top 日記 歌集 読書録 植物 愛蔵本 韓国 春待ち calender mail 掲示板
Morris.罹災日記1995/01/16〜3/31 

全壊した自宅(2階)前のMorris. 1995/02/11
1995年1月17日に神戸をおそった未曾有の大地震。Morris.もこの地震でえらい目にあいました(>_<)
ちょうど10周年目を迎える今年は、マスコミでも盛んに、当時を振り返る特集をやってます。それに倣うわけでもありませんが、Morris.の地震当時の日記を再現することにしました。
 初出はMorris.のミニコミ「サンボ通信29号」(1995/04/01)です。.

2005/01/17更新

1995/01/16(水)晴-地震前日

夜は春待ち疲れBANDで矢谷君とその友人たちのライブ、変に盛り上がり、最後は井山君のピアノパフォーマンスで、賑やかに幕を閉じた。打上げにも誘われたが、何となく気がのらず、午前零時頃帰宅。
月が不思議な色をしていた。

1995/01/17(木)晴-地震当日

5時46分起床。地面の底からゴーーーッと言ううなりが聞こえた途端に背中をど突かれるような衝撃を受け、布団の上に、二段重ねの冷蔵庫の上の奴と鏡台が倒れてきた。あ、地震だ、と思ったものの、まあ、後始末が大変だなと思ったくらいで、事態をなめていたのだが、壁にひびがはいり、壁土がこぼれてその匂いを嗅いだときはじめて、これはただ事ではないと実感した。
激しい揺れがおさまるまで布団にもぐりこんで、一段落ついて、手探りで着替えを済まし外に出てみると、近所の人が寝巻き姿で立っていた。薄暗いなかで、部屋の表側に回って見ると、一階のフルカワ美容室の入口がかなり後方に傾斜していて、これはもう使い物にならないとわかった。
ウォークマンのラジオでニュースを聞く。震源地は淡路島で、神戸の震度は6といったことはわかったが、被害の状況などはいっこうにはっきりしない。
南隣の吉加家は全壊、それに続く二階建ての日本家屋は町並み全て一階部分が潰れて平屋のようになっていた。
吉加夫婦が、家の下におじいちゃんがいるはずだが、どうしようもないと途方にくれていた。確かにそのように思えた。しばらくして、息子が、声が聞こえる、生きてるようだというので、とにかく何とかしようと、息子と二人で手前の廃材を片づけだした時、近くの看板屋の大将が手伝いに入ってくれて、ほとんど彼の大働きによって、約1時間後におじいちゃんを無傷で掘り起こした。僕は梁を支えたり、指図されて動いただけだったが、これに夢中になっていたため、あまり恐怖やショックは感じずにすんだ。
井山君の住んでた家午前8時ごろ斉藤さんがつよしと一緒に様子を見にきてくれた。斉藤さんのアパートは大丈夫だったらしい。
急に友人たちのことが心配になる。部屋の電話は生きていたが話し中だったり、混線していたりでほとんど役にたたない。最初に通じたのが武雄の熊さんのところだった。やっと昼過ぎに秋本君のところにつながり、無事を確認する。
部屋の中は本棚もテレビラックも倒れて、本やテープが散乱状態。机の上においてあったコンピュータはディスプレイが床に落ち、それに引っぱられて本体もプリンターも周辺機器もすべて、床に叩きつけられてこれはもう駄目だと観念した。
足の踏み場もないのを2時間がかりで、おおまかに片づけて、夕方、春待ち社長の家まで歩いて行った。
途中の惨状は度肝を抜かれるばかり、特にJR六甲道駅は高架が落ちて、現実とは思えなかった。
社長のマンションは一階部分が潰れて、三階の社長の部屋は二階になっていた。
店(春待ち疲れBAND)の入ってるビルも同じく一階部分が潰れて使い物にならなくなったと聞いて愕然とする。隣近所の井山くんの部屋は全壊状態で、彼は窓から命からがら逃げ出して無事だった。
社長一家も全員無事で、今日は前の公園にテントを張って過ごすことにするらしい。店の常連客の吉口さんも彼女のアパートが半壊して避難してきていた。
ちょうどやっぱり様子を見にきた斉藤さんといっしょに戻り、ひとまず斉藤さんの部屋に避難することにする。
停電で蝋燭の光の中で、頻発する余震にびくびくしながら、3人で地震後最初の夜を過ごした。

1995/01/18(水)晴-2日目

7時起床。自分の部屋に戻り、片づけをする。ガラスや陶器のかけらと調味料が割れてべたべたの台所のゴミを、とりあえずゴミ袋に入れ、あちこち電話をかけまくる。いちおう知り合いに死傷者はいないようだ。
時々はよそから電話も入る。niftyで知り合ったトラジさんからの電話もあった。パソコン通信どころではない状況なのでシスオペの大田先生に電話したが、つかまらず困っていたので、彼女に簡単な状況と無事を伝えてもらうことにする。
社長家族は鷹匠中学に避難。
今日から井山君と吉口さんも斉藤さん宅に避難することになる。
夜には電気が通じた。
夜遅く、大田先生にも電話連絡つく。
斉藤さんと同じ階の河野さんの部屋でテレビを見る。もう無茶苦茶である。
僕は何故かU-CAという磁石で浮き上がる独楽のおもちゃに熱中。斉藤さんの部屋には稲田さん、姜さん、中山さんなども来て、河野さんも交えて麻雀大会が始まる。
井山君はいつもにまして躁状態で、おそろしいほど盛り上がっていた。
僕ら麻雀をしない連中は河野さんの部屋で寝る。

