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Morris.2018年読書控
Morris.は2018年にこんな本を読みました。読んだ逆順に並べています。
タイトル、著者名の後の星印は、Morris.独断による、評点です。 ★20点、☆5点
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【あの日、僕は旅に出た】蔵前仁一2018097
【カラ売り屋】黒木亮2018096 対話のために:「帝国の慰安婦」という問いをひらく浅野豊美2018095 【どアホノミクスの正体】佐高信+浜矩子2018094 【カステラ】パクミンギュ ヒョンジェフン、斎藤真理子訳2018093

【タイガー&ドラゴン】 宮藤官九郎2018092
【リスクは金なり】黒木亮2018091 これなら読める!くずし字・古文書入門】小林正博編2018090 【背中の地図】金時鐘詩集2018089
【シルクロードの滑走路】黒木亮 2018088 【冬の喝采】黒木亮2018087 【鯨】チョンミョングァン 斎藤真理子訳2018086   【敗北を抱きしめて : 第二次大戦後の日本人 上下】ジョン・W・ダワー2018085

【空海の風景】司馬遼太郎2018084
【SOSの猿】伊坂幸太郎2018083 【新憲法の誕生】古関彰一
2018082
【大衆音楽史】森正人2018081
【いい階段の写真集】BMC編 西岡潔写真2018080 【ときめくクラゲ図鑑】峯水亮写真・文2018079 【知恵の悲しみの時代】長田弘2018078 【ゴースト】中島京子2018077
【本を読む】安野光雅2018076 【戦争と検閲 : 石川達三を読み直す】河原理子2018075 【生きている兵隊】石川達三2018074 【方法序説】 デカルト 谷川多佳子訳2018073
【アレの名前大百科】みうらじゅん監修2018072 【虚栄 vanity】久坂部羊2018071 【本が好き】安野光雅2018070 【いま〈日本〉を考えるということ】木村草太編2018069
【BE KOBE】BE KOBEプロジェクト編2018068 【無縁声声(むえんせいせい) 日本資本主義残酷史】平井正治2018067 【日本中枢の狂謀】古賀茂明2018066 【荒地の恋】ねじめ正一2018065
【北村太郎の仕事:1 全詩】北村太郎2018064 【埋れた牙】堂場瞬一2018063 【續・食道楽 春之巻 夏之巻】村井弦斎2018062 【「親米」日本の誕生】 森正人2018061
【戦争と広告】森正人2018060 【戦争と広告】馬場マコト2018059 【チェ・ゲバラ】伊高浩昭2018058 【サーカスの夜に】小川糸2018057
【つるかめ助産院】小川糸2018056 【蝶々喃々】小川糸2018055 【食堂かたつむり】小川糸2018054 【私の昭和史】中村稔2018053
【私の昭和史 戦後編 上】中村稔 2018052 【私の昭和史 戦後編 下】中村稔2018051 【私の昭和史 完結篇上】中村稔2018050 【私の昭和史 完結篇下】中村稔2018049
【文学はなぜ必要か】古橋信孝2018048 【老乱】 久坂部羊2018047 【ノーサンガー・アビー】ジェーン・オースティン 2018046 【エマ】ジェイン・オースティ2018045
【マンスフィールド・パーク】ジェーン・オースティン2018044 【「自分の子どもが殺されても同じことが言えるのか」と叫ぶ人に訊きたい】森達也2018043 【利権鉱脈】松村美香2018042 【アフリカッ!】松村美2018041
【ラスト・バタリオン : 蒋介石と日本軍人たち】野嶋剛2018040 【日本問答】田中優子 松岡正剛2018039 パギやんの大阪案内ぐるっと一周趙博写真・文2018038 【朝鮮と日本に生きる 済州島から猪飼野へ】金時鐘2018037
【メディア・ディアスポラ】織田直幸2018036 【マッコルリの旅】鄭銀淑2018035 【韓国語から見えてくる日本語】松本隆2018034 【知識 knowledge】九島伸一2018033
【ㅂ(サイ)のものがたり : 白川静の絵本】金子都美絵 2018032 【漢和辞典に訊け!】円満字二郎2018031 【負けない力】橋本治2018030 【中学生棋士】谷川浩司2018029
【実とタネキャラクター図鑑】多田多恵子2018028 【ハナシはつきぬ!/笑酔亭梅寿謎解噺 5】田中啓文2018027 【1分間で経済学】ニーアル・キシテイニー 望月衛訳2018026 【原発プロパガンダ】本間龍2018025
【強父論】阿川佐和子2018024 【反日マンガの世界 】唐沢俊一2018023 【消されたマンガ】赤田祐一, ばるぼら 2018022 【クラウド・ナイン】服部真澄 2018021
【捨てる女】内澤旬子2018020 【ノボさん 小説正岡子規と夏目漱石】伊集院静20180s19 【ポーラースター☆ゲバラ覚醒】海堂尊2018018 【受難 cross】帚木蓬生2018017
【東京ブラックアウト】 若杉冽2018016 【リボン】小川糸2018015 【ことばと国家】田中克彦2018014
【エスペラント--異端の言語】田中克彦2018013
【俳人合点帖】中村裕2018012 【悪夢のサイクル】内橋克人2018011 とりあたまGo】西原理恵子・佐藤優2018010 【ダダ・シュルレアリスム新訳詩集】塚原史 後藤美和子編訳2018009
【かたづの!】中島京子2018008
【昭和の男】半藤一利 阿川佐和子2018007 【日本にとって沖縄とは何か】 新崎盛暉2018006 【国境 全1冊】しかたしん 2018005
【目で見る漢字】おかべたかし2018004 【狗賓童子の島】飯嶋和一
2018003

【大阪・鶴橋 キムチ食堂】ホンソンイク
2018002
【シルバー・デモクラシー】寺島実郎2018001






【あの日、僕は旅に出た】蔵前仁一 ★★★☆ 2013/07/12 幻冬舎 2018097
蔵前仁一 1956年鹿児島県生れ。作家・グラフィックデザイナー。慶應義塾大学法学部政治学科卒業後、80年代初頭からアジア・アフリカを中心に世界各地を旅行し始め、86年『ゴーゴー・インド』を出版。バックパッカーの教祖と呼ばれた。また95年には出版社、旅行人を設立し、個人旅行者のための雑誌「旅行人」の 発行人兼編集長となり(2011年休刊)、多数の旅行作家を輩出した。

中国の旅は長い旅の最初の国で慣れていなかったことと、旅することがかなりハードだったこ ともあって、それなりに忙しい旅だった。中国を抜けて、東南アジアからは旅がぐっと楽になり、旅のスピードががくんと遅くなった。それまでの人生で、なに もしないで一ヶ月過ごすなんてことは、病気で入院しない限りなかったことだが、タイの島ではただ毎日、きれいな海と夕日を眺めて時間を過ごすことが快楽に なった。
僕はのちに、そのときどきの都合で長い旅も短い旅もいろいろやってきた。そして、長くても短くても旅は旅と、いったり書いたりした。それは嘘ではないが、しかし、長い旅と短い旅は根本的に異なったものだ。
一年以上の旅は帰国することを考えなくていい、感覚としては無期限の旅である。行きたいと思ったときに好きな場所へ行ける。好きな場所に好きなだけいられ る。それが一ヶ月くらいだと、最初の空港に降り立った途端に、帰国の日程を考えて旅程を組み立てなければならない。この差はかなり大きい。

著者にとって一ヶ月の旅は「短い旅」になるのか。と、すると、Morris.の韓国の旅はすべて「短い旅」ということになる(^_^;)

インディラ・ガンジー暗殺(1984/10/31)のあと、12月になってマディア・プラデーシュ州の州都ボーパールで、アメリカ企業ユニオン・カーバイド社の工場で事故が起き、有毒ガスが街に流出した。これによって2万5000人の市民が亡くなるという大惨事となった。

こんな事故が起こっていたのか(@_@)

僕はこの旅の最後の列車で、ラジカセやカメラが入ったバッグを盗まれた。ラジカセもバッグ も惜しくはないが、カメラに入っていた撮影ずみのフィルムと、これまでの旅程を記録した旅日記一冊が一緒に持ち去られたのは痛かった。フィルム一本の写真 はたった36枚だ。デジタルカメラが普及した今では36枚など一日分の枚数にも及ばないが、当時は高価なポジフィルムを使用していたので、フィルム一本で 二ヶ月分はあった。だからそのフィルムに収められていた当時の南インドの写真はない。
カメラや旅日記を盗まれたときは絶望的な気分に陥り、盗んだインド人に呪いの言葉と罵倒をあびせたものだが、もし、盗まれなかったら、本を書く重要なきっかけとなったことは確かだ。なにが幸いするか、人生ってのは本当にわからない。(第二章 アジアへ)


フィルムカメラの時代、本当にあの頃は写真を撮ることは特別な感じがあった。Morris.はそのころから、コンパクトカメラしか使わなかったが、それでもあの頃の写真には思い入れ深いものがある。カメラを盗まれると、たしかに脱力感に襲われる(経験あり(^_^;))

この世界をリアリティを持って感じられることが、僕にとって切実な要求だった。僕は中国大 陸の東側に浮かぶ島国の一員に過ぎない。一歩、外へ足を踏み出すと、僕の知らない世界が果てしもなく広がっている。それを見ずして、どうやって人生を過ご せというのか。有名になどならなくてもけっこう。世界を見たい、リアルに感じたい。それだけが僕の願いだった。
そして、旅は無限におもしろく、どこまでも自由だった。
だから、僕はまた旅に出た。


Morris.もこれに似た思いがあった。それこそ、一年の半分バイトして、あとの半年はせかいのあちこちを旅したい、なんて本気で思ったこともある。そ れがなぜか、韓国一辺倒になってしまったのか。もしかしたら、1993年2月の初めてのタイ旅行(これも韓国旅行の間に、往復)で、バンコク到着翌日に交 通事故(バイクにはね飛ばされた)にあって、肩を痛めほとんど左腕動かせないまま、苦しい旅になったのが、トラウマになったのかもしれない。

『トルコのもう一つの顔』(小島剛一 中公新書、1991)小島氏は1970年に初めてトルコを訪れてから幾度も旅をするようになる。自転車の旅だ。最初のうちは、僕と同じように行く先々で人々から親切にされ、「天国を自転車旅行したらこんなに楽しい気分になるだろうか」などと思ったりする。
トルコ政府は、トルコにはトルコ人以外の民族はいない、トルコ語以外の言語を話す人はいないと表明していた。しかし、小島氏がトルコの旅をしていくうち に、トルコ政府がそんざいしないと表明しているトルコ民族以外の人々と各地で出会う。彼らは自分たちの言語を話すことを禁じられており、実は少数民族は徹 底的に弾圧されていたことを知る。それを調査するだけで官憲に捕まってしまうのである。小島氏はその危険を覚悟の上で、観光客を装ってトルコ各地をまわり 少数民族の言語を調査する。この本に描かれていたのは、僕のような旅行者からは決して見えてこないトルコの現実であった。


海外に赴く人の中には、この小島氏のように確固とした目的意識を持っている人達が存在する。そして、Morris.は、筆者と同じく、彼らのような度はとてもできないと思う。

88年、「遊星通信」という名前のミニコミを創刊した。B5版、12頁。発行部数はわずか50部である。
こんなものをつくったきっかけは他愛のないことで、当時ようやく一般に出まわり始めていたパソコン(NEC PC=49801VX)を買ったのは、活字を印字できるからである。
僕は大学時代に漫画倶楽部に所属していて、勉強もせずに漫画ばかり描いていたアホ学生だったが、そのころからミニコミをよくつくっていた。いわゆる「三号同人誌」と呼ばれるミニコミを、創刊しては二号、三号でつぶしていた。(第四章 「遊星通信」の時代)

Morris.も1987年にCASIOのワープロ買ったのをきっかけに「サンボ通信」というミニコミを作った。悪筆のMorris.にとって、とにかく、ちゃんと人さまに読んでもらえる誌面を自分で作ることが出来るというそのことに感激していた。

旅行人に深く関わった執筆者の一人として、前川健一さんの名前をあげないわけにはいかな い。彼は88年に『東南アジアの日常茶飯』を出して注目を浴び、90年の『バンコクの好奇心』のヒットで東南アジア、とりわけタイの庶民文化を紹介したこ とで知られている。同じころ、下川裕治さんの『12万円で世界を歩く』(1990)が人気を博し、前川さん、下川さんと僕が「パックパッカー作家の御三 家」といわれたこともある。(第五章「旅行人」の時代)

蔵前、前川、下川の三人の本はMorris.も愛読していた。93年にタイに行ったのも、この3人に影響されたことは間違いない。特に前川健一のタイの本は、芸術的ですらあって、行ったことのないMorris.は、すっかり蠱惑されてしまった。

兄が経営を引き受けていたころは、銀行から借金もしていた。黒字だと銀行はどんどん融資す るのだ。僕は兄に、そんなに借金して大丈夫なのかと尋ねたことがある。兄は、売上から考えると、この程度の借金はまったく問題はないし、普通の会社では借 金はあって当たり前、財産のうちだという。
そういう感覚が僕にはまったく理解できなかった。借りた金があると落ち着かない。金を借りてまでなにかをすることはなく、手持ちの金でできることしかしな いのだ。たぶん多くの人は僕と同じ感覚だろう。しかし、それはあくまで個人の金銭感覚で、会社の経営感覚ではないのだ。そういうことがまったく欠如してい る僕には、会社の経営感覚ではないのだ。そういうことがまったく欠如している僕には、会社の経営などできるはずもなかった。だから、兄がいなくなった旅行 人は、遅かれ早かれ縮小するしかなかったのである。


それでも「旅行人」は1988年から2011年まで13年にわたって165号まで出している。質量ともに比較にならないが、Morris.のサンボ通信は、98年の40号で終わってしまった。

僕が患った「インド病」とはいったいなんだったのだろう。あれほど苦しんだ「病気」が、旅に出た途端に癒えてしまったのだ。
あれは自分の中の秩序の崩壊だったと僕は思っている。
インドに行くまで、僕は自分なりの秩序をまもって生きてきた。自分の常識の中で判断し、行動していた。もちろんそれは当然のことで、誰もがそのようにして生きている。
それがインドで壊れて、激しい混乱を来たしたのだ。
いかに日常的で些細なことであっても、自分が正しいと信じてきたことが、まったく異なった世界に入ると混乱する。物事を判断する尺度を変えなくてはならない。価値観の変更を迫られる。それは自由自在にできることではないから途方にくれるのだ。
そこで僕は、世界には絶対に正しいことなどないことを知る。日本が戦争に負けて、敗戦の次の日から大人のいうことが、180度変わったことに衝撃を受け、 その後の生き方も変わったという話をよく聞くが、それと似ているかもしれない。こちらで正しいことが、向こうでも正しいとは限らないし、そのどちらもがま ちがっているともいえない。世界は多様であり、それぞれの地域でそれぞれの言語を話し、別の考え方をし、異なる食べ物を食べている。それが人間の世界なの だ。(第六章 転機)


インドへのぼんやりした憧れはずっと以前にはあったものの、今のMorris.には、とても行けそうにない。
そういえば、広島のふくはらさんは、バックパッカー時代? には「旅行人」に寄稿したり、個人的に蔵前さんと会ったりもしてたらしい。
Morris.は旅行人にはなれなかったようだ。
【カラ売り屋】黒木亮 ★★★ 2013/06/15 幻冬舎文庫く-16-7 初出2009年講談社文庫 2018096
「カラ売り屋」「村おこし屋」「エマージング屋」「再生屋」の中編4本立て。

「受験戦争を勝ち抜いて一流大学に入れば、中央官庁や大企業に入れて、一生幸せな生活を送れる。俺の両親はそういって、小学校から俺を塾に通わせた。ガキのころから俺は時間に追われるサラリーマンみたいだった。遊びたかったけど、両親には逆らえなかったし、人生ってそいういうものかと思ってた」
堀井は水割りのグラスを握りしめていた。
「だがな、俺が高ニになる少し前に、親父は片道切符で子会社に出された。今は小さな事務所で経理をやってるよ。へっ! 日本人はみんな騙されてるんだ。社会はピラミッドのような三角形になっていて、全員がそこを登っていく幻想を抱かされてる。一流大学を出て、一生懸命働いて、係長、課長、部長と出世して、やがて重役になる。だけどな、重役のポストっていうのは、限られてるんだ。重役になれなかった人たちはどこにいって、残りの一生をどう生きるのか。国民の目はそういうことから逸らされている。新聞でもテレビでも、出てくるのは社長や重役になった人たちばかりだ。落伍者のインタビューなんてない。だけどな、大多数の人間がどこかで落伍するんだ。そのとき初めて、社会のからくりに気付く。俺の親もそうだった。いい大学を出て大企業に入れば、一生楽に過ごせるなんて幻想だ。ましてやこれから経済がグローバル化して競争が激しくなれば、ますます早い時期にサラリーマンは選別されるんあ。そのとき誰も助けてくれない。……井上、騙されるなよ」


堀江貴文をモデルにしたのではないかと思われる登場人物のセリフ。教育ママの本音というのはたしかに堀井の言うように、いい目をするための親心なのだろう。そしてそれが、思い通りにいかないというのも当っていると思う。

やがて堀井は、傾いた会社を安値で買い、数千万円単位で保証協会つき融資を受けさせ、わざと倒産させて金を手に入れるようになった。堀井は「詐欺ではなく、あくまで事業をまじめにやろうとしたが、力及ばず倒産したというふうに偽装し、倒産前にどれだけ会社から金を抜くかがポイントだ」と嘯いていた。保証協会の債権回収の甘さを、最大限に利用する格好であった。

生き馬の目を抜くという言葉があるが、こういう真似はできないし、したくもないものである。

「村長は悪いことしたなんて、これっぽっちも思ってませんよ」
わたしの家に取材にきた新聞記者は、吐き捨てるようにいった。東京の大学を出て、全国紙の本社社会部に勤務したあと、豊前支局に転勤してきた若い記者だ。
「公共工事からかすめ取った金を、土建業者たちに配分するのが自分の仕事だとおもってますからね。村の工事の指名入札に参加する業者も時分で勝手に書き加えたりしてますし、感覚が完全にずれてるんですよ。吉田課長は、村長や石井、堀井たちにいわれるままに書類を作ったんでしょう」
わたしも同感だった。
「根本的な問題は、ああいう人物を村長に選ぶ馬鹿な村民と、税金で食っていくしかない村にじゃぶじゃぶ金をつける国の姿勢ですね」


過疎地町村の行政には同情すべき所大だが、こういった、悪しき運命共同体の宿痾もある。

わたしは堀井晃一と、下関の街を歩いていた。
「グリーンンモール」といいう名の、駅の東口から真っすぐ延びる商店街だった。
戦前に、筑豊などの炭鉱夫として連れてこられた朝鮮人や韓国人の子孫たちが住む商店街だ。韓国・朝鮮系の人たちのお祭りのために、年に何回か歩行者天国になる約800メートルの通りの両側に、二百軒余りの店が軒を連ねている。朝鮮の民族衣装、焼肉、ハングルのラベルの食料品、韓国家庭料理、韓国人向け免税店、コンビニ、喫茶店、遊技場、ホテル……。
「俺たちの高校にも、韓国の連中がいたよなあ。 俺は……異国の地で、裸一貫で頑張ってる彼らを見て、偉いと思ったよ」
堀井は遠くを見るような眼差しでいった。
昔は在日の人々に対する差別が強く、日本企業や役所には入りづらかった。彼らは商売を興して、金の力だけを頼りに成り上がっていった。
父親の「ピラミッド幻想」が崩れたとき、多感な高校生だった堀井の心にk,在日の人々の生きる姿が強く訴えたのかもしれない。(「村おこし屋」)


下関の朝鮮人の多い地域の描写が懐かしかった。関釜連絡船もあって、たしかに下関は独特の空気がある。
黒木の作品を読み始めたばかりだが、彼の作品は中編より、長編で本領発揮するものもののような気がする。本書はちょっと物足りなかったり、細かい数字の飛び交う交渉のやりとりの経過などが多すぎて、Morris.にはついていけないところもあった。


対話のために:「帝国の慰安婦」という問いをひらく浅野豊美, 小倉紀蔵, 西成彦編著 ★★★☆ 2017/05/15 クレイン 2018095

朴裕河『帝国の慰安婦』は2013年8月韓国で刊行され、翌201年8月日本語版(書き下ろし)が刊行されている。Morris.は2017年になって初めて読んで衝撃を受けた。

今にして思えば嘘のようだが、『帝国の慰安婦』は、その韓国語版の刊行(2013年8月)から約10ヶ月、韓国においても比較的好意的に受け入れられていた。ところが2014年6月の民事・刑事告訴、および仮処分申請があって以降……白か黒かの論争の具とされるにいたった。そうしたなか同書の日本語版(書き下ろし 2014年11月)が刊行されるや否や、同書を高く評価する論者やマスコミと、それを日本の「頽廃」の証左とみなす陣営とが真っ向から対立して、同書は、韓国においても、日本においても、「踏み絵」的なシンボルとされるに至った。朴さんの提起しておられる「協議体」の場にあっては、識者の一意見として他の意見と対等にぶつかりあうにすぎなかったはずの主張が、単体で「審判」の場へとひきずりだされることになったのである。
しかも、勧告での裁判と、日本を中心とする同書の評価をめぐる論争は、連動するかの様相を呈するところとなり、同書に対する「批判」は、そのまま「名誉毀損」を主張する原告側を援護するというシフトが出来上がってしまった。(まえがき)


『帝国の慰安婦』が「踏み絵」とされることは同書に対してある種の「危機感」を持つ人々が存在するということだろう。Morris.が読んだ限りでは学術的な啓蒙書であり、このような労作を偏見によって批判するのはともかく、裁判によって裁こうということこそ差別的人権侵害だと思う。

「帝国の時代の不正義」を国民史と結びつけ、国民史を起動させるために普遍的な価値を利用するのではなしに、「普遍的な価値」自体が時に国民的価値に組み込まれて利用されることを自覚しながら、国民史の死角となっていたジェンダーと階級に光を当てることで、女性、ひいては人間の尊厳を追求したものこそ、『帝国の慰安婦』の言説であると私は思う。(朝野豊美 普遍的価値の国民的価値からの独立と再融合への道)

「国民の死角となっていたジェンダーと階級」という考え方で『帝国の慰安婦』を読む視点はMorris.には欠けていたかもしれない。

朴裕河こそ挺身隊問題対策協議会が収録した慰安婦の声をコツコツと静かに聞き集め、いままで誰ひとりできなかった、帝国の組織の最末端の戦場というギリギリの場に集められた女性たちの人間としての声を拾い集めた人ではないか。
その朴裕河に「慰安婦の声」を聴く謙虚さがないと批判する人こそ、最も非情な場所から発せられた慰安婦の声を「政治的ステレオタイプ」で打ち消そうとしているのではないか。だからこそ、例え過去の歴史像からはみ出しても自らの鏡に見えてくるものに誠実でありたいと考える人たちを窒息させようとする人たちにとって、朴裕河は、刑事罰をもっても罰さなくてはいけない怪物に見えるのかもしれない。(東郷和彦 外交官の目で読む『帝国の慰安婦』)


「挺身隊問題対策協議会」という韓国の団体には、胡散臭さを禁じ得ないのだが、彼らが自分の主張を証拠立てるための当事者の聴き取り調査を、資料として記述した『帝国の慰安婦』を、非難する裏には、彼らが自分の主張に都合の良い部分しか取り上げなかったということだ。「慰安婦少女像」も生存している当事者のためというより、自分らの行動の「成果」の象徴だと思われる。

氏(朴裕河)は慰安婦の証言についてこれまで、「それを聞く者たちは、それぞれ聞きたいことだけを選びとってきた。それは、慰安婦問題を否定してきたひとでも、慰安婦たちを支援してきたひとたちでも、基本的には変わらない」「慰安婦たちの[記憶]を取捨選択してきた」と批判し、それをそのまま聞くべきであると述べている。(外村大 慰安婦をめぐる歴史研究を深めるために)

先の「挺身隊問題対策協議会」への批判である。

朴裕河はなぜ誹謗中傷の対象とされたのか。簡単にいって、彼女がヴァナキュラーとされた支配的な声に逆らい、ありえたかもしれぬalternative今ひとつの声を、膨大な元慰安婦証言集から引き出すという行為を行ったからだ。慰安婦物語の絶対性に固執する者たちの逆鱗に触れたのは、彼女のそうした身振りであった。
ひとつは慰安婦たちがかならずしも民族意識をもった韓国人として、日本軍に対し抵抗する主体ではなかったという指摘であり、もうひとつは、彼女たちを幼げで無垢可憐な少女として表彰することが、その悲惨にしてより屈辱的であった現実が巧妙に隠蔽されてしまうという指摘である。(四方田犬彦 より大きな俯瞰図のもとに 朴裕河を弁護する)


ヴァナキュラーって何ぢゃ?? 大辞林(Morris.の持ってるのは88年版)には見出しすら立ってなかった(>_<) ネットでしらべたら
vernacular ① 土着のもの。その土地に関わりのあるもの。 ② (建築・工芸などの)民俗趣味。民芸調。お国柄。 ③ お国ことば。地方訛り。自国語。
四方田の論旨、特に少女像への反論には賛同するものの、なんでわざわざこういった横文字使うのかな(>_<)

『鼠坂』(森鴎外 1911)は、自身の日露戦争従軍体験を下敷きにした一種の「戦場小説」だが……私は、明治以降に日本が行った海外派兵が、どれだけの無法行為に手を染めたかをずばり告発した作品として、小品ではあるものの、この小説は後の『生きている兵隊』に並び称されてしかるべき、「戦時性暴力告発小説」の傑作だと考えている。
家父長制的なシステムは、男同士の共謀に基づいて女を搾取=利用し、悪用=虐待する。要するに『藪の中』は、たった一人で恥じ入るしかなかった女の悲劇である。
真に「恥じる」べきは誰なのか? にもかかわらず女に「恥」を背負わせることで、自分たちを免罪してきたのは誰か? アジア太平洋戦争の時期に、日本の軍人や軍属が行った恥ずべき「戦時性暴力」について考えるときに、まず立ち戻るべき原点はここであり、歴史認識は、「「加害国と被害国」という二項対立をこえて、「女と、女を苛み、かつ見殺しにする男」という民族国家的境界を横断する「男性中心主義」を問い直すことを通してこそ整序されるべきだろう。(西成彦 戦時性暴力とミソジニー 芥川龍之介『藪の中』を読む)


『帝国の慰安婦』と直接関係はないのだが、芥川の「藪の中」に潜む「男性中心主義」批判と、鴎外の「鼠坂」という作品には刮目させられた。「鼠坂」読んでみよう

朝鮮半島でも国民学校を通じて募集し、十二、三歳から、十四、五歳の少女を勤労挺身隊として富山や名古屋の工場で働かせた。これが韓国では「慰安婦」と混同され、少女の「強制連行神話」を生んだという。韓国の支援団体の名称が「挺身隊問題対策協議会」であるのはそのためだ。1990年代はじめには「慰安婦」と挺身隊」が別物であることは明らかになっていたが、神話はいまも生き続けているらしい。
朴裕河は「聖少女」としての少女像は「慰安婦」のリアリティを表さないという。そもそも朝鮮人「慰安婦」には二十歳過ぎの女性も結構いたし、「日本の服を着せられて日本人名を名乗らされて「日本人」を代替し」、「日本軍兵を愛し、……死に赴く日本軍を最後の民間人として見送」ったりもした。それが植民地挑戦の「慰安婦」というものだった。そこには「被害者で協力者という二重の構造」がある。それは「慰安婦」だけでなく植民地のすべての構成員が強いられた分裂状態だった。(加納実紀代 「帝国の慰安婦」と「帝国の母」と)


こうしたあたり前のことが、韓国人には理解できない、というか、知りたくないのだろうとしか思えない。

研究者の主体は政治的判断と無関係に別個に独立して存在する。世には意図的な名誉毀損があるし、低劣な文学作品がもたらす弱い者いじめに泣かされる場合もある。『帝国の慰安婦』がまったくそんな俗悪さから切れて、文学研究者の思いに発し、取り組まれ、ひいては韓国社会での学問と正義の在り方とを今後に占う、一箇の試金石になると私には考えられる。(藤井貞和 『からゆきさん』と『帝国の慰安婦』)

この藤井の受け止め方は、『帝国の慰安婦』の読後感と一致する。まあ、Morris.はこれほど整理された感想ではなかったけどね。

『帝国の慰安婦』で使用される「愛国」、「同士」、「売春」という用語は、「帝国」の支配抑圧の下、朝鮮人「慰安婦」が生き残るために、「抵抗」を諦め支配者の要求を受け入れ内面化する過程における心情と言動を表わすものである。これらの用語は朝鮮人「慰安婦」の被害性という前提を一見裏切るような印象を持つものであるからこそ、その抑圧の複雑さと人間心理への深い影響をかえって効果的に表現できるのではなかろうか。(熊谷奈緒子 朝鮮人「慰安婦」をめぐる支配権力構造)

朴裕河は当事者(慰安婦)を貶めようなどとは考えてもいない。植民地支配者におもねるような行為、態度が、必ずしも見せかけでなく「本心」になったとすれば、それこそ被害深さを、構造的に解明しようとしている。

『帝国の慰安婦』は、それと言挙げしていないが、ポストコロリアリズム--「脱植民地化」と訳される--の課題をつきつけた。
女性史にとっては、「歴史に女性のエイジェンシーを回復する」は必須の課題であった。
だが、エイジェンシーという概念は女性史に皮肉な効果をもたらした。それまでのように「構造」」に翻弄されるだけの受け身の「犠牲者史観」を覆すことになったからだ。たとえていうなら女性は家父長制の「植民地」のようなものだが、そのもとで個々の女性のエイジェンシーは、抵抗から反逆のみならず、協力から共犯までの多様性を見せたからだ。
沖縄の民間人死者たちは、日本によって「三度」殺された、と言ってもよい。一度目は実際の死によって、二度目は「自発性」を否定されることによって、そして三度目は「自発性」を捏造されることによって。そして忘れてはならないのは、いずれの「自発性」も、圧倒的な構造的暴力のもとで強制されたということだ。
わたしたちに問われるのは、犠牲者のエイジェンシーを無視することなく、だからといって加害者や加害の構造を免罪することのない、より複合的で複雑なアプローチなのである。
一冊の老僧的な書物が巻き起こした「事態」は、誰をも傍観者の位置に置かない。それ以前に「慰安婦」問題そのものが、日本人であれ韓国人であれ、誰をも「第三者」の位置に置くことを許さない。事態の硬直にも打破にも、わたしたちひとりひとり責任を負っている。その責任を他の誰よりも誠実に果たそうとした一冊の書物とその著者の置かれた立場そのものが、「脱植民地化」の困難さを語ってあまりある。(上野千鶴子 『帝国の慰安婦』のポストコロニアリズム)


「エイジェンシー」もMorris.の大辞林には載ってない(>_<) これもネットで調べたら
エージェンシー (agency) は、代理権・代理行為・代理業・代理機関などを意味し、エージェント (agent) は代理人の意である。
「代理行為」というのが、上野の言うところの「自発性」に重なるということで、「慰安婦」の「帝国」への自発的「帝国」への奉仕を論じているわけだし、沖縄の戦争被害者が複雑な構造的暴力に何度も晒されたことと、「慰安婦」の被害に通底するものが植民地としての被支配構造という分析も納得できるのだが、四方田と同じく、横文字症候群に鼻白んでしまう。

1922年に発掘された台湾軍の秘密文書には三人の(慰安婦)仲介業者の名前が記されている。そのうちの一人は屏東在住の日本女性、もうひとりは朝鮮人で日本名「豊川晃吉」朝鮮名任斗旭といい、「台湾慰安婦」によると任の戸籍には雇用・居留を含め43名の男女が登録されて女性38名のうち朝鮮出身者が21名、沖縄出身者が13名、日本本土出身者が4名である。これら全員が慰安婦であったという証拠はないが、この構成は異様といえよう。
本書を読み進めていくにあたって、民族やジェンダーがもたらす「原罪」が明らかになっていく。そして己の原罪に目をむけようとせず、特定の集団の過ちを責め立てる不誠実かつ傲慢な態度を裁く。『帝国の慰安婦』はあたかも日本が過去に犯した過ちに対して、「汝らのうち罪なき者、まず石を投げうて」と訴えているようである。(天江喜久 他山の石 台湾から『帝国の慰安婦』問題を考える)


被害者と加害者がはっきりしている場合より、両者の境界が曖昧だったり、絡み合ったりしている場合もある。また、加害者が加害を、被害者が被害をきちんと認識していないことも多い。

「朴裕河のいっていることは新しくない。だが韓国人が決していってはいけないことだ。それをいってしまった朴裕河は韓国社会で絶対に許されてはならない」という(「パンドラの匣型」)というものだ。これこそ、『帝国の慰安婦』をめぐる論争がきわめて感情的になっている真の理由であると思われる。
『帝国の慰安婦』はもちろん歴史書ではない。そして慰安婦の生を整合的に整序しようという欲望はこの本の叙述にはない。たが、そのことによってかえって、歴史の「おしくらまんじゅう」の姿を比較的リアルに浮かび上がらせているのではないだろうか。
わたしは、日本の朝鮮支配は、植民地支配だったというよりは「併合植民地支配」であったと考えている。併合という側面と植民地という側面を両方兼ね備えた特異な支配形態であったと考えるのである。
「併合植民地主義」において、統治の方法は著しく複雑かつ巧妙である。同化と異化の矛盾関係における同一化を企図しなくてはならないからである。そして支配される側の心理も極度に複雑化する。強引にそれを民族的本質なるもの(虚構である)に自己同一化しようとしても、なかなかうまくいかない。そもそもなにが自己で何が他者であるかがわからない。(小倉紀蔵 慰安婦問題における人間と歴史)


「それを言っちゃおしまいだよ」という寅さんのセリフみたいなことを、韓国人が言ってるらしい(^_^;) Morris.が『帝国の慰安婦』を読んだ時に最初に思ったのは、「著者が韓国人で女性であるから、書けた一冊かも知れない」ということだった。もし日本人がこれを書いたとしたら、反発確実だし、韓国人でも男性なら問題になりそうだ」と。ところが本書が問題になり、裁判にまで持っていかれ、さらに有罪を課せられたというのは、もう、理屈ではおさまらない韓国人気質なのだろうか。

日帝植民地時代をめぐる諸問題、たとえば「親日派」清算の問題、十分慰安婦の問題、独島問題などに関する韓国社会の数え切れないほどの非生産的な論争が、数十年間全く同じ回路を堂々巡りして、いつも強固な国民主体の再確認に帰結してしまうのは、加害/被害の問題を発話する場所、そしてそれを発話する主体がつねに「民族」「国家」だけに固定されているかぎり、必然なことです。一つだけ例を挙げてみましょうか。1992年の韓国挺身隊問題対策協議会の発足宣言文は、日本軍従軍慰安婦を「民族の娘」と呼んでいます。……ある国民国家の暴力の被害者をもう一つの国民国家の主体として召喚することで、その被害者の生と名誉を回復するというトートロジーが孕む矛盾、そしてその矛盾が引き起こしかねない被害者への別の抑制は、加害/被害の問題をひたすら民族-国家の層位にのみ固定させようとするナショナリズムの思考のなかでは、決して自覚されえないでしょう。(金哲 抵抗と絶望)

非生産的な論争がやめられないという悪循環。親日派=絶対悪といった、固定観念にとらわれている限り解決は永遠に来ないと思う。
本書は、様々な立場から『帝国の慰安婦』を討議するために作られたと、あるが、結局はほとんどが『帝国の慰安婦』を評価、擁護、正当化しようという態度のように見える。Morris.もこちらに組みする一人なのだが、それでも韓国の強固な固定観念を覆すことはおそろしく難しいことのように思われる。
【どアホノミクスの正体】佐高信+浜矩子 ★★★☆☆ 2016/12/20 講談社新書733-2C 2018094

たまには、こういうのを読んで鬱憤晴らししたくなる。

誇大妄想が時代錯誤と合体する。これほど恐ろしいことはない。この合体が完結すると、何が起こるか。次のようなフレーズが出現してくる。すなわち「強い日本を取り戻す」。そして「アメリカを再び偉大にする」。
今という現実のなかで、誇大妄想が成就することはない。明日という展望のなかで、結実することも決してない。だから、昔にあこがれる。強かった日本。偉大だったアメリカ。そして、そのあこがれの過去さえ、本当の過去ではない。妄念が生み出す偽りの過去である。(初めに 浜矩子)


安倍とトランプの御神酒徳利。まあトランプの方は、すり寄ってくるポチとしか思ってないだろうけど。

佐高 今はタカ派の富国強兵路線と竹中的な新自由主義がミックスしてしまった最悪の状態です。
もっとも毒性の高いブレンドになってしまっている。安倍みたいな人が出現すると、そこに悪知恵が利く有象無象がそれぞれの思惑を持って集まってくる。……出世志向や権力志向が非常に強い人たちが安倍的人間像の周りに集まる。世耕弘成なども含めて、彼らを新自由主義集団と総称していいと思いますが、新自由主義を突き詰めていくと実は全体主義になるのだと思います。新自由主義と新保守主義は表裏一体、一つのものの表裏です。強い者が勝てばいいと思っている人たちが、自分たちは強い者でありたい、強い者を結集して大日本帝国を構築したいという、偽りの自己本位的愛国で固まっていく。そこに、絶好の機会とばかりに下心集団が引き寄せられてくる。


新自由主義という名の弱肉強食の型見本になってしまった日本。一体全体主義(>_<)打破。

佐高 自分で責任を取らない奴ほど、自己責任を他人に求める。自分は自らの手を汚さなくていい地位にいて、責任を人に押しつける。
自己責任を取らないでいい立場に身を置く。その立場から人を糾弾し、人権を奪っていく。それが全体主義であり、これがファシズムの構造そのものですよね。
佐高 新自由主義とはつまり新統制主義であるということですよね。


責任を「感じる(これもウソだけど)」だけで何もしない、というのが安倍のスタンスである。

佐高 そして問題は労働組合ですよ。労働組合が派遣労働を黙認しているから、民進党もそこに焦点を当てられない。労働組合は時代を先んじて活動し無くてはならないのに、経団連よりも動きが鈍くなっている。
労働組合は労働運動をするために存在するのであって、労働運動の最大の目的は労働者の基本的人権を確立することですが、そういう感性を今の労働組合は持っていない。人権意識がないし、自分たちが労働運動の主体だと思っていないように見える。(第一章 アホノミクスは戦争国家をつくる政策である)


労組の凋落は、占領後期の「逆コース」に始まり、中曽根の国鉄民営化が大きな転機担ったと思う。大企業の労組は、給料値上請求団体みたいな存在になってしまい、今はそれさえ思うにまかせなくなっている。

公助とは、人間が持っている当然の権利が実現するためにあるシステムです。どんな弱者であろうと、いかに与太郎であろうと、いかに失敗した者であろうと、いかなる人もまともに生きる権利がある。それを保障するために公助があるという認識が定着しないといけません。そうでなければ、我々は16~17世紀の貧困法("Por Laus")からいまだ脱却できていないことになる。貧困法をつくった為政者の発想は、民衆にまさにお恵みをほどこすことによって、不平不満を言わせないてめに、社会保障的なるものを秩序維持のための方策として用いた。それは公助の発想とは異なります。貧困法の発想を超えた認識の次元に入らなければ、これからの公助の世界は成り立ちません。本当の社会変革はあり得ません。
国はお国のために役に立つ人間しか求めず、国民もそういう観点から自己評価をしてしまう。そういうところに公助というものをどう位置づけるかですね。安倍政権が明確に言ったのは、公助は頑張る人のためにある、自助能力のある人を支えるために公助があるのだという考え方です。これに対して私たちは、あらゆる弱者の根源的な生存を主張しなければならないと思っています。(第2章 貧困が抵抗に向かわず、独裁を支えてしまう理由)


生活保護=貧困法、という考え方が当たり前のようにまかり通っている限り、根本的解決はありえない。

言語の統一はファシズム体制が最初にやろうとすることです。独自の言語を人々から奪うということ、それと同じくらい、通貨統一にも合理性がないと言えるかもしれません。

「お金」そのものが幻想そのものである。

郷里は人、国家は装置ですよね。装置を愛せというのと、故郷を構成する人々を愛せというのは、全然意味が違う。それをあたかも同じことであるかのように、人をちょろまかそうとするのが権力の謀(はかりごと)といものです。(第四章 地域通貨が安倍ファシズムに反逆する)

愛国心という名のちょろまかし(^_^;)

佐高 アベノミクスにつきもののトリクルダウン理論だって、生産力が増せばいいという幻想の上に成り立っていますよね。
たしかにそうなんです。ただ、「トリクルダウン」という発想自体、そんなことを考えるのは金持ちたちの横暴、傲慢であるというところから出てきた言葉です。上のほうに点滴を垂らせば下まで行き渡るだろう、それがトリクルダウンだという言い方自体がおかしんです。この言葉は、「貧乏人はおこぼれが垂れてくるのを待っていろ」という発想自体を、差別的でとんでもないと批判するために生まれた。それを知っている人ならば、「トリクルダウンを狙おう」とか「トリクルダウンがあるから、大企業から手当てしましょう」などという言い方はしないはずです。こういうところにも本質的な勉強不足が露呈しています。


この「おこぼれちょうだい」的発想に関しては、暮しの手帖の花森安治が戯れ詩みたいな雑文でシニカルに批判してたのが印象に残っていた。もう一度読みたいと思いながら、見つけきれずにいる。

佐高 しかも彼らが次に言うことには「対案を出せ」です。批判する側に大安を要求して、批判に耳をかさないという態度をとる。
「対案を出せ」は議会制民主主義上のルール違反です。与党と野党が対等な位置づけで対案合戦をするのが議会ではない。提案をしなければいけないのは与党であって、野党はそれを精査・審査・評価する側です。明らかに野党は批判的審査員なんです。そんな基礎的なことがどうしてわからないのか。(第五章 マルクスの『資本論』は現代にも有効か)


野党は対案でなく批判、追求に徹底すべし。そのとおり。

佐高 今でも新自由主義者たちは規制緩和を主張しますが、彼らが狙っているのは「規則」緩和ですよね。これまで積み上げてきたルールを壊そうとしている。それも企業にとって有利にルールを変えようとしているんです。派遣社員を安く使い、消費者から購買力を奪い、経済の循環を破壊してしまう。彼らが打ち出す規制緩和のイメージに惑わされず、今ここで歯止めをかけないと生活への実害が延々と深々と続きます。
彼らの規制緩和を言い換えれば野蛮化ということです。それは彼らが「今の若者はハングリー精神がない」などと青年たちを叩くのとパラレルです。
彼らが構造改革という場合はだいたい規制緩和と同義ですが、この二つの言葉が出てくるときは、人権侵害していい状況をつくろうと言っているに等しい。(第六章 「反格差」「反貧困」思想とキリスト教)


外国人労働者に関する今国会の「移民法」は、派遣社員の国際化といえるだろう。

同一価値労働同一賃金は、その概念自体に問題はありません。ただ経団連が言っている同一価値労働は違う。それは、企業にとって同じ付加価値を生み出す労働が同一価値労働であり、それには同一賃金を払うとい言っているんです。企業にとってどう役に立つかという発想から、同一労働の価値を決めようとしている。労働者の権利をどう守っていくかという観点をもって当たり前なのがガバナンスですが、その肝腎なところが彼らの認識にはまったくない。彼らは、労働「者」を、労働「力」してしか見ていない。人間が不在なんです。
佐高 勤務評定的側面を持っているんですね。


これも「移民法」に通底する視点である。

佐高 それでは知識商人になってしまいますよね。知識の切り売りに過ぎない。知識は考えるための素材に過ぎないのに。
行間を読む能力、時代の本質的な危険を察知する能力、人の表情を見抜く能力、嘘を見破る能力……そういう生きた感性が弱くなっている。そいういう知的荒廃に、今のメディア環境のなかで若者たちは常にさらされていると思います。
佐高 同調圧力は我々の時代よりも強くなっているんですかね。
ものすごく強くなっていますね。


いまどきの若い者たちは--という否定的物言いは、大昔から繰り返されてきたが、今の日本の若者たちの多くはかなり悲惨な状況に置かれているようだ。

佐高 記者たちがパソコンのキーボードを打つ音だけが響いている。キーボードを見つめている場合じゃないでしょう。東電株主総会で話している人たちの表情や、株主が原発をやめましょうと提案したのを誰がどうやっって却下したか、それを見逃してはいけないときに。
総理大臣の記者会見なんかを見ていても、ICレコーダーで録っているはずなのに、なぜそこでキーボードを打ち込む必要があるのかといつも思う。文字化するのは後で音声を聞きながらやればいい。嘘をついたり、ビビったり、話している人の表情から読み取れることがあるのだから、記者たるもの、それを見ておくべきです。
佐高 皮肉を言えばね、新聞記者がこんな体たらくだから、私が言論人として食っていけるんだと思いましたよ。記者たちが体制にとってまったく脅威になっていない。


マスメディアの取材力の衰えは甚だしいものがある。記者クラブがある限り、是正の余地はないように思える。

佐高 そもそも安倍に二度も政権をとらせたのが間違いなんです。安倍ほど不出来な人間でも、第一次内閣の失敗を受けて、残念ながら学んでしまったところがある。第一次の官房長官が塩崎恭久で、第二次が菅義偉ですね。菅は安倍内閣の右派エリートのなかでは苦労人の部類で、叩き上げのゲッペルスみたいな人でしょう。この人選を見ても、安倍が悪知恵をつけたというか、耐性菌のようになってしまったことがわかる。(第七章 安倍晋三は大日本帝国会社の総帥か)

たしかに第二次安倍内閣になって、すごくたちが悪くなってることは間違いない。耐性菌(>_<)

佐高 クレーマーというものが悪いイメージを持たれていますが、それは企業から見た場合です。我々がクレーマーになるのは必要なことです。
むしろ、民主主義における市民は皆、クレーマーでなければいけないと思います。
佐高 クレーマーであることをやめてしまって、「分け前ちょうだい」という話になってしまった。それが安倍に見事に利用されている。


異議申し立てはせざるべからず、ぢゃ。

佐高 前に浜さんが言われた、労働者になり得ない存在の生存権を主張するというのは、大事な考え方だと思います。企業が「有用な人間」「有用な労働力」をあからさまに選別するようになった時代に、非正規労働者や、労働者になり得ない存在をも含めて、最下層で揺れ動く存在をどう包み込んだ「市民」がありうるのか。
それこそが今日の社会運動の心臓部ですよね。労働者にさえもなり得ない人々の生存権をどう守るのか。世界人権宣言はそこを謳っていると思うんです。生産に役に立つ者の権利だけを守るのではなくて、労働者にさえもなりえない人々を救済するため、その人たちの人権を守るために、社会保障制度や社会保険制度はさらに確立され続けなければいけない。そういう社会意識と社会運動があれば、ルンペン・プロレタリアートが権力に丸め込まれることにはならないだろうと思います。(第八章 アホノミクスをどう叩きのめすか)


「ルンペン・プロレタリアート」懐かしい言葉である(^_^;) ルンプロ。マルクスは次のように定義している。

なんで生計を立てているのかも、どんな素性の人間かもはっきりしない、おちぶれた放蕩者とか、ぐれて冒険的な生活を送っているブルジョアの子弟とかのほかに、浮浪人、兵隊くずれ、前科者、逃亡した漕役囚、ぺてん師、香具師、ラッツァローニ、すり、手品師、ばくち打ち、ぜげん、女郎屋の亭主、荷かつぎ人夫、文士、風琴ひき、くず屋、鋏とぎ屋、鋳かけ屋、こじき、要するに、はっきりしない、ばらばらになった、浮草のようにただよっている大衆、フランス人がラ・ボエムと呼んでいる連中。(カール・マルクス 『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』)

Morris.がこの言葉に親近感を覚えるのも、むべなるかな、である。

"どアホノミクス"の日本はさらに乱れ荒れ野化するだろ。そして私たちは少数派に追いやられるかと思われる。しかし、浜さんと私は「叫ぶ」ことをやめるつもりはない。私の好きな魯迅流に言えば、絶望の奥底で希望が生まれることを信じているからである。(おわりに 佐高信)

【カステラ】パクミンギュ ヒョンジェフン、斎藤真理子訳 ★★★ 2014/04/19 クレイン 2018093
パクミンギュ 1968年蔚山生れ。中央大学文芸創作学科創業後、さまざまな職業を経て、2003年に『地球英雄伝説』で文学トンネ新人作家賞受賞。続いて『三美スーパースターズの最後のファンクラブ』でハンギョレ文学賞受賞……2010年に「朝の門」で李箱文学賞受賞。

「カステラ」「ありがとう、さすがタヌキだね」「そうですか? キリンです」「どうしよう、マンボウじゃん」「あーんしてみて、ペリカンさん」「ヤクルトおばさん」「コリアン・スタンダーズ」「ダイオウイカの逆襲」「ヘッドロック」「甲乙考試院滞在記」(以上fホンジェフン訳) 「朝の門」(斎藤真理子訳)
の11篇が収められている。もともと『カステラ』という短編集には10篇で、おしまいの「朝の門」はボーナストラックみたいなもののようだ。

先日読んだ韓国長編小説『鯨』(チョンミョングァン 斎藤真理子訳)がすごく面白く、彼女が絶賛してた本書も読むことにしたのが、ちょっとMorris.には敷居が高かった。

・だって冷蔵の歴史は、腐敗との闘争だったのだから。

このギャグはなかなか笑わせる(^_^)

・冷蔵庫の普及は人類の暮らしを大きく変えた。……冷蔵庫は人類の健康的な生活の享受に大きく貢献し、冷蔵によって人類はようやく腐敗に打ち勝った。それは夢のような勝利だった。したがって、二十世紀を冷戦の時代とする見方には僕は与しない。二十世紀の人類が手に入れた最大の成果は他でもない、この、夢の冷蔵技術なのだ。そうだ、二十世紀は夢の冷蔵時代だったのだ。
著名な冷凍学者であるでセオドル・アングルは自らの著書『夢の冷蔵時代』でそう述べている。


この学者は作者の想像力の中の人物のようだ。

・中国人が全員で同時にジャンプしたら、地球が割れるってことだよ。
何だって? 僕の地球をどうするつもりなんだ? と思った瞬間、もう中国が冷蔵庫の中に入ってしまった。これが冷蔵庫にとっては致命的な入場だったことが、僕らにはすぐにわかった。十二億六千八百十万人の中で入りきれなかった二人がお店にやってきてわめき始めたからだ。慢慢的(マンマンデー)! 慢慢的(マンマンデー)! (「カステラ」)


最初の「カステラ」が一番印象的だったかな。でもタイトルは「冷蔵庫」にしてほしかった(^_^;)

・つまるところすべての人間は常習犯ではなかろうか。常習的に働き、常習的に飯を食い、常習的におカネを稼ぎ、常習的に遊び、常習的に人をいじめ、常習的に嘘をつき、常習的に勘違いし、常習的に人に会い、常習的に話し合い、常習的に会議を開き、常習的に教育を受け、常習的に頭・肩・膝・足・膝・足を痛め、常習的に寂しくなり、常習的にセックスをし、常習的に寝る。それから、常習的に、死ぬ。スンイル、全身で押せ、全身で! 僕は再び人々を押した。全身で、常習的に。(「そうですか? キリンです」)

ここらあたりはチョンミョングァンに通じるところがある。常習犯は韓国語でもそのまま상습범[常習犯](サンgスッポム)だ。
途中出てくる「常習的に頭・肩・膝・足・膝・足を痛め」というのは、韓国の童謡からの流用らしい。

・市場がすべてを解決する。
直接の知り合いではないが、僕はアダム・スミスと彼が残したいくつかの重要な文章を憶えている。彼の文章はことごとく完結で力強いが、その中でも特に僕はこの一文が好きだった。市場がすべてを解決する。経済学の父が残したこの優れた一文をそらんじるたび、僕はいつも一羽のドードー鳥のように安らかな気持ちになる。(「ヤクルトおばさん」)


アダム・スミスは架空の人物ではない(^_^;) あの「国富論」の古典経済学者である。彼の「市場至上論」(^_^;)は、経済は市場にまかせておけばなんとかなるものだと誤解されているようだが、Morris.は「市場(いちば)がすべてを解決する」とうけとめたい。特に韓国の伝統市場(^_^;)

・ああもう、ああもう、やめてちょうだい 女の心は葦なのよ だめよ だめよ 聞かないで(韓国の女性トロット歌手チャン・ユンジョンのデビュー曲「オモナ」の歌詞。トロットとは、大衆歌曲のジャンルで日本の演歌に類似したメロディーを持ち、韓国演歌とも呼ばれる)。(「コリアン・スタンダーズ」)

チャンユンジョンのデビュー曲が登場すると言うだけで嬉しくなってしまう。それにしてもすごい訳詞である(@_@)

・十年という歳月が過ぎた。なんだかんだで、死んだ人もいれば死んだ考試院(考試(コシ)とは本来は試験のことであるが、一般的には「行政高等考試」「外務高等考試」を示す語彙として使われる。「考試院(コシウォン)」とは本来さまざまな国家試験などに備える受験者向けの住居施設であったが、現在は安い家賃のため一般の入居者が大半を占めている)もあるだろう。(甲乙考試院滞在記」)

コシウォンは、最近のMorris.のソウルでの宿として定着している。去年も泊まったテハンノの「ゲストハウスともだち」も、モクトンの「ゲストハウスやすらぎ」ももともとコシウォンだった。テハンノのともだちから、先日メールが来て、「シムコンgハウス」と、改名、高速Wi-Fiと各部屋にシャワー設置したとのこと。今年は行けなかったから(;;) 来年訪れるのを楽しみにしたい。


【タイガー&ドラゴン】 宮藤官九郎 ★★★☆ 2005/06/25 角川書店 2005年4月15日-6月24日 TBSテレビで放映 2018092
宮藤官九郎 '70年7月19日、宮城県生れ。21歳で大人計画に参加。「ウーマンリブ」シリーズの作演出、パンクコントバンド「グループ魂」構成とギター担当。
TVドラマ「池袋ウエストゲートパーク「ロケット・ボーイ」「木更津キャッツアイ」「ぼうの魔法使い」「マンハッタンラブストーリー」「タイガー&ドラゴン」
映画「GO]「ピンボン」「木更津キャッツアイ-日本シリーズ」「ドラッグストアガール」「アイデン&ティティ」「69 sixty nine」「ゼブラーマン」……

Morris.は基本的にTVドラマは見ないのだが、「あまちゃん」の大ヒットにはついついはまってしまい、これで宮藤官九郎を初めて知った。当然「タイガー&ドラゴン」は一度もテレビで見ていない。
落語家が登場するドラマで、各回ごとに古典落語を下敷きにしている。本書ではその落語も収録してあり、ながいこと落語から遠ざかってたMorris.には懐かしかった。

「芝浜」「饅頭こわい」「茶の湯」「権助提灯」「厩火事」「明烏」「猫の皿」「出来心」「粗忽長屋」「品川心中」「子別れ(太字はMorris.周知のもの)

主要キャスト
山崎虎児*長瀬智也
谷中竜二*岡田准一
メグミ*伊東美咲
銀次郎*塚本高史
リサ*蒼井優
谷中小百合*銀粉蝶
林家亭どん太*阿部サダヲ
組長*笑福亭鶴瓶
林家亭どん兵衛*西田敏行
他に客演として高田文夫、森下愛子、清水ミチコ、薬師丸ひろ子など


脚本読む時この主要キャストを当てはめるとわかりやすかった。キャスティングの妙というか、ドラマの醍醐味って半分はこれに負ってるんだろうな。

オープニングテーマ*「タイガー&ドラゴン」クレイジーケンバンドというのにはちょっと驚いた。この曲は前から知ってて、大西ユカリちゃんもよく歌ってたのだが、このドラマのテーマ曲だったのかあ。たしかにタイトルそのままだけどね(^_^;)
落語とドラマの融合というか、アレンジの力技もなかなかのもので、結構楽しめた。また時々彼の脚本読んでみよう。


【リスクは金なり】黒木亮 ★★★ 2011/07/15 講談社文庫 2018091
雑誌新聞などに掲載されたエッセイやコラムを集めたもの。

経験から掴み取ったサバイバル交渉術世界標準八ヶ条。これらは隠し技でも何でもなく、海外では常識というべきものです。
1.自分に他の選択肢があるかどうか、相手がどんな選択肢を持っているか
事前に(そして交渉中にも)積極的に動いて選択肢を増やしておくこと。日本では「天秤にかける」というと否定的な響きがありますが、世界では四つや五つの天秤を駆使するのは常識なのです。
2.「板張りの壁」(往々にして組織内の人間関係)を探せ
日本の組織では現場を知らない幹部や、組織の利益を勝ち取るより保身やごますり、あるいはミスをしないことを優先する人間が数多くいて、皆がバラバラの方向を向いています。つまり「板張りの壁」だらけです。
3.「空爆」と「側面攻撃」に注意
投資銀行出身のアメリカの財務長官に電話されて、保身第一の幹部がへなへなとなる日本の財務省の交渉を見ていると、ほとんどがこの「空爆」と「側面攻撃」でやられているように思います。
4.内部を固める
組織の幹部は意味のない事前のコミットを内外にすべきではありません。交渉に勝つか負けるかは、相手との戦いより、どれだけ自分の側を固められるかで決まるケースが多い。
5.相手は大きく出てくるもの
ある品物を五の値段で取引したいと思えば、買い手はまずニといい、売り手は七といって交渉は始まります。
6.リスクは早めに分散
7.対女性では側面攻撃が有効
8.交渉決裂での開き直りは徹底的に

交渉術とは魔術でも奇術でもありません。相手の望みをよく理解し、自分の希望をきちんと伝え、互いに納得できる結論を導き出すという真摯な共同作業を行うための技術です。それはまた「八の力しかない者が十の力の者と戦う技術であり、十の力のある者が三の力しかない者に負けないための技術」です。たとえていえば、ボクシングの基礎のようなものだと思います。(「プレジデント」2002)


交渉というのは、Morris.の苦手なものの一つである。できることなら交渉なしですましたいといったタイプなのだと思う。黒木はこれを仕事でやってたわけだし、それなりの成果をあげてきたのだから、Morris.とは反対のタイプなのだろう。
まあ、日常生活でも、市場での買い物などは一種の交渉事でもあるのだろうから、いわゆる駆け引きめいたことは覚えておいて損はないだろうと思うものの、こればかりはなかなかむずかしそうだ。

現在は、執筆の傍ら週に一度語学学校でロシア語を勉強している。当初「趣味だから、勉強は一日30分だけにしよう」とやっていたら、ちっとも上達しないので、「これではいかん」と自分にネジを巻いているところだ。やはり外国語は真剣に接している時間に比例して上達するというのが実感だ。(「プレジデント」2005)

黒木は、学生時代は陸上部で、箱根駅伝にも二度出たくらいだから、体育会系だし、その頃からリンガフォンで英語学習は怠りなかったというから、本質的に努力家なのは間違いない。社会人になってからドイツ語、アラビア語、ベトナム語を学び、作家専業になっても、ロシア語に挑戦というのもすごい。「外国語は真剣に接している時間に比例して上達する」というのは、Morris.には耳の痛い言葉でもある(^_^;)

黒木さんの小説は食事のシーンが多いですね、とよくいわれる。これには理由があって、外国に行ってその国を実感できるのは、食事、音楽、言葉、文字などに接したときなので、ある土地を描写しようとすると自然とこれらを書くことになる。(「MONEY JAPAN 2005)

Morris.も食事の場面の多い小説は嫌いでない。いや、好きな方である。

かつて経済企画庁で働いていた人は、官庁が発表する統計数字が政治的に操作されていると公然と本に書いている。最近中央官庁を辞職した友人は「統計の誤りの長期隠蔽に、我慢の限界に達した」とメールを送ってきた。(「フジサンケイビジネスアイ」2004)

官庁の統計のごまかしどころか、今やデータ消去、書き換え、改竄までが普通に行われているらしい(>_<)

英国の国会議員の選挙では、候補者一人当たりが選挙費用として使えるのは150万円くらいに制限されている。日本では選挙に数千万円(人によっては何億円)という金がかかる。それゆえに、選挙で使った金を取り返そうと、政治が腐敗するのである。これは選挙に莫大な費用がかかるアメリカも同じだ。
英国で政治腐敗が少ないのには、もう一つ理由がある。それは国会議員が行政に介入できない仕組みにあんっていることだ。
日本では公共事業やODA(政府開発援助)を計画・実施する役人を政治家が呼びつけて、さまざまな要求をするのが日常化している。選挙民もまた、公共事業や補助金を地元に持ってきてくれる議員が良い議員であると思っている。しかし、英国では役人が自分の所属官庁の大臣や副大臣以外の国会議員に接触することは禁じられている。政治の介入を排除して、より国家的、客観的な立場で政策を計画・実施するためである。(「フジサンケイビジネスアイ」2004)


たしかにイギリスに学ぶところはいろいろありそうだ。国会議員と役人の接触は、日本の場合当たり前というか、それが一番の仕事になってる観すらある。

日本人が海外で最も親しくなりやすいのが、韓国人とトルコ人だ。三民族ともルーツを中央アジアに発し、言葉の文法もほぼ同じで、単語を覚えて日本語の要領で並べれば通じる。情に厚く、家族や長幼の序を重んじることも共通している。
その一方、ビジネスにおいて、日本人が常に最悪を想定するのに対し、韓国人とトルコ人は最良を想定して話をする。わたしなどはトルコ人と長年仕事をしたので、この辺は調整しながら話を聞く。(「日刊ゲンダイ」2004)

この三つの国のルーツが中央アジアというのは、そのまま肯定できないところもあるが、トルコ語も日本語と同じ語順というのは初めて知った。ビジネスに限らず、最悪とまでは言わずともかなり抑制的なところがあるのはMorris.も日本的ということなのか。

日本で驚き呆れるのはグラスワインの量である。ほとんどの店がグラスの底に3cm(50~60cc)くらい注いで平然としている。思わず「これがグラスワインか!」と怒鳴りたくなる。香港でもパリでもベトナムでもグラスワインはグラスにたっぷり注ぐ。英国では度量衡法で「グラスワインは175cc」と定められており、パブなどの壁にその旨表示されている。日本でもこういう大事なことはきちんと立法化してほしいものである。(「日刊ゲンダイ」2004)

「こういう大事なこと」(^_^)/も知らずにいた。Morris.はワイン党ではないし、ワインバーなどとも無縁だからいいようなものだが、50ccと175ccではあまりに違いすぎるぅぅ(@_@)

わたしは国際経済小説ファンである。大学時代から城山三郎さんの『輸出』『生命なき街』、深田祐介さんの『神鷲(ガルーダ)商人』『革命商人』、堀田善衛さんの『19階日本横丁』など、海外で仕事をする日本人企業戦士の話が特に好きで熱心に読んできた。
国際経済小説は、経済や人間ドラマだけでなく、まるで現地でその国の匂いを嗅いでいる気分にさせてくれる、最も手っ取り早い海外旅行だ。
バブル崩壊後、日本ではあまり国際経済小説が書かれなくなった。日本人が内向きになり、国内の問題により関心が移ったからだといわれる。国際経済小説ファンとしては、しばらく寂しい思いをさせられ、やがて仕方なく時分で書き始めた。(「日刊ゲンダイ 2004)


そうそう、Morris.が黒木作品を読み続けたくなったのも、手軽な海外旅行を楽しめそうな気がしたからだった(^_^;)

これなら読める!くずし字・古文書入門】小林正博編 ★★★☆☆ 2018/01/26 潮新書014 2018090

前から石碑や古い本のくずし字読めたらいいなと思い、ちょっと前にも江戸時代の「女大学」の百人一首を使って自習を試みたのだがなかなかモノにならなかった。
本書は明治初期の児童のための文字教育のテキスト「小學入門」「単語綴字入門」「連語圖解」「小學連語圖」「童蒙初學」の5冊の本文を見開きの右頁に載せ、左頁に大きめの活字で対照させている。これは実に見やすくていい。
最初の「小學入門」は、ひらがなの一覧で、イロハ順と五十音順の両方けいさいされていて、いわゆる「変体仮名」の主なものがすぐわかるようになっている。とりあえず変体仮名の元になった漢字を把握するだけでもすごく便利である。一覧表を作ってみた。(せっかくなので角川の『書道字典』付録の「假名字典」に掲載されてた漢字も追加したら、倍以上になった(^_^;))

安阿悪愛
以伊意移
有宇乎雲憂
江衣盈要縁
於億隠

加可閑
我賀
   荷歟鹿何 歌哥

幾起支喜木
   期豈來  

久九具倶求供
計希个介遣氣家
古己故許期呉子
左佐散斜乍作      沙差
之志新四事子使
寸春數壽爪 
世勢聲
曽楚處所蘇

太多堂當唾對
知遅地千致智治
川都徒津
天亭轉帝傳低手
止登東度徒砥戸
奈那難名菜嚢南
仁耳尓爾二兒丹

奴努怒 
祢年子熱禰
乃能農濃野

波者盤八半葉頗
    婆破芳

比飛悲日避火備妣不婦布風
部偏遍弊倍
保本奉寶報

末万満麻漫馬
美三見身微薇
武無舞牟无
女免面馬目

毛母裳茂蒙

也屋耶夜
由遊喩湯
与代與余欲
良羅落等
利里理李離
留流類累畱
禮麗料列連
呂路露婁樓盧

和王倭
為井遺
恵衛慧
遠越尾緒
乎悪


2冊めの「単語綴字圖」は絵入り単語で、碁盤の目のように区切ったマス目に絵と文字が並べられている。これは簡単である。
3冊目「連語圖解」は文章の中に絵を配している。江戸時代の絵暦みたいなもので、長谷川町子が、絵入りエッセイという形で時々流用していた。これも見て楽しいもの。
4冊目と5冊目は絵はなくなり文字だけ。つまり簡単なものから少しずつステップアップしていくわけだ。そういう意味でもなかなか良くできている。
ただ、取り上げられている文章の内容は、明治時代の道徳臭が強く、富国強兵、教育勅語に通じるようで、ついつい反発してしまった。

「父母の天にかハりて我を指令するの権あるは天道と国法とにおいてこれをさためたるによりわれこれを尊敬せさるへからす 父母あやまちあるとも個はその意に逆ふへからすよろしく尊敬の意をうしなふことなくいくたひもしつかにこれを諫むべし」(童蒙初學」子供の心得)

「昼夜合せて二十四時一時わ即ち六十分(ミニウド)とハ六十秒(せこんど)積りて終に一ヶ月十二集めて一ヶ年日数ハ三百六十五日人間僅か五十年稚き時に怠らは老て悔るも又甲斐そなき」(童蒙初學」太陽暦のこと)

これは、古くからの太陰暦より太陽暦の方が優れていることを強調してるのだが、外来語が出てくるところは面白かった。
ついでに太陰暦の解説があってそのなかで、「旧暦では三十日(大の月)か二十九日(小の月)のどちらかなので、三十一日、二十八日、二十九日などはありません。また19年に7回十三ヶ月の年があり、これを十九年七閏法といいます」とあったのは、わかりやすかった。

【背中の地図】金時鐘詩集 ★★★☆ 2018/04/30 河出書房新社 2018089
「猪飼野詩集」でMorris.を魅了した詩人、金時鐘の最新詩集だが、これは東日本大震災、特に福島原発事故への鎮魂と怒りの詩集である。

ノアの洪水を思わせた東日本大震災の地、東北・三陸海岸は、日本列島を形づくっている本州の背中に当たるところのように私には思える。振り返っても自分では見えない、運命の符丁が貼り付いているかのような背面だ。(序詞)


東北を日本の背中に見立てて、かえりみても見ることが出来ない苛立たしさがタイトルのゆえんでもあるようだ。

突如「基準値内」が跳ね上がり
1ミリシーベルトの年被爆限度が
20倍上げても帰還は可能だと
ついに風も逆さに吹いて吹かれてゆくのか
遠くで望むしかない愛着は浮き雲と流れ
夢がまさぐる夢のように
そこらで生きて
消えた。(「不在」)


実に恣意的な安全基準の引き上げ。放射線が目に見えないのをいいことに、さも無かったことにしてすまそうとする中央政権の驕りと無神経さ。

福島はとうにさいわいなる島の福島ではない
奥州街道の宿駅のはずが
もはや関所だ。
思惑の絡んだ原子力のエゴが塀を張り巡らせ
あたりを払ってわたくしたちの内面にしぶきが烟る。
除染という
はなからきめられていた虚構の始動である。(「網」)


「除染」が虚構であり、死んだ土は蘇らない。

震災地とつながる思い入れの言葉としてもてはやされた「絆」の掛け声も、もはや身の周りからは耳にすることがない。福島第一原発の建屋爆発すらもはや過ぎ去った記憶となって、原発再稼働は既定の事実のように進んでいる。(「渇く」によせて)

しょせんはそこらのナズナの花でもあったのだろう、
つながっていたつもりのキヅナの人々。(「エレジーの周り」)


あの大災害の後に、濫用された「絆」という言葉に、Morris.はどうしても馴染めなかった。絆とか癒やしというのは、言葉にすることによって変質してしまったような気がする。

そのようにも装うてすごしてきたのだ。
命を賭した英霊の賜物という
己れの嘘のまぎれもない擬態を。
明かせば自由は
利得に絡む損失であった。
破綻した原子力発電にまで利得を重ねてゆくような
取りついた中流意識が生き甲斐ともなっていまったのだ。(「馴染んで吹かれて」)


戦争など無かったことのように装い、戦後の経済至上主義が、あの原発事故のあとにしらっと再稼働に踏み切る基盤となっていること。

根源的な造化の元である自然を脅かすことは
慎みなく神の領域に踏み入ることだ。
目先の利得に高度経済の成否を託すとは
なんという思い上がりを私たちは受け入れてきたことか。
今に地が鳴り、海がまたも逆巻いて
囲って安全な青い火の街を浚うだろう。(「風の余韻」)


このようにストレートな表現は、震災以前にはしなかった。それだけの覚悟があるにちがいない。

いかな大震災だって、自然災害は郷土までは奪いつくせない。人はやがて居つくのである。ところが原発破綻となるもうその地域に人は居なくなる。隣り合っては過ごせないのなら、それは端からそこに在ってはならないものだ。ゆめゆめ原発の青い火に未来があってはならない。
ひとりあがいてでも福島の原発破綻にはこだわりつづけなければと、年が暮れるたび、新年が明けるたび、その都度自分に引き戻してくるように向き合う言葉をつらねてきた。いつもと同じ地点で思い返しては地団駄踏んでいる私の、結局は繰り言のくり返しだったような気もしないではなくて、なんとなくうしろめたくなる私である。
見渡せば今、世界は「原子力」の問題に収束していっている観がつよくある。昨年7月、核兵器禁止条約が国連で採択されたが、安倍政権はその交渉にすらさんかしなかったし、ノーベル平和賞を受賞した「核兵器廃絶国際キャンペーン」(ICAN)の事務局長来日の折にも、安倍首相は会おうともしなかった。そればかりかこの2月、トランプ大統領は非核攻撃への報復にも核を使うことがあり得るとして、「核戦略見直し」(NPR)を発表したが、「高く評価する」と全的賛同を表明したのは、唯一被爆国である日本の河野太郎外務大臣であった。原子力発電を推し進めているのは現政権と、政権与党のこれらの人々である。(あとがき)


原子力発電を推し進めているのは新原子力ムラ、そして、福島原発被害者以外の全てではないかと思えてきた。Morris.も同情や非難するだけで、実は、加害者の一人なのだ。

【シルクロードの滑走路】黒木亮
★★★☆☆ 2005/06/10 文芸春秋 初出「別冊文藝春秋」254-257号(2004-05) 2018088
先日自伝的作品「冬の喝采」で、ちょっと関心の高まった著者の小説を初めて読むことにした。
ロシア駐在の日本人商社マンが、中央アジアのキルギスに航空機を売り込む話だが、実にリアルで面白かった。チェコ人の同僚やトルコ人ブローカー(実はクルド人)にからむ、民族の悲劇みたいなサイドストーリーが印象的だった。主要登場人物三人の紹介。

・小川智……東洋物産モスクワ駐在員事務所機械部マネージャー。32歳
・パベル・ズデニェク……チェコ人、小川の同僚。37歳
・ヤシャールオルグン……トルコ人ブローカー。59歳

哀切に満ちたメロディーは、大正時代以降にジンタッタ、ジンタッタという音楽を演奏しながら、芝居小屋やサーカスの呼び込み、商品の宣伝のために街を練り歩いた吹奏楽隊「ジンタ」が定番にした曲だった。正式な名称は「天然の美」。
「コリョサラムだ」
老人を見てズデニェクがいった。
「旧ソ連各地に住む朝鮮人だ」
朝鮮語で「コリョ」は高麗、「サラム」は人間を意味する。朝鮮史上初の統一国家である高麗(918-1392)は朝鮮の別名でもある。
「彼らは国を持たないユーラシアの流浪の民族だ。世界には三つの朝鮮が存在するんだ」
三つの朝鮮とは、韓国、北朝鮮、そして地図に表れない朝鮮である。中国に二百万人、米国に百五十万人、日本に七十万人、そして旧ソ連諸国にいる四十七万人が三つ目の朝鮮を作っている。
朝鮮王朝末期の1810年頃から凶作、飢饉、農民反乱などで、多くの朝鮮人がロシア極東の沿海州に流入し始めた。その流れは1860年頃に挑戦北部を襲った飢饉で一気に加速する。彼らは沿海州で主に農業を営みながら暮らしていた。その後1924年にレーニンに代わってスターリンが権力を握ると、ソ連全土に粛清と弾圧の恐怖政治が敷かれた。その矛先はアルメニア人、チェチェン人、ドイツ人といったソ連国内の少数民族にも向けられ、沿海州の朝鮮人たちも例外ではなかった。
そして1935年から37年にかけて強制移住の命令が発せられたのである。
十七、八万人の朝鮮人たちが家畜のように列車に押し込めれ、一ヶ月間かけて数千キロ離れた中央アジアに送り込まれた。彼らはいきなり砂漠や葦原、沼地などに放り出され、自分たちがどこにいるのか、何を食べて生きていけばいいのかもわからなかった。人々は穴倉を掘り、笹で屋根を編んで、その中で二、三十人が一緒に動物のように暮らした。
コリョサラムたちは農具など一切ない中で、素手で雑草を抜き、丘を崩し、土地を耕し、持参した野菜や稲の苗を植えた。同胞の屍を乗り越え、毎日十五、六時間の労働に耐え、農業を軌道に乗せた。ただ「恨み(ハン)」の一念で生き抜いたのである。
やがて彼らは集団農場(コルホーズ)で指導的役割を担うようになり、旧ソ連内にいる百二十余の民族の中で最も模範的と称されるようになった。ソ連で「労働英雄勲章」を受けた千二百人のうち実に七百五十任がコリョサラムである。しかし、彼らは朝鮮語教育を禁じられ、朝鮮語の本を焼かれ、強制移住の事実を語ることも許されなかった。
現在、こうしたコリョサラムたちはキルギスタン、ウズベキスタン、カザフスタン、トルクメニスタンなどに散らばって住んでいる。


キルギスの首都ビシュケクの街角での、朝鮮系の老アコーディオン弾きとの出会いのシーンだが、まさか、ここで朝鮮人の話題が出てくるのは意外だった。巻末の参考文献にある「追放の高麗人」(姜信子 新泉社 2003)に触発(ほとんど流用)されたもののようだ。それにしてもスターリンというのは、とんでもない奴であるヽ(`Д´)ノ

「1991年に中央アジア各国が独立した前後から、地元の人間が農場を取り上げるようになった。コリョサラムたちは小作人にされ、収穫の7割を地主に差し出さなくてはならなくなった。血と汗の結晶の農場を奪われても、彼らは何の抗議をすることもできない。自分たちの国じゃないから。彼らは仕方なく、家族を残して土地の賃料が安いウクライナなんかに出稼ぎに行ったり、自分や祖先の故郷であるロシア沿海州に戻る方法を模索している。住んでいる国からは歓迎されず、北朝鮮や韓国からは帰って来ることをのぞまれていない朝鮮人。そういう人たちが中央アジアに四十七万人も暮らしているんだ」
「天然の美」のメロディは、沿海州にあった挑戦劇場か、日本による植民地教育を通じて朝鮮人の間に伝わったと考えられている。
老人の唄う歌詞は朝鮮語だった。
「生きることの哀しみが伝わってくるようなメロディーだな……」
オルグンがいった。「これは何と唄っているんだ?」
ズデニェックが一ドル札を木箱に入れ、老人にロシア語で話しかけた。
老人は唄うのを止め、ロシア語で応じる。
「『故国山川をあとに数千里の他郷、見知らぬ土地に足をとめ 寂しい心に思う故郷 思い出すは懐かしい友よ』という意味だそうです」


しかも、ソ連崩壊後にも、コリョサラムのさらなる艱難辛苦が続いたことにはやりきれなさを覚えた。日本による朝鮮人弾圧だけではなかったのだ。
老人の歌の歌詞内容は、朝鮮半島植民地時代の代表的懐メロ「他郷暮らし(タヒャンgサリ)」そのままである。

「クルド人は国をもたない世界最大の民族だ」
オルグンは二人に、トルコのクルド人問題をかいつまんで話す。
クルド人は、人種的にはイラン人に近く、宗教はイスラム教スンニー派。現在トルコ、イラン、イラク、シリア、アルメニアにまたがる山岳地帯に約二千万人のクルド人が住んでいる。そして、これら各国政府すべてと敵対関係にある。
クルド人の歴史は他民族による支配と西側諸国による裏切りの歴史である。
7世紀にはアラブに支配され、11世紀にはトルコ人、13世紀から15世紀にかけてはモンゴル人の侵略を受け、その後オスマン帝国に支配された。第一次大戦後、オスマン帝国が崩壊すると、米国大統領ウッドロー・ウィルソンは旧オスマン帝国内の少数民族に対して民族自決を促し、1919年のパリ講和会議でクルド人も独立を訴えた。しかしその4年後、西側諸国は反共緩衝地帯としてトルコを利用するため、一転してトルコによるクルド人地域支配を認めた。
第二次大戦直後の1946年にクルド人はソ連の支援を受けてイラン北西部にマハバード共和国を作ったが、イラン軍によってわずか一年で滅ぼされた。一方、イラク領内のクルド人は1958年の王政崩壊を機に、大幅な自治と開発促進を求めたが、バース党新政権はこれを拒否。以後、自治権をめぐってイラン政府と衝突を繰り返している。サダム・フセインはイラン・イラク戦争(1980-88)中も二十万人のクルド人を殺害した。湾岸戦争(1990-91)後、米国はクルド人組織を扇動し、反乱を起こさせた。しかしその後、米国の政策転換に伴いクルド人は支援を得られぬまま孤立。イラク政府に徹底した報復と弾圧を受ける結果となった。


クルド人の問題は、湾岸戦争以降(実はそれ以前から)紛争のキーワードとして浮かび上がって来たので、それなりに関心はあったのだが、非常にわかりやすい解説(^_^;)だったので引用することにした。先のコリョサラムとはまた別レベルでの民族の悲劇である。(なんて傍観者的立場で言うのも不遜なのかも)

「なんかのんびりした、牧歌的な感じの曲だね」
ウォッカ・グラスを手にした小川がいった。
「『In the steppes of Central Asia(中央アジアの草原にて)』という交響詩だ」
「へーえ……作曲者は?」
「アレクサンダー・ボロディン。1880年に、皇帝アレクサンドル二世の即位二十五周年の祝賀行事のために作られた曲だ」
「1880年っていうと……ロシアが中央アジア各地に入植していた頃か」
「中央アジアの草原をロシア兵に護衛された隊商が進んでいく風景をイメージした曲だそうだ」
「ずいぶん、すっきりした明るいメロディーだね」
小川は違和感を覚えずにはいられなかった。自分が見た中央アジアは、様々な民族が血を吐きながら生きてきた、恨みの大地だった。
「所詮は、征服者のロシアから見た風景だよ」
そういって、ズデニクはスルボヴィッツェのグラスを傾けた。


帝政ロシア-ソビエト連邦-プーチンロシアと続くロシアの抑圧政策がロシア人民衆だけでなく少数民族に段階的に強権を発揮してきたことを想起せずにはいられない。ヒエラルキーなどという言葉を持ち出さずとも、権力の弱肉強食ぶりは古今東西変わらないもののようだ。そしてソ連時代の東欧の自由化運動への介入(弾圧)。

低い女性の声によるバラードが流れてきた。
「この曲は?」
「『マルタの祈り(Moditba pro Martu)』という曲だ。プラハの春以降、反権力の象徴になった」
どことなく粗削りで、思いつめた印象の曲だった。
「唄っているのは誰?」
「マルタ・クビショヴァというチェコの女性歌手だ。1960年代に、人気三人組ポップ・グループの一人だった。でも、プラハの春に賛同したために、一切の音楽活動を禁止された」
歌を奪われたマルタ・クビショヴァは、袋貼りの内職や事務員を」して暮らした。
「ビロード革命が起きた1989年11月24日に、プラハのヴァーツラフ広場に集まった三十万人の群衆が『マルタの祈り』を唄ってくれと彼女に求め、職場から駆けつけた彼女は、21年ぶりに聴衆の前で唄ったんだ」

プラハの春」、懐かしい響きである。でも、美しい言葉には棘がある(>_<)
チェコでは、自由化を支持したスポーツ選手、ザトペックやチャスラフスカにも、陰に陽に弾圧があった。


巻末には、経済用語の解説や、国際航空機取引のフローチャートも付されている。経済音痴のMorris.にはとてもありがたかった(とはいえ、半分も理解できず(^_^;))。
そして参考文献の一部

「スターリン秘録」斎藤勉 産経新聞社 2001
「天山の小さな国・キルギス」三井勝雄 東洋書店 2004
「追放の高麗人」姜信子文 アン・ビクトル写真 石風社 2002
「クルド民族」S・C・ペレティエ 前田耕一訳 亜紀書房 1991
「西域物語」井上靖 新潮文庫 1977
「草原の記」司馬遼太郎 新潮文庫 1995
「西域をゆく」司馬遼太郎 文春文庫 1998
「シルクロード~中央アジアの国々(旅行人ノート6)」旅行人 1999


Morris.が一番印象深かった、民族問題などの大半は参考文献に依存しているようだが、こうやって、きちんと文献紹介してあると、読書案内としても有用である。
しばらくこの人の作品を読み続けてみよう。
【冬の喝采】黒木亮 ★★★ 2008/10/20 講談社 初出「小説現代」2007-08 2018087
黒木亮 1957年、北海道生まれ。早稲田大学法学部卒業、カイロ・アメリカン大学大学院修士。大学時代、箱根駅伝に2回出場、20kmで道路北海道新記録樹立。都市銀行、証券会社、総合商社に23年あまり勤務し、国際協調融資、プロジェクト・ファイナンス、航空機ファイナンス、貿易金融など多くの案件を手がける。2000年、大型シンジケートローンを巡る攻防を描いた『トップ・レフト』でデビュー。他に『エネルギー』、『巨大投資銀行』『貸し込み』『アジアの翼』などがある。英国在住。

著者紹介にあるように、国際金融、経済などをテーマにした作品をメインに発表している作家だが、本書は、著者の中学、高校、大学時代の中長距離ランナーに絞った自伝的作品(ほとんどノンフィクション)。
雑誌『世界』に「アパレル興亡」を連載していて、ちょっとおもしろそうなので、以前の作品を物色。早大で同期の瀬古利彦から、箱根駅伝でその瀬古から三区たすきを引き継いでトップのまま三区につなぐまでの場面を迫力満点に描いたプロローグにつられて読むことにした。
陸上選手としての著者は、それなりに頭角を現したものの、トップクラスではなく、故障も多く、高校の途中から2年ほどは走ることができず、大学後半でもずっと体調不良を引きずり、大学までで陸上から身をひく。
主人公金山雅之(黒木の本名)をはじめ、登場人物もほぼ実名、(批判的な相手は名前は出さず特徴で表わす)、レースや記録、選手たちの出身校なども、事実通りのようだ。当時の早稲田大学競走部監督中村清という、常軌を逸するほど強烈な個性をもった人物への言及が多く、呆れながらも興味深かった。

中村清はこのとき(主人公が2年生で途中入部したとき)63歳。
生まれは韓国の京城。父親は明治39年に下関市から京城に渡った土建業者だった。四男三女の末っ子として育てられたが、母親は、父と一夜を共にした花柳界の芸子である。
子供の頃から走るのが早く、早稲田に進学して競走部に入部。昭和11年ペルリンオリンピックに1500mに出場(予選落ち)、翌年には1500mで3分56秒8の日本記録を打ち立てた。
25歳で軍隊に招集され、中国大陸で憲兵隊長を務めた。軍隊時代には聖書を読み、射撃にのめり込んだ。
南京で終戦を迎え、昭和20年8月16日に、重爆機で南京から鳥取県米子飛行場までの100kmを一気に飛んで帰り、命拾いした。
昭和21年11月から早稲田の駅伝チームを指導。昭和23年頃から、米国の援助団体から送られてくる古着の商売で、中村は大儲けした。商売をしながら早稲田の選手の指導を続け、昭和27年の第28回箱根駅伝で優勝。昭和29年にも早稲田を優勝に導いたが、昭和34年の大会を最後にコーチを辞した。原因は競走部OBで自民党の大物政治家河野一郎と対立し、昭和33,34年とに大会連続で6位に終わったことだった。
その後、中村は東京急行のワンマン社長、五島昇に請われ、同社の監督に就任。チームを実業団ナンバーワンに育て上げ、東京オリンピックには9人の選手を送りこんだが、入賞者を出せなかったため、五島昇の不興を買い、昭和40年初夏に監督を辞任した。
陸上競技の世界に還ってきたのは、昭和51年3月に瀬古利彦と出会ったときである。競走部の監督には、同年11月に正式に就任した。
自尊心が強く、思い込みが激しう、粘着質で、自己顕示欲が強く、敵が多い老人だった。


主人公がギブスを付けて6週間松葉杖を使わざるを得なくなるシーン。

生まれて初めて松葉杖をつきながら、病院を出た。
片手にスポーツバッグを提げ、その手で松葉杖を握り、コツン、コツンと音を立てながら、道を歩いた。
最初の難所は、第一京浜を跨ぐ歩道橋である。松葉杖をついて右足で一段上り、同じ段に松葉杖をつき、さらに一段上る。一段ずつしかあがれないので、もどかしい。
ようやく一番上まで上り、コツン、コツンと音を立てながら、歩道橋を渡る。
端まで来ると、今度は下りの階段だ。松葉杖をついて右足を蹴った。
(うわああーっ!)
心の中で思わず叫んだ。
松葉杖がテコになって、身体が宙に押し出されたのだ。
恐怖で顔面を蒼白にし、空中でもがいた。
次の瞬間、七、八段下まで落下し、コンクリートの階段の上に無様に叩きつけられた。
(痛えーっ!)
しかし、何とか怪我はしないですんだ。骨折や捻挫でもしていたら、まさに泣きっ面に蜂だったが、神様はそこまで残酷ではなかった。
(下りはこうなるのか……)
片足で立ち上がり、服やバッグについた汚れを払って、再び松葉杖をつく。
今度は、最初に松葉杖を一つ下の段につき、そこに右足を下ろす。再び一つ下の段に杖を下ろし、右足を下ろす。階段を一歩一歩下りて、ようやく地上にたどり着いた。


2ヶ月ちょっと前に、Morris.も初めての松葉杖体験をして、確かに階段降りるのはかなり怖かったので、身につまされるところ大。
金沢病院では松葉杖を貸出するときに、初めての人にはリハビリ室で簡単な使い方指導があったし、カバンはリュックだったので両手使えたからまだしもだったが、主人公は指導もなく、片手にスポーツバッグ持ってはじめての松葉杖というのは、あまりにハードルが高かったと思う。しかし、こういった、器具の使い方の的確な描写力は、なかなかのものだと思う。
600p以上ある長編で、8割方、レースやトレーニング場面で、練習の距離の羅列も多く、ちょっと飽きてしまうところもあった。次は、彼の得意分野の作品を読んでみよう。

【鯨】チョンミョングァン 斎藤真理子訳 ★★★☆☆☆ 2018/05/25 晶文社 2018086
「韓国文学のオクリモノ」というシリーズの6冊目で、いちおうこのシリーズは打ち止めらしい。
「고래コレ」 천명관 2004
천명관(チョンミョンgグァン) 1964年、韓国・京畿道龍仁市生れ。保険の営業マンなど様々な仕事を経て映画関係の仕事につき、シナリオを手がける。2003年に短編「フランクと私」デビュー。翌年に発表した本作「鯨」で、第10回トンネ小説賞を受賞すると、大ヒットとなり、一躍人気作家の仲間入りをした。10年に発表した「高齢化家族」は映画化され、日本でも「ブーメランファミリー」のタイトルで公開された。

一代にして財を成し、あまたの男の運命を狂わせた母クムボク。並外れた怪力の持ち主にして、人ならざるものと心を通わし、煉瓦づくりに命を燃やした娘チュニ。
巨大な鯨と煉瓦工場、華やかな劇場をめぐる壮絶な人生ドラマが幕を開ける。ストーリーテラーとして名高著者が、破壊的なまでに激しく生々しい人間の欲望を壮大なスケールで描き出した一大叙事詩。(キャッチコピー)


めったに韓国の小説は読まない(そもそも翻訳小説をよむことが少ない)のだが、
新長田図書館の新刊棚で本書見つけて、この500p近い厚さに、ひるんだのだが、登場人物紹介見ただけで、どうしても読みたいという気になってしまった。一部を引用しておく。

クムボク 裸一貫から一代で財を成した腕利きの事業家。男を惹きつける説明不能な魅力の持ち主である。
チュニ(春姫) クムボクの娘。並外れた怪力の持ち主。煉瓦工としてずば抜けた能力を持ち、のちに「赤煉瓦の女王」と称される。
シンパイ クムボクの二番目の夫。力持ちで有名な荷役夫。
刀傷 クムボクの恋人。港町のやくざで、映画の魅力をクムボクに教える。
汁飯屋の老婆 あまりに醜いため三日で婚家を追われた経歴を持つ。報われない人生と世間を呪い、報復するためにひたすら金を貯め続けた。
一つ目 汁飯屋の老婆とデクノボーの間にできた娘。母親によって片目の視力を失う。蜂を自在に操る。
双子姉妹 出産直後のクムボクを助け、その後も一生にわたって彼女を援助し続けた。
ジャンボ 双子姉妹が飼っている象。チュニと心が通じ合っている。
睡蓮 クムボクに見初められた売春婦。のちに薬売りの妻となる。
刑務所長 厳格で非常にして、異常性欲の持ち主。
建築家 理想の煉瓦を求めるうちにチュニの作った煉瓦を発見。


