Morris.日乘2002年3月
Morris.日乘(i-mode版)

 

ここは、Morris.の日記です。読書記録(★=20点、☆=5点、これはあくまでMorris.の独断、気紛れ、いい加減です)、オフ宴会の報告、友人知人の動向など、気まぐれに書き付けるつもりです。新着/更新ページの告知もここでやります。下線引いてある部分はリンクしているので、クリックすれば、直行できます。


今月の標語  日本 ニッポン でも妊娠


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2002/03/31(日)●ひさびさの赤カレー●

引越しの夢。引越し作業はすべて他人任せで、Morris.は立会いもしない。最寄の駅名が「ウリトンネ」というので、韓国なのかもしれない。引越し先は、古くて汚い建物。中に入るとL字型の間取り。ベッドは、備え付けのハイベッド、ロフトみたいで、かなり高いところにあり、上がってから、思い切って飛び降りてみる。壁面に横長の礼拝室があり、これを衣裳部屋に使おうと思ったら、別料金だといわれる。金を払えば鍵を渡すというが断る。土間があると思ったらそこは町工場だった。全体が大きな教会の一部らしい。天井が高いのはいいなと思ったが、隣にいた男が、これでは暖房費が大変だというので、「余計なお世話だ」と答えた。
8時半起床。洗濯、掃除しながら、今回初めて選抜高校野球「報徳-日大三校」を見る。報徳の逆転勝ち。
本当は今日は石屋川で花見の計画もあったのだが、参加者少なくて中止になる。
昼から中央図書館に行く。図書館を出たら小雨が降っていたのでひとりで花見も中止。元町まで歩き、阪神理容で散髪。今日のおっちゃんは割と時間かけて丁寧にやってくれたが、顔剃りだけは異常に力入れて剃刀あてるので顔がひりひりする。
南京町の林商店で豆板醤など買って帰宅。久しぶりにタイ風レッドカレー作る。
6時からTVで巨人-阪神の第二戦。前半は工藤、ムーアの投手戦で、結局2-1で阪神が連勝した。阪神の開幕2連勝は23年ぶり、巨人相手だと40年ぶりで、その年は阪神優勝したという縁起のよさ。とりあえず、これでしばらくは関西はトラ騒ぎで、活況を呈するであろう。

2002/03/30(土)●トラックで花見●

バイクに乗って夜の街を疾走する夢。と、いってもMorris.は原付の免許しか持ってなくて、それももう4年以上乗ったことがないのに、夢では大型のバイクで、まあ、これまでもトラック運転する夢などよく見たから、別段驚くほどのことはない。驚くのはそのストーリーレスなことだ。結構長い夢だったようなのに、ひたすらMorris.は、高速道路を走りつづけていた。ただそれだけの夢だった。
午前中は伊丹、午後から、矢谷、秋本君と姫路に行く。
週末で桜の見頃ということで、大渋滞。普通なら1時間ちょいなのに2時間くらいかかる。姫路城の前を通ったらさすがに桜は綺麗だった。
階段4階の搬入で、組み立て家具の部品がなくてえらく時間がかかってしまった。
作業終了して出発したのが午後6時(+_+) ラジオで今日開幕したプロ野球、巨人-阪神戦を聞きながら神戸に向かう。
帰りも大渋滞。野球は阪神が桧山、アリアスのホームランで3点、巨人は清原のソロホームランのみで、阪神は12年ぶりに開幕戦を勝利で飾った。オープン戦の好調が本番でも発揮できたというのが大きい。

9時にヒアカムへ。今日はフクイーズのライブ。
ゲストはYS-11で、ギターが山口さん、エレキベースが伊藤君というおなじみのメンバーに、ボーカルの真燐という女の子のトリオ。
ボサノバ風の曲主体で、クールな歌詞を無機質に歌う真燐ちゃんはなかなか可愛かった。

フクイーズは3ヶ月ぶりでこれからも季節ごとにライブをやる予定だと言ってた。ストーンズの名曲「Wild Horse」をカバーしてくれたのは嬉しかったが、福井君が歌うと、とりあえず最初に笑ってしまう。年末の特別企画として、ドアーズ、ビートルズに続いて、是非ストーンズをやって欲しい。企画タイトルはすでに考えている。「Let's Stones Night togeather」だ。
今日の矢谷君のギターはワーキング・ハイなのか、いつもにまして迫力があった。ほんとに、短期間でめちゃくちゃ巧くなったもんだ。

打ち上げというか、だらだらとヒアカムで飲んでいたら、おーまきちまき&野村あきがやってきた。同じ時間に別の場所でライブがあったらしい。ちまきちゃんはかなり酔ってた。
野村君と矢谷君が昔「GRASS」というバンドでやってた曲を突然演奏してくれることになった。おしまいに演った「godd-bye and good-night」はとんでもなく素晴らしかった。

2002/03/29(金)●元祖ペコちゃん発見!?●

Bird's Eye Spinach is Super!! 朝からどんよりとした空模様で、昼から雨が降り出した。満開の桜が散らないかと心配だ。
昨日今日二日続けて、西区学園都市駅前「華苑飲茶」と言う店で昼食をとる。
昨日食べた酢豚が美味かったためでもあるが、実はもう一つ目的があった。
店の壁に古いアメリカ雑誌のCMページをパネルにして飾ってあったのだが、そのキャラクターを見て、本当に目が点になってしまった。
これはどう見てもペコちゃんじゃないか。かなり古色騒然としているから、不二家の社長が、これをモデルにしたという、可能性は充分にありそうだ。
雑誌の発行年月日や誌名がわからないのが、残念だが、Morris.にとってはほってはおけない。というわけで、今日はデジカメ持参で、盗撮しに行ったのだった。
BIRD'S EYEという加工食品メーカーのCMらしい。三人の子供が並んでいるのだが、真ん中がペコちゃん、右側がポコちゃんそっくりだ。ペコちゃん風のイラストには吹き出しせりふに「Bird's Eye Spinach is Super!!」と書いてある。商品は紙箱に入ってるが、どうやらホウレンソウの缶詰のようだ。ホウレンソウの缶詰といえば、ポパイを連想せずにはいられない。
そう思って見ると、ポパイとペコちゃんの顔型って、結構共通点があるなあ。
もしかしてペコちゃんはポパイの孫キャラにあたるのかもしれない。
それにしてもよく似てる。あのほっぺたと、向かって左側にベロ出してるところ、服装もオーバーオールだし。違うのは振分髪のリボンがないことくらいだな。いやあ、これは大発見だ。
第一発見者の市川さんに感謝と拍手を送ろう。
しかしBird's Eyeが不二家からパクったという可能性も無きにしもあらずだ。
不二家のペコちゃん登場は昭和25年(1950)だから、件の雑誌の発行日さえわかればはっきりするんだけどなあ。

4月といえば新学期、NHKの語学講座も軒並み開講で、テキストがずらりと並んでいた。
TVハングル講座のテキストを立ち読みした。スキットの一部は昨年度のものを流用するなど手抜きは相変わらずだが、安倍ちゃんもインスンちゃんも居なくなり、代わりに、タレントのユンソナと俳人の黛まどかがメインゲストになっている。
ユンソナが好きな詩を紹介したり、黛が俳句を韓国語で作る(翻訳する?)企画があって、目先をかえてるようだが、語学講座としてはあまり役に立たない気がする。
ここ数年来TVハングル講座は講座の名に値しないというか、低俗番組化しているな。
はっきりいえば、入門篇以下である。営業面からは初心者をターゲットにすれば儲かるということだろう。その証拠に、4月号は3月号の10倍以上売れるらしい。

島田和夫部屋 にスケジュール大幅追加。ポスターも一枚 追加。

【バラガキ】中場利一 ★★ 
「岸和田少年愚連隊」が劇的に面白かっただけに、後続作品がどんどんしょぼくなっていくのが悲しい。本書は、新撰組の土方歳三を主人公にした著者にとっては異色な作だが、基本は本領の「喧嘩屋」をメインテーマにしたものだろうということは読む前から予想がついたし、それは間違ってはいなかったが、思ったよりは、参考書を読んで勉強したらしく、いちおう歴史小説らしくできあがってはいた。しかしながら、面白いとは言いがたかった。近藤、沖田、芹沢のキャラ付けも、漫画風であり、ステロタイプでもある。どうせなら、史実に囚われず、もっとはちゃめちゃな展開にすればよかったのではないかと思う。岸和田シリーズはネタ切れで、いろいろ模索中なのだろう。岸和田とはいろいろ因縁のあるMorris.だけに、何とか良い方に大化けして欲しいものである。

2002/03/28(木)●日本サッカー好調●

昨夜のサッカー日本×ポーランド戦は朝日TVで実況していたので見ようかとも思ったのだが、試合開始が0時半だったから録画して寝ることにした。
それでも前半9分の中田のシュートだけは見ることが出来た。結局前半高原が追加点を上げ、そのまま2-0で逃げ切ったらしい。
ウクライナ戦は何となく相手側のモチベーション不足で、勝ちはしたものの物足りなかっただけに、今回アウエイでの快勝は、価値があると思う。

【ユリシーズの涙】ロジエ・グルニエ 宮下志朗訳 ★★★☆☆☆  タイトルと表紙写真に惹かれて借りてきた。ユリシーズというのは著者グルニエの愛犬の名である。本書はそのユリシーズの思い出を含めて、主にフランス文学の中に出てくる犬のエピソードを、恣意的に、しかも、厳選して集めた短章集である。引用された作家は、ホメロス、ヴァージニア・ウルフ、ボドレール、カフカ、セルバンテス、スピノザ、スターン、ボードレール、サルトル、リルケ、ガートルード・スタイン、スティーヴンソン、クンデラ、、アラゴン、セリーヌ、オーウェル、シュペルヴィエル、ジッド等々、錚々たる作家からの引用はもちろん、著者の仲間や友人である作家たちからの引用も多い。1919年生まれの著者はガリマール書店文藝顧問という、いわばフランス文壇の重鎮であるだけに、その交友関係の広さにも驚かされる。先にあげた作家のうち少なくとも5人は顔見知りらしい。
無邪気な愛犬家の、ペット礼賛エッセイでは決してない。皮肉に過ぎる部分さえ見受けられるが、根底にはやはり骨の隋までの犬好き魂は隠れもない。

・数年前のこと、セートの町にある「海辺の墓地」を訪れた旅行者が、「ポール・ヴァレリーの墓はどこですか?」と番人に聞いたという。すると、その市職員は犬を起こし、命令するような調子で「ヴァレリー!」といった。
犬が単独で、詩人の墓まで案内するようになっていたのだ。(謎)

・飼いならされた動物とは、生命のおとろえに対する防波堤のようなもの、世界にあらがう最後の手段であり、たしかに愛されているといういくぶんか空しい確信にほかならない。要するに、さして孤独ではないかにみえながら、より孤独な存在のありかたなのである。(フローベル、ニシキヘビからオウムまで)

・犬とその飼い主は、なんやかんやいっても、相手のことを自分のことのように思うようになるのだ。(一体感)

・倒錯趣味、これはロマン・ギャリが『白い犬』で告発した主題でもある。カリフォルニアで、著者は捨て犬のシェパードを引き取る。そして即座に、これが「白い犬」、つまり黒人を襲うように訓練された犬であることを発見する。今度は「ブラック・モスレム」につながる訓練士が、この犬を再教育する。やがて犬は、白人ののど元めがけて飛びかかっていくのである。(乱暴者)

著者は日本文学に関してもいささかの知識を有しているらしく、谷崎潤一郎が子供の頃使い古した筆を狛犬の足の間に隠したことで、天神さまから作家という天職を授かったのであろうとか、漱石の「吾輩は猫である」などにも触れている。

・注釈家たちの指摘によるならば、クノーというのは、ノルマンディ方言で犬を表すquenとかquien--英語でもkennel「犬小屋」として残る--という言葉の指小辞だという。「ルーアンでは、庶民は子犬のことをquenotという」と、『会話辞典』も請け合ってくれる。
あまり脇道にそれるつもりはないけれど、日本語でも、犬は「けん」kenである。19世紀はじめに滝沢馬琴が書いた『南総里見八犬伝歌という、とても有名な大長編小説があって、これは大名が一匹の犬に敵から娘を救ってくれれば結婚させようと約束したことをきっかけに展開され、これに孔子の八つの徳を体現した八人の犬士の物語がからみあう。犬士はいずれも、その姓に「犬」の字がつけられている。(ディノ、クノーの犬)


「犬をめぐる、このような格調の高い文章」(訳者あとがき)を、読むのは確かに楽しいものだった。しかしこの「格調の高さ」が、ちょっとだけ鼻につくのも否めない。原著はフランスのガリマール書店、日本版はみすず書房から出されているということだけで、おおよその雰囲気はわかってもらえるかもしれないな(^_^;)

2002/03/27(水)●2月の日数●

朝から雨、昼から晴れた。ものすごく風が強い一日で、六甲アイランドとポーアイを結ぶハーバーハイウェイで、20フィートコンテナーがトレーラーから飛ばされて対行車線に滑り落ちる事故があったりしたくらい。
倉庫でも木製ヴァンが倒れまくっていた。
今夜はヒアカムで水埜正彦君のライブ。水埜君は矢谷君の友達で、15年くらい前よく春待ち疲れBANDでライブやってた。
その後スイスに7年ほど行ってて、今は横浜在住。歌声を聞くのは実に10年ぶり。
途中矢谷君がゲスト出演、客できていたおーまきちまきちゃんがコーラスに参加したり、Morris.のアンココールリクエストで「フィッシングブルース」を歌ってもらったり、なかなか楽しいライブだった。
帰り道満開の桜ごしに春の月が冴えていた。

