軽くとって訊いた。
「ぼくの頭じゃ、むずかしい。戦後ドイツなんて言われても、なんのことか見当つかないし。でも、一ページに、少なくとも一ヶ所は、心に引っかかる言葉が出てくるんだ」
「たとえば、どんな言葉?」
冷たい風が翼の前髪を吹き流した。
「行政的殺人」翼が言った。
「ふうん」
「私たちはナチスじゃないんです」翼が俳優の台詞のような言い方をした。「狡猾な無邪気さ、自分のアリバイを述べるトレーニング、宗旨変え、哀悼能力の欠如、本当は好きでもなんでもなかったのさ」
翼がリズミカルに吐き出す言葉に姫子は耳をかたむけた。全体として、何かを示しており、それがなんであるのか、なんとなくわかたような気がした。


翼の台詞「1ページに、少なくとも一ヶ所は、心に引っかかる言葉が出てくるんだ」なんてフレーズは殺し文句として使えそうだ(^_^;)
もう一冊は吉田満の「戦艦大和ノ最期」で、これはMorris.も以前読んだ覚えがあるが、翼が拉致した女性レポータが持っていた本という設定でで、二人がこの本について10ページ近くも会話を交わす。これがなかなか興味深かった。

「最期まで読んだのか」帆木が訊いた。
「読んだ」
「本が好きなのか」
「とくに好きというわけじゃない。でもこれは気に入った」
『戦艦大和ノ最期』は、燃料を往路の分だけ積んで、沖縄特攻作戦に参加して撃沈された戦艦大和の、出撃から終焉までの経緯を描いた、若き海軍エリートの体験記である。
「どこが気に入った」帆木が訊いた。
「凄い」
「知能のレベルが悲惨だな。ほかに言い方はないのか」
翼はビールを飲んだ。ほんの短い時間、言葉を捜した。
「痛切さ」
「男が抱え込んでいる痛切さ」
「うん」

「戦艦大和の巨大な砲身は、メタファというのも気恥ずかしくなるくらい、男根そのものなんだけど、お前はそのことを理解しながら読んだのか?」
「いや」
「日本海軍エリートが、大和の巨大な砲身をどこへ突っ込みたがってたか、この手記を読むとよくわかる。ヴァギナじゃない。彼らは菊の花びらに勃起してる。もちろん男の菊の花びらということになる。精液にまみれた男たちの愛を、作者は歌いあげる。」

「おまえたちがいまも強固に結んでる男の同盟関係が、この作品の舞台だ。ちぎり合ってるだろ、男は、会議室、居酒屋、フットボール競技場、小説や映画のなかで、あるいは小説や映画をつうじて、おまえたちは肛門性交をやりまくってる」
帆木は眉をちらとしかめた。自分の露骨な言葉にというよりも、しゃべりすぎたことに嫌気がさしたような仕草だった。

「あなたのさっきの言い方だと、ホモセクシャルの名作ということになる」
「正確には、男たちのホモソーシャルな欲望の物語の名作だ。ところがそれにとどまらず、戦艦大和の艦内で肛門性交に酔い痴れる男たちの背後から、もう一つの禁じられた愛の物語があらわれる。作者が意識的に構想したはずもないが、こちらの方がメインテーマだ」
「もう一つの禁じられた愛とは」
「母なるものへの欲情」
「ああ」翼はため息のような声をもらした。
「母なるものとは、戦艦大和であり、祖国日本であり、国体、天皇、ある場合には軍国の母そのものだ。男たちが国家存亡の危機に興奮してる。当時の言葉で言えば天皇アヤウシ。突撃する日本軍兵士のお母さんという叫びは、天皇陛下万歳とぴったり重なる。戦場こそ欲情があらわになる。男たちはおふくろさんとやりたがっている。いやそうじゃない。むしろこう言うべきだ。男たちはおふくろにやられたがってる」
「わかる」翼は言った。
「なにがわかるんだ」
「あなたが言う、母なるものに犯されたいという欲望は、死への愛に繋がる」
帆木が短い沈黙をおいた。
「おまえはそんなものに惹かれているのか」
翼は口をつぐんだ。自分が渇望しているのは、まさにそのようなものかもしれないと思った。帆木が、顔をなかば隠した髪の間から、視線を翼の方へちらと投げ、新しい煙草に火を点けた。
「人は女に生まれない、女になる、という有名なフレーズを知ってるか」帆木が訊いた。
「知らない」
「赤いランドセル、スカート、可愛らしいパンティ、むだ毛剃りクリーム、組閣の目玉の女性閣僚」
「なんとなくわかる」
「女は不安にかられて女になる」
「そうだと思う」
「もしそうなら、当然男も、男に、なるわけだ。もちろん不安にかられて。男たちの場合も、けっこう辛いものがあるかもしれない」


途中まではなかなか鋭いと思ったが、おしまいあたりはやや本書のテーマに即かせようとしての無理が感じられる。あまり引用が長くなり過ぎそうで省いたが、「戦艦大和」の文語表現についての突っ込みも見逃せなかった。
そして終盤、姫子と翼の最初で最期の契りの場面での会話は、本書の主題を簡潔に明示している。

「翼が夢見ていたことってなに?」姫子はやさしく誘う声で訊いた。
「権力の打倒」
「むぎぶえさんを王国から追放した権力の打倒ね」
「両親が死ねば、東京のむぎぶえが、かならずぼくをむかえにくるだろうと思った。じっさいそうなった。彼女の気持も同じだった。ぼくたちは激しく相手をもとめて、権力の打倒を夢見ていた。そして夢がかなった。まだ学生の身分だという理由で、親族が大反対したけど、それを押し切って、彼女はぼくを略奪するように東京へ連れて帰った」
「夢の王国の再建」姫子は言った。
「東京の暮らしは予想に反して辛いものになった」
「何が辛かったの?」
「北アメリカの農夫の諺にこういうのがある。願い事には気をつけろ、手に入ってしまうから」
姫子は、翼が口にした諺について、ほんの短い時間、思考をめぐらした。
「なんとなくわかる」姫子は言った。
「人間は邪悪なことに願をかける。それはよくあることで、宗教やモラルが禁じても、人間はそういうことをしがちじゃないか、という前提で、その諺は警告してる」翼が言った。
「うん、そう聞こえる」
「人間は、夢見てはいけないものを、夢見てしまうものらしい」

傑作「ハルビン・カフェ」を超えるとはいいがたいが、それでもこの作家のものをもう少し読んでみようという気になった。


08094

【下流志向】内田樹 ★★★☆ 2005年6月、友人のコンサルタント会社関連で行った講演をメインにまとめたものである。あいかわらず、ブログ、授業、対談をもとに、どんどん本を出す内田方式の一環である。お手軽で賢いやりかたである。その手腕だけでも大したものだと思うが、その分、やや手抜きというか、やっつけ本という感は否めない。文章も統一感に欠けるし、冗長でもある。それでも読んでしまう、いや、読ませる手際にMorris.は脱帽。それでも何とかその詭弁(彼は詭弁家だと思う)を、引っくり返したいと思いながら、できない自分に腹が立つ(^_^;)
タイトルは権利として与えられた教育を放棄し、労働からも放棄し、自ら社会の下部構造に属していく人々(主に若者)のことを指している。何か非常に身につまされ、腹立たしく、なおかつ必読の本だったような気がする。
「学ばない子どもたち 働かない若者たち」というのが副題で、学習と労働の放棄が子供、若者の一部(少数ではなくかなり多数)で顕著になっていて、両者は「同一の社会的地殻変動」だというのが内田の基本姿勢である。

先般、ある授業で百枚くらいのレポートをまとめて読んだのですけれども、内容はさておき、文字がすごい。小学生のような丸文字がほとんどです。内奥に関しては、一昔前なら小学校高学年程度というのが全体の半分ほどでした。「小学生的」というのは、自分の主観的な「好き/嫌い」「わかる/わからない」がほとんど唯一の判断基準になっているということです。「先生の言っていることが、私にはわからない」というのは、ふつう学生にとって自己評価が下がる事態のはずですけれど、そうではない。たぶん学生たちはそこに「批判」をこめているつもりで書いている。「言っていることが、好きじゃない」と、「言ってることがわからない」という二つの言葉でやすやすと、ほとんど勝ち誇ったように、教師が提示する論件を乗り越えてしまう。

のっけからMorris.の悪筆と、判断基準を「小学生的」と批判されたようで、正直いい気はしなかった(^_^;) でもMorris.は死ぬまでこのやりかたしかできないだろうと思う。

「何のために勉強するのか? この知識は何の役に立つのか?」という問いを、教育者もメディアも、批評性のある問いだと思い込んでいます。
「何の役に立つのか?」という問いを立てる人は、ことの有用無用についてのその人自身の価値観の正しさをすでに自明の前提にしています。有用であると「私」が決定したものは有用であり、無用であると「私」が決定したものはは無用であると「私」が決定したものは無用である。たしかに歯切れはいい。では、「私」が採用している有用性の正しさは誰が保証してくれるのでしょうか?
問題はここからいっそう複雑になってゆきます。
この個人的な判定の正しさには実は「連帯保証人」がいるのです。
「未来の私」です。
「私」に自己決定権があるのは、自己決定した結果どのような不利なことがわが身にふりかかっても、その責任は自己責任として、自分が引き受けると「私」が宣言しているからです。
これが「何の役に立つのか?」という功利的問いを下支えしているのは「自己決定・自己責任論」です。これもまた「自分探しイデオロギー」と同時的に、官民一体となって言い出されたものでした。そして、それが「捨て値で未来を売り払う子どもたち」を大量に生み出しているのです。

今や「未来の私」の資格十二分のMorris.からすると、こういう論理立てには反撥せざるを得ない。確かに「未来のある」子どもや若者にはこのくらい「脅して」でも、学ばせる、働かせる必要があるかもしれないが、Morris.くらいの年になれば、すでにやり直しがきかないし、できたとしてもするつもりもない。内田とMorris.との「価値観の違い」というべきか(^_^;)

リスク社会では努力と成果のあいだの相関関係が崩れてくると先ほど申し上げました。でも、実際には、この相関関係は社会で均一に崩れるわけではありません。それは局所的にはいまだ活発に機能しており、ある階層において集中的に崩れています。つまり、リスク社会におけるリスクはすべての社会的に均等に分配されているわけではなく、階層ごとにリスクの濃淡があるのです。そして、自分たちが生きているのは努力と成果が相関しないリスク社会であるということを認め、それゆえ「努力してもしかたがない」という結論を出しているのは、いちばん多くのリスクをかぶっている階層なのです。

ジリ貧、悪循環。つい、Morris.は昔よくやってたトランプの「大貧民ゲーム」を連想してしまったよ。まあゲームはそれなりに逆転が頻発するが、人生を1回ごとのゲームに限定すれば、たしかに貧乏籤をひいた人は浮き上がるのはかなり苦しいと思う。

日本人がリスクヘッジという技術について考えるのを止めてしまって、「正しいソリューションだけを選択し続けなければならない」というような途方もないことを言い出したのは、「間違っても大丈夫」という無根拠な安心に全国民がのどもとまで浸かっていることができているからです。日本人はそれほどまで無防備なのです。その理由を言い当てることは少しも難しいことではありません。
それは戦後六十年間戦争をしたことがなかったからです。

日本の戦後60数年間は、「死」に至る危険のすくない競争社会であり、いわばぬるま湯状況だったということだろうが、江戸時代の鎖国に通ずるものがあるかもしれない。

リスクヘッジというのは「集団として生き残る」とうい明確な目標を掲げ、そこで集団的に合意されたプランに従って、整然と行動する人々のみが享受できることなのです。
リスク社会を生き延びることができるのは「生き残ることを集団的目標に掲げる、相互扶助的な集団に属する人々」だけです。ですから、「リスク社会を生きる」というのは、巷間言われているように、「自己決定し、その結果については一人で責任を取る」といいうことを原理としていきることではまったくないのです。「自己決定し、その結果については一人で責任を取る」というのはリスク社会が弱者に強要する生き方(というよりは死に方)なのです。
「リスク社会をどう生きるか?」という問いは、「決定の成否にかかわらずその結果責任をシェアできる相互扶助集団をどのように構築することができるか?」という問いに書き換えられねばならない。僕はそう思っています。


結局リスク社会への解決策は、ネットワークでの相互扶助しかないという考え方、政治には全く期待しないということか(^_^;)
福祉国家への変身というのはまるで期待できないのだろうか?Morris.はこそっと期待してるんだけどね(もちろん今の政府にではなくね(^_^;)

現代日本人は「迷惑をかけられる」ということを恐怖することについて、少し異常なくらいに敏感ではないかと僕は思います。「迷惑をかけ、かけられる」ような双務的な関係でなければ、相互支援・相互扶助のネットワークとしては機能しません。「誰にも迷惑をかけていないんだから、ほっといてくれよ」というのは若い日本人の常套句です。たしかに、その人は、誰にも迷惑をかけていないのでしょうが、それは他人に迷惑をかけたくないからそうしているのではなく、他人から迷惑をかけられたくないからそうしているのです。自己決定について他人に関与されるのがわずらわしいので、「あなたの生き方にも関与しない」と宣言しているのです。こう宣言することによって、人々は戻り道のない社会的降下のプロセスを歩み始めます。

たしかにこれはMorris.にもあてはまるかもしれない。当人は「ひとり上手」と理解してたんだけど(^_^;)

今の子どもたちに「教育を受けること」は「権利」ですか「義務」ですかと訊ねたら、おそらく90%の子どもたちが「義務」であると答えることでしょう。
教育の「権利」を「義務」と読み替える倒錯が起きた理由は、経済合理性の原則が社会のすみずみに入り込んだせいです。
子どもたちが成熟の最初段階で、まずおのれを「消費主体」として立ち上げるというようなことは歴史上初めてのことです。それは単に生活が豊かになったとか、物質的欲望が亢進したということではなく、そのさらに以前の問題として、子どもたちが「時間」と「変化」について自らを閉ざすように、「幼くして自己形成を完了させてしまった」ということです。
ニートのメンタリティはこの「幼児期における自己形成の完了」ということを特徴とするのではないかと私は思っています。

「義務教育」という用語が誤解を招きやすい面もあるよね(^_^;) 保護者にとっての「義務」なのだけど、Morris.もなんとなく勘違いしてたようでもある。
内田自身の一貫した論理というのが良く見えない部分があるが、やっぱりそれなりの意見を出してるということは間違いない。結局形ある反論は出来ずじまいである(^_^;)


08093

【ドリーミング・オブ・ホーム&マザー】打海文三 ★★★ 2007年に死んだ著者の遺作というか、ブログに連載されていたものらしい。平凡だが繊細な男性と、幼馴染の女性ライター、40代の女性小説家3人の絡みだが、小説家の飼い犬黒いモンゴル犬がSARSに感染して、全国に大きな被害を出すというショッキングな背景もあるし、ライター女性のキャラクタがすごく魅力的なのに、おしまいあたりでどんでん返しがあったりして、なかなか刺激的だったが、小説としてはものたりない気がした。
小説家のデビュー作が本書のタイトルと同じで、これが日本では「旅愁」としてよく知られているアメリカ民謡の原題で、ライターの女の子がこれを歌う場面などはよく作ってあったと思う。

「小説であれ哲学書であれ、文章は必ず誤読される。人は自分に都合のいいように誤読するもの。他人が書いた文章も自分自身の人生さえもね。ところが聡は奇跡的に誤読をしない人間だと思う。そういうやつに編集者になってほしいな」

これも女性ライターの台詞だが、どこかで聞いたようでもある。「ハルビン・カフェ」があまりに良かったので、他の作品も読もうと思ったのだが、ちょっと肩透かしである。


08092

【大人の日本語】外山滋比古 ★★ 「30歳からの「絶対語感」の磨き方」と副題にある。
実はMorris.は、本書読み終えるまで、著者を福田恒存だと取り違えてしまっていた(^_^;) 何であの「私の國語教室」を書いたほどの人が、こんなしょうもないこと書くのだろうか、もしかして弟子のアルバイトではあるまいかなんて思ったりもした。すまんm(__)m
でも、本書の著者だって、Morris.は以前「古典論」というのを読んでえらく感心したおぼえがある。ああ、それなのに、である。

近ごろ、美しい日本語を大切にしたいという人がふえている。立っても、寝ても、構わない、というようでは、美しいことばを口にする資格はない。横になった日本語より、縦書きの日本語のほうが美しいと感じられなくてはウソである。

縦書き擁護論で、それは人の好き好きだろうから勝手だが、この文章が「美しい日本語」とはかなりかけ離れていることは間違いないと思うぞ。おしまいの「ウソである。」にいたってはガックシ、である。

大人のことばは、ゆったり間をとって話されるのがのぞましい。早口は、幼い、あるいは弱い心をあらわしている。早口が流行しているのは、自身を喪失していることのあらわれかもしれない。

早口傾向のMorris.だから、気に障るのかもしれないが、こういう決め付けも、短絡的にすぎるのじゃないかい、と、いちおう異議を申し立てておきたい。

こちたきもの言いは幼く、貧しいことばである。ゆとりある大人の話はユーモアをたたえていなくてはおもしろくない。おもしろことばは人から教わるものではなく、自分で考えだす、創作である。

本書にはこの「こちたき」がもう一度でてくる。「はじめから、こちたき話をするのは非常識だが」という使い方だった。生憎Morris.の知ってる語彙ではなかったので、辞書を引いたら以下の如し。

こちたし|事痛|言痛|[事甚(イタ)シ、ノ約]1.甚ダ多シ。甚シ。2.クダクダシラウガハシ。ウルサシ、クドシ。−−『言海』

こちたし(事甚(いた)し、からの変化)1.(うわさが)やかましい。2.はなはだしい。3.おおげさだ。ぎょうぎょうしい。4.たくさんだ。多い。−−『三省堂例解古語辞典』

こちたし[事痛し](事甚(イタ)しの約)1.口がやかましい。人の口がうるさい。2.事が多い。繁雑である。3.数量が非常に多い。4.程度がはなはだしい。5.ぎょうぎょうしい。ものものしい。−−『新潮国語辞典』

こちたし(「言痛し」の転)1.人の口がうるさい。噂が煩わしい。2.ことごとしい。おおげさだ。ぎょうぎょうしい。3.分量のうんざりするくらい多いさま。豊かだ。−−『大辞林』


なかなか多義的な言葉である。語源が「言葉が多過ぎる」ということからおおよその見当がつくが、外山先生がどの意味で使用してるのかがよくわからなかった。まあ、Morris.の語彙が一つ増えたことで良かったということにしておこう(^_^;)
それと「おもしろ言葉」なんていうのも彼の「創作」でないことを祈りたい。

このごろ、喫茶店などで、ウェイトレスが、
「コーヒーでよかったでしょうか」
というというので問題にされている。変ないい方のように思われるのは、新しいからで、ことばとしては、間違っていない。
「コーヒーですか」
とすべきなのに、なぜ「でよかったでしょうか」と過去形の動詞を使うか、といいう疑問は、過去形は丁寧さを示すものであって、時間を示すものではないことを考慮すれば、解決する。「コーヒーでよかったでしょうか」は敬語の一種とみなすことができるが、これが、正統な日本語として認知されるかどうかは時間がきめることである。
大人のことばづかいは、ちょっぴり保守的、が基準である。新語としての賞味期間のすぎたものでないと、近づかないほうが無難である。

いやいや、これはなかなかうがったご意見である。でも、その後にこう続く。

新しいものは、すぐ古くなる。古いものはもう古くならない。
大工は生木で家を建てない。


「気の利いた」「ユーモア」あふれた締め括りのつもりだろうが、どこかへんてこりんな論理ではなかろうか。

人間は、人の不幸によって、幸福を感じる。悲しい話に同情するのは、その裏返しである。ひとの不幸を喜ぶのか、といわれて、そうだといえる人はすくないが、他人の幸福を喜ばない人はいくらでもいるけれども、多くそれをかくす。

これもなかなかうがった言説だが、それにしても、目にあまるひどい悪文である。山本夏彦あたりだと、すっきりと、明晰な箴言に仕立てあげてくれただろうに。
何か、小言幸兵衛みたいになってきた。最後に、あまり美しくない日本語で書かれた「美しいことば」の考察を引いて終わりにしよう。

美しいことばといいうのは、見た目の花やかなことばのことではない。きいた人にこころよくひびくことばである。敬語は美しいことばの有力なものである。うまく使えるようになれば大人である。


08091

【下北サンデーズ】石田衣良 ★★★☆☆ 下北沢のアングラ劇団(今はこんな言い方はしないのだろうけど)「下北サンデーズ」が、女子大生ゆいかの入団をきっかけに人気を集め、団員それぞれの栄枯盛衰(^_^;)をテンポ良く描いた、良質の青春娯楽小説といった感じで、Morris.はこういうの大好きなので、あっというまに読み終えてしまった。
ヒロインの可愛さ+熱意+純真さ+才能+ノンシャランさ……が何と言っても魅力的で、それに加えて、団員それぞれのキャラが丁寧に描き出されているし、リーダーあくたがわの書く脚本のプロットもそれぞれ良く出来ている。
石田衣良は池袋ウエストゲートシリーズが好調だが、このヒロインゆいかにはまた違った魅力がある。ぜひ続編を期待したい。これはTV朝日系でドラマ化されたらしい。ネットで調べたら上戸彩がゆいか役。うーーん、これはミスキャストだったのではなかろうか。
Morris.は本書を読んで、20年位前の漫画、岡田ユキオの「レディオクラブ」を思い出した。こちらは音楽もので、パンクロックグループに、女子高校生のヒロインが参加して、刺激的な活躍を繰り広げるもので、これもMorris.好みの作品で今でも懐かしい。


08090

【鎖された海峡】 逢坂剛 ★★☆☆ 「イベリアシリーズ」第五弾!である(^_^;) Morris.はこのシリーズはすごく期待してすべて読んだわけだが、見事に下り坂傾向である。
シリーズは「イベリアの雷鳴」「遠ざかる祖国」「燃える蜃気楼」「暗い国境線」で、一番面白かったのは最初の作品、次が2作目、そして4作目にはほとんど失望したわけで、この5作目もまたなんとも気の抜けた長尺ものだ。このシリーズは1冊500pを越えていて、長編好きのMorris.は、面白ければ長いほど嬉しいと思うのだが、本書など、冗長さにうんざりさせられてしまった。
主人公北都とイギリス諜報員ヴァージニアとの恋も、出会いの2作目だけに留めておいてほしかった。本書ではほとんど二人のために周りがかき回され、あまつさえ死者も出る。まあ戦争中のスパイ小説だから死者が出るのは当然かもしれないが、どうもヘボ筋にはまりこんでるようだ。
名前覚え切れないくらいの登場人物が出てきて主要人物はほとんどどこかの国の情報部員や外交官だが、彼らの会話では、矢鱈情報公開が行われる。会話部分の多い作品だが、その会話が読者にこれまでの経過や事件を紹介に使われている。それにしても諜報員がこれだけべらべら自他の状況や活動を話すものだろうか。
ご都合主義の多さはこういった小説ではつきものとしても度を越している。
えらく辛口というか、罵倒みたいになったが、もともとこの作家は面白いものを書く力はあると思うだけに、こういった手を抜いた作をみると腹が立ってしまうのだ。もともとムラの多い作家だが、本書は電子書籍配信サイトで連載されたと但し書きがあった。このネット配信という形が、説明過多、繰り返しの原因かもしれない。もしそうだとしたら単行本化するときには、整理手直しすべきだろう。
次作は「The Longest Day」がメインテーマになるのだろうが、少しはましなものを提供してもらいたい。
戦争も大勢が決しかけた時期で、枢軸側に無条件降伏を勧告した連合国側のやりかたが、終戦を長引かせ、戦後の米ソの二極構造を生み出すことになるから、それを阻止しようというのも、後世の視点を登場人物に語らせる常套手段である。
「てをこまねいて」表現があいかわらず頻発することもMorris.の神経に障ったことは間違いない。


08089
【仲蔵狂乱】松井今朝子 ★★★☆ 孤児の仲蔵が芝居街の夫婦の養子に貰われ、苦労の末看板役者になるまでの一代記で、著者お得意の舞台だけに、歌舞伎の世界の裏側、役者と劇場、作家との関係、当時の江戸の世情までこまかく描写されている。
時の実力者、田沼意次の家臣と仲蔵の関係も大きな要素を占め、孤児出身の仲蔵が、陪臣から出世した田沼への共感を覚え、失脚した田沼の前で舞を披露する場面などは感動的でもある。
ただ、ドラマとしては盛り上がりにかけるものだった。著者としては役者より時代と歌舞伎の紹介に焦点を絞ったのかもしれないが、エンターテインメントの要素もほしかった。


08088

【再訳 朝鮮詩集】金時鐘訳 ★★★ 
本書カバーの耳には以下の惹句が記されている。

日本帝国植民地下に編纂・和訳された『朝鮮詩集』。六十余年を経て、在日の民族詩人・金時鐘は朝鮮本土に原詩収集と詩人たちの経歴調査をおこない、詩の形態を含め、原詩の保全を第一とする再訳を果たした。祖国解放からあらたな文体を経てはじめて立ち現れる朝鮮の真なる詩心とは−−。ハングル原詩との対訳、さらに詩人略歴を全面改訂。

何となくMorris.の知ってる金時鐘のイメージとは違和感を感じた。。
金素雲訳編の「朝鮮詩集」はMorris.の愛読書の一冊だった。昭和15年の「乳色の雲」を母胎として、太平洋戦中戦後にわたって形をなし、1954年に岩波文庫に収められ、これは今でも手軽に求められるし、定本と言えるかもしれない。
Morris.もこの文庫本で親しんできた。愛唱する詩も数編にとどまらない。
北原白秋をして「日本人よりこなれた日本語」と驚嘆させた金素雲の訳は、直訳ではなくほとんど創作に近い。日本での朝鮮の詩の紹介は長いこと、これ以外にほとんど見当たらなかった。名訳と定評のあるこの朝鮮詩集を、なぜ金時鐘が再訳することにしたのか。当人のことばを引用する。

私はいまもって植民地下の自分を育てあげた宗主国の言語、日本語の呪縛から自由でない。皇国少年として自分の国の言葉を捨て去っていた私にとって、『朝鮮詩集』の再訳を試みるということはそのまま、自分の原語への立ち帰りを図ることであり、「解放(終戦)」からこのかた抱き続けた自己課題への、六十年越しの取組みであることに私の再訳の理由は尽きる。母語から切り離されていた私が、青春の走りに金素雲氏の玄妙な日本語によってそこはかとなく魅入られた朝鮮近代詩の、今に滞っている情感を見究めたい、という思いもそこにはむろん絡んでいる。

なかなかに重く深い動機があったようだ。

訳の是非が今後とも論議されることを期待して、各作品の下段にその作品の原詩も記載することにした。隣人の言葉、朝鮮語習得の一助にでもなれれば、廃絶されかねない朝鮮語の危機のなかで、なおその言葉に執着した朝鮮の詩人たちの母語への尽きない愛にも、そして言葉そのものへの尊厳にも重いが至ろう、との願いも込めてのことである。

たしかに原詩と訳詩を並べるというのは、学習者にとってはありがたいし、辞書を見ながら細かいニュアンスを調べることも出来る。
しかし何よりも訳者の並々ならぬ自信なしには成しえないだろう。

日本人の多くがそうであったように、私も金素雲氏の『朝鮮詩集』を介して朝鮮の"詩心"に接しえたひとりである。
ひたむきな「皇国少年」であった私が、金素雲の全詩業といってよい訳詩集『乳色の雲』から汲み取り、感じ入ったものは、酷薄な歴史の試練にさらされてあった朝鮮の"詩心"からは遠くかけ離れたものだった。近代抒情詩とひびき合っていたことの共感であり、それへの感激であった。綿々とした詠嘆の抒情に、新日本人になりたての少年が酔いしれたのだ。いや絢爛たる日本語、雅語までがよどみなくあふれ、玄妙ないいまわしにも音数律が整ってあるその日本語に、十二分にかかえこまれてあるわが朝鮮の"詩心"が嬉しくてならなかったのだ。廃絶の憂き目にある「朝鮮語」の痛みには、ついぞ思いの一片すら及ぶことのなかった私であった。


金時鐘の率直で真摯で真っ正直な物言いにはいつも感動させられる。自分の少年時代のこういった記憶はなかなかこのように表明できない。Morris.なんか絶対無理である(^_^;)
「反韓分子」のレッテルを貼られた金時鐘は訪韓しての原詩調達が難しかったが、友人たちの熱意で全ての原詩を調達できた仔細はあとがきに詳しいが、その中に、協力者のひとり音谷健郎が、『金素雲対訳詩集 上・中・下』三巻の複写本を釜山の古本屋で見つけたと届けてくれたと、いう記載が目を引いた。
実はMorris.はその対訳詩集の上巻、中巻の2冊を所蔵していたからだ。やはり釜山の古本屋でずいぶん以前に掘り出したもので、1978年亜成出版社発行となっている。『朝鮮詩集』所載の詩は大部分が上巻に収められているから、もし、このことを前から知ってたら金時鐘さんに提供することも可能だったはずだ。そう思うとちょっともったいなかったような気がした。

Morris.はこの再訳詩集の動機、意義、原詩付、詩人の新しい略歴付という恩恵を理解しつつ、必ずしも全面肯定できないものを感じた。
一つはこれまで愛唱し続けた金素雲の詩の第一印象があまりに強烈で、金時鐘訳に馴染みにくいし、作品としての優劣の点である。
もう一つはこういった撰集では、その作品や詩人の取捨選択、選別こそが選者の腕の見せ所でもあるはずだ。それを放棄する形で、他人の選んだ選集をそのまま踏襲することへの疑問である。特に世評の高い訳詩選集、例えば堀口大学の「月下の一群」を新たに再訳する試みを想像して見れば自明だろう。
訳詩が直訳であろうと意訳であろうと、訳された作品が優れたものかどうかは、その訳詩そのものが読者にどれだけ感動を与えるかに尽きる。とMorris.は断定しておく。もちろん、これはMorris.の自分勝手、偏見と思われるかもしれないが、という意味においてではあるが。
結果としてMorris.は金素雲訳に軍配をあげたくなるのだ。
一例としてこの選詩集の中で一番二番くらいに好きな詩の二人の訳を対比しておく。

南に窓を 金尚(金+容)キムサンヨン 金素雲訳

南に窓を切りませう
畑が少し
鍬で掘り
手鍬(ホミ)で草を取りませう。

雲の誘いには乗りますまい
鳥のこゑは聴き法楽です
唐もろこしが熟れたら
食べにおいでなさい。

なぜ生きてるかつて、
さあね−−。

南に窓を 金尚(金+容)キムサンヨン 金時鐘訳

南に窓をしつらえるとします
ひとりで耕せそうな畑を
鍬で掘り
手鍬(ホミ)では雑草を取ります。

雲が賺(すか)したとてその術(て)に乗りましょうゃ
鳥の歌は只で聴きとうございます。
唐もろこしが熟れたら
共にいらして召し上がっても結構です。

なぜ生きてるってですか?
そういわれても笑うしかありませんね。


青葡萄 李陸史イユクサ 金素雲訳

わがふるさとの七月は
たわゝの房の青葡萄。

ふるさとの古き伝説(つたへ)は垂れ鎮み
円(つぶ)ら実に ゆめみ映らふ遠き空。

海原のひらける胸に白き帆の影よどむころ、

船旅にやつれたまひて
青袍(あをごろも)まとへるひとの訪るゝなり。

かのひとと葡萄を摘まば
しとゞに手も濡るゝならむ、

小童よ われらが卓に銀の皿
いや白き 苧(あさ)の手ふきや備へてむ。
青葡萄 李陸史イユクサ 金時鐘訳

わが在所の七月は
青葡萄が熟れていく季節

この里の言い伝えがふさふさと実り
遠い空が夢みつ粒ごとに入り込んで

大空のもと蒼い海はいっぱい胸をひろげ
白い帆舟がしずかに上げ潮に押されてくれば

待ち遠しいお方はやつれた体で青袍(あをごろも)をまとい
必ず訪ねてくると言われているのだから

そのお方を迎え青葡萄酒を共に摘んで味わえるのなら
わたしの両手はびっしょり濡れてでもよいものを

あこよ、わが食卓には銀の盆に
真っ白い苧麻(モシ)の手拭きを用意しておいておくれ

どちらも有名すぎる作品でちょっと鼻白むかもしれないが、金時鐘訳で最初にこの2篇を読んだとしたら、Morris.の愛唱詩になっていたとは思えない。「なぜ生きてるかって、/さあね−−。」と「なぜ生きてるってですか?/そういわれても笑うしかありませんね。」の一節を比べるだけで歴然だろう。確かに原詩の最終行は「ウッチョ(笑わせるね)」くらいの意味だから、金時鐘のように訳したら「笑う」という単語が使われていることはわかるが、原詩の軽妙さは消滅してします。金素雲訳は、原詩より軽妙かもしれない。
「海原のひらける胸に白き帆の影よどむころ、」と「 大空のもと蒼い海はいっぱい胸をひろげ/白い帆舟がしずかに上げ潮に押されてくれば」では詩形では原詩も2行になっているから、金時鐘訳がその姿を写しているのは間違いないが、一行に刈り込んだ金素雲訳と比べると金時鐘訳は冗長に感じられる。
こういった採点表みたいなことは詩の鑑賞には不要だろうからいいかげんにやめておくが、金素雲はこの詩が好きで選び訳したかったのだと思いたい。
もちろん作品の書かれた時代、状況、詩人の思想、生涯などを知ることで作品理解が深まったり、広がったりすることはわからなくも無いのだが、やはりMorris.は結局のところ、食べ物も音楽も絵画も人も文学も「好き嫌い」でしか評価できない人間のようである。

『朝鮮詩集』の詩の選び方については金時鐘も時代背景を明確に把握している。

素雲氏が『朝鮮詩集』を編んだ折は、「内鮮一体」が「聖戦完遂」の呼号とともに強く叫ばれた時節で、訳詩集の内の少なからぬ詩人たちが「皇道派文学」に手を染め、金素雲自身もそう多くはないけれどやはり「聖戦」鼓舞の詩や文章を書いた。あの横暴な嵐の時節、よくよく誰が自分の身を時代に逆らって処しえただろう。問いを自己へ向けて発するとき、詩をつむぐ抒情の脆さが今になって思いうかび、詩人でありつづけることのしたたかさもまた、その抒情の内質が培う意志力なのだと、改めて自分に言い聞かせずにはいられなかった。
「朝鮮近代詩選」にしてはどうしたわけか、当然収録されていなくてはならない詩人や作品が少なくなく洩れている。もちろん「近代詩選」を編んだ訳者、金素雲氏の好みが働いてのことではあろうが、それにもまして、時局にそぐわない作品や詩人は下ろさざるをえなかったという、戦時下の戦時下の植民地朝鮮の状況、も考慮に入れなくてはならない『朝鮮詩集』でもあるということである。


まさにそのとおりなのだし、それだけに金素雲の『朝鮮詩集』の選択に疑問や制約があるとすれば、なおさら、金時鐘自身の"詩心"で選ばれた詩人と作品によるいまひとつの『朝鮮選詩集』を編んで欲しかった。
先日、学生センターでの講演のあと、打ち上げがあれば同席してこんな話もしたかったのだが、金時鐘さんの体調が思わしくないことも会って先に帰られることになった。心残りでもあったが、彼には長生きしてもらい、心に沁みる詩を一編でも多く書いて欲しい、というのが本心でもある。


08087

【ハルビン・カフェ】打海文三 ★★★☆☆ この著者の作品は2002年に「灰姫」という作品を読んでいる。それなりに評価してたみたいなのに、そのまま読まずにいた。ところが打海は2007年に亡くなってしまったらしい。Morris.と同年生まれだから、58歳というのは作家としては早死にということになるだろう。
本書は福井県の海市という仮想都市を舞台に、中国人、朝鮮人、ロシア人のマフィアと警察内部のマフィア(Pと呼ばれる)集団の抗争、潜入者の特定、殺害された遺族と仲間の遺恨の晴らしあい、神と悪魔の両面を持つ超人的犯罪者、幼児期より娼婦として売られた女性の数奇な運命、公安と警察の鬩ぎあい……というぐちゃぐちゃに錯綜した事件の記録である。それををこれだけ緻密に組み立てた作者の力量に参ってしまった。実のところMorris.は半分くらい読んでもいまいち登場人物同士の関連がほとんど掴めずにいた。もっとも、これは著者が故意にそうしむけたと言えるかもしれない。
短い章ごとに、登場人物の名が入れ替わり立ち替わり名指しされていて、時間空間的にもランダムに入り乱れる構成だ。最近よく見かける、舞台や登場人物を交互に組み合わせるやりかたを、一層煩雑にやってるわけで、Morris.はこれが苦手なのだが、本書みたいにずっと混乱させられっぱなしということはめったにない。
それでも読むのをやめなかったのは、いやわからないなりにのめりこんでしまったのは、個々の登場人物のリアリティと、エピソードの緊迫感、描写の精密さ、台詞のうがちにあったのかもしれない。

「死刑制度が存在し、現実に刑が執行され、拳銃を携帯した警官が犯罪者を撃ち殺しても職務の遂行として許される日常があるんだから、YESということになる。ところがカルトが教義にもとづいて人を殺すと犯罪になっちゃう。つまり法の正義だけが正義と考えられている。これはおかしいと思う。神の名においてと言おうが、理想の実現のためだろうが、法の正義を振りかざそうが、どの根拠も等価のはずでしょ。神、理想、法、ぜんぶ人間の頭がひねり出した観念の体系なんだから、。誤解のないように言っておくけど、法治国家に反対してるわけじゃないの。わたしが言いたいのは、どんな観念体系が支配していようが、殺人は殺人であるということ。そこであなたたちにお願いしたいことがある。法の正義にもとづくものであれ、報復テロルであれ、殺人を犯すことがあったら悩んでほしい。人を殺すことの意味について、孤独のうちに思索を重ねて、形而上学的な設問に煩悶してほしい。その絶望的な営為の果てに、殺人者が精神の高みに近づいた稀有な例があるけど、それも前世紀初頭にロシア皇帝の馬車に爆弾をぶん投げた連中までの話ね。近ごろのポリ公なんて最低よ。悩む能力すらないんだから」

居酒屋アルバイトの中国籍朝鮮族の若い母が警官たちの愚痴を聞いてそれに対する台詞だが、これだけで本書のカラーが読み取れると思う。
また、超人的ヒーローに篭絡された警察幹部の台詞、

「どのみち最後は、官僚組織特有の防衛システムが自動的にはたらくから、それを見物していればいい。警官は警官の半歳を隠蔽しないではいられないってわけだ」

という、なかばやけくそ気味の台詞に、本書のテーマが突出したりもしている。
地の文にもいろいろ趣向がこらされている。

下級警官の反乱はときに市民の喝采をあびることさえあった。みもふたもない言い方になるが、人間は秩序破壊にカタルシスをおぼえるものであり、自分の立場が脅かされないかぎり、そうしたカタルシスをおぼえることを隠さない。メディアと市民は、Pのテロルの熱狂的なギャラリーとして伴走しつつ、煽り立て、暴動への期待を滲ませてきた。しかしながら、眼を覆う惨事が引き起こされたときには、声をふるわせて断罪してみせ、そして風向きが変わってしまえば、深刻な顔つきで時代の終わりを宣言する。
もちろん、メディアと市民とはわれわれ自身のことだ。

過去は二度ともどらない。あの日あそこで起きてしまったできごとを、後になってべつの結果にみちびくことなど、誰にもできない。過去とは怨恨とともに記憶されるなにかだ。振り返るそばから、過去は神の悪意にみちた世界として立ちあらわれてくる。悔み切れぬ思いに悶えて人は怨恨を抱く。この負の感情を相殺できるのは、復讐する快楽だけ。


ね、なかなかかっこよかったり、含蓄ありそうでしょ。
ただ、Morris.嫌厭の「手をこまねいて」表現(p37)があったのが、☆ひとつくらい評価落としてしまったけど、これは登場人物の台詞だから、その登場人物が、そういう誤用したのだといえなくもないか(^_^;)
全くストーリーのことなどに触れず終いだが、ヒロインのヒーローへの思いは、飛んでもなく複雑で純粋に狂っているのだが、Morris.はザ・ピーナッツの「大阪の女」の台詞「悪い噂も聞いたけど、やさしかったわ私には」を思い出してしまった(^_^;)


08086

【禁じられた歌 朝鮮半島音楽百年史】 田月仙(チョンウォルソン)★★★★ まるでMorris.のために書かれたような、興味深く面白くてためになる久々のヒット本だった(^_^)
ソプラノでオペラ歌手である著者の名前には聞き覚えあったものの、ほとんど未知の人に近い。しかしこの本は素晴らしすぎる。
日本の植民地だった時代に、日本側から禁止された曲、解放後さまざまな理由で政府から禁止された曲10数曲を取り上げ、上っ面だけの解説でなく、作者、歌手、関係者に積極的に取材して、肉声を通して、それぞれの曲に迫っていくやりかたは、彼女の職業から得られる利点(世界各国での取材)を別にしても、何よりも、音楽の世界への信仰にも近い愛情と畏怖があってこそのたまものと思われる。
何はともあれ、取り上げられた曲を総覧しておく。

アリラン 世界中のコリアンが歌う民族の歌
鳳仙花(ポンソンファ) 芸術歌曲の父と親日派狩り
春香伝(チュニャンジョン) ふたつのラストシーン
イムジン江(イムジンガン) 北から統一を願う歌
高麗山河わが愛(コリョサンチョンネサラン) 在外コリアンの願い
椿娘(トンベクアガシ) 倭色とのレッテルを貼られて
カスバの女 早すぎた韓流
黄色いシャツの男(ノランシャスエサナイ) 歌謡史を変えた幻の音盤
ブルーライトヨコハマ 韓国人がもっともよく知る日本の歌
朝露(アチミスル) 伝説のシンガーソングライターの物語
あ!大韓民国(ア!テハンミングク) 同名の禁止曲と健全歌謡
カスマプゲ 韓国名の歌手、初めて日本で成功
釜山港へ帰れ(トラワヨプサンハンエ) 海を越えたチョヨンピル現象
I LOVE YOU と恋人よ 立ちふさがる壁を歌は越えていった

15曲中13曲がMorris.周知の曲で、その半分以上が愛唱曲であるというだけでも読まずにいられなくなるが、かなり知ってるつもりだった歌の、知られざるエピソードや、発表にまつわる秘話、そして先にも触れた、当事者、関係者からの生の声の取材、久しぶりにMorris.カ・ン・ゲ・キ!!の一冊だった。

豊臣秀吉の文禄・慶長の役で焼かれたのち1868年に再建された慶福宮。「アリラン」とは、その復元工事のため、全国から動員された労働者たちが、妻や愛する家族と別れる悲しみを歌った「我離娘(アリラン)」が語源だという説がある。また、労働だけでなく、その抑圧の苦しさのあまり、いっそ耳が聞こえなくなってしまえば、と嘆いて詠った「我耳聾(アイロン)」が変化したという説。ほかに、故郷や家族を離れがたいという意味を含む「我難離(アナンリ)」や、口も耳も不自由な「唖而聾(アイロン)」から来ているという説もある。
感じだけでなく、音や地域、囃子歌、口歌の形式など、「アリラン」の発祥ではないかと思われるものは、数え切れない。
「アリラン」が民族の歌になったのは、王宮・慶福宮の正面をふさぐ形で、朝鮮総督府庁舎が建てられた1926年京城の映画館・団成社(タンソンサ)で公開された、ナウンギュ監督の映画「アリラン」がきっかけになったといわれている。


この団成社は1907年に開設され、韓国映画の歴史そのままみたいな存在だったらしい。この夏ソウルでこの映画館の変わり果てた姿(リニューアル)に出会ったMorris.はがっくりしたものだが、それほどの歴史的映画館ならもう少しリニューアルのやりかたも考えて欲しかったな。

(アリランの)多くの歌詞に共通するのは「峠(コゲ)を越えていく」というフレーズだ。同じ発音から「苦界(コゲ)」と書かれることもある。人々は歌うことによって、さまざまな心の峠を越えようとしていたのかもしれない。そして「アリラン」は、それぞれの地域において時代の精神を反映しながら土着性を持って変化し、抵抗の歌、離郷の歌、戦いの歌、そして喜び、希望の歌ともなって、世界に広がっていったのであろう。

中国朝鮮族、ロシアのカレイスキー、ロサンゼルスの在米コリアンのアリランを現地取材した上でのこの総括は深い意味を持ちえていると思う。
最初の「アリラン」の章だけでもまだまだ、引用、紹介したい部分は多い。本書のいくつかの歌は、それだけで、一冊の本になりそうである。
やはり、韓国歌謡に少しでも関心ある方は、本書を読むべきだ、と、断言しておく。