第一部「波止場」、第二部「ピョンデ」、第三部「工場」の三部作で、一部と二部はクムボク、三部は娘のチュニがヒロインということになる。

その日クムボクに映画を見せてくれた刀傷は、港町のやくざだった。稀代の詐欺師であり、悪名高い密輸業者であり、この町で並ぶ者のないドス使いの名手であり、音に聞こえた遊び人で、港町の娼婦たち全員のダンナであり、またやり手のブローカーでもある彼は、この都市で起きるすべての悪事にもれなく関わりを持っていた。彼はあらゆる権謀術数にたけており、こじれた問題を解決するコツを知っていた。彼のなりわいの大部分は超法規的なものであったが、この手の人間を必要とする者がいつも必ずいるものである。彼は波止場で働く屈強な荷役夫や、長らく船に乗っている手だれの船員を船主に斡旋してやるかと思えば、酒場で働く美女を他の都市から連れてくることもあった。また、密輸業者に手ごろな船を選んでやったり、波止場のちんぴらどもを動員して誰かの仕事を助けてやることもあった。この都市で彼を知らない者は誰もいなかった。人々は一様に彼を恐れたが、ある者にとっては彼こそ腕の立つ、信ずるに足る男なのであった。
一方ヘビのように冷たい心臓を持った彼が、とりえもないただのお上りさんであるクムボクに関心を持った背景には、恋人のために指を6本も切り落とした一人のやくざの悲しい恋物語が隠れていた。


この刀傷は、本書の登場人物の中でも印象的な存在だが、「稀代の詐欺師であり、悪名高い密輸業者であり、この町で並ぶ者のないドス使いの名手であり、音に聞こえた遊び人で、港町の娼婦たち全員のダンナであり、またやり手のブローカーでもある彼」という長い形容は、何度も何度も使い回される。これも一種の言葉遊びなのだろう。

生れて初めて映画を見た客たちは、港町の劇場で初めて映画に接したクムボクと同じように、そのファンタジーの世界にいっぺんで惹きつけられた。彼らは新しい映画が入ってくるたび、我先に券売所に詰めかけて列をなし、何日かに一度ずつ映画を見ないことには、物足りなくてとても耐えられなかった。彼らはいつのまにか、暗闇の中に座って他人の世界を盗み見るといあの陰湿な快楽に、すっかりのめりこんでしまったのだ。
彼らは映画を通して人生を理解し、映画は不条理な実存に秩序を与えてくれた。彼らは人生が美しい冒険や甘いロマンスでいっぱいに満ちていることを知って幸せになり、不可解だと思っていた世の中が厳格な因果応報の秩序によって動いていることを知って安心した。当時彼らが見ていた映画の大部分は米国という国からやってきたものだったが、観客たちは映画に出ている人々と彼らの人生があまりにすてきなので、いつのまにか彼らの真似をしはじめ、ついにはいっそのこと彼らの国に行って仕舞う人も現れた。そしてこのときから人々の頭の中を、唯一の命題が占領するに至った。それはあまりにも強烈で魅惑的で、すべてを飛び越え、すべてを断絶させ、すべてに優先し、すべてを包摂し、すべてに勝るものだった。以後、人々の生き方のすべてを決定したのは、次のような考え方だった。
すべての米国的なものは美しい。

著者が映画畑出身だけに映画に関する部分は、熱が入っている。
最後のフレーズは、韓国語でアメリカを「美国(ミグク)」という漢字語で表わすことからのギャグだろう。

無謀な情熱と情念、愚かな幻惑と無知、信じがたい幸運と誤解、おぞましい殺人と流浪、卑しい欲望と憎悪、奇異な変身と矛盾、息詰まるような曲がりくねった栄光と屈辱は、スクリーンが焼け落ちる瞬間、説明のつかない複雑な皮肉にまみれた彼または彼女の巨大な生とともに、シャボン玉のごとく、一瞬にして消えてしまった。
クンボクが作り上げた劇場が火事で焼け落ちる情景。

将軍は政治的危機を迎えていた。選挙が近づいていたが、彼は再選される確信を持てずにいた。政敵はいっそう激しく彼を追いつめており、民心が彼を見限って久しい。彼は最後の勝負に出た。自分が死ぬまで永遠に執権するという内容を含む新しい法律を公布したのだ。それは独裁の法則である。反対派は激烈に抵抗したが、法律によれば、その法律に反対することさえも違法であった。その代わり彼は民心をなだめるためにさまざまな措置を断行したが、その一つが囚人対象の恩赦だった。それは国家独立以来最大規模の恩赦であり、そこには未決囚も多数含まれていた。そして恩赦対象者名簿には、バークシャー・チュニの名も入っていた。彼女が刑務所に入れられてから満十年が経った夏のことだった。

「将軍」というのは、朴正煕のことである。選挙などの状況も、ほぼ史実に近い。
「それは独裁の法則である」この「法則」という単語は、本書のいたるところで用いられている。大雑把に拾ってみると

世間の法則・無条件反射の法則・噂の法則・恋の法則・生殖の法則・加速度の法則・無知の法則・世間知の法則・街の法則・求愛の法則・習慣の法則・作用と反作用の法則・乞食の法則・興行の法則・ほら話の法則・進化の法則・流言飛語の法則・自然の法則・経営の法則・アルコールの法則・悪しき商業主義に迎合したプロットの法則・監房の法則・信念の法則・資本の法則・チュニの法則・イデオロギーの法則・視聴率と大衆性の法則
等など30以上見つかった、見落としも多数ありそうだ。もちろん、これは著者の言葉遊びだが、かなりうがったもの、機智に富んだものが多かった。本書の魅力の一部はこういった著者の語り口にあるのだと思う。

驚かれたのは、本書の語り手の自由奔放さではないだろうか。過剰で、ロマンティックで、駄洒落を飛ばし、猥談を披露し、長々と脱線し、虚実をこき混ぜ、奇妙な引用をし、ときに読者に語りかけ、絵を見せたりもしながら、多彩な人物の来歴と所業を語り倒す。感想は述べるけれど、不要な自己省察には決して陥らず、軽やかに過去と現在、現実と幻想を行き来する。
本書の重要な特徴は、女性たちの物語だということだ。ここに徹底して描かれたのは女性の欲望と愛である。身もうふたもな言い方をすれば、成金になれなかった女(汁飯屋の老婆)、成金になった女(クムボク)、成金になることなど念頭にもなかった女(チュニ、一つ目)の年代記である。さらに、クムボクとチュニ、汁飯屋の老婆と一つ目という、二組の不幸な母娘関係が全体を貫いている。いちばん年代の古い汁飯屋の老婆は、まるで神話の中の怒りっぽい神のように男たちを殺し、娘の目を焼つぶす。クムボクもまた男を殺すけれども、老婆とは違ってためらいがある。しかし彼女も娘を愛しはしないし、また自らの欲望を貪欲に追求した結果男になるという、グロテスクな変遷をたどる。(訳者あとがきより)

いやあ面白かった。ただ一部、二部に比べると三部はちょっとトーンダウンしている感が否めない。物語の最後ま、でヒロインには、破天荒な行動してもらいたかった。
これで思い出したのが20年ほど前に読んだ「皇帝のために」(李文烈 安宇植訳)。Morris.は「本書こそ「韓国版『百年の孤独』である」と揚言したい」と書いていた。
その伝で言うと、この「鯨」は「韓国版『ガルガンチュアとパンタグリュエル物語』」だと称揚しておこう(^_^;)

  【敗北を抱きしめて : 第二次大戦後の日本人 上下】ジョン・W・ダワー 三浦陽一・高杉忠明・田代泰子訳 ★★★★ 2001/03/21  岩波書店 2018085
EMBRACING DEFEAT Japan in the Wake of World WarⅡ 1999 John W. Dower

John W. Dower 1938年生れ。アマースト大学でアメリカ文学専攻。1958年来日し金沢市滞在中、日本文学に関心を持ち、1961年ハーヴァード大学で森鴎外研究で修士号取得。1962年から金沢女子短期大学の英語講師、1963年から東京の出版社ウェザーヒル社の編集助手。1965年帰国後日米関係を専攻、吉田茂の研究で博士号取得。1968年には親中派の在米左翼団体を組織。
1979年「吉田茂とその時代」Empire and Aftermath で、保守主義者・帝国主義者としての吉田茂解釈を提起。
1999年「敗北を抱きしめて」では、終戦直後の日本にスポットを当て、政治家や高級官僚から文化人、一般庶民に至るまでを対象に日本に「民主主義」が定着する過程を日米両者の視点に立って描き出した。この作品でピュリッツァー賞受賞。日本でも岩波書店から出版され、ベストセラーになった。(Wikipediaから抄出)

ちょっと前に「この本再読しなくては」と書いたのだが、Morris.はこの本読んでなかった(>_<)  いろんな本でこの本の紹介や、引用があったので、すっかり読んだと錯覚したらしい。上記引用にあるように、日本でもベストセラーになるくらい広く読まれたらしい。ベストセラーは読まない、というMorris.の読書スタンスが原因だろう(^_^;)

というわけで、この大冊(上下で本文800p、注90p)を、刊行20年後に読み通した結果は、ほとんど打ちのめされたとしか言いようがない。後悔先に立たずではあるが、リアルタイムで読んでおくべきだった。といっても、読んだつもりになってたのだからどうしようもない。それでも今更ながら読んで良かったと思う。
もちろんまるまる本書に書いてあることを信じるわけではないし、かなり我田引水だったり、エモーショナルすぎるところも見受けられる。それでもこれだけ広範囲にわたって、資料にあたり(注を見るだけでも感動的 原著には更に多くの注があるらしい)、あけすけに自説を展開するあたり、著者は研究者というより、ノンフィクション作家、ジャーナリストの素質があるのではないかと思わせるものがある。
20年の未来(^_^;)から振り返って見ると明らかに外れた予測もあるし、日本認識への異議もある。それはもう、だからこそ、批判的読書に徹するべきだろう。
全体は前後に「序」と「エピローグ」を付した6部17章に分かたれている。3人の訳者が分担しているためか、読んでいてしばしば統一感に欠けるきらいがあった。20pある序だけでも、ゆうに一冊分くらいの内容があると思った(^_^;)

大東亜共栄圏とは、一頭の奇怪なキメラにほかならなかった。太平洋戦争が始まってから半年の幸福感は、夢の中でみる夢にすぎず、まもなく日本人自身がこの熱狂を「勝ち病」と表現するようになり、しだいに夢から醒めていった。
日本人は自分たちが作り出した戦争のためのレトリック--これは聖戦だ、不名誉よりも死を、戦死者たちの血の犠牲に報いよ、天皇を中心とする国体は不滅だ、「支那暴徒」をはねかえし、「鬼畜米英」をふみとどまらせる決戦は近いぞ--こうした表現に酔い、みずからその虜になった。日本の敗戦が疑いないものになって以後も、天皇を含む日本の指導者たちは思考途絶状態になり、よろよろと前へと歩くのがやっとといった状態であった。


*キメラ( chimaera) 1.ギリシア神話で、ライオンの頭、ヤギの胴、ヘビの尾を持ち、火を吐く怪獣。キマイラ。 2.生物の一個体内に同種あるいは異種の別個体の組織が隣り合って存在する現象(以下略) 「大辞林」
この辞書の意味が合っているのなら、ちょっとこの比喩はズレてる気もする。後半の日本政府(軍部)の敗戦前の状況を「思考途絶」というのはあたっている。

自分の意志によってではなく、勝者の命令によって、日本は再び世界から身を引いた。ペリー来航以前の数百年間のように一人ぽっちではなく、アメリカ人の征服者たちの、ほとんど肉体の感触を楽しむかのようなきつい抱擁に緊縛されて。そして間もなく、アメリカは日本を手離すことができないこと、あるいは手離す気がないことが明らかになっていった。真珠湾にはじまり、広島・長崎への原爆投下につづく天皇の投降まで、日本と連合国との間の戦争は3年と8ヶ月つづいた。それに対して、敗戦国に対する軍事占領は1945年8月にはじまり、6年8ヶ月跡の1952年4月に終わっている。占領は戦争のほぼ二倍の期間にわたったのである。この占領の期間中、日本は国家主権を失っていた。
戦後の占領時期を「鎖国」と捉える視点。タイトルにもある「抱擁」のアンビバレンツ(両面性。両面価値。同一の対象に対して、愛と憎しみのような相反する感情や態度が同時に存在すること。愛蔵交々)。Morris.が生まれたのもOccupied Japan(占領下日本)だった。

占領当初、アメリカ人たちは、「非軍事化および民主化」という、樹木の根と枝の関係に似た改革プログラムを日本に押しつけた。それは独善的で、まったく空想的な、あらゆる意味で傲慢な理想主義の、めったにない実例というべきものであった。それからアメリカ人たちは、日本を去る前に方向を逆転させた。日本社会のなかでも自由主義的傾向が少ない連中と協力して、この旧敵国を再軍備し、冷戦の従属的パートナーとしはじめたのである。こうして結局、戦後日本には保守的な政府が出現したが、にもかかわらず、平和と民主主義という理想は、日本に根をおろした。借り物のイデオロギーでも押し付けの未来図でもなく、生活に根ざした体験として、そしてまたとない好機を生かした成果として。平和と民主主義の理想は、みごとな、そしてしばしば不協和音を奏でる様々な声となって現れ出たのである。

そういう意味で戦後の日本の状況こそ「キメラ」的だったのではないか。

この開放感は、占領初期の数年間というもの、共産党でさえ占領軍を「解放軍」と呼んで怪しまないほどのものであった。敗戦下の日本人がもっていた力強さが過小評価されてきたのと同じく、占領した側の「アメリカらしさ」なるものの性格もまた、一般に過度に単純化されて理解されてきた。勝者が導入した改革は、時期の点でも場所の点でも、ほかに例のないものであった。それらの改革は、リベラルなニューディール的態度、労働運動を基礎とした社会改良主義、そして権利章典的な理想主義にそうとう強く影響されたもので、これらは合衆国ではすでに否定(もしくは無視)されつつあった思想であった。こうした改革は、アメリカが占領したアジアの地域--たとえば朝鮮半島南部や日本の中でも沖縄本島や琉球列島--ではまったく導入されたことがない。それらの地域では、冷厳な軍事戦略的思考が支配的であったからである。

この指摘は重要だと思う。逆コースも朝鮮戦争が引き金になったとはいえ、そもそもアメリカの内部で画策されていたものでもあるようだ。


1930年代初期から1952年までずっと、日本は基本的に軍事支配の下にあったともいえる。マッカーサー元帥とその司令部がいかに高尚な心でいたにしても、彼らは新植民地主義支配の領主として、対向者もなく批判もされない状態で、新しい領地を支配したのである。

日本が30年以上軍事支配されていた(前半は日本軍部、後半はGHQ)という事実も、言われてみれば当たり前のことだが、正確に理解できずにいた。

実際的理由から、マッカーサー元帥による「政府の上の政府」は、命令の実行を日本の官僚組織に依存した。そのため、二重の官僚組織ができあがった。アメリカ人たちが去ったあとには日本の官僚組織が存続したわけであるが、それは戦争中よりも強力にさえなっていた。

官僚主義支配は軍事支配より長期間日本を影で支配してきた。

すくなくとも天皇の道徳責任は明白であった。ところが、この道徳的責任について、アメリカ人が見て見ぬふりしただけではなく、否定さえしたために、「戦争責任」という問題の全体が、ほとんど冗談になってしまった。その人の名において、20年にわたり帝国日本の外交・軍事政策が行われてきた、まさにその人物が、あの戦争の開始や遂行に責任を問われないとしたら、普通の人々について戦争責任をうんぬんしたり、普通の人間が自分自身の戦争責任を真剣に考えるべきだなどと、誰が思うであろうか。
冗談というか、ちゃぶ台返しというか、驚天動地でもある(>_<)

日本の国民性と国民的体験の特殊性をもっとも偏愛しているのは、日本の文化本質主義者や新ナショナリストたちである。
これは今でも変わらない。

多くの日本人たちは自分自身の悲惨さに心を奪われたために、自分たちが他者に与えた苦痛を無視しがちであったが、このことは、あらゆる団体や民族が自分自身たちのために作り上げるアイデンティティが、いかに被害者意識によって染め上げられるものであるかを理解するのに役立つ。

被害者でもあり加害者であるのに、自分の痛みしか感じることができない。

「平和と民主主義」は、戦後日本の偉大なるマントラ(祈りの言葉)であった。これこそは、日本人一人一人が自分なりに、人によってしばしばまったく違う意味を込めて使ってきたお守りのような言葉であり、今日でも日本人が議論しつづけている問題である。そして、この「平和と民主主義」という考え方も、その意味内容についての対立も、この問題をめぐる闘争の歴史的記憶の重みも、すべて日本だけに特有のものではないのである。(序)
20p足らずの「序」文だけで、ほとんど一冊読んだくらいの示唆に富んだ内容だった。

先例をやぶり、電波をつかって臣民に直接話しかけるという方法を考えたのは、裕仁自身であった。放送の原稿は、前日の深夜にようやく最終稿ができあがり、非常な緊張の下で清書され、運ばれた。降伏に反対する将校たちにしられないよう、隠れて録音し保存するために、大変な苦心が払われた。こうして天皇の詔書は混乱のうちに生まれたが、出来あがってみると、それはよく磨かれた宝石のような見事な出来栄えであった。
天皇はこの詔書によって、不可能を可能にしようとした。屈辱的な敗北の宣言を、日本の戦争行為の再肯定と、天皇の超越的な道徳性の再認識へと転換しようとしたのである。
玉音放送はたんに負け戦を正式に終わらせる声明であっただけではなく、敗戦国家の社会的・政治的安定を図ると同時に、天皇の支配を維持するための緊急キャンペーンの開始宣言でもあった。

「玉音放送」を「宝石のような」出来栄えと評するのは、一種のギャグめいた反語と思いたいのだが、確かに様々な下心(レトリック)満載の作文であることは間違いない。国体護持緊急キャンペーン声明文といわれれば、たしかにそう読める。

このあと数年間、事実上すべてのことが、日本は完膚なきまでに敗北したのだという認識の下に進行した。そうした認識があったために、絶望が、そして冷笑的態度とご都合主義が、根を下ろし広がっていったし、同時に、完全な敗北という認識があったから、目前で古い世界が破壊され、新しい世界を想像するほかなくなった人間にだけありうるような、すばらしい回復力と創造性と理想主義が発揮されることにもなった。こうした状況では、天皇の聖戦を遂行する過程で自分たちはいったいどれくらい他人の人生を破壊したのかをじっくり考えてみようという気力や想像力や意欲をもてた日本人がほとんどいなかったのも、まずは驚くにあたらなかった。
「完全」な敗北だから、その揺り戻しも「完全」を要求され、その時点で敗北の原因でもある加害は想像の外に置き去りにされた。被害者意識は増大したのに。

アメリカの空襲のやり方に特異な傾向があったことも見て取れた。たとえば首都のなかでも貧民層の住居や小規模な商店街や町工場は徹底的に破壊されていたのに、高級住宅街の金持ちたちの家は多くが焼けずに残っており、占領軍の将校たちを収容するのにおあつらえむきになっていた。……全国の鐡道はまずまず効率的に運行できる状態にあった。……都市施設の大部分、たとえば発電や水道の施設は、まだ稼働していた。故意にそうしのかどうかはともかく、すくなくとも東京については、アメリカの空襲は、日本に存在する富の上下関係をそのまま肯定したかのようであった。
いかにもアメリカのやりそうなことである。

降伏から一年以上たっても、満州で捕虜になった約6万8千人の日本人が中国軍、それも多くが中共軍側に組みこまれていると報道された。国民政府はといえば、ほぼ1946年いっぱい、利用価値のある技術をもった日本人5万人以上の引揚げを遅らせた。

日本帝国陸軍の組織ごとの滞留。これに関しては、戦後台湾国民政府への旧軍人の義勇団関連の本にも取りあげられていた.

戦争の絶望的な最末期、天皇を含む日本の最高指導者たちは、連合国に日本本土侵攻をあきらめさせるため、沖縄を犠牲にした無意味で破滅的で野蛮な戦闘を実行した。1945年4月から6月までつづいた沖縄戦では、1万人以上のアメリカ人が死んだ。11万人以上の日本帝国軍が事実上壊滅し、沖縄住民の約三分の一、おそらく15万人におよぶ男と女と子供が殺された。(第1章 破壊された人生)

1945年4月から6月までの「無意味で破滅的で野蛮な」沖縄戦のことを抜きにして、今の沖縄問題を語るのは犯罪行為というしかない。その責任を取るどころか、更に沖縄に犠牲を強いる日本政府とは。

当時の簡潔な表現によれば、総司令部の使命とは、まさに日本の「非軍事化および民主化」を実行することにほかならなかったのである。
戦争の勝者がこのような大胆な企てに乗り出すことは、法的にも歴史的にも前例がなかった。その合法性や妥当性にはほとんど思いを巡らすことなく、アメリカ人たちは、この敗戦国の政治、社会、文化、経済の網の目を編みなおし、しかもその過程で一般大衆のものの考え方そのものを変革するという、他国を占領した軍隊がかつてしたことのないような企てに取りかかったのである。(第2章 天降る贈り物)


「瓢箪から駒」の千載一遇のチャンスだったわけだ。

8月20日、マニラの米軍は日本の降伏使節に「一般命令第一号」を手渡し、日本軍の全資産は手を付けず保管せよと命じた。東久邇宮新内閣は、この命令を無視した。マッカーサー元帥が到着する予定日の二日前、日本政府は前述の秘密の処分命令を取り消したが、すでに処分された資産の所在を確認し回収しようとする努力はまったく行われなかった。当然のことながら、これらの物資の所在の記録は、もはや簡単には入手できなくなっていた。……日本史上最大の危機の只中にあって、一般民衆のために献身しよういう誠実で先見性ある軍人、政治家、官僚はほとんどいなかった。
その後の調査によれば、帝国陸海軍が保有していた全資産のおよそ70%が、この戦後最初の略奪の狂乱のなかで処分された。もともとこれは、本土約500万人と海外300万人余りの兵士のためのものであった。だが、話はこれで終わったわけではなかった。降伏から数カ月後、占領軍当局は、それまで手付かずできちんと管理されていた軍の資材の大半を、公共の福祉と経済復興に使用せよとの指示をつけて、うかつにも日本政府に譲渡してしまったのである。これら物資の大半は、建設資材と機械類である、内務省は財閥系企業の5人の代表からなる委員会にその処分を委任した。その総価値はおよそ1000億円と見積もられたが、これらの資材もすぐにほとんどあとかたもなく消えうせた。

どさくさ紛れに火事場泥棒的物資のぶん取り合戦が、国の中枢で半ば堂々と行われたことになる。このことはある程度把握していたが、占領後に残ってた資産を日本政府に譲渡してこれも雲散霧消したというのは初めて知った。「盗人に追い銭」ぢゃ(>_<)

占領軍がやってきてはじめて、巨大な占領軍のための住宅費と維持費の大半を支払わなければならないことがわkったのである。事実、この占領軍向け支出は、占領開始国家予算の実に三分の一を占めた。予算項目の中ではこの費用は占領軍当局の命令で、「終戦処理費」あるいは単に「その他の費用」といった婉曲な言葉で偽装がほどこされた。(第3章 虚脱)

確かに、疲弊した日本にとって占領軍の生活費負担というのは、とんでもなく大きなものだったというのは想像に難くない。それも占領軍はアメリカ市民生活水準を当然のように要求したわけだろうし(^_^;) これは森正人の「「親米日本」の誕生」にも触れてあった。
現在のアメリカ軍基地への「思いやり予算(ケッ!!」)」なんてのも、これが半永久的に続いているということなのではないか。

昨日まで危険で男性的な敵であった日本は、一度のまばたきのうちに、白人の征服者が思い通りにできる素直で女性的な肉体の持ち主へと変身した。そして同時に、売春によるものもそうでないものも、占領軍兵士と日本女性の親密な関係は、ときに人種を越えた思いやりや、お互いへの敬意やさらには愛情の出発点にさえなった。そういう意味で、国家どうしの関係が男女の関係に変換されて表現されていたのである。かかわり方はどうあれ、そこにいたすべての者にとって、占領軍と日本女性の関係は驚くほど感覚的で、かつ文化的なできごとであった。

繰り返すが、本書のタイトルのよって来るところである。

坂口(安吾)が人の心に訴えることができたのは、ひとつには先の戦争が心理的には魅力があったことを率直に認めたからであった。巨大な破壊がもつ、うっとりさせるような壮大さ、運命に従順な人々がもつ「奇妙な美しさ」について彼は書いた。そして同時に、坂口は同じ情熱をもって、それを否定した。散る桜のように死ぬつもりであった神風特攻隊員が今や闇市で働き、夫を戦地に送り出し位牌の前にひざまづいた妻が、早くもほかの男を物色していると、『堕落論』は指摘した。「敗戦の表情はただの堕落にすぎない」。ここにこそ真実のはじまり、真の人間性への回帰のはじまりがある。(第4章 敗北の文化)
「堕落論」は高校生の頃読んだと思うのだが虚無主義の発露みたいな受け取り方をしていた。安吾、太宰、織田作之助、檀一雄などは「無頼派」と一括りにされてたが、それぞれの個性の違いは大きかった。Morris.は檀一雄が一番好きかな。
それはともかく、戦後に戦争への魅力を感じていたと言挙げするのは瞠目に値する。

敗戦前には、日本が苦しんでいるのは欧米帝国主義の策謀と狡猾な共産主義のせいだと、日本人は教え込まれていた。だから、発想を少し転換するだけで、陰謀の張本人は実は日本の軍閥だったのだと、日本人は思いあたったのである。

著者はこういう筆法に長けているし、つい納得させられてしまう。

『世界』の誕生は注目すべきものであった。同誌の発刊の辞は、リベラル派や左翼のほぼ代表的見解といってよい。
『世界』が発刊された時点では、アメリカの占領目的はすっかり公表されていた。占領の目的は民主主義、個人の尊重、言論・信教の自由そして世界平和にある。『世界』の編集者たちは、アメリカの意図をそう要約し、これらの理想は勝者の命令であるがゆえにではなく、「もっぱら人間の本質と普遍的な正義」であるからこそ追求されるべきなのだと強調した。
このように、心の痛みをかかえ、ひたむきで、厳しく自己反省し、理想に激しく燃える--こうした感情は降伏後の何百もの雑誌にみてとれるものであった。


当時何百もの雑誌に、共有されていたにしろ、それから70余年を閲して、ともかくも現在までかんこうを続け、創刊以来の方針を貫いている(「日本唯一のクォリティマガジン」というのが、岩波のキャッチフレーズ)点に関しては、評価したい。

『きけわだつみのこえ』は、ドアを前後両方に開けられる蝶番のように、過去にむかって開けると、その勢いで逆に未来へと振りもどっていくような書物であった。収録された手紙は約75編であったが、自由主義者や左翼の学者らからなる編集委員会が非常に注意深く選んだものであった。……彼らの文章の根底には、死ではなく生への渇望が流れていた。読者がこの本から受ける圧倒的な感銘は、戦争で人命が無駄にされ、かつ人材の悲劇的な損失があったということであった。
この本が戦後日本人に永続化させた犠牲者意識は、じつは戦争中に軍国主義が人々にかきたてていた意識に、危険なほど似ていたのである。学生たちは純粋な若者たちだった、彼らの死は気高いものだった、彼らに罪はないし、まして、軍国主義に抵抗しなかったからといって批判などすべきではない、もっぱら注目すべき、本当に悲劇的なものは、彼ら自身の死であって、彼らが殺したかもしれない人間たちの死ではない--。こうした閉鎖的な戦争観をもっている以上、日本人以外の犠牲者はまったく目に入らなかったのである。(第5章 言葉の架け橋)

学徒出陣を言挙げする時、エリート主義が見え隠れするのは否めない。一般の徴兵と、学徒との間の「差別」である。
そして、一般兵も学徒兵も、戦闘時には殺し殺されという意味では全く同等である。

権威主義的に上から強く指導して現状をすっかり変えてしまうというやり方は、日本では目新しいものではない。アメリカの改革者たちによる日本占領が成功した理由のひとつは、この点にある。マッカーサー元帥は典型的なアメリカ人だったが、日本の政治劇にいつも登場する役柄をたちまち割り振られることになた。たとえば、新しい君主、青い目の将軍、温情的な軍事独裁者、大げさに語るけれども不器用なくらいに律儀な歌舞伎の主人公、といったイメージである。

1947年に施行された新憲法の下で日本人は理屈の上では市民となり、もはや天皇の「臣民」などではなくなった。しかし実際には、日本国民はいぜんとして占領軍当局の臣民であった。

日本人に対する犯罪行為によって告訴されたアメリカ人は、日本の裁判所ではなく、アメリカ政府によって裁かれた。しかもアメリカ人の犯した犯罪は、報道機関では報じられなかった。実際、外国人の総督たちにたいする批判は、それがいかなるものであれ禁止されていた。マスメディアはSCAPの政策を問題として取りあげたり、勝者である連合国に対して批判的な見解を述べることもいっさいゆるされなかった。また、マスメディアがこうした規制のもとで活動していることを取り上げるのも認められなかったのである。
まさに日米安地位協定に直結するものだ。

敗戦国ドイツで採用された直接統治の軍事支配と違って、日本の占領は、すでに存在している日本の政府組織をつうじて「間接的に」行われた。そのため、降伏以前の日本の政治体制のなかでも、もっとも非民主的であった制度を支持することにならざるをえなかった。官僚性と天皇制である。
基本政策がこのように変更されたのは、あきらかに実際的な理由からであった。つまり占領軍は日本を直接統治するだけの言語能力と専門能力に欠けていたのである。


そうか、言語の問題があったのか。日本に比べると米国は戦争中でも、日本語や日本への研究は進められていたとしても、直接的に日本語で統治するだけの人材を供給するわけにもいかないし、占領軍が統治するということになると、軍属や軍人にそれを望むのは不可能だったろう。

今考えてみれば、太平洋戦争の最後の半年間は、天皇の政府にとって残虐な愚行の歳月であっただけでなく、無益な戦争の引き延ばしによって、ワシントンで急進的な占領政策が登場するのを許した歳月であったと見ることもできる。1945年の初頭、日本では側近が天皇に対して降伏を強くうながしていたが、もしその時日本が降伏していたら、空襲も原爆も、百万も上回る死者の増大も、避けることができただろう。占領軍による上からの革命も回避されていたかもしれない。1945年初めの時点では、この敗戦国に民主主義革命を導入しようという計画は存在しなかったからである。

このことに関しては、Morris.も何度繰り返しても足りないと思う。Morris.は天皇の戦争責任はある(当然)という立場だが、その責任のうちこの半年の判断(ミス)は天皇の戦争責任の大きなパーセンテージを占めると思う。

彼の偏見や信念や陳腐な大言壮語をどう腑分けしようとしてみようとも、日本やアジアに関する専門的知識らしきものが見当たるはずもなかった。しかし、それだからこそ、マッカーサーは「非軍事化と民主化」という占領初期の課題にほとんど救世主のような情熱をもって没入できたのである。
パラドックスである。無知・無垢・無私の救世主マッカーサー(^_^;) これも一つの戦略だったにちがいない。

戦時中、軍政の任務につくことを予想して、数千のアメリカ人が日本語と日本文化の講習を受けたが、そうした人員はしばしば日本以外の地に派遣された。マッカーサーとその部下たちは、こうした人々を望まなかったのである。(第6章 新植民地主義敵革命)
先の「間接統治」と関連する。これも戦略。

教条主義的な左翼は、民主主義革命をじつげんするためには、日本国民全体が優れたひとびとによって導かれねばならないという心理を広める役割をはたした。左翼あるいは共産主義者が考える前衛という発想自体が、まさに、大衆は後ろ向きで、上からの指導が必要であるという前提に立っていた。この点において、左翼のエリート意識は、天皇の庇護と威光の下で権力を保持しようとした保守主義者や占領軍と大きな違いはなかったのである。マッカーサーの指揮下にあるGHQと、改革の課題に不本意ながら従っていた保守派の有力者たちと、日本の「進歩的文化人」や日本共産党は、それぞれ形は異なっていたものの、ともに天皇制民主主義の実践者だった。(第7章 革命を抱きしめる)

エリート主義は戦前・戦中・戦後を通じて強力な影響力を持ち続けていた。

1949年には「レッドパージ(赤狩り)」が占領下の新しい流行語となった。当初、これは占領軍の内部では「トラブル・メーカー狩り」と呼ばれていたもので、占領当局、保守派の政治家、官僚、そして企業経営者らの密接な協力関係をつうじて進められていった。その主な目的は、企業や産業における急進的な労働組合を解散させることにあり、そのため1949年暮れから、1950年6月25日の朝鮮戦争勃発までの間に、公共部門においておよそ1万1000人の労組の活動家が解雇された。朝鮮戦争が始まると、パージはマスメディアを含む民間にまでおよび、1950年末までに1万人から1万1000人以上の左翼的な人々がさらに解雇された。レッドパージと並行して「デパージ」、つまり軍国主義や超国家主義を積極的に支持したために占領期間中「ずっと」パージの対象となっていた人々の公的な活動への復帰が許されるようになった。

ここから読み取れるのは、朝鮮戦争は、半島の住民の大部分(特に韓国側)にとっては寝耳に水の事態だったが、米国にとっては想定内の出来事だったよううに思える。

「逆コース」によって、日本国内では、20世紀末の今日まで続く、政治家と官僚と企業人の保守的なヘゲモニーが確立されたとはいえ、共産党と社会党はつねに選挙をつうじて党員を国会に送りこんでおり、また公共政策に関する議論の場においても、注目を集めた。彼らは日本がアメリカの冷戦政策に黙従していることについても明確な批判を展開した。また皮肉にも、そのご数十年にわたって、アメリカの占領の当初の理念であった非軍事化と民主化のもっとも信頼できる擁護者ともなったのである。(第8章 革命を実現する)

それから20年経って社会党は消滅し、アメリカはなりふり構わず、逆コース的な政策を強くしている。

天皇のこの魔法のような変身は、政治的にも思想的にも広く深い影響をあたえた。何が正義かは権力によって恣意的に決められるものとなり、戦争責任の本格的な追求は矛先をそらされてしまった。象徴天皇制とは、天皇の地位があいかわらず日本国における家父長的権威の最高の紋章でありつづけることを意味した。
新しい象徴天皇は、19世紀から20世紀はじめの発明品である「大和民族」なる自己意識を、ひきつづき象徴するものとなった。そしてそれは朝鮮人、中国人、白人--とにかく異民族すべて--は、「日本人」にはなれないことを意味した。
こうしてあいかわらず天皇は、日本人は遺伝的に違うのだという意識を持続させ「血統」にもとづくナショナリズムを象徴する最高の偶像となり、日本人をして他の民族や文化とは永久に切り離された--しかも上位の--存在たらしめる、架空の本質を体現する存在となったのであった。
君主の統治の年数で年を数える年号制も、そのまま残った。そのため1926年、裕仁の即位ではじまった「昭和」は、戦後も中断しなかった。これは暦を利用した過去との連続性の宣言であった。


現在国会で物議をかもしている擬似移民法(>_<)にも、血統ナショナリズムのにおいが芬々と臭ってくる。
2019年の天皇退位に伴い、新しい元号がどうのこうのと取り沙汰されているが、1945年8月15日をもって「昭和」は終わりにすべきだったと思う。元号は廃止すべきだと思う。もし残すとしても公式の文書や一般使用は西暦に統一してもらいたい。

鈴木貫太郎につづいて首相になった東久邇稔彦親王が8月28日の記者会見で、「一億の国民が総懺悔する」ことが国家再建のため不可欠の第一歩だと述べたことは、そうした(天皇を除く)集団的責任論を完璧に表現したものであった。

「一億」を冠する用語にはろくなものはないが、中でもこの「一億総懺悔」は噴飯ものである。国としての破産宣告であり、後は白波の無責任の「象徴」でもある。それに当時の臣民の大多数はころっとだまされてしまった(>_<)

皇室周辺と占領軍上層部との間には、驚くほど公然たる親交が深まっていった。そのきっかけを作ったのは宮中の側であった。占領軍の高官たちに、宮中の宴会が親交をつくる場となったが、占領軍の最上層部が招待された上流階級の行事にいたっては、優雅さも度が過ぎるほどであった。蛍狩り、皇居での花見、竹の子狩り、宮中での伝統的な武道の御前試合、そして時には猪狩りまであった(第9章 くさびをうちこむ 天皇制民主主義1)

公卿文化の本質が「アメリカさま」とのお付き合いにおいても遺憾なく発揮されたわけだ。園遊会なんてのも、臣民たちへのおすそ分けであり、公開キャンペーンでもあるのだろう。

裕仁の退位を公の場でもっともセンセーショナルに要求したのは、著名な詩人、三好達治であった。「陛下は速やかにご退位になるがよろしい」と題されたエッセイは、雑誌『新潮』の1946年6月号に掲載された。三好は、この問題は「この度の戦争敗戦の責任をまず取るだけではない」と強調した。彼は異例なほど強い言葉を使って、天皇が「施すべきを施し玉わざりし点で甚だしく怠慢」であり、「陛下の股肱とたのまれて身を抛って戦った忠良の兵隊たちに対して、陛下の側に背信の責任」があると糾弾したのである。

これは知らずにいた。三好は戦時中にはかなり戦争協力詩を書いて、そのために戦後糾弾されたことを知ってたので、意外だったのだ。

宮中や政府の高官らは、GHQと協働して戦犯リストを作成したが、最終的に「A級」戦犯容疑で逮捕され、公判中は巣鴨拘置所に収容されていた百人ほどの著名人は、どのような些細な戦争責任をも主君には負わせないことを進んで誓約した。天皇を守るための日米の共働作業がどれほど緊密に維持されたかは、1947年12月31日の法廷で東条が証言したさいに明らかになった。このとき東条は、天皇の無実についてあらかじめ合意された路線から一瞬逸脱して、天皇の権威の絶対性に言及したのである。アメリカ主導の「検察当局」はただちに、東条がこの証言の撤回をするよう、秘密裏に指導した。

東京裁判のまやかしの一端。

「巡幸」といわれる天皇の旅行には、行幸すなわち「威厳ある天皇の訪問」の持つオーラはさけられないものだったが、一方この歴訪は、「大衆との意思疎通(マスコミュニケーション)を重んじる天皇制」の始まりをしるすものでもあり、これ以降、天皇はいわゆる著名人へと変身するのである。(第11章 責任を回避する 天皇制民主主義3)

今はもう手元に無いのだが、ずっと昔、家のアルバムに、天皇行幸のスナップ写真が一枚だけあった。撮影場所は武雄温泉楼門前と思しい。昭和天皇は武雄にもやってきたらしい。ちょっとピンぼけの昭和天皇は何か哀れを誘う風情だった。

君主制と民主主義の理想と、そして平和主義の結合--およそ近代国家のうちで、これほど見なれない憲法はあったためしがない。そしてそれまでまったくなじみのなかった文書が、やがて国民憲章としてこれほど完全に吸収され、力強く擁護された例は少ない。この憲法には、征服者の痕跡がまぎれもなく認められたし、日本の保守派エリートたちには衝撃を与えた。それはやはり両性具有的であった。しかし新憲法は平和と民主主義への民衆の熱望を、じつに注目すべきやり方でひきだしたのである。そして実際、そこには相反する2つの面があった。しかしそれは、人々の平和と民主主義への熱望を、じつにきわだったやり方でひきだしたのである。

第12章と第13章では日本国憲法が取りあげられている。その注釈の参考文献で、やたら出てくるのが、先般読んだ「新憲法の誕生」(小関彰一)。

近衛や松本の憲法改正プロジェクトの他にも、少なくとも12の憲法修正案が1945年秋から1946年3月にかけて提示された。その中でもっとも影響力があったのは、憲法研究会である。進歩的知識人であり、社会党と憲法研究会による草案作りの一員でもあった高野岩三郎は、個人としても重要な憲法草案を公表した。


近衛文麿と松本烝治のスタンスは新憲法は日本帝国憲法の手直しで充分というもので、密室で少数で(ほとんど松本が主導)作られた。

起草委員会のなかで軍政用の訓練を受けていた数人は、日本語も多少理解した。しかし日本についての正確な知識を持っており、日本に滞在した経験もあったのは、ピークとワイルズを除いては、22歳のユダヤ系女性、ベアテ・シロタだけであった。彼女はウィーンで生まれ、ピアニストだった父親が日本の東京音楽学校に職を得た関係で、子供の頃に両親とともに来日……高校を卒業した15歳のとき、彼女は流暢な日本語を話し、他に4つの外国語を操るようになっていた。

GHQの憲法チームには女性も含まれ、中でもこのシロタは、新憲法の一部で決定的な役割を果たしている。

起草者のあいだには、自分たちが何を作成しているのかについてある種の曖昧さがあった。彼らのほとんどが、日本のために本物の憲法--単なる見本あるいはガイドラインとしてではなく、理想的なものという意味においての「モデル」憲法--を起草しているのだと疑いもなく信じていたようだ。(第12章 GHQが新しい国民憲章を起草する 憲法的民主主義1)

良い意味でのアマチュアリズムがあったのかな。

アメリカ側は、日本人がGHQ草案を「翻訳」する際に、多くの実質的な変更をもぐりこませていたことを発見した。例えば英語の「advice and consent(助言と同意)」は、日本語訳では「輔弼及協賛(advice and assistance)」となっていた。日本政府の翻訳と称するものは、「人民ノ意志ノ主権」を強調したGHQ草案の前文を省略し、家族制度の廃止を条文化した条項を削除し、衆議院の権威を制限するような参議院の創設を提案し、中央政府による支配を容易にするように地方自治に関する条項を変更してあった。

今思うと「前文」のない新憲法は考えられない。

技術的な理由から、新憲法は明治憲法の「改正案」として、天皇によって国会に提出されることとなった。マッカーサーとと日本の天皇制支持者両方にとって、これは幸運であった。憲法の制定と天皇の救済が一度に行えたからである。この後、天皇は憲法制定の重要な段階のすべてにおいて関与することとなった。6月20日、天皇は、既定の手続きに則って、臨時国会の開会を宣し、修正された憲法草案をその他の法案と共に提出すると述べ、さらに国会がこれらの案件を「調和の取れた精神で」審議するよう希望すると宣したのである。新憲法は主権が国民にあることを明文化していたが、それは実際は天皇自身からの贈り物として国民に与えられたものだということになる。「上からの革命」と「天皇制民主主義」は、この儀礼を通じて融合したのである。

こうした深謀遠慮のおかげで、新憲法がすんなり受け入れられたのだが、後に禍根を残すことにもなった。

その後の国会審議は活発で実質を伴ったものだった。憲法問題の内閣主席スポークスマンとして松本烝治の後任となった国務大臣・金森徳次郎は、約1300もの公式質問に答え、時に返答は詳細にわたった。両院における国会審議の筆記録は最終的に合計3500ページを越えるものとなった。

金森徳次郎は新憲法審議の重鎮であり、与野党の攻撃の防波堤の役割を果たした。瑕瑾も数々あったけど。

反動的な修正の動きとしては、政府や国会は、在留外国人法に基づいて外国人にも平等な保護を提供するという条項の廃止に成功し、GHQの当初の意図を掘り崩した。
GHQ草案の中には人種や国籍による差別を明白に禁止する文言が含まれていた。しかし佐藤たちは言葉のごまかしを通じてこのような保証を削除してしまったのである。「国民」とは、「あらゆる国籍の人々 all nationals」のことだと占領軍には主張し、それによって実は政府は、台湾人やとりわけ朝鮮人を含めた何十万という旧植民地出身の在日外国人に、平等な市民権を与えないようにすることに成功したのである。この修正のもつ露骨な人種差別性は、その後の国会審議での「用語上」の修正をへてさらに強化されていった。これが1950年に通過した、国籍に関する差別的な法案の基礎となったのである。


ここは押さえとかなくては。

新憲法が発効したその日、政府は『新しい憲法、明るい生活』と題したポケットサイズの小冊子を2000万部発行した。この冊子は、憲法そのものと同様、強制の下で書かれた文章であった。が、同時にまた多くの日本人が抱く理想主義も表現していた。「マッカーサー憲法」の修正は、占領軍が撤退する以前から、保守派のグループにとって国家主義の大義名分となっていたが、『新しい憲法、明るい生活』というタイトルの単純で楽観的なレトリックは、その後何十年ににもわたってあらゆる修正の試みをくじくに十分な大衆的魅力を持っていた。(第13章 アメリカの草案を日本化する  憲法的民主主義2)


『新しい憲法 明るい生活』

民間諜報局のなかの民間検閲部(CCD)にひとつの官僚機構が生まれ、野放図に広がっていったのである。CCDの検閲官たちは民間情報教育局(CIE)打ちの「積極的」デモクラシー推進派に強く支えられていた。検閲は、新聞、雑誌、教科書、一般書、ラジオ、映画、古典芸能を含む演劇と、あらゆる形態の報道と演劇表現に及んだ。これに加えてCCDの4年間の「政権」期間中に、なんと3億3000万点という驚くべき数の郵便物が抜き取り検査され、およそ80万の私的な電話が傍受された。
なかでもとりわけオーウェル的だったのは、禁止事項のなかに、検閲が行われていることをけっして公式に認めてはならない、という項目が含まれていたことである。


これ関しては、石川達三の「生きている兵隊」をめぐる戦時中の検閲を論じた「戦争と検閲」(河原理子)に戦後の検閲に触れてあった。検閲のあること自体を隠しておくという、周到なやり方=オーウェル的(^_^;)

日本人がアジアでの戦争を指して使っていた「大東亜戦争」という呼称が禁じられ、代わりに「太平洋戦争」と呼ばなければならなくなった。この変更は、宗教的・超国家主義的教化の排除を目的としたSCAPの広範にわたる命令の一環として1945年12月半ばに導入されたが、これは語義的帝国主義の行為にひとしいものであり、ひいては予期せぬ結果も生んだ。「大東亜戦争」は、そこに侵略的排外性はあるものの、あの戦争の中心を中国と東南アジアにはっきりと据えていた。ところが新しい名称は戦争の重心をあきらかに太平洋に移し、日本とアメリカ合衆国とのあいだの紛争を第一義的にした。この変更には陰謀の要素はまったくなく、征服者の反動的自民族中心主義の反映でしかなかったが、結果として、日本と戦ったアジアを、この占領における多少なりとも意味ある役割から基本的に閉めだし、先の戦争をとくていするための用語から排除してしまったのである。このような不得要領な呼称変更は、日本人に戦争の罪を自覚させるどころか、自分たちがアジアの隣人たちに何をしたかを忘れさせるだけであった。
あの戦争をなんと呼ぶかは、戦争のイメージ形成に決定的な意味をもつ。日米戦争だけを取り上げるなら「太平洋戦争」でもそれほど間違っていないが、中国との戦いが完全に見えなくなってしまう。

沖縄は、その戦略的好位置のために、アメリカによるきわめて厳しい管理のもと、秘密のベールにすっぽりおおわれたまま冷戦下の大規模軍事基地へと変貌されているところだった。占領期をとおして、というより1955年になるまで、沖縄についてのニュースや論評は報道メディアにいっさい登場しなかった。(第14章 新たなタブーを取り締まる 検閲民主主義)

日本の中の北朝鮮みたいな存在になってたわけだ(^_^;)

もと陸軍大将松井石根は、配下の部隊による南京大虐殺の惨事の防止を怠ったという「消極的責任」だけを理由に死刑判決を言い渡された。一般大衆がもっとも驚き、衝撃を受けたのは、もと外務大臣で首相だった広田弘毅が死刑判決を受けたことだった。広田は、全体的共同謀議と、中国における残虐行為を防がなかったことを含めて三つの罪について有罪とされた。
東京裁判がショウケース的裁判であると了解したとしても、ある種の集団、ある種の犯罪がそこから見逃されていることはいかにも顕著である。人びとに恐れられた憲兵隊の隊長は誰も起訴されなかった。超国家秘密結社の指導者も、侵略によって私服を肥やし、「戦争の道」を拓くことに親しく関与してきた実業家も起訴されていなかった。日本が植民地統治していた朝鮮人と台湾人を強制動員したことは「人道に対する罪」として追求されなかったし、何万人の外国の若い女性たちを狩り集めて帝国軍人に性的サービスを提供する「慰安婦」として働かせたことも訴追されなかった。また、検察団を支配していたアメリカ自身が、残虐非道さにおいて疑問の余地のない罪を犯した特定の日本人集団を、秘密裏に、そっくり免責していた。満州の七三一部隊で何千人という捕虜を実験台に使って生物兵器を開発していた将校や科学者たちである。(研究結果をアメリカに教えることを交換条件に訴追を免れた)・中国における化学兵器使用の証拠についても、検察は真剣には追求しなかった。


あまりに恣意的、その場しのぎ、適当な死刑執行。お約束の出来レース。そのくせ自国の役に立つものなら犯罪行為にも目をつぶる。

側近に対して深い思いやりと寛容をもっていたという一般のイメージとは逆に、裕仁の独白録によれば、彼は側近の大部分に対して厳しく無慈悲であった。裁判の被告の中で裕仁が肯定的に評価したのは、木戸幸一と、連合国が最大の戦犯とみていた東条英機であった。

たしかに「人間天皇」の面目躍如である。

しばらくすると、勝者の欺瞞は日本のネオ・ナショナリズム思想の主たる骨組みとなり、パルの反対意見は「東京裁判史観」を批判する者たちの手垢にまみれたバイブルとなった。そして、アメリカ政府がたくさんの旧戦争犯罪者をとり込み、反共という共通の目的のために利用したことで--三例だけを挙げれば、重光葵と、右翼のゴッドファーザー児玉誉士夫は占領中からすでに、そして岸信介は1957年から60年の首相時代に--東京裁判の裁定にたいする拒否反応は、複雑にねじれた二国間関係の色合いもまじることになった。(第15章 勝者の裁き、敗者の裁き)

インド人パルの東京裁判に対する否定的意見は、しごくまっとうなものと思うのだが、それが保守派の「手垢にまみれたバイブル」になったといわれれば、それもまたそのとおりというしかない。児玉、岸を赦免して反共の具としたのはアメリカの勝手だろうが、戦後日本の宿痾を野に放つことととなってしまった。

地方に住むある男性は激昂して新聞に投書した--「今度の戦争は私たち農民の一向知らない間に始まり、勝っていると信じている間に負けてしまった。私たちのあずかり知らないことに私たちは懺悔する必要はありますまい。国民を欺いていた背信の人々にこそ懺悔は必要です」。一億人のなかのもうひとりはさらに単刀直入だった。「戦争当局が、責任を国民に分配するつもるでの一億総懺悔なら、それは卑怯だと思う」(第17章 負けたとき、死者になんと言えばいいのか?)

一億総懺悔に対する草の根的批判。いつも権力は卑怯である。

アメリカも、冷戦を考慮しなければならないために、「非軍事化と民主化」という当初の理想の多くを「船外投棄」しはじめた。そしてその過程で、日本社会の保守的な勢力と、ひいては右翼勢力とさえ、公然と歩調をあわせるようになっていった。そこには、日本があの戦争と切っても切れないかかわりをもつ者たちも含まれていた。戦犯容疑で逮捕されていた有力者たちの起訴がとり下げられた。経済は巨大資本家や中央官僚の手中に戻った。戦時中に政治家やその他の指導的立場にあった者たちは公職につくことを禁止されていたのだが、しだいに「追放解除」され、それと裏腹に、急進的な左翼が「レッドパージ」の大勝になった。真に民主的な改革の理想はどんどん遠ざかり、夢のまた夢となっていった。占領が終わる前、この劇的な方針転換を日本のメディアは「逆コース」と呼んだ。

「レッドパージ」をアメリカでは「マッカーシズム」ということから、Morris.はずっとマッカーサーが主導したことからの命名だと誤解していた(^_^;)
「逆コース」という言葉は耳に残っている。

傲慢なアメリカの存在に嫌気がさして、大衆文化にソフトな反革命ともいうべきものが生まれてきた。流行歌では、ずばりアメリカ的なブギウギ調が下火になり、昔ながらのセンチメンタルな感傷がもどった。1949年以降は、放浪、寂しさ、あきらめ、郷愁がつのって憧れは抑えきれず……、といったムードが詞にも曲にも支配的になった。こうしたほろ苦くも甘美な感情に強く訴えかけるカリスマ的存在が美空ひばりだった。ブギウギを歌って一躍スターになった1937年生まれのこの早熟な少女歌手は、占領が終わる前にはすでに、センチメンタルな「土着」の情緒を代表する歌い手になっていた。

センチメンタルな土着のカリスマ。当たらずとも遠からずだが、美空ひばりはそれを越えたなにかがあると思う。

この戦争に突入したときも、そこから這い出たときも、日本人はほぼおなじくらいぼんやりしていた。1941年に真珠湾攻撃にでたとき、軍部や文官の指導者たちは、アメリカ合衆国の工業生産力についても、目前に迫る大々的な衝突がどのような道筋をたどるのかについても、真剣に長期的予測をたてなかった。当時、東条首相は「清水の舞台から飛び下りるしかないこともある」と言った。戦争が終わったときも、エリートたちは、先の計画を立てることに関してはいい加減以外のなにものでもないことを自ら暴露した。戦争経済から平時経済への転換について、あるいは、平時経済とはどんなものかについて、真剣に考えた者はごくわずかだった。官僚も実業家も政治家もそろって、いまだに「清水の舞台」妄想のなかにいるようだった。--映画フィルムの逆回しのように、なんとか後ろ向きにジャンプして、また清水の舞台に跳びあがれるだろう……


痛烈な日本批判(>_<)

帝国会計士ドッジの目には、安定、経済復興、自給自足、といった新しい合言葉はすべて、インフレーションと国内消費の抑制と活発な輸出部門の促進にひとえにかかっていた。そのため、1949年4月、事実上独断で為替レートを1ドル360円に設定した。その一ヶ月後には、商工省と貿易庁などが合併して、未曾有の力を誇る通商産業省が誕生した。独占禁止法は改定され、企業間の株式相互持合い、合併、取締役兼任なのど規制が緩和された。
1950年にドッジ・ラインはインフレーション抑制に成功したが、その代償は、政治的立場の違いを問わず、すべての日本人の口に苦いものだった
ドッジの政策が最終的に事実上の不況に終わったかどうか、それはわからない。その年の6月25日の挑戦戦争勃発を安定恐慌は終わり、代って、アメリカの「特需」に刺激された軍需景気が始まったからである。


1949年と言えばMorris.の生まれた年。この年に1ドル360円に固定されたのか。そして翌年の朝鮮戦争……

軍需景気はさらに、W・エドワーズ・デミングが提唱した「品質管理」方式の日本での普及にも有利に働いた。デミングの品質管理の発想は、日本の崇拝者たちによって新しい生産サイクルと新しい企業的冒険の開始段階に組みこまれ、その後何十年も影響力をもちつづけることになった。(第17章 成長を設計する)

デミングの「品質管理」。これは聞いたことがある。戦後日本の高度成長にこの「品質管理」が果たした役割は大きかったのだろう。

日米安保条約と、これにふずいして作成された「行政協定」は、戦後合衆国が締結した二国間の取り決めのなかで最も不平等なものとなった。アメリカ人は他に例のない治外法権をひきつづき手にし、アメリカが日本に要求した軍事施設は、誰のよそうをもはるかに超えて法外な数にのぼった。『ニューヨーク・タイムズ』紙の高名な軍事評論家であったハンソン・ボールドウィンは、これは「日本が自由で、しかも自由でない時代」の始まりであると、ずばり指摘した。

今の「日米地位協定」の大元である。治外法権、超不平等条約。

公式には1952年4月28日午後10時30分、主権は回復された。……このあと間もなく実施された世論調査では、日本は独立国家になったかとの問いに「はい」と答えた者は41%しかいなかった。

笑うに笑えない。

戦後「日本モデル」の特徴とされたものの大部分が、じつは日本とアメリカの交配型モデル a hybrid Jpaneese-American model」というべきものであったことがわかる。このモデルは戦争中に原型が作られ、敗戦と占領によって強化され、その後数十年間維持された。そこに貫いていた特徴は、日本は脆弱であるという絶え間ない恐怖感であり、最大の経済成長を遂げるためには国家の上層部による計画と保護が不可欠だという考えが広く存在したことであった。この官僚性的資本主義は、勝者と敗者がいかに日本の敗北を抱擁したかを理解してはじめて、不可解なものではなくなる。

本書のキモである。

結局のところ、天皇の声を臣下たちがはじめて聞いた瞬間にはじまった「長い戦後」は、1989年に真の終わりを迎えたといえる。つまり、戦後は44年間つづいたのである。

戦後の終わりが昭和の終わり。これは説得力を持つ。そして平成の終わりが「戦前の終わり」になるのではないかという恐怖(^_^;)

戦中のシステムと戦後のシステムが締め金(バックル)でつながっている--。そう表現する場合、連合国最高司令官こそがその締め金であった。じつは軍部の支配下にあったのは1945年までではなく、1952年に占領が終わるまであったのである。

戦中戦後を通じて軍事支配下にあったという事実。

憲法九条は絶え間ない攻撃にさらされ、「自衛」力を維持するという名目の下で次々と拡大解釈が重ねられてきた。にもかかわらず、前文の力強い戦争反対の言葉とともに依然として九条は不戦の理想を魅力的に表現したものとして今日まで生き延びてきた。その「戦争廃絶」という発想は、第二次世界大戦を経験した世界中の多くの人々の心の琴線に触れた。ただ、それを憲法や法律に明記したのは、ついに日本以外では見られなかった。そこで日本では、再軍備をめぐって意見の衝突が起こるたびに、法律や憲法による保証とはどうあるべきかという基本問題や、戦争と平和という基本線へと必ず議論が戻っていった。かくして、誰が計画したわけでもなく、占領初期の「非軍国主義化および民主主義化」という理想は、半世紀以上にわたり民衆の政治意識の中に生き続けたのである。
「九条に自衛隊を明記する」という安倍総理の「個人的」改憲は、そもそもからして矛盾している。

日本の平和活動家のなかには、日本人の残虐行為を立証し公開すること努力した人たちがいるが、そうした人々でさえ、東京裁判のやり方や天皇の戦争責任を免除したアメリカの決断を支持することはできないでいる。そしてアメリカが、のちに首相になった岸信介のような右翼の戦争犯罪人を、冷戦の寒気の到来とともに釈放したかと思うと公然と抱きしめ、かばいだてしたことも支持できないでいる。

そう、断固支持できない!!!!!!!

日本はどうすれば、他国に残虐な破壊をもたらす能力を独力でもつこともなく、世界の国々や世界の人々からまじめに言い分を聞いてもらえる国になれるのか? この問いこそ、「憲法九条」が残し、「分離講和」が残し、「日米安保条約」が残したものである。それは軍事占領が終結し、日本が名目的な独立を獲得したときの従属的独立 subordinate independence の遺産である。
憲法九条を放棄すれば、日本は過去の敗北を取り消そうとしているとい激しい抗議を招くことは疑いの余地がない。日本の保守派以外に、南京虐殺を忘れている者などだれ一人としていないからである。(エピローグ)


「忘れている者」よりは「知らない者」の数の方が多くなっているのではないだろうか(;;)
本書によって、様々なことを知ることになったし、改めて確認できたことも多かった。しかし、本書が書かれてからすでに20年過ぎている。現在の状況は、ここからどう変わっているか、そして未来はどうなるのか、どうすべきなのか、目をつむり、耳を塞ぎ、口を閉ざしていてはなるまい。←言うだけならばなんにもならない。



【空海の風景】司馬遼太郎 ★★★☆☆ 1983/10/15 「司馬遼太郎全集 第39巻 文藝春秋 初出『中央公論』1973-75 単行本(上下二冊) 中央公論社 1975年 2018084

単行本が出た当時に読んだ記憶がある。35年ほど前ということになる。

すでにインドにあっては雑密世界を超越して『大日経』とあたらしい密教的世界把握が成立し ているということを空海は知らなかった。しかもその経典は日本にきているという。空海のこの「発見」は、日本の思想史、もしくは東洋の思想史にとって、ふ りかえっていえば驚天動地の事態であるといえるかもしれない。なぜならば純粋密教というのは、空海がそれを確立したもの以外にはその後ほどなくインドでも 中国でも消え、チベットではすぐさま変質し、今ではどこにも遺っていないからである。空海の思想のみが遺った。
『大日経』七巻三十六章は、すでにインド僧の手で唐の長安にもたらされ、そこで漢訳されている。その漢訳が完成してわずか5年後の730年に日本につた わっていることをおもうと、この当時の東アジアにおける交通の活潑さに目をみはらざるをえない。何者がこの「未見」の経典をもたらし来たったかについては いまとなればよくわからない。古来、インド僧がもたらしたという説がある。常識として、遣唐使節のたれかが目にとめてもち帰ったのであろうという想像のほ うが、なだらかでいい。日本に招来されると、さっそく書写もされている。ところがそのまま、経蔵にあるぼう大な経巻のかげにうずもれてしまい、半世紀ほど 経て空海がそれを見るまで、たれもこの経を解せず、ついいは所在さえ知れなくなってしまっていた。
重要なのは、華厳経に出現する毘盧遮那仏が、大日経にも拡大されて出てくることである。
毘盧遮那仏は釈迦のような歴史的存在ではなく、あくまでも法身という、宇宙の真理といったぐあいの、思想上の存在である。毘盧遮那仏の別称はいろいろあ る。遍照ともいう。光明遍照ともいう。浄満、あるいは厳浄などともいう。あたかも日光のごとく宇宙万物に対してあまねく照らす形而上学的存在という意味で あり、ごく簡単に宇宙の原理そのものといってもいい。この思想を、空海ははげしく好んでいただけでなく、さらに「それだからどうか」ということに懊悩して いたはずであり、その空海の遣り場のなかった問いに対し、『華厳経』は答えなかったが、『大日経』はほぼ答えて得てくれているのである。(六)


7世紀、8世紀という遠い昔に、日本という島国に東アジアの文化交流(流入)がこれだけ濃密になされていたということだけでも驚きであり、司馬の講談風の 説明は、無知の読者(Morris.のことね)にも、すごいと思わせてくれる。毘盧遮那仏といえば、奈良東大寺の大仏を思い出すが、大仏開眼が752年だ から、やはりあの時代はエネルギーが半端じゃなかったようだ。

陰陽説とはおそらく中国の古代の農民が、日光がつくりあげる風景のあざやかな変化を見、日 当りのわるい所(陰)にできる作物と日当りのいい所(陽)に出来る作物のちがいにおどろき、農村にいた天才がこれに触発されて形而上化したものであろう が、やがて点も地も人事もことごとく陰と陽という二元からなりたっているということを言い出し、素朴な生活実感に根ざしたものだけにそれが承認されひろま るのは早かったにちがいない。やがてそれが一種の疑似科学として日本にも入ってきて、それをつかさどる役所もでき、役人もおかれた。遷都などという場合に は、当然、治部省の陰陽寮に命じて地相を見させたり、遷都についてのさまざまの日取りなどを決めさせるのである。科学であったといっていい。(七)

ここらあたりも、司馬の香具師的口上がおもしろい。そしてこれが「科学」だったというあたり(^_^;)

歴史の奇跡といえるかもしれない大唐の長安の殷賑を、どう表現していいか。空海の幸運は、生身でこの中にいたことであった。かれはこの世界性そのものの都 市文化の中で存在するだけで、東海の草深い島国にいるときに観念でしかとらえることができなかった文明とか人類とかというものを、じかに感得することがで きたにちがいない。ちなみに、空海は、ながい日本歴史のなかで、国家や民族という瑣々たる特殊性から抜けだして、人間もしくは人類という普遍的世界に入り えた数すくないひとりであったといえる。その感覚の成立は、あるいは長安という「るつぼ」を経なければ別なものになっていたのではないか。(十三)


たしかに、とんでもない偶然、そして空海の運の強さ。時と空間を得てこそ空海の天才が発揮された。たしかにこれはひとつの奇跡だろう。

仮リに原密教ということばをつかうとすれば、それはもともとインドに古くから存在した魔術に過ぎなかった。
現世を否定する釈迦の仏教に対し、現世という実在もその諸現象も宇宙の審理のあらわれである、ということを考えた密教の想像者は、宇宙の審理との交信法として魔術に関心をもった点が、釈迦といちじるしく異なっている。

原始密教=魔術\(^o^)/

金剛頂経系は智(精神の原則)を説き、大日経系は理(物質の原理)を説く以上、双方異質なものであることはいうまでもない。
「両部不二」という、密教史上未到の着想は恵果に所属するとはいえ、それを論理化するという気の遠くなるような作業を、空海が負わされているのである。表 現を変えていえば、「両部不二」の思想は、恵果においては流動体であったのを、空海はそれを精製して結晶体をつくりださねばならなかったといっていいい。 (十九)


上手い!!

もともと人類的人間などというものは、本来、成立しがたい。その国の権力社会を心の中では 足蹴にかけて嘲弄し去ってしまうところから出発せねばならないであろう。たとえば空海はのちの嵯峨天皇との交友においても嗅ぎとれるように、自分と天皇と の関係を対等というより、内心は相手を手でころがして土でもまるめるようなつもりでいたらしい気配がある。しかし露骨にそれをあらわせば地上の権力という ものは何を仕出かすかわからないために、自分の密教をもって鎮護国家を説き、あるいは教王護国などといって恩を売りつけ、地上の権力を自分の道具として思 想の宣布をはかろうとした。このことは、唐の玄宗皇帝に対する西域僧不空のやり方とそっくりであるといっていい。(二十)

天皇を道具として使う、ということから、明治維新を思い出した。

真言密教は宇宙の気息の中に自分を同一化する法である以上、まず宇宙の気息そのものの中に いる師につかねばならない。師のもとで一定の修行法則をあたえられ、それに心身を没入することによってのみなま身の自分を仏(ぶつ)という宇宙に近づけう るのである。空海は三密という。三密とは、動作と言葉と思惟のことである。仏とよばれる宇宙は、その本旨と本音を三密であらわしている。宇宙は自分の全存 在、宇宙としてあらゆる言語、そして宇宙の三密に通じる自分の三密--印をむすび、真言(宇宙の言葉)をとなえ、そして本尊を念じる--という形の上での 三密を行じて行じ抜くこと以外に、宇宙に近づくことができない。それを最澄は筆授で得ようとするか、と空海は思いつづけている。(二十五)

空海と最澄の相克はよくわからないのだが、高野山、比叡山ともに現在まで隆盛をほこっているのだから、どっちもすごかったといえる。

最澄はこれ以後、閉鎖的になった。自分の教団の壁を高くし、弟子の他宗に流れることをとど める諸法則、諸制度をつくり、その意味で叡山そのものをいわば城郭化した。最澄や空海が学んだ中国の仏教も奈良仏教も、諸宗が存在するとはいえ宗とはあく までも体系であり、互いに宗門の壁を設けることがほとんどなく、僧たちは自由に他宗と往来している。そえれに対し、日本の宗派が他宗派に対してそれぞれ門 戸を鎖し、僧の流出をふせぐという制度をとるにいたるのは、この泰範の事件以後とされる。その意味では、泰範の事件以後とされる。その意味では、泰範はつ いに無名の存在としておわるとはいえ、日本の教団社会史上の存在として、見のがしがたいといっていい。(二十七)

確かに日本仏教の宗派間の閉鎖傾向は門外漢のMorris.にもなんとなくわかる。その原因に衆道愛めいたいざこざがあったというのも、ちょっとおかしい。

空海は東寺に講堂を建立し、そこにおさめた二十一尊の仏像(五仏、五菩薩、五大明王、六天)は、わが国最初の密教の正規の法則(儀軌)による彫像であった。密教の造形上の法則とシステムは、高野山に先んじて東寺において大完成した。
空海は、東寺を密教の道場にするにあたって、思いきった閉鎖的方針をとった。東寺に他宗の者を雑居せしめないということであった。この空海が立てた新法則 は、唐にもなく、日本の南都仏教にもなかった。唐においては、寺というものが一宗で独占するというものではなく、他宗に対してつねに開かれ、その寺の特徴 とすべき学問や業法を学びたい者ならば、その槽が何宗を奉じていようともかまわず、この原則はいまなお中国の寺院においてはつらぬかれているその風を、日 本の奈良仏教は受けた。
しかし、空海は閉ざした。
密教を一宗として独立させようという大目的のため他者への拒絶とみるべきであった。しかしながら、空海以後の日本仏教の各宗が宗派仏教としてたがいに胸壁 を高くし、矮小化してゆく決定的な因をなした空海もまた最澄と同様、その責をまぬがれえないともいえる。ただ論理体系とはつねに「狭キ心」から出ていると いう一般論のレベルかれいえば、空海はこの国にあらわれた最初の論理家ということもいえるであろう。
東寺の密教化と併行してつづけられている高野山の造影もまた、空海の論理と拒絶姿勢と、そして独立体系の造形化として受けとれる。(二十九)


Morris.にとって、空海と密教=東寺みたいな印象があった。とにかくあの講堂の異形の神々はものすごいインパクトがある。

私がこの作品を書くにあたって、自分に対する取り決めをしたことは、いっさい仏教の術語を つかわない、ということであった。術語を記号化することによって、その上で文章を成り立たせるというのは学術論文の場合はそのことが当然だが、にんげんに ついての関心だけを頼りに書いてゆく小説の場合、有害でしかない。しかし仏教のことをその無数の特殊な術語に頼らずに書けるものであろうかということにつ いては不安であり、書きつついよいよ不安が募らざるをえなかった。術語を用いれば思想の型としての正確さは当然期しうるが、術語を砕ききってこんにちのわ れわれの言語で考えてゆく場合、当然誤差はつきまとう。その誤差は、覚悟の上で書いた。それでもなおすこしの部分は術語に頼った。頼った部分だけ、私のこ の創作上の気分としては、空海がより遠くなっている、といまでも思い、多少の悔いが残っている。(あとがき)

これまた司馬らしい物言いである。仏教専門用語を極力使わずに説明することで仏教に冥い読者(Morris.のことね)への敷居を低くするととともに、自らの親切さ(と力量)をアピールしているわけだ。

これを再読してから雑誌『遊』(1976)の「存在と精神の系譜」を見たら、9番目に空海の頁があって、その中で松岡正剛が以下のように書いていた。

司馬遼太郎の『空海の風景』はなかなか怖るべき洞察力に満ちた作品だった。空海の輪郭を知 るにはまずこの一書から始めるのがどんな研究書に頼るよりも速いだろう。しかし、惜むらくは長安における空海の異教に対する摂取力を軽視した。この富永仲 基や清沢満之にも並々ならぬ関心を払う作家は、空海が祆教(けんきょう=ゾロアスター教)や景教(古代キリスト教ネストリウス派)などには動じなかったと 解釈を下した。…われわれは、敢えて空海がゾロアスターの教えやキリスト教の異端であったネストリウスの考え方に「大いに」動じたと憶測するものだ。

松岡に「怖るべき洞察力に満ちた」と言わせるだけの作品だったわけだ。
今回再読したのに、特別の理由はないが、読み直してよかったと思う。

【SOSの猿】伊坂幸太郎 ★★★☆☆ 2009/11/25 中央公論新社 初出「読売新聞夕刊」1995-96 2018083
伊坂の作品はたいてい読んでるけど、これは読んでなかったと思い読み出したのだが、途中でやっぱり読んでたことに気がついた(>_<) 自サイト検索窓でチェックしたら、2012年に読んでた。でも、内容ほとんど覚えてなかったので、そのまま最後まで読み通した。

この男の中には、「繊細な男」と「図太い男」の二人がいて、失敗をするのはいつだって繊細な男のほうだけ、図太い男は図太いまま、そういう具合なのだ。何千回、反省をしたところで、再発防止にはまったく繋がらない、ミスが治らない人間の典型とも言える。まさにうっかりミスをするために生まれてきたかのような男ではないか。
もちろん法的な責任はない。田中徹のうっかりミスや、そこから生じた損害に、課長のしかめ面が関係しているとはさすがに言うことができない。が、そこに因果関係を思わずにはいられないのも事実だった。もし、あの課長がもう少し穏やかで、部下がコミュニケーションを取りやすい雰囲気を作っていれば、田中徹は、システムの警告メッセージをむししなかったかもしれない。もちろん、それでも無視をした可能性は高いが、課長がまったくの無関係で、責任が皆無だとも言い切れない。言い切りたくない思いが五十嵐真の中にはあった


この部分は、Morris.のうっかりミスでも、すべてMorris.のせいではなく、いろんな要素が絡み合った結果だ、と思うとちょっとは気休めになる。回復に手間取っている、先般のトラックからの転落事故にしても、引用にあるような因果関係があったのかも……

「わたしはね、昔から、いろんなことにくよくよしちゃう性格だったのよ。誰かを傷つけたりしないか、誰かが泣いたりしていないか」と母がいう。救急車のサイレンについて、「どこかで誰かが痛い痛いと泣いてるのよ」と説明してくれた頃の彼女を思い出した。
「今もね、それはかわらないんだけど、その、『くよくよ』を表に出してもしょうがないって思うようになったのよ」
「表に出しても? どういう意味?」
母は説明が億劫になったのか、それとも、照れ臭かったのかわからないが、それ以上の説明を拒むように、「まあ、くよくよ悩んだところで、死んだらおしまいだ、、って気づいたのよ。お父さんが亡くなって、どうせなら、見かけだけでも楽しく生きたほうが得だって気づいたしね」と早口で言った。


くよくよしないで、「見かけだけでも」楽しく生きたほうが得。これは見習わなくては、と思ってしまった。

巻末の参考文献の一部。

「バチカン・エクソシスト」トレイシー・ウイルキンソン 文藝春秋
「尼僧ヨアンナ」イヴァシュキェビッチ 岩波文庫
「失敗の心理学--ミスをしない人間はいない」芳賀繁 日経ビジネス人文庫
「分析心理学」ユング みすず書房
「ユング自伝」ユング みすず書房
「社会的ひきこもり」斎藤環 PHP新書
「ユング心理学入門」河合隼雄 培風館
「転生--古代エジプトからよみがえった女考古学者」コット 新潮社
「西遊記--トリックワールド」中野美代子 岩波新書

【新憲法の誕生】古関彰一 ★★★★ 1989/05/25  中央公論社 中公叢書 2018082

ジョン・ダワーの「敗北抱きしめて」を読んでいて、憲法関連の章の注釈に、本書が嫌というほど引用されてたので、これは先に読んでおかねば、という気になった。神戸市立図書館検索で探したら、中央図書館の書庫に一冊だけあった。
実に実証的な労作である。アメリカ(GHQ、マッカーサー)の「押しつけ憲法」であるという俗説にはおさまらない、複雑で豊かな成立過程、若い理想主義者の熱情、平和への祈り、様々な立場からのせめぎ合い……面白くてためになる一冊だった。

憲法制定過程が現実の政治に組み込まれるきっかけは、松本烝治(草案起草当時の国務大臣で憲法問題調査委員会委員長)が1954年7月に自由党憲法調査会(会長・岸信介、1954年3月設立)でかなり感情的に「押しつけ」られた事実を証言したことに始まる。この調査会がMSA協定によって義務づけられた自衛隊(1954年設置)を合憲化するための憲法改正を目的としたものであったことは言うまでもない。この松本証言がきっかけとなって憲法制定過程への関心はにわかに高まり、その後の政府の憲法調査会(1956年設立)にひきつがれた、とみることができよう。
つまり、憲法制定過程への関心や研究は、憲法改正問題に動機付けられて出発したのであった。そのため関心の焦点がつねに「押しつけはあったのか、なかったのか」という点に置かれてきた。押しつけが「あった」「なかった」「致し方なかった」と結論は様々であるが、いずれにしても憲法制定過程は国家対国家の対立の図式、米国=GHQ対日本政府の対立の図式として描かれることになってしまった。著者も憲法は「手続的には」GHQによる日本政府への押しつけであったと考えざるを得ないのであるが、こうした図式によって憲法の制定過程が描かれ、また関心が持たれてきたことが、日本国憲法の制定過程はもとより、日本国憲法そのものの意義をも理解しにくくしてきたことは否定出来ないだろう。

だが日本国憲法誕生の過程は、実は国家をこえて多様かつ複雑でしかも豊かであった。
憲法理念においてGHQ系と日本の民間団体の案とにはかなり共通性がみられる。
GHQの側も「押しつけ」の手続にいたっては、本国政府(国務省)、極東委員会からきびしい批判に晒され続けた。この間マッカーサーは完全に孤立していた。民政局の女性により女性の権利を詳細に織り込んだ素案は最終的には男性に削られる。ところが、GHQ案を基にしてつくった政府案が議会に上程されると今度は日本人の女性職員が、さきのGHQの女性のつくった素案とほぼ同様な修正提案をしている。そして結局GHQ同様、議会でも男性により無視される。
つまり、憲法制定過程とは決して国会対国家の対決という図式によって解明されるものではなく、国家をこえた憲法観、法思想の対決という図式によって、はじめて解明されうるものであろう。そこには議論を尽くさず妥協の産物として織り込まれた条文、日本の法制官僚がGHQに気づかれず明治憲法の痕跡を残すことに成功した条文、GHQ案にない条文を日本側の官僚、あるいは議員が全く新たに織り込んだ条文、いまからみると重要であっても当時は大勢に受け入れられず素案の段階で消え去った条文などがある。日本国憲法はモザイク模様なのである。
憲法を国家対国家の対決の図式で捉えてきたことは戦後がもつ戦前との連続面をきわめて見えにくくしてきた。日本国憲法を「押しつけられた」とみる改憲派からも、日本国憲法を高く評価する護憲派からも、日本国憲法の持つ戦前と戦後の連続面は切り捨てられる。日本国憲法の編制が明治憲法に酷似していることは言うに及ばず、社会革命をともなわなかった戦後改革の中で、「日本国は君主国とす」との自由党案をつくった法制官僚が、半年後には政府改正案を擁護する憲法担当大臣となり、あるいはまた戦争末期に学徒動員局長を務めた文部官僚が、一年後に憲法普及会の事務局長となって平和憲法を普及するなどは、戦前と戦後の連続以外のなにものでもないであろう。個々に平和・人権条項がかなり空洞化してきた現在の憲法状況が二重写しになることはないであろうか。

本書は1949年5月までを「新憲法の誕生」として扱っている。マッカーサーは憲法施行(1947年5月3日)に先だって、日本政府に対し施行一年後二年以内に憲法の再検討の機会を与えることを伝えた。これに従い1948年8月には国会に検討のための研究会を設置することになったが、その後改正の動きはなく、改正の機会は第二次吉田内閣下で失われ、1949年5月、憲法は改正されないまま確定することとなった。これは「押しつけ憲法論」を検討する際に重大な問題を含んでいる。本書が1949年5月までをその対象とした理由はここにある。(序 新たな視座を求めて)


序文だけで目が眩みそうになった。

マッカーサーが近衛に憲法改正を示唆したことは、模索のはじまりであった。しかしマッカーサーは相手を間違えていた。と同時に近衛に示唆を与えたことが、本国であれほどまでに反発をかうことになるとは考えていなかったろう。マッカーサーは模索のあとで憲法改正にむけての軌道をいくらか修正し、ガードを固める。本国政府に直結している国務省派遣のアチソン政治顧問を憲法改正問題から除外し始める。(1.模索のはじまり)
近衛文麿が悪しき貴族官僚の典型的人物だったことからすると、たしかに、彼に新憲法を委ねることは考えられないのだが、それは、後から言えることだろう。

民間草案を考える場合、まず忘れてならないのは高野岩三郎(1871-1949)の存在である。
高野は1945年10月29日、若い在野の憲法史研究家鈴木安蔵「民間で憲法制定の準備、研究をする必要があるから、やってくれ」と提案する。これが憲法研究会ができる発端であった。小さな知識人のグループであったが、後にGHQが草案を作成するにあたり、この研究会の起草した草案が多大な影響を及ぼしたことで知られている。

高野岩三郎にとって、天皇制を否定しない憲法研究会案は賛成しがたいものであった。高野は研究会案がほぼ固まった11月下旬から私案の執筆に取りかかる。
高野にとって憲法研究会案が国民の合意を得るためには現実的であると考えつつも、せいぜい大正デモクラシー時代しか知らず、自由民権時代を知らない森戸、大内、あるいは鈴木とちがって」、高野には戦後にかける別の情熱があった。高野は戦後を大正デモクラシーではなく、自由民権運動の延長上に構想していた。
共産主義を除いて、国民のすべてが、「一種の迷信偶像的崇拝の念」に「囚われて」いた時、高野は一人その「私案」を掲げて天皇制廃止を打ち出した。

憲法研究会の中心、高野は自由民権期の民権思想の息吹をかいで成長し、鈴木は自由民権期の憲法思想を研究して戦時下を生きてきた。こう考えると、憲法研究会案とは、自由民権期の憲法思想が、半世紀にわたる弾圧の苦闘のあとでこの二人の歴史の継承者を通じて復権を果たしたことを意味するといえそうである。(2.民権思想の復権--さまざまな民間草案)


明治時代の自由民権運動の中で生まれた民間憲法草案が、新憲法に影響を与えるという奇跡的ストーリー。

1946年2月1日朝、『毎日新聞』が「憲法問題調査委員会試案」全文を一面トップで報じた。
「試案」に対する評価はきわめて悪かった。「試案」を報じた『毎日新聞』自身が「あまりに保守的、現状維持的のものにすぎないことを失望しない者は少ないと思ふ」と評したほどであった。GHQの評価はさらに悪かった。この「試案」を知ったことによってGHQの憲法改正にたいする態度は基本的に変わる。
松本を中心に運営されてきた調査委員会が、かりに謙虚な姿勢で委員会の内外の意見をとり入れようとしていたならば、かくのごとくそれなりに豊かな構想があったのである。にもかかわらず、これらを無視してきたことは、松本の「自信家」という個性にもまして、松本らがなによりも天皇制に「囚われた民衆」の頂点にいて、「明治憲法」に固執していたことに最大の原因があったといえよう。(3.囚われたる法学者たち--憲法問題調査委員会)

ホイットニーは『毎日』のスクープを待っていたかのごとく、GHQによる憲法草案起草へと動き出す。『毎日』のスクープは政府案を非公式に公表させ、GHQばかりでなく国民にも政府案を知らせ、その評価が低いことを政府に納得させ、政府の正式草案の前にGHQ案を示して「指針」を与え、急速度に草案作成にむかわせる絶好の機会となったことがわかる。これほどタイムリーだと、これは
「毎日のスクープ」ではなく、GHQによる「毎日へのリーク」ではなかったのか、という疑いすら出てきても不思議はない。

検閲だけでなく、マスコミへの影響力も大きかったGHQだから、これは疑い、というより確信に近い。

1946年2月3日マッカーサーはホイットニーに対し、「マッカーサー三原則」として知られる憲法改正の必須条件を示した。
1.天皇は国の元首の地位にある。皇位は世襲される。
2.国権の発動たる戦争は禁止する。日本は軍隊を持たず、交戦権が軍に与えられることもない。
3.日本の封建制度は廃止される。
これを受けて、ホイットニーは2月4日、民政局行政部の全職員を集めて次のように演説した。
「これからの一週間は、民政局は憲法制定会議の役をすることになる。マッカーサー将軍は日本国民のために新しい憲法を起草するという、歴史的意義のある仕事を民政局に委託された。民政局の草案の基本は、マッカーサー将軍の略述された三原則であるべきである」

憲法草案作成の作業班(委員会)がつくられた。
・運営委員会 ケーディス陸軍大佐、ハッシー海軍中佐、ラウエル陸軍中佐、エラマン嬢
・立法権に関する委員会 ヘイズ陸軍中佐、スウォープ海軍中佐、ホージ海軍中尉、ノーッマン嬢
・行政権に関する委員会 ピーク、ミラー、エスマン海軍注意
・人権に関する委員会 ロウスト陸軍中佐、ワイルズ、シロタ嬢
・司法権に関する委員会 ラウエル陸軍中佐、ハッシー海軍中佐、ストーン嬢
・地方行政に関する委員会 ティルトン陸軍少佐、マルコム海軍少佐、キーニ
・財政に関する委員会 リゾー陸軍大尉
・天皇・授権規定に関する委員会 ネルソン陸軍中尉、プール海軍少尉
・前文 ハッシー海軍中佐


肩書を見ると軍人ばかりのようだが、それぞれ、学識のある若い連中が中心で、彼らの集中ぶりも相当なものだったようだ。

「フィリピンは、国策遂行の手段としての戦争を放棄し、一般に確立された国際法の諸原則を国家の法の一部として採用する」(フィリピンの1935年憲法第二条二節)
この年の11月15日米領フィリピン群島はこの憲法をもって「フィリピン連邦」として10年後の完全独立をめざして歩み始めた。しかもマッカーサーは独立の日の少し前フィリピン国民軍の軍事顧問に就任している。マッカーサーがGHQ草案をつくるに際し、このフィリピンの1935年憲法が頭の中にあったであろうことは十分考えられる。


戦争放棄を憲法に明記した先例としてのフィリピン憲法。それが制定された時期にマッカーサーが現地にいたということになると、確かに、新憲法の戦争放棄がここに根があるとの仮説も説得力がある。

女性委員三人の起草した案にはつぎの二ヶ条が含まれていた。
第  条 すべての自然人は、法の前に平等である。人種、信条、性別、カーストまたは出身国により、政治的関係、経済的関係、教育の関係および家族関係において差別がなされることを、授権しまたは容認してはならない(以下略)
第  条 外国人は、法の平等な保護を受ける。犯罪につき訴追を受けたときは、自国の外交期間および自らの選んだ通訳の助けをうける権利を有する
これは「国民の権利」をはるかにこえて「人間の権利」を規定したものであった。人権は国家をこえた国際的なものとの理解がある。もし仮にこれら二ヶ条がそのまま今日の日本国憲法に盛り込まれていたら、「指紋押捺」問題などおこりえようはずもなく、本来の意味での「国際国家」にふさわしい人権規定となったであろうが、日本政府は前者の「出身国」(National Origin)を削除し、後者の全条文を削除してしまった。(4.密室の一週間 GHQ案の起草)


こういうふうに、憲法条文から消えてしまった重要な文言のことも、知ってると知らないでは、大きな違いである。

憲法制定過程を通じで、近衛案にせよ、松本案にせよ、実質はすべて私的に運ばれてきたのである。ついにこの土壇場に及んでも、冷静に議論する土台すらできていなかったのである。天皇制を護ること、「国体の護持」以外に、思想らしい思想をたたかわす憲法論議はないままに、GHQ案の受け入れへと歴史の歯車は大きく回ったのである。
これは8月15日につづく第二の敗戦であった。「押しつけ」とは武力による敗戦に続く、政治理念、歴史的認識の敗北であり、憲法思想の決定的敗北を意味した。(5.第二の「敗戦」--「押しつけ」とはなんであったのか)


アメリカ民政局の憲法制定会議のオープンさとあまりに対照的な日本側の密室的やりかた。

佐藤の30時間に及ぶ苦闘は、保守政権下の法制局官僚として立派に、まさに余人をもって替えがたき役目をはたし、GHQ案の日本化に成功した、とみていいであろう。佐藤は松本とちがいこの場に臨んで自己の果たしうる役割を十分に知っていた。つまりGHQの憲法理念--マッカーサー三原則については、いたずらにGHQと争うことは避け、きわめて法技術的な面でぎりぎりの、保守体制に有利な、あるいは日本の法伝統に整合するような抵抗を試みたのである。


佐藤達夫の新憲法に果たした役割はとんでもなく大きかったようだ。

要綱発表の前日の真夜中、佐藤達夫は外国人の人権規定についてつぎの条文でGHQとの合意をみていた。「凡テノ自然人ハ其ノ日本国民タルト否トヲ問ハズ法理ノ下ニ平等ニシテ、人種、信条、性別、社会上ノ身分若ハ国籍ニ依リ政治上又ハ社会上ノ関係ニ於テ差別セラルルコトナシ」。しかし佐藤は不満であった。右の条文から「日本国民タルト否トヲ問ハズ」と「国籍」の二ヶ所を削除したかった。そこで首相官邸に帰ってまもない頃、一方で翌日の要綱発表にむけて確定案の作成作業に忙しく、他方において閣議が開かれているというまさに戦場さながらの官邸から、GHQへ電話を入れた。
直接の交渉は英語の上手な白洲が話した。GHQ側はこの提案をあっさり受け入れ、「凡ソ人ハ法ノ下ニ平等ニシテ……社会的地位又ハ門地ニ依リ……」ということで合意ができた。これで草案から直接外国人の人権を保証する規定はすべて消えた。少なくともこの条文に関するかぎり、GHQ案とは似ても似つかず、完全に日本化した、といえるだろう。削除にあたり日本側がどう提案し、GHQがなぜ納得したのか、確たる資料はない。ただしこの憲法が施行される前日(1945年5月2日)に在日朝鮮人の取り締まりを目的とした外国人登録令(最後の勅令)が出されていることを考えると、この目的から外国人の人権保障条項を削除したのではないかと考えられる。


その佐藤達夫が、こういった排外主義的操作にも関わったという事実も忘れてはならない。

選挙が終わった4月17日政府草案の全文が発表された。政府草案は要綱とちがい、否、明治以来のすべての法律とちがって口語体で書かれていた。
たしかにこの憲法は翻訳調だという批判は後を絶たない。それは部分的には否定できないだろう。だが、それを認めた上で、なおかつ明治憲法の文章より曖昧さがない、と作家の丸谷才一はつぎのように評価している。
「現行憲法はめいぶんではないが、しかしあれだつて明治憲法にくらべれば文章として遥かに優れてゐるのである。それは筆者の言はんとするところを表現してずいぶん明確であり、曖昧さが乏しい。誤解の余地がすくない」

日本案から草案要綱、そして改正草案へと連なる一ヶ月半の作業は、まさにGHQ案の「日本化」に他ならなかった。法制局官僚を中心にすすめられた憲法条文の日本化を「官僚化」と呼ぶなら、口語化は憲法の「大衆化」と呼ぶことができよう。(6・ 日本化への苦闘)


憲法の口語化は、画期的だと思う。もっとも、文語だとあまりに翻訳臭が強かったので、口語化はその弥縫策だったという説もあるらしい。

結局、議会での国体論議は堂々めぐりで終わってしまった。これはある意味では金森の功績といえよう。
国体論議は堂々めぐりで終わったが、きわめて具体的な国民主権規定はそうはいかなかった。Sovereignty of people's wll とあったGHQ案を幣原の発案であえて「国民総意の至高」としたことは、そのままではすまなかった。
長い道程であったが、これで国民に主権があることが明白となった。「至高」を「主権」にするという小さな修正であったが、そのもつ意味の大きさは計り知れないものがある。ただ一条の議論がここに集中しすぎたためか、皇位継承や天皇の即位についてはほとんど議論がなされなかった。憲法草案作成の時点でかなり保守的な社会党も、政府案の審議にあたっては一変して進歩的となり、「天皇は即位に際しては国会の承認を経ることを要する」との修正案を提出していたが、今日でも一考に値すると思われるこのような案は、ほとんど議論されることなく終わった。


憲法の日本語化に関しては、金森徳次郎の存在が大きかったようだ。

現行憲法をみれば第10条にこう書かれている。「日本国民たる要件は、法律でこれを定める」。しかしこの条項はGHQ案にも、政府草案にもなかったのである。だが明治憲法にはあった。「日本臣民タルノ要件ハ法律ノ定ムル所ニ依ル」(18条)。
そこには重大な法技術が隠されていた。この「法律」とはなにか。これは数年後に制定をみる「国籍法」(昭和25年、法147)を意味する。つまり、これによって「日本国民」とは「日本国籍所有者」を意味することになった。ということは日本国憲法に無数に出てくる「日本国民」「国民」はその意に解されることになる。
ところがGHQはこの10条挿入をあっさり認めてしまったのである、というのも政府はこの10条につぎのような英訳文を付したからである。The Conditions necessary for being a Jpanese national shall be determined by law.「日本国民」を、この条文だけは Japanese people とせず、Jpanese national(日本国籍所有者)という英訳にしたのである。Jpanese people と Jpanese national が日本語では全く同一の言葉になっているとは、GHQは全く知る由もなかったに違いない。
これはやはり法制局官僚の発想ではあるまいか。外国人の人権を巧みに削除したこととワンセットになっているように思える。