1995/01/19(木)曇-3日目

9時起床。昼近くまで斉藤さんの部屋でごろごろ、午後は自分の部屋で電話したり、近所の町をうろうろしたり、何となく放心状態。
鷹匠中学が半壊し、社長らは石屋川車庫を経て鶴甲に移ったという怪情報が流れる。これはデマに過ぎなかった。
何もしたくなくなり、避難所をまわったり、社長と会ったり、近所の都賀川べりで炊き出しや配給に並んだりしていた。
夜はまた斉藤宅で麻雀大会。
このへんからしばらく記憶があやふやになっている。

1995/01/20(金)曇時々雨-4日目

社長一家は高倉台の友人宅へ避難することになった。
社長の部屋の整理を手伝う。社長らは途中斉藤さんのアパートに立ち寄ったが、さりいちゃんとひろこは相当消耗しているようだった。やっちゃんはしっかしりしていて感心した。
今夜も麻雀大会。

1995/01/21(土)曇-5日目

朝、下着、ジーンズなどを都賀川で洗濯。
斉藤さんの車でコンピュータを六甲学生青年センターに運ぶ。本体は駄目かもしれないがデータだけでも助かれば儲けものだと思ったのだが、奇跡的に無事に動いてくれた。これは実に嬉しかった。
自宅のマンションが赤紙(立入禁止)貼られてセンターに避難しながら、コンピュータの置き場所を提供してくれた稲田さんに感謝。
社長夫婦といっしょに社長の部屋の整理。交通渋滞のため社長は鷹匠中学に、さりーちゃんは斉藤さんの部屋に泊まり、明け方早くに斉藤さんと、社長の待つ鷹匠中学に向かった。
夜の麻雀大会は続く。

1995/01/22(日)晴-6日目

空白の日曜日。
たぶん睡眠不足で朦朧としていたのだろう。
崩れかけた自分の部屋のベッドでしばらく寝ていたようだ。

1995/01/23(月)晴-7日目

朝、篠原温泉(銭湯)が開くというので、井山君と出かけたが、道を間違えてたどり着いたら、整理券が配られた後だった。
外出してる間にクラウンの古田さんが、斉藤さん宅を訪ねて来て、見舞金を置いていってくれたらしい。会社だって大変なことになってるだろうに、バイトのことまで心配してくれるというのがありがたかった。
近所の家が雑誌「銀花」を束にして捨てていたので、2,3冊抜き取る。夜になってやっぱり気になり、邪魔になると思いながら20冊ほど拾って帰り、斉藤さんの部屋の前の廊下に積んで拾い読みする。

1995/01/24(火)曇-8日目

井山君、吉口さんと一緒に歩いて20分ほどのところにある五毛温泉に。12時前に着いて、男湯はあまり待つこともなく入浴できた。一週間ぶりの風呂は格別だった。
センターに寄った帰り道、通り雨が過ぎ去った後、南の空に虹が架かっていた。心が弱くなっていたせいか、異常に感動した。
夜にはちまきちゃんとその友だちが慰問?にやってくる。中山さんからもらった冷凍の肉があったので、焼肉パーティが始まり、豪勢な夕食となった。

1995/01/25(水)晴-9日目

地震後初めてのバイト。
ゆうさんの車で北野のインド人の事務所の整理。西根君と二人で、倒れた棚を建て直したり、書類を運んだり。
昼食には本格的なお弁当が出て(ステーキ、煮魚、ポテトサラダに暖かいご飯)これだけでも行った甲斐があると思ってしまった。
2時に仕事が終り、帰り道初めて三宮を見る。見なけりゃ良かった。
阪急の代替バスで帰宅したら井山君らが何とカレーを作っていた。
この日河野さんは実家の千葉に帰省したので、しばらくまた、河野さんの部屋で寝ることができるようになる。

1995/01/26(木)晴-10日目

午後部屋でカートン8個に必要最低限の本(辞書、事典、詩集等)を詰める。いつか持ち出せる機会があれば、これだけはと思ってのこと。部屋の整理中にも何人かから電話が入る。部屋の電話は生きているので、きっとずっとあちこちから電話が入っていたのだろう。何となくこの夜から気が滅入ってしまった。

1995/01/27(金)快晴-11日目

鬱状態が続く。いわゆるウロが来たというやつだろう。
朝、井山君と並んで篠原温泉の整理券を手に入れ、勇んで風呂に行くのにシャンプーを忘れたりするていたらく。
午後に春待ちの店に行き、楽器などを取り出す作業。
社長、井山君、伊藤君、えっちゃん、後から斉藤さんも手伝いに来た。
夕方九州の深町さんから電話。僕が新しい電話番号をメモしてなかったため、後で葉書を出したのだが、すごく心配かけてしまったようだ。その後大阪の大塚さんからも電話があった。
この夜は社長も斉藤さんの部屋に泊まり、宴会となる。

1995/01/28(土)晴-12日目

朝、さくら銀行に出向き、家賃の自動支払いを停止。センターで、稲田さんにモデムの使い方で質問受けるがマニュアルがなくておてあげ。
午後、奈良の奈緒ちゃん、宮本さん、中山さんの3人が慰問?に来る。
夜、鶏屋の若を呼び、見送りがてら一緒に住吉まで歩く。
前に住んでいた中郷町の文化住宅はものの見事に潰れていた。松尾君のマンションも初めて見たが、噂どおり一階がつぶれてしまっていた。

1995/01/29日(日)晴-13日目

天気は上々だったが風が冷たい。それでも朝のうちに都賀川で洗濯すます。
12時に春待ちファミリーBANDひさしぶりの勢ぞろい。といっても松尾君、みっちゃんは欠席。後から田辺君もやってきた。
昨日に引き続いて奈緒ちゃんと中山さんが応援に駆けつけ、斉藤さん、つよし、吉口さん、姜さん、それに香介も見物に加わり、午後1時から都賀川べりで演奏したものの、寒さもあって、被災者は演奏を楽しむ余裕がないようだった。
ただ、子供連れの母親が一人、とても嬉しがっていてくれたので、それだけで報われた思い。
その後阪急六甲駅前でもう一度演奏。こちらも観客は少なかったが、演奏はじっくり楽しむことが出来た.
偶然ちまきちゃんと友人が通りかかり見物。その後河野さんの部屋で宴会。すっかり酔いつぶれた僕は、明け方に、知らない人の部屋に入っていこうとしたらしい。