どうでもいいようなことだが、何で現在の太陽暦(グレゴリオ暦)で、2月は28日なんだろうとずっと疑問に思ってた。
30日と31日の月を交互にするとしても、2月を30日にして、31日が連続してる8月を30日に減らせばあと一つ30日の月を増やすことで、調整できそうなものなのに。
とりあえずこの疑問を解決すべく、押し入れのダンボール箱から古い「歴史読本」の臨時増刊「万有こよみ百科」を引っ張り出してきた。
1973年発行のもので、1873年(明治六年)1月1日の日本での新暦施行から100年目にあたり「明治改暦100年記念特集」とある。
この本は旧暦新暦対照表というのが目的で買ったもので、ぱらぱらと読んだあと、お蔵入りしてた。久しぶりに開いたらいろいろ興味深い記事満載である。
2月28日についても「暦に関するさまざまな疑問」のなかに「なぜ一ヶ月の日数は違うか」という、ほぼ100%当たり!の項目があってMorris.の疑問は氷解した。
こんなことは知ってる人には常識なのだろうから、なるべく簡単に記そうと思うのだが、それなりにややこしい。

1.西洋の暦の元になるローマの暦法では3月が年の始まりだった。
2.一年365日を12では割り切れないのでどうしても30日と31日の月を約半々にする必要がある。
3.そこで3月から31日、30日を順番に振り分け、最後の2月を29日にして、閏年には30日とすることにした。
4.8月は30日となる。ところが、時の皇帝アウグスツスが自分の名を冠する8月(augusut)が小の月というのは不愉快だというので31日にするようごり押しした。
5.そうなると9月が小の月に変わり、12月が大の月で、1月(January)が小の月になるはずだった。
6.しかし、その当時には1月(January)が年の始めということが慣例となっていたので、この月を小の月にするのはよろしくないということで31日に決めた。
7.つまりDecemberとJanuaryも連続して31日の月になってしまった。
8.このため、2月は2日をよそに取られて28日になってしまった。閏年には29日になる。


ざっと、こんな按配だが、Morris.は、ずっと不思議な説を信じ込んでいた。
9月(SEPTEMBER)から12月(DECEMBER)までは、sept=7 octo=8、novem=9、decem=10と、日本での12ヶ月と2ヶ月ずれている。これはローマ皇帝、ジュリアス・シーザーが7月(July)、アウグスツが(August)という月を割り込ませたために2ヶ月ずれたというもので、これはどうも、うそ臭い。

2002/03/26(火)●鶏林書信●

東京の平田さつきさんから封書が届いた。
「鶏林書信NO.6」と「渤海を夢見る通信第5号」という2冊の小冊子が同封されていた。彼女はMorris.よりずっと前から韓国/朝鮮歌謡の愛好家で、「高麗歌楽楼」というミニコミを長いこと発行されていた。
まだ世間的には韓国歌謡なんてマイナー以前の状況だったから、このミニコミの情報はMorris.にはとても貴重なものだった。
ずっと購読していたのだが、数年前、韓国情報がさまざまなメディアで入手できるようになったのを機に休刊になった。しかし、その後も、無料の小冊子を作りつづけておられる。また歴史小説や歴史もの私家版を発行するなど、とにかく、熱心な方なのである。手紙によると、最近PCの講習を受け、そこで、Morris.部屋を見られたとのこと。
仕事が厳しい状況で、PC導入はまだらしいが、是非彼女のサイトを開いてもらいたいものだ。
「鶏林書信」のあいさつ文からちょっと引用する。

今の若い人々にとって韓国は"カッコイイ"存在なのですね。最近、日本の新聞を見ていたところ、このような記事が出てびっくりしました。私たちの頃の韓国は"でぃーぷ"で"オモロイ"存在でした。確かに最近の韓国の芸能人やスポーツ選手などを見ますとカッコイイ人が多いですね。音楽や映画も洗練されているし---。でも編者は70〜80年代の"でぃーぷ"で"オモロイ"韓国が気に入っています。

引用文の「70〜80年代」を「80年代後半から90年代前半」に入れ替えたら、Morris.も全く同感を覚える。

【ジョゼフ・フージェ】ステファン・ツヴァイク 吉田正巳、小野寺和夫訳 ★★★★  再読である。再読すること自体が珍しいが、再読してこれだけ感心したといいうのも稀有な例といえるかもしれない。前回読んだときは、ツヴァイクの魔術的な手際におどろくばかりだったが、今回は主人公フーシェの「業」に力点をおいて読んだような気がする。現代のフーシェは、必ずインターネットやメールを、フルに活用しているのだろうな。いやあ、それにしても、本書の、圧倒的な「面白さは」たまらない。評伝と言うものがこんなに面白いのなら、小説など読んでいる場合ではない、と思ってしまった。

・残念ながら世界史は、たいていの本に書かれているような人間の勇気の歴史であるばかりでなく、人間の臆病さの歴史でもある。また、政治とは、もっぱら世論を指導することとと、信じこませたがるものだが、実は、指導者が自分で創設して勝手に左右した法廷に、奴隷的に服従することなのだ。戦争はつねに、危険なことばをもてあそび、国民の情熱をあおりすぎることから起こるのだが、政治犯罪も同様である。この世のいかなる悪徳や残忍さでも、人間の臆病さほど多くの血を流しはしない。

・芸術家や、将軍や、政治家を、もっとも堕落させるものは、万事がいつも、意のまま、望みのままに成功することだ。失敗してはじめて、芸術家は自己と作品との真の関係を学び、敗北して初めて、将軍は自分の誤りを知り、失脚してはじめて、政治家は真の政治的展望を授かるのだ。不断の富は人を惰弱にし、不断の喝采は感覚を鈍らせる。中断のみが、惰性的なリズムに新鮮な緊張と、創造的な弾力を与える。不幸だけが、世の現実を深く広く見てとる力を授けるのだ。

・ちょうど、ばくち打ちはばくちがやめられず、酒飲みは酒がやめられず、密猟者は猟がやめられぬように、ジョセフ・フーシェは政治がやめられないのだ。

・このたんげいすべからざる男は、あらゆる党派、あらゆる思想にたいして、不誠実で気まぐれでありながら、彼の不美人の妻にたいしては、きわめてやさしく誠実で、きわめて気のつく夫であり、この上なく心配性の父親でもあったからだ。無味乾燥な事務家の仮面のかげに、神経質で陰険な策謀家がひそんでいたように、ぶっそうで信頼のおけないこの人物の背後には、おもてからは見えないが、ひっそりと、フランスの田舎によくいる、誠実な市民にふさわしい善良な夫がかくれていた。いいかえれば、自分の家庭という狭い囲いのなかでしか安全でのうのうとした気分を味わえない孤独の人がかくれていたのだ。

・どんな英雄伝説でも、つねに歴史の一種の精神的後方地帯のようなものだ。どこの後方地帯でもそうなりがちだが、英雄伝説というものは、それ自身が同じ苦しみを味わう必要がないものだから、ありとあらゆる美徳を安直に要求するきらいがある。たとえば無条件で人間が犠牲になったり、たとえ英雄的妄想であろうと、それにとことんまで傾倒したり、自分と縁のない英雄的な死だとか、無私の忠誠だとか、そうした美徳が求められるわけだ。ざらにある、白か黒かの筆法によったナポレオン伝説には、この伝説の主人公に対する「忠臣」と「裏切り者」の二種類しか姿をあらわさない。そういう伝説では聡明さとエネルギーによって祖国に平和と秩序をとりもどさせた、初期の執政ナポレオンと、やがて戦争を行う事が病みつきになり、自分一個の権力意志のために、無謀にも世界を何度となく殺戮の場に変え、「予のごとき人間は、百万人の人間の生命くらい屁とも思わぬ」と、チムールまがいのことばを、メッテルニヒに向かって吐くにいたったナポレオン、つまり、独裁者的妄想のとりこになった。後年のナポレオンとのあいだに、何の区別も設けてないのだ。


Morris.が感動したのは、文体にも多くを負っていると思う。二人の訳者による翻訳も上出来といえる。「高見の見物」という表記があったのがちょっと残念。
それにしても、ツヴァイクの歴史分析能力の高さと深さは、端倪すべからざるものであり、時に鋭すぎたり、ニヒルに近づいたりするほどだ。しかし、この透徹した頭脳の持主が、ナチから逃れて、亡命したブラジルで、ヒトラーに捕えられて殺される」というノイローゼから、1942年2月に妻とともにガス自殺したというエピソード(月報による)は、皮肉である。
「ジョゼフフーシェ」のMorris.2000年の読書控え を読み返してみたが、読後かなり興奮していたことがわかる。その割に点数が辛いぞ。今回は☆☆を加点することにした。

2002/03/25(月)●エジソンの電気?●

仕事で行った四日市の昼休み、ぽかぽかしてたので近くの川べりで、読書してたら、頭に霞のかかったようなおばちゃんがやって来て、話し掛ける。
「あのー、何の本読んでるの?」
「ツヴァイクの「フーシェ」
「えっ、さいくの風船?」
「いえ、ツヴァイクという作家が、フーシェという人の伝記を書いたんです」
「でんきって、なんのこと?」
「歴史上の人物や、偉人の生涯を書いた本です。野口英世とかエジソンとか」
「あ、電気の修理とかされるんですかあ?」
「−−−−−−(+_+)」
「本とか読んで面白いのかねー。
あたしは記憶力悪いから読んでもわかりません。
四日市で何かみるものありますか? 
ああ、あそこの大きな煙突はめずらしいでしょう。」
このあと延々と一人で話しつづけるので、Morris.の昼の読書はまるで進まなかった。
夜ファピョンさんから電話。何でも昨日からデスクトップが起動できなくなったとのこと。Win2000仲間なので、もしMorris.が同じ状態になったらパニックになるだろうと思う。特に今はサブマシンがないだけに、想像するだにおそろしい。早くノートを手に入れたい。
9時前に社長が春待ちファミリーBAND3rdアルバムの現在までの録音の入ったMDを持ってきてくれた。お土産に手製のポテトサラダと烏賊墨塩辛まで持参で、これを肴に昨日のnafshaのビデオを見る。社長は10時半頃帰ったが、Morris.はそのまま飲みつづけ、結局つぶれてしまった。
   

2002/03/23(日)●おもちゃばこライブ●
社長nafshaライブ 朝7時半に社長宅に行き、いやまくんと3人で新開地nafshaへ。
10時から社長のアルバム 「おもちゃばこ」 発売記念ライブ。
朝から雨が降ってて心配になったたが、9時過ぎたころには晴れ上がった。nafshaは、軽食喫茶だが、同じ建物の印刷所とともに、福祉活動や地域振興活動にも熱心な店だ。10時前には満席になり、立ち見もいれて70人以上が入場した。
今日は春待ちファミリーBANDが社長の歌のバックをつとめるというちょっと異色の構成で、尾西君を除く6名が参加、まあ見た目にはいつもと変わらない編成なのだが、他のメンバーは初めてやる曲が多く、それにもかかわらず、息のぴったり合ったステージだった。
だてに20年一緒にやってないよな。
「おもちゃばこ」に入ってる全曲と、「ぞうさん」「友達っていいな」などおしゃべりを交えての一時間。
おしまいには花束の贈呈もあり和やかに終了。その後、店でビールで乾杯、カレーやオムライスごちそうになる。

帰りに奈緒ちゃんと灘図書館で、昨日の朝日新聞神戸版に掲載された社長の記事と写真を見た。

それにしても、今日は一日目まぐるしく天候が変わった。雨のち晴れのち雨のち晴といった感じで、調子が狂ってしまう。
桜の超早咲きといい、昨日の突風といい、気象変調をきたしているらしい。
唇の腫れは、昨日よりましだが、前歯を噛みあわせると痛みが走り、食事の度に辛い思いをしている。
飲み物は大丈夫なので、酒はしっかり呑んでるのだが、これはやっぱり良くないのかもしれない。
パクサ自叙伝「テクポンの誕生」 を更新。

2002/03/23(土)●右唇負傷●
ピンキーパンチの柏原芳恵   昨夜、久しぶりにイパクサから電話があった。ソウルの自宅からで、最近はナイトクラブの仕事が多いらしい。
自伝の翻訳連載始めたことを話したら、すっごく喜んでくれた。

学校の講堂で韓国人を交えた集会の夢。通訳を誰にしようか、居なければMorris.がやらなければならないと思っていたら、参加者の中に、センターの朝鮮語講座の受講者がぞろぞろいて、Morris.の出番はなかった。

仕事終わって倉庫で、トラックから荷物を降ろそうとして、ソファの脚がMorris.の口元を直撃。唇の内側が切れて、血だらけになってしまった。
さいわい前歯は大丈夫だったようでほっとした。それでも右唇はちょっと腫れてるし、前歯で噛もうとすると痛い。

7時帰宅。今日は毎日放送の大西ユカリの新世界の最終回で、留守録してたつもりだったのだが、Morris.はこの設定が苦手で、今日もやっぱり、録音できてなくて、ただラジオだけが流れてた、仕方なく7時から録音しながら聞く。今日はスペシャルで、ユカリちゃんの曲中心だった。

プロ野球終わった秋からまた再開かも、という声もあったが、是非実現してもらいたい。
今夜のスタジオライブは「紀伊半島」で、ユカリちゃん途中で「アッサ、ジョワジョワジョワ!」と叫んでいたから、やっぱり、イパクサをチェックしていたようだ。

8時からはWBC世界スーパーフライ級タイトルマッチ徳山昌守×柳光和博を見る。
最初から徳山のワンサイドゲームで9回KOで4回目の防衛となった。ちょっと呆気ない一戦だった。
しかしプロボサーのパンチといえば、Morris.のソファの脚の一撃とは比べ物にならない破壊力があるんだろうな。Morris.はずぇーーったいボクシングなんてしたくねえーーっ。

名古屋のわだのりさんから、メールで柏原芳恵の往年のC級(D級?)TVドラマ「ピンキーパンチ大逆転」の画像が送られて来た。週刊誌のグラビア記事っぽいが、何とも感慨無量ではある。