「people」と「national」が同じ日本語になるなんて(@_@)  狡猾でもある。こうして有り得べき特長が失われたことも知っておくべきことだ。

「すべて国民は、法律の定めるところにより、その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負ふ。義務教育は、これを無償とする」。(第26条2項)
小さな修正であった。しかしこの修正によって義務教育が中学校まで延長されたことを考えるときこの修正はきわめて大きな意味をもったといえる。それにしても、青年学校の教員より、はるかに社会的に強い発言力を持っていたであろう中等学校の教員が、政府案になんの反応も示さず、その一方で青年学校の教員が政府案が発表されて直ちに敏感に反応し「猛運動」をはじめたことは、権利とはそれを否定され、あるいは差別をされ続けてきたものが、はじめに発見するものであることを、あまりにもあざやかに証明しているといえないだろうか。(8. 日本化への綱引き--最後の帝国議会(1))


青年学校というマイナーな存在からの申立が、憲法に取り入れられたという事実は、感動的でもあった。

芦田修正から文民条項の挿入にいたる複雑な過程はほぼつぎのように言いうるのであろう。つまり芦田修正によって後に芦田が主張するような自衛戦争もしくは自衛戦力を合憲とみる考え方は、政府にも議会にもなかった。少数の法制官僚がひそかに心に抱いていたにすぎない。唯一極東委員会で芦田が後に主張する解釈が出てくる可能性が議論された。そこで極東委員会はこの可能性を封じるために「駄目押し」として文民条項の挿入を日本側に要求したのである。

「軍隊を持たない」という条文がある憲法に「文民条項」が入るという矛盾が、実は矛盾ではなく実効なものだったという手品みたいな話。

当時の日本には長い戦時体制の抑圧から開放された平和へのよろこびがあったことは否定できないが、同時に侵略戦争を推進しあるいは支えた支配層がほぼ不変の形で残っている中で、昨日までの侵略戦争をきれいさっぱりと忘れて、憲法のみに頼って「平和国家」へと一挙に衣替えできると考えた軟弱な憲法観・国家観があったことも見逃してはならないだろう。しかも40年後の今日からみれば、憲法九条を改正してはいないものの、侵略戦争への反省を忘れて軍事大国化へと驀進しているのであるから、40年前のアジア/太平洋諸国の「戦後日本」へのビジョンはほぼ的中していたことになる。

「軟弱な」戦後日本人(>_<) それが今や軍事大国になり、それを加速したがる政権に引きずられている現実。本書が出てから30年経って、それがもう手のつけられなところまで来ているという悲劇。

会期40日で始まった題90帝国議会は4回にわたる会期延長で114日間となり、1946年10月7日、日本国憲法は帝国議会を通過した。
公布の日は11月3日、天長節(明治天皇誕生日)と決まった。といっても、すんなりとこの日が公布に決まったわけではない。吉田は当初8月11日を考えていた。というのは施行日を翌年の2月11日、つまり紀元節にしたいと考えていたからである。それはまた明治憲法が公布された日(1889年)でもあった。ところが審議が長びいたため、8月11日公布、6ヶ月後の翌年2月11日施行は困難となった。そこで吉田は今度は交付日に意味を持たせて、11月3日を決めたわけである。これを知ったホイットニー民政局長は、マッカーサーに疑問を呈したという。ところがそれ以前に日本政府はマッカーサーから承認を得てしまっていた。マッカーサーはホイットニーに「われわれは明治天皇誕生日をわれわれの民主的実質(コンテント)でみたしてやるのだ」と叫んだという。ただこの時同時にマッカーサーは6ヶ月後の施行日が翌年の5月3日になることに気付いていたのではなかろうか。1947年5月3日、それは極東国際軍事裁判所(東京裁判)開廷一周年にあたる。侵略戦争の責任者たちの戦争責任が裁かれる法廷が開廷したちょうど一年後に平和憲法が施工される。これほどうまい歴史の文脈がまたとつくれようか、マッカーサーはそう考えて11月3日の交付日を認めたにちがいない。(9.九条「芦田修正」の深層--最後の帝国議会(二))


11月3日に新憲法が公布されたわけで、憲法が天長節(明治天皇誕生日)を祝日として残すための口実にされたということを忘れてはならない。

全国民への憲法の普及を目的として小冊子を観光した。その数なんと二千万部。これは当時の全世帯数に相当する。小冊子は憲法普及会が編者となり、『新しい憲法 明るい生活』と題し、手帳ほどの大きさ(14cmX10cm)で全文30頁、うち15頁分に憲法全文を収めたものである。
これは今でも一読する価値がある。(もちろん、批判的視点もこめて)

憲法音頭 作詞サトウ・ハチロー 作曲中山晋平

古いすげ笠チョンホイナ さらりとすてて
   平和日本の 花の笠
とんできたきた うぐいすひばり
  鳴けば希望の 虹が出る ソレ
    チョンホイナ チョンホイナ
    うれしじゃないか ないか チョンホイナ

われらの日本 作詞土岐善麿 作曲信時潔

  平和のひかり 天に満ち
  正義のちから 地にわくや
  われら自由の 民として
  新たなる日を 望みつつ
  世界の前に 今ぞ起つ


1947年5月3日、式典では「君が代」は歌われず、歌われたのは新憲法施行記念国民歌「われらの日本であった。

憲法普及会の永井浩事務局長が文部省学徒動員局長(1945年7月~9月)であったこと、その後熊本県知事に就任(官選)したことは事実である。なんと一年数ヶ月前までは、学生にむかって聖戦を説き、戦場に赴かせたその張本人が、一転平和憲法の普及にあたったのである。これほどの転身、いや戯画的「転向」が他にありえようか。」しかし、あったのである。この永井事務局長の采配の下で「星菫派」は憲法の美しい理想を語り、国民は「憲法音頭」を踊ったのである。悪夢ではないにしろ、むしろはやばやと忘れ去ったことは無理からぬことであったのかも知れない。(10.すみれ咲く五月--新憲法の普及者たち)

これに類したことは、いくらでもあったにちがいない。

新憲法によって吉田はもとより、自由党も、国民の多くも、それほど変化はしなかったのである。吉田は米国が対日政策を民主化から反共へと転換したあと天皇制の強化と再軍備に熱心になったのでは決してないのである。憲法施行前後、吉田自由党が「平和国家建設」を唱えていたのは、「仮の姿」でしかなかったのである。(11. 吉田茂の反撃)

「三つ子の魂百まで」

「押しつけ憲法」の立場をとる政治家たちは、吉田と同様に保守思想の持ち主であるとはいえ、吉田が「七転八倒」している時に、戦犯であったり、公務追放注であったり、あるいは吉田学校の若き「お坊ちゃん」であった場合が多い。敗戦から占領、その中での憲法制定とう思想と思想のせめぎ合いを、数歩さがって見ていた者の安易な主張としかい言いようがない。
それにしても「押しつけ憲法」論が、なぜこれほどまでに戦後30年以上にもわたって生き延びてしまったのであろうか。憲法改正の機会はあったのである。その機会を自ら逃しておきながら、「押しつけ憲法」論が語りつがれ、主張されつづけて来たのである。とにかく最近の憲法「改正」史や現代史の研究書をみても、この点に全く触れていないのだるから無理からぬ事情はあったにせよ、これは糺しておかなければならない。


繰り返すが、これが書かれたのは30年前である。ひるがえって今を見るに、ときの総理は相も変わらず「押しつけ」論を影に日向に改憲の理由の一つにしようとしている。

国家対国家、民族対民族の対決から「新憲法の誕生」がなかったと同様に、今後も「自国のことのみに専念」したり、日本民族の特殊性を主張することのみからは、決して新しい憲法は生まれないであろう。
われわれは「護憲の時代」を受動的に生きることに、そろそろ別れを告げて、人類が70年代を通じて生み出した環境権、人種平等、情報の自由といった「新しい人権」をも盛り込んだ、「影の憲法(シャドー・コンスティチューション)」を掲げて生きる時代を迎えている、といえないだろうか。そういう時代を生きるわれわれに、「新憲法の誕生」にさいし、議論し尽くされず、あるいは切りすてられた問題は、さまざまなことを教えてくれるにちがいない。(12.忘れられた「その後」)


こういった観点からの、憲法論議は大いになされてしかるべきだろう。しかし「自国のことの飲みに専念」したがる、大国の大統領に追随する二流指導者が、祖父へのはなむけとして?拙速にがさつな改憲を強行しようとするなら、ブレーキかけなくては。
【大衆音楽史】森正人 ★★★☆ 2008/08/25 中公新書1962 2018081
「戦争と広告」「「親米日本」の誕生」の二冊を続けて読んで、感心したので、ちょっと前のこの本を中央図書館の書庫から借り出して読んだのだが、これはちょっと期待はずれだった。音楽の趣味は好き嫌いがはっきりするし、タイトルの「大衆音楽」からMorris.はつい、歌謡曲、演歌などを連想してしまったのだが、本書は副題に「--ジャズ、ロックからヒップ・ホップまで」とあるように、いわゆる洋楽中心だったし、取りあげられる音楽ジャンルも、Morris.が比較的好む洋楽とはずれていた。

20世紀初頭、ニューヨークのユニオンスクエア周辺の音楽関係会社がオフィスを構えていた。まるで鍋をたたくほど賑やかだったこの周辺は「ティン・パン・アリー」と称された。当初、これらの会社は、販売した楽譜の著作権料から収益を得ていた。
ディン・パン・アリーは大量の商品を瞬時に生産することを求める資本主義を体現している。1914年ティン・パン・アリーの音楽会社と作曲・作詞家は「アメリカ作曲家、作詞家および出版社協会(ASCAP)を創設し、すぐにニューヨークのあるレストランを音楽著作権料不払いで告訴、同年、最高裁判所はASCAPの訴えを認め、これによりレストラン、ホテル、ダンスホールでかけられる音楽に対して著作権料が請求できるようになった。
939年、ラジオ局は自分たちの著作権会社「放送音楽法人(BMI)」を設立した。1941年に以前の二倍もの著作権料の支払いをラジオ局に要求すると、ラジオ局はこれを拒否し、結果的にASCAPの曲はラジオでいっさい放送されなくなった。ただしこのときにはすでに、多くの人びとはASCAPの曲にあまり関心をしめさなくなっていた。

ティン・パン・アレイというのは、70年代の日本のバンド名として馴染み深いが、これはメンバーの細野晴臣が、ニューヨークのティン・パン・アレイに好みのミュージシャンが多かったことからバンド名に使ったらしい。

ドイツ出身でアメリカへ移住したテオドール・アドルノは芸術音楽と大衆音楽の間の決定的な違いを規格化という語で表している。彼は大衆音楽の主要部分はおおむね32小節でできていて、音域も1オクターヴと一音までに規格化されており、また曲がヒットするためには特定の型を持つ必要があることも指摘している。曲の主題、テンポ、和音、さらに曲の構成がそれにあたり、ある歌手や作曲家のどの音楽も同じように聞こえてしまう現在の日本の多くのヒット曲を顧みても、規格化の問題は首肯できるのではないだろうか。
問題は、こうしたおきまりの曲のパターンが、結果的にそれを聴く人の自発性を奪い、あるパターンにパヴロフの犬のように飛びつくようになってしまうということである。しかもたちの悪いことに、このような企画化にわれわれが気づくことが難しく、われわれ自身はまるで自分で曲を選択しているような感覚を持ってしまう。(第一章 ポピュラー・ミュージックの登場)


アドルノの名前はベンヤミンの「複製芸術」の本にでてきたことで覚えているが、「芸術音楽と大衆音楽」を峻別して、当然「芸術音楽」至上主義である(^_^;) 大衆芸術は大衆をパブロフの犬にしてしまう、なんて決めつけてる。まあ、Morris.はそれでいいけどね(^_^;)

南北戦争(1861-65)中に奴隷解放宣言が出され北部が勝利を改めたにもかかわらず、戦後の南部ではクレオールまでもが社会的に隔離される法が立法化されることになった。ニューオーリンズのクレオールは黒人たちと強く結びついていき、黒人音楽家の影響を受け始めたクレオールは、次第に演奏のリズムを弱くすると同時にメロディを即興で奏で始めるなど、バンドの奏法を変化させていった。ジャズ・バンドの出現である。
ニューオーリンズからシカゴにやってきたキング・オリヴァーは、1919年にクレオール・ジャズ・バンドを結成、当時ニュー・オーリンズで評判のトランぺッター、ルイ・アームストロングにバンドへの参加を要請した。1923年の歴史的なセッションで37曲をレコーディングし、すべての奏者が綿密に作り上げられた音楽の枠組みの中で、なおかつ即興演奏を行なった。そしてそれは、シカゴにおけるニューオーリンズ・ジャズ・スタイルの最高地点となったのだった。


ニューオーリンズがジャズの発祥地と言われる由縁。

スウィングジャズ・スタイルは1920年代のデューク・エリントン・オーケストラの成功によって頂点を迎える。ニューヨークジャズで成功を収めたのは差別を受けながらも当時勃興しつつあった中流の黒人で、彼らは正規の教育を受けており、古典音楽をジャズの中に取り込む才能を持っていたのだ。実際、エリントンは、演奏者の特性をよく理解した上で、ジャズを入念な作曲と編曲によって構成することに長けていた。こうした作曲・編曲の手法は、彼らの才能を際立たせているが、同時にこうした黒人音楽のアレンジなしに白人が主流をなす社会で音楽家として成功することはなかっただろう。(第二章 ジャズとブルース)

ジャズとブルース関係の本はある程度読んでたので、特に目新しいことは出てこなかった。

そもそも「ロックンロール」という名称は、オハイオ州でラジオのDJをしていた、アラン・フリードがなづけたものである。彼は力強いダンス向きの黒人音楽に、ともに性交渉を意味するスラング「ロック」と「ロール」を結びつけた名称をつけた。

これもどこかで聞いた覚えがある。ロケンロール=ロックでいいか。

イギリスでは、ロックは単に若者の騒動を煽る脅威として受け止められただけではなかった。それは、新しく世界の覇権を握った米によるイギリスへの文化侵犯としても捕らえられた。つまり、ロックは古きイギリスの大衆音楽の「アメリカ化」と見なされたのである。

「ロカビリー」は黒人音楽を合意する「ロック」と、白人音楽を含意する「ロック」と、白人音楽を含意する「ヒルビリー」を掛け合わせた言葉である。
プレスリーのショーに感銘を受けて自分たちの演奏スタイルを変えたエディー・コクランとバディ・ホーリー、ジェリー・リー、またより激しいロカビリーを作り始めるジョニー・バーネットなど、プレスリーに刺激を受けて多くの白人歌手たちが、ロカビリーを演奏し始める。


Morris.はプレスリーより、エディ・コクラン、バディ・ホリー、そして引用には出てこないが「ビーバッパルーラ」のジーン・ヴィンセントなんかが好きだったなあ。

イギリスにおけるR&Bとカントリー・ミュージックとロックの近しさを示すのが、黒人音楽を指向することで現在でも高い評価を得ているローリング・ストーンズであろう。(第三章 ロックンロールと若者文化)
ストーンズはデビュー当時からのリアルタイムファンだけど、彼らの音楽にあまりカントリー色を感じることはなかったけど、「Wild Horses」なんかはそんな雰囲気があったかな。

1976年パンクの音楽祭で、聴衆として参加していたセックスピクトルズの熱狂的ファンのシド・ヴィシャスは、あまりの人混みにステージを見ることができず、上下にジャンプを繰り返し、それによって、ジャンプを繰り返す「ポゴ」と呼ばれるダンスができたと言われる。シド・ヴィシャスは、のちにセックス・ピストルズのベース担当になった。初期のパンクでは、ファンとバンドとの距離は非常に近かったのである。
パンクっていまいちよくわからないのだけど、何か好きっ!!(^_^;)

パンクは音楽的にも思想的にも多様な下位区分を包含するようになった。そもそも多様性とは、最初から備わっているのではなく、自らを他のものと異なったものとして差別化することによって事後的に立ち現れる。だから、思想的に右翼的であれ左翼的であれ、それぞれの集団は、自らのスタイルを正統なものと主張しながら他との差別化を図ったのである。(第四章 パンロックの抵抗)

こうなるともうMorris.とは無縁の世界である。

ジャマイカは1655年までスペインの統治下に置かれ、その後5年の戦闘に勝利したイギリスによって支配を受けることになる。
「1509年、スペイン人たちは、ジャマイカ島へ侵入した。スペイン人たちはインディオ(アラワク人)たちを殺したり、火攻めにしたり、また彼らに獰猛な犬をけしかけたりした。さらにスペイン人たちはインディオたちを鉱山での採掘やそのほか数々の労働で酷使し、圧迫し、苦しめ、結局その哀れな罪のないひとびとを全員絶滅させてしまった」(スペイン宣教師ラスカサスが1552年出版した報告書から)

レゲエが登場する1960年代末、ジャマイカは、上流・中流・下流階層の三つにはっきりと分けることができた。
1930年代初頭のジャマイカに登場し、発展した「ラスタファリアニズム」は、奴隷制によって引き離された「祖国」エチオピアへの帰還を唱える思想である。

1972年「アイランドレコード」のクリスブラックウェルはボブ・マーレィ率いるウェイラーズの最初のLP制作に取り掛かる。ジャマイカにおける政治とレゲエとの蜜月が終わりを迎え、ウェイラーズの歌詞内容が社会的、政治的内容を含まなくなると、ブラックウェルは代わりにラスタファリニズムが持つ精神世界のイメージを押し出す。
したがって、きらびやかな衣装やネクタイではなく、白人が抱くラスタファリニズムのイメージに添うエチオピアの国旗色の衣装を身につけさせた。
ブラックウェルは雰囲気が重苦しいと判断し、わざわざロンドンで再度アルバムのミキシングを行い、その際、マーレィの声を前面に押し出し、白人のロックファンに好まれるロックギターも用いられるようにしたのだった。
十二分に計算されたレコードビジネスに乗って、マーレィはレゲエのスターダムにのし上がり、世界的な音楽家となった。
ラスタファリニズムやレゲエは、その柔軟性と包括的な性質のため、多様な社会的文脈において特定の意味を担うことができた。あるいは、次のように言えるかもしれない。ラスタリファニズムやレゲエそれ自体は最初から特定の意味など持たない空っぽな容器に過ぎず、相異なる社会のありようにおいて人びとがそこに意味を充填し、しかもそれが、今度は人びとのアイデンティティを作る役割を果しているのだ、と。

レゲエがロックやポップスの聴衆に広く知られ始めるようになるのは、1970年代中ごろだった。」ビートルズ「オブラディオブラダ」、ローリング・ストーンズ「チェリー」「オーベイビー」、ポール・サイモン「マザー&チャイルドリュニオン」などのレゲエリズムをアレンジした曲、1974年にエリック・クラプトンの「アイショットザシェリフ」が大ヒットすると、多くの白人ロックファンがレゲエのルーツに関心を持つようになり、ボブ・マーレィが広く知られる事になったのである。

奴隷制、ラスタファリアニズム、ロックステディ、政治的キャンペーンなどと関わりながらレゲエは誕生した。レゲエはときに雄弁に自分たちの起源や社会的困難を語ってきた。しかしそのレゲエは今、イギリスの例よりもさらに複雑にそれぞれの場所で読みとかれ、語られている。レゲエは「変わりゆく同じもの」なの。(第五章 レゲエ)


本書の中では、この第五章が一番興味深かった。あの三色(ラスタカラー)はエチオピア国旗の色だったのか。
Morris.はジャマイカがどこにあるのかすら、ちゃんと知らずにいた(>_<)

モータウン・レコードと自動車産業は相互補完的でもあった。その例は、モータウン・レコードとカーラジオの関係に顕著である。モータウン・レコードはラジオの時間帯に合うように音楽を短縮し、自動車で聴くのに適した音楽を作るように心がけた。レコードエンジニアはスタジオの中に自動車のスピーカーを作り、歌と音がカーラジオからどのように流れ出すのか、シミュレーションを重ねた。
Morris.にとってのモータウンといえば、シュープリムズに尽きる。そして韓国で10年前ヒットしたギャルズグループThe Wonder Girlsこそ、Morris.にとってのポスト・シュープリムズだった。ボーカルのソヒがポスト・ダイアナ・ロスだった。なんていうとMorris.の音楽観のお里が露呈してしまいそう(>_<)

ヒップホップもラップも、制度化された音楽を切り貼りして再生産する、いわば音楽の消費による生産であった。そしてそれは今、グローバル化するなかで、それぞれの場所の政治的かつ経済的状況に応じて、消費され生産されている。(第六章 モータウンとヒップホップ)

ヒップホップもラップもMorris.の理解の外にあるが、韓国ではどちらも若者にかなり好まれているようだ。ラップに関しては、日本語に比べると韓国語はラップに向いてると思う。これはパッチム(語尾の子音)とリエゾン効果による。

本書では、紹介する音楽がつねに資本化されてきたことを示してきたつもりだ。大衆受けするポップスとそうではない「本当」の抵抗のための音楽との間に区分を設けることは、ほとんど不可能だと暗示してきたつもりである。高度に資本主義化された現代の社会では、あらゆるものはすでに商品として物質化されている。

確かに身の回りの音楽の99.9%までは資本化されているのかもしれない。Morris.がミニギターで歌ってるのも凡て資本化された韓国歌謡のできの悪い模倣でしかないことはわかっている。低レベルでもそれなりの楽しみ方はあっていいのだと思う。

文化や政治(上部構造)と経済(下部構造)は、一方が他方を決定するのではなく、つねに決定し合っているという「重層決定」の概念をしめしたルイ・アルチュセールは、最後に「偶然の唯物論」へとたどり着いた。必要なのは世界を理解可能なものにしてわかった気になるのではなく、そうありえた一つ一つの世界を想像することで、世界を複雑に理解してみることなのではないだろうか。それこそが政治的ということなのだろう。よくわからないことは恥ずべきことではない。(おしまいに)


「それこそが政治的」というのはよくわからないが、恥ずべきことではない、ということで……(^_^;)
【いい階段の写真集】BMC編 西岡潔写真 ★★★☆  2014/01/12 パイインターナショナル 2018080
BMC(ビルマニアカフェ)大坂ニット会館に居を構える、ビル愛好家集団。高岡伸一、阪口大介、夜長堂、川原由美子、岩田雅稀

去年読んで(見て?)結構面白かった「いいビルの写真集」(2012)の続編、というか、写真家西岡潔が階段に取り憑かれたことから生まれた本らしい。
Morris.も階段好きだ。特に螺旋階段。ということで、なかなか楽しめた。
一番最初に登場する「関西大学(千里山キャンパス)」は、「村野藤吾の建築ミュージアム」と書いてある。これは一度訪れてみたい。
東京文化会館の螺旋階段は、未見だが、写真で見るだけでも興奮してしまう。

[いい階段のみどころ}
1.手すり
直接手を触れて握るところが「手すり」。素材、サイズ、断面の形、カーブがポイント。階段の格は手すりの美しさにあり。曲線木製手すりは、今作ろうと思うと手間賃がどれくらいかかるかわからない高級品。
2.金物
手すりを支える支柱と、その隙間を埋める手すり子は金属で作られた物が多い。階段の角度に合わせて斜めに作られるため精度も重要となる。
3.踏板・床面
踏板(足を乗せる段)や踊り場など階段周辺の床面もみどころの一つ。主に一階など主要なフロアの床は特に力を入れてデザインされていて、グラフィカルなデザインや、異素材の組み合わせなどを楽しめる。
4.照明
エントランスホールなど吹き抜けに設けられた階段には、非日常の空間体験が生まれる。陰影やゴージャス感を演出する大きな照明は階段の贅沢の代表的なもの。なにもない小さな空間である踊り場にそのビルらしいプラケット照明があるだけで特別な場所に。
5.階数表示
中間階の演出として大事にデザインされるサイン。踊り場の壁面や、床面にさりげなく階数が表示されている。字体、素材、立体的な形などがポイント。BMC発行の「月刊ビル」の表紙では、号数を表すために素敵な階数表示の写真を使うことが多い。エレベーターの階数表示もあわせて収録。
6.段裏
下から見上げた段の裏は、ときに滑らかで有機的な局面を、ときに階段を支える構造の機能美を堪能できる。特に個性的な形状の螺旋階段では、踊り場と階段部分の異質な形を違和感なくつなげるために実に複雑な造形が生まれる。計算だけでは造りえない人智を超えた造形に思えることもあり、時として祈りを捧げたくなるほど。段裏の魅力に目覚めれば、もうあなたは階段の上級者。

ささら 踏板を左右で固定し荷重を支えるための桁のこと。
蹴上げ/蹴込み 段と段の間の高さが蹴上げ。間をふさぐ縦の面を蹴込みという。多くの人が使うゆったりとした階段は、蹴上げが低く踏面は広く、使う人が限られる機能的な階段は蹴上が高く踏面は狭い。


数日前、久しぶりに御影公会堂を訪れたのも、本書に刺激受けたからかもしれない。
韓国で思い出す階段といえば、まずは、なんと言っても釜山の本屋「南浦文庫」の幅広木製階段である。
その他、旧ソウル駅舎、旧朝鮮銀行、新世界百貨店(旧三越)などが忘れられない。梨泰院近くの「サムスン美術館Leeum」の螺旋階段にもシビれたなあ。

【ときめくクラゲ図鑑】峯水亮写真・文 ★★★☆ 2018/08/25 山と渓谷社 2018079
峯水亮 みねみずりょう 1970年大坂枚方市生れ。静岡県でダイビングガイドインストラクターに従事し、1997年フリーの写真家として独立し峯水写真事務所を設立。海外ロケを中心としたダイビング誌などの撮影。プライベートでは浮遊生物を中に撮影に取り組む。2015年には「日本クラゲ図鑑」(平凡社)を上梓。

"Book for discovery"の一冊。「ときめく図鑑」シリーズとして他に「多肉植物」「ラン」「御仏」「文房具」「和菓子」「縄文」「インコ」「微生物」「貝殻」「ヤマノボリ」「妖怪」「化石」「猫」「チョウ」「小鳥」「コケ」「カエル」などがあり、このうちの幾つかは機会があれば見たいとおもう。
昔からクラゲは好きだった。でもクラゲの生物学的生態などは全く無知で、埠頭で波に揺られるミズクラゲの、浮遊を見るだけで満足していた。しかし、こうやって漆黒の闇をバックにしたクラゲの写真見ると、すごい!!と思ってしまった。

本書に使用した写真のほとんどは、この本のために選び抜き撮り下ろした作品です。収録した種類については私が20年来出会ってきたクラゲの中でも、特に「このうつくしさを見てほしい」と感じたものや、生態のユニークなクラゲを私の独断で選びました。(はじめに)

クラゲ雑学をいくつか。

・クラゲの多くは「プランクトン」と呼ばれる生き物です。プランクトンとは「遊泳能力がない、もしくは、あっても弱く、水中で遊泳生活を送る生き物」

・クラゲは完全なる肉食動物です。動物性プランクトンや小魚、魚卵に加え、ほかのクラゲを丸呑みにすることもあります。

・クラゲの変身 代表的蜂虫網(ミズクラゲ、アカクラゲなど)を例に取ると、受精卵から「プラヌラ幼生」が水中を泳ぎ、付着して「ポリプ」となり無性生殖をしてどんどん増える。これが変態して横にくびれた「ストロビラ」になり、これが遊離して「エフィラとなり、これが幼クラゲとなり、いわゆるクラゲに。


Morris.がイメージするクラゲはほぼ蜂虫網に属しているようだ。あと、ヴィジュアル的にはヒドロ虫網の仲間がフォトジェニック(^_^;)だがあまりに小さいので、実際に見るのはむずかしそうだ。
本書掲載のクラゲの中でMorris.が気に入ったものをランダムに挙げておく。ネットで簡単に一覧表が見られるクラゲ図鑑も参照のこと。

ベニクラゲ(紅水母)
ヒメツリガネクラゲ(姫釣鐘水母)
ツヅミクラゲ(鼓水母)
カラカサクラゲ(唐傘水母)
アマクサクラゲ(天草水母)
オワンクラゲ(御椀水母)
カミクラゲ(髪水母)
ミズクラゲ(水水母)
アカクラゲ(赤水母)
ギンカクラゲ(銀貨水母)
カツオノエボシ(鰹の烏帽子)
ビゼンクラゲ(備前水母)
エチゼンクラゲ(越前水母)

・ポルトガルでは、水面に漂うクラゲの姿を見て「海の月」と呼びました。日本の『古事記』でクラゲを「海月」と書いているのは、ポルトガル語の「海の月」をそのまま日本語に訳したからだと言われています。


この解説はちょっとおかしい(すぎる)のではなかろうか? 半月、特に有明の空にうっすらと浮かんでる上弦や下弦の月を見て、クラゲを連想しないことのほうが難しいのでは? そして、何よりも「古事記」(7世紀)の時代に、ポルトガルなんて国あったのだろうか? あったとしても、そのころ交流があったとは思えない(^_^;)

ちなみに、韓国語では해파리(ヘパリ)。「(へ 海)」+「파리(パリ 蝿)」。うーん、クラゲを海の蝿と呼ぶのは、あんまりだと思う。
【知恵の悲しみの時代】長田弘★★★☆☆ 2006/10/23 みすず書房 初出「みすず」(2003-06)「もし本が蜂蜜の巣箱なら」と題して連載 2018078

昭和の戦争の時代を、「知恵の悲しみの時代」として、その時代に遺された本を通して書くこと。この本に取りあげたのは、戦争の時代を語る大きな物語ではと りあげられることのない本がほとんどですが、気もちの素となったのは、昭和の敗戦後すぐにでた世界古典文庫版で読んだ、グリボエードフの死に同時代人とし てプーシキンが寄せた言葉--「すぐれた人々は跡形もなくわれわれの許から消えてゆく。われわれは怠惰で無関心である。……」--でした。
この本に書きとどめたのは、戦争の時代の本流、増水、氾濫の記録ではなく、戦争の時代の見えない伏流水の記録です。この小さな本の試みが、「われわれの怠 惰と無関心」の先に、すでに「跡形もなくわれわれの許から消えて」ゆこうとしている一つの時代の遺した言葉と記憶を、いくらかでも鮮明によびもどすことが できれば、望外です。
この『知恵の悲しみの時代』に取りあげた本は、戦争の時代に「公刊された本」を原則として、とりあげた文章も、すべて戦争下に上梓された初出そのままにし、旧かな(漢字は新字体)はもとより、特異な用法や誤植もあえて元のままです。
昭和の戦争の時代は、なによりも言葉がためされた時代でした。(あとがき 2006年秋)


本書の紹介代わりに、「あとがき」の一部を先に引用しておく。大好きな詩人長田弘は、エッセイにも味のあるものが多いが、本書はかなり堅めの作物である。よくまあこんな本見つけてくるな、という驚きと、考察の深さ、真摯さには、敬服するしかない。

歴史には二つあります。「ファスト・ヒストリー」(手っ取り早い歴史)と、「スロー・ヒストリー」(ゆっくりと見えてくる歴史)です。
いまは「ファスト・ヒストリー」が、いたるところの世界を席巻しているように見えますが、「ファスト・ヒストリー」がもたらすのは結局、先入観と成り行きのストーリーです。けれども、わたしたちの日々をつくっているもの、つくってゆくものは、先入観と成り行きではけっして解けない「スロー・ヒストリー」」であり、「スロー・ヒストリー」」についてまず問われるべきことは、一人一人の日々にとって一番大切なのは何かという問いただしです。
歴史の主語は、どこまでも単一の「われわれ」によってではなく、本当は、あくまでも複数の「わたし」によって、いつのときも担われてきたのだということを考えます。言挙げの言葉が、時代のかたちを決するのではありません。それは、社会の器量という、日々のあり方を活々としたものにしてゆく、ブルーラル(他者のいる)アイデンティティの持し方、たもち方にょってさだまる。わたしはそう考えています。考えるとは二分法で考えない、ということです。二分法からはじめない。それは読むことのはじまりです。(2001年、アキの朝--プロローグ)


骨盤骨折で、2ヶ月間のスローライフを余儀なくされたMorris.には、天啓の言葉と思えた(^_^;) 二分法の危うさも。

透谷の死の年が、すなわちこの国の、以後1945年までつづく戦争に基づく時代のはじまりの年であり、戦争に基づく時代のはじまりだったこの年が、やがてこの国の教養主義、学歴主義の揺籃となる旧制高校のはじまりの年だったというのも少ながらず暗示的です。
日清戦争からはじまった戦争に基づく時代に、この国でエマソンの言葉が、それこそ「哲理の据付け」のための言葉として、どれほど切実に求められたかをよく伝えるのは、この国の昭和時代のアメリカ研究を主導した高木八尺が、昭和の戦争の敗戦直後に出した一冊の小さな本、R/W・エマソン『アメリカの学者』に付した序です。昭和22(1947)年11月3日という日付のある序。
「私は口に「アメリカン・スカラー」を講じつゝ、今にして思えば、実は日本の学者たるに値しない存在、言動を続けたのではなかつたか。自己内心の道理の至上命令に服し、一切を敢行する真の勇気を、少なくも私は欠いて居た。
「真理のために死すべき時に
人無事なるは、その破滅」
と云ふエマソンの声は、誠に私を慙愧に堪えざらしめる。」
50年におよんだこの国の戦争に基づく時代の終わりがもたらした「戦後」に至って、エマソンの言葉がただの「古典」になり、それまでずっとたもちつづけた切実さが失われ、透谷が見いだしたような同時代人としてのエマソンの姿がいつか見失われていったあたりに、昭和の「戦後」民主主義の落とし穴はあったと言うべきかもしれません。(1894年にはじまる)

1894年(明治27)は北村透谷が自殺した年であり、日清戦争の年である。確かに日本の戦争の時代のはじまりをこの年とすれば、1945年8月15日の敗戦までちょうど半世紀になる。

goverment of the people,by the people,for the people

リンカーンの名と、the peopleとうい言葉を切っても切り離せないものにしたのは、言うまでもなく、この言葉で終わるゲティスバーグでの演説です。
ゲティスバーグ演説の the peopleを、独歩はすでに「人民」とし、「人民の政治人民に由りて人民の為の政治」としていますが、その日本語の「人民」はもともとは孟子(尽心)からきたと言われます。
20世紀初めにはまだ孟子のいわゆる「タミ、クニタミ(『言海』)だった日本語の「人民」が1930年代にヨーロッパで「人民戦線」という考え方が広まってから。それからは「人民」は、「左翼」の政治的主体を表すもののように考えられるようになり、the peopleもまた、「人民」と「国民」と使い分けられるようになります。
「the people」という普遍を表す主語が、日本語にすると立場を示す主語、もしくは国籍をもつ主語になってしまう難しさと危うさ。にもかかわらず、リンカーンのゲティスバーグ演説の結びの言葉だけは、明治からずっと、「the people」という普遍の概念をこの国の人びとの記憶に刻む言葉になってきたことは確かです。(人びとを、人びとが、人びとのために)


「人民の人民による人民のための政治」というあまりに有名なリンカーンの言葉は、民主主義のわかりやすいスローガンみたいに使われている。確かに「the people」という英単語は日本語に訳しにくい。一番わかりやすいのは「ひとびと」だと思う。それが日本では「国民」という言葉に置き換えられやすい。「国民の国民による国民のための政治」となるとナショナリズムの権化とも見えてくる。

大日本雄弁会講談社編『交渉応対 座談術』が出たのは、昭和6(1931)年10月10日。続く時代に忘れられた本になり、「複白」という言葉もまた後々にのこることはなく、敗戦に終わった昭和の戦後にのこったのも変わらない「独白」の文化です。
ダイアローグというものをどのように考え、どのように担うかというところに、時代の水準はあらわれます。ひるがえって、「大は外交の折衝より小は一家の団欒に至る」まで、いまなお見失われているのは「複白」の思想です。(「複白」の思想(1931))


ダイアローグ(対話)を「独白」の対語として「複白」という言葉が作られたらしい。確かに定着してもおかしくない造語だが結局消えてしまった。確かに今の時代に対話は見失われている。

「或る国の文学はその国民の自叙伝と見られる」(斉藤勇「アメリカの国民性及び文学」1942有斐閣)
アメリカ人は「元気」だ。その「元気」のもとは「建国以来の伝統的精神」が育んできた自信だ。
その「元気な心」の表現として、斉藤は宗教や道徳の方面においてのピューリタニズム(清教的精神)、生活態度においてのフロンティア・マインド(開拓的精神)、処世の方針においてのイフィサンシー(能率)を挙げています。ただ、ピューリタニズムが最初に根を下ろしたニュー・イングランドでは極端に走って、何もかも「カルヴィン的神政(theocracy)の下に」おかれるようになり、「ニュー・イングランドの清教徒の血には、主我的考へ方が流れ込んでしまつた」
20世紀の第二次大戦後に限っても、地域を問わず、紛糾のなかに繰りかえされてきたのは、手を替え品を替えたセオクラシーの登場であり、横行です。
しかも厄介なことに、第二次大戦後、当のアメリカをゆるがしたのも新たなセオクラシーでした。1950年代に「赤狩り」となったマッカーシズムに、17世紀のニュー・イングランドの「カルヴィン的神政」を重ねたのは、「るつぼ」の劇作家アーサー・ミラーです。マッカーシズムというセオクラシーをみちびいたのは信念ではなく、むしろ「信念の欠如」だった。そういったのは、「マッカーシズム」という本を書いたジャーナリストのR・H・ロービアです。
世紀があらたまっても、セオクラシーの蠢きはやみません。21世紀になってすったもんだのあげく選出されたテキサス出の大統領の掲げる「戦争」」の政治のあり方を、「テキサス・セオクラシー」と頭韻をふんで名ざしたのは、著名なコラムニストのジミー・プレスリンです。セオクラシーが人びとのあいだにもたらすものは、社会の「元気」を削ぐ疑心暗鬼です。(デモクラシーの「元気」)


セオクラシーというのは初めて知った。
theocracy 1.神政、神権政治(神託による政治) 2.神権政治国家、神政国 3.(教皇政治など)聖職(僧職)政治(研究社「新英和大辞典 1960)
赤狩り(マッカーシズム)というセオクラシー(@_@) なるほど。

「手を拱いた姿は人が深思熟考するすがたであつた。これが人そのものの在り方、対境を超越した第一次的な不動不退の存在のしかたであつた。しかし手が人間存在の様態を示すものとすれば、手が同時に人であるとともに、その表現の手段や機能でなかけらばならぬ。」(『』橘覚勝 1943 創元社)
この国の昭和の戦争の時代にまっさきに失われていったのが「手を拱いて深思熟考する」ひとの姿であったこと。手の表現を通して語られるひとの在り方のさまざまをめぐる『手』の言葉は、さながら戦争の時代の現在のひとりの貼り方のさまざまをそのまま写し、現している言葉であるかのごとくです。
「国家総力戦体制の中で」、日常をささえる手のはたらきは等閑にされて、「心を固定させない」ということができなくなってゆくのが戦争社会です。『手』は徹頭徹尾、手について、というより手のはたらきについて語られた本ですが、手についてしか語られていないのに、あくまで語られているのは戦争であり、この本の影をなしているのは、日常の充実をつくる手の働きを失わせずにいない戦争の時代の影です。(失われた手(1943))


「手を拱く」。これはぜひとも「てをこまぬく」と訓んで欲しい。そしてこの深読みこそ長田弘の真骨頂である。

後から見ればまっさきに明らかなことが、そのときはまっさきに問題の外におかれるままになる。けれども、どのように問題の外に遠ざけられても、明らかな問題のまま、最後までのこります。ものとごを破局に至らしめるおおくは、しばしば、こうした問題の外にはなから遠ざけられるままになる、本当はまっさきに明らかだった問題です。
そのことをもっともはっきりとしめすのは戦争で、戦争ほど、声高に大義を語りつづけて、後になればまっさきに明らかな問題を、そのときはまっさきに問題の外に遠ざけてしまうものはありません。やみくもな破局に至ったこの国の昭和の戦争を最後まで悩ました問題も、本当はまっさきに明らかだった、しかし最後まであえて問題の外におかれた問題だったにちがいありません。樟脳の問題もたぶんその一つです。
週報』に樟脳の問題がとりあげられた昭和13年4月、その月の1日には、政府が勅令によっていっさいの物資を統制できるようになった国家総動員法が公布されています。このときまっさきに明らかだったことは、いきなり戦争の拡大に突っ走ったにもかかわらず、この国はその戦争を支えられる物資をもっていなかった事実です。戦争は物資の「極めて莫大な」濫費にほかなりませんが、このときこの国が直面したのは、樟脳一つとっても「先づ樟脳の製造原料に供し得る迄には大体、約三十年もかゝる」植林からはじめなければならない戦争です。(戦争に必要なもの(1943))


「週報」と「写真週報」は戦争中、政府が発行した週刊誌?である。「戦争と広告」(森正人)でこの媒体のことは知ったが、こういった細かい記事から矛盾を発見する視力にも感服する。

「芸術家とはつねに自らに耳を傾け、自分の聴くことを自分の隅っこで率直な心で書きつける熱心な労働者なのだ」という、ルイ・フィリップの『若き日の手紙』にある言葉を、二十四歳で死んだ詩人(森川義信は口癖にしていたと言われます。(鳶の翅、『魔の山』、欅の木)

森川欣信は、「荒地」の詩人鮎川信夫の詩に「M]」として出てくる戦死した詩人である。

草莽          吉田暁一郎

おくねんのかぜはあれたり
おくやまのさくらちりたり
たゝかひのきずいたみたり
たみぐさのいのりもえたり
つきのやどあほくゆれたり
つゆぬれてくにおもひたり
あめのしたまなことぢたり
あさやけのかぜながれたり

せんねんのこけいしにあり
せゝらぎのつきにほひあり
いわほくだけあしみづあり
いづみおとなくひかりあり(『辻詩集』) (忘れられたアンソロジー (1943))


戦時中の詩集は、現在ではほとんど顧みられることもない。取りあげられるとしても批判の論拠としてだろう。でも、こういった鎮魂の詩もあったのだ。

本としてのありようが、その本の読み方を問う。あるいは、本の読み方をゆたかにも、また貧しくも変えてゆく。本のありようには、気づかなけれが気づかないような、何でもない不思議が詰まっています。本は、そこにあるか、ないか、それだけです。ただそれだけにすぎないのに、ただそれだけのなかに、一冊の本のすべてがあるという本のあり方の、何でもない不思議。本というのは本のあり方のことであり、本は本のあり方そのものがメッセージなのだということです。
(何でもない不思議(1943))


「薔薇は薔薇は薔薇は薔薇……」というガートルード・スタインの詩の一節を思い出した(^_^;)

「まして誰が一人、グーテンベルヒの発明のおかげで、やくざな本が世間ぢゆう一ぱいになり、人間の言葉が劣等な混乱を招いたことに気づくだらうか? ギリシヤ人どもがあんなに美しい言葉を残したといふのも、彼等の時代には活版印刷術がなく、したがつて彼等は、猫も杓子もいつ何時でも本の著者になるといふことがなく、弁論が大事な政治生活であつたことにもよつて人と議論したり語り合つたりすることが多く、そのうちのすぐれた言葉、美しい議論、面白い話だけが口から口につたへられ、そのうちの優れたものだけが貴重な紙の上に書きとめられ、それらのうち最もすぐれたものだけが写しをとられ、それらのうち最もすぐれたものだけが今日まで伝はつて来たためではないか?(『空想家とシナリオ』中野重治 (1939))

「活版印刷」そのものが、消滅しつつある現在、ポスト・グーテンベルクの未来はどうなることやら。

スペイン市民戦争と第二次大戦の経験からジョージ・オーウェルが描きだしたパトリオティズムについての考え方を思い出させます。オーウェルはナショナリズムとパトリオティズムを峻別し、ナショナリズムを「自己欺瞞をふくむ権力願望」として退け、パトリオティズムはむしろナショナリズムと対立するもので、「特定の場所と特定の生活様式こそ世界一だと信じているが、それを他人にまで押しつけようとは考えないもの」だ、としました(「ナショナリズムについて」1945年)。
しかし近代というのは、オーウェルのいうパトリオティズムが国民主義としてのナショナリズムに回収されつづけてきた歴史です。(敗者のパトリオティズム(1944))


ナショナリズムと愛国主義の峻別。大韓民国の国歌「愛国歌」の一節
괴로우나 즐거우나 나라 사랑하세
苦しいときも嬉しいときも国を愛せ
が、パトリオティズムであることを信じたい。

ガリヴァ旅行記』が、どんな物語にもまして、すぐれてこの国の昭和の戦争/敗戦/戦後の経験を映し出す鏡となったという記憶を、1951年の原民喜、小沼丹による子どもたちへのガリヴァー物語はとどめています。(子どもたちのガリヴァー(1944))

いやあ、スウィフトの「ガリバー旅行記」は、子供向けのものも、全訳も読んだのだが、やっぱり凄いインパクトのある作品である。これを「昭和の戦争/敗戦/戦後の経験を映し出す鏡」と言うあたり、長田らしい。

近代欧州政治史』(岡義武 弘文堂書房 1945年11月)は、昭和の戦争の時代のこの国の日々に会って、学ばれるべきであったのに学ばれえなかった、そして、読まれるべきであったのに読まれえなかった歴史のテキストブックであると同時に、敗戦後のこの国の日々にあっては、まっさきに学ばれうべき、そして、読まれうべき歴史のテキスト・ブックとなるべきだった刺激的な本、と言っていいかもしれませんん。
この、アンシャン・レヂーム、フランス大革命、ナポレオンにはじまり、ウィーン会議、1848年の革命、イタリー及びドイツの統一、トルコ帝国の分解、オーストリー・ハンガリー聯合帝国の動揺をへて、第一次大戦の成立、ロシア革命、そして第二次大戦の勃発までを犀利にたどる『近代欧州政治史』にいう「政治」とは、戦争と憲法です。
戦争と憲法が「政治」におよぼすのは、まったくちがっていて、まったくおなじちからです。
戦争も憲法も、それはもともとは国のつくり方にほかならないためです。戦争によって国をつくってゆく。あるいは、憲法によって国をつくってゆく。歴史において、いずれの時代にあっても国というもののありようを決してきたのは、つねにその国の戦争に対する態度であり、その国の憲法に対する態度であるということ。
憲法は国と人びとの基本の法であると同時に、(モンテスキューが『法の精神』でまっさきに言い切ったような)「政治的な徳」の表現でならないだろうからです。モンテスキューは言います。
「この政治的な徳は共和政体を動かすバネなのであり、丁度、「名誉」が君主政を動かすバネであるのと同じである。だからこそ、私は祖国と平等への愛を「政治的徳」と呼んだ。私は新しい観念をもったのであり、そのためにどうしても新しい言葉を見出すか、さもなくば、古い言葉に新しい意味を与えるかしなければならなかった」(岩波文庫、1989年版)
昭和の戦争が敗戦に終わったとき、青空の下で、わたしたちもまた、(モンテスキューの言うように)新しい観念をもったのであり、そのためにどうしても新しい言葉を見出すか、さもなくば、古い言葉に新しい意味を与えるかしなければならなかったのだと、わたしにはそう思われます。そしてそれは、新しい日常のはじまりだった、と。(古い言葉に新しい意味を(1945))


戦争と憲法が国のつくり方、という視点は重要。

日常というもののもつ意味を深刻なものに変えたのは、二十世紀の戦争です。二十世紀になってからの戦争が歴史に刻むことになったのは、戦争がもはや戦場で戦われる戦闘ではなく、戦争そのものが人びとの日常そのものになり、戦争下ではどんな極限状況もごくあたりまえの日常にほかならなくなった無残な記憶です。そうした戦争のあり方が世界からうばったものは、日々のよろこびがそこにある平凡な日常の風景です。
戦争は、いまではおおくが、宣戦布告による国家間の、終わりをめざす戦いではなくなって、パニックによって激発する、終わりのない戦いになってしまっています。それだけにいまためされているのは、何をなすべきかでなく、何をなすべきでないかを言いうる、言葉のちからです。
何をなすべきかを語る言葉は、果敢な言葉。しばしば戦端をひらいてきた言葉です。何をなすべきでないかを語る言葉は、留保の言葉。戦争の終わりにつねにのこされてきた言葉です。
1945(昭和20)年、真夏の青空の下の敗戦で終わった、それまでの戦争を基とした時代の後に、この国はじぶんから戦争をしないことを選んで、留保する自由を選びました。しかし、忘れないようにしたいのは、それからずっと、みずから留保する自由を選びつづけてきた最初の理由が、いまに至るまで、この国の自律の最後の根拠になってきたし、なっている、という事実です。(2005年、春の朝--エピローグ)


「何をなすべきでないか」これまた、重い、重い、重い言葉だ。戦争、テロから、原発再稼働、辺野古基地、改憲……
【ゴースト】中島京子 ★★★☆☆ 2017/08/30  朝日新聞出版 初出「小説トリッパー」2015-17 2018077

ゴースト(幽霊)にまつわる7篇の短編集。( )内は参考文献
第一話 原宿の家(「ガラスの靴・悪い仲間」安岡章太郎 「占領軍住宅の記録」小泉和子編)
第二話 ミシンの履歴(「ミシンと日本の近代」アンドルー・ゴードン)
第三話 きららの紙飛行機(「浮浪児の栄光」佐野美津男 「浮浪児1945」石井光太)
第四話 亡霊たち(「俘虜記・ミンドロ島ふたたび・靴の話」大岡昇平)
第五話 キャンプ(「満州難民」井上卓弥 「ベトナム難民少女の10年」トラン・ゴク・ラン
第六話 廃墟(「香港・濁水渓」邱永漢)
第七話 ゴーストライター


中島京子は今の女性作家では一番二番に好きかもしれない。最初に読んだ「小さいおうち」が大当たりで、その後、ほとんどの作品を読んだが、Morris.の好みに合うものと合わないものつまり、当たり外れが大きい。この短編集の中でも、好き嫌いが結構はっきり分かれたような気がする。
一番好きだったのが第二話のミシンの履歴。☆2つはこの作品に依る。

大通り沿いの古道具屋ウインドウに、そのミシンが現れたのは夏のことだった。秋が来て、街路樹の銀杏が葉を黄色に染め、実が酪酸の強いにおいを振りまき、やがてすっかり枯れ落ちて掃き清められてしまっても、ミシンはそこにあった。

これが冒頭の文章。「酪酸」なんてさりげなく使うところも何かかっこいい。

「こうなっちゃうと、なんだかよくわかんないんだよね」
と、笑った。
「わかんない?」
「ああ。ペンキがね、後から塗ってあるんだ。もともとの色や模様が隠れちゃってる。ハンドルも後付けで、どこの規格だかわかんない。おそらくこれだろう、と思われるのは、国産メーカーのパインって、いまの蛇の目ミシンだね。あそこが昭和の初めに作った100種30型ってい
足踏みミシンなんだけども」
「だけどこれ、足踏みミシンじゃないですね」
「うん。もう、こうなっちゃうと、何がなんだかね」
店主は目を細めた。


古道具屋の奥で見つけたちょっと得体の知れないミシン。これが、本作の主人公で「100・30」と呼ばれる。蛇の目ミシンの前身がパインだという雑学まで教えてもらった。

100・30が生まれ育ったのは、北多摩の小金井村だが、もうじゅうぶん、一人でもやっていけるとお墨付きをもらうと、すぐに同じ敷地内にあった洋裁学校に送られた。

早速主人公の出自から。

家庭内にあっては、ミシンは完全に女の所有物だった。男たちはこの大きな器械を前にして、お手上げだった。母や娘だけが扱える鉄製の什器。それを置きさえすれば、半畳は必要なその空間が、丸ごと女のものになる。
奇妙なことに、生産者兼消費者になることへの女たちの純粋な欲望を、後押ししたのは戦争だった。大陸で火の手が上がると、
「あなたには銃剣を、わたしにはミシンを」
という標語が、女たちの目を射抜いた。


これで物語の時代が明らかにされる。

しばらくして100・30は、洋裁学校から大日本婦人会による授産所へ払い下げられた。
一家の主が戦死したり、戦災で家財産を失ったりした女たちが無料で洋裁を学べる場所だった。
100・30は、芳田カメという名前の未亡人の家に借りられていった。


芳田カメは100・30を相当に酷使したらしい。

そして、あの運命の日がやってくる。
それはその年の4月14日未明のことだった。前日の9時頃には警報が発令されていて、カメはぐずる舅を担ぐようにして二人の子どもと一緒に防空壕に避難した。そのときカメが水に浸した布団のいち枚でも100・30にかけていれば、あのような苛酷な運命に晒されることもなかったかもしれない。
結局のところ、火事は一帯の全焼によって終息を見た。
100・30の体の木製部分の多くが炭と化した。
鉄というものの性質上、土に還ることはないけれども、最終的には岩のような、石のような、自然の風景の一変形に収まるかと思われた。


ここから主人公の受難が始まる。

俗にドンガラと呼ばれる100・30の胴体は、男に奪い去られた。
100・30は生きながら埋められたのである。


戦争中では、主人公の商品価値は無くなっていたのだ。

100・30の再出現した世界では、戦争が終わっていた。
「ねえ、あたし、これをもらうわ」
そう言って100・30を指した女は、ララ物資と思われるサイズの合わない様式のジャケットの下に履き古したもんぺという姿だったが、肩までの髪にはゆるいウェーブがかかっていて、うっすらと唇には紅を引き、どことなく垢抜けたところがあった。


戦後の闇市でのやり取りだろう。「ララ物資」(^_^;)

「あんた、大学の工学部を出たって言ってたじゃない。使えるようにしてよ」
それから昼間になると男は家を出て、なにやら探し回り、どこから調達したのか古いミシンの説明書や、外国語の本なども持ち込んで、しばらく腕組みをしてそれらを読んでいた。そしてまたむっくりと起き上がって出かけると、上野や浅草でガラクタにしか見えないミシン部品を手に入れてきた。
男はついに100・30に手をかけた。まずは、焦げた上に痛々しく切り離されたミシン台の名残の、斧で折り切られた板部分を、きちんとドライバーを使って取り外した。それから、女が悲鳴を上げるのもかまわずドンガラを解体した。ぞんざいな扱いを受けてきたせいで溜まっていた埃を、まずは、ぼろ布を使って丁寧に払った。それから男は自転車用の潤滑油と紙鑢で、部品一つ一つについてしまった錆を落とした。糸巻棒と失われた針板の一部は、男によって木の板で補強された。微妙に規格の違う内外釜、ボビンとボビンケースにも、丁寧に鑢がかけられた。
男は100・30を組み立てなおした。安定して立つようにと、木製の台座を作り、その上に載せてネジで固定した。ミシンヘッドの右横にあり、針棒を上下させるために回す、プーリーと呼ばれる丸い部位には、かき氷機についているようなハンドルを取り付けた。ヘッド本体は黒い塗装で、ところどころ剥げてきていたが、新しくついたハンドルは薄い緑色がかった銀色をしていた。
ずいぶん長いこと、糸巻棒に載ることのなかった上糸が載った。釜の中のボビンが回って下糸を巻き取った。男は腰にぶら下げていた手拭いを外し、押さえを上げてその手拭いを噛ませた。男は静かに押さえピンを下ろして手拭いを固定し、ふぅーっと息を吐いてから、ハンドルを回した。ゴトン、と嫌な音がして、針が進まなくなった。男は外国語の解説書と首っ引きで不具合の原因を探り、もう一度解体して、もう一度組み立てた。そんなことを何回か繰り返した。

100・30はこうして蘇生したのだ。

主人公を買った女が一緒に暮らしてた復員兵と美術係の男二人のうち、復員兵が主人公を苦労して再生させる場面。この描写が素晴らしい。花輪和一の傑作漫画「刑務所の中」の、作者のビストル再生の描写を思い出した。

女は出産ぎりぎりまでミシンを動かし続けたし、出産直後からミシンの前に座った。
縫い上げるもので稼ぎ出される金は、端から子どものミルク代に消え、次の子どもの出産費用になった。女は子どもたちのおむつや服を縫った。駆け回るようになった子どもがミシンに触らないようにと、撮影所の美術係に転職した父親が、日曜大工でミシンを覆う木箱を作った。


女は復員兵とは別れて、美術係との間に娘を出産する。

100・30が、もう一度日の目を見たのは、上の子どもが小学生になって、お母さんと同じようにミシンで縫物をしたいと言い出したからだ。
娘が母親の電動ミシンを使い始めるまでの数年間、100・30は、小さな彼女の遊び相手になった。


主人公の最後の輝き。

母親は生前、娘に言ったのだった。
「あたしが死んだら、あの押し入れにあるミシンを、いっしょにお墓に埋めてちょうだい。あれで、あんたたちを育てたんだから。片腕みたいなミシンなんだから」
それで、娘は100・30を引っ張り出して、遺言通りにしようと思ったのだが、美術係が埋まっている墓のある寺の住職が、いくらなんでもそんなでかいものは埋葬できないと言い張った。
そこで娘は、困った末にミシンの釜を抜いて骨壷に入れた。
だから、100・30には、針板の奥に釜がない。(第二話 ミシンの履歴)


娘が始末に困って古道具屋に遺品整理として払い下げたというところで最初に戻る。
〆の「だから……」は。漱石の坊っちゃんのラストに呼応している。というのは、Morris.の考えすぎかな?
Morris.が本作一押しなのは、そもそもミシン好き、というのが一番の理由なのかもしれない。やっぱりSINGERに代表されるクラシカルな足踏みミシンが一番好きだが、そんなもの置くスペースはない。部屋にあるのは、かなり古いbrotherの電動ミシンだが、これも、かなりガタがきて、実用にはかなり問題がある。水道筋のミシン屋で修理頼もうかと思いながら、手をつかねている。

九龍城の歴史を簡単に記すなら、19世紀の終わりに、イギリスが清朝から香港を99年の約束で租借したおり、九龍半島の新界地区にあった九龍城砦だけが例外として租借地から除外され清の飛び地となったが、最初にイギリスの圧力で清軍が排除され、のちに中国国民党が中華民国を打ち立てても、九龍城はどこの国の法も及ばない地帯として残された。ということになる。国共内戦や中華人民共和国樹立後、大陸からの移民がバラックを建設し、文化大革命後などにも移民は流入して、高層建築を建て、増築を繰り返し、複雑な構造の建築物を作り上げた。どの国の主権も及ばない中、住民は自治組織を作って管理にあたり、「東洋の魔窟」とも呼ばれたその活気ある風号住宅は、香港の中国への主権返還で取り壊しが決まるまで存在し続けた。
「ここを見ることができてよかった。誘ってくれてありがとう」
そう言うと、ファン・ジュンはにっこり笑った。


香港には行ったこともないが、九龍城にはそそられるものがあった。

「ここはとても古い学生寮でした。建設されたのは、1927年のことです。ここにはわたしの大叔父が暮らしていたことがあるのです。だから、一度見てみたいと考えていました。もうすぐ取り壊されてしまうと聞いて、今年が最後のチャンスかもしれないと思ったのです。でも、一人で来るのは少し怖かったので、あなたがいっしょに来てくれてよかった」
わたしたちが訪れた廃墟は、東京の中でもとくに教育機関の集まる文京地区の一角にあった。
1927年、昭和の年号でいえば、2年にあたるこの年、台湾人学生用の宿舎として、当時日本の植民地だった台湾の総督府関連の財団が、国有地を借り建設したのが、S寮と呼ばれるこの建物だった。敷地は約三千平方メートル、鉄筋三階建てに地下室がある。
ファン・ジュンの大叔父さんは、不運だった。優秀な成績で大学生になったその年に、日本は学生たちの徴兵猶予をやめて学徒出陣を決め、ほぼ同時期に台湾や朝鮮、満州などの植民地の学生たちに志願兵制度を作った。志願兵といっても、選択の余地はほぼ無く、志願しなければたいへん懲罰的な強制労働を課せられたと、のちになって、わたしは、邱永漢の自伝で読んだ。
結局、ファン・ジュンの大叔父さんは、ほかの寮生といっしょに兵隊に志願した。そして、インドネシアのボルネオ島に派兵されて戦死した。
日本は二年後敗戦を喫し、台湾は日本の植民地ではなくなった。台湾総督府そのものが消滅したので、国からこの土地を借り受けた主体である財団も消滅した。国や法が消滅しても、そこに入居している人間の営みは消滅しない。どこにも帰属を持たない学生寮は、それでも生き物のように機能し続けた。
「少し、九龍城のようです」
と、ファン・ジュンは言った。
所有者不在の建物は、法を超えて土地を占拠し続け、その後も台湾から東京にやってくる学生は伝手をたどってS寮に住み続けた。しだいに中国からの留学生も住むようになり、自治組織が作られて、寮の運営は続けられた。内戦に敗れた国民党の残党が海峡を渡って台湾に向かい、大陸に中華人民共和国が打ち立てられても、国や法と袂を分かった学生寮は、独自に存続した。
日本が寮の居住者に立ち退きを求めなかったのは、外交問題に発展するのを恐れたためだという。おそらく戦後まもなくは、それどころではなかったのだろう。1972年の日中共同声明で日本は中華人民共和国と国交を正常化、台湾と断交した。さかのぼれば台湾総督府の後ろ盾で建ったはずの学生寮の身分はますます宙に浮いたが、すべてはあるがままの状態で放置され、21世紀を迎える。

ファン・ジュンがまた泣き出すように思えてこの若い友人の横顔を見守っていたら、驚いたことに自分の眦から、ふいに熱いものが伝った。
「だいじょうぶですか?」
ファン・ジュンが、少し前にわたしが彼女にたずねたのと同じフレーズを発した。わたしは大急ぎで頬に手の平を這わせ、少し笑った。困ったときの、アジア人の笑いをしてみたのだ。わたしはほんとうに困っていたので。
それはわたしが泣いたのではなくて、なにかがわたしの中にそっと入り込んで涙を流させたかのようだった。わたしには無く理由はなかった。
それでも、まったくないわけではないような気もした。(第六話 廃墟 )


この作品は、作者と台湾の女性旅行作家が香港で出会い、いっしょに九龍城跡の公園に行き、東京にやってきた台湾作家と、取り壊される直前の台湾学生寮を訪れるという設定だが、エピソードの提示しかたがうまい。

てるみの問いかけに男は深くうなずき、なぜだか真っすぐ前を向いて答えた。
「人は誰しも心の中に闇を抱えている」
「闇?」
「そこには、ゴーストがつけ入る隙があるんだ」
「ゴーストがつけ入る隙?」
「闇というのはね、言ってみれば、恨みのようなものだ。報われなかった恨み、誤解された口惜しさ、押し込められたつらみ、われわれを排斥して大きな顔をしている者への妬み、いい気になっているやつらへの嫉(そね)み、そういった強い感情が、人を揺り動かす」


「代作屋?」
「ゴーストライターとか、ゴーストって言って、人の話を聞いて、その人が書いたみたいに記事を書いたり、本にまとめたりするんです。でもまだ、修行中です」
「そうか。それで、間違えたんだね」
「間違えた?」
「あの男だよ。さっきの着物の男はほんものの幽霊の話をしてたんだよ」
「ほんものの幽霊?」
「うん。あの男とか、あたしとかさ」
「ごめんなさい。ほんものの幽霊って?」
「死んでんのよ、あたしたち」
ほかにリアクションの取りようもなくて、てるみはへへっと笑った。

誰もが自叙伝を出すわけではないし、誰もが人に気にされる人生を送るわけではない。むしろなにも書かず、誰にも気にされずに一生を終わる人がほとんどなのだ。
「あんたは気づいてないけど、ゴーストはいっぱいいるのよ」
厚化粧の女は続けた。
「そこらじゅうにいるの。だけど、ゴーストはなんにもできない。死んだらおしまい。誰かに乗り移ったり、怨念をまき散らしたり、そんなことはできない。ただ、横にいて、思い出してもらうのを待ってる。あんたのつい隣で、待ってるんだよ」(第七話 ゴーストライター)

ゴーストライター見習いのてるみが編集長と深夜に訪れた酒場で、出会った男女ともに幽霊だったというお膳立て。ちょっと落語怪談みたいな感じだった。
つまり、Morris.はこの短編集では、第二話と第六話がお気に入りということになる。
他の作品もそれぞれ見どころはありそうだが、何となく肌に合わなかった。それでも、参考文献から、これだけの物語を紬ぎ出す作者の才能には、舌を巻くしかない。
【本を読む】安野光雅 ★★★ 2016/12/10 山川出版社 2018076
「本が好き」というのを読んで、それなりに面白かったので、前作であるこれも読むことにしたのだが、ちょっと期待はずれだった。
本書で取りあげられた30冊ほどの本の一覧が巻末にあるが、Morris.が読んだことのある本(太字)と、気になる本だけ引いておく。
・シェイクスピア ヴェニスの商人
・福沢諭吉 福翁自伝
・夏目漱石 二百十日
・杉田玄白 蘭学事始
・ウィンバー アルプス登攀記
・ビアス 悪魔の辞典
・中江兆民 一年有半
・森鴎外 椋鳥通信
・モーム 人間の絆
・中勘助 銀の匙
・富岡多恵子 中勘助の恋
・中島敦 李陵・山月記
・リンドバーグ夫人 海からの贈物
・レオポール・ショヴォ 年を歴た鰐の話
・吉田満 戦艦大和ノ最期
・黒柳徹子 窓際のトットちゃん

昔、金貸しはキリスト教徒にはできなかったことで、主にユダヤ人の仕事だったという。それにしてもシャイロックの役は憎たらしげに演じる。これがユダヤ人というものの概念を、ある程度作りあげたのではないかという説があるが、ちょっと気の毒な気がする。(ヴェニスの商人)


たしかにヴェニスの商人のシャイロックが、ヨーロッパ全体のユダヤ人蔑視をかなり助長したことは疑いを得ない。少年少女文学全集で、これを読んだMorris.も、子供心に、ユダヤ人って嫌だなみたいな感想をもった気がする。

昨日 青春の幼年時代、成年の青春時代、老年の過去のすべて。
希望 欲望と期待とを丸めて一つにしたもの。
平和 国際関係について、二つの戦争の期間に介在するだまし合いの時期を指して言う。(悪魔の辞典)


高校生の頃、ビアスの辛辣な皮肉にはちょっと惹かれてた。文庫本の一冊を長いこと持ってたが、先日としろうに進呈した。

誰でも死ぬ。例外はない。死ぬのは後から来る人のために場所を空けておくことだ。場所だけではない。汚れていない水と、汚染されていない空気だ。外に何も残すものがなくてもこれだけは残しておきたい。(人間の絆)

モームはゴーギャンをモデルにした「月と6ペンス」しか読んでない。このところ翻訳小説はほとんど読んでない。(昨年のオースティンが例外)

ショヴォの存在がうたがわれ、ショヴォとは山本夏彦のペンネームだ、といって納得した。もし彼がありもせぬ人物をこしらえて書いたものだとすると、その暗喩、比喩ともに、現代イギリスの風刺かもしれぬとみんなが思いはじめた。
そうこうするうちに、堀内誠一がパリの古本屋でレオポール・ショヴォの実在をつきとめ、わたしも一度あったことのある、フランス文学者の出口裕弘の訳で福音館から世に出た。(年を歴た鰐の話)


この絵本は山本夏彦の訳が素晴らしかった。ような気がする(^_^;)

「この作品の初稿は、終戦の直後の直後。ほとんど一日を以て書かれた」という。
彼は奇跡的に重油の海から生還したのである。
米軍の側からは右翼的な本だとにらまれ、日本からは戦争批判の意図が含まれていると解釈がわかれ、本そのものは歓迎されたが、筆を進めた吉田満の一夜は、今となってはその誠意をわかる人は少なくなったかもしれない。(戦艦大和ノ最期)


先日読んだ石川達三の「生きている兵隊」とはまた別の意味の、戦争文学の名作だと思う。

『名作52 読む見る聴く』(朝日新聞社という本の中で見つけた安岡章太郎の詩「枯葉」の一部分を掲げる。

ああ想い出してくれ。
僕らがあいし合っていた頃の
あの幸福な日々を
あの頃は、いまと違って人生は美しく
太陽はもっと明るかった。

この詩を、わたくし流に今読むと、「あの頃」というのは、本と仲のよかった頃のことだ。(あとがき)


これを見て、あれれ?と思った。引用された詩文は、プレヴェール作、シャンソンのスタンダードナンバーでもある「枯葉」の一節に間違いない。安野もタイトルを「枯葉」と明記している。Morris.が訝しんだのは、「安岡章太郎の詩」という部分である。安岡の小説は一つも読んでいないし、彼がプレヴェールの詩を翻訳したかどうかも詳らかにしないが、博学の安野が、まさかこの詩を知らずに、安岡の作品だと思ったというのはどうも信じがたい。一種のトリックかとも思ったが、そうでもなさそうだ。本のタイトルからすると、安岡章太郎が「枯葉」を読んだり、聴いたりして紹介した、といったところだろう。そうだとしたら舌足らずだと思う。
【戦争と検閲 : 石川達三を読み直す】河原理子 ★★★☆☆☆ 2015/06/26 岩波新書:新赤版 1552 2018075
河原理子 1961年東京生れ。東京大学文学部社会心理学科卒。朝日新聞社入社。「AERA」副編集長、編集委員などを努める。

私の書こうとする事はしばしば、時代の風潮にさからって行こうとするようなことになる。抵抗の文学と言えば立派にきこえるが、要するにいささか臍曲りである。「生きている兵隊」で筆禍を受けたのはむしろ私の宿命的なつまずきであった。しかし私は決して後悔はしなかった。処罰を受けても、やはり私にとっては書かなくてはならない作品であった。書いたことに万足感があった。(石川達三「経験的小説論」より)

昨日、紹介した「生きている兵隊」の作者石川達三が戦後になって回想している言葉だが、本書を読み始めて、いや、これは作品を先に読むべきだと思ったのだった。

日中戦争当時、新進気鋭の芥川賞作家だった達三は、総合雑誌『中央公論』の特派員として中国へ渡った。内地では「南京陥落」を提灯行列で祝っていた1937年の暮れのことである。年明けに上海や南京で日本兵らを取材、帰国して一気に書き上げた長編小説「生きている兵隊」は、『中央公論』1938年3月号の目玉になるはずだった。
雑誌の発売前夜、内務省により発売頒布禁止処分、いわゆる発禁処分にされた。
さらに、達三と、『中央公論』の編集長や発行人が警視庁の取り調べを受け、「安寧秩序を紊乱(ぶんらん)」したとして新聞紙法違反の罪で刑事裁判にかけられ、有罪判決を受けたのだ。
「筆禍」と当時は呼んだが、取り締まる側の分類によれば、思想事件のなかの「出版犯罪」。今日の観点からいえば言論弾圧事件である。(はじめに)


第一回芥川賞の受賞作が、「蒼氓」である。

本書の巻末に10pにわたって、新聞紙法、陸軍省令、海軍省令、外務省令が掲載されている。本文より小さい活字の二段組、カタカナ書きで、ちょっと挫けそうになったが、とにかく一通り目を通した。

勝っているのは秘密ではないが、負けているのは秘密なのだ。

法令の骨子はつまりは、この一事に尽きるかもしれない。

農村の疲弊も、戦時財政が生活を圧迫することも公知のことで、軍機とは言えない。そうした事柄の掲載を制限するのに「安寧」が使われていた。

「安寧」という言葉がそのように使われたというのは、Morris.にはすごく嫌な気分になった。韓国語のあいさつ、「アンニョン」が漢字で書くと「安寧」だからだ。

「生きている兵隊」は、強くて勇ましい日本兵の生態を如実に描くとともに、戦争に伴う罪悪、汚辱、非道をもえぐり出していた。戦争の本体は殺し合いであり、戦場に送り出しておきながら手をきれいにして帰ってこいなどと求める方が無理だ。しかし、日本兵だけはそのようなことはしないのだと言い張るのが、当時の軍部の態度であり宣伝だった。指導者は、戦争賛美の報道により「正戦あるいは聖戦」のイメージを国民に植え付ける懸命の努力をしていた。そんな情勢のなか、「生きている兵隊」は大胆といおうか無謀といおうか、戦場の風景を率直に描写したのである。軍部がだまって見すごすはずはない……。

「戦争の本体は殺し合い」このことは何度繰り返しても足りない。それを正直に取材してあれだけリアルに表現したのは、大胆、無謀以上のものだったかもしれない。これも作品を読んだから実感できることだ。

内地では商人だったり、教師や僧侶であった日本兵たちが、いかに変容していくかを達三は書こうとした。ブラジル移民を描いた出世作「蒼氓」とおなじような群像小説だといえる。違いは、戦争の方が過酷だということだろうか。人を殺し、奪い、火を放つ。あっという間に仲間も死ぬし、自分もそうなるかもしれない。生きていること自体が不確かなのだ。しかしとりあえず生きていて、動けるならば、また行軍しなければならない。

しかし達三は、中国人の側に心を寄せて書いてはいない。日本兵については、困難な進軍や、負傷して運ばれながら「もう少し撃たしてくれ」とうめく姿も描いている。
これは反戦小説ではなく戦争小説である。(第一章 筆禍に問われて)

筆者の言うとおり、「反戦小説ではなく戦争小説」だとMorris.も思った。


できるのは、内務省が著書を発禁にすることであり、裏返して言えば、すでに人口に膾炙した本であろうと「安寧秩序」をたてに発禁にすることができたのだ。
「安寧秩序」とは、ことほど左様に、融通無碍なものだった。ほかの法律で処罰することが難しいときでも、出版法や新聞紙法なら「ひっかける」ことができる。


「安寧秩序」で「ひっかける」わけか(^_^;)

『文藝春秋』が、同人誌と同じというわけにはいかなかっただろうし、ましてや第一回芥川賞として華々しく打ち出す作品が、万が一にもいちゃもんがつくものであってはならない、ということだったろうか。天皇機関説問題をめぐる軍部の圧力の強さなど、空気の変化も、当然、編集者は読んでいただろう。
簡単にいえば、自己規制であろう。しかし検閲とは、自己規制を促す装置なのだ。ここでいう自己規制は、自律とは違う。


これは同人誌ではほとんど伏せ字なしで発表された「蒼氓」が、芥川受賞作として文藝春秋に掲載されるに際して、伏せ字の措置がとられたことに関する意見である。
自律という言葉への認識が足りずにいた(>_<)
じりつ[自律]他からの支配や助力を受けず、自分の行動を自分の立てた規律に従って正しく規制すること。「学問の--性」。(大辞林)
現今のマスコミは、「報道の自立性」に欠けているのではなかろうか。

新聞紙法について自分なりにたどってみて、知ったことは二つ。
一つは、検閲には長い道のりがあり、戦争になってからあわてても遅い、ということ。批判する自由を失っていたら、「自由を失っている」ということも言えなくなる。
二つ目。新聞紙法は実に便利に使われてきたということ。
新聞紙法の間口は広い。発禁になれば発行者は経済的な痛手を負う。さらに罪に問われば、刑務所に入らなくても、編集者や発行者、著者は十二分な打撃を受ける。法定刑が軽いことを甘く見てはいけないのだ。


これらの認識は正しいと思う。そして、やはり今現在の、報道機関の無力化は、「気づいてからあわてても遅い」状態になりつあるのではないか。
ここ数年の、憲法違反を疑わせるような違法法律(^_^;)の連発は、ボディブローのように、報道や、庶民をじわじわと締め付けていくかのようだ。

「戦時における言論統制について、官憲によるそれのみを考えることは、大きな間違いである。
言論の期間である新聞・雑誌の類が戦争を謳歌し、反対の意見や批判をまったく却けてしまう。そこに、官憲の統制の手が大きく動いていることは、もとよりである。だが、こうした態度のいく分かは、それらの新聞や雑誌のみずからの発意に出ていることを見遁すことはできない。そして、これには、新聞や雑誌の当事者の意図ということもあるが、今日の商業化された新聞・雑誌においては、読者たる一般の民衆の心理を反映し、それに迎合しているという点が、むしろ多いであろう。
かくて、民衆が反対の意見や批判を押し潰すのである。民衆が言論を統制するのである。」(大森義太郎「自由」1937年8月号掲載「戦争と言論統制」(大部分削除処分)より)


戦争中にこういった勇気ある発言(かなり削除されたとしても)がなされたことに、敬意を表したい。特に、民衆が言論を統制するといったあたりの鋭さ、これは、ポピュリズムにも通じるのだろう。

新聞紙法は、日露戦争後の1909年(明治42)5月6日に公布された。
明治時代の初めにつくられた新聞紙条例を改め、格上げしたものであり、明治・大正・昭和と印刷技術の向上や教育の普及とともに部数拡大していった新聞・雑誌の歴史は、この新聞紙条例、新聞紙法を抜きには語れない。

「1875(明治8)6月28日は、当時の言論人、新聞記者たちにとって魔の日々の始まりとなっった。讒謗律と新聞紙条例という二つの言論規制法が公布されたのである。」(毎日新聞社史)


権力は言論統制をするものである。それに屈しない、少なくとも気概を見せるのがジャーナリズムというものではないのか。

新聞紙条例は次第に整えられて、「法律の範囲内」における言論著作印行集会及び結社の自由を認めた大日本帝国憲法の発布を経て、日清・日露戦争を迎えた。
新聞・雑誌の統制は、次の段階に入った。明治憲法にもとづいて繰り出されたある裏技と、戦争が絡まりあって、新聞・雑誌の検閲体制がつくられていった。
明治憲法にもとづいて繰り出された裏技とは、緊急勅令のことである。議会の閉会中などに、天皇が議会にかけずに法律と同等の効力をもつ勅令を緊急に交付できる、という制度だ。


「緊急勅令」、これは、安倍政権の「緊急事態条項」に似ている。

朝鮮の東学党の乱をきっかけに清国が朝鮮に派兵し、日本も出兵すると決定したのが6月2日。5日に、大本営が設置された。のちに空虚な発表の代名詞のようになったが、大本営が設けられたのは、日清戦争からである。


大本営は、昭和の戦争のときに生まれたのだと思ってたのだが、日清戦争のときに誕生したのか。

1909年5月6日に公布された新聞紙法は、予審中の事件に関する事項の掲載禁止の規定をのこしたのみならず、検事に記事差し止めの権限をもたせ、また、裁判所による発行禁止規定は残したまま、内務大臣は告発がなくても(安寧秩序ヲ紊シ又ハ風俗ヲ害スル)と認めれば発売頒布を禁止し、必要な場合には差し押さえもできるようにした。(第二章 ✗✗(伏字「兵隊」)さ行きてくねえ)


宮武外骨は、この新聞紙法に敢然と立ち向かったのだな。すごすぎる。

検閲については、「一切の書面或は言葉に対する検閲に際しては最高司令官が特に承認した制限によってのみ取締まられる」と書かれ、よく読めば検閲全廃ではないことが察せられるのだが、全廃でなくとも、「ほとんどなくなる」だけでも、大ニュースだったろう。
現実には、検閲は「ほとんどなくなる」わけではなかった。
実施主体とやりとりが変わっただけで、新聞や出版物の検閲のみならず、郵便検閲や電話盗聴も実行された。右手で言論表現の自由を掲げながら、左手で連合国や占領政策に不都合な話は伏せていく二重基準である。


これは戦後、CHQによる検閲の話。

「それによれば伏せ字は絶対に許されず、削除のあとをとどめないように訂正するように念を押された」(木佐木日記)
✗✗や○○や空白を残すことを、GHQは許さなかった。新聞や出版物の検閲をしているということ自体が一般の人には伏せられていた。言論表現の自由を掲げているのだから、検閲の痕跡を紙面にのこしてはならないのだ。力の痕跡を残した戦前の検閲よりずっと巧妙な、"見えない検閲"だった。
だから私(たち)は作為が加えられていることに気づかず、さらさら読み飛ばしてしまう。
戦前よりはるかに巧妙なGHQ検閲から学ぶべきは、実施も伏せて、暴力の痕跡も残さない検閲の恐ろしさではないか。人々は検閲体験を共有することができなくなり、ただ、マインドコントロールされていく。


たしかに、伏せ字や削除があることは、読者に、言論弾圧がなされているだろうことを、明らかにする。その点占領軍のやり方はずる賢いというか、狡猾である。

「戦いの権化」は、GHQ/SCAPの民間検閲局(CCD)の事前検閲により「公表禁止」とされ、占領下では日の目を見ることがなかった。
「レニングラードの、アレキサンダー三世美術館に「戦いの権化」という題名の凄惨な絵が所蔵されている」という書き出しで始まるのだが、これは、現在ロシアのトレチャコフ美術館が所蔵する、従軍画家V・V・ヴェレシチャーギン(Vasily Vereshchagin)の作品のことだ。英訳タイトルはThe Apotheosis of War 1871。戦争賛美、だろうか。邦訳は何通りかあるようだが、ロシア語の題名を直訳すると、「戦争の礼賛」、あるいは「戦争の神格化」になるという。画家は日露戦争で死んだ。

「第二次世界大戦の惨禍をくぐりぬけてきた私たちにとっては、ヴエレスチャンギンが描いた「戦いの権化」などは、昔のお伽ばなしのように単純でお人好しの絵としか見えない。一発の原子爆弾が7万の住民を一瞬のうちに殺し去った、あの広島の焼土の荒寥たる報道写真の方が、ロシアの美術家の名画より7倍も10倍も凄惨な鬼気を描いているのである。」(石川達三「戦いの権化」『考える人』2014年冬号再録)


石川達三は、戦争中は軍部から、戦後は占領軍から、言論弾圧されたわけだ。

日本文藝家協会理事長となった達三は、1952年5月2日、破壊活動防止法案をめぐる衆議院法務委員会の公聴会で、反対意見を公述している。
「ことに破壊活動という言葉がございますが、この破壊という言葉は一体何を意味するのか。これはたとえば今皆さんのお考えと私の考え自体に、もはや食い違いがあると思います。……そうしてこういうふうな法律を作成すること自体が、私ども国民に対しては一つの破壊活動ではないか、私はそういう疑いを持ちます。
私どもが最後の頼みとするのは言論の自由であります。ところがこの法案は、私どもの最後の頼みであるところの言論の自由を抑圧しようとする性質を多分に持っておる。言論の自由について、議会は私どもより少しく軽くこの問題を見られておるのではないかというふうに私は考えます。……もしも言論の自由を失うならば、それは言論を失うだけではなくて、政治も腐って来るし法律も腐って来るし、あらゆるものがここから腐敗して来る。私はそういうふうに信じております。」( 議事録)


これも、最近の「共謀罪」とかいったヘボ法律に対する反論として、今でも通じる、まっとうな意見である。

秩序とはなんぞや、というのが、私の関心になった。
秩序は、「魔法の言葉」の一つだ。反対は、しにくい。考えの違う人たちが集まって社会をつくるとき、やはり何らかの秩序は必要だろう。ただ、それはぜったいのものなのか。
「安寧秩序紊乱」に問われた石川達三に心ひかれて、ついつい深入りしたのも、そんな躓きの石がきっかけだった。
「安寧秩序」がいかに広く、融通無碍に適用されてきたかは、自分で調べてみて、得心できた。まるで何でも入る袋のようである。この歴史適時実は肝に命じておかねばならないと思う。
秩序とは何か。
いくつかの国語辞典を引いてみたが、「正しい」といった説明がついたものがほとんどで、これには納得できなかった。正しいって?
白川静『常用字解 第二版』にたどりついて、やっと腑に落ちた。
秩とは、「つむ、順序よくつみあげる、ついず(順序をつける)」の意味であり、「順序をつけてつみあげることから、秩序(物事の正しい順序。きまり)のように用いる」とあった。
なるほど、つみあげる人によっても変わるのだ。なるほどそうであるならば、魔法の言葉にうっとりしたり、ぼんやりしたりするのではなく、自分の頭で考えていかなければならない。(第四章 敗戦と自由)


「秩序」という言葉にこだわるあたり、Morris.は何となく共感を覚えた。そして、白川静が出てくると、つい贔屓筋としては膝を叩きたくなる(^_^;)。 「自分の頭で考えていかなければならない」というのは、Morris.にもぐさっときた。

私たちは、やはり、過去を知り、そこから学ぶしかないのだと思う。簡単に転ばないために。(おわりに)

うーん、本書にはいろいろ教えられる事が多かったし、筆者の姿勢にも感心するところ多かった。拍手!

