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          Morris.日乘2015年12月


Morris.の日記です。読書控え、散策報告、友人知人の動向他雑多です。新着/更新ページの告知もここでやります。

 

今 月の標語

NO!何かしよう


【2015年】 11月  10月 9月 8月 7月  6月 5 月 4 月 3 月  2 月  1 月
【2014年】 12月  11 月 10月  9 月 8月  7 月  6月  5月 4 月  3 月  2 月 1月

2015/12/31(木)●オワリモウデ
8時起床。
今朝の血圧は184/97/81。
今日も良い天気だ。
いよいよ大晦日。といっても特にすることはない。2015年最後の日も部屋ゴロ。
定期的に覗いてるホンジニョン応援ブログで、「オワリモウデ」のことが書いてあった。みつろうさんの「笑えるスピリチュアル」で紹介されているおまじないで、初詣ではなく12月31日、近所の神社で、以下のりお詣りをするという主旨である。

一つ.鳥居に入る前にペコリすること
一つ.手を洗い清めること
一つ.300円以上のお賽銭を入れること
一つ.お賽銭を入れたあと、ペコリすること
一つ.大きく深い深呼吸を3回し、心を鎮めること
一つ.合掌すること
一つ.お宮の鏡が見えるなら、それに映る自分を見ること
一つ.鏡が無い場合は目を瞑ること
一つ.今年一年間起こった『良いこと』を出来るだけ沢山思い起こすこと
一つ.それら一つずつに「ありがとうございました、○○が起きてとても幸せでした」と言うこと
一つ.ここで神からのビジョン(ありがたいなーという感覚)が湧いてくるらしい
一つ.その感覚に意識を集中し、あなたのこれまでの前世を想起すること
一つ.前世がなんだったのか具体的に浮かばなくても、前世があったという感覚だけに集中するこ
一つ.これまでの長い人類の行い全てに「ありがとう」と感謝すること
一つ.最後に「ヤワタヤワタ」と声に出してつぶやくこと
一つ.全てが終わったらペコリすること


初詣で新年の「福」を祈願するのとは対照的に、行く年の幸に感謝を捧げるというのが気に入った。昨年から春待ちでの六甲八幡神社初詣ライブ中止になったし、今年はこれをやってみよう。
一番近い大きめの神社といえば、筒井八幡神社である。神社に向かう途中阪急高架下のスタジオゼロに「命どぅ宝」という垂れ幕があったので覗いてみる。清水公明という人の展示会で開催は1月9日からで今は準備中だとのこと。しばらく、沖縄辺野古基地移転の話などする。
筒井神社は初詣に備えて、ライトアップなどされてたが、まだ参詣者はいなくて、ゆっくりお詣りすることができた。今年の楽しかった出来事をMorris.日乘からピックアップしてiPhoneにアップして、とりあえずこれらの出来事に感謝して、一年を終える。これはなかなか良いことかもしれない。
5時半帰宅。井上ひさし原作の「きらめく星座」小松座講演やってたので、見るともなく見る。7時15分からは紅白歌合戦。
2020東京オリンピックとNHKのプロパガンダ色の濃い演出だった。2016年がますます全体主義になりそうな予感がする。
ニューストップで、10年以上前に発見(作り出した)113番めの元素の命名権を日本が取得したことを伝えていたが、これも、大晦日というタイミングを選んでの発表にちがいない。
今日の歩数は2908歩。

気になる垂れ幕 

お陰参りぢゃなくてオワリモウデ 

2015年も暮れゆく 

015/12/30(水)●大晦日イブ(^_^;)
7時起床。
今朝の血圧は167/96/76。
昼間で部屋ゴロ。
午後は小掃除(^_^;)
ちょこっと水道筋方面散策して4時帰宅。
読書控えの整理。
先日の日韓外相会談での慰安婦問題での慰安婦像の撤去で、また一悶着起こりそうな気配。今回の会談は唐突だったが結局は安倍政権のスタンドプレイ&宗主国アメリカの意向に沿った茶番だったのだろう。
今日の歩数は4252歩。

百合 

水道筋駐車場猫A 

駐車場猫B 

【本格小説】水村美苗 ★★★☆ 2002/09/25 新潮社。初出「新潮」2001-02
1990年「續明暗」を発表した後、12年後に書かれたこの「本格小説」は、嵐が丘をプロットの下敷きにした、本格長編(^_^;)である。Morris.は水村作品が気になりながら、ずっと読まずにいた。デビュー作が漱石の未完の遺作の続編というスタイルだったので、前作?を読んでなかったMorris.は手を出さずじまいだった。

雨が屋根を叩きつけるように降っている。風はなく、大きな瀧となって天からひたすらなだれ落ちる雨の勢いに、あたかもこのあたり一帯が水底に沈んでいくようであった。
やがて祐介はぽつぽつと話し始めた。そうしていったん話し始めるともういつまでもやまなかった。私は深い眠りを眠りながら聞くように祐介の話を聞いていた。今という時間も消え、ここという場所も消え、祐介も私も消えた。現実がすっかり消えてしまった眼に、四方の壁についた小さい電球が黄色い光を放つのが、闇夜にちらちらと揺れる鬼火のように見える。家の外から自然の猛威が押し寄せてきているのも、自分を離れたどこか遠い出来事のようであった。

「私小説」的な作品とは、実際に小説家が自分の人生を書こうが書くまいが、究極的には、それが作り話であろうがあるまいが、何らかの形で読み手がそこに小説家その人を読み込むのが前提となった作品である。「私小説」的な作品においては、書き手は抽象的な「書く人間」である以前に、具体的な甲や乙といった小説家--写真を通じてその顔が世間で知られたりしている、具体的な個々の小説家なのである。それ故に「私小説」的な作品においては、書き手が、書き手自身の人生を離れずに書くこと自体が、読み手にとって正の価値をもつ。のみならず、そこではその作品が、初めもなければ終わりもないこと、断片的であることなど自体が正の価値をもつ。具体的な人生経験とは、まさに初めもなければおわりもない。断片的なものでしかありえないからである。すなわち、「私小説」的な作品においては、言葉によって個を超越した小宇宙を構築しようという、全体への意志がないように見えることこそが、読み手にとって正の価値をもつのである。
なぜ、日本語では、そのような意味での「私小説」的なものがより確実に「真実の力」をもちうるのであろうか。逆にいえば、なぜ「私小説」的なものから隔たれば隔たるほど、小説がもちうる「真実の力」がかくも困難になるのであろうか。(本格小説の始まる前の長い長い話)


つまり水村は「私小説」とは違う「本格小説」を書くのだという決意を表明している。実は95年に「私小説 from left to light」という作品を発表している。未読だが、日本語と英語を混交させた作品らしい。それだけで、Morris.はもう読む気になれないし、いまいち水村の作品が読者を獲得できない理由なのかもしれない。

「民主主義は大変結構よ。わたくしはそんなものには反対しませんよ。でもね、『女中』っていう言葉をね、昔のことを話してたって使えないって、それはいったいどういうことなんですか?」
ただでさえきつい眼が光を増した。
「昔はああいう人たちはどのお宅にもいたのに、『女中』って言葉を使えなかったら、ああいう人たちのことをどうやって話すの? あんな人たちはいなかったってことにしたいの?」
日本ていう国はね、そういうことにしたいのよ、言葉を使わなかったら事実が消えると思ってるの、そして女中がいたなんて事実は消えた方がいいとおもってるの、と冬絵が応えた。(クラリネット・クインテット)

この小説のおかげではなかろうが、最近はこの「女中」という言葉は結構使われてると思う。しかし、女中に限らず、禁止用語あるいは、出版社の自主規制用語は、逆に増えているようでもある。

よう子ちゃんはすっかり清潔になってゆう子ちゃんのパジャマを着て立っている太郎ちゃんを見るとびっくりし、次の瞬間にはスカートのうえのものを取り落として立ち上がると、跳ねるようにして近づいてきました。よかった、きれいになって、と襟のあたりに顔をもってきて、ああ、いい匂い、と鼻孔を膨らませて嗅ぎます。太郎ちゃんも鼻孔を膨らませてそおっとよう子ちゃんの匂いを嗅いでいるようでした。よう子ちゃんは体温が高いせいか首のあたりからいつもミルクのような甘い匂いがするので、それを嗅いでいたのかもしれません。この先この二人の子供たちがどうなるかなどということはわたしも考えず、ただこの小さな男の子の胸のうちを思いやって、ほっとしたものとみえます。
隣の座敷でわたしが太郎ちゃんの下着や服をアイロンで乾かしている間もよう子ちゃんが何やら亢奮しておしゃべりしているのが聞こえます。ほころびを縫っているあいだもその声はやみません。やがて板の間の続きにある子供部屋に一緒に行ったらしく、遠くからもまたその声が聞こえてきます。太郎ちゃんの声は耳を澄ましてもそんなに聞こえてきませんでした。
よう子ちゃんの熱に浮かされたようなおしゃべりがずっと続き、それが太郎ちゃんが、至福と煉獄の間を生涯さまようことになる関係にひきこまれていく始まりでした。(DDT)

和製ヒースクリーフ、太郎と、キャサリン、よう子の幼時の至福と煉獄の時間の始まりである。

大きく瞠った眼をことさら大きくしばたいている。(桜の園)

これは、漱石の続編を書こうという作家が「しばたいて」などというミスをしてどうするのぢゃ、という重箱の隅つつきである。

それを聞いたわたしは黙って手をこまねいている気にはなりませんでした。(ハッピーヴァレイ)

これも、Morris.がしつこく嫌っている「手をこまねいて」表記への批判。

男は最後に日本に話を移した。
「もう日本には帰ってくるまいと思っているせいか、日本のことをよく考えるんです」
暗い眼で庭の先の方を見ている。庭の先は藪となっており、その先には藪にほとんど隠された黒ずんだ廃屋がある。廃屋を上から覆う雑木の無効にはさっきまで晴れていたのにまた垂れこめた空が望めた。
「こんな国になるとは思っていませんでした」
表情のない声であった。
「だいたい、こんな金持になるとは思っていなかった」
唇が一瞬つれてから元に戻った。
「でも何となくもっとましな国になると思っていた」
暗い眼はそのまま庭を見続けていた。
「何がいけないんでしょうか」
男は祐介の生真面目な顔を見て何と返事をしたらよいのか迷う風を見せた。祐介は深く考える前にまた訊いた。冬絵が言っていたという言葉が耳に残っていた。
「軽薄なんでしょうか?」
二十六年間の人生で祐介自身うすうす感じていたことかもしれなかった。
「軽薄……」
男はそうくり返してからぽつっと言った。
「軽薄を通り越して希薄ですね」
シャンペン・グラスを眼線まで上げて泡を眺めながら続けた。
「この泡みたいな感じ……ほとんど存在していないような感じがする」
そう言ってから祐介の方を見て思い出したように、そう言えば、あなたは三バアサンに会ったんでしたね? と訊き、祐介がうなずくと、今、富美子が引き留められている軽井沢の知人の家というのはその三バアサンの家であると説明した。
「今となってみると、あの三バアサンは少なくとも希薄ではなかったって、そんな風に思ったりもします」
また唇がつれた。(ハッピーヴァレイ)


追い出されてアメリカで富を築いて、復讐に戻ってきた男が、得たものが軽薄どころか希薄な存在となった日本というのは、アメリカで思春期を過ごした水村の実感と重なるのかもしれない。
Morris.はそれなりに結構面白く読めた。

【母の遺産 新聞小説】水村美苗 ★★★☆☆ 2012/03/25 中央公論社 初出「読売新聞」土曜朝刊(2010/01/16~2011/04/02)

先の「本格小説」の10年後に刊行されたものだが、初出にあるように読売新聞に連載(毎週土曜日)もので、終盤が、東日本大震災の3・11とかぶさっている。もちろん、偶然なのだが、きっちりそれを作品に取り入れている。
本作は「金色夜叉」尾崎紅葉を、下敷きにした作品らしいが、本家本元が、明治30年から5年にわたって「讀賣新聞」に連載されたから、これはかなりに作為的である。実は、Morris.が最初に読んだのがこの作品で、これが実に面白かったので、他の作品も読む気になったのだった。

Gメールの画面が目に入ったとたんである。言いようもない不快感が胸に広がった。夫と女が交わした言葉は、世界のどこにあるのか何か所にあるのかもわからない、グーグルの情報貯蔵庫に幾重にも保護され、自分の死後も残る。哲夫と女の死後も残る。昔は人が死に、その人を記憶する人が死ねば、その人が存在したという事実は残らなかった。人の身体が塵芥(ちりあくた)に戻り、自然界の原子の一部となってしまうのと同様、その人の存在は無に返っていった。
何と清らかなことだったであろうか。
それが今は一度何かをウェブに載せてしまえば、あたかも人類が文字を発明した罰ででもあるかのように、まさに「ちりあくた」としか言いようのない類いの言葉でも、億、兆、京のそのまた何億倍という単位でほぼ永久に残る。21世紀の初頭に平山美津紀という五十代の女がいて、若い女のために夫に捨てられようとしているという記録がほぼ永久に残る。
何たる屈辱であろうか。(36「ちりあくた」)

これって、きっと水村の本音だろう。小田嶋隆が同じようなこと書いてたし、通説と言っていいかもしれない。しかしこれを「屈辱」と吐き出すあたりが、いかにも潔癖症の彼女らしい。