2002/03/22(金)●覚えてますか?江利チエミ●
朝から曇って、昼頃ぱらぱらと降ったり止んだりの一日、ちょっと肌寒い気がしたが、これでも平年並みかちょっと暖かいくらいだろう。
帰りに六甲道駅地下のJ-MALLに寄ったら、ニラ二束65円だったのでつい買い、結局今夜は麻婆豆腐ということになってしまった。
今日は江利チエミをエアチェックしながら聴いている。初代三人娘(知ってるよね? 美空ひばり、雪村いずみ)の中では、一番ワリを食った感じの存在だったけど、久しぶりに聞くと、なつかしいし、ナンバーによっては、結構上手い。
トップの「家へおいでよ」は、学生時代小倉のキャバレー月世界の専属歌手、チェリーさんの持ち歌だったので、特に懐かしかった。

求婚の言葉異常に甲高く御馳走攻めの我が家へ来たれ  歌集『DITTIES--西洋小唄』

彼女のジャズの代表曲といえば「テネシーワルツ」だが、これはなんか、歌謡曲になってしまってる。
今日聞いた曲中、ブギウギとトレインソングをミックスしたような「チャタヌギ・シューシャインボーイ」というのは名曲名唱だった。これ「チャタヌガ・チューチュー」のぱくりなんだろうな、やっぱり(^_^;)

としろう・ぎゃらりい にイラスト4枚を追加。

【大博打】黒川博行 ★★★☆☆ 営利誘拐犯を主人公にした作品だが、犯人と警察官が交互に一人称で語る構成になっていて、最初ちょっと違和感を覚えたがすぐ馴れた。このての話では身代金(金塊20億円分)の受け取り方法がポイントになるが、本書では船を使ったトリックがあり、双方のしのぎ合いも見どころがある。本書の一番独創的な部分は誘拐犯人と、誘拐された老人との対応にあるといえるだろう。掟破りの設定だが、ユーモアを交えながらリアリティを感じさせるあたり、作者の腕の見せ所なのだろう。リアリティといえば、身代金の金塊の形状、重さ、容積、移動方法どを事細かに説明する部分も、読者を物語に引き込む力を持っている。被害者の息子であるチケット会社社長の、煮ても焼いても食えない性格、警官数名のキャラクタの描き分けもなかなかうまい。ストーリーも起伏がありながら、たるみが無く最後まで興味を持続させてくれる。エンターテインメントとしてはかなり上出来だと思う。
犯人が人格的にかっこよすぎる(モラリストではないかと思ってしまった。)点や、姉の存在が弱すぎるなど、気になるところもあるが、そのくらいしかけなすところが無いという反証かもしれない。91年発行だが、古さは感じさせないが、自動車から、携帯電話を盗んで使う場面だけは、やはり10年前だなと思った。

2002/03/21(木)●山本久美子ライブ●
 山本久美子ライブ 今日は春分の日、彼岸の中日である。上野では桜が見頃らしい。
彼岸桜といえば、普通の桜より早く咲くことから名づけられた品種なのに、今年に限っては、染井吉野も彼岸桜になってしまった観がある。
今夜は6時から、新開地BLUE BIRDSで、市原(旧姓山本)久美子ライブ。ライブ喫茶春待ち疲れBANDの黎明期に、よくライブをやってた彼女はシンガーソングライターで、スリーフィンガーの女王とよばれていた。
Morris.は今でも彼女のライブのテープを持っていて、時々聞いたりしている。
20年以上前に結婚して名古屋に移り、現在は廣島在住とのこと。実に20年ぶりに生演奏を聞くことが出来た。
二人娘の長女が来月から高校三年生になるとか。その長女が同行して、ピアノ伴奏まで出来るというのも嬉しい驚きだった。
一部は、ちあき、みっちゃんらが、山本久美子の名曲をカバー、二部が彼女のライブと言う構成。
顔も声も、しぐさも20年前を髣髴させて、何だかタイムスリップした気分になったよ。アンコール含めても8曲くらいで、もう少しいっぱい聞きたかった。
でも、彼女は幸せそうで、めでたしめでたし。

帰りは、社長の車に便乗して、9時過ぎに帰宅。日本ーウクライナのサッカーは、1-0で日本が勝ったらしい。

【文学大概】石川淳 ★★★ 非常に評価の難しい本というのが、読後第一印象。これを知ったのは、88年「すばる」の石川淳追悼記念号に掲載された、丸谷才一による中公文庫版(1976)の後書きだった。褒め上手の丸谷が「石川淳のあらはした文学入門」だとして絶賛していた。図書館の開架では見かけなくて、読まずじまいになっていた。ふと思いついて中央図書館3階で倉庫からひっぱり出してもらい、借りてきたのが、昭和17年8月15日発行の初版本だった。真珠湾攻撃で日米戦の始まった翌年に出たことになる。
時代がどうであろうと、面白ければそれでいいのだが、どうもしっくりこないのだ。冒頭の「文章の形式と内容」から「短編小説の構成」に続くあたりは、とりあえず「文学入門」と言えなくもないが、その後は、俳諧、能、歴史と文学、文化映画雑感と、雑多な評論だし、後半はヴァレリー、マラルメなどフランス文学者5人の批評だから、丸谷才一の話とはえらくちがう。何よりも丸谷が、「殊にすばらし」く、「江戸文学の勘どころはこの一文に尽きてゐるし、さらには江戸の軟文学を話のいとぐちにして、わが文学史全体の広やかな眺望が与へられ---」とベタ褒めの「江戸人の発想法について」が、今回読んだ本のどこにも出てこないのには、焦った。どうも、本書初版と、戦後の文庫版ではかなりの異同があるらしい。

・縦書にされる象形文字といふ図形と、横書にされる音標文字といふ符号との相違はやがて東西の文章の構成にも影響する筈である。(文章の形式と内容)

・黄表紙、洒落本、人情本だけの関係で云へば、洒落本はコント、人情本はヌウヴェルで、別に黄表紙といふいたづらものがあつて、洒落本の影を薄くさせるほどえげつなく、コント的要素を横取りしたのだと見ることができる。(短編小説の構成)

・芭蕉は見るべく夢みた花や月を、現実の花や月に見つけやうとした。そして時には見つけ、時には見つけるに至らなかつた。その間を埋めるために、四季を貫いて肉体が疾走した。(俳諧初心)


こういった、寸鉄の批評は石川淳の本領が発揮されているが、次のような書きぶりは、時代風潮に足をとられたと見られてもしかたないかもしれない。

・ドイツに関する限り、ヒトラアはみごとな指導者に相違ない。現在彼がさうであるためには、会て必然の諸条件があった。今後万一彼が失敗したとしても、それは美しいものだと想像される。かういふ簡単なことには、文学者は誰もけちなどをつけはしない。ただヒトライズムはどこにでも融通できるといふやうな考へ方に、どこの国でも、現実の諸条件があはてて飛びついては行かないだけだ。そして、文学論は常に現実に即する。(文学の今日)

たぶん、戦後の文庫版などには、上記部分などは、カットされているのではないだろうか。その代わりに「江戸人の発想」などが加えられたのかもしれない。

2002/03/20(水)● としろう・ぎゃらりい
最近STARdigioの話題が無かったが、今週は久しぶりに436chジャズボーカルで、2時間枠でビリーホリデイの特集。
「LADY DAY HISITORY1.2.」と題されて、名曲揃いだし、テイクも素晴らしいものばかりだ。
Morris.一押しのコモドア盤とはかぶっていないし、詳しいことは分らないが、久しぶりに彼女の声を堪能することが出来た。
特にライブ録音の「ALL OF ME」「BLUE MOON」「I Cover the Watarefront」には溺れそうになった。
その他435chでは、カウントベーシーの2時間特集があるし、425chでは李成愛、429chでは江利チエミと藤原義江と、MDを買い込む必要がある。

夕方からサムに行く。大まかな録音は今日で最終日の予定だったが「アラビアの酋長」のコーラスだけが、録音できず残ってしまった。
9時前に終了したが、MDに落としたり、ミーティングなどで時間を食い、帰宅したら11時だった。

井山君は昌美さんからノートPCを借りて、昨日からインターネットできるようになったらしい。祝賀ハプシダ!!
これで、5年間無用の長物であったISDNがやっと利用できることになる。

はしもととしろうといえば、「サンボ通信」の愛読者なら必ず覚えていると思う。
「僕の郷愁世界絵図--まいおーるどぐっでいずすけっち」の連載イラストで、カルトな?人気を集めていた。Morris.も彼の職人風の緻密な線と、時代離れした不思議な絵柄には惚れこんでいた。
「サンボ通信」休刊して早4年が過ぎてしまった。もっと早くやるべきだったかもしれないが、遅まきながら、彼の新作のペン画を、ネットで公開することにした。
とりあえず、4点だけを披露するが、サンボ通信時代のものもおいおい紹介するつもりだし、要望があれば、直筆作品の頒布も考えている。「百聞は一見にしかず」、ともかく「 としろう・ぎゃららりい 」を体験してみてください。

2002/03/19(火)●ネットの限界●
中型犬の夢。なかなか人懐こい犬がいて、何かに驚いて木に登ったのはいいが、下りるのに往生している。犬と一緒に宴会場に着いたら、雑誌の取材を受ける。Morris.は「まことちゃん」と呼ばれていた。取材記者は谷川俊太郎?で、犬と木を主題にした詩を朗読している。「何とかの木は、すらりと幹を空に伸ばし何とか」という詩で、下手糞だなと思う。犬と舟で島に渡ったのだが、いつのまにか泳いでいた。犬は犬掻き、Morris.(まことちゃん?)は立ち泳ぎのつもりだったが、溺れていたらしい。誰か助けに来てくれたような気がする。

図書館で借りた雑誌「季刊本とコンピュータ 2001秋号」を拾い読みしていて、以下の文章に出会った。

ネット・コンテンツが無料であるのは、カネを払ってでも読みたいものがないからであり、逆説的ながら、カネを払っても読みたいサイトが出てこないかぎり、質の上昇はありえない。自分のサイトを立ち上げるのは、パソコンを持ちインターネットにつなげる人間なら誰でも出来るが、読むにたるサイトを作り上げるには、当然のことながら才能が必要であり、ネットに才能が登場するのは、現実に収入が得られる場になることによってである。ネットの無制限な表現の自由と無償性の関係を盾に、筆者にボランティアを期待するのは、読者の甘えでしかない。(田嵜皙・文藝春秋編集者)

うーーむ、一理あるけど、どこか違うんでないかい?と反論したくなったが、できない(^_^;)
昼から久しぶりにセンターへ行く。古本市のために10冊ほど持っていった。去年までより、本棚の位置が奥に寄せてあり、その分本の数も少ないような気がした。
信長正義さんが、手伝いに来ておられた。鹿嶋さんは今日も休みで、このところ何故か会えずにいる。
稲田さんに、支援団体から贈られたノートパソコン(let'snote CF-M1)を見せてもらう。手ごろな大きさで、羨ましかった。

夕方サムの録音を覗く。みっちゃんの「ファーストソング」のおかず入れ、「フィッシング」のボーカル、キュウちゃんのハーモニカ、バイオリン、そして「メランコリーベイビー」大下さんのトランペットパートと、今日はゲストが多かったが、まあ順調に進んでいるようだ。

夜はヒアカムで、島田和夫さんの誕生会。楽屋のマスターが主催で、約30人が集まり、後半は交代で演奏があり、帰宅したら1時過ぎていた。

【お言葉ですが】高島俊男 ★★★  この前読んだ「本が好き---」が面白かったのでこれも期待したのだが、ちょっとトーンダウンだった。本書は週刊文春連載で、読者からの声に答えるといった、安易なものが多かったのと、メジャー雑誌だけにあまり毒舌がふるえなかったのではないかと思う。それでも、なるほど、と思う指摘や、薀蓄はあった。

・いまこれだけ横書きが普遍化している時に、なぜ本だけ、本来横のものを、わざわざタテになおして出すのか、理由がわからない。読者が読みにくい、というのだろうか。しかし、教科書も参考書も横書きので勉強し、自身何でもすべて横に書く人たちが横の本は読みにくいなどと言う道理がなかろうと思う。
タテのものはタテのまま、横のものは横のまま、というのがわたしの主張である。それが一番読みやすい。第一まぎれがない。

・よほど以前から「震撼させる」という言い方が生じているが、誤用である。『新選国語辞典』なぞは誤用を正用と思っているらしく、「世を震撼させる大事件」と例文をこしらえて掲げているのは大いに疑問である(「世を震撼する」が正しい)。他動詞に「させる」をつけるのは、「AがBに命じてCを殺害させた」のようなばあいには可能だが、「震撼」や「ゆるがす」にはもちい得ない。

・「すべからく」は「--せねばならぬ」を予告する。昔は「すべからく」とくればかならず「すべし」だった---これを要するに、漢文訓読から生まれた本来けったいな「すべからく」は、望ましいことを予告する語として現代文のなかによみがえり、確たる地位を得たのである。
その「すべからく」が近ごろどうもおかしい。---たいていは「すべて」と同義のつもりで用いているようである。

・昔から学生に「西暦5年の10年前は何年だ」ときいてやる。すると学生めらは例外なく「紀元前5年!」と答える。
「バカヤロ。紀元ゼロ年なんて年があるものか。数は一からはじまるんだ。十年前は紀元前六年だ。指を折ってかぞえてみろ」
と言うと、四、三、ニ---と指を折って、それから不思議そうに自分の指を眺め、キツネにつままれたような顔をするのである。


【マンガの社会学】宮原浩二郎、荻野昌弘編 ★★☆☆
 関西学院大学社会学部の教授を中心にした論考中心のやや学究的マンガ論で、あまり面白くはないだろうと思って読み始めたので、読み終わってもそれほどがっかりはしなかった。少女漫画に多い、双子や変身を扱った「分身」論(藤本由香里)や、「ゴーマニズム宣言」を素材にした「マンガのリミット」(瓜生吉則)などは力作だった。Morris.の専門分野?を扱った「「少女」という読者」(灘波功士)は物足りなかったが、関学には1961-92発行の19社、96種類の少女漫画雑誌の大部分を所蔵するコレクションがあるらしい。これは凄い、と思った。