関連年表(ほんの一部)

1868 明治維新
1875 新聞紙条例と讒謗律を制定
1889 大日本帝国憲法 発布
1893 出版法 公布
1894-95 日清戦争
1904-05 日露戦争
1905 石川達三 秋田県平鹿郡横手町(今の横手市)で誕生
1909 新聞紙法 公布
1910 大逆事件
1912 大正元年
1914-18 陸軍省令、海軍省令、外務省令
1918-22 シベリア出兵
1918 7-8月 米騒動
1923 関東大震災
1925 治安維持法
1926 昭和元年
1927 金融恐慌
1930 達三 移民船に乗りブラジルへ行く
1931 9月 柳条湖事件 「満州事変」始まる
1935 達三「蒼氓」第一回芥川賞受賞 天皇機関説 国会で問題に
1936 二・二六事件
1937 7月7日夜-8日 盧溝橋事件、これを機に日中全面戦争へ。12月13日日本軍南京占領。12月29日、達三、中央公論社特派員として、上海、南京に向け出発
1938 2月18日国家総動員法案 閣議決定。達三の「生きてゐる兵隊」を掲載した「中央公論」3月号発禁。起訴、裁判、有罪判決。
1942 日本文学報国会 結成
1945 GHQ/SCAP「政治的・市民的及宗教的自由の制限解除に関する覚書。12月達三「いきていゐる兵隊」が河出書房から出版される
1946 達三「戦争の権化」、GHQ検閲で公表禁止に
1952 9月 サンフランシスコ講和条約、日米安保条約締結
1975-77 達三、日本ペンクラブ会場
1984 10月 秋田市立中央図書館明徳館に石川達三記念館デイkル
1985 1月31日 石川達三、都内で死去、79歳

【生きている兵隊】石川達三 ★★★☆☆ 1966/03/05 「日本の文学56」 中央公論社 初出「中央公論」1938年発表するも、即日発売禁止) 1945年12月河出書房より発行 2018074

石川達三は、昭和12年12月25日、中央公論社特派員として、華中に派遣された。南京陥落は12月13日で、日本軍の入城式は、17日であった。石川は、上海、蘇州、南京を訪ね、再び上海に帰り、翌年1月下旬帰京した。「生きている兵隊」に着手したのは、2月1日であった。12日朝までかかり、330枚を完成した。「生きている兵隊」は、「中央公論」3月号に発表された。そのとき80枚ほど、伏字や削除にされたと、推定されている。だが掲載誌は、発行と同時に発禁処分となった。(荒正人解説より)

これを読むことにした理由は、明日わかると思う(^_^;)

戦場というところはあらゆる戦闘員をいつの間にか、同じ性格にしてしまい、同じ程度のことしか考えない、同じ要求しかもたないのにしてしまう不思議に強力な作用をもっているもののようであった。医学士近藤一等兵がそのインテリゼンスを失ったように、片山玄澄もまたその宗教を失ったもののようであった。……彼は僧衣を脱いで兵の服を着ると同時に、僧の心を失って兵の心に同化していたのであった。
しかしそれは必ずしも片山従軍僧の責任とは言えないものであった。平和な時には彼の宗教は国境を越えるだけのひろさをもっていた。戦時にあってそれができなくなったのは、宗教が無力になったというよりも、国境が越えがたく高いものになって来たのであった。


従軍僧片山が、敵の死体を供養する気になれないと述懐したことを受けての文章だが、戦場が人を変えるというのは疑いない事実だと思う。

南京へ、南京へ!
南京は敵の首都である。兵隊はそれが嬉しかった。常熟や無錫と違って南京を乗っとることは決定的な勝利を意味する。


南京を攻略すれば戦は終わるというのが、兵隊の共通意識だったのかもしれない。

まことに戦場にあっては、近藤一等兵がたびたび疑問を抱いているように、敵の命をごみ屑のように軽蔑すると同時に自分の命をまったく軽蔑しているようであった。それは身を鴻毛の軽きに置くというほどはっきりした意識をもって自己にその観念を強制したものではなくて、敵を軽蔑しているあいだにいつのまにか我とわが命をも軽蔑する気になって行くもののようであった。彼らは自分の私的生涯ということをどこかに置き忘れ、自分の命と体との大切なことを考える力を失っていたとも言えよう。……そしてひとたび敵弾が彼らの肉体に穴をあけたとき、卒然として生きている自分を発見し死に直面している自分をさとるのである。

「敵の命はごみ屑」それが自分の命の軽視に転移する。

戦闘員と非戦闘員との区別がはっきりしないことがこういう惨事を避けがたいものにしたのである。……南京が近づくにつれて抗日思想はかなり行きわたっているものと見られ一層庶民に対する疑惑はふかめられることにもなった。
「これから以西は民間にも抗日思想が強いから、女子供にも油断してはならぬ。抵抗する者は庶民と雖も射殺して宜し」
軍の首脳部からこういう司令が伝達されたのは可奈目少尉事件の直後であった。


戦闘員でなくとも殺していいという司令、これはもう無差別殺戮へのGoサインである。

こういう追撃戦ではどの部隊でも捕虜の始末に困るのであった。自分たちがこれから必死な戦闘にかかるというのに警備をしながら捕虜を連れて歩くわけにはいかない。最も簡単に処置をつける方法は殺すことである。しかし一旦つれて来ると殺すのにも骨が折れてならない。「捕虜は捕らえたらその場で殺せ」それは特に命令というわけではなかったが、大体そういう方針が上部から示された。

「生きて虜囚の辱めを受けず」という戦陣訓の教えを、裏返して敵の捕虜は問答無用で殺すというのが、日本の軍隊の常識となったらしい。

「姑娘がいたら俺だぞ」
「馬鹿、じゃんけんだ」


これはもちろん、戦地での強姦を指している。

城外の守備兵は地雷の掘りだしをやっていた。支那人の人夫を使ってやるのである。支那人はこわごわながら土を掘る。兵は遠くはなれて笑って見ているのだ。

ほとんど虐待である。

南京に残っていた住民はすべて避難民区域内に押しこめられた。その数は20万というが、正規兵も千人ぐらいはまぎれこんでいるらしい。

南京占領から半月後くらいの取材での情報として貴重である。

彼らは酒保へ寄って一本のビールを飲み、それから南部慰安所へ出かけて行った。百人ばかりの兵が二列に道に並んでわいわいと笑いあっている。露地の入口に鉄格子をして三人の支那人が立っている。そこの小窓が開いていて、切符売場である。
一、発売時間 日本時間 正午より六時
一、価額 桜花部 一円五十銭 但し軍票を用う
一、心得 各自望みの家屋に至り切符を交付し案内を待つ
彼らは窓口で切符を買い長い列の間に入って行った。一人が鉄格子の間から出て来ると次の一人を入れる。出て来た男はバンドを締め直しながら行列に向ってにやりと笑い、肩を振りふり帰って行く。それが「慰安」された表情であった。


慰安所の記述も具体的である。
以上の引用だけ見ても、この作品が発禁になったのは、当然といえるかもしれない。
それにしても、この作品だけでも、「南京虐殺は無かった」などという妄言への反証となることは明らかである。
石川達三は、ブラジル移民をテーマとした(自ら移民船でブラジルに行った)出世作「蒼氓」しか読んで無かったが、改めて、読んでみたいと思った。
【方法序説】 デカルト 谷川多佳子訳 ★★★☆☆ 1997/07/16」岩波文庫:青(33)-613-1 2018073
René Descartes  Discours de la méthode 1637

先日読んだ安野光雅「本が好き」で、このデカルトの「方法序説」について「もっとも大切だと思う本をあげる。わたしはためらわずにいうが、この一冊を読んで共感をもっていただくならもう、ほかは読んでもらわなくてもいいほどである。」と書いてあって、Morris.は「そんなこと言われてもなあ(^_^;)」とコメントしたのだが、中央図書館の岩波文庫棚で、これを見つけてあまりの薄さ(本文はちょうど100p)で、これなら読めるかもしれないということで借りてきた。

「理性を正しく導き、学問において真理を探求するための」方法序説

これが正式のタイトルらしい。

良識はこの世でもっとも公平に分け与えられているものである。


これが序説の冒頭の一文。
「良識」bon sens もともと「正しい分別」。「真偽を判断する能力」と定義され「理性」と同義。(*訳注)
なるほど。

わたしの目的は、自分の理性を正しく導くために従うべき万人向けの方法をここで教えることではなく、どのように自分の理性を導こうと努力したかを見せるだけなのである。
わたしが期待するのは、この書がだれにも無害で、しかも人によっては有益であり、また全ての人がわたしのこの率直さをよしとしてくれることである。


「無害で有益」うーーん、謙虚というか、思わせぶりな惹句である。

これからは、わたし自身のうちに、あるいは世界という大きな書物のうちに見つかるかもしれない学問だけを探求しようと決心し、青春の残りをつかって次のことをした。旅をし、あちこちの宮廷や軍隊を見、気質や身分の異なるさまざまな人たちと交わり、さまざまの経験を積み、運命の巡り合わせる機会をとらえて自分に試練を課し、いたるところで目の前に現れる事柄について反省を加え、そこから何らかの利点をひきだすことだ。
このように数年を費やして、世界という書物のなかで研究し、いくらかの経験を得ようと努めた後、ある日、わたし自身のうちでも研究し、とるべき道を選ぶために自分の精神の全力を傾けようと決心した。

「世界という書物」モンテーニュにこの発想が見られる。ガリレイは「自然という書物」が数学という文字で書かれていることを主張した。(*訳注)


Morris.が愛誦して止まない、長田弘の詩「世界は一冊の本」のルーツはこんなところにあったのか(@_@) しかし、西洋の哲学者や科学者は、この世界という本の読み方がひと味もふた味も違うなあ。

わたしは何よりも数学が好きだった。論拠の確実性と明証性のゆえである。しかしまだ、その本当の用途に気づいていなかった。数学が機械技術にしか役立っていないことを考え、数学の基礎はあれほど揺るぎなく堅固なのに、もっと高い学問が何もその上に築かれなかったのを以外に思った。(第一部)

デカルトの方法は、数学をモデルにとり、あらゆる学問に適用できる普遍性をめざすものであり、それゆえ自然学を数学に還元することも可能であった。これはまた、スコラ=アリストテレスの質的自然学の原理から切り離すことであった。(*訳注)


だんだんわからなくなってきた(>_<) それでなくても、Morris.は数学アレルギーの傾向にある。

半ば未開だったむかし、わずかずつ文明化してきて、犯罪や紛争がおこるたびにただ不都合に迫られて法律をつくってきた民族は、集まった最初から、だれか一人の賢明な立法者の定めた基本法を守ってきた民族ほどには、うまく統治されないだろう、と。同様に、唯一の神が掟を定めた真の宗教の在り方は、他のすべてと、比較にならぬほどよく秩序づけられているはずなのは確かである

戦後に生まれた日本国憲法のことを想起してしまった。

論理学を構成しているおびただしい規則の代わりに、一度たりともそれから外れまいという堅い不変の決心をするなら次の4つの規則で十分だと信じた。

1.明証的に真であると認めるのでなければ、どんなことも真として受け入れないことだ。注意深く速断と偏見を避けること、そして疑いをさしはさむ余地のまったくないほど明確かつ判明に精神に現れるもの以外は、何もわたしの判断のなかに含めないこと。
2.検討する難問のひとつひとつを、できるだけ多くの、しかも問題をよりよく解くために必要なだけの小部分に分割すること。
3.思考を順序にしたがって導くこと。もっとも単純でもっとも認識しやすいものから始めて、少しずつ、会談を昇るようにして、もっとも複雑なものの認識にまで昇っていき、自然のままでは互いに前後の順序がつかないものの間にさえも順序を想定して進むこと。
4.すべての場合に、完全な枚挙と全体にわたる見直しをして、なにも見落とさなかったと確信すること。


箇条書きというのは、何となく説得力を感じさせるもので、これもMorris.はわかったような気になったものの、本当にわかたかどうかは、よくわからない(^_^;)

比例を個別的にいっそうよく考察するためには、これを線として想定すべきこと。線以上に判明にわたしの想像力や感覚に表象できるものはなかったからだ。しかし、それらの比例を記憶に保持し、多くを一度に捉えるためには、できるだけ短い、或る種の記号で示す必要があること。そしてこのようなやり方で、幾何学的解析と代数学とのあらゆる長所を借り、しかも一方の短所すべてをもう一方によって正せる、と。
このわずかの規則を厳密に守ったことで、以前たいへん難しいと思っていた多くの問題を説いてしまっただけでなく、しまいには、知らなかった問題さえも、どういうやり方でどこまで解けるかを決定できる、と思われたほどだ。
しかし、この方法でわたしがいちばん満足したのは、この方法によって、自分の理性を自分の力の及ぶかぎり最もよく用いているという確信を得たことだ。さらに、この方法を実践することによって、自分の精神が対象をいっそう明瞭かつ判明に把握する習慣をだんだんとつけてゆくのを感じたことだ。そしてこの方法を代数学の難問に用いたのと同じくらい、ほかの学問の難問にも有効にできると期待したことだ。(第二部)


ほとんど呪文のようにしか見えない(>_<) 幾何学的解析と代数学を武器に、あらゆる分野の難問解決に繋げるというデカルトの自信満々にはちょっと感動。

当座に備えて、一つの道徳を定めた。それは三つ四つの格率からなる。

第一の格率 わたしの国の法律と監修に従うこと。いちばん良識ある人たちの意見に従うのが最善と確信。
第二の格率 自分の行動において、どんなに疑わしい意見でも、一度それに決めた以上は、きわめて確実な意見であるときに劣らず、一貫して従うこと。
第三の格率 運命よりむしろ自分に打ち克つように、世界の秩序よりも自分の欲望を変えるように、つねに努めることだった。そして一般に、完全にわれわれの力の範囲内にあるものはわれわれの思想しかないと信じるように自分を習慣づけること。
最後に この道徳の結論として、わたしはいまやっているこの仕事をつづけていくのがいちばん良いと考えた。(第三部)


「格率」は大辞林によると
かくりつ[格率・格律][独 Maxime]行為や論理の原則・準則。また証明の必要がない自明の命題。公理。カントの用法では各人の採用する主観的な行為の規則を意味し、普遍妥当的な道徳律と区別される。
ますますわからなくなってしまう。何となく言い訳がましい言説のようにも見える。

わたしは、それまで自分の精神のなかに入っていたすべては、夢の幻想と同じように真でないと仮定しよう、と決めた。しかしそのすぐ後で、次のことに気がついた。すなわち、このようにすべてを偽と考えようとする間も、そう考えているこのわたしは必然的に何ものかでなければならない、と。そして「わたしは考える、ゆえにわたしは存在する[ワレ惟ウ、故にワレ在リ Cogito ergo sum ]」というこの真理は、懐疑論者たちのどんな途方もない想定といえども揺るがしえないほど堅固で確実なのを認め、この真理を、求めていた哲学の第一原理として、ためらることなく受け入れられる、と判断した。

そうそう、デカルトといえば、あまりにも有名すぎるこの箴言めいた定義である。すごくシンプルでわかりやすいとも思うし、それなのに本当のところよくわからなくなってくる言葉でもあるが、切れ味のいい決めセリフであることは間違いない。

どんな身体も無く、どんな世界も、自分のいるどんな場所も無いとは仮想できるが、だからといって、自分は存在しないとは仮想できない。反対に、自分が他のものの真理性を疑おうと考えること自体から、きわめて明証的にきわめて確実に、わたしが存在することが帰結する。逆に、ただわたしが考えることをやめるだけで、仮にかつて想像したすべての他のものが真であったとしても、わたしが存在したと信じるいかなる理由も無くなる。
わたしは一つの実体であり、その本質ないし本性は考えるということだけにあって、存在するためにどんな場所も要せず、いかなる物質的なものにも依存しない、と。したがって、このわたし、すなわち、わたしをいま存在するものにしている魂は、身体[物体]からまったく区別され、しかも身体[物体]より認識しやすく、たとえ身体[物体]が無かったとしても、完全に今あるままのものであることに変わりはない、と。

「わたしは考える、ゆえにわたしは存在する」というこの命題において、わたしが真理を語っていると保証するものは、考えるためには存在しなければならないことを、わたしがきわめて明晰にわかっているという以外にまったく何もないことを認めたので、次のように判断した。わたしたちがきわめて明晰かつ判明に捉えることはすべて真である、これを一般的な規則としてよい、ただし、わたしたちが判明に捉えるものが何かを見きわめるのには、いくらかの困難がある、と。(第四部)


これは、先の決めセリフの解説だろう。

学者たちのあいだで論争中の多くの問題について語ることがいま必要になってくる。わたしはこれらの学者たちといざこざを起こしたくないので、そうしたことは差し控え、ただ概括的にこれらの問題がどんなものかを述べるにとどめるほうがよいと思う。(第五部)

デカルトのし全額は、スコラ学者たちの信奉するアリストテレス自然学と抵触する点が多かった。特に地動説。(*訳注)

わたしが敬服する方々、しかも、わたし自身の理性がわたしの思想に及ぼす権威に劣らぬほどの権威をわたしの行動に及ぼす方々が、ある人によって少し前に発表された自然学の一意見を否認した、というのである。(第六部)

ローマ法王庁宗教裁判所で、ガリレイの『天文対話』がコペルニクスの地動説をとるとして否認されたこと。(*訳注)


第五部、第六部は、自分の考えを全て発表するのは今の時点では、危険であるという意識のもとに書かれたもので、とりあえずパスすることにした。

ルネ・デカルトは1596年にフランスのトゥーレーヌ州ラ・エ(現在はデカルトと呼ばれている)に生まれた。父はブルターニュのレンヌ高等法院評定官で、階層的には法服貴族であった。
思えばデカルトの生きた時代は、決して平穏なものではなかった。1633年のローマでのガリレイ断罪については本書第六部でも触れられているが、この時代に新しい科学や哲学は、旧来の学問や反宗教改革との険しい相克のなかにあり、激しい弾圧にもさらされていた。デカルトの生きていた間だけでも、1600年、宇宙の無限を構想したジョルダノ・ブルーノがローマで符焚殺され、1616年にはコペルニクスの書が法王庁の禁書目録に加えられる。1619年にはイタリアの哲学者ジュリオ・チェーザレ・ヴァニーニがドゥールーズで火刑に処せられる。1623年には詩人テオフィル・ド・ヴィヨーが、涜神のかどで欠席裁判で死刑を宣告され、翌1624年にはパリの高等法院がアリストテレスに反対する説をなしたジャン・ビトーらを追放刑に処し、しかも、世に受け入れられた古代の著作家(つまりアリストテレス=スコラ)に反する説をなすことを死をもって禁ずる旨の布告を出す……等々。
本書の一行一行に、そうした状況のなかで、何かを後世に残そうとする、デカルトの苦渋と深く強靭な意志とが感じられよう。


デカルトの生きた時代は17世紀、方法序説が刊行された1637年といえば、日本では天草で島原の乱が起こり、前年に鎖国令が出た時代である。何か西欧近代哲学というとわりと最近のことのように錯覚するが、デカルトは500年くらい前の時代の人だったのか、と、今更ながらびっくりしてしまった。

デカルト主義は近代合理思想の中心原理となっていった。
現在(1997年)、こうした基礎と出発点をもつ近代思想全般に対しては、見直しと批判の気運が高まっている。デカルト哲学を祖とする近代思想の超克や解体、あるいは脱構築が問題となり、さらには科学技術文明の弊害、たとえば環境問題や自然破壊、はては医療への不信、倫理の不在までも、デカルト主義をその思想基盤とする見方さえある。(解説 谷川多佳子)


Morris.が読んだ岩波文庫が出てから20年過ぎてるわけで、訳者が言うところの「近代思想の見直しと批判」が、結局は薄っぺらいものだったような気もする。
Morris.にしては珍しいジャンルの読書だったし、やっぱり(^_^;) ほとんど歯が立たなかったけど、何か新鮮な体験をしたような気になった。安野さんに感謝。ということにしておこう(^_^;)
【アレの名前大百科】みうらじゅん監修 ★★★  2010/10/05 PHP研究所 2018072
マイブームの命名者みうらじゅんによる、トリビア雑学辞典風な一冊。編集部からの持ち込み企画だと思う(^_^;)

文明というものは「どのアレ?」とか「どのアソコ?」と、いちいち聞き返さなくてもすむように細部にも名称をつけるところからはじまったのだと思う。(はじめに)

印象に残った「アレ」をいくつか拾っておく。

[クロージャー] 食パンの袋を閉じている切込みの入った小さなプラスチック片。bag clousure

これ、以前、ソウルのHachiさんから質問があって、ネットで調べたことを思い出した。こんなのって、今やネットで90%以上は調べられる時代になってしまった。

[ランドルト環] 視力検査に使われる「C」のような図形。

たしかにこれって、みんな知ってるものなのに、名前はほとんど誰も知らない。今日の免許証更新での視力検査でもこれが出てきた。

[カラザ] 卵を割ると黄身にくっついているヒモ状の白くて小さい塊。カラザは卵黄の上下について卵黄が殻にぶつかって割れるのを防ぐ役目。主成分は卵白と同じタンパク質でこれに栄養素シアル酸を含んでいるので、食感を気にせず食べるのがお勧め。

Morris.も卵を割って溶き入れるとき、この白い部分を取り除くことが多かった。そうか、栄養もあるんだったらこれから食べることにしよう。内側で殻の端と端の間に黄身を引っ張って保護するためのものだったのか。「殻座」という漢字がひらめいたが、間違いかな?
というわけで、早速ネット(Wikipedia)調べたら

カラザは日本語で「殻座」あるいは「殻鎖」と書かれることもあるが、実際はギリシア語由来の「chalaza」(χάλαζα : 霰の意)の音写であり、漢字での表記は当て字。

と、書いてあった(^_^;)

[鯨幕] 通夜や創始位の会場を囲む白黒の幕。

これは好きな言葉。

[木殺し] トンカチの金具の丸みを帯びている面。釘打ちではまず安定性のある平らの面で家、最後締め打ちで木殺しをつかうことで、凹み傷を作ることなく釘を深打ちできる。

なるほど。

[カラビナ] ハーケンとザイルを接続するための連結器具。一部が開閉できるリング状になっている。ドイツ語カラビナ(機関銃)ハーケン(鈎)。

これは最近日常的によく使うもので、名前も何度か聞いたこともあるのだが、すぐ忘れる。

[ひかがみ] 膝の後ろのくぼんでいるところ。漢字では「膕」

身体の隅々の名前も面白い。「盆の窪」とかね。

[スピン] 本のしおり紐。


spinはもともと「紡ぎ紐」。

[レンチキュラー] 「レンズ型の」という意味。角度によって見える絵が変わったり立体的に見えるアレ。右目用と左目用を交互に並べた上に微細なかまぼこ型のレンすを敷き詰める。

あの立体写真風のアレは、かなり昔からあったと思う。チープというかキッチュというイメージから抜けられない。

[ブリスターパック] 台紙に貼ったプラスチックの透明パッケージ。ブリスターは「水ぶくれ」

小物のパッケージに多用されてるものだが、たしかにこういうものの名称は聞いてもすぐ忘れる。

Morris.も以前、こういった、トリビアなものの名前を、採集したりもしてたことがあるが、インターネットの普及で、めげてしまった。
【虚栄 vanity】久坂部羊 ★★★☆☆ 2015/09/30 KADOKAWA 2018071
久坂部お得意の医学小説。
総理の一声で始まった国家的「G4」プロジェクト。「G」は「がん」の頭文字(>_<)、「4」はがんの4つの治療法(^_^;)
予算と主導権を巡る4つの治療法グループの争い、せめぎあい、駆け引き、中傷などを描いたものだが、Morris.としては、例によって久坂部のわかりやすい医学解説書として読んだ(^_^;)
本書を読んでる最中に、今年のノーベル医学生理学賞をがんの免疫治療薬オプジーボ開発に貢献した京大の本庶佑教授が受賞したというニュースがあって、ちょっと驚いた。今日の愛知県の大学での講演では、これからのがん治療は免疫療法が突出するようなことを言ってた(ビデオで一部だけ聞いたのだから確信は無いが)よなので、本作が、もう少し後で書かれることになってたら、かなり違ったものになったかもしれない。

「真がん・偽がん説」は、がんには命に関わる本物のがん、すなわち「真がん」と、放置しておいても大丈夫な「偽がん」の二種類があるというだいたんな仮説だ。岸上が一般向けに、「がん治療は患者を殺す」という本を書いて、一大センセーションを巻き起こしたのは、もう10年以上も前になる。
岸上の説でもっとも過激だったのは、外科医が手術で治したと思っている患者は、すべて「偽がん」なので、手術をしなくても死ななかったという主張である。
当然ながら、外科医たちは猛反発した。手柄を全否定されたのにも等しいからだ。しかし、どうの外科医も有効な反論ができなかった。すでに手術をしてしまった患者が、手術をしなければ死んでいたとは、説明できないからだ。
逆に、早期発見・早期治療が有効なら、なぜ早期がんで死ぬ患者がいるのかという疑問にも、外科医たちは答えられなかった。早期がんにも悪性度の強いものがあるというなら、それは取りも直さず、岸上のいう「真がん」であり、手術で助かった早期がんは、すべて「偽がん」だったと言われても否定できない。


この岸上というキャラは実在の近藤誠という医学者がモデルになっているらしい。巻末の参考文献に、近藤の著作が多数上げられている。
近藤誠著 「がんは切ればなおるのか」(1995)「患者よ、がんと闘うな」(1996)「抗がん剤は効かない」(2011)「がん放置療法のすすめ」(2012)「「がんもどき」で早死にする人、「本物のがん」で長生きする人」(2013)
そして、Morris.は、がんに関しては、この人の考え方に無条件に賛成したくなった(^_^;)

矢島塔子は取材ノートのページをめくり、各グループの分析をまとめた。

[内科グループ]
強み=抗がん剤は全身のがんに抗力を発揮する。
弱味=同時に全身の正常細胞にも副作用を及ぼす。分子標的薬は効くがんが限られる。
展望=分子標的薬のさらなる開発、"万能抗がん剤"の開発(可能なら)。

[外科グループ]
強み=手術でがんを取り除くことは患者の安心感が大きい。
弱み=目に見えないがんや、全身に広がったがんは切れない。手術による身体への負担、合併症による多臓器不全などの危険。
展望=がんの可視化で、全身に広がる前に手術する。手術支援ロボットなどにより、手術の負担を減らす。

[放射線グループ]
強み=切らずにピンポイントでがんを治療できる。全身に広がったがんも治療可能。
弱み=放射線に感受性のあるがんにしか効かない。正常細胞を障害する副作用がある(ただしピンポイント照射で軽減可能)。
展望=「粒子線治療」およぼ「BNCT」の実用化。

[免疫療法グループ]
強み=副作用がほとんどないこと。全身に広がったがんにも有効。
弱み=科学的に有効性が十分証明されていない。治療に時間がかかる。
展望=実績を積み重ね、治療の確立を目指す。


矢島は大手新聞の医学専門の記者だが、後半では自分もがんに罹り、小説でも大きな役を演じるのだが、彼女の取材という形で各グループの特徴が読者に提供される。

「わたしどもの身体には、日々、がん細胞が生れています。増殖する前にそれを排除するのが免疫システムです。免疫療法は、このシステムを増強することによって、がんを取り除こうとするものです。自然に備わったシステムを利用するのですから、副作用はほとんどありません。がんを攻撃する免疫細胞には「キラーT細胞」や「NK(ナチュラル・キラー)細胞」などがあり、免疫療法ではこれらの細胞の攻撃力を高めたり、ワクチンでがん細胞を認識させるこtのよって、治療効果を高めたりします。ほかにも「LAK療法」といって「リンフォカイン活性化キラー細胞」という強い攻撃性を持つリンパ球や、人工リンパ節の研究も進められています。これを使うと、細胞の活性化は一挙に百倍から千倍に上昇し、治験では一回の治療でがんが消えた例も報告されています」
「これまでの治療法は、どの科もがんを攻撃するものばかりでした。それは武力に訴える戦争のようなものです。同じたとえで言うなら、免疫療法は外交戦略です。もともと生体に備わったシステムを利用するのですから、副作用はほとんどありません」


本庶教授の今日の講演なを思い出す。

患者にすれば、どんな方法であれ、とにかくがんが治りさえすればい。一方、プロジェクトトG4の面々にとっては、何より自分たちの治療法で治すことが重要なようだった。ほかのグループの治療でがんが克服されても喜べない。それどころか、下手をすれば、自分のグループの治療が過去の遺物として、葬り去られる危険もあるのだ。

医学界での縄張り争いは熾烈らしい。

先のインタビューで、矢島という記者が岸上から聞いたという言葉が頭をよぎる。
--がんは自己だから克服されない。
がんが正常細胞から発生したのは周知の事実だ。多くの抗がん剤や放射線治療は、正常細胞も攻撃するから、副作用が問題になる。しかし、それはずっと前から言い古されていることだ。岸上が言ったのは、そんな単純なことではないはずだ。
がんは無秩序に増殖する。新生血管を作り、栄養を確保し、転移で新しい生存の場を獲得する。その戦略の巧みさは、あたかも自らの意志をもった高等生物であるかのようだ。だが、そう考えると、どうしても合点がいかないことがある。がんの増殖が、宿主を死に追いやってしまうことだ。それはがん自身の死をも意味する。繁栄が死につながる矛盾。がんとはただ単に狂った細胞なのか。
雪野に衝撃を与えたのは、岸上が言ったというもうひとつの言葉だった。
--がんは人類のためにある。
もし、そうだとしたら、がんの凶悪化は何を意味するのか。


これは雪野という久坂部の分身みたいな登場人物の感想。

矢島塔子は自棄(やけ)になって訊ねた。雪野はまるで無理な抜け道でも聞かれたかのように、首を揺らした。
「答えはありません。いつがんになってもいいような生き方をするしかないでしょうね。むずかしいかもしれませんが」
「雪野先生は、そういう生き方をされているのですか」
「それはそうです。だって、今は二人に一人ががんになり、三人に一人はがんで死ぬ時代ですよ。心の準備は当然、しておいたほうがいい」
矢島塔子は納得がいかなかった。がん家系のひとならこうすればいいという答えがほしかった。
「当てにならない希望と、つらいけれどほんとうのことと、どちらがいいですか。私は医者として、患者さんには誠実でありたいと思っています。聞こえのいい話でごまかすより、嫌がられても、ほんとうのことを話すほうが誠意があるでしょう」
「医者に質問するとき、あらかじめ自分の気に入る答えを期待するのはよくありません。どんな答えでも、受け入れる心の準備が必要です。いやな答えを聞きたくないなら、はじめから質問しなければいいのです。欧米では当たり前のことですよ」
日本人は甘えているというのか。たしかにそいういう一面はあるかもしれない。新聞の記事でも上層部は常に希望や明るさを前面に出したかる。でないと、読者に受け入れられないからだ。悪い事実は知りなくないというのなら、報道は半身をもがれたも同然だ。


医者に、自分の望む答えを期待するな、というのは、なるほどと思った。病気ではないが、今回の右腿打撲骨盤ひび割れの診療でも、最初全3週間くらいと言われ、3週間目に再診受けた時、もうこれくらいで治療終えてもいいのかと思い、そう言ったら、あっさり覆された(>_<)だけにね。

「厚労省の認可基準は、新薬を使った患者の二割に有効ならばOKという甘いものだ。逆に言えば、5人のうち4人に効かなくても認可されるんだぞ。その事実を明かさずに、さも公に効果が認められたように思わせる。さらには長期の延命効果などと言いながら、具体的な期間を言わない。実際はたった半年も延びない。分子標的薬の作用をわかりやすいイラストで説明して、さも副作用がないように見せかける。すべては虚栄だ。メディアは医学界の虚栄の片棒を担いでいるのだ」
そこまで言うと、岸上はふたたび発作に襲われたよに苦しげに咳き込んだ。

政府と医学の上層部での馴れ合い。それを見ないふりして報道するメディア。

「がんであれ、健康であれ、我々は所詮、余命を生きているにすぎない。患者は治療で一喜一憂するけど、がんが治ってもいずれは死ぬ。どうしてそう思えないんだろう」
「現実を知らないからよ。治らない患者がたくさんいて、平均寿命まで生きられない人もいっぱいいるのに、八十歳くらいまで生きて当然、みたいに思うんじゃない」
「病院であれだけ治らない患者を見てたら、がん患者は死ぬのが当たり前って思うよな」
「だから、今が大事なのよ。悔いのないように楽しまなきゃね」
西井はバスローブを脱ぎ、ふたたび男に身体をすり寄せた。男はわずかに後ずさりしながらも、淫らな笑いで応じる。


上司に不利な情報を別のグループに漏らした女性研究者と情報をもらった男性研究者の会話。「、我々は所詮、余命を生きているにすぎない」、Morris.の決まり文句がここにも出てた(>_<)

「がんの専門医としては、あまり非科学的なことも言いにくいでしょうな。私はもっと自由に発想しています。がん細胞は、明確な意図をもって凶悪化したのではないでしょうか」
「……といいますと」
「がん細胞は、もともとは自分の細胞です。それが自分を殺すような変異を起こすのは、一見、不合理のようでいて、実は合理的ではないかと思うのです」
意味がわからない。矢島塔子が雪野を見ると、彼も戸惑いを隠せずにいた。
岸上は確信を込めて語った。
「日本の超高齢社会のひずみと、進みすぎた医療の矛盾。寝たきり老人、施設での老人の飼い殺し、チューブと器械に生かされる尊厳のない命、そんな"悲惨な長生き"
を避けるため、無意識の恐怖が圧力を強めて、がんを凶悪化させたとは考えられませんか。がんは私たちの一部なのですから」

突然、吐露される、がん自律論(^_^;)

雪野はシートに身体を預けてあっけらかんと言った。
「結局は、岸上先生のいう通り、時代の限界なんですよ。今は医学が進んでいるから、何でもわかるはずだと考えている人が多いようですが、決してそんなことはない。実際はわからないことだらけです。何でもわかるように見せかけているのは、医学の虚栄ですよ」
--医学の虚栄……。
矢島塔子は胸の内でつぶやき、その言葉を反芻した。
ジャーナリストとして、時代の限界を超えられないのなら、せめて誠実な報道に徹しよう。自分の頭で考え、専門家の言葉も鵜呑みにせず、感情や思い入れに左右されず、ありのままを検証して。
報道が、"虚栄"に陥らないように。


これが物語の結びのフレーズである。タイトルでもある「虚栄」。たしかにこれは医学にも報道にも、研究にも、企業にも、生きとし生けるものの行為に結ぶつく誘惑なのだろう。

蛇足であるが、本書の登場人物の命名は、五行の法則に則したものになっている。

[内科グループ]田壮一郎、木満、雪野光一、沢康彦
[外科グループ]川泰司、小忠之、崎守
[放射線グループ]柳宏、田公造、梅川
[免疫療法グループ]江真佐子、吉典彦、西井圭子


塚本邦雄あたりだと、それぞれが更に複雑な意味を持つのだろうが、久坂部の場合は、単なる思いつきかお遊びなのだろう。でも記憶力低下著しいMorris.には、覚えやすくて嬉しかった(^_^;)
【本が好き】安野光雅 ★★★ 2017/07/30 山川出版社 2018070
安野さんは絵描きだが、文章もなかなか読ませるものがある。相当な読書家でもある。
本書は、印象に残った本をランダムにあげて、長短取り混ぜたコラムみたいな文章の寄せ集め。内容はともかく、Morris.の読書控えにどこか通じるところがあるような気がして、親近感を持ってしまった。
本書に出てくる主な本の一覧。(太字はMorris.が読んだことのある本)

・ファーブル「完訳ファーブル昆虫記
・武田百合子「犬が星見た--ロシア旅行」
・中村哲・澤地久枝「人は愛するに足り、真心は信ずるに足る--アフガンとの約束」
・ショイルマン「絵本パパラギ--はじめて文明を見た南の島の酋長ツィアビが話したこと」
・デカルト「方法序説」
・橘南谿「東西遊記」
・ホワイト「科学と宗教の闘争」
・日高敏隆「人はどうして老いるのか 遺伝子のたくらみ」
・コロンブス「全航海の報告」
・堀田善衛「スペインの沈黙」
・ラス・カサス「インディアスの破壊についての簡潔な報告」
・デュマ「モンテ・クリスト伯
・大佛次郎「ドレフュス事件」
・カーン「パブロ・カザルス 喜びと悲しみ」
・小泉八雲「耳なし芳一
・芥川龍之介「羅生門・藪の中
・井伏鱒二「さざなみ軍記」
・司馬遼太郎「韓のくに紀行
・イザベラ・バード「完訳 日本奥地紀行」
・森まゆみ「子規の音」
・岡倉覚三「茶の本
・森鴎外「即興詩人
・菊池寛「父帰る」
・六代目三遊亭圓生「新版 寄席育ち」
・三木のり平「のり平のパーッといきましょう」
・半藤一利「B面昭和史」
・半藤一利「文士の遺言」
・志賀直哉「城の崎にて
・吉村昭「吉村昭自選作品集 別巻」
・堀内誠一「パリからの手紙」
・谷川俊太郎「よしなしうた
・大岡信「人類最古の文明の詩」


わたしは食べ物のことはあまりこだわらないが、人の書いたものにはひかれる。なかには外国で食べるものをいちいち写真に撮っている人がいる。文章はいいとして写真にまで撮るのは如何なものかと思う。(犬が星見た)

Morris.のように、日常生活の食事のデジカメ写真撮りまくってるなんてのは論外なんだろうな。でも、今はそういう人々の数は膨大なものだと思う。

もっとも大切だと思う本をあげる。わたしはためらわずにいうが、この一冊を読んで共感をもっていただくならもう、ほかは読んでもらわなくてもいいほどである。(方法序説)

そんな事言われてもなあ(^_^;)

ドイツ文学者の高橋義孝は「人間死ねばゴミになる」と朝日新聞に書いたため、どっと反論があったという。前著「本を読む」に書いた中江兆民の説がある。人間はだれでも、うまれたとたんに、死に向かって歩んでいる。不老長寿の薬があると信じた人もあろうが、はるはずがない。(人はどうして老いるのか)

本書より前に同じような「本を読む」というのも出てるのか、それも読んでみよう。中江兆民といえば、なだいなだの「TN君の伝記」はいい本だったな。「人間はだれでも、うまれたとたんに、死に向かって歩んでいる」というのは、Morris.の口癖「人は生まれた後は余生」というのと同じで、わりと平凡(ありきたり)な考えだったのかも。

黒澤明が「藪の中」の内容で作った映画に「羅生門」という題名をつけたのである。「藪の中」という題名では観客に訴えるものがないと思ったのかもしれない。(羅生門・藪の中)

これは知らずにいた。

なぜ私が本が好きで、人に本を薦めるかというと、自分の面白かった世界をみんなに知ってもらいたいだけなのだ。(あとがき)

これにもMorris.は同感を覚える。
【いま〈日本〉を考えるということ】木村草太編著 ★★★☆☆ 2016/06/30 河出書房新社 河出ブックス:095 2018069
木村草太 1980年生れ。首都大学法学系教授。専攻は憲法学。「憲法の急所」「キヨミズ准教授の法学入門」「憲法の想像力」「テレビが伝えない憲法の話」「集団的自衛権はなぜ違憲なのか」

大澤真幸(おおさわまさち) 1958年生れ。社会学博士。京都大学大学院教授などを歴任。「虚構の時代の果て」「自由という牢獄」「思考術」「<世界史>の哲学」

山本理顕(やまもとりけん) 1945年生れ。建築家。建築作品に埼玉県立大学、横化美術館。「新編 住居論」「権力の空間/空間の権力」

木村草太はおなじみだが、他の二人は名前も知らずにいた。いやいや、世の中にはすごい人がいるのだな、ということを教えられた。

「建築家と社会学者と憲法学者。何の関係もなさそうな異分野の三人が集まったところで、いったい何ができるって言うんだ?」そんな声が聴こえる気がする。
本書は、二部構成になっており、第一部は、シンポジウムの報告と討議のまとめを、第二部は、両先生と私が執筆した論文を掲載している。
私は、本書の特徴は「明るさ」にあると思う。
社会問題を前に、眉間にしわを寄せて難しい顔をしていると、何となく思慮深い、偉い人のような雰囲気を醸し出せる。他人に敬われたい人にとっては、そうした態度はかなり有効だ。しかし、それでは、社会にとっては何の役にも立たないだろう。
難しい社会問題に出会ったときに必要なのは、今ある課題を明晰に認識することだ。課題が明確になれば、解決のための方向性も明確になる。本書の各論考を読んでいただければ、あかるくすっきりした気分になれるはずだ。(はしがき 木村)


ざっとまあ、こんな構成である(^_^;)

「ヘゲモニー的記号」とは、細部を伴わない「神」のようなものだと理解できるのではないでしょうか。
たとえば民主主義も「ヘゲモニー的記号」です。民主主義の世界では、民主主義的でないことは悪いこととされますが、「民主主義とは何か」と問われると、具体的にはよくわからなかったりする。
最近、ヘゲモニー的記号として急浮上しつつあるのが、「緊急事態条項」であると私は思っています。
このところの論調では、「緊急事態」と誰かが認定したら、首相に命令権が集中する制度をつくることが緊急事態の対応だとされています。でも、「首相に命令権を集めると、緊急事態のときにどう役に立つのか」はほとんど議論されていないように思います。つまり、ヘゲモニー的記号になりつつあるのです。
緊急時にまず必要なのは、自治体の関係部署の連携や、十分な予算、事前の準備です。
日本で緊急事態対応を考えるための論点は、首相に強大な権限を集中させるというような大雑把な議論のレベルにはありません。(憲法は細部に宿る 木村)

「神は細部に宿る」というのはMorris.もよく使ってしまう言葉だが、もともとはミース・ファン・デル・ローエというモダニズム建築家が愛用した標語だとのこと。
つまり細部で建築の価値が評価されるという意味だったのだろう。
「ヘゲモニー的記号」というのは面白い。ヘゲモニーはドイツ語で「主導権、指導する立場(大辞林)」で、これが記号化すると、よくわからないのに、当たり前のように使われてしまう。


原爆を投下してしまった第二次大戦の後に、まさに人類の一部はそのような(理想主義的な)夢をみたのです。たとえば、国際連合もそうした夢の中から出てきた。今はうまくきのうしていないけれど、あの瞬間は、国際連合に対する非常に理想主義的な、人類的な賭けがありました。
その国連の理想が文字通り実現すれば、すべての国が交戦権を放棄して、国連軍、国際警察をつくることがありえたかもしれないし、核兵器を全面的に国際管理して、誰の所有でもなくす、ということもありえたかもしれない。
しかし、その一年半くらいの短い期間の後、冷戦が本格化し、国際連合は政治的駆け引きの場に変わってしまう。
しかし、ほんとうは、その夢以上の夢の痕跡が、現実の中で、すこしだけ痕跡をとどめているのです。どこにか。日本国憲法の九条こそ、それです。


安倍晋三の改憲野望は理想とは対極にあるものだろう。

世界中では集団的自衛権がうまく機能しなくて困っているのに、日本ではこれを導入するかどうかという周回遅れの議論をしている。世界では、この手の車は中古車として使えないなと話し合っているのに、日本では、深刻な不具合のある車を買うのか、買わないのか、みたいな話をみんなで議論しているようなものです。(現実をどう乗り越えるか 大澤)

周回遅れ!!(笑うに笑えない)(^_^;)

ここからしばらくは鼎談からの引用

木村 ポリス(古代都市国家)の住宅は私生活の場所であると同時に一方で参加する場所でした。ですから、住宅そのものが政治参加するような空間になっていない限り、共同体的空間との関係は成り立たないはずです。しかし、現代は住宅自体が共同体的空間に参加することを禁止するようにできています。鉄の扉を閉めたら隣で何をしていても、まったく関係なく住めます。まるで孤立させるかのように設計されています。


これは木村ではなく山本の持論だが、現代の住宅が外の世界を遮るデザインであるという視点は新鮮だった。

山本 19世紀にそうした住宅(労働者住宅)が発明されて、それ以降、その「循環する生命過程」を守ることが家族の役割であり、一方でその家族を守ることこそが、いかにも国家の政治的な役割であるかのように、国家の役割そのものが変質していきます。「循環する生命過程」に国家が介入することによって「繁殖や誕生、死亡率、健康の水準、寿命、長寿」(フーコー「性の歴史」)といった人間の生命そのものの調整や管理が国家の政治的役割になったという意味です。

「家族」と「個人」と「社会」の関係性を、もう一度考え直さなくては。

大澤 在特会風の過剰なナショナリズムは、国民や民族への愛の表現ではなく、本質的には「サヨクが嫌い」ということなんですね。サヨクやリベラルへの嫌悪が、裏返しのかたちで表出される。
「アイロニカルな没入」というのは、「なんちゃって」の構造です。皮肉な気持ちを持って対象や主題と距離をおきながら、けれどもそれにハマっているかのような行動と態度をとるわけです。たとえば、本当に国を愛しているわけじゃないけれど、愛国主義者として振る舞う。つまりそこには、アイロニーの部分と没入の部分の二つがあるのですが、そのうちのどちらが重要か、どちらに真実があるかっていうと、没入の部分のほうなんですね。いかに気持ちの上で距離を置いてるようにみえても、結局行動のレベルで没入していれば、没入の方が人間の世界を広く支配してしまうんです。
木村 本気にはしていないけど、とりあえずやっておこうかということの延長線上に、危険な没入があるということですね。地域社会が大事なのはわかっているけど、結局個人主義に進まざるを得ないよね、とみんな思ってるから今の住宅になっている。
安倍内閣を支持する人も、内閣がすごくいい政策やっていると思っているわけではない。
おそらく安倍首相本人ですら、集団的自衛権を本気で行使したいと思っているわけではない。でも、いまは、左翼に対抗するために、集団的自衛権は絶対に必要なんだというポーズを取らなければならないと考えている。


大澤の「アイロニカルな没入」というのが本書でいちばん印象に残った言葉だった。ネット右翼は「なんちゃって右翼」かあ。

山本 家族を信じてるからそれが壊れたら一人になると思っちゃうわけですよ。でも、本当のことを言えば、その人は様々な集団に属する可能性を持っているわけで、家族が壊れたからといって、たった一人になるわけではない。
だから、一人で生きている高齢者は、本当は様々な関係のなかで生きているはずです。家族も一つのコミュニティです。家族が壊れたら、違うコミュニティの可能性が待っているはずなんです。

太宰治の「家庭の幸福は諸悪の本」というフレーズが条件反射的に思い起こされた。

1933年はヒトラーが政権を取った年である。そして、すぐさま施行された法律が「遺伝病子孫予防法」であった。俗に言う「断種法」である。
その同じ年、建築家たちによる国際会議、CIAMの第四回会議が開かれ「アテネ憲章」が採択された。
ナチス政権による断種法と建築家たちによるアテネ憲章が同じ1933年だったというのは確かに偶然の一致でしかない。それでも、その当時健康な生活について考えるという、建築家たちの考え方は、国益としての「国民の健康」と同じ方向を向いていたことは確かである。


断種法の始まりはアメリカだったらしい。「健康」という「病気」(>_<)

プライバシーという言葉は、外側との関係を奪われている、隔離されている(privative、deprived)という意味を含んでいるのである。その外側の公共空間に参加する自由を奪われている、という意味である。そうした生活に幸福を感じるような、そうした私たちに対してアレントは極めて批判的だったのである。家族の内側の自由は逆に外側に対する不自由を意味しているからである。
こうした住宅に住み続けることによって、私たちはプライバシーこそが家族にとって、最も重要であるという考え方を身体化し、そして一方でその外側が官僚機構による管理空間であることを、「承認」しているのである。大澤真幸の言葉を借りれば、官僚機構そのものを「特権的な他者」として承認しているのである。


本書の三人はアレントをよく持ち出す。ハンナ・アレント(1906-75)はドイツ生まれのユダヤ人哲学者。全体主義を生み出す大衆社会の分析で知られているらしいが、Morris.は名前しか知らずにいた。プライバシー至上主義の欺瞞か。

今私たちが住んでいる「1住宅=1家族」システムの住宅はnLDKと言う記号で言い表すことが既に一般化されている。つまりプランニング(間取り)の記号化である。こうしたプランニングによる住宅形式の起源は、19世紀の工場労働者の住宅であった。様々な地方から出てきた様々な労働者たちは標準化され均一化されなければならなかった。そうでなくては労働者として使えない。そのためには家族の標準化は必須だったのである。

標準化=使いやすい。なるほど。

自主的に政治判断をすることができる中間集団がない。その中間集団に代わって、官僚機構の様々なセクション(部局)がその政治的判断の役割を担っている。つまり、官僚機構の中の一セクションが中間集団を偽装するわけである。日本の多くの中間集団は、いわば官製の中間集団になってしまっている。そのような国家である。いまの日本は細分化された官僚機構によって隅々まで官僚制的に統治された国家なのである。それは、"公"がそのまま"官"になっているような統治機構である。家族が基礎単位であることを理想とする国家像は、そのまま官僚制的統治を容認するような国家なのである。
自民党の作成した2012年改憲草案には、「家族は、社会の自然かつ基礎的な単位として、尊重される。家族は互いに助け合わなければならない。(24条)」と新たな条項が書き加えられている。


ナンセンス!!

"私"と"公"とは相互関係なのである。"私"に対するその上位の集団が"公"である。それぞれを取り出して、単独でそれを定義することはできない。"私(Private)"とは何か、"公(Public)"とは何か、それぞれは単独にある概念ではなく、両者が一つのセットになっている対概念である。そのように考えるとしたら、確かに今の日本は"私"が家族であり、"公"が官である。最悪の"私"と"公"との関係である。
そして、確かに私たちはそうした空間に住んでいるのである。


最悪!!

江戸や京都の町には居住専用の住宅などなかった。あったとしてもそれは「仕舞屋(しもたや)」と呼ばれ「別宅や隠居宅、妾宅」など、既に商売から身を引いた人のための家だった。「仕舞屋」とは「店を仕舞うた人の家」という意味である。
「1住宅=1家族」はこうした町家から、表の「店」にあたる場所が消え失せて、単なる奥の茶の間や寝室だけが残った住宅である。「仕舞屋」である。つまり経済活動から排除されることによって成り立っている住宅である。決してコミュニティをつくらない住宅なのである。


「仕舞屋」という言葉をMorris.はちょっと理解不足で使ってた気がする。
しもうたや(仕舞うた家) 1.商家ではない、普通の家。しもたや。2.もと商家であって、その商売をやめた家。(大辞林)
Morris.は大辞林の1.の意味でのみ理解してた。

日本全体が地域の経済ではなくて、その場所の経済とは無関係な賃労働者のための空間として、標準化され均一化され、地域性そのものが失われ、当然基礎的政治空間も失われていったのである。私たちはそうした変化をむしろ進んで受け入れていった。地域ごとの特殊性は、古くさい過去の遺物だと考えたからである。日本の近代化のためにはむしろ障害になると多くの人たちは考えたのである。実は今でもそのように考える人の方が圧倒的多数派なのである。

地域における特殊性。これこそ宝ものだったのに。

今の日本は私たちが思うよりももっと遥かに強靭な官僚制社会になってしまっている。その大きな原因の一つが住宅である

この視点は忘れまい。

「内閣総理大臣である私は、いかなる事態にあっても国民の命を守る責任があります」(平成26年5月15日安倍総理大臣記者会見)。それが国民の生命に対する全権は統治者の側にある、という意味だとしたら、国民の生命の価値をセグメントするような政治空間はその先に待っているのではないか。(1933-2016 山本)


鋭い。

東日本大震災のあった年の翌年あたりから、つまり2012年頃より、マスメディアでは、日本人や日本文化が賞賛されていることを伝える言説が、いわゆる「日本ぼめ」が目立って増加してきた。
(20世紀末の)人気テレビ番組「ここがヘンだよ日本人」から「日本ぼめ」への転換を説明するメカニズムこそ、まさに、私が「アイロニカルな没入」と呼んだ態度だということだ。アイロニカルな没入において、
アイロニーの意識と没入の行動とのどちらに、その主体の「真実」があるのか。後者、行動の方である。「ここがヘンだよ」で、日本人自身が自分たちの行動ややり方を嘲笑しているとき、アイロニーの意識が全面に出ている。このとき、日本人は、自分自身に対して距離をおき、自分を相対化しているように見える。アイロニカルな没入とは、アイロニーの意識を持つ距離化自体が「没入」の態度に規定されているがために、当人には自覚されることなく、対象をつきはなす意識が消え去り、やがて本気に没入する態度へと--つまり「ベタ」にはまる態度へと--変容していくことである。
たとえば2016年の現在「ここがヘンだよ」のような番組を作れば、自虐的であるとして批判されるだろう。90年代の末期には、日本人たちは「ラーメン屋の行列」を、自分たちの従順な性質を反映する行動として、自ら揶揄しながら反省的に眺めていた。しかし、その15年後には、それは、自分たちのアイデンティティの核をなす美質へと転換したのだ。重要なことは、この変化は完全に連続的で、本人の中では断絶の意識が生じないということだ。


先の「アイロニカルな没入」の解説。

日本人は、アメリカの視点から自分を見ているのだ。つい最近まで、日本人は、自分が、アメリカから見て、東アジアの中で、最も良い国であり、また最も重要な国である、と確信していた。そのことが日本人の自尊心の源泉である。ところが、近年、アメリカは日本よりも中国を優先しているように--日本人の目には--見える。アメリカにとって、中国は日本よりも大事な国であり、アメリカは、外交的にも、日米関係よりも米中関係の方にプライオリティを置いている用に見えるのだ。喩えるならば、ずっとつきあっていた(つもりの)恋人が、最近、別の女に興味を持っているように見えるのだ。今日日本人が自信を失うのは、評価のための観点が、アメリカ合衆国にあるからである。もしアメリカという観点を媒介にしていなければ、中国が台頭してきても、日本はここまで激しく自信を喪失することはなかっただろう。

日本人は、敗戦の屈辱を、勝者アメリカを開放者・救済者と見なして受け入れることで乗り越え、回避した。しかし、このような構図は、アメリカが、日本に無条件の好意をもっていることを、つまり日本を愛していることを前提にする。しかし、そんな前提ははじめから成り立ってはいなかった。中国が台頭し、アメリカが中国に、日本に対する以上の関心を寄せる中で、日本は、このことに気づき始めて、焦りを感じている。そのことが、日本の自信喪失につながっている。(日本人の空威張り 大澤)


こうなると「敗北を抱きしめて」(ジョンダワー 1999)を読み返さねば。

現代の人々は、普遍性を持たないとても狭い領域にそれぞれ没入している。例えば、オタク的趣味への耽溺はその典型だし、原発、安保法制、TPPといった問題についても、それぞれの関心の濃淡は激しい。
大澤の分析によれば、オタク的趣味も、この余剰的可能性Xへの感覚を前提としている。オタクという現象は、「片方に普遍的なものへの関心」が隠れていて、それがアニメや鉄道や電話帳といった非常に特殊なものに反転して投影される現象だ。そうだとすれば、それぞれが得意な文化に没入する現代の状況に過度に悲観的になる必要はない。
「これに尽くされるものではない」というセンスこそ、未来との連帯を可能にするのだ。


韓国オタクのMorris.もちょっと救われるおことば(^_^;)

さて、山本理顕と大澤真幸の好奇心を引き受けた時、その先には何があるだろうか。私は、立憲主義、人権、法の支配といった普遍的な規範の復権ではないかと考えている。
立憲主義、人権、法の支配といった規範は、権威主義の押し付けであるかのように誤解している人も多いと思う。しかし、そうした規範は、本来は、官僚制的支配やアイロニカルな没入に陥るのを防ぐ装置として構築されてきたものだ。私はそのことを、憲法学者として強調しておきたいと思う。(地域社会圏と未来の他者--山本理顕と大澤真幸の好奇心を引き受ける 木村)


「アイロニカルな没入に陥るのを防ぐ装置」としての立憲主義、人権、法の支配。本書の総括である。

しばしば建築家の仕事は、「奇抜」「景観破壊」「不便」「非効率」「不経済」と批判される。しかし、そこに言う「景観」や「不便」等の理念は、どこまで確実な理念なのだろうか。しばしば、「景観破壊」を主張する者が示す代替案のイメージの貧困さには、辟易させられる。また、建築の「不便」が、コスト意識や十分な視野の広さなしに主張されることも多い。
建築は長い時間の中にあり、それを評価するには時間が必要である。<良き公共建築>を実現するためには、対象と時間をかけて誠実に向き合い、それを自由かつ柔軟に評価する思考が必要であろう。教条化された思考からの自由を確保する。公共建築において求められているのも、結局のところ、このような立憲主義の大原則である。(公共建築における創造と正統性--邑樂町建築家集団訴訟の示唆 木村)


引っ越し屋という商売柄、嫌悪し続けてきた、安藤忠雄建築についても、再考の余地があるのかな?

現在の日本では、国家権力が憲法を敵視し、その統制を免れようとする状況への対応が課題となっている。2015年夏には極めて強い違憲の疑いがかけられた安保法制が制定されたし、その後も、不合理な感情論に突き動かされ、権力の拘束を解くための改憲を訴える者が少なくない。
この状況に対し、憲法学は、まずは、理論的な解釈論や立憲主義の理念を解くことで対応する。
ただ、これらの論証は、あくまで相手が日本国憲法や立憲主義のゲームに参加することが前提である。ゲームへの参加自体を拒否し、外側からゲームを壊そうとする相手には、別の対応が必要である。
大澤真幸先生は、憲法や立憲主義を含む近代的な普遍原理に対するアイロニーの発生原因を鮮やかに分析している。また、第三者の審級の停止という魅力的な処方箋すら示してくれる。そういう意味で、大澤社会学は、第一級の憲法学理論でもある。
山本理顕先生は、地域コミュニティの重要性を認識しつつ、その中での強制や抑圧にも敏感だ。また、建築を現実に「作り上げてしまう」立場にいる徹底したリアリストでもある。だからこそ、先生の地域社会圏の理論や設計は、抑圧的でないコミュニティをいかに作るか、という点で、示唆するところが大きい。


ここでもイソップ寓話の狼と子羊を思い出さずにはいられない。理不尽、没義道、傍若無人な相手との対症療法は?

本書にかかわる一つひとつの作業は、巨大な知的興奮をもたらしてくれた。新しいことに挑戦することで、学問の初心を思い出すこともできた。(おわりに 木村)


Morris.も本書で、些少な知的興奮を享受させていただいた。

【BE KOBE】BE KOBEプロジェクト編 ★★★☆ 2015/12/07 ポプラ社 2018068
 「震災から20年、できたこと、できなかったこと」というサブタイトル。
神戸地震から20周年を記念して作られた、ロングインタビューを編集したもの。以下の10組13人が登場。最初の二人とは面識がある。
以前、六甲道の歯医者の待合室にこの本置いてあって、最初に慈さんの写真が出てて、読もうとしたら、すぐ診療になった。歯医者にはそれきり行ってないので読まずじまいだったが、灘図書館で見つけたので借りてきた。

・慈憲一(うつみけんいち) naddist
・飛田敦子(ひだあつこ) NPO法人コミュニティ・サポートセンター神戸 マネージャー
・青山大介(あおやまだいすけ) 鳥瞰図絵師
・片瀬範雄(かたせのりお) 神戸防災技術者の会 「K-TEC」
・永田宏和(ながたひろかず) NPO法人プラス・アーツ理事長 デザイン。クリエイティブセンター神戸(KIITO)副センター長
・金千秋(きむちあき) FMわぃわぃ 総合プロデューサー
・田村太郎(たむらたろう) ダイバーシティけんきゅうじょ代表理事 復興庁 復興推進参与
・真山仁(まやまじん)  小説家
・室崎益輝(むろさきよしてる)
・諏訪清二(すわせいじ)元 県立舞子高等学校 環境防災科 教諭/現 県立松陽高校 教諭
中野元太・河田のどか・山本奈緒 県立舞子高等学校卒業生(環境防災科二期生)


きれいな言葉や一つのイメージで街をくくる「まちづくり」へのアンチな気分が、naddistを核衝動になったところはあるかな。身の回りの普通の道や石垣から街を語ってもええやん、と。
「灘印良品」が面白かったなあ。ケンコーマヨネーズ、小泉製麻の麻バッグ、サンナッツ食品のミックスナッツ、青谷の茶畑で採れた静香園のお茶とか……、「これ実は灘区で作られてるんですよ」という製品を集めて店をやったんです。水道筋の空き店舗を一ヶ月間借りて。あの時はいろんな人が企業や店に話をつないでくれたり、店を手伝ってくれて。
今いちばん気になってるのは水道筋の市場ですね。高齢化して後継者もおらず、空き店舗がずいぶん増えた。だけど、あの昭和の市場のしつらえや、対面販売の場はなくなってほしくない。なにより、僕が買い物に行くところがなくなる(笑)。新しく商売をやりたい若い人たちに、うまく店舗を引き継いでいける仕組みができないかといろいろ模索してるんです。街は一度壊したら、もう二度と再現できませんからね。(慈)

慈さんとは何度か、一緒に街歩きしたりしたことがある。水道筋でばったり会えば挨拶交わすくらいの間柄だが、何かイベントがあると、たいてい彼が絡んでいる(^_^;)

日本人やアジア系がほとんどいない国で、初めてマイノリティになって気づいたのは、数が少ないというのは、それだけで圧倒的にしんどいということ。私は自分の意志で選んで行ったけど、彼らは難民だったり、経済的な理由だったり、やむを得ずそういう立場に置かれている。これが日本だったらどうだろう。彼らはもっと暮らしにくいはずだ、と。
2年半の留学で学んだのは、多様性の大切さですね。国籍や人種の違いはもちろん、多用な価値観や生き方があってこそ、人や社会は豊かになるんだ、と。そのためにできる仕事って何だろうと考えているうちに興味を持ったのがNGOやNPOやったんです。
(六甲道駅前の勤労市民センター内にある)私が常駐している「生きがい活動ステーション」。ここはNPOやボランティアに特に興味のない人がたくさん通りかかる場所なんです。ちょっと仲良くなって、趣味が日曜大工ときけば「木工の仕事があるんですけど、行ってみませんか?」って、おせっかいというか、ほとんどキャッチセールスみたいな(笑)「あの人がやることなら面白そうだから自分も参加してみたい」とか、多くの人はそういうきっかけで動くもの。結局、いちばん大事なのは「人」やと思うんですよね。(飛田)


彼女は六甲学生青年センター飛田さんの娘である。彼女が小学校の頃、数人で六甲山山歩きして、小学生たちと一緒に歩いてたMorris.が道を間違えて(^_^;) 保護者に心配かけたことを思い出す。

神戸は国際都市で、外国人も暮らしやすくて、というイメージがありましたけど、震災でわかったのは、単に「使い捨てのやすい労働力」と見なされている外国人もたくさんいるんだってことですよね。
今、大概的な脅威や不安感を煽ってるのって、政府やマスメディアのような「中央」の視線だと思うんですよね。だーっと波のように押し寄せる排外主義的な気分を押し返すには、一人一人が地域の中でつながって、お互いを理解したり判断したりする力を上げていく以外にないと思う。(金)


FMわぃわぃのスタジオにも足を運んだことがある。知り合いの数人がここで番組持ってたり、出演したりしてた。

人道上の問題として受け止め、これを機に共生社会に向かおうとする気運が震災直後は確実にあった。働きかければ世の中変わるんだという手ごたえを感じて、ある意味嬉しかったですね。
だけど、暫く経つとだんだん元に戻っていくんですよ。「形状記憶合金」と誰かがたとえてましたけど、縦割り行政とか組織間のしがらみとか、地震で一度崩れた壁がまた出てくる。震災後一年ぐらい、役所で言うと職員が防災服からスーツに着替えた頃かな。これは、今、東北に通っていても感じます。3年ぐらい経つともう役所の空気が震災前に戻っている。復旧・復興が進んで日常に戻るのは悪いことばかりじゃないけど、災害時の危機を乗り切った連帯感や、市民と一緒にという姿勢がなくなるのはちょっと残念ですね。
僕も含めて阪神・淡路の経験者は当時の社会を前提に物事を見てしまい、ずれることがある。今の社会状況を冷静に見て、復興なり被災者支援なりを考えるべきでしょうね。(田村)

巻頭折込の神戸地震年表から一部を書き写しておく。

1995/01/17 午前5時46分淡路島を震源とする震度7の地震発生。気象庁「兵庫県南部地震」と命名
        01/23 停電復旧
        01/31 電話ほぼ復旧
        02/14 政府が「阪神・淡路大震災」と呼称決定
        03/17 兵庫県再開発都市計画決定
        04/01 JR神戸線が全線開通
        04/11 大阪ガス復旧宣言
        04/17 水道復旧完了
        08/11 仮設住宅4万8300戸官製
        08/23 神戸居避難所廃止
        09/19 オリックスリーグ初優勝
        10/25 長田区で「男はつらいよ」ロケ
        12/15 初の神戸ルミナリエ
1996/04/28 そごう神戸店全面再開
        09/30 阪神高速道路神戸線全線開通
        10/24 オリックス日本一に
1997/03/02 大丸神戸店が全館で営業再開
        05/06 JR新長田駅南地区の再開発着工
        07/29 JR六甲道駅南地区の再開発着工
1998/03/19 特定非営利活動促進法(NPO法)成立
        04/05 明石海峡大橋が開通
1999/03/09 神戸市の区画整理事業がすべて動き始める
        05/11 兵庫県内の全復興住宅が完成
        12/20 神戸市内の仮設住宅が全面解消
2000/02/23 政府の復興対策本部が解散
2001/04/23 気象庁がマグニチュードの値変更 M7.2からM7.4に
2002/04/01 県立舞子高校に「環境防災科」設置
        04/27 人と防災未来センターが開館
2004/11/01 神戸市人口が地震前を上回る
2005/01/18 神戸市で国連防災世界会議 「標語宣言」採択
2006/02/16 神戸空港開港
2009/09/29 長田区に「鉄人28号」モニュメント
2011/03/11 東日本大震災
2015/01/17 BE KOBE発足       

【無縁声声(むえんせいせい) 日本資本主義残酷史】平井正治 ★★★☆☆ 1997/04/30初版 2010/09/30新版 藤原書店 2018067
平井正治 1927年、大阪市生れ。1961年より釜ヶ崎に居住し、日雇労働。1966年大阪港港湾日雇労働者となり、全港湾労組大阪港支部執行委員、副委員長など歴任。著作に「博覧会から見た釜ヶ崎の歴史」「震災の思想」などがある。
先日読んだパギやん(趙博)の大阪環状線ガイド本の中に平井正二のことが書いてたあったことから、読まねばと思った。
すごい人である。

戦中戦後、二十歳前後だった著者は、いったい幾つの職業を渡り歩いてきたことか。悲壮感どころか、まさに才気が身を助ける痛快さ、常に先の見通しを立てている賢明さ、そして奔放とも言える自由に満ちている。著者は多分、半世紀前から新しい日本人だったのであり、今もなお、時代は著者に追いついていない。
要は、個人だ、ということだろう。今なお時代が著者に追いついていないというのは、そういう意味である。義務や使命といった大上段の建前でなく、己の頭と身体に忠実であることが、隣人や自分の尊厳を守る戦いになり、また他者への献身に結びつく。
著者は無縁仏になりたいという。自分の人生の後に何も残したくないと願うことに悲哀はなく、むしろ聡明な最期なのだと本書に教えられた。そうして、著者も語るように、西成に代表されるこの国の最底辺はいつまで続くのかという問題が、なお最後に残るのである。(高村薫)


高村薫が解説書いてるというのにはちょっとびっくりした。初版にはなくて、再版のために書かれたものだが、高村は幼い頃、西成の近く(東住吉区)に住んでたらしい。

灰屋という商売があった。灰というのは肥料になる。火葬場の灰。火葬場で骨上げして、小さい壷に入れたあと、骨と灰がかなり残る。残りの灰を処分してもらってけっこうですと、親族が火葬場で依状を書かされた。戦前は灰屋が夕方になると火葬場に肩引き車で来て、カマスに灰を集めて、それが農村に肥料として、完全に循環される。焼き場の灰はカルシウムがあるから、ええ肥料になる。長町のことを書いたものに灰屋裏という長屋がある。

長町という地名も今は無くなったようだ。死体を焼いた灰が肥料になるというのがありがたい。

博覧会とか何か大きなイベントやるたんびに、交通機関やら土木工事をして、それも突貫工事で、危険と紙一枚の現場で、かならず労働者が犠牲になっています。そして、イベントが終われば労働者は置き去りにされる。

2020オリンピックでも同じようなことが繰りかえされるのだろう。

千日前の繁華街は、もとは墓場の跡で、あの一帯は処刑場があったところです。千日前から道具屋筋へ行く方も、道頓堀へ行く方も、法善寺に至るまで、あのへん寺だらけや。千日前の、角っこのあたりが処刑場演ったんです。
江戸時代の初期から中期まで、道頓堀というのは非人溜まりで、非人がようけおった。道頓堀の工事は安井道頓がやったいうけど、道頓堀というのは、非人を使うて掘らせた掘割りや。


寺が多いのにも理由があった。

1903年(明治36)に、天王寺公園のところで、博覧会をやるという計画が出てきた。京都の第四回に次いで、第5回の内国勧業博覧会。1900年から工事が始まる。工事が始まる前に長町の住民を立ち退かせて集めたのが、長町から1キロも離れてないところ、今の釜ヶ崎のだいたい北半分ぐらいにあたる部分です。摂津国西成郡今宮村水渡釜ヶ崎。何でそんな近いところに、追い出した人間を集めたかと言うと、博覧会の工事をやるから。じゃまや言うて追い出しといて、労働力だけは利用しようというわけです。(第一章 生い立ち有為変転)

釜ヶ崎ドヤ街の歴史は120年近くあるわけだ。

1961年(昭和36)の8月1日、釜ヶ崎で暴動が起きた。当時、僕は、京都内浜の木賃宿に宿泊してました。夜遅くのニュースを見て、大阪-京都間を阪急バスが深夜バス出してたから、2日の夜明けには、まだくすぶってる釜ヶ崎に、石ころゴロゴロの釜ヶ崎におった、西成警察に群衆が集まって行く。4,5千人が西成警察を取り囲む。
僕は60年安保も行ってきたし、しかしその中で釜ヶ崎での暴動というのは、こんだけ動いているけど、だれが指導するでもなし、自然発生的。
日当がその時分でだいたい千円前後、800円ぐらいから1200円いうたら、よっぽどきつい仕事でした。文句言うと、殴る蹴る、警察も相手にしてくれんのです、あの時分は
、雇うてもろて文句ぬかす方が悪いんやいう。そういう日頃の警察の労働者に対する対応が悪かった。そのことが怒りの最大の原因ですわ。
暴動は1961年(昭和36)の第一次暴動から、1973年(昭和48)の第二十一次暴動まで続く。それから17年間暴動は途絶えていた。1990年(平成2)は、花と緑の博覧会が開催され、関西空港の工事も始まっており、京阪奈学園研究都市の工事も行われていた。バブル経済の全盛期であった。(第三章 第一次釜ヶ崎暴動の渦中に飛び込む)


Morris.が大坂にやってきたのが1973年。ちょうど釜ヶ崎の暴動が鎮静期に入った頃だったということになる。それでも、その頃はまだ釜ヶ崎というと、かなり危険地域というイメージが強かった。

釜ヶ崎のあいりんセンターでも設計図では風呂やのに、シャワーになってそもたりとか。みな近所の風呂屋がいわゆる風呂屋議員に働きかけて、あのセンターには風呂ができるらしい、あれをやめさせろと、結局シャワーに変えた。ところが汚れ仕事して、シャワーでは落ちん、冬、ぬくもらん。釜ヶ崎では、風呂がシャワーにすりかえられて、だれがそれを認めたのか、いまだにシコリが残っています。
バナナ荷役というのは、これはむずかしい。まず陸揚げしたら、殺菌燻蒸、青酸ガスを24時間、倉庫にぶち込んで、それで殺菌してから、今度はそれを中和して、48時間たつと倉庫から出して、それで今度は市場のムロへ入れる。それで青いバナナが黄色くなって出荷される。この設備が大阪になかった。それが70年の万博で需要が増えるいうので、バナナ埠頭というのを大阪市港湾局が建てた。バナナの仕事というのはものすごいきつい仕事なんです。箱をパレットに積む、狭い船底で、とにかく忙しい、7万ケースもあるから。それでこれを12℃ぐらいの低温で持ってくるから、寒いぐらいや。夏なんか、この中に入って仕事して、上がった時にたまらん、外が暑いから。それで体を壊してしまう。(第四章 港湾労働の高波に揉まれつつ)


今や安い果物の代表みたいなバナナもあの頃はまだそこそこ値段高かったんじゃないかな。青酸ガスで殺菌というのは知らなかった。

飯場の貸布団、汚い汚い布団です。この布団がどっから来るか言うたら、修学旅行の旅館。京都なんかやったら、修学旅行と寺参りの団体旅館。一シーズン終わったら、布団はみな払い下げ。食べてこぼすし、修学旅行やったら漏らすのもいるし、とにかく汚れて、使いもんにならへん。こんなん、カバーだけちょっとつけ換えて、中の布団は天日に干すだけ、飯場の布団というのはみなそういうふうなもんです。

姫路とか、あのへんの臨海工業地帯の暴力飯場というのは、ほとんど組関係です。駅手配のとこも暴力飯場が多いんです。結局は、工事が終わったら労働者が余るから、使い捨て労働者を使おうということです。それに対して公共工事でも、工事の推進の方ばっかりやって、労務対策というのは、全然、この監獄部屋時代から、北海道の囚人労働以来ずーっといまだに、本質は一つも変わってないということです。
原子力発電でも、手配はほとんど組関係です。彼らは原子力発電所の飯場へ行った労働者に、組は絶対つぶれんという話を前夜にきっちり聞かしよる。反対運動のあるところで仕事するほどつらいことないんやと。それを俺らはお国のために引き受けとるんやから、カタギやと言うわけ、カタギの仕事してるけど、つい手なぐさみをやったり、仕事がひまな時に人を脅かしたりするさかいに取締り食らうけど、本業はこういうことやってんねやからと、国策行為をやってると言う。手配師は手配師の論理がある。田中角栄が、国のためにロッキード入れたんやいう、あの倫理と一緒です。(第五章 よう見てみィ、これが現場労働や!)


実際に飯場生活を体験した人の記録だけに説得力がある。

神戸貿易博覧会。戦後最初の大規模な博覧会で、神戸市の王子公園と湊川公園の二ヶ所の会場で開催することになった。湊川にも王子公園のところにも、神戸で大空襲でやられた人やら、海外の引揚者やらが、バラック建てていて、強制立ち退きをやったんです。それを撤去する口実が博覧会です。当時、資材がなかったんやけど、アメリカ占領軍と吉田内閣が支援してやらせたんです。
何で貿易博覧会をやったか。博覧会が終わった日に朝鮮戦争が始まってます。もう目的が目に見えた港の博覧会、軍需物資の積み出し港。朝鮮戦争というのは、一年ぐらい前から計画してたというから。


1950年の神戸貿易博覧会。王子公園の会場というのは、今の王子動物園の遊園地部分にパビリオンが設営されたらしい。というか、遊園地はその博覧会のために作られたもののようで、市民プールはこの時の防火用水として作られたとか。まさに朝鮮戦争勃発の年というのが象徴的である。

博覧会とかスポーツ大会とか、国策興行をやる時には、まず会場の取り合いが起きる。どこを会場にするか、会場になったところは土地の値段が上がるから、どうしても政治家が出て来る。だから開催期日は先に決まる。会場の取り合いで工事が遅れる。それで開催日までに突貫工事をやる。そないしてやったのが1964年の東京オリンピック。

これまた2020で繰りかえされるにちがいない。

1970年の万国博覧会の最大の目的は、原子力発電所の推進だったんです。あの時に美浜の一号機の突貫工事を、当時の芦原義重、関電社長がやった。「原子力文化」という、万博会場で配った関西電力のパンフレット、この博覧会の目的は、原子力時代の幕開けやと、そう書いてます。70年の万博が始まってしばらくした夏頃に、会場に美浜の原子力の電気が来たというので、点灯式をやったんです。あれが原子の灯、原発の平和利用といって。

1982年に大阪二十一世紀協会、初代会長に松下幸之助、関西電力の芦原義重、日商の古川と財界から三人、それと知事と市長、この五人が会長、副会長になって。
二十一世紀協会というのは不思議な団体で、大阪府と大阪市から二十人ずつ、それから拡大企業から出向社員を出してました。最初百人ぐらいが、天満橋のキャッスルホテルの四階に、ワンフロアを借り切った協会事務所で始めたんです。
二十一世紀協会のニュースというのは、毎号新空港をどないして造るかです。財界と行政が一体で事務所を作って、給料はみなそれぞれが出して、協会の役員がいうてる、「なんせ不思議な団体でございまして」と。それはもう類例がないですね。一つのイベント団体に給料出して、職員も何十人も派遣するという。産、官、学、労組、文化各界が群がる新板大政翼賛会が作られたわけです。
もともと鶴見緑地は生ゴミの埋め立ての山、花博の工事でほじくり返して、25年前のゴミが出て、何とも臭い、腐りきらんナイロン製品がある、あそこの工事場へも何回も行ったけど。僕は仕事が目的で行ったのやなしに、それを見たいから。
一応、動員数は二千万人を突破したということになってるけど、工事関係者に券をみな押し付けるんや。その上で、前売りの券の数で二千万突破したと、成功やということになってるけど。(第六章 博覧会の輝く電光の影に)


鵺のような団体ぢゃ。「新大坂大政翼賛会」(^_^;) 花と緑には関心深いはずなのに、何故かMorris.はこの博覧会のことは記憶の外にある。

新開地の商店街というのは、旧港川の土手の跡です。明治29年(1896)、湊川の大水害が起こった。当時の港川は、新開地よりも神戸よりの方にあった。山からどっと水が出て、その水が町中を流れた。明治になって鉄道をつくった。鉄道は堤防になるから、鉄道で水の流れが止められて、神戸の街を横にずーっと水が川になって流れた。それで、水害を防ごうというので、湊川の付け替え工事をやった。再度山のところをトンネル掘って、新湊川に流した。その時のもとの堤防が新開地の商店街になる。あの商店街は土地がずっと高うなってて、両側が低うなってる、あれ堤防の跡。神戸の古い人は、新開地の商店街を「土手」と言います。商店街になってからは映画館がようけできて、大阪の新世界と似たとこでね。道路のすぐ向こうには福原遊郭がある、釜ヶ崎には飛田遊郭があるし、よう似ています。
付け替え工事に土木労働者を入れて、堤防下に飯場をつくった。その労働者が土手下に残った。大きな土木工事をした後は、かならずその近くに置き去りにされた労働者が残る。神戸は街が細長うて港にも近い、新開地は手配するにも便利がええし、労働者が集まる。仕事が出てくると働きに行く、あぶれると湊川公園で野宿する。釜ヶ崎の天王寺公園と似ている。
堤防下やからね、そういうところで、やっぱり地盤が弱いんです。堤防の上はしっかりしとるから、わりあい商店街残ってた、震災の時。横手に入ったら、もう裏っ側は壊れてる。

西神戸には土木飯場が多い。暴力飯場と呼ばれるようなものもある。原発労働者なんかここから送り込まれるのがかなり多い。そういうところの飯場は廃材でこしらえたバラックで、みな倒れてる。プレハブの作業員宿舎から、毎朝マイクロバスで仕事場に行っていた。その朝つぶれて焼けてしもうた。親方は仕事にならんから、日雇いはそのまま追い出され、出ていかなしょうない。日雇いやから失業保険もない。まず食えんから、どうしても避難所へ行く。それを避難所がまた追い出す。「ホームレスは出て行け」と言えば問題になると知っていますから、「あんた家族カードは」といいます、「自分の町内にいけ」と。
関東大震災の時、朝鮮人が火つけをしたとか、そういう流言蜚語、デマが飛んで、それで朝鮮人が襲われたり殺されたりした。今回の震災では、そういうのでなくて形を変えた暴力というか、「じゃまになるから追い出せ」という排除は絶えず起きてましたね。

神戸で、建設・土木労働者の交通事故が多いんです。労災にするより交通事故にした方が有利なんです。下請けは労災の掛け金かけてない。今はそれなりに裁判までいけば元請け責任になるけど、つい下請けは弱いもんやから、上に対しては労災の申請をセずに交通事故で処理してしまう。実際は労働災害の発表の人数より多いです。
今度の震災復旧で、建設工事にはやっぱり、長期雇用の、あるていど技術をもった人、だいたい大手建設会社の一次下請けぐらいを連れてくるけど、解体工事では、路上手配で日雇い労働者を集める。それと、門前募集いうて、業者が貼紙で募集した人。現場に慣れん人も来る。お互いどこから来てるかわからん、気心が知れん、"人のことはかまうな"になる。そこへ人減らしで重労働です、事故が防げん面も増幅されます。

神戸は地形からいうても、むしろ中小企業の町です。山と海との間の狭い、そこに6本か7本の鉄道と道路が集中してる。それで、せっせと緑剥がして山削って、それで海を埋め立てて地面を広げる。そやから災害うけたら一挙に全滅です。(第七章 震災が見せた神戸の素顔)


おお、神戸に関しても独自の視点、それも鋭い。山を崩して埋め立てる、その結果が神戸地震や、先般の台風での被害に直結している。

僕もドヤみたいなんはなくならないかんと思うてる。なくならないかんからこそ、ずーっと住んでみて、中をやっぱり見といて、いずれ労働者がまとまって、労働者の住宅を建てるというような要求出せる時代が来れば、やっぱりドヤというものがいかに危険なところで、住みにくいところかというところを、それを言えるだけのもん、持っていたい。住んでもうすぐ28年になる、28年が30年たって、同じとこに住んで言うというか、行政に対してものを言うとき重みがあると思うてます。
これは僕、港湾労働者やってた時に、行政に対するいろんな要求を出す時に、総評式の箇条書きで、きれいごとばっかり書いて並べるんやなしに、僕は実際のところでぶつけていって、役人もイヤと言えんとこまで押し込めます。僕今のところを出えへんのは、そういう思いもあるんです。その中で、人間というのは年取っていくのでね。単身者住宅というのを、長い間ずーっと考えてる。
浪速区の改造住宅、あれが僕らが子どもの時分にどんどん建っていった。僕はあの近くに住んでたから言うんやけど、昭和の始め頃に建てた時から、当時としては大阪でも立派なもんでした。不良住宅改造事業。長町の跡に、伝染病の多かったところに建てた時は、それは見違える町になったと言うんやけど、その中でボロ切れを分別して、ほこりだらけ、建物造っても内容は変わっていない。


30年近くのドヤ住まい。その中から声を出すということが、彼の発言の重みとなっている。

港湾でもってた町が港湾労働者がいなくなったら、あとどないなるんやと。年はいくわ、合理化で不景気になるわ。先を見て、労働者の住宅は大阪市内に分散して建ててくれ、それやったら僕も入る。市内に分散していたら転職したかて、何なとやれるけど、港の一角に港湾労働者の住宅ではどもならん。それの最たる見本が釜ヶ崎やないか。第二の釜ヶ崎を港区につくるんか。

いついつまでも、しわ寄せは弱者に……

何で住民票を釜ヶ崎に移さんか言うたら、故郷に知られたくないとか。同じ都会に住んでて、親と20年間会えなかった、飯場の火事で焼けてはじめて親が知った、そんな人がおるんです。

釜ヶ崎は暮らしやすいという。
夜明けから夜中まで、酒も食べ物もあるから。それで夜通しの映画館がある。三本立て800円の映画館、ずっとオールナイト営業する。20年も前の投影のヤクザの鶴田浩二やらフーテンの寅さん、あんなんばっかりやってるわけです。芝居小屋もある、芝居小屋はよそからの人が見るにしても。
釜ヶ崎のように4万人がだいたい似たような境遇の町なんて、ほかにちょっとない。わりあい人のことは言わない。人のことをあれこれ言わん。それは安心して住める町です。


住人にだけいえる逆説。

今のミドリ十字が、朝鮮戦争の時に、ブラッド・バンクを作った。あれを作ったんは、七三一部隊の、二代目部隊長の北野政次軍医中将です。初代が石井中将で、二代目が北野政次軍医中将。軍隊では技術官は中将までやから、最高位です。技術を一歩下に見とったんや。
朝鮮戦争の頃に、北野中将と石井中将が、七三一部隊を戦争犯罪人からはずしてもらう条件でブラッド・バンクをつくった、と言われてます。戦争で血液の需要が増えるから、朝鮮戦争以前から朝鮮戦争の準備計画が進んでいたわけや。
日本ブラッドバンク(血液銀行)という名称で始まったんで、バンクと言うてた。バンクの前というたら、夜中2時頃から4,5百人ずっと並んでいた。400ccというと牛乳ビン二本ぐらい、それが同時の金で450円です。1970年頃になると400ccが1400円、90年にエイズ問題が起きて買血は中止になる。やめる直前で400ccが1800円ぐらい。
採血の常連は4千人。一日に二回売るひともおる。検査で血が薄いからはねられる。カルゲンという鉄粉の入った薬、あの辺の薬局に売ってた。それと塩をひとつかみ水で飲むと、一時的に血が濃くなったような現象になるわけや。当時は耳をガラスでちょっと切って検査したんや。検査の前になると、お互いに首を絞め合いして、グーッと鬱血させる。
それで「黄色い血」といううすい血になって血清肝炎が増えた。輸血した人が本来の病気が治って、今度は血清肝炎にかかる。バンクはそれを知った上で買うていた。
1982年(昭和57)9月6日の毎日新聞に、「人の胎盤買い占め 医薬品の原料に使う」「ミドリ十字など4社、研究陣に『七三一部隊』関係者」という見出しで「ミドリ十字は、大手産婦人科病院などに大型冷蔵庫を寄贈。医師や看護婦に頼んで、出産、堕胎時に妊婦の体内から出る胎盤をビニール袋に入れ、冷凍保存してもらう」という記事が出ました。これは、産婦本人には無断で行われてたと言う。


血液銀行、七三一部隊が絡んでいたのは何かの本で読んだ記憶があるが、これにも朝鮮戦争が絡んでいたとは。

戦後生まれの人はほとんど知らんやろけど、戦争中兵隊に取られるんで日本人労働者が不足した。それで朝鮮、中国から大勢の人間を強制的に連行して来て、炭鉱とか土木とか港湾荷役とか、きつい汚い危険な現場で国策産業に従事させたんです。それが、戦後になると、「お前ら日本国民やない」。働いた賃金も払ってもらえん、強制連行の補償もない、その問題は講和条約で国どうし話がついている、と日本政府は言う。問題はまだ解決してないやないか。(第九章 釜ヶ崎三百六十五日)

底辺に住み続けた著者は、朝鮮、中国の強制労働者への視点も、揺るぎない。

以下は巻末に収められた三人の座談会からの引用。ほとんど平井の発言ばかりになってしまった(^_^;)

平井正治 日本の左翼というのは、みな調子がええけど。いざ戦争になると、下っぱだけがみな取り残される。これは運動にしろ、土木にしろ、港湾にしろ、労働者がみなそうですわ。調子のええ時は、残業残業言うて、奨励金出してやらしといて、景気が悪うなったら下請け下っぱから順番に切っていく。結局、憎まれてるやつが窓際へ追いやられていく。これのくり返しで、もう無計画な経済のね。
ソ連や中国の経済が計画経済かいうたら、そうでもなかった。今の北朝鮮とキューバが一番最後に取り残された例です。あれがどないなっていくんか。反発も食らうけど、反発を恐れたらほんまのこと言われへん。ほんまのこと言われへんというのは、やっぱり本物の民主主義やないと思う。どうもいまの世の中、ちょっとした言葉尻に差別や何や言うて、叩きぐせがいまだに抜けていない。それで、どうも日本人は水に流して忘れてしまうという癖が。もう震災もだんだん風化して来てる、予算面でもどんどん切られてしもてる。要するに、弱いもんは切り捨てる。


そう、弱いものは切り捨てられる。平井は弱者でありながら、権力に異議申し立てし続ける。

平井 無縁仏のことを書くというのは、僕のその思いでね。無縁仏が何で悪いんやと。別にもともと生れた時に、自分の名前が何やいうてつけた名前でもないし。日本の戸籍制度そのものは、明治政府が兵隊をつくるためにこしらえた制度やから。明治の初期には、幕末の勤王方の浪士やってた連中というのは、みな明治政府になってから名前変えてますやろ。伊藤博文でも。それは幕末の時はようけ人殺してんのやから。

戸籍制度の根本的意味をはっきり理解している。「無縁仏で何で悪いんや」という言葉は、彼の本心だろう。本書のタイトルも、無縁という境遇がいっそ清々しいということから付けられたのではないかと深読みしたい(^_^;) これはMorris.の気持ちと共通する。

平井 「釜ヶ崎解放」いうて運動のスローガンにある、それでたまに労働者が、釜ヶ崎解放て何やときいた時には、だれも答えが出ません。僕は、「そやな、釜ヶ崎というような、こんな矛盾したところをなくすことが解放や」と。これはある労働者が「とにかく解放ということについて、よかれ悪しかれ、答えてくれたんはあんたがはじめてや」と。組合はみな「釜ヶ崎解放」が第一スローガンや。そのくせ、釜ヶ崎解放てなんやいうたら、黙ってしまう。本来、解放ということは、「こんなとこなくしてしまえ」ということや。だからそう簡単になくせるわけにはいかんけれども、徐々にそこに向けていかんと、いつまでたったかて、明治以来百三十年間の繰り返しがまだまだ続く。
藤原良雄 なくすというのは非常にむずかしいことだと思うんだけども、ずーっとお話を聞いて考えていると、本当に釜ヶ崎が日本資本主義の縮図だなということがビシビシと伝わってくるんです。だから日本資本主義を理解しようと思えば、やっぱり釜ヶ崎を知らんといかんぞ、ということを平井さんが言われたんじゃないかなという感じがするんです。
山田國廣 日本の資本主義社会がもっているある種の何重にも差別されている構造がありますね。そのことによって、釜ヶ崎は、結果として、ある人にとっては一時的な逃げ場でもあるけれども、ある面では非常に都合のいい労働力提供場所であって、それが一種の資本主義の階層を支えているみたいなところがありますよね。そういうのは、釜ヶ崎以外にもいっぱいあると。そうすると、それはある種、日本とか、あるいは資本主義が持ってる本質的な構造みたいなものとも言えますね。

山田 アメリカでは、多様な民族がそこで生きてて、働き方も、今言った季節労働とか、そういうのが普段の生活にシステム的に入っているわけだから。釜ヶ崎の場合は、人間関係が分断されて、孤立して一人にされて、そういう一人一人が集まって来る。
本田都 それに日本は、平井さんも言われましたが、部落差別とか外国人差別と、もう否応もなく一方的に追い込んでいくような社会の構造がありますね。

平井 結局、労働力の需要が多い時は、やっぱり労働者の要求が通ります。ストライキという武器が使えるから。ただ運動の中で、運動がちょっと高揚した時にある程度、賃金とか労働条件で多少の改善はあるけれども、不況になると、またそれが下がってくるという。この頃また賃下げとか、労働条件は悪うなってきてますね。


こういった下からの意見は、常に上からの都合で握りつぶされている。

平井 総評とか学者が、あいりん地区労働福祉対策答申案というものも出そうとしたが、地区の労働者をとびこえたところで、上から「こうしてやる」という実状をかけはなれたもので、立ち消えてしまった。
ボランティアやってる人の学習会によばれますけど、まずあんたが炊き出しに行ったら、炊きだしたものを自分らも一緒に食べなさいと。かわいそうやという思い上がった心ではそれでは労働者に心伝わらん。かわいそうやから助けて上げるて、それやったら釜ヶ崎なくなるまで助けなさいよ。ボランティアを続けてる人と、一時の思いで来ている人と、まず何を思い、何をするかということを考えてほしい。

平井 どうしても「釜」には、ここは天国の歌式に、その日かぎりの生活ということが、言葉の上では踊ってるから、宵越しの金を持たんという。活動家までがそういう言葉を使うから。それはあかんでと。しごとがない時はないなりの生きざまがあるやろが。生きざまが悪いんやと。そのことを、労働者に、不況の時は不況に耐えていけるような生きざまをせなあかんぞということを知らしめていくことや。(1996年1月3日の座談会)


市井の思想家、活動家、社会学者という言葉だけでは収まりきれない存在。

平井正治 略年譜
1927(昭和2)11月3日、大阪市南区日東町(現在の浪速区日本橋)の教材屋の長男として誕生。
1934(昭和9) 生業倒産、差し押さえ
1937(昭和12) 親戚に預けられ丁稚奉公
1940(昭和15) 金属工場の見習工
1941(昭和16) 京都の教材屋組合倉庫で働く
1942(昭和17) 京都大林組で働く
1943(昭和18) 3月 舞鶴海兵団に志願合格 海軍工廠工場で水雷の火薬詰め
1945(昭和20) 9月 海軍より幅員、帰阪、闇屋になる 12月 松下電器入社 共産党入党
1946(昭和21) 松下電器労組木工支部青年部長書記長
1950(昭和25) 共産党専従地区委員
1951(昭和26) 反米ビラで逮捕 松下電器解雇
1954(昭和29) 党の査問とリンチを受け除名 京都で撮影の仕事
1960(昭和35) 一匹狼として諸闘争に参加
1961(昭和36) 釜ヶ崎に移り港湾労働者になる
1966(昭和41) 港湾労働者の組合結成
1969(昭和44) 釜ヶ崎の日雇い労働者組合結成協力
1995(平成7) 阪神大震災救援活動に参加

【日本中枢の狂謀】古賀茂明 ★★★☆ 2017/05/30 講談社 2018066
古賀茂明 1955年長崎生れ。1980年東大法学部卒業、通産省入省。2011年3月の東日本大震災と原発事故を受け、4月、日本で初めて東電の破綻処理策を提起。その後経産省から退職を勧告され、9月辞職。大阪府市エネルギー戦略会議副会長としては脱原発政策を提言。

テレビ朝日「報道ステーション」のコメンテーターとして歯に衣着せぬ発言で、古舘伊知郎となかなか息の合った?やりとりを楽しみにしてたのだが、「放送事故」で片付けられたが、もっと根の深い、降板劇。本書にはそれに触れた部分もあるが、Morris.は安倍批判の部分に一番関心があった。

後藤さんは、安倍政権から見れば、帰って来てほしくない人だったのではないか。そのことが安倍政権の対応を決定する要因として働いていたのではないか。そんな疑いを口にすることは、現在の安倍政権の言論統制のなかでは、ほとんど不可能である。


ISによってネットで「公開処刑」された後藤健二。安倍政権はじめから彼を助けるつもりがなかったということになる。

安倍政権の特徴について触れておきたい。それは、「自らの非を認めない」ということ。これは、安倍総理の個人の性格にも強く影響されているようだ。
第二次安倍政府が誕生(201/12/26)したとき、私が一番おかしいと思ったのは、自民党総裁・安倍晋三氏が、過去の自民党政治についてまったく反対せず、日本がかかえているあらゆる問題が民主党政権のせいであるかのような態度をとったことである。そして、この態度はその後も続いている。(第一章 総理大臣の陰謀)


「息を吐くように嘘をつく」という安倍晋三のキャッチフレーズがリピートする。

大手メディアは、日本の官庁、政党、業界団体などに、共同で「記者クラブ」というものを置いている。
日本外国特派員教会は「報道の自由推進賞」の発表文の冒頭で、ジョージ・オーウェルの言葉を引用した。
「ジャーナリズムとは報じられたくないことを報じるものだ。それ以外のものは広報に過ぎない」
つまり、日本外国特派員から見れば、日本の報道は単なる取材先の広報部に成り下がっている。そう警鐘を鳴らしてくれたのだ。[記者クラブという名の究極の既得権益]


記者クラブの理不尽さは、そのままクラブに所属している「非」ジャーナリストの温床(既得権益)である。これを廃止しない限り、日本の報道は広報でしかないことになる。

唯一転向しなかったコメンテーターはTBS「NEWS23」のアンカーを務めた岸井成格氏だという。(第三章 新聞テレビから漂う腐臭)

岸井は日本には珍しい本物のジャーナリストの一人だった。ソフトな物腰でハードな正論を吐くそのスタイルに魅了されていた。今年5月15日、肺腺がんで逝去。Morris.はこれも知らずにいた(>_<) 享年七十三。

戦争や武器産業と、それと癒着した政治家たち。彼らには、悪人というイメージがある。しかし実は、喜ぶのは彼らだけではない。普段は善良な労働者と一般の市民らも、自分の生活の利益になると思えば、悪気はないものの、武器輸出に泊手を送る人間になってしまう。
繰り返して強調したい。「人間は弱い」のだ。
なるほど、安倍政権は怖ろしい。しかし、もっと怖いのは、経済的理由で私たち自身が武器輸出を望むようになり、戦争への最後の歯止めが失われることではないか。


そのとおりである。人間は弱い。市民運動への参画も一定の経済力なしには難しい。

自民党が現行憲法を批判する根拠の一つとして挙げるのが、「戦後70年、一度も改正されず、古くて現在の状況に適応できなくなっている」という点。70年改正されなかったのは事実だが、これは「改正を怠ってきた」ということではない。むしろ、「改正するべきではないという考えが国民の間に定着した」と考えるべきなのだ。
太平洋戦争の悲惨な結末から学んだ日本の国民にとって、憲法、特に九条が、心のなかにしっかり根を下ろしている。だからこそ、自民党がいくら改正を主張しても議論がもりあがらなかったのである。いまも国民のあいだに改憲を求める気運が強まっているわけではない。あくまで、自民党と安倍政権が、改憲気運を無理やり高めようとしているのだ。(第四章 日本人だから殺される時代)