この小説は自分のことを書いてあるのでは、と怪しんだ女がフランス中にいたという。以来、小説を読みすぎ、人生に華やかなものを期待しすぎることを人は「ボヴァリスム」と呼ぶようになった。
「恋、恋人、恋女」と恋愛を飽きもせずに謳いあげたのが、西洋の小説であり、それが日本に押し寄せてきたのは、明治の途中からである。一千年以上前から『源氏物語』をもつ日本文学だが、色恋沙汰はあまたある主題の一つでしかなかった。ところが、明治、大正、昭和と日本に入ってきた西洋の小説は、ほとんど恋愛一辺倒である。そのような小説を読むうちに、日本人の心も男と女の関係に関して浪漫的になり、贅沢になり、身の程知らずになり、親や親戚や近所の人が決めた結婚相手では満足せず、エンマのように、小説に出てくるような、美しく恋を語れる相手を求めるようになっていく。当然現実に対する不満も増えていく。母のように床屋の跡取り息子との縁談を逃れて「横浜」へ飛び立ったりする。みなが自殺をするわけではないが、それぞれに不満を抱えながら、小さな人生を生き、死んでいく。
小説とは罪作りなものである。(46 夫婦茶碗)


「ボヴァリー夫人は私だ」というのは、この作品をめぐる風紀紊乱裁判の公判で、作者フロベールの言葉として有名だが、自分のことだと思ったフランス女性がたくさんいてそれが「ボヴァリスム」という言葉まで生み出したとは知らなかった。「小説とは罪作り」というのは自負心なのだろう。

時は百十年以上前の、明治三十年。「讀賣新聞」で尾崎紅葉の『金色夜叉』が始まった。
その影響はのちにも尾を引き、映画というものが誕生してから、なんと20回以上も映画化されている。日本の統治下にあった台湾でも映画化されている。テレビというものが誕生してからは、何度もテレビ化されている。演歌師の作った歌も、今の若い人はもう知らないが、美津紀の小さい頃はだれでも知り、熱海の海岸での有名な場面は彫刻にもなっている。
間貫一のような男にこそ愛されたい--とそう思うようになった日本の女たちは、まさに和製「ボヴァリスム」に陥ったと言えるのではないか。(48 『金色夜叉』)


そう、金色夜叉はほとんど国民的メロドラマであり、熱海の海岸でのシーンは超定番ギャグ(^_^;)でもある。韓国でも植民地時代に「長恨夢(チャンハンモン)」のタイトルで翻案され、大ヒットした。「韓国を輝かせる百人」とい歌の中にも、「이수일(イスイル)과 심순애(シムスネ)」という一節がある。イスイルが貫一、シムスネがお宮の韓国版である。

たしかに新聞のない生活は考えられなかった。ナットー、ナマチャン、トットットップーと納豆を売る豆腐屋が吹く喇叭の音。それと同じように、子供がランドセルを鳴らしながら駆ける音、新聞を取り出したあと、カタンと郵便ポストが閉まる音も、朝の喧騒の一部であり、欠かせないものであった。
祖母が死んだあとは、母は母の見解を述べた。
「あのおばあちゃんが『金色夜叉』を読めたっていうこと自体が信じられないわ」
『金色夜叉』は漢字だらけの美文調、文語体の小説である。いくらルビがついていたとはいえ、今の日本語ほどかんたんには読めない。のちに知ったが、連載されたころは、漢文学に親しんでいた読者の楽しみのため、漢文の文章も入っていた。そんな新聞が、日本の津々浦々まで、「民主主義」や「個人」や「自由」など、西洋からの翻訳語を盛りこんだ記事を届け続け、新しい日本語と日本人とを次第に作っていったのであった。(53 「パパ、ママ好き」)


昔の新聞は総ルビ活字だった。単行本もたいていがそうだった。いや、戦後でも文学全集などは総ルビだったと思う。Morris.が割と漢字の訓みに強いのは、子供の頃読みふけった総ルビの本のおかげだと思う。
しかし、金色夜叉の新聞連載には漢文も併載されてたというのは驚きである。

『金色夜叉』といえば、西洋の宝石の王者である金剛石が有名で、金剛石といえば、出だしのお正月の歌留多遊びの場面が有名である。
奈津紀がリンクを送ってきたスライド・ショーは、昔ああいう時代があったのを思い出させてくれたが、その「時」は、今とは結びつかなかった旧い過去はすべてが伝説のように美しく、最近の過去はどこまでも醜かった。若いときの母と老いてからの母と同じようだと思った。(54 歌留多遊び)


金剛石はもちろんダイヤモンドで、「金剛石(ダイヤモンド)に目がくらみ」というのは、金色夜叉の謳い文句みないなものだが、小説には出てこなくて、芝居になった時に作られたものらしい。過去の美化は許すべきだろう。

その前年ぐらいに、新聞の一面に『金色夜叉』の種本が特定できたという記事が載り、母を驚かせたあとだったからである。種本は、アメリカの読み捨てのダイム・ノベル、日本語でいえば、三文小説だったという。
新聞を広げてみれば、バーサ・M・クレーという作家が書いたもので、『女より弱きもの』というのが原題の訳であった。
明治時代の小説家にとって「恋、恋人、恋女」を謳った西洋の小説を翻訳するのみならず、それを翻案して自分の小説を書くのは日常茶飯事であった。作家の尾崎紅葉も種本があるのを隠していたわけではない。そのようにして日本の近代小説が成り立っていったというたった百年前の歴史を日本人が脳天気に忘れ、新聞で驚かされたというだけであった。(59 小説にもならない)


浜の真砂は尽きるとも世に盗作のネタは尽きまじ。だが、ネット世界になってからは、盗作もなかなか難しくなってしまった。

欲望に突き動かされ続ける母の存在--諦めというものを知らず、虎視眈々と隙を狙い、何かに感動し、生きていることの証を欲しがり続ける母の存在は、なんとおぞましかったことか。老いは残酷で、精神が空高く飛翔し血が湧き踊るのをいくら欲しても、感動を命の泉として受けられる杯そのものが、年ごとに浅くなっていく。母が人生から感動を求め続ける姿は、しまいに、いつも飢えと乾きに苦しむ餓鬼道に落ちた亡者のような様相を帯びてきた。あるいは荒淫が不可能になった人間が、今一度の快楽の刹那を追い、さらに激しく荒淫を求めるのに似てきた。そんな母を見ていると自分の血がどろどろと腐ってくるのが感じられた。
老いて重荷になってきた時、その母親の死を願わずにいられる娘は幸福である。どんなにいい母親をもとうと、数多くの娘には、その母親の死を願う瞬間ぐらいは訪れるのではないか。それも、母親が老いれば老いるほど、そのような瞬間は頻繁に訪れるのではないか。しかも女たちが、年ごとに、あたかも妖怪のように長生きするようになった日本である。姑はもちろん、自分の母親の死を願う娘が増えていて不思議はない。今日本の都会や田舎で、疲労でどす黒くなった顔を晒しつつ、母親の死をひっそりと願いながら生きる娘たちの姿が目に浮ぶ。しかも娘はたんに母親から自由になりたいのではない。老いの酷たらしさを近くで目にする苦痛--自分のこれからの姿を鼻先に突きつけられる精神的な苦痛からも自由になりたいのではないか。
若いころは抽象的にしかわからなかった。「老い」が、頭脳や五体を襲うだけでなく、嗅覚、視覚、聴覚、味覚、触覚すべてを襲うのがまざまざと見える。あれに向かって生きていくだけの人生なのか。(61 海の底の光)

「老い」についていろいろ考えるのは、やはり自身が老いを感じるようになったという証拠だろう。水村はMorris.より二つ年下だから、これを書いたのは還暦前後だろう。タイトルが「母の遺産」だから、もちろん娘が母の死を願う理由の一つにそれが無いとはいえないが、そこはかとユーモアを感じさせる表現でもある。「女たちが妖怪のように長生きする日本」がははは\(^o^)/

文庫本の感触は懐かしいものであった。美津紀の祖母には新聞小説があった。母には小説と映画があった。二人ともそれだけで充分に夢を羽ばたかせて生きたのに、今の美津紀にはさらにたくさんのものが与えられていた。コンピュータに向かえば、さまざまな国のさまざまな時代の物語が、この世に何回生まれ変わろうと見尽くすことができないほど溢れ出し、そこには息を呑むような画像と音楽もついていた。それでいて--いやそれだからこそ、美津紀は、最近ますます文字でつづられただけの物語へと戻っていっていた。書かれた言葉以上に人間を人間たらしめるものがあるとは思えなかった。

ネット中心の世界へのささやかな反抗心。活字・文字への信仰告白。これにはMorris.も強い共感覚える。評点のいくらかはこの一節に負ってる。

引越したのは3月の10日--美津紀の祖国である日本が、大きな不幸の波に呑まれる前日であった。

最初に書いたとおり、新聞連載中に3・11の大震災が起きた。当然作者はここまでのストーリーに変更を余儀なくされたはずだ。

次の日、荷ほどきをしていると、古いマンションの床が立っていられないほど揺れ、美津紀は段ボール箱のあいまにしゃがみこんだ。
北のほうで海が躍り、波が押し寄せ、恐ろしい勢いで多くの人が命を失い、親しきを失い、家を失い、あれよあれよというまに海岸沿いが死者と瓦礫でうずたかく盛り上がったのを知ったのは、奈津紀との電話が通じてからである。しかも災いはそれだけでは収まりそうにもなかった。新しい一歩を踏み出したとたんに、箱根の闇とは異質の、あまりに現実的な闇に放りこまれた美津紀は、テレビがつながってからは、毎日テレビとコンピュータの前に釘づけとなって呆然と時を過ごした。
日本の多くの人が、ひさびさに、日本のことばかりを思う毎日であった。


「ひさびさに」日本のことを思った人々が、5年経ったら、すでに「風化」である。人の事は言えない。Morris.も思い新たにせねば。

4月に入って二日目の朝である。
起きてLDKに出てみれば一夜のうちに、池の周りに白い雲が広がるのが黄金色のオーガンジーを通して見える。息を呑んで薄い布を引けば、白い雲は桜の雲となった。
生きている……こうして私は生きている。
母が二度と見ることはない桜の花は、いづれ美津紀も二度と見ることがなくなる桜の花であった。(66 桜が咲いた日)


災害から一ヶ月も絶たないうちに、桜の花に思いを集約するというのは、あまりに安易というか、逃げではないかと思ってしまったのだが、これはショックの大きさに、言葉を失った結果ということにしておく。

2015/12/29(火)●鳳仙花
8時起床。
今朝の血圧は190/86/69。
えらく良い天気である。
10時前に自転車で大安亭に買い物に出る。
11時帰宅。
金平牛蒡作る。これもなんとなく年越しの定番めいたメニューであるな。おかずにも酒のあてにもなるし、冷蔵庫に入れとけば結構日持ちする。
ぐいぐい酒場に冬ソナさんが1980年(昭和55)放映のTBS番組「鳳仙花 近く遥かな歌声」がYou Tubeで見られるとの書き込み。これは以前ターちゃんが自分のブログで内容紹介してて、機会があれば見たいと思ってたので、早速見る。戦後35年、今から35年前という時期の番組。多くの歌手、作曲家、作家などが登場。イミジャ、美空ひばり、朴椿石、金達寿、吉屋潤、李恢成、金素雲、朴是春、黄文平、金貞九、李御寧、金蓮子、太珍児(テジナ)……それぞれが、韓国歌謡への思い、「恨」と懐かしさを語る。
日本でデビューしたばかりの金蓮子が舞台でのインタビューで「古賀政男をご存知ですか?」と聞かれて「ご存じます」と答えてたのが初々しくてよかった。
李恢成が、李光洙について、批判はするが、同情と尊敬の念を持つと吐露してたのが印象的だった。また朝鮮人は本来明るい民族で、だからこそ悲しい歌を歌い継ぐのだとも。

歴史家 李光洙

歴史家よ きみの歴史は 嘘っぱち!
われらの愛が 誌されてない歴史
そんな歴史があるものか
われらの 愛の破綻が 誌されてない歴史
そんな歴史は 知れたことさ 嘘八百さ(金素雲訳)


鶴橋牧野レコード店主が、戦前戦中の韓国歌謡SPの原盤を披露したり、戦争協力歌謡の話題の中で、白年雪の「息子の血書」を同席の歌手南江樹にアカペラで歌わせる場面もあった。
番組全体を通じてイミジャの韓国懐メロ(「他郷暮らし」「カスマプゲ」「木浦の涙」が流れて、これがまた良かった。実に中身の濃い番組である。これからもう一度見ることにしよう。
今日の歩数は1106歩。

「最終的不可逆的解決」ってどういう意味? 