1995/01/30(月)晴-14日目

宿酔のままバスで新神戸に出て、北野スカイマンションの事務所の移動の仕事。高平さんら4人で何とか片づける。
チップが出たので、ちょうどマンション前で臨時営業していた寿司など買って帰る。
夜はまたセンターへ顔を出す。

1995/01/31(火)晴-15日目

8時起床。昼から社長の部屋の布団出しを手伝い、いっしょに兵庫の実家に運ぶ。
帰り道ちょうど春節祭の南京町を通ったので、社長と一緒に「とりじん」に寄り、店長の芝藤君と会い、一杯ひっかける。

1995/02/01(水)晴-16日目

鴨子ヶ原の倒壊家屋から荷物を取り出す仕事。斉藤さんのバイクを借りて行く。
10時過ぎに小林君、昼過ぎに西根君、高平さんも来て、傾いた家から荷物を出す。ちょっと危険な作業だった。
4時帰宅。斉藤さん気付けで、ふくはらさんからの手紙と「てくてく新聞」、切手、テレフォンカードが送られてきていた。

1995/02/02(木)晴-17日目

7時起床。阪神代替バスで青木に出て、電車で深江を経由して、地震後初めてクラウン事務所へ。
噂通り建物の損傷はなかったが、液状化の名残の泥がすごい。
三矢さんのマンションは半壊状態で、家族は奥さんの実家に避難。本人はゆうさん宅に寄宿しているとのこと。
高平さんと堺のデリバリの仕事。思ったより簡単に済んで、松原の高平さんのマンションに寄って、シャワーを使わせてもらい、昼食は近くの「le poisson rouge」というレストランでランチとしゃれこむ。スープ、牛肉のマスタードソース、ポテトサラダに珈琲付きで、神戸では今は考えられないメニューに感激してしまう。つまり僕はこういったささやかな贅沢に餓えていたのだった。

1995/02/03(金)晴-18日目

7時起床。秋本君、市川さんと堺のピックアップ。
帰りに事務所の自転車借りて、秋本君宅まで行き、散々ご馳走になる。香介も来ていて、結局この夜は秋本君のところに泊まることにした。

1995/02/04(土)曇-19日目

朝、自転車で斉藤さんの部屋に戻り、午前中自宅の荷物の整理。昼に戻ったら斉藤さんの隣部屋の住人が地震の後初めてやって来て片づけをしていたので手伝う。
植田さんという人で、現在は神戸の平野に住んでいて、この部屋は荷物置兼仮眠所として使ってるとのこと。驚いたことに、以前韓国語のクラスで同級だった寺岡さんの知り合いで、地震直後に斉藤さんを通して部屋を使わせてもらえないかと打診されたものの、あまにも部屋が汚いのと、見ず知らずの人ということで断ったという話で、それがどうやら僕のことだったらしいので、その話をしたら、最初は信用してもらえなかった。とにかく、後日改めて連絡するという話になり、手伝ったお礼にと年代もののブランディをもらう。
その後センターに赴き、パソコンさわらせてもらったりしているときに、水道が出たというので、大喜びになった。

1995/02/05(日)曇-20日目

8時起床。
矢谷、小林君の二人に頼み、自室の荷物をセレナに積んでクラウンの事務所まで運んで貰う。
後で矢谷君実家の避難マンションに礼に行って、逆に焼肉などご馳走になる。矢谷君の実家は半壊、店(美容院)は全壊だったのでその日のうちに隣のマンションを借りて、家具など運んで、従業員や矢谷君、友人などと避難したという。
あの混乱の中で、よくもまあ手早くことを進めたものだと感心する。
夜は斉藤さんのところに社長も来て、井山君主催のお好み焼き大会。普通の豚焼きに始まって、岸和田名物カシミン(鶏ミンチ)、葱焼き、広島焼きからソバ飯まで、という豪華なものになった。

1995/02/06(月)晴-21日目

8時起床。罹災証明書もらいに行ったが、初日で大混雑だったので、用紙だけもらって帰る。
寺岡さんから隣の部屋の件で電話。急いで植田さんと連絡をとり、バスで三宮まで出た後、アーケイド、元町、新開地を経由して平野まで歩いていく。
回り道して大倉山の中央図書館も覗いてみたが、新しい本館は無事だが、旧館は相当傷んでいるようだった。
植田さんと面談した結果、ありがたいことに、留守番という形でしばらく部屋を使わせてもらえることになり、合鍵を作って預かる。
せっかくなので近くの大谷君のところに寄り、部屋の報告を兼ねて貞子さんにビールをご馳走になる。
夜は姜さんも来て松茸ご飯。斉藤さんとつよしから珈琲豆をお土産にもらう。
早速今夜から隣の325号室のベッドで寝ることにした。

1995/02/07(火)晴-22日目

10時起床。ひさしぶりの熟睡。
ほとんど一日中かかって部屋の掃除。床が割れた調味料や油などでめちゃくちゃだったので、自室のホットカーペットを持ち出して敷く。こんなことなら土足で使うんじゃなかったと思うも後の祭り。それでもこれでやっと部屋の体裁だけは整った。

1995/02/08(水)晴-23日目

6時半起床。小林君と芦屋のピックアップ。これはほんの小口で、午後は倉庫でバン詰めと泥の掃除。これは喉が痛くなるのと、細かい泥の粉が目に入ってコンタクトレンズ使用の僕には地獄だった。
今日からJRが大阪から住吉まで通じたので、本山駅まで歩いて住吉で下車し、また歩いて帰る。
今夜も姜さんが来てて焼肉パーティ。夜更かしして飲みすぎてしまった。

