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Morris.2009年読書控
Morris.は2009年にこんな本を読みました。読んだ逆順に並べています。
タイトル、著者名の後の星印は、Morris.独断による、評点です。 ★20点、☆5点

読書録top 2008年 2007年 2006年 2005年 2004年 2003年 2002年 2001年 2000年 1999年

セル色の意味 イチ押し(^o^) おすすめ(^。^) 普 通 とほほ(+_+)

09094 【例解古語辞典】 三省堂 09093 【トロイメライ】島田虎之介 09092 【大阪ハムレット】森下裕美

09091 【エミリー】嶽本野ばら

09090 【禿鷹狩り】逢坂剛

09089 【蕎麦屋の恋】姫野カオルコ

09088 【凶眼】打海文三

09087 【いつかX橋で】熊谷達也

09086 【ぶらり散策 懐かしの昭和】町田忍

09085 【昭和のエートス】内田樹

09084 【作家の猫】平凡社

09083 【ガール・ミーツ・ガール】誉田哲也

09082 【漫画ノート】いしかわじゅん

09081 【在日音楽の100年】宋安鍾

09080 【モノクローム写真の魅力】江成常夫 松本徳彦

09079 【読んでから死ね! 現代必読マンガ101】中条省平

09078 【うつうつひでお日記】吾妻ひでお

09077 【世界は美しいと】長田弘

09076 【砂漠】伊坂幸太郎

09075 【秘密の本棚】いしかわじゅん

09074 【ゴールデンスランバー】伊坂幸太郎

09073 【やっとかめ探偵団と鬼の栖」清水義範

09072 【やっとかめ探偵団と殺人魔】清水義範

09071
【官能小説家】高橋源一郎

09070 【魔物上下】大沢在昌

09069 【影絵の騎士】大沢在昌

09068 【写真の読みかた】名取洋之助

09067 【例外社会】笠井潔

09066 【昭和出版残侠伝】嵐山光三郎

09065 【赤黒 ルージュ・ノワール】石田衣良

09064 【応化戦記三部作】 打海文三

09063 【魔王】伊坂幸太郎

09062 【韓国現代史】木村幹

09061 【マヂック・オペラ】山田正紀

09060 【プルコギ】具光然

09059 【ミステリーオペラ】山田正紀

09058 【眠れぬ真珠】石田衣良

09057 【正直書評】豊崎由美

09056 【江戸かな古文書入門】吉田豊一

09055 【ヴァージニア・リー・バートン】バーバラ・エルマン 宮城正枝訳

09054 【橋本治と内田樹】

09053 【藪枯らし純次】船戸与一

09052 【文芸誤報】斎藤美奈子

09051 【漢文入門】魚返善雄

09050 【インターセックス】帚木蓬生

09049 【目白雑録(ひびのあれこれ)3】金井美恵子

09048 【阿片王】佐野眞一

09047 【愛と日本語の惑乱】清水義範

09046 【神戸新開地物語】のじぎく文庫編

09045 【非正規レジスタンス】石田衣良

09044 【文字講座】浅葉克己他

09043 【神戸レトロコレクションの旅】石戸信也

09042 【神器 軍艦「橿原」殺人事件 上下】 奥泉光

09041 【大阪神戸のモダニズム 1920-1940】兵庫県立近代美術館

09040 【絹の変容】篠田節子

09039 【生物学個人授業】先生=岡田節人 生徒=南伸坊

09038 【歪んだ回想録】保阪正康

09037 【自転車の安全鉄則】疋田智

09036 【沖縄 だれにも書かれたくなかった戦後史】佐野眞一

09035 【阪急電車】有川浩

09034 【きょうのごはん】太田垣晴子

09033 【三世相】松井今朝子

09032 【マロニエの花が言った 上下】清岡卓行

09031 【快食快汗】西川治

09030 【アホウドリの朝鮮料理入門】阿奈井文彦

09029 【高血圧は薬で下げるな!】 浜六郎

09028 【パーマネント野ばら】西原理恵子09028

09027 【文學少女の友】 千野帽子

09026 【桃】姫野カオルコ

09025 【ああ正妻】姫野カオルコ

09024 【不倫 レンタル】姫野カオルコ

09023 【変奏曲】姫野カオル子

09022 【愛はひとり】姫野カオルコ

09021 【ラブレター】姫野カオルコ

09020 【人呼んでミツコ】姫野カオルコ

09019 【特急こだま東海道線を走る】姫野カオルコ

09018 【恋愛できない植物群】姫野カオルコ

09017 【サイケ】姫野カオルコ

09016 【受難】姫野カオルコ

09015 【空に住む飛行機】姫野カオルコ

09014 【整形美女】姫野カオルコ

09013 【ハルカ・エイティ】姫野カオルコ

09012 【ツ、イ、ラ、ク】姫野カオルコ

09011 【炎の回廊 満州国演義4】船戸与一

09010 【僕が愛したゴオスト】内海文三

09009 【本の本】斉藤美奈子

09008 【聖灰の暗号 上下】帚木蓬生

09007 【封印歌謡大全】石橋春海

09006 【不許可写真】草森紳一 

09005 【魔女の盟約】大沢在昌

09004 【Rの家】打海文三

09003 【1970年代記】畑中純

09002 【下妻物語 完】嶽本野ばら

09001 【お茶のある暮らし】谷本陽蔵

   

09094

【例解古語辞典】 三省堂 ★★★★ 高校に入学するとき、たいてい買わされる辞書は、英和、和英、国語、漢和、そして古語辞典だろう。その中で一番使われない辞書といえば、この古語辞典だろうと言うことはまず間違いあるまい。
12年前から六甲学生青年センターで開かれている古本市でも、辞書のコーナ−で、ほとんどまっさらの状態で出品されてるのは古語辞典である。
この辞典も、数年前にこのセンター古本市で手にいれたものである。編者として佐伯梅友、森野宗明、小松英雄という名が列記されている。
この辞書の初版は1979年で、5年後の84年に第二版が出されている。Morris.のものは89年発行で27刷となってるから毎年5刷を重ねていることになる。その第二版のあとがき。

古典文学作品の文章をみどくするのに役立つ辞書はこのようにあらねばならないと確信しながらも、全く新しい試みであるだけに、初版の刊行に当たっては不安も大きかった。しかし、幸いにして例解方式の意図とその長所とはそのままに広く理解され、社会的な認知を得ることができた。
辞書の生命は個々の項目の充実にかかっているという認識のもとに第二版においてはそれらの全面的な見なおしを行ない、いっそうの整備に努め、例解方式の徹底を図っている。また、三省堂の強い要望をいれて、『百人一首』の全歌に注解を付し、二色刷りを導入したり新しい欄を設けたりしたために、結果としては、初版とかなり違った印象のものになった、編集の基本方針はいささかも変わっていない。
初版の段階では、例解方式の正統性を強調しながら、実践の面でその理想に及ばないところが多かった。この第二版の内容こそ例解という名称にふさわしいものにしたいと考えたが、依然として満足できる形にはほど遠い。利用者各位の声を反映しながら改善を続けていきたい。

署名が「主幹 小松英雄」となってるから、いちおう小松さんがチーフだと思う。これを読むと、百人一首全歌の注解などは、版元からの要請に応えたもので、本当は気乗りしなかったようだ。
しかし、この辞書はとにかく引用に和歌や俳句の多いこと尋常ではない。そして、それがMorris.にはとんでもなく嬉しかった。それがきっかけでこの辞書を読み始めたわけだが、途中かなり長いこと中断してたのを、今年の初めから再開して、どうにか読み終えた。
実はMorris.は辞書や事典を読むのは嫌いでは無かった。大槻文彦の「言海」を2回読んだことは強い印象として記憶に残っている。その他ことわざ事典、図鑑、戦前の新語辞典などを読んだ記憶がある。
辞書を読むというと、最近では「新明解国語辞典」のエキセントリックさで話題になったこともあるが、今更国語辞典読んでも、あまり新鮮さは感じないだろう。その点「古語辞典」となると、未知の言葉も多いだろうし、勉強にもなりそう(^_^;)ということで始めたのだった。
読み終えた後では、その百分の一も覚えてはいないのだが、凡百のエッセイを読むよりはうんと面白かったことは間違いない。
たとえば「下がる」という語の「京都で市内の北の方から南の方へ行くという用法」については要説で以下のような無駄話(^_^)が付されている。

平安京の北に内裏があり、そこから遠ざかることもあるが、地勢そのものに南北の高低差が大きいことも、この表現を生んだ理由として考えられる。北端の一条と南端の九条との高低差は現在では23m弱であるが、平安時代に成立したといわれる造園についての書『作庭記』には、一条大路と平安京南端の東寺の塔の高さとが等しいと述べられている。それによれば、50数mであり、実感としてかなりの高低差が感じられていたらしい。

なかなかの薀蓄であるな(^_^)
そのほか、

こんにった[今日た](連語)きょうは。*「日」の発音が中世ま[nit]であったために助詞「は」と融合してこの形になった。現在の「こんにちは」というあいさつのことばは、これをもとに戻した形。中世、謡曲、狂言などで用いられる。

おほわらわ[大童](名)兜などをかぶるときの髪形で「もとどり」を解いた乱れ髪。ざんばら髪。合戦で奮闘する状態を描写するときによく用いられることば。肩のあたりに垂れた感じが、元服する以前の子ども、つまり童の髪形に似ているのでこういう。

しにしだい[死に次第](名)人が死ぬのをそのままうち捨てておくこと。死ぬにまかせること。

はいずみ[掃墨](名)ごま油、菜種油などを明かりとして燃やしたときにできる油煙を、掃き落として集めたもの。また、これから作った墨。眉墨、塗料、薬などに使った。

すきもの[好き者](名)1.物好きな人。また風流人。2.色好みの人。[要説]利害打算などに頓着せず、自分の好む趣味的世界にひたすら没入するようなタイプが「すきもの」の典型。世間の常識人からみれば、物好き、酔狂とうつうる。なお十三世紀前半の雅楽書『教訓抄』に、
管弦はすきもののすべきことなり。すきものといふは、慈悲の心ありて、常にはもののあはれを知りて、明け暮れ心をすまして、花を見、月をながめても、嘆き明かし、思ひ暮らして、この世をいとひ、仏にならむと思ふべきなり
とある。中世の知識人の「すきもの」観の一端がうかがえる。


Morris.の「すきもの指数」は、結構高いのではないかと思う(^_^;)
こんなふうに引いていくと、まさに枚挙の暇も無いのでこのへんで止めておく。
次は小学館の「朝鮮語辞典」に朝鮮、ぢゃなかった(>_<)、挑戦してみようか。


09093

【トロイメライ】島田虎之介 ★★★★ 中央図書館の漫画コーナーで偶然手に取って、ソファで読み始めてそのまま一気に読見終えた。
日記にこのことを書いたら↓

島田虎乃介の「トロイメライ」は凄かった(@_@) 植民地時代のピアノを巡って、日本人調律師とイラク人の職人、原木のあったカメルーンの若者たちが虚実ないまぜに不思議な空間を織り成していた。
これが3作目で、他にオートバイテーマの「ラストワルツ」、小津作品をネタにした「東京命日」というのがあるらしい。これも機会があればぜひ読んでみたい。


稲田さんが、これと「東京命日」を持ってるからと貸してくれた。
全く未知の作者で、本書が三作目と、寡作の人らしい。
ゴム版画を連想させる大雑把なタッチで、横長枠の多い独特な絵柄だが、テーマといい、構成といい、これまで見たことのない才能だと思う。
巻末の村上知彦解説が本質をついてるようで、いまさらMorris.の蛇足はいらないだろう。

例えば「トロイメライ」のクライマックスにあたる、マンベ・マンベが呪術によってフクロウに乗り移り、高尾から由利の自宅まで2時間の距離を一気に疾駆して、修理を終えた「ヴァルファールト」がトロイメライの最初の1音を奏でる瞬間に立ちあうまでの、16ぺージにわたるめくるめく場面。それはまるで、ジョン・プアマン監督の「エクソシスト2」で、カメラが突然イナゴのい視点となり、地球をなめ尽くさんばかりに世界の隅々まで空中を疾走してゆく、あの呪術的ともいえる画面の変奏を眺めているような感覚を覚えさせる。それは、あまりに美しい体験なので、もしかしたら島田虎之介は、第3作にして早くも最高傑作を描いてしまったのではないかとすら思えてしまう。

Morris.もこれが「最高傑作」と断言しても良いくらいに、感動を覚えた。すでに、5回読み返してるけど、一向に見飽きない。
もう一冊の「東京命日」もけして悪くはないし、また違った魅力もあるのだが、こちらは、主題である小津安二郎作品をほとんど見てないMorris.には、その時点で敷居が高いところがある。しかし、こうなると、処女作である「ラスト・ワルツ」も読んでみたいものである。


09092

【大阪ハムレット】森下裕美 ★★★☆ これも中央図書館で1巻を見つけてすごく印象深かったが、稲田さんが3巻まで持ってて貸してくれたのだ。関西を舞台にした短編の集成だが、同じ作品の続編があったり、登場人物が重なるものもある。あの「少年アシベ」の作者とは思えないくらいタッチも内容も違う。Morris. はアシベはそれほど注目しなかったが、この作品には強烈なものを感じた。女性になりたいと表明した小学生の男の子の話や中学生男子と高校女教師のカップル、平凡な家族に憧れるキャバクラ嬢などのエピソードが印象的だった。Morris.のイチ押しは第2巻の「大阪踊り」。肥満の幼児とバレー女教師の物語である。かなり出来不出来(というか、Morris.の好き嫌い)の差が大きい作品群だが、家族のつながりの深さとはかなさを、独特のタッチで描いた佳作だと思う。


09091
【エミリー】嶽本野ばら ★★☆☆ 「レディメイド」「コルセット」「エミリー」という3篇の短編が収められている。
例によってMorris.の聞いた事も無い横文字の衣服メーカーの名前がどんどこ出てきて、それを異常に好む登場人物たちが二人だけの世界を飛行するというシチュエーションになっている。
そして二人は

「『卒業』という映画がありますよね。あの映画が、僕は嫌いです。ラストシーン、結婚式を行っている教会に、主人公が乗り込んで、花嫁を連れ去ってしまうシーンが僕は嫌いなんです。世の中では、名場面とされていますけれど。あんなことをしでかして、あの主人公は奪った花嫁を幸せにすることができるんでしょうか。あんなふうに式をぶち壊されたら、花嫁はもう親や親戚、友人らに合わす顔がないですよね。花嫁にそれだけのリスクを負わせても自分の感情のままに行動するという主人公の傲慢さが、僕には理解できない」
「私もあの映画は好きじゃありません。残された花婿のことを考えずに、主人公についていく花嫁の気持が、理解できないです。きっと新婚生活の為の家や家具も用意してあるんです。あの主人公と花嫁は我儘です。あのラストを観て、私は全く爽快な気持になれませんでした」(「コルセット」)


こんな会話をしたりしてる。いや、じつはMorris.も『卒業』に関しては同感なのである。でもその二人がやろうとしていることは、それ以上の理不尽さだったりもする。
表題作では、幼児期に性的トラウマを持った娘とゲイとの恋物語だが、これがまた出口なしの展開になっている。
どうせとんでもない世界を描くのならあの「下妻物語」くらい、アグレッシブな登場人物にしてもらいたかった。


09090

【禿鷹狩り】逢坂剛 ★★☆☆ シリーズ4作目となっている。たしか2作ほど読んだ記憶がある。前作で主人公禿鷹こと禿富鷹秋は、電車に左腕を切断されたので、Morris.はこれでシリーズもおしまいになると思ってたから、4作目があるとは思わずにいた。3年前に出されている。
渋谷のヤクザと繋がりのある禿鷹を、新任の女性警部が執拗に追い詰めるという筋で、よくあるといえばよくある筋だが、そのやりとりがあまりにも作り物めいて、鼻白むところ多かった。
読者サービスの濡れ場もいかにも女の描けない作家の本領発揮といった感じだし、ほとんど作者の思惑のみで進行するストーリー。敵対する両者の駆け引きもいかにも心理戦風に薀蓄を披露するのだが、どこか嘘くさい。
やはり逢坂剛はイベリアシリーズより他に特に見るべきものはないような気がする。


09089
【蕎麦屋の恋】姫野カオルコ ★★☆☆ 2009年のMorris.の読書録は彼女の作品オンパレードだった。それくらい入れ込んでた(^_^;) 本書はその時読みそびれてた一冊で、東灘図書館の書架で見つけて思わず借りてきた。今年最後の1冊が彼女の作品というのも、いかにもふさわしいものである。
というところで、やっぱり彼女は素晴らしい、と、持っていけたら良かったのだけど、どうも、これはあまりいただけなかった(^_^;)
表題作を筆頭に6篇が収められている。「非・恋愛小説」と銘打ってあるが、わざわざそんなことを言挙する必要もなかろう。
そして、表題作はそれなりに面白くなくもなかった(^_^;)のだが、後の5作は、はっきり言って駄作である。
もし、Morris.が最初に彼女の本でこれを読んでたら今年の姫野フリークは無かったと思う。
もちろん、腐っても鯛、滑ってもカオルコで、端々にピクッとさせるものがないわけではない。

太い茎。シンプルで大ぶりで硬そうなはなびら。
「ぼく、花屋の店先でカラーを売ってるのを見たとき、こんな花、どんなふうに飾るんだろうってよくわからなかった」
「あ、わたしも。だって茎がぶっとくて、茎の太さに比べるとはなびらはそっけなくて。それだけ見ると、こんな花、どうしようってもんよね。でも飾るとかっこいんだよね」(「お午後のお紅茶」))

でも、これって、単にMorris.がカラー(海宇)を個人的に好きだというだけのことかもしれないし、

ニコラは親指シフトキーボードとも呼ばれる。日本人のための日本語を書くキーボード、ニコラ。日本語が泉のように湧きあがるオアシス。(「スワンの涙」)

これは、Morris.が最初にワープロを買おうとしたとき迷いに迷ったオアシス(結局買わなかった)のことを鮮明に思い出しただけのことである。


09088

【凶眼】打海文三 ★★★ 元大学教員で上司の娘に迫られて片目をカッターで 傷つけられた男が主人公。娘は屋上から投身自殺。大学をやめてマンションの管理人やってて、そこに住む女性ノンフィクション作家と過去に集団自決した宗教 集団とそこから脱出した少年少女たちに関わることになる。そこかしこに打海らしい持って回った仕掛けやら、飛んでる会話も出てくるのだけど、何か Morris.は最後まで楽しめなかった。
それよりもMorris.の嫌いな「手をこまねいて」表現(171p)もあったのが、かなり印象悪くしたのかもしれない。
もう一つ「的を得ている」表現(47p)もあった。Morris.はこれは「的を射る」が正しいと思い込んでいたのだが、ネットで調べてみたら、これは誤 用ではないという説?も結構見受けられた。「正鵠を得る」「当を得る」という表現あたりに惑わされたと誤用だと思ってたMorris.にはちょっと寝耳に 水だった。
子どもたちのリーダー格の少年や、唯一の少女などは後の「裸者と裸者」などのシリーズにつながるものかもしれないが、一冊の本としては、いまいちMorris.には理解しにくい作品だった。


09087
【いつかX橋で】熊谷達也 ★☆ 仙 台空襲で母と父違いの妹をなくした大学生が主人公。特攻帰りの同年輩の少年と知り合い、自分は靴磨きをしながら、パンパンに身を持ち崩した少女と恋仲にな り、屋台で新しい生活を始めようと言う矢先友人が米人MP(少女を孕ませた男)をゆすりに行き、殺人事件を起こし、主人公もそれに巻き込まれて……とい う、何か救いの無いストーリーである。
空襲の場面の描写などは微に入り細に入り詳しく描かれているが、著者はMorris.より10歳位年下だから、当然この描写は何かの資料から紡ぎだされたものだろう。とにかく、登場人物の描き方があまりにもちゃちである。小説以前といってもいいだろう。
著者の過去の作品、特に動物や山窩などの自然を描いた作品には感心した記憶があるだけに、本作品とのギャップには目を覆いたくなった。
これが、今どきの小説とはとても思えない。なんで年末押し迫った頃にこんなのを読んでしまったのか、と、ちょっと情けなくなった。


09086

【ぶらり散策 懐かしの昭和】町田忍 ★★★ 日本の銭湯2000軒を巡ったという著者がその銭湯をはじめ、デパート、遊郭、薬局、写真館などの昭和の建物を厳選して紹介するというヴィジュアル本で、Morris.はこういった本はほとんど無条件で楽しい。
同世代だけに、思い出にも共通項が多いし、これまでに行ったことのある建物でも新たに見なおそうという気にさせる紹介も多かった。
特にデパート。心斎橋の大丸は、あのヴォーリスの設計だが、入り口やエレベータ回りの装飾は必見である。
大阪日本橋の高島屋別館はお馴染みだが、店舗としては閉館して今は結婚式場や催事場になってしまった。でも、2階の美術館はまだ行ってない。その他難波高島屋、梅田阪急なども要再チェックだ。
遊郭では飛田、九条が紹介されてないのが物足りなかった。東京目黒生まれということもあって、どうしても東京、関東中心になるのもやむを得ない。
Morris.は大阪、神戸、京都を中心にこういった昭和の懐かし建物に出会うためにも、出来る限り歩き回りたい。


09085

【昭和のエートス】内田樹 ★★★☆ 2006年から2008年までのさまざまな媒体に寄稿した文章の寄せ集めである。ブログを中心にした著作を続々出してる内田だが、本書はいちおう寄稿原稿ということで、他の著作に比べて、メッセージ色が強いし、面白かった。
ただ、この人の悪い癖で、どうもカタカナ用語の使いすぎというのがある。それくらいはわかってるだろうし、わからなければ調べれが良いというスタンスらしいが、やっぱりMorris.としては、不満があることは否めない。
ちなみにタイトルにもある「エートス」だって、まあ何となくわかってるようでもあり、わからなくもある(^_^;)辞書によると

エートス(ギリシャ語ethos)1.(哲)性格・習性など、個人の持続的な特質。エトス。2.社会集団・民族などを特徴づける気風・慣習。習俗。3.芸術作品に含まれる道徳的・理性的な特性。気品。(『大辞林』)

やっぱりよくわからんけど(^_^;)いっそ「昭和かたぎ」くらいに理解するべきなのだろうか。腰巻から引用すると「いまの時代で失われてしまった[昭和 的なるもの]への痛切なオマージュ。反時代的心象に彩られた、極上のエッセイ集」というのは、どこかピンぼけなような気もする。

貧困は経済問題であるが、貧乏は心理問題である。「意味の問題」と言うこともできるし、「関係の問題」ということもできる。とりあえず数字で扱える問題とは次元が違う。
だから、日本で社会問題になっているのは貧困ではなく、貧乏であると考えた方がよい。
所有物のうち「とりあえず同一カテゴリーに入るモノ」を比較したとき、相対劣位にあることから心理的な苦しみを受けることを「貧乏」と言うのである。
「私は貧乏だと思って苦しむこと」は(定義上からしても)人間をあまり幸福にはしない。できれば、「これだけ所有していれば、もう十分豊かであるので、苦 しむのを止めようと考える」方が精神衛生上はよろしいかと思う。だが、「私はすでに十分豊かである」と考える人はたいへん少ない。もちろん、それには理由 がある。
もし人々が方丈の草庵を結び、庭に生えたトマトと胡瓜を齧り、琴を弾じ、詩を吟じ、友と数合の酒を酌み交わして清談することに深い喜びを見出すようになれ ば、日本経済はたちまち火の消えたようにしぼみ、遠からず日本は中進国レベルに格下げされてしまうからである。(「貧乏で何か問題でも?)

私たちの世代は「教養主義」最後の世代である。教養主義というのは、ひとことでいうと「好き嫌い」に小うるさい理屈をつけずにはすまない性向のことであ る。自分の個人的な「好き嫌い」を個人的嗜好のうちに踏みとどめることができず、それを「良い悪い」という一般的な当否の水準で論ぜずんば止まず……とい うところまで暴走してしまうのが教養主義の一側面なのである。
教養主義の時代とは、おのれの個人的嗜好についてさえ、つねに「政治的」承認を求めずにはおられない、たいへんな面倒な時代だったのである。(「喧嘩の効用」)

たしかに「今よりもっと弱肉強食の社会になれば弱者にもチャンスがある」というのは一面の真理を含んでいる。けれども、その一面の真理にすがりつく人は 「弱肉強食の社会で弱者が負うリスク」を過小評価している。強者とは「リスクをヘッジできる(だから何度でも失敗できる)社会的存在」のことであり、弱者 とは「リスクをヘッジできない(だから、一度の失敗も許されない)社会的存在のことである。社会における人間の強弱は(赤木の想像とは違って)、成功でき る機会の数ではなく、失敗できる機会の数で決まるのである。(「善意の格差論のもたらす害について」)

勇ましい核武装論や九条改訂論が出てくるのはこの平和と繁栄に対する苛立ちのひとつのかたちだろうと私は思っている。「ちょっと戦争でもしてrみるか」と いう気分に一部のおとこたちはなっている。この「ちょっと戦争でも……」という気楽なマインドこそ「平和ボケ」のもっとも重篤な病態なのである。このよう なことを言い募っている人々はこの世には「デインジャー」というものがあることをあぶんもう忘れている。戦争はコントロール可能で、愛国心の発露と市場の 賑わいと税収増大をもたらす「イベント」くらいにしか彼らは考えていない。(「父の子育て」)

私はこういう事件(秋葉原連続殺傷事件)のときに語られる社会心理学的なあるいは精神病理学的な説明に対してはいつも両義的な気持ちを感じる。それらの説 明はたしかに出来事の一部分については妥当する。なるほど、そうかと思うこともある。けれども、どこか「説明過剰」担っているような気がするのである。
その理屈では説明できないし、説明すべきでないことまで説明してしまうことによって、説明されることによって生成した局所的秩序を上回るような無秩序がそこに増殖してしまう。そういうことがあるのではないか。(「記号的な殺人と喪の儀礼について」)

「貧困ビジネス」は不況の時代にもっとも収益の高い事業ですから、目端の利いたビジネスマンたちは、これから貧しい人たちから薄く広く百円千円単位のお金 を吸い上げる新しい巧妙なシステムを思いつくのだろうと思います(こういう細かい仕事にかけておそらく日本人は世界一ですから)。でも、多くの同胞が貧し いままでいることからより多くの利益を上げ得るビジネスモデルというのは、成り立ちとしてどこかに歪みがあるように思えてなりません。(「貧困層から効率 的に収奪するビジネスモデル」の自己解題より)

いずれの言説もなるほど、と、耳を傾けさせられるのだが、Morris.はどうしても内田の「高みの見物」ぶりを「過剰意識」してしまうようだ。


09084

【作家の猫】平凡社CORONA BOOKS ★★★☆ いわゆるヴィジュアルムックで、28人の作家、画家の猫との付き合いを、配偶者や子供などの回想インタビューを付して4p〜8pくらいにまとめてある。どうせありきたりの企画だろうと思ったのだが、それなりに対象への思い入れ充分の記事が多く、楽しめた。
取り上げられてるのは、「吾輩は猫である」の夏目漱石から始まって、南方熊楠、コレット、寺田寅彦、熊谷守一、朝倉文夫、竹久夢二、谷崎潤一郎、藤田嗣 治、内田百間、室生犀星、木村荘八、佐藤春夫、大佛次郎、ヘミングウェイ、稲垣足穂、猪熊弦一郎、幸田文、梅崎春生、椋鳩十、池波正太郎、山城隆一、田村 隆一、仁木悦子、三島由紀夫、開高健、中島らもの28名だが、巻末に40人ほどの作家と作品コラム「猫の名作文学館」が付されていて、お馴染みのもの以外 に面白そうなものもあったので、心覚えに記載しておく。

・芥川龍之介「お富の貞操」 
・阿部昭「猫に名前をつけすぎると」
・荒木経惟「愛しのチロ」 ◎
・伊丹十三「わが思い出の猫猫」「猫」「ザ・ネイミング・オブ・キャッツ」 ★
・色川武大「ぼくの猫、ぼくの鼠」「生家へ」
・岩合光昭、岩合日出子「海ちゃん」 ★
・T・S・エリオット「キャッツ」
・大島弓子「綿の国星」 ◎
・尾崎一雄「トラの話」
・長田弘「猫に未来はない」 ◎
・尾辻克彦「吾輩は猫の友だちである」
・小沼丹「黒と白の猫」 
・梶井基次郎「愛撫」「交尾」 ★
・金井美恵子「タマや」 ◎
・トルーマン・カポーティ「ティファニーで朝食を」 ◎
・ポール・ギャリコ「ジェニィ」 ◎
・久世光彦「卑弥呼」
・小泉八雲「 病理上のこと」
・小松左京「猫の首」
・佐野洋子「100万回生きたねこ」 ◎
・笙野頼子「愛別外猫雑記」
・武田花「猫・陽のあたる場所」 ★
・田中小実昌「もったいぶり屋の猫」
・長新太「ごろごろにゃーん」 ★
・寺山修司「私の犯罪百科事典」
・野坂昭如「吾輩は猫が好き」
・ロバート・A・ハインライン「夏への扉」 ◎
・萩原朔太郎「猫町」「ウォーソン夫人の黒猫」「猫」 ◎
・ウィリアム・S・バロウズ「内なるネコ」
・日影丈吉「猫の泉」
・平出隆「猫の客」
・古川薫「十三匹の猫と哀妻と私」
・エドガー・アラン・ポー「黒猫」 ◎
・E・T・A・ホフマン「牡猫ムルの人生観」 ◎
・町田康「猫にかまけて」
・宮沢賢治「どんぐりと山猫」 ◎
・向田邦子「猫自慢」「六十グラムの猫」「マハシャイ・マミオ殿」 ★
・村上春樹「うずまき猫のみつけかた」
・森茉莉「黒猫ジュリエットの話」
・吉本隆明「なぜ、猫とつきあうのか」
・吉行淳之介「犬が育てた猫」


ちなみに◎は既読本、★は読んでみたいと思った本である。


09083

【ガール・ミーツ・ガール】誉田哲也★★★☆ 新潮携帯文庫連載作品ということで、ちょっと引き気味に読み始めたけど、さすが「国境事変」の作者、というか、あれとは全くジャンルもスタイルも違う子供向け、もとい、青春小説だったが、ロックギター少女とと人気女性歌手を中心とした音楽もので結構楽しめた。
発表媒体が媒体だけに、新聞小説以上に毎回盛り上げ作戦見え見えだし、音楽薀蓄も盛りだくさん。ヒロインのはっちゃけぶりも半端でないし、脇役もうまく配置されてて、時間つぶしにはもってこいである。
ギターの弦の張り方の講釈は、いまだに苦手のMorris.には参考になった(^_^;)

「お前は何度いったら分かるんだ。ペグには、弦を通した上にふた巻き、それから下に回るように巻いて、最終的には五周から六周になるようにしろと教えただろう。上下ではさみ込むことによって狂いを防ぐんだ……」


09082

【漫画ノート】いしかわじゅん ★★★☆☆ 名作「漫画の時間」から12年後に出された一冊。目次と内容をぱらぱらとみて、書架に戻したことがある。あまりに記事が短くてコラムのようだったし、とりあげられている作家や作品にもあまり興味をおぼえなかったためである。ちょうどこの期間はMorris.の漫画離れの時期と重なることもあったからかもしれない。
それでも先日読んだ別人の漫画紹介本のあまりのつまらなさから、その反動で(^_^;)、読むことにした。
結果は、第一印象通り、あまりの短さと、同じエピソードや他で読んだ内容とかぶるものも多く、1/3くらいは飛ばし読みしてしまったが、やはり作家でもあり、線や絵や構図、構成などの分析は的確で精緻だし、心底漫画好きの魂を持ち続けていることは間違いない。
周知の作品は措くとして、本書にあげられている作品中、ちょっと読みたい気になった作品をピックアップしておく。

「神童」さそうあきら
「The Spilit of Wonder」鶴田謙二
「うずまき」伊藤潤二
「天然こけこっこー」くらもちふさこ
「キリコ」木場功一
「きりきり亭のぶら雲先生」きくち正太


えらく少ないなあ(^_^;)

宝くじで三億円当たったり、観月ありさが嫁にきてくれたりすることは、まあ普通の人間にとっては大きな喜びだ。その代わり、滅多に叶うことはない。

という漫画とはまるで関係のない一節があった。最近観月ありさ熱復活のMorris.としては嬉しかった。評価の☆一つは、これの分である(^_^;)


09081

【在日音楽の100年】宋安鍾 ★★★☆☆ 著者は69年生まれの在日三世、専攻は政治学。
吉屋潤のことを書いてあるみたいだということだけで(^_^;)借りてきたのだが、なかなかに突っ込んだ考察あり、歴史的事実に関しても詳細な出典明記の記述満載で、実に裨益するところ多い一冊だった。
5章だてだが、力点は、大正期に松旭斎天勝の養女兼弟子になった「龜子(ペクジャ)を論じた2章、吉屋潤とその時代のミュージシャンを論じた3章、戦後生まれの二世ミュージシャンを論じた4章がメインとなっている。

「龜子は植民地朝鮮から隔離されて「内地」で成育し、「踊りの所作や日常的な歩き方」まで「非常に日本的」だった。逆説的だがそれゆえに、伝統朝鮮音楽や舞踊などの文化遺産に対する、当時の朝鮮社会の通念から感性的に免れていた。だから彼女は躊躇うことなく、これら文化遺産をアイデンティファイ可能な文化資本として活用し、「朝鮮新舞踊」文化創造の源泉とした。それをモダン・ダンスとアレンジして新舞踊「アリラン」へと変奏し、「唄と踊り」で表現した。さらに彼女はその「朝鮮新舞踊」を「内地」で流行した浅草オペラの方法を流用し、ジャズなどの音楽や演劇とアレンジして総合舞台「朝鮮歌舞劇」へと変奏した。はざまで引き裂かれ続けたあわいの存在という位相は、彼女の文化創造の特質でもあった。
この彼女が歩んだ道程すべてが、「在日音楽」という文化創造の祖型(アーキタイプ)ではなかろうか。
戦後日本の「主流社会」が、「純血主義」を基底とする単一文化至上主義、あるいは、「「日本人」の血と「文化」は永遠に共存する」という思い込み、を共有している限り、複数のエスニシティに跨り、複数の歴史・文化・言語を受け継ぐ「朝鮮人」などマイノリティは、「主流社会」に「同化」していても「何かが欠落した存在」として、「主流社会」に「包摂」されながら、同時にその埒外へと「排除」・放逐されてしまう。それゆえこの宙吊りの位置で、心身を引き裂かれ続けるあわいの存在=「在日」する者とならざるをえない。
かつての「龜子同様、そうした境遇を生きるミュ−ジシャンたちも、この「同化と排除の二重性」を拒み、「唄」による叛逆と蜂起を企てる。時に「朝鮮人であること」を選び取ることも、アイデンティファイ可能な文化資本として、新民謡「アリラン」など「朝鮮音楽文化」を選択し、それを文化創造の源泉のひとつとすることもある。生活の本拠地日本やそれ以外の邦や地域で学んだ各分野の音楽ジャンルの方法論を流用・アレンジしながら、どの「国民的(大衆)音楽」の範疇にも帰属しない、「在日音楽」として創造する。それゆえ「在日音楽」にも、はざまで引き裂かれ続けるあわいの存在の位相が刻まれている。やはりかつての「龜子同様、ミュージシャンたちは、「血みどろになって戦ってゐる」舞台姿をさらけ出すこともあれば、生身の存在と演唱する「声」を通じて、凄絶な鬼気迫るオーラを放ちもする。「龜子劇団とミュージシャンたちの「旅団」には、境遇を分かち合うマイノリティたちを、分け隔てと差別のない来るべき世界を予兆する「うたの公共圏」へと招き入れて抱き取り、エンパワーする移動巡演メディアとしての共通点もある。私/たちもそこで、隠然、あるいは公然とコール・アンド・レスポンスを交わすことだろう。
これらのミュージシャンたちが「龜子を知らなくても構わない。彼女ら彼らが無意識のうちに、「龜子がかつて切り拓いた道を進む限り、彼女は「在日音楽」の起源に位置する存在であり続けるのだから。


「」や横文字の多い、生硬な、はっきりいえば「悪文」だが、言いたいことは何とかわかるし、大筋では共感できる。著者はこの「龜子にかなり入れ込んでいるようで、今後に彼女の本格的論考を進める心算らしい。Morris.には全く初耳の彼女の名前だったが、たしかに在日音楽の嚆矢と言えなくもなさそうだ。

3章の初めに森彰秀『演歌の海峡』にある、朝鮮人を意味する隠語「プテキャン」のことが出てくる。

この"プテキャン"の意味は、朝鮮を彼ら流に逆さにした"船長"である、それを英語読みにした"キャプテン"を、また引っくり返したものだ。二重倒置の構造を聞いたときには、念の入った言葉の遊びだと思ったが、何度か思い出しているうちに、芸能界での朝鮮国籍を持つ人たちの扱われ方が、この奇妙な隠語に反映しているような気がした。

吉屋潤の芸名が吉屋信子と谷崎潤一郎にちなんだものだという指摘も、ちょっと意外だった。

吉屋は典型的な韓国特権階級の一員であり、10代から渡日し、血の滲む苦労を重ねて日本で「成功」を手にした永田や小畑らと同視できないこともまた事実である。
共産勢力封じ込めの観点から、米占領軍が南朝鮮と日本に堅固な「反共の砦」を構築する過程のなかで、彼は米軍キャンプやラジオ局を拠点に活動するジャズ演奏家として経験を積んだ。分断国家樹立に抵抗する民衆を、「容共分子」として掃滅する米軍・韓国軍に、音楽活動を通じて協力・貢献した。共和国や中国で対敵諜報工作を展開するキャノン機関の諜報要員候補として韓国から国交のない日本に密入国、プロ演奏家としての素養を身に付けた。そしてアメリカの支持を受けながら、元「満州国」軍将校の対日協力者朴正熙と元戦犯岸信介ら「満州人脈」、あるいは反共右翼人脈が「合作」した韓日国交樹立とともに帰国し、海外渡航自由化以前の韓国からアメリカ・日本その他諸外国へと自由に行き来してさらなる研鑽を積み、やがて韓国を代表する大衆歌謡作家として華々しい「成功」を収めた。
これら韓日に跨る人脈ネットワークは、米占領軍が反共政策の一環として温存した「帝国日本」の「遺産」に他ならない。植民地エリート出身の吉屋は、駐留米軍経由でそれを往還し、才能を開花させて「成功」を収めた。吉屋の「成功」は「帝国日本」の植民地主義が南朝鮮/韓国に遺した「遺産」を転用し、アメリカ、そして戦後日本が構築した、米韓日反共軍事体制の賜物といえるのではなかろうか。つまり、アメリカ、そして戦後日本が構築した、米韓日反共軍事体制の賜物といえるのではなかろうか。つまり、アメリカが南朝鮮/韓国に温存し、こんにちに至るまでしぶとく延命する日本植民地主義、さらにはアメリカ新植民地主義の「落とし子」それが、「解放」後/戦後から八八年に至る、朝鮮半島と日本列島の地勢的推移のなかで、吉屋が占める位相であったといえよう。


かなり「政治学者」らしい物言いであるな(^_^;) しかし、吉屋への総括がこれというのは、ちょっと可哀想な気もする。Morris.は何よりもまず、彼の作曲した歌で大好きなものがいっぱいあるから、このような視点からの物言いには、ちょっと反撥を覚えた。

4章には、Morris.もよく知ってるミュージシャンも何人か出てくるし、にしきのあきら、和田アキ子、松田優作などのメジャー歌手(俳優)から、インディーズ系まで多様だが、知名度が低いものの、二世たちに大きな衝撃を与えた歌手として、ホンヨンウンを大きく取り上げている。そして彼の友人高吉美の追悼文が引用されている。そうか、たしかに吉美ちゃんはホン君の友達だったし、吉美ちゃんの旦那の親友秋本君もホン君と何度か共演したことがあると言ってた。実は、Morris.もあの当時、一度くらいはライブ見たかもしれないがほとんど覚えていない(^_^;)。
それはともかく、この吉美ちゃんの追悼文というのが、Morris.部屋にアップしてある「うりちぷぱんちゃん」の第二回「ホンくんとロースハム」の一部だった。本書の巻末の註にはMorris.部屋のアドレスも掲載されている(@_@) まあ、ネット内部でのMorris.部屋へのリンクは時々見かけるけど、市販されてる書籍に記載されたのは、これが初めてかもしれない。

同世代の併走者たちのなかでホン・ヨンウンが、背中合わせの諸々のリスクを背負うことと引き替えに、当時のアングラ・シーンから、「在日音楽」(史)において不可逆の新たな流れを切り開いたことも否定できない事実であろう。長期間にわたるそれぞれの試行錯誤を経て、趙博・新井英一・朴保・李政美ら「二世」たちが、90年代に続々と「在日」者の心情と思索を直接にうたう本格的なアルバム作品を世に問うたこともまた、彼が切り拓いた流れの延長線上にあるひとつながりの音楽的営みとして位置づけることができるのではないかと思われる。

これまた、本書の主題とはずれることだが、おしまい付近に再引用されていた「シンパラム」に関する言及が目をひいた。

「シンパラム」という韓国語がある。強制ではなく自らの意志によって行動にかられた人間のパトス、内面的よろこびを表す言葉だ。「パラム」とは風の意であるが、人はもしこの風の気流にのれば、おのずから口の動きが歌となり、足の運びが踊りになるであろう。「シンパラム」は抑圧から放たれ、自由をとり戻し、人が人を疑う必要がなくなった社会に住む人間の心のなかに吹きみつる不思議な風である。何かシャーマニズム的神秘をただよわせるこの言葉の意味の中に、韓国人は祈りのようなあこがれを抱く。

「シンパラム」といえばイパクサである(^_^;) Morris.はこの「シンパラム」を辞書に載ってるままに「得意になって意気揚々とした気分」くらいに理解していたのだが、上の引用によると、すっごく深い意味を持っているんだな。ちょっと嬉しくもなったさ。

本書は「在日音楽」に関するきちんとした書物としては初めてのものかもしれない。そしてそれに見合った内容が盛り込まれている労作だと思う。文章の生硬なところや、フランス思想家の引用やら、堅苦しいところなどにちょっと鼻白むところなきにもあらず、だが、リキの入った好著であるといえよう。


09080

【モノクローム写真の魅力】江成常夫 松本徳彦 ★★★ 新潮とんぼの本シリーズのビジュアル本で、50人の日本の写真家の作品と解説を見開きに収めたもので、Morris.が名前を知ってる写真家は半分弱くらいか。
Morris.が好きだったり、心打たれたり、興味を覚えたりした写真家は

植田正治 うえだしょうじ
北井一夫 きたいかずお
木村伊兵衛 きむらいへえ
今道子 こんみちこ
雑賀雄二 さいがゆうじ
沢渡朔 さわたりはじめ
白川義員 しらかわよしかず
田沼武能 たぬまたけよし
長倉洋海 ながくらひろみ
奈良原一高 ならはらいっこう
林忠彦 はやしただひこ
宮本隆司 みやもとりゅうじ
森山大道 もりやまだいどう


13人中、木村伊兵衛、沢渡朔、白川義員、長倉洋海、奈良原一高、林忠彦、森山大道の7人は、まあ、Morris.にもお馴染みである。
植田正治は郷里の境港で営業写真館をやりながら「演劇的な」写真を撮り、リアリズム写真と一線を画している姿勢と作品がお洒落で面白いところが気に入った。
北井一夫は解体していく村、田舎を作品に定着しているところに着目。
今道子は鯖を素材にした作品の絵葉書を以前手にいれて、その印象が強烈だったことを思い出した。
雑賀雄二は長時間露光で夜とも昼ともつかぬ風景を現出させた作品が気に入った。
田沼武能は、Morris.の少年時代とオーバーラップする子どもたちの視線に懐かしさを覚えた。韓国の写真家チェミンシクに通じるものがある。
宮本隆司は建物の解体現場に美を発見したというだけで親しみを覚える。

本書の発行は1998年。ちょうどデジカメ普及の直前である。そのためデジカメへの言及はほとんど無く、カラーフィルムとの対比で白黒写真の魅力が語られている。大半が白黒写真の醍醐味は暗室作業にある、特に自分で自由にプリントすることの蠱惑を語る写真家が多かった。
Morris.はこれまで一眼レフカメラを所有したことすらなく、いやカメラそのものを持たない時期の方が長かったくらいだが、小学生の頃、10歳くらい年上の叔父がカメラをやってて、我が家の一室を暗室として作業していた。そこにときどき入り込んで叔父の作業を見物することが度々あった。手伝いするというのは名目に過ぎず、ほとんど見世物を楽しむだけだったが、定着液につけたフィルムがバットの液体の中でゆるやかに変化して画像が出現する場面に、不思議な興奮を覚えたことは、今でも鮮明に記憶に焼き付いている。
本書も、普通の本より印刷には気を配っているのだろうし、そのままで感動的な作品無きにしもあらずだが、やはり、オリジナルプリントでなければ、その真の良さは味わえないと思う。書籍の印刷も英語でいうとprintだが、いわゆる印画紙へのプリントとは、未だに雲泥の差というか、全く別物でしかないところに、現在までの印刷の限界が見えてくる。
近い将来、写真集や書籍などの写真印刷がそのまま印画紙のオリジナルプリントとイコールになるときがくれば、ふたたび白黒写真の隆盛が始まるような気がする。
今日、ムックさんのライブの撮影を、白黒モードで行ったのも本書を読んだばかりで、その影響があったことは言うまでもない。
まあ、コンパクトデジカメの白黒モードと、モノクロフィルムでの撮影&暗室作業とでは、これまた雲泥の差があることは、これまた言うまでもないことではあるが……(^_^;)