30分遅れでトロット大祝祭 

新曲「アッサ!ネサラン」キムヘヨン 

大安亭ふさ黒白 

クロ 

中華鍋で金平牛蒡 

【定本 想像の共同体-ナショナリズムの起源と流行】B.アンダーソン 白石隆、白石さや訳 ★★★☆ 2007/07/31 書籍工房早山
IMAGINED COMMUNITIES : Reflections on the Origine and Spread of Nationalism(1991 Rvised and Expanded edhition) by Benedict Anderson
近代歴史や思想の本や、水森美苗など読むと、やたら本書のことに触れてあったので、いつか読もうかと思いながら、なかなか果たせず、中央図書館書庫から借りだして、かなり長い時間かけてやっと読了した。

国際連合(United Nations 諸国民の連合)の時代に生きる我々にとって、国民国家(Nation State)--「平等一体なる国民(ネーション)の共同事務機関」というフィクションによって意味付けられる国家--は、政治生活の基本的枠組みとなっており、国民国家に存在論的根拠を与える「国民」は、我々には自明の前提となっている。しかし、それにもかかわらず、「国民(ネーション)」と「国民主義(ナショナリズム)」の概念については、はなはだしい理論的混乱がみられる。それは、たとえば日本語において、「ネーション」が「国民」「民族」と、また「ナショナリズム」が「国民主義」「民族主義」、そしてときには「国家主義」とすら等置されることにただちにみてとれよう。本書は、こうした「国民」概念の混乱のなかで、「国民」を「想像の共同体 Imagined Community」ととらえ、そうした「想像の共同体」が人々の心の中にいかにして生れまた世界に普及するに至ったのか、その世界史的過程を、「聖なる共同体」と「王朝」、「メシア的時間」と「空虚で均質な時間」、新しい「巡礼」の旅、「言語学・辞書編纂革命」、「海賊版の作成」などの概念を鍵として解き明かしている。(初版 訳者あとがき)

先にあとがきから引くのはずるいやりかたかもしれないが、それでも、いまいち理解できなかった(^_^;) 今回は引用だけにして、後で再履修することにしたい。

国民はイメージとして心の中に想像されたものである。国民は限られたものとして、また主権的なものとして想像される。
国民のなかにたとえ現実には不平等と搾取があるにせよ、国民は、常に、水平的な深い同志愛として心に思い描かれるからである。そして結局のところ、この同胞愛の故に、過去二世紀にわたり、数千、数百万の人々が、かくも限られた想像力の産物のために、殺し合い、あるいはむしろみずからすすんで死んでいったのである。
これらの死は、我々を、ナショナリズムの提起する中心的問題に正面から向いあわせる。なぜ近年の(たかだか200年)萎びた想像力が、こんな途方も無い犠牲を生み出すのか。そのひとつの手掛りは、ナショナリズムの文化的根源に求めることができよう。(Ⅰ序)


人間の言語的多様性の宿命性、ここに資本主義と印刷技術が収斂することにより、新しい形の想像の共同体の可能性が創出された。これが、その基本的形態において、近代国民登場の舞台を準備した。(Ⅲ国民意識の起源)

私がここで提起していることは、経済的利害も自由主義も啓蒙主義も、「それ自体としては」これら旧体制の強奪から守るべき想像の共同体の「種類」または形態を創造することはできなかったし、創造しなかったということにある。(Ⅳ クレオールの先駆者たち)

フランス革命は、ひとたび起こると、それは出版物の堆積していく記憶に入っていく。それを行った人々とその犠牲者となった人々の経験した圧倒的でつかまえどころのない事件の連鎖は、ひとつの「こと」となり、フランス革命というそれ自体の名称を得た。(Ⅴ 古い言語、新しいモデル)

明治人は半ば偶然の三つの要因によって助けられた。その第一は、幕府による国内の平定と二世紀半の孤立によってもたらされた、日本人の比較的高い民族文化的(エスノカルチュラル)同質性である。第二に、天皇家の万邦無比のふるさ、そしてそれが疑う余地なく日本的なものであることによって公定ナショナリズム発揚のために天皇を容易に利用することができた。第三に、夷人が突然、一挙に脅迫的に侵入してきたため、大多数の政治的意識をもつ住民は、新しい国民的(ナショナル)枠組みで構想された国防計画に容易に結集することができた。

(明治の藩閥政府は)国際関係における対等性の意識がなく、むしろ国内的な階層的支配(ヒエラレルヒー)の眼で国際関係を見るから、こちらが相手を征服ないし併呑するか、相手にやられるか、問題ははじめから二者択一である。このように国際関係を律するヨリ高次の規範意識の希薄な場合には、力関係によって昨日までの消極的防衛の意識はたちまち明日には無制限の膨張主義に変化する。(「現代盛時の思想と行動」丸山真男)

シートンワトソンが「公定ナショナリズム」と呼ぶものは、19世紀半ば頃から、ヨーロッパで発展した。これらのナショナリズムは、民衆の言語ナショナリズムの登場までは、歴史的に「ありえない」ことであった。なぜなら、公定ナショナリズムは、本当は、民衆の想像の共同体から排斥されるか、そのなかで周辺化されそうになった権力集団による「応戦」だったからである。
ほとんどすべての場合において、公定ナショナリズムは、国民と王国の矛盾を隠蔽した。(Ⅵ 公定ナショナリズムと帝国主義)


経済力は、ほとんどどこでも、植民者自身によって独占されるか、あるいは、政治的に不能な賤民(非原住民)事業家の階級と植民者のあいだで不均等に分有されていた。インテリゲンチアが前衛的役割を果たすようになったのは、かれらの二重言語読み書き能力によったということも一般的に認められている。出版物を読みまた書くこと、これによって、すでに述べたように、想像の共同体は均質で空虚な時間の中を漂っていくことが可能となったのだった。二つの言語を使いこなすということは、すなわち、ヨーロッパ国家語を経由して、もっと広い意味での近代西欧文化、とくに19世紀に世界の他の地域で生み出されたナショナリズム、国民、国民国家のモデルを手に入れることができるということであった。

インランデルという言葉は、英語の「ネイティヴ」、日本語の「土民」「土人」「原住民」と同様、いつも意図せざる逆説的意味をはらんでいた。それは、この植民地において、それぞれ別の他の植民地におけると同様、この言葉で言及される人々が「劣等」でしかも「そこに属している」ことを意味した。
一種の沈殿作用によって、インランデルは白人、オランダ人、中国人、アラブ人、日本人、「ネイティヴ」「アンディジーヌ」「インディオ」「土民」をつぎつぎの除いていって、その指示する意味内容がしだいに明確となり、そっしてついには、成熟したさなぎのように突然変態して「インドネシア人」という華麗な蝶になったのである。



言語は排斥の手段ではない。原則として、誰でも、どの言語でも学ぶことができる。それどころか、言語は本質的に包摂的であり、誰も「すべての」言語を学ぶほど長生きすることはできないという、あのバベルの宿命だけによって制約されている。ナショナリズムを発明したのは出版語である。決してある特定の言語が本質としてナショナリズムを生み出すのではない。

主としてアジア、アフリカの植民地に打ちよせたナショナリズムの「最後の浪」は、産業資本主義の偉業によってはじめて可能となった新しい型の地球的帝国主義への反応として発生したものであった。マルクスが彼独特の言い方で述べているように、「自己の生産物に対してたえず販路を広げなければならない必要は、ブルジョワジーを駆って全地球をかけまわらせる。」(Ⅶ 最後の波)

世紀の大戦の異常さは、人々が類例のない規模で殺し合ったということよりも、途方もない数の人々がみずからの命を投げ出そうとしたということにある。究極的自己犠牲の観念は、宿命を媒介とする純粋性の観念をともなってのみ生まれる。
国民を、「歴史的」宿命性、そして言語によって想像された共同体と見れば、国民は同時に開かれかつ閉されたものとして立ち現れる。(Ⅷ 愛国心と人種主義)


公定ナショナリズムのモデルは、まさに革命家が国家の掌握に成功し、かれらの夢(ヴィジョン)を実現するためにはじめて国家権力を行使しうる地位についたとき、とりわけ妥当なモデルとなる。そうした妥当性は、断固としたもっとも急進的な革命家ですら、常にある程度は崩壊した体制から国家を相続するのであるかぎり、ますます大きくなる。(Ⅸ 歴史の天使)

意識の深刻な變化はいつでも、まさにその性格上、特有の記憶喪失をともなうものなのである。そうした忘却のなかから、ある特定の歴史的状況の下で、物語(ナラティヴ)が生まれる。黄ばんだ写真のなかの裸の赤ん坊があなただということを知るのに他人の助けが要るというのはなんと奇妙なことか。写真、つまり、この複製技術の時代の申し子は、事実記録の膨大な近代的蓄積(出生証明書、日記、成績通知票、書簡、診療記録、その他)のなかでもっとも有無を言わさぬものであるにすぎず、こうしたものが同時に、なんらかの外見的連続性を記録し、それが記憶から失われたことを強調する。この疎外から人物(パーソンフッド)、アイデンティティ(そう、あなたとあの裸の赤ん坊は同一(アイデンティカル)人物なのだ)の概念が生まれ、そしてそれが「記憶」されえないものであってみれば、語られるほかない。(Ⅺ 記憶と忘却)

本書(以下ではICと呼ぶ)がこれほどまで普及したのはその質ではなく、それが元来、ロンドンで、英語でつまりかつての教会ラテン語と同様、今世界的にヘゲモニーを持つ言語で出版されたためである。

わたしが標的としたのはアメリカ人の驚くべき唯我独尊さで、これはいまでも自由主義的『ニューヨーク・タイムズ』にはっきり見ることができる。カール・ドイチェはかつてシニカルに「大国は(他国の言うことなど)聞かなくともよいのだ」と言った。

ICの最初の訳書は1987年、東京で出版された。これはかつてのわたしの学生、白石隆と白石さやによって行なわれたもので、かれらがIC翻訳を思い立ったのは、日本人の島国性、そして日本の歴史と文化は日本特有のものでこれを他国と比較することはできないし比較しても意味はないという保守的信仰と戦う上で、本書が教育的一助となると考えたからだった。出版社、東京のリブロポートは、中道左派の出版社で、タカシが最近、知らせてきたところでは、「この出版社の所有者、堤氏は、大実業家の息子で、かれは父親に逆らって詩人、作家の途を選択した人物であるが、結局のところ、父親の死に際し、そのビジネスの一部を相続することになった。そこでかれは編集者にもうけることは考えないでよい、良い本を出せばよい、と言った。……この出版社は1990年代に破綻した」(旅と交通(あとがき)


2015/12/28(月)●トロット大祝祭
8時起床。
今朝の血圧は186/96/64。
2015年も残り4日というのまったく歳末という気分にならない。10年くらい前からそうだったが、去年から、大みそかの春待ち八幡神社初詣も取りやめになったので、めりはりなくなったのかもしれない。
ぐいぐい酒場(Morris.の掲示板)に稲田さんからラグビー関連の投稿があったので、9月のワールドカップ、日本-南アフリカ戦のビデオを見直す。もう、5回めくらいになると思う。何度見てもあの試合はすごかった。
そういえば、昨日から高校ラグビーも始まってる。どこかTV中継してないかとネットで調べたら、準決勝(1月7日)と決勝(1月11日)はMBSで中継するらしいが、ネットでLIVE中継やってて、普通の放送と同じくらい綺麗な映像で見ることができることがわかった。11時から東京朝鮮中高-筑紫の試合始まったので見ることにした。以前大阪朝高の試合見に花園まで行ったことを思い出す。なかなか緊迫したシーソーゲームだったが、惜しくも東京朝鮮中高は一回戦で敗退してしまった。
午後、自転車で金沢病へ降圧剤貰いに行く。都賀川はさんで西側の灘区民ホール前にあるモニュメントを撮影。以前から気になってた。親子らしい3人の立像だが、マント被って、いかにも「冬」をイメージさせる。銘板には「旅立」二口金一と書いてある。あとでねっとでしらべたら、昭和3年(1928)富山生まれの彫刻家で、神戸ではメリケンパークやしあわせの村に作品が置かれているらしい。写真見るとほとんど同じスタイルである。シリーズなのだろう。屋外のモニュメントはめったに感心するものがないが、この作品は訴えるものがある。
帰り道、水道筋で買い物して4時帰宅。
寸胴鍋に鶏ガラと牛スジでおでんの出汁をとる。年末にはおでんというのが、Morris.亭の定番みたいになってる。もうそろそろやめてもいいかと思うのだが、結局これが一番楽だし、ネタさえ追加していけば、ずっと食べられる。
今夜のKBS歌謡舞台は毎年恒例の「2015트로트대축제トロット大祝祭」である。午後10時から始まる予定が、臨時ニュース番組(日韓外相会議)のため、30分遅れで始まった。
 
1) 오프닝 쇼オープニングショー/KBS예술단KBS芸術団
2) 아미새アミセ/현철ヒョンチョル
3) 돌리도トルリド/서지오ソジオ
4) 늦기 전에手遅れになる前に/배일호ペイロ
5) 미운 사랑憎い愛/진미령チンミリョン
6) 잃어버린 30년失われた30年/설운도ソルンド
7) 사랑 님愛しい方/김용임キムヨンイム
8) 이봐요ほら/문희옥ムンヒオク
 9) 괜찮아大丈夫/김상희キムサンヒ
10) <판소리 노래교실パンソリ教室>
김성환キムソンファン.현숙ヒョンスク.문연주ムンヨンジュ. 진성チンソン.
박상철パクサンチョル
11) 아싸 내 사랑アッサ我が恋/김혜연キムヘヨン
12)일소일소 일노일노一笑一小一怒一老/신유シニュ
13) 인생 팁人生のヒント/현숙ヒョンスク
14) 안동역에서安東駅で/진성チンソン
15) <신나는 리듬 속으로楽しいリズムタイム>
1. 렛츠 트위스트 어게인レッツツイストアゲイン
2. 빨간 구두 아가씨赤い靴の少女
3. 나폴리 맘보ナポリマンボ
4. 서울야곡ソウル夜曲
 김상희キムサンヒ.김연자キムヨンジャ
배일호ペイロ.태진아テジナ.신유シニュ
김혜연キムヘヨン.문희옥ムンヒオク.금잔디クムチャンディ
권성희クォンソンヒ.진미령チンミリョン.강진カンジン.서지오ソジオ
16) 웃으며 삽시다笑って生きよう/문연주ムンヨンジュ
17) 노래방カラオケボックス/박상철パクサンチョル
18) 십분 내로十分内に/김연자キムヨンジャ
19) 묻지 마세요尋ねないで/김성환キムソンファン
20) 달도 밝은데月も明るいし/강진カンジン
21) 산다는 건生きるとは/홍진영ホンジニョン
22)<현철과 몽키스ヒョンチョルとモンキーズ>
1. 헬로 미스터 몽키ハロー・ミスター・モンキー
2. 다 함께 춤을皆で踊ろう
3. 아파트アパート
현철ヒョンチョル.조항조チョハンジョ
설운도ソルンド.김용임キムヨンイム
23) 동반자同伴者/태진아テジナ
24) 하이난 사랑海南愛/권성희クォンソンヒ
25) 오라버니お兄さま/금잔디クムチャンディ
26) 그 놈에 사랑あいつに愛を/조항조チョハンジョ
27) 모정의 세월慕情の歲月/전 출연자全出演者