1995/02/09(木)曇-24日目

7時起床。カーテンが煤けていたので自室のものと取り替える。
昼センターに行き、コインランドリーで洗濯。後から井山君も来てピアノ演奏(練習)。
韓国の女子留学生も聴きに来て、井山君のアニメソングサービスなどで盛り上がった。
センターの風呂で前に習った李大壽先生と再会、無事を喜び合った。
夜は社長来て泊まる。

1995/02/10(金)晴-25日目

8時起床。罹災証明と義捐金の金券をもらいに行く。
自室から時計、炊飯器、ギターなど運び込む。
午後、灘小学校の自衛隊のテント風呂に入る。
井山君は大阪の友人宅に出かけたので、夜は斉藤さん、つよしと3人だけで残り肉を使ってキムチチゲ作る。

1995/02/11(土)晴-26日目

8時起床。
朝、つよしに頼んで、倒壊した自宅の前で写真を撮ってもらう。この写真の出来が良かったので、そのまま絵葉書にして知人に送ることを思い立つ。
夜は麻婆豆腐作る。後から姜さん手作り餃子を持ってきてくれた。

1995/02/12(日)曇後雨-27日目

8時起床。井山君と歩いて阪神御影駅まで出て、リンクウパークでの「チャリティ・ヴァレンタイン」の春待ちファミリーBAND撮影。
1回目はステージで演奏したが、2回目は雨のため急遽食堂の中でやる。
昼食は豪勢にしゃぶしゃぶの食べ放題。
またこの日はAM神戸で春待ちファミリーBANDの特集番組も放送された。
夜は岸和田の加納君宅に到着。両親と小六の娘(さやか)と小一の息子(けいた)も歓迎してくれた。結局この日はいい気持ちになって、加納君が仕事から帰ってくる前に沈没してしまった。

1995/02/13(月)晴-28日目

7時半起床。朝食をいただいて、加納君と一緒に彼が礼服のおまけにもらったという自転車の組み立て。小一時間かかってやっとかっこうだけは完成して、近くの自転車屋で微調整頼もうと持って行ったら、前輪の軸の取り付が逆さまで、結局全部やり直してもらう羽目になる。
昼前近所の美容院でカット。夫婦でやってる店で、旦那と地震の話などしたが、料金がいやに安かったので、ひょっとしたら、震災割引してくれたのかもしれない。
午後は加納君と食料買出しに出かけ、夕食は僕の十八番の麻婆豆腐作ることになった。それだけでは、物足りないという加納君の意見で焼肉も。冗談抜きで、地震以降の食生活の充実ぶりは異常なものがあるな。
この夜は加納君が古いフォークソングの歌本など引っ張り出して来て、ひさかたぶりの大フォーク大会になった。
加納家にとってはいい迷惑だったにちがいない。結局酔い潰れていつ寝たのかもはっきりしない。

1995/02/14(火)晴-29日目

7時半起床。
朝食をご馳走になって、9時に加納君といっしょに出る。本当にご馳走攻めになって、大騒ぎまでやらかして迷惑をかけた上に、見舞金までもらってしまった。親戚付合いが皆無に近い僕は、友だちのありがたさが一入身に沁む。
10時に難波に着き、思い立って吉美ちゃんの実家に電話したら、ちょうど今日昼から六甲に出るというので、鶴橋で待合せる。喫茶店で地震関連の四方山話。本当なら一緒に六甲へ戻るところなのだが、この後ちょっとした買い物をしたかったので、吉美ちゃんと別れ、日本橋へ。
何を買いたかったのかというと、ノートパソコン。実はキーボード禁断症状みたいになってて、どうにも我慢ができなくなってたのだった。
デスクトップはなんとか無事で、迷惑を承知でセンターの稲田さんに預かってもらっているのだが、とても今の部屋に持ってくるのは無理だし、いろいろ考えた末にやっぱり買うしかないと思い切った。
ソフマップで中古の98ノートns/Aに4MBのメモリー、80MBのHDを付けて15万円弱。今の僕にとっては決して安い買い物ではないが、結局わがままを通したわけだ。
JRで住吉まで戻り、両手にビデオカメラとパソコンを下げてセンターまで歩き、またまた稲田さんに泣きついてHDのインストールからソフトの移行までやってもらった。
9時に帰宅。斉藤さんのアパートも昨日から1階だけは水道が出始めたが、2階から上は水圧の関係でまだしばらく駄目だとのこと。
斉藤さんの部屋では魚ちりをやっていた。
パソコンで興奮してベッドで打つつもりが、コンタクトも取らずに寝入ってしまった。

1995/02/15(水)晴-30日目

8時起床。朝からワープロで葉書を作ったが、印画紙に水性インクはのりが悪く、結局住所だけシールを作り、後は手書きすることにした。プリンターの調子がどうも良くない。本体がおかしいのか、設定が間違ってるのか不明。(これは後日ジャックの接続が不十分だったに過ぎないことが判明)
夜は鶴橋で買ってきた生麺を使って韓国冷麺を作る。焼肉も少し作り、稲田さん、姜さんを呼んで食べて貰う。
その後センターに出かけてシャワーを使わしてもらう。