2002/03/18(月)●キムスヒの日●
ソウルに滞在して今夜が帰国と言う夢。飛行機が深夜便なので、あと数時間自由時間があるので、買い物に出ようと、旅館の廊下をカートで疾走する。裏口から出るのに、靴がないので、相撲取りの名の入ってるゴム草履をはいて外に出る。市場で背の高さくらいの植木が気に入り、買おうとしたが、とても持って帰ることのできる重さではないと店員に止められる。ビデオテープ屋で4,5本買い、何故か生テープを買おうとして余りの高さに店員と言い合いになったところで目がさめた。

今日は一日、キムスヒを聴きつづける。
パクサ自伝に「14時間のインタビュー」 を追加。これはヒョンミさんから、掲示板で続きをリクエストされたからだが、たった数ページ訳するだけで半日かかってしまう。
としろうからペン画のイラストを10枚ほどあずかっている。新しく部屋を作り、近日中に公開して行くつもりなのだが、どのようなスタイルにするか迷っている。
夕方からサム・コーポレーションに録音見に行くつもりだったが、明日か明後日に変更。
矢谷智克部屋の歌詞集「SONGBOOK」 に15曲追加。これで今のところ、矢谷君からテキストファイルで預かってる歌詞は全部公開ということになる。全40曲。
あらためて読み返すと、懐かしいし、素晴らしい.
一刻も早く彼のアルバムをリリースしてもらいたいものだ。

【海の底から地の底から】金石範 ★★★
 済州島四三事件50周年記念行事で、故郷済州島へ赴いた著者の体験をフィクションを交えて書いた作品で、おしまいに詩人金時鐘が仮名で登場し、四三事件のことを語る部分が、最近読んだ対談集に繋がる。対談を読んだ時にも感じたことだが、直接事件に関って日本に逃亡して口を閉ざしてきた金時鐘と、14年かけた大作「火山島」を始めとして、常に四三事件をテーマにしてきた金石範の、事件への対照的態度を見て、Morris.は、ついつい金時鐘の深さを斟酌してしまう。金石範はどこか傍観者なのだ。本書でも、事件関係で日本に帰化した老人を、自分なりの解釈をするばかりで、相手の心情には無頓着だったり、済州島でも、虐殺され埋められた死体の場所にこだわる割には、それに対する鎮魂の情と言うものは上っ面だけでこちらに伝わってこない。ソウルに飛んでからの知人との出会いや話も、主題から遠ざかるばかりで、小説としては中途半端なものになってしまっている。
本当は「火山島」を読んでから評価を下すべきなのだろうが、あの長さと、彼の他の作品から受ける、冗長さに二の足を踏んでいるところだ。

2002/03/17(日)●視聴者な一日●
昨夜、スカパー271chで、ウエストロードブルースバンドのライブなんてのをやってたので、つい見てしまう。
懐かしいような、勘弁してよというか、何か複雑な感じだった。
そのあと2001紅白のビデオ見ながら寝てしまった。

数日前から隣のマンション(Morrisところと同じ家主)が、改装なのか足場組んでやたら五月蝿い。

ソウルマラソンをTVで見る。前半ぶっちぎりのロシア選手が25kmでリタイアしたあと、藤田がトップに出て結局そのまま優勝した。
Morris.はソウルの街をヘリコプターから鳥瞰する画像を楽しんだ.。
その後、阪神巨人のオープン戦、広告大賞など見る。広告大賞は、民法なのに間にCMがはいらず、そのかわり、内容がCM映像だったので、不思議な感じだった。

ABCラジオ7時5分からの「大西ユカリキャバレー20002」を録音しながら聞く。
CMがないのは良かったが、1時間番組なのにユカリちゃん以外のバンドに時間を取り過ぎて、肝心の新世界の演奏が15分と言うのは物足りなかった。
それでも「幻のブルース」と、ヤングリクエスト、キャバレーサンのテーマがかかったので、まあ、よしとしておこう。

【封印】黒川博行 ★★★☆  元ボクサーの釘師が、過去の警察上層部の犯した事件に巻き込まれる。秘密の鍵となるビデオテープを餌に、誘拐された師匠を助けるため、ヤクザや警察の黒幕などと渡り合うヴァイオレンス小説なんだろうが、パチンコ業界と、警官汚職などの利権構造の実態を要領よく分らせてくれるという意味で、なかなか啓蒙的な本でもあった。
著者の作品は最近良くTVドラマ化されたりしてるようだし、構成も、描写力もしっかりしている。社会の巨悪に対しても目をそらすことなくはっきり取り組んでいるし、かといって、正義感を振り回すわけではないところには好感を持った。

「全国のパチンコ店は一万六千軒、台数は三百三十万台。中規模店の年間売上が二十億。これがすべて現金商売で領収書なんぞない。国税庁によるごまかし所得の業種別一位は常にパチンコ店で、一軒あたりの申告漏れ所得は四千万円。業界の年間総売上げは二十兆に達して、いわば自動車産業や家電業界より巨大な産業やあのに、納税額ときたら、その十分の一しかない。この脱税の温床であるパチンコ業界に対して、元警察庁のキャリアが摘発防止のための政界工作を示唆し、許認可に関する助力を表明したら、金は何ぼでも徴収できる。公共遊戯調査会は、久野にとってめちゃくちゃ大きな賽銭箱なんや」

【直感サバンナ】ゲッツ板谷 ★☆  「パチンコ必勝ガイド」連載のコラムを集めた、クズのような本で、なんでそのクズ本を借りてしまったかというと、著者が、西原理恵子の身内で、彼女の作品中にもしばしば顔を出すし本書の表紙やカットもサイバラということで、つい手をだしてしまった。自分と仲間内、家族などをネタにした私的コラムで、当人や家族仲間が結構過激らしいので、ちょっとは非日常的な内容もあってとりあえず、最後まで読み通しはしたのだが、時間の無駄使いをしたという感想は否めない。

2002/03/16(土)●ユカリちゃんラジオ番組来週まで(+_+)●
宗教色の濃い夢?場末でテジクッパ(豚雑炊)の屋台を開いていた。ところが、隣の2軒の屋台がイスラム教だった。たぶん日本なので、表立って文句は言って来ないのだが、嫌がってるのが雰囲気でわかる。何となくにらみ合いが続いている時に、食材を運ぶトラックが衝突事故起こす。積んであった豚肉と、イスラムの清浄鶏肉とが入れ混じり、Morris.とイスラム教屋台とが、肉の取り合いから大喧嘩になった。Morris.はその後、高そうな美容院で調髪。ちょっと長めの茶髪に軽くウエーブかけて無茶苦茶背の高い女性とデートすることになった。どうもこの女性がイスラム教徒らしい。それで顔がはっきりしないのだと思ったりする。案の定、食事に行った先で、なんか大変なことになってしまった。

今日もぬくい一日だった。大阪では桜が咲いたりしてるらしい。いくらなんでもそれは早すぎるぞ。
4月7日大阪城花見の頃は葉桜になってるんじゃないだろうなあ。

今日のユカリちゃんのラジオも、相変わらずのぶっ飛ばしで、最後のライブは4年前に作ってほったらかしになってた「となり」という曲で、たしかに、本人の言うとおり、かなり情ない(褒め言葉ね(^o^))歌だった。
しかし、こういう幻の曲がボロボロ出てくるこの番組は、やっぱりエアチェック必須である。
と、思ったら、何とまあ、この番組は来週で最終回となるんだと(+_+) 番組開始のときから「プロ野球始まるまでかもしれないな」と一抹の不安は感じていたが、はっきり告知されるとやっぱりショックだ。
おおい、毎日放送おおおーーーっ!!あれだけ人気が高かったのだから、曜日や時間帯を移して、再開してくれえっ!!

【デス】廣田尚久 ★★★ 「黙示小説」と副題にある。著者は弁護士の資格を持ち、一般向けの民事紛争解決のノウハウ書などを複数書いてるらしい。本書は近未来小説という形態をとって、先物ストックオプションなどデリバティブの本質的欺瞞をあばこうとした啓蒙小説であり、バブルの見直し、先取り社会の必然的滅亡など、経済音痴のMorris.には、苦手なテーマを、とりあえず読んでる間はわかったような気にさせてくれたという意味では、なかなかに面白かった。ただし小説としては、かなりひどいものと言わざるを得ないだろう。
日本の(円)も米国の(ドル)も亡び、汎アジア的通過「ウエン」という通貨が流通している日本で、先物買いのとばっちりで失墜した弁護士が、過去の日本の作家の小説の先見性に驚き、それの引用と、自分の体験を重ねて書いたという設定になっているのだが、高度成長期の日本に触れるときのもったいぶった説明や、日本の典型的金持ちの寓話風三代記のあまりにも図式的展開には鼻白んでしまった。
素人の金持ちをだしにする玄人の使う専門用語への、皮肉な解説などは、うがっていて面白い.。

まずプロは、素人にひとつかふたつの専門用語を教え、素人に仲間入りができたという幻想を抱かせ、相応の満足感を与える。そして次に、もう少し難しい言葉を教える。これをマスターする頃には、素人はいっぱしの玄人になったような気分になる。すると今度は、さらに難しい専門用語を浴びせ掛ける。たちまち素人は焦りだす。こういう段階が玄人のビジネスチャンスである。なぜならば、素人は、専門用語を覚えられない劣等感と、買えば専門用語を覚えることができるという期待とに急き立てられて、商品を買い捲るからである。
つまり専門用語というのは、単純なことを複雑に見せるために、意味のないことを意味があると思わせるために、偉くないのに、偉いと言わせるために、こけおどしの姿をしているだけなのだ。
そして専門用語は、人を支配し、人から収奪するために専ら使用される。
このことは、なにもデリバティブについての専門用語にかぎられるわけではない。
中世では神学上の専門用語がそのように使われたし、近代に入ってからは法律上の専門用語がそのように使われた。
ヒトが平和に暮らそうと望むのなら、くれぐれも専門用語に近づいてはならない。


バブル景気について「バブルではない。先取りだ!」というマニフェストから始まる、小説内小説の主調も、Morris.には、その通りだと思えた。

彼によれば、バブルなら消えてしまえばそれでおしまいだが、先取りは消えることがない。しかもいろいろなところに潜り込んで、先の先まで人々を拘束し、人々を苦しめ、経済を破壊する。
地価が高騰したのは、国債によって先取りされた虚の価値が、その空白を埋めようとして拘束力を発揮したものである、と言うのである。
たしかに彼の言うとおり、地価が暴騰したために、人々や企業は高い固定資産税を支払うはめになって、国家に大金を召し上げられた。そればかりではなく、人々は土地を売れば高い譲渡所得税を、土地を相続すれば高い相続税を払わされた。また企業も経理上の利益が膨らんで、高い法人税を支払わなければならなくなった。そのうえ地価税が新設されて、土地を持っているだけで多額の税金が貸されるようになった。
こうして国債の発行による虚の価値は、地価の高騰によって税金の形で穴埋めされた。彼は、国債の発行と地価の暴騰はリンクしており、価値の先取りという点では同じものだと言うが、彼の予測どおり、地価が暴騰している間は国債を発行せずにすんだものが、地価の暴騰がいったん止まると、国は洪水のように国債を乱発したのである。

あの小説家は、人類の歴史は先取りの歴史であり、ある社会や国家が崩壊するのは例外なく先取りによるものであると言う。ひとつの社会なり国家なりが崩壊すると、新たに所有の形態と所有者を変えてつぎの社会や国家が出てくる。新たにできた社会や国家ははじめから先取りするのもあれば、はじめは先取りをしないがやがてするようになるのもある。しかし、いずれも早晩先取りをはじめ、だんだんその量が増え、次第に加速度的に膨らんで、ついには自滅する。そして、その社会や国家の構成員は、長い将来にわたって稼ぐはずの価値を今すぐ吐き出さされることになり、自分が何のために生きているのかわからなくなる。


2002/03/15(金)●擬音効果の鐘の音●
夕方サム・コーポレーションで、録音を冷やかす。「太っちょママと三匹のネズミ」の擬音録音中で、秋本、いやま君が、金属の菓子箱やおもちゃの洗濯板を叩いたり、ドアを叩いてママの足踏みの音にしたり、フライパンの音をカウベルで再現したりといろいろ工夫を凝らしていた。
録音の後、伊藤、秋本くんと六甲道の「万」で飲む。

【トッカータ 光と影の物語 日本画篇】林望 ★★☆☆☆  十三点の絵を選んで、それぞれから誘発された掌編をあしらったという風情の絵本??なのだろう。自称リンボウ先生のエッセイは以前続けて読んだが、創作的なものは、2,3冊読んで敬遠していた。本書は選ばれた絵が原色で掲載してあり、そのうちの数点がとても美しかったのでついつい借りてきた。想像どおり、短文は、作品以前のものが多く、読み通すのがしんどかったが、絵画の選択眼には感心した。評点が50点超えてるのはそれに負っている。

・与謝野蕪村「暗夜漁舟図」 絹本墨画淡彩 130.2×47.2cm
◎牛田雞村「藁街の夕 蟹江二題」1926 絹本着色 63×113cm 
・小林清親「御茶水蛍」横大判錦絵
・池田遥邨「蚊帳の中でまんまるい月昇る 山頭火」紙本着色 63×91cm
・小川芋銭「待鶏鳴」1937頃 絹本淡彩 141.5×42cm
・帝都雅景一覧「詩仙堂」 22×28cm
◎下村観山「倫敦之夜景」 絹本墨画金彩 124.5×50.5cm
・川瀬巴水「清洲橋」木版 24.×136.4cm
・藤島武二「黄浦江」1938 水彩 紙 27.5×36.2cm
・清水登之「パリ夜街」1926 油彩 麻布 88.9×116.2cm
・鏑木清方「寒月」1897 絹本着色 66.5×29.7cm
・露殿物語絵巻「六条三筋町の景」
・有元利夫「Toccata」エッチング 12.9×9.1cm