「鳳仙花」は韓国随一ともいわれるホンナンパが1920年に作曲した、珠玉の歌曲である。歌曲はどちらかというと苦手のMorris.でも、この歌はずっと愛聴していた。決定的だったのは、映画「死の讃美(サエチャンミ)」で、チャンミヒ演じるユンシムドクが、日本人高官の前で韓国語で歌い上げるシーンに痺れてしまったのだ。実際にこの歌を創唱したのはユンシムドクではなかったようだが、それはどちらでもかまわない。これほど美しい歌曲を書き、さらに国民全員が愛唱していたと思われる「故郷の春」も彼の作品だというだけでも尊敬されて当たり前なのに、なんと、盧武鉉大統領時代の「親日派」追求のあおりで、ホンナンパが「親日派」に指定され糾弾され、「故郷の春」や「鳳仙花」も公式の場では歌えなくなったとのこと。
また国民歌手のはしりともいえるナムインスも同じく「親日派」と指定されて彼のヒット曲もおおっぴらには歌えないとか。そんなバカなことがあっていいものか、とMorris.は悲憤慷慨状態である。思い切り大声で「イビョレプサンチョンゴジャン」を歌いたくなった。
そもそも、日帝植民地時代に総督府の役職についたり、官吏になったり、警官になったり軍人になったり、日本の政策に協力した朝鮮人全てを「親日派」と呼んで貶めようということ自体がおかしいとMorris.は思う。
何しろ韓国で「親日派」というレッテルは、「犬畜生」の数倍の強度の罵倒語である。21世紀の現在、日本に関心を持ったり、好きだったりする韓国人でも絶対自分のことを「親日派」とは言わない(言えない)。「知日派」というのがその代用語である。同じ漢字を用いるからには、語義くらいは理解して使ってもらいたいものだ。「親日派」という語が罵倒語として存続する限り、日韓の真の友好なんてありえないとさえ思ってしまう。
どんどん話が横道に逸れていくが、「ナムインス歌謡祭」に参加していた80代のハラボジのことば「あの当時はみんな親日派じゃないか」に耳を傾けるべきだろう。
もちろん解放後の混乱期に、アメリカ軍が進駐して、統治の利便のために日帝時代の官僚、警察官、軍人などを韓国政府の要職につけ、結果的に日帝時代の既得権がそのまま続いた、という、歴史的事実に眼をつぶろうというわけではない。ただ、戦争協力の歌を作ったり、歌ったりしたというのは、少し違うんじゃないかと思うのだ。これ以上この問題について述べるのは控えておくが、いずれまた改めて考えてみたい。

イミジャの「トンベクアガシ」は1964年映画主題歌として発表され韓国歌謡史に残る大ヒットとなったが、翌年「倭色歌謡」ということで禁止曲になり、1987年に解禁されるまで20年以上、表向きは歌うことを禁止されたが、実際には根強く愛聴、愛唱され続けたらしい。

しかし、禁止した当の政権最高権力者の朴正熙大統領は、禁止曲を好んで聴いていたおうだ。李美子は、1972年、後に日本の首相になった福田赳夫外相が訪韓した時、迎賓館での晩餐会で、朴正熙大統領直々に「椿娘」をリクエストされ、禁止曲だったにもかかわらず歌ったと証言している。

韓国で禁止中の1966年、日本で「恋の赤い灯」というタイトルで、元歌とはまるで違った日本語歌詞でレコード発売されたというのは初耳だった。ヒットした形跡はないが、韓国では彼女の日本デビューに反対する声も多かったようだ。

そして、Morris.が昨年来よく歌ってる「カスバの女」の章で、著者はこの歌の作曲者ソンモギンと1996年と67年に東京で遭い、様々な話を聞いたとある。
彼の伝説的ヒット曲「木浦の涙 モッポエヌンムル」の2番の歌詞の出だし「三柏淵 願安風は(サンベギョン ウォナンプンウン)」が「三百年 恨みをこめた(サンベニョン ウォンナンプムン)」と聞こえるため、日本の警察に問題視されたというのも面白かった。そして現在の楽譜の歌詞はきっちり、後者のとおりになってる(^_^;)
Morris.が愛唱してる韓国語歌詞は、ネットで知合った冬ソナさんから教えてもらったのだが、ペティキムが1967年に日本語版をテイチクから発表。そして翌1968年に全曲韓国語のアルバムをビクターから出し、その中に「カスバの女」韓国語バージョンも収められていたとのこと。これもあまりヒットした形跡は無いが、当時ペティキムの夫だった吉屋潤の作詞(訳詩)で、3番まである歌詞を、韓国語版では上手にパッチワークして2番にしたことなどとあいまって、今や、Morris.には愛着の深い一曲になっている。

「黄色いシャツ」の作曲家ソンウソクを自宅に訪ね、その音盤は希少品で作曲家も持ってないと聞いて、黄鶴洞の中古レコード市場を探し回り、ついにそのの初版LP音盤を掘り出して、作曲家にプレゼントしたという感動的な逸話もあった。

さらに、70年から80年代にかけて、韓国でなぜ「ブルーライトヨコハマ」があれほど親しまれるようになったかの仮説は小説よりも面白かった。

1972年、大統領と同じ名前のパク・チョンヒは、故郷の慶尚南道から日本にいる叔父を頼って東京へやってきた。
一ヶ月間日本に滞在し帰路につく時、いしだあゆみの歌う「ブルー・ライト・ヨコハマ」の入ったカセットテープを買って、釜山港に持ち帰った。
その後ソウルで、日本語を教える学院に勤め、生徒たちに日本語を教えていた。その時に「ブルー・ライト・ヨコハマ」の歌詞をテキストに使った。日本語の歌詞に韓国語のルビを振り、声を出して一緒に読みながら、生徒たちに単語の意味を説明したという。
パクはときおり、軍隊生活で知合った親しい友人たちと一緒に、ソウルのポジャンマチャ(屋台)に寄り、焼酎を飲んだ。過酷な軍隊生活を思い出しながら、よく飲み、話し、笑い、歌った。今でもはっきり覚えているのは、割り箸でキムチチゲの鍋をたたきながら、皆で歌を歌ったことだ。パクは箸でリズムを取りながら、大好きだった日本の歌「ブルー・ライト・ヨコハマ」を歌った。友人たちも、うろ覚えの日本語歌詞で、一緒に合唱したという。

これは出典が明らかにされていないが、如何にもありそうな話だし、パク青年のポジャンマチャでこの歌を熱唱する姿が彷彿して、微笑ましく感じられた。
著者の専門家としての分析もなかなかのものである。

なぜこの歌が韓国で受け入れられたのか。作品の魅力以外にはなかなか答えは見つからない。
それまでの韓国では聴くことのできなかった軽やかで可憐な音楽、八分休符から不意をつくように、アウフタクト(弱起)の八分音符が半音を経て下降する出だしのメロディ。軽やかなリズムに乗って繰り返される「ヨコハマ」という語感の不思議な安定感。歌の繰り返し部分をのぞいても6回繰り返される「ヨコハマ」という響きがまるでおまじないのように、日本語を知らない人々の脳裏に印象付いたのかもしれない。
歌の持つさまざまな要素が、当時の抑圧された韓国で、新しい音楽として受け入れられえたのだろう。
事実、「ヨコハマ」が地名だとも知らずに歌っていたという人が圧倒的に多かった。そして2002年のサッカーのワールドカップ決勝の地「横浜」について、韓国ではあの「ブルー・ライト・ヨコハマ」の歌に出ている「ヨコハマ」だと解説されるくらいだったから、いかにこの歌が知られていたかおわkりいただけると思う。


確かに「YOKOHAMA」の「OOAA」という母音の響きは印象的である。先日のソジョンミン先生歓迎の宴席でこの歌を歌ったとき、先生の指示で「ブルーライト神戸」と歌ったら何となく間抜け(^_^;)になってしまったことを思い出した。やっぱりこの歌は「KOOBE」ではなく「YOKOHAMA」だ。

東芝EMIの若手プロデューサー花田が1975年、ソウルのパシフィックホテルでカーペンターズを韓国語で歌っているイソンエを見つけ、彼女がこぶしの利いた唱方が得意なことから、演歌調の歌で売り出すことにして、音楽評論家の岡野弁が「演歌の源流を探る」というキャッチフレーズを生み出した(でっち上げた?)というくだりも、興味深かった。
1977年レコード大賞の企画賞受賞したイソンエだが、その頃はまだ韓国への関心も興味も薄かったMorrisが、なぜか彼女のステージでピンスポット照明のバイトをしたことがある。今となってはうろ覚えだが、会場は神戸大倉山の文化ホールで、たぶん民団関連のイベントだったと思う。何かの式典があって、そのアトラクションにイソンエショーが添えられていたようだ。当時、平岡正明や竹中労あたりが、彼女に関して熱い文章を書いてたのでそれに刺激されて、けっこう熱心に見たような気もするのだが、いまいち印象は強くない。
「カスバの女」の韓国語歌詞を紹介してくれた冬そなさんなんか、熱烈なイソンエフリークらしい。彼はまだ二十歳になるかならないかのはずだから、ちょっと不思議な気もする。

省略した歌にも、それぞれ深い考察と愛着と積極的取材姿勢が横溢している。いやあ、本当に久しぶりに充実した読後感である。中公新書という手軽な体裁で出版した中央公論社も賞賛に値する\(^o^)/


08085

【オタク論!】唐沢俊一×岡田斗司夫 ★★★☆☆ オタクOB!?の二人の対談集。初出は雑誌「創」で、2004年から2007年の間に不定期連載されたらしい。
二人とも1958年生まれ、Morris.は韓国おたくを自称してるけど、彼らが論じる意味でのオタクではないだろうし、アニメにもフィギュアにもほとんど関心が無い。それなら、本棚の上に並んでいるペコちゃんグッズの群は何だと突っ込まれそうだが、あれは違う。ということにしておこう(^_^;)
コミケやら、アニメ、ゲームやら、電車男やら、メイド喫茶、mixiのことなど、Morris.には無関係、無関心な部分は飛ばし読みしたのだが、web日記、マンガと評論、「オタク論」、感性格差社会の到来などの対談は面白かった。
岡田はその頃から仕込んでたネタのダイエットのことやら、見た目社会など、自分中心発言が目立ったが、押さえるところは押さえている。
唐沢はお得意の雑学ネタの披露サービスもしてくれるし、どちらかというとMorris.の共感を呼ぶ発言が多かった。

唐沢 19世紀にバガニーニという音楽家がいて、彼が初めてイギリスで公演をしたときに、バーナード・ショーがくそみそに書いた。ところがパガニーニはその文章を自分の講演会のポスターに使った。そしたら「あのバーナード・ショーがこれだけくそみそに言うんだから」ということで大入り満員になったという。これは19世紀ロンドンの住民たちが成熟していたからできたわけですね。悪口というものがマイナスの要因ではなく、悪口を言われてるから正面から観てやろうじゃないか、というように観客の方が成熟すれば、宣伝効果があるということですよね。

唐沢 「スーパーサイズ・ミラー」という1ヶ月間マクドナルドを食べ続けるというドキュメンタリーがありますけど、あの冒頭に「日本のマクドナルドは食べても太りません」と出てくる。そんなバカなと思うけど、あれは本当なんですよ。揚げる油が違うんです。アメリカではパーム油というヤシ油を使ってるんです。パーム油は肥満の原因になる飽和脂肪酸でほぼ100%できている。非常にうまいがとにかく太る。何のためにパーム油を使ったかというと、とにかく低所得者層に食の満足感を与えるためなんです。油っぽいものを食べないと人間って満足できないじゃないですか。低所得者はとにかくお腹を満たさないと働く気にもならないわけで、朝からハンバーガーやポテトフライwど食べる。しかも安く食べられる。ニクソン政権が、低所得層のための福祉として、安いパーム油の使用を許可したんですよ。それから肉の値段も徹底的に抑えた。肉を食べると、肉の中にはアナンダマイトという快楽物質がありますから、それを食べると不平不満を言わなくなるんです。
岡田 70年代に入ってアメリカで公民権運動や市民運動が極端に減ったのは、そうやって食わされていたからなんですね。面白いですね。「衣食足りて礼節を知る」ですよ。特にこの貧困層が急激に太るんですね。
唐沢 デブは貧乏の紅しですね。これが知の層でも起きているんじゃないかと。マンガにしろ何にしろ無料で与えられているわけだけど、無料のものを一生懸命読みこもうとはしませんよね。自分で買ったものではないから、簡単に読み捨てていく。


これはちょっとしたブラックユーモアだね。岡田のことわざの引用がちょっと変だったりするけど。最近GyaOのドラマやKBSのアーカイブなんか、無料提供のドラマや番組にはまってるMorris.にはちょっと耳の痛いぶぶんもあるけど、まあ、もともとMorris.は本はほとんど図書館利用で、Morris.の「知の層」は安上がりだったことは間違いない。この本だってタダで読んでるわけだし(^_^;)
また、唐沢のWEB日記は長いことで有名らしいが、その日記への言及。

岡田 毎日書いて、おまけに読んでいる人がいないとできない。
唐沢 読んでる人がいる、というのは大二ですね。個人の日記をサイトにあげるということで、今、日記を書いてる人の数って、日本の歴史上一番多いんじゃないでしょうか。
岡田 日記は随筆系では最初の文学形態と言われますからね。
唐沢 日記から発展して、誰かが嘘を書いてもいいんじゃないかと思いついたのが、小説・創作なんでしょうね。


おいおい、これはちょっと違うんじゃないかいと思ったのだが、

唐沢 日記は自分を後世に残す一番楽な方法ではないかという気もする。多少の見栄も書けますし、自分の感情の乱れを付ける。記録に残すというのは勇気が要りますけどね。

というのはこのMorris.日乘のスタンスに似ていると思う。
最後に結論めいた二人のやり取り部分を。

唐沢 昔は大人と子供の世界の区別が厳然とあったんで幼児性は成人とともに意識下に潜むものとなったんですが、その区別のない現代では、よりダイレクトに、子供時代の嗜好がそのまま社会的な嗜好になっていく。アニメ、ゲームといったジャンルの強さはそこですえん。これを凌駕する影響力のあるものといったら、グルメ(味覚)くらいしかないんじゃないか。
岡田 オタク的な趣味というのはせいぜい3〜5歳くらいの趣味ですけど、グルメというのは1歳2歳くらいのものですからね。
唐沢 昨今のグルメブームというのも、昔のように文化的な教養でもって「八百善の何とかは云々……」というのではなくて、もっぱら自分のベロを世界の中心に持ってくる幼児期記憶からものなんです。「美味しんぼ」を読むと、子供の頃食べた味が社会的に成功しても忘れられなくて……という話が非常に多い。文化的にッ味覚を洗練させていく考えとは正反対で、教養の積み重ねが人間を高めていく、という思想はここでも拒否されている。
岡田 整理すると、人間が幼児化することをリヨンdね擁護したのがオタク化なわけですね。


やや整理しすぎた観もあるが、こういったところで、Morris.もオタク文化に深入りしなくて(できなくて?)良かった、ということにしておこう。


08084

【人間噂八百】足立淳 ★★★☆ 2007年無料漫画誌「コミックガンボ」(20007年一年で廃刊)に連載された有名人の噂漫画である。

彩野華羅(さいのかわら) さてこのマンガ『人間噂八百』とは、毎回ひとりの有名人にスポットを当ててその人のさまざまなエピソードを語っていくという内容なのよ。
アシスタント中島 そういう形式だから、司会者やアシスタントがいるんですね。有名人とは実在の芸能人やスポーツ選手文化人など、いわば「普通にメディアへ出ている人」がメインですね。
彩野 そしてその有名人たちの知られざるゴシップを紹介したり、あるいは誰でも知っている話を角度や切り口を変えて分析していたのよ。もちろん確証も裏もとれていない推測とかあるけどね
中島 ダメじゃないですか〜!!!
彩野 だから「噂」とか「ガセ」とか言ってんじゃないの!!
中島 あ
彩野 そういうわけでお楽しみください
中島 しかしよく単行本になりましたね(奇跡だ)


単行本化に際して冒頭に書き下ろされたプロローグのセリフの引用だが、これで内容は良くわかる。全編この二人のやり取りで構成されてるし、実に要を得て簡略にして手馴れた技を見せてくれる。しかし、絵の方ははっきりいって「下手」ことに各回登場人物の「似顔絵」は、あまりに似ていないというか、噴飯ものである。これも一種のギャグかもしれない。
取り上げられてる50人ほどの中には、Morris.の知らなかったり名前だけしか知らない人物も結構いるし、かなりの偏向も見られるが、そんなこと抜きにして面白かった。
Morris.の印象に残ったトリビアをランダムに引いておく。

・ズバリ、日本人は「抜けてる天才」に弱いの!! 
サードの長嶋が一度だけ、セカンドゴロを捕ったことあるらしい。このときのショートが広岡達郎で、二人の確執の原点はここにあるのでは?(長嶋茂雄)
・ユーザーの立場に立った自動車評論というスタイルは徳大寺が『間違いだらけ』で切り開いたもので、彼がいなかったら評論家はあいかわらずメーカーのタイコモチで、国産車も欧米に追いつき、追い越すこともなかったかもしれない。(徳大寺有恒)
・青島幸男は長い間中野のブロードウエイに住んでた。40年ほど前のブロードウエイは今の六本木ヒルズみたいなものでセレブたちの憧れの場所だった。(青島幸男)
・長崎に生まれ福岡に育った新庄は子供の頃から母親に赤い服ばっかり着せられていた。落ち着きの無い子供ですぐ迷子になる新庄を見つけやすくするためだった。(新庄剛志)
・日本大学時代の輪島の卒業論文は「チャンコの作り方。これがけっこう正確で実用性満点だったと、伊丹十三が絶賛していた。(輪島大士)
・広末は四国高知県出身、阪神の藤川球児とは中学の同級生。(広末涼子)
・スランプに陥った掛布が、長嶋に電話で相談。長嶋が電話口で「そこでバット振ってみて」といい、掛布がバットを振ると「よーしいい感じだ、そのスイングを忘れるな」とアドバイス。そのおかげで掛布はスランプを脱出。(掛布雅之)

やっぱりこういったネタは、羅列してもしょうがないな。ただ吉幾三の回で「「雪国」の一節が中国のある歌に似ていると盗作容疑が指摘された」とあるが、これはチョヨンピルの「チャンバッケヨジャ 窓の外の女」との取り違えと思う。


08083

【瑠璃の契り 旗師・冬狐堂」北森鴻 ★★★ このシリーズは割と好きなタイプである。「倣雛心中」「苦い狐」「瑠璃の契り」「黒髪のクピド」の4作だが、ヒロイン冬狐堂の離婚した英人学者と、友人の女性写真家などとのからみで繋がる、最近流行り?のオムニバス短編集みたいなものである。人形や切子碗、などの小道具の出回り方が、あまりにご都合主義だったりするが、この手の作品の著者の藝術薀蓄の傾けぶりはなかなか見ものである。
たとえば、英人学者の口を借りての芸術賞味期限論。

生物に命があるが如く、芸術もまたいつかは滅びる運命を背負っている。美の永遠性などという妄言に惑わされてはいけない。たしかに芸術にも寿命は存在するのである。されどそれは、生物の持ち物に比べてはるかに長い。今日の美が明日の同時刻に醜悪となることはあるまいが、それとても百年、二百年後の保証を有しているわけではないのだ。なおも極論するならば、人は己の魂に仮宿する感傷でしかないのかもしれない。鑑賞は感傷であり、永続ではない。今日愛でた芸術を否定するのは、他ならぬ諸君たちの目やもしれないのである。けれどそれを恐れてはならない。目を疑う事なかれ。他人の視線を用いる事なかれ。
プロフェッサーDの講義の底には、常に判断と区別の美学があった。仕分けの美学といって良いかもしれない。日本文化を曖昧の美学と定義するなら、Dが語るのは一切の不明瞭を切り捨て、真実の骨格を愛でる美学、それが陶子には新選で、可能な限りDの講義を受講させる結果となった。


また、元夫の行き先を追って有田焼の磁場へ赴く場面。

長崎本線沿いの道を下り途中から国道三十四号線、三十五号線を経て有田に到着、真っ先に眉村が案内してくれたのが、泉山磁石場だった。
「有田焼の全てはここから始まりました」
「というと、金ヶ江三兵衛が発見した磁石場ですか」
「はい。近くには参考館もありますし、歴史民族資料館もあります」
凄まじいばかりの荒涼が、そこここに滲んでいる。陶石という材料を岩脈から吐き出すことで多くの名品を生み出し、吐き出し尽くしてうち捨てられた故の荒涼、である。有田で磁器が焼かれ始めたのは十七世紀初頭。その当時はまだ技術も未熟で、器そのものも厚手であったという。やがて有田焼は独自のシャープなフォルムを得て、現在に至る。そういってしまえばどこにでもありがちな技術の成長譚だが、進化の過程には職人たちの屍が累々と横たわっている。磁石場に転がる岩石は、彼らの骸そのものだ。
「磁石場は、江戸時代には土場とも呼ばれていて、厳しく管理されていたそうです。
「有田焼の生命線ですからね」
「土場番所が置かれ、陶石の持出しにはことさら厳しかったとか」
厳重な管理のもと、選び出された陶石は半年から一年の間、風通しの良い場所に放置され、その語に流水を利用した「水碓」によって粉砕される。と、江戸時代の資料にはあるが「水碓」をどのように読むかは、わかっていない。粉末をさらにふるいにかけた微粉末が「はたり粉」。微粉末は水槽で濾され、火力によって水分を奪われた後、再び水を加えられて「素地土」となる。


武雄温泉生まれのMorris.は、有田は身近な町だが、こういったことはあまり記憶に無かった。

しかし陶磁器を主に取り扱う旗師のヒロインの名前が陶子、切子ガラスの器に執着する女性カメラマンの名が硝子というのは、あまりに、即き過ぎではなかろうか(^_^;)


08082

【どんぐりの図鑑】北川尚史監修 伊藤ふくお著 ★★★ 前からどんぐりの種類のいくらかは知っておきたいと思ってたが、本書は大判でカラー写真も大きくわかりやすそうだったので借りてきた。わかりやすかった(^_^)
どんぐりはブナ科の木の実であることくらいは知ってた。
大きく分けて春に受粉開花してその年の秋に成熟する「一年成どんぐり」と春に開花受粉し、翌年の秋に成熟する「「二年成どんぐり」に二分されること、落葉樹もあれば常緑樹もあり、風媒花と虫媒花がある。殻斗(いわゆるどんぐりの帽子)の形はウロコ状とリング状に大別され、栗のようにイガが完全に実を包み込むものや成熟すると四裂するものなどがある。
本書には22種の代表的どんぐりが取り上げられている。それぞれにきちんと漢字名も記載してあったのが、すこぶる気に入った。ちなみにカタカナ名だけだとわからない樹木の特徴が一目瞭然になるものが多いことに注目!!
またまた表にまとめておく。

名前 タイプ 殻斗 年成 受粉型
コナラ 小楢・枹 コナラ属(コナラ亜属) 落葉樹 ウロコ状殻斗(圧縮鱗片) 一年成 風媒花
ナラガシワ 楢柏 コナラ属(コナラ亜属) 落葉樹 ウロコ状殻斗(圧縮鱗片) 一年成 風媒花
ミズナラ 水楢 コナラ属(コナラ亜属) 落葉樹 ウロコ状殻斗(圧縮鱗片) 一年成 風媒花
カシワ 柏・槲・栢 コナラ属(コナラ亜属) 落葉樹 ウロコ状殻斗(細長い鱗片) 一年成 風媒花
クヌギ 檪・椚 コナラ属(コナラ亜属) 落葉樹 ウロコ状殻斗(細長い鱗片) ニ年成 風媒花
アベマキ 線檪・線椚 コナラ属(コナラ亜属) 落葉樹 ウロコ状殻斗(細長い鱗片) ニ年成 風媒花
ウバメガシ 姥目樫 コナラ属(コナラ亜属) 常緑樹 ウロコ状殻斗(圧縮鱗片) ニ年成 風媒花
ウラジロガシ 裏白樫 コナラ属(アカガシ亜属) 常緑樹 リング状殻斗 ニ年成 風媒花
オキナワウラジロガシ 沖縄裏白樫 コナラ属(アカガシ亜属) 常緑樹 リング状殻斗 ニ年成 風媒花
アカガシ 赤樫 コナラ属(アカガシ亜属) 常緑樹 リング状殻斗 ニ年成 風媒花
ツクバネガシ 衝羽根樫 コナラ属(アカガシ亜属) 常緑樹 リング状殻斗 ニ年成 風媒花
ハナガガシ 葉長樫 コナラ属(アカガシ亜属) 常緑樹 リング状殻斗 ニ年成 風媒花
イチイガシ 一位樫 コナラ属(アカガシ亜属) 常緑樹 リング状殻斗 一年成 風媒花
アラカシ 粗樫 コナラ属(アカガシ亜属) 常緑樹 リング状殻斗 一年成 風媒花
シラカシ 白樫 コナラ属(アカガシ亜属) 常緑樹 リング状殻斗 一年成 風媒花
マテバシイ 馬力葉椎・全手葉椎 マテバシイ属 常緑樹 ウロコ状殻斗(圧縮鱗片) ニ年成 虫媒花
シリブカガシ 尻深樫 マテバシイ属 常緑樹 ウロコ状殻斗(圧縮鱗片) ニ年成 虫媒花
スダジイ 椎 シイ属 常緑樹 殻斗包み込み成熟すると四裂 ニ年成 虫媒花
ツブラジイ 円椎 シイ属 常緑樹 殻斗包み込み成熟すると四裂 ニ年成 虫媒花
クリ 栗 クリ属 落葉樹 イガが完全に包む 一年成 虫媒花
ブナ (木+無) ブナ属 落葉樹 殻斗包み込み成熟すると四裂 一年成 風媒花
イヌブナ 犬(木+無) ブナ属 落葉樹 殻斗包み込み成熟すると四裂 一年成 風媒花

これだけではわからない方も多いだろう。やっぱり図版が無くちゃね、と思われるにちがいない。
ということで、以下のサイトを紹介しておく。
こちらはイラストでの説明。
http://www.ecoweb-jp.org/donguri.html
こちらは写真での説明。
http://www.geocities.jp/eastwoodism/collection/donguri/donguri.htm
どちらも、それぞれ充実した図鑑になっている。
なあんだ、ぐだぐだ説明するより、先にこれらのページ紹介してくれたら良かったんじゃないかい、と言われそうだが、これらのページの個々の図と、上の表を対照して、じっくり検証することによって、あなたも、どんぐり博士のスタートラインに立てるかもしれない(^_^;) 健闘を祈る。


08081

【廃墟をゆく】小林伸一郎写真 田中昭ニ文 ★★★ 一部では廃墟がブームになってるらしい。だからこそこういった写真集なども出版されているわけだが、Morris.も昔から廃屋、廃校などには惹かれるものを感じていた。
新しい立派な建造物より、古いもの、破壊されたものに思いを馳せるというのは、日本人の「滅びの美」への共感かもしれない。
本書は100点ほどの小林のカラー写真と、田中によるレポート(二人が一緒に廃墟巡りをした1週間の出来事)と、モノクロ写真で構成されているが、基本は写真集である。
で、その写真の出来は悪くない。芸術的でさえある。特に旧鉱山や、工場跡の巨大遺跡に似た廃墟には圧倒される。身近な六甲山ホテルの内部写真などはデジャブ感に襲われたが、いや、あそこはMorris.も20年ほど前に訪れたことがあった(^_^;)
しかし、こうやってずらずらずらと列挙されると、いささか辟易させられる。というか、Morris.にとって廃墟とはもっと個的な存在であってほしいのだ。
田中の文章にも、共感するところ無きにしもあらずだが、やはり、全国各地に廃墟を追い回すという気持には共鳴できない。

人間には、見えるものと見えないものがある。見えるものは、見たければ見ればいいし、見たくなければ見なければいい。受容も拒否もできる。でも「見えないもの」これは受容も拒否もできない。それを見ようとするか、しないか、しかない。ぼくはこの「廃墟をゆく」旅でなるべく、「見えないもの」を見ようとした。その中にこそ「廃墟」は存在しているのではないかと思ったのだ。ぼくにとって「廃墟」は決して観念なんかでは決してない。意識の底の方に広がっているリアルな「風景」なのだ。

かなり拙い文章だと思う。でも「廃墟」もリアルな「風景」であるというのは間違っていない。Morris.のこの前の夏の韓国の旅で、牡丹市場の近くで偶然出会った廃屋のことを思い出した。たぶん借金か何かで住人が夜逃げした後、債権者が押しかけてめぼしいものは取り出して、腹いせに窓ガラス割って部屋の中を荒らしまわった後だったのだと思うのだが、確かにあれくらい「リアル」な風景は無かったような気がする。天井の照明と一体になった扇風機の豪華さだけがそのまま残っていて何か崇高なもののように思えたりしたものね。


08080

【二枚目】松井今朝子 ★★★☆ すっかりはまりかけてる「並木拍子郎種取帳」シリーズの第2作である。本書にもタイトル作を含めて5本の短編が収められている。Morris.好みのお朝の料理場面が減ってるのがちょっと期待はずれだったが、小説としては充分楽しませてもらった。
おあさと拍子郎の関係が思うにまかせず、あおさが思いを寄せる料理人やら、拍子郎の女郎買い、さらには師匠五瓶の浮気(まおとこ)まで飛び出して、いやに気をもませる展開になっていた。
前作より、著者お得意の歌舞伎、芝居関係の登場人物が増えてるし、ここかしこに薀蓄が披露されている。それがあまりうるさく感じないのは、知らない世界を垣間見ることへの好奇心を満足させることと、著者の手際が良いからだろう。
しかし著者は歌舞伎や料理ばかりでなく、江戸の風物、行事、庭木、から政治経済全般まで幅広い目配りが提供されている。読むほどにただもので無いことが知れる。もしかしたら杉浦日向子さんの衣鉢を継ぐくらいの逸材なのではないかと思ってしまった。
さっきネットで調べたら、この前読んだ「吉原手引草」で直木賞取ってるから、すっかり売れっ子、人気作家だったんだね。いわゆるそういった方面に疎いMorris.が知らなかっただけで、世間ではすでに彼女はもてはやされているようだ。
彼女のブログは「今朝子の晩ごはん」というタイトルで、すでに文庫として2冊が出てるとか。そうか本書のヒロイン、おあさというのは著者自身の投影だったんだな。名前みたときに気づくべきだった(^_^;)

藤は実生えだと花が咲くまでに十年はかかるという代物だ。早く咲かせたいなら、まめに接ぎ木をしなければならない。いったん花が開くと次の年からはどんどんと咲き出すが、蔓は伸びるに任せず、冬の間に先端を長めに剪って、花芽に光りが当たるようにする。この間はまた水もたっぷりと遣る。こうした手入れを怠れば、茫々としたただの蔓草になってしまうので、富松は毎年の出入りを欠かしていない。
「なるほど。人と同じで、花が咲くまでにはけっこう手間が要るもんじゃのう。そういえば、わしは藤の花芽とやらを初めて見て、びっくりした憶えがある。大きな毛虫みたような気色の悪いかたちをしていて、あのような美しい花になるとはとても思えなんだ」
と、師匠がいったのを受けて拍子郎はこう続けた。
「高崎屋のお内儀は、その名もおふじといって、これが花にも負けぬなかなかの美人だと申します」


こういった薀蓄を枕に、物語の人物を紹介していくやりかたなんぞは、憎いばかりである。

同じようなかたちの葉でも微妙にちがうらしく、嫂は辛みのある蓼とそうでない蓼とをよく見分けた。辛くて苦いほうの蓼を丹念に擂って酢にいれた。舐めると舌が痛くなるようなものをどうして酢に入れるのか、子供のころはさっぱりとわからなかった。それが今では、鮎を食べるときは蓼酢が欠かせぬと思うのだから面白い。
兄がうまそうに食べていた肝の苦さにも昔は閉口したものだ。今は苦みのなかに独特の香気とほんのりした甘みが感じられて、この肝あってこその鮎だとわかるように、果たして自分は人の世についてもなにがしかを理解できる大人になれたのだろうか……


蓼の良し悪しから、辛み苦みを人の世に敷衍していっぱしの人生観みたいな感慨に持ち込むというのも著者のお得意というか、書き癖のようだが、大衆小説の香辛料としては大事なところなのかもしれないね。

例年師走の十三日は将軍家の御城をはじめ、江戸の各家がこぞって煤払いをする日ときまっている。煤竹で天井の蜘蛛の巣やほこりを払い、油煙で黒くなった壁や柱をみがきたて、一年間ためこんだ家の垢をきれいさっぱりと落とすのだから、この日ばかりは好いお天気であってほしいと誰しも思う。
煤払いの日はまた何処の家も鯨汁を食べる慣例(しきたり)だ。塩漬けにした鯨の脂身は、米ぬかを入れた水で一刻か一刻半はしっかり煮てもどさないといけない。さっき鍋を火にかけてからゆうに一刻はたち、脂はすでに綿のようにふわふわにふくらんでいるはずだ。

そういえば、長いこと鯨とはご無沙汰である。尾の身の刺身はともかく、たまにはあの海のものとも山のものとも付かない生臭さを味わいたい気になった。Morris.も今年は12月13日には大掃除しよう。

チョンと大きく柝(き)を打つと、幕がさあっと引かれてゆく。人の一生もこうしてきれいに巻くがひけりゃいいが……と、つぶやいたのは柝の打ち方を教えてくれた風次である。
なんでもそう巧い具合にゃいかねえもんさ、と雷次がそばで慰めたほど、拍子郎は最初のうち打つきっかけがうまくいかず、いい音が鳴らせなかったものだ。
舞台の袖で柝を打って、幕の開け閉めや道具の替わり目、役者の出番を報せるのは狂言方と呼ばれる作者見習いの務めである。
顔見世興行は朝日が昇るか昇らぬかのうちに幕を開け、序開き、二つ目では見物人がまだ少なく、三立目(みたてめ)くらいからしだいに人気役者が登場して客席が埋まってゆく。序開きはがらがらの客席を前に、無名の役者たちが修行のつもりで演じる幕だった。


主人公拍子郎(筆名だけど)が柝を打つ場面で、主人公の名のいわれというか、彼の得手が拍子木を投げて相手を捕らえるところから付けられたものなのだろう。こういった小道具の使い方の巧さも、きっと歌舞伎世界から拝借しているのに違いない。
どんどん、彼女の物語世界に引き込まれそうになってるMorris.だが、ここでまた「手をこまねいて」(212p)表現が出てきてしまった(>_<)
彼女の作品を読むのは4冊目で、これまでもことごとく、この表現が1回ずつそれも200p越えたあたりで出現する。二度あることは三度というが、四度目となると、偶然にしては出来すぎてるような気がしてくる。
今回もこれで☆一つ減点ぢゃ(^_^;)

・貫禄(ひれ)・好機(しお)・現実(ほんとう)に・雀踊(こおど)り・男娼(かげま)・諌(と)める・頗(すこぶ)る・瞋恚(しんい)・晒布(さらし)・頭(かぶり)を振る・灰吹筒(はいふき)・終演(うちだし)・将来(さきざき)・淡紅色(ときいろ)・賄賂(まいない)・厨房(くりや)・軽忽(きょうこつ)の輩(やから)・密夫(まおとこ)・予兆(きざし)・担桶(たご)・葛篭(つづら)・問い質(ただ)す・最初(はな)・感情(おもい)・落籍(ひか)される・無頼漢(ならずもの)・魚籠(びく)・扮装(こしらえ)・熱(ほとぼ)り・燗筒(ちろり)・剥板(へぎ)・舫(もや)い結び・検(あらた)める・泥亀(すっぽん)・理屈(すじ)・拐(かどわ)かし・終(は)ねる・素質(すじ)・結納(たのみ)・機会(おり)・鈍刀(なまくら)・黙止(もだ)し難く・敵娼(あいかた)・最初(はな)っから・遠近(おちこち)


08079

【暮らしの手帖 300号記念特別号】 ★★★★ 本書の発行は2002年12月である。6年ほど気づかずにいたらしい。そういえば、最近本屋で、こういった感じの記念特別号を見かけた。たぶんあちらは「創刊60周年記念号」なのだと思う。
暮らしの手帖の創刊は昭和23年(1948)だから、ほとんどMorris.の誕生と重なっている。
そしてMorris.の生家の階段下の三角の物置には、創刊号から10年分くらいが無造作に積み重ねてあった。小学生の頃から活字中毒のMorris.だったから、もちろんこの雑誌も愛読したことは間違いない。いや、どうやらMorris.はこの雑誌に有形無形の影響を受けているようだ。
広告の無い雑誌。思い切った商品テスト。独特の書き文字&イラスト、斬新なレイアウト、達意の文章、反骨の精神、アイデア、感性、こだわり−−−小学生のMorris.にも、こんなものを作る花森安治というのがとんでもない人物だということだけはわかってたと思う。
暮らしの手帖=花森安治と思ってたのは、Morris.だけではなかったろう。
花森自筆のあいうえお花森の死は昭和53年(1978)享年66だったから、暮らしの手帖との付き合いはちょうど30年、彼の生涯のほぼ半分に当たる。そして彼が最後に手がけたのが創刊から152冊目、本書はその152冊の中から、花森のグラフィックアート、記事、紀行、商品テスト、料理、工夫とアイデア、批評などを中心にパッチワーク的に構成し、識者からのアンケートなどを付け加えている。
表紙やイラストで見覚えあるものも多いし、今見ても秀れていると思う。記事となるとさすがに覚えてるのは少ないが、いろいろ感じ入ることがあった。
右の画像→は、花森自筆の「あいうえお」である。300号記念号の表紙裏に掲載されていたものだが、味わいのある読みやすい良い文字である。機会があればMorris.も写経(^_^;)しようかと思う。
商品テスト第2回目が「家庭用マッチ」というのが、マッチラベル好きのMorris.には、意外でもあり嬉しかった。昭和54年(1979)時点ではまだまだマッチは現役バリバリだったし、懐かしいラベルのマッチの多くが普通に使われていたことがよくわかる。「ベティブープ印」(八家化学工業)のラベルなんか、Morris.はこの意匠をパクって蔵書票作ったくらいだもんなあ。
そして1963年の日本紀行一回目の神戸は、また色んな意味で面白かった。花森が神戸生まれということも忘れてたが、今から45年前の神戸の姿と、花森ならではの神戸観などが綯混ぜになり、不思議な気持にもさせられた。

明るくて、あきらめが早くて、ねばりっけがなくて、新しいもの好き、これが、神戸の町の気風である。
戦災で、この町は、八割が焼けている。みんな、みれんもなく、さっさと逃げ出したからだという。


おいおい、ちょっと筆が走りすぎてはいないかい?と思ってしまうが、この記事から32年後に起きる大地震を花森が知ったらどういう物言いをしただろうか?

明治以来、町が大きくなるためには、北は山でダメ、南も海でダメ、いきおい、西と東へ、帯のように長く長くのびてゆくより仕方がなかったのである。
のびていった町は、西は明石市でぶつかり、東は芦屋市でぶつかった。
「しやない」
この町のひとのくちぐせで、しようがない、という意味だが、しかし、あきらめのひびきはない。せっぱつまって、それでは、と立ち上がるときに使われる言葉である。
しやない、こうなったら、山をくずして、海を埋め立てたろ。
しかしそれくらいのことだったら、どこの町でも考えつくだろう。その山をくずした土を、海へはこぶ、その方法が奇想天外なのである。
ふつうならダンプカーで運ぶところだが、なにしろ帯のようにせまい町を、国鉄、阪急、阪神、国道と四本の線路が走っているし、何十本の道路が通っている。山から海へダンプを走らせるとなると、このたくさんの線路や道路をいちいち横切ってゆかねばならない。これは無理である。
そこで、考え出した一つの方法は、山から海まで、ずっとトンネルを掘って、そのなかに、コンペアーをしかける。くずした土は、その場でコンペアーにのせると、あとからあとから、ひとりでに海岸まで運ばれてくるという仕かけである。
第二の方法は、山から海へ流れている川を利用するのである。川の底をコンクリートでかためて、ここをダンプカー専用道路にした。左右の川底を、ぶつかりもせず、赤信号もなく、ゴキゲンでダンプは行ききするという方法である。
第三は、ロープウエイである。山のてっぺんから、くずした土をゴンドラにのせて海岸へ運ぶと、待ち受けているダンプカーならぬダンプシップが、神戸港外を走って、必要な埋め立て地へもってゆく、という仕組である。


これで見ると、花森は、神戸の埋め立て開発には、比較的好意的だったように思われる。やはりこれも地震後から現在に至る神戸の現況を見て彼がどう思うかきいてみたいところだ。
創刊間も無い頃の「生きているエチケット」(1952)にはMorris.の耳に痛い忠言があった(^_^;)。

・酒は飲んでも、たとえば乗物の中など、時と場所によつて、自分を制御できるほどにしておきましよう。それが出来ないような人間はシラフのときでも、みんなでケイベツする風を作るべきです。酔拂つて恥しいことをやるようでは、ニセ者の文化人、社会會人です。

また次の忠言は、これはMorris.はよく覚えていた。もちろん後で読んだのだろうが、人間として割とルーズなMorris.が、待ち合わせ時間だけは比較的きちんと守るのはこの言葉を肝に銘じていたためかもしれない。

・時間を守ることを、もつと重大なことに考えるべきです。十人に五分ずつ待たせたら、五十分という時間を泥棒したことになります。恋人同士の場合ですら、おくれてゆくというのは、いつとなく相手の気持を冷めさせるヘタな技巧と知るべきです。

後半のつけたしは蛇足かと、今となっては思うのだが、小学生のMorris.は結構真面目に受け取って実践励行したものである(^_^;)
そして73年に発表された[二十八年の日日を痛恨する歌」は、28回目の8月15日を迎えて日本の戦後の来し方を回想し行く末を危ぶむ花森渾身の悲憤慷慨の「詩」だと思う。6pにわたる長さなので、ほんの一部を抄出しておく。

また あの日がやってくる
あの日
大日本帝国が ほろびた日
もっと正確にいうと
大日本帝国が ほろびたはずの日
いまから 二十八年まえの
昭和二十年八月十五日

ぼくらの目のまえを まるで蜃気楼のように 美しい色をしたものが 次から次へと 目まぐるしく通りすぎていった
政治犯即時解放 共産党浮上
婦人解放 男女同権 婦人代議士
財閥解体
天皇の人間宣言
小作人に農地を解放
新しい日本国憲法
六三三制
労働基準法 独占禁止法

ニッポンコクミンハ リクカイクウグンソノタノセンリョクハ コレヲホジシナイ
シソウ オヨビ リョウシンノジユウハ コレヲオカシテハナラナイ
スベテ コクミンハ ケンコウデ ブンカテキナ サイテイゲンドノセイカツヲイトナム ケンリヲ ユウスル

生き残ることができてよかった
死んだやつは ほんとうに損をしたものだ
生きていることが申し訳ないみたいだ
何才まで生きられるかわからないが これからの人生は みんな付録だ
死んだとおもえば なんでもできる
ぼくらは しんそこ そうおもった

しかし 蜃気楼は すぐに消えてしまった

朝鮮人みんなの不幸をこやしにして
敗戦国日本の企業は 肥っていった
朝鮮戦争が やっと終わったら
しばらくして ベトナム戦争がはじまった
ベトナム人みんなの悲惨と困窮を踏み台にして ふところ手をして 鼻歌をうたいながら 敗戦国日本の企業は ますます肥っていった

ぼくらは もう 死にものぐるいで もうけることに 目の色を変えて走りに走った
からっぽの うつろな心のなかに もうけることだけが どろどろと 渦巻いて噴きだしていた
いま 日本で 大きな顔をしている企業は 多かれ少なかれ どれも 朝鮮戦争と ベトナム戦争で大きくなった
みんな 大した苦労もしないで 向うから ころがりこんできた注文で 肥っていった
いうならば ぬれ手に粟で つかんだ繁栄だ
その味を一度おぼえたら もう まっとうな商売は できなくなる

よい品を作ろうとはしないで
見せかけで売る
おまけで釣る
景品で誘惑する
リベートで抱きこむ
すこし困ると 政府に泣きついて
補償金をもらう
見返りに献金する

繁栄とは なにか
ゆたかな暮しとは なにか
君らは もうけることが そうして繁栄することが ぼくらの幸せにつながる といった
君らが 禿鷹のように 他人の不幸をむさぼり食らって肥ってきたからこそ ぼくらの暮しも それにつれてよくなってきた筈だと 君らはいった
たしかに 君らがもうけたのに ぼくらの暮しがすこしもよくならなかったといえば ウソになる
しかし
大企業が 千もうけたとき ぼくらがうるおったのは たったの一だ
大企業が 万もうけたとき ぼくらがうるおったのは たったのニだ
大企業が 億もうけたとき ぼくらがうるおったのは たったの三だ
しかも そのたったニか三のうるおいと引きかえに ぼくらは 何を失ったか
君らは いま その目で はっきりと見るがいい

しかし 口惜しいことだが
こんなひどい世の中にしてしまったのは君らだけの罪ではなかったのだ
悔んでも悔みきれないのだが
君らが 狂ってしまって 血眼になってもうけだけに走るのを だまって見ていて 止めようとしなかったぼくらも 狂っていたのだ

ぼくらは もうずいぶんと長く生きた
ぼくらは もういい
ぼくらは もうどうなってもいいのではないか
ぼくらは じぶんのこどものために そのまたこどものために もう一ど あの日に帰ろう
もう一ど あの焼け跡に立ってみよう


「これからの人生は付録だ」というのは、Morris.お得意のフレーズだが、これももしかして花森からの受け売りだったのかもしれない。もっともこれが発表された頃は、とっくに暮らしの手帖は読まなくなっていたから、また別のルートから仕入れた可能性も大きいが(^_^;)
ほぼ150冊分の中から編集部が絞りに絞って1冊にしたものだけに、引用を始めるととめどもないので、この辺で切り上げよう。
花森のよきライバルというか、対照的な言論人山本夏彦の「不遇の人 花森安治」という談話が最後におかれていて、これも感慨深かった。山本はこのインタビューの直後(2002年10月)に亡くなっているだけになおさらである。
また巻末の年表は、昭和20年(1945)の敗戦から花森の亡くなる昭和53年までを年ごとに、時代、世の中の動きと暮しの手帖の記事とを対応させたシンプルなものだが、実によく出来ている。あまりによく出来ているので、これも一部を表にしておこう(^_^;)