1995/02/16(木)晴-31日目

8時起床。バスと電車で甲子園の小滝歯科へ出かけ、先週抜けてしまった挿し歯を入れてもらう。地震の被害のことを話したら、先生がひどく同情して、治療費は要らないと言われた。そういうわけにはいかないと言い張ったが、お見舞いだからと固辞されて、結局甘えてしまうことになった。ありがたいのと申し訳ないのとで、涙がこぼれそうになる。
その後、三浦さんに会いに今津の「珈琲香房」へ。
地震以来髭を剃ってない三浦さんはいつの間にかパソコンを始めたらしい。しばらく話をして、電車で御影に戻り、沢さんが勤めていたはずのパチンコ店を探す。シャッターは閉まっていたが2階の事務所で訊ねたら、沢さんは稗田小学校に避難しているとのことだった。
そのまま歩いて小学校まで行ってみると、沢さんは不在だったが、ちゃんと名簿に名前が載っていたのでまずは一安心。伝言メモを残して帰る。
部屋に戻って、この日記を打ち込んで、やっとリアルタイムで日記を打つことができるようになった。
斉藤さん経由で、大阪のバンド、レッドビーンズさんから春待ちファミリーBANDに義捐金3万円が送られてきた。
夜には沢さんが訪ねてきた。沢さんは20日ごろから大阪九条の店に住込みで行くらしい。再会を祝って痛飲。

1995/02/17(金)晴-32日目

8時半起床。
午後、春待ちファミリーBANDは社長のレンタカーで大阪南港へ。9時20分発高知行き特急フェリーに乗船。メンバーは社長、井山、秋本、小谷、伊藤君と僕。特2寝台。

1995/02/18(土)晴-33日目

「祭囃子」の北添さんの出迎えで、途中大方町の「くじら記念館」など見物して、昼前に宿毛市到着。コンサート主催の石崎さん夫婦の心のこもったもてなし。
鷹の羽旅館泊。
神戸で震度3の余震があったことを知る。
宴会で潰れ、1時ごろ就寝。

1995/02/19(日)曇後晴-34日目

7時半起床。朝食後高知に入り、RINGという店で春待ちファミリーBANDライブ。100人以上の客で立ち見の出るほどの盛況。
高知テレビのインタビューなどもある。
今回のツアーをお膳立てしてくれた北添さんには、すっかりお世話になった。
ライブの後時間が空いたので、高知城下の日曜市を覗く。なかなか大規模で、野菜、乾物、おかしなどの屋台風景を満喫。
夕食までご馳走になって、往路と同じフェリーに乗船。船内でPCのクイズを楽しむ。

1995/02/20(月)晴-35日目

6時半起床。9時帰宅。帰ってしばらくしたら水道が出た。実に1ヶ月ぶりで、一人で万歳を叫ぶ。
韓国の友人向けの便りをシールに印刷し、これを葉書に貼付。
夕方、本山南中学に「神戸元気村」主催のライブを見に行く。
途中自室に寄ったら、トラジさんのメモがドアにはさまれていた。ちょうど四国に行ってる間に、2日間神戸でボランティア活動をして、わざわざ僕の部屋まで訪ねて来てくれたらしい。
センター経由で、5時に本山南中学到着。会場には黒さんやけんぞうさんもいて、西岡恭蔵さんのステージでは秋本君がクラリネットで参加。斉藤さん、つよしも来てて、一緒に帰宅。
ふうちゃん、金久保君、波多野さんから電話。高ヒョンミさんに出した葉書が住所不完全のため戻ってきてたので、電話で正しい住所を確認。ついでに少し話もできてうれしかった。

1995/02/21(火)曇時々雪-36日目

10時起床。
歩いてまた本山南中へ向かう。今日は春待ちファミリーBAND演奏がある。
途中、以前住んでいた仲郷町のアパート(完全に潰れている)をビデオで撮影していたら、家主の奥さんが親しく声をかけてきた。2階に住んでたおじいさんは、昨年暮れに引っ越して、結局ここは空家になっていたとのこと。良かった。
もしも僕がここに住みつづけていたら、生き埋めになったのは確実、即死の可能性も高かったと思われる。何しろ普通2階建ての家屋は潰れて平屋になるのが多かったのに、ここは、2階建てが見事にぺちゃんこになってたのだ。Morris.の部屋は1階だったから、やっぱり死んでたろう。
数年前「石をもて追われるごとく」この部屋を出たのだが、世の中何が幸いするかわからない。
1時半に中学到着。メンバーは、社長、秋本、井山、伊藤君の4人だけだったが、昨日偶然会ったサックス吹きの高校生(衣笠)や他のジャズバンドのメンバー数人に参加してもらい、不思議な編成のステージだった。
加川良、西岡恭蔵さんらのステージを見てから歩いて部屋に戻る。
道端にドイツの絵本「ぼうぼうあたま」と、ますむらひろしの宮澤賢治シリーズの漫画3冊が落ちていたので、迷わず拾う。これはまさに「拾い物」だった。
田舎の大久保先輩から葉書、堺の北西さんから手紙と切手、東京の大田先生から手紙と頼んでおいたniftyの韓国フォーラムのログのフロッピーが送られて来た。一日も早く通信を再開したいものだ。東京の京子ちゃんから電話。
夜は社長夫婦も来て鍋をする。半日外で寒い中にいたせいか微熱があるようで風邪の前兆かもしれないから、酒は控えるつもりが、さりーちゃんと話しながら、結局夜中の3時まで飲んでしまった。

1995/02/22(水)曇-37日目

8時前、韓国のジョンヒさんからの電話で起きる。いろいろ心配してくれて、話してるうちに涙がでそうになり、適当にごまかして受話器を置く。
昼前に社長と春待ちの店に行き、日曜日の誕生宴会のための片づけ。ゴミを出して、椅子に坐ってビールなど飲んでると、ここが全壊になったビルの中とは思えない。
井山君とさりーちゃんを待つ間、昔話に興じてちょっとセンチになってしまった。
社長の助言で郵便局に未配達の郵便物をもらいに行く。大阪の三木君やサンボ通信の読者からの葉書などが溜まっていた。高校の担任だった紀伊先生からの手紙にはビール券が同封されていた。さすがはよくわかってらっしゃる、と納得した。
斉藤さんは風邪なのか熱っぽくて夕食もとらずに寝込んでしまった。