以上十三点どれも、悪くないのだが、就中◎を付けた2点は飛びぬけてMorris.の琴線に触れた。

2002/03/14(木)●重装備ノート●
日中はのどかな春の日だったが、夜は雨になった。
矢谷君が先日買ったノートパソコン持って遊びにくる。富士通のFMVbibloのオールインワン型で、画面も大きく重い。CDROM、DVD、LAN、ヴィデオ端子--ほとんど何でも入っていて、これなら充分デスクトップの代わりに使えそうだ。カエターノ・ヴェローゾのビデオなど見ながら、いろいろいじくってみる。WinXPというのは初めてだが、どうもアイコンのデザインが気に食わない。それとパッドもなれないので思うように動いてくれない。プレインストールのゲームを開いて遊ぼうとしたら、フリーズしてしまいあわてて、リセット。人のPCは迂闊に触ってはならない。矢谷君は新しい詩集作るらしく、その原稿のチェックを頼まれたのだが、かなりよく整理したらしく、間違いは見当たらなかった。
ユカリちゃんの「キャバレーナイト2002」ABCラジオ17日の午後7時5分から放送されるとのこと.、ということは、日曜のゴールデンタイムではないか。すごいすごい。

【本が好き、悪口言うのはもっと好き】 高島俊男 ★★★☆☆☆
 中国文学専攻、大学で教えるのを放棄して、琵琶湖畔に隠棲する著者が雑誌や新聞に掲載した短文を集成したもの。
日本語の乱れを糺すにしても、馬鹿の一つ覚えのMorris.とちがって、流石にその学識の深さが違う。

「旗色」は、勝敗の形勢、ということである。ようほうは、「旗色がいい」「旗色が悪い」の二つしかない。勝っている時は旗の色も美しく見え、負けてくると旗の色まできたなく見えることからそう言われ出したのだろう。
一方、「旗幟」という言葉がある。これは、「はたじるし」という原義から、「立場」の意に用いられる。「旗幟鮮明」「旗幟を明らかにする」などのほかに用法はない。
「旗色を鮮明に」はこの両者がごっちゃになっているのである。なぜごっちゃになったのか。わたしが思うに、多分こうである。
まず誰かが「旗幟鮮明」を「キショクセンメイ」と読んだ。これは「幟」の字の読み方がわからず、「職」や「織」が「ショク」だからこれもたいていショクだろうと思ったのである。


また「新聞醜悪録」と題して、よく誤用されている言葉「子息」「指摘」「分析する」「巻き込まれる」「と見る」などへの明解な分析と指摘。
Morris.が憎んでいる「まぜ書き」(「誘かい」とか「だ捕」など、漢字で書ける熟語を漢字とかなと混ぜて書くこと)を論じた「いやじゃありませんかまぜ書きは」では、Morris.が言いたくて言い切れなかったことを、理路整然と述べてくれている。

このまぜ書きというやつは、見てのとおり甚だ見苦しいものだが、単に見苦しいだけでなく二つの点で間違っている。
いったい、当用漢字(ないし常用漢字)の思想、つまり国民の用い得る文字の範囲を制限しようという思想そのものがまちがっているのであるが---文字を制限することは事実上言葉を制限することである。
「花き栽培」などとけったいな書きかたをせずに、花を植えるとか育てるとか言えばいいのだ。「は種」より「たねまき」のほうがずっとわかりいいではないか。
それを、土台から出てきた規制だけを受け入れて、漢字は使えないからかなで書いておきましょう、というのが、第一のまちがいである。
二つ目のまちがいはもっと大きな問題である。日本語の字音語は、音が(特に漢字一字の音が)なんら意味をになえない。まぜ書きの不可の第二は、そのことを見落としているところにあるのである。

そのほかにも「支那」という言葉の正当性、書評の型見本、李白と杜甫の対照、狩野亨吉の奇矯な生き方、「歌仙」論などなど、どれもこれも、Morris.の渇を癒すに足る快作だらけだった。世の中にはまだまだ、Morris.の知らない達人がいるのだと、感じ入ってしまった。

2002/03/13(水)●春爛漫●
研究室でPCいじっている夢。ディスプレイに数人の男が現れ、午後に東京に同行を求められる。午後は別の用事があるといっても聞かず、いやまくんを呼んで、交代を頼み部屋を出る。気が付いたらジャパンにいて、扇風機をセールスされ、結局買うことにしたところで目がさめた。
今日も雲ひとつない青空が広がっている。中央図書館に行く。
寒くも暑くもない、実に快適な気候だ。春より秋が好きなMorris.だが、一年中今日みたいな日でもかまわない。
再放送されてた「ナースのお仕事」は今日で最終回だった。13回つまり3ヶ月ワンクールの番組だったのだな。いまどき再放送したのは、きっと来月あたり封切りの映画版との兼ね合いだろう。
東京の声楽家畑中良輔氏から、原稿用紙2枚にわたる丁寧な礼状と、サイン入りの著書2冊が送られて来た。例の詩集「祝婚歌」のお礼で、これに関しては、藤沢市民会館の関さんから、すでに過分のお礼と畑中氏の著書もいただいているので、献呈サイン入りの著書がダブってしまったことになる。よほど喜んでいただけたらしく、こちらとしても悪い気はしないが、重ねての礼状には恐縮してしまう。團伊玖麿がこの詩集から5篇を選んで作曲したそうで、彼もこの詩集を無くしてしまい、今一度手にとって見たいと話されていた由、これはちょっと手遅れだった。秋に予定されている「團伊玖麿歌曲の夕べ」のプログラムにこの詩集のことに触れるつもりとも書いてあった。いやあ、あの詩集もなかなか晴れがましいところに納まったものである。

「雪」山本容子 【グリーティング】山本容子 ★★★ 水温む、花衣、山笑う、風光る、春興、夏近し、午睡、日傘、風薫る、花火、舟遊び、麦酒、浴衣、月、天高し、秋の声、山装う、水澄む、木染月、炬燵、暮早し、冬木立、雪、息白し、あらたまの年、着衣始め、御降という28の季語にそれぞれ、銅版画とミニエッセイを添えた、瀟洒な絵本に仕立てた、彼女の個人的歳時記である。
と思ったのだが、読み終えて見返しみたら、

本書は、ホテルニューオータニ大阪の広報誌"Greeting"に1993年から1999年にかけて掲載された銅版画とエッセイに季語をつけ、加筆・改稿して構成したものです。

と、あった。どうりで、全体にハイソなアダルトカップルが、余裕こいて楽しんでる風景が多かったわけだ。タイトルも、つまりは出自を重ねている。それにしても、山本容子の版画は、色彩といい構成といい、お洒落だよなあ。装飾画としては現在ピカ一かもしれない。Morris.のこのみとは微妙にずれるのだが、大いに感心する。エッセイの方は、イラストの邪魔にならないくらいの、軽い作風のものがよい。

バーズ・アイ---鳥瞰でものを見ると、世界が拡がるので気持ちが良い。日常でその気分を味わえるのは飛行機に乗った時。一定の速度で飛行しながら眼下の世界を見ていると、創造主になったような気持ちがするが、鳥のように急上昇や急旋回して自由に世界とたわむれていたいとも思う。私はパノラマのような視点で見た世界を描くのが好きだ。その時私は空間と時間の壁を超え、天使になった気分で世界と遊んでいる。(風光る)

イラストのうち一番好きだったのは、季節が外れだが、雪を見ながらワインを飲んでるものだった。雪を白いスキーヤーに見立てて空中に浮遊させるイメージが秀逸である。
こういう世界は、スノッブなのだろうが、これはこれで幸せなんだろうな。

2002/03/12(火)●あ〜KOREAこりゃ! りんく●
昨日アップしたイパクサ自伝の表紙写真も、昨日の日記のユカリちゃんの写真もまたまたMorris.のリンクミスで、一般には見えていなかったらしい。このところ同様のミスが多すぎる。
htmページを作る時、ネスケ6のコンポーザ使い始めてから急にミスが増えたから、何かこのソフトの癖みたいなのがあって、Morris.が間違って使ってる可能性が高いのだが、全部見えないのではなくて、一部は見えたりするし、Morris.のディスプレイでは、見える(内部リンク)ため、チェック漏れが多いということになるらしい。
北朝鮮に拉致された女性の両親のもとに、誘拐したという女性が直接謝り、状況を説明する映像がTVで流れていた。これだけ証拠と証人が出たら、いくら弱腰の日本政府もほっとけないだろう。
  あ〜KOREAこりゃ! りんく lに、Morris.の韓国部屋と、イパクサの館を登録した.。ずっと以前に打診があったのだが、あのころは、韓国部屋はほとんど更新してなかったので、そのままになっていたが、韓国旅行や、パクサ自伝など、最近いくらか更新が続いているので、リンクすることにしたのだ。ついでにこのページからいくらかサイトを覗いてみた。いやあ、やはり世間にはいろいろな人がいて、韓国へのアプローチもさまざまだということに改めて感心した。

【「三島由紀夫」とはなにものだったのか】橋本治 ★★★  あまり相性よさそうにない、橋本-三島という取り合わせだなと思いながら借りてきたのだが、やはり面白くはなかった。「作家」である橋本にとって、三島という「文学者」は別世界の住人である。らしい。

私の中で、三島由紀夫はとうの昔に終わっている。二十一世紀の今になって、わざわざ終わらせる必要はない。私にとって、三島由紀夫は「目の前にたちはだから大きな存在」ではなかったのである。
この本を書くことは、私にとって、「行かなくてもいい領域に一歩ずつ足を踏み入れる」ということだった。
戦後25年が過ぎた三島由紀夫の死は、ためらいの末に得られた不十分な一歩の上にあった。だったら、そんな「戦後」は捨ててしまえばいいのである。(あとがき)


あとがきで、こんなことを書くくらいだから、橋本にとってこの本は、別に書かなくてもよかった類の本だったのだろう。鬼才橋本だから、そんな本の中でも、ユニークな視点、発見、小説論をくりひろげて見せてはくれるのだが、いかんせん、Morris.の唯一の評価基準である面白い/くないからすると、駄目本の部類になる。その割に評点が高いのは、内容がいまいちでも、橋本の文体が好きなことと、作品の構造を手品の種明かしをするように鮮やかに明示する手際に見惚れてしまうからだ。たとえば、「サド侯爵夫人」論の一部などがその好例だ。

修辞(レトリック)と論理(ロジック)は一体となって、論理(ロジック)が複雑になればなるほど、装飾(レトリック)もまた過剰に盛り上がる。そして、その過剰に装飾的となった文体の中から、我々は明確なる作者の論旨を聞き取ることが出来る。そういう完成度を示した戯曲は、三島由紀夫の中で『サド侯爵夫人』が隋一である。
装飾(レトリック)は骨格(ロジック)を容易に見失わせる。しかし、『サド侯爵夫人』にそれはない。なぜそれがないのか?つまりは骨格がはっきりしているからである。そして、だからと言って、『サド侯爵夫人』という戯曲の構造は、「装飾を全部剥ぎ取っても、明確な骨格は健在である」という質のものではない。なにしろこれは、[譬へでしか語れない人]を語る劇なのだ。かくも骨格が明確であるにもかかわらず、『サド侯爵夫人』からその装飾を剥ぎ取ることは出来ない。それをしたら、その骨格もまた同時に消え失せてしまう---『サド侯爵夫人』は、そのように不思議な構造をもつ戯曲なのである。それはどういうことなのか? つまりは、この戯曲の中で、装飾における「論理を迂回させる機能」が完璧に作動しているということである。
「論理を迂回させる機能」とはなにか? つまりは、「隠す」である。「言いたいことを隠しながら、言いたいことを存分に語る」という矛盾が可能になってしまっているのが、この『サド侯爵夫人』である。


実に巧いもんである。この後に導き出されるのが、サド公爵夫人ルネを三島由紀夫自身に、モントルイユ夫人(ルネの母)を三島の庇護者である母に見立てて、その関係、確執を隠しながら、存分に書きおおせ作品だという、やや拍子抜けの結論となる。Morris.としては結論より、過程のほうが面白かった。
どうでもいい作家について、こんな本を書けるのなら、次は、ぜひ、久生十蘭論、山田風太郎論、石川淳論などを物してもらいたいものだ。

2002/03/11(月)●パクサ自伝連載開始●
23年ぶりに友人に会う夢。その間近くの海辺の町の共通の知人宅に幽閉?されていたらしい。二人とも高校生くらいのままで、海に行き、水の中に潜っていった。水の中でも話ができる。そのうち彼はいなくなり、Morris.は一人で海底い散歩を楽しんだ。
仕事関係の携帯メールの文中「5名枠」と言う語があり、一瞬5人がかりの現場かと思ったが、文脈からすると「ご迷惑」の間違いらしい。
イパクサの自伝の冒頭部分を訳してみる。簡単な文章だと思ったが、訳していくとやはりところどころ、曖昧になるところが出てくる。辞書に載っていなかったり、スラングだったり、新語だったりするのだろう。とりあえず、粗い訳のままだが、新しく イパクサ自伝のページ を作ってアップしておいた。連載の予定だが、どこまで続くかは、読者の反響次第か。