西暦  昭和 時代 世の中の動き
1945 20 敗戦の年 青空市場・闇市あらわる
[墨塗り教科書]も登場
「ギブ・ミー・チョコレート」
1946 21 [タケノコ生活]に耐えて 新円切り換えで四苦八苦
続々、新興宗教おこる
パーマネント復活は希望のしるし
1947 22 新憲法の年 日本国憲法発布
闇米食わず判事死す
停電生活と更生服
当時のサラリーマン、平均月収3,542円
1948 23 インフレの年 インフレーション深刻化
太宰治入水自殺
主婦連発足
『暮しの手帖』創刊号は当時110円
1949 24 緊縮財政の年 ドッジ・ライン
下山・三鷹事件おこる
湯川秀樹ノーベル物理学賞受賞
アロハシャツ流行
1950 25 朝鮮半島動乱の年 朝鮮半島で軍事衝突
ストックホルム・アピールおこる
「貧乏人は麦を食え」発言
1951 26 講和と逆コースの年 サンフランシスコ講和会議
「三越にはストもございます」
初のカラー映画上映される
1952 27 独立の年 日米安保条約発効
十勝沖地震、深刻被害
黄変米騒動おこる
「鉄腕アトム」連載開始
1953 28 街頭テレビに群集湧く 吉田首相「バカヤロー」解散
1ドル、360円に
スターリン死去
国産初、噴流式洗濯機発売(三洋電機、28,500円)
1954 29 [死の灰]の年 自衛隊発足
[死の灰](第五福竜丸事件)の悲劇おこる
「ゴジラ」封切り
「暮しの手帖」第一回商品テスト(ソックス)
1955 30 家庭電化花咲く 自由民主党結党(55年体制へ移行)
GATT加盟
ロケット飛行実験に成功
自動炊飯器(東芝)登場、当時は3,200円で
1956 31 「もはや戦後ではない」 神武景気
週刊誌ブームおこる
[集団就職列車]走る
東京開都500年
1957 32 [三種の神器]の年 ナベ底景気
[赤線]の廃止(売春禁止法施行)
初の[ニュータウン]
「有楽町で逢いましょう」大ヒット
1958 33 東京タワー完成の年 初の一万円札発行
フラフープ大流行
「月光仮面」が放送開始
大学卒初任給は12,000〜13,000円へ
1959 34 岩戸景気の年 [消費革命]の時代はじまる
伊勢湾台風、史上最大の被害だす
皇太子殿下、成婚パレード
この年、東京の地下鉄は全線25円に
1960 35 60年安保の年 安保反対闘争はじまる
池田首相、所得倍増計画発表
カラーテレビ、放送開始
インスタント・コーヒー(森永)登場
1961 36 高度成長はじまる ベルリンの壁築かれる
「上を向いて歩こう」大ヒット
「モスラ」公開
ガガーリン「地球は青かった」
1962 37 [無責任時代]とよばれて 東京、スモッグ騒動
クレージー・キャッツ大人気
「暮しの手帖」190円に
都下の家賃は3,200円に
1963 38 [流通革命]の年 ケネディ大統領暗殺
スーパーマーケット旋風
第一次マンションブームおこる
[バカンス景気]
1964 39 東京オリンピックの年 東京オリンピック開幕
IMF8条国へ移行、海外観光旅行自由に
新幹線開通
アイビー族・みゆき族
1965 40 高度成長から安定成長へ ベトナム戦争拡大
朝永振一郎、ノーベル物理学賞受賞
高校進学率が全国で70%を超える
「暮しの手帖」220円に
1966 41 若者文化のたかまり [物価戦争]で暮らし圧迫
ビートルズ来日
平均寿命、ヨーロッパ並に(男67.73歳 女72.95歳)
[黒い霧]と政局不安
1967 42 核家族化の時代へ 第二次ベビーブーム開始
[新三種の神器](カー、クーラー、カラーTV)お目見え
リカちゃん人形(タカラ)発売
ツイッギー来日、ミニスカート流行
1968 43 大学紛争の年 反戦・反核運動
学園紛争激化
三億円事件おこる
グループサウンズ人気、失神事件も
1969 44 GNP世界第二位へ アポロ11号月面着陸成功
東大安田講堂で学生と機動隊が衝突
[億ション]も登場
「男はつらいよ」シリーズ第一作はじまる
1970 45 大阪万博の年 大阪万国博覧会開催
三島由紀夫割腹自殺
[ウーマン・リブ]の意識たかまる
保温電子ジャー初お目見え(象印)
1971 46 ニクソン・ショックの年 1ドル308円に
[ニアミス]ボーイング機と自衛隊機衝突事故
パンタロン流行
日本テレビで「スター誕生」
1972 47 外交の年 沖縄返還・日中国交回復
田中角栄、日本列島改造論
浅間山荘事件おこる
日本初のハイ・ジャック、[よど号]事件
1973 48 石油ショックと狂乱物価 石油ショックでトイレットペーパー買い占めおこる
狂乱物価(9月までの年間物価上昇率14.6%)
水俣病訴訟全面勝訴
この年のサラリーマン平均月収16万6千円に
1974 49 [ゼロ成長]の年 佐藤栄作前首相、ノーベル平和賞受賞
初の[ゼロ成長]・産業構造の転換年
小野田寛郎、ルバング島より帰国
オカルトブームおこる
1975 50 [複合汚染]の年 ベトナム戦争終結
核家族世帯64.0%に
SLの灯消える
この年「暗しの手帖」520円に
1976 51 ロッキード事件の年 ロッキード事件発覚
高齢化社会の予感たかまる
幸福駅の切符、ブームに
ハガキ20円、封書50円に値上げ
1977 52 中流意識のたかまり 円高(1ドル268.51円)突入
有珠山噴火
リニア・モーターカー走行実験に成功
この年、大学卒の平均初任給は10万5,082円
1978 53 [不確実性の時代]始まる 日中平和有効条約調印
インベーダーゲームブーム
新東京国際空港開港
キャンディーズ解散「普通の女の子に戻りたい

実はMorris.の生まれた1949年に「アロハシャツ流行」とあったのが、すごく嬉しかったのさ(^_^;)


08078

【一の富】松井今朝子 ★★★☆☆ 先日読んだ「吉原手引草」に刺激されて、彼女の作を数冊借りてきた。まず「銀座開化事件帖」という明治ものを読み始めたのだが、一向に面白くならない。とうとう途中で投げ出して、江戸時代もののこちらに乗り換えたら、いや、これは結構面白かった。
「並木拍子郎種取帳」というシリーズものの1冊目らしい。主人公である江戸の町奉行同心の弟筧兵四郎は、上方から江戸に招聘された狂言作者並木五瓶に弟子入りする。並木拍子郎というのはその筆名である。本書は拍子郎が狂言のネタ取りのつもりで町内を取材しながら事件に巻き込まれ、師匠に助けられたり、兄に相談したりして、事件を解決したり、解決しないまでも何とか道筋をつけたり、と、いわゆる捕り物帳とは一味違った面白いポジションの作品に仕上げている。
主人公と師匠夫婦、そして料理茶屋の一人娘おあさなどのキャラクタがそれぞれに魅力的である。とりわけ、おあさは色黒で精悍な男勝りで、それでいて料理上手といういい娘である。
Morris.はほとんど彼女が登場する部分だけ特に熱心に読んだ(^_^;)
事件の大部分が歌舞伎に関連してるし、そのあたりの知識は著者が歌舞伎制作に係ってるだけに、お手の物で、この設定は上手くいってるようだ。
本書には5篇が収められているが、オムニバス短編というかいちおう長編の中で事件のエピソードが連なるという結構である。最近このての作品が多くなったような気がする。長編好きのMorris.としては、まあ許容範囲ということにしておく。
記憶に残るのが、おあさの料理の場面ばかりというのは、鼻白まれるかもしれないが、いくつか引用しておく。

おあさが化粧をしないのには理由がある。
子供の時分から家にいる料理人の姿にあこがれて、見よう見まねで包丁さばきを習い覚えた。生魚をさばくのに、紅やおしろいの移り香は禁物だった。
この日おあさは青竹で編んだ籠に大きな桜鯛を入れて、五瓶の家を訪れていた。
例によって裏の木戸口から入って勝手に中にあがり込み、
「小母さん、ちょいと台所を借りるよ」
と表の店に向けて大声を出し、早くも包丁を取りだしている。
女にしては実に思いきりのよい出刃の扱いで、ザックリと腹と背が切り裂かれ、汲みたての井戸水でザアザア洗い流されて、大きな鯛がたちまち三枚におろされてゆく。
おあさのおかげで五瓶の家はこの日豪勢な鯛尽くしの夕餉となった。
おあさは片身の半分をふつうの刺身にし、もう半分は皮つきでさっと湯通しして霜降り仕立てにした。さらにまだ、
「残った片身は昆布でしめておいたから、明日にでも喰うがいいよ」
と、女料理人の面目躍如といった働きである。
小でんが鯛の頭で潮汁をこしらえているあいだにも、おあさは塩をした中骨を七輪で焼いていた。
カリッと焼きあがった中骨は三つに割られ、粉山椒がきかせてある。食膳には山椒の青い香りと、こうばしい匂いが漂っていた。
「小父さん、その焼きたての中骨から一口やってくんな。瘤がなくっても、うめえはずだよ」
娘は片襷を外しながら男のような口をきいた。当節のお江戸では、この手の乱暴な口をきく娘が多くなり、それをバラガキなどと呼んでいる。
バラガキ娘にいわれた通り、五瓶は目の前の中骨を手に取った。骨のまわりについた身が、ぷりっとはじけるように焼けあがり、脂でつやよく光っている。鯛の何がうまいといって、ここほどうまいものはないのだ。五瓶は薄い身を舌でこそげ取るようにして口に運んだ。
「うん、ほどよう脂がのってて、ええ味や」
「だろ。小父さんは、お江戸の鯛を腐すから、きょうはおとっつぁんにそういって、飛びきり活きのいい鯛をせしめてきたんだ」
色黒の娘はにっと白い歯をこぼして愛らしい笑顔を見せていた。
五瓶はつねづね鯛は江戸より大阪のほうがはるかにうまいといっており、江戸の娘に以前たしかこんなことを話して聞かせたのだった。
「大阪の近くの海には阿波の鳴門というところがある。鳴門の渦潮で揉まれた鯛は、中骨に瘤が出来(でけ)てる。人と一緒で、荒波の中を苦労してくぐり抜け、こぶこぶになった鯛は格別にうまいのや」
おあさはそれをしっかり憶えていたらしい。
「ほうらね、小父さん。こぶこぶじゃなくったって、うめえ鯛はうめえのさ」
そう。人も苦労知らずでうまい者もいれば、苦労してかえって嫌味になる奴もいる。苦労が元の素直な味に磨きをかけたという奴は本物だが、これも鯛と一緒で、今どきの娘が本物の男に出会うのは存外むずかしいことかもしれない。


ちょっと長くなったけど、なかなか上手い(美味い)でしょ。バラガキなんてのも、きっと歌舞伎の界隈で拾ってきたものだろうし、料理の美味しさの表現もこれ位できたら上々吉であるな。しめくくりの穿った人間評も取ってつけたようだが、それなりに面白い。

小鉢の中身はつやつやと乳白色(ちちいろ)に光る雲腸(くもわた)で、この時期の鱸は脂がのった白子が格別にうまい。酢醤油をかけて口に含むと、舌にねっとりとからみつくようにして仄かな甘みが広がる。塩焼きに薄い出汁をかけた焼き浸しは、熱い湯気とともに、こうばしい匂いと、出汁に添えた三つ葉の青い薫りを立ちのぼらせている。
向付の洗膾(あらい)をこしらえるのに、おあさは湯通しした切り身を何度か冷たい水にさらしたあとで、かるく煎酒(いりざけ)に浸しておいた。一切れ口に運ぶと、ざらっとした感触とともに、酒の甘みにほどよく包まれた泥臭さが微かに舌を刺す。おあさは夏場に川に上ってくる鱸の、この多少泥臭いところが好きなのだ。

やや、同工異曲といったきらいはあるが(^_^;)、それもまたよしとしておこう。
おあさの料理だけでなく、主人公拍子郎の魅力もそれなりのものだし、筋運びもよくこなれていて、もう少し評点あげてもいいくらいなのだが、またまたMorris.嫌厭の「手をこまねいて」表現(220p)があったので、☆一つ削減である。彼女の作品はこれで3冊目だが、3冊ともにこの「手をこまねいて」が1回ずつ出てきた。偶然だろうけど、惜しまれる。


08077

【断層海流】麗羅 ★★★☆☆ この人の作品は読めるものはほぼ読みつくしたと思ってた。ただ、彼の自伝的作品「山河哀号」だけは、絶版で、神戸市立図書館にも蔵書無いのでいまだに読めずにいる。2003年に読んだ「体験的朝鮮戦争」で、彼の来歴や数奇な人生の一端をうかがうことができた。本当に日本と朝鮮の狭間をドラマチックに生き抜いた作家といえるだろう。日朝間の歴史のくびきを嫌と言うほど骨身に沁みて体験した人でもあるようだ。
ところで、本書は三宮図書館の棚にあったから、これまで何度も背表紙は目にしてたはずだ。当然以前読んだものと思い込んでいたらしい。どんなんだったかな、と、ぱらぱらと初めの部分を読み返しても、記憶がよみがえらない。記憶力の衰え著しいMorris.だから、既読の本をそうと知らずに読み始めて途中で気づくことも過去に数回あったから、これもそうだろう、と思いながら20pほど読み進めたが、どうやらこれは未読の作品に違いないという確信に至った(^_^;)ので借りてきた。
時代は80年代後期、礼文島に住む日本人少女愛里愛がサハリンから流れ着いたウオッカのガラス瓶に入った手紙を見つけたことから物語が始まる。
手紙は日本語とハングルで書かれてあり、日本語の内容は、自分は日本軍部の徴用で樺太に送られた朝鮮人朴星熙で、これを見つけたらハングルの手紙を、朝鮮江原道(カンウォンド)・旌善郡(チョンソングン)・東面(トンミョン)・画岩里(ファアムニ)の親族に届けて欲しいと書いてあった。
少女が、高校同級生の在日少女の叔父で、札幌に住む金周奉に解読してもらったら、それは旌善アリランのオリジナル歌詞だった。
金周奉は成功した事業家で韓国の要人やマスコミとの付き合いもあり、昔自分が世話した新聞記者に探索を依頼、時を経て、手紙にあった朴星熙の息子夫婦や孫娘らと連絡がつく。
そのあとは、京城帝大出身で手紙の主の元恋人だった日本人の学校経営者加治や、事業家の叔父と親密な元朝鮮総督府警察官だった在日で現在は日本に帰化している若林、加治と京城帝国大学で同窓だった大学教授などが登場し、過去の事件の恨みと哀惜に振り回される中で、朴星熙の息子は船でサハリンに密航しようとして水死、金周奉は何ものかに毒殺される。ついには金周奉の支援で韓国留学していた愛里愛が図らずも犯罪の道具に使われるなど、手に汗握るサスペンスになっている。
ただ、この人の作品の例に漏れず、イントロとストーリー展開は面白過ぎるくらいなのに、物語が進行するに連れて、だんだん大雑把になり、ご都合主義の大盤振る舞い(^_^;)、ストーリーも途中どんどんすっ飛ばしてしまうし、登場人物たちはとうてい現実の人間とは思えない言動に終始する。要するに「紙芝居」的物語世界になってしまうのだった(^_^;)。明治の大衆小説のような味わいと言えるかもしれない。ついMorris.愛蔵本、村井弦齋の「小猫」を思い出してしまった(^_^;)
それでもMorris.がこの人の作品を読み続けたのは、小説からはみ出した、彼のパッションというか、日朝双方への恨み愛惜の情の深さと、韓国民族、文化、歴史への独特な見識の披露を垣間見ることが出来るからだった。
本書でも、特に旌善アリランへの言及に魅せられてしまった。

愛里愛は低い声でアリランの歌詞を口ずさんでみせた。
「それは京畿道(キョンギド)アリランを日本語に訳したものだ」
アリランは韓国の体表的な民謡だが、その中の京畿道アリランがもっとも有名で、日本の人はアリランといえば京畿道アリランだけだと考える、と、金は言った。
自分が知っているほかにいろいろなアリランがあると聞いて、愛里愛は興味をおぼえた。
「その京畿道アリランのほかにどんなのがあるんですか?」
「そのほかに、長いという意味のキーン・アリラン、密陽(ミルヤン)アリラン、旌善アリラン、江原道アリラン、珍島(チンド)アリラン、海州(ヘジュ)アリランなどがある」
「日本の追分みたいなものですか?」
追分は信州が発祥の地だが、各地に伝わって、信濃追分、江差追分、本庄追分が有名である。
「私は追分のことはよく知らないが、アリランは韓国を代表する民謡だ。大人でも子供でも、アリランを知らない韓国人はいない」
「北朝鮮もですか?」
「そうだ。アリランは南も北もふくめて、民族全部の心の歌だ」
「それで歌詞が多いのですか?」
「幾つあるか数え切れない。歌う人が、そのときの感情に応じて即興的に歌詞を創作していくのだ」
愛里愛は音楽が好きだから、金の話を熱心に聞いた。
「これは朴星熙という人が、サハリンで創作した旌善アリランだと思う。どの章にも祖国へ帰りたいというせつせつとした思いがこもっている。普通の手紙の文章よりも強く訴えるものを感じる」


アリランの実に分りやすい紹介と言えるだろう。そして、この旌善アリランは、Morris.もあまり良く知らなかったが、ドラマ「チンチャ・ちゃんちゃ・チョアヘ」という韓国ドラマで、江原道の田舎娘に扮したユジンが歌ってたのが、この旌善アリランらしいと気づいて、すごく印象深く思っていただけに、ますますこの原曲を聞いてみたくなった。
本書にも途中で、一般的な旌善アリランの歌詞が引用されている。加治がこの民謡の発祥地に呼び出され、48年の昔を回想するシーン。この民謡の権威でもあった恋人朴星熙が歌うというシチュエーションである。

雪が降るのか雨になろうとするのか
滝の流れのような豪雨になるのか
万寿山(マンスサン)の頂に
黒い雲が湧き起こる

うんざりするぞよジリ峠
ひやひやするぞよ星摩嶺
この険しい山の中を
誰に会おうとて私はきたのか

アウリジの渡しで
棹を操る船頭のおじいさん
船を向こう岸へ漕いでくだされ
ツァリ谷の椿が散らないうちに

落ちた椿の花は
枯葉に包まれて夢を見るのに
独り寝の私は
あなたが恋しくて眠れない


別の場所に出てくる伝統歌詞もある。

一に江陵(カンヌン)、二に春川(チュンチョン)、
三に原州(ウォンジュ)と人はいうが
遊ぶによく暮らしよいのは
東面画岩こそ一番よ

朝な朝なわきたつ雲は
夕べになれば山の頂で眠るのに
流れる水は寝もやらず
あの岩陰で泣いている

前の南山(ナムサン)の積雪が消えてなくなるまで
春の訪れに気づかなかったのに
飛鳳山(ピポンサン)に咲いた杏の花が
私に春を知らせてくれた。

旌善の前の漢江(ハンガン)の水は
昔も今も変わらずに流れるのに
年々歳々人びとは
移り変わってゆく


また、日帝時代の怨み節の歌詞。これはたぶんに麗羅の創作が入ってると思うが、アリランの歌詞の作られ方のバタンがうかがえるようで興味深い。

深山の渓谷に遊びたわむれる蝶には
蜘蛛の巣が仇よ。
今どきの若者には
大東亜戦争が恨みの種さ

冬至十二月の門風神(ムンブンジ)は
ニルリリ一つを歌うのに
旌善役所の労務係は
若者ばかりを漁る

山の木の真っすぐなやつは
電信柱にとられ
若者の使えるものは
徴兵徴用にとられる

垣根の外に足音が聞こえるたびに
労務係がきたかと肝を冷やす。
いっそこの耳が聞こえなければよいに

花嫁よ花嫁よ
花婿の自慢をするでない。
一銭五厘の葉書が着けば
花の婿殿いなくなる

満月のように雄々しい兄は
徴兵で連れてゆかれ
半月のようにやさしい夫は
徴用で連れていかれた。

アリランアリランアラリヨ アリランコゲロ
ナルノムギョジュオ


いやあ、それにしても、なかなか奥深く、魅力に満ちた、良さそうな歌である。是非Morris.も原語でマスターしたくなったぞ。今度韓国に行ったら、旌善アリランの入ったCDを入手しよう。
いや、いっそ、旌善まで出かけてみようか。
あんそらさんの「韓国へ行きたい!」に、この地を訪れた時のイラストルポが掲載されていたはずだ。
それによると、旌善には2と7の日に市がたつ五日市があって、その日には清涼里から旌善まで直行列車が一日一本往復するらしい。乗り換えれば平日でも行けるようだし、これは次回の有力訪問地としてチェックしておこう。
こんなふうに、小説を読んでるのか何かよくわからなくなってるMorris.であるが、日帝支配と、光復(終戦)後の悲劇についても、彼ならではの真摯かつ鋭い意見が散見する。

愛里愛は韓国にきて、韓国人の年配者と初めて会ったとき、国籍を訊かれて日本と答えると、ほんの少数だが相手の表情に敵意と一緒に、かすかに怯んだようすが現れるのを経験したことがある。
解放前の36年間、日本は韓国を植民地として支配した。
日本人は口では一視同仁だの内鮮一体を唱えながらも、ほとんどは腹の底で韓国人を蔑視し、支配者として君臨した。
韓国人の年配者の中で、解放前に日本人から受けた被差別意識が強く残っている人は、相手が日本人とわかると、反射的に敵意と同時に怯えた表情を見せるのだ。
その裏返しに、年配の日本人の中には今でも韓国人に対して無意識のうちに優越的な表情をする人もいる。それは、戦前に韓国人に接したことがある人に多い。
会津武士の子孫だった加治の父も、総督府の高級官僚として、韓国人を蔑視し高飛車に振る舞ったにちがいない。加治もその気風を受け継いだのではないか。
加治は結婚する意志もないのに清純な朴星熙をもてあそんだ。彼の両親は、そんな韓国人の女の腹に宿った子供など自分たちの孫とは思わないで、そのことを口外したら、一家を殺すと脅迫したという。


これは若い日本人少女愛里愛の個人的な感想として提示されているが、この悲しい風潮は「年配者」「戦前に韓国人に接したことがある日本人」に限るまい。いや、今日現在の日本の若者の中にも多分に残存している傾向かもしれない。
また、金周奉殺害で新聞記者李を取り調べた奇刑事課長の在日観。

奇は在日僑胞に対して、一つの先入観を持っている。
在日僑胞とは、韓国が日本の植民地であった時代、故郷では食うや食わずだったのが日本へ出稼ぎに行き、解放後も帰国しないで残留している連中だ。
彼らは本国の人たちが6・25動乱に遭って苦しんでいたときも、平和な日本にあって金儲けに励み、日本の経済復興に便乗して財産を作った。
日本の経済復興は韓国動乱の特需景気のおかげだから、在日僑胞たちも本国の人たちの犠牲の上にたって財産を築いたといえる。
現在の韓国はオリンピックを開けるほどに発展したが、一時代前まだ開発途上国だった時分は、在日僑胞たちは金を持って帰国しては、本国の人たちの貧困を尻目に好き勝手なことをした。
まれには学校や図書館を建てたり、公共施設に寄付する人もいたが、大部分は山林を買って両親や先祖の墓を国王の御陵のように壮大に築いたり、投機的に土地を買いあさって地価の高騰を煽ったりした。
奇は在日僑胞なんて、ほとんどが教養のない成金連中だと考えている。
だが、金周奉は少し違うらしい。李記者の話だと、戦前には京城帝国大学に在学したという。戦前の城大に入学できたのは何万人に一人といった秀才で、家柄も立派でなければならない。

この在日観こそ、韓国人が現在まで引きずっている悪弊の一つだとMorris.は思っているのだが、もしMorris.がこういう物言いをしたら、相当ヤバいことになりそうだ。
韓国で生まれ、日本で生活し、朝鮮戦争にも従軍した麗羅が書けばこそ(登場人物に仮託したとはいえ)許される発言ということになるのかも知れない。
えらくだらだらと書き続けてしまった。サハリンに徴用された朝鮮人問題や、ムーダンの風習などにも触れたいところだが、このへんで切り上げておこう。

最後に、瓶の中の手紙にあった、朴星熙オリジナル旌善アリランの歌詞の一部を引用しておく。たぶんこれは麗羅の創作だろうが、やはりよく出来ているし、心打たれた。

私の願いは、鳥になりたい
天を翔ける翼が欲しい。
九千里の空を飛び越え
懐かしい故郷へ帰りたい

北風よ、雪風よ
もっと強く吹いておくれ。
故郷にいますあの方に
この胸の燃ゆる思いが届くように

目を閉じれば瞼に浮かぶ
故郷の青い山河よ。
夢を見れば笑みかけてくれる
懐かしき同胞よ

夜よ、明けないでおくれ。
夢よ、覚めないでおくれ。
いついつまでもこの身を
思い出の中に閉じこめておくれ

サハリンは北国なれど
年ごとに春は巡りくるに
私の胸の北国には
なぜ春は巡ってこない

四十余年も南の空を眺め続けて
私の涙は涸れはてた。
黒かった髪の毛も
雪のように白くなった

アリラン峠は歌の中の峠。
歌をうたえば越えられる。
私の峠は九千里
越える術ない空のかなたよ

星摩嶺やコッペル峠も
足さえあれば越えてゆけるが
九千里の遠い空は
翼なしでは飛んでゆかれぬ

天よ神よ創造主よ
ほかのみ業は怨みはせぬが
離別のニ文字を作ったことだけは
ただただ怨みに思います

二つの眼が抜けるほど
両の手の平が擦り切れるほどに
故郷へ帰る日を待ちわびて
この命はかなく尽きてゆく


ついつい全部引用してしまった。これも麗羅がヒロインやサハリン居住の朝鮮族に仮託した彼自身のアリランなのだろう。
本書は1994年発行で、末尾には「書下し作品です」とあるが、物語の時代設定や文体からして、以前に発行されたものの改定版ではないかという気がする。


08076

【吉原手引草】松井今朝子 ★★★☆ 2002年に「東洲斎しゃらくさし」という作品を読んで、えらく感心してたのにその後なぜか読まずにしまってた。ひさしぶりの本書を読んで、これは、やっぱり他の作品も読まねばと反省させられてしまった。
本作は、吉原の花魁葛城の刃傷沙汰を主題に、吉原の様々な立場の人物に聞き込みをしてそれらからことの真相を組み立てていくという、時々見かけるちょっとまだるっこしい構成をとっているが、実はこういうやりかたで、吉原の職種や仕組み、客と花魁のかけひきなどを、何も知らない読者に小説を通して、わかりやすく手ほどきするという目的をもって書かれた(^_^;)というのはいいすぎだが、タイトルもそれを匂わしてある。
本筋の方は、14歳という遅すぎる年齢で吉原に入った女の子が、当代一の花魁になり、先に書いた刃傷沙汰を起こして忽然と消え去る。その実情は、まあ、吉原版忠臣蔵みたいなもので、粗もめだつが、例によって、著者の歌舞伎をベースにした江戸文化通ぶりが楽しめる。

花魁の部屋では毎日お香を焚いて、それはたいがい練香を使うが、元の香りもひと通りは知っておいたほうがいいから香道も嗜ませた。香は嗅ぐことを「聞く」といって聞香のなかに粗香のなかに組香というのがある。一度試しにいくつかちがった香の匂いを聞きくらべ、次に焚く順番を変えたりして、いくつ聞き当てられるかどうかを競うという遊びで、これにはわしもよく加わった。そういえば、あの妓の禿名は初音だったが、伽羅の中にも初音と称する銘香があったねえ。
香木には伽羅、羅国、真那賀(まなか)、佐曽羅(さそら)、寸門多羅(すもたら)の六種があって、その香木を馬の尻尾か蚊の足かというほどに細かく割って雲母(きらら)の小皿に載せ、炭団(たどん)を埋めた香炉で焚いて皆で回し聞きをする。それぞれ甘い幹事やら、酸っぱい感じやら、匂いのちがいは聞き分けられても、一度に何種もの香を聞いてその匂いを憶えておくのは難しい。最初にぴんと来た通りの答えをさっさと紙に書いて出せばいいんだが、聞き直しをしたりすると、また頭から順番がくるっちまうといった塩梅で、フフフ、まさに六道の辻よろしく迷えば迷うほどわからなくなるんだよ。
あの妓は潔いというのか、くそ度胸があるといったらいいのか、聞き直しをせずに答えをさらさらと紙に書いてすぐ出す。それがすべて当たりだったのかって? アハハ、まさかいくらなんでも化けもんじゃあるまいし。ただ危機の青して迷いに迷ったこっちと、さっさと答えを決めて出したあの妓とで、当たりはずれはそんなに変わらないのは癪だったよ。はずれが多くてもあの妓は一向に悪びれなかったし、毎度あんまり自信たっぷりな顔つきで答えを出すもんで、こっちの鼻が鈍いんじゃないかと情けなくなるほどでね。

こんな役にも立たない薀蓄の部分がMorris.好みである。
多数の聞き込み先の口調ややり取り場面の臨場感もなかなかのもので、確かに上手いと思う。
ただMorris.が異常に嫌っている「「手をこまねいて」表現(143p)があったので評点を下げている。これは前回も同じ事を指摘してた(^_^;)
本作を読んで、ついつい安野モヨコの「さくらん」を読み返してしまった。(^_^;)


08075

【秀句の鑑賞】山口誓子★★★☆ これも先日サンパルの2Fロードスの均一棚で見つけたもの。こちらは昭和15年(1940)三省堂発行のソフトカバー222pの軽めの本である。袋とじだったらしく、ペーパーナイフでカットしながら読んだ後が窺がえる。
「ぐいぐい俳壇」(^_^;)なんてのをやってた頃はまだ、いくらか俳句の本とか句集をひもといていたのだが、最近はさっぱりである。
山口誓子という人は、玄人好みというか、いわゆる「ほととぎす」黄金時代の4Sのひとりとしても名が高く、評価の定まった俳人らしいが、どうもMorris.は彼の句の好さがなかなか実感できずにいる。
せっかくだから、名句集と評判の高い「凍港」を一通り読み返してみたけど、印をつけた句は

「秀句の鑑賞」山口誓子・かげろひて港は夏をおもはしむ
・歓楽のジヤズに年去り年来たる
・走馬灯青水無月のとある夜の


の3句に過ぎなかった(^_^;)
でも本書は古句の鑑賞が中心みたいだし、立ち読みして、その表現の鋭さ、的確さにほおっと感心したので、大枚(^_^;)\105を奮発して買ってしまった。
本書は「新選秀吟百句」「古句鑑賞(50句)」の150句の鑑賞が中心で、付録みたいにラジオ番組の草稿3点「ラジオ俳壇評」「戦争俳句の鑑賞」「冬の美しさ」が収められている。
太平洋戦争の前夜という時期ということもあって、ラジオの草稿はかなり軍国色を帯びているが、決して戦争賛美とか戦争協力に傾いてはいない。
「戦争俳句」という露骨なタイトルの一文でも、「軍馬」に関するものと「戦闘の前後、戦闘そのもの」という二つに分けてるくらいだし、引用句もそれほど戦争のキナ臭さのしないものが選ばれているようだ。

・我が馬を埋むと兵ら枯野掘る 長谷川素逝
・夜の雷雨砲車に光りては消ゆる 長谷川素逝

・霜の闇馬蹄にかけいしものを思ふ 水見悠々子

・砲声しばし絶ゆ秋山の黄もあでに 町原木佳

・秋の風むなしき城をかけめぐる 杉浦白圃


「新選秀吟百句」というからにはこれよりまえに百句の鑑賞があったものと思われるが、句の選び方と真剣勝負のような渾身の気合の入った解説鑑賞表現には溜息をつくことしばしばだった。型見本をいくつか引いておく。

結ぶより早歯にひゞく泉かな 芭蕉

夏のあつい日に旅をしてゐる。汗は流れつくし、いまは全身的な渇を覚えてゐる。をりもをり、路辺にこんこんんと湧いてゐる泉があつた。それを見るなり、芭蕉の全身がその泉を欲した。芭蕉はうち踞んで、両の掌に水を掬んだ−−掬んだときはもう芭蕉の口がその水を飲んでゐた。息も継がずにのんでゐた。いくどもいくども掬んで飲んだ。
水は清冽そのものであつた。芭蕉は歯のはしばしに、しみとほり、ひゞくやうな冷たさを感じた。それはまつたく歯の琺瑯質に罅が入るやうな冷たさである。
泉にひたした十本の指も、その一本一本までが骨の髄まで痺れる思ひがした。
冷泉の温度を言葉によつてこんなにまで的確に伝達するなどといふことは詩人を措いてほかには誰も出来やしない。「ひゞく」といふ言葉の摩訶不思議に三嘆せよ。「結ぶより早歯にひゞく」といふ言葉の移動速度とその階調音を三誦せよ。
「結ぶより」の「より」は「艸の葉を落るより飛蛍かな」の「より」であるが、同じ「より」でも、言葉の速度がちがふのである。「結ぶより早」は「結ぶすなはち」である。「より」の字のあるのもまだるつこいくらゐだ。しかし「より」の字がなくてはこまる。この「より」のところで、言葉が跳ねかへつてゐるのである。

海手より日は照つけて山ざくら 蕪村

地勢から説明してかゝる必要がある。
海が南にひらけ、その海に山が近く迫つてゐる。山は無論南向きだ。
日は海の上をわたり、そのひかりはうちつけに山腹を照らすのである。「照つけて」とあるから、昼間のかなり強い日ざしが想像される。
その山腹には山ざくらがいまを盛りと咲き満ちてゐた。山腹を強く照らした日ざしは、その山ざくらを真向から照らした。さうではない。日ざしは山ざくらに集中したといつた方が事実に近いのだ。山ざくらはおのれに集中されたその日ざしを照りかへして白くかゞやいた。
「海手」といふ言葉も選び得てゐるが、「海手より日は照つけて山ざくら」といふことばのはこび−−しらべ−−は、ひかりの方向、直射、被照体のことを実に巧みに表現し得てゐる。

(あざらけ)き魚拾ひけり雪の中 几董

「鮮」は「あざらけし」と訓む。「魚ノイキイキトシタコト」古い古い言葉だ。
雪の降りしきる道を歩いてゐる。さしづめ他の何ものも必要ではない。天地一切を胡粉で塗りつぶして置けばいい。道も道として眼に見える必要はない。
雪が白く降つてゐて、白い地上があれば、それで十分だ。
雪の地上に何か落ちてゐるものがあつた。魚であつた。作者は屈んでそれを拾つた。手にとつて見ると、その魚は柔軟で、実に生々としてゐた。誰かが搬び落したものにちがひなかつた。作者はこの無主物を先占した。
魚は何の魚とも明示されてはゐない。作者がその名前を知らなかつたからかも知れないし、知つてても、その名前を外へ出す必要がなかつたからかも知れない。
事実名前はどうだつていゝのだ。「抽象の魚」でもかまひはしない。肝要なのはその魚が新鮮であるといふことだ。新鮮な魚の美を云ひたかつたのだ。
しかもその美を白雪の中に於て見たことが云ひたかつたのだ。
私の書斎に佐伯祐三の鯖の油彩がかゝつてゐる。二匹の鯖が真白な西洋皿の上に描かれて、同じ構図のものは「佐伯祐三画集」にも出てゐるが、鯖は真白な西洋皿の上に置かれてゐるために、実に新鮮な感じがする。白の幻術なのだ。
佐伯祐三に、几董のこの句を見せて置きたかつた。

蟻地獄みな生きてゐる伽藍かな 青畝

伽藍の簷下は、きまつて赤土だつた。その赤土はすこし白つぽくて岩波文庫の表紙の色をしてゐた。
雨漏落ちのやうに凹んでゐるのは蟻地獄の穿である。
蟻がその穿に片脚を踏み外して、砂をこぼさうものなら、底に身を潜めてゐる蟻地獄はぴちぴちと砂を弾いて、その存在と威力を示した。
ときには、鉤のやうなものを底からちらつと見せたりした。
どの穿にも蟻地獄が住んでゐて、その底に断えず殺気を漂はせてゐた。
「蟻地獄みな生きてゐる伽藍かな」−−細叙はない。しかし細叙以上のものが現れてゐる。
かゝる手法はこの作者の得意とする藝である。たとへば
・葛城の山懐に寝釈迦かな
の如き。


まだまだ引用をつづけたいところだが、スペースと時間をとられ過ぎるようなので、例によって、印象に残った句をずらずらと並べておく。

・鳥飛であぶなきけしの一重かな 落梧
・宵の間は笹にみだるゝ蛍かな 元輔
・水汲で濡たる袖のほたるかな 鴎歩
・松笠の緑を見たる夏野かな 卜枝
・夜をこめて雪舟(そり)に乗たるよめりかな 長紅
・初霜に行や北斗の星の前 百歳
・手を懸てをらで過行木槿かな 杉風
・かゝる夜の月も見にけり野辺送 去来
・物の音ひとりたふるゝ案山子かな 凡兆
・竹の子や児(ちご)の歯ぐきのうつくしき 嵐雪
・海山の鳥啼立る雪吹(ふぶき)かな 乙州
・白魚をふるひ寄せたる四手かな 其角
・若水や手にうつくしき薄氷 武仙
・更行や水田の上のあまの川 惟然
・ひうひうと風は空行く冬牡丹 鬼貫
・春もはや山吹白く苣にがし 素堂
・煮凝へともに箸さす女夫かな 招波
・火ともせばうら梅がちに見ゆる也 暁台
・入日さす鱸の口や魚の店(たな) 喜水
・斧の音深くも入らず冬の山 事紅
・寒梅や雪ひるがへる花のうへ 蓼太
・百姓のたばこは臭し梅の花 嵐山
・添ふて来し野川いづちへ山ざくら 作者不知
・白菊やしづかに時のうつり行 江涯
・しのゝめや水に雪ふる網代守 士川
・枯蘆の日に日に折れて流れけり 闌更
・魚食うて口なまぐさし昼の雪 成美
・山やくや眉にはらはら夜の雨 一茶
・かへり花闇にも見えて哀也 梅室
・琵琶一曲月は鴨居に隠れけり 子規
・かたまりて哀れさかりや曼珠沙華 王城
・大いなる春日の翼垂れてあり 花蓑
・板橋や顧みすれば秋の情 寸七翁
・七夕や芭蕉人麻呂一枝に 元
・虫鳴けば老の近づく思ひかな あふひ
・仲秋や月明かに人老いし 虚子
・朝顔や濁りそめたる市の空 久女
・夜桜や遠ざかり来てかへりみる 風生
・ゆさゆさと大枝ゆるる櫻かな 鬼城
・而して蕃茄の酸味口にあり 青峯
・鋸の音貧しさよ夜半の冬 蕪村
・元日やくらきより人あらはるゝ 暁台
・初富士を見て嬉しさや君を訪ふ 虚子
・石も木も眼に光る暑さかな 去来
・かはほりやむかひの女房こちを見る 蕪村
・さみだれや名もなき川のおそろしき 蕪村
・名月や門にさし来る潮がしら 芭蕉
・声すみて北斗にひゞく砧かな 芭蕉
・野路の秋我がうしろより人や来る 蕪村
・玉あられ鍛冶が飛火に交りけり暁台
・葱買うて枯木の中を帰りけり 蕪村
・こがらしや畠の小石目に見ゆる 蕪村


本書が出てからすでに65年ほどが過ぎている。65年前の「現代人」の目で、古句を捉え鑑賞した一冊として、なかなか読み応えのあるものだった。
「新選秀吟」の地の文と、あとがきから、筆者の鑑賞の拠って立つところを引いて終わりにしよう。

「鑑賞」とは作品の顔色を窺ふことである。作品の顔色を窺つて、作者の心情を察することである。だから作品の顔面にあらはれてゐるものは皺一つといへども微妙である。その微妙なるものは悉皆見落としてはならない。

現代に生きてゐる私が、作品の顔色を通して如何に作者の心情を掴みとつたかが、この鑑賞の眼目である。従つてこれは極めて主観的なものである。だから、もし私が作品の顔色を窺ひ損なつたとしたら、自分としては如何に作者の心情を掴んだつもりでも、私は、その場で詩の神神の怒りに触れなければならないのである。

鑑賞こそ創作である。
しかし最も独善的な。

鑑賞は自己によつて他人を限定することである。鑑賞にさういふ限定の行はれるのは、当然なことである。
ところが、その限定に行き過ぎが起ると、鑑賞の自由を愛する人々は喜ばない。
限定しなければ鑑賞が成り立たないし、限定の度を過ごせばまた鑑賞を踏み外してしまふ。
しかし恐るべきは限定の過度であつて、限定そのものではない。
うま過ぎる鑑賞といふものは屡、限定の度を過ごした鑑賞のことである。

「人智には限りがある」といふ言葉は鑑賞の場合に最も痛切である。


08074

【世路第一歩 求婚時代】佐々木邦 ★★☆☆ 先日サンパルの「MANYO」の\105棚で掘り出した一冊である。
昭和10年(1935)、アトリヱ社発行の「現代ユーモア小説全集」全12巻の第1巻らしい。タイトルの2篇と「村の名物」「善根鈍根」「首切り問答」「結婚争議」の計6篇の中短編が収められている。内容は中産階級の子弟の就職と結婚をネタにしたユーモア小説で、筋も小説としてもたわいの無いものだが、小野佐世男のハードカバー表紙全体を使った派手やかな装画と挿絵、箱の洒脱な美人画などが、モボモガからエログロナンセンス時代の残り火のような時代の空気を感じさせてくれた。「大学は出たけれど」という、昭和不況の皺寄せも取り上げられているが、けして深刻ではない。
この全集の他の作家でMorris.が知ってる名前といえば、サトウハチロー、徳川夢声、獅子文六、乾真一郎くらいだが、挿絵では横山隆一、清水崑、近藤日出造、杉浦幸雄など漫画家が揃っている。
惹句は「軽快明朗な昭和文学随一の寵児」といかにも大げさである。
本文は会話が多く、500ページあるのに、すいすいと読み終えてしまった。もちろん総ルビである、これも嬉しい。作者独特の当て字というか、訓読みの面白いものを、いくらかピックアップしておく。

・何卒(なにとぞ)・次第(わけ)・屹度(きつと)・悉皆(すつかり)・失策る(しくじる)・突如(いきなり)・経緯(いきさつ)・逆捩じ(さかねじ)・發く(あばく)・お剰銭(おつり)・突然(だしぬけ)

思ったほど面白い当て字はなかった(^_^;) 
主人公が校長として赴任した村の相対立する素封家2軒の娘と息子が恋に落ちるという、村のロミオとジュリエットみたいな「村の名物」というのが、いちばん面白かった。その中から、一部文体見本を(^_^;)

獅子頭の経緯は松の内の話題になった丈けで、後に何も残さなかつた。敏さんは相変らず私のところへ遊びに来た。2月と3月を過ぎて校庭の花が咲き始めた頃、妻(さい)が、
「あなたは敏さんが実学を聴きにあなたのところへお出にと思つていらつしやいますか?」と聴いた。
「無論さ。」
「そんなことで実学の先生が勤まりませうか? 実学つてものは実際に応用の利く学問でございませう?。」
佐々木邦「然うさ。」
「好い気なものね。先生免職よ。」
「何うしたんだい? 一体。」
「私の方が先生よ。お正月頃から気がついてゐます。」
「分らないな、遠回しで。」
「敏さんは豊子さんのお顔が見たくてお出になるんでございますわ。」
「ふうむ。」
「豊子さんも敏さんがお好きよ。」
「ふうむ。」
「矢つ張り免状のない先生は駄目なものね。」
と私は然う言はれて初めて気がついたのである。
「思ひ当ることがございません?」
「ないね、一向。」
「私、お正月用の獅子頭事件の模様をあなたから承はつて、これは油断がならないと存じました。塚本家と山下家の間に喧嘩が始まりさうになつた時、豊子さんがお泣きになるし、もう一方敏さんが喧嘩を避けるために御自分のお家の獅子頭を毀していらつしやいます。」
「成程ね。」
「私、こんな血の廻りの悪い人のところへ何うして貰はれて来る気になつたのかと思ふと、自分で自分が分らなくなりますわ。」
「宜い加減にしろ。」
「オホヽヽヽヽヽ。」
「唯想像ばかりぢや駄目だ。何か証拠があるか?」
「ございますとも。申上げませうか?」
と妻は勝ち誇つた。勿体ぶつて前置きの長い女だ。


08073

【世にも奇妙な職業案内】ナンシー・リカ・シフ 伴田良輔訳 ★★★☆ 三宮図書館の棚で見つけてちょこっと立ち読みしてるうちにすっかり引き込まれて、そのままソファに坐って読み終えてしまった(^_^;)。
hot-dog-car著者はアメリカ、出版社、報道関連の女性写真家で、本書では、棺造り、楽譜めくり、コンドーム検査官、犬の散歩人、赤ちゃん調教師、ビールテイスター、人工授精屋、死体メイクアップアーチスト、簡易トイレ清掃員、ポテトチップチェッカー……など、意外なそしていかにもアメリカ的な職業に就いている人物100名ほどを、見開き左ページに説明文、右ページがその人物のモノクロ写真というレイアウトで、小さな角型の本に仕上げている。
文章もちょっと小洒落て良かったが、何よりもその写真の完成度の高さにほーっ、と感心したのだった。
著者は本書のためにアメリカ全土を廻り、12年間かけて完成させたと書いてあったが、いや、なかなか凄い。今や、アメリカ嫌いのMorris.だが、凄いアメリカ人とその仕事には賞賛を贈りたい。
中の一枚オスカーマイヤー社のホットドッグのCMカーの写真が印象的だった。ホットドッグをかたどった仮装カーだが、名古屋に向かう名神の途中に丸大ハム工場があって、その中庭にこれとそっくりなウィンナーソーセージカーを見かけたことを思い出したからだ。あのウィンナソーセージカーはたぶん工場内のみの走行だと思うが、こちらのホットドッグカーは全米を走り回っていたらしい。