09079

【読んでから死ね! 現代必読マンガ101】中条省平 ★★ このところちょこっとだけ、漫画への回帰傾向にあるMorris.なので、こんな本に手を出したのだが、まるで期待はずれ。だった(>_<)
1998年から2003年にかけて「週刊文春」に連載した漫画コラムらしい。タイトルからしてたいがいである。内藤陳の「読まずに死ねるか」の安直過ぎるパクリだし、「必読マンガ」は(Morris.の基準からすると)あまりなさそうだ。
101の漫画のうち半分はMorris.の知らない作品。1/4は好きになれない作品。Morris.好みの作家や作品でもその選択には異議ありが多い。
たとえば大島弓子が「グーグー」と「なずな」、かわぐちかいじ「ジパング」、安彦良和「王道の狗」である。どう考えてもその作者を代表する作品とは言い難い。
好きな作品がたまに採り上げられていても、その見出しが、
「どん底の人生が爆発する瞬間をきりとってみせる才能に驚嘆」(西原「ぼくんち」)
「刑務所のカフカ的偏執の世界を超リアリズムで刻んだ天下の奇書」(花輪「刑務所の中」)
なんて調子で、それだけで脱力しそうになる。まあ、見出しは編集が立てたのかもしれないし、Morris.の知らない漫画にも見どころのあるものも含まれているかもしれないが、どうもこの人の評価のやり方そのものが、Morris.には気にくわない。
まえがきも何かの雑誌に書いた「現代日本マンガの見取り図」という原稿の使い回しである。
まえがきに出てくる作品

松本大洋『ピンポン』
さそうあきら『神童』『1+1は?』
皆川亮二『ARMS』
三浦建太郎『ベルセルク』
井上雄彦『バガボンド』
土田世紀『編集王』
浦沢直樹『MONSTER』
古谷実『僕といっしょ』
ねこぢる『ぢるぢる旅行記』
華倫変『カリクラ』
山野一『バンゲア』
萩尾望都『残酷な神が支配する』
岩館真理子『キララのキ』
業田良家『詩人ケン』
西原理恵子『ぼくんち』
岡崎京子『UNTITLED』
大島弓子『ロストハウス』
新井英樹『ザ・ワールド・イズ・マイン』
松永豊和『バクネヤング』
井上三太『ボン・トゥ・ダイ』
寺田克也『西遊奇伝・大猿王』
田島昭宇×大塚英志『多重人格探偵サイコ』
古屋兎丸『Palepoli』
黒鉄ヒロシ『幕末三部作』
望月峯太郎『ドラゴンヘッド』
しりあがり寿『弥次喜多シリーズ』
楳図かずお『14歳』
伊藤潤二『うずまき』
岩明均『寄生獣』『七夕の国』
内田春菊『目を閉じて抱いて』
喜国雅彦『月光の囁き』
安達哲『お天気お姉さん』
福本伸行『カイジ』
青木雄二『ナニワ金融道』
中崎たつや『じみへん』
東陽片岡『されどワタシの人生』
高野文子『棒がいっぽん』
くらもちふさこ『天然コケッコー』
鳩山郁子『青い菊』
一條裕子『2組のお友達。』
谷口ジロー『遥かな町へ』


これは1990年に限定してのセレクションだから、Morris.が親しんだ70年、80年代の作品が入ってないせいもあるが、以上40位の中で、Morris.好みの作品といえば西原の「ぼくんち」、大島の「ロストハウス」の2作だけ、ということからも、Morris.との相性の悪さは自明だろう。


09078

【うつうつひでお日記】吾妻ひでお ★★★ 2004年2月から2005年2月、ちょうど「失踪日記」発売直前のほぼ一年間の恵日記である。もともとこの時期吾妻はほとんどメジャーの仕事がなく、これらの日記は同人誌の自費出版という形で出されたものだ。「失踪日記」の衝撃で、あわてて角川が出版することにしたらしい。作品以前という感じしないでもないし、「失踪日記」と比べるのは失礼かもしれないが、これはこれで、やっぱりMorris.には身につまされるのとあいまって、じっくり読まされてしまった。
どんどん仕事が減り、鬱病の症状が頻繁に出、断酒会は続けねばならぬ分だけ煙草はヘビーになる。食事はソーメン、ラーメン、玉子御飯中心、図書館、本屋を巡回して仕事は一日数時間、部屋では読書、TV(お笑いと格闘技)、数少ない仕事ではネタが出なくて苦悩する…などなど、なかなか大変な状況だったようだが、それでも、こうやってちゃんと漫画日記として記録できてるあたりが吾妻のアイデンティティ躍如たるところだろう。
読んだ小説や漫画や番組などのタイトルと◎○△などの評点、超簡単な感想などもあり、これらの中にMorris.と共通する好みを発見、いや、かなりの部分でMorris.は吾妻とかぶるところがある。
大西ユカリちゃんのラジオ番組聴いたり、ライブCD買ったりという記事が結構目につくし、「私が読んでる本は特に買ったと書いていないかぎり全て図書館で借りたもの」というあたりも、Morris.そのままである(^_^;)
もともとMorris.は吾妻のファンではなかったし、名作の名の高い「不条理日記」も読んでない。いわゆる美少女漫画のはしりといわれているようだが、Morris.の好みとはずれているようだ。
本誌にもほとんど毎ページくらいに、女の子のカットがおまけに載せてあり、ファンはこれがたまらないのかもしれない。吾妻の女の子は足首が太いというかほとんど足首がない感じで、ルーズソックスが好きだったと本文中にも書かれていた。
ちょうどフィギュアスケート見てるところだったので、あのスケート靴をカバーするみたいなストッキングスタイルは吾妻のキャラに通じるものがあると感じたりもした。


09077

【世界は美しいと】長田弘 ★★★  2009年4月刊の詩集である。27篇が収められている。2002年から季刊誌に発表された「寛ぎのための詩集」である。(と本人があとがきに書いてる)。

そして、何もなかったはずの
机の上には、すべてのものが載っている。
十本の鉛筆。百枚の紙。
朱筆と消しゴム。大辞林。字統。(「机の前の時間)

「大辞林。字統。」が嬉しかった。これが「広辞苑。大漢和。」だったら、味気ない。と、いうかMorris.の愛用書が大辞林と字統だから、嬉しかったというだけだけどね(^_^;)

表題作を全部引用しておく。

世界はうつくしいと

うつくしいものの話をしよう。
いつからだろうか。ふと気がつくと、
うつくしいということばを、ためらわず
口にすることを、誰もしなくなった。
そうしてわたしたちの会話は貧しくなった。
うつくしいものをうつくしいと言おう。
風の匂いはうつくしいと。渓谷の
石を伝わってゆく流れはうつくしいと。
午後の草に落ちている雲の影はうつくしいと。
遠くの低い山並みの静けさはうつくしいと。
きらめく川辺の光はうつくしいと。
おおきな樹のある街の通りはうつくしいと。
行き交いの、なにげない挨拶はうつくしいと。
花々があって、奥行きのある路地はうつくしいと。
雨の日の、家々の屋根の色はうつくしいと。
太い枝を空いっぱいにひろげる
晩秋の古寺の、大銀杏はうつくしいと。
冬がくるまえの、曇り日の、
南天の、小さな朱い実はうつくしいと。
コムラサキの、実のむらさきはうつくしいと。
過ぎてゆく季節はうつくしいと。
さらりと老いてゆく人の姿はうつくしいと。
一体、ニュースとよばれる日々の破片が、
わたしたちの歴史というようなものだろうか。
あざやかな毎日こそ、わたしたちの価値だ。
うつくしいものをうつくしいと言おう。
幼い猫とあそぶ一刻はうつくしいと。
しゅろの枝を燃やして、灰にして、撒く。
何ひとつ永遠なんてなく、いつか
すべて塵にかえるのだから、世界はうつくしいと。


「うつくしいと」という平仮名書きのリフレインがちょっと「うっとうしいと」いう気がしないでもないが、最近の長田の作風がよく現われている。

替えがたいものは、幸福のようなものだ。
世界はいつも、どこかで、
途方もない戦争をしている。
幸福は、途方もないものではない。
どれほど不完全なものにすぎなくとも、
人の感受性にとっての、大いなるものは、
すぐ目の前にある小さなもの、小さな存在だと思う。(「大いなる、小さなものについて」)

そうだ。わたしは頑なに信じているが、
モノクロームの、世界のすがたは、
どんな色彩あふれる世界よりも、
ずっと、本当の世界に近いのだ。
−−−−−−−−−−−−−−−−
世界を、過剰な色彩で覆ってはいけないのだ。
沈黙を、過剰な言葉で覆ってはいけないように。(「2004年冬の、或る午後」)

読むことは、本にのこされた
沈黙を聴くことである。
無闇なことばは、人を幸福にしない。(「聴くという一つの動詞」)

グレン・グールドが自身ピアノの曲にした
ワーグナー「ニュルンベルクのマイスタージンガー」
第一幕への前奏曲。その曲だけは、
いまでも、レコードで聴く。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
芸術は完成を目的とするものではないと思う。
微塵のように飛び散って
きらめきのように
沈黙を充たすものだと思う。
あらゆる時間は過ぎ去るけれども、
グールドの9分32秒は過ぎ去らない。
聴くたびに、いま初めて聴く曲のように聴く。
いつもチョウムチョロム(初めてのように)という
韓国のソジュ(焼酎)を啜りながら、聴く。
一日をきれいに生きられたらいいのだ。
人生は、音楽の時間の用だと思う。(「グレン・グールドの9分32秒」)


これくらいプッシュされると一度聴いてみたくなるよな。
韓国のソジュの銘柄を強引にもってくるところがおかしかったりもした。
またあとがきには、こんな文章もある。

もうここにいなくなったものの存在をすぐ間近に感じるのは、そのようなときだ。それは、みえない消滅点をまたいで、姿を消し去ったものが後にのこしてゆくものが、この世界の、そのような何気ない美しさだからなのだと思う。(あとがきより)

2006年の詩集「人はかつて樹だった」で、身近な人の死の近づきがそれらの詩を書く動機になったと記されていたが、この新しい詩集はどうやら、その死の後の思いのようだ。
作品としては先の詩集の方が深みがあったように思う。こういった性格の詩集への批判的ものいいはやりにくいものである。それだけを記してしまいにする。


09076

【砂漠】伊坂幸太郎 ★★★☆☆ 3冊目である。とりあえずこれまで読んだ中で一番面白かった。東西南北を苗字に持つ4人ともう一人の大学新入生4人(もう一人鳥井を入れて5人)の交友を春夏秋冬4章に分けて描いた構成で、エピソード風な4年後の短い春の章がおまけについている。この苗字は全体を通して頻繁に行われる麻雀とリンクしているようだ。
本書にも前読んだ本に出てくる一種の超能力を持つ女性や、新進政治家の雛形みたいなのも出てくるし、社会批判みたいな部分もあるし、伊坂という作家の拠って立つ何かがあるのだろうが、あまりこれが続くとちょっと厭になるかもしれない。

「賢くて、偉そうな人に限って、物事を要約したがるんだよ」
「と言うと」
「超能力はこうだ、とか、信じる人はどうだ、とかね。たとえば、映画を観ても、この映画のテーマは煮干しである、とかね、何でも要約しちゃうの。みんな一緒くたにして、本質を見抜こうとしちゃうわけ。実際は本質なんてさ、みんなばらばらで、ケースバイケースだと思うのに、要約して、分類したがる。そうすると自分の賢いことをアピールできるから、かも」
言えてるかもしれないな、と僕は餃子を、醤油ダレの小皿に浸けつつ、うなずいた。それから、煮干しがテーマの映画とは何だ、と思う。


サンテグジュペリの「人間の土地」からの同じ部分の引用が登場人物二人の台詞の中に出てくる。

「人間とは、自分と関係のない不幸な出来事に、くよくよすることだ!

彼方で人々が難破している時に、手をこまねいてはいられない!」

「どこか遠くの彼方にはなんぱしている人たちがいるんだ、こんなに多くの難破を前に腕をこまねいてはいられない、我慢しろ、今、ぼくらのほうから駆けつけてやるから!

にんげんであるということは、自分には関係がないと思われるような不幸な出来事に忸怩たることだ」

巻末の参考文献には新潮社版堀口大學訳の「人間の土地」があげられているが、上の二人の引用ではどちらも、Morris.の嫌う「腕をこまねいて」になっている。堀口訳がどうなってるのかたしかめたくなった。

一向に、本作のストーリーなどに触れないでいるが、これはMorris.の作為である。
もうしばらく伊坂読んでみよう。


09075

【秘密の本棚】いしかわじゅん ★★★☆ 先日中央図書館で見かけた「漫画ノート」があまりに細切れのコラムみたいなので、ぱらぱらと見て、読むのをやめたが、本書はそれに比べるとちょっと長めである。あとがきによるとこれはネットで発表したものらしい。
「漫画と、漫画の周辺」と副題にあるとおり、新旧取り混ぜての漫画家、作品の話はもちろん、いしかわ個人の漫画歴、明大漫研の先輩後輩、、アシスタント群像、編集諸氏との交遊など、多岐にわたっている。ネット書き流しの雑なところもあるが、やっぱり漫画を見る目は凄いものがある。かなり辛口だったり、自弁っぽい部分も目立つが、かえってそういった部分が面白くもある。
矢作俊彦がダディグースというペンネームでアメコミタッチで漫画描いてたといのは本書で初めて知ったし、佐藤まさあきの不思議さ、山田詠美と原律子の接点、山松ゆうきちのインド行き、のだめの二ノ宮知子の酔っ払いぶりなど、エピソードとしてだけでも興味深かった。
NHKの「BS漫画夜話」の話題もかなり頻繁に出てくるが、これはBS見られないMorris.にはちょっと困る(^_^;)
永島慎二を採りあげた、「ぼくらの罹ったハシカ」が一番印象に残った。

高校生になっていたぼくは、永島慎二の世界に魅了された。おそらく、ぼくだけではなく日本中の漫画少年たちが、永島慎二にはやられたのだ。多くの漫画新世代の読者たちが、永島慎二には夢中になった。。全存在を懸けてきたものには、全存在で返すのだ。それが礼儀というものだ。
しかしその読者たちは、ある日ふと思うのだ。自分が夢中になっていたものは、ずいぶんと浅いものではなかったか。わかりやすい分、単純で薄っぺらい価値観に、ぼくたちはのぼせ上がっていたのではないか。
人生をわかったように語られ、示されたようn見えた道も、また新たな迷路であったにすぎない。難解に見えた韜晦も、ただの世捨て人の世迷い言であったのかもしれない。あれほど魅力的だった絵も、よく見ればモジリアニやシャガールやビュッフェの翻案にすぎないようにも見える。
大学生くらいになると、少しは遠くが見えるようになる。その目で見た永島慎二は、急に色褪せることになるのだ。
こうして、永島慎二は若いころにかかるハシカと認定され、長い間、評価の対象から外れていた。


実はMorris.も、これとほとんど同じような思いを持っていた。何か懐かしさより気恥ずかしさを感じるのだ。しかし、いしかわは、そこにとどまらず、再検証を試みている。

読み返してみれば、『漫画家残酷物語』も『フーテン』も、もう少し後に描かれた『若者たち』も、青臭く懐かしい作品だ。
この時期、彼らは真摯に生きたのだ。
確かに、表現はあまりにも直接的で、甘く安易な部分も多かった。しかし、真実はあった。その真実こそが、ぼくらを動かしたのだ。人格形成期にあったぼくらの心を揺すぶり、ほかの誰でもない永島慎二という存在を際立たせたのだ。
ぼくらは永島慎二を過剰に大きくし、そして過剰に落胆したのだ。
若き日の永島慎二が薄っぺらだったのと同じように、幼き日のぼくらもまた、未熟だった。永島慎二の意味を充分に理解できないほどに、未熟だったのだ。


うーーむ、その通りである。ここまで思いが及ばないあたりが、Morris.の精神回路が膠着化してる証拠なのかもしれない。こうなると、やはり「漫画ノート」も読んでおかねばという気にさせられてしまう。


09074

【ゴールデンスランバー】伊坂幸太郎 ★★★☆☆ 前に「魔王」を読んでちょっと興味をひかれての2冊目である。いや、面白かった。野党から出馬して首相になった金田が地元仙台で爆弾を積んだラジコンヘリコプタによって暗殺され、その容疑者にされてしまった青柳雅晴が逃げ回るというストーリーで、ケネディ暗殺事件を下敷きにしていることはすぐわかったが、構成が緻密で、なかなかよくできた作品である。
金田首相というのが「魔王」の新進政治家とかぶるところがあり、セキュリティポッドという市民管理システム機構など、社会的批判の姿勢も見られるし、学生時代の彼女とのかかわりやら、入院患者の複数の手助けなど、うまく全体のストーリーにからめて読み飽かさせないところなど、大したものである。

目撃情報が次々と流れる。当然ながら、すべてが正しい情報であるはずもなく、情報同士が矛盾し合うものも多かったが、テレビ局はそのことはまるで意に介さず、もしかすると矛盾自体も青柳雅春が起こした混乱で、自分たちは悪くない、とでも考えているのかもしれなかった。「仙台市内に設置されているセキュリティポッドから、様々な映像や音声が収録され、今、警察で分析中のようです」とアナウンサーが言う。セキュリティポッドねえ、と樋口晴子はソファに腰を下ろした。自分の携帯電話の通話情報も警察には調べられている。何もかもお見通しなのか、と思うと青柳雅春に同情する気持はもとより、それ以上に、監視ツールを駆使し、一般人を包囲する警察や権力者たちへの怒りを強く感じた。
「偉い奴らは紅茶を飲みながら、脚とか組んじゃってよ、俺たちのことを高見の見物してるんだぜ。腹立つよな?」と言った森田森吾の声が急に思い出された。


事件を盾に、関係者の電話盗聴、カメラによる監視の強化が、上からの押し付けでなく、市民の側から自発的になされるように仕向けられるやりかたなど、何となくじわっと怖くなるところである。
ところで、本筋とは無関係だが「高見の見物」はないだろう。ちゃんと「高みの見物」としておいてほしかった。
終盤、青柳がマンホールから逃亡する場面で、昔仲良くなった花火師連中がいっせいに花火打ち上げて逃亡を助けるというのは、読者サービスかもしれないが、ちょっとわざとらしさが強すぎると思った。わざとらしさで出来上がった小説ではあるけどね(^_^;)。
ともかく、この人のものをこれからもしばらく読んでみよう。


09073

【やっとかめ探偵団と鬼の栖」清水義範 ★★★☆ シリーズ5冊目で、いちおう一番新しい作品ということになるらしい。2002年発行だから、このシリーズはほとんどストップ状態なのかな。
昨日読んだ「やっとかめ探偵団と殺人魔」が3作目で93年だったから、かなりスパンが長いのかもしれない。忘れた頃に新作が出るという可能性もありそうだ。
本書は表題作と「やっとかめ探偵団と唐人お吉」の2篇が収められている。ヒロイン波川まつ尾は、相変わらず74歳、つまり、サザエさん方式で、登場人物は年を取らないことになってるようだが、時代背景は発行年に準じている。
表題作は幼児虐待、次作は水商売時代の昔の男(チンピラ)に付きまとわれて掴みかけた幸福を逃す女性の話と、結構暗いテーマなのだが、例によって眼目はストーリーではなく、四方山の薀蓄、名古屋のdeepな紹介などを楽しめばそれでよい。

近頃の若あ人は、なんでも気に入った物を欲しがってまって、我慢するということができない。欲しい物は手に入って当然で、そうでなければ自分がひどい目にあっているかのように感じてしまう。
誘惑だらけの世の中であり、しかも、たとえ現金を持っていなくたって物が買える仕組にになっているのだ。その店のカードを出せば、何回払いにしますか、ときいてくる。自動的にローンになってしまうのだ。
サラ金のCMはうんざりするほどテレビから流れてくる。どんどん金を借りて、欲しいものは全部買えと世の中があおっているのだ。


これはMorris.、ずっと前からそう思ってたことだ。TVに限らず、マスコミで何であのように大っぴらに高利貸しのCMを垂れ流しにしておくのか、理解に苦しむところである。

一般的に言って、愛知県では、若者が大人びた発言をする傾向が、他の都市より強いような気がする。社会人になるとあっという間に、いつまでも世間知らずな子供じみたことは言っとれんがや、という考え方をするようになるのだ。世の中に通じたいっぱしの大人を高く評価する風潮があるのかもしれない。
そのことは、悪く言えば、エネルギーに満ちた若者文化が育ちにくい、ということになるのだが、よく言えば、社会秩序がよく保たれる、ということだ。


こういった何気ない指摘も、名古屋インサイダーの著者ならではの物言いだと思う。清水は名古屋への愛着を持ちながら、ただお国自慢するのではなく、長所、短所見究めた上で適切な分析をしてる姿勢が好ましい。
ストーリーは置いとくと言ったが、2作目の不幸な女性が、縁もゆかりもない他人を、チンピラ殺害のための青酸ソーダの毒見で殺してしまうという展開は、あんまりだ。これは絶対避けるべきだったと思うぞ。ネタバレになるけど、これは明らかに清水のミスだと思うので書いてしまう。
探し回ってまで読むほどのことはないが、また目についたらシリーズ他の作も読んでみよう。


09072

【やっとかめ探偵団と殺人魔】清水義範 ★★★☆ 清水作品はけっこう読んでるが、このシリーズは初めて読む。名古屋中川区に住むお菓子やのおばあちゃんまつ尾を主人公とする、ユーモア推理小説ということは読まなくともわかってたが、暇つぶしできるものをと思って、三宮図書館にあった2冊を借りてきた。思ったよりうんと面白かった(^_^)
ウィキペディアで調べたら、このシリーズは5作発表されてて本書は3冊目で1993年の発行である。
「長編推理小説」と銘打ってあるが、6編の短編が集まって、通して読むと一つの物語になってるという形式である。しかし推理小説としてはあまりに大雑把なものである。まつ尾とその周辺の名古屋のおばあちゃんらの生態と、風俗を楽しむにしくはない。
ところでこの「やっとかめ」は「久しぶり」の名古屋弁だが、これは「八日十日め」の約ではないのかと、ひらめいたが、どうだろう?*これは「八十日目」というのが正しいようだ(^_^;)

「強姦殺人とはちょっと違うだわな」
「変な話だなあ」
変といえば変だけれど、いろんな人間がいるからなと、まつ尾は思った。
「乱暴って、強姦のことでしょう」
「うん。新聞はそういう言葉使うわな」
「そんだけどよう、乱暴って、頭を殴ったりするのも乱暴だろう。強姦のことを乱暴と言ったら、話があやふやになれせんきゃあ」
なかなか鋭い意見を言うではないかとと、松尾は生田ハツの顔を見た。
「そんでも、新聞に強姦とはかきにくいんだわさ」
と早坂千代。
「そんなら、狼藉と書きゃええが。それなら何があったかようわかるでえ」
「そんなもん、今の人にはよけいわからんわ」


こういったところが、Morris.には面白かった(^_^;)
先のウィキペディアによると清水は今年2009年に中日文化賞を受賞したらしい。
ついでにウィキペディアの彼の略歴の一部を引用しておく。

奇想とアイディアには定評があるが、狂気を帯びた毒、尖鋭的な実験には走らず、穏健な人間性の滲み出たものが多く、安定した人気を誇っている。

なかなかうがった紹介である(^_^;)


09071
【官能小説家】高橋源一郎 ★★★☆☆☆ この人の作品を読むのは初めてである。実は以前「文学がこんなにわかっていいかしら」という評論集?みたいなのを、立ち読みして何となく敬遠してそのままになってた。
斉藤美奈子さんをはじめいろいろな書評でも好意的に採りあげられてるし、やっぱり読んでみるか、ということで、本書を読むことにした。
自分をモデルにした小説家が朝日新聞に連載始めることになり、タイトルを「官能小説家」にする。そこに明治の文豪が続々現代に訪れ始める。樋口一葉に小説指導する半井桃水を中心に、AV男優になった森鴎外が一葉に惹かれ恋人になるなどはちゃめちゃのストーリー展開ながら、ところどころにまっとうな小説論が出てきたり、シニカルな批評があったりで、結構面白かった。
しかし、本書で一番面白かったのは筒美京平作品を並べての御託と、森鴎外の口を借りて明治の文豪なぎ倒しの箇所だった。この2箇所だけで、Morris.は本書に☆二つ追加してしまったよ(^_^;)

有線で西田佐知子の「くれないホテル」が流れていた。渋いリクエストだ。筒美京平の曲だ。しかし、それはエンゲルベルト・フンパーディングの「ラスト・ワルツ」によく似ていた。続いて、南沙織の「17才」がかかった。おれの好きな曲だ。これも筒美京平の作曲だ。でも、それはやはりリン・アンダーソンの「ローズ・ガーデン」にあまりに似ていた。おれは耳を澄ました。今度はマッチの「ギンギラギンにさりげなく」だった。誰だか知らんが、同じやつがリクエストしてるにちがいない。またまた筒美京平だ。作詞は伊集院静だけど。おれは心を静めるために、水割りに胡椒を入れた。なんだかそうしたい気分だった。これは「ギンギラギンにさりげなく」じゃなくてクインシー・ジョーンズの「愛のコリーダ」じゃないだろうか? わからん。世界はどうなっているんだ。おれが悩んでいると、曲はいつの間にかトム・ジョーンズの「ラブ・ミー・トゥナイト」に変わっていた。間違えた。少年隊の、というか筒美京平の「仮面舞踏会」だった。いや、それも間違い! 俊ちゃんの、というか筒美京平の「抱きしめてトゥナイチ」だ! そんなの専門家でも区別がつかんぞ。おれは興奮して立ち上がりそうになった。こういうのをパクリだというアホな連中がいる。筒美京平はベンヤミンの「複製技術時代の芸術」の悲劇を一身に体現しているのだ。やつがやっているのは単なる創作よりずっと高級なことなんだ。頑張れ、筒美京平!
有線から流れているのはもう筒美京平ではなかった。安室奈美恵の曲だった。というか、小室哲哉の曲だった。というか、ダイアナ・ロスとシュープリームスの「またいつの日にか」じゃないかとおれは思った。でも、そういうことをいっちゃいかんのだ。おれは酒を飲んだ。もちろん、おれのボトルの酒だった。

鴎外はおれを無視したまま、おれの本棚の本を指さした。相田みつをの本だ。本? 本かよ、これ。書道のお手本じゃないの?
「おい、そりゃ、なんだ?」
「売れた本だよ」
「面白いのか?」
おれは両手を胸に当てて考えるふりをしてみた。
「ノーコメント」
「なるほど」鴎外はニヤリと笑った。ひとを小馬鹿にしたような笑いだった。
「お前、それだからダメなんだよ。人間、いわなきゃならん時がある。その時は、ガツン! と一発かますんだ自分に正直にな。そして、世界を凍りつかせてやれ。そうでなきゃ、作家になった意味がないだろ」
「お言葉を返すようですが」おれはいった。「あんた、そんなこと他人にいえた義理?」
おれはちょっとこのおっさんをからかってやろうと思った。
「漱石っていたろ。夏目漱石。あんた、どう思ってたわけ?」
「女房の尻の下に敷かれてた哀れなやつだな。子分を集めて悦に入ってたただのアホさ」
「小説は?」
「やつの小説なんかどれも一緒じゃないか。一つのネタで5つも6つも書きやがって、いい根性してやがる」
「ふーん。じゃあ藤村は? 島崎藤村。知ってるよね」
「ああ、書くことがなくなるとその度に自分でスキャンダルを起こしてたケチくさいやつか。陰気くさいのが文学だと思ってた勘違い野郎だね」
「ちょっと待て、じゃあ、幸田露伴は? あんた、友だちだったろ?」
「ただのオタクだよ。つまらん知識はたくさん持ってたけど、使い途を知らなかったな。長生きして娘が優秀だっただけだよ」
「おいおいあんた、それ、なんか根拠があるわけ?」
「根拠なんかないよ。気にくわないだけさ。いまなら、なにいっても文句をつけられる心配ないからな」
「じゃあ、あんたも当時は遠慮してたわけ?」
「当たり前じゃん」
おれはちょっとだけその生意気なジジイが好きになった。まあ、ちょっとだけだが。


ぐはははは(^_^) もう少し高橋作品を読み続けてみることにしよう。


09070

【魔物上下】大沢在昌

★★☆☆ ロシアのイコンに憑いた魔物が、殺し屋から日本の暴力団Wwwqさcv幹部にのり移り、さらに主人公である麻薬捜査官のトラウマとなってる同級生の殺人鬼と合体する。
魔物は人間を殴り殺すはおろか、銃で撃たれても血を流さず、ほとんどゾンビ(だから魔物なんだけど)状態、仲間の死を何度も経験し、若いロシア女性の助力を得て、魔物を追いつめていく捜査官、警察との軋轢、暴力団の圧力、まあ、はっきり言って、荒唐無稽の冒険譚だが、大沢作品としてもかなり雑な作品だと思う。もちろん時間つぶしにはなったけど。


09069

【影絵の騎士】大沢在昌 ★★★ 近未来、東京湾の人工島は原発と映画村で一種の治外法権状態。混血孤児(ホープレス)で腕利きの探偵になり、今は引退した主人公が、同じ境遇から売れっ子小説家になった友人から妻の警備を頼まれ、人工島にわたる。妻は島の主とも言える老人の孫娘の女優で、これに島の自治警察や原発警察、マスコミを乗っ取ったネットワークの作為的殺人鬼、などがからんで、さまざまの抗争、かけひき……これまたかなり大雑把な作品だった。
ネットワークがインターネットへの風刺だというのはわかるが、それがいかにも、とってつけたようである。

「ただのメディアじゃないですか、観たくなければ、観なけりゃいい。多少不便を感じたとしても、それで生きられないというわけじゃない」
佐藤がいった。
「そうさ。皆がそう考え、自分たちには選択の自由があると信じている。だがいつのまにか、情報をもたらすのはネットワークだけになっちまった。そのことの意味に、気づいている人間が少なすぎる」
「確かにそれは問題ではあるでしょう。でも私は警官になって気づきました。人間というのは、自分とその周囲さえ幸福であるなら、生きていけるんです」
「それを保証しているのがネットワークなのさ」
「どいういうこと?」
「どういうことです?」
キャロルと佐藤が異口同音に訊ねた。俺は前方に見えてきた、巨大な墓石の連なりのような、ナカノニュータウンに車を向けながらいった。
「佐藤のいったことには欠けてるものがある。自分とその周囲の幸福に、会ったことのない奴の不幸が加われば、さらに人間は幸せになれるって理屈だ。自分たち以外の人間が、この世界でどう生きているかまるでわからないとしたら、人はむしろ不安になるものだ。自分よりもっといい暮らしをしている奴がたくさんいるのじないか、本当は自分たちは不幸なのじゃないか、とな。この世界のことをもっと知りたいという気持ちは誰にでもある。そしてその欲望が満たされると、人は幸福を感じる。できればそれが、自分より不幸な人間の存在や、悲劇の情報であれば尚さらいい。災害や大事故、戦争のニュースが、なぜレーティングを稼げるか考えてみるといい。悲惨だ、かわいそうだといいながら、それが自分の運命じゃなかったことに、皆ほっとし、幸福を感じているのさ」

主人公の発言がこの程度に皮相的なことからも、おおまかな作品の質がわかるだろう。


09068

【写真の読みかた】名取洋之助 ★★★☆ 岩波新書1963(昭和38)初版発行。定価は\130。名取の名前くらいは前から知ってたけど、竹村嘉夫が講談社現代新書「写真を撮る」の中でこの本をえらく推奨するので、読まねばと思っていたのだが、今日中央図書館で請求して書庫から出してもらった。
名取は1962年に52歳で亡くなっている。つまりこの本は死後の出版で、10年前くらいから岩波新書のために書こうとしていた原稿に、その他の原稿、雑誌発表の記事などを寄せ集めて作られたものらしい。
戦前若くしてドイツに渡り、当地でカメラを始め、すぐにドイツの一流グラフ誌の契約カメラマンになり、帰国して日本工房を立ち上げ「NIPPON」を刊行、米国「ライフ」社とも契約を結ぶ。戦後は岩波写真文庫の責任編集者となる。日本報道写真の先駆け、重鎮として、いわゆる芸術写真とは一線を画して、組写真を得意としたようだ。

私は写真を写す時、まず誰のために、何を通じて、何を語るか、ということを考えます。……何を写すか。どんなことでもよいから、社会的に意義のある作品を残すことが、報道写真家や雑誌社の第一条件であり、ジャーナリストとしての取材意欲の根本でしょう。こうして、しっかり自分の場がきまれば、自分の語りたいことをどう表現するか、という問題がおこります。自分の感じたことを間違いなく人に、伝えるためにはどうしたらよいか。そのためにはあるていどの技術が必要になりましょう。写真が視覚的に訴えるものである以上、視覚を不愉快にしたり、混乱させたりすることは得策ではありません。あるていど、視覚的に安定したものであり、写真の要点に見る人をひきずってゆく技巧が必要になります。といって、何も対象そのものが写真的に美しい必要はないのです。むしろ写真的に対象を美しくしてしまって、かえって語ろうとする物への印象を誤らせることが多い。私は、どちらかといえば、きたないもの、不愉快なものを強調するような写真技術を会得したいと思うことがあります。まったく、印画に現われる写真化学の美しさが、語ろうとすることを、邪魔することさえあるのです。……(『アサヒカメラ』1952年1月号)

末尾にある「名取洋之助メモからの抜書きだが、あまり文章は上手いとは言えないな(^_^;) この人は物書くのが苦手で、原稿はたいてい口述筆記だったらしい。それでも言いたい事はわかる。かなり癖の強い人でもあるらしい。

人間の眼で見る範囲は限られてはいるが、枠にはめられていないのに対して、写真はすべて一定の枠で対象を切りとります。これも写真の大きな特徴です。
私たちはトンネルの出口の黒い惑を通して見た景色、ビルの窓の四角な枠から見た風景の美しさにハッとすることがあります。ところが、期待してトンネルを抜け、窓から首を出してみると、案外つまらない。平凡な風景なのです。枠による錯覚で、枠が風景を美化してしまうのです。写真の展覧会といえば、ほんの少し前までは、かならず額ぶちにいれたのも、そうした方がきれいに見える彼ですし、汚ないものを、汚なく写真に撮るのが、きれいなものをきれいに写真に撮るよりも、はるかにむずかしいのも、写真の枠という制約のためなのです。

写真の読みかたにいろいろあるところに、写真を使う側にも、見て、読む側にも、重要な問題が潜んでいます。寺田寅彦は「地図をながめて」という随筆で、地図の語る言葉に馴れ親しんでいるものにとっては、一枚jの地形図はあらゆる有用な知識の宝庫であり、忠実な助言者である。たとえば、地形図のなかからどこか一寸四方をとって、そこに盛りこまれているあらゆる知識を言葉に翻訳しようとするなら、それはたいへんな仕事である、という意味のことを書いていますが、写真の場合も同様です。

写真は、なんといっても、具体的であるだけに、あまりにもいろいろに読めてしまいます。見る人の趣味や教育、教養のていど、政治的、社会的な興味の違いが、写真の読みかたをかえてしまいます。それだけに、組写真の場合にはとくに、作者の意図を正確に読者に伝えるための、周到な容易と充分な計算が必要です。同じねらいの組写真であっても、読者層が違えば、当然、写真の選びかたも、並べる順序も違っていなければなりません。

高い建物を写すと、上の方が小さくなります。私たちは正面から見た丸ビルを考える時、たくさんお窓のある矩形を頭に浮かべますが、地上に立って丸ビルを写すとこうはなりません。上の狭い、梯形のビルになります。レンズの眼の性質に人間が馴れたために、原因と結果を取り違えるのです。現在、低い建物を高く見せようとする時には、とくに遠近感の強くなる広角レンズを使うのは、このとり違えを利用しているのにほかなりません。
こうした例亜h、このほかにも、いろいろありますが、いずれの場合も、写真を見せる側と見る人との間に、暗黙のうちにせよ、いつもあるルールがあることを語っています。粒子のあれた汚ない写真ならば、なんとなく真実感があるというのも、j一つのルールですし、上が細い建物は高いというのもルールです。
このルールの存在は、ルールを知り、それを逆用すれば、写真で嘘をつく可能性を生みだします。写真は組むことによって、写真の内容とは別個のストーリーがつくれることは、まえに述べましたが、一枚の写真でも、読みかたのルールを知っていれば、かならずしも、事実に制約されないのです。


「芸術写真」への対抗意識からか、一枚の写真作品より、組写真へ傾いたという点にはちょっと疑問なくもないが、Morris.日乘での小さな写真を並べるスタイルだと、結果的に組写真構成的になるわけだから、いろいろと参考にもなった。


09067

【例外社会】笠井潔 ★★★☆ 「神的暴力と階級/文化・群集」と副題にあり、表紙に

グローバリズムは何をもたらしたのか? 非正規雇用者とワーキングプアの激増、サブカルチャー的な知性の台頭、反テロ戦争と世界内戦−−。「ゆたかな社会」が終焉したとき、人間は群集に変貌し、未曾有の例外状態が到来する!
21世紀、日本社会の現状を世界史的なレベルから把握し、新たな社会思想の潮流を展望する、著者渾身の本格長編評論。


と書いてある。(^_^;) 
Morris.は結構笠井の作品は読んでるし、とんでもない厚さの長編も数本あったけど、もともと長編好きのMorris.だから、面白ければ長いほど嬉しいみたいなところがあるのだが、評論で長編となるとちょっと、びびる。本書は700pもあって厚さも5cm近い。それでも笠井の21世紀社会論なら見どころがあるかもしれないと読み出したのだが、やっぱりしんどかった。
もちろん興味を覚えたり、なるほどの考察も結構あるのだが、やたら引用が多く、それがまたそれぞれに業界用語の多い難解な(Morris.には)文章が多く、同じところを何度も読み返したり、読み返しても結局良くわからなかったりで、ほとんどここ一週間近くこの本に時間とられてしまった。
笠井自身が深くかかわった60年全共闘運動への現時点からの分析などは流石だと思うところ多かったし、同世代でありながら、ノンポリ路線を歩んでしまったMorris.にはいささか耳の痛い言説もあった。

世界史上、最後に登場した帝国主義国としての日本には、戦前の講座派経済学者が過剰なまでに強調したような、「前近代的・半封建的」特質があった。その焦点は寄生地主制であり、膨大な過剰人口を抱えこんだ貧しい農村の存在である。イギリスやフランスはむろんのこと、19世紀には後進国だったドイツでさえ、20世紀に入った時点で資本主義的に分解可能な農村人口は枯渇していた。
欧米よりも20年ほど長く続いた日本経済の繁栄の秘密は、新卒一括採用と終身雇用制、賃金と地位の年功序列、護送船団方式と中小企業の系列化と企業内労働組合、現場労働者の創意や情熱を企業が動員しうるシステム(QC運動など)、その他もろもろの日本式経営システムではなく、出発点における農村の過剰人口に見いだされなければならない。ある意味で第二次大戦後の日本農村の資本主義は、前近代的・半封建的な「遅れ」や「歪み」を、経済成長のための優位性に転化しえたのだ。言語や文化を共有しない移民労働者は、単純なマニュアル労働にしか向かない。労働者の創意や自発性までを徹底的に収奪する日本式経営の高度な生産性は、低廉な新規労働力を国内で大量に調達しえたという固有の条件に支えられていた。
しかし、このシステムが有効に機能しえたのは1970年代までのことで、80年代以降は農村の過疎化と高齢化が、加速的に累積し続ける重大な社会問題となる。また90年前後には、団塊の世代を中心とする集団就職世代が40歳を超え、年功序列の賃金システムが企業の固定費を急増させた。これに平成大不況の圧力が重なり、リストラという名の人員削減や強制解雇にほとんどの企業が走りはじめた。

今日、ネオリベラリズムを批判する左翼リベラルの大半は、20世紀後半の福祉国家と完全雇用制が復活することを無責任に夢想している。この点からすれば、左翼リベラルは19世紀的ではなく20世紀的といえるかもしれない。しかし左翼リベラルが理想化する福祉国家もまた、総動員体制を構造化した20世紀的な例外国家にすぎない。そこには「平和」的な戦時体制という倒錯が存在した。この倒錯を、19世紀的な社会的理想の実現と思い違えたところに、「配分の正義」を掲げる現代リベラリストの限界がある。

ネオリベラリズム社会の勝者である堀江貴文を、敗者の「下流」(三浦展)青年層が圧倒的に支持したといわれる。ネオリベラリズム批判派は、こうした事実を妥当に説明することができない。フリーター的な「下流」青年層は、ジャージやTシャツを着てコンビニや100円ショップで買い物をしても不自然ではない、自分たちと変わらないホリエモンのライフスタイルに共感した。
郊外化にたいする東浩紀の態度は両義的だ。一方では「それでそれですばらしい」と評価し、他方では「格差を覆い隠す装置」ではないかと疑問を呈している。「下流」青年層による社会的な流動化の要求には、現実的な根拠もあった。佐藤俊樹『不平等社会日本』によれば、第二次大戦による社会的流動化は日本の階層格差を一時的に低減させている。しかし社会的な規模で「ガラガラポン」を求める集合的心性には、スタートラインの暴力的な再設定という動機には還元されえない、「セカイ系」的な黙示録的破局への願望も含まれている。
いうまでもないが21世紀的な例外社会は、富と権力と威信が万人に等しく分配される業堂社会ではありえない。そのような文明社会はかつて一度も存在したことはないし、制度的には今後も実現されることはないだろう。比較の問題としては、20世紀後半の福祉国家による「ゆたかな社会」、総中流社会は「平等」だった。しかし、この平等社会はすでに崩壊した。
格差化/貧困化の急激な進行は、総中流という社会意識が隠蔽していた日本社会の階級性を劇的なかたちで再露出させた。にもかかわらず、不可避に進行する格差化/貧困化は、東浩紀が指摘したように生活様式(ライフスタイル)の階級的な差異としては可視化されていないように見える。

第二次大戦後、とりわけ高度経済成長とともに、熱病のような高学歴化の時代が到来する。学歴差別が改善されない以上、自分も高学歴になるしかない、高学歴は高所得と社会階層的な上昇をもたらすという確信が未曾有の教育熱を煽りたて、全国民的な規模での高学歴化に帰結した。しかし社会全体が高学歴化していくなら、学歴ゲームに参加する個々人にとって高学歴取得のメリットは低下する。戦前の初等教育が戦後の大衆教育社会では中等教育に、中等教育が高等教育に底上げされるにすぎないからだ。
事実はそのように進行したが、それでも高学歴化の国民的意欲が衰えなかったのは、高度経済成長がパイを膨らませたからだ。戦後日本では所得や生活水準の面で、親よりも子の世代のほうが飛躍的に豊かになったという事実は、経済成長によるパイの膨張の結果にすぎないのだが、人々は高学歴化をめざした努力の成果であると思い違えた。

マルクスの労働阻害論では扱いきれない、20世紀後半の福祉国家と「ゆたかな社会」が生じさせた新しい抑圧システム。それに鋭敏に反応して、俗流疎外論は学生たちに支持されたのだ。長田が「わけの分らない」まま念仏のように唱え続ける「実存」とは、豊かではあるが高度に抑圧的な例外国家で「解体と腐蝕を深めた[私]に貼りつけられた内容空疎な私の集合が、一回きりの生を鮮烈な意味で充たそうとした大衆反乱だった。いかなる意味でも、経済的利害を基底とした階級闘争ではない。

完全雇用社会がもたらした大衆社会状況は、東大生と日大生を問わず当時の青年たちに主体性の深刻な危機と意味の喪失感をもたらした。繰り返すが、全共闘運動は教養の本来の意味である精神性を、それによる尊厳や承認やアイデンティティを渇望した青年たちの反乱だった。大学改革という果実をほとんど得ることなく運動が終息したのも、その意味では必然的である。「改良か革命か」という古めかしい二者択一を信じこんで、大學の制度的改良を拒否したからではない。
徹底的に敗北するまで闘い続けるしかないという「実存」的決意が、この運動を際限なく前方に押しやり、常識的には自滅しか意味しないような過激化をもたらした。全共闘の若い連中は「人生論」で闘争をやろうとしている、という年長世代の左翼の感慨を長崎浩は紹介していたが、いいえて妙である。
利害の要求でもルサンチマンの発散でもなく、おのれの生の意味をめぐる問題であると厳粛に信じられていたから、あのような徹底性で運動は極点まで突き進んだ。