憲法「改正」の「改正」にひっかる。

経産省は、彼らの責任問題をうやむやにすることに成功した。一方の東電は、すべては東電が悪いとばかりに世論の批判を一身に背負う形になったのである。ただ、その見返りとして、「東電は何があっても潰れない」という、極めて珍しい株式会社になって「しまった」。
実は、その後の福島の事故処理や被災者の救済が極めて不十分な形でしか進まなくなったのは、この裏取引が原因だということは、あまり認識されていない。
「絶対に潰さない」ということは、東電の負担は、東電が潰れない範囲でしか増やせないという制約を生む。除染の範囲をどうするか、住民への損害賠償の基準をどうするのか、ということを決める際に、常にこの制約がかかる。そのため、住民のため、周辺漁民のためという、本来は最優先すべき目的が劣後し、不十分だと分かっていても、「東電を潰すわけにはいかない」というまったく理由にならない理由で、いつも放置されてしまうことになった。


東電と経産省の茶番、というより計画的密約。

安倍総理は、2013年9月、ブエノスアイレスのIOC総会で、東京電力福島第一原子力発電所の汚染水問題について、「フクシマについて、お案じの向きには、私から保証をいたします。状況は、統御されています」「東京には、いかなる悪影響にしろ、これまで及ぼしたことはなく、今後とも、及ぼすことはありません」「(放射能)汚染水の影響は、港湾内0.3平方キロメートルの範囲内で完全にブロックされています」と、大見得を切った。世界中が注目するなかで、これほどの嘘がまかり通ったことが、歴史上あっただろうか。

これは、Morris.もリアルタイムで視聴したのだが、トンデモ発言だった。絶対忘れてはならない。

安倍総理は、二言めには「原子力規制委員会が世界一厳しい規制基準に適合すると認めた原発は再稼働させる」と発言する。「世界一」だということへの批判が強まると、「世界最高水準の」といい換えたりするが、いずれにしても、これこそ「世界一の大嘘」だといってよい話だ。

これもひどいな。

避難指示を解除して、住民を無理やり、地元に戻らせる。そして、健康被害が生じても分からないように健康調査を縮小する。そいれは東電のためでもあるが、実は、それより大事な理由がある。
それは、「原発事故があってもそんなに大したことはなかった、すぐに元通りに普通の暮らしに戻れた」というフィクションを作らなければならないという事情があるのだ。なるべく多くの地域で、住民が帰還して、普通らしく見える生活を始める。そこには、放射能の「ほ」の字も見えない……それを最も強く望んでいるのが、他ならぬ安倍総理だ。
2020年の東京オリンピック・パラリンピックで、世界に対して宣言したい。「福島の原発事故から9年余り。私は、ここに、福島が完全に復興したことを世界の皆さんに宣言いたします」--それが安倍総理の開会式のスピーチの目玉だ。(第六章 甦った原発マフィア)


こういった、情報操作。「風評被害」を逆手にとって、被害の実態を隠蔽しようとする作戦はかなりの効果を挙げているようだ。マスコミがこれに加担してるのは言うまでもない。いたずらに不安を煽るのは避けるべきだが、事実の検証をおろそかにして済し崩しに風化させることはあってはならない。加害者を擁護し、被害者にしわよせするという構図。
【荒地の恋】ねじめ正一 ★★★ 2007/09/30 文藝春秋 2018065

詩人北村太郎と田村隆一の妻明子との恋愛を中心とした、モデル小説。タイトルは彼等が詩誌「荒地」同人で、鮎川信夫、中桐雅夫、黒田三郎、三好豊一郎など、作品読んだことのある詩人たちが登場するのも興味深かった。
北村太郎はこれまでほとんど読んでこなかったが、三宮図書館に「北村太郎の仕事1-3」があって、なんとなく気になってて、第一巻の「全詩」を読み終えたばかりだった。
Wikipediaで北村の恋愛事件?とこのモデル小説があることを知り、読むことにした。
作者ねじめも、詩人なので、先達詩人として、荒地の詩人たちとの面識はあったようで、作品中、詩の朗読会にちょこっと登場する。モデル当人や関係者が、亡くなったのを見計らって書かれたのかもしれない。田村の妻の他に、若い看護婦との恋愛や、妻治子との軋轢もあって、実際は相当以上にどろどろしたものがあったのだろうが、本書では比較的ドライに描かれている。どこまで事実に基づいて、どこらへんがフィクションなのか、わからないが(わかる必要もないか)が、田村隆一へのねじめの視線が厳しすぎる(嫌悪感?)ような気がした。

「なあ、頼むよ。何だったら共訳ってことでもいいからさ」
共訳か--受話器を耳に押し当てながら、田村の抜け目のなさに舌をまいた。こっちの思いを見抜いて、落としどころを正確に読んで押してくる。
「いいよ」
腹からこみ上げてくるものを抑えて北村は言った。
「ただ、俺の訳もちょっと古くなってるから、そこを直してからでいいかな」
「ありがたい。そうして貰えると助かるよ」
舌が泳いでいるような声で田村が言った。またしてもあいつの思うツボにはまったわけだ。むなしさとおかしさが同時に襲ってきた。田村は北村がそう言うだろうと思って共訳という提案をしてきたのだった。田村が無断で北村の原稿を使えば剽窃である。北村に諮り、北村が了解したとなると、今度は北村に道義的責任がかかってくる。といって断れば、田村との長い友情にヒビが入る。田村は「共訳」という言葉で友情と無理難題の板挟みとなった北村に逃げ道をつくり、自分は何もせずに翻訳料をせしめようというのだった。

田村という人間も、もしかしたら田村の人生も、殺し文句で出来上がっている。そしてまた、殺し文句の詩人は女を殺すだけで愛さないのだった。言葉で女を殺して、うまいこと利用して、面倒くさくなったら逃げ出すのだ。殺し文句の詩人が大切にしているのは言葉だけである。言葉に較べたら、自分すらどうでもいいのである。


いくら当人が死んだ後の作品だとしても、ちょっと行き過ぎではなかろうか。

北村は黙って鮎川の話を聞いている。鮎川が今、どんな想いで中桐のことを喋っているかがわかる。それは悲惨で滑稽だった。『荒地』の仲間たちの関係はいつも悲惨で滑稽だった。
「中桐は何であんなに飲んだかなあ」
「飲んでどんどん偏屈になってな」
「最後の頃は偏屈を通り越して狷介だったな。4年前に出た『会社の人事』っていう詩集。あれは俺、あんまりいいと思わなかった。もちろんいい詩もたくさんあるんだけれど、怒りだの孤独がちょっと生々しすぎると思った」
「俺もだ。詩を書くために詩を書いているように見えた」
「酒をなあ。もう少し酒を控えていればなあ」
田村よ、人生痛苦多しとえども、朝酒はやめろよ--中桐のそんな一文を、北村は読んだ記憶がある。
鮎川が言った。
「<人生痛苦多し>って言われてもこっちは挨拶に困る」
「ああ書かなきゃいれれなかったんだろう」
「書かなきゃいられないからって書かれちゃ、読む方はいい迷惑さ。きつい言い方だけどな。面と向かって言ったことはないが、俺がそう思ってるってことが、あいつには伝わっていたんだろうな」


中桐雅夫が死んだ直後の会話だが、詩集『会社の人事』はめったに本を買わないMorris.なのに購入して今も本棚にある。本当に北村と鮎川が、この詩集に否定的だったのか、ねじめのフィクションなのか気になるところ。

受話器を置く。煙草に火をつける。とたんに空の大きな一画が音を立ててこちらに向かって崩れ落ちるような衝撃が襲ってきた。指が震えて煙草を持っていられなくなった。枕元のコーラの空き缶に火のついた煙草をかろうじて押し込み、両手で顔を覆った。鮎川が死んだ。鮎川が急死した。鮎川がいなくなった。鮎川が、鮎川が、鮎川が----。
「ひでえもんだ。もう終わりだな」
鮎川とは十五、六歳の頃からの付き合いだった。初めて会ったのは昭和13年で、当時神戸にいた中桐雅夫の主催する同人誌『ル・バル』の在京同人会ルナ・クラブの席だった。鮎川は早稲田第一高等学校の詰め襟の制服を着ていた。長身白皙で、彫りの深い顔立ちの美青年であった。集まりに初めて参加して、緊張で戸惑っている北村に気をつかい、朔太郎をどう思うとか、ベルグソンの『笑い』はとても面白いから読んでご覧とか話しかけて、こちらの気分をほぐそうとしてくれた。そういうやさしいところのある男だった。『ル・バン』の同人は早稲田、慶応、明治学院、津田英学塾、日本女子大など多彩だった。新参の北村は黙って人の話を聞いていることが多かったが、議論が白熱し、鮎川が口を挟んだりすると、それがいちいちすとんと胸に墜ちた。この人とは波長が合うなと思った。北村は十五、六歳、二歳上の鮎川は十七歳だった。それからだんだん親しくなった。船倉が始まり、船倉が終わった。陸軍に入隊した鮎川はスマトラでマラリアに結核を併発し、終戦の前年に傷病兵として内地送還されて福井にいた。北村は真珠湾攻撃の二ヶ月後に十九歳で結婚し、翌年には若い父親となって、その一ヶ月後、妻子を残して海軍に入隊した。旅順で基礎訓練を受けた期間以外は内地勤務で、終戦のときは埼玉の大和田通信隊勤務であった。鮎川は終戦の年の暮れに上京して父親の逗留先である渋谷区に住み、北村は両親、妻子がいた世田谷区の弦巻に住んだ。その頃から付き合いが密になり、北村が朝日新聞社に入社して勤め人になるまでの数年間はほとんど一日おきに会っていた。


一番の理解者鮎川の死の報に接した時の北村の悲しみ。

北村さんが死んだ。
朝刊の死亡記事を見たとき、おかしなことに悲しみよりホッとした気分があった。ずっと前から、新聞がくると後ろから展げて死亡記事欄に北村太郎の名前を探す習慣がついていたからだ。息をととのえ、驚くまい驚くまいと自分に言い聞かせてから新聞を開く。そんな日々が終わったのだ。記事は短かった。
「北村太郎氏。詩人。本名松村文雄。10月26日、午後2時27分腎不全のため虎の門病院にて死去。享年69.10月28日、故人の遺志により親族・知己のみにて密葬」


これは北村晩年の若い愛人だった女性の回顧の文章。
もともと、Morris.はモデル小説というのはあまり好きではない。この作品?もいまいち後味が悪かった。
ともかくも、北村太郎の作品を先に読んでから、本書を読んだのは、良かったと思う。
【北村太郎の仕事:1 全詩】北村太郎 ★★★☆☆ 1990/04/01 思潮社 2018064
北村太郎 1992年東京生れ。1941年東京外国語学校仏語料入学43年徴兵検査に際して海軍を志望、埼玉県大和田の通信隊で英米の暗号通信傍受と分析に携わる。戦後は1949年東大仏文科卒業。朝日新聞校閲部に勤務、76年退社。戦前から中桐雅夫主宰の『ル・バル』に参加し、1951年、田村隆一、鮎川信夫らと『荒地』を創刊、同人となる。英米のミステリー、スパイ小説などの翻訳も多い。1992年10月26日、腎不全のため虎の門病院で死去。享年69。

三宮図書館の文芸コーナーの棚に「北村太郎の仕事」全三冊があり、えらく分厚くて、他の詩集に比べてえらく目立っていた。名前くらいは知ってて気にはなってたが、その分厚さに畏れをなしていたのだ。つい魔が差して(^_^;) 借りてきてしまった。
「全詩」とあるように(他の二冊は「散文」)刊行時までに出版された彼の11の詩集と、初期詩篇を収めてある。

・北村太郎詩集1947~1966 (1966)
・冬の当直(1972)
・眠りの祈り(1976)
・おわりの雪(1977)
・あかつき闇(1978)
・冬を追う雨(1978)
・ピアノ線の夢(1980)
・悪の花(1981)
・犬の時代(1982)
・笑いの成功(1985)
・港の人(1988)
・初期詩篇(1938-1941)


ぼくは鳥を愛する。水に
棲む生きものは愚かだ。地を
はうもの、土にうごめくものは卑しい。
草のあいだに舞う蝶や、羽蟻や蜂は薄命だ。

掌に包むと鳥は暖かい。
豊かな羽毛、賢い眼、雄々しく、寂しく、潔い。だが
そんなに徳多い鳥も、足だけは恐ろしい。それは
悶え死ぬにんげんの手のかたちだ。(「鳥」北村太郎詩集)


行分けしながら、文章が切れ切れになるような改行(跨ぎというのかな)の多用が、いかにも「荒地」仲間の詩らしい気になった。(ちょっとなつかしい(^_^;))
平易な言葉遣いをしながら、かなり深化した表現が見られる。鳥の足を悶え死ぬ人間の手に喩えるあたり。

ぼくは、とどのつまり、何になるのか
時計の音とともに、光と物質は
うすめられてゆくが、ぼくも
いたずらに幻をひろげいって
自滅するのみか もともと
無理につれ出された世界なんだ しぶしぶ
生きて、いやいや死ぬのか(「冬へ」北村太郎詩集)


終わりの二行はどこかで読んだ記憶があるな、と思ったら、オマル・ハイヤームの「ルバイヤート」だった。

ずいぶんいろいろな詩の書き方をしてきた
われわれの国のことばは
単純な音だが
それなりに複雑な響きを出そうともした
現代詩は
行分け散文だとあわれなやつはいうが
(たぶんあと百年ぐらい
そう主張しつづけるやつがいるだろう)
全く無意味である
しかし
音の冒険をすすめても辛い結果しか生まれまい
一人ができることはごく僅かだ
音も意味もイメージも(雨の腕」 あかつき闇)


続けて「そんなことは評論家にまかせることにして」みたいな「うっちゃり」(^_^;) 一種の韜晦趣味かも。

わりなき思いの
一日が過ぎて
また新しいあしたへ
恐ろしい日々へ
冬の底へ(「a shabby new year」ピアノ線の夢)


どこか不気味なフレーズである。

ねむれないからねむらない
真夏はたちまち過ぎて
鋸歯状の
ムクゲの葉は
日ざかりの光をやけどするほど浴びたものだから
いちまいいちまいひからびて落ちて
湿った土のうえ
がまんできない暑さの長きはたしかにあったのに
蟻とともに
いつもの年のように
去った季節
さよならといえる季節はいつも夏だけだなと思いながら
涼しい夜の闇をみる
ねむれないからねむれずに
まだ秋の初めなのに
ボードレール的な冬をおそれている(「秋のうた」 ピアノ線の夢)


「さよならといえる季節はいつも夏だけ」というフレーズは好き。

ひねりつぶす ゴキブリを アリを
ひねりつぶす 新古今集を サングラスを
ひねりつぶす ことばの意味を 膿を
大戦争が終わって三十五年
小戦争がいくつあったか知ってるかい
それらの死者が何人になるか知ってるかい
二千万人だよ、個人が二千万、固有名詞が二千万だ
つまりは地球は終結しっぱなしだんだよ(悪の花 4)


ボードレールのあまりに有名な詩集と同じタイトルの詩集を出すというのも大胆である。

いったい
悪はどこにあるのだろう

病める花々
病むというのは「悪い」ということを
人間はかならず病む
だからかならず悪
じつに単純明快ではないか
なにもボードレーレだけの専売ではない
病める花々は

こころざし
という単語を見て
すごく吐いた(悪の花 7)


先のMorris.の疑問にもちゃんと答えてあった(^_^;) 「こころざしという単語をみてすごく吐いた」に、解説の荒川洋治がえらく固執していた。「吐き気がした」でなく「吐いた」とあるところ。なるほど。

<断固実行についてのノート>全文を
横組の詩集出版 ヒョーバン悪くたって
かまうものか 夜の徘徊欠かさぬこと 死ぬまでの
一人暮らし やさしさとは、そばにいること、と、かつて
岩田宏くんはいったが、そうかな? 満月みてベッドへ(「日録」笑いの成功)


岩田宏は好きな詩人の一人で、さらに小笠原豊樹名義での翻訳、特にプレヴェール、ブラッドベリの作品なんか、彼の訳以外では読む気にならなかった。その岩田宏からの引用は「やさしさとは、そばにいること」だけかな?

何から書いたらいいだろう。彼の詩は、いわゆる難解な詩ではない。が、一読卒然とわかってしまうといった類の詩でもない。
特に解説など必要としない詩であるけれども、また、いくら解説してもわからないところもあって、批評する人間にとっては」、いわばその未開の心の領域が興味の中核になる。北村太郎の詩は、奥深い固有の心の領域を持っているという意味で、私には特別である。(「北村太郎詩集」の解説 鮎川信夫)


最初の詩集の解説だが、一番の理解者であった鮎川ならではの、北村太郎の詩の特徴を集約しているようだ。
実はこの分厚い本を読もうという気になったのは、図書館で目次を見て、「ピアノ線の夢」という詩集のタイトルに惹かれ、同題の作品を読んで、これなら、他の詩も読んでみたいという気になったからだった。
いちおう全部読み通して、結局この詩が一番印象的だった。かなり長いが、せっかくだから、全篇引用しておく。


ピアノ線の夢 北村太郎

ある夜わたくしはラジオで
チェンバロの演奏を聴いていた
スカルラッティやバッハや
シャンボニエールの曲をやっていた
どれもたいそうよかったが
チェンバロの音ってどうしてこんなにすばらしいのか
聴いていて涙が出そうになった
にぎやかな悲しみとでもいいたい音だった
一曲終わるたびに
聴衆の拍手が聞こえたが
小さな演奏会場らしく
あらしのようでないのが快かった
みんなチェンバロが好きでたまらない人たちなんだなということが
すぐに分かった
わたくしは蜜柑をたべながら
ことしの蜜柑はあまくて安いなと思いながら
演奏のあいまに司会者の質問に答える独奏者の話に耳を澄ました
「チェンバロはペダルがありませんから
いいかげんな演奏はできないのです
曲の解釈をはっきり打ち出さないとだめなのです」
音楽に無知なわたくしではあるが
いくぶんかは分かって
なるほどと思った
それにしても
ピアノばかりが大流行で
チェンバロがあまり弾かれないのはなぜなのだろう
いろいろわけはあるのだろうが
ひょっとしたら
ピアノが発明されてから人類の文化はだめになったのではあるまいか
にぎやかな悲しみなんか必要としない時代が
もう二百年も前から始まったのではないか
あと二百年もしたら
楽器の世界はどんなことになるやら
そんなことを考えているうちに
ふと
共鳴箱に収まっているピアノ線が眼に浮かんだ
ぴんと張られたたくさんの絃
ピアノ線はすこぶる強靭である
たしか工業用にもいろいろ使われているはずだ
一九四四年
ヒトラー暗殺未遂事件というのがあったな
もういけません
ピアノ線の刃(やいば)のようなイメージが広がる
独裁者はこの事件で五千人のドイツ人を殺した
なかでも
主犯格の軍人たちを屠殺牛のように
ピアノ線で絞首刑にして冷蔵庫に吊ったのだった
猫はねこ
鳥はとりであるのに
にんげんは
良いことも悪いことも等身大以上のことをする
おまえ
そのことを頭に入れておいて
大きな眼でよく見よ
にんげんの歴史は
至高の愛と無窮の残虐の物語でありつづける
また
別の風景が見えてくる
二本の鉄柱
そのあいだに張られている
一本の細いピアノ線
ぎりぎりに絞って
ボルトとナットでしっかり固定されている
うえは青空
したは断崖
そこにおまえはぶら下がっているのかね
体重は
ふたつの柔らかいてのひらが支えている
肉が血しぶき吹いて裂けるから
むろん水平にも動けやしない
自分がこんなに重い倫理的なかたまりであるとはね
おまえ
ぶら下がりながら無の絃に足をぶつけ
せめていい音でも出さんかね
というような
マゾ的なまぼろしが現われてくるのだった
ラジオのスイッチはとうに切ってしまっていた
部屋は
うす明かりで
しいんとしている
チェンバロの音が耳の奥で鳴り出すと
徐々に
ふかい慰めと感謝の気持ちにひたされてきた
あまくて安い蜜柑をもうひとつむきながら
悲しみはにぎやかでなけりゃいけないと思った
チェンバロ!
クラブサン!
あしたもいい日でありますように
いくら寒くとも

あらためて読み直しても、かなりに恐い詩(死)である。もういけません(>_<)
【埋れた牙】堂場瞬一 ★★★ 2014/10/14 講談社 初出「インポケット」2013-14 2018063
吉祥寺で起きた二十歳の女性失踪事件を刑事瀧が追う警察小説だが、堂場独特の、街や政治にこだわった細部が、面白くもあり、いささか鬱陶しくもあった(^_^;)

「昔は、お父上とはいろいろありましたよ。下らない意地の張り合いで……武蔵野っていう地域は、政治家にとっては難しいところでね。保守と革新が入り混じっている。昔からの住民と新住民では政治的な考え方も違うし……我々保守派の人間としては、この地域でしっかり支持を取りつけるのは大事なんだけど、勢い余って仲間内でも--そういうの、分かりますか」
「要するに政治家は、自分が一番でないと気が済まない、ということですよね」
勝村が声を上げて笑った。
「まあ、その通りです。そういうことをはっきり言うのは……あなたはやはり、政治家に向いていないですね」
「そうですか」瀧も笑ったが、顔が引き攣るのを意識した。政治家になりたいと思ったことは一度もないが、他人から--それもプロから「向いてない」と指摘されると、何となく気分が悪い。


瀧の父と、勝村はともに武蔵野市会議員のライバルで、そのしがらみが、事件をややこしくしている。

井の頭公園は確かに武蔵野市の象徴で、外から訪れる人も多いのだが、吉祥寺駅の南側に住む人にとっては、実は邪魔な存在でもある。広大な公園が広がっているせいで、最短距離で駅と自宅の往復ができない人も少なくないのど。そういう人たちは、公園の中をショートカットするのだが、話を聞くと必ずしも評判はよくない。昼間は明るい印象の毅い公園なのだが、夜になるとかなり暗くなる。緑豊かなので、鬱蒼とした雰囲気が毅いからだろう。実際、暗くなってから一人で公園の中を歩いていると、瀧でも些細な物音や動く影にぎょっとすることがある。

井の頭公園は一度だけ行ったことがある。吉祥寺は詩人金子光晴や大島弓子が住んでたというだけで、何となく親しみを覚える。

正義感なのか、エゴなのか。ここでいくら父を追求しても答えは出てこないだろう。父も、いまだに政治家である。政治家は本音を呑みこみ、あらゆるタイプの人間を演じ分ける。それもまったく意識せずに。そしてその人間を演じている時は、自分でもその人間になりきっていると信じて疑わない。今、父が「正義のためにやったのだ」と言えば、心底そう考えていることになる。いくら攻撃しても、彼の気持ちには傷一つつかないだろう。

こういった、ステレオタイプの決めつけが堂場作品には多い。ファンにはそれが魅力なのかもしれないが……
【續・食道楽 春之巻 夏之巻】村井弦斎★★★☆ 1928(昭和3)改版 玉井清文堂 2018062
去年、西宮の古書店「蝸牛」の百均の箱の中から掘り出した一冊。
もともと「食道楽」は明治36(1903)年から報知新聞に連載された後、単行本化されて大ベストセラーになり、続編まで出て、ブームになったもの。Morris.もその存在だけは知りながら、読む機会を逸してたが、蝸牛で入手したものは昭和3年発行で改版とあるから、何度も復刊されたものの一つのようだ。
続編だから、主要なメニューからこぼれたものが多いようだが、明治の小説仕立てになっていて、それなりに楽しめた。

お登和嬢が樺太ケーキを揚げる間に、玉江嬢は広き鉢の上に西洋紙を二三枚敷けり。お登和嬢一々揚がりたるケーキを西洋紙の上に置く、新太郎君其の所以を悟り
「斯うして油気を取るのですネ、もう食べても可いのですか」
お登和嬢「少々お待ち下さい、誠に恐入りますが、よく油気の取れましたのを板の上で半分に裁つて戴き度いものです」
新太郎君「成程分りました、北緯五十度の処から裁るのですネ、然し惜いものです、之を半分に裁るのは日本国民千載の遺憾です、だが仕方がありません。サア半分に裁りました」
お登和嬢「それでは玉江さん、お皿の上へ取つて、それから粉砂糖を振りかけて皆さんにお進げなすつて下さい」
新太郎君「ハゝハア粉砂糖の白いのをかけた処は樺太へ雪の降つた景色ですネ、ぼくが先づお毒見を致しませう」


これを見ると、日露戦争直後が舞台になってることがわかる。

玉江嬢「是れはネ、朝鮮風の漬物を応用して拵へましたのです、朝鮮に行くと外に御馳走は無いが漬物ばかりは実に美味ししいと申します、是れにはあの畑に沢山出来て居る山東白菜を株ごとそつくり取つて、外周りの葉を二側ばかり剥がして、中をよく一枚一枚に洗ひます、悪くすると洗ふ時中の葉が落ちますから気を付けて洗はなければなりません、洗つたらよく水気を切つて置きまして、別に三合の水へ塩一合五勺を入れて、一旦煮立て々、それが冷めましたら桶の中へ白菜を入れて、其の上から今の塩水をかけて蓋をして置きます」
小山夫人「玉江さん、別に壓石は要りませんか」
玉江嬢「イゝエ壓石と云ふ程のものは要りませんが、普通の蓋へ極く軽いものでも載せて置けば宜いのです、さうして五日ばかり内に上下を返すとよく塩が浸みます、別に白い身の魚を鯛でも比良目でも何でも強い塩を当てゝ、三日程置きまして、それを使ふ時小さく切ります。それから木耳をゆでゝ小さく刻みます、上等の板昆布も小さく刻みます、柚の皮も小さく刻みます、そこで漬けてある、白紙を塩水から取出して、葉を一つ一つ拡げて、葉の間へ今の品々を万遍無く振込ますが、処々に唐辛子を挟み込みます、それから葉を舊の形に累ねて、細い竹の皮で三四ヶ所ばかり縛つて、今度は別の塩水を沢山拵へて、復た十日程漬けて置きます。塩水が寡くつて葉が顔を出すとカビていけません、此の白菜を出す時は小口から輪切りにして、橙酢でも或は甘酢でもかけますと、斯ういふ風に綺麗で味も宜しう御座います」


これはキムチのつくり方のようだ。Morris.の知ってるキムチの漬け方とはずいぶん違うようで、かなり手間がかかりそう。魚や昆布、木耳など材料も多く、竹の皮で縛るなどと書いてあるので、ポッサムキムチみたいなものかもしれない。

子爵「球形甘藍即ちコルラビーと云つて、甘藍の根に出来る玉は、皮を剥いて塩ゆでにして白ソースをかけて食べると大層美味しいものだ、一度人に御馳走すると、何うかあの苗を少し頂戴と各処から貰ひに来る程の野菜だが、今迄は食べ方を知らない為め頓と世に行はれて居ない。それから此に掘つてある此の菊芋だネ、これはアテチヨーと云つて大層味の好い芋だ、アテチヨー料理と云ふ位で、料理法は幾通りもあるが、何にしても味が宜い、それで畑へ作るのは極く無造作で少しも手がかゝらず、何処でもよく出来るから農家の副業に適当だけれども、矢つ張り世人が食べ方を知らない為めにまだ何処でも作らない。玉江や、アテチヨーの味を皆んなに知らせ度いから、是れも一つお料理に使つてお呉れな」
玉江嬢「もう爾んなには使へません」


コルラビは、あまり日本では見かけない。釜山のヨンド(影島)の市場に売ってあってハングルでコルロビと書いてあったのだで、韓国語で、韓国特産の野菜かと思ったのだが、実は西洋野菜だった。ドイツ語でキャベツを意味するkohlと、カブを意味するラビをあわせてkohlrabiとなったらしい。こんな野菜が明治の頃、紹介されてるというのが興味深い。
「アテチヨー」というのはアーティチョーク(朝鮮薊)のことだろう。

玉江嬢「西洋風のサラダにはフランチソースやマイナイスソースの外にまだ変つたものが御座いませうか」
お登和嬢「御座いますよ、イギリスマイナイスと申しますと、ゆで玉子の黄身二つへ塩を小匙に二杯砂糖を小匙に一杯と、胡椒少しとをよくしやもじで練混ぜます、是れはご存知の通りよくよく色の白くなるまで混ぜて、サラダ油をホンの少し滴らして、復たしやもじで練混ぜて、今度は西洋酢を少し滴らして練り混ぜて、つまりサラダ油大匙一杯と西洋酢大匙一杯半と牛乳大匙一杯半とを幾度にも少しづゝ練り混ぜるのです、此の混ぜ方はマイナイスやフランチソースの時にもお教え申しましたが、決して気短にサラダ油、酢、牛乳を一度にドツと注いでそれから混ぜてはいえkません、酢と油は中々混ざりにくい物ですから、少しづゝ注いではよく練り混ぜて、前に入れたのがよく混ざつた時分に復た少し注ぐと云ふ様にしませんと、何うしても本当のソースが出来ません」


「マイナイスソース」はマヨネーズのことらしい。以上のレシピの通りでちゃんと家庭でもマヨネーズ作れそう。

夏之巻のはじめに嬌風演劇「女道楽脚本」という180pもある(全体639p)噴飯ものの脚本が突然挟み込まれて、これはページ稼ぎなのか良くわからないが、興ざめだった。

中川「此方には随分沢山の西洋野菜が作つてお有りですが、凡そ何十種位ありませう」
新太郎君「左様ですネ、先づ数へて見ませうなら、第一アテチヨーク、第二菊芋、第三アスペラガス、第四西洋豌豆即ちビース、第五ライマビーン、第六ビーツ、第七木立花椰菜即ちブロツコリ、第八芽キャベツ即ちブラツセルスプローツ、第九キャベツ、第十西洋人参すなわちキヤロツ、十一花椰菜即ちコリフラワ、十二セロリー、十三根セロリー即ちセリヤツク、十四玉蜀黍即ちコルン、十五西洋胡瓜即ちキウカンボ、十六ホースラヂス即ち西洋山葵、十七リーキ即ち西洋韮、十八レツタス即ちチサ菜、十九オクラ、二十玉葱、二十一パセリー、二十二パースニツプ即ち和蘭防風、二十三ジヤガ芋、二十四ポンキン即ち南瓜、二十五ラヂス即ち赤大根、二十六サルスフイー即ちバラモンジン、二十七ケール、二十八シヤロツ即ちワケギ、二十九ソルレル即ちスカンポ、三十スクオン、三十一トマト、三十二ターニツプ即ち蕪、三十三マスクメロン、三十四ウォターメロン即ち西洋西瓜、三十五ウオータークンソ、三十六……」
中川「オツトお待ち下さい、爾んなに勘定して居ると日が暮れます、大分足も疲れましたからお座敷の方へ参りませう」


西洋野菜がこれだけたくさん紹介してあるあたり、やはり当時としては相当にハイカラな料理の本だったようだ。

まあ、正編などを改めて読もうという気にはならない。
【「親米」日本の誕生】 森正人 ★★★☆☆ 角川選書:597 2018/01/26 KADOKAWA 2018061
「戦争と広告」を読んで、面白かったので、続けてこれも読むことにした。

本書はアジア太平洋戦争での敗戦後の、占領期から1970年頃までの日本社会において、アメリカ的なライフスタイルとそれを可能にする事物がどのように賞賛されてきたのかを考える。しかもアメリカ的なライフスタイルを達成しかつそれを凌駕する力を日本が持ったとき、日本の「誇り」の意識が立ち上がることも考えたい。アメリカに憧れ、抱擁されつつ、日本を誇るという「捻れ」は日常生活からも生じていたのである。(はじめに)

Morris.の少年期から青春時代が舞台らしい。

戦後の70年以上、このように劇的に変転した新たなアメリカ像は「自然」で「自明」のこととして日本人に経験されてきた。ロラン・バルトはこうした記号内容と記号表現の結びつきを自然なもの、時間をこえたものと捉えられているものを「神話」と呼ぶ。むろん、神話は、実際には特定の時代に、特定の思想的文脈(イデオロギー)によって作られた世界観の表現である。
「アメリカ」という神話は、自由、民主主義、資本主義の代表としてアメリカを賞賛する。それは、1980年代末まで続いた冷戦構造における「西側」のイデオロギーである。しかもアメリカは「西側」の諸外国に対して、とくに1950年代、アメリカ的生活の素晴らしさを強調するプロパガンダを制作してきた。
むろん、アメリカの神話は明らかに白人のブルジョア的である。この神話ではアメリカ全土にはびこる人種差別問題は隠されている。資本主義や民主主義というアメリカの神話は、このシステムそれ自体を決定している所有の形式がブルジョア的であり、しかもブルジョア的イデオロギーは自らの姿を不可視にする。


やっぱり筆者は構造主義的な思考方の持ち主のようだ。

アメリカ的文明に到達するため、日本では日常生活を抜本的に改善する必要が唱えられた。男性は職場にでかけ公領域で労働し、女性は当初は公領域で、しかしすぐに家庭内の私領域で労働することが「当たり前」となった。そしてその性差に基づく分業を主体的に行うことが重視された。言うまでもなく、この分業は「神話」である。
性差に基づいた分業は日本人の間に、男らしさと女らしさの規範を作っていく。この規範は、運動と同時に雑誌や新聞などのメディアを通して都市と農村、富める者と貧しい者とを横断していく。この神話は今や、「日本の伝統」とさえ言われる。


日本の伝統と呼ばれるものがアメリカに学ぶ(真似ぶ)ことから生まれた、という指摘には刮目させられた。

第一章では、進駐軍の持ち込んだ事物に注目し、それがアメリカ的な神話の需要に貢献したことを確認する。第二章では、敗戦後の生活改善運動において、アメリカ的な合理生活が目指されることで日本人の主体性なるものが作られていき、同時に男女の性別分業も作られていくことを明らかにする。第三章はアメリカ的生活を送るための家屋、家電製品が」導入されていくことを検討する。第四章は食品やそれを収蔵する冷蔵庫が日本の台所空間の創造過程において受容されていくことを明らかにしたい。第五章は娯楽や余暇が理想的な家族像、父親らしさ、男らしさと関わりながら日本に広まっていくことを検討する。(序章 --なんとなくクリスタル--)

目次代わりに引用した(^_^;) ざっとこんな内容である。

民主的な家庭を目指す生活改善、その中での食生活改善は、女性を生命の再生産の担い手とする。女性を家事に特化した性とするだけでなく、産む性とする思想が透けて見える。と同時に日本の食生活はこの時期に大きく変化した。今では米飯は日本料理における主食であることが自明視されているが、敗戦後のある時期までそれは栄養学的に問題ありとされた。そして栄養学や生活改善の知見を通して、「おふくろの味」と言われるものが作られていったのである。(第二章 民主主義と日常的実践)

問題視されている自民党杉田水脈議員の「LGBTは生産性ない」発言のルーツもここらあたりにあるのかもしれない。安倍晋三の理想も同根かも。

東京都の真ん中、代々木には広大な敷地ワシントン・ハイツがあった。アメリカ空軍の上級将校およびその家族のための団地で、中には827戸の住宅のほか学校、教会、劇場、商店などが設けられていた。東京に限らず日本各地でこのようなアメリカの町が現れており、しかも、周囲は塀で囲われ、日本人の立ち入りは禁じられていた。
進駐軍の住宅建設は敗戦国日本に課せられた業務であり、1945年12月には日本政府が建設工業協同組合進駐軍家族住宅の設計をいらしている。日本における米軍住宅は日本人が設計し建設したものである。(第三章 憧れの「ファミリーライフ」)


Morris.がこの時代を過ごした佐賀県の片田舎にはこのような施設など無かったと思うが、いわゆる米軍ハウスへの憧れをけっこう長い間持ち続けていた。

中谷宇吉郎はアメリカに滞在した3ヶ月のうちに体重が三貫も増加した。「オール読み物」1952年掲載の「電気冷蔵庫」で「アメリカでは、食生活の合理化が、大分巧く行ってゐるやうである。そしてそれには、電気冷蔵庫が、一つの大きな役割を果してゐるやうに思はれる」「電気冷蔵庫のやうな、一般日本人には無縁の話を、長々と書いたのは、物質文明が人間の生活に如何に毅い影響をもつかといふことを示す、一ツの例として挙げたわけである」と書き付ける。物質と社会との関係をはっきりと彼は見ていたことは強調してよい。それほどまでこの時代、物質と生活との関係がはっきりと見えていたのだとも言えるだろうか。

Morris.が小学校頃の家の冷蔵庫と言えば、まさに「ICE BOX」で、氷屋で買ってきた角氷をいれておくものだった。

日本におけるアメリカ映画の上映は、アメリカ政府による入念な計画に基づいている。アメリカは豊かであること、民主主義的であることが強調され、冷戦構造における敵である共産主義に対しては警戒心が示されていた。これが敗戦後の日本が進むべき道筋を明示したのである。

1966年、TBSがアメリカのホームコメディドラマ「奥さまは魔女」の放送を開始した。「奥さまは魔女」には、当時の日本家屋にはまだ珍しかった広いリビングと明るいシャンデリア、そしてソファ、アイランドキッチンに大きな冷蔵庫が登場した。このようなアメリカの「小市民的マイホーム主義」であるがゆえに、日本人はその生活スタイルと自らのものとの間のギャップに驚き、にもかかわらず実現不可能ではないと思ったのだろう。(第四章 おいしい生活)

たしかにアメリカ映画やアメリカのホームドラマは「夢」の世界に見えた。

「シャボン玉ホリデー」(日本テレビ1961-72 1976-77)は双子の歌手ザ・ピーナッツとジャズバンドのハナ肇とクレージーキャッツが歌や演奏だけでなく、コントをゲストたちと繰り広げる。「シャボン玉ホリデー」のブームは、アメリカ的な娯楽番組の国産化なのであり、しかも日本の演劇的な笑いも取り入れることで日本人に受け入れられたのである。アメリカ的なものと日本的なものとが結びつきながら、お茶の間の家族の時間が作られていった。

「シャボン玉ホリデー」と「夢であいましょう」の放映はリアルタイムで見ることのできる時代だったのだが、生憎そのころ身近にTV受像機が無かったので見ることは出来なかった。後になって、ビデオ映像見て、あの時代にあんなにオシャレな番組があったのか、感動したものだ。これがアメリカ番組と日本の演劇的笑いがミックス視点にも感心した。

岸信介首相は、1957年9月になってようやくトヨペット・クラウンを購入した。当時乗っていたクライスラーやビックには「だんだん乗らないようにするつもり」であると「朝日新聞」(1957年9月3日付)は伝える。岸首相に遅れること一日、一万田尚登蔵相もこの車を導入した。これらは日本国産車が国家の象徴であることを強く印象づけている。

戦後12年目に時の首相が国産車に乗ることになったというのは、けっこう早いようにも思えるが、戦後しばらくは「高級車」=「外車」だったことは間違いない。

アメリカと日本の力ゲームの物語は、1990年年代に大きな影響を与える。「「NO]といえる日本」を主張する石原慎太郎が右派的な発言にもかかわらず、いやそれゆえに圧倒的な支持を受けて東京都知事になる。右派的発言の石原は、しかし若き頃にはアメリカ主義の寵児であった。その石原がアメリカ主義的であった時代が、電化製品と自動車を筆頭にして日本は世界に羽ばたいた時代と重ね合わされ、しかも「懐かしき」「日本人みんなが必死で働いた」「貧しくても幸せだった」時代と郷愁をもって振り返られる。そしてその石原や60年代の成功の物語が、1990年代のグローバル化に対する不安の中で召喚されるのである。
それは、親米日本の健忘症である。アメリカには憧れそのようになろうとしたことを、あえて忘れる。石原慎太郎のアメリカ主義だけではない。日本の「美しさ」を強調する安倍晋三首相の祖父、岸信介は国産車を購入するまでトヨペット・クラウンの発売から二年を要した。
親米は、21世紀の日本のナショナリズムと分かちがたく結びついていくのだ。(第五章 スピード、車、男らしさ)


「親米日本の健忘症」\(^o^)/ それも確信犯としてのそれであるというのが複雑なところである。Morris.も患者の一人であることは間違いない。真性健忘症の疑いもあるけど(^_^;)

この(アメリカ)神話は家庭内を民主化することを求める。この民主化は男性と女性の性差を本質化した。男性は外で働き社会での生産活動に貢献する、女性は家庭で働き家族の再生産活動に貢献することが、身体的特徴と精神的特徴から当然のこととなった。男らしさは家族を養うために働く父親の強さを、女らしさの構築は家族のために働く「主婦」の喜びを自明のこととした。
アメリカと日本との関係そのものが、男性と女性の関係であった。
アメリカによる植民地支配の記憶を消し去ったふりをしながら、そして「アメリカの影」を意識しないようにしながら、「何となく、クリスタル」な関係は敗戦後の日本で維持されてきた。作家の野坂昭如はこの関係を「業病」と呼ぶ。そしてその関係を「強姦された女が、屈辱にふるえつゝも、男の姿を遠くながめ、なにやらしたわしく思うようなもの」と表す。
健忘症を維持することができたのは、日常生活に溢れ出す様々な事物と関わる。抽象的なアメリカ神話は運動や事物によって物質化されたのである。


ジョン・ダワーのEmbracing Defeat:Japan in the Wake of World War II (1999年、『敗北を抱きしめて』)に重なる部分も多い。

自らの所得水準を「中の中」と意識する1970年代の「一億総中流」に至る1950年代半ばからの高度経済成長期は、何もなかったけど幸せだった時代から、頑張ってトイレや台所を洋風化史電化製品と自動車を購入し、みんなそれなりの生活ができるようになったという共同体の感覚をもたらした。
さらに言えば、「おふくろの味」が、清潔なトイレが、敗戦後の生活改善運動や生活の洋風化において成立したように、「日本的なもの」の多くは敗戦後のアメリカとの関係において作られた。言うなれば「日本的なもの」はアメリカ神話を日本において咀嚼しながら作った、次の段階の「神話」なのである。そう考えるとき、1990年代にせり出してきた「日本人でよかった」という神話もまた批判的な検討を要する。
「日本人でよかった」が「○○人でなくてよかった」とネガボジであるように、同質性はその外側に差異も作り出している。同質性の強化と同時に差異化され差別された人たちの存在を覆い隠している。パンパンと混血児、在日朝鮮人は「徒花」とされることで諦められ、植民地主義的支配関係を想起させるものとして嫌悪された。


2020年の東京オリンピックへの狂騒が、ナショナリズムへの引鉄になるのではという恐怖。

暴力は「誰も別に悪いことをしたと思ってもいず、むしろ、正しいことをしたといった誇りを頬にうかべて、にこにこ笑いながら」語られる正当化の言葉によって隠される。


無意識のあるいは善意としての暴力。

フランスの思想家のジャック・ランシエールは、ある共同体において個人が持つ独自の価値が決められ、それに応じて分け前もまた受けられるよう秩序化するルールを「ポリス」と呼ぶ。そこでは当事者と非当事者が自明のものとされており、非当事者の声は聞き届けられない。このポリスは当事者・非当事者の感性的なるものの分有(分割・共有)を決定している。しかし、あることをきっかけにして、聞き届けられてこなかった声なき声が、分け前と権利の要求を開始し、それによって当たり前だったポリスの虚構性が明らかになる。こうして当事者と非当事者の真ん中を走る分断線が引き直されることを彼は「政治」と呼ぶ。「政治」とは自明の権力関係を、声を上げることで脱臼させ、不平等を告発する営為なのだ

「自明の権力関係を脱臼させる」この「政治」の定義には興奮させられた。安倍政権はこの「政治」とは対極にあると思う。

アメリカ的な民主主義、自由は、その美しさと崇高さが何かを覆い隠しているため一面では危険な武器である。民主政が全体主義へと容易に転化することもある。


現在只今の日本への警鐘である。

本書は何度か男女の肉体的性差を自明のものとした、社会的な役割分担を問題にしてきた。それは私のこの10年ほどの日常生活のポリスに対する「政治」でもある。ただし、男性である私はそうは言いながらも、やはり社会の中で分け前に与るものでしかないことも隠すことの出来ない事実なのだが。(おわりに)

筆者は、職場で初めての夫としての産休を取ったらしい。実践することに意義がある。
この人の本、他のものも読んでみたい。
【戦争と広告】森正人★★★☆☆ 2016/02/25 角川選書:568///KADOKAWA 2018060
「第二次大戦、日本の戦争広告を読み解く」という副題がある。

森正人 1975年、香川県生れ。関学大学院卒業。専門は文化地理学。「大衆音楽史--ジャズ、ロックからヒップホップまで」
昨日紹介したほんと同じタイトルだが、こちらはかなりアプローチが違っていた。

本書は戦時中と現代における日本の「聖戦」(日中戦争と太平洋戦争)の多様な広告を吟味しながら、その視覚性と物質性を明らかにすることを目的にする。私たちが見ているものは自明のものではなく、特定の目的に応じて見せられているものである。こうした操作された視覚を「視覚性」と呼ぶ。
また筆者は物質展示を通したナショナリズムの醸成過程を考えてきた。そこに存在している物もまた自明ではなく、選別され、配置されている。物はそこに存在することによって、特定のメッセージを伝える、これを「物質性」と呼ぶ。

マスメディアはたしかに嘘をつく。そしてそれは特定の権力者におもねり、あるいは権力者によって支配される。それに対して自覚的であることはとても重要である。しかし同時に、人びとは完全にメディアの力から独立した存在であると考えるのは少し単純ではないだろうか。

こうした情報の統制を行ったのは1936年7月に誕生した内閣情報委員会である。翌年にはこの委員会は「内閣情報部」に改組され、1940年12月、新体制運動を提唱する第二次近衛内閣によって国民的な世論形成を図る目的で情報局が創設された。とりわけ出版業界については、1940年5月に内閣商法部所管として「新聞雑誌用紙統制委員会」が設置されると、新聞社や出版社へ印刷用紙の割り当てと配給統制を行ったことは、日本におけるプロパガンダを考える上で重要である。委員会は用紙配給を通して新聞、雑誌の記事内容に介入し、言論統制を図ったのだ。

人間の目に映じるものは、その人の見たいと思っている、あるいはその人に見せたいと思っている事物である。特定の物の見方を可視化するために、事物が選ばれ、配置され、あるいは作り出される。事物は視覚的なものに実態を与える。それにより特定の幻想が真実の物語となる。写真や絵画などの視覚イメージはまさに社会的な織物であり、社会的な物質なのである。(序章)


えらく難しい思考法で「文化地理学」という学問も初耳だが、何か面白そうでもある。

朝鮮では1938年に、満十七歳以上の男子で総督府陸軍志願者訓練所を修了したものを現役または補充兵に編入させる特別志願兵制度が始まった。支那事変以後「朝鮮同胞の愛国の熱意は急激に昂ま」り、学業の成績も向上した。立派な最期を遂げる者も現れ、「いよいよ」1943年8月1日に徴兵制が実施されることになり、彼らは訓練に励み「晴れの日を待つ」と伝えられる。
徴兵制は「一億悉く皇民即神兵」となるために、朝鮮や台湾の「同胞」へ与えられた恩恵である。それゆえ、彼らはその恩恵に喜んで与るのが当然だと考えられた。(第二章 乾坤一擲と大躍進)


まったくもって、とんでもない話ぢゃヽ(`Д´)ノ

記事(「写真週報」1944年3月15日号)は開戦当初、「日本人という日本人」はどんな生活にも耐えると決意した。しかし、それがたるんでいるのではないかと諌める。
今の戦局は努力の足りない銃後の国民にある、というのである。ここでは開戦、作戦遂行についての政府や軍の責任がまったく問われない。その無責任のつけは、戦地の兵士、銃後の国民、そして解放の名目で場所や家を追われた現地の人びとが払わなければならないのである。卑怯な言い訳である。


「写真週報」は戦時中政府側が発行したもので、本書はこの週報の記事を情報源として多用している。初めのうちは戦果を広報するためのメディアだったのが、戦況悪化にともない、どんどんこういった銃後への押しつけに傾いていった。
「卑怯」というより、官製メディアというのは基本的こんなスタンスなんだろう。

「爆弾は炸裂した瞬間しか爆弾ではない。あとは、唯の火事ではないか。唯の火事を、君は消さうともせずに逃げだすてはあるまい。招集を受けた勇士を、「一死奉公立派に働いてくれ」と君は励ました。一旦風雲急となった時、この都市を、護るのは今度は君の番なのだ。英霊は君の奮闘を待ってゐる。(爆撃で火の手が上がる町のイラストを背景にした「時の立て札」)(第三章 視覚文化としての銃後の覚悟)

こん貼り紙があった、という事自体信じがたいジョークみたいなものだ、その実物の写真まで見せられると、開いた口が塞がらなくなる。日中戦争時の上海かどこかのレストラン前に「犬と中国人お断り」という断り書きがあったというのに通じる。

戦後70年を迎える2015年4月30日、大阪市のピースおおさかが展示内容を刷新して再開館した。具体的には、「大陸への侵略」「朝鮮の植民地化」「東南アジア諸国の受難」などのパネルのほか、南京大虐殺や捕虜虐待などの解説文や、折り重なる遺体や生き埋めにされる住民などの写真など数十点の「加害展示」が撤去された。1992年から3年間事務局長を務めた人物のコメントによれば「日本がアジアで何をしたかを学ばなければ、空襲の背景を十分理解したことにならないという意識」のもと、戦争の被害だけでなく加害行為を等しく扱う私的施設だった。しかしそれゆえ、偏った思想に基づいた展示と厳しい批判に晒されてきたという。とりわけ、橋下徹氏が率いる大阪維新の会が大阪府議会と市議会で第一党になった2011年、「偏向」が問題視され、橋下氏は展示内容が不適切であれば廃館も考えると府議会で答弁した。こうして展示物だけでなくその内容は大幅に変更された。
日本の被害性と加害性の両面を示すだけでなく、メディア批判や世界での暴力まで幅広くカバーする効率博物館として特筆すべき川崎市平和館はむしろ珍しい。


先般Morris.が初めてピースおおさかを訪れた時点で、加害情報は撤去されていたことになる(>_<)

博物館展示に関して言うなら、21世紀に入って3つの歴史的修正主義的な方向で平和の展示が行われている。一つめは、ピースおおさかや平和祈念展示資料館で見た被害の強調、二つめは、遊就館で見られる戦士の崇高さを称える展示、三つめが2005年に広島呉市に開館した大和ミュージアムのように戦時中の技術展示に特化する展示である。大和ミュージアムは呉の軍港開発や戦時中の戦艦大和の開発を純粋な技術的発展として展示し、しかも戦後の日本の技術的繁栄にまでつなげていく。そこから出港した軍艦が戦時中に何をしたのかは語らない。

2002年の遊就館の展示の全面的リニューアル後は近代以前の軍事史の展示が縮小され、代わって日本がアジアを侵略する欧米列強に対して自衛のために戦ったという歴史館を全面に押し出すようになった。
この遊就館のハイライトが第二次世界大戦での英霊の活躍であり、その戦争を一貫して「大東亜戦争」と呼んでいることには注意が必要だ。それは、この戦争がアジアの正義を守るためであったことをはっきり示している。
それを感じることができるのは、元帥刀の左横のパネルである。漢詩「君子居必択郷、遊必就士」の下、30人の元帥の肖像が環状に置かれる。環状に置かれる肖像はどれも同一の位階にあり、しかもその円には中心があることが言外に意味される。その中心には何もない。空白で不在の何かは、自明のものでもある。すなわちそこには国体、皇室、天皇が不可視のまま存在するのである。天皇と男性の元帥、その下には国民たちが連なるはずだ。
興味深いのは「護る」「守る」「まもる」の違いである。「護る」は制度や組織の公的な防護で用いられる。「守る」はそれよりもややくだけており、ひらがなの「まもる」は私的な環状をともなう防御を意味する。国家の護りが家族のまもり結び付けられる。


靖国神社の中にある遊就館は一度訪れたいという思いがある。もちろん応援団としてではない(^_^;)

戦争の美化か否かという単純な議論の構図は、『永遠の0』のみならず昨今の「保守」の論をきちんと捉えられない。なぜなら問題とすべきは戦争賛美よりも根深くかつ幅広いからだ。むしろ「日本人」の立場や価値観の様々な「差異」を認めず、単一の「日本人」の物語を作り出そうとする欲望にこそ目を向けるべきだろう。(第四章 21世紀における大東亜戦争)

「ガンバレニッポン!!」に代表される挙国体制への傾斜にすこしでも歯止めをかけたい。

「自虐史観」への批判において問題に思われるのは、第一にそれを非常に単純化された物語に回収されている。善と悪、日本人と敵がつねに対置され、後者が前者を騙したり前者に侵略したりという二項対立が前提にされているのだ。第二に、それがさまざまなメディア、つまりテレビ、雑誌、教科書、インターネットのホームペページや掲示板などを通して広がっているのだが、そのそれぞれのメディアの意図や操作性が、戦後の自虐史観批判者と養護者の両方において十分に理解されていない。第三に、日本における戦後解釈や歴史観が、外部からどのように見られているのかということへの意識が乏しい。これはさまざまな外国からの日本の歴史観に対する評価を伝えないマスメディアの問題と、外国からの評価を日本への干渉として目と耳を向けないという閉鎖性が関わっているだろう。

私たちの戦争観、戦後観は歴史的、地理的、文化的、社会的に作られたものであり、物質的でもある。私たちはどこから歴史を、戦争を見ているのか、考えているのか、「出来事」と「私たち」のあいだにどのような媒介物(メディア)が存在し、それによって私たちの頭や目に「フィルター」がかけられているのか、こうしたことを常に問い直し続けることでのみ、私たちはかろうじて幻想への耽溺から逃れることができる。
その中で私たちはまだ「戦後を生きていない」ことが明らかになったといえる。
昨今のメディアにおける戦時中の普通の日本人の家族への思い、友情のせり出しは政治的問題だと言えるだろう。国民総ての「活躍」も注意が必要だ。日本人で「あること」の審美化だけでなく、「として」積極的に行為することの審美化は、充実感を与えながら、矛盾を覆い隠すのである。
このような作業こそが、歴史解釈の当否を、自虐史観の当否を雄弁に語る以前に必要なのだ。

「自虐史観」という言葉(プロパガンダだと思う)自体がどこか根本的に間違ってる。まずそこのところから考えるべきだろう。

戦時中の雑誌が持つ視覚イメージの重要性に気づかせてくれたのは、沖縄県祈念資料館である。資料館学芸主査の新垣誠さんには、所蔵する雑誌の閲覧でお世話いただいたいた。本書で使用した『写真週報』の多くはここで見せていただき写真撮影させていただいたものである。(あとがき)

本書の核心であるさまざまなメディア記事とその紹介、論考はそれなりに興味深かった。それにもまして、著者のアプローチスタイル(文化地理学)に興味津々である。他の著書も読んでみたい。
【戦争と広告】馬場マコト ★★★☆ 2010/09/30 白水社 2018059
馬場マコト 1947年石川県金沢市生れ。早稲田大学社会学科卒業。リクルート、博報堂、東急エージェンシークリエイティブ局長を経て広告企画会社「馬場コラボレーション」主宰。

資生堂広告で親しまれている山名文夫の戦時中の広告活動を中心に戦争と広告を論じている。山名には関心があったので読んでみることにした。

「NIPPON」(1934 創刊号)の表紙に、山名に姉さん人形のイラストを描かせると、それに時分で撮ってきたアパートのモノクロの外観写真を組み合わせた。刷り出しがあがるたびに名取は着物の色を変え、アパートの色を変えていく。できあがった奥行きのないフラットな感じの表紙は、きわめて画一的な日本建築と姉さん人形をコラージュしているにもかかわらず、どこか異国感覚の日本の誕生となった。イラストと写真の製版技術をしらなければできない全く新しいデザインの登場だった。
37歳の山名は24歳の名取から、グラビア構成とドイツ・バウハウスデザインの基本をみっちりと学んだ。美を卑しめず、美に殉じ、美を第一義とするためには、山名のなかで年上も年下の意識もなかった。中学を出ただけで美術の基本を学ばなかった山名にとって、名取はもう一度図案とはなにかを考えるとき、若き教師だった。
「NIPPON」の記事や写真のキャプションには英独仏西の四ヶ国語が使われ、日本を紹介するプロパガンダ誌として、1934年の10月に第一号誌は創刊された。
名取の妻、エレナの」もとには世界各地から問い合わせや注文が飛び込むと同時に、雑誌「NIPPON」を取り上げた新聞記事が送られてきた。「NIPPON」は海外でも好評のうちに迎えられた。(3.「NIPPON」と名取洋之助)

雑誌「NIPPON」のデザインには、惹かれるものがあった。あの姉さん人形の表紙は山名と名取の合作だったのか。

山名文夫が福原信三に請われ、ふたたび資生堂に復社したのは、世の中が2・26事件で騒然とする二日後の1936(昭和11)年2月28日、山名文夫が38歳のときだった。
資生堂という会社へ圧力がかかる原因を、山名文夫の広告は明らかにつくった。
1937年7月7日、中国河北省豊台で日中両軍が衝突した。いわゆる盧溝橋事件だ。大日本帝国政府は局地解決、事件不拡大を表明した。しかしその表明がどこまで本気だったか疑わしい事実がある。群舞は支那事変が起きると同時に、資生堂に接触してきたのだ。衛生面からも彼らは、大量の石鹸を確保し、海外の戦線最前線に送りつづける必要があった。その数58万個。軍部に「局地解決、事件不拡大」の意思はなく、はじめから「局地拡散、事件拡大」の野望に燃え、大量の石鹸確保とともに中国侵攻を企てていた。そして日中戦争ははじまった。(4.資生堂と福原信三)


日中戦争の端緒となった盧溝橋事件が、偶発的なものではなく、確信犯だったことの傍証が、こういう形で立証されるというのも興味深い。

報道技術研究会の発会式の裏で、じつは外務省、内閣情報局ではとんでもないことが起こっていた。この11月、ウォルシュトドラウトという二人の神父が、ルーズベルト大統領の親書「日米国交打開策」を携えて近衛文麿首相に会いに来日したのだ。その親書の内容は、ルーズベルト大統領と近衛首相が太平洋のアラスカまたはハワイで会見し、日米両国の懸案事項、ヨーロッパ戦争に対する日米両国間の態度、日中戦争の解決、そして日米通商航海条約の見直しをしようというものだった。
近衛は太平洋に立った荒波を解決するいい機会と考え、欠員だった駐米日本大使に、阿部信行内閣時に外務大臣として米英協調路線をとって外務省にそっぽを向かれた、親米派の海軍大将、野村吉三郎を起用したのだ。
しかし、これが外務省ではまたまたたいへんな人事として問題になった。本多熊太郎、白鳥敏夫、栗原正、松宮順、重松宣雄、仁宮武夫など、対米英強硬派にとってはありえない人事だった。野村吉三郎が駐米大使に戻ることは、自分たちの立場をふたたび危ないものにする。アメリカがいかに問題なのかを、緊急に広く知らせる必要があった。
それだけ報道技術研究会は、情報局にとっても喉から手が出るくらい、どうしてもほしい組織だった。(6.報道技術研究会と山名文夫)


これも意外な事実である。野村吉三郎という人物のことをもっと知りたくなった。上海で尹奉吉の投げた爆弾で右目失明したと(重光葵はこの事件で右足をなくしている)というエピソードまであった。戦後は日本ビクターの社長に就任してる。その後は参議院議員にもなり、首相の座を狙ったこともあるみたいだし、海上自衛隊に係り、CIAの協力者だったともいわれ、なかなかの曲者だったようだ。

カール・エルンスト・ハウスホーファー(1869-1946)は1908年から1910年まで日本のドイツ大使館付武官として日本で暮らし、ドイツ帰国後「日本の軍事力、世界における地位、将来に関わる考察」という論文を執筆、地政学の創始者となった。
ハウスホーファーの説く「ABCDラインに包囲された生存圏を有しない日本は、生存のために軍事的な拡張政策を進めなければならない」それはまた「19世紀型植民地政策に苦しむ南方民族を日本の手によって解決する正義となる」という論理は、中国だけでなく南進をしたくてうずうずしてる軍部や近衛文麿首相の持論「持たざる国」の論理と反響し共鳴しあい大義となった。
この後ABCDラインが一気に全国民のあいだの合言葉になるのに時間はかからなかった。
第二次世界大戦の日本を爆走させる狂気の理論体系を作ったハウスホーファーは、じつは同じように、祖国ドイツでもヒットラーのヨーロッパ各地侵攻に大きな役割を果たしていた。
日本ではハウスホーファーの論理を受け継いだ小山栄三がいたが、ドイツでも同様にハウスホーファーの論理を受け継ぐ人間があらわれた。彼の教え子、ルドルフ・ヘスだ。
ヘスを介してハウスホーファーはヒットラーと知り合う。ヒットラーはチェコスロバキア、オーストリアを武力で統合した後、北アフリカ作戦、ソ連攻撃とハウスホーファーの説く狂気を走る。スリーAラインを国境として制圧してしまえば、ヒットラーが夢見た千年王国、第三帝国の基礎は確かに盤石なものになったかもしれない。
日本とドイツを狂気の暴走機関車に導いたハウスホーファーは1946年3月、妻を道連れに、服毒後、割腹自殺した。


「ABCDライン」という言葉がドイツ人によって作られたというのも知らなかった。このハウスホーファーという人物も不可思議な存在である。

1941年2月24日9時、「太平洋報道展」は開催された。
それまでの標語だけのポスターや、紀元二千六百年奉賛展で情報局や大政翼賛会がつくってきた国策宣伝物、デパートで集客のために時節に合わせた画一的な防共展、防諜展などと、明らかに一線を画していた。それは報道技術研究会の最初の仕事であると同時に、それからはじまる戦時中の宣伝の方向を示すものだった。(7.情報局と林謙一、小山栄三)


「報道技術研究会」が山名、花森安治らが中心となって「自発的」に立ち上げた報国広告(プロパガンダ)団体である。

山名文夫はふたたび1948年、資生堂に51歳で三度目の入社をした。それを確認するように、その年福原信三は亡くなった。
1978年1月14日、花森安治が心筋梗塞で急死した。66歳だった。朝日新聞はその死を社会面全七段抜きで伝えた。その紙面の大きさが、戦後花森がはたした社会的影響力を語っていた。
1980年1月14日、山名文夫は心不全のため83歳で亡くなった。
朝日新聞は山名の死をこう伝えた。
 山名文夫(やまな・あやお=資生堂顧問、グラフィック・デザイナー)14日午後10時50分、心不全のため、東京都狛江市の慈恵医大第三病院で死去。83歳。和歌山県生まれ。中学卒業後、ほぼ独学で商業デザインを勉強、雑誌「苦楽」「女性」のさし絵を担当した。資生堂に入社した昭和4年以降は、広告でユニークな装飾画を発表。流れるような繊細な線を使い、官能的で現代的な感覚をもつ資生堂調の基礎を築いた。戦後は多摩美術大学教授をつとめたほか、日本デザイナー学院を開校した。日本のグラフィックデザイナーの草分けの一人である。(9.それぞれの戦後)

花森と山名の死亡記事の取り扱いの差を、やや不満げに記している。著者はなんとなく花森に違和感を覚えているようだ。この二人を無理して比べる必要はないと思う。

団塊の世代の私たちは権威に楯つくことを是として、学生時代を過ごした。あらゆることにまずは「ノー」と言ってみることが習い性になっていた。就職してもそんな気分がいつまでも尾を引いていた。広告の企画制作を職業とするにあたり、心に決めたことがあった。行政広報、自衛隊、原子力などの「国家情宣」の仕事と、被害者を生み出す職種の広告には携わらないと。
山名文夫や新井静一郎は、自社の広告が極端に減少していくなかで、その目の前に今いちばん熱い国家情宣キャンペーンを差しだされた。彼らが何の躊躇もなくそれに飛びついたのは、広告という職業人のもって生まれた業以外のなにものでもない。
広告というビジネスはいつも時代におべっかを使いながら、自分自身を時代に変容させて生きるビジネスだ。悲しいかな、自分の思想もなにもあったものではない。そうやって私は、私が生まれた時代を生きてきた。しかし、時代と並走しつづけるのもこれでなかなかたいへんなのだ。時代の変化を瞬間的に読み取り、自分の感性と肉体を反射的に変容させなくてはいけない。時代はなかなかの暴れ馬で、ちょっと油断すると振り落とされてしまう。
私が新井静一郎たちと同じ時代に生まれ、広告制作者という職業につき、この戦争期に30歳を迎えたとしよう。私はなんのためらいもなく、国家情宣の仕事に携わっただろう。
戦争責任、戦争加担を避難するのはたやすい。しかし、それは想像力に欠けないだろうか。戦争の時代を生きた人は、自分の立っている位置で戦いをするのだ。戦いを強要されるのだ、国家によって。
先の戦争によって学べることは、たったひとつだけある。
人間はだれも生きるために、戦争に協力するということだ。それは日本というくにだけでなく、世界共通の真理だ。
だからいちばん大事なのは、戦争をおこさないことなのだ。戦争をおこさなければ、人は人を殺し、人を戦場に駆り立てることはしない。
母は「戦争だけは嫌だ。戦争だけはしてはいけない」と言いつづけ、90歳で亡くなった。私たちの国の憲法が与えられた、与えられないの論争はどうでもいい。あの戦いが終わった日に、私の母のように、だれもが二度と戦争は嫌だと思ったのだ。もう軍隊を持たない国の理想をかかげたのだ。
いまふたたび憲法9条について語ると、なんだか古い人間に思われたり、左傾化した人間に思われるのだが、思想は関係ない。私は右でも左でもなく時代の子として言おう。
「戦争は嫌だと」
なぜなら時代の子である私は、必ず広告企画者として戦争コピーを書くだろう。確実に書く。そして山名文夫よりも、新井静一郎よりも、花森安治よりもすぐれたコピーを書くだろう。確実に書く。そして山名文夫よりも、新井静一郎よりも、花森安治よりもすぐれたコピーを、作品をつくろうとするだろう。いや確実につくる。
だからそんな時代を迎えないためには、戦争をおこさないことしかない。どんな世の中になっても、戦争をおこさないこと、これだけを人類は意志しつづけるしかない。(あとがき)

山名をダシにして、自己弁護してるようにも見えるが、まあ、正直なひとなのだろう(^_^;)
山名文夫の「線」にはほとんど無条件幸福を感じてしまうMorris.である。これからも、余計な舞台裏は知らずにあの線を楽しむことで、済ますことにしよう。
【チェ・ゲバラ】伊高浩昭 ★★★☆☆ 2015/07/25 中公新書2330 2018058
伊高浩昭 1943東京生。早稲田大学新聞学科卒。元共同通信編集委員。立教大学「現代ラ米情勢」担当講師。

海堂尊の「ポーラースター」を読んでて、あまりにもMorris.が、ゲバラと当時の中南米情勢の無知を思い知らされて、本書を手にとった。

世界に五カ国しかない社会主義国の一つである現代キューバの礎を築いた革命の立役者の一人に、チェ・ゲバラという平凡にして非凡なる、類い稀なさすらい人がいた。本書には、「神話化され偶像視されたチェ・ゲバラ」ではない、生れてから死ぬまでのチェの生身の人生が織り込まれている。不正や理不尽に立ち向かったチェの生き方は、悪が社会にはびこる現代ゆえに眩しいかもしれない。若い世代の読者には旅でさすらう意味やチェの生き方に思いを馳せつつ、年配の読者には激動の20世紀第三、四半期を顧みつつ、ページをめくり進んでほしい。(まえがき)

Morris.は激動の20世紀後半を顧みつつ読むことを強いられるわけか(^_^;)

エルネストは読書を通じ、オーストリアの詩人リルケの「死は人生の暗い面にすぎない」という言葉が気に入っていた。暗示にかけられて、死を恐れなくなるのだ。それは後年ゲリラ戦士になったとき、天分として蘇ることになる。(第一章 目覚めへの旅)

リルケは昔、いくらか読んだ記憶があるが、この詩句は記憶にない。人生には「死」以外に多くのものがあるという単純な理解でいいのかな?

チェは1959年7月15日、羽田空港に到着した。
チェは日本政府に、「富士山、大相撲、広島を見たい」と伝えていた。7月25日、予定されていた千鳥ヶ淵の戦没者墓苑に行かずに広島へ行った。
接待した広島県職員にチェは、「日本人は、米国にこんな残虐な目に遭わされて怒らないのか」と腹立たしそうに問い掛けた。チェを取材した中国新聞記者林立雄は、チェが「なぜ日本は米国に対して原爆投下の責任を問わないのか」と質したのを記憶していた。

これはMorris.もそう思う。「あやまちはくりかえしません」という平和公園の、あの言葉を見るたびに、もやもやとした気分になる。

「フィデルはチェを酷使した。ソ連の援助が不可欠になるや、反ソ傾向のあったチェを切り離さねばならなかった。だからボリビアに行った。悲しいのは、見捨てられたのをチェが感知していたことだ。チェが犠牲になるや、フィデルはチェを宣伝に使った。思想の隔たりはあったが、チェとは友人だった。チェは優れたゲリラではなく、平凡なゲリラだった。チェは冒険好きで勇気があった。活躍できる場を求めていた。チェはキューバ革命の象徴というよりも犠牲者だ」(2003自伝刊行についてのマトスの記者会見)

フィデルカストロとチェゲバラ。リアリストとロマンチスト。大人と子ども。政治家と冒険家。合わせ鏡の表裏。

新しい国軍として革命軍もできた。チェは革命戦争勝利から10か月間、危険人物の処刑、ラテンアメリカからの左翼人材登用、人民社会党(PSP)との連携強化、革命軍、革命警察、諜報機関G2、民兵部隊の創設、ラテンアメリカ諸国の革命支援、『ゲリラ戦争』執筆、長期外遊と、激烈な日々を送った。その間、イルダと離婚し、アレイダと再婚した。マトスがフィデルはチェを酷使したと批判するのも頷けるだろう。(第四章 革命政権の試行錯誤)

革命、クーデタ、暴動、反逆、内戦……言葉は違っても、暴力、投獄、拷問、殺戮などとセットになっているわけで、裏切り、権謀術数、諜報、謀略、権力争いもあるだろうし、権力維持のための裏の仕事(汚れ仕事)が、ゲバラの役割とされたということか。

1960年3月4日、ハバナ港でCIAの犯行とみられる大惨事(81人死亡、200人負傷)が起こり、翌日の葬儀に参列したチェは、米国との対決を覚悟するかのように決然たる表情で眼差しを遠い彼方に向けた。写真家アルベルト・コルダは、その瞬間を逃さなかった。この写真によって、若く凛々しい31歳のチェは永遠の革命家になった。一枚の顔写真が一人の人物をこれほど印象深く捉えるのは稀だろう。その写真が半世紀の長きにわたって世界中の人々の心に刻まれ続けてきたとなれば、他に類例がないだろう。まさに、運命の写真だった。この写真はフィデルが「社会主義革命」を宣言した61年4月16日、初めて『レボルシオン』紙に掲載される。コルダは、この一枚で「チェ・ゲバラ」という神話を作り、自らも永遠の写真家となった。

「ゲバラ」といえば反射的にイメージされるあの「映像(画像)」は、このように撮影されたわけだ。ゲバラの人気の一部(大部分かも)は、あの写真におうところ大きいと思う。象徴であり、いわば強力なアイコンになっている。「神話作用」というのはロランパルトの著書のタイトルだが、構造主義のキャッチコピーみたいになってしまっている。これも一種の「神話化」なのだろう(^_^;) 芸術家や政治家、スポーツ選手などでも、作品や実績以上に、写真写りで認知されてる例がある。

メキシコ人も中米人もカリブ海域人も南米人もみな、アメリカ人である。彼らは、米国が勝手に「あめりか」を国名に被せ、大陸全体の名称を独り占めにしたことを不快に思っている。ストーンのように、この点に気づく米国人は極めて稀だ。ラテンアメリカ人は通常、米国を「ノルテンアメリカ」(北米)と呼ぶ。左翼知識人は「ウサメリカ(USAMERICA)」と呼ぶのを好む。

しかし、「アメリカ」の語源?が、イタリアの商人、探検家、地理学者のアメリゴ・ヴェスプッチの名前に由来することを思えば、つまりは「新世界」と呼ばれた南北大陸が「旧世界」から侵略、占領によって、現在の状況を作り上げたわけで、「あめりか」の名前を米国が独り占めしてることへの不満よりも、先住民族から見れば、とんでもない話だろう。

アイゼンハワー大統領は、大統領選挙を戦っていたケネディ、ニクソン両候補に侵攻準備開始を伝え、その年秋の大統領選挙でいずれの候補が勝っても侵攻計画を実施するよう約束させた。ケネディはこの超党派の国策に縛られ、ヒロン浜侵攻決行を余儀なくされることになる。選挙戦で保守派の支持も必要としていたケネディは、「亡命者で構成する遠征軍を送り、キューバにできた共産主義の飛び地を消滅させる」と公約した。侵攻計画立案に携わったニクソンはこの問題では多くを語らなかった。もしニクソンが当選していたらヒロン浜侵攻は米軍介入につながり、カストロ体制は押しつぶされていただろう。

ケネディが、結果的にキューバにカストロ体制を成立させてしまったということかな?

ヒロン浜侵攻での戦闘は4月17日の夜明けから19日の夕刻まで60時間続いた。何よりもソ連やチェコスロヴァキアから届いていた武器が物を言った。革命軍と民兵部隊の戦死者は151人、これに対し侵攻部隊は死者114人、捕虜1209人だった。一部は輸送船に逃げ帰った。
侵攻部隊が期待した「国内蜂起」は起きなかった。G2が革命防衛委員会と連携して、反革命派を一斉逮捕、蜂起を封じ込めていたからだ。
米政府の完敗だった。ケネディは一週間後の26日、責任を負うと発表、自分を罠に陥れようとしたアレン・ダレス長官らCIA最高幹部三人を更迭する。カストロ体制を倒し、利権を復活させたいと夢見ていた米国内のイタリア系マフィアや、資産奪回と甘い生活の復活を渇望していたキューバ人マフィアは米軍を出動させなかったケネディを恨んだ。この深く陰険な怨念が複雑な過程を経て、二年半後のケネディ暗殺に結びつく。
革命戦争に次ぐヒロン浜の勝利でキューバの威信は揺るぎないものとなった。これを境に革命体制が後戻りする可能性は消えた。フィデルもチェも自信過剰に陥る。フィデルは「世界の英雄」の栄光を求めて国外に顔を向け、国内の経済建設や消費生活の向上を疎かにする。チェは「世界革命」を夢想し、その方向に人生の舵を切るのである。
ホワイトハウス、国務省、CIAの大失敗は、ラテンアメリカで最も遅れたキューバの独立への渇望の大きさに無知だったことによる。独立を目指して戦っていたキューバから1898年に独立を奪ったのが米国だった。
CIAは、選挙で選ばれたアルベンス・グアテマラ政権と武力革命から生まれたカストロ体制の違いに気づかなかった。そしてキューバ人の愛国主義を見くびっていた。ケネディ政権の副大統領リンドン・ジョンソンは、ヒロン浜の敗北から教訓を学びとらず、大統領になるやヴェトナム戦争の泥沼にはまり込む。
国連はヒロン浜侵攻事件をめぐって会議を開いた。自国の革命時に米国から干渉された経験を持つメキシコは、「革命は内線であり、外部は干渉してはならない」と米国を批判した。米国は内政干渉したうえに侵攻で失敗するという二重の過ちを犯し、歴史的屈辱を味わった。日本政府は、「米国の惨敗は情勢判断の甘さと決断時期の悪さに帰する。国際政治上の指導力に不安を感じさせる。国際政治上の仲間としての米国の評価に影響しうる」と、内部文書でケネディ政権を厳しく批判した。(第五章 ヒロン浜の勝利)


国際紛争が、このようにさまざまな要因が複雑に絡み合い、時には偶然に左右されることは、これまでも、これからも繰りかえされることは間違いない。アサド政権のシリアでの内戦の動向を見ても、ロシア・米国の駆け引き、それを利用しようとするシリア、虎視眈々のイスラエル、イラン……
ケネディ暗殺に、キューバマフィアや旧権力者側の係りがあったというのも、いかにもありそうな話である。

1962年10月14日に勃発した「キューバ核ミサイル危機」は同月28日まで世界全体を震撼させた。
チェは当時の状況を「キューバ人民は核兵器を使ってでも身を捧げる覚悟だった。相談もなく取引され核弾頭が撤去されたとき、安らぎの息をつくこともなく、停戦に感謝することもなかった」と死後に発表された論文に記している。(第七章 キューバ危機と経済停滞)

「キューバ危機」 これは当時中学生になったばかりのMorris.でも覚えている。その意味や危険度は認知してなかったと思うけどね(^_^;)

チェは、「米帝国主義に対しては地域や大陸と無関係に戦わなければならない」と考え、そこにコンゴ作戦の意味を見出していた。コンゴでの戦いはボリビア、アルゼンチンへとつながる革命の道だった。ソ連援助に支えられてキューバを統治していかなければならないフィデルには、チェを引き止めるべき理由はなかった。それどころか、チェが米ソ平和共存路線に歯向かうキューバ路線を国外で展開することで、キューバは「革命の操」を辛くも守っていると非同盟「第三世界」に印象づけることができる。チェはキューバをさることによって、フィデルの声望を高める新たな役割を担うことになるのである。

すごい「役割分担」ぢゃ。

チェはフィデルにあてた最後の手紙の末尾で、フィデルの革命標語を心に抱くことでフィデルに忠誠を表しつつ、新しい戦場で勝利するまではキューバに帰らない、と誓っていたのだ。書き換えられ縮められた言葉はチェの革命標語に仕立てられ、「永遠なる勝利まで」などと長年、日本で誤って解釈されてきた。筆者は「アスタ・ラ・ビクトリア、シエンプレ」の意味に疑問を抱き、キューバに行くたびに各界の人々に解説を求めたが、納得できる答えは得られなかった。第一、書き換えの事実を知る人はほとんどおらず、いたとしても公表することは見の破滅につながるため口にできなかったはずだ。不可解な言葉への疑問は深まるばかりだった。
その謎が解けたのは、筆者がチェの娘アレイダ・ゲバラ=マルチ医師に1998年11月2日ハバナの自宅でインタビューしたときだった。
「ああ、あれはね。あれはフィデルが書き変えたのよ」
アレイダはいとも簡単に解き明かしてくれた。改竄されたため意味がぼかされたのだ。
現実的実利主義者フィデルは最高指導者だった時期、必要とあれば冷酷な手段を講じることができたということだろう。
フィデルは、「勝利するまで帰らない」という手紙末尾の文言を消して、チェが万が一「勝利しても帰れない」ようにした、と筆者は解釈している。つまり末尾を「永遠の別れ」のように変え、勝利して帰国する可能性を封じ込めてしまったのだ。(第八章 コンゴ遠征)

このエピソードが、著者が一番書きたかったことかもしれない(^_^;)

ドブレの裁判は延期に延期を重ねていた。チェは知らなかったが、ドゴール大統領のフランス政府が、自国の若き英才ドブレを死刑にしないようボリビア軍政に圧力をかけていた。チェの「ボリビア日記」には、ドブレ裁判の経過が何度も触れられている。チェは生きて捕らえられ、軍事裁判にかけられる可能性を信じていたのではないだろうか。
1967年10月9日午後1時10分ごろのことだった。チェは長らく「生」の中の「死」をいきていた。これからは永遠に変わらない39歳の若い革命家として生き続けることになる。(第九章 ボリビア)


39歳。フィデルカストロが2016年に90歳で大往生?したことと照らし合わせるとあまりにも短いようでもあるが、これもそれぞれに天寿を全うしたというべきだろう。39歳と言えば、Morris.が韓国に通い始めた歳である。

私は1967年10月、ラテン・アメリカ情勢を取材する駆け出し記者として滞在していたメキシコ市で、革命家チェ・ゲバラのボリビアにおける死の報に接した。
チェは、人の命を救う医師の資格を得ながらも人を殺す武器を手にし、キューバで武力革命に成功すると自信過剰気味となって、平時よりも戦時に魅惑され、死を覚悟しつつ絶えず戦場を求め、最後には敵の武器によって、命を絶たれてしまう。
私はチェを「キューバ革命の偉大な副産物」と位置づけている。しかし本人は、それにとどまらず、運命に後押しされ、時には運命に引きずられて生き急ぎ、死地に赴いた。だがチェの死は、ボリビア軍部やCIAの思惑を大きく裏切ってチェに永遠の生命を与え、チェを無限大に膨らませた。(あとがき)


「原稿用紙一枚でゲバラのレジュメを」、というリクエストに応えた模範解答みたいな文章である(^_^;)
本書のおかげで、ゲバラの大まかなことがわかったし、中南米のことを如何にしらずにいたかということもあらためて教えられた。
そして、米国(USAMERICA)って、昔っから、懲りることなく同じ手口やり続けてるんだな(>_<)ということも。
【サーカスの夜に】小川糸 ★★★ 2015/0130 新潮社 初出「小説新潮」2014年2月号~9月号 2018057
国籍不明の矮人の少年が、苦労しながらサーカスに入り、少しずつ成長していく物語。半分メルヘンで、半分「ぽえむ」みたいな作品だった。

僕が厨房を出ようとすると、コックはいつもと同じセリフをまた繰り返した。
「食べ物は、争いの元になる。みんな、腹を空かせるから、腹立たしくなるんだ。ハングリーとアングリーは、根っこでは繋がってる。すべての戦争も、もとをただせば空腹が原因さ。でも逆にいえば、腹さえ満たされていれば、いざこざは起きない。おなかがいっぱいだったら、人はそれだけで幸せになれる。だから俺は毎日、厨房で腕をふるうってわけさ。このレインボーサーカスの、平和のためにな」


単純化。

テンペ様は、僕とコックが協力して子牛のもも肉を薄く伸ばしていると、さらさらとキーボードを操作して、あっという間に画面に取り込んだコックの顔写真から血を流させた。
「連中は、都合のいいように事実を捻じ曲げる。それを鵜呑みにして信じる連中も大勢いる。今の世の中、先に大声で怒鳴った者が勝ちだ。正しいとか正しくないとかは関係ない。」再び小雨が降るような音で、テンペ様がキーボードをなめらかに打った。


なかなかの、最新技術の披露。

見上げると、夜という巨大な闇に挑戦状を叩きつけているかのような明るさで、月がこうこうと輝いている。もうすぐ、満月だ。そのせいで、深夜なのにぼんやりと明るかった。
テントを撤去した後の地面には、そこだけ白く丸い跡が残されている。どうやらナットーは、ステージのあった場所に一本の綱を置いて、その上を歩いているらしい。それだけでも、ナットーがやると、その周辺に虹色に輝く特別な粉がまかれたみたいに、空気が華やいで見える。しっとりと湿った夜の粒子が、喜んで、はしゃいでいる。ナットーが、綱の上で優雅に踊っているのだ。僕は足を止めて、しばらくナットーの演技に見入った。なんだか、昔の幻想的な映画を見ている気分だった。
「何もなければ、ここはただの野っ原と一緒。でも、ひとたびテントが立つと、サーカスが生れ、立派なステージになるの。これは、一種の魔法ね。何度立ち会っても、不思議な気持ちだわ」
ナットーは、飛ぶことを覚えたばかりの蝶々のように、軽やかにステージの跡をスキップする。


人生はタイトロープ(^_^;)

サーカスはすべてが呼吸であり、リズムである。そのことに気付いたのは、ジャグリングをするようになってからあ。ある時、すべての行為がジャグリングなのだと神様から啓示を受けたみたいに気がついた。
トイレ掃除、厨房の手伝い、きっぷのもぎり、赤ん坊のお守り。すべてが、見えない糸で繋がっている。一日という時間の中、もっとも効率のよい流れでそれらを淡々と無駄なくこなす。まるで、いくつものボールと規則正しく手放しては、またこの手で受け取るように。必ず、美しい放物線を描くポイントというものが存在する。ひとたびその軌道に入ってしまえば、難しいことは何もない。それぞれの雑務も、ジャグリングと同じように、僕の手の中を規則正しく往来する。

心は自由だ。どこにでも行ける。
僕の心は、いつだって自由なんだ。


小川糸の世界はMorris.にとってもそれなりに、魅惑的だったし、本書えもいろいろ楽しませてもらった。でも、なぜか、もうこの辺にしておこうという気になった。

【これだけで、幸せ】小川糸 ★★★
2015/11/19 講談社
彼女のエッセー集。こんなのまで読んでしまった。

ものを使うことは、ものに対して責任を持つということ。

暮らしを重ねるほどに、余分なものは削ぎ落として、代わりに愛着品が増えていく。これからの人生もそんなスタイルを大切にしてきたいと思います。

寝室に天井照明はいらない。

40歳をすぎ、そろそろ人生の終わりを意識するようになりました。あっという間の人生ですから、思いっきり気持ちよく幸せに日々を送りたいなと思っております。


他にも何冊か彼女の本読んだけど、感想はスルー。もう、しばらく読むことはないと思う。

【つるかめ助産院】小川糸 ★★★☆ 2010/12/10 集英社 2018056
デビュー作「食堂かたつむり」と同じく、突然男がいなくなり、取り残されてしまった女性が、別の場所で、新しい世界を生きるというプロット。本書では主人公が、南の島(沖縄の離島)で、妊娠をしり、島の助産院で出産するまでを描いたもの。著者は出産を経験していないようだが、出産関連本や、実際の助産院への取材で知識を得ている。2012年にはNHKでドラマ化されてたらしい。

「長年こういう仕事をしていると、ふと感じることがあってね。神様みたいなでーっかい目ん玉で見たら、生まれることも死ぬことも、そんなに変わらないんじゃないのかなーって。生まれる現場と亡くなる現場って、不思議なんだけど空気のトーンが一緒なのよ。厳かっていうか、神聖っていうか。とにかく人間の手にはどうしたって及ばない神様の領域って気がするよ。サバサバしているようだけど、死ぬ時死ぬし、生まれる時は生まれる。
でもやっぱり私は、神様みたいにはなれないから、人の死も動物の死も、いちいち悲しんじゃうし、ずっと引きずってしまうんだけど」
おなかに両手を当てながら、先生の話を聞いていた。私は、生まれることと死ぬことは、ずっと正反対なのだと思っていた。でも、先生はそうではないと言う。だったら、長老の魂がすぐに天国からトンボ帰りして戻ってきて、おなかの子に宿ってくれたらいいのにと思った。


こういった、口当たりの良い死生観を開陳するあたりが、若い世代の共感を呼ぶのだろう。

【蝶々喃々】小川糸 ★★★☆ 2009/02/05 ポプラ社 初出「asta*」2008-09 2018055
小川糸作品としては珍しい、妻帯者への恋、下世話に言えば「不倫」の物語だが、そこはそれ。どこまでも「爽やか仕立て」になっている。ストーリーは特に無いような(^_^;)ものだが、彼女の文体の魅力の一つである「直喩」つまりストレートな譬え「~のように」「~みたいに」といった比喩表現が頻出する。それがまあ、彼女の芸なのかもしれない。ということで、コメント抜きでずらずらずらっと陳列しておく。

表に出て、男性の背中を見送る。藍染め液を流し込んだような濃紺の空の下、ひっそりと冬の夜が広がっている。

木ノ下さんは、まぶたに力を込めて目をぎゅっと閉じる。その表情は、注射を我慢する子どものようだった。

私が囁くと、木ノ下さんは、まるで新しい世界がはじまるみたいにゆっくりと目を開けた。

体の奥の方で、風船のようにぷっくりと何か懐かしいような気持が膨らむのを感じる。少しでも先の尖ったものが触れたら、すぐに破れて、中から甘酸っぱい感情がほとばしりそうだった。

突然のお天気雨みたいに、私は笑いながら泣いた。

ヒマラヤ杉の向こうに、月が見える。よく使い込んだ金盥のようにピカピカに光っている。

木ノ下さんと会うことを想像するだけで、胸にたくさんの花の蕾が詰め込まれたみたいになり、呼吸が苦しくなってしまう。落ち着いて深呼吸をしないと、酸素不足で息が詰まりそうだった。

いくつもの感情が、ドミノのように次々と胸の中で倒れていく。木ノ下さんが今言った言葉は、私がまさに彼に伝えたいと感じていたことだ。やっと会えたのだと思った。私は、最後のドミノがコトンと音を鳴らして伏せるのと同時に、勇気を振り絞って言った。

すべてが、丁寧に作られた映画のワンシーンのように美しく見える。

昨日春一郎さんとのデートに着ていったお召が、気だるそうに鴨居から衣紋掛けにかかっている。きものを見ただけで、体中の細胞が甘いため息を吐き出すようだった。

母も父を愛していたし、父も母を愛していた。私も花子も、如雨露で水を注がれるみたいに、毎日たっぷり愛されていた。母が近所の美容師と恋仲になり楽子を身ごもるまで、私たち4人はちゃんとした家族だった。少なくとも、私にとってはそうだった。

暖簾を出そうと表に出ると、外は青空なのに、季節外れの雪が舞っている。地上の汚れを必死で白く塗り潰そうとするかのように、雪は、一生懸命に降っている。

午後になるとどんどん雲が重たくなった。空一面、グレープフルーツジュースを流し込んだみたいに白く濁り、壊れかけたアコーディオンのような不穏な音を響かせて冷たい北風が吹いている。

私にとって春一郎さんは陽だまりだ。どんなに他の場所が薄暗くても、そこだけはぽかぽかとした明るい光で満たされている。
「こんばんは」
春一郎さんは太陽そのもののような笑顔で言うと、神妙な顔に戻って靴を脱いだ。

春一郎さんと乾杯する。机の上の電灯と和蝋燭の明かりだけのひめまつ屋に、そっと流れているのは韓国出身の女性シンガーの歌声だ。湿った空気に、彼女の声が染み入るように響いてくる。

やっと、パズルとパズルがぴったり合ったような落ち着いた気持ちになった。

「そろそろ、戻らないとダメかな?」
春一郎さんが、時計を見ながら困ったように言う。私は、手のひらから小鳥を放つように、そっと両手を引っ込めた。

風が強く吹いた瞬間、白い布を広げたように、水面にわっとさざ波が立った。晴れている日は池をぐるりと一周して帰るのだけど、今日はそのまま三四郎池を後にする。

入り口付近にある厨房から油の音が響いてくる。突然俄雨が降り出したかのような、とても華やいだ音だった。

朝から降り続いた雨は、夕方近くに止んだ。今は、水彩画を描き終えた後の水差しの水のような、どんよりと濁った色の雲が広がっている。

皿の上で少しずつひき肉と卵黄が混ざり合い、ねんごろになっていく。私と春一郎さんは、まだこんなふうにはなっていない。しばらくかき混ぜると、卵黄は均一にひき肉の中に取り込まれ、皿の上にはとろりとしたつくねの種が出来上がっていた。

春一郎さんが、私ではなく、私の向こうに広がる、例えばアラスカの荒涼とした海の風景を見つめるような眼差しを浮かべて言う。

サンダルを履くと、まるでスケートリンクの上を滑っているみたいに、スイスイと体が前に進む。この感覚に慣れてしまったら着物の生活には戻れなくなってしまうと危惧しながらも、まるで風になったような軽やかな感覚を、体の芯から謳歌する。

葉っぱの隙間を縫うように、茎をスーッと伸ばして花びらを開く蓮の花。色っぽくてしみじみと奥ゆかしく、私は、花の中でも蓮が一番好きかもしれないと思った。
池の方に耳を澄ますと、花が咲く瞬間の音が聞こえてくる。まるで、笑いたいのを必死に堪えて、けれど堪えきれずに思わず吹き出してしまったかのような音だ。夜明けと共に花を咲かせ、お昼頃には花びらを閉じ、これを三日繰り返して、四日目には枯れてしまうという不思議な花。