08072

【コケの謎  ゲッチョ先生、コケを食う】盛口満 ★★★☆☆☆ いやあ、面白かった。
著者は1962年千葉生まれで中高の生物の先生やって、今は沖縄に住んで大学の准教授やったり、草の根生物サークル活動やったりしてる人らしい。
かなりの生き物マニアで、貝殻拾いから始まって、骨屋、ゴキブリ屋、どんぐり屋、冬虫夏草マニア、ナマコマニア−−−その他枚挙にいとまないくらい(@_@)
その「生き物屋」の彼が突然コケに目覚めたのは、奈良のキノコ屋たちとのフィールドワークで知り合ったキムラさんというコケ屋との出会いからで、それ以来すっかりコケに取り憑かれ、コケ病に感染したようだ。
Morris.はコケといえば、ゼニゴケ、スギゴケ、ヒカリゴケ、モウセンゴケくらいしか名前思い浮かばなくて、京都の苔寺や盆栽の苔を連想する程度だが、世間の大部分はそんなもんだろう。
本書でやっとMorris.はコケの世界の大概を知ることが出来た。まずそれだけでありがたかった。

"五界説"に従うと、生物界は「動物、植物、菌、原生生物、モレナ(いわゆるバクテリアの仲間)」という五つのグループに分類される。
ある本に書かれている五界説の説明では、藻が属するのは原生生物界である。これに対してコケは、植物界の住人なのだ。コケには茎と葉の区別があるが、藻にははっきりとした区別がない。だからコケは原生生物界ではなく、植物界の一員なのである。コケは水中で暮らしていた藻が、陸上に進出したときに生まれた、植物の中ではもっとも原始的な体の作りを残したグループであると考えられている(そのため藻的なところも残している)。

食虫植物の一つにモウセンゴケ(毛氈苔)という名前の植物がある。この植物は、コケという名がつけられてはいるものの、コケではなく、ちゃんと花が咲く植物(種子植物)の仲間だ。

コケの語源は「木毛」であるという説がある、これによると、コケというのはもともと木の幹などに着生している小さな植物の総称だったという。そのため、生物学的分類群に対応しているコケ(これが「蘚苔類」と呼ばれる"本当のコケ")、後者が、見た目でまとめられた広義のコケ(木毛)である。

地衣類というのはコケとはまた別に興味深い生き物だ。というのも、この生き物は、原生生物界のメンバーの藻類(つまり藻)と、菌界のメンバーである菌類の「合体生物」なのである。藻は本来、水中生活者であって、乾燥に弱い。これに対して、陸上生活者の菌類は光合成ができない。この両者の欠点を補い合うように、藻と菌が、あたかも一つの生き物のような姿を形成しているのが地衣類だ。

「コケは植物の両生類」
コケに興味を持ち調べるうちに、こんなフレーズに行きあい、「なるほど」と思う。基本的に水中をすみかとする藻や、完全に陸上生活に適応している種子植物などに対して、コケは陸上に進出しながらも、まだすっかり水中生活と縁が切れていないグループであるということなのだ。

水中から陸上への進化段階によって、原生生物界の藻段階から、植物界の種子段階まで、次の四段階に分けられる。
1.藻段階 原生動物界。水中生活者で、茎や葉などの作りが未分化。
2.コケ段階 この段階から植物界のメンバーで、茎や葉は分化する。ただし、コケの場合、植物の両生類と言える。すなわち体の中で水を運ぶ維管束の作りなどは未発達。そのため、完全に陸上生活に適応できていない。
3.シダ段階 陸上生活者。根や維管束も発達する。ただし受精には水を必要とし、種子ではなく胞子で増える。
4.種子植物段階 陸上生活者。受精にも水を必要としなくなった。種子で増える。
じつは、シダという呼び方は便宜的に「シダ段階」にある植物を一くくりにしたもので、本当はさまざまな仲間の植物が含まれている。藻も同じで、いろいろな仲間の生き物を一まとめにした言い方である。これに対して、種子植物というのは、系統的に一つの共通先祖から進化してきた一まとまりの仲間である。ではコケの場合はどうかといえば、これには議論がある。コケの場合は一まとまりの仲間の植物であるという考えと、やはり「コケ段階」にあるいくつかの植物を一くくりにしてコケと呼んでいるという考えがある。現在のところは、一応、コケは種子植物同様に、先祖をともにする一まとまりの仲間とされ、蘚苔植物門(コケ植物門)という分類群にまとめられている。

●蘚苔植物門
[蘚綱]
ミズゴケ亜綱(1目 1科 1属 35種)
クロゴケ亜綱(1目 1科 1属 2種)
ナンジャモンジャゴケ亜綱(1目 1科 1属 1種)
マゴケ亜綱(15目 58科 302属 約1,000種)
[苔綱]
ウロコゴケ亜綱(3目 37科 113属 約580種)
ゼニゴケ亜綱(1目 9科 18属 39種)
[ツノゴケ綱]
        1目 2科 6属 17種

「蘚類と苔類の違いって、何ですか?」キムラさんに聞いてみた。
「蘚類は胞子体が硬い。苔類は胞子体が柔かい。すごく乱暴に言ってしまえば、その違いです」


そうか、モウセンゴケはコケではなかったのか!とか、「植物人間」Morris.の愛好する「植物」とは4段階分類では最後の「種子植物」にかぎられてたのか!こういった、生物学上の常識的知識から、コケの一般的特徴、分類などの解説だけだけでも充分読むに値する一冊だったが、本書では、それ以上に著者の「生き物屋」としての好奇心、自然界への親しみと熱中ぶりと、人柄が、Morris.には嬉しかった。
虫屋のケンさん(田中研)の本との共通するものかもしれない。
Morris.も小中学時代は昆虫少年で、将来できることなら生物関係の勉強したいと思わなくも無かったが、いわゆる「理科系」の勉強は徹底的に駄目(>_<)だったので、さっさと諦めてしまったが、こういう人の本を読むと羨ましくなってしまう。
副題にある「コケを食う」話は、たしかに数箇所出てきたけど、結論的には「不味くて食えない」だった。これは、副題としてはいまいちだったと思う。


08071

【黄金旅風】飯嶋和一 ★★★☆ 2004年の作だが、Morris.はこれを図書館で立ち読みして結局読まずにおいた。掲示板で稲田さんが、今年飯嶋の新作が出て、それが本書の続編らしいというので、それならこちらを先に読んでおこうという気になったのだった。
飯嶋の作品は「汝ふたたび故郷へ帰れず」「雷電本紀」「始祖鳥記」の三冊しか読んでない。もっとも、彼は寡作で、他にはもう一冊あるかないかくらいらしい。
本書の舞台は江戸時代初期寛永5年(1628)から寛永10年(1633)の長崎。代官で朱印船貿易家の息子、火消組惣頭、権威をかさに着て私腹を肥やそうとする長崎奉行、江戸徳川幕府の実力者とのせめぎあいを描いている。寛永12年の鎖国令への布石である。
キリスト教布教を第一義とするポルトガル、イスパニヤと、宗教より商売を旨とするオランダとの駆け引き、禁制キリシタン宗徒の取締り、台湾、ルソンの紛争、かなり錯綜した物語の展開であるが、メインは二人の若者の冒険譚のはずだった。と、Morris.は思うのだが、結局この二人のヒーローの一人は物語の半ばであっけなく死んでしまうし、もう一人も最後には非業の死を遂げる。Morris.はこれが納得いかなかった。どうも登場人物を簡単に殺しすぎる。

柑子の樹種を植える時には充分に注意しなくてはならない。それらの木は、その家の主がいかなる品性を備えているかを正直に示す恐ろしい性格を備えている。蜜柑の類は、青い実をつけた時点で大量の摘果を要する。四果あれば一つだけを残し、惜しむことなく他の実をすべて摘み捨ててしまわなくては、秋風が立つ前に青いまま全部が落ちてしまうことになる。青い果実のすべてを得ようとする強欲な者には、黄金の果実は一果ももたらされない。

在来種では肩丈五尺もあれば大馬と驚かれる時代に、肩丈五尺八寸もあるアラビア混血の葦毛馬を苦もなく御して、その男は船着に現れた。固太りで身の丈六尺一寸はある日本人離れした大男だった。ポルトガルから輸入した革製南蛮鞍の銀金具が篝火に映え、鐙も鉄製の南蛮鐙だった。白羽二重の小袖に広襟の鳶色羽二重の羽織をまとい、葡萄茶地に金襴のカルサン袴を着け、白革足袋に革沓を履いていた。

樹木が百年の歳月を経れば、木霊を宿して別の生きものになるように、火も人の手に負えないほどの大きさまで育てば、別の生命体となって意志を持つにいたる。まるで人の欲望に似て次々と樹木や家並みを侵し、満足することがない。

長い航海の後に船が帰ってくる時、たかだか一隻のジャンク船にもかかわらず、辺りの見慣れた風景までが一変する。船も、それに乗っている人も、異界から蘇ったかのようにそこだけが深い陰影に彩られ浮き出して見える。陸暮らしの繰り返される同じ日々の営みとはまるで異なった時間と空間を移動した船という乗り物は、時の錆をまぬがれ、そこだけが細部にわたるまでくっきりとした輪郭を刻んで、海の果てから突然出現する。


こういった、詩的だったり、マニアックだったり、実証的だったりする文章が飯嶋作品の魅力だとMorris.は思うのだが、Morris.の嫌悪する「手をこまねいて」表現(454p)があったのが評価を落としている(^_^;)


08070

【上海ブギウギ1945 服部良一の冒険】上田賢一 ★★★ 服部良一は好きな作曲家の一人であるし、彼の自伝や評伝めいたものも読んだ覚えがある。
本書の著者は1949年生まれで、Morris.と同年だが、ラジオ番組構成などやった人だけに、生前の服部良一に会っているし、家族や関係者の取材も幅広くおこなっている。
太平洋戦争末期の服部良一の上海体験から、服部作品を再検証するという筆者の試みはなかなかに刺激的で面白かった。
とりわけ、Morris.に興味深かったのは、ブギウギと服部の関係で、上田は、戦争中にすでに服部がブギウギの楽譜を手に入れながら、音源を聴くことが叶わず、戦後の日本でのブギウギブームになだれ込む過程を、本場米国の事情と併せて、手際よく紹介してくれている。

服部は「夜来香ラプソディ」に新しいリズム、ブギウギを使ってみようと思っていた。3年前太平洋戦争が始まった頃に銀座のレコード屋で服部が買ったアメリカの楽譜の中に、ピアノの左手の動きのとても面白い曲があった。なにか自然に身体が動くような、心がウキウキするような曲だった。「ビューグル・コール。ブギウギ」というタイトルだった。服部はこの躍動するようなエイト・ビートのリズムを実地に試してみたかったが、しかし、時すでに遅し。日本は太平洋戦争に突入し、ジャズ禁止の時代となってしまった。

ブギウギは1930年代末から1940年代初めにかけてダンス・ミュージックとして全米に大ブームを巻き起こした。トミー・ドーシー、アール・ハインズ、カウント・ベーシー、ジーン・クルーパ、グレン・ミラー、アンドリュース・シスターズなど人気楽団、人気アーティストが次々とブギウギのリズムでヒットを放った。そしてエイト・ビートのブギウギは現代のロックンロールの母胎となった。
ブギウギの正確なルーツは不明だが、ピアノのキーをエイト・ビートで叩くブギウギ・ピアニストが最初に人気を集めたのは1910年代から、20年代にかけてのシカゴ。服部さんが大阪の道頓堀で出雲屋少年音楽隊に入ってサキソフォンを手にしていた頃である。
ジャズ史で「ブギウギの父」とのちに言われるジミー・ヤンシーは、地元シカゴの球団ホワイトソックスのグラウンド・キーパーとして半生を過ごした男だった。少年時代、シンガーでギタリストだった父親についてタップ・ダンサーとして各地を巡業し、15歳の時に独学でピアノを覚えたという彼は、シカゴの黒人街で開かれるパーティで人気者だった。パーティでただで飲み食いするかわりにピアノを弾き、それに合わせてみんなが踊り、歌った。その時のピアノのリズムがブギウギだったと言われている。

終戦後、服部さんは日本のミュージック・シーンに復帰し、すぐさま「東京ブギウギ」の大ヒットを放つ。「ブギウギ・ビューグル・ボーイ」から6年目のことだった。
笠置シヅ子の派手なダンス、あけっぴろげな歌唱、独特のキャラクターの魅力とあいまって「東京ブギウギ」は爆発的に売れ、服部さんの最大のヒット曲となった。
「東京ブギウギ」の爆発的なヒットに続いて、「さくらブギウギ」「ヘイヘイブギ」「博多ブギウギ」「北海ブギウギ」「オオサカブギウギ」「ジャングルブギ」「ブギウギ時代」「買物ブギー」「ホームランブギ」(以上笠置シヅ子)、「これがブギウギ」(暁テル子)、「三味線ブギウギ」(市丸)とブギウギ流行歌を連発、服部さんは復興期の日本にブギウギの大ブームを巻き起こす。また1949年3月発売の「青い山脈」、1949年7月発売の「銀座カンカン娘」も大ヒットし、作曲家服部良一は戦前にもましてヒット・メーカーとしての名声を獲得したのだった。そして笠置シヅ子とハワイ、アメリカにコンサート旅行をし、アメリカではライオネル・ハンプトン、ハリー・ジェームスと会ってきた。


まさに服部良一戦後の黄金時代だったわけだが、この後、急に彼のヒット曲が出なくなる。その理由を筆者は、日本の歌謡曲の世界への愛想尽かしではないかというのだが、良くわからない。
BGMにアンドリュー・シスターズをかけながら、これを書いてたのだが、たしかに彼女らのサウンドと服部サウンドは通底してるように思えて仕方が無かった。


08069

【求めない】加島祥造 ★★★? 2007年に発刊された小ぶりの正方形の本である。詩集のようでもあるが、そうではない。人生訓のようでもあるし、独り言のようでもあるがそうでもなさそうだ。。
大部分が「求めない−−−/すると」という二行に、一行から数行が続く形式の短章数十篇である。
冒頭を決めて連作していくという方法は、取り立てて珍しいものでもない。ある意味安易な方法といえなくもない。
「求めない」は、「望まない」「願わない」「欲張らない」などに通じるものだろうが、どちらかというと消極的志向で、もちろん著者はそれへの反証も言挙げしている。
Morris.はこういった思考方法にどちらかというと共感を覚える側だと思うが、何となく道教臭いと思ってたら、やはりこの人は「老子」を、英語訳から、自由に邦訳して、それなりに評価を得ている人だった。
そういうこととは、いちおう切り離して、本書の短章を見るに、「求めるな」の命令形でなく、「求めない」という常態表現をとってるあたりは、なかなかにしたたかである。

求めない−−−
すると
簡素な暮しになる


これが最初の章句である。以下最初の二行を省略して、印象的なものを列挙すると

・いまじゅうぶんに持っていると気づく
・それでも案外
生きてゆけると知る
・恐怖感が消えてゆく
・時はゆっくり流れはじめる
・自分を客観できるんだ
・ひとから自由になる
・君に求めているひとは去ってゆく
・失望しない
・自分にほんとに必要なものはなにか
分かってくる
・比べなくなる
・頼らなくなる


うーーん、こんな引用の仕方はまちがってるかもしれない。全体を通してそれなりのストーリーになってるみたいでもある。
だんだん本書についていろいろ書くことがバカらしくなってきた。
Morris.は本書から何も「求めない」ことにしよう。


08068

【思索の淵にて 詩と哲学のデュオ】茨木のり子 長谷川宏 ★★☆☆ 茨木の詩28編とそれに啓発された?長谷川の短文を添えたもの。
長谷川という人は市井の哲学者で、小中学生の私塾を経営しているらしい。
結局長谷川の文はほとんど飛ばし読みしてしまった。無い方が良かったとさえ思ってしまった。評価の星印は茨木の詩への点数である。
Morris.にとっては、長谷川選茨木のり子詩集でしかなかったわけだし、その選もあまりしっくり来ないものが多かった。名作も含まれてるが、どちらかというとMorris.の好みから外れてる。
茨木と長谷川は面識もないらしい。どうしてこんな本を作ったのか、良くわからない。
茨木のまえがきで、一番好きな詩をという問いに、エリュアールの一節を引用している。

年をとる それは青春を
歳月のなかで組織することだ(エリュアール 大岡信訳)


長詩の一節らしいとのことだが、本書で一番印象に残ったフレーズがこれだった。
そして、二番目に印象深かったのが、「ある一行」という詩の中に引用された一節

絶望の虚妄なること まさに希望に相同じい

これはハンガリーの詩人ペテーフィ・シャンドルという人の詩で魯迅が引用して有名になったとある。そしてこれを日本語に訳したのは竹内好。
茨木は詩のなかで

絶望といい希望といっても高が知れている
うつろなることでは二つともに同じ
そんなものに足をとられず
淡々と生きていけ!
というふうに受けとって暗記したのだった。


と述懐している。この解釈はMorris.が先の一行を読んで受け取った感動とは相当に違っていた。Morris.にはこれが、寸鉄人を刺すともいうべき鋭い箴言に見えたのだ。「淡々と生きよ」とはまるで反対の激しい言葉と感じ入ったMorris.と茨木との「感受性の違い」が際立つが、おたがい、自分の感受性くらいは自分でコントロールしなきゃね(^_^;)
長谷川の文章ではやたら自分の塾のことを例に挙げているようで、これが鼻についたところも否めない。彼は東大哲学科を出てるらしいが、その塾の名前が「赤門塾」というのには、畏れ入った(^_^;)


08067

【反転 裏社会の守護神と呼ばれて】田中森一 ★★★ 宮崎学との対談本を読んでこれが結構面白かったので、借りてきた。
著者は1943年長崎平戸生まれ、極貧の育ちから、苦学して検事になり、東京地検特捜部で辣腕検事として活躍した後、87年弁護士に転進して、やくざや裏社会の弁護士として名をはせ、執筆時現在詐欺容疑で逮捕、起訴され上告中とある。
自伝でもあり、バブル当時の金の動きや、検察庁の内部告発的部分もあり、読み応えのある本だったし、読み終えるのにえらく骨が折れた。
正義の味方としての検事時代、それへの疑問から弁護士になり、バブル時のあぶく銭を手に入れ、豪遊、浪費、やくざ、裏世界人脈とのつきあい、自恃、信念など、すごいなと思わせるところも多いが、どこか、自己弁護、我田引水な部分も目に付いた。
検事も弁護士もやくざも政治家も、Morris.とは直接的には無縁な存在だし、ずっと無縁でありたいものだが、こういった世界のこぼれ話は、怖いもの見たさというか、気にかかるところでもある。
本書を読んで、チャンドラーの本の中に、すごくぴったりする文章があったような気がした。自サイト検索でいろいろチェックしたら、「長いお別れ」だった。作家の死の現場に立ち会ったマーロウと、オールズ警部の会話部分である。

「一億の財産をつくるのにきれいな方法なんかあるもんじゃないよ」と、オールズはいった。「あの男自身は手がきれいだと思ってるかもしれないが、どこかにひどい目にあってる人間がいるし、地道に商売をしているものが土台をひっくりかえされて、二束三文で売り渡さなければならなくなっているし、罪のない人間が職を失っているし、株式市場でいんちき相場がつくられているし、大衆にはありがたいが金持ちには工合がわるい法律をごまかすために利権屋や一流弁護士が十万ドルの手数料をもらっているんだ。大きな財産は大きな権力に結びついていて、大きな権力には不正がつきものなんだ。それが世間のからくりさ。どうにも仕方がないのかもしれないが、いい世の中とはいえないよ」
「赤みたいだな」と、私はからかったつもりでいった。
「赤かもしれないね」と、彼はまじめにうけとっていった


結局本書の著者も、アメリカに代表される資本主義の生み出した膿みたいな存在なのかもしれない。


08066

【小沢昭一的 流行歌・昭和のこころ】小沢昭一 大倉徹也 ★★★☆ たぶん小沢自身のラジオ番組で連続放送したものを、大倉が再構成したものだろう。
とり上げられてる1ダースの歌手とキャッチコピー?と小沢好みの歌のタイトルは次の通り

柳青める日 藤山一郎「東京ラプソディ」「夢淡き東京」「男の純情」
ああそれなのに 美ち奴「ああそれなのに」「吉良の仁吉」
なぜか忘れぬ人故に 楠木繁夫「緑の地平線」「人生劇場」
荒野の涯に日は落ちて 松平晃「サーカスの唄」「急げ幌馬車」「夕日は落ちて」
パピプぺパピプペパピプペポ 杉狂児「うちの女房にゃ髭がある」
私の青空 二村定市「私の青空」「アラビヤの唄」「浪花小唄」「洒落男」「君恋し」
ハアー 小唄勝太郎「島の娘」「東京音頭」「明日はお立ちか」
ほろほろこぼれる白い花を 灰田勝彦「野球小僧」「きらめく星座」「鈴懸の径」「東京の屋根の下」
花もあらしも踏みこえて 霧島昇松原操夫妻「旅の夜風」「誰か故郷を思わざる」「目ん無い千鳥」「胸の振子」
ダイナ 私の恋人 ディック・ミネ「ダイナ」「二人は若い」「愛の小窓」「人生の並木路」「旅姿三人男」「夜霧のブルース」
口笛吹いたら小窓が開いた 美空ひばり「港町十三番地」「ラ あさくさ」「車屋さん」「上海」「青春の恋人たち」「やくざ若衆祭り唄」

Morris.は特に日本歌謡曲に詳しい方ではないし、本書に出てくる歌の1/3くらいは知らなかった。まあ、歌手の名前くらいは聞き覚えあるけどね。杉狂児は初耳だったが。
基本はラジオで小沢の語りと、熱唱(つまり愛唱曲がメインだったのだろう)を、聞くべきものだろう。でも、こうやってきちんと活字で残しておくだけの内容と面白さに満ちていた。
灰田勝彦の章にあるアマチュアリズムに関する発言は、印象深かった。

灰田勝彦さんには実はたくさんのヒット曲がございました。にもかかわらず、歌は副業だなんて言い切る。その遊びごころ。別の言い方をしますと、よきアマチュアリズムで、これがいかにも今っぽいじゃないですか。私、大いに共鳴するんでございますよ。だって、現に今も、大衆音楽に限らず、芸能の先駆者といいますものは、アマチュアリズムの中から生まれるんですよね。決して伝統的な、古格を守るなんていうところからは先駆者は生まれないというのが実は芸能全般にいえるんじゃないかと思います。そういう意味でも灰田勝彦さんは偉大な先駆者。とにかく、新しく、若々しかったのです。

また、美空ひばり礼賛を語りながら取り上げる歌がかなり偏向してるのも、小沢なりの愛情表現らしい。「上海」というジャズソングは、Morris.も偏愛している一曲だったので、嬉しいびっくりでもあった。
先般春日野道の勉強堂で手に入れた「全音 歌謡曲大全集1.2.」にほとんどの歌詞が収められていたので、それを参照しながら本書を楽しめたのが良かった。
たまには韓国歌謡以外の日本の古い歌謡曲も歌ってみたくなった。


08065

【灰色のピーターパン】石田衣良 ★★★ 「池袋ウエストゲートパークY」である。タイトル作と「野獣とリュニオン」「駅前無認可ガーデン」「池袋フェニックス計画」の4篇が収められている。2004年から2005年雑誌に発表されたものだ。
携帯電話での盗撮写真で荒稼ぎする小学生、路上で襲われ足を不具にされた兄の敵討ちを依頼する妹、ホステスの子供らを夜中まで預かる元ストリートギャングのボス、そして池袋浄化政策を取る副都知事との対決と、バラエティに富んでるようで、内容はほとんどワンパタンである。
Morris.はそこのところ承知の上で、おまけともいうべき石田節の枝葉末節を楽しんでいるわけだが、この巻は全体的にぱっとしなかった。事件の解決があまりに作り物めいてるし、主人公が簡単に友人や警察ややくざの力を借りておしまいである。この前読んだZはそれなりに面白かったから、波があるということだろう。

11月の初めから、東京の街はどこもクリスマスソング一色になる。考えてみると、クリスマスまでのほとんど2ヶ月、日本人は信じてもいない宗教の音楽を山のようにきかされるのだ。おれたちは実に寛容な民族なのである。
世界のキリスト教徒とイスラム教徒は、おれたちのいい加減さから学ぶところがおおいにあるはずだとおれは思う。中東とアメリカはコーランと聖書を年に2ヶ月ずつ交代で読んだらどうだろうか。相互理解の助けになる。一神教徒同士の果てしない泥仕合には、もうつきあっていられない。(「灰色のピーターパン」)

クリスマスをネタにイスラム教とキリスト教の対立を揶揄してるわけだが、あまりに皮相的でもある。

おれはあまりにもきれいすぎるものが苦手だ。浄化だとか治安回復なんて言葉も大嫌いだ。だいたい浄化といわれて、最初に頭に浮かぶのは例のエスニック・クレンジングだ。世界中のあちこちで起きてる民族浄化ってやつ。それは東欧やインドの話だろうと、あんたはいうかもしれない。
だが、この秋、治安回復の名のもとに日本の首都の副都心・池袋で起きていたのは、ほとんどユーゴスラビアやインド・パキスタン国境と同じ絵柄だったのだ。日本国VS.在留外国人。外国人は誰でもとにかく警察に引っ張る。ビザがあるやつからは、ビザを持ってない知りあいの話をききだし、もっていないやつはそのまま強制送還する。でたらめな除菌作戦だ。それはなにも外国人だけでなく、日本人オーナーが経営する風俗店にも同じように強行された。外国人および風俗殲滅作戦。繁華街の焦土戦術である。
世界がますますボーダーレスになっていくこの時代に、やつらは必死になって人間と人間のあいだに線を引こうとしていた。結局、時間をまきもどすことは誰にも出来なかったけれど、いk背袋の街には深い傷跡が残った。回復するまでには、まだまだ長い時間がかかることだろう。
やつらが池袋フェニックス計画という作戦名でおこなったのは、近代医学以前の殺菌方法だったのだ。怪我をしたなら、消毒薬をつかうのではなく、傷口を焼いてしまえばいい。だが池袋だけでなく、どこの街にも無数に傷口があるものだ。人が生きてる場所なら、それがあたりまえ。
そのすべてを容赦なく焼き払う。それが街という生きものにどんなダメージをあたえるか。
自分は池袋みたいな怖い街には関係ないというあんたは、転んでできたすり傷に焼きごてを押しあててみるといい。あんたの口から出る悲鳴、それこそおれたちの街がこの秋に漏らした声なのだ。(「池袋フェニックス計画」)


これは2005年秋に実際に実施された歌舞伎町の強制捜査を元にしているようだ。この意見には全面賛成ではないが、聞くべきところはありそうだ。
最後に、これこそ、ストーリーと無関係だが、主人公の母がはまっている、韓国ドラマへの、石田流のダイジェストを。

韓流は池袋西一番街まで届いてきているのだった。4時からはおふくろがはまっている韓国ドラマの再放送があるのだ。交通事故と記憶喪失と隠された血縁関係と大げさな台詞のコンビネーション。男優はじっとカメラを見て笑う。胸焼けがしないのだろうか。おれもストリートの事件なんか追わずに、純愛を追っかけようかな。そうしたら、コラムにももうすこし女性読者が増えるかもしれない。メタルフレームのメガネをかけ、こじゃれたマフラーを巻き、記憶をなくしたうえ、失明して、北極星になるのだ。悪くないかもしれない。

ね、なかなか笑えるでしょ(^_^)


08064

【京都文具探訪】ナカムラユキ ★★★☆ 著者は京都在住のイラストレータで、アトリエ雑貨ショップも経営してるらしい。京都の文具屋で古い文具を見つけて年取った店主と話したり、天神さんや弘法さんの古物市で掘り出したコレクションをカラー写真で紹介しながら、文具や懐かしい時代や暮らしのことを綴ったヴィジュアルな一冊で、もともと文具好きなMorris.でもあるので、懐かしく楽しく読ませてもらった。
インクやクレヨン、鉛筆や万年筆などの筆記用具、クリップ、ホッチキス、消しゴム、箱もの文具などMorris.にも見覚えのある懐かしいものが多かったし、ニチバンの南部鉄製の2kgある重厚なテープカッターは、何故かMorris.も持ってるので嬉しくなった。+
直接文具から離れるが、ガリ版への愛着もところどころに出てきて、「ガリ版伝承館」の記事は特に印象深かった。

ガリ版はいつから使われていたんだろう?
それを探ろうと調べてみると京都のすぐ隣、滋賀県東近江市がガリ版発祥の地で、「ガリ版伝承館」もおあることがわかった。京都から車で一時間。あたりは一面のどかな田畑が続き、そこの突然色あせたペパーミントグリーンの洋館が姿を現した。
これが「ガリ版伝承館」。ガリ版の発明者、堀井新治郎父子の本家二階建て洋館(明治42年築)を修復し、ガリ版をなつかしむ人とガリ版を知らない世代にあらたな魅力を味わってほしいという願いをこめて、平成10年4月に開館となった。

「ガリ版伝承館」 滋賀県東近江市蒲生岡本町663 tel.0748-55-0419 開館は土日のみ

1階ではビデオでの紹介やガリ版用具の展示があり、2階では、ガリ版体験が楽しめるらしい。これは機会があれば一度訪れてみたいものである。
表紙と、巻頭数ページはプロの撮影だが、本文中のコレクションの写真は著者の撮影で、文具への愛着が感じられる好ましい写真も多いのだが、いかんせん、ピントが甘かったり、ぶれたり、露出不足だったりがあって、ちょっと勿体無いと思ってしまった。


08063

【真相はこれだ! 「昭和」8大事件を撃つ】祝康成 ★★★☆☆ 元週刊誌記者によるノンフィクションである。2001年に単行本が出た後、2004年に文庫化されたもので、すでに8年前の作だが、今読んでも実に面白かった。芸がないが、取り上げられた8つの事件を目次そのまま写しておく。

1.美智子皇后「失語症」の真相
2.府中「3億円事件」で誤認された男の悲劇
3.丸山ワクチンはなぜ「認可」されなかったのか
4.美空ひばりが「紅白」から消えた日
5.発案者不明?! 「成田空港」最大のミステリー
6.疑惑の「和田心臓移植」33年後の新証言
7.潜水艦「なだしお」東京湾衝突事件で隠されていた「無謀運転」
8.世紀の対決「猪木・アリ戦」の裏ルール


Morris.は美空ひばりのところを図書館で立ち読みして、すごく面白かったのでつい借りてきたのだった。弟かとうてつやのたびたびの事件、山口組田岡会長との親交、一卵性母子と呼ばれた母のマスコミ対応等など、知ってることが多かったのだが、それ以外のさまざまな人間関係、新しい情報、取材、タブーに挑戦する姿勢など含めて感心させられた。
「3億円事件」といえば、キツネ目の男関連で宮崎学のことをすぐ思い出すのだが、毎日新聞で誤認報道された容疑者のその後の悲惨な一生や、ほとんど二重殺人としか言いようのない和田寿郎と、口裏合わせて頬かむりした医学界への克明な取材を読むと、怒りを抑えられなくなった。
医学界の横暴といえば「丸山ワクチン」認可を巡る中央医学部教授の縄張り意識と薬品業界の癒着にも改めて呆れるしかなかった。
最低の茶番と言われた「猪木・アリ戦」のあの猪木のリングに這いつくばっての蹴りが、アリ側の強要だったというのも別の意味で印象深かった。
とにかく、こういった事件ものは、発表3年もすれば賞味期限過ぎるというのが普通なのに、本書はそうでない。という意味でも貴重な一冊である。


08062

【Gボーイズ冬戦争】石田衣良 ★★★☆ 「池袋ウエストゲートパーック」シリーズの7冊目である。このシリーズは彼の出世作でもあり、彼の良さが一番出てるものだろう。大沢在昌における「新宿鮫」シリーズみたいなもの、というのは誉めすぎだろうか(^_^;)
池袋果物屋の息子マコト(コラムニストでGボーイズのキングタケシの親友、無料問題解決屋)が、狂言回しと裏ヒーローの役割で、次々起こるヤバい問題に立ち向かい正攻法、搦め手、やくざ警察ルート何でも使って事件を解決に持っていくというスタイルはあいかわらずである。
ストーリー自体はワンパタンだし、平凡といっていいくらいだが、新鮮な(に見える?)素材の選択と、キザにさえ見える、小洒落た語り口、比喩、人と街の描写、凝り過ぎの感すらあるクラシックの薀蓄などのデコレーションが、このシリーズの眼目なのだろう。超変格和製ハードボイルドといえるのではなかろうか。
本書には、振込め詐欺から足を洗おうとする若者、自宅に放火した中学生、絵画キャッチセールス女性に惚れたダサ男の3作と、標題作の4本が収められている。
日本のハードボイルド系作家にありがちな少年、子供への無条件支援ぶりがどうも鼻につくが、それでも少年ものでもある放火少年ものが一番印象的だったかな。
タイトル作では、超人めいたワルが複数登場してのバトルゲームみたいなもので、Morris.はやや辟易してしまった。

またも途中のコンビニでミネラルウォーターを買ってしまう。冷房のきいた室内でひと休み。おれは思うんだが、冷えてさえいれば水道の水で本来十分なのだ。毎回地球の裏側から運んできた水を高い金を出して買うなんて、まったくバカな話。

これはMorris.も同感、というより、今でもMorris.はほとんど水道水しか飲まない。ここでわざわざこういうことを言挙げすること自体が、すでに世間では、水道水はあまり飲まれなくなったという証左なのかもしれないな。

ついでにクラシック談義の一例を引いておく。

CDラジカセにはヘンデルの『王宮の花火の音楽』をかける。アルバムジャケットは夜空に咲いた花火だ。
250年ばかり昔、オーストリア継承戦争が終結した記念にロンドンで花火大会が開かれた。そのときのためにつくられた威勢のいい明るい曲である。トランペットが9本ずつ、オーボエ24本に、ファゴット12本といえば、編成の規模がわかるよな。
おれはぼんやりと西一番街を眺めながら考えた。当時の音楽的な水準の高さについて。ヘンデルやモーツァルトが式典の音楽を書いてる18世紀と、どこかのいかれたロックバンドがワールドカップ記念の安いテーマ曲をつくる現代。おれたちは絶えざる文化的水準の切り下げ局面を生きている。カルチャーデフレはこの数百年間変わらぬ勢いなのだ。


ね、なかなか楽しめるでしょ(^_^;) Morris.は本筋より、こういったおまけの部分に感応してこのシリーズが好きなのだと思う。
でも、最近のキーワード「日本の格差社会」を論じた部分(冒頭である)

おれたちの世界はいつふたつに分かれてしまったのだろう?
日のあたる場所と決して日のあたらない場所。南国の楽園の一歩となりには、極寒の地獄。そこに住むのは、恵まれたごく少数と大多数の運の悪いやつらだ。
それでも額に汗して働くことは尊いと、どこかの大企業の社長たちがテレビの記者会見でいう。だが、やつらの会社が乾いたタオルさえ絞り抜くリストラで業績を回復させたことは、工業高校卒のおれにだってわかるのだ。
つかい捨てにされるフリーターや契約社員たち。やつらは額に汗して働いても、将来の保障もないし、まともな年金にも加入できない。汗まみれで単純労働に従事して、年収二百万円の無情の世界を生きるのだ。
やつらは誰にも文句をいえず、さんざん世のなかのあちこちで蹴り飛ばされる。しまいにはどこかの大学教授から、「下流」の人間には、働く意欲も、向上心も、生きる希望もないとシールを貼られる。おれたちはこれ以上ないほど簡単に人を区分けして、あっさり切り捨てることになる。ラベルさえちゃんと貼っておけば安心だ。きちんと整理分類して、倉庫にでもつっこんでおけるからな。NEET、フリーター、引きこもり、オタク。おれたちの社会は若いやつらを百万人単位で見捨てていくのである。


言ってることは間違ってないし、現状を要領よくまとめているし、事実Morris.も共感をおぼえるのだが、これって、小林よしのりのゴー宣とシンクロしてないかい(^_^;) 偶然同じ論調になったということも考えられなくもないけど、あまりに酷似してるぞ。
それにしても、この一文は見捨てられた「若いやつら」を対象にしてるけど、来年還暦を迎えるMorris.だって、この範疇に加えておいて貰いたいものである(>_<)


08061

【源内狂恋】諸田玲子 ★★★ 平賀源内ものは結構多い。これまで読んだものの中では、漫画「風雲児たち」(みなもと太郎)が一番印象に残っている。源内が主人公というわけでもないのだが、彼の出自から多方面にわたる活躍、そして悲劇的な死までを描き切ってていた。
本書では、下女の野乃との愛憎、それが結局源内の殺傷事件から死罪に深く結びついたとしている。この野乃は作者の創作だとおもうのだが、入牢した源内が牢内で最後の戯作を、それも野乃の語りで綴るという趣向をとり、牢内の現在と、過去を交互に織り交ぜるというスタイル(Morris.はちと苦手(^_^;)で進めている。
源内の性格や、性癖、長所も短所もよく捉えているし、著作からの引用も多岐にわたり、それなりに読み込んでいるようだし、江戸の風物や、物売りの掛け声なども使ってるし、何と言っても源内を巡る多士済々、それも杉田玄白、前野良沢、太田南畝、平秩東作、司馬江漢……、さらにMorris.の一番好ましく思う浮世絵師鈴木春信が、次郎兵衛という通名で登場し、源内と野乃とひとかたならぬ交情を結び、物語の大きなエピソードにもなっている。こういった人々が登場するだけで、Morris.は嬉しくなるのだが、読み通しての感想は、物足りないとしかいいようがない。
彼女の名前はMorris.は全く知らず、本書のタイトルに惹かれて図書館の本棚を眺めたらえらく沢山の著作が並んでいて、どれもそこそこ面白げだったのだ。それでやっぱり馴染みの源内ものを選んでみたのだが、なかなか「書ける」作家だというのは間違いないようだが、ややMorris.の好みとは外れているようでもある。あと1,2冊読んでから結論出すことにしよう(^_^;)

源内が、初めて江戸に上るとき昂揚した気持で捻った句が、良かった。

湯上りや世界の夏の先走り


08060

【テヅカ イズ デッド】伊藤剛 ★★☆ 「ひらかれたマンガ表現論へ」という副題がある。著者は67年名古屋生まれで、「SPA」や「ぱふ」でマンガ評などを書いてたらしいが、全くMorris.は知らなかった。
従来のマンガ評論の限界と、現在のマンガ作品との乖離。「ぼのぼの」(いがらしみきお)をマンガ界の切断線と見て、マンガ表現をシステム論的に捉える視点。キャラクタ論ならびに、キャラとキャラクタの二元論。マンガとリアリティ。手塚治虫という円環とその外にあるマンガ論……などと、意欲は感じられるものの、どうもひとりよがり的な言説が多く、あまり楽しめなかった。
20歳近い世代の違いが、マンガへの思い入れとか、マンガ体験もまるで違うのだろうと思う。そういう意味では、やはりMorris.は夏目房之助やいしかわじゅん、最近はとんと書かないけど、橋本治などのマンガ論への共感とは、まるで違ったものだった。
コマ構成、コマ展開、コマわり(ネーム)、コマ構造などと細分化して分析するあたりも、Morris.には煩わしいとしか思えなかった。
また、キャラとキャラクタを別ものとして定義した部分。

「キャラ」多くの場合、比較的に簡単な線画を基本とした図像で描かれ、固有名で名指されることによって(あるいは、それを期待させることによって)、「人格・のようなもの」としての存在感を感じさせるもの。

「キャラクター」 キャラの存在感を基盤として、「人格」を持った「身体」の表象として読むことができ、テクストの背後にその「人生」や「生活」を想像させるもの。


にしても、Morris.は何回読み返しても難解なままである(^_^;)
もしかしたら、Morris.には本書の「理論」が高邁すぎて、付いていけなかっただけのことかもしれない。しかし、Morris.はこういった「高邁すぎる」理論で論じられるマンガとは無縁の衆生なのだと思う。


08059

【ソウルケイジ】誉田哲也 ★★★ 最初韓国の刑事ものか、と思ったMorris.だったが、良く見たらSoul Cageという英題だった。例の女性警部補姫川玲子シリーズである。誉田はかなりの警察おたくらしく、このシリーズでも警察機構や役割分担、上下関係と他部署との軋轢や駆け引きなどを、これでもかというくらい細かく描く癖がある。最初のうちはそれがものめずらしく面白かったが、だんだん煩わしくなってきた。それに常連の登場人物たちのキャラクタがあまりに類型化されて、台詞から行動まであまりに筋書き通りで先に読めてしまう。ストーリーの面でも、アニメを見てるような気にさせられる。
それなりに読ませる作家だし、エンターテインメントとしての質も低くはないのだが、ついMorris.は最初に読んだ「国境事変」の衝撃が忘れられずにいる。そして、こうやって他の作品を読みながら比べてしまうのだ。
本筋とは全く関係ないが、クールで理詰めなキャラの日下警部補が、姫川に思いを寄せる菊田巡査部長に、結婚のことを聞かれてうがったことをいう場面。

ふいに、菊田は訊いてみたくなった。
「主任……結婚って、どんな感じなんですか」
日下は宙を見上げ、細く息を吐いた。
「そうだな……たとえば、色の違う粘土の玉を、こう、押し合わせて、こねくり回して、また丸くするようなものかな」
分かるような、分からないような。
「その……玉の中の、二色の内訳は、夫婦それぞれだろう。真っ二つ、真ん中で分かれているのか、複雑に入り混じっているのか。あるいは一色が、完全にもう一方を包み込んでいるのか……だがいずれにせよ、外見は丸くないといけない。二つの玉が、互いの形を崩し合って、もうちょっと大きな一つの玉になろうとする。すぐにそうはできなくとも、そうなるよう努力する。それが結婚であり、家庭なんじゃないかな」
「じゃあ、子供は」
子供は……その中に、ぼつんとできる、また違った色の、小さな玉なんだろう。どっちの色に近いかは、またケース・バイ・ケースでな」
なるほど−−−−


一見なかなか良くできたたとえのようだが、こういったこねくりまわしたような話の持って行き方が、誉田の小説の作りかたでもあるようだ。何とか一皮剥けて欲しいものである。


08058

【僕は在日「新」一世】ヤン・テフン 構成・林信吾 ★★☆☆ 著者は67年釜山生まれ、徴兵済ました後、日本に留学、結局16年ほど日本に在住して、TV制作コーディネータや通訳の仕事をしてるらしい。
いわゆる「ニュー・カマー」のひとりなんだろうが、当人はこの言葉にいわゆる「在日韓国人」の偏見があるとして、「新一世」と自称してるらしい。名称はともかく、40歳前後の韓国男性の率直な意見が開陳してあるという意味で、それなりに面白いところのある本だった。

実は韓国国内でも、成功した、お金を持っていると言い換えてもよいかもしれませんが、そうした在日が韓国人を見下している、といったことを言う人がいます。僕の立場から言いますと、たとえばニュー・カマーといった呼び方の裏には、在日の……何でしょう、既得権みたいな意識がどこかにあるのかな、なとど考えたりもします。
一方では、帰化した在日のことを悪く言う韓国人もまだまだ多いのですが、なにも知らんで言うな、と腹が立ちますね。在日が韓国政府に対して、恩義を感じるべき点はなにひとつありませんし、そもそも彼らには、もはや韓半島に帰る場所がないのですよ。

キム・ジョンイルが、本気で38度線を越えて攻めてくるなどとは、韓国人は誰も思っていませんよ。核実験をやりましたが、その後の一連の動きでも明らかなように、あの男は、自分の権力を維持することしか考えていません。今の、ろくに食べていない北朝鮮の軍隊に、ソウルを占領する力なんてありはしません。
だから、日本の人たちが、中身がなにもない「強硬路線」を支持するのは勝手ですけれど、韓国を巻き込まないでほしいですね。韓半島の問題は、たしかに日本人にも関わりがあるでしょうが、だからといって、余計なことは言わないで下さい。
韓国の軍事政権と、自民党のタカ派が癒着して、いろいろな利権で甘い汁を吸っていた頃とは、時代が違います。少なくとも、韓国は変わりました。

独島の問題は、実のところ、韓国にとっても頭が痛いのですよ。
韓国内でこれを言ったら、売国奴扱いで、危険なことにもなりかねないのですが、本当のところ、国際司法裁判所で争ったならば、残念ながら韓国側の勝ち目はほとんどないでしょう。
それ以前に、あの島自体に資源などの価値があるわけでは全然なくて、漁業権益の問題だけだと、韓国人に広く知らしめるべきです。あんな岩だらけの無人島のために、日本ともめるなんて、まったくつまらないことだと思います。

ヤン 韓国も日本も、アメリカと中国との狭間で、うまく利用されているようにしか思えないんですよ。−−−結局、今のような韓日の関係はアメリカの思う壺なのではないですか?
 その考えは、正しいと思う。日韓、日中、韓中が連携を強めると、アメリカが北東アジアで、軍事的なプレゼンスを維持している意味がなくなるからね。しかも日本の場合、在留米軍の経費を、莫大な税金で負担しているわけで。日中韓がいがみあっていて、そこに北朝鮮の脅威が加わった方が、アメリカの利益になる、ということは、事実としてあるだろうね。