全共闘運動で[教養]が焦点化されたことは、決して偶然ではない。第二次大戦前から戦後までを貫いて、ハビトゥスとしての教養が社会的再生産を実質的に支えてきた。全共闘学生による教養主義への執拗な攻撃は、この運動が20世紀後半に闘われた真の意味での階級闘争、階級間の利害抗争ではなく階級それ自体の無化をめざしたユートピア的闘争だったことに由来する。
19世紀的であれ20世紀的であれ、階級性に原理的に対立しうるのは、個と全の特権的一致を夢見る千年王国主義的な集団である。しかし、[いまここ]に革命的コミューンの樹立を希求する社会的闘争は必然的に[敗北]するといわれる。しかし千年王国主義の[勝利]は、敗北よりも悪い結果に帰着せざるをえない。

いまのところ日本の若者が大規模な暴動も反政府運動も起こしていないのには、二つの根拠がある。第一は、80年代のバブル的繁栄が若者の"内向化"を構造的に準備した点だ。第二は「街頭政治」の伝統の不足だろう。「街頭政治」という発想も、そのためのスキルやスペースも若い世代には継承されていない。フランスでは二百年以上の歴史がある「街頭政治」も、日本では第二次大戦後のことにすぎないし、その記憶も旧左翼の議会主義化と、新左翼の「内ゲバ」的な自己崩壊のため80年代には失われれてしまう。

近代ドイツのカトリック的サブカルチャーは、世界史的にはマイナーなものにすぎない。しかしドイツ教養主義に対置されたナチス的サブカルチャーには、手当たりしだいのパッチワークという安直な外見にもかかわらず、20世紀後半にも通用する要素が明らかに含まれていた。
高度に演出された祝祭はディズニーランド的、20世紀的メディアとしての映画はハリウッド的、肉体と健康と自然はエコロジー的なものとして、第三帝国が滅亡して以降も確実に生き延びたのだ。オカルト的なものはいうまでもない。祝祭、自然、オカルトと20世紀的メディアの倒錯的な結合は、1980年以降の日本で盛んに論じられるようになるサブカルチャーと奇妙なかたちで重なりあう。

20世紀精神の中核に位置した「実存」とは、ハイデガーによれば「ひとごとでない、係累のない、確実な、しかもそれなりに無規定な、追い越すことのできない可能性」(『存在と時間』)としての「死」に臨み、本質的な不安から逃れることのできな20世紀人を指している。それは19世紀の大きな物語の崩壊から生じた裸の個人、砂粒のような個人にほかならない。この意味でモダニズムは「実存」による芸術や思想の運動だし、否定神学精神も行動的ニヒリズムも「実存」の世界観念や倫理として生じている。
市民社会化と大衆社会化が同時進行した1950年代後半以降の日本で、市民社会の極は総評に組織された労働者階級に、大衆社会の極は学生層に体現された。第二次大戦後の学生運動は60年安保闘争まで、いわゆる「層としての学生運動」論に主導され、大衆的な自治会運動、大学自治会の連合体である全学連運動として展開されていた。この点で、少数の学生共産主義者の運動だった戦前の学生運動とは性格が大きく異なる。

徹底的な「敗戦」を回避した日本の「終戦」は、戦後精神に深刻な傷(トラウマ)を残している。戦後日本では「しらふのまま、真摯になること、名誉や誇り、信念や正義といったことがらに直面することが、巧妙かつ細心の手続きで、縮滅され、削除され、微温化され、回避され」ざるをえない。朝鮮戦争下の反米武装闘争も60年安保や60年代後半の新左翼による暴力的闘争も、この精神的外傷から不可避的に生じている。回避された本土決戦を虚構的に継続するものとして、それぞれの時期の闘争は暴力的に闘われた。
こうした経緯をよく理解していたのは三島由紀夫だろう。三島は『英霊の声』に、昭和天皇の裏切りを呪詛する英霊たちを登場させている。三島事件それ自体が、本土決戦を虚構的に実現するものとして決行された。三島が新左翼や全共闘に共感を抱いたのは、その暴力が戦後精神の隠蔽された傷(トラウマ)に起因していることを見抜いていたからだ。
「新しい歴史教科書を作る会」や安倍晋三など自民党タカ派の凡庸で無内容な保守主義者とは違って、江藤淳もまた終戦国家日本に必然的である倫理的根底の不在を鋭く意識していた。もしも可能であれば三島は時間を巻き戻して本土決戦を戦うことを望んだろう。江藤もまた日米戦争は終わっていないと語っている。しかし江藤が主張したように憲法九条を改正し、日本が交戦権を法文化すれば終戦国家の倫理的根底は回復されうるだろうか。
その程度で「ゴジラ」の怨念は解消されえない。公然と東京裁判の判決を拒否し、サンフランシスコ条約は無効であると宣言し、あらためて交戦国となった旧連合国との戦闘を再開するのでなければ。日本国家が倫理的根底を回復するには、自己保身のため半世紀前に棚上げされた本土決戦を再開し、今度こそ徹底的に敗北することしかない。あらゆる意味で本土決戦の再開は不可能と判断したからこそ、三島は孤立しながらも虚構の本土決戦を敢行した。今日の親米保守派には三島や江藤のような断念させもない。保身的に延命してきた戦後国家が平和と繁栄を失うことなく、第二次大戦の戦死者を弔いうると自己欺瞞し続けているのだから。

いまの時点から振り返ると、80年代日本で盛大に語られたポストモダン論や消費社会論の特異性と一面性が目につく。資本主義の21世紀的高度化という点で消費社会はネオリベラリズム化と表裏であるのに、80年代の日本では格差化/貧困化を前提としない高度消費社会の「夢」が野放図に語られた。

連合赤軍を自壊に追いこむことで、戦後日本社会は「ゴジラ」の脅威を最終的に解消しえたと信じた。しかし粉々に吹き飛ばされた「ゴジラ」の巨躯は、無数の微小な断片と化して日本車かに拡散し終えたのではないか。この時代の「ゴジラ」は南太平洋の海底で甦り、海を越えて日本列島に襲来することはない。あらゆる家庭や学校に、街頭や職場に「ゴリラ」の細胞は無数にばら撒かれ暴力的に蘇生する機会をうかがっている。
三百万という戦死者を自己保身のために裏切り、裏切った事実を隠蔽することで平和と繁栄を謳歌してきた戦後日本は、ゴジラを最終的に消去することでキティを生みだした。口のないキティは「公」という普遍的基準のもとに自己を主張する言葉をもたない戦後日本を象徴している。ひたすら無力で「かわいい」だけのキティは、他者と態等に向きあう責任を負おうとしない、「母」にも「父」にもなろうとしない戦後日本精神の正確な鏡像である。



本書は
T階級論 例外社会と存在論的不安
U文化論 教養主義とサブカルチャー
V群集論 自主的生権力と神的暴力

の三部に分かたれているが、上の引用はほとんどが一部と二部の前半までに集中している。
三部の群集論は、Morris.にはほとんど理解できなかった。特に最後の100pくらいは、読むのが苦痛で、とどこおってしまった。途中で止めても良かったのだろうが、せっかくここまで読んだのだから、もったいないと思ったのだが、結果的には、時間がもったいなかった(^_^;)
あとがきに

社会思想に通じた読者は不必要と感じるだろう常識的な説明の部分が少なくないことも、頁数が増えた理由の一つである。書籍化に際して初歩的な説明部分をカットすることは、むろん可能だった。そうしないことに決めたのは、これまで社会思想に無関心だった若い読者にこそ、この本を読んでほしいと思ったからだ。自分もまた秋葉原事件のような「テロ」に隣接していると実感せざるをえない、例外社会の縁に投げ棄てられた若者たちに向けて、この本は書かれている。

とある。おいおい、本気かよ、と突っ込みたくなってしまった。そういった若者が、この本を手にとる姿と言うのは想像できにくいし、彼らが本書のようなものいいを読解できとは到底思えない。というのは、Morris.の理解力不足を棚にあげての反面的(反感的)思い上がりなのだろうか。
哲学用語の氾濫、フーコー、ハイデッガーをはじめとす内外哲学者著作からの引用、「知ってのとおり」とか「いうまでもなく」などの前置きから始まる高踏的立場からの言説には、読者を選別するかのような選良意識が見え隠れするし、何かといえば自著を参照するようにとの命令口調にも、ちょっといらつく。
現代社会の閉塞した現状の分析批判は大いに結構と思うのだが、もう少し平易な語り口で、明快、明晰かつ簡潔にまとめてもらいたかった。

どうでもいいことを付け加えておくが、「東京行進曲」の作詞者を「西条四十」と表記(430p)してあるのだが、何か根拠あってのことなのか、何らかの作為があるのか、それとも、単なるポカミスなのか、よくわからない。


09066

【昭和出版残侠伝】嵐山光三郎 ★★★ 昭和56年(1981)に平凡社を追い出された上司馬場一郎に追随して退社した著者が、他の退社仲間とともに青人社という学研の外部出版社を立ち上げ、そこで起こったもろもろを、面白おかしくドキュメント風にまとめたものである。メインは「ドリブ」という雑誌を巡るエピソードで、あいにくMorris.はほとんどこの雑誌は記憶にない。
まあ、著者の自己宣伝みたいなものであるが、付き合いが広いので、登場人物がお馴染みだったりして、それなりに面白かった。


09065
【赤黒 ルージュ・ノワール】石田衣良 ★★★ 「池袋ウエストゲートパーク外伝」とあったので、つい手にとった。2001年だから割と初期の作である。
外伝とあるだけに、筆者をモデルにしたとおぼしいいつもの狂言回しマコトは直接登場せず、Gボーイズもちょこっと脇役風に出るにとどもまり、しけた映像作家が、カジノの売上金強奪事件に関与してドジを踏み、羽沢組のサルに補佐されて金を横取りした犯人探しをsるうという、変てこなストーリーで、タイトルは、つまりはルーレットの赤と黒という意味で、おしまいは、カジノでの大勝負。小説でギャンブルというのは、はっきりいって反則だと思う。丁半、赤黒、ポーカー、役マンなんでも、作者の好き勝手に操作できるんだものね。
そういいう意味では本書も同様だったが、いかにもこの作者らしく、言葉遊びやら、小ネタもあって時間つぶしにはなった。

映画、演劇、音楽、どの分野でも変わらなかった。表面上のにぎわいはともかく、現在の日本には芸能を支える基礎体力がないのだ。悪いのは大人の男たちである。仕事にばかりうつつを抜かし、国を支えるもう一本の柱を放りだしてしまった。男が遊ばない国に、ろくな文化など育つはずもない。

「成功というのはある時点でどれだけ勝ったかじゃないの、いつまで勝ったかなのよ。最後まで勝ち続ける人間が勝者で、勝者になるには死ぬまで勝たなきゃいけない。それができないなら、博打からは手を引きなさい。あなたにできることは他にある。勝負を張るのなら、そこでおやんなさい。勝っても負けてもきちんと自分の身につくことがある場所で。博打は負けたらゼロ、そこで倒れて死ぬだけよ」


09064

【応化戦記三部作】 打海文三 ★★★☆☆ 全5巻、合計1600p、しかも未完(^_^;) ということで、ついつい読むのを先延ばしにしてた打海文三の遺作である。
『裸者と裸者(2冊)』、『愚者と愚者(2冊)』、『覇者と覇者』の5冊を、Morris.五十代最後の日である11月4日の朝から晩までかかってほとんど一気に読み通した。ざっと20時間ちかくかかったかな(^_^;)。まあ、そのくらいの面白さはあったわけだ。
近未来の応化時代の内乱状態の日本で、孤児の少年佐々木海人(かいと)が、妹と弟を守るため、軍隊に入り、孤児部隊を編成して様々の敵と渡り合いながら、成長していくさまを描いたもので、最初の巻の副題「孤児部隊の世界永久戦争」というのが端的でわかりやすい。
Morris.がすっかりはまってしまった「ハルビンカフェ」の流れを汲む作品で、そのスケールからしても、彼の代表作とすることに異論は無いが、やはり「未完」というのが惜しむに余りある。
魔女的な双子の姉妹桜子と椿子、佐々木兄弟の下宿のおかみで海人の恋人になる里里菜、聡明でかたくなな妹恵(めぐ)、ロシアマフィアのファン、外人部隊司令官イリイチ、孤児部隊司令官白川如月、女性扶桑組織の森まり、朝鮮人マフィア高麗幇の女ボス小燕、といった主要登場人物もそれぞれに魅力的かつしたたかで個性豊かなキャラが揃っている。
戦闘の描写も打海らしく精密で無駄がないし、駆け引きや作戦に関しても実に堂に入ったものと感心する。しかしあまりにリアリティのある戦争描写というのは、苦手である。
セックス描写に関しても同様な感じを受けてしまう。変態的性交を描いてもそれなりのリアリティを感じさせるのだが、やっぱりMorris.はあまり読みたくなくなる。
それなら何がMorris.を惹きつけるのかというと、家族愛、友愛、ついでに言えば(^_^;)博愛の精神かもしれない。
妹弟への親愛はもちろん、里里菜への献身的愛、孤児部隊の部下であり友人である数人との深い結びつき、白川司令官への畏敬に満ちた愛、ファンとの擬似師弟愛……
もちろん、女性武装集団隊員とボスである双子との愛や、高麗幇や他のマフィア内部での親愛もあるし、孤児部隊の国籍や性差別に絶対反対する姿に、作者のメッセージがこめられているようであもある。
つまり、本作は、極限状況における、愛の実験作なのではないだろうか。
本当なら個々の一冊ずつに感想など書くべきだったかもしれないが、この際一括、それもおおざっぱな感想ですましておく。
Morris.としてはどうしても「ハルビンカフェ」が一番だと思う。


09063
【魔王】伊坂幸太郎 ★★★ 「魔王」と「呼吸」という2編で構成されているが、この2編はそのまま一つの物語になっている。
犬養というニューファシズム系の政治家が登場、未来党を立ち上げて一般の人気を集め始める。これに違和感を覚える安藤が、目の前の人間に自分の思った言葉を言わせることの出来る超能力を授かり、犬養に立ち向かおうとするが、倒れる、というのが前編で、安藤が「俺」という一人称で語る形式。5年後犬養は日本の首相となり、憲法改正の国民投票の実施にこぎつけるまでになっている。田舎に引っ込んだ安藤の弟がじゃんけんに勝つ能力?を授かる。弟の妻である詩織が「私」という一人称で語って物語を続けるのが後編である。
憲法改正の眼目は、想像通り九条であるが、その具体例と、登場人物の反応などがなかなかリアルだった。

「今回ね、憲法の九条を改正するだけじゃなくて、他にも環境権とかプライバシー権の明文化とか、いろいろ、加えられるんだよね」
「それが」
「でもね、投票は一括方式なわけ。今回の改正案全部に賛成ですか反対ですか、って、それしかないわけ。つまりね、九条改正は反対で、環境権は賛成、とかそういう個別に答えるのは無理なんだよね。だから、こういう聞こえのいい、環境権とかを混ぜて、抱き合わせ的に、憲法九条も飲ませようって考えなんだってば」
「えー、そうなの?」私は、そんな単純なやり方に効果があるのかな、と疑問も感じる。
潤也君はしばらく、そのお知らせの冊子をじっと読んでいて、少し経つと音読した。
[現行]
第九条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
二、前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
[改正案]
第九条 日本国民は、他国を侵略し征服することを目的とした戦争を永久に放棄し、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求する。
日本国民は、自らの平和と独立を守り、その安全を保つことを目的とした自衛のための軍隊を保持する。
二、前項の軍隊の指揮監督権は、内閣総理大臣に属する。
三、国民は、第一項の軍隊に参加を強制されない。

「九条ってこんなんだっけ?」潤也君はしみじみと言う。「意外に読んでみると、現行バージョンは、凄いこと書いてあるよなあ」と感心した。「永久にこれを放棄する、とか、戦力はこれを保持しない、とかさ」
「理想的、と言うか絵空事と言うか」
「絵に描いた餅?」蜜代っちが苦笑した。
絵に描いた餅、という表現自体をひどく久しぶりに聞いたけれど、「そうかも」と思った。この前の赤堀君じゃないけれど、「陸海空軍は持たないって言ってるくせに、陸上自衛隊、海上自衛隊ってあるし、しかも、自衛隊は海外にどんどん出かけていってるし。現実とはかけ離れまくりじゃないか」という疑問はある。
「今のところは、自衛隊のやる平和活動は、戦力じゃないっていう理屈なんだよね」蜜代っちはムキになるでも、教え諭すでもなく、淡々と言う。
「でも、もしどこかの国が攻めてきて」潤也君が腕を組む。「平和活動だけやっても、じえいになららいよなあ」
私はそこで、どこからか見知らぬ国の軍隊が大量に攻め込んできて、その間、みんなが井戸を掘ったり、救援活動に勤しんでいる姿を思い描いた。確かに、それはそれで大事な作業だけれど、そんさ、「平和」なことをしているうちに、肝心の敵はずんずんと各地を占拠していくに違いない。それが自衛力か?と問われれば、違うとしか言いようがない。「やっぱり、敵と戦わないと、守れないね」
「そうだね、無理があるかも」意外にも蜜代っちはすぐに認めた。
「それに比べると、改正案はうまくできている気がするなあ」潤也君が声を上げる。彼はもちろん、蜜代っちが改正に反対していることは知らないから、異を唱えるというよりは、純粋に自分の思ったことを口にしただけなのだろう。「自衛のための戦力、って謳ってるわけだし、しかもこの文面からすれば、徴兵制はないんだし。いいね」
「うんうん」私も同意する。
「そうなんだけどさあ」蜜代っちはどこか承服しがたい様子だった。「わたしもね、昔は思ってたの。近所に、護憲派のおばさんがいてね、強烈だったのよ。護憲御前と言うか。ヒステリックでさ、国民投票反対、平和憲法を守れ、戦争反対、って死ぬほど訴えてて。何だかさ、わたしも子供ながらに、そんなに九条を守りたいなら、国民投票をやって、勝てばいいのに、って思っちゃったんだよね。本当に自分たちの意見が正しいと思うなら、投票で決めればいいのに、って」
「うんうん、それは正しい考えのような気がする」
「だけど最近は、少しわたしも考えるようになってさ、投票やるのも結構怖いかもなあ、って」
「怖いかも?」
「政治家とか国とか、権力を持ってる人って、ずるいんだよね。そう思わない?」
「ずるい?」さっきも蜜代っちはそう言った。「と言いますと?」とそれこそ権力者のお答えを伺う気分になる。
「たとえば、国民投票って、昔、学校で習った時、憲法の改正は国民の過半数の承認が必要だ、って聞いた気がするんだよね」
「あ、違うんだっけ?」私にもそういう記憶が、薄っすらとだけれど、あった。
「憲法自体にはね、過半数としか書かれていないんだよ。だから、どうとでも解釈できるわけ。国民全部の過半数、とも、有効投票数の過半数とも。で、今は国民投票法ってやつで、有効投票の過半数ってなってる」
「いつの間に」
「それに、さっきも言った、抱き合わせ的な、一括投票もずるいし。まあ一番妖しげなのは、『自衛のための』って言葉だよね。『自衛』の定義なんて、漠然としてるんだし」
「でも、ある程度はイメージがあるけど」
「考えてみてよ、今の憲法の、『戦力を持たない』って言葉すら、解釈で好き勝手されてるんだよ、『自衛のため』なんて言葉はいくらでも解釈できると思わない? 『自衛のために核兵器を持って、まずはひとつ、発射しておきますか』ってのだって、自衛行為と解釈されるよ、きっと。本当に自衛のためにこだわるなら、もっと事細かに、書かないと駄目なんだと思う」

「兄貴、前に一度だけ、憲法改正のことを俺の前で喋ったことがあったんだけど」
「いつ頃?」
「兄貴が大学生の頃でさ、こう言ってたんだ」潤也君は自分の記憶の歯車を手動で回転させはじめたのか、しばらく無言の間が入り、もしかするとこのまま寝入ったのかな、と疑いかけた時に「この国の人間はさ、怒り続けたり、判足し続けるのが苦手なんだ」と呟いた。
「怒り続けるのが、ってどういうこと?」
「初回は大騒ぎでも、二度目以降は興味なし、ってことだよ。消費税導入の時も、自衛隊のPKOの派遣の時も、住基ネット開始も、海外での人質事件も、どんなものだって、最初はみんな、注目して、マスコミも騒ぐ。ただ、それが一度、通過すると二度目以降は途端にトーンが下がる。飽きたとも、白けたとも違う。『もういいじゃないか、そのお祭りはすでにやったじゃないか』っていうさ、疲労感まじりの空気が漂うんだ」
「潤也君?」私は隣から聞こえてくるその声が、確かに声自体は潤也君のものではあるのだけれど、どこかいつもとは異なった暗さを含んでいて、しかも記憶を辿りながら話すにしては流暢に過ぎる、と気づいた。もしかすると横に寝ているのは、潤也君に似た、別の人間ではないか、と引っ掛かった。
「だからさ、もし、俺が政治家だったならば」と潤也君の声は続く。「こうやるよ。最初は、大きな改正はやらないんだ。九条は、『自衛のための武力を保持する』とその程度にしか変えない。『徴兵制は敷かない』と足してもいい。それだけでもおそらく、大変の騒動になるだろうな。マスコミは連日、この件について論じるし、知った顔の学者が様々な意見を言う。そして、たぶん、憲法は変わる。大事なのはその後だ。時期を見計らって、さらに条文を変えるんだ。マスコミも一般の人間も、一回目ほどのお祭りは開催できない。抵抗も、怒りも、反対運動も持続はできないからだ。『もういいよ、すでに九条は改正されているんだからさ、また変えればいいじゃないか』という感じだろうな。既成事実となった現実に、あらためて歯向かう気力や余裕はないはずで、『兵役は強制されない』の条文を外すことも容易だ。一度、認められた消費税は上がる一方で、工事は途中では止まらない」


えらく長い引用になってしまったが、九条問題の復習と整理の意味で、しつこく引いてみた(^_^;) それくらい、わかりやすく本質をついた言説だと思えたのだった。
Morris.にとっては未知の作家だが、直木賞候補に毎年のように挙げられ、本屋大賞受賞してるらしいから、それなりに人気の作家らしい。
シューベルトの歌曲「魔王」や、宮沢賢治の詩の引用など、教養もありそうなので(>_<) 他の作品も読んで見ることにしよう。


09062

【韓国現代史】木村幹 ★★★☆☆☆ 2008年に出た中公新書である。副題「大統領たちの栄光と蹉跌」とあるとおり、歴代大統領と韓国の戦後の歴史をクロスさせて、時代を浮き彫りにするという手法をとっている。

本書では、このような「歴史」を「語る」に当たり、歴代大統領の経歴を追う、という手法を取った。その理由は大きく分けて二つある。第一はいうまでもなく、従来の韓国の政治では、大統領が、その生まれた時期や社会階層、さらにはその経歴などにおいて、異なる点を数多く有しており、それゆえ、彼らが大統領に登りつめるまでの過程を見ることにより、韓国現代史の多様な側面が明らかになると考えたからである。
その意味で、本書は「大統領の地位にある人びとの視点を通じて」韓国現代史の一側面を明らかにしようとした著作ではなく、「大統領に登りつめる人びとの視点を通じて」それを語ろうとした著作である。


という、あとがきに明確に語られている。そしてこの試みは大成功だったといえる。
韓国での歴代10人の大統領のうち本書で取り上げられているのは、李承晩(イスンマン)、尹[三水偏+普]善(ユンソボン)、朴正熙(パクチョンヒ)、金泳三(キムヨンサム)、金大中(キムデジュン)、盧武鉉(ノムヒョン)、李明博(イミョンバク)の7人で、崔圭夏(チェギュハ)、全斗煥(チョンドファン)、盧泰愚(ノテウ)の三人が除外されている。もちろん本文中には言及されているのだが、ちょっとこれには疑問を抱いたが、これもあとがきで理由を知ることができた。

この三名については、彼らが民主化後、光州事件をはじめとするさまざまな点について、裁判を受けることになった関係上、客観的で詳細な研究がなされておらず、資料的制約が大きかったことが最大の原因である。

なるほど、ではあるが、これはぜひ、前書きに記しておいてほしかった。あとがきから読む人も多いし、Morris.もよくそうするのだが、本書では最初から読み進めて、読み終えるまでずっと、これを疑問に感じてた。
新書ということもあって、一般読者にもわかりやすいレベルの書き方になってるという点を考慮しても、本書は、Morris.にとって、これまで読んだ韓国現代史の本の中で、一番理解しやすく、共感を覚えるところ多く、そして何よりも面白く興味深く読むことができた。
本書で初めて知ったことも多かったし、これまでほとんど関心の無かった金泳三の「大統領になるまでの」経歴には、認識を新たにした。
Morris.が初めて訪韓した88年に全斗煥から盧泰愚の政権交代があり、このときの選挙が、野党分裂(金大中と金泳三の二人が出馬)で与党(盧泰愚)が漁夫の利を得たというイメージを持っていたのだが、これが結果的に韓国のその後にとって、マイナスばかりでなかったことを理解できただけでも、本書を読んだ意味がある。
また、金大中が当選した97年12月18日の選挙当日、Morris.はイパクサ宅にホームステイ(^_^;)していて、朝からパクサ家族と一緒に近くの小学校の投票所まで同伴して、夜はパクサ夫婦と夜遅くまでTVの選挙速報(実に手に汗握る接戦だった)を夜遅くまで見てたこと。奥さんが全羅道出身ということもあって、金大中の勝利が確定した瞬間、思わず「マンセー!」と叫んだことが思い出される。
数年前の訪韓中には、鍾路商店街の店舗で開発記念行事に列席していた、市長在任時の李明博を目の当たりにしてデジカメに収めた(その時は名前すら知らなかった)こともあった。
そして今年の盧武鉉の自殺と、金大中の逝去。
李承晩の政治的配慮から、異常に強力な力を持つことになった韓国の大統領制度が、独裁者的大統領を生み出し、さらには、その権威が形骸化しはじめている現代においても、韓国国民の大多数がその権威を幻視しているなど、韓国人の国民性にまで踏み込んだ考察にも鋭いものがある。
そしてなおかつ、直接表現はなされていないが、著者の胸底にある、隣国韓国への深い親愛の情が感じられるところがMorris.には一番嬉しかった。
著者とは、Morris.はパソ通時代の知己である。というか、その時期限定の知己というべきかもしれない。
それ以後も、新聞寄稿やTV出演を見る機会もあり、また神戸六甲学生青年センターでの講演で親しく謦咳に接したこともあるが、正直言ってこれまでの彼の著作はMorris.にはちょっと敷居が高かった。
そういう意味でも本書は、Morris.にとっても「面白くてためになる」好著として、実に嬉しかった。
評点には、身内贔屓は全く入っていない。つもりである(^_^;)


09061

【マヂック・オペラ】山田正紀 ★★★ 「ミステリ・オペラ」に続くオペラ三部作の2作目。副題「二・二六殺人事件」からも明らかなように、昭和11年の事件を中心に、前回の登場人物らが、性懲りもなく(^_^;) 奇想天外な事件と推理を繰り広げていくわけで、Morris.は途中でめげてしまったよ。
それなりに趣向は凝らしてあるし、歴史の新解釈、面白げな仮説、さまざまなけれんには、よくやると感心もするのだが、どうも全体がちゃちなお子ちゃまドラマっぽいのである。
トリック解説にいたっては、あんまりぢゃ、と思うものが多かった。
最初の方に萩原恭次郎に偽装する登場人物が現れて、彼を萩原朔太郎の弟だと書いてあった。Morris.は当然これはトリックの伏線で、何らかの作者の企みがあるのだろうと思ったのだが、途中で、これが誤解だったということが記されてそれっきりである。
で、あとがきみたらこれがびっくり、作者自身が誤解してたらしい。

ぼくは非常に無知な人間ですが、この作品を書いて、自分が考えていた以上にさらに無知な人間なのだということを思い知らされました。前橋の図書館で、萩原恭次郎の名を知ったときに、これは郷里でのみ知られている詩人なのだとばかり思い込んでしまい、お話のプロットを考え始めました。まさかダダイストとして非常に有名な詩人なのだとは思っていなかったのでした。おかげで途中で非常に苦労させられることになりました。

おいおい(@_@) マジかよ。あれだけ博覧強記ぶりな物語構成とりながら、この言い訳はなかろうと思う。知らないことを知らないというのは、正直で良いといえなくもないけど(^_^;)


09060

【プルコギ】具光然 ★★★★☆ 「焼肉小説」とタイトルの脇に添えてある(^_^) いやあ、久しぶりに楽しませてもらった。
横着して腰帯から引用。

人気テレビ番組「焼肉バトルロワイヤル」で連戦連勝、キングの座に君臨するトラオは、全国各地で店舗の買収を進めていた。いっぽう、地元の人たちから絶大な支持を得ている北九州の名店「プルコギ食堂」では、「焼肉の達人」韓老人のもとで修行中のタツジが、看板娘のヨリとともに店を切り盛りしていた。幼い頃に離ればなれになった兄を今でも捜し続けているタツジ。彼は、北九州地区を制覇すべく、「プルコギ食堂」買収に乗り出したトラオと「焼肉バトルロワイヤル」で対戦することになるが−−−。」

まあそういった、ストーリー(^_^;)だが、ヒーロー韓国からの密航少年だったタツジのキャラクタと、焼肉への熱情と、いちびりに心打たれた。
登場人物もそれぞれに魅力的に描き分けられている。上手いもんである。特に食堂の娘ヨリとトラオはキャラがたってる(^_^)
著者は、1965年下関生まれ。最近目立つ、コピーライター、CFプランナー、脚本家あがりらしく「つかみ」を会得してる書きぶりである。名前からして、在日韓国人だろう。
章の変わり目にゴシック文字で1pずつ、タツジの北九州弁による、5篇のコラム風の用語解説(^_^;)がおかれていて、これだけで、本書を読んだ甲斐があるというものである。思い切り良く全部引用する(^_^;)

[コプチャン]
コプチャンは、韓国語で牛の小腸ってゆー意味。小腸の外側にはぷりぷりの脂がついとって、ここが最高にうまい。この一番うまい脂をもったいないことに、ほとんど取り除いて腸の皮だけ出す焼肉屋も多いみたいやけど、そーいうとこは行かんほうがええと思う。うまいもんを捨てる店なんてのは他の肉もまずいに決まっとる。
店によって皮を開いて出すとこと、丸いまんま出すとこがある。九州でよぉ見掛ける丸腸は丸いまんま。プルコギ食堂もそれ。
小腸の外側についとるぷりぷりの脂を内側に入れる。要は表裏をひっくり返す作業が「しぼり」。見た目には単純な作業やけど、かなり難しい。下手な人は皮の中に脂をうまく入れられんで、削ぎ落としてしまう。オレもよぉ失敗してじいちゃんに杖で叩かれた。
下味は、醤油ダレやらコチュジャンやを使った甘辛い味噌ダレやら、いろいろある。オレが好きなんは、やっぱ塩ダレかな。しぼったコプチャンに味がまんべんなくよぉしみこむよう、塩とゴマ油を丁寧にやさしくムンチする。あ、っと「ムンチ」は韓国語で、手で和える、揉み込む、っていう意味やけ。
味がシンプルで正直な分、塩ダレは「焼き」が難しくなる。誰がどう焼いたって同じやん、と思うかもしれんけど、きちんと焼けばコプチャンに限らず焼肉っていうんは驚くほどうまくなる。決め手はターンのタイミングかな? ん、極意? それはやね、経験とか感覚とか才能とかいろんなもんがいっしょくたになっとって、口ではよぉ表現しきらん。オレも今だによぉわかっとらん。の。かも。

[ホルモンの刺身]
牛の内臓の刺身っちゅーと、レバーとセンマイを想像するかもしれんけど、他にもいろいろある。ミノ、ハチノス、子宮、心臓やら、鮮度がよければ、どこでも食べられるんやなかろうか。最近は狂牛病のせいで、店で出しちゃいけん特定危険部位が多くなってしもうたけど、オレがまだ中学生の頃は、ま、これは、内臓っちいえるかどーかわからんけど、新鮮なモンが入れば、脳やら脊髄やらも刺身で食べよった。うまかったわぁ。
韓国でも、牛やら豚の内臓系の肉、とくに胃や腸なんかのホルモンは新鮮なことが肝心。逆に、カルビやらロースやらの赤身の枝肉(頭、内臓、尻尾、手先の先端を取り除いた部分)は熟成させたほうがアミノ酸? イノシン酸? どっちやったっけ? とにかく旨みの成分が増して、おいしくなる。ハラミは分類じゃ内臓に入るけど、少し時間を置いて肉の表面の色が少し変った頃が焼き頃。プルコギ食堂でもハラミは仕入れて数日冷蔵したモンを出す。んでも、内臓はそーはいかんけ。鮮度が落ちやすい上に、とにかく新鮮なうちに早よ食べんとかなりヤバい。
ここんとこ、オレが凝っとるんは、生センマイの芥子マヨネーズ和え。ヨリにはかなり評判ええけど、じいちゃんはマヨネーズにどーも抵抗があるみたい。あと、ミノの表面を軽くあぶったんを、大分産のカボスを軽くしぼって岩塩で食べるんはちょっとしたヒット作かも。今度、店で出してみよっかな。

[テンジャンチゲ]
テンジャンってゆーんは、韓国語で味噌っていう意味。チゲは一人用の器で出てくる鍋のこと。ちなみに、チョンゴルは数人で作りながら食べる鍋のことで、いわゆる日本の鍋とおんなし。やから、テンジャンチゲは一人用の味噌鍋? ま、日本の味噌汁みたいなモン。味噌汁は家庭によって具も味も違うやろ? テンジャンチゲもそう。韓国じゃ、昔はテンジャンもお母さんが作るんが当たり前で、味噌自体にそれぞれの家庭の味があったんよ。今は店でできとるんを買うんがフツーやし、キムチも漬けきらんお母さんも多いちゅー話。テンジャンは、なんちゅーか、日本の味噌よりも酸っぱい? 塩っぱい? かな。発酵した大豆もごろごろと入っとる。
ダシを取るんは、豚肉が一般的やけど、アサリとか、エビ、ホタテなんかの魚介類を入れることもあるし、牛肉、ホルモンなんかの内臓を煮出した汁を使うこともあるし、ニボシでダシを取ることもある。野菜も、じゃがいも、にんじん、エノキ、ヒラタケ、長ネギ、春菊とか、いろんなモンを入れたりする。あ、豆腐も忘れちゃイケンよ。
テンジャンの具で、オレがいっちゃん好きなんは韓国のかぼちゃで、韓国語でホバァってゆーの。日本の韓国料理屋なんかやと、ズッキーニで代用しとるとこが多いんやけど、かぼちゃっちゅーより瓜ってカンジ。ホバァは炒め物もうまいし、おひたしにしても最高やん。
プルコギ食堂のテンジャンチゲは、豚肉をゴマ油で炒めて、そこに牛スジか、テールのスープを加えて、あとは必要な具を足していく。テンジャンは、これは実はじいちゃんやなくて、ヨリのお母さん直伝と言われとる自家製のを使う。この味噌はまぁ、絶品やね。他じゃ味わえん。

[プルコギ]
韓国語で、「プル」は「火」、「コギ」は「肉」てゆー意味やけ、そんまま訳すと「火肉」で、まぁ、「火の肉」ちゅーことかな。でも、韓国では「プルコギ」ゆーんは、あくまで料理の名前で、「焼肉」て意味ではあんま使わんみたい。
日本でもよー知られとる「プルコギ」は、ロースやらヒレのアカ肉を、玉ねぎ、長ねぎ、にんじん、ニラなんかの野菜と、もちろん韓国料理には欠かせんニンニクも青唐辛子も一緒に、ゴマ油と醤油系のジャンで煮込んだ鍋のこと。それを、コプチャンでやると、麻生十番「ソウル」のオヤジさんの得意技、「コプチャンチョンゴル」になるワケ。
韓国には、もちろん「プルコギ」専門のレストランとかもあるみたいやけど、一般的には家庭料理としてポピュラーな料理。エゴマの油やら、海苔の油を使ったり、ジャンもコチュジャンなんかの味噌系を使ったり、一日前から肉をジャンに漬け込んどったり、豚肉を使った「テジプルコギ」もあったり、いろんな「プルコギ」がある。変わり種では、リンゴを擦って入れたり、サイダー(炭酸の甘い飲料)を入れる家もあるとか。
プルコギ食堂に来てからずっと不思議やったんは、「プルコギ」はさっきもゆーた通りアカ肉の料理なのに、メニューは内臓系のシロ肉が中心やし、肝心の「プルコギ」はないと来とる。どー考えてもおかしいやんか。そんで、一ペンじいちゃんに聞いたことがあるんやけど、「まぁ、そんな細かいことは気にせんでもええじゃろ」って言うとった。はぁ? オレが推測するに、「火の肉」ってことで「焼肉」っぽいけぇか、なんも考えんでテキトーにつけたか、のどっちかやと思う。じいちゃんらしい、っちゃ、らしいけどな。

[ケンニップ]
エゴマの葉の醤油漬けキムチのこと。釜山やら、韓国の南の地方じゃケイッパリって発音するらしい。アツアツのゴハンの上にのっけて箸で包み込むように巻いて食う。これがもー最高やけぇ。醤油漬け以外にも、味噌漬けもあるし、塩漬けまであるって聞く。けど、塩漬けは漬けたことも、食べたこともない。今度漬けてみよっかな。
エゴマっちゅーのは韓国のモンで、日本のゴマとは違う。エゴマの葉は、韓国じゃケンニップのよーなキムチにしたり、生のまんまでいろんなもんをポッサムして食うたりする。あ、ポッサムってのは、韓国語で「包む」ていう意味で、韓国の人は、焼肉とか、豚の三枚肉を焼いたサムギョプサルとか、豚足とか蒸し豚とか、いろんなモンを葉っぱの野菜に包んで食べる。あ、そーそ、焼肉のサンチュと同じよーなモン。
ケンニップもキムチみたく家庭の数だけ、オモニの数だけ味がある。でも、まぁ、オレのオンマのケンニップは自慢やないけどかなり特別かも。ほんのちょっとばかし、隠し味に干し柿を入れとるけ。干し柿をすり鉢で細かくすってジャンに入れる。そのジャンをエゴマの葉にまぶし、漬け物の壷にいれて数日間置く。あ、ジャンってゆーのんは、タレのこと、タレの総称? みたいなモンかな。コチュジャンとかヤンニョンジャンとか言うやんか、それそれ。
オンマは、よー家の軒先でケンニップを漬けよった。オレはヒョンと一緒にそれを見とるのが好きやった。ヒョンは、なにかっちゅーとすぐオレの頭をハタきよる。まぁ、オレがすぐつまみ食いするけ、いけんのやけど。あ、ヒョンは韓国語で、兄ちゃんっていいう意味…。死ぬまでに一回でええけ、会えるとええなぁ、ヒョンに…。


この5p分だけでも、著者の力量と薀蓄を推し量ることが出来る。主人公の語り口で、これだけ手際よく韓国料理をあまり知らない読者にその本質をわかりやすく紹介解説する手腕は、なかなかのモンである。
本文中でもいたるところに、焼肉関連の美味しいネタがちりばめられていて、焼肉本のイチ押しである「日本焼肉物語/宮塚利雄」以来の収穫かもしれない(^_^;)というのは、ちょっと褒め過ぎかな。
もともとが映画の脚本として書かれたものらしく、ストーリー展開も起伏あり、見せ場あり、ユーモアあり、泣かせどころありと大盤振る舞いの大サービスで、それをどうにかうまくまとめあげて、エンターテインメント作品としても合格点である。
ただ、麻生十番「ソウル」のオヤジの自殺だけはいただけなかった。「プルコギ食堂」のじいさんの死は、必然かもしれないが、「ソウル」のオヤジを自殺させる必要はなかった。明らかに失策である。作者は登場人物の生殺与奪権を有するとしても、やはり作品における必然性のない殺人は抑制すべきだろう。特に「ソウル」のおかみ玉姫が魅力的で、いじらしいだけに読者としてはやりきれなさを覚えた。
アカ肉シロ肉の優劣争いなど、興味深いテーマもあるし、いわゆる対戦料理番組への皮肉も製作サイドの裏事情などの分析もうがったものがあり、充分に満腹させてもらった上で、ぶーたれるのは不本意だが、このことだけは書いておきたかった。
映画は2007年に公開されたらしいが、ネットで、そのスチールやキャストや映画評見てるうちに何となく観る気が萎えてしまった(^_^;)


09059

【ミステリーオペラ】山田正紀 ★★★☆ 昨夜徹夜して何を読んでたかというと、これで、先の「正直批評」でえらく誉められてた「マヂックオペラ」の前篇ということだったから、一緒に借りてきたのだ。こちらは700pもあるので、徹夜になったのもむべなるかな、である。
副題が「宿命城殺人事件」、舞台が満州で矢鱈けれんを弄したアクロバチックな作品で、入れ子状の構成、それでも「検閲図書館」という別名で呼ばれる無決罪人黙忌一郎(もだしきいちろう)、「赤死病館殺人事件」の作者小城魚太郎、善知鳥良一、パラレルワールド、満州に天照大神を招魂するためにモーツアルトのオペラ「魔笛」上演、トランプを使った暗号から、硬骨文字論争、とにかく仕掛けだけが大仰で、ミステリーオペラというより、浅草オペラでも見てるような気分にさせられる一冊だった。
といいながら、これだけの長尺をMorris.が徹夜で一気に読んでしまうというだけで、エンターテインメントとしては、なかなかのものだと思う。
このオペラシリーズは三部作らしい。


09058

【眠れぬ真珠】石田衣良 ★★★ 40代半ばの女性版画家をヒロインに、若く才能のある映像作家との色恋をテーマとした、渡辺淳一作品(読んでないけど(^_^;))の女性版といった趣で、ヒロインが黒を基調にしたメゾチント作家であることや、芸術家の創作の苦しみや技法などをしつこく解説するあたりも、この作家の癖なんだろうけど、どうもそれが上っ面にしか思えないところもいつものことである。
それでもまあ最後まで読ませる技量はあるわけで、時間つぶしにはなった。
おしまいのとって付けたようなハッピーエンドは無い方が良かったと思う。


09057

【正直書評】豊崎由美 ★★★ 2004年から2008年に「TV Bros.」に連載されたものらしい。Morris.には未知の著者だが、40代後半の未婚女性で、それを売りにしてるようでもある。
金の斧、銀の斧、鉄の斧の三段評価で、渡辺淳一や石原慎太郎へのおちょくり交じりの辛辣書評などは面白かったし、選択された本の中には、これは読まねば、というものも幾つかあった。
ただ、半分が翻訳もので、Morris.は最近、まず翻訳ものは読まないから、結局本書も半分は飛ばし読みである。

gift」古川日出男
「となり町戦争」三崎亜記
「死神の精度」伊坂幸太郎
「マヂック・オペラ」山田正紀
「そんなはずない」朝倉かすみ
「私の男」桜庭一樹


ここらあたりが、読んでみようかと思わせられた作品と作家である。一人でもいいのに当たれば、本書を読んだ意味があろうというもの。
ただ筆者の書評パターンが、かなり恣意的で、惚れた作家へのベタ褒めぶりと、悪口表現の稚拙さが顕著で、書評家としては斎藤美奈子さんの足元にも及ばない。
それとこの年で、自分のことを「トヨザキ社長」はともかく、「おで」なんて書くのは、還暦近くになって自分のことを臆面もなく「Morris.は」何て書いてる男といい勝負(^_^;)だと思うぞ。


09056

【江戸かな古文書入門】吉田豊一 ★★★ これまでに類書は何冊か読んで、Morris.も少しは変体仮名とくずし字を読めるようになりたいという気持だけはあるのだが、一向に読解力が身につかないのは、Morris.の才能の無さだろうか。
本書では往来物、どどいつ、百人一首、草双紙という順番でレベルアップするコースで、百人一首はうろ覚えでもいちおう覚えてるので何とかなったのだが、草双紙になると完全にギブアップである。
以前つの笛で\2,000で手に入れた、寛政8年(1796)発行の「女今川」の百人一首をもう一度頭から読み直そうかというきもちにはなった。
巻末の変体仮名一覧はコピーして今後も活用したい。


09055

【ヴァージニア・リー・バートン】バーバラ・エルマン 宮城正枝訳 ★★★☆☆ 「『ちいさいおうち』の作者の素顔」と副題にあるとおり、あの傑作絵本の作家の伝記兼アルバム兼作品紹介である。原書の発行は2002年、邦訳は2004年になっている。大判でカラー写真満載で、見るだけで楽しめる一冊だった。