女性司会者は去年に続いてホンジニョン。特番1時間50分と長尺で、それなりにビッグネームを揃えてる。男性四天王は、今年もソン・デグァンが欠席というのが悲しい。来年は是非とも4人揃ってほしい。女性陣ではチュヒョンミとチャンユンジョンが欠席。できれば以前のようにチャンユンジョンに司会して貰いたかった。まあ、お祭りだから賑やかに楽しんでもらえればそれでいいか10.のパンソリ教室は昔風のバラエティで面白かった。22.のコーナーは、来年が申年ということにちなんだものだろう。それならイパクサ呼んで「モンキーマジック」やってくれたらよかったのに。
今日の歩数は2142歩。

「旅立」二口金一1991 

金沢病院 

おでんの出汁とり 

【東京自叙伝】奥泉光 ★★★  2014/05/10 集英社
東京の地縛霊が、6人の人物に憑依して、時代順に東京の歴史、世相、事件に関わりながら、面白おかしく自己弁護を交えながら語り継いでいくというスタイルで、明治以前から東日本大震災までの、東京通史講談みたいな作品である。奥泉ならではの仕掛けや遊びも多く、文体もかなりひねくったもので、それはそれなりに面白かったが、完成度からいうと物足りなかった。

震災からだいぶ経って、朝鮮人の暴動云々はデマだったと云う話が伝わった。必ずしも不逞の徒とはいえぬ者が殺されたり怪我を負わされたりしたのではないかと疑うも者もあった。たしかにそうした事実は一部にはあったと思います。が、私が警備した地域に限っては、ないと断じ切る自信がある。なぜなら私が斬ったり捕らえたりした者は誰がドウ見ても怪しかったからだ。彼らは怪しさの蒸気を全身から立ちのぼらせて歩いていた。怪しい者ですヨ、と顔に大書してうろついていた。そういう者だけを選って私はやっつけた。もちろん可能性をあげつらうなら、なかに一人や二人、無実の者が紛れ込んでいた可能性は否定出来ない。が、ああいう非常の際だ、瑣細な間違いはどうしても避けられぬ。少々の犠牲はやむを得ない。それより僅かな間違いを恐れるあまり取り返しのつかぬ事態を招く方が恐ろしい。私はそう思います。

ざっとこんな感じである。関東大震災時の朝鮮人虐殺に関わりながら、ほとんど反省もなく、自分本位な発言。もちろん、奥泉がそう思ってるわけじゃなくて、ギャグであり皮肉でもあるのは言うまでもない。

かくて国民間には米英憎しの感情が燃え出した。一度火がついてしまえば、あとは放っておいても燎原の火となって燃え広がる。議会では米英討つべしと議員が大合唱し、陸軍には連日激励の手紙が届く。こうなればいかに聖慮といえども流れは押し戻し難い。民衆の声こそ真の聖慮なりと、立場上天皇陛下だって考えぬわけにはいかんだろう。たとえアマテラスが出張してきたって、走りだした民衆の勢いは止められるもんじゃない。
かくて12月8日未明、南方軍マレー半島にコタ・バルに上陸し、続いて海軍機動部隊が真珠湾を奇襲して、対英米戦争の膜は斬って落とされました。

太平洋戦争の始まりも、時の趨勢に逆らえなかったからだと、いかにもの弁明。

実のところ、ドウモ私は東京が火事や地震で壊れることを密かに喜んでいる節がある。これはやや後になっての話ですが、あるときゴジラの映画を観た私は、これにスッカリ参ってしまった。東京湾から上陸した怪獣ゴジラが暴れて、ビルや鉄塔を壊して回る様子にモウ恍惚となった。同じ映画を何度観たか分からない。この場合、ゴジラが壊すのは東京でないと駄目なので、それが証拠にゴジラ映画の二作目がかかったと云うんで、それッとばかりに勇んで観に行ったら、全然つまらない。ゴジラが暴れるのが大阪だったせいです。東京が壊れるのが面白い。

自虐的な一種の身贔屓ともいえる(^^;)

新憲法の施行が終戦から二年目、すなわち昭和22年、西暦で1947年5月。同じ年に財閥解体、改正民法発布と、この辺りがGHQの民主化政策の頂点。ここから先は「逆コース」と云うやつで、公職追放されていた連中が復帰する一方、レッドパージがはじまる。一度は消えてなくなった軍隊も名前を変えて復活する。26年9月にはサンフランシスコ講和条約が結ばれて、進駐軍の占領は終了、めだたくニッポンは独立。とは云っても安保条約のおまけ付き、沖縄を手土産に差し出して、アメリカさんんのご機嫌を窺いつつの独立だ。そもそも首都東京の眼と鼻の先に米軍基地がいくつもあるんだから、要はアメリカの妾になったようなもの。何のことはない、日本がまるごとパンパンになったと云う、笑うに笑えぬお話。

戦後になってからは、当初の奔放さに比べるとややシリアスになってくる。「日本がまるごとパンパン」というのは強烈である。

アジア諸国への賠償交渉が始まったのが、サンフランシスコ講和条約締結の前後、これはいわゆる直接方式というやつで、賠償を受ける国が日本の企業に船舶だとか工作機械だとかを発注し、日本政府が代金の支払いをまとめて行う。政府が払うというと判然りしないが、要は役人が国民の税金から払うわけで、当の役人からしたら所詮は他人のカネ、自分の懐が痛むわけじゃない。だから言い値でいくらも出してくる。受注した会社にとってこれほどおいしい餌もないので、甘い汁を吸うチャンスだと誰だって考える。しかも甘い汁の総額は三千五百億円以上、嵩も膨大となれば、多くの企業がなんとか賠償ビジネスに食い込めぬものかと、蟻のごとく群がり寄るのは自然の理だ。

福島復興予算にしろ、原発にしろ、オリンピックにしろ、結局は自分の懐が痛まないという構図は同じである。賠償ビジネス、復興ビジネス、福祉ビジネス、年金ビジネス……

マア政治家諸氏が考えていたのは主に核武装。憲法9条を改正して再軍備し、核兵器もできたら持ちたいと願う政治家は、いま同様当時もゾロゾロ居て、1954年3月に中曽根康弘らが原子力予算案を国会に提出して採用されたのは、政治家陣営の悲願達成への第一歩と云ってよいだろう。
元来米国は核エネルギー研究を機密としていたが、核開発競争でソ連に追いつかれるや方針を百八十度転換、自由主義陣営や第三世界にむしろ各技術を輸出してヘゲモニーを握る方向へと舵を切る。とコウなれば、日本とて遅れをとるわけにはいかぬ。ぜひ原子炉を日本にも、と云う話の成り行きとなれば、アメリカに顔が利いて巨額の資金を集められる人物がどうしたって必要になる。マイクロウェーブ構想で実績のある正刀に期待が寄せられたのは必然だ。


ここらあたりになると、お馴染みの話だ。正刀というのは、正力のこと。
時代が下るほどに面白みがなくなってくる。

誰かが株を買えば株価が上る。それなら自分も儲けたいと、買いたい人間が現れて株価はモット上がる。するとまた儲けたい者が買うのでいよいよ株は高くなる。土地も同様。値上がりを見込んで買えば、買ったせいで値が上がり、するとモット上がると思う者ががた買うから、ドンドンと上がっていく。じつに簡単明瞭な原理だ。もっとも儲かるのは株価や土地価格が無際限に上昇できればの話なのであって、じつは天井があるから、いずれは破綻を免れぬ。実際バブル崩壊後、多数の企業や金融機関が破綻に見舞われたわけで、しかし好景気の真っただ中では価格が青天井に見えるから不思議だ。バブルの空は、秋の空に似て、どこまでも青く高い。
浮かれていたと云われればまさしく御説の通り。しかし寄せくる波に人が浮かれるのは必然だ。波に逆らう方がどうかしている。と申しますか、どのみちなるようにしかならぬのだから、浮かれるべきときには浮かれて居るのが正しい。鼠だって餌が豊富なら浮かれ騒ぐし、餌が足らねば狂奔の挙げ句に飢え死にする。単純にそれだけのこと。人間だって変わらぬ。


バブルの解説も割とステレオタイプだ。

図らずも宇治田が漏らした本音、即ち「なるようにしかならぬ」とは我が金科玉条、東京という都市の根本原理であり、ひいいては東京を首都と仰ぐ日本の主導的原理である。東京の地霊たる私はズットこれを信奉して生きてきた。

東京無責任時代。どうも奥泉は本書を無責任に終わらせたかったようだ。
Morrisは、奥泉を、一押しの作家と目していたのだが、ここ数年の作品を見るに、ちょっと失速しているような気がする。

2015/12/27(日)●年末ノレチャラン
8時起床。
今朝の血圧は196/96/67。
久しぶりにKBS全国ノレチャラン見たら、「年末決選」という2時間の特番だった。会場はKBSホール。正直言うとMorris.は普段の地方公演の方が好きである。それでもまあ、女性司会者と一緒に張り切ってるソンヘさん見るのもまた一興。以前は、前半期の優勝者と後半の優勝者の決戦みたいなことやってたが、今年はそんなのなしの一発勝負だった。大賞は最初の女性出演者で、パンミギョンの「理由にならない理由」。これは懐かしかった。

別離とは割れた玻璃窓不条理な理由今更聞きたくもなし 歌集『韓歌』

2時から女子サッカー皇后杯決勝をTV観戦。INAC神戸-アルビレックス新潟で、普段女子サッカーは見ないのだが、今日は澤穂希の引退ゲームということで見る気になった。(年賀状のコメント書きながら(^_^;))
結果は後半の澤のヘディングが決まって、1-0で神戸優勝。出来過ぎという感じだが、まあこれは許せる。
夕方、年賀状投函。阪急王子公園駅前五角交差点にあったTSUTAYAが今月20日で閉店してることを知った。2階建てビルまるごとTSUTAYAだっただけに、後がどうなるのかちょっと気になる。もともとレンタルビデオは利用しないMorris.だけど、「空気人形」と
古舘伊知郎だけでなく、NEWS23の岸井成格も3月降板だとか。古賀茂明降ろしに始まり秋には読売「情報ライブミヤネ屋」の青木理も突然降板させられてたそうで、これはもう露骨な、安倍批判キャスター、コメンテーター抹殺計画だな。青木のコメントを引いておく。

「テレビ局側の自粛なのか圧力なのか、それぞれの事情は知りません。だけど、結果を見れば政権側の思うツボだし、官邸にとっては好都合の状況が醸成されつつあると思う。このままいくとマジメに取材する報道番組が次々と消え、毒にも薬にもならないエンタメ番組ばかりになるでしょう。すなわちテレビ局が報道機関から娯楽機関に成り下がるということです。それでいいのか。重大な問題をはらんでいると思います」(青木理 週刊ゲンダイ)

時代はますます「1984」に逆行していってる。
今日の歩数は860歩。

全国ノレチャラン2015年末決選 

澤穂希引退ゲームでゴール 

TSUTAYA閉店 

【文化亡国論】笠井潔、藤田直哉 ★★★ 2015/04/20 響文社
笠井潔 1948生れ。作家、批評家、思想家
藤田直哉 1983年生れ。SF・文芸評論家
前に笠井と白井聡の対談読んだばかりだが、藤田は名前も知らなかった。かなり年齢差もあり、テーマも文化全般ということだったが、カラーとしては白井との対談に重なるものも多かった。結構荒唐無稽論もあって、笑わせてもらった。

笠井 大東亜戦争と称された対中・対米戦争は、国際法的に合法化された征服戦争なのか。中国やアメリカによる侵略戦争への、日本の自衛戦争なのか。あるいは、欧米支配に抵抗するアジアの解放戦争なのか。日本型リビジョニストの自虐史観批判には、この三つの立場が無自覚に混在している。これらは相互に矛盾するわけだから、まず歴史修正主義の陣営内で大論争が起こるべきだし、最終的には分裂するべきなのに、決してそうはならない。どうしてなか。
藤田 ぼくには、ナルシズムの問題に見えます。自分の国が、悪いことをしていたと思いたくない、というのが先にあるように見えます。


大東亜戦争肯定論がナルシズムか。そういう面無きにしもあらずぢゃ。

藤田 アイデンティティの不安や剥奪感を「皆が」感じているというのは、おかしいです。そうすると奪っているのは「誰」なのか。誰でもないのかもしれない。それは、旧来の人間が変容して今までの生活ができなくなっていることによって必然的に生まれている不安感や剥奪感だというのが、ぼくの分析です。新自由主義になって労働環境が変わったとか、情報環境ができて人間のコミュニケーションが変わったとか、いろんな点で20世紀的なものから21世紀的なものへの変容が起こってくる。その過渡期に、ある種の剥奪感が生じる。皆が皆自分を被害者であり奪われた者、攻めこまれている者だと思っているから、そのようなフォーマットのフィクションが流行する。これはほとんど、在特会の人々が抱いている不安や、世界観と同じですよ。

被害妄想?