2002/03/10(日)●キャバレー・ナイト●
動物磁石製品の夢。円形のシール状の磁石みたいなものを自分とペットの身体の一部に装着すると、両者のその部分が磁力で吸引され、痺れが走る。これが製品化されて、大流行している。Morris.も買ったか、もらったかして装着して外に出ると、知らない犬の鼻先がひざにぴたりと吸い付き、そこだけが不思議な無感覚状態になる。これは流行るはずだなどと納得してしまった。
教育TVの「新・日曜美術館」は、「新」が付いてからすっかり面白くなくなったので見なくなっていたが、今日はクレーの特集とあったので、見ることにした。谷川俊太郎らがゲストで、解説したり、詩の朗読をしていた。うーーん、やっぱり、この番組はMorris.の嫌いな方向にばかり向かっているなあ。美術作品をちゃんと見せて欲しいし、ゲストの趣味や素人めいた感想に、アナウンサーやアシスタントが迎合するというパターンには鼻白むだけだ。チュニジア、エジプトの旅行と画風変遷の関連も掘り下げは浅いし、バウハウス時代のエピソードも、海外の美術館員のおざなりな紹介で物足りなかった。晩年スイスで、皮膚硬化症に冒されながら、天使のクロッキーを量産したという部分だけは印象に残った。
まあ、ともかくも今日のメインエベントは、ユカリちゃんの「キャバレー・ナイト・フィーバー2002」ライブ。午後大阪に出て、心斎橋をぷらぷら散歩してから、うさこちゃんと待ち合わせてチケット受け取り、そば食べてから5時前に、千日前のキャバレー「サン」に行ったら、すでに100人くらい並んでいた。知ってる顔は谷尻さんのグループくらい。Morris.のチケットは、追加発売で整理番号430番。5時半から番号順に入場が始まり、やっと場内にはいったのが6時半過ぎ。さすがはマンモスキャバレーで、中は相当に広い。400人以上座ってまだ空席がある。ただし前のほうは当然満席で、最初座ったのは一番後ろで、これは結構見にくいなと思ったが、谷尻さんの近く、舞台上手の一段高くなったフェンス脇に空席が見つかった。ここならかなり舞台に近い。
チラシ
プログラム
全景
ユカリちゃん1
キャバレー・サン 入り口
ユカリちゃん2

ライブが始まったのは7時過ぎ。シーバスリーガルの銀箱みたいな衣装のフジヤマチャロルを皮切りに、増田俊郎&マーキーのユニット、異常ハイテンションのバーレスクエンジンという、一癖ありそうな3グループが終わり、横浜から来た、クレイジーケン・バンドが登場したら場内は騒然。かなりファンが多いようだ。ゲストに渚ようこが入り、ユカリちゃんも一曲共演。ここまででで、たいがい場内はもりあがって、やっと待望の「大西ユカリと新世界のステージが始まったのが9時半前。これはかなり押しているんでないかい、とちょっと心配になる。白黒チェックノースリーブのワンピースの衣装で、ゴーキャッツを従えて例の「幻のブルース」からスタート、当然のりのり、総立ち状態。途中キャバレー・サンの店長を呼んでCMソングデュエットするわ、今日の主催のABCのヤングリクエストのテーマを歌うわ、ケンさん、渚ようこと3人で共演するわと、サービスに努めまくり、アンコールの「どしゃぶりの雨の中で」で大成功裡に終了したのが10時半ごろ。観客はたぶん600人近かったのではないかと思う。ABCのカメラも多く入ってたので近々この模様が流されるかもしれない。これも見逃せないなあ。ともかくも、今日の催しはユカリちゃんにとってもエポックになるにちがいない。これをみすみす見逃すところを、チケット手に入れてくれたうさこちゃんに感謝。

2002/03/09(土)●確信犯●
夢で少女漫画家になっていた。もちろんまだ若い女性である。新幹線で、仲間の漫画家に会いに行き、そこで青くさい話をしたり、お茶を飲んだり、散歩したり、買い物に行ったり、好きな歌手の品定めしたり、なにやかやあって、それから数十年後、今度は婆さんになってから、やはり婆さんになった仲間に再会、彼女の飼ってる猫が、すごく綺麗で、その猫が、スローモーションでふわっと浮かび上がって、婆さんであるMorris.をコートのように包んでしまい、その灰色の闇がすごく心地よかった。という、いささか変格な夢だった。
今日は夕方からTVラジオ三昧。
女子バレーのVリーグ「東レ×久光」戦などというのをつい見てしまう。ああ、やっぱり、往年の花はないな。東レは、前のユニチカだが、結局連敗で決勝進出来なかった。明日、NECと久光の決勝戦。東レはパイオニアと3位決定戦。パイオニアは、元全日本のベテランの多いチームだ。日本の女子バレーの明日は心もとない。
NHKの週間子供ニュース。今日は韓国からの生放送。KBSで最近始まった「子供ニュース探検隊」(^o^)の子供たちがゲストに出たり、南大門めぐり、日本ポップスの韓国語カバー、韓国歴史教科書による日韓関係、キムチ尽くし、小学生の農楽、そしてサッカーを通じての友好を。と、まあ予想通りの展開で、可もなく不可もなくだったが、このところのNHKの韓国志向がよく出ていた。
毎日放送「大西ユカリと新世界」今日は、フラワー・ショーがゲストで、幻の名曲「幻のブルース」を、なんと生で競演してしまった。すごい、というか、本当にユカリちゃん絶好調。そういえば、さっきユカリ部屋覗こうとしたら繋がらなかった。どうもアクセスが多すぎてパンク状態らしい。そういえば、明日は、いよいよ待望のキャバレーライブぢゃあっ\(^o^)/
WBA世界Sフライ級タイトルマッチ「セレス小林×アレクサンデル・ムニョス」戦。Sフライ級のSってなんだろつと思ったら、スーパーフライ級だそうだ。要するにフライ級より軽いんだろう。ストロー級とかモスキート級なんてのもあったが、ボクシングは、ヘビー級が一番見ごたえがある。日本人ではミドル級でも無理というので、いいところフライ級、さらにさっきの不思議な軽量級ということになるのだろう。今日の試合は、チャンピオンの小林は、8Rまで、ふらふらになって頑張ったが、挑戦者ヴェネズエラのムニョスが打ちまくって、デビュー以来負けなし22連続KO勝ちで新チャンピオンになった。
ボクシングの後途中からNHKののどじまんチャンピオン大会を見る。結局歌が聴けたのは最後の二組だけで、優勝したのはそのうちのブエノスアイレスからきた女性の演歌だった。
10時前NHK教育の「とっさのハングル」。講座の阿部ちゃんと、コメディアンのイジョンホンなどの、簡単会話というより、挨拶程度で、これまたぜんぜん学習にはなりそうもない。おまけに堂々と「ハングル=韓国語」という、自明の間違いを押し通している。「女性のスカートのことをハングルではチマと言います。」これはもう確信犯だな。
「夜もヒッパレ」を途中から見たら、平山綾が出ている。しかし、彼女の出番はすでに終わっていたようだ。本当に久しぶりだったのに、残念無念。

2002/03/08(金)●韓国拾遺●
昨日今日と少し冷え込んでいる。
このところぐいぐい俳句もあまり作っていないが、この前の韓国旅行を題材にした24句を集めて 「句集 韓国拾遺」 を、韓国部屋にアップ。内容は、ぐいぐい酒場に掲載したものばかりなので新味はない。

【日本数寄】松岡正剛 ★★★  雑誌「遊」の頃から、松岡正剛の知識のパワーには圧倒され続けている。
編集工学研究所というシンクタンク(ちょっと違うかも)での、情報の捌き方ひとつとっても、ただものでない。著作でも彼の編集した「情報の歴史」などは、使い過ぎて表紙が破れそうになっている。単独の本でも「ルナティック」「フラジャイル」などはほとんど手放しで賞賛したものだ。ただ、彼の著作は、かなり出来不出来があり、本書は、どうやら不出来の方に属するようだ。
発表日時も、媒体も、テーマもばらばらな短文を日本の意匠、神仏論、茶道と数寄、江戸文化の四本柱に「編集」した手際は、見事といえなくもないが、やはり、求心力を欠く。
とはいえ、彼の核白な知識と、薀蓄、殊にジャンルの違う人や物を結びつけて新しい体系を立ち上げるやり方などには、感心するほかなかったりする。

日本ではどの文字システムを選定するかではなく、入ってきた漢字と従来からの倭語や和語をくらべて、どの読み方やどの意味あいをどんな文字アソシエーションに含意していくかということが、文字文化の最初の重大な編集作業になっていったのである。
こうして、文字づかいと意味づかいの相互的編集関係をどのようにつけるかが、いいかえればどのように生かしあうかということが、新たな文化編集技術の眼目になった。いわば古代日本は早々にして、メルロ=ポンティのいう「ふくみあい」(implication)の編集術を創意工夫することになったのである。
漢字の渡来は「漢字という文字システム」の導入ではなかった。
日本は中国語を使いはじめたわけではなかった。
漢字の表意性と音標性を別々に、かつ巧妙に利用しつつ、和語(倭語をはじめとした各地の言葉)を生かしていこうとした。いわば漢字はプログラミング文字として重宝され、古来の和語のもつミームがそのまま生かされたのだ。(編集文化数寄)


2002/03/07(木)●エウレカ!!●
今日もしつこく、エノケンと戦前ジャズなどのキーワードで検索していて 次の記事 がヒットした。

次にエノケン、これは又大変なジャズ歌手である。
何しろ自ら日劇の舞台に後藤博をリーダーとするエノケン・ディキシーランダースを出演させてジャム・セッションをやった位のジャズ好き。
栗原重一の指揮編曲するピエルブリアントの劇団所属バンドは、毎週アメリカから新しい譜面をとりよせて、新曲をステージに発表した。
舞台や映画のエノケンの芝居には、数々の外国曲の旋律が巧みに使用されていた。
しかしレコードとなると、昭和11年にポリドール専属になってから、戦前5年間に僅かに三十数曲を吹込んだのみ。
その中には、有名な「ダイナ」「月光価千金」「南京豆売り」から、「トカナントカ言っちゃて」など和製コミック・ソングまで色々あり、
「エノケンの浮かれ音楽」は、「ミュージック・ゴーズ・アラウンド」で、岸井明、ミネ、コロムビア・リズム・ボーイズと四者競演になっている。
何れにしても、エノケンの唄は調子を外しているようだが、抜群のセンスで独特のアドリブをやっているわけで、
まさに空前絶後の日本的ジャズ・シンガーと言えると思う。
ポリドールから1枚のLP(14曲)が出ているが、全曲収録のアルバムを絶対に出すべきだろう。(瀬川昌久『レコード・コレクターズ』(創刊号 昭和57年4月20日発行)より)


これによると、「歌は廻る」の原曲「The music goes 'round and around」をエノケンは「エノケンの浮かれ音楽」というタイトルで発表していたらしい。
ここで、Morris.の衰えた脳細胞に何かちらっと閃いたものがある。このタイトルにはかすかに覚えがある。
押入れの中のボール箱をひっくり返してカセットテープを引っ張り出した。たしかAM放送からエアチェックしたものの中に、そんなタイトルがあったはずだ。
というわけで、とうとう懸案の幻の歌(それほどではないか)の音源が見つかった。万歳\(^o^)/思わず「エウレカ!!(我発見せり)」と叫んでしまった。
灯台下暗しとはこのことで、なんとMorris.の押入れに眠っていたのだった。
タイトルが違うのではないかと、秋本君に言ったことがあるが、それはないだろうということで、そのままになっていたのだった。
これで、胸のつかえがおりたような気がする。
午後社長が「手紙でも書こう」の歌詞もって来る。さっそく「浮かれ音楽」自慢たらたら聞かせてMDに入れたものを渡す。

【風穴をあける】谷川俊太郎 ★★☆☆
 文庫解説や添え書き、新聞雑誌の記事、故人への思い出など、短文を集めて一冊にしたもので、読む側も、興味のある部分だけはちゃんと読んだが、後はとばし読みしてしまった。内容も玉石混交というか、かなりむらがある。

短歌、俳句などの定型の伝統を選ぶ道を私はとりたくない。七五から離れることで私たちは詩の秩序を失ったかもしれないが、同時に大きな混沌を得たのだ。その混沌のうちにひそむ可能性を私は信じている。もうひとつ、我々のいわゆる現代詩もまた、広義の「詩的なるもの」にその根を下ろしていると思うが、その「詩的なるもの」からいかにして「詩」を析出させるかということが、変わらぬ課題であるのは時代を問わないと思う。(なぜ「詩」を選ぶか 詩学 1988・11)

あれだけ明晰な詩を書く著者が、散文になるとなぜこんなに、回りくどい悪文を書くのだろう。「析出」という、Morris.の見慣れない言葉が出てきた。大辞林によると「液体の中から固体が分かれて生成してくること。--以下略--」らしい。詩人は、詩について語るより詩を書くべきなのだろう。

若い時の寺山修司との交流、思い出話は、ちょっと意外で面白かった。
漱石の「猫」の文庫解説は、文体模写しながら「猫」の本質を突いた良いものだった。

『吾猫』に登場する高等遊民どもは、有り体に申せば現代の「おばさん」である。アンドレア・デル・サルトルなどは、カルチャー・スクールに通う現代のおばさんなら誰でも知っている。吾輩はそう考えて胸のつかえが下りたような気になった。いい年をした働き盛りの男たちが世間話に日を暮らすのは、彼らが実はおばさんだからである。金持ちを嫉妬羨望するところもおばさんである。しかし吾輩も認めざるを得ないが、これには先見の明というべきところがないでもない。声高に天下国家を論ずるより、日常の瑣事にも波瀾あることを察知して世間話に低徊するワイドショーの流儀は、男女の別が徐々に曖昧になりつつあるこの世紀末においてはむしろ人間性の深淵をかいま見る方法として有効なものだろう。漱石という男はそこを見通していたのに違いない。(牛の涎 集英社文庫解説 1995)

2002/03/06(水)●検索疲れ●
ポサダ 「骸骨ドンキホーテ」 春待ちファミリーBANDの3rdアルバムの録音は、順調に進んでいる。夕方サム・コーポレーションを覗いたら、社長がエノケンメドレーの「ダイナ」のボーカルを入れているところだった。
今できあがっている分を聞かせてもらう。すごくいい出来だ。ますます楽しみになる。
しかし、いまだに、「歌は廻る」の歌詞が見つからない。
社長が、実家から、昔店においていた古いカセットテープを持ってきて、ひょっとしてこの中に入ってないかと、順番に聞いて行くことにしたのだが、らちがあかない。
そのかわり、昔の懐かしいライブのテープがあったのでついそちらをきいてしまったりする。
帰宅してからもネットで、あちこち検索したが、めぼしいサイトはすでにチェック済みだし、映画、挿入歌など検索キー変えてもあまりひっかからない。