ヴァージニア・リー・バートン(1909-68)は20世紀アメリカの代表的な絵本作家。マサチューセッツ州生まれ。ギリシア人の彫刻家ジョージ・デメトリアスと結婚し、二人の息子を育てながら、『いたずらきかんしゃちゅうちゅう』『マイク・マリガンとスチームショベル』『ちいさいおうち』(コルデコット賞受賞)『生命の歴史』などの傑作絵本を生み出した。そして、野菜や果物の栽培、羊の飼育なども手がけ、家族や友人たちと歌やダンスを楽しみ、自然の中での生活をいとおしんだ。また、終生愛したフォリーコーブの地でフォリーコーブ・デザイナーズを組織したことでも知られる。
何事にもひたむきに打ち込んだヴァージニア・リー・バートンの生涯を、美しい絵や写真、豊富なエピソードでたどりながら、その創作の秘密に迫るビジュアル伝記。


カバー見返しの紹介文であるが、Morris.は「ちいさいおうち」は岩波こどもの本シリーズ幼い頃から愛読したものの、作者については、女性であることすら知らなかった(^_^;)
上の紹介にないものでは「名馬キャリコ」という作品も岩波のシリーズで読んだ覚えがある。やはり「ちいさいおうち」が圧倒的にすばらしい。独特の螺旋構図、マニアックとすら言えそうな細かい描きこみ。シンプルで装飾的でしかも力強く活き活きした描線。デザインの確かさ、誰かがこの絵本を「本の宝石」と形容していたがまさにその通りだとMorris.も思う。
「ちいさいおうち」は何冊か買って、すべて友だちのこどもへのプレゼントとにしたから手元には一冊も残っていない。やっぱりこればかりは一冊常備しておきたくなった。このさい英語版を手に入れたいものである。
彼女のデザインワークとしての技量もたいしたものだし、フォリーコーブ・デザイナーズの組織など、Morris.の畏敬してやまない、ウィリアム・モリスの女性版と言えるかも知れない。
幼い頃から晩年までの彼女の写真も多く掲載されている。活発で意志の強そうな容貌は、旧知の韓国情報ライター、あんそらさんに似てると思った。


09054

【橋本治と内田樹】★★ 二人の対談であるが、橋本フリークの内田が一方的に橋本へのインタビューを行ってるという趣で、しかもその質問が思いいれの強さのためか、完全に空回りになってる感じで、橋本適当に話し合わせたり、かわしたり、茶化したりといった部分が多く、ほとんどMorris.には楽しめるものではなかった。
橋本が48年生まれ、内田が50年生まれで、この2年の年齢差には超えることのできない溝があるようだ。ちなみにMorris.は中間の49年生まれだが、感性的には完全に橋本寄りである。
ファンがスターを前にして舞い上がったり、いいかっこしたりするのと同じような内田だが、まるで大人と若造、いや老人とこどもの会話みたいにさえ思えてしまった。

橋本 だけど私、昔から賞を取ったものとか、ベストセラーの類というのは読んだことがない人なんですよ。それは他人が読んでいるのだから、自分は読む必要がないと思ってしまって。
内田 そこが偉いですよね。だって共有されてるから、私が読まなくても、みんなが読んでいるから、大丈夫という。

橋本 だって、古来からの確立したスタイルをマスターしていなかったら、現代的も何も出来ないですよ。「現代的」は習慣だけだもの、ほんとうに。これはやっぱり、人間の骨格っていうのは時代によって代わるんだけど、変わるのは衣装だけなんですよね。衣装を着て動かすという、その根本の動かし方というのは、ずーっと決まっているようなもんですもんね


ところどころに橋本流のオモシロネタが無いことも無かったけど、全体としては時間の無駄だったような気がした。
橋本はもちろん、内田だって、Morris.としてはお気に入りの書き手のはずなのに、その二人がこういった対談(インタビュー)で無駄な時間を費やしてそれを本にして、読者を退屈させるというのは、どういったもんかなあ(^_^;)


09053

【藪枯らし純次】船戸与一 ★★☆ タイトル見たとき時代物だと思ったが、そうではなかった。中国地方の寂れた赤猿温泉を舞台にした現代の伝奇小説といったもので、かなり無茶苦茶な筋立てだった。地方紙数紙に連載されたものらしく、新聞小説の悪弊をモロ体現したものといえるかもしれない。
江戸時代までさかのぼるドロドロした陰惨な事件の末裔たちが、大時代的な立ち回りするわ、奇形でコケティッシュで超能力の美少女出てくるわ、催淫効果のある音楽ありの、古文書紛いの寺の過去帳ありの、事件の核心である母娘の日記ありと、ご都合主義と万屋的展開には、かなり辟易させられた。
特に、語り手役の興信所社員が、その日記に事件の真相が書かれてあることを知りながら、わざとのように、ちょっと読んでは、止め、また読んでは止めの繰り返しには、読者からすると、バカにされてるような気になった。
不得手だろうと思われるPCでの文書画像ファイルのやり取りなども、やっぱり似合わんなあと思ってしまった。
そして終わりかけに、Morris.の嫌いな「てを拱(こまね)いて」表現があったのが、低評価を決定づけた(^_^;)
満州をテーマにした大作の片手間に書き散らかしたものなのだろうが、Morris.としては、あちらの方に全力投球してもらいたい。


09052

【文芸誤報】斎藤美奈子 ★★★☆☆ 本書は2005年から2008年にかけて「週間朝日」に連載されたコラム「文芸予報」と朝日新聞の書評を合わせたもので「数にして172本、本でいえばざっと200冊強の、主として文芸書が取り上げられている」

1.嬉し恥ずかしデビュー作
2.書き続けるのが作家の仕事
3.天下分け目の賞の行方は
4.功なり名とげてなお精進
5.旬な脇役、評論とエッセイ


という5章に分かたれている。Morris.にとっては4章が抜群に面白くて2章がその次、1章、3章は、はっきりいってつまらなかった。これは、1.3章で取り上げられてる作品が、若手だったり、芥川賞、直木賞を始めとする文芸各賞の候補作、受賞作を数多く読んでの書評で、Morris.にはほとんど無縁のものだったからだ。
以前「誤読日記」という、本書の前作みたいなのを読んで、がっかりしたことがあって、もしかしたらあれの二番煎じをなのではないかという危惧もあったのだが、流石、斎藤美奈子さん、転んでも只では起きぬで、しっかり今回はコラムならではの隠し味と往年のカシアス・クレイを髣髴させる打法で、Morris.を何度も大笑いさせてくれた(^_^)
枕におかれた「文芸作品を10倍楽しく読む法」だけでも一読の価値あり、である。

1.小説に教訓を求めるな。−−小説から無理やり「人生に役立つ教訓」を読み取ろうとするのは、学校の国語教育の悪しき影響です。
2.小説のテーマを考えるな。−−これも国語教育の悪しき影響です。
3.登場人物に共感を求めるな。−−小説はあなたの結婚相手ではありません。どんな人物でもおもしろければ許す(どうせ他人なんだから)くらいの度量を持ちましょう。
4.小説に感動を求めるな。−−泣くだけならばゼロ歳児にもできます。大人の感覚を磨きましょう。
5.純文学と娯楽小説では読むモードを変えよ。−−娯楽小説はお金さえ出せば楽しく遊べる遊園地、純文学は自分で楽しさを見つける登山、といってもいいでしょう。
6.お話だけがすべてと思うな。−−おもしろさは自分で見つける、そんなつもりで積極果敢な「攻めの読書」を目指しましょう。
7.WHATよりHOWに注目せよ。−−題材や筋書きは平凡でも、調理の仕方が非凡な傑作はいくらでもあります。
8.美は「ゆがみ」にこそありと思え。−−小説は伝統芸能ではありません。仮にも散文の芸術である以上、破壊もオキテ破りも当然ありです。
9.物差しはたくさん持て。−−駄作・凡作と思っても切り捨てず、別の用途を考えましょう。映像作品の原作には向く、中高生の成長の糧にはなる、などです。資源は有効に活用しなければなりません。
10.困ったときは遠くを見よ。−−小説を読むにも少しは頭がいるのです。


これすなわち、美奈子さんの読書スタイルの開陳でもあるし、Morris.のスタイルと重なる部分も多い。本書のコラムのレシピともいえる。
例によって、美奈子さんならではの、お茶らけ、皮肉、突っ込み、鋭利、豪快、深読み、スリル、脅かし満載の、それでいて文芸作品世界への慈愛に溢れた珠玉のお言葉たちの中から、ランダムに引いておく。

・星野博美には単身者の矜持がある。猫も花も好きではなかったという彼女が、なぜ9匹もの猫を看取り、花に心を寄せるようになったのか。対象との距離の取り方がいつもながらすばらしく、猫を描いた作品としてもちょっとない出来。センチメンタリズムに溺れずに猫を(死も)描くのは、考えてるよりずっと難しいのである。(『のりたまと煙突』星野博美)

・読みたくなるでしょ、伊藤の手記。現代の出会いと明治の恋とが交錯し、虚実の皮膜(ひにく)で遊ぶ楽しさがいっぱい。「実」の部分を知りたい方はイザベラ・L・バード『日本奥地紀行』(平凡社ライブラリー)と併読されたし。あの場面に、この逸話。読書の楽しさが倍増する。(『イトウの恋』中島京子)

・卓抜な設定の物語だが、お話自体は意外と他愛なく(ごめん)、ビブリオマニアの偏執的な欲望を満たしてくれるところまではいかない。と思うのはしかし大人の発想で、これは良質のジュブナイル(児童文学)と考えるべきなのだろう(「本の雑誌」はっこういうのがすきだよね)。(『図書館戦争』有川浩)

・新人作家(には限らないが)の小説を読んでいてイヤになるのは「この人の頭のなかには地図があるのだろうか」というようなケースにぶち当たるときである。街や土地をきちんと書くのは文章表現の基本に属する問題で、小説の前に紀行文の練習をしたほうがいいんじゃないかと思ったりするが、みんな土地より人を書くことに熱心だからな。

・柴崎友香は一貫して大阪の若者たちのなにげない日常を描き、静かに支持者を増やしてきた。ステレオタイプ化された大阪ではない街の姿がクリアに浮かびあがる。(『その街の今は』柴崎友香)

・なるほどコワイが、惜しむらくは悪意の含有量が不足していることで、オムニバス形式のテレビドラマ風に、どれもサラッとした読み心地が物足りない。こういう小説は大団円にもちこまず、もっとドロッとジトッと執拗にやっていただかないとね。それと各編のタイトルに注目されたし。どれもこれも見事に「死語」だ。最後の1編は「レッツらゴー」。そこまでやるなら、もっと徹底的に死語を使い倒していただきたいわ。(『イジ女』春口裕子)

・堀口大學といえば、アポリネールやコクトーやランボーやボードレールの訳詩を思い出す人が多いだろう。矢作俊彦は、ロマンチストで気取り屋で自意識過剰な若き詩人が、いかにも書きそうなタッチの文章で小説を綴っている。
<知らぬわけが何故あろう、その名をこのぼくが>
<ああ、「恋人」という言葉にどれほどの意味があっただろう、そのころのぼくに。/amantの訳語という以外、いったいどれほどの>
おお、この倒置法こそ大學! 青春が恋が、革命が歴史が語られるのだ、この文体で。どうしておおもしろくないわけがあろう。このまま舞台になりそうである、宝塚歌劇の。(『悲劇週間』矢作俊彦)

・なるほどねえ。戦いの物語が主流の今、自らは戦わず、包帯を持って駆け回るこういう看護兵みたいな物語には一種の異化効果があるのだな。
とは思うが、そのくらいの「心の傷」は放っときゃ自然治癒するんだよ、と思ってしまう私は、うう、もうキタナイ大人なんだろう。だってさ、看護兵だって戦場では身の危険にさらされているんだよ。この子らは自分を安全地帯に置いていない?
読みながら「台風クラブ」を思い出した(もちろんタイトルつながりである)。相米慎二監督、工藤夕貴主演の1985年の映画である。あのころの少年少女は、傷つきながらも台風を待っていた。『包帯クラブ』には台風は来ない。(『包帯クラブ』天童荒太)

・大爆笑というほどではないにせよ、清水義範らしく、しみじみおかしい小説である。特別付録として、壁に貼って利用できる「大判美装ポスター」つき!
<絶賛 小沢一郎民主党代表「日本人の美実を見つめ直すヒントになる」>
という諭吉の心訓なみの惹句も微妙に可笑しい。(『福沢諭吉は謎だらけ。』清水義範)

・金井美恵子の小説を読むとは脱線を楽しむということで、だが脱線だと思っていた箇所が後で本線にせり出してきたりするから油断がならない。(『快適生活研究』金井美恵子)

・<彼は時代の変わり目に遭遇したのだ。携帯電話は人間が一人でいる状況を消滅させる機械だった>。
「携帯電話以前」を舞台にした他の5編をあわせて読むと、たった十数年で私たちはずいぶん遠くに来てしまったのかもしれないと、ため息のようなものがもれる。
故障した車を路上に置き、JAFを呼ぶために公衆電話を探して延々と歩くこともない。恋人とのすれ違った感情を修復するために、先回りして自宅の留守電にメッセージを吹き込むこともない。そんな世界に、私たちは棲んでいる。大袈裟なドラマではない日常性の中にこそ潜む小さな変化。小説は世界を映す鏡なのだ。(『愛と癒しと殺人に欠けた小説集』井伊直行)

・風俗小説の装いを凝らしながらも古びていない、それが田辺文学の偉大なところだ。古典の現代語訳も評伝もエッセイも、カラフルという語がピッタリ。全集はややお高いので、この本でチェックして全集は図書館でどうぞ。全集が図書館に無ければただちにリクエストすべし。(『まいにち薔薇いろ 田辺聖子 A to Z』)

・藤野千夜はデビュー当時からティーンエイジャーを描くのが抜群に上手かったが、そういや最近では新人文学賞の選考委員もつとめている。こんな新人がほんとにいたら……。新人文学賞作品(特に10代作家のそr)を、ああもう、素直には読めないかも。(『中等部超能力戦争』藤野千夜)

・本書には前身となる作品がある。1970年に出版された『ひげのあるおやじたち』である。歴史的に「非人」と呼ばれるだろう男たちを主人公にしたこの作品は「差別を助長する」との理由でやむなく絶版になったのである。どこが問題だったかは同時収録の「ひげのあるおやじたち」を併読されたいが、37年ぶりに生まれかわった本書では、歴史の表舞台に出てこない山や川や海の者たちのバックステージがじっくり書かれ、「ひげのない」少年や女たちにも活躍の場が与えられる。ブラボー! (『ひげがあろうとなかろうと』今江祥智・作 田島征三・絵)

・敗戦から63年を経て戦争をめぐる表現も変わりつつある。体験者に頼っていたら、やがて「戦争を語り継ぐ」ことはできなくなるのだ。15年戦争を題材にエンタメを書き続けている古処誠二などもそうだが、戦争未体験世代が太平洋戦争を描く時代に入りつつあるではないか。彼らはしかも兵士を書く。戦争の愚かさは結末に集約されている。気軽な読物風だからこそ、若い読者は等身大の厭戦気分を味わうだろう。(『群青に沈め』熊谷達也)

・タイトルは地味だが、本書は教養として名作文学を読んでみましょうというような、腐った鯛みたいな本ではない。「読みほど」かれているのは世界の文学ではなく、世界と文学(の関係)だ。
20世紀のミステリは『カラマーゾフの兄弟』から<骨格だけ残したもの>である一方、この小説の世界は<われわれが今生きているこの世界と非常に近い>と著者はいう。つまり必読だと。(『世界文学を読みほどく』池澤夏樹)

・詐欺師まがいの父の行状なども詳述。結婚にいたる経緯などは最低限しか記されていないものの、暴かれているのは、あの巨大な、政治的な影響力をもった宗教団体の内幕だ。これはこれでかなりの爆弾本。ワイドショーが内容を紹介でき無かったはずである。(『杉田』杉田かおる)

・物語の中の子どもたちも苦労が絶えなかったんだなといまさらながらに恐くなるケースも多い。『トム・ソーヤーの冒険』のトムは<嘘と本当とを自在にあやつりながら、「学校の子ども」という時代を生き延びようとする子ども>。善人の見本みたいな『小公子』のセドリックは<近代の大人社会が作り出した、「理想の子ども」という悲しいモンスター>。『エーミールと探偵たち』のエーミールも『銀河鉄道の夜』のカムパネルラも『汚れなき悪戯』のマルセリーノも、みな大人の期待や幻想に応えようと懸命だ。(『大人のための児童文学講座』ひこ・田中)

いやいや、ついつい調子に乗って、引用しまくってしまった。
去年は百冊を切ってしまったMorris.の読書生活が、今年はさらに減少現象に拍車がかかった感じで、その特効薬ともなりそうな本書に出逢って、いささか興奮してるのかもしれない。
ちびくろ2号(ノートPC)買って、神戸中央図書館でもインターネット接続できるらしいので、こういったブックガイド的なメモが、役に立つかもしれないという、スケベ心の発露でもある。
それは別として、久しぶりに美奈子さんの芸を見せてもらったようで、感無量である。
「悲劇週間」の引用部分なんて、文体模写を超えてる上に、ラストのオトシも見事すぎる。拍手!!


09051

【漢文入門】魚返善雄 ★★★☆☆ 社会思想社の教養文庫、昭和41年(1966)初版発行で、Morris.が持ってるのは54年(1979)の34刷である。30年ほど前に買ったのだろう。
実はこれを読むのは3回目である。買ったときに読んで、その後再読した記憶がある。
今回は特に理由もなく、ただ、あまりに忙しくて図書館に行く暇もなくて、読む本が無くなり、本棚を見て、久しぶりに漢文の復習でもしようと思ったのだ。
著者のことはほとんど知らない。奥付の略歴は、そっけないくらいに短い。

1910年 大分県に生る
1930年 東亜同文書院卒業
1966年 死去


本書が出た年に亡くなっているということは、これは遺作というべきなのだろう。
「東亜同文書院」という名前はこのところよく目にする。1901年に日本人の作った上海の中国語専門学校で、日中戦争時期にはスパイ養成所といった見方もされたようだ。Morris.が関心を持っている満州国建国にあたっても、この同文書院出身者が多数登場する。
本書は前後篇に分かたれていて、文体が違ってるし、内容が重なるところもあるから、別の雑誌に掲載したものを合併したものと思われる。
あとがきの代わりに娘である魚返昭子の文章が掲載されている。これが、また、素晴らしい父への弔辞になっていて、Morris.はついもらい泣きしてしまったよ。ちょっと長いが、全文引用する。

「父魚返善雄の思い出」 魚返昭子

「臨時夜行急行列車」。これは私が彼につけたニックネームである。
この本の原稿も一字の例外もなく、深夜に書かれた。原稿を書く時、彼は全身で、特に背中で話しかけられることを拒否した。背筋はまっすぐで、ほとんど身じろぎもしない。「写経」でもするのにふさわしい姿勢を、数時間保つのである。書き終わったり、行きづまったりすると、お風呂の支度を命ずる。たとえ、それが夜明けの四時であろうと、あの集中ぶり、緊張ぶりを見ては、快く応ずる他はなかった。
彼は、にわかに子どもじみて、ざぶりん、ぽしゃりとにぎやかに湯を浴びる。中国語の独り言がはいることも多かった。その間に私はできあがった原稿を読み、脱落した字を見つけ、あまりきたなくなっている時は清書する。屋根で、一羽の雀が目をさまし、遠慮がちに、仲間に呼びかける。耳敏く聞きつけたもう一羽が答え、三羽が鳴き、やがてぞろぞろと起きだす気配がする。彼は屋根を指さして楽しげに首をすくめる。庭に雀の朝御飯をだしてやり、安心して人間どもはしばらく眠るのである。本を書く仕事が、命を削る事だと人にも言われ、自分も感じながら、この道は、引き返す術のない道なのであろう。
ある夜、たまりかねて、電源を切った。
「停電ですから、あきらめて寝て下さい。家だけらしいから、引込線がはずれたのでしょう。こんなに遅く東電の人を呼ぶのも気の毒ですから。」
成功した。味をしめて、もう一度くり返した。彼は激怒して、東電に電話をかけようとする。白状するほかはなくて、この手は使えなくなった。それどころか、本当に引込線がはずれた時、執拗な疑惑の眼で見つめられる仕儀とはなった。
深夜しか書けない上に、彼の言葉に対する厳しさが、殊更に、難行を苦行にした。
広辞苑とアクセント辞典は、日向ぼっこの時さえ、座右にあった。決して貸してくれないので、別に買わなければならなかった。英和も漢和も、彼が使う高級なものは、残念ながら私の方に用がなかったので、わからないけれど、多分、貸してはくれなかったと思う。語学は天才だったと彼を知る人は言う。中国人に「私より中国語が上手だ」と賞められもした。けれど彼には満足はなかった。暇さえあれば、英語を、中国語を、フランス語を、そして日本語をテープに吹きこみ、磨きつづけた。そしてどんなに外国語が自由になっても、母国語と同じようにはできないという謙虚な結論も生涯変わらなかった。
とにかく彼は、いつも、どの本も姿勢を正して書いた。身も心もである。読む人にはどれほど面白おかしく書き飛ばしたように見えても、実は苦吟に満ちている。
だから、本ができ上がった時の喜び方は、無邪気と言おうか、素朴と言おうか。
その日、食卓は白いテーブルクロスでおおわれる。ビニールは厳禁。そしてささやかな花。可能ならば野の花。私にもなめられる、ワインかベルモットで乾杯。彼の肩には、彼が育てた小雀が、いつでも、どんな食物でもわけてくれるのに、なぜその美しい飲物だけはダメなのかとすねている。乾杯がすめば新しい本の贈呈式である。
第一冊めは彼を育てた、彼の「おばあさん」の写真に贈られる。
第二冊めは、この前の著書に、一番心をこめた返事を下さった方に。
第三冊めは自分の校訂用に。
たとえ、それが五十冊めの著書であろうと、六十冊めであろうと、この行事には、いささかの変更もなkった。
この「漢文入門」ができ上った時、どうすればいいのか、私にはわからない。
書いている間中、あの厳しい姿勢を支えていた、古椅子に第一冊めを贈ろうか。
椅子というのは、どれでも人待ち顔をしているけれど、この椅子は、また、特別、手持無沙汰に見えるから。
この文章を書くのはとても厭だった。
正直なところ、「本当に書きたい本は、まだ一冊も書いていない」と言っていた彼が、もはや帰らぬ人だと信じたくはないのである。
1996年11月


本書を3回読んだからといって、Morris.の漢文的素養が深まったとは思えないが(^_^;)、それでも、漢文アレルギーというものはあまりないと思う。

学不至於楽、不可謂之学(学ハ楽シムニ至ラズンバ、コレヲ学トイフベカラズ。学問はおもしろくてたまらないようにならなくては、そんなのは学問と称することができない)
こんな風に、こなれた日本語に訳されると、つい共感を覚えてしまう。
漢文の修辞法をまとめた章からそのタイトルのみをメモしておく。

1.簡潔
2.対偶(偶数性)
3.計数(数字性)
4.誇張
5.譬喩(譬え)
6.幽黙(ユーモア)
7.勧戒(教訓)
8.嗟嘆(嘆き)
9.否定
10.反問
11.仮設(仮定法)


09050

【インターセックス】帚木蓬生 ★★★☆ うっかりもののMorris.は、本書のタイトルから「インターネット世界でのセックス」をテーマにした小説だと思い込んでた。
実は、これは男性と女性の中間(共存)にあたる、いわゆる両性具有者を主題とする、真摯な作品だった。
Morris.は彼の作品はほとんど目を通してるが、とんでもない傑作があるかと思うと、あんまりな作品があったりする。ムラが多いというか、それだけ幅広いジャンルや傾向の作品を書き分けるだけの抽斗があるということだろう。
本書は「可もあり、不可もあり(^_^;)」といった感じの出来栄えだった。

九州で生殖医療や移植医療の豪華医療施設サンビーチ病院を経営する岸川医師が、優秀な泌尿生殖器科の秋野翔子をヘッドハンティングする。治療活動の中で、両性具有(半陰陽)嬰児への手術の可否を廻る対立、さらに、過去の世界的医療機関との提携に関連するむ不可解な連続死亡事故の謎解きなどがからんで、えらく輻輳錯綜したストーリー展開だが、さすがに著者が専門家であるだけに、説得力に富む医学的議論も披露されるし、サンビーチ病院の設備+スタッフ+技術力の描写には、一種のユートピア小説を読んでるような気にさせられた。

「それから先生が心配されているレズビアンの件ですが、米国の先天性副腎過形勢の患者の予後調査でも、レズビアンが多いという結果は出ていません。独身者が多いのは確かですが、四割は結婚していて、子供さんのある例も少なくないのです。と言っても、わたしは、レズビアンという生き方を軽蔑しているわけでは全然ないです。それどころか、ホモセクシャルな生き方も、ヘテロセクシャルな生き方と同様、価値のあるものだと思っています。大切なのは、その本人が誰からの強要もなく、自由にその生き方を選びとっていることです。それは医師や医療が強制する問題ではありません。強制するのは、むしろ罪といったほうがいいと思います」
「罪?」岸川は少しばかり茶化した感情をこめた。
「罪というより、医療過誤かもしれません。そこに本人の意志が反映されていない場合はです」
翔子は動揺も見せず、微笑さえ浮かべている。
「しかし本人が未成年の場合は、親の同意があれば充分でしょう」
「この件に関しては、親といえども、子供の権利の領分を侵すことはできないと思います。生命を左右する低ナトリウム血症が合併する場合は、それを是正するための治療を敏速にしなければならないので、親が代理人として権利を遂行して構いません。しかし外性器の手術は、何ら生命予後とは関係ないので、あくまで、当人の意志が尊重されるべきです。それには、患者自身が成長するのを待つのが前提になります。つまり、待つのが医療であり、黙って待つのではなく心理的な援助を行いつつ待つのが、真の医療だと、わたしは思っています」

こういったやり取りが随所にはめ込まれているわけだ。ヒロイン翔子の方がかなり優利な形勢だが、著者自身が始めからヒロインよりというのが明らかなため、ストーリー的にはいささか単調かつものたりなく感じられた。

「医学というのは、こちらが気がつかないままワナにはまってしまう危険性がある」
「ワナ?」翔子は訊き返す。
「知らず知らず、人間をマイノリティとマジョリティに分別するというワナ。病気自体はいわばマイノリティでしょう。治療は、病気というマイノリティを、健常であるというマジョリティに近づける行為に他ならない。それが医学を貫く大前提だから、医師はマイノリティの存在には、生理的な嫌悪を覚えやすいの。インターセックスの人たちも、極端なマイノリティとして、医学・医療から排除されてきた。医学はもっと多様性を大事にしないといけないのに」

「看護師さんのなかにひとりだけ、よくしてくれる人がいて、今でも顔と名前は覚えています。出勤のときは、必ず顔を見せて、[珠美ちゃん、めげてはだめよ]というのが口癖でした。がんばりなさいとか、元気出しなさいとかではなくて、めげてはだめよ、なんです。その言葉、何度も何度も胸の中で繰り返したので、もう体に沁み込んでいます」


こういった、本筋とは関係ないやりとりが印象に残った。

ちょっと前NHKの深夜番組で、帚木蓬生がゲスト出演した回を偶然聞いた。数ヶ月前放送したものの再放送だったらしいが、そのとき、しばらく入院していてその間に、執筆欲だけは旺盛で、書下ろしをものした、といっていた。もしかしたら本作のことかもしれない。
このインタビューの中で、人生の後半期を迎え大病などすると、残された日の少なさに思いをはせ、一日の重要さを再認識するといった話になり、誰かの話か著書からの引用といった感じで、「毎日、その日を残された人生の最初の日だと、思って生きることにしている」、と言ってた。
これは、Morris.の座右銘にもなってる、例の「私の名前はキムサンスン」の最終回に出てきた詩(説教)の一節「今日が、人生の最後の一日だと思って生きよ」に、通底するものがあると思った。「人生最初の日」と「人生最後の日」では、正反対みたいだけど、言わんとするところは限りなく似ている。
前者の方が前向き、積極的、後者は後向き、消極的という違いがあるかもしれない。まあ、やっぱりMorris.は後者の方が好ましい。でも、他人には、前者をお勧めするべきなのかもしれないな(^_^;)


09049

【目白雑録(ひびのあれこれ)3】金井美恵子 ★★★☆ 見かけたらつい読んでしまう金井美恵子の雑録。2006年7月から2009年1月までの分である。この間に愛猫トラーが死に、当人は網膜剥離の手術を受けるなどあって、ちょっとトーンダウンしてるのは否めないし、よる年波の影響もあって(Morris.と二つ違いだけど(^_^;))これまでに比べると、元気が無くなってるようでちょっと心配でもある。
でも、毒舌の切れ味はなまっていない。
ともかくも、列挙する(^_^;)

それを小説と呼ぶよりは、低所得者向けカップ麺やジャンク・フードと言ったほうがより正確なのではないかという[小説]を続けて読む機会があり、それに真っ向対立するのが[行列の出来る下町のトンカツ屋]のような小説とはまるで思いはしないのだが、他人の面貌の出来をあれこれ言う資格と自信はないのだけれど、それぞれの顔写真を見ると熟年になると顔がのっぺりと腫むというかタレるのだなあという(もちろん他人事ではない現象ではあるのだが)意味では良く似ている二人の男性作家のインタヴュー(「小説トリッパー秋季号「特集・いま小説は、どう読まれてる?」の「2大(傍点)インタビュー」高橋源一郎と橋本治 傍点は、もちろん引用者)にも、相当うんざりさせられたのだった。基本的に、近代文学は終わった、という認識に立つ、かつて、ポスト・モダンの旗手的存在だった二人は、いわばその後の「文学」や「小説」を実践的手さぐり状態で、「読者」をキーワードにとつとつと語ろうとする。(2006年10月)

ついでにフェミニストであるゆえに時にマッチョな書き手ともなる斎藤美奈子の「一時期、金井美恵子の書評はだれも書きたがらないという噂があった。彼女の小説は大好きだが、書評は書きたくない。なぜって変なことを書いたら作者にバカにされるから。−−この噂はまんざら嘘でもないだろう」(『快適生活研究』書評「週刊朝日」11月24日)という文章も引用しておくことにしよう。私にかぎったことではなく、「変なこと」を書評に書けば、書評者は当然「作者にバカにされる」に決っている。まあ「作者」だけではなく、書評の「読者」にも「バカにされる」ことは言うまでもないのだが、私は「変なこと」を書いた書評者を「バカにした」ということはなく、「この文章は、小説を読むという批評性に、私に言わせれば決定的に欠けているうえに、文章も上手とはいえない、この二つが重なってしまうと、書き手について、書いてくださったことに感謝と好意の感涙を浮かべようとしても、ひどく困難を感じる、嘘はつきにくいし、無視するのも失礼か」という程のことを出来るだけ穏やかに、(もともとが言わずもがなのことなのに)書いたことがある、のは記憶しているという程度のことだ。
「この噂はまんざら嘘でもないだろう」だから、自分は「変なことは」書かない、と斎藤美奈子にほのめかされても、私の耳にそういう噂が入って来るわけでもないので、全然ピンとこない。(2006年12月)

なんとなく興味を持てずに一行も読まなかったロルカの詩を、やっぱり読まなくていいや、と決定づけたのが西江雅之で、私は一度も見た事はないのだけれど人気のあったテレビ・ドラマの主役で主題歌も歌った天地茂の「生れた時代(とき)が悪いのか、それともオレが悪いのか、どうせなんとかのこの世なら云々」という歌詞を、西江さんは、あれはロルカの「ジプシー詩集」ですよ、ロルカの詩ってああなんです、というので読む必要がないと思ったのだった(2007年2月)

何が言いたいのかというと、こうである。二人の男性大作家のような作品の業績(キャリア)も当然ないまま、私もああいったふうに老いはじめているのか−−。と、いうことである。キャリアは積めないまま、発言の内容は似てしまうのではないか−−。今、誰か面白い批評を書く人っているの?などとある種の若い作家(もっともそうした存在と合うこともない生活を送っているのだが)に質問すると、三十年前私が答えたのと同じ名前が、なんと、いまだに出されるかもしれない気もする一方、えっ? 誰? それって、聞いたことない、と言うのではないだろうか。(2007年11月)

ところで、テレビといえば、お昼のワイドショーに出ていたゲイの振り付け師なのか美容師なのか、どちらにしても、今、テレビに毎日のように良く出ている人、の一人であるらしい人物が、「ホラ、手紙を書いて封筒の裏側のフタをペタっと張り付けて、バッテンを書くでしょ」と言っているのを、かなりの年配のはずである、モンキー型の顔をしたみのもんたがウンウンと頷いていたのには、どうでもいいけど、少しだけあきれた。テレビの食物番組では、鍋料理の最期におじややにゅうめんを食べることを、〆めと言うのである。私の言語感覚では、こういうのはバッテンである。この冬はじめて聞いた言葉なのだが、四十年以上前、石川淳が最近の若い人は活字を見て万年筆で字を書いて覚えるから、口を画なしでマルく書くというのでクチマル式の文字と、それをかならずしもそう不快そうにでもなく書いていたが、今は、〆めバッテン読み、というべきかもしれない。石川は石川でも書家の九楊は何と言うか。(2008年3月)

昭和22年に建った家が古民家なのだとすれば、同年生まれの私はさしずめ心の窓である眼にガタがきたということなのかもしれない。
一回りして先祖返りをしたのではなく、小説が書かれて読まれる世界など、そこで長く物を読んで書いてきた高齢の批評家が考えるほど変ったりはしないのだ。十四、五年前、川村二郎は文芸批評という仕事を、海に沈みかけている巨大船の傾きかけた甲板にとどまって、沈み行く船や人々への悲しみとはげましを演奏し続ける楽団員にたとえたのだったが、文芸批評とは、そんなにも説明不可能としか言いようのない使命感に支えられて成立するものだろうか。これは当時も今も変らずに、笑いを誘われる名言の類いである。(2008年5月)

半分居眠りしながらなんとなく見るともなく見ているテレビの画面に映っているNHK大河ドラマ『篤姫』の宮崎あおいのことなのだった。丸顔で鼻が短くてツンと上を向いていて、横顔では鼻と唇の高さが一直線上に並ぶ、チャーミングなマンガ顔はそれなりに用い方というものがあったわけだが、少女マンガ的わかりやすさで作られているとはいってもお姫様で徳川の将軍の奥方と言う役所に、つい私は、半世紀以上前に見た今井正の『にごりえ』(一葉作品の映画化であるこの映画には『大つごもり』のエピソードも入っている)で、主家の小金を盗んでしまう貧しいけなげな女中を演った久我美子を思い出して、老婆然と、昔の映画ではお姫様(久我美子という戦後派の女優は帰属のお姫様出身だったのである)が女中を演ったもんだけどねえ、と、宮崎あおいが、もっともらしくわかりやすい少女マンガ風の演技をいい気になってするのを見て、口にするのだったが(2008年12月)


09048

【阿片王】佐野眞一 ★★★ 満州で「阿片王」の異名を持った里見甫(はじめ)の足跡を、関係者へのインタビューや資料からたどろうというもので、「週刊新潮」2004年5月から8回に連載した「阿片楽土の王--満州の夜と霧」を改稿、加筆したものである。連載原稿は150枚で、本書は900枚にまでふくらんだと後記に書いているが、読み終わったMorris.からすると、あっさり最初の150枚くらいで良かったような気がする(^_^;)
インタビュー、取材の量とその執念には感心するが、それらを整理取捨選択して、必要かつ充分なのだけを作品にまとめてもらいたいものである。
結局巻末にある里見の略年表を超えるほどの印象は残らなかった。


明治29(1896) 1月22日、乙三郎、スミの長男として誕生
明治37(1904) 日露戦争
明治39(1906) 満鉄設立
明治44(1911) 辛亥革命
大正2(1913) 南京事件 修猷館中学卒業、東亜同文書院入学
大正4(1915) 「対華二十一か条」調印 北京から黄河、西安、漢口などを調査大旅行
大正5(1916) 東亜同文書院卒業、青島の貿易商社に入社
大正9(1920) 日本に戻り東京で日雇い労働者に
大正10(1921) 日英米仏四国条約調印。天津の邦字紙「京津日日新聞」の記者になる
大正12(1923) 「北京新聞」創刊、編集長に就任
昭和3(1928) 張作霖爆殺事件。満鉄南京事務所の嘱託となる
昭和6(1931) 柳条湖事件・満州事変始まる。関東軍第四課の嘱託事例を受けて奉天に
昭和7(1932) 満州国建国宣言。新京で「満州国通信社(国通)」を設立
昭和8(1933) 国際連盟脱退。9月、相馬ウメと結婚
昭和11(1936) 二・二六事件。満州を去り、天津の華字紙「庸報」の社長に
昭和12(1937) 盧溝橋事件から日中戦争勃発。上海に移る
昭和13(1938) 陸軍特殊部・楠本実隆大佐に阿片売買を依頼される
昭和14(1939) ノモンハン事件。阿片取引の事務所「安済善堂」を開く
昭和15(1940) 日独伊三国同盟調印。
昭和16(1941) 太平洋戦争開戦。この年「安済善堂」の阿片取引量が最大になる
昭和20(1945) 太平洋戦争終結・満州国解消。9月福岡に帰着。その後、京都に潜伏
昭和21(1946) 3月、GHQによって逮捕される。9月、極東軍事裁判所に出廷。保釈後は東京・成城に住む
昭和24(1949) 中華人民共和国成立。
昭和34(1959) 6月、ウメと離婚、7月、湯村治子と再婚、11月、長男泰啓誕生
昭和40(1965) 3月、新宿で逝去


09047

【愛と日本語の惑乱】清水義範 ★★★☆ 中年コピーライター野田が、恋人の女優との愛のほつれから、不思議な言語障害に陥る過程で、さまざまな日本語の問題にも触れ、面白くて為になるようなドタバタ小説である。
コピーライターはSHK(もちろんNHKのもじり)の用語委員会委員でもあり、そこで取り上げられるテーマにも興味深いものがあった。
たとえば数字の表記。これは大まかに算用数字と漢数字のどちらを使うかということになるが、縦書きだと漢数字、横書きだと算用数字が基本で、慣用語や固有名詞に含まれる数字は横書きでも漢数字を使う。しかしこれにもいろいろ例外や書き分けがあって、統一は難しい。
また、「中国の地名・人名の読み方について」というテーマも面白かった。

日本では、世界中の国の中で中国の地名・人名だけは特別のルールで読んでいるのである。中国以外の国の人名、地名などは、現にその国の人が発音しているのをなるべく忠実に(でも、大きく違ってしまっているケースも多いのだが)片カナで表記し、そのように読むようにしている。
ところが中国だけは、これはその国が漢字を使っていることが理由なのだが、その漢字を日本式の音読みで読む、というやり方なのだ。つまり、毛沢東を、モウタクトウ、と読むのだ。中国人がその名を、マオ・ツォートンと読んでいることは無視するのだ。というわけで、せっかく二つの国が同じ漢字を使っているのに、読み方は日本風にしてしまうので、口に出して言ってみると相手には伝わらないのである。
韓国(北朝鮮も)の場合は、ルールが違う。例えば金大中という人物の名をかつては、きんだいちゅう、と読んでいたこともあるのだが、今はそれをキム・デジュンと読んでいる。
なぜ韓国が相手だとむこうの読み方にし、中国が相手だと日本式読みにするかというと、それには相互主義という原理が働いているんだそうだ。つまり、中国の人は日本の地名や人名をむこうの読み方にしてしまうのだ。
たとえば野田敦という名を、中国人はイエティエン・ドゥンと自分たちの読み方にしてしまうのだ。だからこっちも、毛沢東はもうたくとうと日本式に読んじゃうぞ、という意趣返しみたいなことになっているのだ。
その点、韓国では野田のことは、ノダと読んでくれる。だからこちらも、キム・デジュンとか、ノ・ムヒョンなどと片カナで書いてそう読みますよ、ということだ。
そして、原則はそういうことなのだが、これにいくつかの例外がある。まず、中国の地名で、あまりに有名で中国式読み方が伝わってきているいくつかの例外は、むこうの読み方にする。たとえば上海や香港は、シャンハイやホンコンにするのだ
もちろんこのやり方は数々の疑問点を生じさせる。西安ぐらいだと、原則のせいあんと読むべきか、例外のシーアンと読むべきか迷ってしまうのだ。SHKでは今はせいあんだが、そろそろシーアンじゃないだろうか、という声もでているそうだ。


この話題は回り回って、日本人の中国文明受容の形式としての漢学にまで至り、日本文化の一部となった中国語の日本式発音を変えることは、日本文化そのものを消失させるという卓見?に導かれるあたりが、別の意味でまた面白かった。

また、脳学者吉村とのシンポジウムでのやりとりも興味深かった。

「二十世紀の偉大な言語学者チョムスキーはですね、こう考えたんです。幼児の脳にははじめから文法の知識があるんだと。つまり言語は本人の努力による学習の結果生じるのではなくて、言語の元になる能力。すなわち言語知識の原型がすでに脳に存在しているんだということです」
「たとえば日本人の赤ん坊には、はじめから日本語の文法がわかっているというこですか」
「いや、日本語の文法というふうに考えてはいけないんです。日本人の赤ちゃんでも、英語を話す人に育てられたら英語が母語になりますからね。何語と決っているわけではなくて、すべての言語の原形となる文法が脳の中にあって、耳から入ってくる言葉によって原形の文法を微調整していくわけですね。とにかく、人間の脳にはもともと言語能力があるっていうわけです。そう考えれば『プラトンの問題』は解けます」

二人の話に耳を傾けていたシンポジウムの進行をした元アナウンサーが、野田の反対側から吉村に質問した。
「言葉のことは、すべて脳の中の活動ってことですか」
「そうですね」
「何だか信じられないような話ですね。たとえば私の脳なんかは、おしゃべりな脳ってことになるのかなあ」
「おしゃべりな脳も、ありますね。それから、駄洒落が好きな脳も」
「駄洒落ですか」
と野田は反応した。
「ええ、駄洒落とか、語呂合わせが好きで、そんなことばっかり言っている人がいますよね」
「います」
和光製紙の原口部長の顔が思い浮かんだ。
「あれは、脳の言語中枢の中で、似た言葉を捜す作業に快感があって、やめられなくなっている状態でして、病気ってわけじゃないんだけども、症名もついている脳の疾患なんですね」
「どんな症名ですか」
「フェルスター症候群です。その現象を発見したドイツの外科医の名前から、そう呼ばれています」
ついに原口部長の正体をつかまえたぞ、という気がして、野田はニヤニヤと笑いだしてしまった。


うーーむ、オヤジギャグ連発も実はこの「フェルスター症候群」だったのか。これは覚えておこう(^_^) Morris.も、いくらかこの傾向がありそうぢゃ(^_^;)
ところが、念のため、ネットでこの症名を検索したのだが、ぴったり該当するものが見つからない。「笑い発作の起こる病気」という記事の中に

この部分が笑いの神経中枢である別の証拠としては、1934年に脳外科医のフェルスターが報告した、第3脳室の手術中に第3脳室の底部の出血をふき取るたびに、患者は大声で爆笑したことがあげられます。

と、あるが、このフェルスターが先の症候群と関連あるかどうかははっきりしない。
そのほか「フォスター・ケネディ症候群 Foster Kennedy syndorme」というのがあったが、これは「前頭葉底部の髄膜腫などで味覚や嗅覚の消失」とあるので、駄洒落の症候群とは違うよだ。
ひょっとするとこの部分は作者の創作かもしれない(^_^;) もしそうだとしたら、ちょっと反則のような気もする。

*翌日しつこく探してたら、英語のサイトでFoerster's syndromeが一つだけ引っかかった。
ドイツの脳外科医Otfrid Foerster(1873/09/09〜1941/07/15)オトフリド・フェルスター。たぶん「Foerster」の「oe」はドイツ語特有の「o」にウムラートがつくのではなかろうか。
先の英語サイトを、エキサイト翻訳ソフトにかけたものを引用しておく。

フェルスターのシンドロームは強制的なだじゃれに関する彼のアカウント[1]に アーサー・ケストラーによって使用された名前が、最初にドイツ人の神経外科医 Otfridフェルスターで[2]について説明したということです。
1929年に、フェルスターは、第3脳室の 腫瘍に苦しむ患者を手術していました--本心では親密に感情の喚起に関する構造に隣接した 中脳のphylogeneticallyに古代の部分の小腔。 それらの敏感な構造に影響して、外科医が腫瘍を操り始めたとき、(意識する)の患者は、 だじゃれの躁病の便に乱入しました。 彼は、典型的な音の協会を示して、オペレータのあらゆる単語で 考えの飛行を始めました。 1つの単語の音は次の音で迅速に反響しました、そして、その単語のすべてがナイフと屠殺場と関係がありました。 ケストラーは、この気味悪いユーモアが「彼の頭蓋骨が開いていた状態で顔が下に手術台に結ばれた男性」からすべて来たことに注意しました。


うーーむ、ネット検索の「凄さ」を改めて思い知らされた。専門外というか、まったく未知の領域の事象でも、家庭のPCだけで、簡単にこの程度の情報が無料で得られるということの凄さである。

主人公コピーライターは子供のころから言葉には特殊な関心を持ってたようで「おっとりがたな」とか、「もがな」などを自分なりに解釈して楽しんで?いたようだ。

バッグのメーカーの「サムソナイト」というのが敦には、寒そうな騎士(ナイト)、の連想につながってやたらに面白い言葉なのだ。

Morris.はずっとあのカバン見るたびに「寒そうな夜(ナイト)」と思ってた(^_^;)