藤田 一昔前、「夢を追う若者」が話題になったじゃないですか。ペンション経営するとかカフェを開くとかAKBに入るとか。しかし、その「夢」を追うことも今から思えば割と立派だったと思えてくるぐらい、「承認」を求める先が卑近になっている。斎藤環さんが、マズローの欲求の五段階で一番上にあるのは自己実現なんだけれど、いまや自己実現の上に承認が来ているのではないかと分析されてました。
*マズローは、基礎的な欲求が満足されたのちに次の段階の欲求が生じると考えた。その順序は「生理的欲求」「安全欲求」「社会的欲求」「承認欲求」「自己実現欲求」。余談だが、このマズローの五段階説、就職説明会や自己啓発本で非常によく見かける。


マズローなんてのも初めて聞いたが、「承認」てのはつまりは、他者からの評価ってことだろうか。そもそもこの「承認」が「社会的欲求」より上に位置するというのがよく理解できてなかった。

藤田 在特会の人たちは、在日朝鮮人を敵にして、なんでもかんでも在日認定するという、妄想的な敵の単純化を行っているので、ある意味で求心力があると思うんですよ。でも左翼にとって、わかりやすい共通の敵を名指せるように思えません。アメリカ、天皇、安倍、新自由主義、原発、システム、日本的なもの、村社会……。漠然としていて、これぞという敵が見えない。
日本共産党のポスターを街でみかけるんですけど、賃金闘争を訴えたりブラック企業を批判したりしていたかと思えば、原発をなくすと言いだしたり、今度は集団的自衛権に反対と言いだしたり、機会主義的なように見える。芯が見えない。
笠井 1990年代から排外主義は当面の敵、まさに主要打撃の方向だと僕は考えていたし、いまではそれが誰の目にも明らかになってきた。戦後日本の地平を超えていくために反原発、反貧困、反基地は一繋がりの主題としてどれも重要ですが、しばらくは排外主義との闘争が最優先でしょう。


排外主義というのがどうもわからない。例によって大辞林見ておく。

排外 自己の属する集団外のもの、特に外国人や外国の文物・思想などを排斥すること。 排外主義 多民族・他国に対して、排斥・敵対的態度をとること。ショービニスム。
ショービニスム chauvinisme (ナポレオン一世を熱狂的に崇拝した、フランスの老兵士ショーバンの名に由来する)狂信的な愛国主義。極端な排外主義。→ジンゴイズム
ジンゴイズム jingoisum(露土戦争のとき対露強硬政策をうたった好戦的なイギリスの俗謡中のJingoの語から)感情的で好戦的な愛国主義。→ショービニスム
ゼノフォビア xenophobia 外国嫌いや、外来の人物や風習を嫌悪・排斥することを指す語であり、「攘夷」に近い語である。
攘夷 外国人を撃ち払って国内に入れないこと。 尊皇攘夷 幕末、外国との通商に反対し夷狄の排撃を主張する思想。開港以後は、尊王論と結びつき下級武士の政治運動を支える尊王攘夷論となった。


上記のうち「セノフォビア」は大辞林にはなくて、ウィキペディアから引用。

笠井 戦前、絶望的に貧しい日本の農民が村をあげて満州に渡っていった。まさか満州に無主の耕作可能地が、いくらでもあったわけがない。中国農民から暴力的に奪った土地であろうと、それを自分のものにして貧困から抜け出せるならかまわない。満州に渡った農民にとって、帝国主義の暴力に依存し、それに加担することで反貧困は一旦達成されたわけです。しかし、それで本当によかったのか。たとえ反貧困であろうとも排外主義は「敵」で、排外主義と闘う反貧困にしか脱出口はない。戦前のファシズムのような反貧困は袋小路でした。もちろんボリシェヴィズムの反貧困にも、僕は否定的です。(第一章 ネット右翼とネット左翼--情報社会と政治的感性)

笠井のいう「排外主義」というのは先の辞書からの引用と、違ったもののように見える。

笠井 男のジャニーズ、女のAKBは「素人っぽさ」が売りだけど、エグザイルが違うのは、ダンスは本格指向だというところ。安室奈美恵などアクターズスクール出身者もそうですね。K-POPのガールズグループは、もともと安室奈美恵が参照先だったわけです。安室が踊りながら、クチパクでなく本当に歌っているのを見てびっくりして、少女時代やKARAにいたるガールズグループが次々にデビューした。追い越された日本がどう対応したかというと、プロフェッショナルなコンテンツ構築の方向は放棄し、ダンスも歌も学芸会水準でOKという路線に徹した。少なくとも日本国内では、こちらのほうに需要があるから。
藤田 日本の芸能人消費者には「素人っぽさ」を好む傾向がありますよね。


韓国ガールズグループのルーツが安室奈美恵。言われてみれば「アムラー」というのが、一時韓国でも目立ってた。日本では逆に劣化して学芸会水準のAKBみたいなのになったということか。

笠井 一神教と違ってアニミズムには構築性が希薄です。神と人間の境界がはっきりしないように、プロフェッショナルと素人も曖昧に連続している。歌やダンスに完璧を求めるのは当然のこと、全身整形も辞さないで「理想(イデア)」を追求する韓国のガールズグループが一神教的だとしたら、AKBはアニミズム的でしょう。
これまでも指摘した来たように、ジャパニーズ・カワイイの前線はAKBではなく、きゃりーぱみゅぱみゅですよ。


ここできゃりーぱみゅぱみゅが出てくるとは(@_@)

藤田 ネットの工作員に関しては昔から「チーム世耕」とか「ホロン部」とかの名証で、都市伝説的に指摘されていることではありました。企業がステマ(ステルスマーケティング=宣伝だと気づかれないように行なう宣伝のこと)をやっていることは自明ですし、広告業界が企業のためにやっていることが、政治に応用されないということは考えられません。だから、ぼくは、ネット右翼は自然に発生したんじゃなくて、長い時間かけたネット上での工作の結果、人為的に生み出された存在ではないかと疑う必要もあると思っています。

ネトウヨ=自民党の傀儡説は他所でも聞いたが、どうだろう。自然発生したのを、利用したのではとMorris.は思う。

藤田 敗戦のときに本土決戦を行わなかったことが、現在にまでつながるさまざまな日本社会のゆがみの元凶であると、『8・15と3・11』などで笠井さんは主張されていらっしゃいますね。
笠井 僕のいう本土決戦は、陸軍が構想していたような沖縄戦の拡大版ではありませんよ。無能な戦争指導部を一掃して、抗米百年戦争のためのパルチザン軍に軍を改組することが前提です。敗戦を終戦といいかえるような負け方ではなく、言い訳できないような徹底的な負け方をするということでもいいと思う。防衛問題というのは、自分たちの身は自分たちで守るというのが原点なんだから、各人がその責任を負う気があるのかどうかということなんです。自衛隊という専門家集団を一種の傭兵とみなして、金で雇っとけばなんとかなるというのはおかしい。


旧全共闘闘士笠井の面目躍如たるところだろう。

笠井 対米従属を疑うことなく日本の侵略センスも正当化したいという安倍晋三的な自己欺瞞と、『ヤマト』や架空戦記の自己欺瞞は通底している。(第二章 グールジャパンとナショナリズム--右傾エンタメは危険か?)

戦争おたくか?

笠井 「否認」(「否認」とは、自分自身の悪い部分や問題を(無意識に)認めないで、認識から欠落させること)しきれなくなったら自分の問題を他人に「投影」(意識のなかで抑圧した自身の悪い部分が相手にあるように見えてしまう現象)し、他人を憎む。将来の自分がなるかもしれない生活保護受給者をバッシングするのは、精神分析的にはわかりやすい図式ですね。
藤田 そうですね、否認と投影。辛いけれども、そこから個々人が脱出することが、その個人にとっても、社会にとっても、未来への道に繋がるとぼくは思っています。(第三章 もはや引きこもってはいられない--おたくから、ヤンキーへ)


責任転嫁からの脱出は難しいと思う。

笠井 第一次大戦によって19世紀的な世界は崩壊したし、3・11によって戦後日本も終わった。人々は3・11を忘れはじめたという見方もあるけれど、見たくないものや思いだしたくないものを抑圧しているにすぎません。無意識に抑圧されたものは違う形で回帰してくる。3・11後の急速な右傾化もまた、抑圧された集合的記憶が心身症的に反復されている現象として理解できるのではないか。戦後日本の「繁栄と平和」はもはや維持できない、日本は「衰退と戦争」への過程に入ったという事実を、地震と津波と原発事故はわれわれに否応なく突きつけたわけです。このトラウマ経験が抑圧され無意識化されて、安倍内閣の右傾化路線や民間の排外主義勢力の増大として反復されている。

見たくないものは見えないことにする。これを最大限に利用しようとしてるのが安倍政治だ。

笠井 19世紀が国民戦争、20世紀が世界戦争だとすると、9・11によって開始された21世紀の戦争は世界内戦ではないだろうか。「世界内戦」はドイツの法学者カール・シュミットが『パルチザンの理論』で、抗日戦争と中国革命を考察して生み出した概念です。世界内戦では主権国家が特権的な主体ではなく、国家の軍隊と民間の軍隊が入り乱れて戦う。また国民戦争のように、宣戦布告と講和条約の締結で時間的に区切られるのではない、起点も終点も不明確なまま際限なく続く戦争です。20世紀の世界戦争のように、対戦国の体制崩壊が目的化されるわけでもない。そもそも敵が国家とは限らないのだし。さらに軍事的な戦闘だけでなく、文化や精神の領域までが戦場になる。もう戦争は、いつでもどこにでもある。このように21世紀とは、世界の戦争化が進行しつつある時代なんです。国民戦争でもない新しい異様な戦争に注目し、かなり早い時期に書かれた小説が『虐殺器官』(伊藤計劃)でした。(第四章 リキッド・モダニティと空気の国民--21世紀の自我)

テロと世界内戦。まさに今の時代である。「虐殺器官」読まなくては。

笠井 山本七平の『空気の研究』によれば、アニマを日本語に訳すると空気になる。空気の支配とはアニマ=精霊による支配なんですね。日本はアニミズムのまま文明化に成功した例外的な国です。日本のアニミズム的風土を肯定する人もいますが、僕は問題だと思っています。


笠井 僕の世代でまじめ派の運動は終わると思っていたら、十歳二十歳下でも水増しされてのこっている。
藤田 そういう運動って、どうやって伝承されたんでしょうか。
笠井 単純な話、常に正義の側にいたいという自堕落な欲望が、弱い人間には草のように生えてくるからでしょう。
自分は正義の側にいると思うことで楽になり、人格的にも安定できる。この種の人間にとって正義は嗜癖の対象なんですね。正義に依存することでしか生きていけない。


「正義の側にいたいという自堕落な欲望」「弱い人間」「正義派嗜癖の対象」これらの言葉が、Morris.への非難のように聞こえるのは、被害妄想なのだろうか。

*「ネ申」はインターネットで、コミュニケーションの材料になりそうな話題を提供し、なおかつ滑稽な対象に使われることが多いように思う。(第五章 ネ申とアニミズム--サブカルチャー宗教性)

笠井 デモは合法的でなければいけないとか、非暴力的でなければいけないとかいうのは間違いで、合法性や非暴力性が有効な状況もあるということです。
1970年、80年代の世界に類をみない経済的繁栄の結果、日本では蜂起の文化や街頭政治の伝統が途絶えてしまった。そんな時代に生まれ育った、新しい活動家たちだったことを思えば、何度かの決壊という結果も含めて反原連はよくやったと思いますよ。
大衆蜂起と評議会は、例外状態から新しい国家が立ち上がるのを阻止し続ける運動であって、ボリデェヴィキ革命のようにソヴィエト国家とか自称しはじめたら終わりです。
藤田 結果としてそれは旧来の国家よりも非道な権力になってしまったという歴史を人類は経験したわけですからね。
笠井 旧体制を機能麻痺に陥れ例外状態を創出した大衆蜂起が、おのれの力量を保ち続けることができない弱さのために、国家に頽落する。これが市民革命以来、幾度となく繰り返されてきた事態で、ロシアや中国のような社会主義革命もその変種です。ようするに市民革命は一度も成功していない。絶対主義王政の支配を覆しても、絶対主義が発明した主権国家システムの解体には失敗したわけだから。市民革命の半敗北の産物が人民主権論です。


「成功した市民革命は存在しない」というのも笠井の持論だったな。
SEALsの奥田が「re-demo」という新団体たちあげたらしいが、反原発、反安保法案のデモは、昔からノンポリだったMorris.でも、今回のデモは、物足りなかった。

