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  Morris. 日乘2019年8月

Morris. の日記です。読書控え、散策報告、友人知人の動向他雑多で す。新着/更新ページの告知もここでやります。 
今 月の標語

  脱・脱力

【2019年】
7月  6月  5月  4月  3月 2月  1月


2019/08/19(月)●久々大安亭
8時半起床。
今朝の血圧は163/68/95。
午前中は部屋ゴロ。
昼から自転車で、大安亭へ。
その前にコミスタ神戸(旧吾妻小学校図書室)に寄って一冊借りる。(市立図書館で借りた本読み終えて、今日月曜日は休館のため)
大安亭では葱や辛ラーメン、片栗粉など買って1時半帰宅。帰る途中から久しぶりの雨になった。
明日あるはずの仕事、キャンセルになった(^_^;) これでMorris.のお盆休みは10日以上ということになる。leno坊の画像不具合(マウスが原因)、めまいなどあって、ほとんどどこにも出かけず(近所には出かけてたけど)、なんとなく生産性の低い(普段から高くはないけど)連休になってしまった。
台風以外の日は、ほとんど毎日洗濯してた。しかし、手作りしたシーツは洗濯したらかなり縮んでしまった(>_<)
今日の歩数は4299歩。


スキヤ猫B 

夕顔 

白花夾竹桃 

芙蓉」 

春日野道雉猫チマちゃん 

桃缶 


[今日の韓国語単語from Kpedia]
살아있네!!(サラインネ やるじゃん!、いけるじゃん!)
直訳すると「生きているね」で「まだ やるじゃん いけてるね 」の意味。
類似した表現としては
여전[如前]하네(ヨジョナネ 相変わらずだね」
아직 그대로네(アジククデロネ まだそのままだね 以前と変わらないね)
最近では좋네(チョンネ  いいね!)というニュアンスでも使われる。

【日本の戦争 Ⅱ 暴走の本質】山田朗 ★★★☆☆ 2018/12/08 新日本出版社
山田朗 1956年 大阪府生れ。明治大学文学部教授。歴史教育者協議会委員長。

「平和・反戦」を口にしながら、実際の戦争のことをあまりにも知らずにいるのでは、と、最近戦後論以外に、戦前戦中の本もよむようになった。本書は、日露戦争からアジア太平洋戦争にいたる日本の軍拡、戦略、軍備、陸海軍の乖離、日中戦争、特攻、沖縄戦などについて、資料を駆使して論述したもので、Morris.が知らずにいた、日本の戦争にたいする無謀な「暴走」を、実にわかりやすく分析・解析してあった。

[第一部] 軍備拡張はどのように進展したのか
第一章 軍備拡張競争の実態:建艦競争を中心に
第二章 近代日本における軍事力編成
[第二部] 軍備拡張の帰結としての戦争
第三章 近代日本の戦争を支えたソフト・システム・ハード
第四章 第二次世界大戦における日本の敗因
[第三部] 戦争の特徴が凝縮されたものとしての戦闘
第五章 兵士たちの日中戦争
第六章 日本軍の航空特攻作戦の特徴
第七章 沖縄戦の軍事史的位置


戦争は、決してある日突然に起こるものではなく、必ず国家の政策の延長、外交的対立の帰結として起こるものである。だが、軍備の拡張(軍拡)が、国家を武力による威嚇や武力の発動としての戦争へと傾斜させたり、無謀な政策を生み出す原因になることもまた確かなことである。「自衛」のために設けられたはずの軍事力が、その拡張とともに他国に脅威を与えたり、また、その軍事力を背景にした政策が、膨張政策や戦争へと暴走していくことがある。それは、近代日本の軍拡と戦争の歴史から学ぶ重要な教訓の一つである。
本書は、国家が膨張主義的な国家戦略をとった場合、あるいは軍事力に対して抑制的な監視の眼がはたらかない場合には、「自衛」のためであったはずの軍事力はたちどころに軍拡競争をへて「自己増殖」し、パワーポリティクスの道具になってしまうことを描いている。(まえがき)


