大阪生野舎利寺
2003年5月3日(土)の日記にも書いたのだが、この日は昼間友人と鶴橋で会って食事した後、猪飼野、今里、中川、勝山と、生野区をふらふらと散策していて、舎利寺という地名の町で、偶然このお寺を見つけたのだった。

門構えからして何か面白そうだと思ったのだが、中に入ってびっくり仰天。

何しろ境内いたるところ、石造物だらけ、一画は墓地になっていて、それはまあ取りたてて珍しいことではないが、六地蔵に不動明王、閻魔様に仏足石、無縁佛塔もあれば、鬼瓦に邪鬼まで並んでいる。

圧巻は西国三十三観音霊場を一挙に岩仏として配していることで、とにかくこれはすごい、すごすぎると、デジカメで撮りまくってた。

住職のおかみさんがそれを見て、寺の縁起を書いたビラと、以前プロの人が作ってくれたと言う、案内カセットテープまで聞かせてくれた。とにかく親切で人懐こい。

それによると、この寺は、由緒正しいとまでは言えないが、とにかく古い歴史を持つ、ユニークなお寺であることは間違いないようだった。

何しろ、開基は聖徳太子の時代にまでさかのぼる。

用明天皇のころ、生野長者という富豪がこのあたりに住んでいたが、息子が唖として生まれてしまい心を痛めていた。

その子が13歳になったとき、四天王寺伽藍を建立のために来阪されていた聖徳太子が、その子を呼び

「予が前生に、汝に預けておいた毘波尸屍仏の舎利三顆を返すように」

というと、子供は涙を流して喜び、太子に三拝九拝して、念仏を唱えながら口の中から三つの舎利を出して、太子に渡した。

それから子供は普通に話せるようになった。

太子は舎利の一つを法隆寺に、一つを四天王寺に納め、残った一つを自筆の楊枝の御影を添えて長者に下された。

これに感激した長者がお堂を建て、この仏舎利を奉ったのが、舎利寺の起源と言われている。

かなり伝説めいた話ではあるが、ともかくも7世紀からの歴史を持つ寺なのだ。

しかしその後はかなり荒廃していたらしい。

1672年(寛文12年)それまで庵を建てて寺宝を守っていた達宗和尚が阿波に帰ることになり、寺宝は当時有名な黄蘗山萬福寺に譲渡された。

それ以降、この寺は禅宗の一派黄檗宗の寺として現在に至っている。

正式名称は「南岳山舎利尊勝寺」というが、一般には舎利寺で通っている。

江戸時代はかなり大きな寺域を有していたらしく「摂津名所図会」にも「太子御影の松」と題して大寺の風格を持った図が掲載されている。

その後も、荒廃と復興を何度も繰り返し、昭和20年6月15日の空襲で全焼してしまったが、早くも昭和25年に再建にとりかかった本堂が、今度はジェーン台風で倒壊するなど再度の災難に見舞われたりしたのだが、それらを克服して現在の状態にまでもどったというのは、やはり、この寺への信奉者が多かったためだろう。

普通の寺と違い、地域社会としっかり結びついた存在で、地区会館が別に出来るまでは、老人憩いの家、ユースセンターなどの役割を分担していたそうだ。

明治10年創立の現在の生野小学校も、舎利寺そのものが校舎として使用され、住職が教師を兼ねる、まさに「寺子屋」式だったという。

この寺の梵鐘は1676年(延宝4年)に木庵禅師によって製作されたもので、長者の話や太子以来の寺伝が漢文で印刻されている貴重なもので、太平洋戦争時、おおかたの寺の梵鐘が戦時供出を余儀なくされた中、幸運にも供出を免れて現在に残っているのは奇跡に近い。これも、この寺の信奉者が何らかの策を講じた結果だったらしい。

以上は、案内ビラとおかみさんの話を元に、Morris.なりにまとめたものだが、宗教心薄いMorris.なのに、なぜかこの寺は気にいってしまった。

Morris.の生家のすぐ上手に廣福寺という禅寺があって、もともと門前の小僧習わぬ経を読む類で、お盆や彼岸には小坊主としてバイトで檀家を回ったことがあるくらいだから、お寺自体には親しみがある。

JR寺田町の東1kmくらいだから、また今度機会があったら覗きに行きたい。

舎利寺正門丸瓦屋根がいい感じ

正面が不動明王の庵、左は本堂

三十三観音を一まとめにした石塔

巨岩の中に石仏を配した「西国三十三観音霊場」。境内に33個ある

仏足石をレリーフにした石塔。仏さま自体を奉るのは畏れ多いので足のみ

ユーモラスな顔立ちの不動明王、両脇に二童子を従えている

龍みたいな顔をした亀の上の仏塔。
朝鮮的な感じがする

石の邪鬼。もともとはこの上に四天王像などが載っていたはず

並んでいる鬼瓦や鴟尾は、以前の舎利寺のもの

本堂の祭壇。本尊は釈迦如来

無縁佛石塔、

奇跡的に残った梵鐘

この木鐸の魚は実に表情がいい

漆喰の円形連子窓がお洒落

正門を境内から臨む
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