笠井 僕は子供のころから多動症ぎみだったし、もともとディシプリン権力(規律訓練型の権力。学校、工場、刑務所、病院など)には耐えられない人間なので、いわば「一人蜂起」状態で生きてきました。初歩的なことをいえば、何時に起きてもいいし、何時に寝てもいいという生活の自己管理は、事故権力の第一歩です。
僕は嫌なことをしないで好きなように生きる、最悪でも飢えて死ぬだけだろうと考えて高校中退を決めました。親や教師に「そんなふうに社会を舐めていると生きていけないぞ」と恫喝されても、絶対に後悔しないと覚悟した。それから半世紀たって窮死の現実性も浮かんできましたが、それはそれで仕方ない。「自業自得の潔さ」です。
藤田 ご自身でそう覚悟されることは、とても美しいし、そういう書き手を尊敬します。そしてそれを他人に強要する社会や政策はひどい。これは美徳の悪用だと思います。

自業自得の潔さ。これを言える笠井は強者なんだろう。

笠井 線を引くこと、これは人間にとって本質的な行為です。線を引いてあるものと別のものを分けるのが、認識するということだから。線の引き方が、すなわち認識の仕方でもある。時間の場合にも線を引いて、「~より前」「~より後」と分割することが歴史的認識の基本です。

笠井 ルールを信じて懸命に努力しても成功の直前にルールが失効し、元の木阿弥になってしまう。このような敗北や挫折は、ルールの下での競争で敗れた場合とは違って、容易に納得できません。経済的な場面だけでなく、政治の領域でも同じようなことがいえます。たとえば安倍政権の改憲問題ですが、ルールの変更をめぐるルール、ようするにメタルールの存在を無視して恣意的に憲法解釈を変えてしまう。ルールの恣意性という点で、安倍政権の解釈改憲と新自由主義的な労働政策は表裏です。

二つの意味で「話しにならん」わけだ。

笠井 自民党右派を政治的代表部としてきたのは神道政治連盟や日本会議などの日本型リヴィジョニスト(修正主義者、歴史見直し主義者)勢力で、これが安倍政権のイデオロギー的支柱です。対中・対米戦争の肯定、ようするに大東亜戦争肯定論が日本型リヴィジョニズムの原点で、改憲や東京裁判の否定など戦後一貫して主張してきたことが、いまや実現できると勢いづいている。

安倍は血統書付きリヴィジョニストというわけである。

藤田 憲法改正もしようとしているし、秘密保護法も成立したし、自衛隊のイメージアップに躍起になっている。それは、傍から見ると、戦争を準備しているようにしか見えません。戦前の日本を、どうしても想起してしまいますが、いかがでしょうか。
笠井 アメリカの戦争だったアフガン戦争に、イギリスなどNATO加盟国も参戦しました。アメリカは同じことを日本にも期待している。燃料補給のような間接的な参加ではなく、地上部隊も出して欲しい。自衛隊員が死ぬ分、アメリカ軍の死亡者が減るわけだから。できれば一番前で弾除けになってくれたら、もっとありがたいと思っている。


自衛隊のイメージアップは、ニュース番組での事故救援報道に顕著だった。当然取引があったはずだ。

笠井 安倍は無知で馬鹿だと、左翼リベラルの知識人は嗤いますよね。麻生首相の場合もそうでしたが。しかし、こうした嘲りには違和感がある。安倍政治に歯止めなく押しまくられている事実への心理的代償として、安倍を小馬鹿にしているのではないか。これには阿Qのような虚勢さえ感じます。
藤田 それはそうかもしれませんね。仮に馬鹿でも無知でも、現に力を持っていて、それを分析することや対抗することに失敗してしまっているわけですから。
笠井 条件を緩和して改憲を強行するにしても、集団的自衛権の行使容認をめぐる解釈改憲にしても、これまでの憲法秩序は「例外」化される。改憲が難しそうなので解釈改憲でいこうという安倍のやり方は、憲法秩序の無効化という点でナチス独裁と通じるところがある。その意味ではファシズム化とにているんだよね。
藤田 90年代であったら、もっとたくさんの批判が殺到していたでしょう。今では、もっとみんな怒るかと思っていても、あまり怒らない。するっと、色んなヤバめの法案が通って行っちゃう。戦後民主主義シャキでは建前として許されていなかったことが、やっていましたとかやりますと身も蓋もなく言うようになってきているし、国民に受け入れられてしまう。


馬鹿が馬鹿に馬鹿にされてるという図式\(^o^)/。

笠井 そもそも人間の数が多すぎるわけで、適切なところまで減るしかない。(第六章 クレタ島の鶏は、夜明け前に騒がしく啼く--21世紀の蜂起)

例によって、ぶっ飛んだ結論(正論(^_^;))ぢゃ。

2015/12/26(土)●小掃除(^_^;)
今朝の血圧は182/79/89。
午前中は部屋ゴロ。
午後は、こたつひっくり返して掃除。年末大掃除というものではないが、ぼちぼちやっておこう。
キングオブコメディの高橋が、高校制服盗難で逮捕とのニュース。You Tubeでコントを見たが、これが結構、面白かった。Morris.は、どちらが高橋かわからず、ややブサイクな方がと思ったら、やや二枚目風の方が高橋だった。高橋は以前痴漢冤罪で話題になったらしいが、今回の件は、証拠品(自宅から制服600点)があり、侵入された学校側の監視カメラ映像もあって、冤罪ではなさそうだ。
夕方水道筋に買い物に出て、6時前帰宅。
今日の歩数は2108歩。

【日本劣化論】笠井潔/白井聡 ★★★☆☆ 2014/07/10 ちくま新書 1078
白井聡:1977東京生れ。社会思想、政治学者。『永続敗戦論--戦後日本の核心』(2013)
白井の名前は知ってたが、著書は未読である。

いまもなお収束の目途がたたず、現在も危機が継続しているこの事故は、現時点ではそれでもなお不幸中の幸いによって大いに助けられている、ということを強調しておかなければならない。この事故はもう少しだけ運が悪ければ、東日本全部が壊滅する自体を招来する可能性があった。場合によっては、全く手が付けられないまま、貯蔵されている全ての使用済み核燃料までもが大量に溶け出し、プラントに近づけば急性被曝によって作業不能、もうお手上げという事態に陥ったとしても不思議ではなかった。
この未曾有の危機にあって、いまだに体面を気にする言動を示す責任者たちの姿に、「あの戦争」の再現を見た。
大東亜戦争という大失敗は、明治維新以来の近代日本の悲劇的結末であった。そして、「戦後」とは、この失敗への反省に基づいて歩まれてきた時代であったはずだった。こうした公式見解が現実によって粉砕されたとき、この社会は公式見解が蓋をしていたドロドロした暗いものを解き放ち始めた。一方では、有力な政治家達による歴史修正主義を指示する言動、彼らの幼稚きわまる軍事への傾斜や、排外主義者たちの街頭活動といった攻撃的言動がそれを代表し、他方ではオリンピック誘致の狂騒やエネルギー政策の原発回帰のごとき、あたかも何事もなかったかのように振る舞う「現実の否認」がまかり通っている。(白井によるまえがきより)


「この事故」とは、もちろん福島原発事故だが、これと「あの戦争」の類似を見るというのは、笠井の「8・15と3・11--戦後史の死角」と全く同じ視点である。本書の対談の直接のきっかけであろう。
何よりも事後処理の、おぞましいほどの相似には戦慄せざるを得ない。なのに、それを是正するどころか、事態は補強、推進の経緯を辿ろうとしている。「愚行の輪」という言葉を想起する。

笠井潔 すでに安倍政権は日本版NSCを設置し、特定秘密保護法を国会で通しました。また、武器輸出三原則の緩和や沖縄辺野古の基地移転も進んでいます。さらに集団的自衛権をめぐる解釈改憲や、共謀罪の創設も視野に入れ始めました。これらは例外なく、自民党右派が戦後一貫してめざしながら、国民世論の反対のため長いこと宙吊りにされてきた政策です。それが安倍内閣によって、一気呵成という勢いで次々と実現されようとしている。

これらは去年から今年にかけて、次々と現実になってしまった(>_<)

白井聡 安倍さんがいうところの積極的平和主義における「平和主義」の実質とは安全保障政策の方向を指している。つまり、自国の安全を確保するにあたって、積極的な方法と消極的な方法がある。消極的な方法というのはとにかくできるだけ戦争にかかわらないようにする。あるいはそのかかわりをミニマムにするというものです。これと反対の積極的な方法というのは、敵を名指しして威嚇したり攻撃を加えることによって敵を無力化し、自国の安全を確保するというものです。
笠井 積極的に攻撃可能にするということでは、集団的自衛権の問題ともつながりますね。
白井 はい。もちろん、自衛隊の「専守防衛」の原則は無効化されます。支配層にとって、問題はそれをどのように理屈付けるかということなんです。
2000年代になると、アメリカが対テロ戦争を始めたため、はっきりと潮目が変わったのです。アメリカ自身が国連中心主義をかなぐり捨ててしまった。国連中心主義に引き続きとどまるのか、それともアメリカの暴走に追随するのか。日本の指導層の主流はほとんど何の躊躇もなく、後者をえらんだ。その延長線上にあるのが、積極的平和主義であって、それは軍事的な意味でアメリカの一部となって色んな活動をするということです。


「積極的」平和主義=「攻撃的」平和主義。つまりは戦争へ一直線の道である。

白井 要するに、日本の昔懐かし派が「歴史を修正する」ことができる範囲はアメリカによって決められているということです。そもそも歴史修正主義的な歴史観が成立しえたのも、アメリカによる対日処理の結果、旧支配層が根絶やしにされなかったためであって、その意味では戦後日本は歴史修正主義もアメリカから与えてもらったということです。

アメリカの占領政策の不徹底と、歴史の皮肉。

白井 こういう時期にああいう人が首相になって、最高権力者になってしまったということは偶然ではなく、ある意味必然ですよね。社会全体に反知性主義が蔓延しているのですから、見方によっては、日本国民を正しく代表しているとも言えるわけです。

安倍は必然、安倍の反知性主義は日本国民の真の代表。な、わけはなかろう。もちろん、白井の発言は逆説である。

白井 今の財界は、すごく近視眼的になってしまっている。経団連の会長だって個々数代ろくな人がいません。今の米倉弘昌(住友化学会長)なんてもうどうしようもないわけです。原発が爆発するのを見ながら、「原子炉は地震と津波に耐えて誇らしい」と言った人ですから、ほとんど狂人に近い感じがします。米倉はTPP推進派で、これはあやしい噂ですが、モンサント社と住友化学が長期的協力関係を結んでいるからではないかと言われています。
「政治的な」財界人の代表が、JR東海名誉会長の葛西敬之です。安倍総理の「お友達」で、NHK 会長に籾井勝人を突っ込んだのは此の人物です。(第一章 日本の保守はいかに劣化しているのか)


またまた、葛西敬之の名前が挙がってる。国鉄分割民営化の実質的責任者であり、「親米保守」の旗頭でもあるらしい。

白井 戦前の天皇が占めていた地位に、戦後、アメリカが代入されたのです。言ってみれば、ワシントンの大御心を輔弼するというかたちでずっと政治が行われてきたわけです。
いわゆる対米従属利権共同体で飯を食っている人にとって自分だけがアメリカの意思をしっているということが、日本国内における大変な権力リソースニなる。その「知っている」の内容に自分にとって都合のよい事柄を入れ込む。これは政治の世界のみならず、経済さらにアカデミックな領域においてもまったく同じ構造が貫かれていると思うんです。これが、アメリカを頂点とする戦後版天皇制の基本構図だろうと私は見ています。
笠井 天皇からすればアメリカは征夷大将軍で、アメリカからすれば天皇は日本従属化の駒だった。つまりお互いの思惑がうまくかみ合ったわけですね。とはいえ、イニシアティブを取ったのはアメリカ。
白井 そうなんですよね。アメリカがいつまでも好意的に征夷大将軍をやってくれるだろうというのは、勝手な思い込みにすぎません。(第二章 日本の砦 アメリカと天皇)


大掛かりな手品だな。しかしその手品もそろそろネタバレで、それでも、強引にショーを続けようとしている。

笠井 日本はヨーロッパの後追いで主権国家を作り、他国を侵略し植民地化し、第二次大戦に敗れてすべてを失った。今度は侵略の被害国だった中国が、同じ主権国家という罠に足を取られ、人の住んでいない島まで自国の領土だと、いいはじめたわけです。
ある場所がどの国に属するのかは、そこに住んでいる人間が決めることです。ある国家に固有の領土など存在しないのです。
白井 そのような先進的意識が東アジアに根付くためには、まず永続敗戦レジームによる日本のアジアでの必然的孤立を解消しなければなりませんね。日本を本当の意味でアジアに着地させようという動きは、90年代には河野談話・村山談話をはじめとする動きもあったわけですが挫折してしまった。そして鳩山由紀夫さんがもう一度それをやろうとしたけどやはり挫折した。鳩山さんは自らの信条である友愛主義に基づいて、東アジア共同体というのを提唱しました。これはおおよそのところEUに範をとったものであるわけですけれど、いまのところ一種の空想にとどまっています。
笠井 EUをモデルにしたような国家連合は不可能でしょう。ASEAN的なものを徐々に緊密化・進化させていくしかないですね。


空想的アジア主義。空想は罪だろうか(cf.谷川俊太郎)(^_^;)

笠井 状況が切迫して実際に軍事衝突が起こり、自衛隊員が多数戦死するような事態になれば、日本の世論は雪崩を打って好戦的になるでしょうね。戦争支持の世論を背景として、権力による国内の締め付けも一気に厳しくなるだろうし、そんなときどう対処するつもりなのか、反戦派は腹を括って置いたほうがいいと思います。
白井 実際に軍事衝突が起きたら、間違いなく中国政府は在中日本資産の差し押さえをやるでしょう。そうなるとアメリカはどう出るのか。在日米軍は日本の加勢はしてくれないだろうと考えるのがリーズナブルでしょうね。日中戦争など絶対にやらせたくないというのがアメリカの本音ですから、そのための実力行使に出る可能性がある。まあこういった事態になる以前に外交的恫喝によってやらせないようにするという展開が有力です。何せ、横田基地や横須賀基地など、沖縄に次いで米軍基地が多いのは首都圏であって、それはどうしてなのか、何のためなのか、という真実が突きつけられることになるでしょう。

日本はバイプレイヤーでしかなくなる。どうせなら、端役に徹底すべきでは?