1995/02/23(木)快晴-38日目

6時半起床。
ゆうさんの現場。本山南町のピックアップ。
仕事の後、倉庫の保管荷物からビデオデッキ3台(VHS×2、8mm)を取り出し、西根君に頼んで部屋まで運ぶ。デッキ3台ともあのショックにもかかわらず無事だった。
吉口さんは、明日からポーアイの知人宅に移ることになったので、今夜は送別会ということで、風邪気味の斉藤さんと、気管支炎のつよしが無理して豪華な肉料理など用意してくれた。だが、斉藤さんはやはり熱があるらしく、普段の十分の一くらいしか食べなかった。

1995/02/24(金)晴-39日目

8時起床。日中ずっと電話移動工事を待っていたが、結局5時ごろやって来て、終了したのは6時前だった。電話番号は以前のままだというのはありがたい。
灘郵便局に行き、トラジさんからの見舞金を受け取り部屋に戻る。niftyの会議室と、ソウルでの出会いだけの淡い付き合いなのに、わざわざ僕の部屋まで訪ねてくれたり、見舞金までもらうというのはありがたいというより申し訳ない気がする。
島原の吉田君からも手紙と見舞金が送られてきた。普通郵便に無造作にチリ紙に万札を包んで送るところはいかにも彼らしい。いつの間にか不動産だけでなく、行政書士事務所まで併設しているとか、なかなかがんばっている様子だが、手紙を読んで、雲仙普賢岳の災害はまだ続いているのだと、改めて思った。

1995/02/25(土)晴-40日目

8時起床。
バスと電車で甲子園の小滝歯科へ行き、別の挿し歯の修理頼む。そのまま日本橋に出て、ノート用の小さいマウスとモデムカード買うつもりだったが、思ったよりも高かったので、モデムは以前の据え置き型を使うことにして、変換プラグだけ買って帰り、センターでまたまた稲田さんを煩わして、ソフトその他移行して貰い、帰ってから勇んでniftyにつないだ、が、何故か通信できない。ファックスは送れるのでモデムがおかしいわけでもなさそうだ。こういうときに自分の知識の無さが情けなくなる。通信ソフトの設定がまちがってるのか、悪戦苦闘したが結局駄目だった。

1995/02/26(日)曇時々雨-41日目

9時起床。かなりの宿酔。
昼から春待ち疲れBANDの店で、社長と香介の誕生会。
壊れかけたビルでの宴会だから、非常識かもしれないが、僕らのこの店への思い入れは強く、どうしてもここでやりたかった。
春待ちファミリーBANDメンバー、社長一家、斉藤さん、つよし、吉口さん、奈緒ちゃん、堀姉妹、香介、高山君、松岡夫妻、ちまきちゃん、のぼるさんなど20名以上が集まり、なかなかの盛況だった。
春待ちへの見舞金10万円に「早くCDを出せよ」とのメッセージを添えて送ってきた「怪人二十面相」からの手紙も公開される。
夕方二次会の「影武者」に行き、酩酊して帰る。

1995/02/27(月)曇-42日目

8時起床。
井山君は風邪で寝込んでいる。
今津の「珈琲香房」に寄り、午後3時小滝歯科で治療してもらった後、大阪に出て紀伊国屋書店で冷やかす。
それから阪急で京都河原町に出て、木屋町の「みよし」で長浜ラーメン食べ、寺町の三月書房冷やかして午後7時に鈴木君代さんのライブ会場であるOther-sideへ。何と彼女は左肘を骨折して、吊り包帯で痛々しかった。なんでも1月31日の朝、丸太町の横断歩道が凍っていて、転んだ拍子に左腕の関節が折れてしまったそうで、12針も縫って今は2本のボルトでつないでいるとか。当然ギターを弾くどころではなく、いつものピアノとパーカッションをバックに歌ったが、これはこれですごく良かった。
まもなく、京都の友人八木君もやって来て、再会を祝して乾杯。
10時前に八木君宅へ。一昨年新築の三階建ての家は、是非一度見に行こうと思いながら延び延びになっていたのだが、10部屋以上の間取りに圧倒された。
双子の姉妹はもう中学生になって、それぞれの部屋はSMAPの写真で埋まっていた。
風呂をつかわせてもらった後、上等のブランデーふるまってもらう。

1995/02/28(火)晴-43日目

9時前に八木君宅を出て12時前に帰宅。
1時に神大国際学部に集合ということで焦って行ったら、演奏は4時半からだというので、騙されたみたいな気になって、いったんセンターに寄り、岩波の「図書」に掲載されていた津村喬の罹災日記読む。奥さんの高野さんや、息子太一君の動向がわかって、興味深く読み終えた。
4時に神大に戻ると社長が来ていて、時間変更の連絡が取れなかったという。結局この日は、避難所の体育館前でやるはずが、文句が出て、学童保育の教室でメンバー3人+即席のウォッシュボードの演奏。終わってからボランティア数人とミーティングと称していろいろ話しがあったが、えらく寒寒とした部屋で、僕はこれで完全に風邪引いてしまったようだ。

1995/03/01(水)晴-44日目

咳と熱で朦朧としながら6時に起きて事務所へ。
西根、市川君と、鴨子が原のピックアップ。たいがい疲れて帰宅。
高秀賢先生から手紙と切手が沢山送られてきた。サンボ通信発送にも欠かせないし、これもありがたい。
井山君が炊き出しでもらったというカレーを食べて早めに寝る。
夜通し咳と熱で寝苦しかった。

1995/03/02(木)曇-45日目

いちおう6時には起きたものの、とても仕事できる状態ではなく、休むとの連絡入れる。
9時に近所の金沢病院に。熱は8度4分で解熱の注射打ってもらう。この治療費は罹災者ということで無料になっていた。
昼食と夕食は正法寺の炊き出し。
ほとんど終日ベッドの中。
福田君からサンボ通信の原稿届く。
やっと今日、niftyにつながり、FLMと「カンファジャン」に書き込む。
夜も熱と咳。