与太話みたいなものや、事実誤認も多そうだが、著者(語り手というべきか)の率直さだけは伝わってくる。
日本で暮らし始めた頃に在日にひどい仕打ちを受けたことから、在日への警戒心や嫌悪感は根深いものがあるようだ。
独島への意見なんか、Morris.が韓国人だったら、思っても絶対口に出さないだろう。
おしまいの対談からの引用は、まるで内田樹のブログの孫引きみたいだね(^_^;)


08057

【群狼の舞 満州国演義3】船戸与一 ★★★ いよいよ3冊目にしてやっと満州国が成立した(^_^;) 400p超える本だからこれはかなりの大河小説になりそうだ。Morris.もやっとストーリーに乗れるようになってきた気がする。
敷島家の四兄弟の役割分担と、この4人の登場場面ごとの舞台転換のめまぐるしさにいらいらさせられるところは相変わらずだし、登場人物の多さは、Morris.の記憶力ではとても付いていけないところがあるが、まあ兄弟の名前が太郎、次郎、三郎、四郎なので彼らの弁別だけは容易である(^_^;)
本巻では、ゲーテのファウストに出てくる言葉「国家を創りあげるのは、男の最高の浪漫だ」がそのまま主題になってしまったようだ。
確かに良く資料を読んで、細かいところまで臨場感を持たせているし、壮大なロマンを描こうという作者の意思と意図はよくわかる。それでも何か歴史の参考書読んでるような気分になるところも少なくない。
傑作「砂のクロニクル」「蝦夷地別件」のような濃密でスリリングな世界とはかなり隔たりがあるとおもうぞ。それでも、Morris.がこれを読みたいのは、やはり満州への関心が強いためだろう。
先日学生青年センターの飛田さんが彼の地を訪れ、そのときのデジカメ画像を見せてもらっただけに、一度行ってみたい思いが募るのだが、なかなか果たせそうに無い。
、本書でも「手をこまねく」表現が2箇所あった。一箇所は漢字「拱く」のルビ、もう一箇所ははじめからひらがなで「こまねく」とあった。すでにこれは許容表記になってるのかもしれないが、Morris.は断固糾弾したい。

「それにしても、わたしには理解できない。なぜ頭山満がこれだけ軍人や政治家に強力な影響を与えるかが」
「大アジア主義だよ」
「え?」
「維新での攘夷論は明治に入って大アジア主義へと変貌していった。しかし、この大アジア主義というのは具体的な内実を伴っていない。漠たるスローガンとして拡散していった。つまり大アジア主義は人によってその内容が異なるんだよ。西洋文明に抗するというだけが共通の概念だからな。つまり大アジア主義は尖鋭化するほどの結束力を持っていない。それが政府公認のイデオロギーとなった理由だよ。大川周明ほどの明晰な頭脳をもってしても論理化できず、幕僚将校たちに国家改造を焚きつけるだけだ。大アジア主義と国家改造論を結びつけるものは具体的には何も見つからん。あまりにも漠としていて、梵鐘ぐらいにしか使えんからだろう。それでも、軍人たちは感心して聞き入ってるんだがね。この大アジア主義の象徴が頭山満だと言っていいだろう。軍人も政治家もそのことを知り抜いてる。象徴を傷つけたら何が飛び出して来るか知れたもんじゃないと漠然と思ってるだろう。そのことに気づいているのかどうか判断できんが、頭山満は大アジア主義の内実についてただの一度も論じたことがない。信奉者に求められて、ただ敬天愛人という西郷隆盛の言葉を揮毫するだけだ。まさに明治維新以降の歴史の底流を代表する存在としか言いようがない」

新聞記者香月の太郎への説明だが、この大アジア主義めいたものは、21世紀の現在でも、生き延びているようだ。
また、太郎と隣家の堂本との会話。

「ところで、最近甘粕正彦の噂を聞かないな。どうしているんだろう?」
「わたしの知るかぎり、満鉄関係者とも接触していないようだ。しかし、満州事変じゃあれほどの働きをしたんだ、関東軍が抛っておくわけがない。甘粕さんんは密命を帯びてどこかで何らかの動きをしてるんだろうよ」
「何だか、妙に甘粕贔屓になって来てるな、きみも」
「甘粕さんは大杉栄事件に触れられるのを嫌うんだが、わたしの知合いの満鉄社員が十間房の菊文で酔っ払った甘粕さんがこう洩らすのを聞いてるんだ。大杉栄は漢(おとこ)だった、漢だから大日本帝国にとって危険だった。この科白をどう捉えりゃいい? わたしが言ってるのは大杉栄と伊藤野枝の殺害が甘粕さんの単独判断でやった証拠とか、そんな次元のことじゃないぜ。王道楽土の理想国家建設に立ちはだかるやつがもし漢だったら、何をしなきゃならんかを示唆してると思うんだよ」


良識的な外交官である太郎がこのような発言をするということが、先の「建国=浪漫」ということばの麻薬のような効果を表象しているようだ。
やはり続編に期待したい。


08056

【必要悪】田中森一 宮崎学 ★★★☆ 元特捜検事・弁護士の田中と「突破者」の宮崎との対談、というか、宮崎による田中へのインタビューみたいな感じの一冊である。副題に「バブル、官僚、裏社会を生きる」とあるとおり、この3つの世界に深く係った(モロ当事者でもある)二人が忌憚無く意見を述べ、実名で関係者のネタや事件の裏話などを暴露している。
田中はMorris.にとっては未知だったが、かなりのやりてらしい。ひさびさに興奮させられた。
光市の母子殺害事件などでの検察、マスメディア、被害者側の立場や、最近の裁判の傾向について

田中 全体的に見て、「死刑が相当」だと考えたから求刑しているのであって、被害者の感情に左右されてどうこうするものじゃないと思いますね。
宮崎 ところが、今はメディアなんかの問題もそうなんですけども、「犯罪被害者の家族の人権」とう意見がかなり出てきてますね。この辺は、どうですか?
田中 今度の司法制度改革でもそうですが、それに重きを置くようになったじゃないですか。そうすると、仇討ち的な色彩がだんだん強くなってくると思う。
宮崎 悪い言葉で言えばリンチでしょう?
田中 だから、そのために裁判制度があって、検察官がいるんだから。被害者に質問権を与えたりというのは、もう理屈じゃなくて、情の世界に入ってきてるような、そんな感じがして、僕はあんまりいい制度じゃないと思うな。
宮崎 被害者の親族は、裁判所に判断を委ねざるをえないんですね。
田中 そのために検察官制度があるんだから。
宮崎 委ねる以上は、それはシステムに依らざるをえないんだけれども、そのシステムの中に、自分たちの意見を反映してくれということでしょう。これは僕はね、裁判制度そのものの崩壊に繋がってくる論理だろうと思うんですよ。それだったらね、むしろ逆に、仇討ちの権利を認めたほうがいいと思うんです。
田中 だんだんそんな感じになってきてるけどね。


といったやりとりを見ても、本書のカラーがわかるだろう。
Morris.は、こういった裏世界や金儲けや官僚とはほとんど無縁な衆生だし、それほど興味もないのだが、たまにこういった本を読むと、別世界通信のようで面白かった。


08055

【逃亡日記】吾妻ひでお ★★★ 「失踪日記」が大評判になり、大きな賞をいくつも貰ったらしい漫画家吾妻ひでおの、続編というかこぼれ話めいた本で、二番煎じとか焼き直しという感じがしないでもないが、Morris.にはそれなりに面白かった。巻頭グラビア(^_^;)の、メイド嬢との妄想写真館はにんまり、である。機会があればMorris.もメイド姿のえりたんとこんな写真撮って見たくなった(^_^;)
10pほどの「授賞式思い出漫画」には、有名漫画家がぞろぞろ登場して、それぞれへのコメントがこれまた吾妻ならではのすっとぼけていながら、好き嫌いをはっきりだしてるところが素敵である。やなせたかしへの反撥などはMorris.はすっとしたぞ。
失踪時の辛いエピソードより、アルコール依存症のどうしようもない日々と病院、断酒会でのやりとりがMorris.には身につまされるところがあった。年齢はほぼ同じだが、吾妻には家族がいるのに対してMorris.は一人だから、相当にヤバそうだと思った。少しアルコールは控えておこう(と思うだけだけどね)。


08054

【ゴー宣・暫 2】小林よしのり ★★★ 主に2007年雑誌「SAPIO」連載分と、2004年「わしズム」掲載の半自伝漫画みたいなものが併載されている。安倍政権時で、安倍批判、政権政党交代を叫ぶ色が濃いが、日本の格差拡大への警鐘というより怒りは大いにMorris.の共感を呼んだ。人材派遣会社なんていわゆる口入屋、それも以前の口入屋以上にたちの悪いピンハネ機構だというのは一目瞭然だ。小泉時代からの個人主義、グローバリズム(汎米化)が、日本とは相容れないものというのも共感。
慰安婦を性奴隷と摩り替えた韓米合作のシナリオにまんまと乗せられた安倍の愚行はMorris.も呆れていたし、原爆投下の罪状否認、いや必然であり、これが戦争早期解決に繋がるというアメリカへの批判にも同感である。
なんだか本書を称揚してるみたいな書きぶりだが、よしりんの過激さの逸脱の過剰さはあいかわらずなのだが、共感部分がかなり多かったということだ。

アメリカがイラクでなく、北朝鮮を攻撃すると言ったら、わしは反対しなかった。北朝鮮はイラクのような複数の民族と宗派が対立する国ではない。虐げられた人民は一刻も早い体制転換を待ち望んでいる。金正日体制の打倒は、間違いなく民族解放になるはずだ。

ここらあたりの単細胞ふりがよしりんの愛嬌(^_^;)なのかもしれない。


08053

【Value in SEOUL】山下マヌー ★★ 韓国から帰国して最初に読んだのがこの本というのもちょっと変だが、Morris.らしいと言えるかも知れない。この人の本はちゃんと読んだことは無いが、本屋で何冊か立ち読みしてなかなかお洒落な本だけどMorris.には向いてないと感じてた。本書を読んでその印象は間違ってないことがわかった。
ずっと以前に出した本の改訂版らしいが、確かに良く取材してるし、切り口も明快で著者のスタンスがはっきりしている。なかなか良く出来た本には違いないのだが、ようするに、Morris.のスタンスとはかけ離れているということだろう。
雑誌で言うなら「クロワッサン」の読者向きといった感じである。
ポジャンマチャ(屋台)は割高であるから行かないように、とか、模範タクシーより一般タクシーが絶対お得とか有用な情報も多いが、やたら「この価格でこのメニュ-(宿泊料、サービス料)はお値打ちもの」といった感じの表現が多く、その価格というのが、Morris.の金銭感覚と一桁違うようなのだ。ホテルやエステやブランド商品といった、これまたMorris.と無縁の情報が半分以上を占めるということだけで、確かにMorris.が読む本ではないことがわかる。


08052

【一編の詩があなたを強く抱きしめる時がある】水内喜久雄編 ★★☆ 死に急ぐ人や閉塞感にとらわれた人向けに「生きる喜び」を取り戻させようというような気持で、さまざまな詩を寄せ集めたもの。
いわゆる詩人の作品ばかりでなく、歌手、小説家、一般人の詩みたいなものもまぜこぜにしている。一篇ずつ見ると好きな詩や気に入ってる詩人も出てくるのだが、全体を見るといかにも説教臭い作物に見えてくる。まあ出版社がPHPだから、こんなもんだろう。
最初の詩が糸井重里の「ひとつ約束」というのが本書の性格を象徴しているようだ。


騙されるな ビートたけし

人は何か一つくらい誇れるもの持っている
何でもいい、それを見つけなさい
勉強が駄目だったら、運動がある
両方駄目だったら、君には優しさがある
夢をもて、目的をもて、やれば出来る
こんな言葉に騙されるな、何も無くていいんだ
人は生れて、生きて、死ぬ
これだけでたいしたもんだ


このビートたけしの詩?が本書を鋭く糾弾してるような気がした。


08051

【クレーの旅】新藤進 ★★★☆☆ 平凡社のコロナブックスという、いわゆるハンディタイプのヴィジュアル本シリーズの1冊で、あまり期待もせずに借りて、結局読まないまま韓国出発の日が迫ったので返却するはずが、返し損なってしまい、出発の朝、早起きしたのでベッドの中で読んでしまった。
1914年、クレー35歳のチュニジア旅行を中心に、当時のスケッチやそれを後に再構成した作品の分析など、実に興味深い一冊だった。
ベルンのクレー財団研究員奥田修への林綾野のインタビューで、クレーが自作を鋏で切って貼って新しい作品を作ったという事実を知って、目から鱗が落ちる思いをした。

奥田 クレーは意識的に左右対立した構成ということを考える。それが上手くいかない。そこでパラパラにする。しかし次の段階ではそれを越えて、対立したものを別の方法で統合できるようになる。あるいは彼の中に伝統的な要素が残っていて、ついついおきまりの構成になってしまう。それを壊すと不意に斬新なコンポジションが現れる。次はそれを利用してさらに実験を進める。まあ、こんなぐあいではなかったでしょうか。つまりクレーは、一つの作品を閉じたものとしては考えないわけです。むしろプロセスの一環として考える。絵の分割はこのプロセスの重要なモーメントです。以前のように頭からひとつの完成したコンポジション(構成)を目指すのではなくて、その生成過程に重点をおく。そして場合によっては、コンポジションの破壊をとおして、その断片から新たな構成を謀るという、まさにモデルネの戦略です。
林 クレーの手法はポストモダンのいわゆるデコンストラクションと結びつくような気がするのですが。
奥田 ぼく個人の意見ですが、クレーにはたしかに脱構築的な要素があります。つまり破壊が同時に構築であるという点ですね。さらに教科書的に言えば、批判が即肯定であるような手続きです。そうし元の枠組みをどんどんずらしていくわけです。
クレー自身この手法のそうした特性については、まさに実践の場でよく認識していたと思われます。鋏を入れると元のコンポジションが動き始める、この自己参照的というか自己批判的な破壊行為は、しかしコンポジションを複数化し再固定する。
 クレーはそのバラバラにした絵をどんな風にカタログに登録しているのですか?切ったり貼ったりの手法が秘密だったとすると、やはりそれぞれ違ったタイトルを付けているのでしょうか?
奥田 ええたいていはそうですが、中にはつながりを暗示するものもあります。
 「切ったり貼ったり」でできたフラグメントというか、切れ端もきちんと一点一点カタログに登録しているわけですね。クレーの性格でもあると思いますが、ここまで厳密に総カタログを作り、途中で変更を加えたり、ともかく記録を残そうとした姿勢とはいったい何だったのでしょうか?
奥田 大抵はまず、作品そのものに創作年や作品番号、タイトルその他が書き込まれているということ。これとカタログとは一対になっていて、両方でひとつのシステムになっている。カタログには素材やテクニックについても記録していますし、タブローの場合はサイズも書いている。
それから1920年頃までは誰にいくらで売ったか、どの展覧会に出したかも、きちんとメモしている。つまり画家としての営業のマネージメントに不可欠だったわけですね。
クレーの場合、絵のタイトルが重要ですから、新しい題を付ける時の参照になる。また作品の登録の順番といいますか配列にも意味をもたせたりする。第一番の作品はその年のモットーにするとか。
特別の何点かをセットにして登録して、それらの関連によって隠れたメッセージを含ませるとか。
つまりカタログの作成は、クレーの創造過程の一部であったわけで、単なるブックキーピングではないのです。
 しかしこの過剰ともいえる几帳面さは、例の現世を超越した幻想の画家というクレーのイメージとはうまく結びつかないように思いますが。
奥田 彼の場合、第一次大戦を契機に、自分は現実を超越した別世界に住まう存在であると自己演出をした。それを意識的にどの時点までやっていたかは分かりません。
しかしバウハウスのマイスターになって構成主義と直面するようになり、特にデッサウ時代には、少なくとも表面的には学校の合理主義的な方針に同調する作品を作っています。その一方でシュルレアリズムの先駆者として持ち上げられ、パリでも成功をおさめて、そこでは引き続いて例の「私はこの世では理解されない」といったキャッチフレーズが売り込みに役立つ。いずれにせよ、クレーは世に長けた戦術家でもあったわけで、帳簿の記入、整理はそのベースになっている。


クレーの絵には以前から親しみと畏敬の感を持っていた。就中そのタイトルには魅せられ惑わされてしまった。クレーの作品タイトルを主題にした歌集『雅歌』なんてのを作ったこともあるくらいだ。もっともこの歌集はMorris.の理解不足+非才ぶりを露呈した大失敗作だった(^_^;)
本書を読んで改めてクレーの奥の深さがおぼろげに見えてきたような気がする。
クレーの旅が、彼の画家としての成長に大きな役割を果たしたことだけは間違いないようだ。Morris.個人の旅が始まる日の朝にこういうものを読むというのも不思議な縁だということにしておこう。
そろそろ出発である。


08050

【黙読の山】荒川洋治 ★☆ 書評や雑感、というより、つまらないコラムの寄せ集め。


08049

【日本怪死人列伝】阿部譲二 ★★★☆ 戦後日本の怪死を彼なりに解釈したもので、12件の事件が収められている。Morris.は図書館で力道山のところを立ち読みしてこれは読まねばと思って借りてきた。実に面白かった。

1.朝日新聞阪神支局襲撃事件
2.新井将敬
3.下山事件
4.永野一男(豊田商事会長)
5.尾崎豊
6.田宮二郎
7.力道山
8.村井秀夫(オウム真理教幹部)
9.帝銀事件
10.元大鳴門親方
11.ロッキード事件(田中総理運転手・笠原政則)
12.御巣鷹山の520人


推理と結論には同感できないものも多かったが、著者ならではの切り込み、そして著者の顔と経験の広さにはあんぐりさせられる。


08048

【J】五條瑛 ★★★ 御伽噺的テロリストもの。あまりにチャチだが、時間はつぶせた。


08047

【権力に迎合する学者たち】早川和男 ★★ 言ってることは間違ってないのだろうが面白くない。


08046

【ジウ 三部作】誉田哲也 ★★★☆☆ 「銃と業」ぢゃ無かった(いや、合ってるかも)「柔と剛」の対照的な女性警官ヒーロー大作。なかなかに面白かった。


08045

【北朝鮮・驚愕の教科書】宮塚利雄 宮塚寿美子 ★★☆☆ あの「日本焼肉物語」の著者の本、それもあまり馴染みのない北朝鮮の教科書ということで、期待したのだが、読後感はいまいちだった。共同執筆者の女性は娘なのかもしれないが、どうもこれが失敗だったのかもしれない。
金日成、金正日父子礼賛の内容だろうということは読まなくても想像がつくし、そうだったんだけど、料理の仕方が下手だと思ったのだ。
小学1年から4年までの国語の教科書と、音楽の教科書が取り上げられていて、その内容紹介自体はそれなりに興味深いのだが、

小学校1年生から4年生までの国語の単元(項目)は総数で248。このうち「金日成大元帥様」の個人崇拝・神聖化などを扱った単元数は69、「金正日元帥様」の個人崇拝や神聖化に関する単元数は79.二人がダブって記述されている単元もあるが、二人を扱った単元だけで148となり、これに加えて金正淑や金日成の父母や叔父などを扱った単元が20近くあり、金一族の記述だけで約7割ちかくになる。このほかには社会主義農村や朝鮮労働党、地主を扱った単元が15、悲惨な南の地(韓国)を扱った単元も5あった。同じことは音楽の教科書の単元にも見出すことができた。
このことからも北朝鮮の小学校の教科書は、何度も指摘するように、極言するならば金日成・金正日父子の神聖化・偶像化のためにだけ存在するものであった。このために教科書の内容は歴史的事実や客観性を完全に無視した、荒唐無稽で奇想天外な内容からなる、「作り話」や「創作文」であった。


というあとがきの一文に尽きる(^_^;)
紙質も悪く、印刷も鮮明でない、粗末な教科書だが、小さな白黒写真で紹介されている表紙の絵はMorris.の郷愁を誘うものがある。せめて表紙だけでもカラー写真で掲載して欲しかった。小学3年生の音楽教科書のピアノ弾いてる少女なんか、中原淳一テイスト(^_^;)を感じてしまった。
ネットで表紙の写真を探してみても、確かに北朝鮮の教科書というのは入手困難なものらしく、あまり見当たらなかったが、aoiさんという方のブログに、小学1年生の図工の教科書の写真があったが、それより驚いたのは小学1年の数学教科書で、何と、カラー版と白黒版があって、カラー版は平壌の富裕層の子ども向けのものだと書いてあった。Morris.この一事だけで、本書全文よりも「驚愕」させられたよ(^_^;)


08044

【蝶舞う館】船戸与一 ★★★☆☆ ベトナム解放30周年記念TV番組取材でベトナム入りした日本TV局のクルウ。ベトナム戦争で戦死した米兵と日本人の混血タレント知念マリーが、ベトナム中部高原の民族独立組織(何と首領は日本人)に誘拐される。それを追いかけるディレクターと現地コーディネーター。ベトナム戦争中に両脚を失い、ベトナムで暮らしている元戦争写真家もこの事件に巻き込まれる。これを機に独立組織壊滅をはかるベトナム公安。少数民族同士の習慣の違いに悩む運動家などが錯綜する、船戸の小説ジャンルの中では一番Morris.好みの海外紛争もので、エンタターテインメントとしても充分楽しめたのだが、これまでの作品群の中では中くらいの出来だろう。展開に不自然な部分が多いし、ご都合主義も行き過ぎの嫌いがある。しかし本書でMorris.が一番印象的だったのは、若いジャーナリスト二人を前にしての老カメラマンの台詞である。

「わたしが戦場カメラマンとして日本からベトナムに向かったのは40年前だ。当時の風潮はアメリカ帝国主義こそ諸悪の根元というものだった。それはそれでまちがない。アジアの通貨危機やいまのイラクを見りゃわかる。やってることはでたらめだ。わたしたち戦場カメラマンは米軍の残酷さを報道することが正義と信じて疑わなかった。しかしね、それはベトナム労働党やべトコンの理不尽さを意識的に見逃すことが善意だというふうに捩じ曲げられる。少なくとも、このわたしはそうだった。サイゴンが陥落して30年後になってつくづくそう思うんだよ」
「歴史というものは突然変異するなんてことはありえない。かならず地下水脈がある。一見変化したように見えても、それは脈々とつづいて来たものが顕在化するだけだ。わたしはその水脈を意識的に見落としたり見逃したりして来た。つまりね、正義感や善意が歴史そのものを歪めてしまうんだよ」
「正義感や善意は往々にして同情される側の被害を実際より格段に上積みして報道する傾向がある。クメール・ルージュによるカンボジアの虐殺は当初の死者数は三百万と報道された。この数はベトナム共産党の発表した数を鵜呑みにしたものだ。今ではベトナムに支援されたカンボジア共産党政府ですらが百二十万から百三十万と言っている。それでもまだ多すぎる。六、七十万がいいところだろう」
「アフリカのルワンダで起こった虐殺もそうだ。フツ族によるツチ族の虐殺は百日の間に百万と最初は報道された。今は八十万と下方修正されてる。この数字ももっと下がるだろう。いずれにせよ、この種の報道にはいつも無意識の打算が働いている」
「報道はビジネスだ。悲劇は大きければ大きいほど商品価値を持つ。わたしはそれをひていしてるわけじゃない。戦場カメラマンや戦場コレスポンデント、特にフリーランスは賞金稼ぎのような射幸心がなきゃ戦場には出向けないんでね。そして実際よりおおげさに伝えた悲劇は正義感や善意によって赦されると無意識に計算してるんだよ。少なくとも、このわたしはそうだった。いまとなっては自嘲以外に何もないがね」


これは老写真家の口を借りての船戸自身の率直な心情の吐露のように思えてならない。そして、Morris.自身にも突き刺さってくるものを感じてしまった。
何もベトナム戦争に限ったことではない。民主主義とか共産主義とか、学生運動とか、虚無主義とか、芸術至上主義とか、自由主義とか、戦争責任とか、モラトリアムとか、平等思想とか、差別とか、恋愛とか、正義とか、理想とか、自己犠牲とか、刹那主義とか、反戦とか、博愛とか、偽善とか、偽悪とか、その他もろもろのismや原理や思想などにおいて、30年前、40年前、いや10年前の考え方の中に、いやいや、今現時点においても、そういった「無意識の偏向」に囚われていることに対してである。
人間に偏向はつき物であるが、たまにはこういったことの見直しも必要だろう。


08043

【春を嫌いになった理由】 誉田哲也 ★★★ TVの超能力犯罪捜査番組のプロデューサーをやってる叔母から、米人女性霊媒師エステラの通訳を依頼された瑞希。彼女は小学生時代に偽超能力者と呼ばれた忌まわしい過去があり、超能力には異常な嫌悪感を持っていた。いやいやながら取材で訪れた心霊スポットの廃墟ビルで白骨死体を発見。そして後半は生放送の番組に沿ってドラマが進行していく。
これに中国から密入国した兄妹、中国人の殺し屋などがからみ、例によって、場面転換の多い手法で、Morris.はちょっといらいらしたのだが、結局これも最後まで読まされてしまったのだから、上手い作家なんだろうなあ。しかし、繰り返しになるがあの「国境事変」の作家の作品とは思えない。
エステラが瑞希に投げかける言葉

あなたは何か失敗すると、自分が駄目な人間のように思い込む癖があるのではないかしら。そういう部分が、頑ななのではないかしら。
失敗は、誰でもするわ。そして誰にとっても、とても嫌な経験だわ。けれど誰にでも、一つくらいは、失敗しても進むべき道があるはずなの。もし今、ミズキにそれがないのだとしたら、それはまだ見つけていないからだと思う。もし見つけているなら、迷わず進みなさい。
でも、そういう道を見つける前に、失敗や敗北を怖がるだけの人間になるのは、そても愚かなことだわ。心を解放して、失敗や敗北は、呑み込んでしまうの。そうなったら人間は強いわ。負けを負けとして認めないんだから、あとは勝つしかないでしょう。
心を解放なさい。あなたには、あなたにしか見えない世界があるのよ。あなたにしか見えない世界を、あなた自身が認めないというのは、とても悲しいことだわ。心を解放して、あなたはあなたの世界を受け入れるべきよ。


これは実は瑞希が偽超能力ではなく、実際にその力があるということの暗示なのだけど、読者の一部は、これを一種の人生訓みたいにうけとるかもしれない。Morris.の嫌いな「勝ち組・負け組」の負け組への対症療法としてね。でも、何かMorris.はここに「ウソ」を感じてしまった。
それとこれまたMorris.が嫌いな目を「しばたいて」表現があった(p76)のがちょっとこの作家へのポイントを下げる原因になったようだ。


08042

【疾風ガール】 誉田哲也 ★★★ 「国境事変」があまりに良かったので、あわてて借りてきた。代表作らしい「ジウシリーズ」は3巻あって1巻が見当たらなかったので後回しにする。
アイドルプロダクションの30前のスカウト宮原が、アマチュアバンドの女性ギタリスト夏美に魅せられ、売り出そうと思ったところで、バンドボーカル薫の自殺に巻き込まれ、その真相究明のため夏見に振り回されながら、おたがいの協力関係を構築していく。
この作家の癖なのか、語り手を交互に変えて物語を展開していく手法で、Morris.はあまり好きではないのだが、それでも最後まで読ませるだけの作品ではあった。
宮原ももともとロックバンドやってたという設定で、あちこちで音楽談義が挟み込まれてそこが、興味深かったり、笑わせてくれたりもするし、教訓めいたくだりが多いのは、重松清や石田依良などに共通するところだろう。
しかし、驚いたのは、二人の語り口があまりにお茶らけ口調だったことだ。慕っていたボーカルの自殺で超落ち込んでるはずの夏美が、矢鱈しょうもないひとり突っ込み入れたり、宮原のいい子ぶりあたりが鼻につくというか、「国境事変」と同じ作家の書いたものとは思えないくらいだった。
作者は69年生まれだから40ちょっと前。世代の差はおくとして、音楽の趣味は完全にMorris.とは、ずれている。
音楽漫画や音楽小説というのは、特な分野だと思う。肝心要の「音楽」はつまるところ読者の想像に委ねられるわけだから、ある意味楽である(^_^;) 天才画家を主人公にした漫画とか、天才詩人を主人公にした小説なんてのは、(既存の画家や詩人でなく、作家が創作する場合)、ほとんど不可能に近いといえるだろう。その漫画家が天才画家、その作家が天才詩人であることを要求されるからだ。
閑話休題。夏美の音楽談義?を引いておこう。彼女は幼少時からピアノとバイオリンをやったという設定になってる。

クラシックって深いけど、確固たる枠がある。ここからはクラシックではない、って一線が確実にある。ジャズもそう。でもロックは違う。これがあたしたちのロックだ、って言い張る気持さえあれば、それが新しいロックになる。融合しながら進化を続ける、でも根底には普遍的な魂が息づいている、それがロック。あたしはそう思う。

あたしほら、弦楽器はかなりのもんだし、ピアノだって弾けるじゃない。で、ギターってさ、確かに弦楽器なんだけど、フレットがあるから半音ずつきっちり音が出るじゃない。なんかそこでピンときちゃったのよ、あたしの場合。これはバイオリンとピアノを、同時に弾くようなもんなんだって。

「出だしのメロディ、繋ぎのメロディ、サビにいく、その流れに秘密があるの。一番大切なのはサビ。その前のAメロBメロとは違うものが、サビには必要ってことよ。でもメロディのよさじゃない。そんな印象の問題じゃない。もっと数学的なことなの。
答えは簡単。リズムなの。強拍と弱拍、アクセントの問題なの。サビのアクセントを、AメロBメロとは違うところに置くの。ラップみたいに平坦なメロディでも、演歌みたいに歌い上げるスタイルでもこの法則は普遍。つまりサビのメロディには、シンコペーションを利かせなきゃいけない、ってことよ」


「何でもロック」論(^_^)はわかりやすいし、ギターが絃楽器と鍵盤楽器の両方の特性を持ってるというのも頷けなくもない、サビにシンコペーションというのも、あながち間違ってるとも思えないが、次の音楽用語論?はちょっと変だぞ。

トラ、というのは「トラブル」が語源の隠語。トラブルの穴埋めを頼むときに、「今回だけ、トラで頼む」って感じで使うらしい。あたしはあんまりつかわないけど、ハタヤンはよく使う。ま、ジジイだからな。

おいおい、トラは「エキストラ」のトラじゃなかったのかい(^_^;) これは夏美の台詞だから、彼女が誰かにこういったガセネタを聞かされてそれを信用したということになるかもしれないけど、それなりの補足は必要だろう。
ところで、この作品は2004年に「新潮ケータイ文庫」に連載したものだったらしい。先に書いた登場人物の口調もそれに合わせたものかもしれないな、と後になって納得した。


08041

【国境事変 Border Incident】誉田哲也 ★★★☆☆☆ このごろ、谷崎にかまけて(^_^;) とんと読書感想文もご無沙汰してたが、久しぶりに読み応えのある作家に出会った。Morris.にはまったく未知の作家だったが2005年に「ジウ 警視庁特殊犯捜査係」という作品で新しいタイプの警察小説誕生と話題になったらしい。
本作も警察と公安の活動が中心となっているが、これに北朝鮮、CIAなどの謀略がからみ在日実業家父子の自殺、殺害事件を発端に、対馬から東京に舞台を移し、最後はまた対馬でのクライマックスに至るまで、よどみなく、Morris.をぐいぐい引っ張っていった。警察関連が得意分野らしく、ややおたくの気味もないではないが、朝鮮/韓国に関しても、実によく調べているし、見識もある。何と言っても登場人物の描写が生きている。僻地に転出されても警察職務を全うしようとする桑島巡査部長、「新宿鮫」を連想させる警視庁捜査本部の東警部補、公安部外事ニ課の川尻巡査部長など主要登場人物である警察関係者の階級や来歴などはびっくりするくらい的確に描かれているし、準主役ともいうべき、殺された実業家の弟呉英男の在日の考え方や、音楽の趣味から心の揺れまで、ほとんど感情移入しながら血の通ったキャラクタになっている。
捜査やスパイ養成のテクニックなども事細かに解説してあるし、北朝鮮への辛口な批判も的確でよどみがない。その他全編にわたって、そういった知識がちりばめられていながら、決してストーリーの妨害になっていないところが、この作家の大したところである。

朝鮮民主主義人民共和国、すなわち北朝鮮は今、明らかな岐路に立たされている。
米大統領の提唱する、”ニュー・ワールド・オーダー”に屈し、核を放棄、現体制の解体を受け入れ、世界と共に新たな道を歩むのか、それとも、飢えた国民が凍えた大地の土となるのを横目で見ながら、偽札と覚醒剤、ミサイルと核によって世界を脅かし、綱渡り的に現体制の維持を続けるのか。
答えは出ている。後者だ。
そんな悪の枢軸を、なぜアメリカが今まで放置してきたのか。世界共通の害虫を駆除するのに今一つ本腰を入れなかったのか。その答えもわかりきっている。北には資源がないからだ。国情を安定させ国交を樹立したところで、お宝を何一つ持っていないのでは侵略予算のかけ甲斐がない。
どんなに厄介な相手でも、油の出る井戸さえ持っていれば、アメリカは徹底的に付き合う。体制を崩壊させるための戦争も内政干渉もとことんやる。


実情の一面しか見ていないとは思うのだが、こういったシンプルな意見はわかりやすくもある。
この作家の「ジウシリーズ」は是非読まねば。


08040

【紅茶を受皿で イギリス民衆芸術覚書】小野二郎 ★★★☆☆ 懐かしい本だった。発行当時(1981)に読んで、深い感銘を受けた一冊である。先日新長田に移転したつの笛でのご祝儀代わりに買ったのだが、久しぶりに再読して、当時のことを思い出した。神戸に住み始めて3,4年目だったと思う。
William Morrisのことを日本で一番理解し、愛し、紹介に勤めた人だったと思う。Morris.(僕のことね)が、こんなハンドルを選んだのも、彼の著作の影響が大きい。
そして彼はこの本を出した翌年急死してしまった。彼にはまだまだ多くのことを教えてもらいたかったのに。
本書はタイトル副題にもあるようにイギリスのさまざまなレッサーアートへのランダムな小論、雑文の寄せ集めである。
チャップブック、チンツ、壁紙、ミュージックホール、イギリス庭園、そしてMorris.関連記事。
流石に30年を閲して読み直すと、いささか時代を感じさせる。
やはり彼の早世が惜しまれる。


08039

【丸ごと韓国骨董ばなし】尾久彰三 写真大屋孝雄 ★★☆☆ 著者はMorris.より二つ年上で、日本民藝館の学芸員とのこと。
「芸術新潮」特集の取材でソウルに李朝の膳を買いに行った時の記事と、自分の蒐集している朝鮮関係の骨董を紹介した「李朝の小品」、15人を引率してソウル全羅道を回った「百済の旅」の3部構成になっている。
韓国も骨董も嫌いな方ではないので手に取ったのだが、あまり好い印象はもてなかった。慇懃無礼というか、著者の姿勢そのものがMorris.好みではないようだ。文体の好き嫌いの問題でもあるが、書いてある内容についても、何となく??と思うところが多かった。まあ文章に関しては、最近谷崎にはまってるMorris.が色眼鏡で見てしまうのかもしれない。「〜すると〜という気になるから不思議である」なんて、今では、中学生でも使うのを恥ずかしがりそうな表現が頻出するあたり(^_^;)
韓国人との会話で、相手の日本語の間違いに過剰反応する割に、自分の韓国単語のカタカナルビがひどかったり、韓国料理に関して薀蓄垂れてるつもりが、基本的なところを押さえてなかったり、である。
トトリムックのことを「どんぐりの粉で作ったコンニャク」と表現したり、ピンデトックを「ピンデット」と書くくらいは、ご愛嬌で済まされるかもしれないが、次のくだりはあんまりだと思うぞ。

金さんは全羅南道の光州出身である。朝鮮を愛する人なら分かると思うが、光州は朝鮮料理の宝庫のような所で、日本人の食通が造った「食は光州に有り」という言葉もある程だ。もちろん韓国の人達に、キムチを始めとする朝鮮料理の一番おいしい土地を尋ねると、異口同音に「全羅南道の光州」という返辞が返ってくる。

いちおうMorris.も「朝鮮/韓国を愛する人」の一人と自負しているのだが、これは分からんね(^_^;) 韓国人は今だに出身地への愛着意識が強いから、「異口同音」に「全羅道」という返事が返ってくるということはまずあるまい。また、世間一般的に料理で高名な町といえば、光州よりピビンパブで有名な全州の名前を挙げる人の方が、圧倒的に多いのではなかろうか。
しかし、問題はそれより前の「食は光州に有り」(@_@)である。これは邱永漢の有名な著作「食は広州に在り」のタイトルのパロディなのだろうか?パロディならそうと分かる程度に匂わしておくべきだろうし、万一本気で言ってるんだとしたら、とんでもないパボとしか思えない。

「可愛そうたぁ、惚れたってことさ!!」。昔読んだ小説のせりふが思い出された。

引用するならちゃんと引用してほしいものである。特にこのくらい有名な言葉ならね。もちろん漱石の「三四郎」に出てくる文句で、正しくは「可哀相だた惚れたつて事よ」で、登場人物の一人が英語のことわざ「Pity is akin to love」を、わざと俗謡調に訳して、広田先生に下衆の極みだと叱られる場面。まあ、この文句だけが一人歩きしてる嫌いもあるけどね(^_^;)

Morris.の大好物であるスンドゥブチゲの紹介?も、ちとひっかかる。

途中、道谷温泉という所で12時になり、レストランで純豆腐(スンドフ)という貝と小ネギをいれた寄せ豆腐を食べた。もちろん日本と違って、鍋は石で、味は鄙には稀なおいしさだった。

スンドゥブは全国どこにでもある普通のメニューだと思うし、「鄙には稀な」なんて表現(他にも何度か出てくる)はここでは似つかわしくなかろう。

本書の写真はなかなか綺麗で、特に陶磁器や骨董の小品のショットはさすがにプロだと思わせる。本書評価★印の大部分はそちらの得点なのだが、おしまいの「百済の旅」の写真は、とんでもなくひどい(>_<) どう見ても素人以下である。途中の白黒写真一点だけに「撮影・著者」と断りが入ってるが、それ以外は何も書いてない。ということは、先の大屋氏が、こんなひどい写真を撮ったということになるのだろうか?Morris.にはとても信じられない。
ところで、その旅の中での、山の頂上にある、仰臥石仏への言及中

その線彫りの様子は、やはり共に稚拙で、思わず微笑みたくなる独特の雅味がみられる。多少長めのお顔に彫られた眼は杏仁形で鼻筋や四角い耳も長めで、何やら日本の飛鳥時代の仏様、あるいはモンドリアンの彫刻を彷彿させる……。

と、書いてあるが、Morris.はモンドリアンの彫刻というのは見たことがない。一度拝見したいものである。ネットでも調べてみたが見つけきれなかった。そんな彫刻作品の情報をご存知の方は知らせていただけるとありがたい。
それとも、あのコンポジションで有名なオランダの抽象画家とは別のモンドリアンなんだろうか??