白井 いったい何が起きれば、朝鮮半島の統一が実現するのか。日中が衝突し、そこに韓国が参戦するというかたちになったときに、北朝鮮は韓国の側に立てば対日戦に参戦できる。これこそが、北朝鮮と韓国が和解する契機になると思うんですよ。
朝鮮半島の統一は、現状ではあまりにも困難なので、これほどの事態が生じない限り不可能ではないかと思えるのです。(第三章 アジアで孤立する日本)


アクロバチックな朝鮮半島統一シナリオ(@_@)

笠井 日本の民間極右勢力は自前の政党を持たないまま、日本民主党の流れを汲む岸派以来の自民党右派を政治装置として活用しています。ここがヨーロッパとの大きな違いですね。
白井 今やネトウヨが民間極右の分厚い層を形成しているわけです。これはネット上のうわさ話に過ぎないんですが、今やネトウヨは組織されていて、その元締めは、とある自民党議員なのだと。
これこそ真偽不明な話なんですけど、こうした推測が説得性を持って成り立ってしまうほど、極右が政党をつくるひつようがないという現実が頑としてあるわけです。幸福実現党はひとりも当選者を出せないにもかかわらず、実質的には選挙に勝っているのです。いつの間にか自民党が幸福実現党と似たようなことを言い出すからです。
笠井 極東裁判や南京虐殺や従軍慰安婦をめぐる自民党右派の歴史修正主義的な主張は、国際標準でいえば極右そのものですから。


ネット右翼というのが、あるらしいということはよく耳にするのだが、どうも実体が掴めない。まあ、匿名で言いたいことだけ言う輩のことだから、実体は無いのかもしれないが、操作しようと考える者は当然存在するだろう。幸福実現党への言及は、非常に示唆的である。知らないうちに、気づかれないようにことは運ばれているのかも。

白井 日本人もまさに、欧米人などからみれば、中国人・韓国人と見分けがつかない。差異があることではなく差異がないことが耐え難いという図式がまさに当てはまります。
笠井 欧米に見下されながら、欧米を模倣して今度はアジアを見下してきたのが、要するに近代日本です。オリエンタリズムの客体でありながら主体でもあるという倒錯的二重性と、日本による対アジアの特殊な暴力性は連続していることになりますね。


近親憎悪?

笠井 テロとは実体ではなく関係です。実在するのは政治的動機による暴力だけであって、それがテロか革命的行為なのか愛国的行為なのかは、どのような関係の磁場に置かれているかによって決まります。
安重根による伊藤博文暗殺の問題も、殺された伊藤地震が幕府にとってはテロリストだった。「安重根はテロリストだ」と言明した官房長官は、朝鮮を植民地化した日本帝国の立場に龍ことを宣言しています。


黒川創の「国境」に通ずる考え方ぢゃ。

笠井 日本の左翼や民主主義勢力は第二次大戦後、国にだまされたという大衆意識に批判的に対峙することなく、それに乗っかかったわけです。
日中戦争も日米戦争も国民の大半が支持していました。勝った勝ったでもりあがっていうるうちに、どういうわけか本土に爆弾が降りはじめる。話が違うと思った日本人は、本土決戦でなく無条件降伏を歓迎しました。自堕落に開始された戦争は自堕落に集結し、日本人は対米従属による平和と反映を嬉々としてうけいれます。


安易に得たものは、また安易に失われる。

これに対して白井は伊丹万作の「戦争責任者の問題」から一部を引用している。これは何度も読み返し、噛みしめてもらいたい文章である。

笠井 日本国憲法9条は交戦権の放棄を謳っていますが、これは大戦間の戦争非合法化の流れを下敷きにしたもので、9条讃歌を奏でる人たちが主張するような思想的独自性は見られません。
第二次大戦の直後に開始された冷戦時代には、米ソが半世界国家として世界を分割支配することになる。アメリカの属国である日本は、アメリカという半世界国家のもとで「戦争を放棄」し続けました。言い換えれば憲法9条は、原理的に日米安保条約と相互補完的なのです。9条支持と安保反対は両立し得ない。これに反する立場は空想の彼方に舞い上がるしかありません。
日本社会党が政権と無縁だった主要な理由は、9条平和主義と一体の反米・反安保という空想的な国際路線にありました。

これは笠井の持論で、何度も目にした。確かに的を射てる意見のようだが、何か釈然しないところもある。

笠井 ソ連崩壊で日本社会党内のマルクス主義者は沈黙し、あるいは転向し、協会派に牛耳られていた社会党は解体への道を歩みはじめました。保守政党と張り合える社会民主主義政党の不在が、日本の右傾化を歯止めのないものにしています。
白井 55年体制においては自民党も社会党も両方とも勝ちながら負けてきたわけです。自民党は選挙をやれば勝つのですが、悲願の自主憲法制定には議席が足りないから、そういう意味では負け続けた。社会党は議席数では負け続けてきたのですが、憲法改正を阻止するという意味では勝ち続けてきたのです。まさにプロレスです。
笠井 自民党でも軽武装・経済優先の吉田路線を引き継ぐ保守本流は、アメリカの対ソ軍事負担要求をできるだけ値切るために、憲法9条の制約を口実として利用してきた。だから自民党と社会党も、裏で手を組む国対政治が可能だったんですね。


猿芝居だったわけだな。それが、一方の猿回しがいなくなって、もう片方の歯止めが無くなり、均衡がとれなくなって深みへと……て、感じかも。

白井 何だかんだ言っても、企業というのは利益を上げることが最終目標です。グローバリゼーションが唱えられて、システムチェンジをしろという圧力が高まってくる中で、会社内での分配よりも株主を優先することになって現在に至るわけです。
笠井 中間団体の空洞化や解体は「再分配か承認か」でなく、人々から「再分配も承認も」奪いとる方向に進みます。
白井 しばしば、中間団体の衰退は日本社会の問題だと言われますけど、企業という中間団体だけは生き残っていて、ますますその権力を増している。その唯一残った中間団体としての企業が再分配をせず承認も与えなくなったら、システム自体が枯渇してしまう。今はそういう状態に陥っているのではないかと思います。


格差社会の底辺は弱り目に祟り目である。

笠井 日本版PC(Political Collectoness)は、平和と繁栄の0年の産物に過ぎないというわけですね。
白井 PCという概念で最も嫌なのは、それが結局「政治的に正しい」もののみを認めてほかの「正しさ」を禁圧することです。例えば、政治的には誤っているが美しいものは存在する。こういうものの存在は、人を立ち止まらせます。この美しさに惹かれるのなぜだろうと。こういう違和感から人間の思考は始まるわけです。PCの言葉狩りの発想に忠実であるならば、政治的に正しくない表現はこの世の中から抹殺すべきだということになりますから、人が違和感を覚えるような表現はそもそも存在しなくなる。つまり、思考という行為を抹殺することへと向かうのです。


「1984年」から30年以上経ってるのに、社会はいよいよ「1984年」化しつつある。

笠井 デモを議会制民主主義の潤滑剤におとしめる俗論が目につきますが、デモこそが議会制民主主義の生みの親であることを忘れてはなりません。
白井 警察が定めた範囲を突破してやってしまうからこそ、デモンストレーションであり示威なんですよね。不測の事態が絶対に起きないようコントロールするデモなんていうのは本来の意味のデモではない。それは最初から示威しない、威力を示さないということですから。もちろん、デモという政治的行為の社会的ハードルが異様に高くなってしまったという文脈があって、ともかくいまは穏便にやらねばならないという要請があります。ただそのような状態は異常なものであって、早く脱却せねばなりません。(第四章 右と左がどちらも軟弱になる理由)


デモの本来の姿を取り戻さねば。言うは易し行なうは難し、だけどね。

白井 もともと反知性主義に対抗するのが啓蒙主義とか教養主義だったんですが、それはすでに失効してしまっています。それらが崩壊したからこそ、反知性主義が跋扈してきている。
笠井 プレモダンな反知性主義の裏返しでしかない場合が多いですね。丸山真男によれば戦前日本には、大衆と知識人の中間に、いわば町内会の世話役のような中間層が存在した。
白井 日本のファシズムを根底から支えたのは彼らだと丸山はいっていますよね。
笠井 軍部でいえば下士官が中間層です。半インテリである下士官や世話役といった中間層が知識層に反感を抱き、反知性主義に流れていく。だから反知性主義は教養や知性の対立物ではなく、その裏返し、あるいは劣化ヴァージョンなんですね。


反知性主義は反反省主義でもある。だから、安倍一党の無茶なやり方を、知性で批判しても、蛙の面にションベンにしかならないのだろう。

笠井 日本型教養主義に止めを刺した80年代の輸入ポストモダニズム。体系的な知の構築物の重圧で背骨をへし折られかけた人間の悲鳴が、喩えていえばポストモダニズムです。ヨーロッパ近代を超えるポストモダンの尖端だといった、下らない自画自賛にしかなりません。こうした幼児的な自己肯定は、日本現在の成功による自賛気分ととも絶妙にフィットして、80年代に大流行しました。いまから思えば愚者の楽園としかいえませんが。

ポストモダニズム=愚者の楽園\(^o^)/当時 Morris.は愚者だったかもしれないが、この楽園には足を踏み入れることはなかった。

白井 知識人って本当はいやな商売なんです。この社会に不幸なことが存在することによて飯のタネは増えます。他人の不幸を飯のタネにすること、それが知識人の原罪なわけです。そのことに自覚がないから、安易に代弁者になれて、「最も虐げられた者」という最強の立場から他のすべての人々を断罪する快楽に耽溺するわけです。
笠井 若者論で非正規労働者を代弁するのは自由ですが、その当人は時給800円で働いてるわけじゃない。
抑圧された者の代弁もまた抑圧的だ、という批判があります。被抑圧者による闘争は支持しても、その代理人として振る舞う人間は信用できません。
もしも知識人が今日も存在しうるなら、いかなる資格も後ろ盾もなく、本人一人の責任で語らなければ。
白井 それをやる覚悟がない人は語ってはいけないわけですよね。
笠井 上にある権威の源泉を後ろ盾に、下に威張るのが日本型組織だと丸山真男がいいました。その典型が軍隊で、人格化すれば下士官。被抑圧者の代弁から代理糾弾へいたる真理は、無自覚的にこれを再現しています。(第五章 反知性主義の源流)


日本的エリート主義。

笠井 沖縄独立とは、沖縄が永続敗戦レジームの外に出ることを意味します。我々はヤマトによって独立を奪われ、しかも沖縄戦ではヤマトの盾として利用され、膨大な人命が犠牲になった。独立して別の国になった以上、これからは日本の戦争責任を追求する、と主張することになるでしょう。
白井 本土で沖縄独立論を冷ややかに見ている人はたいてい、今までずっと補助金経済で生きてきたのに、それが全部絶たれたらどうするんだと言いますよね。でも、もう後には引けないと思えばいい知恵がでてくる。
笠井 基地は観光独立路線の妨害物に過ぎません。要するに邪魔なだけです。
白井 沖縄の問題は日本人とは何か、近代国民国家の国民としての日本国民とは何者なのかという重いテーマを突き付けています。
日本本土にいる人間の過半数は、沖縄問題に無関心です。ひどい人は、あいつらはゆすり・たかりの名人だなどという。沖縄には地場産業もないし、あいつらは怠け者でどうしようもない。だから基地でも押し付けておけばいい。そういう明確な差別意識を持っているわけです。これに対して沖縄県民が自分たちは差別されているという意識を持つのは当然でしょう。


正論である。しかし反知性政権は、正論など見ても見えないにちがいない。

笠井 第二次大戦は開始された以上は敵国の体制崩壊まで続くことが最初から決まっていました。20世紀の戦争がデスマッチであることに無自覚だった日本は、対米戦争も日露戦争と同じように判定勝ちに持ちこめるだろうと考え、安易に対米開戦に踏みきったわけです
白井 かえすがえすも痛恨なのは、そのような認識の誤りによって戦争を始めてしまい、しかもその誤りを修正できなかったことです。だからこそ「国体の護持」という観念にズルズルとこだわって、その間にどんどん犠牲者を増やしていきました。
笠井 ルーズヴェルトは、この戦争が世界国家を樹立するための戦争であることを自覚していた。
世界国家アメリカが君臨するだろう戦後世界に、もう戦争は存在しえない。世界国家の権力を承認するオブジェクトレヴェルの諸国家は、交戦権を持つ必要はないし、交戦権を行使するための軍事力を持つことも許されない。
白井 それで憲法9条が成立したわけですね。
笠井 日本国憲法の序文、「国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ」というところの国際社会とは、ルーズヴェルトが構想していた戦後世界に他なりません。