坪庭に、ふたつの炎の花が咲く。火を見つめると、人は何かしら素直になれるのかもしれない。春一郎さんの線香花火が、先に松葉模様を作り始める。数秒後、私の線香花火も松葉になった。それから松葉はだんだんちいさくなり、ふたりともほぼ同時に火の玉へと変化する。
春一郎さんの火の玉が、私の火の玉の方へとゆっくり近づく。私も、同じように春一郎さんの方へと距離を縮める。二人の体のちょうど真ん中で、ふたつの火の玉は繋がった。指先に、さっきよりも強く振動を感じる。

春一郎さんの声がして、それから電話は本当に切れた。命綱みたいにぎゅっと握りしめていた受話器を、ようやく元の場所に戻す。心の中が、一瞬、表現のように静まり返った。

かぐわしい香りを漂わせ、桃はすいすいと口の中へ吸い込まれる。甘い汁が、手のひらから滴り落ちる。私は春一郎さんを食べているような気持ちになった。食べれば食べるほど、甘美な気分に満たされていく。ひとつでは足りなくて、ふたつ、みっつと手が伸びる。私が指先で皮を引くと、桃は自ら服を脱ぐみたいに従順に皮を剥がし、きめの細かい、ほんのりと紅く色づいた白い肌をさらす。

園の入り口のほど近くに、水琴窟があった。
「栞からどうぞ」
そう言って、春一郎さんが柄杓で瓶から水をすくい、小石の上に落としてくれる。私は、竹筒の端に耳を寄せた。奥の方から、音が響いてくる。まるで地中に閉じ込められた星達が、キラキラとそこで瞬きながら響き合っているような音だった。その音に耳を澄ましていると、体の中にスーッと涼風が吹き渡るのを感じた。

頭上には、まるで束子を使って入念に磨いたかのような、雲ひとつ見あたらないすっきりとした秋晴れの空が広がっている。

八寸は、まるで画家のパレットのような鮮やかな色彩だった。〆鯖の黄身酢和え、枝豆の山椒煮、平茸の松葉刺し、菊の葉の天麩羅、粟麩のしめじ和え、さつま芋の蜜煮、どれも丁寧に作られている。宝石のような、とても優雅な気持ちになった。

「今までありがとう」
春一郎さんは、目尻に涙の跡をのこしたまま、最後にそう言って薄く笑うと、本当にひめまつ屋を出て行った。今までぴったりとくっつき合っていた磁石と磁石を、無理やり離したようだった。私は呆然と、ただその場所に留まっていることしかできなかった。竜巻がすべての感情を巻き上げ遠くに去っていくのを、私は静かに待っていた。


これでも全体の2,3割くらいだと思う(^_^;) 全てが秀逸というわけでもないが、俳句の取り合わせの妙みたいなものを感じさせられて、面白かった。
【食堂かたつむり】小川糸 ★★★☆ 2008/01/15 ポプラ社 2018054
今年2月に「リボン」という作品読んで、なんとなく文体に惹かれて、それから数冊続けて読んでメモを取ったものの、そのままほったらかしになってた(^_^;)
本書は彼女の実質的デビュー作といえる作品のようだ。
都会のあちこちの飲食店で仕事していた倫子は付き合ってたトルコ人?の恋人に、裏切られ、貯金も家財も、そして声まで失ってしまう。山あいの実家にもどり、母に頼んで小さな食堂を始める。一日一組の客しかとらないというシステムで、それなりに評判を呼び、彼女も立ち直っていくという、かなり無理のあるストーリーだが、調理、材料、料理などの描写が異様にリアルで、その分だけでも面白かった。後に本書のメニューをメインにした料理本まで出したらしい。

実家にいた頃は、料理といえば電子レンジで温めたり罐詰を開けたりすることだった。けれどそれは大きな間違いだった。祖母は、味噌も醤油も切り干し大根も、すべて自分の手で作っていた。お味噌汁の一杯にも、煮干やかつお、大豆や麹など、たくさんの命がふくまれていることを初めて知った時は驚いた。
祖母が台所に立つ姿は神々しく美しい光に包まれ、私はその姿を遠くからぼんやり見ているだけで、いつだって穏やかな気持ちになった。隣で手伝いをするだけで、自分も何か神聖なことに参加しているような気分になる。
祖母のいう「適当」とか「塩梅」という表現は、料理に慣れていない私にはちんぷんかんぷんだった。けれど、じょじょに私にもその意味がわかるようになった。祖母は、ここしかないちうベストの状態を、「適当」や「塩梅」というおおらかな言葉で表現したのだ。
家財道具も調理器具も財産も、持っていたものはすべて失くした。けれど、私にはこの体が残っている。
梅干し入り蕗のきんぴらも、お酢をしっかりときかせたごぼうの煮物も、野菜のたっぷり入ったばら寿司も、ダシを効かせたゆるゆる茶碗蒸しも、卵の白身だけで固める牛乳プリンも、きなこ饅頭も、祖母から譲り受けたレシピの数々は、すべて私の舌に残っている。
祖母の形見のぬか床。
そう言っっても過言ではない。
地震も戦争も免れた。
祖母に並んでぬか床を除くとk、祖母はいつもそう言って自慢した。明治生まれの祖母が、その母から譲り受けたと言うのだから、これはおそらく、江戸時代か ら代々続くぬか床だ。作ろうと思ったって作れないし、買いたくても買えない。ここに入れておくだけで野菜が喜び、ご馳走になる、魔法のベッドだ。
私が譲り受けてからも、味噌汁のダシを取った後の鰹節や煮干、みかんの皮を加えてはいつも丹念に混ぜてきた。たまにビールを飲ませたり、食パンをやって乳 酸菌を活性化させた。人それぞれに持っている乳酸菌が違い、男の人よりも女の人、特に子どもを生んだ後の女性の手のひらから出る乳酸菌が一番いいのだと、 いつか祖母が自慢げに教えてくれたっけ。
ぬか床の壺のふたをそっと開けると、祖母の匂いがした。


祖母から譲り受けた、ぬか床だけは恋人に持ち去られずにすんだので、それをよすがに実家に戻れたみたいな場面もあって、この祖母の料理への傾倒が基本にあるらしい。

コーヒーショップ、居酒屋、焼き鳥店、オーガニックレストラン、人気カフェ、トルコ料理店……、様々な飲食店で修行を積んだ経験も、この体の血や肉や爪の間に、年輪のように刻み込まれている。
たとえ衣服を剥され素っ裸にされたとしても、私は料理を作ることならできる。
私は、一生一度の覚悟を決めて、おかんに申し出た。


この母(おかん)は祖母とは対照的に大雑把な水商売の女将さん。

そして物語の終盤、クライマックスと言うべき、大掛かりなパーティの豚肉一頭を使い切ったメニュー。これはなかなに壮観である。

ずらりと並ぶ料理の数々。
頭を使ったテリーヌは、地元産の野菜のピクルスを添えて。
耳は、野菜くずや酢と一緒に下茹でしたものを細くスライスし、オリーブオイルとワインビネガーで和えてフランス風ミミガーサラダに。
舌は、半分は五香粉やその他の香辛料を加えた醤油ベースの汁に漬けてから煮て、中国のルウツァイに。残りの半分は、キャベツと炒めて塩コショウで味付けした。
心臓は、血のソーセージの中に入った。
レバーと軟骨は、桜のチップで燻製にした。
胃袋は、その場で塩だけつけて炭であぶり、国産の無農薬レモンを絞って出した。
子袋は、その他のモツと一緒に比内鶏の鳥がらスープに入れて、小松菜とイカ団子も一緒に合わせ、それをビーフンにかけて最後に生卵の黄身だけ落とし、ミャンマーのチェイオーという汁そばにした。
豚足は、じっくり煮込んでゼラチン質を引き出し、沖縄料理のテビチに。
腕は、丸ごとの根菜と一緒に数時間かけてコトコト煮込み、フランスのポトフになった。
肩肉は、一口大に切って下味をつけ、片栗粉をまぶしてオリーブオイルで揚げてから、煮つめたバルサミコ酢をからませて、イタリア料理風酢豚に。
塩漬けしておいた肩ロース肉のかたまりは、クレソンと一緒に煮込んで味噌味のスープにした。
前もって作っておいたチャーシューは、そのまま切って出す他、白髪ねぎをたっぷり入れたチャーシュー麺としても出した。加工せずに生のまま冷凍しておいた残りの肩ロースは、この冬に漬け込んだキムチと炒めた。
ロースは、生ハムを作った分でほとんど終わってしまったのだけど、残った分は、お肉屋さんの奥さんにアドバイスされた通り、薄くスライスしたものを軽く茹でて、蟹、もやし、ニラなどと合わせてライスペーパーで包み、ベトナム風春巻きを作った。ソースには、本場のヌクマムを取り寄せた。
モモを加工してつくったハムはサンドイッチに使った他、ポテトサラダの中にも入れた。生のまま保存した分は、解凍したのち、骨付きのままローストし、柚子胡椒を添えて出した。残りはひき肉にして、花椒をたっぷりと入れたピリリと辛い四川風麻婆豆腐に。それでも残った分は、スープで炊いたお米とともにピーマンに詰め、トルコのピーマンドルマにした。それでも残った分は、ロシアのピロシキの中に入れた。
バラは、ベーコンとして加工した分は、チーズと合わせてパン生地に混ぜ、ベーコンチーズパンを焼いた。エルメスの置き土産とも言える天然酵母菌を使い、噛みごたえのあるしっかりとした田舎風パンになった。
内側のスペアリブのところは、玉ねぎ、トマトと一緒に炒めてから、コーラで煮込んで、アメリカン・スペアリブに。骨付きのところは、小麦粉の衣を付けて高温の油で上げ、椒塩排骨(チャオイエヌパイグウ)という中国風唐揚げになった。
わずかしか取れない貴重なヒレは、塩と胡椒で下味をつけてから、小玉ねぎ、ニンニクと一緒に炒め、林檎と合わせて圧力鍋で数分間煮込み、最後に白ワインで味をととのえ、サワークリームを添えて出した。


豚肉好きなMorris.にはたまらんね(^_^;)
【私の昭和史】中村稔 ★★★☆☆☆ 2004/09//01 青土社 初出『ユリイカ』2002-2004 2018053
詩人で弁護士の中村稔の個人史。中村は1927年(昭和2年)生まれだから、ほぼ昭和史=自分史に重なり本書は、戦前、戦中、敗戦まで。中村はその後「私の昭和史 戦後編 上下」、「私の昭和史 完結編 上下」の4冊を上梓している。

わが身にふりかかってこない限り、戦争は他人事である。こういう無残で悲惨、空しく愚かな戦争の実状を私たちは知らなかった。知らせないために、この映画(『上海』亀井文夫監督1938(昭和13))は上映を禁止されたのであろう。それでいて、私たちは上海占領という勝利に浮かれていたのであった。事情はヴェトナム戦争から湾岸戦争を経てアフガン戦争やイラク戦争に至るアメリカの民衆にとっても同じだろう。現在でははるかに映像の情報量が多く、しかもそれらの映像は統制され、適宜に加工されて各家庭に入りこんでいるのだから、そのもたらす脅威はもっと怖ろしいにちがいない。
私は(「爆弾三勇士」の)「生還に失敗し」という記述に疑問をもつ。生還の可能性はもともとごく乏しかったのではないか。それでも破壊筒を抱いて突撃させる、兵士たちの死は鴻毛より軽いとみるのが、日本軍の体質だったのではないか。そしてまた、戦場とはそういう非人間的な場所なのではないか。これを軍国美談として煽り立てたのは疑いもなくジャーナリズムであった。このジャーナリズムがついには神風特攻隊の美化に至るまで、日本のかなり多くの青少年の心情形成に大きな役割を果たしたのではないか。ジャーナリズムは戦争の空しさ、愚かさを教えなかった。亀井文夫の作品の如きはいわば抹殺された。今日のメディアの巨大さ、影響力を思うと、私は慄然たる思いに駆られる。(第5章)


こういった形式で、歴史の中の自分と、執筆時の考え方を交差させる筆法である。

(ゾルゲ事件の)予審終結決定を読んでも、第一審判決を読んでも、全公判記録をつうじ、冒涜されたという「皇室の尊厳」なるものに一言の論議も説明もないことに、私はあらためて感銘を覚える。おそらく「皇室の尊厳」は超論理的な原理であった。
このことは象徴天皇制についても同じなのではないか。「国体の本義」が説いたような神国思想はもはや受け入れられまい。それでも、何故天皇が国民統合の象徴であるか、象徴天皇制が何故尊厳性をもつか。これも超論理的な原理であろう。私はそのことにも恐怖を感じる。(第11章)


父親が裁判官を務め、ゾルゲ事件の裁判にも関わったらしい。戦前の天皇制と戦後の象徴天皇がどちらも超論理的原理であるということ、それへの恐怖を今一度考える必要がある。

紀元二千六百年祝典は当時の日本政府にとって国民の戦意高揚、総意結集のための一大行事であった。思うに、それまでの戦争は敵国の首都が陥落すれば敵国政府は降伏し、戦争が終結するのがつねであった。だから、昭和12年の南京占領によって戦争が終るものと国民は期待していた。これは私の少年時のぼんやりした記憶と合致する。ところが南京大虐殺についてふれるまでもなく、逆に日本政府は南京占領をさかいに戦争終熄の見通しを失ったのであった。その結果が、翌13年1月の「蒋介石を相手にせず」という近衛首相声明であった。いまとなってはっきりしていることだが、昭和13年2月、徐州近郊台児荘の戦闘による敗退を契機に、中国大陸の戦争はひたすら日本軍の点と線の防衛に終始する持久戦となった。汪兆銘の重慶脱出と傀儡政権の樹立も何ら膠着化した戦局を打開することとはならなかった。昭和14年5月にはじまったノモンハン事件では第23師団が壊滅的敗北を喫した。この戦況が正確に報道されることはなかったが、日本軍にとってかなりに屈辱的な停戦を余儀なくされたことはおぼろげながら国民にも理解されていた。
中国戦線の泥沼化、こうした国際情勢下の不安、また予定されていた東京オリンピックの中止等から、国民の間に無力感、不安感、倦怠感がしだいにつよくなっていたように思われる。隣組を組織したり、ぜいたくは敵だ、パーマネントはやめましょう、といった標語で民意をひきしめ、神国思想によって国民の総意を統制しようとした。その象徴的な行事が紀元二千六百年祝典であった。
宮崎県霧島の高千穂町の天孫降臨祭、「八紘之基柱」の建設をはじめとするさまざまな行事の支配的思想が「八紘一宇」であった。


2020東京オリンピックが紀元二千六百年祝典とダブって見える。

正木ひろし弁護士の個人誌『近きより』がたぶん中学生時代の私に時局に対する見方を教えてくれた情報媒体であった。
「日本の政治家は、口を開けば「かんながら」というが、神代の昔のことが、彼等にそんなに明瞭に解っているものだろうか。「かんながら」とさえ言えば、論争を中止せしめる効果があるので、それを濫用するのではあるまいか。しかりとせば、その怯懦、その無責任、臣道と遠く距れりと言うべきである」。(昭和16年5月号)
私は惟神(かんながら)の道とは、神そのままの生き方、をいい、結局は、自らの生を空しくして現人神である天皇に忠節を尽すこと、を意味するように理解していた。私がどう理解したにせよ、神ながら、といえばそれ以上の議論は必要とされない超論理的な語であった。こうした狂気の支配する社会事象を、正木は冷静、客観的な眼で見続けることができた人格であった。(第12章)


正木ひろしの名前くらいは知っているが、中学生で「近きより」を読める環境にいたというのは、もちろん父の職業によるのだろうが、やはり特殊な家柄というべきだろう。

私の印象にもっともふかいのは大木惇夫詩集『海原にありて歌へる』である、ことに同詩集所収の「戦友別盃の歌」である。「南支那海の船上にて」添書きされたこの詩は次のとおりである。

言ふなかれ、君よ、わかれを、
世の常を、また生き死にを、
海ばらのはるけき果てに、
今や、はた何をか言はん、
熱き血を捧ぐる者の
大いなる胸を叩けよ、
満月を盃(はい)にくだきて
暫し、ただ酔ひて勢(きほ)へよ、
わが征くはバタビヤの街、
君はよくバンドンを突け、
この夕べ相離(さか)るとも
かがやかし南十字を
いつの夜か、また共に見ん、
言ふなかれ、君よ、わかれを、
見よ、空と水うつところ
黙々と雲は行き雲はゆけるを。

『海原にありて歌へる』は一時的に燎原の火の如く庶民の心を燃え上がらせ、庶民の心を代弁し、鼓舞した。あまりに時代に密着し、そのために時代を超えられなかった。戦争協力詩を書いたのは大木惇夫に限らない。戦後、彼が筆を折ったのは、時代、時勢に流されることを怖れたためではないか、時代時勢に流されて自己を見失うことを怖れたのではないか。


大木惇夫は戦争詩人として、戦後ほぼ抹殺された形だが、彼の詩を愛する同時代人は多い。引用された詩は、複数の本でも紹介されていた。

ハリウッドを日本軍が占領したら、女優たちを侍らせて、それこそ酒池肉林、といった白昼夢に興じたのは、それが絵空事と承知の上での冗談だったのだが、それでもそんな冗談を面白がったのは、裏返してみれば少年時代の私たちの白人女性たちへのもどかしいような憧憬であり、もっとはっきりいえば劣等感であった。開戦に昂奮し、緒戦の戦果に酔いしれていた、知識層をふくめた日本人の心情も、じつは反植民地主義という正義の仮面をかぶった、先進諸国民への羨望であり、白人種への劣等感であった、と私には思われる。
その反面、日本人こそが東アジアの盟主であるという自負、倨傲は、この地域の人々への侮蔑感と分かちがたく結びついていた。
正木ひろしは、先進諸国の人々が「有色人種は人間と動物との中間にあると信じ」ていると書いたが、私たち日本人自身が東アジアの人々を人間と動物の中間の生物と考えていたのではないか。それが、大東亜共栄圏というイデオロギーを空洞化させ、幻想にすぎないものとさせた所以ではないか。


なかなか正直な回顧である。劣等感も優越感も根っこは同じである

この戦争をどう称すべきか、に私は拘泥している。太平洋戦争とよぶことが普通だが、そうよぶことに抵抗感を覚える人々も多いはずである。極端にいえば、この戦争をどうよぶべきか、私たちの間に総意が形成されていないように思われる。それはいいかえれば、私たちの間でこの戦争に対する精算がすんでいないからではないか、それが占領地等の女性たちの強制連行、強制売春といった問題として、いつまでも私たちにトゲのように突きささっている理由なのではないか、と私は感じている。(第14章)

日中戦争、太平洋戦争、第二次世界大戦、十五年戦争、アジア太平洋戦争……たしかにいずれもぴったりしない。「昭和の「あの」戦争」とでも呼ぶべきか?

私は二人(ゾルゲと尾崎秀実)ともそれぞれに卓越した人物であることを知ったように思う。二人ともに、マルクス主義者である以前に、理想主義者であり、人道主義者であった。彼らはその高邁な思想に殉じた。思想をもつことは人間の特権であり、思想に殉じることができるのは人間の高貴さのあらわれである。だが、ソ連をはじめとする社会主義者諸国が崩壊し、彼らがその生命を賭けて守ろうとしたスターリン政権下のソ連邦の実状を知った今日、彼らの死がいかなる意味をもつかと思えば、ひたすら空しく暗澹たる感がつよい。
だが人類の歴史をふりかえれば、思想に殉じた、高貴な精神の持主たちの死屍が累々とつみかさねられていることを、私たちは知っている。思想に殉じないまでも、思想に翻弄された夥しい人々の悲運に人類の歴史がいろどられていることを、私たちは知っている。そうした人々がいなければ人類の歴史はずいぶんと寂しく色褪せた容貌を呈するであろう。(第15章)


先に書いたとおり、中村の父が関わったゾルゲ事件への関心から、一種の運命論めいた結論だが、歴史的虚無主義?

徳川夢声の『宮本武蔵』とならんで当時の日本人の心をとらえたのが広沢虎造の森の石松であった。馬鹿正直で、喧嘩に強く、親分に命じられるままに死路に赴く、森の石松の運命に、しだいに絶望感、敗北感をふかくしていた日本人の情感は、意識的にせよ、無意識的にせよ、共感したのではないか。広沢虎造のどこか投げ捨てるかにみえるような節廻しは、森の石松の悲劇的な運命を語るにふさわしいものであった。宮本武蔵が肯定的な意味で当時の日本人の理想像としてうけいれられたとすれば、森の石松はその反対の極にあって、運命に翻弄されて、ぬきさしならず死地に向かっている日本人の宿命の一典型として、ひろく迎えられたのではなかろうか。

浪花節はMorris.の小学生時代まではかなりポピュラーな存在だった。懐かしさを感じないといえば嘘になるが、勘弁してよ、という存在でもあった(^_^;)

『姿三四郎』もじつに新鮮な才能の登場であった。映像の美しさが抜群であった。しかし、黒澤明という監督は映像の職人だと感じた。彼がその職人芸を十二分に発揮した『酔いどれ天使』『七人の侍』などのエンターテインメント作品に彼の価値があり、ある時点で彼が自らを芸術家であるかのように錯覚した時期から、彼に見るべき作品はなくなった。(第16章)

Morris.は黒澤明への思い入れはない。

戦争による死者への鎮魂を生きながらえた者がどうあらわすべきか。これは毎年8月に話題となる靖国神社問題とその根を同じくするように私は考えている。第一に私たちは十五年戦争における加害者であった。同時に、この戦争により東京大空襲、広島、長崎等の非戦闘員をふくめ、数多くの兵士たちもふくめ、無意味な死を遂げた被害者をもつこととなった。この問題も結局は、私たちが戦後六十年近く、戦争責任を棚上げにし、その精算を終えていないことに、真の原因があるのではないか、と私は考えている。

「あの」戦争で「加害者」であったことを忘れるべきではない。つまり被害者であり加害者であったということ、そして「戦争」そのものがこの諸刃の剣であることを。

私には白井健三郎という名は、国文学会の先輩として、また、「無為のときには海へ行かう」という詩の作者として、親しかった。この詩の第一連、第二連は次のとおりである。

無為のときには海へ行かう
悲しいときには海へ行かう
波の戯言 潮の香に
ゆるゆるゆると 時を流さう

無為のときには海へ行かう
悲しいときには海へ行かう
碧い穹窿(まるやね) ちぎれた雲に
ゆるゆるゆると 眼を洗はう

この詩は昭和15年5月刊の一高『校友会雑誌』に発表された。


たしかにいい詩である。

平凡社版『世界大百科事典』の「ポツダム宣言」の項中、筆者、木坂順一郎は、「7月28日軍部主戦派の圧力に屈した鈴木貫太郎首相が、この宣言を「黙殺」すると言明したため、アメリカはそれを口実に広島と長崎へ原子爆弾を投下」したと記している。この「黙殺」には受諾でないが、拒否でもないといった含意があったようである。しかし、「黙秘」は拒否と受け止められるのが当然なのではないか。これから拒否しないという含意を汲みとってほしいと期待するのは無理だろう。私は鈴木貫太郎の苦衷に同情するけれども、明晰な意思表示を嫌って、ことさらに曖昧に表現し、対外交渉失敗し、あるいは対外交渉の結果を国民に糊塗してきた経験はいまだに続いている。
実際問題として、私たち自身がこの黙殺を拒否と理解したのであった。日本人の圧倒的大多数も同じだったにちがいない。ポツダム宣言の降伏条件を眼にして、こういう条件なら是非受諾してもらいたいものだ、と中野徹雄と私が話し合った記憶が鮮明である。同時に、こうした報道がされたのは、鈴木貫太郎内閣が戦争継続の戦意を私たち国民に打診する意図によるのではないか。そんなことも話し合ったのであった。

「黙殺」という言葉は「撲殺」に似ている。「明晰な意思表示を嫌って、ことさらに曖昧に表現し、対外交渉失敗し、あるいは対外交渉の結果を国民に糊塗してきた経験」が今の安倍政権には特に濃厚に凝縮しているようだ。
【私の昭和史 戦後編 上】中村稔 ★★★☆☆ 2008/10/20 青土社 2018052
昭和20年敗戦から昭和26年までの、私的(詩的、史的、知的)クロニクル

昭和21年1月、野坂参三が中国から帰国した。ジョン・ダワー『敗北を抱きしめて』に次のとおりの記述がある。
「カリスマ的な指導者であった野坂参三が、中国の共産党勢力のもとで長期にわたる活動を終えて帰国したのは1946年1月半ばであった。その直後から、野坂は、占領軍の掲げる政治的課題と日本国民の要望に応えて、平和的な革命の推進を冷静に語り始めた。これを機に共産党は、国内でさらに広い支持を得るようになった。中国から博多にたどり着いた野坂は、東京に向かう列車のなかで、その後すぐに有名となる「愛される共産党」という声明を発表した。撞着語法(オクシモロン)とも思えるようなこの表現は驚くべきものであったが、同時に多くの人々を魅了した。…」
野坂の「愛される共産党」というスローガンはたしかに当時一種の流行語のようになったのだが、私には「まやかし」としか思えなかった。「愛される」とは受身であって、「愛されたい」という願望を語っているにすぎない。積極的な行動指針を示すものではない。私には、「愛される共産党」というスローガンは、社会主義革命という行動目標を糖衣につつんで民衆に受け入れさせようとする陰湿な策謀としか思われなかった。……当時の青年たちの多くと同様、私も社会主義に強烈な関心をもっていた。しかし、私が理解する社会主義革命は本来はるかに過酷なもののはずだったし、そうした革命の過酷さに私は恐怖を感じていた。「愛される共産党」というスローガンは私には欺瞞的に思われ、共産党に対する不信感をつよくしていた。


たしかに日本共産党の戦後の人気沸騰と凋落の落差は大きかった。

そのころ(昭和21年)世評高かったのは『世界』5月号に発表された丸山真男「超国家主義の論理と心理」であった。眼からウロコの落ちる思いがしたという感想を洩らしている人々が多いと耳にして、私も一読した。
その明晰な分析と論理的な記述に私も感銘をうけた。しかし、私には釈然としない気分がつよかった。当時の私の理解によれば、わが国の超国家主義は権威の中心的実体であり、道徳の泉源体である天皇、それも「皇祖皇宗」の伝統をうけついだ天皇制に由来する、権力と権威の集中的表現である天皇制こそ超国家主義の基礎をなす、ということにこの丸山論文の要旨があった。私自身についていえば、権力機構の頂点に天皇が存在することがまぎれもない事実だとしても、天皇ないし天皇制が道徳の泉源体であることは私の実感と隔絶していた。


丸山真男、読まなくてはと思いつつも、こういった感想を読むと、ちょっと引いてしまう。

ヒロヒト 詔書 曰ク
国体はゴジされたぞ
朕はタラフク食つてるぞ
ナンジ人民 飢えて死ね
ギョメイ ギョジ (昭和21年5月19日食料でものプラカード)

このプラカードを持った松島松太郎は不敬罪で起訴された。これに対しマッカーサー元帥は天皇といえども法の下の平等を免れないとして、刑法73条から76条に至る不敬罪の規定の削除を命令し、不敬罪が廃止されたため、松島は名誉毀損罪として懲役6ヶ月の有罪判決をうけたが、控訴審において大赦令により免訴となった。
いうまでもなく、食糧不足は政府の責任ないし占領軍の責任であって、天皇にその責任を問うのは筋が違う。しかし、食糧不足による怒りや憎しみは天皇に向けられ、総理大臣や、ましてやマッカーサー元帥を頂点とする占領軍には向けられなかった。そういう意味で、昭和21年5月の時点でも、民衆の眼から天皇は政治権力の象徴とみられていたことをこの事件は示している。これは象徴天皇制への心情と共通すると私は考えている。


なかなかにうがった見方である。

一方で、私は天皇に戦争責任があり、天皇の名において無数の無辜の人々が犠牲になった事実は不問に付することはできない、と信じていた。
東京裁判は戦勝国の敗戦国指導層に対する報復的儀式としか思われなかった。本来、私たち日本人が愚劣な戦争を開始し、敗戦に至った責任者を訴追すべきだと考えていたが、日本人による戦争責任の追求がついに行われなかったことは周知のとおりである。
だから、天皇をはじめ石原莞爾等明らかに戦争責任を負うべき人々を訴追しなかった東京裁判は、一種の政治的茶番劇としかみえていなかった。


東京裁判は戦勝国による敗戦国への報復であり、茶番であることは間違いないことだろう。本当は日本人による戦争責任追及の裁判が必要だったはずなのに、それを行い得る民意も、状況も、人材も不在だった?

ずっと後年、小林正樹監督のドキュメンタリー映画『東京裁判』を観たとき、東京裁判の被告人たちもゲーリングと同様、じつにふてぶてしい態度で裁判に臨んでいたことを知り、認識を改めた記憶がある。彼らもまた、植民地解放戦争として彼らの政策を堂々と正当化していた。私は彼らの政策が正当化できるとは思わない。しかし、当時の新聞報道がいかに歪曲されていたかを知って驚いたのであった。ジャーナリズムが占領軍に迎合したのか、あるいは民衆の心情を扇情けしたのか。いずれにしても、わが国のジャーナリズムは、戦時下と同様、戦後になっても、時勢におもねっていた。それが丸山真男の論文にも反映していたのであった。

迎合、おもねり、忖度……何も変わっちゃいない。

2・1ゼネストが占領軍の指令、すなわち1月31日のマッカーサー声明により中止されたことは知られるとおりである。
私は2・1ゼネストを支持していたわけではなかった。ただ、当時の逼迫した情勢に対しては、何らかのラディカルな変革が必要なのだろうと考えていた。しかし、そのためにゼネストというような手段が有効だとは考えていなかった。かえってゼネストは民衆を離反させ、労働組合を孤立化させるだろうと感じていた。私には共産党のいう「民主人民政権」は夢想としか思われなかった。
私自身についていえば、2・1ゼネストの中止は、当時の労働組合運動に対する嫌悪感と不信感を強める契機となったらしい。


1947年のこのゼネスト中止が、2年後の下山事件に繋がる。

(中野徹雄は)存在は「死への存在」であり、人間は可換的な点(プンウト)である以前に誕生と死没との間に挟まれた「時間的な生存」であるという。続いて、ヘーゲル、ハイデッガーを引用し、こう記している。
「およそ理想が理想である限りに於てそれは人間との間に距離を保つ。而して此のまさしく保持されねばならぬ距離の感覚が人間をして焦慮させる。何となればそれは永久に消滅しないからである。まさに永久に消滅してはならない故に」
中野は「死への対決は人間を日常意識から脱落させる」、「死への対決といふやうな問題提起は閃光を投射して人間の置かれている状況を露呈する。そこに人間は全き孤独の中に己れを見出す」等といい、リルケの詩を引用し、問題提起の後に「決断」が続かねばならぬと説く。キルケゴールを引きながら、現実性から純なる可能性へ、パトス的突破を試みる決断は神への道を追求するのに対し、「「汝は地に」といふ意識に「神は天に」といふ思考が降下することに依るつて、失はれた日常的なものが新たな色彩に輝きつゝ復活し成就するのである」という。
中野はさらに、これに対して、集団的なものと個体的なもの、唯物論的なものと実存的なものとの二つの批判、二つの原理があるといい、「一方は近代の『合理主義』が社会的集団的なものと触れ合つて化合し生み出したものであり、他方ハルネツサン以来のヒユーマニズムを否定的に新たな(方角に中性的志向に於て)救はうとするものである」として、「少なくとも私自身は(中略)ヒユーマニズムへの道を選ばうとするものである」としてこの評論を終えている。
これは中野の実存主義的ヒューマニズムの宣言である。(これが発表された)『向陵時報』発刊時、中野は満二十歳になったばかりであった。同年の私は私の身近にこういう思想をもつ友人と日常接していたわけである。
「ヒューマニズム--それは一つの神話である限りに於ては美しい。したがつてヒューマニズムを己れの信念とする事は容易なことである。ヒューマニスト「と して」或ひはヒューマニストである「かのやうに」振る舞ふことは更に容易なことであらう。困難なことはヒューマニズムの「ために」闘ふ事である。何となれ ばヒューマニズムの「ために」闘ふとき、その敵は更にファッショや暴力革命論者たるのみではないから。その敵は先づ現代そのものであり、更に窮乏の現 実……人間が野獣の如く蠢き、人間に対する不信が濃くただよつてゐる現実そのものであるのだから」(第二期『世代第7巻 昭和22 中野徹雄 巻頭言)


中村が在籍していた東大法学部には、このような思索する同窓生がいたわけだ。

ディベートといわれる弁論術を学習し、習得することは国際的環境におかれている私たちにとっての必要悪かもしれない。
私はこれまで詩や評論をほそぼそと書き続けてきたが、まったく自己流であった。加えて、法律を生業としたので、文学について基礎的な教養を身に付ける時間的余裕を持たなかった。文学一途であったなら、非才といえども、それなりの成果はありえたのではないか。一方、法律一途で過してきたとすれば、弁護士としても、もうすこしましな弁護士たりえたのではないか。たまたま、弁護士を業としながら、余暇に詩や評論等を発表し続けて今日に至ったが、どちらの分野でも中途半端に終わってしまった。しかし、ひるがえって、こうした生き方以外の生き方を選択できたとは思われない。自ら選んだ生き方を反省しても詮ないことである。


一種の自慢である(^_^;)

「日本が軍隊を持たないといふこと、戦争を放棄するといふことは、新しい憲法ではつきりと定まつたことである。僕達の任務は、この「紙の憲法」の平和主義を堅持する以外にない。この点では、僕たちは「空想的」に進む以外の途はないのだ。「世界の平和」といふことは、いかに僕達の力の限界の外にあらうとも、僕達は発言が許されるならば何度でも「世界の平和」を僕達の一人一人が欲してゐることを言はなければならない。更に、手の届く限界の内にあつては、日本の「日和見主義」のために努力しなければならない。筆者は、現下知識人の任務として、『戦闘的ユマニズム』とともに『日和見主義』を提唱する」(第二期『世代』第9巻 昭和22 いいだもも(宮本治名義))

いいだももも中村の同窓でかなり緊密な交友があったらしい。

「人類が物権のみを以てその財産関係となし、経済取引の客体として居つた時代には、人類は、いはば、過去と現在とのみに生活したのである。しかし、債権が認められ、将来の給付の約束が、現在の給付の対価たる価値を有するやうになると、人類はその経済関係のうちに、過去と現在の財貨の他に将来のものを加ふることが出来るやうになる。コーラーの言葉を借りれば、信用即ち債権の発生によつて「過去は未来の役に立ち、未来は過去の役に立つ。時の障壁は打破せられ、人類は、何等妨げられることなく、時間と空間を征服するに至る」といふべきである。」(我妻栄「近代法における債権の優越的地位」)
債権の発生によって人類は時間と空間を征服する、資本主義敵法律形式はダイナミックであり、債権はそれ自ら法律生活の目的となり、経済的価値は、暫くも物権に静止することなく、一の債権から他の債権へと間断なく移動する、といった記述が、資本主義社会の基礎的な構造を一挙に解明してくれたように私は感じた。
本書によって私が民法という枠を越えて資本主義社会の基礎的構造を知ったことには間違いないのだが、若い私の心をうったのは、いかにして債権の「専制」を制限し、理想的な法律体系たらしめるか、という筆者の理想主義であったのであろう、、ということである。


「債権」の概念すらちゃんと理解してないMorris.だが、債権がこれほどまでに重要な観念なのかという、驚きを感じた。

私が(大塚久雄『株式会社発生史論』に)教えられたのは、株式会社の発生史にとどまらなかった。何故、社員の有限責任が成立せざるをえなかったのか。何故、取締役団、株主総会のような会社機関が成立せざるをえなかったのか。株式会社の資本とは何か、株式の自由譲渡制は何故必要とされたのか、もっといえば、近代的株式会社の本質は何か、ということであった。それが社会経済史的な必然的な発展として、近代資本主義社会の基幹をなす株式会社の意義であった。
私は我妻栄『近代法における債権の優越的地位』と大塚久雄『株式会社発生史論』の二著によって、それこそ雷鳴にうたれるように、近代資本主義の本質を知った、あるいは知ったように感じたのであった。


こちらも同様である(^_^;)

日本経済を再生させることによってアメリカ商業の市場として日本を位置づけることがアメリカにとって利益になるであろうと期待された。こうして、賠償額は徐々に引き下げられ、ついにサンフランシスコ条約でアメリカは対日賠償請求権を放棄することになった。その結果、わが国が賠償金を支払ったのは、インドネシア、フィリピン、韓国等の数ヶ国にとどまることになったのは知られるとおりである。講和条約と一体不可分の日米安全保障条約により、わが国は東西冷戦構造の中で確実に西側陣営の一員となり、いまに至るまでアメリカの従属国的地位から逃れられないこととなった。わが国にとって対米賠償席金を免れたことはポツダム宣言受諾当時には夢想もできなかった恩恵的処遇にちがいなかったが、結局は、ただほど高いものない、という教訓を体験することになったのだという感もまたふかい。

ただほど怖いものはないというのは本当である。

昭和23年11月12日、極東国際軍事裁判、いわゆる東京裁判の判決が言渡され、東条英機、広田弘毅ら7名に絞首刑、荒木貞夫、平沼騏一郎ら16名に終身禁固刑、東郷茂徳に20年の禁固刑、重光葵に7年の禁固刑が宣告され、12月23日には東条ら7名に対する絞首刑が執行された。翌12月24日にはA級戦犯容疑者として勾留されていた岸信介、児玉誉士夫、笹川良一らが釈放された。
すでに記したとおり、東京裁判は戦勝国の敗戦国指導層に対する報復的懲罰的儀式であり、一番の茶番劇にすぎない、と私は考えていた。本来、愚劣な戦争を開始し、敗戦に至らせた責任者は、日本人によって訴追され、処罰されなければならないと考えていたが、日本人による戦争責任の追及はついに行われることなく、今日に至っている。
だが、たとえば東京大空襲、広島、長崎の原爆といった人道に対する罪は処罰されなかったし、イラク戦争にみられるような平和に対する犯罪行為、人道に対する犯罪行為によって、アメリカ合衆国の指導者が訴追されることもない。そういう意味で……国際法の理念はすでに破綻しているようにみえる。


という意味でも「あやまちはくりかえされる」しかない。

私はまた、わが国における意思決定手続の特異性を考える。……満州事変以降の侵略戦争の政策決定も、こうした無責任体制によって行われた。民間人についても情報伝達、戦意高揚等のために隣組といった組織が全国津々浦々まで張りめぐらされていた。侵略戦争を推進した者すべてに責任を問うとすれば、隣組の責任者やその支持者までが責任を負うことになりかねない。
私は敗戦直後の一時期、一億総懺悔という言葉が流行したことを思い出す。あるいは天皇に対し一億の日本人がこぞっておわびするという趣旨であったかもしれない。その趣旨は必ずしもあきらかでないが、敗戦の責任は一億の日本人すべてにあり、特定の指導者に帰すことはできない、といった意識であったことは間違いない。
いまだに私たちは戦争責任の問題の清算を終えていない、と私は考えている。しかし、悲しいことだが、私たちがこの問題を清算する日は永遠に来ないだろう、とも感じている。


永遠に無責任社会(>_<)

私はいまだに「雨ニモマケズ」という作品を通して宮沢賢治という人格を考えることは間違いだと信じているし、まして彼を「雨ニモマケズ」に描かれたような人物として神格化し、偶像視することにつよい反撥を感じいている。
私が「宮沢賢治序説」書いた当時(昭和23頃)、宮沢賢治は「雨ニモマケズ」はしられていたとはいえ、まだ限られた読者しかもっていなかった。それから半世紀以上を経て、彼の文学に対する評価は著しく高くなったが、同時に神格化し、偶像視し、しかも商業的に彼および彼の文学作品を利用する傾向がつよくなった。


共感を覚える。

昭和24年は、敗戦後の数年間の中でも、とりわけ物情騒然たる年であった。政治状況は明らかに転回期にあった。
昭和24年に、私自身をふくめ、世間の耳目を集めたのは、下山事件であり、三鷹事件であり、松川事件であった。
これらの事件の真相はいまだに明らかではない。下山事件は自殺、三鷹事件、松川事件は占領軍謀略というのが現在の通説のようであり、私も通説が正しいであろつと考えている。謀略が成功するにはその素地がなければならない。この年の1月の総選挙で共産党はそれまでの4議席から一躍35席という飛躍的、驚異的な数の議席を獲得した。これは昭和電工事件により芦田均民主党内閣が退陣し、民主党と連立内閣を構成していた社会党がそれまでの111議席から48議席と議席数を減らしたので、社会党支持層の一部が共産党に投票したにとどまり、決して共産党の地盤が今日こになったわけではなかった。しかし、奇怪なことに、共産党指導部は革命が間近いかのような幻想にとらえられた。
三鷹事件の直後の7月18日、国鉄労組の中央闘争委員会35名中、12名の共産党委員が解雇された。組合は分裂し、共産党は国鉄労組からその足場を失った。組合員も一般民衆も日本共産党を見放していたのであった。その後、日本共産党はわが国の労働組合運動においていかなる有意義な成果もあげていないようにみえる。怖るべき「謀略」の成果だが、その原因は日本共産党そのものの戦略戦術・情勢分析の誤りにあり、たんに徳田球一にその責任を転嫁してすむことではない、と私は考えている。


そうそう、この年にMorris.は生まれたのだ。

私たちは人間以下のように見くだされていた。私たちは屈辱感と劣等感を拭いがたくうえつけられていた。
それに検閲があった。手紙はほとんど検閲されていた。雑誌も検閲されていた。占領軍批判は許されない、と信じられていた。占領軍を批判すれば軍法会議にかけられ、強制労働を課せられるといわれていた。占領軍批判により軍法会議にかけられれば、行方不明になって、どこにいるのか分からなかった。誰それの行方が分らないのは、強制労働させられているからだ、と時々聞くことがあった。
いずれにしても「占領」を意識させられることは日々不快であった。社会主義に期待と夢を寄せていたけれども、現実の日本共産党に対しては不信感が強かった。
私は麻雀で遊んだり、野球を観たり、「宮沢賢治序説」を書いたり、司法試験のための勉強をしたり、日々忙しく暮らしていたが、内心では孤立感、敗北感をこらえがたく募らせていた。


オキュパイドジャパンの実態。

検察修習は愉しかった。電話一本で警察を手足のように使うことができた。権力とは愉しく、麻痺しやすいものだと痛感し、自分の正義感と法律が定める社会的規範とが合致していれば検察官は愉しく、やり甲斐のある職業に違いないと思った。

検察の闇の力にも触れたことがあるわけだ。

司法修習生の課程を曲がりなりにも履修するかたわら、昭和25年春ころから、私は『中原中也全集』の編集作業に携わっていた。
創元社版全集はその時点で私が中原中也遺稿を解読した成果だったのだが、本文校訂について決定的に私の手落ちというべきことは、いわゆる「凡例」を作成することに気付かなかったことであろう。「凡例」は本文をいかに決定するかの基準である。基準なしには、その場その場で場当たりに処理することとなる。私がしたことは、そうした基準を立てることなく、場当たりの処理であった。


二足のわらじ、その一足が中原中也の生原稿を解読して全集編集作業。凄い。でも凡例作らないという凡ミスも(^_^;)

朝鮮戦争による「特需」がまさに干天の慈雨として日本経済回復の要因としてあげられるのはいわば常識といってよい。しかし、朝鮮戦争勃発前、ドッジ・ラインによってもたらされたわが国の経済の危機的状況について私が感じていた不安、危惧を書きとめておきたい。
ついで、朝鮮戦争に関連して私が思い出すことの一つは、私は朝鮮戦争は韓国軍が北朝鮮に侵入することによってはじまったと考えていたことである。
最近の研究の成果を読み、私が朝鮮戦争の本質が中国共産党と国民党との間の内戦と同様の性格をもつ、朝鮮半島全域を支配しようとする二つの勢力間の「内戦」であったという性格に当時まったく気付いていなかったことを、今となって恥じている。私には朝鮮戦争は社会主義対帝国主義間の代理戦争のようにみえていた。南北朝鮮の人々は、代理戦争の犠牲者のように思われた。だから、朝鮮戦争が韓国の侵略にはじまったと理解していても、韓国の人もまた犠牲者だと考えていた。


朝鮮戦争への日本人の理解の主流はやはり「代理戦争」ということだろうが。「内戦」ということを抜かすわけにはいかない。
【私の昭和史 戦後編 下】中村稔 ★★★☆☆ 2008/10/20 青土社 初出「ユリイカ」2006-08 2018051
この巻は昭和27年から35年までの8年分。

いまとなれば、全面講和は非現実的な空想論であり、片面講和こそが現実的であり、戦後日本の高度成長の基礎となった、という意見がひろく受け入れられているようである。
講和条約の問題とは、ごく簡単にいえば、講和条約と日米安全保障条約が不可分に結びついていたことにあり、また、日米安全保障条約の片務的かつ欺瞞的な性格にあった。
アメリカ合衆国駐留軍の権利は規定されているけれども、いかなる義務も規定されていない。
基地に関連するあらゆる権利はアメリが駐留軍が独占することを明確にした上で、駐留軍の配備を規律する条件は両国の行政協定で決定するという条項で、国会の審議、批准を要しないことにされている。実質的にアメリカが納得しない限り安保条約は無期限、永久に継続するわけである。
もっと決定的なことは安保条約、行政協定によって、講和条約締結後の独立国日本に対し、軍事面においてアメリカは完全な支配権をもったおという事実である。(昭和27年)


この「講和条約」というのは、昭和26年9月8日の「サンフランシスコ対日講和条約」のことである。日米関係、はっきり言えば、日本の米国隷属の始まりがここにあることは間違いない。そして、その条約の内容を、戦後日本人の大部分は意識的にしろ無意識的にしろ知ろうとしなかったのではないだろうか(もちろんMorris.も)?

この年(昭和28)12月号の『新日本文学』に私は詩「樹」を発表している。

くらがりのなかで樹がたしかに揺れている
こまかな葉と葉がたがいに襲いかかりながら
昼の間 あれだけ嵐にぶたれたあげく
夜もなお騒ぎつづけて休むことを知らない

ああ どうなることでもない こまかな葉が
たがいに掴みかかり また逃げまどい
東を向き西を向きてんでにわめき散らし
そして身をよじらせ じっと警戒しあったり……

くらがりのなかだから ぼくの眼がよく見える
ぼくの耳がよく聞える どうなることでもないから
かぎりないくりかえしとはてしのない浪費が

ぼくを披露させる 樹がたしかに騒いでいる
やがて暁がきて風の止むとき そしてぼくが
眠りに落ちるとき 樹は物言わず成長するだろう


引用したのは、この作品は当時の私の自信作だったからである。読み落とされがちだと思うが、この詩には政治的社会的寓意がある。この作品を書いて後、私は政治的寓意のある詩、社会的関心を示したような詩は、数十年にわたり、書いていない。内灘ルポルタージュにより伊達得夫にとって政治の季節が終ったように、私にとっても政治の季節は終ろうとしていた。(昭和28年)

ソネット形式が中村の基本スタイルのようで、この詩もそれにならっている。日本でのソネットというと、Morris.は、立原道造を反射的に思い出し、それに比すと、中村作品はえらく硬質なものに感じる。それはおくとして、Morris.はどうしても中村の詩作品には馴染めないところがある。それなりに真摯な内容のある作品のようなのだが、肌が合わないというような(^_^;)

このごろコンプライアンスという言葉が流行している。法令遵守の遵守に相当する英語である。ことさらコンプライアンスというのは、合法か違法かすれすれの危い境界で、合法と正当化できるような限度でとどまる行動の規範を求めるからである。企業に限らず、個人でも、私たちの行動の規範は法律以前の社会的倫理感であって、合法か違法かの判断ではあるまい。コンプライアンスと声高にいわれるのは、社会的倫理感が乏しくなっているからであろう、と私は考えている。要するに、社会的倫理を棚上げにして、法令が定めている限度で非難されなければ足りる、と考えているのが現時の社会風潮である。(昭和30年)

本書が上梓されたのが2008年、たしかにその頃から「コンプライアンス」という言葉が頻出し始めたのだろう。そして、その頻度は上昇する一方のようだ、最近の政治や企業や教育界、スポーツ界などの不祥事に関連しての城東区、ぢゃなかった(^_^;) 常套句になっている。つまり、こういった業界(>_<)で、法律すれすれのことが頻繁に行われている証拠と言えるのでははないかな。

いまとなって考えると、私たちは「戦争責任」と口々に語ったのだが、誰に対する「責任」かを棚上げにして、議論していたような感がつよい。戦争責任とは、戦争の犠牲者となった日本人もふくまれるかもしれないが、第一義的には植民地とされた朝鮮の人々をはじめ中国大陸、東南アジアの人々に対する責任であろう。敗戦当時十七歳だった私は、戦争の犠牲者と信じていたが、たとえば少年時から出稼ぎにきていた朝鮮の人々に対してぬきがたい侮蔑燗をもっていた。そういう意味では、私といえども日本人の一人として共犯者、戦争責任の一端を担うものかもしれない。(昭和31年)

17歳の日本人の一人として、実に正直な発言である。当事7歳だったMorris.はまだ全く無知だったが、その後たしかに中村と同じような考えに傾きかけたことがある。

過日の新聞に、「憲法改正、皇室敬慕、反東京裁判史観などを掲げ」る「日本会議の会長は三好達元最高裁長官」であると報じられていた。インターネットのホームページをみると、日本会議は「1.憲法改正、2.教育基本法改正、3.靖国神社参拝の定着」等を目的としている組織であり、三好達会長は平成14年度総会で、会長就任にさいして「私は昨年12月10日、皆様のお薦めにより、会長をお受けさせて頂きました。私は、かねてより、誇りある国づくりを目指す日本会議の活動につき聞き及び、共感を覚えていたのであります」と挨拶している。最高裁の長官が憲法改正を目指す組織に共感を覚えていたという事実は、私にとって衝撃的であったが、そのことをインターネットで公言してはばからぬ事実こそもっと衝撃的かもしれない。(昭和31年)

自民党閣僚の総てがその会員と報じられる「日本会議」のとんでもなさを、この時期に発表していることに敬意を表したい。

ヴァンデンバーグ決議からみて、自助と相互援助、すなわち、少なくとも再軍備にふみださない限り、アメリカとの合意は成り立たない。それこそ岸内閣が安保条約の改定でアメリカと合意したことであった。私はそうした改定に賛成できない。
安保条約の改定に反対だからといって、改定しない安保条約の存続にも反対である。そうとすれば、私は口を噤むより他ないではないか。私は自嘲しながらも、たんに傍観者である以外の存在たりえない、と自己規定していた。同時に、前記の各種の「声明」等で要望、希望を表明している人々は、その中には私が尊敬してきた人々も多くふくまれていたけれども、たんなる夢想家にすぎない、と私の眼に映っていた。(昭和35年)


「保守」と「リベラル」のどちらにも与しないで、どちらにも賛成できず、ジレンマを抱えた知識人。Morris.は知識人ではないが、立場としては似たところにいるようだ。

5月19日から20日未明の強行採決に対してはジャーナリズムの批判は強かった。
ところが、6月1日にははやくも産経新聞社、東京新聞社、東京タイムズ新聞社、日本経済新聞社、毎日新聞社、読売新聞社、朝新聞社が七社共同宣言を発表した。
七社の共同宣言あh、強行採決を問題ともせず、総選挙を提言もせず、新安保条約に一言も言及していなかった。こうして新安保条約は自然承認され、のtに岸首相の退陣により、すべてが終った。
その結果として、日本の米に対する従属的紐帯が強化されたように、私は感じていた。こうして60年安保動乱は、騒がしく、空しく、私の周辺を駆け過ぎていった。(昭和35年)


安保条約の実際の内容、意味を吟味せず、感情的に岸政権への不快感から「アンポハンタイ!」を叫んだ大多数は、岸退陣でガス抜きされてしまった、ということか。
【私の昭和史 完結篇上】中村稔 ★★★ 2012/06/30 青土社 2018050
昭和36年から46年までの10年分。

私が谷川徹三氏に真に反論しなければならなかったのは、氏の「デクノボウ」称揚イデオロギーであった、といまとなっては思われる。他方、宮沢賢治の神格化は年々烈しくなっているし、商業的理容も目に余る状態となっている。宮沢賢治は花巻市、岩手県にとって敢行の目玉である。私は毎年、宮沢賢治学会イーハトーブセンターの収支予算書を見ていて感慨を覚える。

「宮沢賢治の神格化」(^_^;) Morris.もこれにはいささか食傷気味である。

昭和59年、ピーター・ユベロスがロサンゼルス・オリンピック組織委員会の委員長として、放送権をはじめ、オリンピック関連のあらゆる商品・サービス等を利権として売り、オリンピックを営利事業として空前の成功を収めるまで、オリンピック大会の運営資金は、国や都市の補助の他、こうした協賛金をほそぼそと集めることで調達していた。近代オリンピックの基本理念であったアマチュアリズムと反商業主義とは不可分の関係にあると思われる。現在のオリンピック活動がアマチュアリズムを放棄したことと、営利事業化している事実とは、やはり密接に関連しているはずである。
アマチュアリズムを放棄し、営利主義にはしる現在のIOCは私には一大興行企業のようにみえる。しかも、その招致運動には各国大統領、首相までがのりだすような国際的な性格をも国家的事業である。こうしたIOCの在り方に私は不信感がつよいのだが、それはともかく、オリンピック大会の巨大化により、商業化、営利主義化は必然的であったとう感もふかい。


全く同感である(泊手) 東京オリンピック招致で日本の首相が地球の裏側で大嘘ついたのは記憶に新しい。オリンピック至上主義(特に金メダル至上主義)--ここにも一つの神格化が見られる。オリンピック一度やめてみたら。

私は『中央公論』昭和43年8月号に掲載された元駐英大使西春彦の「70年安保改定への提言」に教えられることはが多かった。西は安保条約の改定を提言し、廃案を提言しているわけではなかった。日米関係の友好的関係の持続が不可避であるとの立場に立って、第六条にいう「極東」条項と交換公文にいう「事前協議」の改定を提言していた。いま「極東」のみならず、中近東までは対象となっていることを考えると、極東条項が削除されていたなら、そして、わが国との事前協議でなく、わが国の米軍の出動に関し同意を必要とするよう改定されていたなら、わが国の自立性は保たれ、現状のような従属的地位に甘んじることはなかったろう。私には西春彦の提言はまことに現実的であり、かつ、合理性をもっているようにみえた。
ちなみに共同声明六項には
「総理大臣は、日米友好関係の基礎に立って沖縄の施政権を日本に返還し、沖縄を正常な姿に復するようにとの日本本土および沖縄の日本国民の強い願望にこたえるべき時期が到来したとの見解を説いた。大統領は、総理大臣の見解に対する理解を示した」。
とはじまっている。この共同声明は巧妙というべきだろう。日米安保条約の継続と沖縄の施政権返還を一体的に宣言することによって、沖縄返還は賛成だが、安保条約は廃棄する、とは日本人として言いにくいものとなっている。これが70年安保に対する反対が盛り上がらなかった最大の理由であろう。
また、60年安保反対運動を先導し、指導し、扇動したのは大学教授を中心とするいわゆる知識人であった。しかし、大学紛争をつうじ、大学教授たち知識人は世論形成ののオピニオン・リーダーとしての地位を失い、敬意を払われなくなっていたのではないか。

この「事前協議」に関するPDF資料がネットにあった。そして安保条約の問題の根本がここにあることは間違いないだろう。さらにアンポハンタイを叫んだ知識人が、大学紛争によってそのオーソリティを失墜したというのも今となっては当たり前のように思われる。

毛沢東も、江青をはじめとする一派も、林彪らも、文化大革命にさいして、みな非人間的であり、無慈悲、残酷であった。それも彼らが権力を失うことに対する恐怖心に由来する。それだけ権力をもつことには魅力があり、権力は人間を権力にしがみつかせ、人間を堕落させる。戦後の一時期、私が夢みた理想社会の実相を文化大革命は教えてくれた。同時に、毛沢東ほどの人物でも権力に固執し、無残な人格を示したことに、また、林彪、江青らの行動に、むしろ人間の弱さを見、しかも、人間がどれほど怖しい存在となりうるかを知ったのであった。

権力という麻薬。スケールが違いすぎるが、安倍晋三もこの麻薬にシビれているようだ。
【私の昭和史 完結篇下】中村稔 ★★★☆☆ 2012/06/30 青土社 2018049
昭和36年から63年まで。

中原中也の作品の本質はいかに生きるかの志を述べる「述志」にあり、その出発点を「寒い日の自我像」に、その到達点を「春日狂想」に見る、ということが私の論旨であった。
いまからふりかえってみると、まことに一面的であり、中原中也の全体像の片鱗をあげつらっているにすぎない、と思われる。ただ一つ評価できるとすれば、それまで戯れ歌とししかみられなかった「春日狂想」に照明を当てたことかもしれない。(昭和47年)


「春日狂想」は、Morris.は小学校(中学?)の時初めて読んで以来好きだった。

私が感慨を覚えたのは、トイレットペーパーについてパニックがおこるほど洋式便器が普及したのだという事実であった。戦前と違って、塵紙や裁断した新聞紙はもう使われないようになったのだ。という事実は、私にとって目新しい発見であった。
人間のすることだから必ず間違いがおこりうる。間違いがあってもできるだけ早く間違いを修正すれば、間違いが深刻化することはない。しかし、間違いをおかした所員は間違いを、できれば匿したい、と考える。匿されてしまうと、間違いは救いようのない、深刻な事態に発展する。人間は間違う動物だ、だから間違ったからといって恥ずかしがらずに、すぐ報告してもらいたい、それを修正するのが上司の役目なのだ、(昭和48年)


オイルショック時の感想だが、後から考えると、馬鹿馬鹿しいようなことも、その時点では見えない。間違いを起こしたら、なんとかなかったことにしたい、というのも人間の弱さだろう。中村の言うことは正論であるが、それが実行出来ないのが人間の業かもしれない。

私はパリ協定でうたわれたように南ベトナムには解放民族戦線が中心となった新政権が、選挙を経て、樹立されると信じていた。北ベトナムは南ベトナムからアメリカの勢力を排除するために解放戦線を援助しているのだと考えていた。しかし、考えてみれば、解放戦線を援助して戦争に加わることは、自らの勢力の拡大をはかる目的でなければ意味がない。単に人道的支援などということでは、戦争に加わる意味をなさない。北ベトナム労働党は南ベトナム人民の反米的民族感情を利用し、南ベトナムを併合した。そういう意図を推察できず、徒らに解放戦線に同情的だった自分を、いまとなって私は恥じ入っている。またベ平連に加わっていた知識人たちは、こういう結果を予期していたのだろうか、と疑っている。
私は私が向き合ってきた現実の世界、現実の社会の真相を見ぬくことなく、無智のまま、これまでの障害を過してきたように感じている。ベトナム戦争もその一例にすぎない。そう思うと、ベトナム戦争の戦況に一喜一憂したこともまことに空しかったという感をふかくする。(昭和49年)


ここでも中村の正直さの発露が見られる。ベ平連への疑念も今となってはそうだったかもしれないと思われるのだが、あの時代には、真摯に活動したことは疑いを得ない。やはり中村の虚無的傾向が見られる。そこらあたりがMorris.の共感を誘うのかもしれない。

キャンプ・デービッド合意の実質は、エジプトのイスラエルとの単独講和、エジプトによるパレスチナ人の切り捨てにあった。そのことはまた、エジプトがアラブの盟主という声望を断念し、依然として大国ではあっても、アラブ諸国の中の孤児になることを意味した。私はキャンプ・デービッド合意の真相がそうしたものであると知ったとき、エジプトであれ、どの国であれ、結局は自国の利益本位に行動するのであり、パレスチナ人のために自国の利益を危うくするような選択はありえないのだ、と思い知った。英国の二枚舌あるいは三枚舌によって土地を奪われ、ユダヤ人ロビーによって支援を惜しまないアメリカによって既成事実の中に押しこまれてきたパレスチナ人をあわれに思い、イスラエル、英国、アメリカに対する憎悪を強くしたが、私にできることはもとより何もなかった。いかに弱小民族といえども、ここまでパレスチナ人を追いつめてよいものか、平和はキャンプ・デービッド合意によってますます遠のいた、という感をつよくしていた。(昭和53年)

中東情勢には冥いMorris.ではあるが、何を措いても、イギリスの二枚舌三枚舌外交が諸悪の根源だという思いは拭いきれない。キャンプデービッド会議が開かれた1978年、Morris.は神戸にやってきた。

権力は必ず腐敗し、堕落する。一党独裁の権力が腐敗し、堕落したとき、指導層には市民、民衆の顔は見えてこないし、声も聞こえてこなくなる。民衆は権力の否認に向かわざるをえなくなるのではないか。(昭和55年)

「民衆」と中村の間にはかなりの距離があるような気がする。

私はかなりの相撲好きである。小学生時代は双葉山の全盛時代であり、69連勝後に安芸ノ海に敗れて70連勝がならなかったときのラジオ放送の興奮を憶えているし、戦後になっても、吉葉山は私の五中時代の旧友吉葉君の父君の医院で治療をうけて相撲界に復帰したので、吉葉山というしこ名を選んだと聞いていた。栃錦、初代若乃花時代は、栃錦の熱狂的ファンであった。大鵬、柏戸時代はどちらかといえば柏戸好きであった。大鵬は偉大な力士にはちがいなかったが、体格にすぐれ、柔軟な素質に恵まれているのに反し、柏戸の一本気な取り口に惹かれていた。若島津も好きだったし、初代貴ノ花も好きだった。しかし、若島津も初代貴ノ花もいかにも軽量だから、いつもハラハラしながら見ていた。私は軽量、技能の力士が好きなので、千代の富士が前頭の上位に進んだころから、注目していた。
それにしても、私は千代の富士を戦後の最高の力士と考えているし、彼の相撲を数十場所観られたことを幸せだったと思っている。
野球はドームでなく、野外で、人工芝ではなくて、天然芝の球場で試合をしてほしい。ついでにいえば、相撲の年六場所は多すぎる。せめて四場所にしてもらいたい。そうでなければ力士に過酷にすぎると私は考えている。(昭和56年)


柏戸贔屓というのはMorris.も同じだった(^_^;)

毎日ジョギングをしていると、ジョギングをしないと気分が落着かないそうである。いわばジョギング依存症である。そんなジョギングが健康に良いはずはない。私は運動は健康に有害だと信じている。(昭和57年)

「運動は健康に有害」ぎゃははははは\(^o^)/、Morris.が言いたくても言えなかったことを公然と表明してくれた。

戦争は多くの庶民にとってふって湧いた災難であり、反省すべき体験ではなかった。その災難の結果がもたらした敗戦の悲哀を痛切に感じている庶民感情をじつに正確に掬い上げ、短歌定型によって定着したのが、斎藤茂吉であった。そういう意味で「白き山」は普遍性をもっていた。そのために私たちにふかい感動を与えた。
「典型」は同じ意味で普遍性をもっていなかった。じつにいたましいことだが、私たちの戦争責任の心情は普遍的な国民感情ではなかった。こうして「典型」という、巨人高村光太郎にふさわしいとはいえない詩集が残された。
いま私はそう考えている。しかも、高村光太郎の生き方にふかい同情と共感を感じている。(昭和59年)


戦後の光太郎のいきざまや作品の痛ましさ。その光太郎に「同情と共感」を感じるという中村の優しさと毅さ。

社会の構成員に危害が加えられたばあい、あるいは迷惑をかけたばあい、私たちに責任を生じる。極端なばあい、法律的に、刑事法上、あるいは民事法上の責任を生じ、刑事法上の処罰が課せられたり、民事法上の支払が命じられる。しかし、こうした法律上の責任を生じないまでも、反倫理的な行為はありうるし、社会的信頼に反する行為もありうる。責任とは英語でいえばresponsibility、ドイツ語でいえばVerantwortungであり、語源的には応答可能性だといわれる。何に応答するかといえば、第一には社会的非難に応答することであろう。たとえば、経営不振に陥った企業の経営者には、法律的責任はなくても、株主・取引先等の被害者の非難に応答するため、辞任を余儀なくされる。第二に、社会に迷惑をかけ、危害を加えたことについて、法律的責任はなくても、社会規範と信じるものに背いたのではないか、という自己の良心が命じる倫理的応答であろう。第一の類型は世論等圧力のかたちであらわれる非難に対する応答として、辞職・謝罪等の行為をすることになる。第二の類型についてどのように応答するかは本人の選択に委ねられる。非難、圧力の有無は問わない。本人の倫理感、良心の問題だからである。

ほとんど理解出来なかったのだが、非常に大事なことを言ってるような気がしたのでメモしておいた(^_^;) 「責任」が「応答可能性」?? 無責任社会日本は「応答できない」国なのか。

昭和60年9月、いわゆるプラザ合意が成立した。アメリカは純債務国に転落していた。レーガン大統領の減税、インフレ抑制、軍備拡大を中心とする政策により、連邦財政赤字、経常収支赤字の「双子の赤字」が拡大していた。柴田徳太郎「資本主義の暴走をいかに抑えるか」によれば、この双子の赤字は、「一方では、国際的に有効需要を創り出し日本やドイツなど諸外国の景気回復やアジアNIES諸国の経済発展を助ける役割を果たしたが、他方では、経常収支赤字拡大に対応して大量の外国資本が流入したため、アメリカは世界最大の債権国から世界最大の債務国に一挙に転落することになった。」
この間アメリカから日本に対し内需拡大圧力がくりかえされたことは同書にも記載されているし、私の記憶にも鮮明である。こうしてバブル期に突入していく状況が成熟していったわけだが、私は前掲書が説明しているような背景までは思いおよんでいなかった。円高ドル安に導くための円売ドル介入は、たんに対米輸出の不信による日本経済の景気低迷への危惧からだと考えていたし、これほどに巨額の金余りが金融市場に生じているとは夢想もしていなかった。それに、土地投機は日本人の地価は上昇するものという、それ自体、理由がないわけではない、固定観念によるものと信じていた。まして、こういう金融情勢がレーガノミクス破綻の救済策であるとは思いおよばなかった。今になって考えてみると、こうした一連の国際的施策は、アメリカ一国の問題を世界的に拡散し、アメリカ一国の金融破綻の時期を全世界的規模で遅延させていたにとどまるのではないか、という感がふかい。(昭和60年)


これまた経済音痴のMorris.には理解の及ばないところだが、バブルの生起とメカニズムを知る鍵になることが書かれているような気がした(^_^;)のだ。

くりかえし書いてきたように、私は国労・勤労を憎悪し、勤労の裏切りをつよく憤っている。ただ、国労のばあい、革命幻想に憑かれ、現状を客観的にみられなかった指導部の愚昧さに、私を憎悪させた戦略戦術の原因があると考えているが、分割民営化を推進した人々ははるかに狡猾、非情、非人間的であり、私は彼らに烈しい嫌悪感を抱いている。(昭和62年)

Morris.は今でも国鉄民営化に憤りをおぼえる。たしかに国労、勤労に非があったことは認めるが、それ以上に「分割民営化を推進した人々」それを裏で操った自民党中曽根政権への嫌悪はMorris.にもある。

イスラエルの無法、非道な行為に対する絶望的な抵抗がインティファーダ(大衆蜂起)であった。国際法違反が明らかであっても、イスラエルの同盟国であり最大の支援者であるアメリカが国際法違反と理解しながら、いかなる制裁措置を採るわけでもなく、イスラエルを援助し続けている。パレスチナ民衆のインディファーダはイスラエルの圧倒的な軍事力の前に無力であり、いかなる効果をあげることもありえないだろう、と私は考えていた。イスラエル・パレスチナ紛争の歴史をふりかえって、イスラエル国民の中にもlパレスチナとの和平を望む人々がいることを知っているし、ユダヤ人であっても和平の推進に尽力しているダニエル・バレンボイムのような人々が多数存在していることも承知している。だから、ユダヤ人一般とイスラエルという国家を区別して考えねばならない。そう区別した上で、国家としてのイスラエルにはナチスによるホロコーストを非難する資格はないと、私は信じている。(昭和63年)

これもかなり勇気ある発言。

私は戦争責任をいうばあい、日本人に対する責任と中国その他諸外国に対する侵略戦争の責任とを区別しなければならない、と考える。かりに昭和天皇が戦禍に苦しむ国民の姿を見るにしのびないと考えたとしても、これは昭和20年時点の心情である。満州事変以降の中国大陸における戦争が、天皇のいに沿わぬものであったとしても、中国侵略に積極的に反対した事実を認めることはできない。当時の仏領インドシナ、現在のベトナムへの進駐にさいしても、日米関係の断絶を危惧した事実はあっても、また対米宣戦布告に躊躇した事実はあっても、あくまで敗戦という事態を心配したにとどまり、侵略そのものを正義に反すると考えたからではなかった。だから、対連合国の戦争も止むをえないとして裁可したのであり、戦線の大詔に「豈朕が志ならんや」といって責任を免れうるものではなかった。
現行憲法の象徴天皇制になる以前、戦前においてすでに天皇は軍部、官僚、重臣等の実権者を制御する権力を失っていた。天皇の権威はともかく、権力は形骸化していた。戦争が敗戦必至になって彼らが実権を手放したことによって「聖断」によるポツダム宣言受諾が可能になったのだと思われる。(昭和63年)


つまり、天皇に戦争責任はあった、ということだろう。

と、言うわけで5日にわたって、中村の「私の昭和史」全5巻の読書控えをアップしたことになる。各巻600pちかくあるので、ざっと3000p。これを5日で読めるわけはなく、読んで、メモするのにも相当の日時を要した。全巻読了してから1ヶ月以上経っている。
告白すると、本書はMorris.にとってはかなりの難物だった。歯が立たないところも多かった。いまいち理解できないと思いながらメモ取ってる自分に情けなくもなった。それでも、この詩人と弁護士を兼業?してきた知性と感性には畏敬の念を覚えずにはいられなかった。正直に言えば、初巻の戦前戦中篇が一番興味深かった。戦後篇はMorris.も同時代を生きた部分が多いだけに、かえって違和感覚えたりもしたようだし、正真正銘エリートの中村と、正真正銘おちこぼれのMorris.との格差のためのひがみが生じたかもしれない。えらそうにコメント付けたりしてるけど、「言いがかり」や「見当はずれ」なものが多いかと思う。それでも、引用した中村の文言に関心もった人が、本文にあたる機会になればいいと思う。
【文学はなぜ必要か】古橋信孝 ★★★☆☆ 2015/11/30 笠間書院 2018048
副題「日本文学&ミステリー案内」
古橋信孝 1943東京生。東大大学院文学博士。武蔵大学名誉教授。z
アカデミズムに偏らず、日本文学をミステリーに対比するという斬新な視点で論じる、実に興味深い論説だった。
取りあえず目次を引用しておく。

1 言葉の表現とはどういうものか
2 文学はどのように始まったか
3 八世紀になぜ書く文学が登場したか
4 古今和歌集はなぜ編まれたか
5 竹取物語はなぜ書かれたか
6 源氏物語はなぜ書かれたか
7 今昔物語集はなぜ書かれたか
8 平家物語はなぜ書かれたか
9 徒然草はなぜかかれたか
10 元禄期の文学
11 近代はどう表現されてきたか
12 現代とはどういう社会か
終章 文学はなぜ必要か


いかにもミステリーっぽい(^_^;)ラインナップである。

古代はきわめて観念的な時代であった。古代人は即物的だと思われがちだが、そうではない。神話は外界との関係を観念のレベルで語るものだった。なぜ神話が必要だったかといえば、あまりにも強大で神秘的な自然に囲まれて生きていくためには、観念をその自然と釣り合うだけ壮大にするしかなかったのである。それも個人ではなく、共同体としてでなければ対応できなかった(1-3社会(観念)の原型))

神話が圧倒的な自然に対応するために生まれたなんてのもなかなかの独創である。

文学だって、誰をも感動させる作品なんてない。もちろんあらゆる芸術もそうだ。しかしだからこそそれぞれが気に入った文学や芸術を選ぶことができる。そして自分だけの世界に浸ることができる。それは自分をその世界に開放することでもある。(1-4 言語表現の美とはどのようなものか)

イケイケである(^_^)

文学の発生は二つある。個人において文学が生まれる時と歴史に文学が生まれる時である。「発生論」という見方(方法)はこの二つを合わせもっているのが特徴である。
文学の発生は神謡から歌や語りが分化することである。日本には文字がなく、中国の漢字漢文に触れることで、文章を書くようになった。その文章はもちろん漢文である。(2-1 文学の発生)


ノリノリである(^_^;)

「古事記」は文学作品ではない。むしろ歴史書である。しかしこの口頭で伝えられてきた伝承と書くことの衝突が書くことを成長させた。この葛藤は古代文学だけでなく、以降の日本文学の抱え続けた問題だった。文字が基本的に表意文字である漢字だったことがこの問題をさらに大きくした。日本語の文学が世界的なレベルで高いのも、この葛藤の体験を持ち続けたこととかかわっている。(3-1 古事記はなぜ書かれたか)

いやあ、どこまでも強引にマイ・ウェイである。

「万葉集」は古代王権を文化の面で象徴する役割を担ったのである。日本語の詩を書くという意味でも、大和朝廷にとって国威の宣揚になったはずである。
ということは、「万葉集」が天皇から庶民までの素朴な生活感情を表現した歌を集めたものというような単純なものではないことを意味している。(2-3 万葉集はなぜ書かれたか)


これは妥当な意見。

自然の現象が人についての暗喩になることができるのは、日本語の詩の特徴として「景(自然の現象など)+心(人の心の状態など)」という構造があるからである。上の句と下の句が対応、双分の構造になっている。これは人間が自然の一部であると同時に、自然から阻害された存在であるという基本的な認識のもたらしたものと考えられる。農耕は自然そのものに手を加えることだから反自然的な行為であることを考えてみればいい。自然を意味化することで、対等の関係であるかのように「装った」といういい方ができる。*この「装う」という概念は文学が虚構であることを導いた。
つまり和歌は捉え返した自然だからこそ心と対応させることが出来たのである。この観念的な自然と心を対応させる方法が和歌を成り立たせた。けっして自然が自然としてうったえかけてくるからではない。(4-3 和歌とはどのような詩か)


すごい、すごい(^_^)/

古今集の時代は「ひらがな体」の文学の隆盛を準備したのである。(4-2 古今集の時代)

「古今集」が編まれたのは、中国の詩にならい、「万葉集」を受け継ぐことで、日本の詩を確立しようとしたのである。このような意図が古今集を後まで最高の歌集とすることになった。
古今集を読むということは一首一首の歌を読むことだけでなく、歌集全体として読まなければならないわけだ。(4-3 古今集はなぜ編まれたか)


うーーーむ(^_^;)

日本の文学は郊外から始まるといってもいいほどだ。郊外は都市と田舎の境界であり、異郷とこの世の境界である。多くの物語は人と異郷の者が接触するというようなことから始まる。(5-2 竹取物語はどのように成立したか)

これもなかなかにうがった視点。

この物語の書き手はさまざまな人間を書きたかったと思われる。それは人間への興味である。平安貴族社会は個人への関心が前面に出た時代だった。
時代や社会によって何に価値を置くかが変わってくる。そして表現も何を対象にするかが変わってくるということを繰り返し強調して置きたい。(5-3 竹取物語はなぜ書かれたか)


人間への好奇心。

私的な関係を重んじる社会は必然的に私的な生活や個人に関心が向かうことになる。そういう関心が物語文学にとって価値をもつのは、私的な心の動きを敏感に察し、その体験によって具体的にリアルに場面を描写しうるからである。物語文学は場面の集積によってこそ成り立っている。(6-1 源氏物語の時代)

源氏物語の私小説性(@_@)

「源氏物語」はなぜ必要だったかもわかってくる。「蜻蛉日記」の物語文学否定論に対して、物語文学肯定論を書かなければならなかった。
紫式部は自分の意志で書いているというより、物語文学によって書かされているということができるだろう。いうならば、文学に憑かれているのだ。(6-4 源氏物語はなぜ必要だったか)

すごい、すごい(^_^)

この叙述力(宣命体、漢文訓読体)を持ち込むことで、物語は早い展開が可能になり、話自体のおもしろさにむかうことが可能になった。つまり「今昔物語」は、「ひらがな体」の物語文学を受け継ぎ、新しい物語文学の方向を示したのである。(7-3 今昔物語はなぜ物語なのか)

「今昔物語」がなぜ書かれたかというと、古代的な観念がリアリティを失っていくのに対し、身近な現実に価値を置くことで価値を与えたという言い方ができる。(7-4 今昔物語はどのような世界を書いているか)

うーーん、ここはちょっとわかりにくい、「今昔物語」はほとんど読んでない。やはり一度読むべきか。

中世は災害、戦争などで人々がいつ死ぬかわからない、死者の時代だった。したがって、この時代の最大の関心事は鎮魂となる。「平家物語」はその代表といっていい作品である(8-1 中世という時代)

無常観と潔さ、殺すことなどは必ずしも矛盾しない。この世のあるがままを受け入れ、そこに無常を感じることが仏教なのだと思う。「平家物語」は無常を深く知るための物語なのである。仏教に覆われていることがそのまま諦念によって湿っぽくなることを意味しない。むしろ、諦念ゆえに潔く死ぬことを受け入れる態度がある。この態度が逆に武士たちを活き活きと活動させて要る用意思える。それが物語というものなのだ。(8-2 j平家物語の語ろうとしたもの)

「平家物語」=レクイエム説(^_^;)

「徒然草」に最初に疑問を投げかけたのは本居宣長の「玉勝間」だと思う。
宣長は古代に戻ろうとしたのである。日本人の元の心を「古事記」から探ろうとした。日本人とは何かが問われた最初と考えていい。
このような思想が後に明治維新をもたらしていくことになる。そしてこういう思想はナショナリズムといわれるが、べつに日本だけのことではない。たとえば、革命後のフランスは、国としての同一性を何に見出していいのかが問われ、人種としてはどうか、フランス語はどうか、文化は、というように研究されていったという。そういう過程で人類学、フランス語がどのように成立するかという言語学、そして文化人類学が確立していったというのである。
江戸期の日本の場合、それを儒教や仏教の入る以前の古代に求めたのである。(9-3 後の「徒然草」の評価)


「温故知新」と言う奴か?

幕藩体制は江戸に幕府があり、各藩を統括していたが、各藩は基本的に独自の政治、経済を行い、自立していた。しかし、各藩の大名は参勤交代という制度で三年ごとに江戸詰めを強いられた。そのため各藩の中心である城下町から江戸への交通路は整備され、街道の宿場町が発達した。
参勤交代は各大名の力を弱める政策となり、ずいぶん無駄なことをさせられたと思ったが、莫大な宿泊費、運搬費が宿場町、運送事業者に落ちるわけで、流通経済を発達させたのである。
西鶴がなぜ「好色一代男」を書き、「日本永代蔵」「世間胸算用」を書いたか。王朝の禁裏に囲まれることで書き得た人生などのテーマを、王朝以来の文学の中心にあった情趣を排除することで、物語文学を再生しようとしたのである。それは町人たちの求めるものであり、又町人である西鶴自身がこの世をリアルに感じることであった。(10-3 井原西鶴の浮世草子はなぜ書かれたか)


参勤交代のメリット、デメリットをあらためて教えられた。西鶴のよって立つ位置。

連歌は前の句を受けて、像を作り、その受けた句だけを受けて、また新たな像を作り、と言うようにして、次から次へ展開していくことを目指している。これは世界は動いているものだという認識を表現しようとしたとみていい。参加したそれぞれが全体を目指しているわけではなく、前の前の句に重ならないように気をつけながら直前の句につけていくことをするというように、その句ごとの競い合いに関わるだけなのだが、その結果全体があらわれるという構造である。これはこの世の構造そのものではないか。

これまた画期的連歌論。

紀行文(「奥の細道」)を書いたのは、和歌と俳句を差異化するためだったことがわかる。俳句を詩として自立させようとするには、五七調につきまとう和歌的な情緒を排除する必要があったのである。旅は「景」を詠むにふさわしい状況である。そして五七五は和歌の「景+心」の「景」にあたる部分である。つまり「景」の自立が旅で試されていったのだ。
俳句を作る人は数百万人といわれるものになった。和歌は数万、現代詩は数千という。日本は世界でもっとも多くの詩人を生んでいる。もちろんこの数は日本語を豊かにしている。(10-5 松尾芭蕉はなぜ「奥の細道」を書いたか)


俳句は景、和歌は情。これまたすごい指摘である。

最近気になるのは、たとえばスポーツを見て元気をもらえて、ありがとうなどという場合が多いことだ。元気をもらうためにお金を払うのである。なのにお礼までいう。何か商品を買えば、売った側がお礼をいうものだ。われわれよりずっと高給取りの選手の給料を支えているのはわれわれなのに、われわれがお礼をいうのはおかしいではないか。消費者の側がお礼をいうようになったのはつい最近のことと思う。ありがとうは消費経済社会を象徴する。

目から鱗ぢゃ(^_^;)

近代日本は町人文化の蓄積を受け継ぎつつ、支配階級であった武士たちの倫理が市民層に入り込んでいった。家の観念は武家の制度を受け継いでいるとみなしていいと思う。

これはごもっとも。

構造主義以降、自己という捉え方は揺らいできている。自己に固有性というようなものはほんとうにあるのだろうか。遺伝子まで考えていいが、そこまでいわなくても、成長していいく過程でさまざまな知や考え方、感じ方まで刷り込まれていく。そういうようにして作られていった自己以外あるのだろうか、というわけだ。固有かどうかは置いていおくにしろ、他と違う自分をいしきすることはしばしばある。*構造主義は基本的な構造の見方を明らかにしたことで、マルクス主義などの歴史館を否定した。私はその考え方を身につけたうえで歴史を考えているつもりである。

おいおい、ちょっとこれはフライングかも。

そういう小説を私は通俗小説と呼んでいる。いわば文学外の意図、理由によって、小説が必然的に向ってしまうであろう世界を歪めるものをいう。ここ二、三十年のアメリカの推理小説にはそのようなものが多い。おかげで私はアメリカの推理小説はほとんど読まなくなった。
推理小説には通俗小説ではない作品がたくさんある。


推理小説(SFも含む)が、通俗小説とは一味違う面白さと文学的意義を持つというのはMorris.高校生時代からそう思ってた。

近代が競争することで個人の能力を引き出す社会であることは、敗れた者たちの恨み、妬み、憎しみ、などを抱え込んでいることを意味している。犯罪がいつでも起こりうる社会なのだ。いや犯罪は殆どの社会に起こりうる。近代社会は犯罪に人々が関心を持ち、そして表現の対象になった。誰でもが犯罪を犯す可能性があるから、犯罪者が人々の負の部分を象徴することになるのである。むしろ犯罪者に共感し、それが読み手の心を浄化する働きをする。それゆえ推理小説は必要なのである。

犯罪者への共感、ウーーーーーム。

講義で、アメリカの南北戦争は奴隷解放という人権問題より、工業を中心とする北部と農業を中心とする南部の対立で、北部の労働効率と生産した商品の購買層を作る(*無理に働かされる奴隷労働は効率が悪い。奴隷を開放することで、効率をあげ、さらに賃金を与えることで購買者にしていくのである)ための戦争だったと話したことが学生の反響を呼んだことがあった。人権の主張は立て前だけではないが、それだけで動くわけではなく、実質的な利益の問題と裏表になっている。そしてこの「人権」という正義はいまだに使われている。われわれは正義が掲げられたとき、社会全体のなかに置いて考えてみるべきなのだ。(11 近代はどう表現されてきたか)

奴隷解放=効率&購買層の現出。こんなうがった見方があったのか(@_@)

現代社会は、第一次産業より、交通、流通や販売などのサービス業の就業者が上回る、所謂消費社会である。私のつとめていた大学でいえば、教授会で学部長が学生はお客さまであると発言したのに驚きを感じたのが1990年代の最初の頃だった。(12-1 管理される知)

サービス(sevice)の語源がサーブ(serve 仕える 召使いとなる)ということを思い出す。

「ハーモニー」には戦いはほとんどなく、むしろ平和という状態の怖さを語っている。特に東日本大震災以降、思い遣り、やさしさ、そして心を一つなどが叫ばれ、日本全国やさしさに溢れているかのような状態の先を語っている。やさしさは一方で自己を曖昧にし、関係も曖昧にする。
この「ハーモニー」の書く、人間が到達するユートピアは健康を基本にして、意識や意志のない世界である。健康にとって心の問題が大きいから、現代の過渡の健康志向はまさにこういう世界を幻想させる。
伊藤は健康志向を中心に据えることで、心の問題も抱えられ、現代を批評することに成功した。東日本大震災のような災害があると、すぐ心理のケアがいわれ、医者が派遣される。心も身体と同じに健康である状態がなんとなくイメージされるようになったわけだ。その果てがストレスをもたらす悩むことの最大の要因である意識や意志の消滅である。(12-2 伊藤計劃の語る近未来)

伊藤計劃の作品「ハーモニー」はMorris.も読んで強い印象を受けた。健康志向の不健康さ。

ある理念の元に共同体をなしたときに、その社会は必ず虐殺をなすと言い換えてみると状況はわかりやすい。フランス革命、ロシア革命、そしてナチ政権が思い浮かぶ。伊藤の育った時代は、社会主義国の崩壊、そして新しい秩序への過程における、ボスニア・ヘルツェゴビナ、チェチェンなどの虐殺、テロ、そして9・11以降続くイスラムのテロと、国家間のものというより、地域の特殊性と、宗教を背景にもつ紛争の時代である。しかも何が正義かも曖昧のまま死者だけが増えていく。
しばしばゲーム世代への批判がいわれるが、この伊藤の近未来小説は現代の抱えている問題を抉ってみせている。その意味で現代に対する批評になりえている。ゲーム自体物語なのだから、大いにありうることだった。(12-3 ゲーム世代の原風景)


伊藤作品の批評性の高さを認めることに吝かではないが、ゲームというのはMorris.の苦手分野である。「ゲーム自体物語」---ちょっと違うような気がする。

誉田哲也「国境事変」(2007)は、国境における有事に対する予防とでもいうことを語るものだが、ちょうどいわゆる国際関係でそういうことが強く言われだした頃で、国家の考えることを推理小説が宣伝するとはと思った。北朝鮮のミサイル発射に対する過剰の反応、現在の尖閣諸島問題など、周辺が騒がしくなっていったことを考えると、ある意味で社会の関心を掘り起こしているといえるが、潜在的ではなく、政治的課題である。したがってこでは政治の宣伝になってしまう。つまり一つの立場それも政治的立場から世の中をみていることとなり、誰でも何処でも何時でもという普遍性から社会や人間をみることをしていない。*私は政治は嫌いだ。法治とは利害関係による動き方をいっている。

国境事変」も強烈な印象を受けた。誉田作品をその後幾つか読んだが、この作品に迫るものはなかった。

戦後から現代が繋がっていると認識することは、過去を振り返ることだが、現代はむしろ振り返ることはいけないように感じられている社会だと思う。いわゆる「前向き」という態度が過剰に言われる。
問題は「前向き」である。人は振り返ることで思索し、さまざまなものを生み出してきた。また振り返って未来への対応を考えてきた。振り返るのは災害ばかりではない。自分自身のことも振り返ることによって、自分自身を知ることができる。(終章 文学はなぜ必要か)


そうそう歴史は「今」を起点としてさかのぼって把握すべきである。そういう意味で、戦後史をほとんど教えない日本の歴史教育は根本的に間違っている。

古代前期の奈良朝以前の文学研究にも、構造主義は持ち込まれた。私自身についていえば、村落に歌い継がれてきた歌謡を伝えてきた共同体のなかで生きた姿で感じたいという欲求から、沖縄の先島に通い、村々の祭祀を見てまわったが、当時沖縄のいわゆる復帰にともなう調査の報告、研究などの刊行物を入手しては読んでいくなかで、文化人類学を通じて構造主義的な考え方も身につけることになった。(私の戦後史断簡)

「構造主義」って面白そう(^_^;)
【老乱】 久坂部羊 ★★★☆☆ 2016/11/30 朝日新聞出版 初出「小説トリッパー」2015-16 2018047
認知症関連の実際の新聞記事や認知症を患った男性の手記などを提示しながら、大阪在住の家族と、認知症になりはじめの男性(夫の父親)との関係をリアルに描いている。
久坂部羊は現役医師、それも認知症などの専門家だけに、治療や症状の紹介に説得力があり(ありすぎて)「予備軍候補(>_<)」のMorris.は身につまされるとともに、恐ろしくもなってしまった。

「どうしてなんだろう。認知症は新しい病気でもないのにな」
「寿命が延びたからやろ。長生きする人が増えたから、認知症も増えたんや」
相手は即答した。さらに続ける。「有吉佐和子の『恍惚の人』には、認知症を避ける唯一の方法が書いてある。答えはずばり、長生きせえへんことや」
「なるほど。長生きというのは、頭と身体が老化してるのに、死なないってことだもんな」
「元気で長生きというのは、現実味の薄いお題目や。安くてうまいとか、楽にやせるみたいな。ははは」

主人公の夫と友人との会話。たしかに「恍惚の人」は認知症問題を取り上げた作品の嚆矢である。そしてその「結論」には恐れ入谷の鬼子母神(>_<)ぢゃ。

「家族としては少しでもよい施設をと思うのは当然でしょう」
「もちろんです。しかし、今はあまりに嘘の情報が多いので、あとで失望しないように申し上げているのです」
「と言うと?」
「たとえば新聞には、認知症のひとでもいきいき暮せる社会にしようとか、徘徊する人を地域で見守ろうなどという記事がよく出るでしょう。そんな無責任な発言はないですよ。認知症の人が抱える問題や困難を、だれがどうカバーしてくれるんです。みんなで支えようなんて言っても、だれもしませんよ。すべては当事者に降りかかってくるんです。おまけに認知症が治るかのような錯覚を抱かせる記事や、"自分らしさ"みたいな単に聞こえがいいだけのスローガンで、厳しい現実をボカす記事が氾濫している。そんな情報を信じた人が、実際の困難に直面して失望するんです。まったく罪が深いですよ。私はそういう人を山ほど見ているので、こうしてわざわざイヤな話をしているのです」
副院長は暗い情熱を込めて言った。たしかに一理はあるが、認知症の患者を抱えた家族は、少しでも明るい話を望むのではないか。ただでさえ現実に怯え、大きな不安を抱えているのだから。
知之は阪天中央病院の主治医が治療に熱心だったことを思い出して訊ねてみた。
「脳の刺激療法とか、運動療法で認知症が改善する可能性はないですか」
「無理でしょうね。エビデンス(根拠)がありませんから」
即座に首を横に振る。副院長は誠実かもしれないが、ペシミストだ。逆に阪天中央病院の主治医は、根拠もなく治療に積極的なオプティミストだ。ちょうどいい医者はいないのか。
副院長が続ける。
「製薬関係の方ならおわかりでしょうが、我々精神科でやっている治療も、とても自慢できるようなものではありません。おとなしい患者さんには害がないだけの薬を処方し、興奮する患者さんには、段階的に強い鎮静剤を与えます。つまりは眠らせるわけです。それを繰り返せば、当然、人間性は失われます。活気を失わずに興奮だけ抑える薬なんてありません。しかも、強い鎮静剤は本来は統合失調症に使う薬ですから、認知症の患者さんに使うのは筋ちがいです。そういう薬を使うと、心疾患、感染症、脳血管障害によって、死亡率が二倍になるというデータがあります。命を縮めるとわかっていて、治療するのは我々もつらい。しかし、使わざるを得ないのです。こういう実態は、まずマスコミには出ません。"不都合な真実"だからです。医師自身も大っぴらには話しません。信頼を損ねるからです。本当は信頼などには、とても応えられないのですがね」
それが精神科病院の実態なのか。知之は徐々に、父をこのまま入院させておくことが不安になってきた。副院長は重ねて言う。
「身体の拘束だってそうです。拘束は虐待だとか、尊厳を損なうだとか、マスコミは正義を振りかざしますが、だれが好き好んで縛ったりするもんですか。そうする以外に方法がないからやっているんです。拘束しなければ、患者さん自身が怪我をする、あるいは必要な治療ができない、命の危険さえある、だから縛るんです。拘束なしにする方法があれば教えてほしい」


夫(知之)はあちこちの病院で父の治療法や施設を探しまわるわけだが、この精神科病院副院長の話が、どぎついながらも、納得せざるを得ない実状なのだろう(;;)

父親の認知症進行に伴う様々な行動のひとつひとつもリアルすぎて、引用する元気がなくなった(>_<)

代わりに、というわけでもないのだが、認知症初期の父親の定番メニュー「鯛雑炊」(数年前亡くなった配偶者が教えてくれたもの)が、手軽で美味しそうだったので、メモしておく。一度Morris.も作ってみよう。

台所で土鍋に湯を沸かし、冷凍庫からラップに小分けしてある鯛のあらを取出して入れる。鯛のあらをトースターで炙り、出刃包丁でぶつ切りにして冷凍保存してある。
鍋が煮立ったら、白菜、にんじん、椎茸をいれて弱火にして10分、骨を取り出して、電子レンジで温めたご飯を放り込み、塩で味を整えると鯛雑炊のできあがりだ。

【ノーサンガー・アビー】ジェーン・オースティン 中野康司訳 ★★★☆ 2009/09/10 ちくま文庫 2018046
Northanger Abbey 1817

小説家は、自分も書いてその数を増やしている小説というものを、自分で軽蔑して非難して、その価値をおとしめたり、自分の敵と一緒になって、小説に情け容赦のない悪罵を浴びせ、自分の小説のヒロインが作品の中で小説を読むのを許さず、ヒロインが偶然小説を手にしても、つまらないページをつまらなそうにめくる姿ばかりが描かれる。ああ! 小説のヒロインが、別の小説のヒロインから贔屓にされなければ、いったい誰が彼女を守ったり、尊厳したりするだろうか? 私はあのような愚かな慣習に従うつもりはまったくない!