1995/03/03(金)曇後雨-46日目

8時起床、といっても、慢性的不眠症。
今日も炊き出しで食事。地震以後、この数日が一番避難民っぽい暮らしだ。
夕方自室からシャツと漫画数冊取ってくる。これだけでもうフラフラになった。
夜、津村さんから電話で、三宮で屋台を中心にした運動を起こすので、春待ちも加わらないかとのこと。社長に連絡したら結構乗り気のようだった。
この夜からひどい下痢。

1995/03/04(土)曇-47日目

9時起床。風邪はいくらか小康状態。
昼から八巻の葬儀に参列しようと、社長からの電話を待つも結局連絡なし。
夕方センターに行き、忘れていたシステム手帳を受け取り、灘郵便局で熊さんからの書留受け取る。僕ばかりでなく、斉藤さん、社長にも見舞金が入れてあった。細かい心遣いがありがたい。
夜はつよしが、蒸し鶏など作ってくれる。

1995/03/05(日)晴-48日目

9時起床。
実は今日は社長宅の家具移動(中央市場のコンテナーに保管)があるので、当然手伝いしなければならないのに、そんな体調ではかえって足手纏いだと断られてしまった。これも情けない。
風邪のおかげで、ここ4日間も酒を飲んでいない。地震以後はもちろん、その前にもこんなに飲まない日がつづいたことは、ずっと以前の禁酒以降、たえてなかったことだ。これを機会にしばらく禁酒を、という気は全くない。
夜はさりーちゃん手作りのちらし寿司をいただく。
風邪は小康状態で、もう峠は越えたと思われる。

1995/03/06(月)晴-49日目

9時起床。多少だるさは残るものの、もうほとんど全壊、いや全快と言えるだろう。
嬉しくて洗濯しまくる。
午後、郵便局で大塚さんからの送金受け取る。どうもこの前の写真絵葉書の哀れっぽさ(冗談のつもりだった)を、本気に取られてしまったらしい。
避難民暮らしを続けていると、だんだん人の厚意に麻痺して、感謝の念が薄れる傾向がある。喉もと過ぎればなんとやらの類かもしれない。
そういえばつい昨日まで風邪で苦しんで、これからは帰ったらうがいしようとか、節制しようとか思っていたはずなのに、今日治ったと思った途端、うがいなんてもう忘れてるものな。
今日は井山君がバイトに出たので、久しぶりに部屋で一人の時間をもてた。
ベッドに転がって漫画など読んで、自堕落な時を過ごす。これがやりたかったんだ。
しっかりその気分を引きずっていたせいか、夜料理を持ってきてくれた姜さんと、些細なことから衝突。怒りはたいていそうであるが、次元の低いところで怒る自分にまた腹が立つ(悪循環)。
SEOUL SCOPEのチュヒョン君から最新号と手紙届く。

1995/03/07(火)曇-50日目

6時起床。
矢谷、市川君他多数と住吉のピックアップ。
7時帰宅。
久しぶりに風呂。
1階の富士食堂で夕食。
ふくはらさんから「てくてく」3月号と手紙来る。いよいよ彼女はインドに出かける模様。それはいいのだが、おいおい、サンボ通信の原稿はどうなっているのじゃ。
香介から電話通じたという連絡。
堀さんからも電話。

1995/03/08(水)曇-51日目

昨日と同じ現場。午前中に終り、昼から西根君と4個ほどの通関、食検終えて3時に開放してもらい、元町、メトロ神戸を回り、大谷君の「北海ラーメン」に寄り、8時前帰宅。
斉藤さんは部屋探しはじめるらしい。西田さんから電話。

1995/03/09(木)曇-52日目

8時半起床。甲子園の小滝歯科に行き、前歯の欠けたのを修理して貰う。「珈琲香房」に寄り、5時半帰宅。

1995/03/10(金)雨後曇-53日目

9時起床。ハーバーランド阪急で春待ちファミリーBAND撮影。
演奏後末広さんにビールおごってもらう。
ひさしぶりに昌美さん、えっちゃんも一緒に、けんちゃんの店Largoへ。10時帰宅。

1995/03/11(土)晴-54日目

9時起床。
洗濯。
午後三宮のジュンク堂を冷やかし、6時に生田新道「チャックの小屋」前で春待ちファミリーBAND撮影。後から高野さん、太一も来る。9時帰宅。

1995/03/12(日)曇時々雨-55日目

9時半にポーアイの風月堂ホールで春待ちファミリーBAND撮影。
いったん六甲の学生青年センターに戻り、朝鮮語講座の地震後初顔合わせ。信長さん、松下さん、枇杷木さん、など久しぶりに元気な顔を見ることができて安心。
4時から「楽屋」で椰子の木ボーイズと春待ちファミリーBANDのジョイントライブ。客ものってくれて、ひさびさに充実した演奏だった。9時半帰宅。

1995/03/13(月)曇-56日目

6時起床。秋本君らと姫路のピックアップ。7時事務所着。

1995/03/14(火)曇-57日目

6時起床。秋本、矢谷君らと北野のピックアップ。
今日は現場で開放してもらい、昨日から開通した阪急三宮駅から六甲に戻る。灘小学校で書類をもらい、義捐金の申込書を郵送。
ファミリーBANDの紹介用テープをダビング。

1995/03/15(水)快晴-58日目

昨日と同じ現場。
夜、香介と堀さんから電話。堀さんはファックスで原稿送ってくれた。

1995/03/16(木)雨-59日目

8時起床。
朝、堀さんの原稿打ち。六甲のさくら銀行で義捐金換金して入金。
午後は部屋でぼーっとする。インドのダラムサラからふくはらさんの絵葉書来る。4月初旬には帰国するらしいが、サンボ通信の原稿のことには何も触れられてない、ショック。
吉美ちゃんにも原稿催促の電話。何と吉美ちゃんはサンボ通信が定期的に発行する事さえ知らなかったという。高山君にあれだけ念を押していたのに---矢谷君からファックスで原稿もらう。