これも笠井の持論だが、これには全面的に賛意を評したい。そもそも日本はアナクロな戦争観でもって、世界戦争に足を突っ込んでしまった、その時点で、死んでたわけだ。

笠井 冷戦の終結は、日本にも新たな可能性をもたらしたはずです。冷戦下でのアメリカの属国から脱し、21世紀世界で独自の地位を占める可能性です。冷戦後もアメリカが日本とタッグを組んで中国や北朝鮮の封じこめに遭遇するだろうという安直な期待は、すでに裏切られているのに、安倍政権はそれを直視しようとはしません。

あのときああしておけば、こんなことにはならなかったのに、というのは、繰り言にすぎない、とわかってはいるのだけど……

笠井 テロをテロと認定し、警察行動で対処するメタレヴェルの世界的権力など存在しないということなら、また世界戦争の時代に戻ったのか。しかしアルカイダは国家ではないから、対テロ戦争は対国家戦争ではない。20世紀の世界戦争には、交戦団体が国家ではないゲリラ戦という逸脱も含まれていましたが、それでも基調は国家間戦争でした。しかし反テロ戦争では国家間戦争中心的とは言えない。テロとも戦争とも決めかねる軍事力行使に、これまた国家間戦争ではない反テロ戦争が対抗する。
白井 そういったテロの定義も戦争の定義も国家の定義もすべてぐちゃぐちゃになってきたから、その状態を世界内戦と言ったわけですね。
笠井 いずれにせよ、世界国家による世界支配というのは最悪です。外部のない世界国家は人類の悪夢ですから。(第六章 独立という思想へ)


笠井によると冷戦こそ第三次世界大戦だったということになる。そうすると今世紀のテロ組織との抗争は、世界内戦という、第四次世界大戦であり、わしらはいま、その戦いの中にずるずると引き込まれているのかもしれない。

集団的自衛権の必要論と反対論は、いずれも的を外れている。その概念と歴史を正確に把握していないからだ。
自衛権の概念が確立されたのは、第一次大戦後のことである。最初の世界大戦の惨禍は戦争を非合法化し、禁止しようとする国際世論を生じさせた。それによって主権国家は交戦権を事実上放棄した。宣戦を布告し戦争を開始することは、国際的な犯罪行為と見なされるようになる。では、犯罪としての戦争(侵略戦争)をしかけられた被害国はどうすればいいのか。ここで要請されたのが自衛権だった。
しかしこうした分割は自衛戦争を生じさせたにすぎない。このようにして世界は、第二の世界大戦に呑みこまれていく。
第二次大戦後の世界では、犯罪国家による侵略戦争は国連軍が制圧する。国連軍の制圧行動が開始されるまでのあいだ、侵略の被害国は個別的自衛権の行使が可能である。被害国の隣国なども、被害国の自衛戦争を援助する集団的自衛権を行使できる。
冷戦とは世界国家の座を賭けた最終戦であり、米ソによる第三の世界戦争だった。
東側ブロックの崩壊により、アメリカが冷戦に勝利する。
安全保障をめぐる問題では、日本国憲法は国連憲章と相似形をなしている。
しかし日本国憲法、とりわけ前文の精神や第九条は国連憲章第2条4項(戦争の禁止)や第51条(自衛権の規定)と同じく、冷戦が開始された時点で空文と化した。
すでに前提が失われている事実を問うことなく、国連では自衛権をめぐる空疎な議論が続いてきた。9条をめぐる日本での論争も同じことで、自衛権をめぐり蜿蜒と続けられてきた憲法解釈論議は空中楼閣にすぎない。
いまや主権国家は空洞化と形骸化を深め、集団的自衛権の概念も無力な漂流を続けている。こうした時代に、かつて集団的自衛権が他国への軍事介入や侵攻の口実として使われた事実を持ちだしても、安倍政権による解釈改憲を阻止する論理は構築できそうにない。
解釈改憲の強行そのものが、憲法秩序の空無化と例外状態の恒常化を意味する。また例外状態の恒常化こそ、世界内戦の国内体制にほかならない。これに立憲主義の尊重を唱えても無力だろう。
世界内戦のリアリティから逃れることなく、世界国家なき世界社会という長期的な展望のもと、「われわれ」の安全保障を構想すること。「われわれ」の安全保障を、日本国家の安全保障として語られる集団的自衛権必要論に対置しなければならない。(笠井によるあとがきより)


国連の再生をのぞみたい(^_^;)

2015/12/25(金)●Xmas 満月
8時起床。
今朝の血圧は190/91/71。
小田嶋隆の「ア・ピース・オブ警句」今週は恒例の「吉例いろは歌留多」これでもう5回めになるらしい。いろは歌留多48句をひねり出すのは、道楽でやる分には楽しい作業でもあるのだが、こうやって半ば義務的に作るとなると、苦行であるかもしれない。
安倍絡みのものは

[う] 嘘も訪米(真っ赤な嘘も、白々しいお世辞も、黄色っぽい空手形、詐欺師真っ青の大風呂敷も、米議会で演説してしまった以上、外交的な文言として歴史に残るわけで、そう思ってみれば、あの人はうまいことやったのかもしれません)
[や] 安かろう倍買おう(安いから倍買おうという100円ショップライクな粗雑な購買行動が、つまりは安倍主義だったということなのかもしれません)
[き] 岸改正の一撃(大好きだったおじいいちゃんの悲願をたっせいするべく憲法改正に邁進する所存だ文句があるか馬鹿野郎め)


の3本だけだった。他で印象に残ったのは
[か] カネは天下のローリングサンダー
[し] 知らぬならほっとけ
[ひ] 人の噂も75スレッド

くらいか。200位上作ったとなるとネタ切れなんだろうな。「仏の顔にサンドバッグ」という傑作の印象が強すぎもんね。
午後JRで神戸に出て中央図書館へ。もちろん例の宇治川小公園にも。今日は5匹ほどいた。
図書館裏でも雉猫一匹いて、撮影。
5時に図書館出て、高架下通って、阪神理容で散髪。ここも来年3月で立ち退きになるらしい。
三宮図書館経由で歩いて、7時帰宅。今夜は満月で、クリスマスと満月が重なるのは38年ぶりだとかニュースで言ってたが、だかろ、どうだ、と言われればそれまでのことぢゃ。
今日の歩数は10638歩。

宇治川小公園猫#1 

#2 

#3 

図書館猫 

同じく 

今日のヴィジュアル読書 

紅い小さな葉の蔦 

図書館中庭から 

阪神理容 

ここも来年3月まで? 

今宵の月は 

Xmas 満月 

JR三宮駅前広場でコーラス 

一階古本屋の看板猫 

ぶんちゃん 

【リバース】相場英雄 ★★★ 2015/02/22 双葉社 「小説推理」2014年7月~12月号
原発事故復興に乗じての詐欺を追う刑事たちの物語で、国有地になるという土地の詐欺から、だんだん大規模な詐欺に進み、おしまいは、海外原発業者と閣僚との贈賄問題に突き進むが、実際のところ、もっと上層部に同様の詐欺的行為があるに違いないと想像させるところが、眼目かもしれない。
現場取材も多くこなしてるようで、避難地域の復興状況の描写が印象的だった。

西澤の視線の先には、写真集で見たカットと同じアングルの光景がある。村役場に通じる県道沿いの、牧草地畑が広がっていた谷間の一角だ。
しかし、目の前には一切の緑がない。ブルドーザーなどの重機で地肌を削り取られていた。
土がむき出しになった大地が、なだらかな彼方の山の麓まで続いている。言葉が出ない。
大震災と原発事故の発生から3年以上が経過した。この間、新聞やテレビでは、被災地の瓦礫が撤去され、新しい道路がつくられ、人々が元の生活に戻りつつあると盛んに報じていた。
それは全く違っていた。村に来る途中、住民たちが暮らす仮設住宅団地の脇を通った。町外れの丘の上、辺鄙な場所で窮屈な部屋に住民たちは詰め込まれている。
美しかった村が、除染という施策でむき出しの土ばかりが目立つ荒れ野に変わった。村人がこの光景を見て、なにを感じるのか。(飯舘村)

住民表示が南相馬市小高区に変わった辺りから、浜が見渡せる一帯に出た。大型の重機が地表を削っている。周囲には、かつて住居だったことを窺わせるコンクリートの基礎がむき出しになっていた。
「俺たち、タイムスリップしたのか?」
外の景色を見ながら、清野は呟いた。
国道脇に、大型のコンテナや農機具がひっくり返ったまま放置されていた。津波に店舗の大半を抉られたパチンコ店があり、駐車場のアスファルトを割り、雑草が伸びている。
<福島の再生なくして日本の再生なし>
政府首脳が連呼していた言葉が耳に蘇る。
どこが再生だ。ここに来て同じことを言ってみろ。壁が崩れたまま放置されている民家を見ながら、清野は思った。


これらは実景に違いない。現時点で原発での避難者は10万人を遥かに超えている。政府は、避難解除地に戻るよう呼びかけているが、上記のような状態で、放射線濃度も曖昧なままでは、帰るに還れないのが実情だと思う。

「原発は必ず老朽化します。その際に廃炉という新たな需要が生まれます。ご存知のように、関東電力は特大の廃炉需要を抱えています」
関東電力と世界的な原発企業。
「それじゃなにか? 福島の原発について、米仏の大手企業が廃炉の仕事を得るために日本人を過剰接待していたのか?」
「その通りです。大まかな試算ですが、事故を起こした福島の原発の廃炉に関しては、約5兆円の資金を要すると言われています。贈賄側の米仏二社にとっては、巨額収益が見込める受注のためならば、接待など取るに足らないことだったのです」
「一方、収賄は省資源開発庁となります」
「省資源開発庁のほかに、関東電力の人間もリストアップされています」


福島原発廃炉作業は、はっきり言って暗中模索である。
このような中で、川内原発は再稼働を始め、それ以後各地で再稼働の準備に入ってる。これは、もう、常軌を逸してると思う。

2015/12/24(木)●福井地裁の裏切(>_<)
7時半起床。
今朝の血圧は176/91/74。
ふとしたきっかけ(ホンジニョン応援ブログ)で、キムスミ主演のコメディ映画「ヘルモニ」のことを知った。彼女は映画「全国ノレチャラン」で、キメ(金海)の女市長を演じて、非常に印象的だった。ネットで検索したら何と、まるまるYou Tubeにアップしてるのを見つけた。タイトルは、ハルモニ(お婆ちゃん)とヘル(Hell)の合成語らしい。
ひょんなことから詐欺で刑務所に服役してたお婆ちゃんが出所するところから始まる。彼女の特技が、ヨクソル(辱説=悪口、雑言、忌み言葉、悪態、呪いの言葉)である。テレビではこのヨクソルの勝ち抜き番組があって、スタッフからスカウトされた彼女は圧倒的ヨクソルパワーで、挑戦者を下し、全国的人気者になる。決勝ではムーダンの婆さんとの一騎打ち。ここでも圧倒して優勝、というところで、過去の前科がバレて窮地に。それでも昔の知り合いなどに助けられて大団円。途中、家政婦したり、市場で一悶着起こしたり、いろいろエピソードもあるのだが、字幕なしの韓国語だけでは、なかなか理解できない。なんといっても肝心のヨクソルが難しい。ケセッキ(犬ころ野郎)とか、ケジビ(尼っ子)くらいなら知ってるが、機関銃みたいに連発されるとまるでアウトだが、それでもついつい聞き惚れてしまう(^_^;)。どこか映画「ノレチャラン」とダブるところもあって、Morris.向きの映画だと思った。サンテレビの字幕付き韓国ドラマ見るより、字幕なしの映画見る方が、勉強になるかもしれない。
福井地裁が、4月に下した仮処分を取り消し、高浜原発3,4号機の再稼働が法的に可能になった。つい先日、高浜町長と福井県知事が再稼働容認の発言した直後の判断で、これはもう、政権、地方、関電が司法に圧力をかけての、力業にほかならない。原子力ムラは福島事故のあとも、健在であることを見せつけたことになる。
反原発の立場で、マスコミの枠の中でそれなりに意思表示してきた報道ステーションの古舘伊知郎が来年3月で番組降板とのこと。安倍批判も多かっただけに、こちらも相当な圧力がかかったことは疑いない。久米宏の後に古舘が始めた時は、まるで期待してなかったが、これが意外なくらい頑張ってくれた。ポスト古舘が誰になるか不明だが、やっぱり期待はもてそうにない。番狂わせあればいいけど。
年賀状、プリントした後、王子動物園へ。動物園の前に、大きな白豚連れて散歩する男性に遭遇。2歳7ヶ月で48kg。ベトナムで生後二日目に手に入れてペットして飼育しているとのこと。ちょっとびっくりした。
水道筋回って4時半帰宅。
夜はぼちぼち年賀状の宛名書き。
夕食に、ギョンヒさんからもらった白菜キムチ食べたら、とんでもなく美味しかった。彼女が前勤めてた「ふる里」のキムチが気に入って、ちょくちょく買ってたが、こちらは今勤めてる「カルビハウス」のものだろう。今度はこれを買ってみよう。
今日の歩数は4372歩。

ヘルモニ 

キムスミ