つまり小説とは、偉大な知性が示された作品であり、人間性に関する完璧な知識と、さまざまな人間性に関する適切な描写と、はつらつとした機知とユーモアが、選び抜かれた言葉によって世に伝えられた作品なのである。

【エマ】ジェイン・オースティン 阿部知二訳 ★★★☆  2006/02/25 中公文庫改訂版(初版は1974) 初訳は1965 2018045
Emma:Jane Austen 1815

それにしても、これは不思議な小説である。当のイギリス人たちですら、なかなかにジェイン・オースティンの文学の正体をとらえかねて、甲論乙駁するのである。それは一個の風俗小説だろうか? そうでもある。一個の家庭小説だろうか? そうでもある。そして、さざめきにみちた喜劇的な小説だろうかといえば、そうでないといえない点がある。着実な写実の小説だと考える人々もある。ちなみにいえば、夏目漱石は、『文学論』のなかでは「Jane Austenは写実の泰斗なり」云々と絶賛の辞をくりひろげている。そしてまた一面から見れば、これは繊細で優美な心理小説であるとされる。ところが、これは女性の人間形成の導きをふくむもの、淑女とはどうであらねばならぬかを教えるもの--昔の日本流でいえば『女庭訓』とか『女大学』とかのごときもの--という性格をもっているという人々も出てくるのである。しかも、数多くのものは、これはもっと手きびしく辛辣痛烈に人間性を分析し諷刺したものだと考えるのである。
『エマ』のページを追ってゆく読者は、いたるところに、オブラートにつつんだ苦味、綿でくるんだ針、笑いにふくめた諷刺、礼儀ただしい揶揄、それからまた、人を突くと見せての自嘲などを、いくらでも採集されることであろう。これなくしてオースティン文学の味わいはないのである。もちろん彼女は、わざと辛辣ぶったりしているのではなく、ただ人間性の真実を正確に射当てているのである。

想像過剰、好悪の感情、高慢と親切、上流ぶり、結婚と財産問題--それからまた、この人物たち、つまり、エマ、ウッドハウス氏、イザベラ、ナイトリー兄弟、ウェストン夫妻、コール夫妻、ゴダード夫人、ベイツ老嬢、ジェイン・フェアファクス、フラクン・チャーチル、それらはみな、いまの日本で、--ちょっと夏の軽井沢なりをのぞくだけでも、完全に採集することができる事柄であり、人物である。

人は、他の多くの小説に見るように、異常に善い人、悪い人、美しい人、醜い人、深遠な人、不幸な人、強い人、はげしい人、異常な運命にもてあそばれる人、異常に偉大なことをなしとげる人、絶望に沈む人、天才と栄光にかがやく人、そういうもののなかに、いつも生きており、また自分もそのいずれかであり、あるいはそうであることを欲しているというのが、現実であろうか。それとも、この小説のなかの人々のように、なるべく無難に、苦しみなく、面白おかしく、安楽に日々を送ろうとしているのであろうか。どちらがわれわれにとって、より真実に近いか。これは、しみじみとそういう奇妙なことを考えさせる小説であると思う。
(解説 阿部知二 1965)


【マンスフィールド・パーク】ジェーン・オースティン 大島和彦訳 ★★★ 2005/11/25 中公文庫 2018044
Jane Austen Mansfield Park 1814

悲しみを和らげるには何よりも仕事、自ら進んで是非ともやらなければならない仕事をやるのが一番である。仕事なら、憂鬱な仕事でさえ、憂鬱な気分を吹飛ばすものだ。しかもファニーの場合は用事はすべて希望に満ちていた。ファニーは自らやらねばならぬことが山ほどあったので、今や事実に間違いのないことがはっきりしたラッシワース夫人の恐しい話にさえ、以前ほど心の動揺を覚えなかった。ファニーには惨めになっている暇がなかった。胸は24時間以内に出発するのだと云う思いで一杯であり、両親にそのことを話し、スーザンに用意をさせ、一切の準備を整えなけれならなかった。仕事に仕事が続き、その日のうちにすべてを終らせるのは無理かと思われるほどであった。
【「自分の子どもが殺されても同じことが言えるのか」と叫ぶ人に訊きたい : 正義という共同幻想がもたらす本当の危機】森達也 ★★★☆☆ 2013/08/22 ダイヤモンド社 初出「経」(ダイヤモンド社)「リアル共同幻想論」に加筆修正 2018043

大きな事件や災害が起きたとき、この社会は集団化を強く求める。そしてこのときに集団内部で起きる現象の一つが、周囲の環境因子の簡略化や単純化だ。9・11後のブッシュ政権や同時代の小泉政権を振り返れば、その傾向は明らかだ。正義と悪。敵と味方。郵政民営化是と非。右と左。そして加害者と被害者。つまりダイコトミー(二項対立)だ。
発達したメディアによって、単純化はさらに加速される。なぜならば単純化したほうが視聴率は上がり、部数が伸びるからだ。要するに雑誌の中吊り広告の見出しだ。こうして二分化された要素は、さらに濃密になりながら肥大する。正義や大義はより崇高な価値となり、悪人や悪の組織は問答無用で殲滅すべき対象となる。だからこそ死刑存置派が増殖する。いったん始まったこの動きは、治安悪化を煽るメディアによってさらに加速する。(2011/12/19)


二項対立というのは確かにわかりやすい。白か黒か、All or Nothing、是か非か。しかし世の中の事象はそう単純に割り切れるものではないはずだ。決めつけする方は、それが当たり前と思い込み、多数派は少数派のことなど眼中になくなる。長いものには巻かれろ式の単純化の暴走である。

がんばらなければ生きてゆけない状況になった人に、がんばらなくても生きてゆける人が「がんばれ」と声をかける。そのグロテスクさに、なぜ多くの人は気づかないのだろう。なぜ臆面もなく「がんばれ」などと言えるのだろう。でも避難所のテレビからは、頻繁にこのフレーズが流れている。

Morris.も、出来る限りこの「頑張れ」という言葉は使わないことにしている。特に「ガ・ン・バ・レ・ニッポン」(>_<) 使うとしたら「頑張るな」くらいか(^_^;)

人は群れる生きものだ。だからこそ不安や恐怖に駆られたとき、結束と集団化を求める。オウム以降のこの社会や、9・11以降のアメリカを例に挙げるまでもなく、大きな事件や最害に遭ったとき、この傾向は加速する。特に敵が見えないとき、不安や恐怖はさらに増幅し、敵を作り出そうとする。つまり仮想敵だ。その現れとして愛国心や公共心などが強調され、監視社会が加速し、集団の動きに合わせない個体に対しては、強い反発と排除が働くようになる。(2011/04/20)

「恐怖」こそは、専制主義の最大の武器である。

「戸」と呼ばれる家族集団を単位として国民の身分や親族関係を明確にする戸籍制度は、そもそもは紀元前の中国にその源流があり、6世紀頃に日本に渡来したとされている。その後は人別帳などの形で地域的に存続し、1872年に明治政府が作成した壬甲戸籍は、初めての全国的な戸籍制度であり、その後の家制度などに繋がると同時に、徴兵や徴税をシステマティックに進めるための基礎となった。つまり平たくいえば国勢調査であり、今風に言えばマイナンバー制度だ。壬甲戸籍は被差別問題を固定化したこともあって、法務局は現在、一般の閲覧を禁じている。(2007/05/23)

国民総背番号制、住基ネット、マイナンバー制度……Morris.がこれらの制度を嫌悪する源は紀元前に遡るのか(^_^;)

欠損されているからこそ写真は強く訴えるメディアであることを、多くの写真家は知っている。写真は強い。観る側を刺激する。ただし、これは想像することによって喚起された感情だ。決してリアルではない。だから政治的なプロパガンダの際にも写真は、とても強い効力を発揮する。
かつて多くの人は、メディアが発達して情報が広く行き渡りさせすれば、この世界から戦争や虐殺や飢餓はなくなるはずだと考えていた。でも事態は逆だった。発達したメディアは世界から想像力を奪う。思うことを奪う。代わりに危機意識ばかりを刺激して、広範に感染させる媒体となる。だからこそ今、「あらかじめ欠損した」メディアである写真について、考えることは重要だ。(2010/10/26)

20年近く春待ちファミリーBANDのビデオ係りやってたMorris.なのだが、映像より写真を好む。もっと言えばカラー写真よりモノクロに惹かれる。それが「欠損」に拠るものと言われると、ちょっと違うんじゃないかなとも思うが、映像より写真が想像力を刺激するということはまちがいないだろう。

人は不安や恐怖に弱い。アメリカが強引にベトナム戦争に介入した理由の一つは、共産主義という政治体制への恐怖だった。結局のところ戦争の大義とされたドミノ理論は机上の空論だった。でも渦中では人はなかなか気づけない。実際にこの時期は多くのアメリカ人が、共産主義を本当に恐れていた。
治安が悪化しているとの前提に危機意識を煽られた世相は、集団化を進めながら敵の不在による不安に耐えられず、自ら敵を作り出す。つまり仮想敵だ。共同体内部においては少数派への差別や排斥が始まり、厳罰化は進行し、共同体外部においては、仮想敵国が出現する。こうして虐殺や戦争は起きる。人は後になってから、どうしてあんなことを、と天を仰ぐばかりだ。(2007/07/23)

そうそう、渦中では人はなかなかその外側からの視点を持つことは難しい。バブル時代における人々の行動を思い出せば明らだろう。後の祭りという言葉もある(>_<)

袴田事件や名張ぶどう酒事件など、冤罪である可能性がきわめて高いとされながら、現在に至るまで再審が認められな事件も数多い。
その袴田事件の犯人とされた袴田巌は、今も確定死刑囚として拘置所に拘置され続けている。袴田は今年71歳。無実を訴え続けながら、その生涯の半分以上を拘置所で死刑囚として過している。本来なら死刑判決確定後から6ヶ月以内に執行しなくてはならない。これほど長期にわたって死刑が執行されない理由については、法務省は袴田が老衰で死ぬことを待っているからだとの説もある。つまり処刑して問題視されることを避けているわけだ。
この国の戦後史における冤罪の構造を少し調べるだけで、組織ぐるみのフレームアップがこれほど頻繁に行われていることに気づく。気づいて呆然とするほどにあきれる。警察や検察はこもまでやる。犯罪を作る。罪を捏造する。そして裁判所と法務省はこれを黙認する。
司法は民主主義の要諦だ。でもそれが今、誇張ではなく崩れかけている。(2007・08・24)

袴田事件は先般、勾留を解かれ、再審確実と思われていたのが覆り、最高裁に上告された。三権分立の崩壊傾向が顕著である。

1997年に自民党が司法制度特別調査会を発足させた背景には、アメリカ資本の壓力を受けた財界からの要請が働いていた。つまり裁判員制度の始まりは、日本の民事司法手続きの煩雑さを簡略化してほしいとするアメリカ資本の妖精だった。ところが司法制度改革審議会意見書が提案された2001年あたりから、民事司法改革のはずだった指針が、刑事司法改革へとなし崩し的に変わってゆく。この背景には、高揚する被害者感情に、構造改革や規制緩和を旗印にした小泉施政的ポピュリズムが合致したことが、大きな要因になっている。(2009/04/23)

裁判員制度は、間違っている!!!!

たとえ監視カメラが1000万台になろうとも、不安は消えることがない。メディアの過剰な犯罪報道が、燻る不安にさらに拍車をかける。
こうして体感治安は悪化し続けて、厳罰化は加速する。治安は悪化などしていない。雑人事権数は毎年のように戦後最少を更新している。ところがこうした情報を知る人は少ない。まるで事実を改ざんする真理省がどこかにあるかのように、国民の多くは凶悪な犯罪が急増していると思い込んでいる。(2012/06/20)

この文章が書かれて6年後の今日、日本の監視カメラ台数は1000万台に近づいているだろう。中国ではほぼ8000万台が設置されているという記事もあった(^_^;) 日本でも事件の証拠の過半数は防犯カメラ映像になってしまっている(>_<) こういった映像の捏造なんて簡単にできるだろうに。プライバシーの尊厳という言葉が過去のものになりつつある。

16世紀から20世紀初頭にかけてパレスチナの一帯はオスマン帝国に支配されるが、第一次世界大戦終了後は連合国のイギリスに占領される(オスマン帝国は同盟国側だった)。この際にイギリスは、この地に暮らすアラブ人に対して戦争への協力を条件にアラブ国家の独立を認めることを約束していた。また同時にユダヤの豊潤な資金に目をつけたイギリスは、資金援助を条件にユダヤ人による独立国家の建設を支援することも約束している。つまり二枚舌だ。同時にイギリスはフランスとこの地域の分割統治の密約を交わしていたので、三枚舌外交と呼ばれている。
そこにもう一つの大きな因子が加わる。ナチスによって強制的に収容所に隔離されていた500万人のユダヤ人が殺害されていたことが明らかとなって、欧米社会は大きな衝撃を受ける。なぜならユダヤ人に対しての嫌悪や憎悪は、実のところはナチスだけでなく、全ヨーロッパが差別意識(反ユダヤ主義)として抱えていたからだ。だからこそ明らかになったホロコーストの実態は、驚きや怒りだけではなく、ヨーロッパ全土で(ある意味での)うしろめたさを喚起した。
ホロコーストが発覚したそのときに、国際社会は後ろめたさに委縮した。つまりユダヤ人のパレスチナへの強引な移住(約束された土地への帰還)を黙認した。
パレスチナ人とユダヤ人のあいだでは衝突が相次ぎ、さらには自国へのテロが頻発することに手を焼いたイギリスは、問題の解決を国連に委託する。これが1947年。同年11月、国連はパレスチナをパレスチナ人とユダヤ人の国家に分割し、ユダヤ教とイスラム教、そしてキリスト教の聖地があるエルサレムを国際管理下におくというパレスチナ分割決議を採択する。この時点において、パレスチナにおけるユダヤ人の人口はパレスチナ人口の三分の一でしかなかったが、分割決議はパレスチナの56.5%の土地をユダヤ国家に、そして43.5%の土地をアラブ国家とするとされていた。
早々にイギリス軍は撤退し、ユダヤ人はイスラエルの建国を一方的に宣言した。アラブ連盟5ヶ国(エジプト・トランスヨルダン・シリア・レバノン・イラク)はイスラエルに対して戦争を宣言するが、アメリカから提供される圧倒的な軍事力を背景に、イスラエルは連勝を続ける。
今のこの世界を覆う憎悪や殺戮の大きな要因は、このイスラエル建国の過程にある。
ユダヤ人がホロコーストという蛮行の被害者であることが明らかになったとき、彼らをそれまで差別し迫害してきた人々は、その後ろめたさから、彼らの過剰な危機意識の発動を黙認した。こうして被害側は危機意識を燃料に加害側へと反転する。とてもあっさりと。ポーランドが反転し、そしてユダヤ人たちも反転する。いろんな国が、いろんな人が、ころころころりと反転する。でも本人にはその自覚はない。
テロの目的は実際のダメージによって相手に損傷を与えることではなく、恐怖によって相手を委縮させることにある。。ならばテロ対策を理由に様々な法やシステムやインフラを変えつつある今の国際社会は、まさしくテロの目的を自らが主体となって、「達成しつつある」ということになる。(2007/12/17)


イスラエル建国に関わる、イギリスの「三枚舌外交」はちょくちょく目にしたが、実に簡潔な説明だったので引用しておいた。

NHK-ETV2001「問われる戦時性暴力」(2001/01/30)というタイトルで、東京で開催し荒れた女性国際戦犯法廷のドキュメンタリーを放送した。ところが放送後、この法廷の主催者団体の一つで被写体となったVAWW-NETジャパンが、放送された番組の内容が当初の説明とは大きく食い違っていたとして、NHK と制作会社であるドキュメンタリー・ジャパンを提訴した。さらにその後、NHKが番組を放送直前に改変した理由は政権与党である自民党の政治家の圧力を受けたNHK上層部が現場へ介入したからだったと朝日新聞が報道し、その政治家として名指しされた安倍晋三、中川昭一両代議士は、NHKとともに事実無根とこれを否定しながら、逆に朝日を批判した。
一連のこの騒動は、朝日vs.NHKの泥仕合として、相当に大きなニュースになった。でも(例によって)あっという間にメディアの表舞台からは姿を消した。
番組放送から4年が過ぎた2005年1月12日、安倍晋三と中川昭一両議院からNHK上層部に対して圧力があったとの記事が朝日新聞に掲載されて、番組改変問題は「政治介入」という言葉とともに大きな騒動へと発展した。
政治介入について二審の判断は、安倍と中川両議員は政治的な圧力を加えたのではなく、「NHK幹部が二人の政治家の意図を忖度した」の認定した。
忖度とは何か。他人の心を推し量ること。つまり東京高裁はこの一連の騒動の発端になったNHK内部の強引な改変を、NHK幹部が安倍と中川の二人の政治家の心を推し量ったことによって生じたと認定したわけだ。
もっと具体的に言えば、安倍と中川両政治家が、「天皇の戦争責任を裁くことを趣旨とするこの模擬法廷の番組に対して不満があるようだ」とNHK幹部が推し量り、あわてて現場に改変の指示をした。ということになる。(そういえば朝日の記事には、安倍議員が「察しろ」とNHK幹部に言ったとの記述もあった)。実際のところはわからない。でもこの忖度なる現象は、組織共同体が大きな過ちを犯すときは、必ずといっていいほど付きまとう現象だ。


「忖度」の曖昧模糊とした危険。あのときに安倍を叩き潰しておくべきだった。

撃沈されることをわかりながら戦艦大和が出航した理由は、御前会議における天皇の「海軍にはもう船はないのか」との質問を、「最後の一隻まで戦え」との意思だと海軍最高幹部が思い込んだことが原因だとの説がある。
こうして側近や幹部たちの「過剰な忖度」が駆動力となって、組織共同体は暴走する。オウムや連合赤軍にもこの要素はあった。取り返しのつかない事態が起きてから、人は顔を見合わせる。いったい誰が悪かったのだといいながら。
人類が有史以来続けてきたこの繰り返しを、そろそろ本気で終わりにしなければならない。なぜなら現代は、かつてとは比較にならないほどメディアが発達した。ならば「過剰な忖度」が、より大規模に国民レベルで展開される可能性がある。特に集団化や同町圧力や忖度と相性がいいこの国は、その危険性がとても大きくなっている。

でも昔から人は渦中では気づかない。気づくのはいつも事後だ。(2011/08/25)

「過剰な忖度」「過剰な自主規制」「過剰な思いやり」「過剰な親切」「過剰な…………」過ぎたるは及ばざるに如かずぢゃ。

共同幻想は、常に暴走する危険性を身のうちに孕んでいる。その代表例が戦争だ。火薬を先端に充填してキャタピラを装着した共同幻想(国家)は、この数世紀だけでも、どれほど多くの自己幻想(国民)をふみにじってきただろう。
国家によって救われた命は確かにある。でも賭けてもいいけれど、国家によって殺された命のほうがはるかに多い。
国家とは何か。例えばヘーゲルは国家を、家族と市民社会という二つの要素から止揚される理念の具体的表現形態として規定した。ホッブズは個々の市民にとって最大の利益である安全さを担保するための装置として規定した。想像の共同体とネーミングしたのはベネディクト・アンダーソンだ。
国家は無理をする。その無理の端的な例は、国家の定義に早くも現れている。国家を構成する三つの要素は、区分された土地と人民と排他的な統治権力だ。このレトリックは少し前まで、いわゆる「一民族一言語一国家」なる神話によって支えられていた。
国民国家の歴史は、このアイデンティティ(神話)創設の歴史でもある。神話を創設するための要素として、義務教育の普及による国語の定着と、全国民が情報を共有するためのマスメディアの発達は不可欠だ。
国家とは前提なのだ。個人が他者との公的な関係を締結するための前提、あるいは環境設定。当然のことながら前提が違えばその後の展開も変わってくる。(2008/12/25)


「国家によって救われた命は確かにある。でも賭けてもいいけれど、国家によって殺された命のほうがはるかに多い。」というのが、この日の文章のタイトルである(^_^;) 言い得て妙というか、それはもう120%正しい。

テレビ番組で朝鮮(韓国)語の翻訳を仕事の一つにした知人(在日韓国人)にしばらくぶりに会ったとき、「ここ数年の北朝鮮については、翻訳の方向性が変わってしまった」と言われた。
「変わったってどんなふうに?」
「例えば北朝鮮の一般国民が金正日について語るとき、普通に「首領さま」とか「将軍さま」と言っているのにディレクターやプロデューサーから、「偉大なる首領さまである金正日同士」にしてもらえないかと要求される。あるいは「決められたことだから仕方がない」と言っているのに「わが国のためだから当然である」にしてくれとか、とにかく攻撃的なコメントに翻訳することを要求される」
「でもハングルが分かる人は日本人にだってたくさんいるのに」
「だからボイス・オーバー(吹き替え)だよ。もとの音声は声優さんの声でつぶしてしまう」
こうして異常で危険な国だとのイメージが強調され、敵視感情が高揚する。
彼らが主体思想によってマインドコントロールされているとの文脈がもし成り立つならば、こちらは資本主義や民主主義によってマインドコントロールされているとの文脈も成り立つ。本当に大切なことはマインドコントロール(洗脳)されているなどと言い合うことではなく、そちらのマインドコントロールがより多くの人を傷つけず、幸せにするかを考えることなのだ。
もちろん主体思想など僕は支持しない。今のところは資本主義のほうを選択する。民主主義も大切だ。でも暴走する資本主義や民主主義が、実は多くの人を不幸にすることも知っている。(2009/01/27)


翻訳の難しさと、それにつけ入るマスメディア。

同盟とは、「国家目標を達成するために二つ以上の国が軍事上の義務を伴った条約に基づいて提携すること」を意味する。つまり集団的自衛権が前提になる。
日本とアメリカにおける軍事的な取り決めは、1951年のサンフランシスコ条約で締結された「日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約(旧日米安保条約)」で始まった。1960年に呼称は「日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約」に変わったけれど、条約(Treaty)であることは現在まで一貫している。同盟を意味するAllianceなど、名称のどこにも使われていない。
少なくとも1981年までは、日米同盟という言葉が公式に使われたことはない。ところがこの年に訪米した鈴木善幸首相とレーガン大統領との共同声明に、「日米両国の同盟関係」なる言葉が突然現れた。実際の会談では使われていない。帰国後にこれを知った鈴木首相は閣議で強い不満を表明して、伊東正義外相と外務次官が責任をとって辞任した。念を押すが「同盟」ではなく「同盟関係」。でもかつてこのニュアンスですら、これほどの問題になったのだ。
日米同盟なる言葉が再び政治とメディアの表舞台に現れたのは、1996年4月の日米共同声明の頃からだ。オウムによる地下鉄サリン事件の翌年。つまり危機管理意識が一気に高揚したこのときを狙ったかのようにこの言葉が使われて、周辺事態法から在日米軍再編までが一気に進んでいる。そしてこの傾向は、記者会見などで当たり前のように日米同盟という言葉を使った小泉首相の時代にさらに加速した。
言葉が変わり、意識が変わる。意識はシステムを変え、社会を変え、国家の方向を見誤らせる。でも誰も気づかない。人は馴れる。自分を合わせる。感覚を止める。気づいたときにはもう遅い。天を仰いで嘆くばかりだ。(2009/03/23)


「日米同盟」という言葉そのものが紛い物だということ。

もしも拉致被害者がまだ北朝鮮にいるのなら、拉致被害者はもういないと宣言してしまった北朝鮮は、(制裁が強化されれば)都合の悪い彼らを消してしまうかもしれない。子どもにだってわかる理屈だ。でもこの国の多くの人は、強硬な経済制裁が功を奏すと、本気で思っているらしい。とにかく拉致問題を早急に解決したいのなら、まずは国交正常化が最も早道だと僕は考える。
数年前に「たかじんのそこまで言って委員会」という番組に出演したとき、北朝鮮に対してはどのような対応をすればよいかと質問されて「国交正常化」だと答えたら、「今どきこんなことを言う人がいるのねえ」と金美齢さんに冷笑された。
全く気にしない。だって自分の主張に自信がある。どう考えても、強硬な経済制裁は間違いだ。
北朝鮮への制裁に反対し始めた蓮池透さんは、まずは家族会からパージされ、次にメディアの表舞台から姿を消した。インタビューが掲載された雑誌は岩波の「世界」と、「週刊金曜日」、っして「実話ナックルズ」だ。一見は脈絡がないようだけど、明らかに傾向がある。同時にマスメディアの代表であるテレビや新聞からは、全く声がかからなくなったという。(2009/07/27)


この発言は、安倍がトランプにおもねって突然日朝会談に前のめりになっている今こそ、あらためて読み直すべきだろう。

「私たちは「中共の洗脳組」と呼ばれました。そして今になっても、中国で行ってきた戦争犯罪を私たちが言ったり書いたりするたびに、これは自虐史観であり、中国で洗脳された彼らの発言など信用できないと言う人は多くいます。私はすべての教育は「脳を洗うこと」と思っていますが、彼らの言う「洗脳」とは、どうやら「悪くて間違った教育」を指すようです」
こう言ってから絵鳩は、武勲を立てた軍人が日本臣民の理想像として誉めたたえられた戦前の小学校国定教科書や、「忠君愛国」「質実剛健」を綱領として軍事訓練が必須科目となっていた中学校の教育などを例に挙げながら、間違った教育はどちらですかと聴衆に訴える。朝鮮人をチョンと呼び、中国人はチャンコロ、ソ連人はロスケで外国人はケトー。そんな呼称に凝縮される他民族蔑視の思想が、この時期は教育の場で当たり前のように醸成されていた。日本人は世界一優秀な民族なのだと思いこんでいた。だからこそ中国人をいくら殺しても、日本の兵士たちは何も感じなかったのではないかと。こうして国のために死ぬことこそ男子の本分として教育された少年たちは、さらに軍隊で、兵士としての最後の改造を受ける。
「軍人らしい軍人を作るという大義名分のもとに、古年兵による初年兵への私的制裁は当たり前のように行われました。「君」とか「あなた」などの言葉を使っただけでも殴られる。足腰が立たなくなるほどに蹴られる。捕虜を銃剣で突き殺さねば自分が半殺しにされる。こうして初年兵たちは、普通なら持ち合わせているはずの感情や良識や人間性を、暴力によって根こそぎ奪われ、ただ上官の命令に反射的に服従し、命令さえあれば平気で人間を虐殺する機械に変わっていきました。だからこそ日本の軍隊は捕虜や一般市民に対して、これほどに残酷な行為を、ためらいなく行うことができたのでしょう。(2010/11/20)
*絵鳩毅 1913(大正2)生れ。昭和17年に招集されて中国へ、山東省までの行軍途中中国人捕虜を地雷探知機として使ったり、初年兵の中国人捕虜を突き殺すなどを経験、戦後5年間のシベリア抑留、その後中国撫順戦犯管理所に移管され、昭和31年帰国。2010年11月神奈川県民センターホールで行われた「撫順の奇跡を受け継ぐ会」シンポジウムのパネラーとしての発言。


せんのう[洗脳]1.第二次大戦後の一時期、共産主義者では無い者に共産主義教育を施して思想改造をはかったこと2..転じて、ある人の主義・主張、また考え方を根本的に変えさせること。(大辞林)

アメリカの銃社会の現状については、日本だけではなく世界中の人々が、明らかに間違っていると思うはずだ。特に「銃を所持した悪人の行為を止められるのは、銃を持った善人だけだ」については、呆れかえって絶句するはずだ。暴力に対して暴力で抑止しようと考えるなら、平和な社会など永劫に望めるはずがないと思うはずだ。
でも「銃を所持した悪人の行為を止められるのは、銃を持った善人だけだ」に体現される思想と論理は、実のところアメリカだけではなく、世界のスタンダードでもある。軍隊の存在理由だ。(2013/07/21)


学校での銃乱射事件後にトランプが、教師に銃をもたせて守らせようなどと発言することからしても、アメリカの銃至上主義は、いくら周りが理不尽だと言おうと、変わりそうにない。武器を持てば、使わずにいられなくなるのは自明である。

昨日(2018/07/06)松本智津夫はじめ7人が一斉に死刑執行されたことに、オウム真理教のドキュメントを発表、死刑に反対している森達也は怒り心頭に発していることと思う。ジャーナリズムが瀕死の状況にある今のこの国で、表舞台からの退場の危険を犯してまで反骨を貫く、彼のような存在は貴重であり、尊敬に値する。
【利権鉱脈】松村美香 ★★★☆ 2012/11/30 角川書店 2018042
先日紹介した「アフリカッ!」の前年の作品で、やはり、ヒロイン桜井万里子は著者の分身と思われる。
チェルノブイリ原発事故の記憶も新しい、社会主義崩壊から間もないモンゴルのウランバートルで、日本人商社マン・加藤貴久が命を落とした。それから12年後、開発コンサルタント会社で途上国開発事業部の最前線に立つ桜井万里子は、アフリカ・ザンビアからの帰国早々、モンゴル案件の担当を命じられる。

「ODAの日本語訳は政府開発援助だが、JIDOは『政府』にも『開発』も捨てようとしている。下手をすると、JIDOは開発そのものに反対する団体にもなる」
「それは産業開発を否定した自然保護団体のようになるということですか?」
「ああ、下手をすればそっちに流される。一方、俺たちが追求するのは、旧来の日本型ODAだ。経済による共存共栄の和平だよ。仲良くしようなんて口で言うんじゃなく、貿易での結びつきを作り、経済的な繁栄を生み出せば必然的にお互い殺し合いなんていられなくなる。冷静に手を組む方が得だという状況に持っていくのが、遠回りでも確実だと俺は思っている。経済は人間社会の基本だ。宗教もイデオロギーも、食えないことへの逃げ道に過ぎない。そして、ただ食えてもだめなんだ。自立して食えなくては。施しで生きれば尊厳を失い、人間が腐る」
「私もそれは感じていました」
岸本は大きく頷いた。
「どんなに食糧を配布して、教育を施しても、その後で自立すべき雇用がなければ若者は腐りますよ。平和と平等の教育を受けたのに、世の中に仕事がないんじゃ、有り余ったエネルギーをテロに提供することになりかねない。それを避けるには、やっぱり経済発展が必要なんです。医療や教育支援は否定しませんが、この分野はコストセンターですよね。充足させればさせるほどカネがかかる。永遠に援助を受けられればいいですけど、財源確保のためには、健全な経済活動が必要です。でなきゃ失業者で溢れて社会全体が不安定になります」


ODA(政府開発援助)にはいろいろ問題あることは、Morris.もなんとなく思っていたのだが、問題はかなりに根深いものがありそうだ。

万里子は、学生時代、経済に重点を置いた日本のODA政策に批判的だった。だが、開発コンサルタントとして現場を歩くうちに、施しよりは経済的共存を目指すという発想に傾斜していった。難民救済ではなく、難民を生まない地域開発のために知恵を絞ることに醍醐味を感じた。食糧を分け与えることより、自立する術を共に模索したいと思った。


奉仕が自助のエネルギーを奪うということか

「大義が見つからないのが、一番苦しいのかもしれない……」
「貧困撲滅だろ」
「それはそうだけど、何だか空回りしている」
「悩んでいるのはJIDOだけではない。1989年に始まる東欧革命以来、世界はイデオロギーを失ったんだよ」
経済専門家として途上国との折衝をしていた憲之は、他国政策への関与がいかに難しいかよく知っていた。

万里子とその父の会話、父は元経済企画庁経済研究所長。

政府の赤字に着目したIMFは「構造改革」という呪文を多用し、公共事業の削減や赤字部門の閉鎖を促して、さらに失業者を憂夜した。IMFの経済学者に見えていたのは、国家の財務状況のみで、日々を暮らす国民ではなかった。アダム・スミスの提唱した「神の見えざる手」を狂信し、IMF初代総裁ケインズが整えた財政発動のためのIMF資金を出し惜しんだ上、競争社会こそ正しいと断じた。日本の経済学者の異論はかき消された。
2002年、IMFの政策を批判したのは、ノーベル賞を受賞した経済学者、ジョセフ・E・スティグリッツ博士であった。日本のエコノミストが主張した漸進型の変革を採るべきだったと。
しかし、既に国際社会は自由主義の勝利に浮かれ、政府による調整機能を放棄して弱肉強食の野性的世界へとパラダイム転換(シフト)を終えていた。
このパラダイムシフトは、途上国のみならず日本でも断行され、日本のケインズ学派は、アメリカ型自由主義経済を採る日本政府に対しても敗北した。世界の奇跡とまで言われた中産階級の多い平等社会は、派遣契約という不安定な雇用を許し、強者と弱者を明確に分ける競争社会へと移行した。経済の空洞化は止まらなかった。


「日本の農協は、ある意味でコルホーズのようなものだからね」
「そんなこと言ったら、日本の全農さんに睨まれますけど」
万里子が顔を歪めて曖昧に微笑むと、水谷は自信たっぷりに断定した。
「いや、日本だって農協は恐怖政治ですよ。農家から搾取しまくっている」


ぎゃはは(笑)

「発展途上国では、十数人にひとりが生後一年未満に亡くなりますから、子供ひとりだなんていう出産調整はしたがらないんですよ」
「そうかなぁ」
「避妊プログラムなどはありますけど、政府も本当に人口を減らしたいなんて思っていないかもしれないですよ」
「…………」
「なぜだと思いますか?」
「なぜだろう」
「民主主義は数を反映するからです」
「ははは」
思わぬ答えに水谷は口を開けてわらった。
「社会が多数決を求める限り、人口が多いほうが発言力を持てる。多民族国家の場合は自分の民族が減ったら発言権が弱まります。国際関係も同じです。隣の国の人口が増えていくのに、自分たちの国の人口が減っていったら力関係が弱くなるっって為政者は思うんです」


多数決原理の矛盾というか、理不尽さはもう少し真剣に検討する必要がありそうだ。

銅は、産業のベースメタルと言われている。熱伝導がよく、電線を初めとした電気関連産業には欠かせない非鉄金属で、自動車や電化製品など、あらゆるものに使われている。人は石油を「産業の血液」と呼ぶが、一方で、銅を「産業の血管」と喩える。


なるほど。

「人は水源があると、それを使いたがる。でも、排水まで考えないことが多いんだよ。我々は上下水道という一つのセットで考えようとするが、多くの国は給水施設、つまり上下水道の援助だけ要請してくる。とりあえず飲み水確保が最優先で、排水にはあまり気を配らない。下水処理をきちんとやらないと、水の循環が困難になるし、下流の住民にも被害が出るのに」

近視眼的ということだろう。

「発電ツールによって特色がありますから、うまく組み合わせなくてはいけないんですよ。火力発電は炉に火を入れてから発電するのに時間が掛かるから需要に合わせた速やかな調整が難しい。風力と太陽光は自然環境に左右される度合いが大きいし、発電量が致命的に小さい。水力は即効性があるが、建築コストが掛かるのと、自然保護団体がうるさい……。でも、いろいろな電源がないとベストミックスにはならないんです」

このような考え方を自分の都合の良いように解釈して、安倍政権の原発を含むエネルギーミックスなどという問題点隠しに利用しているのかもしれない。

加藤の死後も政争は続き、2000年のモンゴル総選挙では再び人民革命党が返り咲いた。一方、日本では市場原理主義を謳う政治家が勝利し、行政改革、規制緩和、分割民営化が急速に進む。そして、外務官僚と外務大臣の罵り合いが世間を騷がせ、泥仕合の中でさらに大きなODA汚職が発覚した。
日本の円借款の枠組みは、OECDによって規制されてきた。
もともと円借款は日本の貿易振興を目的に含み、輸出ファンドという側面を持っていた。1960年代の円借款はタイドで、つまり「円を貸すからそのお金で道路を造りませんか? 道路設計と建設は日本の業者に任せて下さい」というものだったのである。
これに対し、無償援助を中心とし借款機能を持たないアメリカは、日本のプラント輸出やインフラ建設業務が有利に運ばれることに不満を抱き、日本の業者のみで入札すると、途上国が割高な事業を押しつけられ、借金で高い買い物を強いられる、という論法で非難を始めた。本来アメリカのクレームの理由は自分たちが入札に参加できないことだったが、そこは論理展開のうまさである。巧みに問題点をすり替え、結果的に自分に利するルールに変えようとする。そうした二面性のある欧米の裏側に気付かず、自虐的な日本のマスコミは雷同して日本政府を攻撃した。
結局日本政府はOECDで戦うことなく、アンタイド化で譲歩した。つまり、日本は資金を提供するが、入札業者は相手国業者はもちろんのこと、アメリカでも、フランスでもドイツでも構わないtいうことである。円借款をアンタイド化したため、今では日本企業の受注率は25%を切っている。
こうした旧通商産業省の敗北の記憶は、水谷の躰にも刻み込まれているに違いない。水谷にとって、それはGATTウルグアイ・ラウンドだった。そして、資源外交では、喉から手が出るほど欲しかったイランの油田開発をアメリカが主導した経済制裁のために断念し、中国に持って行かれたという苦い経験もある。


日本の外交音痴ぶりは、経済に弱いMorris.にもわかるのだが、これはもう宿痾というべきかも知れない。

現在、中国は、日本が1960年代に行っていた類のタイド借款を世界各地で展開している。お金を貸して、その工事は中国業者が担っている。これに対し、OECD各国は渋い顔をしているが、中国はOECDに加盟していないので完全無視を決め込んでいる

中国なんでもあり、だもんなあ(^_^;)

鼻先にニンジンがない限り、人間は動かない。金のないところに人は集まらない。そんな基本的なことが、日本では既にわからなくなっている。裕福になりすぎて、理想論に疑問を感じない。中国は相手国政府に多くを要求せず、黙って欲しがるものを提供している。道路、電気、電話……。労働力までも持ち込んで、さっさとインフラを整備する。日本では逆立ちしても真似出来ない武器弾薬の供与も惜しまない。もちろん、その代わりに欲しいものは手に入れる。ザンビアの銅は中国に囲い込まれ、OECDの国際社会は呆然とその状況に指を咥えて見ているのみだ。

ここで、ザンビアのことが出てくるのは次作「アフリカッ!」に続く伏線だろう。

黒部峡谷には通称「黒四(くろよん)」と呼ばれる巨大ダムがある。1961年に発電を開始したアーチ形ダムだ。
「黒部ダムは人間の傲慢だろうか、と加藤は言った。自然の川を堰き止め、それで電気を起こそうとした人間は罪深いのだろうか、と」
「建設では大勢の人が亡くなっているのよね」
「ダム工事だけで171人。他のトンネル工事や発電所を加えると、犠牲者の数はさらに増える。今では到底許されない量の事故死だよ」
「それでも、当時の日本は電気がほしかったんでしょうね」
「強欲だよな」
神崎はつぶやいた。
「加藤くんは、どういう意見だったの?」
「……ダムの方がましかもしれない、と」


水力発電の工事費がいくら高くても、危険度は原発とはくらべものにならない。

皮肉なことに、原子力発電に関する世論は、福島第一原発の事故によって大きくネガティブな方へ舵を切った。
万里子は高度成長期に生まれた世代の責任を感じた。スリーマイル事故やチェルノブイリ事故を目の当たりにしながら、当時の学生たちは無気力で何の声も上げなかった。報道や書籍は読んでいたはずなのに、一世代前の学生運動の虚しさがあるせいか、「反対」の意思表示すら怠った。そしてバブル期到来。電力問題を忘れ去り、原発推進への疑問は霧散してしまったのだ。
だが、のど元過ぎれば熱さを忘れる日本人も、この原発事故だけはしばらくわすれられないだろう。即時廃止を求める急進的な反対運動には共感できない万里子だったが、時間を掛けて脱原発の道を歩み始めることを願わずにいられない。脱原発は、代替エネルギーの開発だけでは実現できない。人々が、電気とは何か、エネルギーとは何かを真摯に考え、日常生活を見直さなければ実現できない。エネルギーのベストミックスを消費者が考え、復興の街のコンセプトを考える必要があるだ。


本書が書かれたのが、福島原発事故の直後なのだが、どこか傍観者みたいな視点というのが、ちょっと気にかかる。
【アフリカッ!】松村美香 ★★★☆2013/12/20 中央公論社 2018041
松村美香 1963年東京生れ。日本の開発コンサルタント、小説家。元青年海外協力隊隊員。2008年「ロロ・ジョングランの歌声」で第一回城山三郎経済小説大賞を受賞。
アフリカの今を現役の開発コンサルタントが描く、痛快お仕事小説」というのが腰巻きのキャッチコピーだった(^_^;)

大輝が唇を噛んで沈黙すると、朋美が諭すように言った。
「あのね、村上くん。援助の仕事をしていると、自分のせいいだけでなく、ズルさや差別意識とも向かいあうことがあるのよね。私はむしろ、きれいな理想論を唱える人ほど独善的に思える。山形さんは、現実を知りすぎてるのよ」

この朋美が作者をモデルにしたもののようだ。

柿沼曰く、アフリカにはニーズと呼ばれるものは無限にあり、先進国の発想で社会を見れば何でも必要に見えてくる。電気も上下水道も教育も医療も、何もかも必要だ。だが、それに対して対価を払う者がどれだけいるか。無料なら必要だが、有料なら要らないという人たちを相手に物を売り、そこから利益を得るのは至難の業である。既に援助でもらい慣れている人々に、便利で役立つ物を見せても、「欲しい」と言われるだけで、「買う」とは言われない。買ってでも欲しいものを提供するのはとてつもなく困難だ、という。

ODAなどの支援ではなく、ビジネスで開発途上国を相手にするのは相当厳しいといことがわかる。

マニーシャは、夫の浮気で離婚したのを機に雑用係として8年前に採用された、井戸端会議が好きな明るい性格で、事務所の雰囲気作りに一役買っている。掃除、給仕、買い物など、何でも嫌な顔ひとつせず楽しそうにこなし、少し太めの体格を上下に揺らしてよく笑う。「ポレポレ・サワサワ(ゆっくりでOK)「ハクナ・マタタ(問題なし)」が口癖で、「このスワヒリ語さえ覚えていればどんな苦境も乗り越えられるわよ」とケニアに到着したての大輝に伝授した。

こういう人物描写も現地での生活を実践したものでないと書けないだろう。「ポレポレ」という言葉は、なんとなく記憶にある。このスワヒリ語はMorris.の座右銘にしたい。

朋美は少し小首を傾げたが、現代の格差に話題を移した。
「今の格差は厄介ね。白人が来た時は、白人社会と黒人社会には一線を引かれたそれぞれの領域があって、黒人社会では、白人の富裕層に対して不満を持てるほどの感情移入がなかったのかもしれない。違う世界だったから。でも、今度は黒人同士で差が出てしまった」
「確かにそうですね」
「同族での格差は近親憎悪かな。白人を追い出したら、情報を持つ一部の黒人が支配階層にすりかわって、富を独り占めでしょ? 腹が立つと思う」
「一緒に貧しかった隣の兄ちゃんが突然支配者になってたって感じかな」
「搾取構造は以前と同じ。新しい黒人リーダーは植民地ルールを踏襲して、大多数の住民を支配下に置いた」


つい韓国のことを思ってしまった(>_<)

中国政府は、反体制的な情報を素早く遮断するシステムをアフリカ諸国に売り込み、成果を挙げている。反体制運動のデモの噂が出れば、インターネット機能を切断し、電話網まで不通にする。都合が悪ければ他国の報道番組を遮断することも厭わない。
アフリカの政府にとって、中国は強い味方なのか……。
対外的には民主主義を導入したアフリカ諸国だが、情報の操作、独占を続け、権力保持に余念がない。
日本の入り込む隙間などあるのだろうか。


本書が書かれてから6年くらい過ぎてるが、中国と日本の実力差はさらに開いている気がする。

海を越えよう、無限の可能性に身を委ね
行けない場所などない、できないことなどない
水平線に朝日が見える
風が吹いている
自分が変わる、自分を変える
いつか世界もきっと変わる

絞り出した圭吾の高音に、大輝は身震いした。魂の叫び。それは、捨て身で生きている圭吾だからこその表現力だ。
「この歌の歌詞、わかりますか?」
呆然と歌に心を奪われていると、ボビーが大輝に耳打ちした。
「今の日本は閉塞感があるけど、まだ諦めないって気持ちを歌っています」
「ええ、でも、たぶんザンビアでは発禁ですよ」
「えっ?」
「現政権を批判していると思われてしまうんです」


アフリカでは最も平和な国とされているザンビアでも、この程度の歌詞が発禁になるのか?

「いいか? リスクには大きく分けて5つある」
1.カントリーリスク 戦争、革命、内覧、国家非常事態により、契約履行が不可能になる可能性を見る。政権の統治安定度はどうか。法治国家として商法を含む法律が整っているか。汚職体質はどうか。国が運営する貿易保険は機能してるか。政治に対する国民の満足度。
2.言語リスク、コミュニケーション・リスクの分析。相手との意思疎通は可能か、契約書はどの言語で取り交わすかなど、誤解が生じないための配慮。
3.通貨リスク。為替変動や通貨危機。
4.法リスク。途上国は裁判制度の信頼性が薄い。
5.支払い関係などの信用リスク。

「他にも、ザンビアならではのリスクはある。アフリカならではの人材リスクだよ。1990年代から2000年代は、エイズが蔓延して成人の死亡率が高く、重要な業務を担う世代が死亡して産業に支障をきたすほどだった」
「確かにアフリカ特有のリスクですね……」
「ザンビアでは教育を受けた中間層の人材が次々に亡くなり、技術移転さえ難しかった。現在は感染予防と治療が進み、羅患率は2000年の17%から2007年には14%になっている」

エイズの現況はどうなってるのだろう?
【ラスト・バタリオン : 蒋介石と日本軍人たち】野嶋剛 ★★★☆☆ 2014/04/21 講談社 2018040
野嶋剛 1968生れ。上智大学新聞学科卒。1992朝日新聞入社。2007から2010年まで台北支局長。
これは、矢谷くんが読んでたのを見て興味を持ち、中央図書館の書庫から狩りてきたもの。
戦後日本の軍人が、台湾に渡り、蒋介石の軍事顧問としての活動をしてきた記録らしい。中国本土で、日本帝国の軍人のいち部が、戦争終わったあとも居残り、中国の軍事作戦に関与したと言う話は、うっすら知ってたが、台湾でこのような組織活動がなされたのは初耳だった。

戦後の約二十年間、台湾において、旧大日本帝国軍人による大規模かつ組織的な軍事支援がおこなわれていた。彼らは「白団(バイダン)」と呼ばれた。その名はリーダーを務めた元陸軍少将・富田直亮(とみたなおすけ)が「白鴻亮(バイホンリャン)という中国名を名乗っていたことに由来する。
日本は戦争に敗れた。降伏した相手は連合軍であり、そのなかに、蒋介石を最高指導者とする中華民国政府も入っていた。その後、国民政府の主体であった国民党は共産党との内戦に敗北し、台湾に撤退する。白団はその国民党を救け、蒋介石を救うために台湾に渡った。
白団の元軍人たちのほとんどが陸軍のエリート機関・陸軍士官学校を卒業し、陸軍大学校でも学んだ優秀な参謀たちで占められていた。だから、実戦部隊というよりは、参謀団や顧問団と位置づけられるべきだろう。
白団は蒋介石が中国大陸から台湾に撤退する直前の1949年7月に結成され、1949年秋から順次段階的に台湾に密航というかたちで渡った。


驚きの事実である(@_@) もともと秘密裡に計画されたもので、情報は秘匿されてきたに違いないが、それにしても、である。

人間社会には建前と本音がある。建前なくして人間は生きられない面がある。世のなかにおいては建前が「大義」と呼ばれたりもする。白団において「義に報いる」という使命感があり、その大胆な行動の原動力になったことを否定するつもりはない。しかし、事実を調べることを生業とするジャーナリストには、「それだけではないのではないか」と常に考える習性がある。私は白団における「建前」の部分以外をもっと知りたいと考えた。
本書は、足かけ7年をかけて蒋介石と日本軍人たちの「本音」と白団の等身大の姿を探し求めた筆者の記録である。(プロローグ 病床の元陸軍参謀)

実に貴重な記録と言えよう。

ドキュメント映画『蟻の兵隊』(池谷薫監督)は、中国山西省で抑留生活を送った旧日本軍人たちが、軍人恩給の支給を求めて国を提訴したことを題材としたもので、各方面で高い評価を受けている。
一言で言えば、日本の降伏によって、中国から日本に速やかに引き揚げるべき旧日本兵が、山西省において残留し、共産党と国民党の内戦の最前線で死闘をくりひろげる異常な事態が起きた。旧日本兵のなかで550人が戦死し、生き残った者のうち700人が共産党側の戦争捕虜となり、1955年ごろまで長い抑留生活を送ることになった。
この旧日本兵たちの戦後の行動は、日本において軍人の働きとして認められてこなかった。「みずから望んで帰国せず、国民党に加わった」という解釈が、旧厚生省によって定められたからだ。
「だが、現実には現場の兵士たちには選択権はなく、上官の命令によって残留するしかなかったのです」と、多くの元山西兵たちとの交流を続けてきた池谷は言う。(第3章 白団の黒子たち)


これが、先に触れた中国に居残った軍人たちのことだろう。

アメリカは国共内戦に敗れた国民党を一度は見捨てた。台湾に敗走した国民党政権にたいする共産党軍の「台湾侵攻」を目前に、1950年1月にアメリカのトルーマン大統領は「台湾海峡不介入宣言」を表明、その「不後退防衛線(アチソン・ライン)」から台湾と朝鮮半島を除外した。1950年5月に台湾の大使館員の退避勧告をおこない、蒋介石ら国民党幹部の亡命先の検討までおこなっていた。
ところが、アメリカのメッセージを見誤った金日成が三十八度線を越えて韓国に攻めこんだ1950年6月の朝鮮戦争勃発によって、東アジアの共産化を恐れたアメリカは手のひらを返して「台湾海峡中立化政策」に転じ、米軍第7艦隊を台湾海峡に派遣して崩壊寸前の国民党政権を守ったのである。
白団の成立は、まさにこの台湾の運命が、暗黒から光明に変転する刹那に実現したものだった。白団はアメリカが台湾を見捨てるときに生まれ、発足してからまもなく、アメリカの台湾支援が再開された。このときの蒋介石はアメリカへの絶望と感謝のはざまに立たされた。苦しい時期に手をさしのべてくれた白団にたいする感謝の念は深かったが、蒋介石にとってアメリカの軍事援助は台湾防衛、大陸反攻の命綱であることは変わらなかった。(第5章 彼らの成しとげたこと)


服部卓四郎は、戦後史における旧軍人の「闇」の部分を体現するような人物だ。
1901(明治34)年生まれで、陸軍エリートとして辻政信らと対中戦線拡大路線を主導。陸軍参謀本部作戦課長に就任し、太平洋戦争の転換点となったガダルカナル戦も指導したが、その失敗の責任を取って歩兵連隊帳として中国撫順に異動させられ、終戦を迎えた。
戦後は一転して占領軍に近づき、GHQ参謀第二部(G2)のウィロビーらの信頼を勝ち取ると戦後の再軍備路線を推し進めようとした。
服部は本来、公職追放の対象になってもおかしくなかったが、ウィロビーとなんらかのかたちでつながって公職追放を免れた可能性が高い。ウィロビーもまた、服部ら旧日本軍参謀の能力を利用しようとしたのだった。
服部らのチームは服部機関と呼ばれ、旧日本軍の将校たちにつてを頼って接触し、戦史の聞き取りをおこなっていた。このチームのメンバ-は陸士出身者が多く、稲葉正夫、堀場一雄、井本熊男、今岡豊、藤原岩市、原四郎、橋本正勝、西浦進、杉田一次などの名前があがっている。この人びとはのちに日本の再軍備を討議するグループにもなっていく。(第7章 秘密の軍事資料)


こういったことも、きちんと押さえておかないと、安倍晋三の軍拡路線の依って来るところがわからなくなる。

日本から学び、それを乗り越えるという蒋介石のライフワークは、第二次世界大戦とそのなかの日中戦争を制したことで、いちおうの達成をみることになった。しかしながら、蒋介石の戦いはそれでは終わらなかった。帝国主義にかわって新たな共産主義という敵に直面し、それに手ひどく敗れ、大陸を失って台湾へ逃亡することになった。蒋介石は、人生最大の危機において、ふたたび、日本の軍人から学ぶことを選んだのである。
近代という変化に満ちた時代が蒋介石という政治家を作りあげ、時代が蒋介石に日本軍人を必要とさせたのであるから、白団もまた時代によって生み出されたのである。
しかし、これもまた、もし共産党に蒋介石が勝利していれば生まれなかっただろうし、もし朝鮮戦争が起きなければ台湾は早々に中華人民共和国の一部となって白団は捕虜になるか帰国していただろう。あるいは蒋介石の大陸反攻が成功していたら、本当に反共軍の一員として中国で戦っていたかもしれない。(第8章 白団とはなんだったのか)


たしかに朝鮮戦争こそが歴史の大きなファクターだった。

本書は「蒋介石と日本」というテーマに挑戦したものだが、戦後日本における蒋介石という人物は、なかなか簡単には語り尽くせない複雑な状況に置かれてきた。
1945年8月の終戦時における「以徳報怨」の演説に代表される寛大政策への恩義を唱える保守派を中心とする人びとは、蒋介石の偉大さを強調する一方で、日中戦争で蒋介石が日本の主要敵だった事実や、戦後に蒋介石率いる国民党政権が台湾でおこなった住民への苛烈な仕打ちいついては、ほとんど積極的に提起することはなく、「1945年の蒋介石」があたかもすべてであるかのような狭隘な蒋介石像にとどまる傾向にあった。
一方、戦後日本のリベラル勢力は、中華人民共和国に対する過剰な期待のあまり、中国共産党が誘導する革命史観に引きずりこまれるかのように蒋介石否定論に傾き、一部には「蒋介石を語る人間は右翼」というような偏見まで存在し、その視野のなかから蒋介石を排除するような状態に陥った。
これは、冷戦構造と台湾海峡をはさむ共産党と国民党との対立という構図に、日本の政界や学会、言論界が巻きこまれていた、ということを意味している。中国大陸で「悪魔化」され、台湾で「神格化」された両極端の蒋介石像に、日本も巻きこまれてしまった部分は否めない。
タイトルは、日本の敗戦によって解体された日本軍の生き残りが、文字通り最後の舞台=ラスト・バタリオンとして台湾で結成されたことを表現するにあたり、言葉の響きがぴったりだったのでタイトルとして使ったに過ぎない。(あとがき)

蒋介石と毛沢東の評価は、70年、80年代の日本では対照的であったことを想い出す。
本書は、中国、台湾問題に日本人がどのように関わったのかの特殊な事例というにとどまらず、歴史の偶然性と必然性といったことを改めて考えさせてくれる好著だった。
【日本問答】田中優子 松岡正剛 ★★★☆   2017/11/22 岩波新書 2018039
お馴染みの二人の対談集ということで、読んでみたのだが、それなりに興味深いところもあった。

松岡正剛 記憶力というのは再生と一対になるから記憶なんですが、コンピュータ・ネットワークはこの両方の機能を攫ってしまったんだよね。
田中優子 スマホで世界観がもてるかしら。
松岡 きっと無理でしょう。第一に「読む」という行為が深まっていかない。第二にコピペがあまりに安易に出来すぎるので、要約力が発達しない。歴史観には要約と総合の両方が必要です。第三に鳥瞰的なマッピングがしにくいのが問題でしょう。


やっぱり、松岡もMorris.と同世代ぢゃ(^_^;)

田中 東アジアという視点で日本を見るという発想は、宣長の時代の日本人たちにはすでにあったんです。宣長はすべての発祥の地は日本だと強調したんですが、朝鮮半島のことを抜きにしては日本の歴史にならないということを宣長にぶつける人たちもいた。そういう論争が起こるくらいに、東アジアのことをみんなよく見ていた。
松岡 近代以降、日清戦争、日露戦争、日韓併合があって、台湾の植民地化も進み、一方では日本主義や国粋主義といわれている動向のなかにも、東アジアにおいての日本ということを本気で考えていた人たちがけっこうたくさんいましたね。右から左まで、頭山満から宮崎当店まで、中国と日本のあいだで「学習共同体」のようなグループをつくる連中がさまざまに活動していたし、そこに孫文たちもかかわった。けれどもその後は中国に共産主義運動がおこり、日本も満州国づくりに向かって結局は日中戦争に突入してしまった。戦後はこのような学習共同体の座の紐帯もあまりできていません。


結局日本は「脱亜」を目指して、アジア世界から脱落したのかも知れない(>_<)

松岡 たえず新商品を開発しなくても、、継いでいくだけで「物語経済」が動いていく可能性があったんでしょう。交換価値というより、循環的編集価値です。拡張をめざさないといられない市場経済とはいささかちがった経済システムですよ
田中 芸能でもそうですね。つねに過去のものを取り出してきてつかう。決して過去のものをそのままにしておかない、しまっておかない。仕立直しによって価値が蘇える。
そういえば「しにせ」という言葉なんですが、いまは中国由来の「老舗」をあてていますが、あれはもともとj「仕似せる」という動詞が語源なのです。だから、単に同じものを守っているわけではなく、ただ継いでいるわけでもなくて、前のものに似せながら新しくしているわけです。そこから、血はつながっていなくてもいいという考え方が成り立つ。よりよく似せられる人が出れば、その人に継いでもらうということもできるわけです。
松岡 そうなのか。知らなかった。「しにせ」っていい言葉ですよね


大言海には「為似せノ義」と書いてあった。そうか「しにせ」って確かにいい言葉である。

田中 ジョン・ダワーはたしかそのなかで「天皇制民主主義」という言葉をつかっていますね。戦後の日本は天皇制民主主義に修練してしまって、そのままずっと来てしまった。
松岡 そのくせ、ふだんは平気で神も仏も拝んで、では日本人の信仰とは何かを聞かれると答えられなく成ってしまった。中世の本地垂迹に始まる神仏習合というのは、ものすごい方法だったのにね。仏教の方でも顕経と密教の両方を並列させていた。
田中 にもかかわらず誰も混乱していなかった。アマテラスを大日如来に見立てても平気だし、インドの神々までつれてきて、七福神なんてつくってしまう。いくらふやしても平気で、日本の全体をそいういう多様性によって治めるというやり方をしてきた。
松岡 おそらく、メインを単一にしてしまうとうまくいかないということを、日本人はわかっていたんじゃないかと思うんです。あえて中心思想をつくらなかった。


神仏習合と廃仏毀釈では、えらい違いである。どうも明治というのがだんだん胡散臭く思えてくる。

松岡 明治維新のときから日本の身体性やプリンシプルがおかしなものになってしまった、という田中さんの考え方は当たってるでしょう。明治の大日本帝国憲法も、あれはあれで近代国家としてつくらざるをえなかったにしても、国体というものだけを依代にしてしまい、立身・立志・立国のためにその依代を皇統にもっていったのだけど、大失敗だった。
田中 神仏分離令が出されたのが明治元年(1868)、その翌年に神祇官が設置され、さらに明治3年には「大教宣布の詔」が出て、神道が「国家神道化」しますね。それとともに廃仏毀釈が吹き荒れて日本中のお寺や仏像が壊されていく。この神道一元化の流れは、明治維新後、異常なほど早い時期に猛スピードで進んでいく。それまで長いあいだかけて継いできたことを、いっせいに捨ててしまった。


承前(^_^;)

田中 白井聡さんの「永続敗戦論」という本の中には興味深い事が書かれてまして、アメリカがフセインやビンラディンにしてきたことと、日本にしてきたこととはほぼ同じだと書いてある。つまり、日本がアメリカを裏切ろうとしたときには、アメリカは日本に対してフセインなどへと同じ行動に出るだろいう、と。だから、いま日本人がふつうに期待しているように、有事のときにアメリカが守ってくれるというようなことはないと、それはそうだろうと思うんです。
松岡 いろいろ議論のあるとことだけれど、暗示的な視点でしたね。戦後レジームが日米合作で、象徴天皇制から基地問題まで、日米構造協議から東芝問題まで、たしかに「敗戦」は了わっていない。
田中 朝鮮戦争が終っていないことで、東アジアが「とらわれの身」になっていますが、日本は敗戦体験に閉じ込められています。敗戦体験とはアメリカに負けたことだけを意味するのではなく、ヨーロッパ列強に向き合わないまま競争に巻き込まれた明治以降のことも意味します。


日本も今や「脱亜」ならぬ「脱アメリカ」こそが根幹的問題である。

松岡 いまでもよく、芸能ニュースなんかで「お騒がせしてすみません」という会見をするけど、「和」を乱すというのはああいうことなんだ。
田中 ああ、そうかもしれない。物理的に騒乱をおこしたとか、何かを壊したとか、そいういうものではない。たとえば「由比正雪の乱」(慶安の変)と言うけれど、乱がおこる前に露見して捕えられてしまって、実際には何もおこしていないんです。
松岡 大塩平八郎の乱だって一日の蜂起で捕まっている。それでも人はそれを「乱」とよぶ。


そう言えば日本では一度も「革命」は成就されていない。

田中 講談社の「アート・ジャパネスク」ですね。あの編集はすばらしかった。日本文化の見え方が変わるシリーズです。
松岡 「アート・ジャパネスク」はペットネームで、正式には「日本美術文化全集」というんです。全十八巻です。

これは一度目を通しておこう。

田中 たったひとつの普遍は必要ないし、むしろ普遍の内部から多様性で押し返すことが必要で、デュアルな日本はそのほうが得意なはずじゃないかとおもうんですね。
私は憲法問題もそのように考えています。戦後、さまざまな事情で憲法のなかに九条が書かれた。九条の内容は軍事強国を基準にすると、とても普遍的とは言えないから、「普通の国になりたい」などと言っては九条を変えることを意図する。ところが九条はパリ不戦条約の流れを汲むもう一つの普遍であることを多くの人は知っています。つまり世界のデュアルが交差する点に九条があるわけです。つねにその結び目に問い、その矛盾に苦しみ、思考し、方策をなんとか生み出す。この思考と工夫が日本人を鍛えます。軍事に頼れば強くなるといったことは幻想で、結局何も強くしないことは、歴史が証明していますね。
松岡 それは最近の安保法制議論に対する、かなり根本的な提言ですね。とても明快で、かつ田中さんらしい。つまり、グローバルな機銃に右顧左眄せずに、基点になるところを多様化していけばいいということでしょう。


お、ここで二人から政治的正論が(@_@)
憲法九条は、理想かもしれないが、理想を掲げることに意味があると思うぞ。
パギやんの大阪案内ぐるっと一周〈環状線〉の旅趙博写真・文 ★★★☆☆ 2012/09/01 高文研 2018038

趙博(ちょう・ばく)1966年大阪市西成区生れ。大学でロシア語を、大学院で教育学専攻。公式サイト「黄土(ファント)通信
趙博がこんな本を出してるとは知らずにいた。大阪環状線の全ての駅の近辺のガイドブック?で、いかにも趙博らしい視点で面白おかしく役に立ち、そして人権や平和についても考えさせられる好著だった。

・1930(昭和5)年に建てられた「済美(せいび)小学校」は、地下鉄・谷町線「中崎町」駅のすぐ北側に位置していて、2004(平成6)年、扇町小学校に統合されて閉校しましたが、地元のみなさんが各種イベントなどに使う施設として活用され、建物は解体されずに残りました。(大阪駅)

ネットで調べたら済美小学校の校舎は2009年に取り壊されてマンションが建ったらしい。2011年、跡地の一部に済美福祉センターとコミュニティセンターが開設されたとあるから、ここに校舎の一部が保存されてるのかも知れない。

・今は長閑な扇町公園ですが、そもそもの始まりは「監獄」でした。堀川監獄が設置(1882)されて、1920年堺市へ移転(現・大阪刑務所)した後に整備されて、1923(大正12)年に公園になった、というわけですわ。(天満駅)

デモや集会で足を運んだ扇町公園が元監獄だったというのも初耳である。

・大川沿いを北へ10分ほど歩くと、右手に「大阪拘置所」(都島区友渕町1-2-5)の異様が見えてきます。
この国の「拘置制度」の大問題に触れておきましょうか。監獄法で「警察官署」に附属する留置場は之を監獄に代用することを得」と定めているために、被疑者は「拘置所ではなく、警察の留置所にいれられたままの状態になることが多々あります。これが、世界中で日本にしか存在しない代用監獄制度です。人権侵害と冤罪を生む温床であるにもかかわらず、日常生活・一般庶民の中では、まったくといっていいほど顧みられておりまへん。由々しき問題ですわ。
死刑制度も、そうでんな。日々の生活の中で真剣に議論されることなど、皆無に近いでしょう。なのに、凶悪犯罪が起こるたびに「世論」は「犯人に極刑を」と求め、死刑存置を是とする人々が多数派です。その「死刑」が、この大阪拘置所の中で行われているという事実を、まず知ってもらいたいんです。
大阪拘置所の北角から東へ、「高倉町1」の交差点を渡ると「高倉幼稚園」、その東に隣接して「トヨクニハウス」があります。この建物群は、戦前から大阪に残る唯一の「RC集合住宅」で、歴史的かつ文化財的価値の高い建造物です。ただし、ここを保存しようとか、一帯を整備しようとかいう施策は、まったく提唱されてまへんので誤解なきように。
一階と二階は別の住居で、真ん中の階段室で左右対称になっている「四戸一型」という住棟形式で、今となっては非常に貴重な建築様式なんやそうです。(桜ノ宮駅)


ここらあたりが趙博の本領発揮というところかな。トヨクニハウスも一度見に行かなくては。

・大阪城公園が今の姿になったのは1969(昭和44)年で、それまでは"鉄の廃墟・砲兵工廠跡"でした。大阪城ホールは「砲兵工廠本館跡」で、ホールのすぐ北には「砲兵工廠水門跡」が残ってます。(大阪城公園駅)

アパッチ族の活躍を想い出す。

・森ノ宮駅を降りて交差点を西へ渡り、大阪城公園の正面入口を過ぎて坂道を登っていくと、右手に「ピースおおさか」見えてきます。ここは「砲兵工廠診療所」の跡です。ほんまは「大阪国際平和センター」が正式名称でんねん。
1991年に開館した時、設立委員の故・勝部元さん(桃山学院大学教授)が「広島の平和資料館は「戦争の被害」を、大阪の平和資料館は「戦争の加害」を展示するのだ」と力強く語っておられたことを、今もはっきりと記憶しています。(森ノ宮駅)


以前大阪城花見が恒例で、花見場所のすぐ横にあるこの施設があることは知りながら、入ったことがなかった。本書読後、先日初めて入場してきた。

・宰相山西公園の東に隣接するのが「真田山陸軍墓地」(天王寺区玉造本町14)です。1877(明治10)年の地図に「招魂社」の記載が見られますから、おそらく、これが陸軍墓地の発祥と思われます。広大な4550坪の古戦場跡に5300基以上の墓碑と4万3千柱余りを収めた納骨堂があって、1873(明治6)年の「徴兵令」以前の属する士官・兵士、そして「西南戦争」、日清・日露戦争から太平洋戦争に至るまでの兵士や戦没者が祀られてます。(玉造駅)

これも、今度見に行こう。

・JRと近鉄、両方の鶴橋駅から徒歩0分、鶴橋市場は巨大なエスニック・エリアでおます。この「市場群」は、
1.近鉄鶴橋卸売市場
2.大阪鶴橋鮮魚卸売市場
3.鶴橋卸売市場
4.高麗市場
5.その他の周辺店舗
から成り立ってまんねん。さらに、市場の中央からは、南に約500mの鶴橋本通り商店街が延びてます。(鶴橋駅)


鶴橋はMorris.のフランチャイズ(^_^;)だから、これは常識。

・桃谷商店街を疎開道路に向かって歩くこと約5分、桃谷中央商店街のアーケードがいったん途切れますが、ここにはかつて猫間川が流れてたところです。だから、商店街の十字に交わる東西の道路は、今も「猫間川」の愛称で呼ばれてます。『金屋』は、その交差点のすぐ南にあります。店内にメニューはおまへん。ここは「韓国レストラン」でも「焼き肉屋」でもない「ホルモン焼き屋」でっさかい、そこんとこ、お間違いなきように頼んます。(桃谷駅)

「金屋」ホルモン好きのMorris.としては、見逃せない。

・寺田町南口に接している寺田駅前南商店街は、もともと「黄金地商店街」という戦前からの古い商店街で、「黄金湯」という銭湯がその名を今に留めています。
北口は西側が天王寺区、東側が生野区の南端にあたりますが、かつてここに猫間川が流れていました。大阪市内の歴史を探るのに、猫間川の探索は欠かせない、とても重要な「元・河川」です。猫間川は、百済川(平野川の古名)にたいして高麗川(こまがわ)と呼ばれていたのが、訛って猫間川になったといわれてまんな。阿倍野区高松に端を発して、源ヶ橋を通って生野区から東成区・城東区と環状線に沿って流れ、森ノ宮の砲兵工廠の西北端で平野川に合流していた長さ45km、川幅約10mの自然河川でした。戦前から暗渠化の工事が続けられて1957(昭和32)年に完全に消失しましたが、川の痕跡や関連する石碑が各地に残ってます。そうそう源ヶ橋の手前北側に猫間川公園があります。ほんまに、猫の額みたいな小さい公園ですから、探しあてた時の喜びはひとしおでっせ。(寺田町駅)


猫間川公園は、前に見つけて名前だけで喜んでた記憶があるが、猫間川が今は幻の川で、大阪にとって重要な水路だったことは知らずにいた。これについては、猫間川源流探検記というネットのサイトでとんでもなく詳しく論じられている。

・天王寺駅前から次の阿倍野停留所は約500m、この軌道の両側が阿倍野筋商店街です。「阿倍野再開発」工事によって西側の店はなくなり、飛田新地まで延びていた旭通り(阿倍野銀座)も完全に消滅してしまいました。まるで「親の敵」を殺すみたいに街をずたずたにしてできあがったのが、Q's Mallです。生活目線・庶民感覚の「まちづくり」とはほど遠い、歴史的景観・文化遺産などをまったく無視した「スラム・クリアランス方式」「ゼネコン主導型」の再開発で、もとの町並みは跡形もありまへん。(天王寺駅)

ほんまに天王寺の再開発は、よそ事ながら腹立たしい思いを抑えきれない。

・新世界は第五回内国勧業博覧会の後につくられた遊園地「ルナパーク」の跡地で、真ん中に聳える通天閣は、実は1956(昭和31)年に再建された二代目でんねん。エッフェル塔を真似た初代は、1912(明治45)年に完成、同時に一大歓楽街が開発されました。北半分はパリを模して放射状に道路をつくり、南に「ルナパーク」、そして芝居小屋・映画館・飲食などが軒を並べた、おれが新世界の始まりです。
1923(大正12)年にルナパークは閉園。通天閣は1943(昭和18)年に金属類回収令によって解体され、鉄材は軍に供出されました。
人が増えるのはエエんでっけど、たかが「串カツ」を食べるのに長蛇の列を作るのだけは、やめなはれ。その店が混んでたら、他の店に行きなはれ……これが「新世界」の流儀やったはずだ。店側にも一言言いたい。下品な客の呼び込みや「わざと並ばせる」セコイ商売は、即刻やめてもらいたい! 自分の味の好みは、オノレで決めまんねん。
釜ヶ崎とは、「摂津国西成郡今宮村水渡釜ヶ崎」のことですが、その字は、1922(大正11)年に今宮村が大字を改編したことで消滅しました。現在でも「釜ヶ崎」、あるいは「カマ」という略称で呼ばれている理由は、この地区が日本最大のスラムであり、地名が人口に膾炙したままだからです。20ヘクタール(半径300m)余りの土地に、200軒以上の簡易宿泊所(通称"ドヤ")があり、約2万5千人が住んでいると言われています。地理的には、JR「新今宮駅」と地下鉄「動物園前駅」から南、阪堺線「南霞町駅」から「今池駅」間と、南海「新今宮駅」から「萩ノ茶屋駅」の間、この一帯になります。
飛田新地の北東にある料亭「鯛よし百番」は、大正中期に遊郭として建てられた建物をそのまま使用していて、2000(平成12)年に国の登録有形文化財となりました。東京「山谷・浅草・吉原」と、大阪「釜ヶ崎・新世界・飛田」の相似形は、偶然の一致でっしゃろか?(新今宮駅)

新今宮もMorris.お好みスポットである。趙博は夏と年末に三角公園で開かれる催しに連続出演している。Morris.も何度か見に行ったことがある。また行こう。

・リバティおおさかは
1.部落問題をはじめとする人権問題に関する調査研究
2.関係資料や文化財の収集・保存
3.展示・公開を通じて人権思想の普及と人間性豊かな文化の発展に貢献する
という目的で1985(昭和60)年に「大阪人権歴史資料館」としてオープン、1995年に「大阪人権博物館」に解消されて今日に至ってます。博物館の入り口の建物は、西濱部落の人々が血のにじむような努力で設立・維持・運営してきた「栄小学校」の校舎を一部保存したもの。ホールでは、天童芸能や文化公演も、年に何回か行われますから、スケジュールを確認した上でご訪問ください。(今宮駅)


これも機会があれば覗いてみよう。

・芦原橋とは、かつてこの地に流れていた鼬川に架かっていた橋で、現在では芦原橋交差点付近にある「大阪環状線鼬川橋梁」にその名を残すのみです。
浪速町は、太鼓の産地として300年の歴史を誇ります。また、全国有数の皮革集散地で、皮革関連産業が伝統的地場産業という、おそらく日本でも稀有な地域でしょうな。この界隈では、和太鼓・三味線、綱貫沓、雪駄、沓、鞄、衣料品などの日常生活用品から産業用ベルトにいたるまで、さまざまな商品を作り続けてきました。
[大阪市営の渡船場]
安治川 天保山渡(港区築港3丁目-此花区桜島3丁目)
尻無川 甚兵衛渡(大正区泉尾7丁目-港区福崎1丁目)
大正内港(大正区北恩加島2丁目-大正区鶴町4丁目)
木津川 千本松渡(大正区南恩加島1丁目-西成区南津守2丁目)
木津川 木津川渡(大正区船町-住之江区平林北1丁目)
木津川 落合上渡(西成区北津守4丁目-大正区千島1丁目)
木津川 落合下渡(西成区津守2丁目-大正区平尾1丁目)
木津川運河 船町渡(大正区鶴町1丁目-大正区船町1丁目) (芦原橋駅)


渡し船、今も残ってるのなら是非乗っとかなくては。

・大川(旧淀川)中之島周辺の橋天満橋から西方面に
堂島川(中之島北側) 天神橋-難波橋-鉾流橋-水晶橋-大江橋-ガーデンブリッジ-渡辺橋-田蓑橋-玉江橋-堂島大橋-上船津橋-
船津橋
土佐堀川
(中之島南側) 天神橋-難波橋-栴檀木橋-淀屋橋-錦橋-肥後橋-筑前橋-常安橋-越中橋-土佐堀橋-湊橋-端建蔵橋

中之島にこれだけの橋があるのか。そう言えば、趙博の「橋」のシングルCD、最近押し入れから出して、聴き直してみた。

・サンクス平尾(大正区平尾3)は「大正区の中で最も沖縄色がよく出ている商店街」」「リトル沖縄」などと情報誌やマスコミでも取り上げられることが多いんですけど、そんな雰囲気は、いっさいございません。ごく、フツーの商店街です。「わ、沖縄~」なんて期待して訪れると、札幌の時計台よろしく「がっかりスポット」になってしまいまっせ。「デフォルメされた沖縄イメージ」が陳列されているのではなく、生活の中に沖縄が自然に根付いてまんねんな。(大正駅)

大正区はジャグバンドThe Bigoodの本拠地でもあるし、沖縄関連の店など、ゆっくり散策したいスポットなのに、なかなか果たせずにいる。

・天保山は標高4.753mの築山で、国土地理院発行の地形図に掲載されている「山」の中では日本一低い山です。その名の通り天保2(1831)年に安治川を浚渫した際に出た土砂を河口に積み上げたのが起源で、当初は20mの高さでした。その後、砲台を建設するためにその土砂が採取されて明治時代に7.2mになりました。さらに、1977(昭和52)年に「地盤沈下」で急激に標高が低下し、現在に至っておるような次第であります。(弁天町駅)

弁天町駅前はタワービルが林立して完全に様変わりしてしまった。もちろん、嬉しい話ではない(^_^;)

・西九条駅は、淀川と安治川に挟まれた三角州「此花区」の入り口。駅のすぐ東が「福島区」、南側は「西区」で三区の「扇の要」に位置してるわけですな。
「ユニバーサル・スタジオ・ジャパン(USJ)」が2001年にオープンして、此花区のイメージは一変しました。USJの敷地は、もともと日立造船や住友金属工業など重工業の生産拠点でしてん。その跡地が、世界有数の巨大遊園地になった。USJ独占化の煽りで、「阪神パーク」「あやめ池遊園」「奈良ドリームランド」「宝塚ファミリーランド」と、阪神一円の遊園地は、みな閉鎖に追い込まれました。
姿を変えていく西九条ですけど、駅周辺には未だ「労働者の町」の様相が残ってましてね。何ちゅうても、駅舎の真下にあるトンネル横丁はよろしおまっせ!「綺麗ばかりが能じゃない、手垢にまみれた風情こそ、働く者にゃ似合うのさ~(作詞・パギやん)。唄の文句が、自然に口をついて出てきます。
駅の南口からすぐ、安治川岸壁に奇妙な建造物が見えます。これが此花区と西区を結ぶ安治川トンネルの入り口でんねん。ここには源兵衛渡があって、渡し船が行き来してましたけど、今は、西区川の交差点の名前にその痕跡を残すのみです。
安治川は河川運搬の重要航路で、運搬船が頻繁に行き交うんで、事故の危険性が高かった。おまけに、船舶の「高さ限界」との関係から、橋を架けるのも容易ではなかった。そこでとうじょうしたんが、全国でも類を見ない「河底トンネル」計画。1935(昭和10)年に建設が始まって、44年に竣工しました。建設は「沈埋工法(trench method)」。(西九条駅)


この安治川トンネルは何度か往来したことがあるぞ。

・JR環状線野田駅には、地下鉄「玉川」駅が接しています。その400m北に、阪神「野田」駅と
地下鉄「野田阪神」駅、おまけにJR東西線「海老江」駅が引っ付いてます。「三つ巴に五つの駅」が集まって、便利さと複雑さが入り乱れれておるような次第でございまして……(野田駅)


たしかにあのあたりはややこしいことになってると思う。

・「歴史は歩かなわからん」ということを、身をもって僕に教えてくれた平井正治さんが、2011年5月に他界されました。釜ヶ崎のドヤに住みながら歴史を見つめ続けた平井さん、その生き様と死に様そのものが「風景と文物と人」でした。本書の内容のほとんどは、平井さんからの教授であることを白状しておきます。(あとがき「旅の終わりに」)

平井正治という名前も初耳だが、彼の著書「無縁声声」は絶対読まねば。
ということで、本書のおかげで、訪ねてみたいところをいっぱい教えてもらったし、大阪の歴史に関しても刮目させられた。歌い手としての趙博にはかねがね感心していたが、このような民間研究家?的一面もあることは知らずにいた。すごい、すごい。「浪花の歌う巨人」というキャッチフレーズも誇大広告ではなかったようだ。

【朝鮮と日本に生きる 済州島から猪飼野へ】金時鐘 ★★★☆☆ 2015/02/20 岩波新書:新赤版 1532 初出「図書」2011-14 2018037

実はこの本は刊行された翌年に読んでた
ちょっと理由があって、再読することにしたのだった。
金時鐘は4・3事件で済州島から日本に逃亡(密入国)して在日朝鮮人となったことをトラウマとして持ち続け、その経緯についてはずっと沈黙を続けてきたのだが、金石範との対話「なぜ書きつづけてきたか なぜ沈黙してきたか 済州島四・三事件の記憶と文学」で初めて語った。これにはかなり衝撃と感銘を受けたのに、本書をおざなりに読んでたということで忸怩たる思いがあった。

やはり歌は情感の産物のようです。その情感を一定の波長の心的秩序に仕立てているものが抒情なのですが、だからこそ批評はこの「抒情」のなかに根づいて行かねばならないと私は思いつづけています。私が抒情という、さも共感の機微のようにも人の真情をほだしてしまう感情の流路を警戒してやまないのは、私がなじんで育ったあらゆるものの基調に、日本的短詩型文学のリズム感が抒情の規範さながらにこもっているからであります。

日本的「抒情」へのアンビヴァレンツ(愛憎交々)が、時鐘の詩のスタイルに大きく関わり、そして、後年の金素雲訳の朝鮮詩集の再訳につながっていく。

朝鮮にまで話題しきりだった金素雲訳の朝鮮近代詩選、『乳色の雲』(初版、1940年、河出書房)を手にしたのもこのような情感飢餓に陥ったさ中の、師範学校二年のときでありました。--それこそページの端がすり切れるくらい熟読しました。
新生日本人の皇国少年が朝鮮で生成して、朝鮮の"詩心"といわれるものを精緻流麗な日本語でもって知らされた喜びは、多感な思春期の私にそれこそ格別な感動といってよいものでした。ひたむきな皇国少年の私は名訳のほまれ高い金素雲の『乳色の雲』から汲み取り、感じ入ったものは、残酷な歴史の試練にさらされてあった朝鮮の"詩心"とはなんの関わりもない、ひたすら感傷めいた日本の数ある近代抒情詩とへだてなくひびき合っていたことの共感であり、それへの感激でありました。文語、雅語までも自在にこなしている訳者の玄妙な日本語によって、私は初めて心情の機微のふるえのような朝鮮の詩情に触れたのです。


「再訳 朝鮮詩集」金時鐘訳も読みながら、かなり否定的感想を持ってしまった。実はこれを契機に、知人と口論めいたことになり、それ以来付き合いが疎遠になってしまった。今思うと、実に大人げないやり取りだったと思うが、それがまたMorris.の特性でもあるのだろう(^_^;)

解放軍のはずのアメリカ軍が進駐してきて、せっかくの「解放」にありついた南朝鮮に軍政を敷き、米占領軍がホッジ中将の声明(9月9日)によって朝鮮総督府の機能、権能がそのまま踏襲され、史員(公務員)の身分まで保障されたことで親日派、民族反逆者の追求を受けて身を隠していた連中までが、大手をふってもとの職責に返り咲いていきました。政財界から司法検察はいうに及ばず、教育界、文化芸術界に至るまで、あっという間に元の木阿弥の旧体制が息を吹き返したのでした。全くもって、主人がアメリカに入れ替わっただけの、南朝鮮の「解放」でありました。

朝鮮戦争と言えば南北朝鮮どうしが相争った骨肉相残の動乱として語られることが多いようですが、実質的には北朝鮮と日本の米軍基地を根城にしたアメリカ軍との戦争でした。戦後初めての駐日大使となったロバート・マーフィは、1964年出版の『軍人のなかの外交官』の中で、当時の米軍基地の重要さを隠すことなく、とくとくと語っています。
「日本人は、驚くべき速さで、彼らの4つの島を一つの巨大な補給倉庫に変えてしまった。このことがなかったならば、(われわれは)朝鮮戦争は戦うことはできなかった」。つまり日本列島は挙げて米軍の出撃基地、軍需兵器の輸送基地に成り変わっていたというわけです。


戦後の朝鮮半島の成り行き(分断と内戦)に、これまでMorris.は単純に、やり方の失敗と思い込んでいたのだが、想像以上に日本の責任の大きさを思い知らされてしまった。

60数年ものはるかな年月の彼方ですっかり混濁してしまっている「四・三事件」の記憶ですが、済民日報社が編んだ記録集『済州島四・三事件』に付されてある綿密な年譜や、文京洙の情理を尽くした労作『済州島四・三事件』(平凡社)に巡り合って、井戸の古びたポンプが呼び水で蘇っていくように、次々と個々の記憶が引きずり出されてきました。いが栗の毬の固まりのような記憶ですので触れるのも傷く、想い出すまいと努めて心の奥に仕舞いこんできた記憶です。そのせいでしょうか、原像はうすらぎもせずに順々とコマ送りに浮かび上がってきたのでした。
この連載を機に私はどのような関わりから「四・三事件」の渦中に巻き込まれ、私はどのような状況下で動いていたのか。"共産暴徒"のはしくれの一人であった私が、明かしうる事実はどの程度のものか、を改めて見つめ直すことに注力しました。今更ながら、植民地統治の業の深さに歯がみしました。反共の大義を殺戮の暴圧で実証した中心勢力はすべて、植民地統治下で名を成し、その下で成長をとげた親日派の人たちであり、その勢力を全的に支えたアメリカの、赫々たる民主主義でした。(あとがき)


読み返して、良かったとは思うが、まだ読み切れていない思いが残る。
【メディア・ディアスポラ】織田直幸 ★★★☆ 2012/09/15 カンゼン 2018036
織田直幸 1964年東京生れ。中央大学哲学科中退。編集制作会社を経て2010年株式会社ゼロ社設立。雑誌『月刊サイゾー』web『Business Jouunal』で「テレビメディアの再生」をテーマにしたコラム連載を持つ。

東日本大震災の後に書かれた近未来小説。震災で信用を無くしたマスコミ(主にテレビ)が、その後に起きた(とされる)東海大震災でいよいよ末期症状になり、テレビ局をやめて、ゲリラ映像を配信するテレビマンチームと、巨大IT企業ボスの自作テロ計画の対決といった、ほとんど漫画とアニメみたいなストーリーなのだが、テレビメディアに関する蘊蓄にはなるほどと感心させられるところもあった。

1951年米国上院議員カールムント氏が構想した『ビジョン・オブ・アメリカ構想』もその頃、よく出てきた話の一つだった。まだ日本にテレビネットワークがなかった頃、米国の様々な影響力もまた放送を通じて残す。米国が放送技術を提供していくことで、米国の民主主義を諸外国の国民に理解させ、その結果として世界に米国のビジョンを押し広めていく……。その後、紆余曲折があり、米国による日本のテレビネットワーク構築には結局歯止めがかかった。
テレビネットワークが日本国内で立ち上がろうとしている頃から米国は日本の放送事業に関し、様々な形で介入してきた。時には「反共」だったり「民主主義教育」という大義を掲げ、介入し続けてようとしてきたのだ。

正力松太郎がらみの日米の情報操作にも関係するところだろう。

生身の人間に傷つけられるのがイヤだから、メディアを介しての人とのやりとりを軸にして生きてるのもその共通項。そして、それを保証してくれるメディアはたしかに山ほどある。
初対面の人に「え? やってないのお?」と困った顔をされるのがイヤで、名刺代わりに作ることを半ば強制されるフェイスブックなどのSNS。今や食料品から家電まで全ての商品に付帯され、自動的に個人購買記録をしていくICタグ。今日どこに行ったか全て記録していく携帯電話に標準実装された位置情報システム。
個人の属性と嗜好性、今日した買い物、移動箇所、俺の感情変化に至るまでデータ化され、俺たちは一切合切、記録され続けている。
顕微鏡で観察され続ける微生物のように、俺たちの個人情報は俺たちが自覚している俺自信よりもはるかに細かく正確に、毎日どこかのサーバに蓄積されていく。
思想のことはよくわからないけれど、思想という言葉と技術が具体化していく現実の間には、もうほとんど距離はないように思える。


一昔前なら、サイバーSFにありがちな想定だったのに、今やほとんど「リアル」だもんな(>_<)

「二ホンは二度の大震災と原発事故に見舞われた。未だに原発事故はそれぞれ収束する見通しは全く立ってない。この間、マスメディアの信用は完全に失墜した。片やツイッターやブログなどのネットメディアがさらに一般大衆に広がっていった。が、個人発信型のネットメディアが国内外から信を失い、ネットメディアが進行する社会では社会が正式に認知した情報、情報の公式性が消滅する。"メディア・ディアスポラ"の出現だ。マスメディアから信が失われ、拡散した無数の情報だけが社会を浮遊している状態のことだ。一言で言えば日本社会には情報カオス状態が現れたんだ。これが社会や国家にとってどれだけ危険なことか、わかるか?」

これがタイトルのいわれだが、「ディアスポラ」という言葉は、移民、離散民関係の本でよく目にするが、もともとはヘブライ語で、国を無くしたユダヤ人のことを指していたのが、今では、離散の民一般を指すようになった。在日詩人金時鐘を語るときによく使われるので、おなじみだったが、軽く使える言葉ではないのかもしれない。

人を救おうとすることは、圧倒的に正しい。でも人は人を救うことによって、自分が救われることをに期待しちゃいけない。それは「共依存」と同根で、その一種の変奏だから。自立した個人が集まって役割分担する「チームワーク」と「共依存」では、天使と悪魔くらい違うんだ。

これはテレビ局をやめてチームに参加した若い女性の思いだが、人を救おうというのは得てして思い上がりだったりする。「共依存」というのも重い言葉である。
【マッコルリの旅】鄭銀淑 ★★★★ 2007/08/09 東洋経済新報社 2018035
鄭銀淑(チョンウンスク) 1967年生れ。世宗大学院観光経営専攻。日本に語学留学した後、ソウルで執筆・翻訳を行う。「韓国・下町人情紀行」「韓国の美味しい町」「韓国の「昭和」を歩く」

彼女の著作は新書などで数冊読んで、それほど印象に残らなかったのだが、本書には大いに感心させられた。
とにかく、取材先が多い。カメラマン同伴で写真も悪くない。とりあえず、本書の取材先を総覧しておく。(太字はMorris.が行ったことのある場所)

第一章 論山江景-金堤-全州-井邑-南原-谷城-順天-麗水-康津-海南-群山-舒川-大川
第二章 槐山-忠州-丹陽-安東-鎮川-清州
第三章 釜山-梁山-密陽大邱
第四章 寧越-旌善-囊陽-束草-原州-驪州-高陽-楊州-抱川-鉄原-安城


まだまだMorris.が訪れていない穴場は多いようだ。どんな田舎に行っても、ご当地のマッコルリはありそうだから、Morris.も行き当たりばったりで、飲み歩こう。去年パクヨンモクくんに連れててってもらった尚州(サンジュ)のペッタギなど、名物マッコルリもあちこちに潜んでいそう。

文体見本を兼ねて「釜山篇」の一部を引用する。

草梁市場からスタートし、上海通り、テキサス路地、ヨンジュ市場、東光洞の裏通り。開港、日本の植民地支配、朝鮮戦争などの面影を今も残し、過ぎ去った日々への郷愁と哀感が漂っている。ふと曲がった角の街灯の下に、昔ながらのデポチブがありそうな気がして、釜山に来るたびに訪れる夜の散歩コースだ。まずは「四十階段」に足を伸ばしてみる。朝鮮戦争のとき全国から殺到した避難民が身を寄せたヨンジュ洞、東光洞、宝水洞。坂道の多いこのあたりは、板切れで建てたパンジャチブと呼ばれる簡易住宅が集まる「パンジャ村」だった。
ピンデトックという名は「貧者の餅」に由来するといわれるほど、懐が寂しいときのつまみの代表格だった。
「生濁 センタク」「金井 クムジョンg」釜山市蓮堤区蓮山洞 釜山合同醸造 白米70%、小麦粉20%、澱粉粉10%/6度
生濁より金井のほうが甘みが少ないように感じる。
「生ッサルタク」 金井区釜山洞 釜山山城醸造 白米100% 、アスパルテーム/6度
私が今まで飲み歩いてきたマッコルリのなかで、3本の指に入る「山城マッコルリ」(釜山)


Morris.の好みだった白いペットボトルの「金井」は最近見かけなくなったが、「センタク」と同じ醸造会社の製品だったのか(@_@) 「山城マッコルリ」はMorris.も工場まで行ったことがある。

・「ペタリ酒博物館」高陽市高陽区星沙1洞470-1(高陽)

・山深い抱川の水がおいしいことおは古くから知られていてた。なかでも、二東酒造があある場所の地下200mから汲み上げた水は、特に味が良い。「抱川二東マッコルリ」の工場は抱川二東面都坪里、白雲渓谷から流れる川沿いにある。同社は1993年、マッコルリを初めて日本に輸出。日本法人「二東ジャパン」を設立し、日本の大手スーパーなどでも販売されているほどだ。(抱川)

・マッコルリの「マッ」は「粗雑」、「コルリ」は「濾す」の意味で、つまり、「粗く濾した酒」。

マッコルリを供する店の種類と変遷

酒幕 チュマク 宿屋を兼ねた酒場。酒や料理を頼めば、宿代無しで泊まれる宿屋でもあった。
木爐酒店 モンノチュチブ 1910年からの日本植民地時代、マッコルリが飲める大衆酒場といえば、木爐酒店というソンスルチブ(立呑み屋)だった。繁華街の路地などにあり、長い木爐(木製カウンター)をテーブル代わりにしていた。酒を頼めば、つまみは無料でついてくるのが普通だった。
デボチプ 「大砲」という意味もある。60年から70年代に庶民と喜怒哀楽をともにした、居酒屋。「王デボチブ」という呼び方もあった。
ニナノチプ デボチプで韓服の女性が客と一緒に座り、マッコルリを酌み交わしながら歌を歌う。歌に合わせてテーブルを叩くのが定番で、これが「ニナノチプ」あるいは「メミチプ」と呼ばれた。「ニナノ」は歌の合いの手、「メミ」は蝉のこと。
学士酒店 70年代以降、学生街を中心に増えたのが学士酒店。1968年大卒エリートたちを中心にしたスパイ事件「統一革命党事件」で、彼らが検挙される直前までアジトとして使っていたのが「学士酒店」だったため、一時当局に目をつけられrていた。
民俗酒店 80年代に登場した伝統酒店。出されるのはマッコルリ系のトンドン酒がメイン。
フュージョン・デボチプ 2004年からマッコルリブームが再燃し、昔のデボチプの雰囲気を再現したチェーン店。


マッコルリ醸造用語集
麦芽」発芽麦を乾燥させたもの、別名「ヨッキルム」
」酒造用の発酵剤で「クク」と読む。小麦・米・粟などの穀食にカビ(菌)を繁殖させたもので、澱粉を糖化させる酵素を含む
ヌルク」小麦・緑豆などを原料とする韓国伝統の麹
改良ヌルク」カビを人工的に培養した麹
粒麹」麹菌となるカビを人為的にふりかけて培養した麹
種麹」粒麹となるカビ類を純粋培養したもの
白麹菌」黒麹菌の突然変異菌。醸造場でマッコルリ用の粒麹の種麹としてもっとも一般的
播種」蒸煮した澱粉質に種麹をまんべんなく混ぜ合わせること、「はしゅ」と読む
ポッサム」蒸した原料の培養を促すために木綿の風呂敷に包んでおくこと
品温」製造時の温度管理
糖化」澱粉を分解して糖類に変えるプロセス
酵母」酵母菌、イースト菌、発酵菌とも呼ばれる
酒母」酵母を培養したもの、糖分を発酵させてアルコールを生成させる。酒場の女将の俗称でもある
コドゥパブ」糖化しやすくするため米や餅米を蒸した強飯
トッスル」酒母にコドゥパブを加えた状態
トッパブ」仕込みにだけ使われる強飯
タンクム」仕込みのこと
キョバン」撹拌すること
澱粉粉」ブドウ糖・水飴・果糖・アルコール糖など
製成」原酒(モロミ)に水を加えて適度なアルコール度数に薄めること
生マッコルリ」殺菌していないマッコルリ。酵母が生きているため、熟成度によって様々な風味が味わえる。流通期間が短く、味にばらつきがでる
殺菌マッコルリ」殺菌して、発酵に用いる酵母あんどの微生物の活動を止めたマッコルリ

ああ、またマッコルリ飲みたくなったあ(^_^;)

【韓国語から見えてくる日本語】松本隆 ★★★スリーエーネットワーク 2018034
「 韓流日本語鍛錬法」という副題がある。「にほんごCafé」という、いわゆる日本語教育の関連団体のシリーズ本の一冊らしい。

日本語教育の現場では、「形容動詞」の代わりに「ナ形容詞」という名称が広く使われています。この名の由来は、「親切な、元気な、便利な、不便な、危険な」のように「~な」で終るところから来ています。なお一般の形容詞「暑い、寒い、強い、弱い、高い、低い、安い」は語末の形から「イ形容詞」と呼ばれています。
「形容動詞」という品詞名が、現在と同じ意味で使われたのは、『中等教科明治文典』(芳賀 1904(明治37))という文法書が最初。


そうそう、Morris.もずっとこの「形容動詞」というのには胡散臭いものを感じていた。「ナ形容詞」というのはわかりやすい。普通の形容詞を「イ形容詞」というのにはちょっと抵抗を感じるが、日本語を学ぶ外国人向けにはこれも理解しやすいのだろう。

文法は母語話者にとって暗黙化した知識です。暗黙知というのは、巧みに使いこなせるほど習熟しているにもかかわらず、その方法を言葉でうまく説明できない状態を指します。自転車の乗り方や、鉄棒の逆上がりのコツなどが身近な例で、これらはマニュアル化が極めて困難です。

「暗黙知」は先般読んだ言語学の本にも出てきた。たしかに自転車乗り方や水泳などの技術獲得は、言葉では説明しにくい。文法もそのような類のものだという捉え方には、刮目させられた。

語学に限らず勉強と試験、つまり学んだこととその評価および反省は不可分の関係にあります。試験それ自体が学習過程の一部ともいえます。
試験を実施する側からいうと、試験には学習を奨励する狙いがあります。
ハングル検定は出題基準をかなり詳細に公開しているので、韓国語を個人的に学んでいる人には学習の指針として役立ちます。語彙や文法項目の級別配当は、特に初心者にとって、学習段階のモデルを例示する働きがあります。
ハングル検定は年2回の実施ですので、自己の学習計画にも組み込みやすいでしょう。具体的な目標があれば日々の学習にも力が入ります。ただし、検定合格のためだけの勉強になっては面白くありません。さらに語学教師の自己研修のためには、試験問題を批判的に分析することも大切です。(コラム「試験から学ぶ」)


試験嫌いのMorris.は、これまで韓国語の資格試験は一度も受けたことはない。88年から学生青年センターの朝鮮語講座(実質は韓国語)を受講したときに、挑戦するべきだったかもしれない。と、いっても後の祭りである。

【知識 knowledge】九島伸一 ★★★☆☆ 2017/06/07 思水舎 2018033
前作「情報」の内容が濃かったので、続編のこの「知識」も読まねばと思っていた。期待を裏切ること無く十分読み甲斐があった。ただ、「情報」とはずいぶん持ち味が違ってた。彼の基本理念。データ-情報-知識-知恵という4層モデルからすると、次作は「知恵」になることはまず間違いないだろう。

・蓄積されず保存されないデータはすぐ消える、
・伝えられず見つからない情報は、ないに等しい、
・生かされず使われない知識には、意味がない、
・生きる力にならない知恵は、知恵ではない


こういう考え方から類推するに著者はリアリストでありモラリストでもあるらしい。

情報は伝えられても、知識にはならない。理解されてはじめて、知識になる。
情報を伝えた人の知識と、情報を伝えられた人の知識が、同じである必要はない。
情報を理解しようとして考えて、その結果の知識なら、一人一人違うのは、あたりまえ。
情報が知識になるとき、情報ははじめて色を持ち、考えた分だけ光り輝く。
知識はだから、間違っていようと、悪かろうと、持ち主のもの。その人そのもの。
知識を否定することは、その人を否定すること。そう思えば、どんな知識も尊重したくなる。


こういった物言いはこの人なら際限なく続けることができるのだろうな。

断固たる行動を取れる人がいる。人気のある政治家や独裁者と言われる人たちは、断固たる行動がその特徴だ。
人は躊躇するものだ。そして多くの状況において、断固たる行動を取ったりしない。躊躇する人のほうが人間らしく、私は好きだ。
断固たる行動と聞くと、悪い人のことしか浮かんでこない。断固たる行動を取れる人のいないところで生きていたいものだ。(第1章 知識とは何か?)