検索にいいかげん疲れたので、このまえカタログを手に入れた、メキシコの版画家ポサダのサイトを調べてみた。日本語のサイトはあまりたいしたものは見つからなかったが、英語サイトは結構充実している。
カタログに載っていないカラベラ(骸骨)の画像10点ほど、ダウンロードする。

【原野の詩】金時鐘 ★★★☆☆☆  「地平線」(1955)、「日本風土記」(1957)、「新潟」(1970)、「猪飼野詩集」(1978)、「光州詩片」(1983)という既刊の5詩集に、若干の未刊詩を加えて1991年立風書房から出された、金時鐘集成詩集である。詳細な年譜も附された大部(893p)の著作で、さすがに読み応えがあった。「猪飼野詩集」だけは、以前に目を通したことがあるが、先般金石範と金時鐘の対談を読んだ後だけに、この詩人のトラウマ/恨(ハン)としての済州島事件の影が、全体に色濃く残っていることが視て取れた。特に長編詩「新潟」に、その痕跡が顕著である。
本書は、新しいものから古いものへと並べてあるが、Morris.は逆順に読んだ。初期の作品は、組織の中にあっての制作だけに窮屈な感じは否めない。それでも詩人の詩心は隠れもないのではあるが、組織と一定の距離をおいてからの作品とりわけ「猪飼野詩集」の、すこーんと突き抜けた感じを受ける作品がやはり一番好ましい。

人はそれぞれ自分の詩を生きているのであり、詩人はたまさか、ことばによる詩を選んだものに過ぎない。その「ことば」に依らない詩を生きている多くの人たちのつかえたことばを、だからこそ詩人には自分のことばに重ね合わす責務が栄光をともなって負わされているのだ。私の詩がぜいたくなまでに時をむさぼってばかりいるのも、この無口な他者の喩に通底する喩を、己れのことばとして対置できないでいることのもたつきである。ひねりだすことばに窮しているのではなく、すでに在ることばをかかえきれないでいるもどかしさなのだ。(1983「図書」)

こういう覚悟で詩に臨んでいる金時鐘の詩を、ことばによる作品としてのみ見ることは、詩人の望むところではないだろうが、Morris.は、好き嫌いしか言えない。そして彼の作品のいくつかは、Morris.にも不思議な光芒を放ちながら胸に突き刺さってくるのだ。

自分の祖国を 勝手に変えさせ
行きたくもない国へ 無理じいに送りこみ
仇敵売国奴どもの 矢面に立たせようとする
そんなやつばらどもに まつ向きつてのデモ行進だ(キャメラ「地平線」)

このようなストレートな意思表示にさえ、金時鐘の言葉選びの巧さを見てしまうのは、Morris.の眇目なのだろうか。

働くとこない 朝鮮人。
使つてくれない 朝鮮人。
子供をよく生む 朝鮮人。
もつともよく食う 朝鮮人。
なにして食うのか? 朝鮮人
ドロボーして食え 朝鮮人。
ドロボーはいやで やみ商売
やみが恐いで 屑ひらい
屑をひろって 朝鮮人
泥にまみれて 朝鮮人
朝鮮人の金持は
きまつて同じ たて看板。

何んでも買います。「よせ屋」
 同族同士の あいだの中で
 身ぐるみ売つても 足らなんだ。(在日朝鮮人「地平線」)

ここには、差別や矛盾に対する怒り以上に、同朋を鼓舞する力と愛を感じ取ることができる。

うなだれる
白昼の闊歩より
跳梁を秘めた
原野の
夜の
徘徊を選ぼう!
捕われた
国の中で
捕えたものを
捕えるのだ。
闇に
青白く
眼光を燃やし
豹変する
豹へのイメージに
爪を研いだ。
通路を無視したものにとって
世界は 
なんと
自由であったことか!

病魔にあえぐ
故郷が
いたたまれずにもどした
嘔吐物の一つとして
日本の砂に
もぐりこんだ。
ぼくは
この地を知らない。
しかし
ぼくは
この国にはぐくまれた
みみずだ。
みみずの習性を
仕込んでくれた
最初の
国だ。
この地でこそ
ぼくの
人間復活は
かなえられねばならない。
いや
とげられねばならない。(雁木の歌「新潟」)

一つもないのに
二つもあって、
朝鮮と呼んでは
けんつくを喰って
韓国とてもくになのに
反共とかで朝鮮でなくて
それでも子らには一つをいうのさ。
いまにその日が来るんだよ。
一つのくにに帰れる日がさ。
おれすら知らないそのくにを
おれが頒けておれが聞く。
アパのくりごと、 年ふりたこと。
いつとはなしに しみついて
知りもせぬのに忘れないのさ。
いまに来る日があるんだよ、
来たからには 帰れる日がさ。

あーア、そうだとも!
居つくにしてはつらすぎる。
なじんだにしては はみでてる。
異国ぐらしが 旅であるなら
だれにも終わる 旅はあるさ。
いまにその日がやってくる。
焦がれて消えたその日が来る。(それでも その日が すべての日「猪飼野詩集」)

なくても ある町。
そのままのままで
なくなっている町。
電車はなるたけ 遠くを走り
火葬場だけは すぐそこに
しつらえてある町。
みんなが知っていて
地図になく
地図にないから
日本でなく
日本でないから
消えててもよく
どうでもいいから
気ままなものよ(見えない町「猪飼野詩集」)

おしやられ
おしこめられ
ずれこむ日日だけが
今日であるものにとって
急ほど明日をもたない日日もない。
昨日がそのまま今日であるので
はやくも今日は
傾いた緯度の背で
明日なのである。
だから彼には
昨日すらない。
明日もなく
昨日もなく
あるのはただ
狎れあった日日の
今日だけである。(日日の深みで「猪飼野詩集」)

明け方か
日暮れ
パタンと板が落ち
ロープがきしんで
五月が終わる。
過ぎ去るだけが歳月であるなら
君、
風だよ
風。
生きることまでが
吹かれているのだよ。
透ける日ざしの光のなかを。

誰かを知るか。
忘れるはずもないのに
覚えられないものの名だ。
日が経ち
日が行って
その日がきてもうすれたままで
揺れて過ごす人生ならば
君、
風だよ
風。
死ぬことまでも
運ばれているのだよ。
振り仰げない日ざしのなかを
そう、そうとも。
光州は さんざめく
光の
闇だ。(骨「光州詩片」)


2002/03/05(火)●春の雨●
朝のうちは曇り空だったが、昼から小雨が降ったり止んだりしている。
オープン戦とは言いながら、四連勝と好調の星野阪神。今日は、対近鉄戦だったが、いてまえ打線には力及ばず、負けてしまった。
昔からのMorris.の愛読書、エーリッヒ・ケストナーの 「人生処方詩集」角川文庫版 を愛蔵本ページに追加。
これは「飛ぶ教室」「点子ちゃんとアントン」などの児童文学作家として有名な、ケストナーの、詩による悩み相談室みたいな詩集で、Morris.が、これまでに、どれだけこれに救われたことか計り知れない。現在では、ちくま文庫版しか手に入らないようだが、悩みや苦しみを抱えているすべての方にお勧めします。
島田和夫部屋 スケジュール追加。

【第三閲覧室】紀田順一郎 ★★★  古書収集家である私立大学学長が手に入れた、幻の詩集の真贋の謎を巡る、古書ミステリー。燻蒸中の図書室質での女性殺人事件をに巻き込まれた出版学の研究者と知人の古書店主、さらには紙博士、新聞記者、図書館員などが得意のジャンルの知識を駆使して真相を解明しようとする。彼の作品としては、ミステリーとしてもなかなか力作といえるのだろうが、トリックや、動機、犯行方法などが不自然に過ぎる。Morris.の興味は、書誌的記述、偽古書を作るテクニック、希覯本談義などに集中して、その意味でも本書は楽しめた。戦前の詩集を偽作するための用紙に改造社版の円本文学全集のみ返しを使うというアイディアは、分らないでもないが、何故わざわざ全巻揃いのものを破砕して使ったのかがよく分らない。この全集なら、現在でも破本なら、1冊百円くらいで手に入るくらいありふれたものなのに。
幻の詩集を、古書店主が、こっそり見せてもらう時の描写などは、かなりこっている。

震える手で、岩下はその濃茶色の表紙を開いてみた。灰色の見返しの次に薄葉紙が一枚。扉は本文用紙と共紙で、やや黄ばんでいる。「陽炎」という書名、「滝口謙三」という著者名、そして「ロン書房」という出版社名、「1941年」という刊年がそれぞれ明朝体の横組みで印刷されているだけの素っ気ないものだが、さすがに活字の大きさや配置には高いセンスが感じられる。
目次はニページ見開きとなっていて、「花粉」「端艇」「鹹湖」「寓話」「異邦」ほか自選と思われる作品が、目分量で二十篇ほど並べられている。みな有名なものばかりで、まちがいなく滝口の詩集である。全体は八十二ページ。奥付に「一九四一年六月十五日発行」、「定価三円」とあるが、おそらく自費出版であろう。
岩下は慌ただしく本文を覗いてみたが、彼もきおくしている「座標」の「村は凍結した湖底に沈み、血のように赤い月が、裂けた氷海の涯に漂う」という一節や、「寓話」の「無言の年代が、耐えている人蒸気の中から、熱した灰色の猛鳥が飛び立つ」などという表現が目にとびこんできた途端、何かこわいものを見るような気分になり、本を閉じてしまった。


滝口という詩人が作者の空想の産物だとしたら、拍手ものだね。引用の部分だけでも、本字、旧仮名遣い表記を用いたら、もっとリアリティがあったろうに、と惜しまれる。

2002/03/04(月)●夢歩き●
長い長い一本道をひたすら歩いていく夢を見た。草の生えている地道で、よく知ってるのに誰だか特定できない女性が一人同行していた。どんどん歩いていくと、道の左側に池があった。池の中に古いお堂が建っていてそこで食事して、2階で一服した後、今度は一人で、道を進んで行くと山道になり、長いトンネルに入っていった。どうもこれは、故郷の赤穂山トンネルのような気がする。トンネルの中は、ぼんやりと明るく、どんどん進むと、小さな村に出た。ああ、ここは、昔の世界なんだと思いながら、ずんずん進む。また草の生えている地道に出て、ところどこら咲いている花を眺めながら、これは夢なんだ、でも、この夢はなかなか気持ちがいい夢だと気付いたところで、目を覚ました。
昼前にファピョンさんから電話があり、仕事で神戸に出てきて、今から大阪に戻るのだが、昼飯でも一緒に、ということで、近所まで来てもらい、げんこつでラーメン食べ、となりの「ommori」で、コーヒー飲んで、しばらくだべった。ommoriは、フォークグループ「猫」のヴォーカルだった人が始めた店で、最近矢谷君らが行きつけになってて、ライブやったりもしているらしい。コーヒーはあまり美味くなかった。ファピョンさんは、不景気だといいながらも、相変わらず精力的に仕事に韓国語に頑張っているようだ。

【沈思彷徨】藤原新也 ★★★☆☆ 
70年代、アジアを中心に世界を遍歴し、写真と紀行を発表、83年の「東京漂流」でセンセーションを巻き起こした筆者の69年から96年まで27年間の「語り」(インタビュー、対談、モノローグ、講演)を集成したもの。「東京漂流」と「メメントモリ」はMorris.も発表当時読んで強い印象を受けた。また彼の旅の書は、その後のバックパッカーや若い旅行者に大きな影響を与えた。
本書はおおむね、時代順に
1アジア放浪期(-82) .2.東京漂流期(83-87) 3.アメリカ観察期(88-90) 4.ホワイトアウト(91) 5.家郷/門司(91) 6.その後(92-96)の6章に分けられ、最後の7章('96/05)は本書のための語りおろしとなっている。

・インド人の生き方というのは基本的には人生讃歌です。いちばんそれが表われているのはインンドの歌だね。特に女の声はこの世のものとは思われないほど汚れがない。('87)

・アメリカの美学は、若さとか新しさ。いわゆるニューということが価値です.老いや死の美学はなく、あるのはそれに対する嫌悪ですね。インドや中国ではまだ老いの美学があります。日本にもかつてはあった。そういった美学を持った老人は美しかった.('84)

・中学生のいじめに性の問題抜きに語るというのは公平を欠くね。あれはひとつにセックスの代わりみたいなもんだ。---あれは一つの小学生中学生のSM状況と考えられなくもない。二者とも犠牲者なんだ。ガス抜きとしての、イジメ・イジメられって関係があって、それを、また管理していくわけでしょ。そうすると、もうあと、自虐しかなくなっていくのね。('86)

・カタストロフ願望というのは破壊願望じゃないんですよ。本当はここまで人間阻害してしまった世界をどこかで再編成するという再生願望が、破壊願望につながっている。あれはあくまで希望的な言葉です。('87)

・この震災(神戸地震)は、地面を蔽うコンクリートがめくれるように、人間的な感情を覆い隠していた皮膜を一気にひっぺがした気がする。そのとき私たちは、思い出したんだ。私たち自身を。自分と地続きの日常的な風景のなかで、人間の喜怒哀楽が惜しげもなく吐き出されている。そんな具体的な映像を地上から見せられたところで、記憶喪失者があるショックで自らの過去を思い出すように、忘れていた人間的な感情をふたたび思い出したんだ。あの神戸の他者を思う熱狂は、そういった自分を思い出した感動でもあったと思う。俯瞰映像と、地上からの映像と、二つのものが日本人に与えた感情はそのように分裂していた.その分裂は今げんざいの日本人の人間性や、社会と人間との関係をよく現していたと思う。---震災は封殺されていた感情を思い出させるとともに共生の感情をも強く刺激した.。なによりもテレビで毎日映し出された被災者たちが互いに無私の感情で共生しようとする涙ぐましい助け合いの風景に、奇妙なことに私たちが忘れていたあの共生のユートピアを垣間見たんだ。ボランティアで熱狂的に神戸へと走っていく若者たちの姿は、私には崩壊という名のユートピアに向かって行く迷える羊のように見えた。('96)