てなわけで、本書は小説としてそれほど面白くも無かったが、言葉に関する小ネタ満載ということでは、結構楽しめる一冊だった。


09046

【神戸新開地物語】のじぎく文庫編 ★★★ まっさんからもらった一冊で、昭和48年発行だから、すでに36年前のものである。内容は明治大正から昭和20年までだから、いわゆる戦前、戦中篇ということになる。
いかにも新聞からの引用とおぼしい記事や、写真の羅列だし、劇場、映画館の記事が中心で、ちょっとMorris.には物足りなかった。やはり、「湊川新開地ガイドブック」の方が抜群に面白かった。
それでも、当時の生の記事は、その文体とあいまって、ノスタルジックを感じさせてくれた。

…サッと堰を切った歓楽の巷、踊の渦まく中心に投じた福原から楠社西門筋は出たわ出たわ。陽も麗らかな午後から一時に踊り出した屋台に囃子の連中が街に溢れる人波。赤、青、黄、紫の踊衣装も華やかに三味に浮れ、笛に囃されて踊り狂ふ。福原の美妓を集めた八雲連が白丁姿もきほひないで立ちでヒュー、ドンドンと繰り出せば、菊水倶楽部の雇仲居連中も口髭生やし、だてならぬ一刀を落としざしの奇抜な奉祝姿を押出すと、つづいて仲町倶楽部の連中も輿丁姿でイヤハーの掛声軽く楠社へ屋台を押出した。西門筋を通る屋台は、ここにもそこにも出逢ふたびに万歳の歓声を張上げて祝へ踊れとどよめき渡る。福原遊郭へ流れ込む人出もすさまじい。華美な変装芸妓や仲居連が、粋な姿で往き来ふ姿に花街気分は色濃くえがき出された……

昭和初年の神戸祭りの新開地福原点描である。Morris.の母方の祖父母は、ちょうどこの頃結婚して、菊水町で母を生んだ。つまり、ちょうどこの記事の風景をリアルタイムで体験したにちがいない。
その後上海に渡り、敗戦後這う這うの体で朝鮮半島から九州に引き揚げて、佐賀の片田舎に落ち着くことになるのだが、それはまた別の話である。ただ、祖母が、ことあるごとに、神戸、新開地を懐かしんでいたことが思い出される。


09045

【非正規レジスタンス】石田衣良 ★★★ 石田作品の中ではMorris.の一番好きな「池袋ウエストゲートパーク」シリーズの8冊目である。短編4本が収められている。
相変わらず小洒落た文章と優しさとちょっと意表を突く事件と可哀相な若者や子供や年寄りやシングルマザーなどが登場する。作品ごとのクラシックBGMもそつなく用意されている。しかし8冊目ともなると、ちょっと鼻白む部分も出てくる。読む側からすると、ほとんど「寅さんシリーズ」見るようなものである(^_^;)
ネットカフェ難民やら、フルキャストをモデルにした派遣労働者問題やら、サイレントマイノリティを取り上げた作品が多かったし、同工異曲みたいなものもあって、いつもに比べてやや低調な感じは否めなかった。
先日名古屋の現場のとき、これ持って行って往復のトラックでよむつもりだったが、往路の名古屋に着く前に読み終えてしまったよ(^_^;) 250pだから3時間はかからないだろうけど、窓から景色見たり、デジカメ撮ったり、運転してるメンバーとおしゃべりしたりしながら、こんなにすいすい読めるのはMorris.の速読能力ではなく、筆者の文章の力(軽さ、読みやすさ、ストーリー展開の速さ)のゆえだろうが、起承転結と序破急をうまく使って、だらだらならないように盛り付けされているところも読みやすさに拍車をかけている。
広告やコピーライター出身の作家の作品は良くも悪くもこういった特性では類似していると思う。最近では「阪急電車」の有川浩とかね。
すべての作の始めあたりにその物語のレジュメというか紹介みたいなのがあって、これは無い方が良いのではなかろうか。

今回は、池袋の裏街で歯をくいしばって生きてきたシングルマザーのお話。おれたちが戦後最長の好景気だと浮かれているあいだになにを切り捨ててきたか、そいつがあからさまに丸わかりになるネタである。「千川フォールアウト・マザー」

今回は、街にちいさなクリンナップの輪を広げたどえらい秀才と、池袋東口に君臨する天空の王のお話。まあ、ぶっちゃけやつらは親子なんだが、そこにアホなギャングがからんで、話は少々複雑になった。「池袋クリンナップス」

今回は、間抜けな恐喝団とひどくごつい年寄りが活躍する秋の池袋の話。小道具は見てはいけない映像を収めた銀色の携帯電話だ。あの親父にはおれも少々痛い目にあったけど、こういう仕事をしていたら、たまにそういうことがあるのもしかたないよな。「定年ブルドッグ」

今回のおれの話は、独裁者とグルになった独占企業が好き勝手に働く人間からしぼりとれるアフリカや中南米の話じゃない。おれたちの目の前で起きているリアルライフストーリーだ。この社会に無視されて透明人間になった難民たちのレジスタンスの物語なのだ。「非正規レジスタンス」


こうやって引用すると、タイトル&ストーリー紹介として便利だが、小説くらいは予告編やスポットCMなしで読ませてもらいたい(^_^;)
後は例に拠って例の如く「小洒落&シニカルフレーズ」をランダムに引用しておしまいにする(^_^)

・へたくそほど人に教えたがる。そいつはどんな世界でも同じだよな。

・おれたちの時代は、同じ街のなかに発展段階の異なる別な国がある。そういう時代なのだ。

・最近のガキのなかには、親指だけで小説なんかを書くやつもいるのだとか。まあ、ディスプレイがちいさいので、それなりに話自体も小さくなるのはしかたないかもしれないけどね。

・なんといっても、日本は自己責任の国だろ。貧乏になる権利は誰にでも平等だ。考えたら不思議だよな。オペラ好きの総理大臣が労働ビッグバンをやらかすまでは、そんな働きかたはこの国にはなかったし、透明人間も存在しなかったんだから。

・あたりまえの日々にはいつか必ず終わりがやってくる。世界はあんたを放っておいてくれるほど、やさしくはない。始業のベルは必ず鳴り響くのだ。


09044

【文字講座】浅葉克己他 ★★★ 東洋美術学校創立60周年記念事業として2006年に開かれた「文字講座」を素に、再構成されたもので、13人の専門家による13回の講義録という形態を擬している。ちょっと煩わしいが全講座のタイトルと講師名を引用しておく。序でだからMorris.の採点(^_^;)もつけておこう。

第1講 「世界をめぐる文字の旅−−愛ある文字・トンパ」 浅葉克己 A’
第2講 「ローマ大文字の礎−−トラヤヌス帝の碑文がかたる」 木村雅彦 B’
第3講 「字・言葉・文字・絵」 B’ 
第4講 「サンセリフ体活字の潮流」 杉下城司 A
第5講 「タイプデザイナーという仕事」 鈴木功 B
第6講 「私のデザインと文字」 服部一成 C
第7講 「石彫り職人の活字 ギル・サン書体」 河野三男 A
第8講 「日本語のデザイン、その後−−日本語組版の応用と展開」」 B
第9講 「書から活字へ−−書家・池原香穉を追って」 春田ゆかり C
第10講 「タイポ・グラフィックス−−デザインとの関わり」 中島英樹 B
第11講 「書体開発の現場−−アドビ システムのデジタル・フォント」 山本太郎 A’
第12講 「活字とグリッド・システム−−ブック・フォーマットの形成」 白井敬尚 A
第13講 「The Power of Art Direction」 佐藤可士和 A’


自他共に認める悪筆のMorris.だからこそ、文字、特に印刷文字(活字、写植、タイプライター、デジタルフォント)への関心はそれなりに高いものがある。だから東灘図書館でこれを見つけて迷わず手に取ったのだが、全体の感想はまずまずといったところで、13人も執筆者がいれば、玉石混交已む得ないとも言えるが、Morris.の採点は、あくまでテーマや図版がMorris.好みかどうかという部分が採点の基準なので、評価が低いからといって、講義そのものに内容が無いというわけでは必ずしもない(^_^;)
トンパ文字は前から大好きだったし、エリック・ギルという人物そのものへの関心も高かったし、彼の書体の不思議な魅力はまだMorris.には輝いて見える。ローマン体とサンセリフ体(日本なら明朝とゴシック)に関しては、本書でいろいろ知ることができて有用だった。

1816年、イギリスのウィリアム・キャズロン4世が金属活字のサンセリフ体「トゥ・ライン・イングリッシュ・エジプシャン」を活字見本帳に掲載しました。書体名に「エジプシャン」という言葉が含まれていることから、キャズロン4世がセリフのない書体をサンセリフ体という観念ではなく、エジプシャン体の変型として認識していたことがわかります。この書体は大文字のみでしたが、金属活字として初めて作られたサンセリフ体といわれています。
やがて1832年、同じくイギリスのヴィンセント・フィギンズがセリフのない書体に初めて「サンセリフ」という名をつけました。以来、「サンセリフ」と言う名が少しずつ定着していきます。
ドイツではサンセリフ体を通常「グロテスク」と呼んでいました。アメリカでは1837年にボストン活字鋳造所が「ゴシック」という名前をつけてから、主にゴシックと呼ばれています。
しかしゴシックとは本来、ブラックレター体を指す呼び方ですから、まぎらわしい呼称といえるでしょう。
1834年にはウィリアム・ソロ−グッドによって小文字のキャラクターを持ったサンセリフ体が登場します。そして19世紀の終わりごろになると、ディスプレイ書体だけでなく、ようやく本文が組めるようなウェイト、文字幅、サイズをそろえたサンセリフ体が登場してきます。


サンセリフ体がドイツでは「グロテスク」と呼ばれてたというのが、本書で一番印象に残った


09043

【神戸レトロコレクションの旅】石戸信也 ★★★☆ 著者は高校の歴史教師で絵葉書のコレクタらしい。「デザインに見るモダン神戸」と副題にあるが、この前読んだばかりの「大阪神戸のモダニズム」と重なったり補完したりする部分もあって、それなりに興味深かった。神戸新聞のじぎく文庫の新刊で、200p近くの半分がカラー半分白黒である。いまどきのヴィジュアル本の趨勢からすると、ここはオールカラーにしてほしかったところ。
1テーマ4p〜8pで、異国情緒、異人館、映画ポスター、デパート、商店、景観、祭り、画家、交通機関、街並み、名所旧跡など、ご自慢の絵葉書を中心に40テーマに分けて紹介されている。記事というよりコラムみたいなものも多いが、かなり丁寧な解説も多い。
この本借りた日に学生センターに行って、たまたま飛田さんに見せたら中の「近代神戸のキリスト教」のコーナーに強い関心を示していた。

神戸は日本のキリスト教布教の一大拠点である。開港地として横浜や長崎などと共にキリスト教を受容し、単に信徒の宗教活動にとどまらず、市民生活や文化の発展に大きく貢献してきた。建築・音楽・美術から食生活、文学、教育、またクリスマス用品の生産、そして神戸YMCAによる近代スポーツの普及、賀川豊彦らの労働・社会運動など神戸のキリスト教が果たしてきた役割は大きい。医療や幾多の病院・福祉施設、神戸海員ホームなどの活動もキリスト教が担った。明治6年、幕府以来のキリスト教禁止の高札が国際社会の批判で撤去されると、すでに明治3年にフランス人神父ムニクウにより居留地に建てられていたカトリックの天主堂に続いて、プロテスタントの教会も各地に誕生し、中でも明治7年設立の摂津第一公会(現・日本基督教団神戸教会)は西日本最初のプロテスタント教会となった。

なかなか要を得て分りやすい紹介文である。たしかに神戸には現存してる古い素敵な教会も多い。
その他Morris.の興味を惹いたのは、海外航路、商船会社、ホテルなど国際港としての神戸を象徴する画像、懐かしさの馨る手描きパノラマ地図、Morris.眷恋のマッチラベル、引き札、錦絵、盛時の新開地風景、デパート、電車等々である。
数えてはいないが千点近くの画像が収められているようで、興味の尽きない一冊である。中でも、見逃しやすい、街角の歴史の欠片までを拾い集めているところは、Morris.の共感を呼ぶ。
有名なヴォーリズ建築のコーナーでは、先年解体されてしまった須磨離宮公園前の室戸邸への追慕が身にしみたし、旧ナショナルシティバンク(現・大丸38番館)と旧神戸ユニオン教会(現・フロインドリーブカフェ)もヴォーリズ建築ということをはじめて知った。

アメリカ人ウィリアム・メレル・ヴォーリズ(William Merell Vories 1880-1964)は明治38年、24歳で近江八幡に来日、熱心なキリスト教伝道と教育、そして建築家として、また医療やYMCA活動などへの貢献を通じて、日本にその生涯を捧げた。今も愛唱されている同志社のカレッジ・ソングを作詞し、メンソレータムを販売し、日本国籍を得て一柳米来留(メレル)となって日米友好を願い、日本を愛し続けた。大正8年には、神戸女学校(現・神戸女学院)音楽部を卒業しアメリカにも留学した一柳満喜子さんと結婚している。
それにしても彼とそのスタッフが残した建築作品は関西を中心に全国に及び、総数は約1,500以上と膨大だが、学校・住宅・銀行・商店・工場・病院・教会・デパートなど多岐にわたる。京都のの同志社の学舎のいくつかや、洛陽教会、赤レンガの御幸町教会、四条大橋西詰の東華菜館、大丸ヴィラ、また大阪の大丸心斎橋店(玄関上部にはウサギとカメのデザイン)、大阪教会、また西宮の関西学院や神戸女学院など今も親しまれている建築は多い。同時に広い廊下や、階段のウサギとカメの飾りで知られる滋賀の豊郷小学校など、ヴォーリズの、使用し生活する人をあたたかく大切にする建築思想の遺産が、破壊の危機にさらされてきたことも事実である。


これまた分りやすい解説だったのでつい引用してしまった。
神戸在住の物好きMorris.にはとても楽しめる本だったのだが、一つだけ大きな不満がある。多数ある写真には記事ごとに番号が付されている(no naumberもあるが)のだが、これが、順番がめちゃくちゃなのである。「5.神戸の異人館の源流」の記事を例に挙げると、

○−5/○−1-2-8−○/9-11-15-3/4-10-6-12/17-13-14-16/22-○-○-○/○-21-20-○/19-7-18-23-24(「/」は改ページ「○」はno number)

番号というのは順番に並んでいればこそ役に立つのであって、この乱暴な並び方ではほとんど用をなさない。記事の方は番号順に出てくるのだが、読者は番号出て来るたびにあちこちのページを繰って該当番号を探し回ることになる。基本的には記事に出てくる順に写真を配置して、番号も併行するのが望ましい。本書の場合カラーと白黒ページの兼ね合い、形や大きさの関係等で少図版の順番やレイアウトの変更を余儀なくされたのかもしれないが、それにしても、あんまりである。最悪でも写真図版の番号を若い順に機械的に振って、本文記事の番号をそれに符合させておけば、該当図版の検索は格段に容易になると思う。とにかく、本書の写真番号の付け方はあまりにも読者に不親切だと思う。
ついでに欲を言えば、記事紹介の建築物や名所旧跡、街角に残された歴史の欠片などの位置の案内図ならびに正確な番地名があれば、ガイドブックとしても有用だったろう。
まあ悪口批判はほどほどにして、良いところを強調するべきだったかもしれない。内容の濃いなかなか見どころのある本と思ったからこその苦言と受け取ってもらいたい。


09042
【神器 軍艦「橿原」殺人事件 上下】 奥泉光 ★★★☆ 現代の日本作家の中で一押しといえば、迷わず彼の名をあげていたMorris.だが、ここしばらく、どうも迷いが生じている(^_^;) というより、新作に見えることがずいぶん無かったのだ。自サイト検索で調べたら、最近の読書が2004年の「新・地底旅行」だった。そしてこの作品はMorris.にはほとんど評価できないものだった。
そんなこんなで、じつにMorris.にとっては5年ぶりの奥泉作品ということになる。日記にも書いたが、夜中に寝付けず、読み始めて、結局朝までかけて読み通した。5年待って一晩で読了というのも、あまりにあっけなかったかもしれないが、先に結論を書けば、可も無し不可も無しだった。あくまで奥泉作品としては、という意味で、凡百の作家とは一味もふた味も違ってるのは間違いないし、文章、描写、表現、発想、諧謔、饒舌、レトリック、遊び、仕掛けといった突出した技量を持つ「奥泉作品」として「不可も無し」は、決して低い評価ではない。しかし、欲張り読者であるMorris.としては、わくわくどきどきさせるくらいの面白さがやや不足してた感が否めなかった。
「新潮」に2006年から2年半にわたって連載されたものらしいが、800pの作品で126章という比較的短かい章分け(1章平均6〜7p)で、場面転換(語り手や時空も頻繁に変わる)がスピーディなため、つい読む側もスピードアップを余儀なくされたきらいがある。Morris.だけかもしれないが(^_^;)。
メインの時は太平洋戦争末期、メインの舞台は軽巡洋艦「橿原」(5,890t、133.50m×15.95m 8000万馬力、乗員420名)、メインの登場人物は乗組員+特命を帯びた陸軍軍人とその仲間。
戦艦「大和」が「矢魔斗」、戦艦「武蔵」が「無左志」という宛字で登場するから、この「橿原」という艦名もフィクションながらモデルはあるのかもしれない。

「矢魔斗」が沖縄へ到達する以前に沈められることは図上演習で結論が出ており、遊撃部隊の沖縄突入は全く非合理としかいいよううがないと思われるだろう。だが、今さらいうまでもないことではあるが、こと言論の場において合理と非合理が争った場合、大抵は非合理が勝利するのである。それにそもそも「矢魔斗」艦隊の沖縄特攻は合理的であるとみえた。けだし、この戦争に日本が勝つ、ないし負けぬためには、奇跡が起こる、つまりは「神風」が吹くしか最早ないのであるが、それには浮き砲台作りなんて地道な事業をこつこつ積み重ねていては駄目で、何かしら血が滾るがごとき、魂が燃え上がるがごとき激烈な行動が必要に違いないのであった。神風を呼ぶには犠牲がいる。悲壮にして純正なる犠牲が求められる。すなわち神風特攻隊こそ、その名が示すとおり、まごうかたなき犠牲であった。その意味からすると、技倆の未熟な若者を次々飛ばしては海へ突っ込ませている現状は、特攻隊員の犠牲としての性格がいよいよ純化されつつあるといえるだろう。年寄りが死なず若者ばかりを死なせるのはけしからんという者もあるが、神への捧げものには純潔な若者がふさわしいのだから仕方がない。世間を知らぬ、血のきれいな、肌のすべすべした若者が人身御供には一番いい。薄汚れた老人では神様が気を悪くする。ジジイに用はない。この観点からするならば、特攻青年は眉目秀麗な者がよく、実際、見栄えのよい若者から順番に特攻する傾向は各航空隊において密かに観察されており、これは現場部隊の指揮官のなかに、生贄にふさわしい若者をなるべく選ぼう、ブサイクはできるだけ避けよう、との思考が無意識裡に働くからだと考えられるだろう。
生贄は捧げられた。にもかかわらず、神風はそよとも吹かぬ。真夏の昼下がりみたいに、風は已み、風鈴も鳴らぬ。つまり生贄がまだまだ不足なのだ。神はなお血に飢えておられるのだ。四月四日に発令された聯合艦隊電鈴令作第六○一号、「菊水作戦」は、航空隊による神への最後の大盤振る舞いであった。だが、それだけじゃ何だか不安である、足りない気がする、と思って見れば、我が帝国の奥座敷、瀬戸内海の懐深く、役立たずの大戦艦が一艘浮かんでいるではないか。こいつをデザートにつけたらどうか。巨額のカネと帝国の技術の粋を集めた大軍艦を、3,000人の乗員もろとも海神に捧げてしまう、一遍に沈めちゃう、となれば、これ以上に派手な犠牲は考えられまい。御誂え向きとはこのことだ。船の製造に巨費と労力がかかっていればいるほど、装備が贅沢であればあるほど、乗員の質がよく練度が高ければ高いほど、生贄としての効果は高いと計算できる。かくて、きわめて合理的な思考の果てに、「矢魔斗」艦隊沖縄特攻は決せられたのである。


もちろん、作者自身の言葉ではなく、始めから登場し一番多く語り手役を務める登場人物石目上水の個人的見解としておかれているのだが、Morris.は、これが矢魔斗、いや戦艦大和の最期にいたる舞台裏の、最も的を射た正解であると思ってしまった。
おびただしい主要登場人物群像。複雑怪奇なストーリ、戦争と日本と精神と生死と軍体と国体と過去と未来と神話と伝説と象徴と空虚と時空を思い切りミキサーにかけて、再構成した作品のようでもある。万華鏡スタイルとでも名付けたい誘惑に駆られる。
本作が過去の中編「浪漫的な行軍の記録」に通底するものであることは間違いないだろう。
21世紀の落ちこぼれ毛抜け鼠、笑いの神経のずれた元芸人福金上水。石目の幼馴染の出世頭根木少尉、が池畔の花見のあと未来(21世紀)の日本から「橿原」に戻ろうかという時の会話

毛抜け鼠 戦場って、じゃ、オレもソルジャーってこと?いち兵士? 自衛隊行けってか。あ、それがあったじゃん。前にオレ、ケムロンの兄貴からいわれたんだよね。自衛隊、来ちゃいなよって。来ちゃいなよ、って、なんか笑うよね。ケムロンの兄貴ちょいゲイっぽいし。でも、いま日本は戦争してねえんじゃねえの。ていうか、できないわけっしょ。いろいろと。憲法とかで。オレ的には、どっちかっていうと、戦争になって欲しいって感じ? 北朝鮮とか中国? ああいうヤバイとこと。マジ戦争なら、全部チャラっしょ? すっきり。全部ぶっこわれるのも一回はいいんじゃね。いっそ。さっき、奴隷って話出たけど、戦争になって戦えば、奴隷じゃなくなるし、最低限。オレさっき奴隷っていわれて、そうかもって、一瞬思った。マジ思った。そしたら、戦争もありに思えてきた。だって奴隷よりいくぶんましじゃん。兵士のほうが。戦争は、いま結構ありかも。
福金 戦争を知りもしないくせに、いい加減なことをいうんじゃない!
毛抜け鼠 恐ええ。説教かよ。おっさん、マジ説教すんのかよ。
福金 本当の戦争は、お前の考えるようなもんじゃない。
毛抜け鼠 でもさ、オレとマサトとケムロンがさ、一緒の飛行機に乗って、爆弾とか落とすわけ。ミッションで。キクタとでもいいけど。
福金 そんな飛行機はすぐ撃ち落されておしまいだ。というか、飛ぶ前に墜落だ。
毛抜け鼠 決めつけかよ。でも、それでもいい感じがする。だって栄光じゃん。国のために戦って死んだって、人から感謝されるわけでっしょ? 人の役にたつわけっしょ。それっていいことじゃね? マジな話。オレもヤスクニに行けるってか。オレもハガキ書いちゃう?
福金 ふざけるな! お前なんかに靖国神社へ行かれてたまるか。お前なんかに戦争なんかできるわけがない!
根木 いや。しかし、福金上水、この男はこの男で戦争をしているのかもしれんよ。というか、ここでの戦争はこういうふなんじゃないか。こういう者がここでは前線にいる兵士なんじゃないか。でなかったら、自分から幽霊になんかならんだろうし。生きること自体が戦争である時代は過去にもたくさんあった。
福金 戦争はずっと終わらないんでしょうか。
根木 分からん。しかし、少なくとも、”我々の居るところ”ではそうだ。
福金 でも、日本は負けたんでしょう? 負けたってことは、終わったわけでしょう。違いますか?
根木 ”俺たちの戦争”は終わっていない。終われない。だから皆、いまも戦い続けている。日本の勝利を信じて。
福金 しかし、"本当は”、"現実には”、負けたわけでしょう?
根木 負けた日本は日本じゃない。負けた日本は現実の日本じゃない。少なくとも、戦い続けている兵士たちはそう考えているさ。ここにいる日本人から見たら、俺たちを含め、戦い続ける兵士たちは幽霊にすぎないだろう。しかし、俺たち幽霊からしたら、生きている人間の方が虚ろな影にすぎないともいえる。福金上水だって、我々こそがほんとの人間で、この場所で花見をしていた人間たちの方が幽霊に見えたはずだ。違うか? あるいは、我々こそが真の日本に住んでいるのであって、”この”日本”は贋物だと思ったはずだ。負けたこの日本は、たとえば鼠のsumu国にすぎない。鼠天皇をいただく鼠国ニッポンである。そうは思わなかったか?
福金 自分はいっそ鼠になりたいです。自分は鼠の国で十分です。
毛抜け鼠 あ、オレもそれ、ちょっと思う。オレも鼠でいいかも。鼠、結構、悪くねえかも。
根木 鼠には鼠の苦労があるだろうさ。
福金 それでも、人間のままでいて戦争をし続けるよりはずっとましです。たしかに少尉殿のおっしゃる通り、招集される前から自分は戦争をしていた気がします。自分はいつもビグクビクしていたんです。


ここらあたりにも、奥泉ならではの批評があるのだろう。
本作は多様な位置づけを可能にする多重構成作品だが、太平洋戦争への鎮魂と驚愕と哀悼に心理的分析を加味した一大叙事詩とみることもできるかもしれない。

もう一人の物語記録者としての黒装束の怪人由井が永澤艦長に呼び出されたときの台詞が、それを類推させる。

「だいぶ御無沙汰を致しましたが、いよいよ私も自分の仕事をはじめたわけでして。ええ、あれです『橿原』の偉大なる事跡を記録する叙事詩的散文の執筆です。私は昔から、こつこつやる方ではないんでして。霊感の訪れを待って、霊感の導くまま一気にやっちゃう。一旦そうなれば、もう飲まず喰わず、眠らず休まず仕事にのめり込む。掃除だってそうです。霊感の到来を待って一気呵成に片付ける」

これもまた作者奥泉の一面をモデルにしたものだろう。
こうやって御託を並べているうちに、Morris.は決して、本書の本質を捉えきれていないことを思い知らされた。5年ぶりの作物を一晩で終わらせるのはもったいないから、Morris.の流儀ではないが、本書は再読して、もう一度感想を書いてみようかとも思う。(書かないかもしれない(^_^;)


09041

【大阪神戸のモダニズム 1920-1940】兵庫県立近代美術館 ★★★☆☆ 1985年8月31日から9月29日まで同美術館で開かれた特別展の図録である。
モダニズム展図録当然今のちんけな新館ではなく、王子動物園前にあった旧館(現「原田の森美術館」)が会場である。Morris.はこのころ石屋川近くの文化住宅に引っ越してたと思うが、この特別展のことは良く覚えていない。
すでに25年前のカタログだけに、2/3が白黒写真というのがちょっと残念だが、それを補ってあまりある内容の濃さだった。
小出楢重を中心とする信濃橋洋画研究所画家の作品群、アバンギャルド派の作品、中山岩太、ハナヤ勘兵衛などの前衛写真、私鉄やデパートや宝塚や映画のポスターやチラシ、田中千代のファッション、マッチラベルなど多岐にわたって興味深い図版満載だったが、Morris.は特に資生堂の山名文夫(あやお)のデザインワークと、古い洋風建築の写真群に心を惹かれた。

日本のアール・デコ。それを最も良く象徴しているのが山名文夫の世界である。1987(明治30)年、広島に生まれた彼は、少年時代から竹久夢二、北野恒富、ビアズリーにあこがれる。19歳の時に大阪に出て、その年に赤松麟作主宰の洋画研究所で油彩画を学ぶ。その傍ら、詩や童謡も手がけている。1924(大正13)年、第1回大阪市美術協会展覧会に入選するが、その前年にプラトン社に入社し、イラストレーターとしての腕を磨いてゆくのである。そして、『サンデー毎日』ほか数多くの雑誌に健筆をふるう。
だが、山名文夫が竹久夢二やピアズリーのスタイルからも飛躍するのは、1929(昭和4)年からの資生堂入社を機縁としてであろう。ここで彼は、あたかも水を得た魚のように、洗練された独自の女性像を創造し続け、『花椿』の装丁やポスターで、モダンガールのあこがれの的資生堂のイメージアップに貢献してゆく。彼はまた、わが国のグラフィックデザイン界の恩師でもあり、労作『体験的デザイン史』(1976年、ダヴィッド社刊)はわが国のデザイン界黎明期の状況を知る貴重な証言の書である。


山名のデザインやイラストは前から好きだったが、彼のデザインが「アール・デコ」とは思ったことがなかったぞ。そういわれるとそんな気がしないでもないが、そもそもアール・デコというと、家具や建築、装飾品というイメージが強いものなあ。
建物の方は現存してるものともう消滅してるものが半々くらいだったが、1929年当時の大阪中之島の写真で、建て替えられる前の市庁舎の威風を見て、今さらながら腹が立ってしまった(^_^;)
戦前の通天閣やボンネットバスの写真などもとても懐かしかった。
美術館学芸員山野英嗣が中心になっての特別展だったらしいが、彼の解説もなかなかリキが入っていた。

1920年代から30年代にかけて、大阪はわが国第一の都市としてその威容を顕示していた。1923(大正12)年、第7代大阪市長に就任した関一は、近代的な新都市建設に情熱を燃やし、1925(大正14)年大阪都市協会を創設した。既にこの年4月、、第2次市域拡張が行われた大阪はは、わが国第一位、そして世界第6位のマンモス都市となる。その後、当時は市民の理解を得られず、「大阪のど真ん中に飛行場を作る気か」とひはんされながらも、御堂筋(1926年着工、1937年完成)を作り、水の都大阪の地下を走る鉄道として、これまた当時の市民の想像を絶する地下鉄建設を中心に近代都市への姿を整えはじめた大阪は、人口においても、1930(昭和5)年の国勢調査実施時点で東京を抜き、関市長が構想する「大大阪」の名にふさわしく、わが国第一の大都会となるのであった。

ちょっとリキみ過ぎという感無きにしも非ず、だが、一時的にしろ、東京より大阪の方が人口多かったとは、ちょっとびっくりである。まあ関東大震災もあったりしたからね。
当時にしてはカラー写真の色も綺麗だし、貴重な写真が多いので、Morris.の愛蔵本の一つとして大事にしておこう。
まっさん、ありがとねm(__)m


09040

【絹の変容】篠田節子 ★★☆☆ 20年近く前の本である。何で今頃こんなのを読んだのか良くわからない。灘図書館でぱらぱらと開いて、最初の絹織物の表現に心惹かれたのかもしれない。

七色の光の帯は、時には布から二、三センチも浮き上がって見えた。染色による効果でない織りの加減か、あるいは、特殊な糸を使ったものだ。薄明かりの中に、燦然と輝く白無垢の打ち掛けのイメージが、彼の心を捉えたのは、この瞬間だった。

八王子の織物業者の末裔長谷康貴が、土蔵で見つけたこの絹織物を復元しようと、天才的女性生物学者有田芳乃と協力して、この幻の生糸を生み出す変異種の山蚕を飼育し、さらに変異を強めるため交配や細胞転移手術で、餌の希少な植物の代わりに肉食性の蚕に変貌させる。そしてついに幻の生糸を得るが、ショーでこの生糸の白無垢の打ち掛けを着たモデルは、ステージ上で急死する。

「包帯も、織り出される所はきれいなものね」
芳乃は、彼の椅子に無遠慮に腰を下ろしながら言った。
「次には、絹で織ってみようか?」
「とんでもない話だわ」
彼女は笑いながら続けた。
「日本人には少ないけど、絹のアレルギーって、外人にはあるのよね。接触性皮膚炎といって、絹の蛋白が、皮膚表面のリンパに作用する場合もあるし、吸いこんだ細かな繊維が、抗原になっていろいろなアレルギー反応を起こすこともあるわ。触れた皮膚に湿疹ができるの。毛穴から、体液が染みだしてぐしゃぐしゃになって、ひどいときには、呼吸困難や、ショックで血圧が一気に下がることもあるわ」
「じゃ、絹の下着なんてとんでもないわけだ」
「そう、いくらきれいでも、あれは虫の唾液みたいなものよ。異種蛋白の最たるものだもの、アレルギーが起きて不思議はないわ。欧米の化学繊維の発見と普及というのは、これが、大きな理由なのよ。まあ、普通の人と、普通の絹なら、問題無いでしょうけど」


これは、先のモデル事故への伏線だが、Morris.はこの内容自体に関心を覚えた。
その後事故で外部に逃げ出した山蚕が異常発生して鶏や人を襲い、特にアレルギー体質の者には瞬時にして壊滅的なダメージを与える。このあたりから、SF、スプラッタ的になり、Morris.はこのては苦手なので、ちょっと辟易してしまう。
最後は芳乃が、以前研究室で開発した、蛾類に致命傷を与える黴を使用して事態の収拾を図るのだが、どうもストーリーが、雑すぎて、長編のダイジェストを読まされているような気になった。
バイオやクローン、遺伝子操作などが本書のモチーフとして使われているが、これはこの前読んだばかりの南伸坊の「生物学個人授業」とリンクする部分がありそうだ。あの当時かなり話題を呼んでた記憶がよみがえってきた。
本書は200p足らずの中篇と言えるものだが、著者の名前は「女たちのジハード」という作品で印象に残っていた。何となく敬遠していたが、秋本君が評価してたので、気にはなっていた。こんどはそちらを読んでみることにしよう。
評点が低いのは、Morris.嫌厭の「手をこまねいて」表現(119p)があったのも減点対象になっている(^_^;)


09039

【生物学個人授業】先生=岡田節人 生徒=南伸坊 ★★★★ 新潮社の雑誌「シンラ」1994年に連載されたもので、このシリーズは当時何冊か読んだ記憶があるが、これは未読だった。そしてこれはこのシリーズの最高傑作ではないかと思った。
この本、先日区役所の待ち時間のひまつぶしのために近くの古本市場の\105均一棚で見つけたもので、探すのに手間取ったため、整理券の順番が過ぎて、また改めて整理券取るハメになったのだが、それを補って余りある面白くてためになるMorris.好みの一冊だった。
先生役の岡田節人(ときんど)は1927生まれの京大名誉教授で、生物発生に関する研究家らしい。ちょうど当時はDNAブーム?で、映画「ジェラシックパーク」の話題が大きくとりあげれたり、クローンや、きんさんぎんさんの話題などがあって「時代」を感じさせるが、それよりもやはり、難解なはずの最先端生物学講義が南伸坊の超絶素朴咀嚼力で、面白い別世界を形作ってるところに本書の醍醐味があると思う。

だれでもが、、自由自在に美男美女になれる世の中になると、だれでもが美男美女になるんでしょうかね。うーん、なるような気もしますね、最初のうちは……。そのうち昔をなつかしむ人もでてくるでしょう。
「昔はいろいろで面白かったなァ、妙な顔とか面白い顔とか、いろいろでさ。近ごろは、どっち向いたって絶世の美男美女ばっかりだ。まったくつまんない世の中だよ」
って、言ってるヤツがものすごい二枚目だったりするかもしれないです。その時にみなさん、面白い顔の遺伝子が絶滅してたらどうしますか?


これはMorris.も、同じようなことを考えたことがある。やっぱり「いろいろあるから」面白いのだと思う。金子みすずの「みんな違って、みんないい」に通じるものがあるかと思う。

余談ですが、あのマトリョーシカっていうのはオリジナルは日本の箱根細工の人形だったっていうのを知ってますか? 箱根細工の方は七福神が順に出てくるんですが、これを明治時代にみたロシア人がヒントにした。だからあのマトリョーシカってのもせいぜい100年ちょっとの歴史なんでした。

なんて、雑学コーナーみたいなのもあって、これまた、Morris.はとても美味しいと思ってしまう。

昨今は、人間という一種類の生物が威張りすぎていて、あげくの果ては「昆虫採集はいけないこと」なんて言っているのですから、情緒的にも、生物多様性を評価してもらうための根拠−−この頃は情緒にもへ理屈の必要な世相ですから−−として、こういう話題を、どなたにも思い出して欲しいのです。昆虫採集を自然破壊の主犯のように言う風潮に対して、私はおおいに憤慨しています。子供の頃に少しでも昆虫採集に身を入れた人間こそ、例外なしに、理屈なしで環境や生きものの保存の意味を−−今更お説教されなくても−−十二分に感じとっていると確信しています。昆虫採集による自然破壊は、開発事業のそれに比べて、どんな弊害があるのか?と息まいてみたいのです。もっとも、ごく最近になって、再び昆虫採集の意味が少しは認められ始めているそうです。理屈をつけるなら、昆虫採集は生物多様性の実感を身につけることに役立つとういことになるのでしょうが、そんな理屈より、ただ「生物多様性の魅力」の一言で十分でしょう。

「生物学個人授業」これは岡田先生の南伸坊レポート?への補遺の部分だが、いちおう「昆虫少年」だったMorris.は、大いに共感をおぼえた。
他にも地球の生物の種類は大雑把に八千万種くらい(^_^;)という説とその算出法、細胞と細胞をくっつけるカドヘリン、1984年に発表されて生物学界の驚天動地となったホメオボックスなどなど、良くわからないものの興味津々の話題に事欠かない。
チャペックの「山椒魚戦争」は直訳だと「イモリ戦争」だったという、普通ならどうでも良さそうだが、Morris.には目から鱗の事実確認もあって、本当に中身の濃い本だった。
さらに、装丁はもちろん南伸坊自身によるもので、これがまた素敵だった。カバーは表が南伸坊による、二人の似顔絵、裏は岡田先生が手に入れたノアの方舟で、割と平凡だが、カバーを取ったら、いわゆる大學ノートスタイルで、デザインといい、テクスチャといい、実に味わいのあるものだった。こういうのは図書館で借りてではわからないところだろう。


09038

【歪んだ回想録】保阪正康 ★★★ 全く未知の著者である。何でこれを借りたかというと、保坂和志と間違えたのだ(^_^;)
図書館では当然同じ棚に並んでいる。名前は違うが背表紙の名前の部分がちょうどラベルで隠れている。苗字も「坂」と「阪」で違うのだが、老眼のMorris.には判別が難しい。保坂和志だって、数年前に2冊読んで、それなりに評価はしたものの、相性がいまいちで、そのままになってた。それが急にまた読んでみようかと思ったのは、ネットで知り合いになった方が、「現代作家の中でもっともシンパシーを感じる小説家」と書いてられたので、久しぶりに読む気になったのだった。
前置きが長くなったが、そういうわけで保坂和志の作品のつもりで読み始めたのだが流石に数ページ読んで、あれれれれ??と思い、改めて表紙を見直して勘違いに気づいた。
いわゆる昭和史ミステリーもので、東条英機関連の著作を持つノンフィクション作家有本のところに、「余は鶏である。」という書き出しの葉書が数通届いたところから話が始まる。続いて東条英機の回想の極秘原稿を持っているという高校教師の登場で、いよいよ昭和史の謎解きや、原稿の真贋、新聞記者森と共同で、真相を取材追究して行く。
その取材ぶりや、新聞記者の描写がえらくリアルなので、著者紹介を見たら、昭和14年生まれで昭和史の実証的研究から、歴史に埋もれた事件や人物のドキュメントを書く、とあった。そうか主人公の有本というのは、著者がモデルで、その取材のやりかたも、本人のやりかたをそのまま踏襲して書いてるのだろう。
そして、本書が著者初めての小説とも書いてあった。たしかに、小説としてはあまり良い出来とはいいがたい。。特に登場人物のキャラクタが非常に不安定なのだ。あるときはえらく執拗に性格描写しながら、後ではそれと違ったキャラクタを演じさせる。ストーリー展開もめりはりがなく、事件の経過をだらだらと書いていってるという感じで、小説としての起伏にかける……と、けなしながら、その割りに点数が悪くないのは、東條英毅の原稿を担いでいた裏の団体がや動機が、いかにもありそうな話で、またその原稿の内容が興味をそそったのと、いわゆる回想録や極秘文書というものの「危うさ」への警報に共感を覚えたあたりに原因がありそうだ。
突き詰めれば以下の二人の会話に尽きる。

有本はこの文章の罠がすぐにわかった。
森に、この部分を読ませてみた。が、森はこの記述の罠がわからない。いかにも責任感のある指導者という表現になっている、ニセ資料もそこを狙ったのだろう、と言うだけである。
「しかしちがうんだよ。この回想録には巧妙な罠が仕掛けてある。こういうふうに解釈すべきなんだ。東條が歴史上でいつの日か復権してくる時代を意識して書かれている。むろん、東條なんかをまったく知らない三代、四代、あとの時代だよね。そのときに、こんな論が成りたつことを意識しているんだ。つまり、東條の指導に従った者が歴史上は免罪となり、東條に抗したグループがいたからこそ敗戦につながってしまったという論法を通用させようと謀っている。もっとひらたくいえばネオナショナリズムにピッタリ符節するように、このニセ資料はつくられていることになる。この部分が国家機密法なんかがとおった時代に見直されるようにできあがっている。指導者に従った者が免罪になるという寸法だ」
「なるほどなあ」
森は、なんども文面を目で追っていた。そして有本の言う意味を少しずつ理解していった。だが、森でさえ見抜けないのだから、どうしてこの巧妙な罠を次の世代の者がわかるだろう。
「結局、ツケなんだよ、ツケ。戦後民主主義だ、ヒューマニズムだ、とそんなことばかり言っているから、歴史を検証する力が弱まっているんだ。そりゃあ戦争なんて悲惨で愚劣なことさ。だけどそれを百回も二百回も叫んだところでどうにもならんよ。なぜどこがどういうふにわるかったかを検証しておかないから、森君のようにまったく罠を見抜けないことになる」
「すみません。僕もまだ不勉強だから−−」
「いや、森君なんか見抜こうとするだけ立派なもんだ。僕らの世代だってそうさ。左翼気取りの教師が、あまいことばかり言って我々をたぶらかした。戦争はいけないことです、だって。あたりまえじゃないか。じゃあなぜ戦争は起こったのか、戦争とはどういうものなのかを何ひとつ語っていない。口を開けば、もう悲惨のどん底のような話をする。だけどだよ、それは本当に戦争を語っていることになるのかね。そこから教訓をひきだそうとしない思い出だけで終わっていいのかね」
「まあ、有本さん、そう興奮しないで……」
有本は激してしまう。腹が立ってたまらない。自分の中に巣喰っている歴史への心情が、思想とはかけはなれたニヒルの彩りをもちつつあるのを自覚している。
吉積という老人が、最後の段階で、有本に後事を託したのは、最近になって有本の著作がもっているこのニヒリズムに気づいたからかもしれない。

「哀れなのは、こんな本を読まされるわれわれだよ」
「それをニセモノと断定できないわれわれの方がもっと哀れかもしれませんね。こんなことを知ると、歴史研究なんか何が本物で何がニセモノか、それを見究める目をもたんと恥ずかしいということになるなあ。東條回想録だって疑問を持つ目をもっていなかったらひっかかったろうな」


ここには、戦後の「民主教育」の功罪両面を享受したMorris.らの世代には耳のいたい部分が含まれている。ややネタばれになる部分の引用だが、この作品の発表は1987年だから、もう、時効ということにしてもらいたい。


09037

【自転車の安全鉄則】疋田智 ★★★☆ 日本の自転車の保有数は世界第3位だが、その自転車のほとんどがいわゆるママチャリで、法律上、自転車は車道を走るものなのに、歩道を走るものが圧倒的である。自転車事故の数は世界一でもある。
TV局勤務で自転車ツーキニストを自認する著者が、いつもの自転車の楽しさや愛を語るのではなく、憂うべき日本の自転車事情に警鐘を鳴らすつもりで書いた本らしい。

全編通じて「自転車はこうあるべき」という、行政への、またインフラ整備の、さらに法整備に関しての注文だけに絞りました。あまり愉しい本ではなかったかもしれません。しかし、それなりに(少なくとも自転車が好きな人にとっては)興味深い内容ではあったのではないでしょうか。
私は、今の日本には、この種の本が絶対に必要だと思ったのです。(あとがきより)


Morris.も御多聞にもれず、ママチャリに乗ってるし、平気で歩道を走ってる。信号無視も多かった。そういう意味で本書に書いてある、最低のルールの遵守、そして、何よりも「自転車の左側通行」の重要さは学ぶところ多かった。今後は、信号と左側通行だけは遵守することを、ここに表明しておく。それだけでも本書を読んだ意味と意義があると思う。
これ以外にもさまざまな問題と解決策が書かれてあるのだが、かいつまんで、ランダムに引用しておく。

・自転車は車道を走らなくてはエコではないのです。

・ママチャリという自転車は非常に奇妙な自転車なのです。そもそも70年代の法改正を受け、いわば「歩道用専用車」として作られた日本のオリジナル規格でした。

・自転車は歩行者の仲間にカテゴライズされたせいで、ルールも、マナーも、都市交通手段としての都市交通手段としての有効性も、可能性も、つまり、何もかもがスポイルされました。