前作とはかなり違ったタッチ。シュールレアリストの自動筆記に通じるところもありそうだ。

インターネット上の情報のせいで、すべての事柄に賛成意見と反対意見とが溢れかえっている。不思議なことに、自分が賛成だと賛成意見ばかりに目が行き、反対だと反対意見ばかりに目が行く。そして、「自分の意見は絶対に正しく、他の意見は絶対に間違っている」という人ばかりになってゆく。

Morris.はほとんど見ないようにしてたが、2チャンネルなんてのはまだ、健在なのだろうか? SMS全体が2チャンネル化してるようでもある。

長期記憶は、手続き記憶(procedural memory(implicit memory))と陳述記憶(declarative memory))とに分類されている。陳述記憶はさらに細かく、エピソード記憶(episodic memory)と意味記憶(semanntic memory)とに分類される。
手続き記憶はたとえば、泳ぎ方、自転車の乗り方、スキーの滑り方などについてのうまくいった記憶で、「一度覚えれば、その後ずっとできる」というのはみんな、手続き記憶だ。
意味記憶は言葉の意味についての記憶で、生まれて最初に覚える言葉に始まり、学校教育を含むありとあらゆる機会に吸収した言葉の数々の意味の集まりだ。私たちはそれを知識と呼び、大事なものだと思いこんでいる。ただ、日本語の花の名前や魚の名前が日本を出た途端に通用しなくなることからわかるように、場所が変わり時間が変われば知識の大半はなんの意味も持たなくなる。国語の漢字とか歴史の年号なども、そしてまた数学の公式や化学の分子式や組成式なども、その有用性は限定的だ。まあそんなことはともかく、意味記憶は知識なのだ。


「物知り」の知識の99%は意味記憶だろう。

會田準一は「突然よみがえる日常では忘れられた記憶」のことを「偶景」と言っている。偶景という言葉は、辞書にも載っていない。不思議に思っていたら、その言葉の由来が、志村正彦の『偶景web』というブログに書いてあった。なんと、ロラン・バルトの『Incidents』を訳した沢崎浩平が、造った言葉だというのだ。
仏和辞典には「Incidents(アンシダン)」の説明として「出来事、些細な支障、事故、偶発的事件、もめごと、トラブル、事変、紛争」などと書いてある。
それにしても偶景とは、なんていい言葉なのだろう。言葉の響きと言い、その言葉から浮かんでくる情景と言い、なんともいえず素晴しい。沢崎浩平が造るまでそういう言葉がなかったのが、おかしいくらいだ。
偶作の「偶」の「たまたま」という感じや、偶感の「偶」の「ふと心に浮かんだ」という感じ、それに偶発の「偶」お「思いがけずに」という感じからイメージを膨らませていくと、偶景は「たまたま見る景観」であり、「ふと心に浮かぶ景色」であり、「思いがけずに目にする光景」ということになる。


フランス語はお手上げだが、英語のincidentalには「付随的、偶然の」といった意味があるようだから、同根なのだろう。「偶」という漢字はもともと「人」+「禺(具)」で、「ひとがた」という意味らしい。「たまたま」という訓は「字統」には載っていなかった。たまたまなのだろうか?

暗黙知(tacit knowledge)とか形式知(explicit kknowledge)などと言う。暗黙知は実際的な知識で、個人的な経験を通して得られ、人に伝えるのも人から伝えられるのも難しい。形式知は学問的知識など、文書化され、残され、伝えられることが出来る。そういう説明をされる。
「データ・情報・知識」というモデルを使っている私には、暗黙知こそが知識で、形式知は単なる情報でしかない。(第2章 知識は必要か?)


「幽黙知」なんてのはどうだろう?

知識はうつろいゆく。きのうの知識はもうどこにもなく、明日になれば今日の知識も消えてしまう。道具が使われなくなれば、道具の知識はいらなくなる。機械に関する知識は、モデル。チェンジしただけで役に立たなくなる。古いコンピュータの知識は見向きもされず、古いコンピュータ言語はもう誰も使わない。
受験の知識は、受験が済めばもう要らない。仕事の知識も、退職すれば、意味を失う。そしてすべての知識は、たとえそれがどんなに大事なものだとしても、死んでしまえば一瞬にして消える。
知識がそういうはかないものだと知って、それでもなお、私たちは知識を求め続ける。
知識がうつろいゆくということだけは、忘れないでいたい。

うつろは「虚ろ」「空ろ」にも通じる。

昭和21年7月23日に日本新聞協会の創立に当たって制定された『新聞倫理綱領』によれば、「新聞人」は、「何が真実か」や「どれを選ぶべきか」を的確にそして迅速に判断し、「正確で公正な記事」と「責任ある論評」を書き、「言論・表現の自由」を守り、「公共の利益」を害さず。「真実」を追求し、「正確かつ公正」で、「立場や信条」に左右されないという。
でも、そんな「新聞人」は、どこにもいない。そもそも「何が真実か」を知る人など、一人もいない。戦後すぐの高揚した気分のなかで書かれた理想的な文章は、今読むとある意味滑稽だが、そういう理想を掲げるのはいいことだ。70年経った現在、厳しい現実を前に、理想を追求しようという雰囲気はもうどこにもない。


韓国語では理想(이상 isang)と異常(이상 isang)は同じ発音である。

フランツ・ファノンは「無知というのは知識がないことではなく、疑問を発せられない状態なのだ」と言う。知識があっても、疑問を発せられなければ無知と同じ。このファノンの言葉は、疑問を持たずにただ知識を詰め込んで知った気になっている人たちへの痛烈な批判だ。
受験層を勝ち抜いた人たちが、自分たちが無知なことに気付かずに要職に就き、疑問を持たずに詰め込んだ知識をもとに、発言し行動すれば、組織も社会も良くはならない。皆と同じ知識を持つことだけでは、なんの役にも立たないのだ。

そのような輩は批判と気づかないだろう。

二元的な考え方はほとんどの場合間違っているという知識があれば、そしてプロパガンダの嘘を見抜く力があれば、ケネディの演説に熱狂することもないだろうと思うのだが、どうもそうではないらしい。ヒトラーに熱狂し、毛沢東に熱狂するのが人間だとすれば、ケネディのシンプルな善が支持され、人々がケネディに熱狂するのは当然なのだ。
オーウェルの『1984年』のなかに出てくる「戦争は平和(War is peace)」、「自由は隷属(Freeedom is slavery)」、「無知は強さ(Ignorance is strength)」というスローガンに象徴されるように、二元論は人を熱狂させるだけでなく、盲目にし、考える力を奪う。
オーウェルが描いた社会は、今の日本の社会のようだという人は多い。「積極的平和主義」や「国際平和支援法」というような言葉の使い方は「戦争は平和」と同じだし「自由な働き方を欲する若者」実態は「自由は隷属」だし、何かと話題になる「反知性主義」は「無知は強さ」にほかならない。でも、それは、日本に限ったことではない。


シェイクスピアの昔からそうだったのかも。

池上彰というジャーナリストがもてはやされている。解説がわかりやすいと評判だ。なぜだろうか。答えは簡単。ひと言で言えば、単純化。単純化を極めたのが池上彰なのだ。どんな複雑なことでもあえて深く考えず、聞く人が「聞きたいこと」を「聞きたいよう」に話す。だから人気がある。
池上彰は自分の情報源を積極的に公開する。主な情報源は新聞で10紙ほど。毎日読むという。全部日本の新聞で似たようなものばかり。三大新聞と言われている「読売新聞」「朝日新聞」「毎日新聞」を3紙とも読んだって書いてあることはほとんど変わらないだろうに。それだけではない。発行部数の少ない「産経新聞」「東京新聞」「中国新聞」「朝日小学生新聞」「毎日小学生新聞」などは読んでも、発行部数の多い「聖教新聞」「しんぶん赤旗」「日刊ゲンダイ」などは読まない。あえて自分をマジョリティーの一員に仕立て上げようとしているのがわかる。
読む雑誌はカネのことを書いたものばかり。「週刊エコノミスト」「週刊東洋経済」「週刊ダイヤモンド」「日経ビジネス」、それにアメリカの「ウォール・ストリート・ジャーナル」とイギリスの「エコノミスト」あとは当り障りのないものばかりで、これも意識してのことで、自分を「違う意見」や「少数者の視点」を持たない「正しい人」に作り上げようとしている。
日本の特質と言ってしまえばそれまでだが同じ情報を手に入れ、同じ知識を持つことが美徳とされ、みんなが知っていることを知らないとか、みんなと違う意見を言うということを極端に嫌う。私はそれを悪いことだと思うのだが、日本ではそんな考えは通用しない。
そんなわけで、池上彰はとてもドメスティックだ。日本を出たら変なことを言うおじさんでしかない。
もっとも池上彰は頭の良い人だから、どこに行ってもその地に順応し、そこのやり方で成功するに違いない。日本以外のところに行ってかわいそうなのは、池上彰を素晴らしいと思っている人たちだ。なんせ「みんなと同じがいい」なんていう国は、北朝鮮ぐらいしかないのだから。(第3章 知識は変わらないものなのか?)


この池上こき下ろしは面白過ぎ。そしてかわいそうなMorris.(>_<)

忌野清志郎がZerryという名前で「冗談のひとつも言えねえ。好きな歌さえうたえねえ、替え歌のひとつにもいちいち目くじらを立てる、いやな世の中になっちまったもんでござんすねえ」と言った。その言葉がそのまま、私の著作権への考え方だ。
人が集まって歌う。その愉しみをいちいちカネに換算するなんて、なんて悲しいことだろう。人が食べ、人が飲み、人が話し、人が歌い、人が踊る。そういう基本的な愉しみを人から奪ったり、そういう基本的なことをしたからといってカネを取ったりするのは、人のすることではない。
私がギターを弾くとき、歌を歌うとき、「そのメロディーを誰が譜にしたのか」などということは知るよしもない。どうせそのメロディだって「どこか」から持ってきたものか「なにか」から着想を得たものではないか。「誰か」が「ドレミ」の3音で著作権を登録し、「ドレミ」の3音を奏でた人からカネを巻き上げたら、いったいどうなるのか。

著作権などと偉そうにいうが、バカなことでしかない。著作権法にしても、素直に従うわけにはいかない。
「音楽教室のレッスンでも、著作権料を徴収する」という誰が考えてもおかしいことがまかり通る。インターネットという自由の場から自由が奪われ、歌を歌ったり曲を演奏したりという基本的な権利が損なわれている。
私たちはインターネットを自由な場にしなければならないし、歌を自由に歌ったり曲を自由に演奏したりという最低の権利を取り戻さなければならない。時には闘うことも必要だ。


くたばれ、JASRAC!!!

第二次世界大戦以後は軍が企業や大学の一部を取り込み、多くの軍事費が企業や大学に流れ込んだ。新しい研究開発の環境では、特許よりも契約、開示よりも秘匿が優先され、民間のルールとはまったく違う軍のルールが多くの研究開発に持ち込まれ、企業と企業の競争では見られなかった「国家の利益」というものが現れ、重要になってくる。
この場合の国家の利益は、カネ儲けという意味ではない。国家の機密を守ること、言い換えれば何を研究しているか、何を開発しているかということを外部に漏らさないことが重要になる。内部の人間と外部の人間とが明確に分けられ、研究機関は閉じた状況で続けられる。内部の人間は、ノウ・ホワット(know-what)、ノウ・ホワイ(know-why)、ノウ・フー(know-who)というようなはっきりとした知識を共有するだけでなく、ノウ・ハウ(know-how)という言葉であらわせないような知識までをも共有しようとする。(第4章 知識はどう使えばいいのか?)

カーキ色の囲い込みだ。

文化を異にすれば、そして言語を異にすれば、持つ知識は当然異なる。お互いのことをわかるには、二つ以上の文化を持ち、二つ以上の言語を話す必要があるが、日本の社会では、二つ以上の文化を持ち、二つ以上の言語を話すことは、ハンディキャップでしかない。なぜ日本では、コミュニケーションが重要だと思われないのだろう。
宗教の知識も科学の知識も、それを信じる人には大きな意味を持つが、その枠の外にいれば、なんの意味も持たない。知識などと言ってみても、所詮、幻想でしかない。そのことを確認することも必要だと思う。


知の唯幻論。

瀬戸内寂聴が「人間が人間の罪を決めることは難しい」、「日本が死刑制度をまだ続けていることは恥ずかしい]、「人間が人間を殺すことは一番野蛮なこと」、「みなさん頑張って『殺さない』ってことを大きな声で唱えてください」、「そして、殺したがるばかどもと戦ってください」と言ったら、「被害者の気持ちを踏みにじる言葉だ」、「人の気持ちが分からない方だ」、「まず、被害者や遺族をひどい目に遭わせたばかどもがいますけど、それにはノータッチですか?」などとたくさんの批判を浴びた。
瀬戸内が言ったことは海外では当たり前のことなのだが、日本は違う。遺族の心情が何よりも大事にされ、現行の死刑制度が欠点だらけで間違いを起こしやすいことも、人は誰でも間違いをするということも、忘れられてしまう。日本では多くの人が死刑制度の存続を願っていて、それを止めるというコンセンサスはないのだ。


公開処刑--究極のエンタ

機会の平等を声高に説く人は、結果の平等を不平等だといい、結果の平等を望む人は、機会の平等を不平等だという。言ってしまえば、どちらも正しい。機会の平等も結果の平等も、どちらも不平等なのだ。不平等を目指すわけにはいかない。

ぎゃはははは!!

プロパガンダの基本を紹介したいと思う。ドイツ軍がポーランドに侵攻し第二次世界大戦が始まった1939年に、アメリカの「プロパガンダ分析研究所」が「どうしたらプロパガンダを見破ることができるか」ということを人々に教えるためにまとめた『7つのよくあるプロパガンダの手段(sevenn commmon propaganda devices)」だ。

・レッテル貼り(Name Calling)    他の製品や人に悪いレッテルを貼り、それを繰り返し宣伝する
・普遍化(Glittering Generalities)    製品や人を、特別な言葉と関連づけ、素晴しいと錯覚させる
・すりかえ(Transfar)    好感度の高いものや「たとえ話」で反感を回避し、共感を得る
・権威付け(Testimonial)    権威や有名人とのつながりを見せ、正当性や有用性を信じさせる
・普通化(Plain Folks)    普通の人やその価値を利用し、安心感や親近感を与える
・カード・スタッキング(Card Stacking)    情報操作(不当な比較、隠蔽など)により実際よりも良く見せる
・バンド・ワゴン(Bandwagon)    他の人もそうしているからと、利用や参加を促す

このような方法に加え、次のような方法も使われるようになる。

・断言(Aseertion)    言い切ることで、信頼感を増し、説明を不要にする
・ましな方の選択(Lesser of Two Evils)    より悪いものを見せて納得させる
・敵の設定(Pinpointing the Enemy)    特定の人物や組織を敵として仕立て上げ、複雑な状況を単純化する。
・ステレオタイプ化(Stereotyping)   

もっとも新しいタイプの人工知能(AI)を使ったプロパガンダ作成システムは、学習し、よくなり続ける。そもそもシステムの前提が「仕組まれたプロパガンダが見破られないこと」だというのだから、もうどうしようもない。怖い世の中が来たものだ。プロパガンダを前にして知識は無力だ。何の役にも立たない。


プロパガンダの彫刻、いや、「超克」ぢゃ。

・誰が敵かを政府が教えてくれる時、それを戦争という。 War is when your government tells you who rhe enemyis.
・誰が敵かを自分で考えて決めるとき、それを革命という。 Revolution is when you figure it out yourself.
戦争は勝ったほうが正しい。敗けたほうには正義はない。革命は成功すれば英雄。成功しなければテロリスト。勝てば官軍。負ければ賊軍。原爆は落としたほうが正しい。落とされたほうが悪い。そんなことをしたり顔で言う知識人が、テレビに映っている。
原爆を落としてなければ、もっとたくさんのアメリカ人が死んでいた。原爆を落としたおかげで戦争が終わった。そんなことをいうアメリカ人が、私の知らないところにいる。
原爆を作ってしまったら、それを使いたくなって広島と長崎に原爆を落とした。終戦後すぐにABC病院を作り、助けに来る代わりに調査をしに来た。そんなことを言う私が、ここにいる。(第5章知識はただの作りごとか?)

無邪気な悪意、どす黒い善意。

知識はそれを持つ人が死んだときに消える。それでいいのではないか。


ソ・レ・デ・イ・イ・ノ・ダ。

ジョー・ヴェリコフスキーは「知識はどこから来るか」という疑問に対し、「知識は宇宙からやって来て、生物的な個体や集団のなかに包含される」と答えている。私はヴェリコフスキーのこの言い方が好きだ。人は、そして多くの動物たちは、個体として生まれ、個体として死に、知識を個体のなかに包含する。植物たちは集団で危機管理をし、集団で生き延び、知識を集団のなかに包含する。

知ることの反対は、知らないことでなく、知ろうとしないこと。そして自分では何もしなくなること。犯罪や事件のニュース、ゴシップ、スポーツのニュース、ギャンブルの情報、ネットゲーム、それにポルノ。人はそういうものを与えられると、知ることに興味をなくす。


安倍晋三は「そのようなことは絶対にありません」「フクシマについてお案じの向きには私から保証を致します。状況は統御されています」「日本が再び戦争をする国になるというようなことは、断じてあり得ない」「日米同盟の信頼、強い絆は完全に復活したと自身をもって宣言したい」「国家国民のために再び我が身を捧げんとする私の決意の源は、深き憂国の念にあります」などと言う。どれも立派なレトリックだ。

レレレレレレレレレ???な「トリック」ぢゃあ

私の知識は私のものだ。たとえそれが間違っていても、悪いと言われても、かけがえのない私だけの知識。それは誰かに伝えることも渡すこともできない。知識が高尚なものである必要は、まったくない。(第6章 知識は誰のものなのか?)

だんだん宗教的になっていく(^_^;)

知識の共有は難しく、感情の共有はたやすい。

orgy?

知識の儚さは、知識の美しさでもある。はかない知識は、そして美しい知識は、いつも人と共にあり、人と共に輝く。人のお互いを思い合う知識、お互いを尊重する知識、お互いに譲り合う知識。私にはそんな美しい知識が、とても大切なものに思える。(第7章 知識はいいものか?)

宗教の次はポエム(^_^;)

不完全で、変わり続ける知識。儚く消えてゆく知識。そして私たちを豊かにする美しい知識。そういう知識について書いてきた。
さて、この本を書き始めるきっかけになった「知識は要るのか、要らないのか」という疑問だが、私の出した結論は「いる」だ。みんなが違う知識を持って生きていくのがいちばんいい。役に立つとか立たないとか、カネになるとかならないとか、そんなこととは関係なく、興味があるから、好きだからということで持つことになった知識を、一人一人が大事にするというのがいい。(終わりに)


前作「情報」は読むのにかなり苦労した。それに比べると本書は、まさにエッセイを読むようににスラスラと読めた。
読み終えたMorris.の感想は。「やっぱり知識は、面白いっ\(^o^)/」ということだ。知識人なんてのにはなりたくもないし、全く好きにもなれないし、「知的--」という方面も胡散臭そうだが、本気で好きに慣れそうな知識の世界は、豊穣で、多様で、とにかくいろんな面白さと魅力を持ってるようだ。
Morris.の引用のやり方のせいで、あまりその特徴がわからなくなってると思うが、本書の特徴の一つは、圧倒的な引用の量だ。500p足らずのなかに、すくなくとも700人を超す人の意見が引用されている。

本書を読みながら、ずっと、ある一冊のことを連想していた。ほとんど蔵書のないMorris.の珍しい「愛蔵本」の一冊。『愉快なる人生』ラボック著 小川隆四郎抄訳(大正10)である。

普通なら最後に人名索引が付くものだが、筆者のサイトの検索窓から照会できるらしい。

【ㅂ(サイ)のものがたり : 白川静の絵本】白川静著  金子都美絵 編・画 ★★★☆☆ 2016/10/24 平凡社 2018032
白川静の漢字研究に関しては、毀誉褒貶が極端であるが、Morris.はファンである。「字統(普及版)」が枕頭の書であることは前にも書いたが、白川漢字学の中心に「ㅂ(サイ)」という字素がある。一般に「口」という形で出てくるので、これまでの漢字学では、これを人体器官の「くち」として論じてきたが、白川は、「口」ではなく祝詞を入れる聖なる器「サイ」と解釈している。口の両端の縦線が上に突き出た形で、韓国語ハングル子音のひとつ「ㅂ(ピウプ)」そのままの形なので、これを借用することにした、機種依存文字なので、表示出来ないことがあるかもしれないが、そこのところはよろしくm(__)m

文字が作られた契機のうち、もっとも重要なことは、ことばのもつ呪的な機能を、そこに定着し永久化するということであった。ことばとしての呪言は、時間のなかにあることもできず、また空間を支配することもできない。書きとどめておくことによって、その呪能は断絶することなく、また所在の空間を支配することができる。
ㅂ(サイ)はのりとを入れる「呪告の器」である。(「中国古代の民俗」)


ㅂの基本。

文字は、ことばの器として生れた。
「ことば」は、古くは「こと」といわれた。「こと」とは殊(こと)であり、異(こと)である。全体を意味する「もの」に対して、それは特殊なもの、個別を意味する。存在するものが、それぞれの個別性、具体性においてあらわれるとき、それは「こと」であり、「ことば」であった。
中国では、言と語とを連ねて言語という。言はいわば攻撃的なことば、語はこれに対する防御的なことばである。
わが国では「こと」は「ことだま」をもつとされたが、言語はそういう言霊(ことだま)のたたかいを意味するものであった。(「文字逍遥」)


このあたり、学者ではなく信仰の人の言葉みたいで、これが毀誉褒貶の「毀」「貶」の原因でもあるのだろう。しかし、いかにも魅力的なとらえ方ではある。

ことばは歌として形成されたとき、すでに呪能をもってみずから活動する存在となる。
原始の歌謡は、本来呪歌であった。(「詩経」)


「お客様は神様です」という三波春夫の謳い文句はこれに通ずる(^_^;)

哀は衣中にㅂ(サイ)を加えた形である。ㅂ(サイ)は祝告して、霊の回帰をねがう儀礼であった。哭はその祝告をならべて、犬性をそえたもので、器と同じ系統に属する。
哀哭が終ると、復すなわち「たまよばひ」の儀礼をする。死者の服を屋上にもち上って掲げ、衣で死者の霊を招きながら、「ああ、某よ、復(かへ)れ」と三たび大声で叫ぶのである。衣は霊のよりつくところであった。屋上での復の礼が終わると、その衣をまた死者の上にかける。霊がもどってきたという、模擬的儀礼である。
「たまよばひ」はまた招魂ともいう。
出生によって新しい肉体に寄託した霊は、死によってまたその肉体を脱し、いずこかへ立ち去ってゆく。古代の人々は、実際にそのように考えたのである。霊の来たることが生であり、霊の去ることが死であった。(「漢字」)


韓国の名優アンソンギ(安聖基)主演の日本映画「眠る男」(1996)を思い出した。映画の中でこの「魂呼び」のシーンがあり、印象的だった。また초혼[招魂](チョホン)というタイトルの曲を민지(ミンジ)장윤정(チャンgユンジョンg)が歌っていて、それぞれ好きな曲である。

ことばの古さに比べると、文字の歴史はきわめて新しい。
もしこの文字の背後に、文字以前の、はかり知れぬ悠遠なことばの時代の記憶が残されているとすれば、漢字の体系は、この文化圏における人類の歩みを貫いて、その歴史を如実に示す地層の断面であるといえよう。またその意味で漢字は、人類にとっての貴重な文化遺産であるということができる。(「漢字」)


漢字が「文化遺産」というのは、白川にしては凡庸な物言いである。これは白川の自己韜晦と受け止めておきたい

私はこの白川ワールドの魔法にかかってから、もう何年も「あ、今魔法にかかってる!」と思うたびにそれを絵にするということを続けてきました。
それでㅂ(サイ)を含む文字について書かれた文章のなかからいくつかの印象的なものを選び、絵をつけ、詩画集のようなものにしてみようと思いました。(金子あとがき)


影絵とCGを組み合わせたような金子の画力はなかなかのもので、それなりに評価できるが、漢字そのものの力には及ぶべきもない。わかりきったことだけどね(^_^;) 評点の☆二つは白川への敬意である。

【漢和辞典に訊け!】円満字二郎 ★★★☆ 2008/12/10 ちくま新書756 2018031
円満字二郎 1967年兵庫県生れ。出版社で国語教科書や漢和辞典などの編集を17年近く担当した後2008年フリーに。

「辞書好き」を標榜するMorris.だが、漢和辞典は1冊しか持ってなくて、しかもその使用頻度はかなり低い。毎年恒例の六甲学生青年センターの古本市(今年は5月15日まで)の辞書コーナーでも、漢和辞典と古語辞典は、ほとんどまっさらの状態で出品されることが多かった。それでも古語辞典は一度、通読した覚えがある。
読み方が分からない漢字を調べるときには、やむを得ず(^_^;)使ってたわけだが、昨今は、PCやスマートフォンの漢字アプリで、簡単に漢字認識してくれるから、ますます漢和辞典の出番は少なくなりそうだ。
そんな中にあって、漢和辞典の編集に関わってきた筆者は、漢字学者とはひと味違ったスタンスで、漢和辞典の再利用を提案している。

ぼくが初めて手にした漢和辞典と言えば『角川新字源』(1968年初版)である。70年代から80年代にかけてのオーソドックスな漢和辞典の代表格である。

本書を手にとって、上の文章が目に止まり、読む気になった。Morris.が唯一持ってる漢和辞典が、まさにこの「新字源」だったからだ。たぶん高校時代から使ってるから、半世紀を越えてると思う。それなりに愛着もある。
漢字そのものについては、結構関心と興味があって、特に漢字の成り立ちについては、これまでに数冊の解説書を読んだし、白川静の「字統」は、文字通り枕頭の書(本当に枕の下に置いてある(^_^;))になってる。『歌集 象形文字(ヒエログリフ)』なんてのを、でっちあげたこともある。

そもそも、漢和辞典とは、「辞典」とはいうけれど、ことばの辞典ではないのだ。あくまで、漢字の辞典なのだ。
日本語と中国語とは、まったく別系統の言語だから、ことばとしては、両者の間にはつながりが生じる余地はない。つながるとすれば、それは漢字を通じてのことだ。中国語のある言葉を書き表すために用いられた漢字が、日本語ではどのように理解され、どのように読まれ、用いられてきたのか。そこに、ぼくのいう「物語」が生じる素地があり、漢字の辞典こそが、それを語るにふさわしい書物なのだ。(第1章 とりあえず漢和辞典を使ってみよう)


漢和辞典は「辞典」ではなくて「字典」というのがふさわしいのかもしれない。それにしても、かなり使いにくいことは間違いない。同じ音の漢字がやたら多いし、画数で探すときもそうだし、訓読みなら見つけやすいがそれでも二度手間だし、部首だって、簡単にわかるものばかりとは限らない。
日本語の中の漢字ということになると、訓読みはともかく、音読みですら、複数あるものが多く、ほとんどの漢字が一つの音限定になっている、韓国語とは天と地の差がある(^_^;)
日本語の中の漢字に複数の音読みがある原因は、漢字の伝わった時代による差が主な原因らしいとは薄々感じてはいたのだが、

呉音--5,6世紀、中国の南北朝時代の南京を首都とする南朝系の発音
漢音--6世紀末の隋から7,8世紀の唐時代の首都長安(現在の西安)あたりの発音
漢字の音読みの元になった中国語には、大きく二種類あり、両者の間には、2,3百年の時間の差だけでなく、地域の差までが横たわっている。8第2章 漢和辞典で漢字の音読みを調べる)

時代だけでなく地域も違ってたのか(@_@)

象形--いわゆる絵文字。日、月、山、木
指事--絵には描きにくい抽象的なものを図示化。上、中、下
会意--二つ以上の漢字の掛け合わせで新たな意味。分、休、男
形声--音符(音読み)と意符(大まかな意味)。泳、切、号
仮借--当て字。云、
会意形声--清
(第4章 漢和辞典で漢字の成り立ちを理解する)


漢字の基本であるこれらの区別さえいまいちちゃんと理解できずにいるMorris.だが、本書を読んで、今一度手元の「新字源」を見直そうという気にさせられた。特に付録。「新字源」には、以下の付録がある。

・中国語の起源と特色
・漢字のなりたち 1.漢字のおいたち 2.漢字のしくみ 3.漢字のはたらき
・漢字音について 1.中国語での漢字の音の歴史 2.韻書の変遷 3.日本の漢字音 4.慣用語について 5.漢字の中国現代音について
・熟語の構造
・中国歴史地図
・中国文化史年表
・中国年号一覧
・化学元素表
・度量衡表
・中国語ローマ字表記一覧表
・中国簡体字票
・国字一覧
・時刻 方位 五行 四季 色の関係 二十八宿
・助字解説
・同訓異義
・人名用漢字表
・音訓索引


おしまいの「音訓索引」78pは別格として、残りちょうど100pの付録はすごく読みでがありそうだ。問題は文字の大きさ(小ささ(^_^;))である。文庫本サイズの小型辞書で、本文より更に小さい活字使ってるから、老眼のMorris.にはかなり苦しい(>_<)
【負けない力】橋本治 ★★★☆ 2015/07/20 大和書房 2018030
ジュニア向けの橋本エッセイ、というか、生き方の書なんだろうが、Morris.にも裨益する所があった。ような気がする。

よく考えると、「可愛い」ということだってたいして必要ではありません。「可愛い子揃い」という評判の女子校に通っていれば、普通の女の子だって可愛く見えるというようなものです。
ステージの上で歌い踊って、アイドルであることを頑張ってやっている女の子達は、永遠に続く「青春」を体現していて、それが「なんだかもう似合わない」になったら「卒業」です。そこは、永遠に「卒業生」を送り出し続ける「青春の場」なのです。
かくしてアイドル文化は「大人にならなくていい文化」の一翼を担って、「若いままでいい」になり、「バカのままでもいい」になるのです。
私が言いたいのは「アイドル文化はこうして定着した」ではなくて、「みんなが知的になると知性なんかどうでもよくなる」ということです。


Morris.にとっては、最近の集団アイドル文化がこうして定着したのか、と、著者の断り部分に納得した(^_^;)

昭和の三十年代が過ぎてあまりに多くの日本人が大学へ行くようになると、話が変わって来ます。つまり、団塊の世代の大量大学進学ですが。
大学へ行くことは、「意味がある」ではなくて「メリットがある」になります。(第2章 「知性」がえらそうだった時代)


Morris.も昭和三十年代の大学生だった。Morris.にとってのメリットは単にモラトリアムを味わうことに過ぎなかったような気がする。

不思議なことにランキングというものは「ランキング」になった段階で、「時代を映すもの」として権威主義的な色彩をまとってしまいます。
テレビに出て、あたりさわりのないことを言っている「コメンテーター」とう人も、それと似ています。誰にも引っかからないあたりさわりのないことを言って、「コメンテーター」ということをやっていると、なんだかえらい人のように思えてしまうのです。第3章「知性」がえらそうだった時代)


そうそう、コメンテーターって、「あたりさわりのないこと」を言う能力に長けた人に過ぎなくて、それをランキングと同列に見るあたりは橋本らしさだろう。

マニアになってしまう人達は、根本のところで真面目な勉強好きの人達です。だから、「自分の知りたい範囲」が限定出来ると、そのことに集中して「極める」という方向へ進んでしまうのです。
それは、あまり受験科目が多くなって偏差値の高い、特殊な学校を受験するための受験勉強に似ています。マニアというのは、特殊な人達ではなくて、教養主義的な日本の風土に育った、真面目で勉強好きな普通の日本人なのです。


オタクもつまりは同じことだろう。

戦争に負けた日本があっという間に民主主義に変わってしまった理由はなんでしょう? 答は簡単です。「それをするとトクになる」と日本人が考えたからです。
それまでの日本の軍国主義は、国家の方針を第一とする「お国のため」優先ですが、アメリカからやって来た民主主義は、そんなことを考えなくてもいいのです。
民主主義はまず、「めんどくさいことを考えなくてもいい」という形で日本人の上にやって来ます。
「個人の自由」とかも言います。要約してしまえば、「めんどくさいことを考えずに、自分が第一」ですから、こんなにトクなことはありません。


嫌味な言い方だと思いながら、Morris.も結局「めんどくさい」ことから逃げる絶好の口実として民主主義を支持してきたのかもしれない

さっさと自分の頭の中を入れ換えてしまう日本人特有のあり方を示す言葉があります。「長いものには巻かれろ」です。だから、「もう江戸時代じゃない、さっさと近代人になれ」と明治維新政府に言われると、なんだかよくわからなくても「近代人」になろうとします。「もう軍国主義は終わった。さっさと民主主義に切り換えろ」と言われると、やっぱり民主主義なんか分かっていなくても、「民主主義」になってしまうのです。

Morris.が愛用している「暮らしの中のことわざ辞典」(折井英治編 集英社)のこのことわざの解説。

力の強大な者に対しては手向かいようがなく、手向かえばやられてしまうから、勝てぬ相手には手向かわないで、相手の言うままになっているほうがよいということ。西洋でも「つぶされるよりはお辞儀をしたほうがよい」といっているが、保身のための人間の卑屈さをしみじみと思わせることわざではある。

どうも橋本のことわざ解釈とは違ってるみたいだが??

「出世の道」が閉ざされているのに等しかった江戸時代が終わって、「学校」という出世の扉が開かれてしまったのが明治時代ですから、受験勉強の日本はここに始まります。
日本人の「考える」は、「何が正解となるのか?」を考えることではなくて、「どこかにあるはずの正解はどれなのか?」と探すことで、それが「見つからない」と思ったらすぐに「分からない」で降参です。


世の中は正解のない問題だらけである。

「答」であるような「知識」ばかりを求めて「知識の量」を誇っても、「問題を発見してそれを解く」ということの重要性に気がつかなかったら、思考の放棄です。そんな人の中に「知性」は存在しなくて、他人の中に存在する「自分とは別種の知性」にだって気がつけないでしょう。


Morris.が他人から「物知り」と言われるのをひどく嫌がるのは、つまりはそういうことだからだ(^_^;)

ネットが発達したおかげで、直接人同士が顔を合わせなくても、「全世界同時頭のよさコンテスト」なんかが可能になって、そのチャンピオンが決まったりする のかもしれません。でもそれは所詮「クイズ王」のようなもので、チャンピオンが「出題された問題に一番多く答えられた人」ではあっても、頭がいいのかどう かは分かりません。


「クイズ王」(>_<)

「鎖国なんかしていたら、西洋の国に攻められて植民地にされてしまうぞ」という理由で日本は鎖国をやめたのですから、もう「知らん顔をして鎖国をする」という手は使えません。外に向けて開けた扉は開けっ放しで、「閉じたら負ける。勝ち続けないと負ける」という恐ろしい状態が続いて、それはグローバリズムの現在まで続いています。(第4章 「教養主義的な考え方」から脱するために)

グローバリズム以前=鎖国だったってことか?

「戦う」ということが日常的にありうる段階だと、「戦う=勝つ」に対して冷静な目が向けられます。一方、「戦う」ということが日常から遠ざかってしまうと、人は「なにか」をへんな風に刺激されて、要もない戦いに「勝ってやる!」などと考えてしまうのかもしれません。どこかの国の総理大臣が「積極的平和主義」なんていうことを言い出しましたが、これが現実認識を欠いた「蛮勇」でないことを祈りましょう。

祈る前に、へし折らねば!!!

「ものを考える」ということは「悲観的になる」ということでもあって、悲観的になることに慣れて耐性を作っておかないと「心が折れる」などということが起こって、「考える」ということがよく出来ません。「考える」ということは、「不安とつきあう」ということでもあるのですから、どうしたって悲観的にならざるをえないのです。(第5章 「負けない」ということ)

結果オーライ主義、楽観主義のMorris.にはちょっとウサギの逆立ち(ミミガイタイ)である。

「負けない力」というものは、それほどたいした力ではありません。それは「そう簡単に勝てたりはしない程度の力」で、もしかしたら「なんの役にもたたない力」かもしれません。でも「負けいない力」は、負けないので、しぶといのです。しぶとくてちつこくて、「勝ってやろう」とはおもわなくても、ずーっと負けないのです。
あなたの中に知性があるということは、問題は簡単に解決できないし、「負けた」と思うことはいくらでもあるだろうけれど、でも「自分」が信じられるから「負けない」ということです。
「自分」を捨てたら知性はありません。知性とは「自分の尊厳を知ることによって生まれる力」で、だからこそそう簡単にはなくならず、だからこそ「短期決戦」にはあまり強くないのです。
「それだけだよ、だからどうした」と、知性ならきっと言うでしょう。


反知性主義横行の今の世に「負けない力」を涵養せねば。

「自分のせいじゃないけど、でも少しは自分のせいかもしれない」と思わないと、行き詰まったままの「世界」は行き詰まったままだろうと、私は思っているのです。(終章 世界はまだ完成していない)

なかなか味わい深い〆の言葉である。「Morris.のせい」でこうなった、という観点からいろんなことを見直してみよう。
【中学生棋士】谷川浩司 ★★★ 2017/09/10 KADOKAWA 角川新書 2018029
谷川浩司 1962年神戸生れ。83年21歳で史上最年少で名人となる。元日本将棋連盟会長。
藤井聡太ブームにノった一冊なんだろうが、将棋には全く無知なMorris.には、日本の将棋界の基礎知識を知ることが出来て有意義?だった。

(藤井聡太は)人工知能(AI)が将棋においてシンギュラリティ(技術的特異点)を超えた時代に登場した将棋界の新星ということに特別な意味を感じる。
シンギュラリティとは、全人類の集合知よりも、1台のコンピュータ端末の知恵が上回る特異点のことで、米人工知能研究者のレイ・カーツワイル氏が最初に唱えた概念だ。それは2045年に訪れるといわれている。
2017年5月、佐藤天彦名人がタイトル保持者として初めて、将棋ソフトとの二番勝負に連敗し、AIに屈した。


シンギュラリティ(Technological Singularity)技術的特異点なんて用語を使うあたり、谷川らしいと言えるかもしれない。
【実とタネキャラクター図鑑  個性派植物たちの知恵と工夫がよくわかる】多田多恵子★★★☆☆ 2017/08/10  誠文堂新光社 2018028
イラスト:柴垣茂之
Morris.ご贔屓の朱子学者、ぢゃなかった「種子学」博士多田多恵子さんの新作。これまで数冊読んで、基本的な種類や、移動方法など、そう代わり映えもしないはずだが、本書では、イラストによるキャラ付けで、視覚的にイメージしやすくなっている。以下の十種分類(「~ダネ」といった語呂合わせも健在(^_^))で、代表的な植物を総覧しておく。

1.ふわふわダネ--ガガイモ/セイヨウタンポポ/アメリカオニアザミ/アカメヤナギ/ガマ/ムクゲ/チガヤ
2.ひらひらダネ--ボダイジュ/アオギリ/ニワウルシ/イロハカエデ/シラカバ/ケヤキ/ツクバネ/ヤマノイモ/アカマツ
3.ぱらぱらダネ--ナンバンギセル/シラン/オオバコ/ナガミヒナゲシ/ナズナ/キキョウソウ/メマツヨイグサ/フデリンドウ/マツバボタン
4.ぬれるんダネ--クサネム/ジュズダマ/キショウブウ/ヒシ/ハス
5.爆弾ダネ--ゲンノショウコ/ホウセンカ/スミレ/カタバミ/カラスノエンドウ/ツゲ/カラスムギ
6.ひっくくんダネ--オオオナモミ/ゴボウ/チカラシバ/ヌスビトハギ/メナモミ
7.かたいんダネ--オニグルミ/ミズナラ/トチノキ/ヤブツバキ/エゴノキ/カヤ
8.やわらかいんダネ--サルナシ/カキノキ/ヤマボウシ
9. きれいダネ--クチナシ/アオキ/ゴーヤ/カラスウリ/センリョウ/サネカズラ/ハナイカダ/ムラサキシキブ/ヤブミョウガ/リュウノヒゲ/ニシキギ/クサギ/ハゼノキ/ヌルデ/エンジュ/サンショウ/ヤドリギ
10. 虫さんダネ--キケマン/カタクリ/ギンリョウソウ


以下、解説やコラムの中から印象に残ったものをいくつかピックアップ。

・スミレの2通りの花、「開放花」と「閉鎖花」
「開放花」は美しい花びらを持つ普通の花で、美しさや蜜で虫を誘って受粉する。花びらの筋で蜜へと虫を誘導する。「閉鎖花」は花びらが退化して開かない花。つぼみの内側で自家受粉するので、昆虫の介在なしでタネを作る。開放花はコストが高くつくうえに、虫に花粉を運んで貰えるチャンスも限られるが、遺伝的なバラエティに富むタネを得られる。閉鎖花は安上がりに効率よくタネを作れるが同じ遺伝子を持つタネしかできない。状況に応じて2通りのタネを作って生き残りを目指している。


あの愛らしい菫の花が、こんな生き残り戦略を持っていたとは(@_@) あの筋模様も虫を誘導する矢印だったというのも初めて知った。

・イヌマキのミは緑と赤の串刺し団子のような実をつける。先の緑白色の玉は、肥大した鱗片葉に包まれた種子で、毒を含み、食べられない。赤い実は花托(花の土台)が太った多肉質の部分で、秋に赤や黒紫に色づくとそのまま生でゼリー菓子のようにおいしく食べられる。

イヌマキの緑と赤の実は確かに特徴的で、見つけやすいが、赤い方が熟したら食べられるというのも驚きだった。一度食べてみよう(^_^;)

・食材や薬用とされる「松の実」は朝鮮五葉松の実。朝鮮半島や中国東北部に多いマツで、日本では標高の高い山に生育。葉が5本ずつ束になるゴヨウマツの仲間で、松ぼっくりは長さ10cmもある。ふつうのマツと違い、傘は開かず、指で押し開くと大粒のタネが出てくる。タネは硬い殻に包まれ、翼はない。殻を割った中身が「松の実」。

韓国料理でよく使われるので馴染み深い。とくにスジョンガというシナモン味の冷たい飲み物にこれが浮かんでるとなんとなく嬉しくなる。この松の実が朝鮮五葉松の実というのも知らずにいた。10cmもある松ぼっくりだから実もあのくらいの大きさになるのか。
【ハナシはつきぬ!/笑酔亭梅寿謎解噺 5】田中啓文 ★★★ 2011/10/30 集英社 2018027
このシリーズ4まで読んでて、この5は見過ごしていた。ストーリーより、前座風の落語薀蓄が面白かった。

大阪・道修町(どしょうまち)にある神農さん(=少彦名神社)は薬の神さんです。11月に行われる「神農祭」では、笹に張り子の虎をぶらさげた縁起物を売ります。江戸後期に虎列刺(コレラ)が流行ったときの厄除けになったようです。お酒のことを笹と申しますが、笹の横で首をブラ~リブラリ振っているので、酔っぱらいを虎というようになったと聞きました。(「堀川」)

上燗とは、アツなしヌルない、程よい加減の燗の状態を言います。だいたい45℃前後。これで飲むと、喉のどこにも引っかからずに、胃の中へスーッと入っていき、五臓六腑に染み渡るのだそうです。ほかにも、冷や(常温)から上は、日向燗(33℃前後)、人肌燗(37℃前後)、ぬる燗(40℃前後)、熱燗(50℃前後)、飛び切り燗(55℃前後)とあります。(「上燗屋」)

江戸では、幕府の命令により、定火消し、大名火消しが設置されましたが、大阪は自分たちの家は自分たちで守らなければならないと、町火消しのみが生まれたのです。水にちなんだ、「井」「川」「波」「雨」「滝」の五組。商売人が梯子を登って、屋根に上がったりできないので、およそ鳶職人や大工が鳶人足として選ばれました。ほかに、水をかける水の手人足や、団扇で煽ぐ団扇人足もいたそうです。(「二番煎じ」)

【1分間で経済学】ニーアル・キシテイニー 望月衛訳 ★★★ 2017/12/23 ダイヤモンド社 2018026
ECONOMICS IN MINUTES(200 Key Concepts Explained in anInstant)by by Niall Kishtainy 2014
「経済に強い自分になる200のキーワード」というのが副題。
著者はイギリスの経済学者らしい。「経済痴」を自認するMorris.なので、用語の定義から入門するのもいいのかなと思って手にとったのだが……結果は惨敗(>_<)だった。
言い訳になるのだろうが、翻訳がひどいのではないかと思ってしまった。見開きで左頁に解説右頁に写真やグラフが掲載されているのだが、写真はともかく、グラフはまるで理解不能(これはMorris.の責任)。
例外的にわかりやすかったのが「金融バブル Financial bubbles」の項

株式や不動産などの資産の価値は、まるで泡のようにどんどん膨らむことがある。価格が上がるのには当然の理由がある場合もあるが、バブルの場合、資産の価格は本質的価値よりも高くなる。バブルは経済的非合理性の例だ。人々が資産の本当の価値に基づいて判断を下すのをやめ、ただ群れについてい行くようになる。人々が何か--21世紀の初めにはハイテク株、17世紀にはチューリップ--を買うのは、ただ、他の人が買うのを見て、買えば将来もっと高い価格で売れるに違いないと思うからだ。
投書彼らの予測は自己実現生を持つ。対象の資産に集まる関心が価格を押し上げ、それでいっそう投資家が参入し、全体が熱狂的に買いに向かう。それで価格はいっそう膨れ上がる。しかしいつしかそんな過程は行き詰まり、市場は暴落する。価格は永久に上がりつづける、人々はそう思っているように見える。少なくとも自分が買った資産を、バブルがはじけるのを予測「できない」人に、いつか売り払えると信じているようだ。


これならほぼ完全に理解できるが、これはもともとMorris.が「バブル」という用語をある程度理解してたからだろう。未知なる用語に関してはほとんど得るところはなかった(>_<)
タイトルに各用語の英語も記してあったので、その中から印象に残ったものをピックアップしておく。学術用語と同じく、ほとんど無理やり漢語に訳しているわけで、その努力には敬意を表するが、これが本質を見えなくしているところもありそうだ。
以下の50語の半分くらいは、そのまま英語のほうが(Morris.には)わかりやすい。韓国語でもこれらの経済用語の大半は日本の漢字語そのまま流用しているケースが多いようだ(^_^;)。というわけで、韓国語はスルーして、中国語ではどうなってるのかをGoogle辞書を使って、調べてみた。おお、これはなかなかに興味深かった。せっかくなので併記しておく。(Morris.は簡体字苦手なので、繁体字の辞書使ったので、台湾での用語ということになるかもしれない)

[日本語] [英語]   [中国語(繁体字)]
合理性 Rationality 理性
希少性 Scarcity 缺乏
効用 Utility 效用
機会費用 Opportunity cost 機會成本
需要 Demand 需求
供給 Supply 供應
保険 Insuranse 保險
ゲーム理論 Game theory 博弈論
金利 Interest rates 利率
金融 Financial 金融
債権 Bonds 債券
株式市場 The stock market 股市
金融危機 Financial crises 金融危機
企業 Firms 企業
利益 Profit 利潤
独占 Monopolies 壟斷
寡占 Oligopolies 寡頭壟斷
特許 Patents 專利
所得 Incom 印康
投資 Investment 投資
消費 Consumption 消費
好況 Boom 繁榮
不況 Bust 不景氣
恐慌 Depression 蕭條
失業者 Unemployment 失業
景気 Business cycle 商業周期
労働 Labour 勞動
賃金 Wages 工資
安定化政策 Stabilization 穩定
金融政策 Monetary policy 貨幣政策
量的緩和 Qunatitative easing 定量寬鬆
財政政策 Fiscal poicy 財政政策
財政赤字 Budget deficit 財政赤字
財政黒字 Budget surplus 預算盈餘
福祉国家 The welfare state 福利國家
年金 Pensions 養老金
最低賃金 Minimum wages 最低工資
規制 Regulation
比較優位 Comparative advantage 比較優勢
国際収支 The balance of payments 國際收支
保護主義 Protectionism 保護主義
貿易戦争 Trade war 貿易戰
多国籍企業 Multi national company(firms) 跨國公司
変動相場制 Floating exchange rate system 浮動匯率制度
固定相場制 Fixed exchange rate system 固定匯率制度
金本位制 The gold standard 金標準
通貨危機 Currency crisis 貨幣危機
労働組合 Union 聯盟
経済改革 Economic reform 經濟改革
インフレーションInflation 通貨膨脹
デフレーション Deflation 放氣


中国の漢字語の中には含蓄あるものや、理解しやすいものもある。このうちのいくつかは日本でも借用していいのではないかと思う。
【原発プロパガンダ】本間龍 ★★★☆☆☆ 2016/04/20 岩波新書(新赤版)1601 2018025
本間龍 1962生れ。博報堂で18年営業担当。在職中に損金補填にまつわる詐欺容疑で逮捕・起訴・服役を通じて刑務所のシステムや司法行政に疑問をもつ。著書に「「懲役」を知っていますか?」「電通と原発報道」「原発広告」など。

本間の著作は以前にも読んで、多くを教えられたし、反省もさせられたし、大いに共感も覚えた。3・11以前の原発広告は、それはもう、やりたいほうだいだった。それが福島第一原発事故で、ぶっ飛んでしまった。はずだったのに……
安倍政権は、原発再起動に完全に舵を切り、昨日(2018/03/09)提出された「原発ゼロ基本法案」も野党4党のみで、民進、希望は保留である。つまり野党側にも、電力労組への配慮もあるようだ。自民、政界、マスコミによる「原子力ムラ」再編成は絶対に許してはならない。

これら大量の広告は、表向きは国民に原発を知らしめるという目的の他に、その巨額の広告費を受け取るメディアへの、賄賂とも言える性格を持っていた。あまりに巨額ゆえに、一度でもそれを受け取ってしまうと、経営計画に組み込まれ、断れなくなってしまう。そうしたメディアの弱点を熟知し、原子力ムラの代理人としてメディア各社との交渉窓口となったのが、電通と博報堂に代表される大手広告代理店であった。
日本の広告業界は、寡占化を促す非常にいびつな構造を持っている。
欧米では寡占を防ぐために、一業種一社制、つまり、一つの広告会社は同時に二つ以上の同業種他社の広告を扱えないという制度を取っている。
さらに特殊なのは、欧米の広告会社の基本スタンスが「スポンサーのためにメディアの枠を買う」なのに対し、日本では「(メディアのために)メディアの枠をスポンサーに売る」という体質も持っている。つまりメディアは、電博に「広告を売ってもらう」という弱い立場にあるため、昔も今もこの二社には絶対に反抗できないのだ。
反原発報道を望まない東電や関電、電事連などの「意向」は両社によってメディア各社に伝えられ、隠然たる威力を発揮していった。東電や関電は表向き金払いの良いパトロン風の「超優良スポンサー」として振る舞うが、反原発報道などをしていったんご機嫌を損なうと、提供が決まっていた広告費を一方的に引き上げるなど強権を発動する「裏の顔」をもっていた。そうした「広告費を形(かた)にした」恫喝を行うのが、広告代理店の仕事であった。
そして、原発広告を掲載しなかったメディアも、批判的報道は意図的に避けていた。電事連がメディアの報道記事を常に監視しており、彼らの意図に反する記事を掲載すると専門家を動員して執拗に反駁し、記事の修正・訂正を求められたので、時間の経過と共にメディア側の自粛を招いたのだった。(はじめに)

そして、あれだけの、被害と犠牲を受けながら、このシステムは今も健在である。

プロパガンダ=広告宣伝は、時代の要請により、世界各地で手を替え品を替え、最先端で強力なテクニックを駆使して展開されてきた。その技術を磨いてきたのが、世界各国の広告会社、PR会社、日本においては電通と博報堂の2大広告代理店である。そしてその結実の一つが、日本における原発推進広告、つまり「原発プロパガンダ」であったのだ。
これは、1950年代に原発推進を国策と定めた時点で当然の帰結であった。
かりそめでも良いから、国民の多数における合意の形成(チョムスキーはそれを「合意の捏造」と名付けた)が必要とされた。つまり、多数の国民が原発を容認している、という世論の形成を目指したのである。
原子力ムラはその圧倒的な資金をあらゆるメディアにばら撒いて「原発プロパガンダ」を展開した。そのために投入された金額は、電力九社の普及開発関係費(広告費)だけでも、約40年間で2兆4000億円(朝日新聞社調べ)という途方もない巨額に上った。にもかかわらず、国民の多くがプロパガンダの存在に気づいていない、という状況こそ、その成功を如実に物語っている。だまされている人々にそれを認識させないことこそ、プロパガンダの目的であるからだ。


騙されていた側にも罪は有る。

事故から5年たった今、多くのメディアは電子力ムラの巻き返しによって再びその軍門に下ろうとしている。大多数のメディアにとって、プロパガンダに従ったなどという体裁の悪い事実は存在せず、そもそも原発プロパガンダがあったことも認めたくないのだ。
しかし、多くの国民の意識に深くこびりついた「原子力は電力の三分の一を担っている」「原子力はクリーンエネルギー」などのコピーは、まさにメディアによって国民の目や耳に届けられた、「プロパガンダの成果」である。それらが絶え間ない新聞・雑誌広告やテレビ・ラジオCMによって、全国隅々に流布されたということを、決して忘れてはならない。


これが、本書で著者が一番伝えたいことである。Morris.も追随したい(^_^;)


競合が存在しない電力会社は完全な地域独占企業体なのだから、本来このような巨大な広告費を必要としないはずだ。


そして、この巨大な広告費は当然電気料金で賄われているわけだ。

通常、企業の宣伝広告費は本業の儲けから捻出される。だから、その企業の売上が落ちたり赤字になれば、広告費は真っ先に減らされる。ところが電力会社は独占企業であり、すべての経費を原価に計上できる総括原価方式であるため、宣伝広告費をすべて原価とし、電気料金として利用者に請求することができた。つまり業績に関係なく、事実上青天井の予算を持っていたのと同じであった。利用者は他の電力会社を選べないから、言われるままの金額を払うしかない。まるでブラックジョークだが、原発に反対する人からも電気料金は徴収され、その中から原発プロパガンダの原資に活用されたのだった。

そしてこのような独占企業の興行元は日本政府。

実は日本の原発プロパガンダを語る上で、ナチスの「宣伝省」に相当する中核的宣伝組織がなかったことが、責任の所在を曖昧にしている。
その中であえて中心的組織を挙げるなら、それはやはり原発推進を掲げた政府(自民党)と、実際に推進計画を立て、国家予算の配分元として支えた官僚組織として経産省(旧通産省)・資源エネルギー庁、文科省(旧文部省)と各電力会社ということになるが、約40年間のあいだにこのプロパガンダに参画した人々は、数千・数万人規模にのぼるだろう。


恐るべし。無責任機構。

電力会社に巨額の融資を行っている金融機関を含めた432社が「原子力産業協会」に登録している(2016年6月1日現在)。つまりこの団体の名簿こそが、俗に言う「原子力ムラ」の一覧に他ならない。これを目にした人は、日本を代表する一流企業がきら星のごとく名を連ね、原子力ムラとはすなわち日本の社会そのものだという、深い絶望感を味わうことになるだろう。

巻末にこの一覧が掲載されている。げんなりしてしまった(>_<)

「広告スポンサー」としての表の顔とは別に、電事連には裏の顔があった。それは原発に関してネガティブな記事を書いたり、放映したメディアに対し、執拗に抗議し訂正を迫る「圧力集団」としての顔である。
およそ原発に関する記事をすべて監視し、その意向に反する記事に対しては訂正を要求する行為をくりかえせば、記事を書く記者たちに強いプレッシャーをかけることができる。ことあるごとに電事連から抗議が来るのなら、「面倒だからもう原発批判の記事を書くのはやめよう」という気持にさせる目的があったのだ。


治安維持法時代の検閲を連想させる。

チョムスキーは「プロパガンダ・モデル」の構成要素を次のように規定する。
1.マスメディアの規模、所有権の集中、オーナーの富、利益指向性
2.マスメディアの主要収入源
3.政府や企業、権力の源泉から情報を得る「専門家」へのメディアの依存
4.メディアを統制するための「集中砲火」(批判)
5.国家宗教と化し、統制手段となっている「反共産主義」(序章 「欺瞞」と「恫喝」)


原発プロパガンダも概ねこの線に添っている。

1979年3月28日にアメリカのスリーマイル島原発で発生した事故は、原発推進に邁進してきた日本の原発政策に冷水を浴びせた。ところが、全国紙やテレビではその事故の深刻さが報道されたものの、福井やフクシマでの事故の新聞扱いは非常に少なく、逆に事故を覆い隠そうするかのように広告出稿が加速していった。(第1章 原発プロパガンダの黎明期(1968~79))

1986年4月、ソビエト連邦(当時)ウクライナのチェルノブイリ原発で、原子炉が爆発する大規模な事故が発生。事故直後はさすがに全国紙での広告掲載は影を潜めたが、地方では続いていた。

原発の事故がもし起こったら、絶対安全を売り込んでいる原発の広告は、どうするつもりなんでしょう。やせ薬の広告がインチキだったとしても、「ウソツキ!」「ゴメン」でマアすみますが、チェルノブイリ級の事故が起きたら日本は壊滅状態ですから、「ゴメン」ですむモンダイじゃありません。もっともそのときは、ぼくたちもみんな死んでいるし、原発関係者も死んでいますから、文句をいうヤツもいないし、責任を問われることもない。原発は安全だとハンコを押している学者も、政治家も、経営者も、広告マンも、案外、そう考えているんじゃないでしょうか。核廃棄物のモンダイ一つとっても、いまや危険がいっぱいの原発を、この際すbて廃棄して欲しい。原発を抱えたままで「明るい明日」なんて、ありゃしません。そういうイミで、「明るい明日は原発から」。(『広告批評』87年6月号で原発広告を特集。主宰の天野祐吉による巻頭言)
特集は
・原発広告の「正しい」読み方 高木仁三郎
・原発を選んだのは俺たちか 野坂昭如
・いま日本で起きていること 広瀬隆
・おすぎの原発映画案内 杉浦孝明
という4章立て54頁から成っているが、なんといっても圧巻は、今は亡き高木仁三郎氏が多数の原発広告を俎上にあげ、専門的見地から一つ一つの欺瞞を徹底的に指摘、批判していることだ。これは原発プロパガンダ史上、最初で最後の快挙だった。
この特集に対し何の反響もなかったという点も印象に残った。天野氏は当時既に有名人であり、『広告批評』は広告関係者にとって必須アイテムであったから、業界的には相当なインパクトがあったに違いない。しかし賛成の声を挙げる人は現れず、原子力ムラも騒ぎを恐れて論争を挑むこともなくスルーしたのだろう。裏でいやがらせがなかったのはよかったが、表だっての論争も生まれなかったのは非常に残念だった。(第2章 原発プロパガンダの発展期(1980~89)


この「広告批評」は未読だが、機会があればぜひ読んでみたい。30年以上前にこのような特集が組まれ、それが「最初で最後の快挙」だったというのが、いかにも辛い。

1990年代は、ソ連のチェルノブイリ原発事故による反原発運動が峠を越え、さらに原発推進側が体制を立て直して原発PRの完成形に至る10年間である。
推進派は、91年、科学技術庁(当時)が原子力文化振興財団(現 原子力文化財団)に委託し、「原子力PA方策の考え方という指針を作らせた。PAとは「パブリック・アクセプタンス(社会的受容のための施策)」のことで、社会的受容といえば聞こえがいいが、これがその後の原発プロパガンダの基本方針となったのだから、いわばナチスドイツがユダヤ人に対する施策方針を決定したヴァンゼー会議のような役割を果たしたのだ。


ヴァンゼー会議の実務的中心人物がアドルフ・アイヒマンだった。日本の場合は数多くの小アイヒマンが責任分担することになったのだろう。

・原子力に好意的な文化人を常に抱えていて、何かの時にコメンテーターとしてマスコミに推薦出来るようにしておく(ロビーの設置)。新聞、テレビ、雑誌には、各分野でのコメントを求める専門家リストがある。原子力では反対派の人が多い。
この指針を受け90年代以降、いわゆる「原発文化人」の育成を大々的に展開し、各種メディアに華々しくプッシュしていく。記者クラブや論説委員まで取り込もうとする点は徹底していて、推進派ロビーの形成に伴い、逆に反対派有名人をメディアから排除していったのだった。

これに関しては佐高信の著書に詳しい。

原子力PA方策委員会の委員長中村政雄(読売新聞社論説委員)と委員の田中靖正は、当時の原子力ムラの中でも特に有名な二人だった。(第3章 原発プロパガンダの完成期(1990~99)

正力松太郎と読売新聞が日本の原発事業に果たした関わりの異常さを思い出す。

「原発はクリーンエネルギー」という虚妄。
そもそも原発建設に伴う大工事で自然環境を破壊しているし、発電に伴って大量に排出される放射性意廃棄物は猛毒性で、処理もできなければ処分場もない。つまり発電すればするほど自然環境を破壊するわけで、クリーンとは正反対の存在を「環境に優しい」などと言ってきたのだから、誇大広告というより虚偽広告であった。
しかしメディアはそれらをほぼノーチェックで掲載し続けた。

NUMOの活動費用は、2000年から2012年までの12年下員で総額487億円に上ることが朝日新聞によって明らかにされていて、原発事故のあった11年度でも広告費に8億、人件費に12億円もかけていた。ちなみに11年度のNUMOの役員は6人で二人は経産省、4人は電力会社の出身であり、一人平均2000万円の報酬を得ていた。なんの実績も挙げない事業にしては、驚くべき高額である。
それほど安全で必要だと主張しているにもかかわらず、何回もシンポジウムに出演し高額の出演料を稼いだタレントや、安全だと主張した論説委員、もしくはNUMOの役員たちで「ぜひ自分の地元に作りたい」と手を挙げた者は皆無であった。しかも電力会社が自腹を切るのならともかく、相変わらず電気料金を横流しして実施しているのである。結局この団体は、最終処分場が決定しないかぎりムダ金を使うことが自己目的化しているのではないか。
2014年も全国29ヶ所で行われているシンポジウム、後援には共同通信社がついているのだ。
ローカル紙の紙面は、共同通信社や時事通信社の提供する記事に頼っているのだから、この意味は非常に大きい。つまり共同通信社が後援している事業となると地方新聞は共済を断りにくく、批判もしにくい仕組みにしてあるわけだ。報道機関である共同通信社がこのような批判の多い活動を後援することは、報道の公平性を考える上で、非常に重要な問題をはらんでいると言わざるを得ない。

原発事故の深刻さが明らかになると共に、原発プロパガンダに手を染めていた企業や団体は、脱兎のごとく証拠隠滅に走った。原子力ムラ関連団体は、それまでHP上に所狭しと掲載していた原発CMや新聞広告、ポスター類の画像を一斉に削除したのだ。
そうした証拠隠滅に走ったのは、原子力ムラ関連団体だけではなかった。驚くべきことに、大手新聞社や雑誌社の過去掲載広告事例集からも原発広告が削除された。
原発PRに手を染めていたプロパガンディストたちの狼狽ぶりは、まるで戦争に敗れた国が大慌てで戦争犯罪記録を焼却するかの如くだった。(第4章 プロパガンダ爛熟期から崩壊へ(2000~11)


「喉元過ぎれば熱さを忘れる」ということわざもある。

六ケ所村は今まで2兆円以上の建設費を投入しながらまともに創業できていないのに、電事連はさらに、バックエンド費用として19兆円もかかるという非現実的な見通しを明らかにしている。つまり全く採算が合わない施設なのだが、そうした事実を隠蔽するためか、3・11以後も青森県内で積極的な広報・広告活動を行っている。

非現実な現実(@_@) 隠蔽のための隠蔽のための隠蔽のための……

現在は、事故の深刻さを伝える報道や発言を「風評だ」「風評被害を発生させる」と叩きつつ、同時に「事故による健康被害は発生していない」「健康や作物へのダメージは小さい」という「ダメージ緩和」を喧伝し、さらに輸入資源の高騰で国際収支が赤字となっている現状を捉えて「エネルギーベストミックスによる原発必要論」を前面に押し立てる戦略にシフトしたのだ。最近掲載された原発広告は、すべてこうした戦略に則っている。
原発事故も消費増税も、本来であれば予算削減の根拠とされるべきはずなのに、いつの間にか焼け太って逆に予算が増大していく。特に原発事故関連に限って言えば、今後も中間貯蔵施設と最終処分場設置の理解促進、さらには「風評被害撲滅」を合言葉にした「安心キャンペーン」に巨額の広報予算が投下されることは明らかである。そこに電力会社と電事連も同調するのだ。


「風評被害」という名のもとに裏返しの「風評」が確信的に撒き散らかされていることも忘れてはなるまい。

原発事故による被害をことごとく「風評だ」として隠蔽することは、事故の教訓を見えなくさせ、加害者の責任を曖昧にする。これらの事業が本当に被災地のためになるのか、きちんと検証することが必要だ。そして広告業界最大手の電通に続き博報堂もADKも原子力ムラの一員となってしまった現在、いつも彼らの顔色を見ながら動いているメディアは、より一層原発問題に対するタブー化を進めるだろう。私たちはそれに対し、常に厳しい視線を持つ必要がある。
そもそも風評という言葉の意味は非常に曖昧である。実際に害が発生しているからこそ、その周辺に噂が立つのであって、火のないところに煙は立たない。原発事故によって実際に放射能汚染や被害が発生しているのに、それらをすべて「風評被害」と呼ぶのは、真実を見て見ぬふりをするのと同じである。
そして、原子力ムラはそうした「人々の素朴な感情」を巧みに利用する。その最たるものが、前述したリスクコミュニケーションだ。
原発事故の影響は言われているよりも大きくない、自分たちの日常生活には影響がない、と思いたい人々の切実な思いを利用し、まるで住民のためを考えているかのような言説を展開する。しかし、これまでの国と東電の行いを見れば分かる通り、何か起きても彼らは決して責任をとらない。結局は彼らの賠償責任を軽くするための隠れ蓑なのだ。国や東電が今すべきことは、何よりも福島第一原発事故の収束と原因究明、さらには現在もなお避難を強いられている人々の生活を元に戻すことであり、現状を追認するようなリスコミなどは行うべきではない。


マスコミがリスコミに取り込まれている?

インターネットが普及した現在においても、視覚と聴覚を同時に刺激するテレビの影響力はいまだに絶大だ。それほど絶大な影響力をもつメディアがなぜ「無料」なのか、視聴者はきちんと考えなければならない。そのカラクリが理解できれば、テレビが発信する情報のどれに価値があり、ないかがわかるはずだ。
ここで改めて、メディアの情報に接する際の留意事項を記しておこう。
1.メディアは決して潔癖ではなく、間違う、嘘をつく、利益誘導する存在だということを認識する。
2.ニュースを見る際、漫然と見るのではなく、その発信者、ニュースソースが誰なのか、何のために発信しているかを考える癖をつける
3.大手メディアが同じ論調の場合、なぜそうなのか疑う。異なる意見ないか意識を持って探し、それぞれを比較して考える
4.各メディアの企業特性、親会社、株主などを知っておくと利害関係が理解できる
5.そのニュースによって得をするのは誰か、逆に損をするのは誰かを考える(第5章 復活する原発プロパガンダ(2013~)


Doute tout すべてを疑え」(デカルトの言葉)

広告とは、見る人に夢を与え、企業と生活者の架け橋となって、豊かな文明社会を創る役に立つ存在だったはずだ。それがいつの間にか、権力や巨大資本が人々をだます方策に成り下がり、さらには報道をも捻じ曲げるような、巨大な権力補完装置になっていた。そしてその最も醜悪な例が、原発広告(プロパガンダ)であった。

いったん事故が起きれば数十万、数百万単位の人生をメチャクチャにしてしまう可能性がある発電システムを存続させていく合理的な理由などあるはずがない。他国はどうあれ、地震が多く国土の狭い我が国では、原発はあまりに危険で信用できないシステムだ。
それでもなお、その原発によって潤う人々によって、原発プロパガンダは復活した。
今や原子力ムラ最後の拠り所は、根拠さえ曖昧な「エネルギーベストミックス」論だけになっている。実は彼らもせっぱ詰まっているのだ。

広告代理店やメディアの実名を書いていることで尻込みする他の出版社をよそに、この内容をそのまま世に出してくれた岩波書店の皆さんにも、この場を借りて厚く御礼を申し上げたい。(おわりに)


拍手!!
【強父論】阿川佐和子 ★★★ 2016/0730 文藝春秋 2018024
阿川佐和子 1953年東京生れ。慶應義塾大学文学部西洋史科卒。
阿川弘之(1920-2015)
タレントとして、対談(インタビュアー)として、ベストセラー「聞く力」の著者として、すっかり有名人の阿川佐和子が、その父作家阿川弘之の思い出を綴った回顧録。徹子の部屋の後釜の位置を確保した
彼女のエッセイや父娘の往復書簡などで、知ってることも多かったが、父の没後に書かれただけに、悪口言いながら懐かしがってるのが感じられた。
佐和子節ともいうべき、天衣無縫な書きぶりはなかなかのものだが、本書からは、酒と料理にまつわる小ネタを引いてお茶を濁しておくことにする。

マッシュルームのにんにく炒め
フライパンにオリーブオイルをやや多めに敷き、半分、もしくは1/4に切ったマッシュルームを入れてしばらく炒める。塩、胡椒で味付けし、ほどよく火が通ったら、まるごと一個すりおろしたニンニクをからめ、その上からブランデーを振りかける。ボッと日がついたら蓋をして、火をとめる。できあがり。


ドライマティーニの準備をするだけでもけっこうな手間が掛かる。父愛用の巨大マティーニ用グラスとミキシンググラスに氷をたっぷり入れてガラスが曇るほどに冷やしておき、それらをテーブルの上に並べるとともに、冷凍庫からタンカレーのジン、酒棚からドライベルモットとビターズを出し、オリーブを数粒、爪楊枝を刺して小皿に並べ、さらにレモンの皮を薄くそいでレモンピールを用意し、「おい、氷を捨てる器が出てないぞ。早くしろ。氷が溶けると水っぽくなって不味くなる!」という父の声にバタバタ駆け回り、「お前たちも少し飲むだろ? 多めにつくるから、グラスを用意しなさい」と言われてまた、駆け回り、その合間に、
「ハムサンドを作ってくれ」
の仰せである。しかも、マティーニが出来上がると同時に、ハムサンドが用意されていないと、父が不満を漏らすのは目に見えている。「ひえー、こっちも大変なんっすけど」とつい、心の中で思ったのはじじつである。がおもっただけで表には出さなかったつもりだ。


この後、一瞬ため息をついたのを咎められて、家を追い出されそうになった、というオチが付く(^_^;)
タイトルには「KYO-FU RON」とルビが付されているがこれは、父の「恐怖」といううがちだろう。
【反日マンガの世界 : イデオロギーまみれの怪しい漫画にご用心】唐沢俊一, 高沢秀次, 宮島理, 中宮崇ほか著 ★★☆☆ 2008/05/20 晋遊舎ブラック新書:007 2018023
反日マンガの例証として、以下の作品がとりあげられている。

美味しんぼ-雁屋哲・花咲アキラ/DAWN-陽はまた昇る-倉科遼/ナカタニD/安穏族-石坂啓/光る風-山上たつひこ/蝙蝠を撃て!-雁屋哲・シュガー佐藤/はだしのゲン-中沢啓治/マンガ日本人と天皇-雁屋哲・シュガー佐藤/黒鍵(くろのキー)-雁屋哲・シュガー佐藤/無防備マンが行く!-あきもとゆみこ/マンガ嫌日流-キムソンモ /嫌日流-ヤンビョンソル

11作品のうち4作品が原作雁屋哲。ほとんど雁屋哲批判本みたいな感じである。かなり偏見にみちた文章も多かったが、「マンガ日本人と天皇」を取り上げた髙澤秀次の天皇への言及は見るべきものがあった。

日本の敗戦を、ただ民主主義に対する天皇制ファシズムの、科学に対する妄信の結果だとする雁屋風の薄っぺらな進歩史観によっては、鬼畜米英のマインドコントロールは、一夜にして解けたとしても、天皇制の構造に、根本的変化がもたらされなかったことの謎は、永遠に解けないのである。
然り、日本のナショナリズムと天皇制の関係は、「科学」では説明がつかないのだ。だがそんなことを言うなら、近代「国民国家」自体が、科学的な根拠などというものとは全く別のメカニズムによって編成されてきたのであり、日本だけが例外なのではない。ベネディクト・アンダーソン風に言えば、文字通りそれは「想像の共同体」なのであって、あらかじめ民族的実体に根拠づけられたものではなかったのである。
そして雁屋氏が何と言おうが、明治国家は神がかり的な前近代国家などではなく、紛れもなくアジアで最初の「国民国家」だったのだ。重要なのはこの国家が、「革命」(revolution)の結果ではなく、「復古」(rstoration)的な「維新」という特殊な形で誕生したことである。その矛盾の象徴であり、またその解決として召喚されたのが天皇なのだ。
大日本帝国憲法には、この「維新」と「復古」の痛々しい継ぎ目が、いたるところに刻印されている。質流れの共産党員みたいなこのマンガ原作者には、到底理解不能であろうが、明治欽定憲法と、宗教とナショナリズムの危機的二重性を背負わされた天皇が、ただの専制君主ではない近代国家の一機関として、「命懸けの飛躍」をした場所そのものだったのだ。
「万世一系ノ天皇」は、そのように「大日本帝国」を統治する超越者として、近代史の表舞台に登場してくるのである。このレベルと、昭和戦時期に至って、統帥権や現人神などという憲法に全く明記されていない抽象的な観念が「国家神道」と癒着して怪物的に肥大していった経緯は、歴s的に明確に区別されなければならない。
雁屋哲がどう考えようと、民族も近代「国民国家」も全ては想像の産物であり、その本質は制度的な虚構と言って間違いない。
明治以来、近代天皇制から象徴天皇制への移行の全過程を通じて、天皇も国民もこの虚構に耐えてきたのである。丸山真男がかつて述べたように、戦時中の「不自由なる臣民」が、戦後に至って突如「自由なる主体」に"進化"し、天皇との関係を革命的に清算したわけではなかったのである。その限りで日本人は、戦中戦後を通じて「天皇制国家」の虚構に、主体的にかかわってきたのだ。この事実は、歴史的に否定しようがない。天皇制は雁屋氏の語るように、虚構を虚構と認めない非理性によって歴史的に長らえてきたのではなかった。逆に虚構を虚構と認める歴史の狡知によってこと、制度的に持続してきたのである。(髙澤秀次)

髙澤秀次 1952年北海道生れ。早稲田大学文学部卒。文芸評論家。「評伝中上健次「江藤淳-神話からの覚醒」「戦後日本の論点」

【消されたマンガ】赤田祐一, ばるぼら著 ★★★ 2013/07/25 鉄人社 2018022

1940-1969
のらくろ-田河水泡/サザエさん-長谷川町子/妖怪探偵団-手塚治虫/噂の皇居前広場-横山泰三/ブローニング32口径-佐藤まさあき/死を買う-佐藤まさあき/8マン-桑田次郎/風太郎-池上遼一 /あかつき戦闘隊大懸賞-少年サンデー/ハレンチ学園-永井豪/狂人軍-藤子不二雄A
1970-79
アシュラ-ジョージ秋山/切り裂く!-真崎守/やけっぱちのマリア-手塚治虫/おとこ道-矢口高雄/現約聖書 惣次郎流転編-ジョージ秋山/櫻画報-赤瀬川原平/魔太郎がくる!!-つのだじろう/やさしく殺してェ!!-近藤せい/ブラック・ジャック-手塚治虫/キャンディ♥キャンディ-いがらしゆみこ/うしろの百太郎-つのだじろう/パタリロ!-魔夜峰央/堕天使たちの狂宴-ダーティ・松本/夜光虫-篠原とおる
1989-89
私立極道高校-宮下あきら/キャスター-赤塚不二夫/ちびまる子ちゃん-さくらももこ/信長-池上遼一/ゴルゴ13-さいとう・たかを/美味しんぼ-花咲アキラ
1990-99
電影少女-桂正和/地球をかけめぐる頭脳集団 三菱商事-さいとう・たかを/燃える!お兄さん-佐藤正/ANGEL-遊人/沈黙の艦隊-かわぐちかいじ/森へ帰ろう-岩渕龍王丸/ラジヲマン-あさりよしとお/こちら葛飾区亀有公園前派出所-秋本治/タイガーマスク☆ザ・スター-真樹日佐夫/MMR-石垣ゆうき/あんみつ姫-金森章介/勉強しまっせ♥-みやうち沙矢/ときめきALBUM-/マイナス-山崎紗也夏/代紋TAKE2-渡辺潤/おまかせ!ピース電器店-熊田達規/いけない!ルナ先生-上村純子
2000-
まんがで覚える韓国語-高信太郎/国が燃える-本宮ひろ志/珍入社員金太郎-漫画太郎/蜜室-ビューティ・ヘア/毎日かあさん-西原理恵子/エデンの花-末次由紀/ゆび-柴田よしき/メガバカ-豪村中/イキガミ-間瀬元朗/ゼロセン-加瀬あつし/週刊新マンガ日本史さよなら絶望先生-久米田康治

有名無名取り混ぜて60もの作品がとりあげられているが、作品そのものが消されたわけでなく、エピソードの一つが該当したり、固有名詞、差別語を咎められて、書き換えで再刊されたものが多い。その他、著作権問題、エログロ、思想的なものもある。出版社や作家にかなり気を遣った部分が多く、ちょっと物足りなかった。
おしまいに「証言」と題して、泉真之/平松伸二/旭丘光志/奥成達/橋本一郎/浅川満寛のインタビューがあり、こちらの方が面白かった。

旭丘光志 ぼくは樺太からの引揚者なんです。敗戦で小学校3年生の時(47年)本土に引き揚げてくるんですけど、それは日本国からほっぽりだされたようなものでしょうね。戦争は全部失って身ぐるみ剥がれるようなものなんです。戦前の体制がすべて崩れていくのを見ました。子どもだから、受け取り方は単純です。だけど腹がたった。ちょっとやそっとで国やものを信じるということが出来なくなった。(--現在の天皇観といいますと。)その後わたしも年をとってきて、天皇制には別の考え方に到達してきてるんですけど。権威と権力を分けて考えるということです。天皇には権威は有るが、権力はない。首相には権力はあるが、権威はなく、天皇の認証によって公認される。いいじゃないですか。軟弱と言われるかもしれませんが、天皇制は、せっかくあるものなんだから、権威を拠りどころとしてそこそこに持ちながら、有効活用していえばいいんじゃないかと思うんです。
【クラウド・ナイン】服部真澄 ★★★☆ 2015/09/15 講談社 2018021
Googleをモデルにしたような、検索エンジン巨大企業「オッド・アイ」が最先端技術を占有して、国家を越えた権力を得ようとする一種の反ユートピア的近未来SF ?

人間のスポーツフィールドよりも先にはじまった。コカインやモルヒネ、アヘン。世界で初めてのドーピング検査は、1911年のウィーン。出走後の検査でアルカロイドが検出された馬がいた。
続いて、カフェインやアンフェタミンなどの興奮剤が使われ始めた。検出で発覚するまでのあいだ。
1950年代前後からは、筋肉増強剤が使われはじめた。しばらくは検出方法がなく、競走馬もアスリートも世に隠れて盛んに使ったと言われている。
筋肉増強剤として使われたのは、タンパク同化ステロイドや男性ホルモン製剤だ。増強剤を用いたうえでタンパク質を摂り、トレーニングをすると、はるかに筋肉量が増す。にわかマッチョの誕生だ。
木挽橋隆一は、ドーピングに使われる興奮剤のことを思い浮かべた。初期のドーピングで使用されていた興奮剤のアンフェタミンは、明治時代の日本で発見された覚醒アミンのエフェドリンの化合物だ。アンフェタミンは、風邪薬としてドイツで使用されたが、強力な眠気をも覚まし、一次的な興奮作用をもたらすことが知られ、各国の軍部は兵士たちにこれを服用させた