1995/03/17(金)曇-60日目

7時半起床。AM神戸(ラジオ関西)の特番で、春待ちファミリーBAND、西岡恭蔵、チンドン通信、谷五郎とジョイントで、被災地を回る。
JR三宮から南京町、新開地からAM神戸スタジオ(仮設)へ。
AM神戸スタジオの被害状況は予想以上で、狭い仮設の事務所でがんばる社員に感心した。恭蔵さんらのタクシーに便乗して8時半帰宅。

1995/03/18(土)曇-61日目

10時ごろ、部屋を厚意で貸与してくれている植田さんが部屋を訪れる。歯医者に行くついでに寄ったとのことで、お茶一杯出さずじまいだったことに後で気付いた。失礼してしまった。
昼、センターに寄って、釜山に国際電話したほかは、ほぼ一日部屋で無為の時間を過ごす。

1995/03/19(日)快晴-62日目

昼から新神戸オリエンタル劇場での「KOBE AIDS」の春待ちファミリーBAND撮影。
末広さん、キャッスルジャズバンドのメンバーなどとともに打上げにも出て、6時半帰宅。

1995/03/20(月)晴-63日目

小林君らと京都のピックアップ。6時半事務所到着。
矢谷君から梅組の原稿もらう。
夜は伊藤君宅で、社長一家、井山君と宴会。結局酔いつぶれてそのまま寝てしまう。
東京の地下鉄サリン事件が大ニュースになっている。

1995/03/21(火)晴-64日目

8時起床。宿酔のまま9時半帰宅。
波多野さんから手紙。彼の勤務する京都女子短大の入試問題に、僕の歌(歌集『象形文字』)を出題したとの知らせで、問題用紙も同封してあった。驚いた。
昼過ぎ、数日前に神戸に戻ったばかりの高山家で秋本一家、香介も交えて宴会。後からダンサーの秋月も来て、ひさしぶりに吉美ちゃんの手料理(チャプチェ、唐揚げ、コムタンスープ等)を堪能した。しかし、吉美ちゃんから原稿落ちることを知らされて暗澹とする。
8時過ぎ帰宅。

1995/03/22(水)晴-65日目

8時起床。
洗濯済まして、梅組の原稿打つ。
午後センターに行き、稲田さんの部屋でサンボ通信用にスキャナーでイラストを取り込む。
飛田さんの依頼で事務所の模様替えを手伝う。
夕方、稲田さんと近くの居酒屋「へそ」で飲む。
夜遅く、全壊したアパートの家主から電話で賃貸の解約を急ぎたいとの連絡。

1995/03/23(木)晴-66日目

西根君らと吹田のピックアップ。8時帰宅。
井山君に強引に原稿書かせ、急いで打上げ、校正してもらう。

1995/03/24(金)曇-67日目

西根君と京都のピックアップ。
夜、現行の整理して、12時に寝るつもりが、吉美ちゃんから借りたビデオ「トーチソング トリロジー」を見始め、結局夜中の2時半までかけて、しっかり見てしまう。
3人のゲイの映画だったが、主人公アーノルドのシャツのセンスがもろ僕のこのみだった。ひょっとして、僕にもゲイの素質があるのだろうか、ちょっと、危険?

1995/03/25(土)曇-68日目

生駒コミュニティセンターで春待ちファミリーBAND撮影。
150人ほどの客の大半は小学生で、大受けでアンコールもらう。
6時帰宅。1時過ぎまでサンボ通信編集。

1995/03/26(日)曇-69日目

8時起床。
午前中サンボ通信の編集の続き。
昼から久しぶりに自室の荷物の整理、と言っても、もう取り出すほどのものはほとんど残っていないはずだったのだが、大家が4月初めに正式に契約解約したいというので、その後は、無制限に部屋の出入りができなくなるかもしれないと思ってのこと。
自主的に禁忌地帯にしていた、ベッドの下に敷き詰めていた段ボール箱を、とうとう開けてしまった。半分以上は、長年にわたる少女漫画コレクションで、やっぱり見ると、捨てるのが惜しくなる。どうしても残しておきたい数冊と、金子光晴全集だけを抜き取り、後はこのまま放棄することにする。
夕方、テレビで春場所千秋楽、1敗の横綱同士の大一番は、曙が貴乃花を寄り倒して優勝を決めた。
斉藤さんがCDプレイヤーを残して引っ越したので、今日からCD聴けることになった。
大阪の三木君から電話。見舞金送ったが返送されたとのこと。いろいろ親身に心配してくれた。気持ちだけ受け取ることにする。

1995/03/27(月)快晴-70日目

小林君と大阪、泉南のピックアップ。
仕事の後事務所で缶ビール飲む。倉庫の荷物の中から、韓国CD50枚ほど撰り出し持ち帰る事にする。て8時半帰宅。

1995/03/28(火)曇-71日目

高平さんらと八尾のピックアップ。今日も帰りに事務所でビール飲み、8時半帰宅。

1995/03/29(水)曇-72日目

9時半起床。
今日から3日間でサンボ通信仕上げることに決めたので、バイトも無理言って休みにして貰った。
それなのに、午前中は洗濯その他で終わってしまう。午後からセンターで、残りのスキャナー作業。カセットコンロもらう。

1995/03/30(木)雨-73日目

二日がかりで、何とか本文17ページを仕上げる。
残りは歌集と、この日記の最終ページだけ。ほとんど徹夜でいちおう打ち上げる。

1995/03/31(金)曇-74日目

明日発行できるかどうか。今日のがんばりにかかっている。
この日記もそろそろレイアウトせねばならないので、途中だが、終了ということにする。

top 日記 歌集 読書録 植物 愛蔵本 韓国 春待ち calender mail 掲示板