・自転車のせいのうというものは、もっとも単純化して言うなら、重量に反比例するといえます。要するに、重ければ重いほどダメな自転車で、軽ければ軽いほど性能の高い自転車なのです。

・オランダ人やドイツ人が買う自転車は(マニアのものではありませんよ)、平均で7万円程度するのが当たり前なのです。そのくらいのコストを払わなければ、まともな自転車は手に入らない、ということを彼らは知っているのです。

・実は私がこの本を書いた理由の半分程度は、この「左側通行」のメリットを提示することなのです。

・自転車ベルよりも重要なことは1.自転車の品質基準の厳格化 2.ヘルメットの装着 3.バックミラーの装着 4.フラッシャーの装着

・自転車レーンは 1.車道側に作らなくてはならない 2.対面通行であってはならない 3.自転車を隔離する方向であってはならない(つまりドライバーからの視認性をかくほしていなくてはならない)

・違法駐車を減らせなければ「自転車レーン」はかえって危ない

・現在、日本の自転車は、世界一事故が多く、世界一交通放棄を守らず、世界一平均性能が低く、世界一保護されてなくて、世界一野放図で、世界一邪魔にされています。


身近で自転車愛好家というと、センターの飛田さんで、そのサイクリング生活は彼のブログに詳しい。Morris.にはあのレベルは敷居が高すぎる。でも、今のママチャリ(現場の処分品(^_^;))からワンランクレベルアップをはかりたいとは思っている。南北に急な坂の多い神戸在住だけに、車体が軽く、変速機の充実した乗りやすい自転車を希求する気持はあるのだが、やはり価格と、収納場所の問題をクリアすべきだろう。


09036

【沖縄 だれにも書かれたくなかった戦後史】佐野眞一 ★★★ 2005年から3年にわたって「週刊PLAYBOY」に連載された沖縄コンフィデンシャル」を再編集したもので600pを超す大冊だった。前書き(「はじめに」)を読んで、大いに期待を抱いた。

沖縄県民を聖者化することは、彼らを愚弄することとほぼ同義語だと私は考えている。そこには、沖縄の歴史を1945(昭和20)年6月23日の沖縄戦終結の時点に固定化させ、この島にその後60年以上の歳月が流れたことをあえて無視しようとする欺瞞と、それにともなう精神の弛緩が垣間見えるからである。
大江や、これに同調する筑紫哲也の話題が出るたび、心ある沖縄人(ウチナンチュー)から「われわれを”誉め殺し”するのももういいかげんにしてくれ」という台詞が出る場面に、私は幾度となく遭遇した。
本書は五つのジャンルから構成されている。
Tの「天皇・米軍・沖縄県警」では、沖縄に対する私の立ち位置をあらためて明確にするとともに、これまでの仕事を通じた沖縄と私の歴史的関わりや、天皇と沖縄の微妙な関係、そして沖縄県警がたどった数奇な運命にふれた。
Uの「沖縄アンダーグラウンド」では、戦後沖縄ヤクザの発生から始まって現在の勢力図にいたる暴力団の消長のプロセスをあまさず描いた。
また、これまでほとんど知られていなかった奄美大島の差別の歴史と、そこからたくましく起ちあがった男が惚れる奄美のヤクザについても筆を割いた。
Vの「沖縄の怪人・猛女・パワーエリート」では”沖縄の四天王”といわれる財界人たちにスポットライトをあてるとともに、沖縄の戦後史に残る不撓不屈の政治家や、左翼の枠組みにはおさまらない魅力的な組合活動家、沖縄独立の夢に賭けた男たちにも言及した。
Wの「踊る琉球・歌う沖縄」では、大阪でリバイバルした琉球民謡の復活から始まって、ベトナム戦争下のコザで花開いた本格的ロックの発展まで、沖縄の戦後史に重ね合わせながら、この島を走破する形で沖縄芸能の全貌をルポした。また、ここでは沖縄の芸能を支配しようとする本土の芸能プロダクションの動きも追った。
Xの「今日の沖縄・明日の沖縄」では、米海兵隊のグアム移転にまつわる防衛省スキャンダルや、また繰り返された米兵による少女暴行事件、本土復帰に関わる沖縄密約問題などにからめながら、沖縄が現在かかえる問題と将来の問題を総合的に展望した。
いずれも、これまでまったくといっていいほど書かれてこなかった沖縄をめぐる切実なテーマである。そこには切れば血が出る沖縄の本当の戦後史が埋まっている。それをいわば”手掘り”で発掘したのが本書である。
これから始まる物語は、沖縄列島を一個の肉体と見立て、その肉体が戦後に演じ、あるいは演じさせられた悲劇と喜劇、まばゆい光と濃厚な影があやなす南島奇譚ともいうべきドキュメントである。
最後に私はこのルポルタージュを、柳田國男が『遠野物語』の冒頭に記した「平地人をして戦慄せしめよ」という箴言にあやかって、「"内地人"をして戦慄せしめよ」というつもりで書いたことを附記しておく。


ちょっと長めに引用してしまったが、本書の内容がわかりやすいことと、著者のやや大仰な文体(やや臭みのある)や姿勢がよくわかると思ったのだ。
Morris.は沖縄を訪れたことは一度もないし、泡盛にも、沖縄料理にもほとんど関心が無い。現在の住所に引っ越して、歩いて2分ほどのところイにあった沖縄料理店も店仕舞するまでとうとう一度も行かなかった。三線の響きは嫌いではないのだがあの独特の沖縄音階と踊りにはどうしても馴染めない。Morris.の好きな韓国の踊りと似て非なるものだと思う。これはやはり「血」の問題ではなかろうか。
唯一の例外は、金子光晴の親友であった沖縄生まれの詩人山之口獏を通じての沖縄風景くらいである。
したがって、沖縄の問題にしろ、歴史にしろ、いわゆるステレオタイプな知識しかなかった。
本書を読んで、さまざまな知識を得たし、沖縄の真の悲惨さもいくらかわかったような気になったし、考えさせられることも多かった。

沖縄住民の三人に一人が死んだといわれる過酷な戦争体験も、「基地のなかに島がある」といわれる状況も、沖縄が今も孕んでいる切実な現実である。
しかし、あえて言うなら、そうしたステレオタイプ化した言説によって、われわれはこの島に流れたありのままの戦後の字空間を遮眼されてきた面がある。「戦争」と「基地」という”オールマイティ”なカードを切られると、たちまち首うなだれて沖縄を”聖地化”し、ひたする跪拝し懺悔することは、当の沖縄にとっても”被害者意識”に拍車をかけるだけではないか。


Morris.は著者の本はダイエーの中内功と宮本常一の写真に関する2冊を読んだ覚えがある。それなりに筆力、取材力のある人と評価しているのだが、本書は、前書きの意気込みに反して、内容がしばしば、著者が入れ込んでるヤクザ関連に深入りして、そこだけが一人歩きしてる。これはどうもMorris.のしゅみではない。
本書のために取材した人物の数だけでも半端ではないし、突っ込んだ取材能力には感心させられるところも多かった。
現在「満州」に一番関心を持って関連書も数冊出してるらしい。Morris.としてはこちらの方に心惹かれる。


09035

【阪急電車】有川浩 ★★★☆ いやあひさしぶりに、実に楽しめるライトノベルに出会った。もっとも、例の「マロニエ…」の後、何を読んでも面白い(^_^;) という傾向無きにしもあらずだが。でも本書は間違いなく、良質なエンタテインメントである。
はじめMorris.は、作者名を「ありかわひろし」と訓んで男性作家かと思ったが、実は「ありかわひろ」と訓む女性だった。

このお話を書くきっかけになったのは、旦那の何気ない一言と担当さんの熱意です。
「電車って小説の舞台として面白くない?」
と振ってきたのは旦那です。
「例えばほら」
早朝の飛行機に乗るために始発の電車に乗っていたのですが、大荷物の我々の向かいにはどこへ行く途中なのか帰る途中なのか、しっかり手を繋ぎ合った若いカップルが爆睡中で。彼女には布団のように彼の上着が着せかけてあり。
「ああいうので妄想を逞しくするのが君の仕事やろ」
妄想逞しくとか言うな。
そして「あー、駅ごとにエピソードを繋げていく形はちょっと面白いかなぁ、だとすれば連載が面白いなぁ、そんでキリのいいジャンクションか終点で終えて、折り返し分を丸ごと書下ろして単行本、とかやると面白いよなぁ(やる私が)。だとすれば折り返し分考えると正に今津線とか駅数的にぴったりじゃねえ?」と構想だけ出来上がってて、どこでやらせてもらえるかなーと考えていたところへ幻冬舎の大島加奈子さんからたいへん熱心なアプローチを頂きまして、「じゃあ御社のパピルスでこういう企画やれます?」と返してみたところばっちこい状態で話が決まりました。

あとがきにある、本書誕生のいきさつだが、これだけ読んでも彼女のセンスとか、ギャグみとか、小洒落た文体の魅力がわかるかと思う。
阪急今津線は宝塚から西宮北口を経由して今津までの線だが、本書では、宝塚−宝塚南口−逆瀬川(さかせがわ)−小林(おばやし)−仁川−甲東園−門戸厄神−西宮北口までの8駅に絞って、往復16編の短編で構成されている。
車内でのちょっとしたできごとに数組のキャラクタを絡ませて書き繋ぎ、折り返し編は半年ほどの時間差をおいて、同じキャラクタのその後を描く。ちょっとしたゲームめいた展開もあり、各駅近辺の紹介や特色も織り交ぜて、本当にうまく物語を紡ぎあげてる。
当然、というか、著者自身も今津線界隈に住んでるらしい。さっするところ小林あたりではなかろうか。ここには六甲学生青年センターつながりの、信長さんが住んでいる。ぜひ、彼女にも一読を勧めたい。いや、ローカルネタだから、すでに、当地では話題になってるかもしれない。
とにかく、この人のものは絶対楽しめそうだから、いくらか読んでみよう。


09034

【きょうのごはん】太田垣晴子 ★★★ 彼女は漫画家と言い切れない人のようだ。紹介欄には「画文家」とある、ひと頃よく使われた「イラストライター」に近いようでもあるが、どうもつかみ所のない人である。
本書は料理本というより、彼女が適当な媒体に適当に書いた(描いた)三本の連載作品「料理道場」(簡単レシピ)「キョウちゃん」(4コマ漫画)「クイイジっぱり」(食べ歩記)に、個展のために描き下ろされた「MENU ムニュ」(レシピ)を集めた一冊である。
彼女の「ごはん三大テーマ」である「つくる!」「なごむー」「たべる!」に対応しているらしい。
やはりレシピが気になるところである。25点ほどしかないし、ちょっとMorris.と嗜好が違う気もするのだが、以前別の本から紹介した鯵の「なめろう(鯵香味たたき)」やら、Morris.お得意の叩き胡瓜などはふむふむとちょっと嬉しかったりもした。
ナンプラーやオイスターソース、バジル、パクチーなど中国、アジア系の調味料も普通に使ってるところも共感を覚えた。
料理以前かもしれないが、市販の「なんとか漬の素」より簡単で美味しいという、ビニール袋使った即席漬けを紹介しておく。

[即席漬け]
・材料…ダイコン、ニンジン、キュウリ、セロリなどなど(食べやすい大きさに乱切り、拍子木切り) 唐辛子(小口切り)、昆布少量(細切り)
・漬け汁 酢3:醤油2:砂糖1
すべてビニール袋に入れて空気を抜いて口をしばり、もみまぜる。すぐ食べるより1,2時間冷蔵庫でなじませる。
[アジアン風]
調味料を変えるだけ(昆布はいらない) レモン汁3:ナンプラー2:砂糖1
野菜は太目の千切りに。しなっとさせるといい感じ。パクチー散らすとアジア度アップ
[昆布茶漬け]
白菜かキャベツ(ざく切り)+大葉(千切り)+昆布茶(適当、やや少なめ)
以上すべてをビニール袋に入れてもむ。しんなりしたらできあがり。


もちろんこれに彼女のおおざっぱなイラストがあってこそ作品になるんだろうけど、これくらいなら充分実用にまにあうだろう(^_^;)


09033

【三世相】松井今朝子 ★★★☆ Morris.好みの「並木拍子郎種取帳」シリーズの3冊目である。「短い春」「雨の鼓」「子ども屋の女」「旅芝居」の5篇の短編が収められている。
どれも粒ぞろいのもののように思ったのも、例の「マロニエ…」の反動かもしれない(^_^;)
上方下りの歌舞伎作者夫婦と武士なのにその弟子となった拍子郎、料理屋の娘おあさの4人が中心となって、種々の人情がらみの事件を解決したり、お互いの関係を進行させていく風合いは前二冊と同じ趣向だが、一種のオムニバス的な全体のストーリーも輪郭がはっきり見えるようになってきた。
専門の歌舞伎関連のネタはもちろん、料理への気配りもなかなかのものだし、心理描写にもなかなかうがったものがあるが、大鼓の音を猪おどしで錯覚させるトリックなどはあまりにちゃちに感じられた。
最後の「旅芝居」が一番印象に残った。

二人の行く末はだれにもわからなかった。万事めでたしで納まるのかどうか、いや、ふたりにとってどうなるのが本当にめでたしなのかも、実のところわからないのかもしれない。が、拍子郎は何やら不思議な縁に導かれて出会ったふたりの行く末を、今後も見守ろうと心に決めた。
そもそも今度の旅は佐原でとんだ顛末となり、路延の一座はおじゃんになったが、仔細を語れば当人もよしとするだろう。
それにしても、人の一生は長い旅まわりの一座に似ていると拍子郎は思う。座組はそのつどころころと変わって、自分が主役を張れるときもあれば、脇役にもまわらなくてはならない。とんだ損な役まわりを引き受けさせられることだってあるだろうが、ともかく大詰めの幕が閉じるまで、人は決して舞台から降りてはならないのだ。
今度の旅芝居では市五郎が二枚目役で、拍子郎は脇役に徹した。大詰めに至るまで、これにもまだ何幕か付き合わなくてはならないだろうし、江戸に帰れば自分が主役になって片を付けなくてはならないことも山積みだった。しかしながら今はただ大利根のゆるやかな流れに身をまかせて、回り舞台のごとく徐々に移り変わる風景を静かに眺めるばかりだった。
いざ江戸の場に向かって、舟はゆっくりと進んでいる。


この結びのくだりなんか、人生論を語りながら、4冊目に繋げる予告編みたいでもあるし、上手い作家であると思うな。ただその上手さにけれん味が濃すぎて、Morris.はちょこっと反撥してしまうところがある。これは贅沢な小言かもしれない。


09032

【マロニエの花が言った 上下】清岡卓行 ★☆☆ このところとんと読書控えが無かった。調べたら4月27日が最後だったからざっと20日ぶりである。
繁忙期、花見、酒、ミニギターで忙しかったこともあるが、一番の原因はこの本にある。
上下巻併せると1,200p近い大部の本だが、Morris.は長編好きで、(面白ければ)長いほど嬉しいというタイプである。そういう意味でこの本くらい面白くない本も無いというくらい面白くなかった。
筆者晩年の大作で労作なのかもしれないが、Morris.はすっかり疲労してしまったよ。
もともとネットで知り合った方から金子光晴の描写が素晴らしいと紹介され、中央図書館の書庫から借り出して来たものだった。
序章で、著者が始めて訪れたパリでの思い出みたいなものを書いてたが、これがまた自己陶酔的な文章で、ちょっと嫌な予感がした。本編に入ると、岡鹿之助や藤田嗣治の先祖にまでさかのぼっての評伝めいた内容で、これがまた糞面白くない。第一次大戦後のパリでの日本人芸術家を中心とした群像とその時代を描くという主旨らしいが、趣味のクラシック音楽や映画の批評めいたものが矢鱈頻出するし、突然フランスの画家や音楽家、詩人などの話になるし、閑話休題的な余計なエピソードを挟みまくるわ、的外れな引用も膨大だし、とにかく、一番Morris.が苦手とする筆法だった。

・ここでちょっと話を大きく飛ばすが、
・これは先にちょっと触れたことであるが、
・さて、ここで話を元に戻すと、
・さて、話を元に戻すと、
・さて、話をいくらか元に戻すと、
・さて、ここで1927年8月に戻ろう。
・ついでに記すと、これは後年のことであるが、


無作為に引いたのだが、これだけでも、とんでもなくまだるっこい展開ぶりがわかるだろう。
そして以下の文章など、かつて詩人だった人の手になるものとは思えない。出来の悪い中学生の作文にしか見えないぞ(^_^;)

・さて、二つの世界大戦のあいだの平和のちょうど真ん中となる一年はどこにあるかというと、それは1928年10月から29年10月にかけてということになる。そこで、その平和な20年と11ヶ月ほどの時期のいわば中間展望の年として1928年を選び、パリにどのような日本人の文学者や哲学者が集まっていたかということをいくらかでも眺めてみたい。その場合、それ以前と以後のことについても少しはやはり眺めてみたい。

しかもいくら読み進めても光晴は登場しない。下巻に登場するのだろうとは察しられたが、そこにたどり着くまでに往生させられてしまった。
下巻の153pになってやっと光晴登場。487pまでの300p余りが、光晴、森三千代中心に描かれており、Morris.の知らなかったことも多かったので、その部分だけはいくらか興味を持って読み進めたが、それにしてもこの人の文体にはいらいらさせられる。
清岡卓行はMorris.の学生時代に詩人として名をなし、Morris.も一定の評価はしていたし、ユリイカ版光晴全集の編集にも係っていたし、光晴論も見るべきものあると思っていたのだが、とても同一人物の手になるとは思えなかった。
特に「二人の詩人の奇妙な出会い」という章で、パリでほとんどすれ違ったくらいの光晴とデスノスの出会いを脚色した部分などは噴飯ものとしかいいようがなかった。
結局Morris.は本書を読まないほうが良かったのかもしれない。
もし読むにしても光晴の登場する部分だけを読めば良かったのだろう。
紹介してくださった方には失礼な感想になったかもしれないが、とにかく、これは小説としては失敗作で、評論としても、評伝としても中途半端なものでしかないと思う。


09031

【快食快汗】西川治 ★★★ 著者の名前は知らなかったが、1940年生まれの写真家、画家、文筆家、料理人……らしい。どっちかというとイタリア料理がメインらしい。どちらかというと、イタリア、フランス料理が苦手(縁が無い(^_^;))Morris.とはあまり相性が良く無さそうだった。
30ページほどのカラー写真の中にはなかなか素敵なものもあったし、グラビア紙でなくザラ紙風合の本文用紙にそのままカラー印刷してあるのは好感度大である。
「韓国食の極意を求めて」という副題からして仰々しいが、韓国歴32年と書いててあったから、70年代から訪韓してたのだろう。
海印寺近くのコムタン屋での風景を描いた場面から引用する。

部屋に座った。すぐ目の前で、牛のミノ(胃袋)やハチノス、牛の四つの胃をまるで大きなシーツを洗濯するようにザブザブと洗っている。土間に腰を屈め、水を替えては洗い、汚れているところは小さな包丁で削り、そして揉み洗いを繰り返していた。水は出しっぱなしで、少しでも濁ると水を土間に流し、新しいのに替えていた。それを十数度繰り返すのだという。すでによく洗ったものは、もう一つの赤いプラスチックの盥に入れていくのだが、すぐに山のようになった。大変な労力kだ。
牛の胃があんなに大きなものだとは思いもしなかった。シーツの四分の一はあるだろうか。もう一つの盥に移すとき、女の肩や腕の筋肉が盛り上がった。ずっしりと重いのだろう。弱々しく着飾った女にはない、韓国の女性の逞しく奇妙な性的魅力を感じた。それは、女が性的イメージとダイレクトに直結する内臓を握っているから……。ちょっと見た目に無気味で残酷な作業のせいかもしれないが、なまめかしい。
食物と性と死は、腸のように繋がっている。すぐ足元に渦を巻く大腸はかの女性にはごくありふれた日常風景だろうが、ぼくには非日常的である。抑圧された死の恐怖、暴力、性的渇望を、一瞬揺り動かされた。だがすぐに、それはら、ぼくらの空腹を満たす食物であると思った。


万事がこんな風というわけではないが、どうもMorris.とは感性のベクトルが大幅に違っているようだ。それぞれの視点、視覚あって当然だろうし、それはそれで構わないが、やはり相性の良し悪しというのがあることも事実である。


09030

【アホウドリの朝鮮料理入門】阿奈井文彦 ★★★ 1976年月刊「面白半分」連載されたタイトルの記事に、その後の韓国料理や旅の雑記みたいなものを合わせて1987年に新潮文庫のヴィジュアル本として発行されたものだ。それからすでに20年以上、著者がモランボン料理学苑に入学したのは30年以上前になる。
ソウル市庁舎前85年当時当時としては画期的な本だと思うし、学苑の教師陣の中に、Morris.が好きなジョンキョンファさんがいたというのが何と言っても羨ましい。
この人の本は「アホウドリの人生不案内」などというアホウドリシリーズを読んだような記憶があるのだが、本書は全く知らずにいた。実はこの本、一昨年の12月にアシナガさんからプレゼントされたのだ。Morris.の悪い癖で、自分の本はついついあとまわしになってしまう(^_^;) 結局読み終えたのが今月初めで、こうやって感想文書くまでにまた20日近くが過ぎてしまった。
20年ほど前の文庫にしてはカラー写真も多く綺麗だが、料理の写真の大半はモランボンの提供らしい。
後半の韓国食べ歩きエッセイでは、料理より、80年代の韓国の風景写真が郷愁を誘う。見開きのソウル市庁舎前の風景なんか、感動的である。大きな四つ角交差点。今の市民広場とはえらい違いだ。そしてさらに現在工事中の新市庁舎が完成すると、今の建物は資料館になるらしい。
この本はMorris.が韓国にはまる直前に出てるのだから、やはりその頃に読んでおくべきだった。と、今さら言っても詮方ないか(^_^;)。


09029

【高血圧は薬で下げるな!】 浜六郎 ★★☆☆ このところずっと読書控えが無かったが、全く本読んでなかったわけではない。繁忙期で仕事忙しかったのと、高血圧やらめまいやらで体調悪かったのと、花見と酒に時間取られすぎたためである。
本書は、金沢病院に行って、初めて降圧剤を貰った日の午後、センターに行ったら稲田さんがくれたという、因縁の本である(^_^;)
Morris.は前から高血圧ということわかってたから、以前にネットで高血圧関連サイト見たときにも薬は一長一短という記事が多かったので、今回も降圧剤もらったものの何となくきがかりだったところに、この本である。
貰った翌日に一通り読み終えたのだが、確かに上130超えると高血圧と決め付けるのは問題ありと思ったし、薬の弊害についても一理あると思う。ただ、Morris.のばやい、上200を超えることがあるから、やはり薬飲むべきだということも良くわかった。
本書には血圧測る時の注意事項や、高血圧者の生活習慣の改善方法などが書いてあったので、それらのことがMorris.には有用だと思われた。特に塩分の多い食事は避けるという記事を読んで、ここ最近のMorris.の味噌汁愛好癖が行きすぎだったことがよくわかった。これからは量を控えめにしなくては。


09028
【パーマネント野ばら】西原理恵子 ★★★☆「新潮45」に連載されたカラー漫画である。「ぼくんち」の中年女性版みたいなもので、ヒロインがこれまでの西原キャラと違って地味すぎるのがいまいちだった。でも母親や友だちのキャラはなかなかで、特にMorris.はフィリピンパブのママやってるみっちゃんが一番気に入った。何となくつかちゃんを連想してしまった(^_^;)
海やら野原やら雲やらののどかなカラー絵柄は西原ならではの雰囲気を持ってるし、台詞や地の文が独特の詩世界を形作っている。本書には20篇の掌篇が収められている。その中から19番目、みっちゃんの猫が死んだときの作品のことばたちを引用しておく。

「ぽんたぁー、ぽんたぁー ひとりでいかせてごめんよー」
「15年もかわいがってもろうたんや みっちゃんに感謝してると思うよ」
「ぽんたぁ− わああああ」
「ねっぽんちゃん みっちゃんの男運のわるいんも一緒に持っていってあげてね」
今日、みっちゃんの飼ってた猫が死んだ。
ホレる男はいつだってハズレ。
次の次もそのまた次も。
そのたびに泣いて男のばばふみ街道を一直線に泣いて歩いてきたみっちゃんが、
本当に本気で泣いたのは、自分の飼ってた黒猫が死んだときだった。
「この傷はウチが25の時の男に、ぶん殴られてた時、とばっちりでできた傷でな
それからぽんたは私の歴代の男が全員、大嫌いで
うちも あははは 歴代の男はぜんぶ大嫌い
ぽんたがいってしもうたら 私の好きがおらんなる。
好きのおらん ながいながい時間がこれから来る」
こわくこわくておかしくなりそうやってみっちゃんはつぶやく。
裏の竹林にぽんたを埋めに行った。
私達は子供のころから何か死がいを見つけるたびここに埋めてる。
「なつかしいなあ あそこらへん 白犬埋めんかった?」
「うんうん あそこには海ガメ埋めたし 人も埋めたっけ?」
「なんやそんなもんも埋めた時があったような」
「忘れたっちゅう事は、もう本当に死んだんや ははは」
「ほんまやねー」
「人はなあ二回死ぬで
一回目は生きるのがやまってしまう時
二回目は人に忘れられてしまう時や
人の心の中におらんようになったらいよいよ最後なんや
今度こそ本当に死ぬ
二度と生きかえらん」
なぎさの海で最後に私の手をにぎっていてくれたのは、
父親だったのか
恋人だったのか
祖父だったのか。
あなたがどんどんうすれてゆく。
好きな人を忘れてしまったのに
恋をしている私は
もうだいぶん狂ってるのかもしれない。


09027

【文學少女の友】 千野帽子 ★★★☆☆ 姫野カオルコ集中読書にかまけていたが、久しぶりに違う著者の本である。
著者は始めてだが、なかなか読み応えがあった。
「ユリイカ」など雑誌に発表した読書評論7編だが、それを曜日になぞらえている。章タイトル後の()内は「まえがき」から。

月曜日 肺病で夭折した文學少女の霊に取憑かれてしまった人たちのために(小川洋子さんの本を少女小説の末裔として読んでみました。)
火曜日 耽美と人形(澁澤龍彦・高橋たか子・笙野頼子・長野まゆみ・小川洋子が描いた、お人形と耽美の世界を覗いてみました)
水曜日 旅するお嬢さん(堀辰雄以来あまたのロマンスの舞台となった軽井沢を、活字の國に訪ねてみました。)
木曜日 「心は少女」の罠(「娯楽(エンタテインメント)小説を称揚する物言いを読んで、そこにほんとうに看板どおりの「おもしろい」があるのかどうか探してみました。
金曜日 等身大と妄想のあいだ(ゴンチャロフから尾崎翠・野溝七生子・森田たまの三大「文學少女」小説を経て『NHKにようこそUGAに至る「働かない人たち」のお話を読んでみました。)
土曜日 心のにきび対策(吉田健一の文章に[いい気持]で生きる秘訣を探ってみました。
日曜日 芥川賞選評を読む(芥川賞の選評を、候補となった作品から独立した文章として呼んでみました。)


面白いのと面白くないのの差がかなりあって、Morris.には、月、水は×、火、木、金は△、土、日は○だった。
単純に面白かったのは日曜日で、芥川賞そのものの曖昧模糊ぶりと、選者のてんでんばらばら&夜郎自大ぶりが笑いを誘う。土曜日は吉田健一そのものの「大人」ぶりに圧倒されてしまう。
そうじて本書は、ブックガイドの一種といえるかもしれない。そういう意味ではMorris.に、これは読みたい!!と思わせる本があまり出てこなかったのが残念である。
それにしても筆者の分析は相当うがったものが多く、目からうろこだったり、思わず拍手の卓説も多かった。

実在の固有名をどうあつかうかで、小説の舞台となる世界が、現実世界のどこか一部になったり、現実世界と切断された世界になったり、そのどちらともつかないものとなったり、平行世界(パラレルワールド)になったりしますから、とくに架空の世界を作ろうとする小説は固有名をコントロールしなければなりません。
実在の固有名を欠いた小説には、いろんな違いにもかかわらず、たったひとつだけ共通した手触りがあります。ある種の清潔さです。潔癖さといってもいいでしょう。そこでどんな不条理な残虐行為が起きても受け入れるしかないなと思わせるような、そんな密閉容器の清潔さです。実在の地名によって汚染されていないぶん、そこで起る残虐なできごとは三面記事的な誇りっぽい現実味を免除されています。このことが、個々の作家の作風の違いを超えて、これらの作品に童話じみたあどけない邪気をまとわせているのです。それとも少女小説的なふてぶてしさを、というべきでしょうか。(月曜日)

ポスト団塊の若者たちにとってエンタテインメント小説は「革命」に代る、「大きな物語」の代替物だったのではないか。彼らの心のなかには、「純文学やクラシック音楽のような抑圧的正統文化に反抗する俺たち」(そんな抑圧なんてとうに霧消していたにもかかわらず)というアウトロー意識と、「対抗文化の教養・知識をたっぷり身につけている俺たち」というエリート意識とが、一枚の紙の裏表のように存在していたのではないか。(木曜日)

子どもが大人を俗物視するとき、本能的に敵味方を峻別し、見方同士群れることが多いようで、吉田健一に倣って言うなら、[他の人間とは違つたことをいふこと自体が何か一つの目標になつてゐると、却つて他のものと同調し易くて、口が煩いのが集れば合唱することになる]。これを[何々主義]の[流行を追ふといふことで一括することが出来る](『文句の言ひどほし』)

日本といふのはとか人間といふものはとかいふ風な言ひ方が大概は空疎に響くのもこの固定のためであつてそこにあるものは生きて働く観念ではなくて符牒に過ぎない。我々がかうした符牒のおうこでどれだけ我々の精神の自由まで制約を受けてゐるか解らなくて観念と符牒の違ひを弁へてゐてもこれはそれだけ符牒を操るもの、或は寧ろそれに操られてゐるものにことごとに進路を塞がれることでその炎が相手のほうにまで及んでも相手はただ符牒に縋るばかりである。(『変化』)

自分を何かの犠牲者などと考へて碌なことが出来るものではない。(『ヨオロツパの世紀末』)

日本で若いことが革命と同様に文句なしに何か望ましいことになつたのは明治維新この方に過ぎず、明治維新も尋常の手段で収拾がつかない事態になつて起つた一つの革命であり、我々はただその為にこの百年間は新興国を装つて少なくとも表面は未熟と極端を喜んで来たのであるが日本が若い国であるなどといふことは我が国の歴史が否定してゐる。(『大人の世界』)


以上「土曜日」からの引用4本はすべて吉田健一の孫引きということになった。つまり本書を読んで、Morris.が読まねばと思った作家はこの吉田健一だけだったということになる(^_^;)


09026

【桃】姫野カオルコ ★★★ 15冊目は2005年発行の、あの「ツ・イ・ラ・ク」の続編ということで期待したのだが、期待したほどではなかった。というか、Morris.は続編ということで、あの2人の大人になってからのストーリーだと思ってたのだが、本書はあの当時の他方面からの変奏や回想だったのが、物足りなかった。長短ばらばらの6篇の集まりで、ヒロイン自身の短編もあったが、あの輝きはやはりあの作品でこそのものだったような気がする。

兄は初恋を実らせたのだと言いそうになったのだが、初恋などということばを妻の前で発音するのが恥ずかしくて、安藤は換言をしたのだった。だが、
「みなみさんって、お義兄さんの初恋の人だったの?」
さすが女である妻は、こうしたことには敏感だった。
男子がまだ字もろくに読めないころから、女子は某姫がその美貌で経済力のある王子を射止める絵本を見聞きし、男子が怪獣カードを集めているころには、女子は、美貌はなくとも「ドジ」をキュートに演出する術で長身痩躯の男を射止める漫画を読み、男子が廊下でプロレスごっこをしているころになれば、女子はもう生理があるのだから、こうしたことについてのキャリアが男子とは比較にならない。年季がちがう。(「卒業写真」)


本書の中で一番長い「青痣(しみ)」の鬱陶しさときたら半端ではなくて、それでも読ませるところは流石だし、引用したくなる箇所が三つもあったのだが、やはりMorris.は、面白く読ませてもらいたい。

その人のうちにおいては、その人の十四歳と二十四歳と三十四歳は同じはず。ちがうところは、わたしがそうであるように、ふたつだけである。
各々なりの知識の量とその知識量からくる語彙。体力とその体力差からくる祝着の度合い。執着を、詩人はときに、情熱やひたむきと換言するけれども。

「死にたい」
わたしはあのころ、しきりに思っていたものだ。死は生者にのみ訪れ、生者は他者の加護なくして死を望むには至れないことすら理解できぬ鈍い幼さのなかで。
鈍さとは、してみれば、傲慢でもある。
細胞活動の停止した内蔵の汚い色、死体の醜さを見たこともないまま、火葬場の焼き釜の轟音を聞いたこともないまま、生の果ての死ではなく、生を怠惰にした死を、自分のすべてをなぐさめる眠りであるかのように錯覚できる鈍い感傷は、自分をちがう場所にいるようにも錯覚させた。
あのころ、わたしは、自分のいるべき場所、しているべき行動、話すべきさわりあうべき相手等々、いっさいがっさいが、ちがう、と思っていた。
ひどくちがうわけではない。なにかひとつがすこしちがい、そのちがいが、次のちがいを、前のちがいよりもうすこしちがわせ、その次の次のちがいが、前のちがいよりさらにもうすこしちがわせ、その次の次のちがいよりさらにもうすこしちがわせ、次の次の次はまたもっとちがってくるような、そんなちがいのたばに向かって、ちがう、と怒鳴りたかった。

三十歳の処女をグロテスクだと人は噂し、十四歳の女がセックスをしてもグロテスクだと噂する。人は、平均ではないものをスケープゴートにして愉しむ。(「青痣(しみ)」)


「ツ・イ・ラ・ク」に始まり「桃」までの17冊にわたる、Morris.の姫野作品集中読書もこのあたりで小休止を入れることにする。
彼女の作品は「読者を選ぶ」たぐいのものと思う。そしてMorris.は「選ばれた読者」なのだと思うのだが、あまり良い読者ではなかったようでもある。
本作は白黒なしのひきわけということにしておく。これで星取り表は7勝2敗5分け。なんせ2回しか負けてないことになる。大したもんんだぁ\(^o^)/
とりあえず、今回の集中読書の一覧と星取表をまとめておく。

○1.「ツ・イ・ラ・ク」
○2.「ハルカ・エイティ」
○3..「整形美女」
●4.「空に住む飛行機」
○5.「受難」
△6.「サイケ」
(*.「恋愛できない植物群」)エッセイのため本割から除外
(●7「よるねこ」) 途中で放り出した(^_^;)
△8.「特急こだま東海道線を走る」
△9.「人呼んでミツコ」
○10.「ラブレター」
△11.「愛はひとり」
○12.「変奏曲」
○13.「不倫 レンタル」
○14.「ああ正妻」
△15.「桃」


09025

【ああ正妻】姫野カオルコ ★★★☆☆ 14冊目は2007年の割と新しめの作品。これはもう文句なしに面白かった。当然白星。これで星取り表は7勝2敗3分け。本場所でこの成績なら大関クラスといえよう。
著者ほとんどそのままの瓶野比織子が観察する小早川正人の生態。小早川の妻雪穂の、常軌を逸した専横ぶりと、それを異常と思わない小早川。

小早川は、結婚にというより、雪穂という環境に順応したといえる。記憶をなくさないていどの深酒をたまに。深酒をしたら安全のため必ずタクシーで帰途。翌日は謝り、平和的に「そのかわり」交渉に応じる。
順応だろう。
情けないわね、と言うか? さんざフェラチオをし、精液をごくごく呑み、立位屈曲位後背位正常位をやりつくした娘がバージンロードを歩いて神父の前で結婚の誓いをするさい、彼女に疚しさはあるだろうか? タンゴのワルツのジルバのステップはこうだと教えられ従うがごとく、バージンロードを歩いて宣誓しているではないか。なぜ自己矛盾を感じずに彼女はさらさらと誓えるか、それは「そういうものだから」に従っているからである。彼女らも小早川も同じことだ。順応しているのである。
すでに腹に子を宿していた雪穂も、約束事に沿うという、「こういうものだからこうするのだ」という、無視層の、すなおさの一環で、白鳥女学園スワンチャペルの赤い絨毯の上を歩いて、祭壇で誓いをのべて小早川と結婚したのだ。

優等な女性とは、女性の優等生という意味である。
生物学的に健全であると言う意味である。
生物学的に健全とは、生物学的に病んでないという意味である。病んでおらず退廃していないから、種の保存という目的を果たすにはいかに行動すべきか、なにを選び、なにを捨てるべきか等々をすみやかに判断し実行できる能力が大きい。
この能力が大きい生物が、生物の優等生である。
生物のうちのヒト、ヒトの♀が女性である。人類には人類の社会が構築されている。人類社会はアリ生態とは異なり、キリン生態とも異なる。よって女性として優等であるとは、人類社会における種の保存という目的を遂行する能力に長けているという意味である。

セックスの快楽は恋愛に属する事項である。結婚=人類社会の最小単位の系統に属することではない。
結婚に属するのは、卵子と精子が受精し受精卵が分裂して、もうひとつの人類が「発生」することである。
陰茎が膣に挿入されて往復運動をするさいの感受性は恋愛に属することであり、結婚に属するのは受精卵からである。
ミコは自分が蒔いた卵子に精子を装着させた。その受精卵を子宮で分裂させ、口から食物を食べることで栄養を胎児に十ヶ月送り、膣から胎児を発射した。胎児を発射した膣は、陰茎を銜え、陰茎を摩擦して、陰茎から陰茎の所持者である者の精子を搾り取る器官であって、それは恋愛とは無関係の動作をする器官である……と、考えるのではなく感じることができるから、胎児を膣から発射した者は、退治に対して「この子はわたしの子」だと思えるのである。


例によって姫野のセックス観、結婚観、自作(パロディ)の披露、ともかくも「笑かしたろ」精神の横溢がMorris.を喜ばせてくれる。
「しこめのいいわけ」(酒井順子の「負け犬の遠吠え」)に関する、一連の考察も「笑かして」もらった。


09024

【不倫 レンタル】姫野カオルコ ★★★ 13冊目は1996年の発行。やはり著者自身モデルの求愛ドラマだが、本作ではちゃんと恋人らしきものができてセックスも「してもらえる」(^_^;) その恋人が妻帯者で、周辺でもさまざまな波及効果が生じる。
後で分ったのだが、本作は処女を主人公にした三部作の完結篇で、第一部「空に住む飛行機」(1992)、第二部「喪失記」(1994)そして本作は1945年に雑誌「野生時代」に一挙掲載したらしい。「空に住む飛行機」は読んでたから、どうせなら「喪失記」というのを先に読むべきだったかもしれない。まあ、それぞれ独立して読めるようにはなってるだろうけどね。
十二章に分かたれていて、大部分のタイトルが歌のタイトルになっている(^_^;) フランソワアルディの「さよならを教えて」というのがヒロインの高校時代からの気になる楽曲で、それ以外は大して意味は無い。
大日本帝国陸軍出身のお爺ちゃんの薫陶を受けて、空手や薙刀の有段者でもあるヒロインは、男が近寄ると、無意識に技を繰り出して相手をぼこぼこにしてしまうあたりは、デビュー作に通じるものがある。

文章を書くのが私の仕事だ。いやらしい話。恋愛小説。ポルノグラフィ。ロマンス小説。その名称はフランス語の活用のように変化する。
ペニスとヴァギナの話を、無計画に書けば「衝撃的な文学」と称され、ふつうくらいに書けば「艶やかな文体」と称され、計画的に書けば「ポルノ小説」と称されて、ていねいに書けば「ロマンス小説」となり、ぞんざいに書けば「恋愛小説」となる。

私はここのところ反省していたのだ。近代社会の発展は時間を「いかに省くか」ということで発展をとげてきて、近代産業の技術の発展とほぼ速度をあわせて女性意識も変化してきた。だが、大阪万博のあと、少年たちは大志を抱かずたいへん怠けたので、成人後、彼らは時間を「いかにかせぐか」にかまけて、合理的な時間の使い方をすることを恐れるようになった。なぜ大阪万博のあとの少年たちがたいへん怠けたかというと、大阪万博開催に向けて少年たちのお父さんがしゃにむに働いて経済成長を支えたため、家に帰ってくると疲れて眠るだけだったからである。疲れて眠るだけのお父さんにかわって、お母さんは近代産業の技術の発展により炊事・洗濯等の家事の時間をいちじるしく省けるようになったため、「もはや戦後ではない」状況においてお父さんより時間的余裕のあるなかではぐくまれた意識を変化し成長させるチャンスに恵まれた。恵まれたけれども、記憶のなかには「疎開してたときはねえ」みたいな「戦中・戦前」の、つまり「もはや戦後ではない状況ではない状況」の実体験があるので、「あんなことはもうこりごり」みたいな意識変化と成長にとどまる場合が多く、そういう人が母として「自分のおなかをいためたかわいい息子」に接する。息子というのは娘とちがって、自分の膣から出てきた異性である。膣というのは出産にも用いる肉体器官であるが、同時に性的な行為にも用いる器官でもある。その膣から出てきた異性が「息子」である。万博以後の母は、専業主婦である場合、息子と長時間、密着できる状況となり、ということはもちろん息子も母と長時間密着してしまう状況になり、よって彼は、父ではなく母の意識を「肌」に密着させて成長する。娘だって母の意識を肌に密着させて成長するが、母とは同性なので♀対♀の動物的本能の闘争が生じ、時代が戦後からはなれるにしたがって「近代的意識」も母よりもさらに変化・成長させてゆける。とkろが息子は男であるから、「女の腐ったの」にたやすく形成されてしまう。大志はいだけず、小心のぜったいレールからはずれたくない野郎にならざるをえない。となると、大阪万博に少年(男児)であった男は現在、女から見向きもされないかといえば、そうではなく、女のほうの意識変化のスピードがとっとと、はやかったため、大阪万博時に嬰児だった女は自分の母の「ゼンガクレン」的「アンポトーソー」的意識に基づくおせっきょうを「ん、もうママったら、そんなことはまっぴら」とくぐりぬけてせいちょうしてきた果てであるから、「難しいこと考えるのはいや。いつもたのしくキレイに」という利潤を求め、その利潤はレール少年とみごとに一致するのである。かくして、戦前は二十歳かそこらの男といえば年上の女が好きであったが、戦後、とりわけ大阪万博以降、いまや中・高生からしてロリコンである。しかも、戦前・戦後を問わずヒトというのは老年になるとロリコンとなるから、ひょって日本全国一億総ロリコン状態。そrが現代という社会であるのだ。換言するならば一億総「手間をはぶいちゃイヤーン。それキラーイ」であるのだ。と、このように私は最近、深く長く反省していたのだった。


いいなあ、この言葉の機関銃的羅列。そして言ってることは的を射てる、と、来た日には。Morris.またもや悶絶状態である。
語彙の豊富さと、息もつかせぬ早撃ちもすごいが、アクロバチックな文体というのにしびれてしまうのだろう。
ただ、

中学生になったらサーベル足にまかされて行進の練習までやらされて(16p)

おいおい、「サーベル」ぢゃなくて「ゲートル」だろ、と突っ込み入れたくなった。でも、後のほうではちゃんと「ゲートル」という言葉使われてる。ということは、これは作中のヒロインが「使い間違えた」ということで、辻褄が合うのだろう。と、いうくらいMorris.は姫野を庇いたい。
評点は上記くらいだが、ともかく、面白かったのだから白星あげよう。
ただいまの星取り表は6勝2敗3分けである。


09023

【変奏曲】姫野カオル子 ★★★☆ 12冊目は1992年発行の男女双子近親相愛もの。
「桜(花言葉=あなたに微笑む)の章 1992年」「ライラック(花言葉=若き日の思い出)の章 1923年」「柘榴(花言葉=馬鹿)の章 1951年」「羊歯(花言葉=永遠の契り)の章 2020年」という、時を異にした四楽章の変奏曲あるいは四曲の屏風みたいな作品だった。
双子の名前は洋子と高志。これも姫野作品では定番である。
冒頭におかれた詩が作品の箱書きだろう。

季節のめぐりて
時すぎゆくとも
変はることなき永遠(とは)のしらべ
彼(かのと)は母
彼女(かのひと)は父
見よ
月失ひし太陽 虚ろに白日つくるを
太陽失ひし月 夜の闇に吠える
あまりの
輝きに
ふたつが共に空にあることを
禁じられしその日より


フランス語やドイツ語では太陽は女性名詞、月は男性名詞ということの意外性を元にしたよくあるパタンだが、それなりに作品として評価できる。

「すごいな。桜吹雪だ。結婚式の予行演習みたいだね」
洋子と勝彦は婚約していた。仲人の家を訪ねた帰りに、ふと近所を散歩してみたのだ。
「そうね」
散ってゆく桜にはどことなく不吉さを感じていたが、洋子は勝彦のことばを否定しなかった。(桜の章)