●和蘭陀人Duchman寄席技藝人vaudevillian風 構成composition美 魔術師magician気取りのモンドリアンmon-drian  歌集『禍咒苑』より


08038

【少将滋幹の母】谷崎潤一郎 ★★★☆☆ 例の新書版谷崎全集の第27巻である。表題作の他「乳野物語」、随筆5篇が収められているが、やはり「少将滋幹の母」が飛びぬけていた。
昭和24年1月から25年3月まで毎日新聞に連載されたものらしい。この小型の全集で110pくらいの比較的短い作品だが、傑作といって良いだろう。概要は伊藤整の解説から引用させてもらう。(手抜きぢゃ(^_^;))

古い記録類や文学作品についての随想的な寄り道をしながら、読者を物語の世界へ次第に引き込んで行くこの作品の書き方は、「春琴抄」や「吉野葛」に似た方法で、もつと複雑なものである。中心部は、権力者で美男である左大臣藤原時平が、その叔父に当る老人藤原國経の美しい妻を奪ふ悲劇を中心に、前半部において、色好みと言はれた平中が副主人公として登場し、この事件に一種の軽みとユーモアを加へてゐる。そして平中の姿が見失はれる頃から、國経の不浄観の話を中心に悲劇は大きな高まりを見せ、そのあとは子の滋幹の母を慕ふ感情の甘美さをもつて終つてゐる。
研究の楽しさと物語の楽しさが助け合ひ、作品といふ花の花弁の一つ一つになってゐるところに、この小説の大胆な意図があり、それが単なる物語の進行から生れる効果と違つた重厚な、手応へのしつかりした、奥行きのある印象となる。

というわけだが(^_^;) Morris.は本作品の中では若い美しい妻を時平に奪われた國経が、未練と弁明と諦観の入り混じった感情の嵐の中で、不浄観に縋ろうとする心の哀れさというか、つまりは谷崎のマゾヒズムの発露に興味を覚えた。

たとへば自分の身は父母の淫楽の結果の産物であつて、本来は不浄不潔な液体から生れたものであると云ふこと、大智度論の言葉を引用すれば、「身内の欲蟲、人の和合するとき男蟲は白精、涙の如くにして出で、女蟲は赤精、吐の如くにして出づ、骨髄の膏流れて此の二蟲をして吐涙の如くにして出でしむ」るのであつて。此の赤白の二Hの融合したものが自分の肉体であると云ふことを考へる。次にいよいよ生れ出る時は、むさく臭い通路から出るのであること、生れてからも大小便をたれ流し、鼻の孔から洟汁をたらし、口から臭い息を吐き、脇の下からぬるぬるした汗を出すこと、体内には糞や尿や膿や血や膏が溜つてゐ、臓腑の中には汚物が充満し、いろいろの虫が集つてゐること、死んでからはその屍骸を獣が喰ひ、鳥が啄み、四肢が分離して流れ出し腥い悪臭が三里五里の先まで匂つて人の鼻を衝き、皮膚は赤黒となつて犬の屍骸よりも醜くなること、要するに此の身は生れ出る前から死んだあとまでも不浄であると云ふことを考へる。

これと似たようなことはMorris.も時々考えなくも無い。つまるところ人間は糞の通る管であるという考え方で、金子光晴あたりから教わったような気もするが、だからといって、人間が不浄な存在だと切り捨てるつもりはない。
谷崎の場合はそういった不浄?なものがまんざら嫌いでもなさそうで、そこが逆に怖いといえるかもしれないが、彼の芸(文章の錬金術)をもってすると、まさにこれらが一気に浄化(昇華?)される観がある。
そして本作品のもう一つのテーマ、幼くして引き離された母への思いが、40年後の再会で爆発する場面はもう、言語を絶するとしか言いようが無い。まずは出会いの場の春の月光の景色から。

嘗て滋幹は幼少の折に、父の跡をつけて野路を行き、青白い月光の下で凄惨な場面を目撃したことがあつたが、あれは秋の真夜中の鋭く冴えた月であつて、今日のやうなどんよりした、綿のやうに柔かく生暖かい月ではなかつた。あの時の月は地上にある微細な極小物までも照らし出して、屍骸の腸にうごめいてゐる蛆の一匹一匹をも分明に識別させたのであつたが、今宵の月はそこらにあるものを、たとへば、糸のやうな清水の流れ、風も無いのに散りかゝる櫻の一片二片、山吹の花の黄色などを、あるがまゝに見せてゐながら、それらのすべてを幻燈の絵のやうにぼうつとした線で縁取つてゐて、何か現実ばなれのした蜃気楼のやうにほんの一時空中に描き出された、眼をしばだゝくと消え失せてしまふ世界のやうに感じさせる……

秋の月と春の月の光の差を効果的に対比しながら、読む者を蠱惑する描写である。そうして、結びのクライマックス。

「お母さま」
と、滋幹はもう一度云つた。彼は地上に跪いて、下から母を見上げ、彼女の膝に凭れかゝるやうな姿勢を取つた。白い帽子の奥にある母の顔は、花を透かして来る月あかりに暈されて、可愛く、小さく、圓光を背負つてゐるやうに見えた。四十年前の春の日に、几帳のかげで抱かれた時の記憶が、今歴々と蘇生つて来、一瞬にして彼は自分が六七歳の幼童になつた気がした。彼は夢中で母の手にある山吹の枝を拂ひ除けながら、もつともつと自分の顔を母の顔に近寄せた。そして、その墨染めの袖に沁みてゐる香に移り香を再び思ひ起しながら、まるで甘えてゐるやうに、母の袂で涙をあまたゝび押し拭つた。


角大師の札谷崎の「母恋」の詳細は知らないのだが、Morris.の「母恋」に通じるなにものかを感じて、心の震えとその甘酸っぱさをしばし反芻させてもらった。

他の作品は「少将滋幹の母」に比べると、物足りないとはいえ、それなりにいろいろ見所もあったのだが、ここでは割愛しておく。
ただ「乳野物語」(原題は「元三大師の母」)に出てくる「角大師の札」が、この元三大師(比叡山の僧良源)が自ら鬼になった姿を札にしたものというのは、初めて知った。この札は、奈良に住んでた頃、どこかのお寺で分けてもらったことがあるし、民家の入り口に貼ってあるのを見かけたりして、意匠としても気に入ってたのだった。
また本筋とは全く関係ないが、取材途中の食卓で、

ついでに昨今流行のコカコラが運ばれる。これは何ですかと、流石の師もコカコラは初めてらしかつたが、これはかうしてお上がりになるのですと、ウィスキーコーラを拵へてすゝめると、これも悪くはないですなとあつて多々ますます弁じる。

という場面があった。この作品は昭和26年発表だから、当時、コカコーラというのはやはり相当ハイカラな飲み物だったらしい。Morris.が初めてコーラを飲むのは、これから10年くらい後だったもんね。


08037

【魔女の笑窪】大沢在昌 ★★★ 10章に分かたれていて第一章のタイトルが書名と同じなので、ひょっとしたら短編集かと危惧したが、とりあえず同じヒロインが最後まで出ずっぱりで、読み終えると一応長編の体裁をなしている。奥付によると1998年から2005年にかけて「オール読物」に掲載されたらしい。8年で10回というと1年に1回か2回である。えらく引っ張ったものである。とりあえず、各章だけ単独に読んでも独立した作品として読めるようにはなってる。
それにしても、Morris.が大沢作品読むたびに「女が描けない」と常套句みたいに言ってるのに反撥してか(な、わけはないが(^_^;)、このところ女性を主人公にした作品が矢鱈多い。それも一種のサイボーグだったり、本書のヒロインのように、一種の超能力者だったりするわけで、読者としては楽しませてくれればそれでオーライなのだが、それが、その場しのぎのごまかしだったり、あまりの作り話だと鼻白むしかない。
九州の離れ島にある、極秘の遊郭?組織を抜けたヒロインが、島で培った超能力を駆使して裏の世界で男たちと対等に渡り合い、その中で様々な事件に巻き込まれながら自分の過去の亡霊に襲われ、それを克服していくといったストーリーだが、そもそもの島の設定がいまどき、それはないだろうというくらいの大時代的しろものだし、ヒロインと次々に現れる対戦相手(^_^;)の力量の差があまりにも作者の恣意によって乱高下するあたりは、おそまつとしかいいようがない。
後半ヒロインの庇護者になる元ゲイの男の立ち回りもあまりに不自然で、Morris.は実はこいつが黒幕ではないかと勘ぐったのだが、そうではなかった。
このところMorris.が、大谷崎にはまっているところで、読んだという、ハンディを加味しても、結論として、やっぱり大沢には女は描けないな、と繰り返しておこう(^_^;)


08036

【京都語源案内】黒田正子 ★ タイトルに偽りあり、とはいわないが、実にうざったい本だった。著者はPR雑誌編集あがりのライターらしい(Morris.よりちょっと年下といったところか)が、いかにも安上がりの内容である。80ほどの言葉をとりあげてるのだが、その半分以上の記事に「広辞苑には……」というくだりがある。いやしくも語源の本を書こうというほどのものが、いちいち広辞苑の記述を開陳するかなあ(^_^;) おまけに、牽強付会というか我田引水というか、何でもかんでも京都に結び付けたいために、神社の看板に書いてあるからとそのまま紹介したり、思いつきの推量で、これが確かならそのはずである式の安易な自説の連続である。さらにコピーライタの悪しき癖というか、臭みのある文章、無理やりオチをつける結びの文体などなど、久しぶりに、イヤな後味の本だった。
さすがに著者もこれはあんまりだと思ったのか、あとがきでいいわけめいたことを書いている。

「鵜飼」などは、語源の説明が出てこないではないかとお叱りを受けそうだ。「鵜飼」はもしかしたら京都の川に発祥したのではないかと、わたしの興味はその一点にあった。そもそも語源そのものを言語学的に探求するなど、素人のわたしにはお手上げだし、関心もあまり向かない。

かつて都であったこのまちのどこかで、語源話が人から人へと受け継がれているのではないだろうか。そんな予感だけを頼りに、そのおもしろさと好奇心で、突っ走ってしまったというのが正直なところだ。

おいおい、である。そのあともいろいろ言い訳とかしているが、要するに語源自体について関心がないのなら、こんなタイトルはつけないでもらいたい。
とにかく、本文中にも「〜ようである」「〜かもしれない」「〜ではなかろうか」「〜だとしたら」「〜になったらしい」「〜でもあるそうだ」「〜といわれるのだそうだ」「〜ではないかとわたしは思っている」「〜だそうである」「〜かもしれない」「〜ではなかったろうかと想像する」「〜するようになったのだろう」「〜と関係あったりはしないのだろうか?」……といった、自問自答的な結びが頻発する。きりがないからこの辺で止めておく。

「昭和20年代に出版された古い『ものしり辞典・言語篇』」などという紹介ぶりも、語源を扱う人の発言としては驚かざるをえない。昭和20年代の資料のどこが「古い」のだろう?
だんだんバカらしくなってきたが、おしまいに型見本を一つだけ引用しておく。

語源調べは、旅に似ている。あちこちから切れ切れの情報をかき集め、それをつなぎ組み合わせて想像をふくらませているうちが楽しいのだが、いざ書こうとすると思ったより難航する。で、諸先達の労多き語源本を先日来眺めている。さまざまな本に当たってみると、語源への関心の方向や愉しみ方にも著者の個性がにじみ出て、それがまた楽しい。
萩谷朴著『語源の快楽』(新潮文庫)は、わたしの好きな語源本のひとつだ。−−中略−− これまでの語源では、「ハッケヨイ」は「発気良い」の字を当てるとか、あるいは「八卦良い」などともいわれてきた。ちなみに広辞苑では(「八卦良い」の意か)とカッコ付きでかかれている。そこに萩谷氏が新説を唱えた。
いわく「ハッケヨイ」は「ハッ競(きほ)へやっ」。この叱咤激励の「ハッ、キホヘヤ」が「ハッケヨイヤ」となり、ハッケヨーイ、ノコッタ、ノコッタの掛け声が現在あるというのが萩谷説である。
いわれてみれば、なるほどなるほど。「発気良い」や「八卦良い」では首をかしげたくなるが、「ハッ競へやッ」といわれてみれば、納得できるものがある。こういう語源に出会うと、またまた語源の旅がやめられなくなる。


著者の姿勢というか、語源への考え方(の足りなさ)が良くわかる一文ではある。採りあげられている萩谷某の新説(珍説)、こういうのを民間語源学という(^_^;) それを楽しむのは勝手だろう。でも、しかし、それにしても、である。


08035

【海のロマンス】米窪太刀雄 ★★★ 普通、こんなタイトル見たらまず読む気にはならないよな(^_^;) 
「海のローマンス」でも、サンパルのMANYOの\105の棚でこれ見つけて、グリーンのハードカバーの装釘に引かれて、ぱらぱらとめくったら、冒頭に夏目漱石の推薦文?が載ってて、ちょっとびっくりしてしまった。どうも著者宛の書簡のようでもあるが、ともかくもこれを読んで買う気になったのだから、ちょっと長いが全文を引用しておく。漱石全集になら所収されているかもしれないが、一般の読者がこんなものを読む機会はそう多くないだろうし、実に念の入った面白い文章だったからである。

あなたの回航日記は海を知らない人に取つて興味の深いものであります。又有益なものであります。私は「海のロマンス」と云ふ標題のもとに此回航日記が公けにされるのを喜んで居ります。
概していふと文筆は陸の仕事です。陸に居て海を書くコンラツドの様な人はありますが船に居て海の生活を其日々々に写して行つた人はあまりないと思ひます。それも暇のある人が道楽にならやれるかも知れませんが、あなたの様に練習に忙しい身で、朝夕仕事に追懸けられながら、疲れた手にペンを持つ事を毎日忘れずに何百日も遣り通すといふ事は到底出来る業ではありますまい。此点に於てあなたの文章は外の人のそれよりも遥かに骨の折れた努力を示して居ります。此点に於て確かに世間に紹介される価値があると思ひます。
あなたは普通の人に出来ないことを為すつたのです。御蔭で普通の人に知れない事を公けにする機会を得たのです。今度の帆走は約四百日で三萬六千浬を走つたのださうですが、此未曾有の回航中に含まれて居る暴雨だの時化だの、波の山だの、雲の鬼だの、陸では百年経つても見る事の出来ないものが、たゞあなたの忍耐で握られたペンの先からのみ湧いて出たとすれば、あなたもうれしいでせう。陸に居るものも嬉しいのです。島国と名は付いて居ても海の生活を知らない日本人はいくらでも居ます。しらないで知りたがつて居る人も沢山あります。あなたは斯ういふ人にケープタウンや、リオ・デ・ジャネイロや、フリーマントルから、好い土産を携えて帰つて来たと云はなければなりません。
あなたの文章は才筆です。少しの淀みもなく、それからそれと縦横にペンを駆使して行く御手際は殆んど素人らしくありません。よくあの忙しい練習船のうちで、此位に念入りの文章が書けるかと思ふと感服せずには居られません。然しそこにあなたの弱点の潜んでゐる事を忘れてはなりません。あなたの筆は達者過ぎます。あなたは才に任せて書き過ぎました。素人らしくないと同時に少し黒人くさくなりました。私はあなたの文を読んで何故延ばす一方に走らないで、縮める工夫に少し頭を使はなかつたかを遺憾に思ふのです。あなたの文章は私が昔し書いたものの系統を何処かに引いて居ます。それが私には猶更辛いのです。人の文章が自分の文章の悪い所に似てゐる。私に取つて是程面目のない事はありません。私は「猫」を書いて何遍か後悔しました。さうして其の後悔の過半は「猫」らしい文を読んだ時に起こつたのです。あなたが私の文章を真似たと云つては失礼です。然し私の文章の悪い所があなたの文章にもあると云ふ事は疑もない事実です。私は其後自分の非を改めた積りです。あなたも今度第二の「海のロマンス」を書く時には何うぞ私の忠告を利用して、素人離れのした、しかも黒人染みない管筆で純粋なものを書いて下さい。
大正2年12月20日  夏目漱石
太刀雄様


Morris.が買った本は、昭和5年平凡社発行の海洋文学叢書第一編となっているが、この作品は漱石の手紙の日時からも分かるとおり大正の初めに出されたものらしい。
Morris.は勿論著者の名前など全く知らなかったが、今はネット検索であっという間に大概のことは調べが付く。wikipediaによると、本名米窪満亮(1881-1951)で、戦後は社会党の片山内閣の労働大臣に就任したこともあるらしい。なかなか大した人物であるらしい。

明治45年(1912年)から大正2年(1913年)にかけて、練習船大成丸に乗船し1年3ヶ月に及ぶ訓練航海で世界一周する。米窪は、この訓練航海で毎日航海日誌を綴っていた。これが「大成丸世界周遊記」として朝日新聞に連載される。この作品は夏目漱石の激賞を受け、「海のロマンス」と改題されて単行本として発売された際、漱石は同書に序文を寄せている。「海のロマンス」はベストセラーとなり、この影響で海にあこがれる青年が増加し、商船学校や海軍兵学校への志願者が増加したと言われている。

なるほど、なるほど当時のベストセラーだったのね。Morris.はまずベストセラーというものは読まないのだが、約100年前のベストセラーならいまどき読む人も少ないだろうからよしとしよう。
明治45年の出航で、出航後まもなく明治天皇が死んで大正になってしまう。
最初の予定ではロンドンやシンガポールに行くはずだったのが諸般の事情でサンディエゴ-ケープタウンーリオデジャネイロ-フリーマントルなどに寄港して400日の航海を終えるわけで、たしかに当時の日本でこれだけの航海と言うのは前人未到だったのかもしれない。
そして本文なのだが、漱石も言う通り、ちょっと凝り過ぎの「美文」で、読み通すのにかなり骨が折れた。Morris.の知らない漢字熟語が頻出する上に、海洋専門用語、外来語の異常な多用ぶりが、当時としてはハイカラかつお洒落に見えたのかもしれない。
たとえば雲の種類をアルファベットで記載したりしてる。

水平線の彼方には干涸びた様なKの雲が不味いぶすけ面をさらしてゐる。
hrの雲がクリーム色の西空に堂々たる旗営をなし……
濃い浅黄色の空にかのcsの雲が飛翔するようになったらモウ占めたものである。
白き道と青き峰との溶け合ふ辺りにはフハフハとCの雲の浮いてゐるのが見える。
時々は日滅びてまもなく奇怪な形のKの雲が水平線を蓋ふて……
銀灰色のSの雲のゆるやかに北へ流るゝ空と…


まあ、雲に関してはMorris.もまんざら関心ないわけでもないから、ここで「10種雲形」だけでも復習しておこう(^_^;)
自分で表を作成しようとおもったのだがちがくのともページにわかりやすい一覧表があったので、そのままコピーさせてもらった(^_^;)

十種雲形
写真 名称 通称 英名 記号 高さ 雲粒 降水 その他
巻雲 巻 雲
(けんうん)
すじぐも Cirrus Ci 上層雲(5〜13km) 氷晶 なし  
巻積雲 巻積雲
(けんせきうん)
うろこぐも
いわしぐも
さばぐも
Cirrocumulus Cc 上層雲(5〜13km) 氷晶 なし  
巻層雲 巻層雲
(けんそううん)
うすぐも Cirrostratus Cs 上層雲(5〜13km) 氷晶 なし かさ
高積雲 高積雲
(こうせきうん)
ひつじぐも Altocumulus Ac 中層雲(2〜7km) 氷晶
水滴
なし  
高層雲 高層雲
(こうそううん)
おぼろぐも Altostratus As 中層雲
(上層まで広がって
いることが多い)
氷晶
水滴
時々  
乱層雲 乱層雲
(らんそううん)
あまぐも
ゆきぐも
Nimbostratus Ns 中層雲
(上層・下層まで広がって
いることが多い)
氷晶
水滴
あり
(雨・雪)
 
層積雲 層積雲
(そうせきうん)
うねぐも
くもりぐも
Stratocumulus Sc 下層雲(地面付近〜2km) 水滴 時々  
層雲 層 雲
(そううん)
きりぐも Stratus St 下層雲(地面付近〜2km) 水滴 希に
(霧雨)
 
積雲 積 雲
(せきうん)
わたぐも Cumulus Cu 垂直に発達
(雲底は下層、
雲頂は中層・上層まで
達していることが多い)
水滴 時々  
積乱雲 積乱雲
(せきらんうん)
にゅうどうぐも
かみなりぐも
Cumulonimbus Cb 垂直に発達
(雲底は下層、
雲頂は中層・上層まで
達していることが多い)
水滴 あり
(雨・雪)

時々
(ひょう・あられ)

※「巻雲」「巻積雲」「巻層雲」は、当用漢字が定められ「巻」が「けん」と読めなかった時期には「絹雲」「絹積雲」「絹層雲」と書きました。  

雲を観測するときは、その形や発生する高さによって、大きく10種類に分類します。
国際的に決められており、十種雲形又は十種雲級といいます。
その際、使う漢字は次の5つ。

漢字 英語 記号 意味
Cirrus C・Ci 上層(5〜13km)の雲・氷晶からなる
Alto A 中層(2〜7km)の雲・水滴からなる
Stratus S・St 水平方向(横)に広がる雲
Cumulus C・Cu 垂直(縦)に発達する雲・対流性の雲
Nimbus N・b 雨を降らせる雲

この5つの漢字を組み合わせて雲の名前を作ります。
漢字にそれぞれ意味があるので、名前を見るだけでどのような雲か見当がつきます。

実に分かりやすい一覧である。
しかし、本書に出てくる「K」とか「hr」の雲というのは何なのだろう?疑問が深まってしまった。

本書でMorris.が一番面白かったのは、その漢字語とルビだった。とりあえずそれらを羅列しておくことにする。実はかなり以前に本書読了してたのだがその作業があまりに面倒そうでついつい先延ばしにしていたのだった(^_^;)

・生業(しやうばい)・驚破(すは)・異名(あだな)・鼕々(とうとう)・光景(ありさま)・黒白(あやめ)・嚆矢る(はじまる)・唐突(だしぬけ)・珍奇天烈(ちんきてれつ)・黄汚汁(へど)・煩瑣哲学(スカラチシズム)・倩々(つくづく)・殺ばれ(くたばれ)・天蚕糸(てぐすね)・事業服(ヂャンパー)・小桶(バケツ)・花柳界(ちまた)・咄嗟(あわや)・長濤(うねり)・屁古垂れ(へこたれ)・横導(ローリング)・失と許りに(それとばかりに)・手古擦る(てこずる)・阿吽(あなや)・渦しい(すずしい)・集て居る(たかつてゐる)・洋袴(ズボン)・黙示(ヒント)・老成(じみ)・具さに(つぶさに)・縁側(ベランダ)・聳天構(スカイスクレバー)・繊弱(しなやか)・炭団(たどん)・反対(あべこべ)・逆吃(しやつくり)・禁厭(おまじなひ)・強ち(あながち)・縦動横動斜動(ピッチングローリングヒービング)・黎明(あかつき)・静淑か(しとやか)・驀地(まつしぐら)・航海日記(ログブック)・水平視差(ホリゾンタルパララックス)・出没方位角(アムプリチユード)・威嚇的(オバーカスト)・紛擾(いきさつ)・陣風(スコール)・頗る(すこぶる)・呼吸(いぶき)・冷笑ひ(あざわらひ)・天手古舞(てんてこまひ)・倩々(つらつら)・僕(やつがれ)・海図(チャート)・両脚規(コムパス)・砂堆(バンク)・漢堡(ハンブルグ)・緑威(グリニツジ)・迂路つく(うろつく)・却々(なかなか)・恭々しく(うやうやしく)・周章狼狽(へどもど)・活惚(くわつぽれ)・訝ッ(おやッ)・雷雲(ニムバス)・閑暇(ゆとり)・風光(さま)・間誤つく(まごつく)・磯波(サーフ)・筋斗うつて(もんどりうつて)・寸鉄詩(エピグラム)・沁沁(しみじみ)・船倉(ハッチ)・輩(てあひ)・小生(それがし)・照準(ねらい)・理由(いはれ)・静淑(しつとり)筅箒(さゝら)・神来(インスピレーション)・輪奐(たてもの)・所作(まね)・敦圉く(いきまく)・豪奢豪奢しい(けばけばしい)・富籤(ロテリヤ)・月旦し(たなおろし)・遅い(のろい)・迚も(とても)・岩畳(がんでふ)・裳(スカート)・穹窿(ドーム)・怜悧(りかう)・態と(わざと)・卑しい(さもしい)・口吟む(くちずさむ)・遊船(ヨツト)・北風(ならひ)・含羞かむ(はにかむ)・独樹船(カヌー)・顰(ひそみ)・下豊れ(しもぶくれ)・従順(すなほ)・嘸かし(さぞかし)・

いやあ、しかしこれらの百数語をピックアップするのに、ほぼ一日かかってしまったよ(^_^;) PCの漢字で出てこないのも20個以上あって、現在のJIS漢字の貧困さに改めてがっくりもした。それにしても当時の書物の総ルビというのは、実に素晴らしいシステムだったんだよなと改めて感動した。


08034

【鍵】 谷崎潤一郎 ★★★☆ 「細雪」「春琴抄」で完全に参ってしまった谷崎の昭和31年(1956)の作品である。Morris.が今回読んだのは中央公論社発行の新書版全集(全30巻)の第28巻で、例のサンパルMANYOの\105均一棚で買ったものである。日記でも書いたが、文庫本などでは新仮名遣いになってるのが嫌で、このちょっと古めの全集で読むことにしたのだった。この巻が全集の第一回配本(昭和32年)だったらしい、つまりは最新作で読者の購買意欲をそそったのだろう。「鍵」以外に9篇の小品や随筆が併載されている。
「鍵」は谷崎70歳頃の作ということになる。最後の長編「台所太平記」が76歳だから、まあ晩年の作といえるかもしれない。
56歳の夫と45歳の妻のそれぞれが、秘密裡に(しかしお互いに読ませようと意思ありあり)書いた日記を交互に並べた形になっている。夫の日記はカタカナで、両者の区別がすぐ分かるようになってるし、カタカナの部分はどうしても読書の速度は落ちるから、その効果をも狙っているのだろう。内容は、ほぼ二人の性生活に終始している。つまり中老夫婦の愛の交換(交歓、交姦、交感)日記というわけだ。もちろん谷崎だけに、一筋縄で行かない手の込んだ仕掛けがあちこちにあるし、二人の性の刺激剤としての若い男、そして夫婦の娘もこれに微妙に絡むのだが、性生活といっても、あからさまな表現はほとんどなく、いやらしさはあまり感じない。とはいうものの、やはりこの作品は、この前読んだ「春琴抄」に比べると、俗気が強くて、Morris.好みの作品とは言い難かった。

三月卅一日。……妻ハ昨夜僕ヲ驚喜セシメタ。彼女ハ酔ツタフリモシナカツタ。光ヲ消スコトモ要求シナカツタ。ソシテ進ンデサマザマナ方法デ僕ヲ挑発シ、性欲点ヲ露出シテ行動ヲ促シタ。彼女ガコンナニ種々ナ技巧ヲ心得テヰルトハ意外デアツタ。……コノ突然ノ変化ガ何ヲ意味スルカハ追ヒ追ヒ分ツテ来ルデアラウ。……
眩暈ガアマリ激シイノデ、ヤハリ気ニナツテ、児玉氏ノ所ニ行ツテ血圧ノ検査ヲシテ貰フ。氏ノ顔ニ驚愕色ガ浮カブ。血圧計ガ壊レテシマフホド血圧ガ高イト云フ。至急スベテノ仕事ヲ廃シ、絶対安静ノ必要ガアルト云ハレル……


谷崎の脚フェチや、ポラロイドカメラやツァイスイコンのカメラが出てくる小道具のモダンぶりは面白かったが、夫が死んだあとの妻の日記での、種明かしめいた部分は余計だったのではなかろうか。もちろんその後の展開を予測させるストーリーの〆としては必要だったのかもしれないが、Morris.はここで鼻白むしかなかった。


08033

【白川静さんに学ぶ 漢字は楽しい】小山鉄郎 ★★★ 2006年10月30日に亡くなった白川静からの聞き書きを、小中学生から大人まで簡単に理解できるように平明に解説したもので、共同通信編集部の著者が全国の新聞に連載したシリーズらしい。
白川静の『字統』を枕頭の書にしているMorris.だが、なかなか理会にはほど遠かった。本書は入門の入門といった観があって、Morris.には非常にありがたかった。
もちろん片脇に『字統』を置いて、しばしば参照。こうすることで、これまでちょっと手ごわいと思ってた『字統』がすんなりわかった。ような気がした(^_^;)
白川漢字学の象徴とも言える祭器「サイ−−(廿に似た字素)」に関しては本書でも嫌というほど出てくるが、「口」に似た形とは別の「才」の形での説明があって、これで何とかMorris.も白川漢字学に一歩だけ深入りできたようだ。

「才」、目印の木として立てた標木の上部に横木をつけた十字形の木の部分に、祝詞を入れる「サイ」をつけた字です。
神聖な場所の印として、このようなものを立てるのです。このような標識を立てることによって、その土地は祓い清められ、神の支配するところとなります。時間的にも空間的にも、清められたものとしてあることを意味するのです。
そしてこの「才」という文字は「在」の元の字でもあります。
その「在」は「才」という字と「士」とでできた字形です。
古代文字を見ればわかりますが、「士」は小さな鉞の頭部の形。つまり小さな鉞の頭部を聖器として添えて「才」を守り、神聖な場所としてあることを確認した文字なのです。
「存」は「才」と「子」でできていますが、これは「才」が立てられた場所で、子を聖化させ、子の生存が保障される儀礼を示す字形です。

ね、めちゃくちゃわかりやすいでしょ(^_^;)
『字統』をきちんと読めば、ずっと格調高い文章で詳しい説明がなされているんだけど、なかなかこういうふうに関連する字を追っていくのは骨が折れるもんね。
いちおう『字統』の「存」の項のみを引用紹介しておく。

存 ソン・ゾン ある・いきる・ながらえる・おもう・とう
会意 才と子に従う。才は祝祷つけた標木で、神の占有支配を榜示するものであり、在の初文である。在はその標木に聖器としての士(鉞頭の形)をそえい、その地を聖化することを示す字である。存とはおそらく生子をここにおいて、これを聖化する儀礼を示すもので、その生存を保証する魂振り的儀礼であろうと思われる。[説文]14下に「恤(うれ)ひ問ふなり、子と在の音に従ふ」とするが、存問の語は秦漢以後のもので、字の原義とはしがたい。字は存亡の存、存在は事物の根源に関するものであるが、いずれも聖標識によって聖化されたものをいう。存神・存心・存命・存養など、すべて性命に関することをいうにふさわしい語であり、また存続・存置の意となる。本来的に存するものを存といい、そのままの状態にとどめることをもいう。[荘子、斉物論]「六合の外は、聖人存して論ぜず」とはそのままにすること、捨てておく意である。[詩、鄭風、出其東門]に門・雲・巾・員と韻し、[楚辞、遠遊]に伝・然・先と韻している。


先の簡単な説明を読んでおけば実にわかりやすい解説であることが知られる。
白川静が東大、京大などの国立大学でなく、私立の立命館大学を研究の場としたためか、日本では白川漢字学への偏見や無視の傾向があるように思う。古代漢字の本貫を、神と聖に置くというのも、現代人からは違和感を抱くところだろうし、語源ですら、多くの謬見異論が混在するなか、5千年近く前に誕生した漢字の考察において、白川の漢字学がすべて正しいと決め付けるのはかえって不自然である。当然今後の研究から新たな発見、考察が出てくるものと信じたいが、それでも彼の打ちたてた漢字学の成果は、とんでもなく大きなものだと思える。
とにかく、これからも『字統』は枕頭に置いて、何か気にかかる漢字が出るたびに覗いてみることにしよう。

「全ての家庭に『字統』を一冊常備しよう!!!」Morris.のスローガンである。

戦後の当用漢字から教育漢字、(さらには最近のPC用の漢字にも敷衍すると思う)一連の漢字改悪&理不尽に対する、不信感と怒りについても本書でも取り上げてあるが、やはりここでも、直接『字統』の前書きからの引用で締めることにしよう。

敗戦の翌年(1946)の11月に当用漢字表、その2年後2月に当用漢字音訓表・当用漢字別表(教育漢字表)、翌年4月に当用漢字字体表が、それぞれ法令としてではなく、内閣告示として公布された。学校教育と公文書を主たる対象とするものであったが、忽ちのうちに新聞・雑誌をはじめ、あらゆる印刷物がこれに追随して、漢字の字形は一瞬にして外科的整形を受けた。漢字が生れて以来、どのような時代にも、このように容易に、このように無原則に、このうように徹底的に、全面的な変改を受けたことはない。はじめ当座の使用を意味した「当用」は、やがて「当為」の意とされ、いまは「常用」と名を改めている。この誤り多い字形は、これに服従しない限り、学業を履修して社会に出ることも、社会に出て種々の活動に従うことも、不可能となっている。誤りを正当として生きなければならぬという時代を、私は恥ずべきことだと思う。


08032

【街場の中国論】内田樹 ★★★☆☆ 内田お得意の講義を元に再構成したものだが、本書は久しぶりに面白かった。内田自身が「素人」集団による「床屋政談」と逃げを打っているし、とんでも論的な部分も多いのだが、Morris.には刺激的だったり、面白かったりした。

日本人が現在の政体に正統性があると信じようとすれば、この政体を日本人に押しつけた「天」であるところのアメリカの世界戦略の歴史的正統性にも全幅の同意を示さなければならない。だから、日本の場合は、国粋主義者が親米であるという倒錯が起きるわけです。

単純化すればたしかにそうだというしかない。

民衆が積極的に政治参加し、その責任を自ら引き受けるという発想はたぶん中国的ではないのでしょう。むしろ、英雄待望、名君待望の気分のほうが中国人にとっては自然なのかもしれません。どんな悪政でも、今はひどいけれど、トップが代われば一挙にいい世の中になるかもしれないという期待を持つことができる。徳のある王が出てこないものかと待望し、そのような人が出てきたら、たちまち喜々として全権を委ねてしまう。無為から蜂起までの間のグラデーションがあまりない。そういう振幅の大きい動きをする政治的な体質が、どうも中国民衆の特徴であるように思われます。そして、中国の政体はそういう民衆の政治的体質を勘定に入れて構築されている。もちろん、今の中華人民共和国も含めて。

これは実は日本人の中にも相当な範囲で蔓延している考え方ではなかろうか。

前にも触れたように、中華思想に基づく「王化」戦略というのは、国境線もあいまい、権利義務関係もあいまい、帰属関係もあいまい、というのが[いいところ]なわけなんですから。
ですから、日清戦争というのは、教科書的には、朝鮮半島の利権を争う日本と中国間のヘゲモニー闘争という地政学的な対立でわかりやすくせつめいされますけれども、実はそれだけではない。その下には、あくまで「王化」戦略に固執する清朝と、それを頭から否定する日本の「帝国主義」戦略の、噛み合うはずのない対立が伏流していたと考えるべきでしょう。
「王化」戦略は中国が中華であるということが前提になっています。中国は文明の精華で、あとは夷狄という「不平等ルール」です。それに対して、「帝国主義」は建前上は「平等ルール」で行われている。つまり、帝国主義ゲームに参加するプレイヤーは全員が等しく「ぶったくり」の権利を持っており、かつ「ぶったくられる」リスクを負っている。ひとりひとりには「身体がでかい」とか「足が速い」という個体差はあるけれど、これはそれぞれのこっ人的努力の成果である。機会の平等が担保されているのだから、結果の不平等は甘受せよ、と。これは今日のグローバリストの言い分とまったく同じですね。

「中華思想」そのものが、そういった境界をあいまいにするというか、中心からグラデーションで薄くなっていく構造であることは理解しやすい。それに対する「帝国主義」が「グローバリズム」と単純にイコールというのにはちと疑問を覚える。

ハワイには18世紀末にアメリカの西部からの移住者が住み着きます。本格的な殖民が始まったのは、ニューイングランドの会衆派教会から大量の宣教師グループがハワイに派遣されたことです。彼らはハワイ人の伝統的な生活様式を否定し、アメリカ人のライフスタイルや道徳観、宗教を押しつけます。それだけではなく宣教師たちは土地の買い占めを行います。サトウキビのプランテーションが始まり、宣教師や入植者が大地主になり、基幹産業を支配する。そして、機が熟したと見た1893年に合衆国は軍隊を派遣してハワイ王朝を武力で打倒。アメリカ人宣教師の息子ドールが大統領に就任してハワイ共和国を設立、1898年、合衆国に併合され、1900年には準州となり、ドールが初代知事に就任。ずいぶんな話です。

中国とは無関係だがハワイのアメリカへの帰属の大筋を知らなかったので引用した。

司馬遼太郎は明治維新とそのあとの近代化の初期の、明治の青年たちが「坂の上の雲」を望んでいた希望に満ちた時代を、回帰すべき民族的記憶の原点として提示しました。これは文学的虚構を通じて国民的統合を果たそうとしたという点で、戦後日本で試みられたうちでもっとも壮大な試みのひとつだと僕は評価しています。
現に、司馬の意図を継いで、その国民的統合の物語を宣布しようとしているイデオローグは少なくありません。けれども、残念ながら、この計画は失敗を宿命づけられていました。それは、司馬的な物語を宣布しようとしている当のイデオローグたちの面貌にも挙措にも、彼らが再興しようとしている「武士」的なエートスがほとんど名残をとどめていないからです。彼らは全身「現代人」であり、彼らが司馬的な物語を大声でほめたたえるのは、国民的統合を成就するためではなく、ほとんどの場合は彼らに反対する人間を黙らせるためです。「もっぱら反対党派を排除するために語られる国民的統合の物語」という言い方がそれ自体、致命的な論理矛盾を含んでいることに、彼らはたぶん気がついていないのでしょう。


いわゆる「司馬敷史観」の限界には、もう、日本人の大半が気づいていることと思う。(希望的観測)

中国の統治者は[複雑な統治上の問題」を「複雑なまま」国民に提示することが許されない。十三億の国民は「簡単な物語」以外に統合する術がないからです。だから中国の場合は、逆説的なことですが、政治上のトラブルが深刻であればあるほど中央政権の語ることばシンプルでわかりやすいものになる。つまり、中国政府が「そんなことはたいした問題ではない」と強弁するときには、それは「解決の方途が見えない問題」であり、「これは由々しき問題である」と言うときは「解決の糸口が見えた問題」であるとみなすことができる、ということです。

この部分が一番面白く読めた。もっとも、これも中国に限ったことではあるまい。

環境問題は本質的には文明の問題であり、同時につねに人口の問題です。人間が新石器時代のライフスタイルで満足している限り、環境破壊は起こらない。人間のもたらす汚れが自然環境の浄化力の範囲内に収まっている限り、環境問題は起こらない。しかし、現実には人類は文明と人口増の道を選んでしまった。環境破壊は人類にとって回避することのできない選択です。

「ヒューマニズム」というものの本質を考えれば、おおむね理解しやすい言説である。

僕たちは植民地問題についてリアルかつクールに総括するという知的習慣がありません。「植民地主義は悪だ」と決めつけて判断停止しているシンプルな左翼と、「植民地にしてやったおかげで朝鮮半島も台湾もインフラが整備されたのだから、感謝されこそすれ恨まれる筋はない」と言い立てるシンプルな右翼の二種類しかない。学術的な研究はされているのかもしれませんけれど、その政治史的知見はほとんど僕たちには共有されていない。

「リアルかつクールに総括」できてるかどうかは疑問だが、そう単純に二分化してもらっては困ると思った。


08031

【さばきもわかる 食材魚図鑑】池田書店編集部 ★★★ 一般に食用に饗せられる百種以上の魚介類を大きなカラー写真で紹介し、産地、旬、目利き、料理や栄養などについて簡単な解説を加え、料理レシピとさばき方・おろし方も併せて掲載した実用的魚図鑑といううたい文句だが、まあ、要するに魚のヴィジュアル本である(^_^;) Morris.は1時間足らずで読み終えた。
日本近海の魚がどんどん減ってる傾向が顕著であるなあ。
Morris.は魚といえばまず「鯖」である。あとは秋刀魚、鮪、鰯、鯵、それに烏賊と蛸さえあればまず満足。まさに大衆魚好きである。
名前に漢字を併記してあるのには好感を持った。あまり見覚えの無かったものを引いておく。

・あいご(藍子)・いかなご(宝筋魚)・いさき(鶏魚)・いとう(「魚」+「鬼」)・えそ(狗母魚)・おこぜ(虎魚)・かじか(杜父魚)・かんぱち(間八)・きびなご(黍魚子)・きんき(喜知次)・こち(鯒)・このしろ(「魚」+「祭」)・さより(細魚)・しいら(「魚」+「署」)・ししゃも(柳葉魚)・そい(曹以)・はぜ(沙魚)・ひらまさ(平政)・べら(倍良)・ほっけ(「魚」+「花」)・めじな(眼仁奈)・めばる(目張)・やがら(矢柄)・わかさぎ(公魚)・ほや(海鞘)

いくつかあったメニューの中から酒の肴によさそうな「鯵のなめろう」を

1.鯵2尾を三枚におろし、腹骨を取った後に、皮を頭から尾に向ってむく。
2.縦に細く切る。
3.5ミリ角くらいにころころに切る。
4.途中、味噌小さじ2杯、生姜の千切り少々、長葱の小口切り(3センチ)を混ぜながら、粘りが出るまで包丁で叩く。
5.形を整えて器に盛る。


08030

【晴れたらライカ、雨ならデジカメ】田中長徳 ★★★☆ 二ページずつのコラム100篇ほどが集めてあるから、きっと数種の雑誌に連載したものだろう。例によってのチョートク節で、言ってることも特に代わり映えしないが、それでも数箇所共感する部分があった。

私はプリンターは持っていない。これだけ仕事をしているのに、プリンターを持っていないのは何か「宗教的な理由」でもあるのですか、と聞かれることも再々ある。宗教的な理由などあるはずがない。強いて言えばプリンターはそれを使う時間とそれを使わない時間を「天秤」にかけると、使わない時間の方が圧倒的に多い。

現代の画像修正ソフトというのは、すべて常識人の常識の範囲内の美意識が基調になっていることにある。だから空はどこまでも青空で、樹木はしたたる緑、花は目をあざむくばかりの原色で、女性の肌はゆで卵のようにつやつやでなければならないという通念から脱却していない。これが世の中の大多数の人の美的観念とはおもわないにしても、そういう基準でプログラムされた修正画像はやはり退屈なのだ。

我々の日常生活で「隠し撮り」いけないけど、案外に撮影してはいけないと思われているような場所が自由に撮れる場合もある。
日本は個人情報保護を勘違いして、すぐに肖像権を盾にする変な都会生活者が多いが、我々スナップカメラ人類はそれにデジカメで対抗する必要がある。その意味でライカでもそのシャッター音はなかなか大きいが、コンパクトなデジカメはほとんど無音だし、自然な表情が撮影できる。

路上での撮影でそこに「点景としての通行人」が歩行している場合には自由に撮影できる、と考えるのが自分の撮影時の人間撮影のガイドラインである。点景としての通行人とは、その撮影距離は5メーターというところであろう。これが2.5メーターより接近すると、そのショットは最初から「その個人への集中した視線」であるから、路上でそういう場合には「すみません……」くらいのことは言う方が礼儀であり、無用な誤解をさける方法でもある。被写体が温和で通常の市民であるのなら、快く撮影に応じてくれるであろう。
肖像権関係は「それぞれの良識の範囲内」で案配するのがベストである。
ただし、パブリックな場所で「過敏な人間」にクレームを付けられないためのテクニックというのは存在する。それはカメラを両手で高く差し上げて、撮影する方法である。例えば、駅前広場などを撮影する場合、カメラアングルが高くなると、それはその撮影範囲のフレームの中にいる人は案外に警戒しないものである。その理由はわからないが、これは自分の経験から確かなことだ。もう一つ、大事なのは撮影したら、その場をすぐに立ち去ることだ。撮影にそう神経質になることはない。軽い会釈が大事だ。最近の経験ではどうも外国に比較して、この国は「路上スナップ」では一番ぴりぴりしているようだ。何事も常識の範囲内で行動すること。つまらぬトラブルで撮影の楽しさを損なってはそれこそつまらない。

デジタル機器の代表である携帯電話を、バッグとかポケットからさっと取り出すのは「絵」になると思うけど、携帯を胸からストラップでぶらぶらさせているのは、お世辞にもかっこいいとは思わない。
デジタルカメラにも同様の存在背景がある。大型のデジタル一眼レフは仕方ないとして、コンパクトデジカメもやはりポケットからさっと取り出すのが「デジカメの粋」だと自分は信じているのだ。

ここら辺りがMorris.の共感覚えたり、利用させてもらいたい部分だが、mixiへの無防備な賛美には、疑問というより、不快感を覚えてしまった。

mixiに代表されるようなソーシャル・ネットワーキング・システム(SNS)は、相手の顔が見えるから、その内容は実に社交的、かつ紳士淑女的である。しかもそれぞれのメンバーのアップしたデジカメ画像とそれぞれのメンバーの「今興味を持っていること」へのポジションは、個人的なスタンスがベースになっているので、(業界人が意識して流行情報を流すこともあるとはいいながら)そこそこに案外ににリアルな「現代の状況」が把握できるのは確かである。

「けっ!!」である。


08029

【一杯の珈琲から】エーリヒ・ケストナー 小松太郎訳 ★★★☆☆ 1938年にスイスで出版されたケストナーの大人向け娯楽小説三部作のおしまいの作品である。Morris.はこれを読み損なったままで、元町つの笛在庫整理?の階段でこの文庫本を(1975年9月26日初版)掘り出し、3月末の京都近代美術館の「ドイツポスター展」に行くとき阪急電車内で半分読んだ。それから数日後に読み終えたが、やっぱりケストナーは素晴らしかった。そして役者の小松太郎も。

・最初の再会は初対面に対する裁判官である。

主人公ゲオルクが恋人のコンスタンツェに再会する場面の一言である。本書は、大人のための恋愛童話である。それ以上でも以下でもなく、それがすばらしい。
ただ、132pの「拱いて」「こまねいて」のルビだけはいただけなかった(>_<) 小松太郎のミスでなく創元社編集のミスだったと思いたい(^_^;)


08028

【ステレオ日記 二つ目の哲学】赤瀬川原平 ★★★ 83年発行の本である。ステレオ写真の本であるからMorris.が手に取らなかったわけはないと思うのだが、読んだ記憶が無かった。忘れてしまってたのだろうか。
ともかくも彼がステレオ写真とステレオカメラに入れ込み始めた時期の貴重な記録と、作品群である。
とりあえずステレオ写真風(^_^;)裸眼でステレオ写真を見るには平行法と交差法があるらしいが、Morris.は未だに交差法というのがうまくできない。そのかわりといえるかどうか、平行法なら、ほとんど瞬時にできる。本書のステレオ写真は1点を除いてすべて平行法なので、本文読まずにステレオ写真だけ眺めてるだけで楽しかった。
本文の方は、あまり役に立たない。というか、ステレオカメラを掘り出した話や、ステレオ写真を撮った話がメインで、Morris.にはちっとも縁が無いもんな(^_^;)
ただ、目覚める過程で写ルンです2台を貼りあわせてステレオカメラを作ったという記事は面白かった。Morris.もデジカメ2台で擬似ステレオカメラ作れないかと思ったのだが、現在持ってるものは同じシリーズでも画角が違うし、液晶画面の大きさも違うのでちょっと無理なようだ。ベッドの上から蛍光灯の点灯用紐にぶら下げてるペコちゃん人形をカメラの位置ずらして2枚撮り、それを並べて平行法で見たら、何となくステレオ写真めいて見えた。かなりひどいが、右に並べておく。


08027

【氷結の森】熊谷 達也 ★★ マタギ関連三部作の最終作ということで、期待して読み始めたのだが、実につまらなかった。超人的な射撃の腕を持つ主人公がギリヤークの娘と、樺太、ロシアで店を開く日本女性二人に惚れられるというあたりは、春色梅児誉美を思い出してしまった。とにかく、人間が描けてない。ご都合主義過ぎる。これまでの作品と比べてあまりにひどい出来だった。「小説すばる」連載、とあったが、義理で書いたのか、単に原稿料稼ぎの作とでも思うしかない。


08026

【はぐれ鷹】熊谷 達也 ★★☆☆ こちらはいまどき珍しい、鷹匠に弟子入りする青年を主人公とした異色作品で、最初は面白かったが、だんだん面白みが失せてきた。うーーん、この作家もう少し読ませる力があると思うのだが−−−−(^_^;)


08025

【バングラデシュ選詩集】 丹羽京子編訳 ★★★ バングラデシュについては、ほとんど何も知らなかった。ネットで知り合った海子さんが、突然、バングラデシュの写真を彼女のブログ「日替わり定食」で公開されそれがあまりにすばらしかったので、ついついMorris.もこの国への関心を覚えたところに、灘図書館で本書を見つけ、思わず借りてしまった。
バングラデシュが、パキスタンから独立したのが1971年。本書にはその前後の激動の時期を文化的に支えてきた4人の詩人の作品が掲載されている。
ひととおり読み終えたのだが、ほとんど理解できなかったというべきかもしれない。それでも、日本や西洋の詩とは違う、独特の世界が感じられた。ような気がする(^_^;)
とりあえず、一人1篇ずつ、印象に残った作品を紹介しておく。


私の世界 ニルモレンドゥ・グン(1945-)

世界とは金の指輪に人生の色をまぶすこと、
世界とは血と肉をもって一晩じゅう起きていること。

世界とはなにかを待っている一対の目の期待、
世界とは飾りつけられた宇宙、サリーの端にくくりつけた鍵。

世界とは未だ訪れざる子ども、人形で飾られた家、
世界とは魅惑の酔い、毒にまみれた北東の嵐。

世界とは叶えられない望み、苦悩の沼地、
世界とは世界の破滅、世界とは君


愛しい人よ、君のほかに アル・マームド(1936-)

愛しい人よ、君のほかに、詩に書くことなど見あたらない。
かつては自然があった、国もあった、そして良き日々が。
勝つか負けるかに揺らぐ魂の動揺もあった、胸の内には。
不実な赤い目に宿る一粒のように思えた、その
君以外に今日、美と比べられるものがあるだろうか、
君は星ではない、鳥ではない、あるいは花束でも。
河やあるいは平原の湖になぞらえて
偽りの君を描こうとする、彼らこそが君の子どもたちだと知っているのか?
そして恋人たるわたしは、永遠に君がそんな子どもを持たないことを望む。
手の届かぬほど遠くの、彫刻をほどこした寝台に
寝床を用意しようと思った、君はそこで薔薇油(アトル)を注いでおくれ、
君と比べられるものはない−−これが詩人の最後の言葉であるように、
人間の血と排泄物、余剰の汗と吐き気において、
ああ、神よ、ついにあなたの傷ひとつない芸術は流されていく。


 ショヒド・カドリ(1942-)

ひとりの踊り子のステップが、その終わりに
さしかかる前に、百万の語らいの鈴の音に包まれて
人は感じることができる、わたしはもはやひとりではないと、
       この世界で一番美しい町で。


頭には黄昏、骨には色とりどりの霧 シャムシュル・ラーマン(1929-)

頭には黄昏、骨には色とりどりの霧を纏って
ぼろぼろのサンダルを足に、私は戻ってきた。
真っ暗な部屋で
(最近では停電の孔雀が時を選ばず羽を広げる)
空想のなか、君の崇高な姿が蜃気楼となって
わたしをひどく誘惑する。
しばらく歩き回ってわたしは時をすごし
もつれたことどもに思いをはせる、
思い出すのは、
学位などをありがたがり、大切にされていた若き日々、
父のキャラバンサライでなにをするでもなく過ごしていたこと、
広告など読んで。思い出すのは、
皺の刻まれた年とった父の
悲嘆の嵐に歪んだ顔、たったひとり
家の隅で涙に暮れていた母、そして彷徨える心のわたしは
君の姿を思い描いて、感情の高まりのなかに時を過ごしていた。