・多国籍国家であるアメリカの唱える平等思想はクリーン思想と同じようにそれ自体で間違っているとは言えない。しかしクリーンシンドロームが免疫不全を生んだように、平等思想がやがて人間の自由な心を縛るようになる。みんな平等であらねばならないという強迫観念が極端な差別排除を生み出し、今では自由にものが言えなくなっている。人間は言葉の動物だ。言葉を縛るというのは心を縛るということに等しい。私はこれを言葉のアパルトヘイトと呼んでいる。('96)

・宇宙規模で大きく言えば、人間という生物がそんなに生き延びる必要があるのかどうかという問いも私の中になくはない。あらゆる種が寿命をもっているのと同じように人間という種も寿命を持っているだろうし、人間だけがそれから逃れられるわけはない。('96)

・(日本は)戦争に負けて、戦前まで日常生活の中に根づいていた儒教や仏教や神道的な規範も薄れた。そして農業というものがあらかじめ持っている自然というものによる人間への教えも戦後に農業社会から産業社会に移る過程で非常に弱くなった。そして悪いことに農耕を営む過程で日本人の基本的な性格となった他力本願的な側面と、本音志向だけが居残ってしまった。本音を正直と評価する傾向もあるが、身体の本音に従うと快感原則に向かうわけだ。つまりこの時点でどこの国にも自明のこととしてある精神的なあるいは宗教的なタガのない、ただ本音垂れ流しの快感原則と物質や自分の勝ち負けを追うだけの奇妙な民族が出来上がった.GNP世界一になったって威張ってがことがあったが、逆を言えば私たちはそういったものに歯止めをかける精神的なタガを持っていなかったからこそここまで異常に肥え太ったと言える。八十年代までかろうじて暴走の歯止め機構になっていた左翼的なタガもなくなり、やがて全部が右肩上がりとなる。「功利全体主義」時代到来だ、その行き着く先がバブルだった。('96)

東京漂流以来、一貫して著者の批判の舌鋒は鋭い。
殊に日本人と日本の現状への対応は、それこそ「自虐」にすら見える。しかし、これを否定するのではなく、肯定的に乗り越えるしか、道はないのだという思いは否めない。しかし、本書が出てすでに6年が過ぎての、今の日本の現状はどう考えても、一層悪化しているとしか思えない。

2002/03/03(日)●ひな祭り宴会●
昨日も録音しておいた毎日放送の「大西ユカリと新世界」。今回の特集はシャネルズで、なんと19歳のユカリちゃんが客席から手を挙げて「もしかしてアイラブユー」
という曲をシャネルズと一緒に歌ったという秘蔵テープまで披露してくれた。やっぱりユカリちゃんは昔からただものではなかったんだなあ(^o^) 天王寺のアコーディオンひきがたりのマコメロさんとの「「大阪ラプソディ」のデュエットもあり、この番組は、結構受けてると思う。
今日は桃の節供。ということで、社長宅でひな祭り宴会。いったい誰のための企画なのかよくわからないまま、メンバーは固定レギュラーの、伊藤、いやま、堀姉妹、えっちゃん。堀姉妹は、今日親戚の結婚式に出席したとのことで、紺色(姉)、ライトブルー(妹)のおそろいのスーツ(襟なし、プリーツスカート)で登場。同じスーツでも色が違うだけで全くイメージがちがう。それぞれよく似合ってたが、いつもと雰囲気が違ってて、Morris.はなんかドキドキしてしまった。やっちゃんは、モード学園の実習で三宮の美容室で研修みたいなことをやってるらしい。焼きそば、手巻き寿司をたらふく食べて、11時前帰宅。

【お笑い 日本の防衛戦略】テリー伊藤 青山繁春 ★★☆☆
 テリーのお笑いシリーズの一冊のはずなのだが、これは「お笑い」に×印がついている。笑い事ではないということなのだろうが、その分面白味に欠けるものになった。NYの貿易センタービルテロの直後に行われた対談をまとめたもので「テロ対策機密情報」と副題がある。青山氏は「戦略アナリスト」らしい。
憲法9条戦争放棄が、日本の防衛と自衛隊を矛盾したものとしている、という意見はめずらしいものではないが、原発のあやうさと、米軍基地の存在の理由、北朝鮮の本音などを分りやすく教えてくれるという意味では、それなりに有意義だったが、やっぱり面白い本ではない。
 
2002/03/02(土)●ダイヤルYを廻せ●
としろう、市川さんと住吉の現場で、トランクルーム保管と、実家へ送る荷物のピックアップ。思ったより整理が出来てて、半日仕事で終わり、帰り道降ろしてもらった。ラッキー(^o^) 
昼から風呂に入って、パクサからもらった、新しいCD「シンパラム イパクサ トロットメドレー1.2.」の紹介を、パクサ部屋の 「シンパラム」ページ にアップ。
最近の韓国トロットヒット中心のポチャクディスコメドレーで、キーボードのキム・スイルさんものりのりで、いい出来なのだが、1.と2.それぞれ20曲収録のうち、なんと15曲がかぶっているという、よくわからないCDではある。
2.にはキムヘヨンのカンクンナムジャのカヴァー(ってことになるんだろうか?)も入ってるので、Morris.的には興味津々のCDだが、一般ファンは、2枚買う必要はないだろう。
奮発して4曲の音源をMP3ファイルで、貼り付けているので、余裕のある方は聴いてみてください。
もちろん「カンクンナムジャ」も聴けます。
今夜はヒアカムで「ダイヤルYを廻せ」というライブを、見に行く。途中、鹿嶋さんと会う。ニフティのADSL導入も、どうやらうまくいってるようだ。
今日のライブは、矢谷君、山口さんの頭文字「Y」をタイトルにしたもので、二人の弾き語りにゲストを迎えるという趣向で、例の追っかけママ一行が来て、騒然とした雰囲気で始まったが、矢谷君はそんなプレッシャー/妨害/雑音ものものかわ、朗々と歌いつづけ、おしまいにはママたちの声も静まってしまった。
矢谷君の進境著しいことの証明かもしれない。ギターも歌も、ステージ度胸もここ一年くらいで、格段に良くなった。Grass時代の「アクアリウム」も当時とは面目一新だったし、おなじみの曲もすべて良かった。おまけに、来店していた春野由利さんが、「にじます」をデュエットしてくれたし、と、満足度の高いライブだった。
ライブの後も、山口さんとホームページリニューアルの相談や、安聖基の話題などで盛り上がり、ずるずると飲みつづけて、部屋に着いたのは1時過ぎだった。

2002/03/01(金)●元町でスンドゥブチゲ●
 劉光相の水墨画 ぐいぐい酒場に宮崎さんからイジヨン関連の発言があった。先日、日記に芳恵とありさの番組のことを書いた、Morris.のミーハーぶりから、連想されての書き込みではないかと思うが、昨夜は久しぶりにイジヨンのCD聴きながら寝たのだが、今朝起きたら「卒業」がかかっていた。リピートモードになっていたらしい。つまり一晩中イジヨンの歌が流れていたことになる(^_^;)
このまえ、サンパル3FのMANYOで見かけた美術館のカタログというのが、どうも気になってて、結局昼前に三宮に出て、買ってしまった。1989年に名古屋市美術館で開かれた「ポサダ版画展」のもので、詳細は読書控えに譲る。
ついでにジュンク堂で、「ぴあマップ韓国」を立ち読みする。これは、釜山と済州島の部分を、ヒョンミさんが担当したという情報が入ったからだ。釜山の元山麺屋やガイドブック「まるごと釜山」の紹介もあって、なかなか目配りが効いている。済州島はまだ行ったことがないので、次回はぜひ足を伸ばしてみたい。
地下鉄で中央図書館に。3Fの震災記念室に、劉光相という韓国人画家による水墨画8点が掲示してあった。49年生まれで93年から日本で活動してるらしい。すべて50号を超える大きさの絵で、震災の被害現場を再現している。水墨画というのが、どうもぴんと来なかったが、デッサンは、かなり実力があると思う。これらの絵は神戸市に寄贈されたものとのこと。
帰り道、元町高架下を冷やかす。前からいちど入ろうと思っていたモトコー4番街の「スープ房 くだら」という店でピリ辛とうふスープを頼む。これは要するにMorris.大好物のスンドゥブチゲなのだった。在日のアジュマが切り盛りしてるこぎれいな店で、ちゃんと土鍋に沸騰したチゲが出てきた。ご飯もついて、辛さも味もなかなかのものだったが、やはり日本では、スンドゥブが手に入らないのだろう、柔らかめの絹ごし豆腐だった。残念。
島田和夫部屋内に「 ポスター展示館 」と題して彼自身のデザインしたポスター6点をアップした。

ポサダ版画展カタログ 【ホセ・グァダルーペ・ポサダ--生と死の祝祭--】 ★★★★  1989/05/26から07/16まで、名古屋市美術館で開かれたポサダ版画展の、カタログらしい。ポサダの名は長田弘の詩集のカットでお馴染みだったし、昨年読んだ「 詩人であること 」でも、ポサダに一章が割かれている。
これは先日サンパルの巨大古本屋MANYOで見つけたのだが、ビニールで密封してあったので内容がわからないので買わずに帰った。その後、ずっとり気になって、1週間後に買いに行った。売れてなくて良かった。想像以上に素晴らしい本だった。50点近くの版画が収められていて、そのうちMorris.のお気に入りの骸骨ものは14,5点だが、なにしろ紙質が素晴らしい。ほとんど藁半紙である。ポサダの作品を刷るのにこれ以上の紙は考えられない。これが光沢のあるアート紙だったら、魅力は半減するだろう。レイアウト、装丁も秀逸だ。一枚刷りの雰囲気を出すためと、裏写りを考えて、ほとんどが片面印刷になっている。更に骸骨絵の絵葉書8枚がふろくに付いていて、おまけ好きのMorris.を狂喜させてくれた。これが入っている袋がまた洒落ている。故意か偶然か、挟み込んであった展示会のチラシも、カタログの表紙をモチーフにしてあり、見惚れるくらいの出来栄えだ。いやあ、これはもう、絶対最初見たときに買うべきものだった。よくもまあ、1週間もたなざらしになっていたものだ、と、今さら安堵の溜息が漏れる。
手に入れた興奮ばかりを書いてしまった。肝心の版画と、版画家について紹介しておかねば。

ポサダ(JOSE GUADALUPE POSADA)は、1852/02/02メキシコのアグアスカリエンテス市で、貧しいパン屋の息子として生まれ、幼い頃からリトグラフ、エングレービングを学び、15歳で職業画家となる。
1870年代には、風刺画家としても活躍を始め、84年からは中学教師としてリトグラフを教えたりもした。
88年メキシコシティに移り、ポサダ工房を開き、大衆新聞、チラシや、詩集、童話、劇場案内など、大衆の愛好するあらゆる出版物に挿絵を提供した。彼の政治風刺画は、革命を影で煽動したと言われるくらい、民衆の心を掴み、鼓舞し、昂揚させた。
ポサダは生涯に1万点とも2万点とも言われる膨大な版画を制作している。そのほとんどが赤や緑、ピンクや黄色の安っぽい粗悪な紙に一枚刷りされている.
最も評価の高い骸骨(カラベラ)をモチーフにした作品は、大部分が、メキシコの伝統行事「死者の日(11月2日)」のチラシのために制作されたが、「死ぬべき存在」としての人間を痛烈に皮肉りながら、生きている人間よりも生き生きした骸骨の姿で描かれている。西洋の「死の舞踏」と類似しながら、それを突き抜けた明るさを持っているのも、ポサダの版画の魅力である。そのほか、宗教、災難、政治風刺、事件など多様なテーマを取りあげて、当時台頭し始めた写真を寄付けない強烈な描写で、人心を捉えてやまなかった。
しかし、彼は1913/01/20、61歳で孤独と貧困の中で死ぬ。
後のメキシコ・ルネサンスの巨匠、オロスコとリベラは、ポサダの再発見者でもあり、ポサダの影響力の大きさを評価してやまない。

うーむ、いけない。ポサダについてはほとんど何も知らないMorris.が、カタログの年譜と、解説の孫引きでえらそうに説明するというのは、そもそも無理があったようだ。
画集というものは説明するものでなく、見るものだ。「百聞は一見に如かず」である。
もともとヴィジュアルには甘いMorris.が、これだけベタ褒めの画集に80点とやや辛口なのは、やはり骸骨シリーズの点数が少ないのと、もう少し色つきのザラ紙を使ってほしかったためである。

美術におけるユーモアの発生は、明解で純粋な形式として、私たちに極めて身近な時代に起こったことのように思われる。その第一の実践者は、メキシコの画家ポサダである。その素晴らしい民衆版画において、1910年革命における戦闘のすべてを私たちに実感させてくれる。その喜劇の経緯を、思惑から行動まで語り尽くし、その実に見事な葬式に相応しい玩具として、:メキシコがブラック・ユーモアの聖地であることを感じさせてくる.。---アンドレ・ブルトン

ポサダは最も偉大な巨匠たちに匹敵する画家であり、純真、謙遜、平静、威厳において、賞賛に値する教訓的な存在である。現在におけるありふれた憎悪や卑怯な態度とは実に強烈な対照を見せている。---ホセ・クレメンテ・オロスコ

誰がポサダの記念碑を打ち立てるのか? いつか真実の革命を成し遂げるものたち、すなわちメキシコの労働者や農民たちである。ポサダの名前は偉大であるがゆえに、おそらくいつの日にか忘れ去られるだろう! メキシコ民衆の魂と統合するがゆえに、ポサダという個人は完全に消え去ってしまうことになるだろう。---ディエゴ・リベラ


この展示会の出品作は名古屋市美術館所蔵らしいから、機会があれば、現物(といっても、印刷物にはちがいないけどね)にお目にかかりたい。