花樹の枝を切ったものが、花瓶からあふれている。花のひとつひとつは極く小さい。先が四片に割れた筒状で、それらがぎっしりと枝の先に群がって香をはなっているのである。きれいな香、と、たしかに表現できたが、明るいのびのびとした香りではない。悪事をそそのかしにくるような思い濃密な香りだ。(ライラックの章)

「今、雑誌の『令女界』なんかのお話をしておりましたの」
菜穂美が無難な話題を切りだすと、潤子は微笑みながらうなずく。
「ああいう雑誌に載っている叙情画のお話をね。あたしは……」
竹久夢二が好きだと告げてから菜穂美は潤子に訊いた。
「潤子さんは誰かお好きな挿絵画家なんかいらして?」
「わたし、中原淳一が大好きですわ」
「ああ、似てるじゃない。潤子さん、中原の描く女の子に」
佐々木が言った。
「ほんと。似てらっしゃるわ。着物を着たらぴったりじゃない?」
洋子は佐々木に同意しながら、ふと、壁にかかった大きな鏡を見た。
佐々木の隣りに潤子。潤子の隣に洋子。洋子の顔は鏡を見ているが、佐々木と潤子は鏡のほうは向かずに話をしている。
小柄な潤子は佐々木を見上げ、佐々木は潤子を見下ろしている。鏡の中のふたりの構図は、たおやかで繊細な潤子が佐々木に庇護されているかのようである。
繊細な潤子の隣に立つ自分の肩は佐々木の肩と同じ高さにあり、いかめしく、いかにも鈍感に映っている。
洋子はそっと潤子から離れ、そばの椅子にかけておいたショールをはおった。
「最近は雑誌が少なくなってしまったわね。ひとがパーマをかけようがかけまいがよけいなお世話」
わざとおどけた蓮っ葉な表情をつくって洋子は言う。わざとらしい表情を自分で感じた。上唇が乾いて歯に付着してしまったような感触がある。
「国民服だなんて馬鹿みたい」
「姉さん、大きな声で言わないほうがいいよ、そういうこと」
高志が洋子を諌めた。
「新しい挿絵が見られなくなって寂しい、って意味でおっしゃったのですわ」
潤子は嫌味なく、場をとりつくろい、
「もう子どもでもあるまいに、とお母さまなどに叱られながら、わたしも中原淳一の挿絵を切り抜いておりますの」
と、ちょうどいいくらいの幼さを告白した。(柘榴の章)

姉が幼く思われた。双子の姉は、これまでずっと大人びた存在だった。初潮を迎え、成熟の証を得たいまだというのに、このとき高志には姉が幼く思われた。
高志は身体の向きを変え、洋子の顔を見た。部屋が暗いので眼だけが光っている。
彼女の眼にも自分の眼はこんなふうに映っているのだろいいうか。
”血、吸ってあげようか”
野生の母動物が子の傷を舐めてやる感情で高志は洋子を癒そうとした。
”……うん”
洋子は布団の中でパジャマと下着を脱いだ。高志は布団にもぐり込み、そっと姉の腿に手を置く。
腿は手が置かれるとすぐに開かれた。高志はそのあいだに顔をうずめた。性の突起の無い亀裂は傷口に思われた。
傷口に舌をあてれば、かすかに金属の味がする。潮と鉄が混じり合った味。経血の量は多くない。舌先に金属の雫が乗ってくるだけである。(羊歯の章)


こうやって引用してるだけで快感を覚えるMorris.は、かなり姫野作品に「汚染(^_^;)」されてしまったのかもしれない。
考えてみると彼女の作品のすべてが「変奏曲」であると言い切れるのではなかろうか。
文句なしに白星。これで星取り表は6勝2敗3分け。


09022

【愛はひとり】姫野カオルコ ★★★ 11冊目は140pとページ数少ない上にページの下1/4は空白である。さらに文字は大きめで行数も少ない。普通の本なら100ページ分くらいしかない。これならひとつの作品だったとしても短編、いいとこ中篇というところだろうが、中身はさらに5つに区切られている。

L'mour−ひとり
L'mour−風
L'mour−空
L'mour−きみ
L'mour−ひとり


これが5篇の短編集かというとそうでもなさそうだし、「同質」の夢の繰り返しかもしれない。自動記述めいたところもあるし、姫野プロトタイプというべき独白も頻出する。面白かったとは一言でいえないし、つまらなかったと切り捨てることも出来ない。
と、いうことで本書は勝ち負けなし。星取り表は5勝2敗3分けである。

書かねばならぬ。書く書く。書いて書く。4枚書くのに38枚は書く。それが私のプロ意識。そしてなおかつサラサラサラ〜っと書いたかに見せたい。それが私のモーツァルト願望。だれともしゃべらず、だれとも話さず、だれの顔も見ず、だれからもしゃべりかけられず、だれからも話したがられず、だれからも顔を見たがられず、書いてゆく。完成する。ゴゴ、ハチジジュウハップン デス。電話機の#の合成の彼女が時刻を告げる。ワープロでプリントアウト。オアシス30シリーズ。100シリーズが欲しい。高い。企業にいくらでもタマシイを売るからCMに後ろ姿で出たい。100シリーズをタダでくれ。「わたくしはこのCMに出演依頼を受ける前からずっとオアシスを愛用してました。心のオアシスを綴ってくれるワープロはオアシス」って、もうコピーまで考えてあげてるのに後ろ姿の出演依頼はこない。出たい人より出したい人を。選挙のコピー。使ってない人よりほんとに使っている人を。CM出演者決定基準のコピー。でも30シリーズの内臓プリンターはいちいち一枚一枚用紙を入れて送ってプリントするのに時間がかかる。感熱紙に文字がいんさつされてゆくのを待つ。待っているしかない時間。それは私の頭にまた、高志の横顔を浮かびあがらせる。とにかく高志。槍投げをやっていて、陽に焼けた精悍な横顔。瀟洒で華奢な男が苦悩したところでおもしろくもなんともない高志のような精悍な肉体を持ったおとこが苦悩するからこそ絵になる。高志。きみの名は高志。キミを思うと喉がかわく。ファックスで原稿を送ったらウーロン茶を飲もう。

最初に置かれている「 L'mour−ひとり」の一部である。オアシスの30シリーズなんてのが出てくるのが懐かしかったと言うだけだが(^_^;) 姫野は親指シフト愛用者(だった?)らしい。Morris.もワープロ時代に親指シフトにするかどうかで迷ったことがあるが、結局英文タイプやってたから普通のキーボードにした。これは結果的に正解だったと思う。とにかく、上に引用した部分だけで正味2ページになる。

恋愛とは窒息すること。緊縛すること。脅迫。虐待。神への背信。呪い。そして快楽。それは闘いなのだから。高志。高志ならわかるでしょう。高志。高志を想うと窒息しそうになる。

「どうせ」という考え方は、とってもよくない考え方ですが、いくら冷静になっても、もとい、冷静になればなるほど、やっぱり「どうせ」なのですね。いわば、究極kのニュートラルな自己判断こそ「どうせ」なわけです。

なぜかあとがきはフランス語(@_@)である。ところどころ日本語のローマ字書きがあって、そこだけ太字になっている。そこだけ抜書きしておく。

l'atogaki・Katte・Katte・Tonikaku・Katte Kudasai.Onegai-shimasu!・Hitoyonde Mitsuko・Sora ni sumu Hikoki・Soshitsuki・Tanpeshu"H" ・koi・koi・Misoramen・Assari,yanwari honokani,・sokohakatonaku tadayo・hazukashii・hontoni domo arigato!・Ymaguch・Miruko Yamaguchii・Gentosha

長音をあらわす記号やらアクセント記号などは省略。これもギャグの一環なんだろうと思うが、Morris.にはまるで楽しめなかった。


09021

【ラブレター】姫野カオルコ ★★★☆☆ 10冊目は結構評判の高かった作品である。評点見れば分るとおり、これは文句無しに白星である。これで5勝2敗2分け。
高校時代同窓の悦子、優子の女性二人と、都築宏の3人を中心にした恋愛ドラマだが、すべて書簡(ファックス、葉書、寄せ書き、メモなど含む)のみで構成されている。いわゆる書簡体小説で、真っ先に思い出すのは「あしながおじさん」。他にもいろいろあるだろうが、本作は、その書き手と受け手がえらく多い。のべ20人を越えているのではなかろうか。時間的にも高校から大学、社会人となって、結婚あり離婚あり、争いあり、自殺未遂あり…と、かなり錯綜してるわけで、これを複数の手紙でドラマ構成していくのは大変だったと思う。
それぞれの書き手の個性や文体や癖などを書き分けるのも作者の腕の見せ所で、そういう意味でも合格点である。多用な文体という姫野への評価は多分にこの作品に拠っているのだろう。
ただ、物語の進行上やむをえない措置だろうが、未投函の手紙がちょっと多すぎる気がした。
この作品も文庫では「終業式」とタイトルを変えられている。この悪癖もやめてもらいたいものだ。
悪口ばかり書いてるみたいだが、Morris.はしっかり楽しませてもらったわけで、ここのところ数冊外れが続いてただけに嬉しかった。
あとがきも、もちろん書簡形式である。これもなかなか良かった。

あのころ、なんて単純で、なんて、一日一日が新鮮でなんでもドキドキしてたんだろう。なんて、一年が長かったんだろう。体育祭での優勝がなんて大事なことだったんだろう。夜まで教室に残ってる日がなんて「特別な」日だったんだろう。体育祭の夜、チャリンコで神社に行って興奮して笑った。宴のあとの功不運をチャリンコを六人でのりまわしてきました。なんて、なんでもないことがきらめいていたんんだろう。テストがなんてこわかったんだろう。先生にあてられるのがなんてイヤだったんだろう。そんな時代へ手紙を書きました。今だってきっとまだ「あのころ」なのだろうと。

「今」もまた「あのころ」と思うことは、悪くない。と思う(^_^;)


09020

【人呼んでミツコ】姫野カオルコ ★★★ 9冊目は姫野の実質的デビュー作である。1990年3月発行だからもう20年近く前か。彼女の30歳頃の作品ということになるが、初稿はさらに以前に書かれたものらしい。
はっきり言って二流のドタコメだった。
盲腸の手術の手術跡から超能力を授かった(らしい)私立女子大生(たぶんに本人モデル)がヒロインで、事件と言うほどのことでもないドタバタをジタバタしながら解決?するといった7篇の連作短編みたいなものである。
それぞれの冒頭にはパターン化した自己紹介が置かれている。型見本にvol.3「大人はわかってくれる」から。

わたしは三子(みつこ)。私立薔薇十字女子大英文科在籍中。
ひとはわたしをMITSOUKOと呼ぶ。MITSOUKO、ゲランの名高い香水。ゲラン社というのは少し前に中森明菜をキャンペーン・ガールに起用して日本でなじみになったフランスの化粧品会社である。その年のCMソングが「DESIRE」である。
♪ゲラン! ゲラン!ゲラン! バイヤー♪と明菜に猛々しく叫ばせたので宣伝効果は絶大であった。
香水といえば、あるイギリス人が、
「私は口臭のかおりの香水を使っています」
と、語りはじめるジョークがある。
「なぜそんな香水を使うかというと、それは口臭が目立たないからです」
イギリス人はおもしろい。


つまりほとんどおちゃらけである。単に空耳アワーをギャグに使っただけというべきかも知れない。
すべての作家は処女作に向かって成長する。という言葉を信ずるとすれば、姫野の本領はやはり笑わせる作品にあるのだろう。ついでにvol4.の冒頭付近から。

MITSOUKO、ゲランの香水。日本女性をイメージしてつくられたという、その神秘的で官能的な匂いを嫌う日本男性は、意外なことに多い。
成熟したじょせいを嫌う日本男性が好きなのは、石鹸の匂いのする女性と、でなければ、表裏一体、みそしるの匂いのする女性。
ボンド・ガールがもてはやされることは極東の島国ではありえない。ロリータかマリアか、母か少女か。
さて。
松竹映画会社では、次回の”寅さん”のマドンナにマドンナをと企画したひとが殴られる事件が多発していたが、わたしは”寅さん”は見ずに「うたかたの恋」を見てきた。


ここらあたりは20年前の発言としてはなかなかにうがったうがちかたをしていると感心した。この傾向は現在に至るまで変わっていない、いや、加速してるかもしれない。
作品としてはvol.6の「教育実習丸秘レポート」が、最近の作品を予感させる意味でも一番良かったと思う。
ただ最後のvol.7「故意のてほどき」というのは、Morris.の今月の標語を完全に先取りしているではないか(@_@)(>_<) Morris.は決してこの本を読んで上の標語を思いついたわけではない。しかし、よりによってその日に読んだ本の中にこれが出てくるとはね(^_^;)。
ほとんどこの章タイトルのおかげで、この作品は黒星でなく引き分けにしておく。現在4勝2敗2分けである。


09019

【特急こだま東海道線を走る】姫野カオルコ ★★☆☆ 8冊目はまたも短編集だった。5篇が収められている。総じて過去の回想めいた話で、ちょっと重苦しくて面白くなかった(^_^;)
一番ましだったのは、巻頭の「夏休み 九月になれば」で、幼い頃の家族旅行の話で「崖が落ちてくる」という景色の鮮明さだけが記憶に残る作品だった。
その家族旅行の地名が思い出せないでいたときに、そこ(越前の厨)を特定してくれた腹違いの兄の言葉。

「年齢(とし)とるとええことも、なかなかぎょうさんあるで」

という台詞は、方言とあいまってなかなか沁みるものがあった。
ヒロインの大学時代の回想。

先輩の劇団はだいたい深刻なムードの観念的な芝居をしたから、そういう芝居のためのポスター絵や美術は、素人目を簡単に「うまい」とごまかせるのだ。笑わせるより泣かせるほうが高級だという判定は、演劇にかぎらず映画、小説、絵画、音楽等々すべてのジャンルにわたる共通のまやかしだった。常人とは抜きんでた発送の構図や色づかい、その裏にある堅固なデッサン力、そんなものがなくても、悲しい顔と悲しい色を使えば、うまいなあ、哲ちゃん、と劇団員は褒め、このポスター、切ないかんじがして鋤でス、とアンケートに観客は書いてくれた。そのうちに、劇団がらみとはべつに小さな広告の仕事も入るようになり、貧しいながら自分ひとりくらいなら暮らしてゆけた。

このての言説は他の作品にも頻出するが、分りやすいけど、図式的だ。
10冊目までの星取り表はこれで4勝3敗1分けということになる(短編集「よるねこ」というのを読んでて途中で放り出した(^_^;)のでこれは当然●)が、前回のエッセイは無かったことにして(^_^;)4勝2敗1分けということにしておく。
あとがきにこの作品執筆時期に顔面神経麻痺になってたことが書かれていた。本書の暗さや憂鬱っぽさはそれに拠るのかもしれないが、読者はそこらへんは忖度できないもんね(^_^;)


09018

【恋愛できない植物群】姫野カオルコ ★★ 初めてのエッセイ集。ところが、これが、ほとんどどうしようもない一冊だった(>_<) 雑誌などに掲載したコラムを、あいうえお順のタイトルをつけて並べたものだが、まとまりがないのはともかく、どれもこれも出来損ないの寄せ集めである。姫野に突然はまったMorris.がこれだけ否定的な書き方をするのは、当然可愛さあまって憎さ百倍の伝で、普通に読めばそれほど目くじらたてるほどのものでもないのだが、彼女への思い入れが強すぎたために、安っぽい笑いを狙った媚びた気取ったナマな青臭い文章に冷や水を浴びせられたような思いをしたのだろう。
これまで読んだ作品の元ネタや、嗜好、性癖、家庭環境、職歴などが披瀝されてるから、それだけでも愛読者なら関心を持って嬉しがりそうなものなのに、同じ事柄を書いても、作品ではあれほど魅力的なのに、このださいエッセイだと、まるでつまらなく見える。彼女は作家に徹底してもらいたい。
ともかく、彼女のエッセイは封印ということにしておく。
おまけにところどころのカットがこれまた素人以下で、最初これは姫野自身が描いたのかと思ったが裏付をみたら違うらしい。
当然星取表は黒星追加で、現在5勝2敗1分けということになる。
つまらなさを紹介するための引用というのも情けないものがあるが、とりあえず、適当に開いたページから。

かつてのりたまをかけるのが好きだった私だが、現在はごはんそのものがおいしいことを望む。そのためにお米をといでから一時間ザルで水切りしておくとか水加減をよく見るとか工夫したい。ただ米屋に行くと「あなたに米は売りたくありません」と言われるのが辛いところであるが。
不倫に「悩む」人というのは自分がごはんにノリタマをかけていることに気づかないでいられる人なんだと思う。
今日ものりたまかと寂しがりながらも、実は♪あったかーいごーはんにかけたノリタマ♪ が好きなのだ。なぜなら往年のCMソングそのままに、♪こーんなうまいもん、ちょっとないよ♪ なんだから。


何で米屋から嫌がられるのかわからないし、のりたまのCMの引用のしかたもはしたないと思ってしまった(^_^;)


09017

【サイケ】姫野カオルコ ★★★ 6冊目にして初めての短編集である。Morris.はどちらかというと短編は苦手である。長編ならどれだけ長くても良い(面白ければ)。
そして姫野短編は、それなりに面白いものもあったのだが、6篇のうち、最初の「イキドマリ」と最後の「少年ジャンプがぼくをだめにした」の2篇だけで良かったかもしれない。これまでに読んだ作品のオリジンみたいなのがあったり、細部がシンクロしてるものもあったりで、そっちの意味では興味をひくところもあったのだけど、全体としては満足度が低い。星取表は白黒なしで、4勝1敗1分けということにしておこう。

「イキドマリ」のデブでチビの主人公が、その外見だけで会社で「優」をもらえない理由としての強弁。

数学の「集合」に照らし合わせてみればよい。
小学校、中学校、高校、大学は「学府」という集合ですね。この集合をとりかこむ塀は、「勉強」ですね。ならば、この集合では「勉強」の条件を満たせばそれで補集合には属さない。しかし、会社は「学府」という集合ではありません。この集合をとりかこむ塀は「情緒」ですね。ならば、この集合では「勉強」の「条件」を満たしていることよりも「情緒」の「条件」を満たさなくてはなりません。「情緒」というのはなにか? それは人間の感情であるわけですが、人間の感情がなにに起因して湧くかというと、ただひとつのことによって湧きます。
バカは……、バカという言い方が人をむっとさせるならば言い換えしましょう。なにごとにおいえても偽善で生きている人間と言うのは、
「人の感情はその人の数だけあるから正解はない。ひとそれぞれの価値観がある」
などと「己の偽善がまかりとおるいいわけ」をしますが、情緒の起因なんかただひとつなんです。それはなにか?
「好きかきらいか」
でしかありません。
ある人を、あるいはある物体を、物品を、ものごとを、できごとを、好きだと思うかきらいだと思うか。それだけのこと。その感情で構成された雛形が会社であり、こうした集合に属している以上、人から好かれなくてはならない。
では、人はどのような人を好くかというと「印象のよい人」を好くだけのこおとで、それだけのことで、よって太っていて背の低い男は、会社という集合では脱落する条件に満たされる。満たされるけれども、
「明るい」
という条件を持っていれば、脱落はしない。では、なにをもって「明るい」といいうか? そんなのは簡単です。
よく笑う。
声が大きい。
これだけで「明るい」の条件は満たされます。内容なんか無関係だ。内容なんか人は見ない。内容なんか見ていたら自分自身が脱落する。自分自身が脱落すること、これすなわち、暗いことだから、暗いことはこの社会に属そうとすれば反社会的なこととなり、人はおのずと、内容を見ないようにすることで保身を図る。


ぎゃはははっ(^_^)(^_^)(^_^)(=^・^=) 「好き嫌い至上主義」はMorris.の拠ってきたるところではないか。ともかくも姫野カオルコ「好きっ!!」である。「明るい」は「あ、軽い」し、内容なんか無いよう(^_^;)なんて、書いてないギャグを思いついてまた笑ってしまった。この作品の中に「妄目的」という言葉が出てきたが、「盲目的」の誤植なのか、ギャグなのか迷うところである。ギャグなんだろうな(^_^;)
実はMorris.は算数、数学のたぐいは全て×なのだが、何故かこの集合だけは好きで、高校のとき98点を取ったことを覚えている。いまもって「集合」は数学ぢゃないのぢゃないかという疑いを捨てきれずにいるのだが、ともかくも、何でも分析するときにはついついこの集合の考え方を知らず知らずに流用しているようでもある。

おしまいの「少年ジャンプがぼくをだめにした」は、ハレンチ学園、とラクエルウエルチに発情する女子小学生と、全共闘シンパで漫画好きの大学生の物語だが、雑誌名や映画俳優名などの固有名詞の連発が懐かしかった。
本書の作品はおおむね1970年前後(大阪万博)が舞台で、「サイケ」というタイトルもそれに由来するのだろうが、当時、Morris.は二十歳前後、姫野は11歳くらいだから、ちょうどこの作品の大学生とヒロインの年齢関係に当てはまる。小倉の競馬場をキャンパス代りにしてた某大学に入学して、下宿の小学生の女の子に漫画の本を見せてた記憶もあるので、ますますこの作品にはデジャブみたいなものを感じたのかもしれない。


09016

【受難】姫野カオルコ ★★★☆ 5冊目である。股間に古賀さんという人面瘡の出来た女性フランチェス子の2人?を主人公とする、超絶お笑い作であった。いや、これは文句なしに面白かった。
ヒロインのフランチェス子は、彼女が孤児として幼少から育てられた戒律厳しい修道院の薫陶を受けて聖フランチェスコのように生きることからのニックネームらしいが、人面瘡の場合は、

なんで古賀さんになったかというと、件の恐怖漫画『のろいの顔がチチチとまた呼ぶ』の作者が古賀新一という人だったので、なんとなくいつのまにか古賀さんになってしまったのだ。
住んでいるところが住んでいるところなので、はじめのころは、おしkっこをするときや生理のとき、古賀さんに迷惑がかかるのではないかと気をつかったものだが、おしっこに関しては問題は無かった。尿道の下に位置して古賀さんは住んでいた。そこでおもに気づかいは生理時であったが、もともとフランチェス子はおまんこを自由自在に動かすことができる特技・技能を持っていたため、血液が古賀さんの目から外部にでるように膣を蠕動させて、結局、日常生活にはなんらの支障はなかった。


電子レンジの前でフランチェス子はパンティをおろし、古賀さんに乱暴に食べさせた。
「愛情が無い。もっと繊細にかつ濃密に挿入できんのか」
「愛なんてそんなものがこの世にあるかい、と言ったのは古賀さんでしょう」
「ふん、そういうことだけは悟りが早くて、だからおまえはダメなんだよ。おんなが本来的に持っているようなたおやかさややさしさというものがない」
「はん。だから私に住んでるくせに。あなた、ほんとにかわいいやさしい女の人とは住めやしないんでしょう。そういう女の人はあなたのことをひたすらおぞましがるからね。言っとくけど、私だからやっていけるのよ」
「なんだと、ああだ」
「なによ、こうだ」
「いい気になるなよ、こうだ」
「何すんのよ、ああだ」
フランチェス子はおまんこを縦横自由に動かして締め上げて古賀さんとなぐりあいの喧嘩をした。
喧嘩は疲れる。あまりに疲れると、怒りよりもかなしさの方が大きくなる。


面白すぎて、やがて悲しきオチにもっていくあたり、Morris.が姫野にはまる由縁である。
これまでにも身体の一部がペニスになったり、多重人格や、奇生物テーマの作品はそこそこ読んだが、本作ほどフィジカル&スラップスティック&おちゃらけは初めてである。

女として無価値。それはどういうことか。たとえば、ある男とある女が会ったとする。たとえば、だれかからの紹介で仕事の関係で、花屋の角でぶつかって、出張に行く電車のなかで隣の席同士になって、ある男はある女と会う。会ったときに「あ、ヤリたい」と男が思う女が女として価値があるということである。男がそう欲望すること、それが女として価値があるということである。男がそう欲望すること、それが女として価値があるということである。これ以上、的確にして真実なる説明はない。「あ、ヤリたい」と思うこと。これは、ヤレるように算段することではない。ヤッている空想をしてふむふむとすることでもなく、ヤラんとして花束を贈ることではない。実際にヤルかどうか以前に在って、しかし、「あ、ヤリたい」おもうベクトルの超微小な発起点のことである。偽善に満ちた表現に直すと「あ、かんじのいい人だな」である。
異論を唱える人がいたら、その人は真実を直視することを避けている(=偽善者)か、もしくは、直視する能力がないのである。


「恋人ができる男というのは会話がないんだ。恋人ができる女というのも会話がないんだ。会話なんかできたら”つきあう”対象として見てはもらえない。パーソナリティを持ったら女はダメ女になる。男もおんなじさ、パーソナリティなんかあるやつは、いい人だね、だ」
”つきあう”というのは、すべての会話を、「あ、なんかちょっといいみたい」「なんかすごくきらいみたいな」「なんだかよくないっていうか」」うーん、わかんないけどわかるような気がする」「くらいですませることである。相手の人格の深い部分にまで入り込もうとしないこと、入り込まれるほどの人格を所有しないこと、これが「つきあう」だと、古賀さんは眠そうに諭した。歴代の寄生媒体にくりかえし諭したらしく。
「セックスだけが目的と言うほどのドライに腹くくる、度量もなければ、エロスの本質を追及しようという覇気もない。まことプラスチックな貞節を守って、カノジョとカレは満足する」


ABCラジオ「おはようパーソナリティ道上洋三です」を時々聴いてるMorris.であるが、なるほど、なるほど、パーソナリティも、こういう観点から論じる(切り捨てる?)やりかたもあるのか、と、笑ってしまった。
とにかく、本作は及第作である。これでMorris.の中での姫野作品の星取り表は5勝1敗である。
これまで6冊読んだところでは姫野の代名詞みたいに書かれてる「作品ごとに文体を変え、新たなジャンルに挑戦」というのは、Morris.にはピンと来ない。このくらいの文体の変化なら他の作家(たとえば、奥泉光←最近どうしてるんぢゃ(^_^;))でもたくさんいると思うし、ジャンルやテーマも、とりたてて変化をつけてるとも思えない。バラエティに富んでるとすら言えなくて、一つのことをとことん変奏していく作家のように思える。だが、そういうことはどうでもよく、Morris.にとって面白ければそれでいいわけで、その意味で久しぶりの「ビンゴォーッ!!」である(^_^)


09015

【空に住む飛行機】姫野カオルコ ★★☆☆ 4冊目である。娘一人の三人家族の中で、ほとんど牢獄に近い家庭生活を送る娘の解放物語なのだが、解放にいたるまでの辛酸、桎梏、罪悪感、両親それぞれの確信的横暴、理不尽等などがあまりに強烈で、Morris.はちょっと辛い気分にさせられた。姫野作品の中ではこれまで読んだ中では苦手の部類に入ると思う。
9章に分かたれて、それぞれのタイトルを繋げると一篇の詩のようなものになるのだが、この詩?と作品の中身との乖離が、ちょっと心地悪く感じられたのかもしれない。

休日、それは空からおりてくる飛行機
その翼の影の下を町が通り過ぎる
なんと地上は低いのだろう
きみはわからない、きみの年齢では
空に住む−−
あれほどの空、あれほどの雲
飛行機の影が海をとらえる
何と海は……
忘れないで美しいきみ


ヒロインの娘が30の誕生日が締め切りのシナリオに応募するため創作にはげみ、そのシナリオが家庭からの解放の大きな意味を持つのだが、これがメルヒェンと歴史説話のねじれたストーリーでMorris.にはよく理解できなかった。これが本作へのMorris.の評価の低さとなってるわけで、Morris.の毒か威力、ぢゃなくて読解力の不足なのかも知れない。
先に引用した章のタイトルはミシェル・ポルナレフの「愛の休日」に拠るものだと、おしまいに注記してあって、これもMorris.は、一杯食わされたような気分を味あわされてしまった。よって現在のところ姫野作品はMorris.の勝手な星取表では現在4勝1敗という状況にある(^_^;)


09014

【整形美女】姫野カオルコ ★★★☆☆ 3冊目である。田舎の2人の対照的な少女が、対照的な整形手術で、対照的に人生を変えていくという、かなりけれんみのある風刺小説だが、やっぱり面白かった。「美醜」とはなにかという根本に触れた言及もあるが、Morris.はほとんどコメディとして読んだ。ここかしこにビビっとくるところがある。

「でもね、奥様の心根のよさに気づかれたのは、まずは奥様の外見に気づかれたのちだと、私は思います。ヒトはいちいち他人の内面なんか見ないわ。他人の内面なんかいちいち丁寧に見てたら神経がいくつあってもたりないではありませんんか。レントゲンじゃあるまいし。ピエール・キュリーだっていっとうはじめはマリーの外見にひかれたと思うわ。外見にひかれてから、ともに「ラジウムおたく」だったから気が合って勉強してノーベル賞がとれたのよ。めでたしめでたしでよかったわね。」


上の台詞なんか、つい川原泉を連想してしまったさ(^_^;)

「ズリ……だなんて……下品なものいいはやめてください」
「下品? ズリネタのこと? なぜそこの一語だけを注視したの? そのほうが下品だわ。美しいってどういうことかを最も短距離で説明しようとして私がもってきただけのことばを、そこだけ注視するなんてへんよ。ズリセン、ズリネタが下品だっていうのなら、セックスしたことを、関係をもった、というのはもっと下品よ。セックスしたと言わずエッチしたと言ったり、ズリセンをひとりエッチと言うにいたってはヘドが出るほど卑しい、下下下下品じゃない」
誰もが脱糞する。誰もが放屁する。だからといって、レストランのテーブル席で人が食事しているさなかに脱糞してみせるとか、放屁してみせるとかするならばそれは下品である。誰もがすることだからといってもするべき場所というのが、いにしえより設けられている。脱糞や放屁をすることを他人に感じさせないことが上品である。しかし、脱糞など放屁などしていないと嘘をつくことは厭味であり、さらに脱糞したり放屁したりする自分を自分で見ないことはレストランのテーブル席で脱糞してみせるよりも下品なうえに卑しい。そして下品なうえに卑しい者は必ずこの例え話について言う。なんのことだからわからないわ。なんのことだかわからんね。下卑たうえに鈍感な者の多さと生命力といったらセイタカアワダチソウと同じである。

とくにコスモス。鎌で叩こうが、鋤で殴ろうが、この花は他の草や野菜を圧し、群生面積を広めて生えてくるのである。その花はいかにもはかなげであるのに、それはもうしぶとい生命力を持っている。そのくせ、摘んで花瓶に生ければ、たちまちのうちにしおれてしまう。それを見れば、コスモスのしぶとさを知らぬ者は定めし、可憐だと騙されるであろうと思い、甲斐子はコスモスを忌み嫌った。


セイタカアワダチソウとコスモスの対照的な花への嫌悪感を並べてみたが、二人のヒロインの象徴であるとともにこの植物そのものへの憎悪が吐露されている。コスモスに関してはMorris.にもいくつかのアンビバレンスがあるのだが、ここまで明確には言えなかった。
前半部分の人間の生理現象への言及は姫野の得意分野かもしれないが、ここにも偽悪趣味が見え隠れしているようだ。

流行の先端をいく服イコール嫌いな服。嫌い、という語をフジヤマ薬品は婉曲に言っているのだ。1/7と3/4を足すとき、分母は28にそろえなくてはならない。社会とはそういう場所だ。もしその場所を「男社会」と怒りの感情をもって呼ぶ者がいるならば、その者たちは車に乗らぬがよい。空気調節装置を使わぬがよい。湯を流しながらの洗髪をするな。二枚暈ねで次々と箱から飛びだすちり紙を使うな。食物を残し捨てるな。それらはみな国家経済によってできることだからである。それらの贅沢は近代の男社会がもたらしたのである。陰で支えたのは女などとは決して言うな。言えばさらに支えねばならなくなる。言わず、利用するがよい。7と4の、9と6の、2と21の最小公倍数の仮面をそのつどかぶり、媚びよ、しなだれよ、彼らをひきつけることだけを考えて女を売り物にせよ。仮面はいつしかとれなくなる。永遠にとれぬなら、もはやそれはその者と「自然体」である。最小公倍数の研究を重ねて「計画」した甲斐子の顔面と肉体である。

この部分は、ヒロイン甲斐子の後の行動原理の先取りであるが、いささか図式的でもあるね。

「セントラル美容整形の高澤先生って、あんなのほんとに詐欺だわ。手術前は、なんできれいになるのをためらうの、とか、あなたの素材を生かしてほんのちょっと整えるだけのことだから心配しないで、とか言いながら、手術したとたん、セーターを脱いだりするときはじゅうぶんn注意してね、なんといっても、あなたの鼻の中にはシリコンがはいってるんだから、あなたの顎はドリルで削ってあるんだから、なんてもうとりかえしがつかないときになって、手術前の注意をするなんて、ほんとに詐欺。再手術せざるをえないような仕組みもみごとにつくって蟻地獄式に金を巻き上げて、その金で広告代理店も牛耳ってるのよ。知ってる? マスコミが美容整形業界の阿漕な部分を暴露しにくいのは、それをすると美容整形の広告以外のほかの広告もストップさせるように広告代理店に働きかけるからなのよ。だって広告代理店の経営を美容外科医院がしてるんだもの。」

ごもっともの卓見だが、これは巻末参考文献に挙げられている本からの流用だろうね。
ともかく、本書も1時間50分で一気に読み終えてしまった。充分楽しませてもらった。面白いぞ姫野カオルコ。


09013

【ハルカ・エイティ】姫野カオルコ ★★★★☆ 彼女の本、2冊目にして、Morris.は彼女の愛読者であることを宣言したい(^_^;)
本作は実際の著者の伯母をモデルにした一代記である。大正9年生まれとなってるから、Morris.の父と同世代ということになる。
滋賀県の田舎で教師の家の長女として生まれたヒロインハルカが心を許す学友と出会い、それぞれの道を歩み、戦中戦後の困難な時代をやりくりし、現代までそれなりの充実した人生を送ったさまを、不思議なタッチでほのぼのと描き出している。ほのぼのとは言いながら、内実はかなり厳しい事件もあるのだが、そこをヒロインの楽天主義と性格のよさで嫌味なく収拾させている。
著者は次女の娘、つまり姪だが、次女が晩婚だったため孫くらい年の離れた関係らしい。

(ぜんぶ、うちの身の丈に合うた流れと言うもんやないやろか……)
すとんと、すわりのよいような感触がしてハルカの口角があがった。うーんうーんと数学の問題を前にしてうたっていたのが、妙なところから数式が解けたような心地。
(適材適所というもんや……)

解雇取り消しの口添えを要請される日向子のような家柄も、守ってやらねばならぬと異性の心をかきたてるちづるのような風情も、博士の血を受け継ぐ由里子のような利発さも、自分が持ち合わせなかったものだけれども、他人が生まれついて持ち合わせたものを羨めばそれが手に入るものでもあるまい。
五円しかお金がなかったら、十円の鯛は買えないと嘆くより、五円でおいしい夕飯をつくるにはどうしたらええやろと工夫するほうが、
(そや、そのほうが、たのしい)
ハルカはひらめいた。たのしいことがいちばんだと。


これだけでヒロインの性格の良さは見て取れるだろう。今のMorris.にもジャストフィットする(^_^;)思考法である。
引用部分に出てくる3人の女ともだちがそれぞれにまた際立った個性の持ち主で、一人は早世するが、後の2人とはのちのちまでも付き合いがあり、本書はいまどき珍しい女性の友情物語でもある。

YWCA会館の建物はウィリアム・ヴォーリズの設計によるのだそうだ。滋賀に住んでいるヴォーリズならハルカもよく知っている。
「メンソレを売ってはる外人さんやろ。あの人建物も作らはるの?」
「作らはるくらいかいな」
もともと本業はそっちであるという。YWCAロビーの、重厚な天井をハルカは見上げる。
「外から見ると窓の切り方もすてきなんやで。ちょっと外に出て見る?」


ヴォーリズ好きなMorris.なのでつい嬉しくなってしまう。もともと本業はそっちではなかったようでもあるが、そこのところは今はおいておこう。

軍人だった亭主大介との夫婦関係もなかなか面白いのだが、大介は結構な浮気性である。

愛妻家でなければ浮気できない。愛妻家でなければ浮気する資格はない。
男の足場がぐらついていれば、浮気相手の女も、自分の足場がぐらつき、女は泣く。怒る。ストーキングする。もめる。妻も泣く、怒る、恨みの針をねちねちとばす。
カチューシャもチエミもそのほかの女とも、大介はもめなかった。この家に怒鳴り込んできたベレー女でさえ、一度会えば、それで済んだ。怒鳴り込んだのは、ベレー女の若さゆえだろう。
すべてがきれいにかたづくものではなく、とりあえずとりあえずで複合的に進んでいくものなのだということを、ベレー女のような若さをもう失ったハルカは、時間の中で知っていた。

ハルカ自身も浮気しなかったのではないが、そのやりかた対処法は、大介より遥かに男らしい(^_^;)

自分が手をつけた男は、さいごまでちゃんとめんどう見てやる。
明確にそう思ったわけではなかったが、そんなふうな心意気がハルカという女にはある。とくに、きれいにつきあった男に対しては。
きれいなつきあい。それを、恵なら、時子なら、セックスをしていないつきあい、と分類するだろう。きれいな別れかた。それを氷室なら、自然消滅だとしたがるだろう。
しかし、相手の身に指一本ふれなくてすむような感情は恋だろうか。ふれたいと心中で願ったならば、それはふれたのと同じではないか。かりに、ふれぬまま、相手の乙女の乳房しぼみ、相手の青年の歯抜け、ともに腹出で、肌に皺寄れば、それはきれいなつきあいというより、あわれでかなしいつきあいではないかとハルカは思うのだ。
きれいなつきあいとは、きれいな別れかたができるつきあいのことである。男と女のあいだに自然消滅などというものはありえない。どちらかが一方的に逃げ、逃げたほうが自然消滅と己の軟弱な逃亡をいいつくろっているだけである。
きれいな別れとは、女が泣かないことではない。男が(心中で)泣かないことではない。ほほえみながらの別れもあろう。涙の別れもあろう。ふられる側も辛い。が、ふる側も苦しいのである。いずれにせよ、会っていたあいだの共有時間について、互いに感謝の意をのべあえる礼節を知るということである。礼節の時間の有無が、その別れの美醜を決定する。
むろん、礼節の美しさより、礼節のやっかいさを疎む人間の数は世の中にとても多い。ナイトの羽根飾りなど、レディの手袋など不要とする者に、礼節の美を強要することは不可能である。きれいな別れをのぞむなら、ナイトを選べ、レディを選べとしかいいようがない。


ハルカの姑である大介の母を始め魅力的かつ注目すべき登場人物も多いが、紹介は本文に委ねよう。
本策は久生十蘭の快作「キャラコさん」の姫野カオルコバージョンだと言えるだろう。
Morris.も「キャラコさん」には強い愛着がある。姫野は作品ごとに文体やジャンルを変えるという評判があるが、本作の亜流みたいな作品をまだまだ読みたいと思うぞ。
まあ、それらのことも、他の作品を読みながら反芻していきたい。
物語の出発時点が、ちょうど昨日読んだ船戸の「満州国演義」と重なるのだが、展開の速さがまるでちがう。どちらも手元の年表を参照しながら読んだのだが、そのスピード感の対照に唖然とした。


09012

【ツ、イ、ラ、ク】姫野カオルコ ★★★☆☆ 斎藤美奈子さんが書評でかなり好意的に取り上げていた作家だったので、初めて読むことにした。いやあやっぱり美奈子さんが褒めるだけのことはある。
彼女の作品としては珍しい「恋愛小説」らしいが、地方の子どもたちの小学校時代から20年ほどのスパンでの人間関係をオムニバス風に配置して、不思議な色模様を絵巻物のように描き出している。
彼女は一作ごとに文体を変えるらしい、ということは、相当に筆力があることを喧伝してるみたいなものだが、とにかく初めて読むMorris.には、面白い文体だと思った。
比喩や形容が特異で新鮮で刺激的ある。

転校生は、りぼんのかかったプレゼントの箱のようなものだ。転校生。この存在はものがたりを人に喚起する。

人は敏感である。人は鈍感である。敏感であり、鈍感であるのである。鈍感であり、敏感であるのである。

中学生がスパイスがわりの浮気などいかがなものかと顰蹙するのは死を控えた動物だけで、十代とは四六時中性欲があふれているホモサピエンスなのである。性欲という言い方におためごかしな花柄カバーをつけてほしいなら、「恋に恋する」とでもしておく。


女性美の象徴のように描かれている美術の小山内先生の「色香」について。

内面の美という呪文を、心ある人間ならば嫌悪すべきだ。こんあ呪文は広告代理店が女性消費者に向けたおためごかしだ。小山内先生は閉経が近いだろうし、染めているが髪の八割は白髪だろうし、乳房はあきらかに京美より小さく、たるんでいる。彼女には商品価値はもうない。洗い髪を梳く小山内先生に、色香がたちのぼるのは、彼女がそのことを熟知しているからである。牡にとって自分は”おばあちゃん”
であることを熟知して、かつ牝であることを放棄していないからである。だから浅ましさも焦りもない。色気ではなく色香は、年齢には関係がない。


主要登場人物だけでも十指に余るが、ヒロイン隼子中学時代の若い教師との情交の凄まじさに、まず圧倒されてしまった。ポルノも含めてMorris.がこれまで読んだセックス描写の中でもトップクラスの激しさだが、決してエロいというわけではない。思わず吹き出してしまうような、大胆かつぶっ飛んだユーモアが仕掛けられている。たとえばこんな調子。

エロスという坂本龍馬により、隼子と河村はこの日をひぎりに連日のように会いつづけた。すぐに夏休みに入ったふたりはほとんど話さなかった。話すのももどかしく、彼らはヤった。服を脱ぐのさえもどかしく、彼らは犯った。ヤって犯ってヤって犯ってヤッて犯ってヤって犯って彼らはヤって犯ってヤって犯ってヤッて犯ってヤって犯ってヤって犯ってヤッて犯ってヤって犯ってヤって犯ってヤって犯ってヤッて犯ってヤって犯ってヤって犯ってヤって犯ってヤッて犯ってヤって犯ってヤって犯ってヤって犯ってヤッて犯ってヤって犯ってヤって犯ってヤって犯ってヤッて犯ってヤって犯ってヤって犯ってヤって犯ってヤッて犯ってヤって犯ってヤって犯ってヤって犯ってヤッて犯ってヤって犯って、生理中でさえコンドームを必要としない機会とみなしてヤって犯った。ヤって犯ってヤって犯ってヤッて犯ってヤって犯ってヤって犯ってヤって犯ってヤッて犯ってヤって犯ってヤって犯ってヤって犯ってヤッて犯ってヤって犯って、ブレーキは完全にいかれていた。ヤッて犯ってヤって犯ってヤって犯ってヤって犯ってヤッて犯ってヤって犯ってヤって犯ってヤって犯ってヤッて犯ってヤって犯っている自覚さえなかった。十九世紀の八月に四カ国連合艦隊が、長州下関を砲撃したよりも激しいくらいヤッて犯ってヤって犯ってヤッて犯ってヤッて犯ってヤッて犯ってヤって犯ってヤッて犯ってヤッて犯ってヤッて犯りまくった。河村4kg、隼子3kg、体重減。

すでに山村暮鳥の「いちめんのなのはな」(「風景」)の世界であるな(^_^;) 上の引用はかなり大雑把であると思う。校正はしてない。

求めよ、されば与えられたであろうものを求めない者は戦を放棄する。戦を放棄した女たちは性欲をどのように処理するか。答え。同性愛という名の異性愛の覗き魔になるのである。少年と少年、青年と青年、少年と青年が愛し合う物語に耽溺する。そこには、裸体がある、肉欲がある、嫉妬がある、羞恥がある。そこには閨房がありながら、自分は閨房に入れない性別にあることで、自分が閨房を獲得するレースの、不戦敗者であることを「見ずにすむ」。

正直さは、あるときには狡猾である。愛されたいという願望、もしくは、愛されている心地よさへの願望が、無頓着なほど希薄な存在の倦怠は、その存在にひかれる者を巧妙に焦らす結果となるのだから、本人の思惑から離れて本人は狡猾になる。

ヒロインらが愛好するクラシックピアノ上がりのロックスターの歌詞もいくつか引用しておく。これだけでも著者の詩心は明らかである。

健全なるひとびとは
他人の不幸に涙し
涙をふりそそいでおのれの幸せを花開かせる
健全なる人びとは
おのれのわずかな不幸に酔え
他人のワインを樽ごと横取りして泥酔する
すごいよ、健全
強いよ、健全
きみも健全になりたまえ

いや、これに意味はない
いや、これは愛ではない
荷物になるじゃないか
きみはぼくの知り合い
ぼくはきみの知り合い
いや、ともだちではない
ともだちとして果たせる数には限度がある
ともだちは少ないほうがいいよ
なんでそんなにいちいち電話しなけりゃならない?
ゆっくり話せない電話なら、しなくていいじゃん?
早いのはイヤじゃなかったのか
それくらいのことはわかってる
きみはぼくの知り合い
ぼくはきみの知り合い
舐めてあげるのに6ペンス
舐めていただくのに6ペンス
ワリカンにしとこう
荷物が多いのはごめんです