今はなにも話せない、
厳しい重荷のせいで背中は曲がってしまい、
子どもを育てる毎日に、墓場の風のような溜息が吹く。
君がかつて色のついた紙で手紙を書き送った男を
今日この青ざめた時の巡りに見かければ、
とっくに失ったはずの幽霊と思い
怖がって遠くへ逃げていくはず。その男を
時が啄ばみつづけ、そばにいるのは孤独な猫、
病だけがその男を目覚めさせておく。ときに
君の遠くの顔が、わたしに覆いかぶさってくる。
朽ちた部屋に横になって思い描く、
ハタオリドリの巣、はるか遠くの子ども時代の橋、
いつかの君のやわらかい手、そしてあの男のこと、
そのポケットには鸚鵡が入っていた、濃い緑色の菱の実も。
彼は静けさを兄弟と呼び、鳥の群れのなかに
彼の住まいはあった。

わたしは待っていた、けれどもそんな幸福なときはやって来なかった、
それに触れると部屋の壁も賢くなるような、
ほんのひとときわたしの内なる骨も歌をうたうような、
茉莉花(ベル)の蕾が遠くの燕となるような、
霧のなかの大地を横切って、孤独な農夫のように歩いていくような、
森のはずれでひっそりと、
忍耐強い月が色褪せた果物を拾っているような。ときに
わたしの足が笑って訊ねる−−
あと何日そうしているつもりか? わたしはただ間抜けのように
足の甲をみつめつづける、どうしても
なにも探しあてることはできず、
わたしは待ちつづける、知られざる時に
一瞬にしてわたしをくわえ、連れていってくれる
二日目の月を。


08024

【七夕しぐれ】熊谷達也 ★★★ 筆者がモデルと思われる小学5年生の男の子が仙台の「元部落」に転居して隣近所の同級生がクラスで差別されることを知る。その後、部落に住むストリッパーの姐御や、小指の無いおんちゃんらに助けられながら、差別を知るためのビラを学校でゲリラ的にまくなどの行動に出る。
筆者は1958年生まれだから、多分昭和40年代の小学校と町の風景が描かれている。差別は大きなテーマであるが、そういった時代風景や人々の意識も細かく丁寧に描かれていて、単なる「差別はやめましょう」的な便宜小説になることから免れている。差別されている少女への主人公の初恋めいた思いも、かなりの思い入れとともに、本作品にリアリティをもたらしたようだ。
小学5年生くらいの時期での、部落に関して、主人公とMorris.とで共通認識があったことが感慨深かった。

転校してくる前のT町にも部落はたくさんあった。というより、住民が住んでいる町の区割りを部落と言っていて、たとえば、小学校の運動会のメインイベントは、子どもから大人まで縦割りで参加する「部落対抗リレー」だったのだけれども……
私がそれを口にすると、父は「部落にはふた通りの意味があるから、あとで、辞書で調べてごらん」と言ってから、
「ここらでは町の地区のことをふつうに部落と呼んでいるけどね、地域によっては違った意味に使われることもあるんだ。そういう差別されている地区は、正確には被差別部落と呼ばれているんだよ。差別を被っている部落、という意味で」「じゃあ、まだ差別されている人たちがいるわけ?」
「残念ながら、ね」
「なぜ?」
「それはちょっとパパにもうまくこたえられないな」と、かなり困った顔になる。


Morris.と筆者では10年近い世代差があるが、Morris.の生れ育った、佐賀県武雄市の小学校でも「部落対抗リレー」があったし、それを何とも思わなかった。部落差別のことを、ある程度きちんと知ったのは北九州市小倉区で学生始めた頃だろう。当時の北九州には、かなり差別意識が残っていた、というか、よそ者のMorris.にもすぐ認められるくらいの差別が存在していたわけだ。でも、Morris.はそれを知っただけで、掘り下げようとも、きちんと理解しようともしなかった。全共闘時代が終わりかけていた時代で、学内外にその余韻が色濃く残っていたものの、Morris.はそういった運動に対しても傍観者に近かった。いわゆる「ノンポリ」の典型だったのだろう。差別問題も、革命思想も、ただ活字で理解したつもりでいたようだ。

麗子先生が、どこまで正確なことを知っていたのかはわからない。先生自身に知識そのものがなかった、といいうことは大いにあり得る。子どもから見れば、学校の先生というのはなんでも知っている大人の代表選手なのだが、そんなわけがないことは、わざわざ説明するまでもないだろう。あるいは、麗子先生は知っていたけれども知らないふりをした、ということも考えられる。つまり「寝た子を起こすな」のほう、別な言い方をすれば、大人の良識のほうへ、先生の考えが傾いたのかもしれない。
忘れたふりをして口を閉ざしているうちに、事実そのものが少しずつ人々の記憶から薄れ、気づいたときには[なかったことになっている]、というのは、どんな物事でもありがちなことだ。それはそれで、社会を円滑に動かしていく一種の処方箋なのかもしれないけれど、立場が違うと、忘れてしまったほうが楽なこと、が、絶対に忘れたくはないこと、もしくは、忘れてはならないこと、に容易に逆転するのも真理だ。
六十年以上前の戦争が揉めごとの火種になると、いまの多くの日本人は、本音の部分で「もういいじゃん、そんな昔のこと」みたいなつぶやきを漏らすと思う。だが、中国や朝鮮半島や東南アジアの人々にとっては、絶対に忘れてはならない記憶であって、なかったことにしましょう、はさすがに暴言だけれど、ここはひとつ水に流しましょう、あんどと軽く言われても無理である。
それが証拠に、これだけ能天気な私たちでも、史上最大の大量虐殺のひとつである「ヒロシマ」と「ナガサキ」のことは忘れていない。このところ、忘れかけている人たちがおおくなってきたみたいなので、かなり不安ではあるけれど……。


「ヒロシマ」「ナガサキ」忘れまじ!!(^_^;)
担任の麗子先生の、主人公の「エタ部落」と「いじめ」発言への対応ぶり。

本当に巧妙ないじめというのは、絶対に先生にばらないようにはじまり、進展していくものだからだ。だから、最初からばればれのいじめは、いじめとは言わない。
もう少し正確に言うと、先生が気づくくらいにいじめがエスカレートするのは、これ以上放っておかれたらとんでもないことになってしまう、できればその前に止めてくれ、という、いじめられる側というよりは、いじめる側が無意識に発する危険信号なのである。
が、それを意識している大人は、本当にわずかだ。
そして、いじめには、自然に消滅していくタイプのものと、決して自然には消滅しないタイプのものと、二種類ある。自然消滅しないタイプのいじめは、坂を転がり落ちるように必ずエスカレートしていくものなので、いずれは大人も気づくことになる。
だから、学校の先生の力量は、いじめの早期発見が大切、などともっともらしく言われているけれども、気づいた時点でどう対処するかで試される。
そんなとき、いじめている子の名前を聞き出し、ひとりずつ呼びつけてお説教をする、というのは、実はたいして効果がない。あいつ、ちくりやがった、と逆効果になるのが関の山だったり、ほんとうの黒幕、たとえばこのときの私の場合だと、首謀者のノリオまで網をかけられなかったりすることもしばしばだ。
そして大人が信用できなくなった私たちの世代の子どもは、大人をあてにしても無駄だと、最初から冷めている。

ふむふむ、なかなかうがった意見である。それにしても野生の狼やらマタギの生活やらを主題にしていた筆者が、これほど子どもの心理に詳しいのは、実は中学教師の経験があったかららしい。
いじめの定義を「いじめられているように見える本人が、それがいじめだと感じていればいじめであって、そうでなければいじめではない」と、相対的な現象としてとらえ、差別はこれと違ってもっと根の深い現象として、いじめと差別について論じた部分。

いじめと差別とは、現象的に似たような場合でも、まったくの別物で差別には、それを容認する社会的な背景や力学が働いている。
だから、似たものどうしでも、いじめよりも差別のほうが、ずっと根深くて深刻だ。差別される側には差別される理由を解消する手立てがふつうはない。というより、最初から取り上げられているのだから、ある意味どうしようもない。
学校の授業、たとえば道徳とかで差別の問題を扱うとき、身近な問題としていじめを引き合いに出す先生がいるけれども、それは的外れ、というか、先生自身にいじめと差別の区別がついていない証拠といえる。
結論から言うと、いじめと差別では戦う相手が違う。いじめの場合は、もし戦う勇気を絞り出すことができるのなら、といってもそれ自体がほとんど不可能に近いものなのだけれど、戦う相手は直接いじめている相手ですむ。しかし、いじめではなく差別となると話はややこしくなり、表面上の敵は直接かかわっている相手であっても、本当に戦わなければならないのは、その背後にあるもの。つまり、このときの私やユキヒロ、そしてナオミにとっての戦うべき相手は、ノリオやヨシコではなく、大人がつくってきた社会だった。


正論ではあるが、いささか短絡的な結論のようにも思える。もちろん、大人である筆者の意見だが、これを小学5年生の主人公が経験からこういった考え方を会得したというのは、ご都合主義を免れないようでもあり、そこは年長の理解者の助けがあったことになってる。それでもMorris.は何か、釈然としないものを感じた。
差別を取り上げた小説はこれまでに多く書かれているものと思う。古くは島崎藤村の「破壊」が飛びぬけて有名だし、戦後作品では、差別だけがテーマではないが大西巨人の「神聖喜劇」が印象深い。それらに比べると本作は、比較的こじんまりとしているが、押し付けがましくなくて、回想小説としても、児童文学としても、見るべきところ大いにあるものと思う。ただ、先にも書いたとおりMorris.がいまいち、もろてをあげて評価できないのは、全体から受ける「御伽噺」性によるのだろう。


08023

【春琴抄】谷崎潤一郎 ★★★★☆☆ 「細雪」読んで、次何読もうかと思い、とりあえず大阪弁のものが良い、とりあえずめっちゃ有名な奴、そしてとりあえず短かめの奴にしようと、選んだのがこれで、前回と違って今度は新潮文庫版、100pくらいの薄手の本で、注解やら解説やら年譜やらついて、本文は70pというあっさりしたもの。だったのに。Morris.はどっぷりはまってしまい、Morris.には珍しく読み終えたところで、もう一度読み返すなんて大胆なことをやってしまった(@_@) しかも読後の充実感は先の「細雪」といい勝負、どころかインパクトとしてはこちらである。いや、凄いもんである。筋はたいていが知ってるものとして(Morris.も読む前から大概知ってた)、この高密度の物語の魔力というか、とんでもなさをどう表現したらよいものか。(表現する必要もないか(^_^;))
主人公二人の愛憎の深さ、芸への執念、常軌を逸しているがゆえの崇高さ、光無き世界の輝きぶり、それを余すところ無く描き出す谷崎の怖ろしいまでの筆捌き。そら、こんなの書かれたら芥川なんか生きる気を失くすに違いないわね。もっとも本作発表の6年前に死んじゃってるけど(^_^;)
谷崎は大正12年に関西に移り、昭和5年千代子夫人と離婚し、彼女を佐藤春夫に譲る形になる。翌年古川丁未子と再婚しながら、関西豪商の妻、根津松子と相知り、8年の5月からは丁未子とは別居、直後の6月に発表されたのが本作で、翌9年3月から松子と同棲を始め、10月には丁未子と離婚、10年1月に松子と結婚である。(いやあ、年譜があると便利である) 波乱万丈の異性関係といって良いだろう。こういった抜差しが本作に何らかの影響を与えなかったわけはないだろう。しかし、それ以上に谷崎の関西弁、関西文化への理解の速さと深さ、自家薬嚢中のものとする力量には舌を巻かざるを得ない。
春琴の本名は鵙屋琴。鵙屋は大阪道修町の薬問屋だった。これを読んだ翌日にMorris.が偶然道修町辺りを歩き回ったのもあるいは、本作の目に見えない圧力があったのかもしれない。
使用人であり、弟子であり、側添いであり、愛人であり、保護者でもあった佐助が、自分で自分の目を潰した本当のわけも、春琴の顔に煮え湯を浴びせた犯人も動機も諸説を羅列しながら狙いは闇に葬らんとするかのような作者の筆の先に、実はすべてが、主人公二人の究極の共謀だったのではないかという疑いを覚えたMorris.だった。
この作品の文章の研ぎ澄まされ方は尋常ではないし、それについてはすでに、作品の数十倍、数百倍の量の論評があろうと思うので、Morris.は、型見本ならびに六十の手習いとして、鶯の段を引き写しておくにとどめる。ただし、新潮文庫は新仮名遣いになっているので、強引に旧仮名遣いになおしておくことにする。旧仮名遣いの間違いに気付かれた方は、ご教示ください。なおMSのIMEで出ない漢字は [ひらがな表記] にしている

女で盲目で独身であれば贅沢と云つても限度があり美衣美食を恣にしてもたかが知れてゐるしかし春琴の家には主一人に奉公人が五六人も使はれてゐる月々の生活費も生やさしい額ではなかつた何故そんなに金や人手がかかつたかと云ふとその第一の原因は小鳥道楽にあつた就中彼女は鶯を愛した。今日啼き声の優れた鶯は一羽一万円もするのがある往時と雖も事情は同じだつたであらう。尤も今日と昔では啼きごゑの聴き分け方や翫賞法が幾分異なるらしいけれども先づ今日の例を以て話せばケッキョ、ケッキョ、ケッキョ、ケッキョと啼く所謂谷渡りの声ホーキーベカコンと鳴く所謂高音、ホーホケキョウの地声の外に此の二種類の啼き方をするのが値打ちなのである此れは藪鶯では啼かない偶々啼いてもホーキーベカコンと啼かずにホーキーベチャと啼くから汚い、ペカコンとコンと云ふ金属性の美しいが余韻を曳くやうにするには或る人為的な手段を以て養成するそれは藪鶯の雛を、まだ尾の生えぬときに生け捕つて来て別な師匠の鶯に附けて稽古させるのであるが尾が生えてからだと親の藪鶯の汚い声を覚えてしまうので最早や矯正することが出来ない。師匠の鶯も元来さう云ふ風にして人為的に仕込まれた鶯であり有名なのは「鳳凰」とか「千代の友」とか云つた様にそれぞれ銘を持つてゐるされば何処の誰氏の家にはしかじかの名鳥がゐると云ふことになれば鶯を飼つてゐる者は我が鶯のために遥々とその名鳥の許を訪ね啼き方を教へて貰ふ此の稽古を声に附けに行くと云ひ大抵早朝に出かけて幾日も続ける。時には師匠の鶯の方から一定の場所に出張し弟子の鶯共がその周囲に集まり恰も唱歌の教室の如き観を呈する勿論個々の鶯に依つて素質の優劣声の美醜があり、同じ谷渡りや高音にも節回しの上手下手余韻の長短等さまざまであるから良き鶯を獲ることは容易にあらず獲れば授業料の儲けがあるので値の高いのは当然である。春琴は我が家に飼つてゐる一番優秀な鶯に「天鼓」と云ふ銘をつけて朝夕その声を聴くのを楽しんだ天鼓の啼く音は実に見事であつた高音のコンといふ音の冴えて余韻のあるところは人工の極致を尽した楽器のやうで鳥の声とは思はれなかつたそれに声の寸が長く張りもあればつやもあつたされば天鼓の取り扱ひは甚だ鄭重で食物の如きも注意に注意を加へさせた普通鶯の擦り餌を作るには大豆と玄米を炒つて粉にしたものへ糠を交へて白粉を精し、別に鮒や鮠の干したのを粉にした鮒粉と云ふものを用意して此の二つを半々に混じ大根の葉を擦つた汁で溶く中々面倒なものであるその他声をよくするためには[えびづる]といふ蔓草の茎の中に巣食ふ昆虫を捕つて来て日に一匹或は二匹宛(づつ)与へる斯くの如き手数を要する鳥を大概五六羽は飼育してゐたので奉公人の一人か二人はいつもそれに係りきりであつた。また鶯は人の見てゐる前では啼かない籠を飼桶といふ桐の箱に入れ障子を嵌めて密閉し紙の外からほんのり明りがさすやうにする此の飼桶の障子には紫檀黒檀などを用ゐて精巧な彫刻を施したり或は蝶貝を螺め蒔絵を描いたりして趣向を凝らし中には骨董品などもあつて今日でも百円二百円五百円などと云ふ高価なのが珍しくない天鼓の飼桶には支邦から舶載したといふ逸品が嵌つてゐた骨は紫檀で作られ腰に[らうかん]の翡翠の板が入れてありそれへ細々と山水楼閣の彫りがしてあつた誠に高雅なものであつた。春琴は常に我が居間の床脇の窓の所に此の箱を据ゑて聴き入り天鼓の美しい声が囀る時は機嫌がよかつた故に奉公人共は精々水をかけてやり啼かせるやうにした大抵快晴の日の方がよく啼くので天気の悪い日は従つて春琴も気むづかしくなつた天鼓の啼くのは冬の末より春にかけてが最も頻繁で夏に至ると追い追い数が少なくなり春琴も次第に鬱々とする日が多かつた。いったい鶯は上手に飼へば寿命が長いものだけれどもそれには細心の注意が肝要で経験のない者に任せたら直き死んでしまふ死ねば又代りの鶯を買ふ春琴の家でも初代の天鼓は八歳の時に死しその後暫く二代目を継ぐ名鳥を得られなかつたが、数年を経て漸く先代を耻かしめぬ鶯を養成しこれを再び天鼓と名づけて愛翫した。「二代目の天鼓も亦その声に霊妙にして迦陵頻迦を欺きければ日夕籠を座右に置きて鍾愛すること大方ならず、常に門弟等をして此の鳥の啼く音に耳を傾けしめ、然る後に諭して曰く、汝等天鼓の唄ふを聴け、元来は名もなき鳥の雛なれども幼少より練磨の功空しからずしてその声の美なること全く野生の鶯と異れり、人或は云はん、斯くの如きは人工の美にして天然の美にあらず、谷深き山路に春を訪ね花を探りて歩く時流れを隔つる霞の奥に思ひも寄らず啼き出でたる藪鶯の声の風雅なるに如かずと、然れども妾は左様には思はず、藪鶯は時と所を得て始めて雅致あるやうに聞ゆる也、その声を論ずれば未だ美なりと云ふ可からず、之に反して天鼓の如き名鳥の囀るを聞けば、居ながらにして幽邃閑寂なる山峡の風趣を偲び、渓流の響の潺湲たるも尾の上の櫻の靉靆たるも悉く心眼心耳に浮び来り、花も霞もその声の裡に備はりて身は紅塵万丈の部門にあるを忘るべし、是れ技工を以て天然の風景とその徳を争ふもの也音曲の秘訣も此処に在りと。又鈍根の子弟を耻ぢしめて、小禽と雖も芸道の秘事を解するにあらずや汝人間に生れながら鳥類にも劣れりと叱咤すること屡々なりき」成る程理屈はその通りであるが何かにつけて鶯に比較されては佐助を始め門弟一堂やりきれなかつたことであらう。

改行なしで、句読点も可能な限り節約してあるから(^_^;)、これだけを一息に読むのはかなりの難事だが、そこにまた谷崎の姿勢が伺われる。
この後、雲雀の段が1ページ半ほど続くのだが、まあ、このへんで勘弁しとこう(^_^;) ところで、途中、新潮文庫でも旧仮名遣いになってるぞ(@_@)。「」内の部分は、作品の元になったとされる冊子からの引用ということになってるらそのせいかな?

巻末の「文字づかいについて」という注意書きに

1.口語文の作品は、旧仮名づかいで書かれているものは新仮名づかいに改める。
2.文語文の作品は、旧仮名づかいのままとする。


と書いてあった。うーん、本作の場合、地の文は口語文だから、新仮名づかいにするが、作品中に引用された資料は文語文だから旧仮名づかいのままということか、落ち着かないなあ、うーーん、それの是非はともかく、谷崎のかくも格調ある文体なら、やはり旧仮名遣いの方が似つかわしいとMorris.は思うぞ。
一向に作品論にならないが、きっとMorris.には出来ないのだ(^_^;) でももうちょっと谷崎読み続けてみる。


08022

【東京DOLL】石田衣良 ★★★ RPGゲームの企画家MGがコンビニで見つけた少女ヨリをゲームモデルに使う中で、恋人裕香との軋轢、自分のゲーム会社メンバーとの葛藤、大手企業の勧誘、例によって現実離れした展開だが、相変わらず小洒落た語り口と小道具使い倒して彼お得意のプラスチックワールドを繰り広げている。ストーリーより細部の決め場面を構成することが、この作家の真骨頂で自分でその出来に陶酔してしまう傾向があるようだ。MGの住居。

建築家の演出どおりだった。暗く狭い廊下といきなり広がるリビングと湾岸の風景。ヨリは乱れた浴衣で、二段重ねになったアルミサッシの窓に駆け寄る。レインボーブリッジは漂白された恐竜の背骨のようだ。夜空にライトアップされ浮き上がっている。天井の高さは5メートルほど。広さは四十畳ある。ちいさな劇場やスタジオのような部屋だ。

まあこんな部屋に住み、高級車を乗り回し、高価なファッション、高価な食事、高価な?セックスを楽しむ登場人物たちだが、やはりゲームのキャラクタに見えてくる。おしまいは、ヨリの強面の恋人の船の中で4人が相対して結局MGがヨリを取り戻すことになるのだが、MGの彼女への形容が「愛する人形」で終わるところが本作の全てを象徴しているようだ。
作中、カナダ大使館地下の超高級会員制クラブでの場面、

無人のロビーの階段をおりる。厚い絨毯を踏んで、開いたままの扉を抜けると、受付カウンターの前に中年の外国人が立っていた。ブラックスーツにブラックタイ。なめらかな日本語でいう。
「いらっしゃいませ」
克己はうなずいていった。
「エッジ・エンターテインメントの廣永さんと約束しているんですが」
男は一瞬で全く敵意がないという歓迎の笑顔をつくった。外国人の特技だとMGは思う。


この「外国人」という単語の用い方に違和感を覚えた。ちょっと前なら「外人」だったかもしれないが、どちらにしろ「外国人」といえば、日本人以外という意味だろう。そのなかで「外国人の特技」というのはあまりに大雑把な表現ではなかろうか?仮にこれを「外国語の特徴である」などと置き換えてみると、そのおかしさがはっきりするだろう。それとも石田の中で「外国人」ということばに別種のコードがあるのかな。言葉狩という言葉こそMorris.の嫌悪するものだが、使い方に気をつけるべき言葉であることは間違いないだろう。


08021
【日本名歌選】久保田正文編 ★★ 先般「つの笛」の階段で買った百均本で、学生社新書昭和31(1956)発行となっている。記紀歌謡から近代(太平洋戦争直後)までの和歌、短歌を250首選び(実際には解説内で引用してる歌がほぼ同数ある)、2、300字くらいの簡単な解説を付してある。
記紀歌謡、万葉集、八代集をそれぞれ章立てして、あとは中世、近世、近代でくくるというのもなかなか大胆な方針だし、Morris.もひさしぶりに日本の歌をひとわたり眺めるのもよかろうと思い、枕元において、少しずつ読みついで、やっと読み終えたところ。
よく言えば個性的、悪く言えば非常に偏った選歌、解説のオンパレードだった。特に近代短歌の選び方には疑問を感じるところ多かった。古典でも、万葉を評価し、古今、新古今を貶める傾向は、当時の歌壇の「常識」だったかもしれないが、時にはそれが行き過ぎてるところが多い。

五句三十一音という、まことに小さくはかないものではあるが、そのかたちを基本的にまもり、そのかたちに独特な詩的発想様式を見出し、それを磨きながら短歌は成長してきた。この独特な詩的発想法を理解することができれば、その形を目安におかないでも、真実に短歌的なものと、そうでないものとの姿はおのずからあきらかになる。歴史的な展開のすがたと、その歴史的な各段階に応じて、さまざまにいろどりを変えながら、しかも一貫して通じている内在的な短歌としての格調。この二つの要素の組みあわせが、短歌とは何か? あるいは短歌をいかに理解し、いかにあじわうか? などという、原理的な問いにこたえるために、必要にして充分な条件である。
この書物が、そういう要求にこたえるためのひとつの役割をはたすことを、筆者としては、ひそかに信じ、あきらかに願っている。

まえがきからの引用である。ちょっと噴飯ものの悪文であるのは措くとして、「詩的発想様式」「内在的な短歌としての格調」「原理的な問い」的な(^_^;)、こなれの悪い用語は何とかならんものかと思ってしまう。
とはいえ、500首あまりの歌が引用されてるので、中にはMorris.がこれまで知らなかったり、あまり親しまないでいて、改めて琴線に触れる歌が無かったわけではない。
適当に引いておく。

・しるしなき物を思はずは一杯の濁れる酒を飲むべくあるらし 大伴旅人
・相思はぬ人を思ふは大寺の餓鬼のしりへに額づくごとし 笠女郎
・うつくしと吾が念ふ妹は早も死ねやも生けりとも吾に依るべしと人の言はなくに 柿本人麻呂
・敷島の山跡の国に人二人ありとし思はば何か嘆かむ 読人不知
・蓮葉の濁りにしまぬ心もてなにかは露を玉とあざむく 遍昭
・最上川のぼれば下る稲舟のいなにはあらずこの月ばかり 東歌
・思ふ人ありとなけれど故郷はしかすがにこそ恋しかりけり 能I因法師
・あはれあはれこの世はよしやさもあらばあれ来む世もかくや苦しかるべき 西行
・思ひそめき四つのときには花の春はるのうちにも明ぼのの空 藤原為兼
・のちの世のなほまたの世のすゑの世も生れて死なむ人ぞ悲しき 契沖
・見し世にはただなほざりの一言も思ひ出づればなつかしきかな 村田春海
・思はざる見ざる聞かざる言はざるもかかはらざるに勝らざるらむ 八田知紀
・杯に散り来もみぢばみやび男の飲む杯に散り来もみぢ葉 平賀元義
・若葉さすころはいづこの山見ても何の木見ても麗しきかな 橘曙覧
・山にして立てれば海は広く見ゆ広きがままに淋しかりけり 尾上柴舟
・真砂なす数なき星の其中に吾に向ひて光る星あり 正岡子規
・馬追虫の髭のそよろに来る秋はまなこを閉ぢて思ひ見るべし 長塚節
・いらだたしもよ朝の電車に乗りあへるひとのことごと罪なきごとし 斎藤茂吉
・男あり渚に船をつくろへり背にせまりて海の輝く 若山牧水
・うすべにに葉はいちはやく萌えいでて咲かむとすなり山櫻花 和歌山牧水
・向日葵は金の油を身にあびてゆらりとたかし日の小ひさきよ 前田夕暮


500首から21首というのはあまりに少ないが、もちろんMorris.周知の歌は省いてるし、八代集では百人一首の歌がやたら多かったのであまりみるものはなかった。近代にいたっては、わざわざ駄作、問題作(悪い意味での)ばかりを集めてる観すらあった。
解説も先に書いたように、異常に偏ったものが多かった。たとえば上に引用の橘曙覧作について

このうたなども、勅撰集二流歌人などの胸くそのわるくなるような、もってまわって手垢によごれたようなうたいぶりの自然詠とは比べものにならぬ素直さと品位と感情の流露をたたえているが、曙覧自身の作品の系列のなかにおいてみると、この詩人はやはり山川草木をうたうよりは、人間くさいうたの方にはるかに本領があったことがわかる。

だと(@_@)。ここまで腐された勅撰集の二流歌人たちも可哀そうだが、素直さはいざしらず、この作のどの辺に品位があるのか? Morris.には理解できない。
近代篇に取り上げられた歌の解説の中からランダムに、その歌へのマイナス評価の部分を抜き出してみる。作者名は敢えて伏せておくこう(^_^;)

・題材は新しいがうたいぶりはまったく古い
・文学的には低いものに過ぎぬが
・難解で意味のとりかねるようなものがある
・自分の作家(作歌?)の歴史から抹殺したいと願うほどのものかもしれない。にもかかわらず、ここにそれを取り出す理由は、単なる意地わるさからではない。後年の、静謐な美しさへ到達する過程に、こういう作品をも実験する一時期が経過されていることを見すごさぬほうがよいとわたしが信ずるからである。
・○○もこういううたをつくっていたことは、○○の不名誉としてではなく記憶されてよいことである
・格別すぐれた作というほどではないが
・作品自体はそれほどすぐれたものではなかった


おいおい、自分がこんな風に評価する歌を、たかだか250しかない「名歌選」に選ぶかよ。「単なる意地わる」より、よっぽど迷惑な「余計なおせっかい」ぢゃないのかい。


08020

【細雪】谷崎潤一郎 ★★★☆☆ 言うまでもない、谷崎の代表長編の一つ、と、言っても実はMorris.はほとんど谷崎読んでない。「文章読本」と「陰翳禮讚」はとりあえず読んだし、学生時代に辻潤絡みで「鮫人」読んだはずだが、こちらは印象薄い。
何で今さらこんなのを読んだかというと、灘図書館の本棚で見かけて、何気なくぱらぱらと開いたら、のっけから大阪弁の姉妹の会話、それも「こいさん」が出てくるわ、突然三女雪子の見合い話で相手が神戸海岸通のビルディングに勤める男だし、テンポよくとんとんと話が進んで、これからどうなるんだろうと、止められなくなって借りてきたというわけだ。
太平洋戦争中の1942年(昭和17)から「中央公論」に連載を始めるが翌年軍部から、戦時にそぐわないとして掲載を停められ、谷崎は私家版作ったりしながら、結局戦後昭和23年に完結させた。
物語の時代設定は昭和10年代前半で、神戸の大水害が物語の大きなエピソードにもなっている。
Morris.が読んだのは1998年(昭和63)発行の中央公論社版、菊判よりやや縦長の950pもある上中下一冊本でいかにも大谷崎(^_^;)の傑作でございますといった装釘。文字もちょっと大きめ、行間もゆったりして、老眼のMorris.の目にも優しい。ストーリーの中心は雪子の見合いとこいさん妙子の色恋沙汰だが、4人姉妹(実際は長女は蚊帳の外)の悠揚として迫らぬ贅沢な日常生活が眼目である。Morris.はひさびさに小説を読む楽しさを思い出させてもらったよ。一気に読むのがもったいなくて、卓袱台に書架置いて、ちびちびと10日近くかけて読了。うーーん、やっぱり谷崎って只者でなかったんだ。
戦時下の発表禁止というと、思想的な、社会主義、反戦主義絡みかと思われるのに、この細雪の場合は「奢侈」に過ぎるというのがその理由だったらしい(^_^)。まるで天保の改革の為永春水みたいである。
あの時代にこそこういった夢物語が希求されただろうことは想像に難くないんだけど、当時の日本の軍部なんてそのへんの機微にはとんと疎かったにちがいない。
それから半世紀以上を閲してMorris.が面白いのはその奢侈な部分に他ならない。奢侈といっても、単に贅沢三昧とは違って、「通」「粋」「薀蓄」に通じるもので、たとえば、神戸の「与兵」という寿司屋での場面。

もとこの親爺は、今はなくなったが明治時代に有名であった東京両国の与兵衛で修行した男なので、「与兵」という名はそれに因んだのだそうであるが、鮨そのものは昔の両国の与兵衛とは趣を異にしていた。それというのが、親爺は東京で修行したものの、生まれは神戸の人間なので、握り鮨ではあるけれども、彼の握るのは上方趣味のすこぶる顕著なものであった。たとえば酢は東京の黄色いのを使わないで、白いのを使った。醤油も、東京人は決して使わない関西の溜を使い、蝦、烏賊、鮑等の鮨には食塩を降りかけて食べるようにすすめた。そして種は、つい眼の前の瀬戸内海で摂れる魚なら何でも握った。彼の説だと、鮨にならない魚はない、昔の与兵衛の主人などもそういう意見だったというので、その点では彼は東京の与兵衛の流れを汲んでいるのであった。彼の握るものは、鱧、河豚、赤魚(あこう)、つばす、牡蠣、生うに、比目魚(ひらめ)の縁側、赤貝の腸(わた)、鯨の赤身、等々を始め、椎茸、筍、柿などにまで及んだが、鮪は虐待してあまり用いず、小鰭(こはだ)、はしら、青柳、玉子焼等は全く店頭に影を見せなかった。種は煮焼きしたものも盛んに用いたが、蝦と鮑は必ず生きて動いているものを眼の前で料理して握り、ものによっては山葵の代りに青紫蘇や木の芽や山椒の佃煮などを飯の間へ挟んで出した。

いまどきのグルメ雑誌のライターが即パクりたくなりそうで、できそうにない筆捌きである。
もう一つ三姉妹が毎年楽しんだ京の花見の行程。

京都に限ったことはないのだけれども、鯛でも明石鯛でなければ旨がらない幸子は、花も京都の花でなければ見たような気がしないのであった。去年の春は定之助がそれに反対を唱え、たまには場所を変えようと云い出して、錦帯橋まで出かけて行ったが、帰ってきてから、幸子は何か忘れ物をしたようで、今年ばかりは春らしい春に遇わないで過ぎてしまうような心地がし、また貞之助を促して京都に出かけて、ようやく御室の厚咲きの花に間に合ったようなわけであった。で、常例としては、土曜日の午後から出かけて、南禅寺の瓢亭で早めに夜食をしたため、これも毎年缺かしたことのない都踊を見物してから帰りに祇園の夜桜を見、その晩は麩屋町の旅館に泊って、明くる日嵯峨から嵐山へ行き、中の島の掛茶屋あたりで持ってきた弁当の折を開き、午後には市中に戻って来て、平安神宮の神苑の花を見る。そして、その時の都合で、悦子と二人の妹たちだけ先に帰って、貞之助と幸子はもう一晩泊ることもあったが、行事はその日でおしまいになる。彼女たちがいつも平安神宮域を最後の日にのこしておくのは、この神苑の花が洛中における最も美しい、最も見事な花であるからで、圓山公園の枝垂桜がすでに年老い、年々に色褪せて行く今日では、まことにここの花を措いて京洛の春を代表するものはないと云ってよい。されば、彼女たちは、毎年二日目の午後、嵯峨方面から戻って来て、まさに春の日の暮れかかろうとする、最も名残の惜しまれる黄昏のひと時を選んで、半日の行楽にやや草臥れた足を曳きずりながら、この神苑の花の下をさまよう。そして、池の汀、橋の袂、路の曲がり角、廻廊の軒先、等にあるほとんど一つ一つの桜樹の前に立ち止って嘆息し、限りなき愛着の情を遣るのであるが、蘆屋の家に帰ってからも、またあくる年の春が来るまで、その一年じゅう、いつでも眼をつぶればそれらの木々の花の色、枝の姿を、眼瞼の裡に描き得るのであった。

いやいや、何と言う贅沢、優雅であることよ。そして谷崎の筆先には魅せられてしまう。

主人公雪子(タイトルからしてそう断定してもかまわないだろう)の、見合い相手や、こいさん妙子の恋愛相手の主人公側の評定ぶりは、先般読んだばかりの美奈子さんの「冠婚葬祭の秘密」に書かれていた「結婚の差別体質」が色濃く反映されている。雪子の見合相手の母が精神病だったということがすんでのところで判明したり、こいさんの恋人板倉が医者のミスで死にいたり、姉らがほっとする場面などがそうだが、読者であるMorris.が、ここで、姉妹といっしょにほっとしてしまったりする(^_^;)ところも、谷崎の手管なんだろうな。
とにかく、この作品のストーリーは単純なもので、それを読む側には興味津々と思わせるところが、すごい。「大説」でなく「小説」であるからこその美点を最大限に発揮させる手腕、といったものがある。シャンソンの名歌手はメニューを読んでも、周りの人に感涙をこぼさせる、という手垢のついた比喩を援用すれば、谷崎の筆にかかると、箸にも棒にもかからないようなスノビズムすら、中世の絵巻物のように描き出されるとでもいうべきか。
よし、しばらく谷崎作品読んでみよう。


08019

【事変の夜 満州国演義2】船戸与一 ★★★ 去年11月に第1部を読んだのだが、あまりに未消化という気分を持ったまま、続編に期待と書いたのだが、この続編も同様のつかみ所の無さを感じながら読了した。それでも前回よりは敷島家の4人兄弟の動きもわかりやすくなったし、それぞれの満州事変後の大陸での役割分担がはっきりしてきたようだ。
タイトルでもわかるように本篇は、1931年の柳条湖事件(柳条溝事件というのは誤記らしい)を中心に展開する。もちろん「柳条湖事件=満州事変の始まり」といえるだろう。
例によって、節ごとにめまぐるしく4人兄弟の物語が交代するのでMorris.は読むのに骨が折れたが、とりあえず4人兄弟の名前がわかりやすい(太郎、次郎、三郎、四郎)しのは助かる。各節のはじめにたいていそのうちの誰かの名前が出てくるからどの兄弟の話かは迷わずに済む。
長男の外交官は別として残りの3人は見事に関東軍の熱血憲兵になったり、うまく利用されたりすることになっている。
あとがきで、本作執筆の基本姿勢に触れてあったので引用する。

筆者は昭和19年の生まれで飢餓体験はあっても戦争の記憶はもちろん、中国で9・18(チュウイーパー)と呼ばれる満州事変前後の事情となるともはや遥かな過去でしかない。したがって執筆にあたってはすべて資料に頼った。小説は歴史の奴隷ではないが、歴史もまた小説の玩具ではない。これが本稿執筆の筆者の基本姿勢であり、小説のダイナミズムを求めるために歴史的事実を無視したり歪めたりしたことは避けてきたつもりである。
また本稿執筆に当たりこれまで隠されて来た事実や埋もれていた資料を発掘しようという努力は一切して来なかった。使用した資料はすべて市販されているか、品切れの場合は図書館で見つけ出せるものだ。


以前から様々な形で展開されている「歴史小説」の史実と物語性(虚実)の兼ね合い論で、船戸は特に変わったことを言ってるわけではないのだが「小説は歴史の奴隷ではないが、歴史もまた小説の玩具ではない」という言い回しは、なかなかかっこいい、と思ってしまった。こんなにかっこいい台詞を決めるだけの力があるのに、本作品の中ではこれを超えるほどの表現にぶち当たらないのが、物足りないとでも、言っておこうか。
柳条湖事件(船戸は柳条溝事件と表記)の起きた当日の場面で満鉄に勤める登場人物に、まだ事件の勃発する以前の太郎への電話で「ただこれはわたしの予感に過ぎんのだがね。昭和6年9月18日。きょうというこの日は日本の歴史、いやアジア全体の歴史にとって決定的な転換点となるような気がする」などと言わせているが、これこそ、後世の視点を登場人物に持ち込むやりかたのように感じる。
Morris.が大嫌いな「手をこまぬく」表現(370p)が出てきたのも評価を落とすのに貢献してる(^_^;)と言えなくも無い。
満州国建国の3月1日に本書を読み終えたというのは、やや作為的であるとしても、何らかの意義があるということにしておこう。もっとも、本篇は満州国建国前夜で終わっているけどね。


08018

【冠婚葬祭の秘密】斎藤美奈子 ★★★☆ 「戦時下のレシピ」に続く?美奈子さんの近代庶民史啓蒙書シリーズで、Morris.としてはどちらかというとちょっと苦手なジャンルかもしれない。結論から先に言うと、あまり面白くはなかった(>_<)

第1章「冠婚葬祭の百年」
1.明治の家と冠婚葬祭
2.昭和の結婚と優生思想
3.『冠婚葬祭入門』とその時代
4.少婚多死の時代を迎えて
第2章「いまどきの結婚」
1.今日的ウェディング狂想曲
2.結婚式に招待されたら
3.多様化する結婚の形
4.変容す通過儀礼
第3章「葬送のこれから」
1.現代葬送の基礎知識
2.死の準備はどこまで必要か
3.身近な人の死に際して
4.遺骨のゆくえ、墓のゆくえ


シンプルな三部構成で、小見出しにもいつもの美奈子節が見られない。やっぱり真面目な著作ぶってるのか、岩波側の方針のせいだろうか。
もちろん、美奈子さんが転んでもただで起き上がることはない。
次のような鋭い指摘もある。

近世を引きずった迷信と、近代の名を借りた優生思想。
今日、結婚が差別を生む装置だと考える人はあまりいないかもしれない。
しかし、ちょっと前まで(まさか今もということはないと思いたい)、結婚はあからさまな差別選別の道具だった。身内に病者や障害者がいるとか、被差別部落の出身だとかいう理由でか結婚を反対されたカップルの話を、あなたも聞いたことがあるはずだ。


戦後、消滅するかと思われた「家制度」が中途半端ながらも現在まで残ってしまった原因の一つに「恋愛結があるのではないか」という視点なども、いかにも美奈子さんらしい。

恋愛結婚率が見合い結婚率を抜くのは1960年代の後半だ。それはいかにも結婚の民主化っぽいけれど、本当にそうだったのか。
恋愛結婚とはなんだろう。その実態は、職場結婚、紹介結婚、学校結婚の三つである。出会いのきっかけを問うアンケート調査では、「職場や仕事」関係、「友人・きょうだい」の紹介、「学校で」が上位を占める。恋愛結婚は、男女共学の学校と、男女共遊の地域社会と、男女共働の企業社会の形態だ。たしかに彼や彼女は自分で相手を選んだ。でもね、好きで結婚するっていうことは「あばたもえくぼ」「恋は盲目」なんですよ。
恋愛結婚の時代には、[家」のかわりを「愛」が果たしたのではなかったろうか。「愛している」から彼女は仕事をやめて家庭に入り、「愛している」から姓を変え、「愛している」から夫の親の赴任先についていき、「愛している」から夫の親の介護をした。もう何もかもが「愛」ゆえで、しかし、結果的に彼女の役目は昔の「嫁」と同じだった。


鮮やかな切り口である。この後予想される反論への反論もきっちり押さえてある。
いまどきの結婚式のトレンドである、「招待客に楽しんでもらう式」への突っ込みこそは、待ってました!である。

「お楽しみください」なんて、プロの芸人さんでも、ほんとは口にしないのね。「お耳汚し」(お目汚し)ですが、しばらくの間、ご辛抱ください」っていうのね、古いタイプの芸人さんは。と文句をいっても誰も聞きゃあしないだろうが(しかし、このくらいのこと身近な大人がいってやってもいいと思う、嫌われるだろうけど)、結婚式で本人以上に「盛り上がって」る人はいないということは一応知っておきたい「常識」である。大切な彼や彼女のお祝いだと思うからこそ、参列者は万障繰り合わせて「出てあげている」のである。
どれほど演出が優れていても、アットホームな雰囲気でも、結婚式は疲れる。どんなに二人を祝福していてもそうなわけ。結婚は「性と生殖の社会化」だから、そもそも小っ恥ずかしいものなのだ。そこんとこだけ、どうぞお忘れなく。


ぎゃはは(^_^) 本編全部このタッチでやって欲しかったぜ。
本書をMorris.がいまいち面白くないと思ったのは、冠婚葬祭そのものへの関心の低さ、特に「結婚」との無縁(^_^;)、「葬儀」に対する「三猿=故意の無関心」方針ということもあるだろう。
葬式というか自分の死に関しては無縁とは言えないどころか、どんどん近しくなってるが、出来ることなら無縁仏を願いたい。300万円かかる(らしい)「世間並みの葬儀)」なんてハナから考えてもいないし、それだけの金があるなら幾らでも他に使い途はあると思う。ただ「野垂れ死に」に関する美奈子さんの「引導」は肝に銘じておきたい。

世の中には「オレの理想は野垂れ死にだから」みたいな願望を口にする人が、意外に多い。ご立派な心がけである本人はカッコイイ死に方のつもりだろうが、「野垂れ死に」でも誰が(「誰かが」の誤植?)後始末をするのだ、ということは覚えておいていただきたい。
「野垂れ死に」を避けるには、万一の事故に備えて身元が確認できるものを身につけておくことが必要だろう。それでも「野垂れ死に」したい? それならせめて火葬費用相当の現金(20万円くらいね)をポケットに入れて死になはれ。


ぎゃはは(^_^) 何でおしまいが大阪弁やねん、という突っ込みはともかく、この言葉はMorris.には実に的を射た発言と思えた。
この発言にも出てくる「火葬費用」というのは、ちょっと前に説明してある、現在日本で一番簡略+廉価な死後処理の方法で、Morris.が死んだら、是非このやりかたをお願いしたい。「直葬」「密葬」とも呼ばれるらしいし、最近では葬儀社でも「火葬プラン」などと名づけて取り扱ってるところもあるらしい。

1.役所に死亡届を出して火葬許可証をもらい、その場で火葬場の予約をする
2.葬儀社に頼み、寝台車で遺体を自宅か火葬場に搬送する(火葬場には霊柩車でないと入れない決まりがあるが、自宅に搬送するならバンなどのマイカーでも可)
3.その晩は自宅でゆっくりお別れをする。火葬場の保管庫などに遺体をあずかってもらうなら、送る側はいったん帰宅する。
4.翌日、火葬炉の前で棺に花を入れるなどして短いお別れをし、火葬にして収骨する。


これだとざっと20万円くらいで納まるらしい。おお、これは良い(^_^;) 最後の「収骨」を省略するということで、このやりかたに準じるようお願いしておく→春待ち社長(^_^;)
何とか20万円だけはどこかに隠しておくか、別口で郵便貯金にでも入れておこう。
いやいや、さすが、美奈子さんの本である。面白くはなくとも、Morris.には実に有用なノウハウ本となってくれたようだ(^_^)


08017

【古書狩り】横田順彌 ★☆ 古書にまつわる9編の短編が収められている。著者は「SF古典こてん」などSF、冒険ものの古書収集家、研究家として知られているし、テーマが古書なら面白かろうと、読み始めたのだが、なんぢゃこれは?と思ってしまった。それも最初の作品だけでなくどれもこれもがそうである。へボ筋、間抜け落ち、見え見え伏線、キャラずっこけと、要するに「小説以前」のしろものだった。
突然悪魔に魂を売る話になったり、安易にパラレルワールド住民が出てきたり、宇宙人とセックスでエネルギー交換するとか、SFと突飛とを混同してるきらいもあるし、文章が中学生レベルだと感じてしまった。
まあ、これと並行して谷崎の「細雪」なんか読んでたのが、作者にとっては身の不幸だったのかもしれないが、よくもまあ、こんなものを刊行したものだと呆れてしまった。90年から93年にかけて雑誌に発表したものらしいが、15年前の作品だからといって、言い訳になるものでもあるまい。