しばらく彼女の作品を攻めてみることにする。
ところで、後で、ネット検索してたら、本書出版時(2003年11月3日)に「ツ、イ、ラ、ク専門掲示板」が企画され、読者だけでなく著者のコメントも多数含まれているそのログを読むことができた。読者の熱い思い入れがわかって面白かった。
あ、このログはネタばれだらけなので、本書を未読の人は読まないように、読むなら(本書を)読んでからね。Morris.は読んだあとだから大丈夫(^_^;)


09011

【炎の回廊 満州国演義4】船戸与一 ★★★ このシリーズ4冊目で各巻が500p近いから既に2,000pにもなるのに、やっと二二六事件である。敷島家の四兄弟がそれぞれの役割を演じながら交錯していくのだが、やっぱり煩雑な場面転換は読みにくい。
書き下ろしというのが逆に足を引っ張っているのかもしれない。
「手を拱(こまね)いてるときじゃない」283p、「手をこまねいていたら」359pと、Morris.の唾棄する表現が2回出てくる。
先日もNHKのアナウンサーがニュースで「こまねいて」と読んでた。
二二六事件に至るまでの軍部内の対立と牽制などの説明もかなり資料を読み込んでるようだが、これもあまり多用されると小説を読んでるのか資料を読まされてるのか分らなくなってしまう。
外交官の太郎との会話のなかで、東洋拓殖の的場雄介が甘粕正彦を「虚無的な現実主義者」と規定したのが目を引いた。

「きみの弟さんはいま新京なんだってな」
「知ってるのかね、三郎を?」
「張学良の易幟後しばらく経って逢った、堂本君の紹介でね。於雪という小料理屋で一緒に飲んだ。あとのときはまだ独立守備隊歩兵少尉だった」
「いまは憲兵大尉になった」
「それも聞いている。いまや関東憲兵隊の花形だということも。あの凛々しかった歩兵少尉に憲兵隊みたいなある意味じゃ穢れた任務をこなせるのかと疑問に思ったが、人間は変われるものだしね。そう言えば、甘粕も昔は憲兵大尉だった」
太郎はこの言葉に銜え煙草のまま雄介の眼を見据えた。沈黙の重さに話題を変えたのだとおもったが、そうじゃなかったのだ。雄介の本意は最後の一言を皮肉としてぶっつけたかったらしい。脳裏がぷすぷすと泡立って来る。腹が立って来た。太郎は煙草を唇から引き抜き、声を荒らげて言った。
「そうだ、人間は変わる。純朴だった歩兵将校はいまや民間人には任務内容もわからない憲兵大尉だ。末弟はむかし無政府主義に傾倒してた。それが国策の走狗となって満州武装移民とともに北満で行動し、これを阻もうとする満人の群れに銃弾で左脚を射たれた。このわたしはどうだ?張作霖爆殺や柳条溝事件のときはあれほど関東軍の傲慢さに憤りを感じたくせに、いざ満州国が建国されるとなると狂おしいほどの男の浪漫を感じ、それに協力することに何とも言えない悦びを覚えた。いまも満州国が整備されるたびに充足感に浸される。おかしいかね? おかしきゃ笑えよ!」
「何をそんなに興奮するんだね?」
「きみはじぶんの言葉に矛盾を感じないのか? 殷汝耕の冀higashi防共自治政府の背後にある日本のやりかたを批難したその舌の根も乾かないうちにスペインの人民戦線をヨーロッパの危機を増幅させるだけだと切って捨てた。そのふたつの言辞にどうやって折り合いをつける?」
「わたしはただ現実を」
太郎はその眼を見据え続けた。胸が息苦しくなって来ている。後悔の念が脳裏を侵しはじめた。膝もとに置いていた猪口を持ちあげて傍らに向けた。桂子がそこに酒を注いだ。飲んだ。燗はもう冷えている。太郎は低い声で言った。
「もうやめよう」
「え?」
「いまはだれもが歴史の激動期に生きている。その荒波のなかで漂ってる。価値観に整合性を持たせようとしても何の意味もない。時代はあらかじめそんなことを拒否しているんだ。歴史の荒波を自力で泳ぎ抜こうとすれば、価値観の溺死が待っている。今夜は久しぶりに一緒に飲みたいと思ってきみを招んだだけだ。変質を余儀なくされて来た価値観をたがいに観察そしあうのはやめよう。それに絡んで皮肉をぶっつけあうのをやめよう。そんなことをすれば、精神はますます歪つになって来るだけだ、あまりにも空し過ぎる」


09010

【僕が愛したゴオスト】内海文三 ★★☆☆ 小学生の男の子がホームで遭遇した人身事故をきっかけにパラレルワールドに移動してしまう。家族も他の人々も全て異臭がして、心が無く、尻尾が生えている。唯一尻尾のないのがホームで事故を目撃した売れない男優で、二人はもとの世界への出口を探して逃げ回るが自衛隊に捕らえられ、研究観察対象として隔離生活を余儀なくされる。男優は自殺して一人残された少年は女性自衛隊員と何故か二人で逃走、日本を転々としながら恋人同士のような暮らしを送り、そして、ついにその生活も終わりを告げる日がやってくる。という、あらすじにもなってないが、SFの一種と思われるかもしれないが、そこは打海のことだから一ひねりも二ひねりも入れてるし、無気力少年の意外なたくましさや鋭敏さに驚かされるし、少年の家族、男優の恋人、自衛隊の医師、別の女性隊員など登場人物の個性的描写はさすがのものである。
だがしかし、Morris.はこれまで読んだ彼の作品のなかでは一番面白さを感じなかった。最後の一種のどんでん返しも好みではなかったし、魅力的女性登場人物の不在が大きかったのだろう。


09009

【本の本】斉藤美奈子 ★★★☆☆ 彼女の1994-2007年の13年間の書評集である。730p、厚さ5cmもあるぞ(@_@)
新聞や雑誌に掲載したものの集成だが、一冊にまとめるにあたって
・小説と随筆の本
・文芸評論と日本語の本
・本のある生活
・社会評論と歴史の本
・文化と趣味の本

という5部構成にしている。この区分けはMorris.の読書控えにも流用できるかもしれないな(^_^;)
美奈子さんとMorris.は、読書分野の傾向はかなり似ているのに、個々の作品となるとかなりのズレがある。小説でも、芥川賞作品なんて、まず読まないMorris.だが、彼女は毎年のように受賞作に言及している。
ざっと千冊前後の本が取り上げられているが、Morris.が読んだ本は50冊前後だろう。それだけにMorris.の読んだ本の書評にはついつい目がいってしまう。

書評は「予習」より「復習」のために読んだほうがおもしろい。それが、私の実感です。「復習」とはすでに読み終わった本の書評を読むことです。

と、美奈子さん自身があとがきで書いている。
たとえば宮塚利雄「日本焼肉物語」。

周辺素材にまで目配りしすぎて、いささか資料を詰め込みすぎの感なきにしもあらずだが、韓国・朝鮮文化オタクであr(にちがいない)著者が丹念に調べ上げた労作。スノッブな薀蓄を語りたがる鼻持ちならないグルメ本にはない面白さだ。


たとえば金井美恵子の「恋愛太平記」

金井美恵子の小説には、多少理屈っぽい頭で読んだほうが楽しめるものと、つべこべいわずに身を任せたほうがよいものとがある気がする。
『恋愛太平記』はだんぜん後者。おびただしい数のモノの描写(それとはわからぬ程度の批評性がこめられている)にひたることが、いちばん正しい読み方だろうと思う。


たとえば、グールドの「ワンダフル・ワールド」

進化というと、とかく私たちは、下等なものから高等なものへ、単純なものから複雑なものへと、生物が進歩・発展してきたイメージを持つ。教科書などに載っている「進化の系統樹」の図もそのイメージを補強してきた。
だが、進化は進歩や発展のことではない。進化はまったくの偶発的なものであり、ホモ・サピエンスの出現なんかにゃ何の必然性もない、とグールドは主張するのだ。「カンブリア紀の爆発」と呼ばれる現象や、まさにバージェス頁岩体現しているように、短い時期に無数のデザインの生物が出現、そのほとんどがいったん死滅し、運よく生き残った少数の系統からまた爆発的なデザインの分化が起こる−−それがグールドの進化観である。自然淘汰によって進化は起こると説くドーキンスとは対立する考え方だが、グールドのアナーキーな発想は悪くない。

なるほどなるほど、押さえどころに迷いと狂いがない。
読んでない本だって、彼女の手にかかると、Morris.はすでに読んだ本のような気にさせられる。
たとえば梅崎義人「動物保護運動の虚像」

「動物保護」政策が、現実には何の実効性がないどころか、かえって裏目に出ていること。増えすぎたアザラシは北洋のタラを現象させ、漁業に深刻な影響を与えている。オットセイもまた増えすぎて群れのバランスが崩れ、オス同士の殺しあいが頻発したあげく、ここ十五年で二百万頭から八十万頭にまで数が減ってしまった。増殖計画によって増えたアフリカゾウが生息地の環境破壊を引き起こし、間引きせざるをえなくなったにもかかわらず、象牙の取引は禁止されている。
理不尽としか思えない数々の事例をとりあげながら、著者はその原因を、欧米を拠点に世界的な規模で活動する環境保護団体に求める。[動物の保護に成功した環境保護団体のメンバーには、動物を利用できなくなった人たちへの配慮は全くない。逆に大きな精神的満足感に包まれ、その上に巨額のカネを手にしたのである]というわけである。具体的に名前が出てくる団体はグリーンピース、WWWF(世界自然保護基金)、IFAW(国際動物愛護基金)、地球の友など。


たとえば森達也「世界が完全に思考停止する前に」

地上から軍事ヘリを撃墜することが「テロ」で、大量破壊兵器で民間人を巻き添えに軍事施設を攻撃することが「軍事行為」だなんておかしいじゃないか、その線引きはどこにあるんだ、と彼は書く。あるいは、それで拉致問題が解決されるわけでもなく、それを発動すれば北朝鮮の飢えは進むとわかっているのに、なぜ改正外為法なんか成立させたんだ。当事者でもない人たちが「家族会」や「救う会」に同調するのはおかしいじゃないかと彼は問う。

こうやって引用していくととどまるところがなくなるのが美奈子本の困ったところだが、本書には未発表の書評が掲載されている。朝日新聞記者野嶋剛「イラク戦争従軍記」である。実はこれは「週刊朝日」に原稿送ったが掲載を見送られ、翌週に手直しされたものが掲載されたらしい。本書にはその両者が並べてある。
これを読むとイラク戦争での各国の記者が米軍部隊に随行する「埋め込み(エンベッド)方式」の取材に参加したこの記者の報告書のあまりのひどさに、美奈子さんが思い切り脱力しながら書いたとおぼしい書評を「検閲」差し止め下「週刊朝日」も情けない。以下引用した部分は、手直し記事からは完全に消滅している。

本書は「イラクに遠足にいって。三年一組 のじまつよし」という作文に似る。「イラクにいくのはこわかったけど、いってみたら人が死んだりしてびっくりしましたが、いい人もいて、でも帰りなさいといわれたから帰ってきました。楽しかったです」。
軍事にも兵器にも疎く、[今回の戦争をどう考えるべきなのか。米国にもイラクにも問題がある、ということまでしか私には言えない]程度の感想しか持てぬ記者を前線に送り出す朝日新聞外報部もよくわからないし、この本を「きょう有事法制が成立する」という妙な文脈で紹介した天声人語(2003年6月6日)の意図もつかみかねる。爆発物を「おみやげ」に持ち帰った毎日新聞写真記者もこんな感じだったとしたら、朝日一社の問題でもないのかもしれないが。


「すまじきものは宮仕え」というのはこのところめっきり耳にする機会がなくなったが、「売文業」というものもなかなかにしんどいもののようだ。


09008

【聖灰の暗号 上下】帚木蓬生 ★★★☆☆ 日本人の歴史学者須貝がフランス、ピレネー山脈のふもとの田舎の図書館で14世紀のカタリ派の受難を記す地図と文書を発見。これを発表した後、地図と詩を手がかりに第二、第三の文書を追跡しているうち、カトリック教会の妨害と思われる殺人事件に巻き込まれ、恋人のフランス人精神医師クリスチーヌが誘拐され、第二文書を奪われる。
パリ警視庁で声紋捜査を研修に来ている日本人警察官今井や、田舎で砂鉄を集めてナイフを作る男エリックなどとの協力もあって事態は主人公の思惑どおりに進行していくのだが、小説としては、だんだんとりとめなくなっていくようだった。
本書の眼目はカタリ派という単純で純粋なキリスト教の一派が、巨大な権力となったローマカトリック教会から異端として糾弾され、ついには虐殺、淘汰される不条理への現代からの糾弾と復権の宣言なのだろう。
Morris.は小説としてより、宗教史、信仰の書として本書を読んだような気がする。

須貝知り合いの研究家の比較宗教論の、東西二人の宗教家の類似点。

一遍は聖フランシスコの死後13年経って生まれており、ほとんど同時代人といえる。宗教も生まれた場所も違うのに二人は似たような信念をもち、似たような宗教的人生を送ったというのだ。
聖フランシスコは、当時のローマ教会の聖職者たちの堕落に絶望し、教会を批判した。自らは清貧を旨として、何物も所有しない旅人のような人生を全うしていた。他方、一遍も既成の仏教界に反発し、寺や道場は無用だと説き、念仏一途の乞食(こつじき)の生活を送った。
聖フランシスコには新たな教団をつくる意志はさらさらなく、自分たちがいる所が家であり、自分たちを養う所が神の食卓であると解く。一遍も人々が念仏する所こそ寺だと考えた。


こういった新説?に、非常に刺激を受けた。

ちょうど日本における隠れキリシタンのように、密かな信仰がピレネー山麓の村々で続けられていたのは想像に難くない。
ローマ教会側の審問は、そうした村々のひとりひとりを呼び出し、心の底まであぶり出していったのだ。このとき、カタリ派の信徒が持つ特性が、審問から免れるすべを奪っていた。そのカタリ派の教えとは「嘘をつくなかれ」だった。
信徒たちは、審問官の詰問に対し、ありのままの真実を伝えるしかなかった。あるいはせいぜい、訊問に対して沈黙で答えるのがせめてもの抵抗だった。審問官にとって、これほど御しやすい相手はなかったろう。まるで兎小屋に放たれた狼のように、審問官はカタリ派の信徒を追いつめ食い殺していく。村から村へ、潜伏する信徒たちは芋づる式に検挙され、「良き人」や「全き人」の存在を問い詰められる。

これは、15世紀以降、アメリカ大陸で「嘘つかないアメリカインディアン」がヨーロッパからやってきた「白い悪魔」に食い殺されていく過程を髣髴させる。

「病気があるのも捨てたものじゃない」
「そうなの。病気が接着剤になって、人と人をつなぐの。かと思えば、病気が人の絆を断つことだってある」
「その差はどこから来るのだろうか」
「その病気を呪うか、呪わないかのちがいなの」
クリスチーヌがいとも簡単に言ってのける。「病気がもう変えられないものだったら、受け入れるしかないわ。でも病気の周辺にあるものは、変えられるでしょう。病気にもかかわらず明るく生きるとか、病気にもかかわらず懸命に働くとか。呪っていたら、変えられるものも変えられない」

「アキラ、わたしが精神科医になって学んだことがひとつある」運転席でクリスチーヌが頷く。
「何だい、それは」
「物事って、何とかしているうちに何とかなる」
「何とかしているうちに何とかなる」須貝はそのまま反復した。
「そう。精神科って、外科や内科と違って治療の道筋が見えないことが多いでしょう。でも諦めずに、何とかしていれば、本当に何とかなる」
「一種の楽観主義だ」
「そう言い切ってしまうと、少し違う。どこかずっと苦労はつきまとっている」
「希望を忘れずに苦労する?」
「それともちょっと違う。もうちょっとあたふたしていい」


このクリスチーヌの精神科医経験からの発言はなかなか味わいがある。
カタリ派異端尋問を記録したレイモン・マルティは、ドミニコ会の修道僧だが、実は父母はカタリ派の指導者で、故あって息子を残して布教を続けどちらも火あぶりになったということが明らかになる。
地方図書館で発見された最初の短い手記の末尾に、彼が土地の言葉オキシタン語で記した詩句が何度も繰り返し紹介され、この中に隠された暗号が第二、第三の手記のありかを示唆するというのがタイトルの由来でもあるのだが、この暗号があまりにちゃちなのが気になったし、全体を通してのご都合主義のオンパレードが、小説としての面白みをかなり殺いでいるのは否めない。
しかし、著者の善意と熱意と怒りと悲しみと望みが混交一体となった伝えたいという意志は、確かに読み取ることができたと思う。
本書を読みながらMorris.は辻邦生の「背教者ユリアヌス」を想起していた。帚木の新しい地平を見せる力作だということは間違いないだろう。

私は悲しい

空は青く大地は緑。それなのに私は悲しい。

鳥が飛び兎が跳ねる。それなのに私は悲しい。

生きた人が焼かれるのを見たからだ。
焼かれる人の祈りを聞いたからだ。
煙として立ち昇る人の匂いをかいだからだ。
灰の上をかすめる風の温もりを感じたからだ。

この悲しみは僧衣のように、いつまでも私を包む。
私がいつかどこかで、道のかたわらで斃れるまで。
                ドミニコ会修道士 レイモン・マルティ、1316


09007

【封印歌謡大全】石橋春海 ★★★☆☆ 大正から平成までの発禁歌謡や放送禁止歌謡を中心に158曲を取り上げ、年代順に見開き2pのコラムにまとめたもの。

・当局による検閲 1920(大正12)−1945(昭和20)
・放送局とレコ倫による規制 1946(昭和21)−1969(昭和44)
・反体制の時代 1970(昭和45)−1979(昭和54)
・エスカレートする言葉狩り 1980(昭和55)−1989(昭和64)
・規制の種は尽きず 1990(平成2)−2007(平成19)


と、五つの時代に分かたれ、5篇の関連記事が併載されている。著者はアニメの脚本、写真雑誌の取材記者、ライターとして活躍しているらしい。それぞれの曲の基本事項は下段にきちんと紹介してあるし、脚注も充実している上に、切り口も一貫性があり、共感を覚えるところ多かった。また意外なこぼれ話、秘話、裏情報なども盛りだくさんで、裨益するところまた大であった。

・「侍ニッポン」(徳山l)に出てくる侍の名「新納鶴千代」、レコードでは「しんのう」と歌われているが、正しくは「にいろ」である。徳山が間違えた説、にいろではわかりにくいため、あえてしんのうと歌わせたという説がある。
・「セントルイスブルース」日本での最初のレコードでは「ユウウツ」という邦題がつけられていた。
・「ブルースの女王」淡谷のり子が、故郷・津軽で凱旋公演を行うことになったが、駅前の垂れ幕には「ズロースの女王」と書かれていた。
・アン真理子作詞の「悲しみは駆け足でやってくる」は同じ年(1969)に出版された島田芳文の詩集『心のふるさと』にある「明日を明るく」という詩に酷似していた。しかも曲にも原曲があった。ブラームスの交響曲第3番の終楽章によく似ているのだ。
 明日と言う字を知ってるかい 明るい日と書くんだよ(中略)
 若いと言う字を知ってるかい 苦しい字と似てるんだ(後略)−−「明日を明るく」より
・1973年、部落解放同名が突如展開したマスコミ大糾弾がきっかけとなり、翌年、精神障害者団体が「きちがい」という言葉を排除する運動を起こした。この運動はエスカレートし、カーキチや音キチもだめ、ついには「狂」の字もダメと言い出すようになった。そのほか、阪神タイガース・ファンを指すトラキチや、漫画「釣りキチ三平」もダメだとされている。
・1972年(昭和47)以降、「四つ」という言葉が教科書から削除されたことがある。それは、昔、被差別部落の人々が「ヨツ」という隠語で呼ばれていたことがあるためだ。彼らは、四つ足の動物の皮を扱う仕事に従事していることが多く、そう差別的に呼ぶ者がいたのである。……某市役所の職員たちは、被差別部落の人たちが陳情に来ると「四つのお願いが来た」と言っていたという。呆れた酷い話である。
・乞食という言葉は、マスコミの放送禁止用語ではCランクとされている。つまり「注意して使う」ということ。それほど厳しくはないのだが、これが「河原乞食」となると、いきなりAランクとなってしまう。以前には「私は所詮、河原乞食ですから」などと自ら話す芸能人もいたものだが、同和団体の抗議によりすっかり廃れた。
・現在では、どのメディアも単に「北朝鮮」とするようになった。それはいったい、いつからなのか。筆者は2002年(平成14)10月15日、北朝鮮拉致被害者5人が帰国した日が、その境目であったと考える。それから数年、あれほど制限していた「単独での北朝鮮」表現が、当然のように許可されている。これは快挙なのか? いや、ほんの数年前までは、北朝鮮からの抗議を恐れて「朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)」としていたマスコミの手のひら返しに、ただ驚くばかりだ。

こういったネタ繰りは、枝葉末節のことで、本書を貫くのは表現の自由を妨げるさまざまな問題への疑義と批判である。
特に言葉狩りに見られる機械的な処理への不満と怒りはMorris.も全く同感である。
以前同じようなテーマの森達也の「放送禁止歌」を読んで感心したが、本書はそれに勝るとも劣らない好著であると思う。
殺人を犯し、歌手生命を剥奪された克己しげるや、戦中戦後を通じてさまざまな禁忌に触れた作詞家川内康範への直接取材、流行歌規制の歴史、歴代歌手の事件簿、NHKの偏向・矛盾した規制の概要と批判なども、貴重な記録といえるだろう。


09006

【不許可写真】草森紳一 ★★☆ 初出は「20世紀の記憶 毎日新聞秘蔵 不許可写真1.2.」で98年と99年発行だが、本書は草森の文章を中心に文春新書の形で再版したものらしい。

見てはいけないもの。見せてはならないもの。不許可の烙印を押された禍々しい写真を次々と紹介しながら、卓越した自由な精神で、不自由な時代の残像を読みとった破天荒な試み。

というのが、カバー袖にある惹句である。
いくら惹句がセールストークと言っても、これはどうも的外れに過ぎるぞ。
まずは「不許可の烙印を押された禍々しい写真を次々と紹介」だが、本書が160数ページの新書という体裁ということもあって収録写真は35枚ほどである。フィルム1本分あるかないかの量は「次々と紹介」というほどでもないし、「禍々しい写真」となると、その1/3もない。別に禍々しい写真を見たいってわけじゃないのだが、兵隊が行進したり、慰問団のダンサーの写真や、歩哨のシルエットや、戦車の内部の写真等々、のとりたてて恐怖感を与えることもない写真も「戦争に関連してる」ということだけで全てを「禍々しい」と強弁してるのだろうか?
次は「卓越した自由な精神」というのも、本書を読む限りでは納得できにくいし、「破天荒な試み」というのは、「呆れる、無謀な、とんでもない」といった意味なら同調するところありだが、いちおう褒め言葉として使ってるのだろうから、原義の「これまで誰もやったことの無い」とか「未曾有の」という意味なら、Morris.はこれにも疑問を呈せざるを得ない。
草森はずっと以前に「ナンセンスの練習」「江戸のデザイン」「日本ナンセンス画志」などを読んで大いに畏敬していたのだが、5年ほど前に「本が崩れる」というエッセイを読んで、えらくつまらないのを書くんだなと思ってそれきりになってた。
しかし、驚いたのは著者略歴の欄に「2008年3月没」とあったことだ。1930年生まれだから享年七十。早世とも言えないが、この人は若い頃から老成しているような雰囲気があった。


09005

【魔女の盟約】大沢在昌 ★★★☆ 去年読んだ「魔女の笑窪」の続編である。前作はかなりおそまつだった記憶があるので、あまり期待せずに読み始めたら、突然釜山が舞台になってて、それだけでも儲けものと思ってたら、途中から上海に飛び、100p頃から日本にもどってしまった。
あいかわらず、ヒロインを始め登場人物のリアリティがないし、台詞でストーリーを説明しようという趣向のためか、敵対者同士の会話でもお互いによくしゃべること(^_^;) 騙しあいや、駆け引きの中でこれだけ手の内を公開し合うというのはあまりにも嘘くさい。またそういった登場人物のくだくだしい解説を今度は作者が滔々と述べるあたり、小説以前かもしれない。
ただ国家を超えた民族のコネクションによる国際的犯罪組織というアイディアはそれなりに面白かった。

「ソビエト連邦が崩壊し、東西陣営をへだてていた壁がなくなってからのヨーロッパは、民族のモザイクが顕在化し、紛争が頻発しました。それはどういうことか。祖国よりも民族のほうが、自分のアイデンティティとして重要であると気づいたんです。中国が改革解放経済を掲げ、同じことが起きうる可能性が高くなりました。中国は民族のモザイク国家です。アジア全域に、中国に住むのと同じ何種類もの民族が散らばっている。漢族はもちろんのこと、中国では少数に属する朝鮮族ですら、北朝鮮、韓国、日本と散らばっているわけです。紛争後、ヨーロッパで力をつけたのは国家ではなく犯罪組織でした。武器、売春、戦争による荒廃が呼びこむのです。これらの犯罪組織が機能するために役立ったのは、民族によるネットワークです。グルジア、チェチェンといった民族マフィアがヨーロッパ全域をカバーするネットワークを作りあげ、旧来のたとえばシチリアマフィアなどを凌駕する勢いです。こうした民族マフィアのネットワークが、アジアにおいても出現する可能性を、密かに我々は恐れていました。民族マフィアの摘発は、一国家警察では不可能だからです」

「民族マフィアは、ただの犯罪者集団ではなく、その活動に経済行為を含みます。白、黒の線引きが困難で、経済活動を通し、国家の根幹にクサビを打ちこむ。そうなってからでは壊滅が不可能であることは、ヨーロッパの現状が証明しています。かりに自国内の民族だけでもおさえこもうとすれば、海外の、その民族を国民の多くに抱える国家から、弾圧だとして強烈な反発を招く」

「民族マフィアが台頭する理由は、その民族に対する、差別や弾圧です。優秀な人間が、特定の民族であるがゆえに、正業に就けなかったり、組織の中枢から弾きだされる。ルサンチマンの共有が、反社会的な行動を激化させるのです。たとえば、中国における朝鮮族や日本における在日韓国・朝鮮人の立場と、韓国における韓国人の立場はまるで異なります。朝鮮族や在日韓国・朝鮮人は、数の上で上回る土着民族の脅威を常に感じている。犯罪社会でそれに対抗するなら、同じ脅威を共有する者との共闘をまず考えます。」


09004

【Rの家】打海文三 ★★★☆☆☆ 4冊目の(Morris.にとって)彼の作品だが、凄い、凄い。
17歳の少年リョウが海沿いの不思議な複合住宅「Rの家」で、家出していた伯父と風俗業の従妹と暮らす中で十数年前に自殺したはずの母の秘密を解いていく。少年の父の愛人や、知恵遅れで色情狂的別の従妹、伯父が少年時に田舎で知り合った訳ありの姉弟などが絡み、ミステリーとしても楽しめるストーリーになっているが、メインテーマは、セックスである。エロチックな小説というわけではない(でないというわけでもないが)。セックスをその本質、社会的、精神的な面にまでわたって掘り下げ、ユニークな論を登場人物を通して開陳している。
Morris.はそこに痺れてしまった。評点の大部分はそこに依拠している。小説としてはやや荒削りだったり、無理や杜撰なところ無きにしも非ずだが、それを圧倒する面白さを感じたのも著者のセックスを軸にした様々な「論」だったと思う。

「世界はとっくに解読されてるのよ」と李花は言った。「にもかかわらず、ばかげた物語が大量に垂れ流されて、世界のありのままの姿を隠そうとする。心の闇っていうのは、物語がそれを隠してきたから、闇として存在するわけでしょ。もともとそれは闇でもなんでもないのに、作家と精神分析医がそれについて語りつづけている。ヒトゲノムは解読できるようになったけど、人の心の闇はまた解き明かされていない、と世間に信じ込ませようとしている。隠して、それについて特権的に語るんだから、一種のマッチポンプね。詐欺同然よ。どの新聞でもいいから、ある日の朝刊を端から端までざっと眼をとおしさえすれば、人類がこれまでどれほどの陰惨な殺人をくり返してきたのか、世界の終末までえんえんと殺人をくり返していくにちがいないってことが、誰だって理解できるのに」
「李花の言うとおり」ぼくは言った。
「世界は解読されている。せめてそのことは認めようじゃないの。でも出口はどこにもない」李花は言った。


失恋をきっかけに風俗嬢を始めた従妹のセリフだが、もちろんこれは打海自身の見解だろう。「出口なし」というとMorris.の年代なら、若い時期にブームになった「実存主義者」サルトルの著作を思い出す。と、いってもMorris.も当時読んだはずだが、その中身はすでに記憶の途方も無い彼方である。

「Rの家のことでいろいろもめているうちに、順子さんの心境に変化が起きたような気がするんですけど」ぼくは言った。
「心境の変化ってなんだ」
「人間の孤独についての深い感情のようなもの」
伯父さんはうなずいた。「人は誰でも孤独のうちに死ぬ覚悟で生きねばならない」
「議論の余地はありません」
「単純な事実だ」
「でも人はなかなか認めようとはしません」
伯父さんは人差し指を自分の即頭部に突き立てた。
「そいつの頭がおかしい」
「孤独を認めたことが、順子さんを失踪計画へと駆り立てたという面はありませんか」
伯父さんは僕の眼をじっと見た。
「あると思う」
「李花が言ったことがあります。リョウがいる。あたしがいる。リョウとあたしを隔てる絶対的なものを認めるのは、すごく淋しいことだって」
「人間が孤独な存在であることを認めると、どんな感情が生まれるか。それは淋しさにつうじる感情なのか?」
明らかに否定文だった。
「ふつうは淋しいと感じるんじゃないでしょうか。だから人は人とつながろうとする」ぼくは数えあげた。「飲む、おしゃべりをする。セックスをする。裏切られる。愛する。憎む。傷つける。懺悔する。なにかを必死で隠そうとする」
「旗をかかげ、隊列を組んで、行軍する」伯父さんは、行軍の果てが地獄のシベリア抑留であるかのように言った。
「うっとうしくなっちゃいますね」
伯父さんは微笑んだ。「だが、人間関係をぶん投げてしまうのはむずかしい」
「むずかしいと思います」
「暴力的な行為が必要になる」
「切断」とぼくは言った。
「切断だ」と伯父さんは言った。「愛の名で語られるもののいっさいを、問答無用で切断するんだ。結果としてきみを傷つけなければならなかった。それだけがあの女の心残りだろう。だが切断した。人間の孤独をまともに見すえることで、その勇気をえた。そして見事に姿を消した」
「自殺したんですよ」ぼくは言った。


アナーキズムだね、これは。しかし、これは打海の本音ではないような気がする。

「あれ(映画『プラトーン』を指す、Morris.注)は、ベトナム戦争についての、アメリカによる、アメリカのための自己説明だ」
「おっしゃる意味が理解できません」
イエローは言葉を補う。
「あの戦争で僕たちはこんなふうに傷つきました、とアメリカ国民を代表して全世界に宣言してる。能天気な映画だ」
「どこが能天気なんですか」
「アメリカの癒しが唯一の目的だからだ。傷つけられたベトナムは、製作者の関心の外にある」
「わたしは娯楽映画として愉しめましたけど」
「アメリカの自己説明は、いつだってエンターティンメントなんだ。そこが実に恐れ入る。ハリウッドのユダヤ人の底無しの欲望を感じる。彼らは神の存在を一度も信じたことがないんじゃないかと思う時がある」


打海作品の特徴として作中に実在の書物や映画や音楽などの名前を出して辛辣な批評を加えたり、賞賛したりしていて、そこもMorris.の好みでもあるのだが、この「プラトーン」への揶揄はちょっと甘いんじゃないかい。
他にも「My Way」や「昴」を歌う「大人」への批判も同様で、ややステレオタイプだな。

「書くという行為は不思議な現象をもたらすものだとつくづく思う。記憶になかったセリフがふいに鮮明によみがえる。そのとき意識になかった事実をいまここで発見する。視線の先の窓ガラスは青く染まっている。アパートの部屋のなかに夜明けの気配が強まりつつある。俺はペンを握り直す。再び書きつづける」

これは伯父が創作した物語の中間部に挟まれた一文だが、もちろん打海の小説作法の一端を述べているのだろう。記憶になかったセリフ、意識になかった事実などという、思わせぶりな表現は結局は「読者騙し」でしかないんだろうな(^_^;)

「妻の調達にはルールがある。お見合いもあるが、現代では恋愛が基本だ。ルールにもとづいた交渉期間を経て、売買が成立する。契約書にサインする。そのときちょっとした儀式がある」
「結婚式」
父さんはうなずいた。「男と女は来賓各位をまえに永遠の愛を誓う。新郎は自己のペニスを新婦のヴァギナに、新婦は自己のヴァギナを新郎のペニスに、永遠に、限定的にしようするものでありますと、男と女は厳かに宣言する」
ぼくは笑った。「ワイセツに聞こえる」
「ワイセツさこそ、結婚における愛の誓いの本質だ」父さんはやけに力をこめた。

「結婚と売春はワンセットで男に女を供給するシステムだ。ペニスの自由を、右手で禁じて、左手で赦すんだ。完璧に合理的なシステムだ。年齢を制限して合法化すべきだと思うがな。どう考えたってあれは労働だよ。選挙権といっしょに売春権も与える。それでいいんじゃないのか」
「李花が父さんの娘だったら、どう思うかってことだけど」
ネックの部分から顔を出して、父さんは言った。
「娘の売春は赦さないさ。妻の場合もしかり。絶対禁止だ。売春権を与えてもいいのは家族以外の女だ。あたりまえじゃないか。妻と娘の売春を認めたら、さっきの話と同じように、結婚にもとづく家族制度は崩壊する。この世の秩序は崩壊する。つまり男支配の世界が崩壊する。美由起が夢見る千年王国が到来する。そして男は漂流をはじめる」
父さんは髪を手で撫でつけると、鏡へ向けてなんだかうれしそうに微笑んだ。ぼくたちは玄関へ向かった。スニーカーに足を入れて、ぼくは訊いた。
「そうなったら、この世界はどうなるの?」
「美由起はみとめたがらないが、女は男によってかろうじてこの世につなぎとめられれる。したがって男が漂流すれば、女も漂流をはじめる。アナーキーがいっさいを支配する。それを言うと、美由起は怒るんだ。女を恫喝するつもりかって」
順子さんがロビンソンの家と名づけた理由がわかったような気がした。玄関を出た。ドアが閉まり、オートロックがかかった。エレベーターが1階に着くまで、ぼくたちは無言だった。エントランスホールを横切っているときに父さんが言った。
「恋愛も罠かもしれない、という議論を順子としたことがある」
「罠」ぼくは李花を思った。彼女も罠にはまったと言っている。「どういう議論なの?」
「社会は結婚と家族という制度によって女を保護している現実がある。なぜそういうことをするかと言えば、制度的に女を保護することによって、子供を生ませようってわけだ。男と女が結婚して家族を形成する。子供をしつけ、教育投資をして、一人前の労働力に仕立て上げて就職させる。この再生産のプロセスを充実させることが、社会の要請となる。つまり結婚と家族という制度がなければこの社会は崩壊する」
「崩壊する」ぼくは言った。


ここらあたりが、Morris.が本書のメインテーマだと思ってしまったのだが、写しながら読み直したら、これも打海の独創とは言い難いな。それでも、小説の中でこういった論の展開があると、ついゾクゾクしてしまうのがMorris.の性癖なのである。

タイトルにもなってる「Rの家」はもともと「ロビンソンの家」だったらしい。かなり本書の中で重要な役割を負っているし、前読んだ作品にも、壁に窓のない家が持ち主の深い思惑によって造られたりして、そのこと細かな描写や、複雑な構成からして、建築への関心と知識は生半可なものではなさそうだ。
先に引用したように「Rの家」は「ロビンソンの家」すなわち「漂流者の家」の謂らしいが、Morris.は「Rの家」というと、クレーの作品「R荘」を思い出す。

回り道が最短コースSt.Kは夜明けまでにたどり着くだらうかR荘に 歌集『雅歌』

本書は作品との出来としてはやはり「ハルビン・カフェ」を超えることはできないが、充分読みでのある一冊だった。こうなると、恐怖の三部作(全6冊、おまけに未完(^_^;))も読まずばなるまい(^_^;)


09003

【1970年代記】畑中純 ★★★ 「まんだら屋の良太」でお馴染みの漫画家畑中純の20代の自伝漫画ということになるだろうか。きっちり一年ごとに章を立てて欄外にはその年の流行歌、映画、事件などの註もある。ほぼMorris.と同世代だけに、そのまま20代にワープしたような感じで楽しませてもらった。
1950年小倉生まれ、68年に上京して漫画家を目指しながら、鳶や鉄工所で働き、なかなか芽が出ず、79年から連載始めた「まんだら屋の良太」がヒット。
カートゥーン(一駒漫画)で立とうとしながら、趨勢には勝てずストーリー漫画へ転進したようだが、現在でも木版画作品を精力的に発表しているのも、カートゥーンの名残かもしれない。
74年の自費出版「それでも僕らは走っている」、76年「月夜」、77年「田園通信」、78年「みみづく通信」そして79年の「まんだら屋の良太」の一部が収録されている。これはこれでなかなか興味深かった。

よく作家は定年が無くっていい、などといわれたりしますが、とんでもない、どの世界の人も平等に、感覚の鈍化を体力の限界を感じて自分で退くか、依頼が無くなって引退させられるか、どちらかの形で晩年を迎えます。ごく希に生涯現役の人もいますが、どの社会でも希なことですし、死ぬまで成長などあり得ないことです。永遠の進化、なんてのは自己が周りがウソをついているのです。作家は二十代に登場し、四十歳代表作を作り、後は余力、バリエーションですね。長生きというのは、衰退を長らく晒すということでもあり、残酷な面もありますが、笑い飛ばして暮らしましょう。現象と戦うとか逃げるとか、対し方は色々あるでしょうが、楽しむという対応が一番強いようです。衰えを愛でる。負けを味わう。無用を笑う。
繰り返しますが、どんどん上手になるぞ、と意気込んだ二十代から、あっという間に、思い通りの線がひけずイラ立つ五十代。著書は百五十冊を超えているはずで、四人の子供たちは大人になった。猫は八匹になった。体重は25kg増えて駅の階段にも恐怖している始末です。


あとがきにこうあるが、ちょっと身につまされるコメントである。
10年ほど前に、印刷屋やってた小倉の友人が「みみづくの会」というファンクラブ作ってMorris.もいつの間にか会員にさせられ、会員バッジと会報も貰ってたのだが、いつの間にか消滅してしまった。
「まんだら屋の良太」は3/4くらい持ってて愛読したものだが、「愚か者の楽園」以来新作読んでなかったので、この年代記の続編を期待したい。


09002

【下妻物語 完】嶽本野ばら ★★★☆ 「ヤンキーちゃんとロリータちゃんと殺人事件」と副題にある。映画化された前作が面白かったので、つい借りてしまったがやっぱり面白かった。
副題にあるとおりバスの中で起きたヤクザ殺人事件に二人が巻き込まれるのだが、これもネタばらしすれば、有名なミステリのぱくりというオチだし、ほかはほとんど対照的な二人のやり取り、大ボケヤンキー娘イチゴとロリータ中毒少女桃子の極端コンビぶりを楽しむ場面しかない。まあ、Morris.はこういうの嫌いじゃないからついつい楽しませてもらったが、小説としてはすかすかだし、150pで充分語り終えるストーリーを倍以上に膨らましてる分だけだれるところもあるが、これがファイナルというのがちょっともったいないと思ってしまった。
BABY,THE STARS SHINE BRIGHTという1行の半分くらい占有するロリータ娘御用達のメーカー名が百回以上出て来るから、これだけで5p以上稼いでるし、舗亜ブランドやメーカー名も同じくらい出てくる。
戯作に目鯨立てることもないと思われそうだが、戯作こそ実は骨法をきちんと押さえておく必要がある。野ばらに言わせるとマンガ、あるいはマンザイなのだ、と開き直るかもしれないけどね。
語り手が桃子だけに、ロリータ講釈がやたら多くなるが、それはそのまま著者の嗜好だからしかたがない。
ロリータ娘の台詞の文体見本。

「お洋服の世界は、パクりまくって成立しているパクり王国だもの。例えばVivienne Westwoodは、新ロココとも呼ばれる十九世紀に流行したクリノリンをパクってミニクリニって、素敵なスカートを発表して世間をあっといわせたし、お尻がぽこんと突き出したようなシルエットのバッスルスカートだって、十七世紀末にリバイバルで登場したモードをパクったものなの。Vivienne Westwoodは、パクりの達人よ。ロココ時代の画家、プーシェの絵やフラゴナールの絵をそのままプリントして使っちゃうんだから。でも可愛いから赦されるの。私の大好きなBABY,THE STARS SHINE BRIGHTだってね、そのメゾン名はエヴリィシング・バット・ザ・ガールというアーティストのアルバムのタイトルをそのままパクったものだし、メゾンの名前で言えば、Jane Marpleも、アガサ・クリスティが書いた推理小説の中に出てくるおばあちゃんの探偵、ミス・マープルの本名をそのまま拝借したもの。さらにいうならJane Marpleは、ブランド名だけど、会社としての名前は、St.mary meadっていうの。これって、ミス・マープルが棲んでいる村の名前なのよ。お洋服の世界は、パクりが常識。何をどうやってパクるかでセンスが問われるの。反対にバッタものは敵。だってVivienne Westwoodのバッタものが出回ると、Vivienne Westwoodは売り上げが落ちて、困るでしょ」


09001

【お茶のある暮らし】谷本陽蔵 ★★☆ 去年後半から部屋で日本茶よく飲むようになったので、タイトルに惹かれて借りてきた。
著者は昭和4年(1929)堺市生まれで茶舗「つぼ市」の社長で、世界のお茶の産地を回って、茶の研究家としても著書があるらしい。
本書はお茶の良さ、お茶の木の種類、風習、歴史、美味しい茶の入れ方、選び方などを暮らしとのかかわりを通じてエッセイ風に綴ったものらしい。

荒茶とは、農家で製造した加工されない前の粗製茶をいう。つまり製品になる前の原料茶のことを玄人筋は荒茶と呼んでいる。そんな荒茶から粉を取り除いたり、お茶に混じっている白い茎や葉軸を選別して、見た目には美しくしたお茶が煎茶と呼ばれる仕上げ茶なのである。ついでに玉露製の荒茶から出た白い茎や軸は、俗に雁ヶ音(白折れともいう)と呼んでいる。純玉露の雁ヶ音は量的にも少なく、お茶通の間で珍重されるほど勝ちのあるものだ。

雁ヶ音が茎茶だということは知ってたが、玉露の茎で「白折れ」と呼ぶとは知らなかった。以前アシナガさんから頂いた島根のお茶にも「玉露白折」と書いてあったが、確かにあれは茎茶系だった。
美味しい緑茶の入れ方は、Morris.が以前ネットで調べた方法とそれほど変わらない。
基本は茶の葉は少し多め、一度沸騰したお湯を茶碗か湯冷ましで少し冷ましてから急須につぎ、お湯は茶碗の分だけにして急須に残さないようにするというところか。

お茶の賞味期限は、開封後は夏なら半月以内、冬で一ヶ月が限度である。

そうか、Morris.亭の日本茶はもうそろそろ1ヶ月になりそうだ。やばいぞ。

1.都会の水道水に含まれている塩素イオン(カルキ)を取り除くためには水が沸点に達し、沸騰したからといって、すぐ日を止めることなく、せめて3,4分程度は煮沸させつづけること。
2.ビタミンCをとるためにも、深く味わうためにも、日常使っている茶葉の量を少し多めに使用するか、湯量を少なくして濃いめに煎出するようにしたい。
3.おいしくない都会の水に、よく合った香味のお茶を選ぶこと。それにはそういったことをよく考えて販売している熱心なお茶専門店を選ぶことである。

そもそもお茶は、いずれもカメリヤ・シネンシスという学名で呼ばれる同種のお茶の木なのだから、つくろうと思えば同じお茶の木から製法によって、緑茶類(不発酵茶)、中国ウーロン茶類(半発酵茶、または部分発酵茶)、紅茶(全発酵茶)の全てを作ることができるが、品種の適性によってそれぞれに使い分けられている。
中国では、茶葉に含まれているタンニンの酸化程度によって「緑茶」、「黄茶」、「黒茶」、「青茶」、「白茶」、「紅茶」の6種に分けられている。


思ったほどMorris.好みの内容ではなかったみたいだが、年の始めの1冊目が酒ならぬお茶の本というのは名目上だけでも、穏やかで(^_^;)良いということにしておこう。
お茶とは無関係だが、著者の故郷泉州堺の地名が、摂津、河内、和泉の三国にまたがる国境に発達したからというのは、全く気づかずにいたので面白かった。
千利休、武野紹鴎もこの堺の出身だというのが著者の自慢でもあるらしい。


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