08016

【すべては夜明け前から始まる】李和馥(イファボク)著 金井修省訳 ★★★ 「李明博の心の軌跡」「大韓民国 CEO 実用主義の大統領」などの副題が踊っている。
「李明博の心の軌跡」実はこの本、数日前に出版社からMorris.宛に郵送されてきたものである。未知の方から、本書を送りたいので住所を知らせるようにというメールをもらった。発行所「現文メディア」というのは初耳だが、同社の最初の本らしい。
Morris.部屋を見ていて、本書を送ろうと思ったと書いてあったが、多分2月に新長田図書館から借りた「ソウル大改造-都市伝説」のことが、ネット検索でひっかかったものと思われる。そこで、Morris.が李明博に一定の評価を与えてたのも送られてきた理由の一つかもしれない。
それはともかく、韓国新大統領に関する本を続けて2冊も読むというのはこれまでになかったことで、それだけでも、彼のインパクトの強さが量り知られる。
本書の著者は元東亜日報記者で、李明博との会話、インタビューを整理したものなのに「彼の声を生々しく伝えるために、一人称形式の文章で編集し」たとある。これが、最大の失敗だったかもしれない(>_<)。ゴーストライターが書いたとしても、著者が当人の名前なら、それなりに読む方も主人公の声として聴くことが可能だ。それが、別人が当人に成り代わって一人称で書くというのは、小説ならともかく、こういったメッセージ本では坐りの悪いことこの上ない。
前に読んだ本は、いちおう当人の著書となってたし、これまであまり知らなかった彼の経歴や考えも汲み取ることができた。
本書だと、全てがオブラート越しの作りものに見えてしまう。
いっそ、インタビューなり会話なりを、著者なりに再構成して、李明博伝なり、李明博論なり、李明博への期待なりで一本を作ったら、こんなことにはならなかっただろう。
ただ、本書がまるで読むに値しないつまらない本だったというわけではない。
何故か発売が理論社というのと、関係あるのかどうか、ハードカバーの硬そうな装釘とは逆に本文は大きめの文字で、邪魔にならない二色刷りになっていて、読みやすかった。そしてところどころに挿入されているキムニョンマンという人の写真が実に味わい深いものだった。本書はいわば、李明博のソフト・プロパガンダ本といえるのかもしれない。そういう意味ではなかなか良く出来た本かもしれない。
「私の母」「父の知恵」「希望の手紙」という三部構成で、最初の2章は、貧しかった少年時代の思い出と両親の教えを、これでもかというくらいに語りおろした雰囲気で、その割りに事実関係は曖昧にぼかされてるようで、もどかしい思いをさせられた(たとえば、彼が日本で生まれた事実などは故意にぼかされている)。
最終章でようやく、彼の政治姿勢や経済論、今後の方針などに触れられていて、いろいろ良いことを言ってるようなのだけど、どうしても上っ面としか見えないのは、Morris.のひが目だろうか。

21世紀の国家競争力は"情報化"と"文化"が核心をなすことでしょう。ナノ技術や生命工学を越えた次世代の技術、未来の韓国を導く動力たる、科学と文化が結合した技術が何なのか、考えてみなければなりません。
この時、私たちが世界の変化する速度に合わせて変化するならば、それは既に変化ではありません。速度の時代を超える挑戦によって変化しなければなりません。ただし、産業化時代が情報化時代という形態に変わりましたが、正直と情熱、挑戦という企業家精神は、昔も今も変わりません。
変化とは難しいものでしょうか。そうは思いません。詰まったものが通じるように、対応する柔軟性、相手との信頼関係速度の時代を迎えて迅速に処理する推進力、目標に向かうチャレンジ精神があるならば、いくらでも可能だと思います


間違ってはいないと思うぞ。でもmmmmmmという感じはどこからくるのだろう?
そして、懸案の南北の未来に関しては、

人は誰でも進歩的になり得るし、保守的にもなり得るのです。自分自身を保守的と考えている人も、時には進歩的なことを行い、反対に進歩的な性向の人が保守的な業務を、上手に行うこともあるのです。
進歩対保守に分けるのは、過去の古い時代の産物であり、人為的な分類に過ぎません。東と西に分け、、理念を分けることは、一時的には支持を得るかもしれませんが、とても消耗的な戦略なのです。
世界は既に、本格的な多元化時代に足を踏み入れました。私たちの社会が多様性を認める民主主義の価値を嗜好する以上、分裂と葛藤の時代、これは多様な価値が共存する社会であることを物語る、コインの両面のようなものです。
分裂のための葛藤なのか、発展のための葛藤なのか、この点を考える必要があります。結局解体と和合を見つめる視点の違いなのです。さらに私たちには、避けて通ることのできない問題、南と北の葛藤と統一の念願も残っているのです。
南北関係は、民族的な立場での単独解決は不可能であり、多国的問題であるために、適切な国際協力を維持し、国民的な情緒を考慮し、安保問題に接近しなければなりません。


結局、「多国的状況」とか「国際協力」とか「情緒」とか、を絡めて、これは「逃げ」を打ってるようにしか思えない。
また「独島 竹島」問題については、これはもう、抽象的な精神論というしかないだろう。

独島(竹島)は韓半島なので、私たちに大切な島であるということは誰でも知っています。面積と大きさで測ることのできない民族の力が、茫々たる大海の独島に向かって走っています。その点で、独島は単純に島以上の価値をもっているのです。
海の上に浮かぶ独島を見ながら、私たちはその下に広がる独島の無窮無尽の潜在力をも一緒に見ています。直ちに目に見える利得以上の、'未来'として、より韓半島に大きな影響を及ぼすことでしょう。

Morris.としては他でもない彼の大統領就任の日に本書を読んだということだけで、彼にエールを送ったつもり(そうは見えないかもしれないが)だった。
久しぶりの「保守派」大統領ということで、反射的に嫌悪感を露わにしたり、反対を唱える人もいるようだが、とりあえず、これからの彼の動きには注目して行きたいし、期待もしたいと思う。


08015

【和箪笥】NHK美の壷 ★★☆ 教育TV金曜夜に放映されているシリーズをブックレット化したもので、現在10点ほど出ているらしいが、70pで半分が図版となると、ほとんど読むところも無く、単に番組のカタログみたいなものでしかなくなるようだ。発行側からは番組のキャッチフレーズである「アート鑑賞マニュアル」を流用しているが、どうもよく分からない。
特に和箪笥に興味や関心があるわけではないが、引越し梱包やるときの参考にでもなればと思って借りてきた。ほとんど参考にもならなかったが(^_^;)、箪笥の歴史が意外と新しい(元禄以降)ということや、「玉杢(たまもく)」「錺(かざり)」の訓読みを知ったことくらいが裨益と言えなくもないか。
塩野谷博山という人の文にある「箪笥の語源説」には、首をかしげてしまった。

「箪笥」は古くは「たんじ」と呼ばれ、ハングルでは壷を表し、塩たんじとか味噌たんじといったようである。言い換えれば「入れ物」を指している言葉であることは間違いなく「単笥」に竹冠をつけると「箪笥」になるが、大切な物を入れた箪笥は災害時の非常持出しであり、また嫁入り道具でもあったので、竿通し金具によって竹竿で担いで運んだことから単笥に竹冠がつき「箪笥」となったわけである。

竿で担いだから数え方が一竿、二竿となったというのは周知の事実(普通は棹の字を用いる)であるが、「箪笥=タンジ(朝鮮語の「壷」)説」には、何か根拠があるのだろうか?
現在の朝鮮語で「箪笥」を表す単語は「オッチャン オッ(衣服の固有語)[木+蔵]」「チャンノン [木+蔵]籠」の二つが一般的である。
「小さな甕や壷」を表す朝鮮語の「タンジ」は固有語で漢字は無い。
「大言海」では、礼記の「箪笥盛飲食者、圜曰箪、方曰笥」や節文の「笥、飯及衣之器也、箪、笥也」等を引いている。
ネットで見た中では、担ぐものと言う意味で「担子」と書かれ「たんす」と呼ばれたことからきたという説が複数アップされている。
ざっと見て、塩野谷説に類似したものは見当たらなかったが、どうなのだろう。「単笥」という漢字語が突然出てくるのがよくわからないし、「ハングルでは壷を表す」という表現もちょっと変だし、おそまつな民間語源説の典型のような気がするのだが……


08014

【ラ・ロンド】服部まゆみ ★★★ わざわざ「恋愛小説」と銘打たれている。「父のお気に入り」「猫の宇宙」「夜の歩み」という中篇3作が収められていて、長編好みのMorris.は、ちょっと残念だと思った。ところが1作、2作で、全く違う作品と思わせておいて3作目で両方の登場人物が交錯し、複雑に絡み合って終わるという仕掛けがあった。タイトル「ロンド(輪舞)」がつまりそれを表していたわけである。彼女らしい衒学趣味とエキセントリックなキャラクタ、演劇や舞踏や抽象画、宇宙の涯、近親相姦等などてんこ盛りの凝った作品、といいたいところだが、読後感はいまいちである(^_^;)
登場人物にMorris.が惚れこむキャラがいなかったし、彼女の前の作品から感じた「凄み」が抜け落ちてるためだろう。
この前読んだ金井美恵子の「快適生活研究」に通じるつまらなさ(わかりにくいかも(^_^;))を感じてしまったということになる。


08013

【Kの日々】 大沢在昌 ★★★ 「女の描けない大沢」と、Morris.がしつこく言ってるのに反発してなのか(んなわけはなかろうが)、大沢もしつこく、女性をテーマにした作品を書き続けている。以前に比べると努力の後が見える、と、これもちょっと前の作品の感想に書いたが、本作も同じ穴の狢?であった(^_^;)
3年前の暴力団組長誘拐身代金を巡って、元警察官の裏探偵、組長の息子、事件の実行犯の元組員、死体処理組織の2代目、身代金を持ち逃げして殺された黒孩子の中国人、そして中国人の恋人だったKという本作のヒロインが登場するわけだ。
彼女は身代金を隠している疑いで複数から標的にされるが、彼女に惹かれた裏探偵が陰に日向に彼女のために動き回るという、筋立てとしてはいかにも作り物のストーリーで、これが後半では、敵対する陣営同士が一堂に会して事件の真相を探りあうという、まるでゲーム感覚の展開まで用意されて、まともに読むと腹が立つ仕掛けになってた(^_^;)
そこはそれ当代一のエンターテイナー作家(前作の著者紹介)だけに、はらはらどきどきさせる場面の連続、暴力団、警察の裏情報、ほどほどのユーモアもまぶして、それなりに読者を楽しませてくれる。
しかし、やっぱりこのヒロインは、まるで現実離れしてる。まるでアンドロイドというか、作者脳内のイメージをこね回したキャラクタでしかない。フィクションだから、どんなキャラクタが出てこようとかまわないのだけど、せめて読者を読んでる間だけでもその世界に取り込むだけの舞台は用意しておいて貰いたいわけである。
「頂点を越えなおも加速する大沢ワールド!!」というのが、腰巻のコピーである(^_^;) おいおい「頂点を越えた」ということは、下り坂ってことかい? 「なおも加速する」方向が下方って意味ではないんだろうな。もっとも本作を見る限りではそんな不安を感じられなくもない。
ともかくも新宿鮫の新作を待ちたい(>_<)


08012

【東西食卓異聞】 高橋哲雄 ★★★☆ 1931年神戸生まれ。イギリス社会文化史専門で甲南大、大阪商大の名誉教授やってる人らしい。本書は商大のニューズレターに連載されたものを中心に纏められたもので、22篇が収められている。よくある味覚エッセイと一味違ってるのは、著者の専門分野である社会文化学的学究志向、知的好奇心、文学歴史地域的知識、フィールドワークに裏打ちされた(つまりちゃんと食べ歩いたり、作ってもらったりして)食い物への随筆だからということになるだろう。
特に興味深かったのは「うどん王国の不思議」「カレーライスの国籍」「スープの力」「鍋びいき鍋ぎらい」「一人鍋はせつないか」「ソースライスと醤油ライス」「皿に向かって作る」などで、前半に集中している。
これまで読んだことのない、久しぶりの食に関する好エッセイ集だと、いささか感激しながら、いっぺんに読むのがもったいなくて、少しずつ読み進めていたのだが、16作以降はがたっと面白くなくなってしまった(>_<) 著者の昔がたりがメインとなり、それもMorris.の苦手な筆致になってしまった。
最後の「絶望のスパゲティ」となると、愛妻の癌告知に関連して切々とその悲哀が書き綴られ、ほろりとさせられるものの、読書の喜びからどんどん遠ざけられてしまった。

世の中は一様によくなるわけではなく、偏りや歪みを伴うことが多い。いや、おしなべて悪くなることだってある。「負け組」にきびしい世の中もそのひとつだ。そうなると「負け組」専用スープなんてものも出てくる。これは、味を度外視してもっぱら食欲を満たすだけのスープである。
たとえば「貧民のスープ」なるものがある。十八世紀末のイギリスで、それを普及させた人物の名をとって「ランフォード(伯)のスープ」と呼ばれた慈善用のそれは、はじめ大麦と野菜、それに燻製のにしんを砕いたものが入っていたが、だんだんと質が落ちてきてパン屑、野菜屑、骨を煮ただけのものとなる。「屑と骨のスープ」とこきおろされた。
「囚人のスープ」というものもある。十九世紀末のドイツでは囚人一人一日に豆80グラム、大麦60グラム、じゃがいも150グラム、パン60グラム、脂肪17グラムをぶちこんだ1.2リットルのスープが供された。このスープでさえ最高のご馳走にみえるのがナチス・ドイツの強制収容所のスープであると、ダッパウに収容された体験をもつ『食の文化史』の著者、ジャックバローはいう。(「スープの力」)


そういえば、Morris.亭の冷蔵庫残り物キムチチゲなんかある意味この「貧乏人のスープ」に通ずるものがある。

「ブリ大根」でかぶらを使い、「かぶら鮨」(やはりブリと組み合わせ)で大根をかぶらの代わりに使ったら、もう出会い物とはいえない。「出会い物」はご存知幸せな味の取り合わせをいう京言葉である。(「鴎外のミスマッチ」)

京言葉だろうと何だろうと、「出会い物」とは良い言葉である。Morris.は知らなかった(^_^;)覚えておこう。

「人に向かって」作れない料理は、いかにゴージャスでも不幸である。
その極致が自分のためにだけ作る料理だ。斉藤茂吉のように、うまいものは独り占めしたくて、一人こっそり牛鍋を楽しむ超弩級の子供じみた人物は別として、自分のためだけの料理は味気ないものである。
…中略…たとえば身に覚えはなくても、どこか身につまされる一人暮らしもある。そうかと思うと仲のいい夫婦の死に別れの一人暮らしもある。「秋刀魚の歌」の佐藤春夫のような、好きにしてよといいたくなる孤独もある。まこと、「幸せな家庭は一様に幸せだが、不幸な家庭はそれぞれに不幸なのである」(『アンナ・カレーニナ』)。しかし、自分だけに向かって作る料理には、共通してどうしようもない不幸の味がある。(「皿に向かって作る」)

これには大いに「異議あり!!」ぢゃ。
さっき、作って二日目で味の深まったタイカレー食べて、思わず「うんまいーっ!!」と声に出してしまったMorris.の、自分で作って自分で食べる日々のメニューに「どうしようもない不幸の味がある」なんて、赤の他人の高橋先生から決め付けられるいわれはないと思うぞ。それとも、Morris.も斉藤茂吉のように(^_^;)「超弩級の子供じみた人物」なのだろうか?? 一抹の不安も(^_^;)


08011

【父の時代・私の時代】堀内誠一 ★★★ 「わがエディトリアル・デザイン史」という副題がある。1979年発行のものにいくらか追加して2007年にマガジンハウスから再発行されたものである。堀内誠一といえばMorris.にとっては1970年に「an・an」を作った人というイメージが強い。「an・an」の編集に直接携わったのは3年で74年からはパリ在住ということになるのだが、この雑誌はずっと堀内のカラーに支配されていたような気がする。Morris.は彼の編集した男性誌「ポパイ」「ブルータス」よりこの女性誌「an・an」が好きだった。とにかくお洒落だったし、見飽きない誌面作りには毎月感心していた。70年代出版界の最良の部分がそこにあったような気がする。
1932年生まれで1987年54歳で亡くなってるから、すでに彼の死後20年経ったことになる。父もデザイナー(当時は図案家)だったらしく、前半はその父の思い出が書かれている。その結び部分。

父の属していた世界は過去の別世界になってしまいました。市井のものたちの、つつましい夢やひそかな感覚の喜び、そこに真性の文化があったような気がする、庶民の望みのほとんどはいち早く犠牲になり、亡びたのです。
戦争が終わっても、戦争を準備したことで始まったことは続いているといってよく、しばしば言われる、国や体制が変っても庶民というものはかわらない、ということを私は信じる気になれないでいます。江戸の版画やおもちゃ絵が亡びたように、父の仕事はモダンなようでいて新しい時代にもろい世界でした。
父は全くの図案家で、仕事の他は無口でした。特に政治とか戦争に関して無口でした。学問はないのに何でも覚え、図案のほかにはカメラ狂、釣り狂い、野球好き、スキー・スケート・水泳も得意でした。終戦と殆んど同時に私を連れて東京にもどり、また同じ仕事を始めましたが、私が職を身につけて一人前になって行くのと逆に、急速に酒の他には何事にも興味がなくなり、身体がおとろえ、役に立たない病人になってしまいました。意気地なく早死にでした。


初めの方では、いわゆるモボだった父のことを懐かしむようなことを書きながら、最後にこんな風に突き放すというのも堀内の性格があらわれてるのかもしれない。
後期はいちおう絵本作家の仕事を中心にしたようだが、Morris.はあまり彼の絵本には関心がもてない。やはり彼は編集デザインの職人だったと思う。


08010

【ひらがなの美学】石川九楊 ★★☆ 「芸術新潮」2006年2月号の特集の焼き直しらしい。Morris.はこの号図書館で斜め読みして借りなかったのに、とんぼの本として小型化した本書を借りたのはどうしてだろう?
初めの方にあった「ひらがな主要母字一覧」表をメモしたくなったからかもしれない(^_^;)

*一番最初の漢字が現行のひらがなの母字
 安、阿、悪
 以、伊、意、移
 宇、有、雲
 衣、江、盈、要
 於、隠
 加、可、閑、駕、賀、我、家、香、佳
 幾、支、起、豈、木
 久、九、具、倶、供、求
 計、介、気、遣、希
 己、故、期、古
 左、佐、散、沙、斜、乍、差
 之、志、事、四、新
 寸、春、数、寿、受、須
 世、勢、声
 曽、処、楚、所、蘇
 太、多、堂、当、唾
 知、致、地、千、遅、治
 川、徒、都、津
 天、転、帝、亭、弖
 止、登、度、砥
 奈、那、難、菜、名
 仁、尓、二、耳、児、丹
 奴、努
 祢、年、熱、子
 乃、能、濃、農、野
 波、破、者、盤、八、半
 比、非、悲、避、飛、日、妣、備、火
 不、布、婦
 部、辺、弊、遍、倍
 保、本、宝、奉、報
 末、萬、万、満、麻
 美、見、微、身
 武、無、牟、舞、无
 女、免、面、馬
 毛、茂、母、裳、蒙
 也、夜、邪
 由、喩、遊
 与、余
 良、羅、等、落
 利、理、里、李、梨
 留、類、流、累
 礼、連、麗
 呂、路、露、婁、楼
 和、王、○、倭
 為、井
 恵、慧、衛
 遠、超、乎、尾
 无


「か」の項で「家」と「香」の間にもう一字あった(「与」+「欠」みたいな漢字で「ヨ」と読むらしい)がWin.では出ないようなので省略。
以上。でおしまいにしようかと思ったが、あんまりなのでもう少し書く(^_^;)

15世紀半ばに李氏朝鮮4代目の王・世宗によって制定されたハングルは日本の仮名に近く、漢字に対して諺文(口語という意味)とかそのものずばり女手(アムクル)などと通称された。

うーーん、ハングルが仮名に近いというのはどういう意味なんだろう?

韓国語と日本語の違いは、ハングルとひらがなの違いで、それは漢語の影響の度合いということで考えられないでしょうか。

これは小松英雄との対談の中の石川発言だが、これと先の「ハングルが仮名に近い」がどのように繋がるかも不明である。
どうも石川は韓国や韓国語に関して不用意な発言することが多い。
本書で一番面白かったのが、土佐日記序文で紀貫之が「をとこもすなる日記といふものを、をむなもしてみんとてするなり」の「をむなもし」を「女文字」の隠し言葉とみて、

日記は普通、男文字で書くけれども、自分は「女文字」で、つまり日本語の表現のままに書き表わそうという宣言なのです。さらにその宣言の中で、ひらがなではこういう表現もできるんだぞという見本も同時に示している。漢字ではできない芸当です。

という、小松発言だった、というのもちょっと皮肉かな(^_^;)


08009

【大人のための残酷童話】倉橋由美子 ★★★☆ 1982年から83年にかけて新潮社の「波」に連載されたもの。86年に単行本化されてて、Morris.もたぶん、当時読んだと思うのだが、去年古本市場で\105コーナーにあったのを買って読み直した。
26話すべてが、過去の童話、昔話などを換骨奪胎している。いわばパロディだが、彼女ならではの凝った処方を楽しむことができる。
素材となったネタ本は、

人魚姫、一寸法師、白雪姫、世界の果ての井戸、蛙の王子、ナイチンゲールとばらの花、春琴抄、子供たち豚殺しごっこ、、変身、カメの遠足、名人伝、枕中記、河間記、養老の滝、浦島太郎、猿蟹合戦、竹取物語、三つの指輪の話、文芸復興、父と妹、青髭、、僧伽多行羅刹国事、僧伽羅五百商人、共到羅刹国語第一、天国の婚礼、黒塚、かちかち山、飯食はぬ女、ジャックと豆の木、人は何でゐきているか

などであるが、いかにも彼女らしい味付けが施されている。
Morris.は学生時代から彼女のファンだったから、たぶん本書も一度は目を通したはずだがあまり記憶に無かった。Morris.は当時から長編好みだったから、本書は彼女の余技みたいなものと決め付けてたのかもしれない。
昨年古本市場の105円均一棚で見つけてずっと枕元において、たまに一話、二話ずつ読み進めた。PR誌という気安さもあってか、長さもまちまちだし、内容もかなりくだけている。当然のことながら出来不出来の差も大きいが、久しぶりに彼女の文体(嬉しいことに旧仮名遣いである(^_^))を楽しむことが出来た。
「かちかち山」のパロディなんか、原作をしのぐおどろおどろしさである。
惜しむらくはタイトルのあまりの直裁さである。これはサブタイトルくらいにして別のタイトルをつけて欲しかった。


08008

【完全マスターハングル会話】イム・ジョンデ ★★★ センターの朝鮮語講座止めてからもう何年になるだろう(^_^;) この前の韓国旅行でも韓国語の実力のほどを思い切り反省させられた。新長田図書館の朝鮮関係棚を見て韓国語学習書も最近はいろいろ面白そうなものが出てることを知ったし、何か一冊簡単なもので初級から一歩進んだてきすとを一冊とにかく揚げようと思った。三宮のジュンクで棚を冷かして、結局買ったのがこの本である。イムジョンデという大田生まれの韓国人が全面監修している本で、「初級から上級まで使える」と書いてあるのと、本文文字が割りと大きめさし、例文がえらくくだけていてCDが付録についてるのでこれにした。
構成があいうえお順なのだが、これがいかにも韓国人らしい変なところもあるが、まあ、あまり細かいことは言うまい。付録のCDの会話のやりとりがじつに自然な会話で、これは拾い物だと思った。1時間の会話をPCでmp3に変換し、mp3プレイヤーでシャッフル状態で歩きながらよく聴いている。これだけで充分価格(2千円)の価値はあるかと思うのだが、CDには本書全体の1/3くらいしか収録されてない。せめてもう1枚くらいCDをつけておいて欲しかった。
とにもかくにもひさしぶりに韓国語テキストを一冊読み通したという充実感がある。これからも機会があれば、新しいテキストを「買って」読破していこう。
本書は、サランバンで親しくなった韓国語学習に意欲的な岡本さんに進呈しよう(^_^)


08007

【ゴー宣 いわゆるA級戦犯】小林よしのり ★★★ 先般城山三郎の「落日燃ゆ」読み、「アメリカ軍撮影の占領下日本」見たりしたばかりで、東京裁判への関心が再燃したところに本書を見かけたので思わず手に取った。
小林の本の読後感のたびに書くことだが、Morris.は彼の我田引水、牽強付会、唯我独尊、針小棒大、薄利多売的(^_^;) 論調には辟易しながらも、彼のしつこさと正論(あくまで彼にとっての)追求の姿勢にはついつい読まされてしまう。
本書でも例によって自側のキャラクタの美化、敵対者の醜化ぶりはエスカレートしてるし、論拠の曖昧さを強引に押し切るところも多いのだが、東京裁判の異常ぶりに関しての意見には賛同するところ多かった。
乱暴な結論になるのだが、Morris.は東京裁判こそ戦争犯罪だったと断定したい。
戦勝国(ほとんどアメリカ一国)が敗戦国を裁くということそのものが「リンチ」以外のなにものでもない。
「戦争」を裁くことが可能かどうかすら疑問であるが、戦争犯罪という考え方はある。
第一次大戦後の戦時国際法での「交戦法規」に反する行為がそれにあたるだろう。

1.一般住民、非戦闘員に危害を加えてはならない
2.軍事目標以外を攻撃してはならない
3.不必要な苦痛を与える残虐な兵器を使ってはならない
4.捕虜を虐待してはならない


当然、米軍による空襲、さらに原爆投下などがこれに該当することは、小林が指摘するまでもなく明白である。もちろんこれに対するアメリカ側の謝罪も裁判も皆無である。
「勝てば官軍」という言葉が、そのまま「負ければ何をされても仕方ない」という形で日本人全体にのしかかった時代の悲劇でかたづけるしかないのだろうか。
A級戦犯の定義に関しても、まずきちんと整理、理解してから論議すべきだという小林の意見は間違っていない。

連合国側(ほとんどアメリカ)が便宜的に分類した日本のABC級とは
A級 戦争を遂行した国家指導者など
B級 戦闘で命令する立場にいた指揮官など
C級 戦争犯罪を実行した兵隊など
ただし、B級とC級の区別ははっきりせず、ほとんど「BC級」と一括して呼ばれていた

ニュルンベルグ裁判での戦争犯罪の分類
A級犯罪・平和に対する罪
B級犯罪・通常の戦争犯罪
C級犯罪・人道に対する罪


ともかく、ABC級があくまで内容や立場の違いを表すもので、A>B>Cという意味でないことだけでも認識しておこう。


08006

【図説 アメリカ軍が撮影した占領下の日本】太平洋戦争研究会編 ★★★☆ 戦後の日本占領期は敗戦の昭和20年(1945)8月15日から昭和26年(1951)9月8日の講和条約までの6年ちょっとである。この時期に製作された日本製品には「made in occupied Japan」と書いてある。Noritakeの陶磁器でこの刻印のあるものは、異常な人気があったりもするが、昭和24年生まれのMorris.も、まさに「made in occupied Japan」そのものである(^_^;)
本書はビジュアル本で、ほとんどの写真がGHQ/SCAP(連合国軍最高司令官司令部)の写真班と米陸海軍のカメラマンたちの撮影したものである。当然マッカーサー羽田到着のあの有名な写真から始まり講和条約調印の写真で〆られる。
敗戦国なのに、戦勝国(アメリカ)の対共産圏戦略のため反共の砦として軍事経済的な援助を受けて、経済復興していく日本の有様が如実に写し撮られている。
もちろんすべて白黒で、資料として撮影されたため、やや面白みにかけるきらいはあるものの、やはりレンズを通して定着された当時の空気が感じられる。
Morris.の生まれた昭和24年は、完全に反共方針が定まった年で、下山総裁事件、三鷹事件、松川事件と立て続けに米軍の謀略めいた不審事故が起きている。また対面交通(人は右車は左)が実施されたり、お年玉年賀葉書が発売されたり、母の日、火災電話(119)、専売公社が発足したのもこの年ということを知ることができた。
また、本書は改定版で2006年に出ているが、初版は1995年12月8日で、敗戦から50周年を記念しての企画ものだったのだろう。それにしても真珠湾攻撃と同じ日というのは、何か含むところあったのだろうか?


08005

【写楽 江戸人としての実像】中野三敏 ★★★★ 中公新書で2007年発行だから割と新しい。著者は1930年生まれだから75歳超えてからの作だが、実に興味深かった。
写楽に関する本は矢鱈多く出ていて、特に写楽別人説は枚挙に暇が無いくらいである。Morris.もつい写楽本には手をだしてしまうので、小説など含めると少なくとも20冊くらいは読んだのではないだろうか。「写楽」の正体とされた主な著名人だけでも、蔦屋重三郎、円山応挙、谷文晁、葛飾北斎、喜多川歌麿、十返舎一九、鳥居清正、歌川豊国、酒井抱一、栄松斎長喜、司馬江漢、山東京伝…と10人を超える。そのほか、高橋克彦の秋田蘭画絵師節、池田満寿夫の中村比蔵節なんてのもMorris.は面白く読んだし、オランダ人説や謎の朝鮮人画家説なんてのもあった。
もちろん、一般的な定説とも言える「阿波の能役者」説ももちろん大きな流れを持っていて、本書の結論もこれに沿っているから、面白みに欠けるように思えるかもしれないが、やっぱり面白かったのは、著者の徹底した資料の分析と、江戸時代の文化への独特の捉え方、そして、いわゆる素人探偵(^_^;)への揶揄めいた批判もあいまって、Morris.にとっては、推理小説読むより面白かった。
面白かった、とばかり書いても埒が明かないので、とりあえず、文体見本を兼ねて前書きから引用する。

東洲斎写楽の画号に隠されたその素顔に比定された人物は、いまやほとんど半百を越え、それについての著書や論文紛いの数は、おそらくその数倍にものぼる勢いとなっている。ともかくその作画期とされる寛政五、六年(1793,94)頃、江戸に居たことの確かな人物で、絵筆を握る可能性のある存在でさえあれば、そのすべてが網羅されたといっても過言ではないようなことになってしまった。無論、それが当代の有名人であればあるほど面白がられることとなり、また論じる人々の顔触れも、当代芸苑に一家言のある人は勿論、写楽の名がグローバルになればなるほど、鑑賞眼において一見識ありと自負する知識人が我も我もと参入して、ほとんど収拾のつかぬ事態へと突入してしまったかに見える。
面白いのはその顔触れが、当初は流石に浮世絵の専家とは言わないまでも、何となくその道のと言うべき人が多かったのだが、次第に全く専門外の知識人へと広がっている状況が、はっきりと認められるあたりに、写楽人気の過熱ぶりが見てとれることである。かくしてその市場価格はますます高まり、画商の恵比寿顔は一層ほころぶばかりとなった。

わはは、なかなかの余裕である。いわゆる民間語源説(folk etymorogy)に対する言語学者の言説みたいなものだね。
しかも著者はこう開き直って見せている。

実のところ、私自身には、絵画の作品論を展開するような能力はまったく持ち合わせていない。しかも写楽の絵そのものも、それほど好きなものでもない。危うきには近寄らぬのが賢明か。その代わりに、江戸人の江戸人としての生き方のいかんに関しては、従来から大いに関心を寄せてもきたし、それなりの方法についても若干の心得はある。写楽と名乗った一人の江戸人の、寛政という一つの時代の生き方に関しては大いに興味をそそられる。そのような眼で近年の写楽伝を見た時に生じる何がしかの知見を纏めてさて、写楽とは誰かを確かめてみようと思い立ったのが本書である。

いっそ、すがすがしい、と思うのはMorris.ひとりだろうか。写楽と直接係りの無い第一章「江戸文化における「雅」と「俗」」だけでもこの本を読んで良かった、と思うところ大である。

文化の母胎は人間にある。そしてその人間の実生活は、いかほどユニークな人間であったとしても、所詮あくまでもその人の生きた時代の感覚や思潮の中から外れるものではあり得ない。
李卓吾の言葉を引くまでもなく、歴史に定説はあり得ない。すべてはそれぞれの後世における解釈にゆだねられる。従って江戸についてのそれも、近代人の、あるいは現代人の、その時代からみた解釈が施されるのは当然でもある。
そして、その時代からみた解釈の中の一つに、能う限り江戸に即した江戸解釈という一筋が存在することも確かである。それを可能にするためには、その時点において資料として残された文物の、能う限り正確な分析と理解を志す以外はない。その時最も有効に働くのは、江戸人の残した言説そのものに従う姿勢の厳守以外にはあり得ないので、その一筋を明らかにすべき責務を負うのが専家としての役割であろうことを確信する。


江戸時代のカウンターという性格の強い明治時代が、江戸文化からの脱却を目指して貶める態度を取ったことは当然だとしながらも、著者は戦後の江戸文化の評価に対しては真っ向から反論する。

戦後に始まったいわゆる”前近代”としての近世評価は、いわば未熟な近代の名残りでもあった。それは近代の側からするご都合主義的な利用に過ぎなかったのであり、ルーペとピンセットによって近代の好みに合わせた近世のごく微細な部分利用を試みたに過ぎなかった。現在必要なのは、未熟な近代主義を越え、近世の総体を的確に捉えて、急速な近代化や片寄った近代化の結果、喪失してしまった近世の豊穣さを確実に取り戻すことにあり、それが取りも直さず成熟した近代の証でもある。平成という時代は、近代の終焉の時代ではなく、近代の成熟の始まりであるという位置づけこそが、近年の世上における近世再評価の真の意味づけとなるべきであろう。
その時、何よりも先に必要なのは、近世文化の相対を近世に即して見極める確かな指標の認識である。未熟な近代主義に都合のよい部分だけの摘み取りではなく、近世文化の総体を、そしてその豊穣な沃野に成熟した果実を確かに味わい得る術を、身につけねばならぬ。その時、さし当たり有効な指標が、”雅俗”の観点の正しい理解という点にあることはいうまでもない。


どこまでも、この人はまっすぐ直球勝負である。いいなあ。Morris.の江戸好みなんて、ほんとうにつまみ食いにすらなってなかったような気がする。
「江戸方角分」という、江戸の著名人の町区域別の人名録の細密な分析から、写楽の実像が阿波侯抱え能楽師(士分)であることを追い詰めていく。Morris.も75%本書の結論に賛成したい。
しかし、しかし、今後とも写楽別人説を初めとする面白写楽本が出ることは大いに期待したい(^_^;)。


08004

【柿喰ふ子規の俳句作法】坪内稔典 ★★★ 子規を中心に雑誌新聞などに書き散らかした文章を一冊にまとめたものだが、これでもかというくらいに重複する内容の目白押しでMorris.はちょっと腹が立ってしまった。仏の顔も三度というが、この人の場合は、同工異曲のいやほとんど同一の文章が4度も5度も出てくる。それぞれの記事の発表場所が違うのだろうから、それぞれの読者にはそれでもかまわないかもしれないが、それらを一冊にまとめたら、その本の読者のことも配慮すべきだろう。
それと子規のことを論じながら、すきあらばの自己宣伝に走る癖もほどほどにしてもらいたい。奇抜さで人目をひいたらしい自慢の自作の甘納豆の句をこれでもかとばかりにひけらかして、持ち上げること(>_<) Morris.は件の句はまるで認めていないが、当人は当代屈指の人気作、問題作と自負しているらしい。あまつさえ、この句で自分の嗜好や生き方まで変わってしまったなんて能天気ぶりはたまらん。
新体自由詩を論じた部分で、当時の「自由」に関して紹介してあった柳田國男の文章が興味深かった。孫引きしておく。

曾て板垣さんが自由は死せずと呼号した時代に、私の旧宅の門前に於て、若い酔狂人が大の字になつて怒鳴つて動かうとしない。母は出て行つて門の戸を締め貫抜きを通し、私たちは陰に隠れて恐る恐る覗いて居ると、彼の友だちが傍にそつと近寄つて百方なだめすかして連れて行かうとするが、酔つぱらひは愈々強く踏みしめて、自由の権だいといふ文句を何遍か高く唱へた。是が私の此語を学び始めた日であつたが、それから今日まで此語はきらひである。
自由は我儘も元は同じ意味で、何と人は言はうとも自分は是非斯うするといふことで、老人はもとは平気で「そんな自由なことは許しません」などと声明して居た。何かもつとよい言葉を見付けて取かへないと、それこそ我々は不自由としなければならぬ。(『故郷70年』柳田國男 昭和34)


また、子規の文章に関する司馬遼太郎の指摘にも共感を覚えた。

わたしどもが夏目漱石と正岡子規、もしくは森鴎外を所有していることの大きさは、その文学より以前に、かれらが明治三十年代においてすでにたれもが参加できる文章日本語を創造したことである。文章を道具にまで還元した場合、桂月も蘇峰も一目的にしか通用しないが、漱石や子規の文章は愚痴も表現できれば国際情勢も論ずることができ、さらには自他の環境の本質や状態をのべることもできる。本来、共通性へ参加してゆく文章語はそうあるべきものといっていい。(「文章日本語の成立と子規」司馬遼太郎 子規全集解説)

しかし本書には、同じ引用が2箇所にある(^_^;)
さらに言えば、著者の文章は、主語と述語がくねくねと捻じ曲がってえらく読みにくかったりもする。これも引用しておこうかと思ったが、どこかわからなくなって、わざわざ探すのもめんどくさくなったのでやめておく。


08003

【落日燃ゆ】城山三郎 ★★ 去年某NHK教育放送で取り上げられてた作品で、Morris.は偶然ちらっとしか見なかったのだけど、すごい持ち上げぶりと、主人公である広田弘毅への興味から読もうという気になり、図書館で探したけど見当たらず、結局年末にサンパルのMANNYOで文庫本\210で買ったのを、やっとのことで読み終えたのだった。
広田弘毅の事跡についてはいちおう知ることができたし、それなりの人物であることも分かった。あのとんでもない日本軍部のごり押しの中で、外交官として、首相として奮闘したということも分かった。
しかし、しかし、本書が小説として優れているかとなると、Morris.にはとうていそうは思えない。その前にこれって小説なのか?という疑問を感じてしまった。
単なる伝記小説を書くつもりではなく、彼を通してあの戦争の時代、そして戦後東京裁判への疑問を書きたかったのかもしれないが、Morris.としては、小説を読むつもりでいただけに、読み進むのにすごく疲れたし、読み終えても疲労しか残らなかった。
赤松大麓というひとが解説をこう結んでいる。

戦争責任について決して自己弁護せぬ広田の行動は、城山氏の心を強く動かしたことだろう。だが氏は、広田に対する共感や敬愛を安易に作品の表面に出さず、客観的な記述を守り通している。深い哀惜の念を胸の奥に秘めながら、この記述方法に徹することによって、『落日燃ゆ』は広田弘毅への頌徳表ではなく、彼に手向けられた真の鎮魂曲になりえているのである。

Morris.はこれに真っ向から反対の感想を持った。城山は最初から主人公である広田側に立ってるし、記述も客観的とは言いがたい。
巻末の参考資料+参照箇所の羅列からは、本書が非小説家による歴史事象調査のパッチワーク的成果くらいにしか思えない。
それほど毛嫌いするなら途中で読むのやめたらよさそうなものだが、210円でも金を払ってしまった以上読まないと損ど思ったMorris.の貧乏性があるのだろうが、読んだ時間の方が損と言えるかもしれない。
もちろん、広田弘毅自身に関してはそこまで嫌いな人物ではなかった。彼の言葉のなかで共感を覚えたのは次の一言だった。

「人間短所を見たら、どんな人間だってだめだ。逆に、長所を見て使うようにすれば、使えない人間は居ないんだ」

まあ、どこにでもありそうなことばだけど、この考え方には大いに共感を表明しておきたい。しかし、翻って考えると、Morris.は本書の短所ばかりをみて、長所に目をそむけたきらいがあるのかもしれないな(^_^;) 墓穴を掘るというのはこのことか。


08002

【敵影】 古処誠二 ★★★☆ 2005年から06年にかけてMorris.は彼の作品を読み漁った。彼も寡作の方で5,6冊で、読むものが無くなり、2007年はゼロ。そして久しぶりに彼の新作を見つけて期待して読んだ。2005年から06年にかけて「小説新潮」に連載されたもので、沖縄の捕虜と米軍二世隊員との交流から、沖縄戦の矛盾、ひいては戦争そのものの悲劇を彼独特の視線から抉り出す作品だった。
主人公の元軍曹が重傷を負い、治療を手伝った地元の女子学生看護婦に出会い、結果的に彼女の死を招き、米軍捕虜になる。治療中に偶然知った彼女の負い目を心にしまいながら、捕虜という立場から、敗戦後も帰順しない日本兵の宣撫に係りながら日米軍人の差異や共通点を考察する。
これまでと同様、戦いの描写の緻密さと鮮明さには驚嘆させられるし、米軍のボクサーと捕虜の柔道家のエキジビションマッチで、日米沖縄戦を再現(髣髴)させるなど、読者の興味をそらさない仕掛けもあって、実にこの作家の力量は大したものである。

山を下りてこない兵隊を支えているのは、ここでも死者の存在だった。米軍はすべてをヤマト・スピリットの一言で片づける。武士道と同義であり、必要以上に持ち上げる行為だった。自分が倒した相手を称えれば優越感をくすぐられる。敗残兵の心が、アメリカ人にもある家族愛や死者への冒涜を許さない心であると見て取る者は少ない。ましてや戦争が終わったから投降できないのだと考える者はひとりもいない。

丈夫な者から兵隊に取られ、誠実な者から死んでいく。生き残った不誠実な者は、将校に罪をなすりつけ、軍に罪をなすりつけ、国に罪をなすりつけ、他人に罪をなすりつける。


主人公の女子学生への強い後悔の念に対しての、元将校だった班長の言葉は、重いものがある。少し長いが会話の部分のみ引用しておく。

「そもそもな、いちいち気にする必要なんかないんだ。内地はどうだ。東京じゃ十万人がテンプラにされたって話だ。広島と長崎じゃ人間は蒸発したっていうじゃないか」
「学生のひとりが死んだからって、どうしてお前がいちいちうなされる必要がある。いったい何年続いた戦争だ。思想で検挙された者以外、戦争で人が死ぬのを黙認してきたんだ。緒戦の勝利を喜ばなかったとは沖縄県民も言うまいよ。お前を助けようとした女学生にしてもな、それは自分で決めたことだ。お前がとやかく考える必要はない。本望だろうよ。その学生にしてみれば、お前を放り出してしまう方がつらかっただけだ。そうだろ」
「分かっています」
「いや、お前は分かってないんだ。その学生に生きていて欲しいと思っている」
「当たり前じゃないですか」
「バカヤロ。もう死んでるよ」
「どうしてこだわる」
「死んでたら理不尽な身の上で」
「理不尽じゃない死のひとつでもこの戦にあったかよ」
「みんな懸命だった。生者も死者も、山中にしても羽島にしてもお前にしても沖縄県民にしても懸命だった。その結果がこれだ。直視できない結果だからといって、どうして苦しんだ者同士がいがみ合わねばならない。どうして寝ている間までうなされねばならない。過去に苦しんだ者ほど今を苦しむなど、それこそ理不尽な話だ。そうだろ」
「学生だからなんだっていうんだ。花も恥じらう乙女だからどうした。そんなものは無数の死のひとつだろ。正規の看護婦も軍医も、お前を救うためにがんばったんだぞ。そもそもお前も懸命だったから負傷したんだ。いいか近藤、お前を助けようとした人間の死にお前は一切関係ない。これからは笑って暮らせよ。お前自身が言ったとおり、相手は赤の他人じゃないか。他人の死にいちいち泣くのは葬式の泣き女だけで充分だ。また夢に女学生が出てきたら言ってやれ、死んだお前が馬鹿だったとな」

著者は70年福岡生まれで、高校卒業後様々な職を経て航空自衛隊に入ったらしい。初めて彼の戦争もの(と、一言では片づけられないが)を読んだときから、ずっとそう思ってるのだが、どうしてMorris.より20以上も若いこの年齢で、あれだけ濃密なあの時代の戦闘シーンや兵隊の深層心理を描けるのか不思議だった。自衛隊というのがそのキーワードになるのだろうか。


08001

【まいにち薔薇いろ 田辺聖子A to Z】田辺聖子全集編集室編 ★★★ 80歳を迎えた田辺聖子のヴィジュアルガイドブックみたいな一冊である。
Morris.は彼女の良い読者とはいえないだろうが、それでも10冊以上は読んでるし、与謝野晶子を描いた「千すじの黒髪」、吉屋信子を描いた「ゆめはるか吉屋信子」や武玉川や百人一首の解説めいた本、生家田辺写真館を中心とした個人史などは愛読したと思う。
それでも250冊にもなる膨大な作品のひとかけらということになる。実に旺盛な創作力である。
カモカのおっちゃんで知られる夫との仲の良さも有名だったし、宝塚ファン、ぬいぐるみやファンシーなものへの異常なくらいの愛情でも知られている。とにかく芥川賞で出発しながら、大衆にも愛される作品をこれだけ書いたというだけでもすごいし、大阪生まれということもあって、大阪弁を駆使した作品も多く好感を覚える。美人とは程遠いあの容貌も、ここまで徹底されると愛嬌に見えてくるし、古典の教養も楽しみながら本気だし、と、えらく持ち上げてしまったが、そのくらいこの本は田辺聖子への愛情と信頼に培われた一冊ということができるだろう。幸せな作家だと思う。


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