ね、実にわかりやすい。

20世紀が生み出した国家総力戦(Total War)は、その準備段階から国家の総力をあげての軍備拡張と国民の精神動員を不可欠のファクターとし、戦争遂行段階においては必然的に大量・無差別破壊に帰結する。
1.世界規模での軍備拡張競争
2.国家総動員
3.大量・無差別破壊(第一章)


国家総力戦は「トータルウォー」(^_^;)

戦争遂行の三要素
1.戦争をするためのハードウェア(兵器体系・設備)
2.兵器と人員を動員・統制するためのシステム(法律・制度・組織)
3.戦争をするためのソフトウェア(人材・価値観・戦略)(第三章)


これも明晰である。

国力(ウォーポテンシャル)の指標(量的判定)
1.国土の広さ
2.人口
3.経済力
4.軍事力(第四章)


戦争直前から戦中の間の日米二国の国力の差異をデータで比較。あまりにも歴然たるその差には、いまさらながら唖然としてしまった。

中国戦線において長期間にわたる戦争を、のべ数百万人が経験したにもかかわらず、日中戦争は戦後日本人の<オモテ側の記憶>にはならず、真珠湾・ミッドウェー・特攻・原爆というイメージに象徴される対英米戦争の<ウラ側の記憶>として沈殿しつづけた。日中戦争が当事者たちにとっても勝っているのか負けているのかよく分からない錯雑したものであったこと、地域・部署によってあまりにも違いすぎて統一したイメージを結ばないこともあるが、決定的な理由は、日中戦争の残虐性と加害性にある。日中戦争は参加した当事者たちにとって、自分の家族やそのうち兵士になるであろう後輩たちにも決して語れない要素を持ちすぎていた。

「語られることがなかった(語ることが不可能なほどの実状)」のために、日本国内で、日中戦争のイメージが曖昧なものになってしまったことは、現在、そしてこれからの日中関係にも、大きな影を投げかけている。

兵士たちの脚力における行軍を最も難儀にしたのは、陸軍の完全軍装の重量である。被服の他に、弾薬120発、手榴弾二発を中心に、鉄帽(ヘルメット)、背嚢(のちに背負い袋)、外套、携帯天幕、飯盒、水筒・十字鍬(小つるはし)・小円匙(小シャベル)・雑嚢があり、背嚢または背負袋には、米・缶詰(牛缶など)・乾パン、乾燥みそなどの糧食を入れる。さらに予備の小銃弾薬や、分隊によっては軽機関銃の弾薬、擲弾筒などを持たされることもある。これらの総重量は30~40kgにも達した。(第五章)

今回の韓国の旅出発時のMorris.の荷物の重量が23kg(これでも結構重く感じた)の1,5倍以上の荷物で、大陸での行軍が続く、というだけで、めげてしまった。

特攻は、戦争継続の不可能を訴える前線からの悲痛なさけびであったにもかかわらず、それを軍の指導者・指揮官たちの多くが汲み取る事ができなかったのである。
このような「禁じ手」である特攻について、どのような形であれ美化することは、若者の戦死の実態を覆い隠し、作戦を強行した戦争・作戦指導者の責任を雲散霧消させるものである。特攻について語るとき、私たちは、この理不尽な作戦を強行した軍指導者をまず第一にひはんすべきであり、「慰霊」の名の下に、責任の所在をあいまいにしてしまってはいけないのである。特攻による戦死者を、戦争の性格と特攻という作戦の本質を考慮することなく、ひたすらに「殉国者」として美化することは、それは戦死者の死を無にする行為である。
戦争で死亡した人々の死を、意味あるものにするのも、無意味なものにしてしまうのも、私たちがどのような社会をつくるかにかかっている。もし、私たちが、憲法の「戦争放棄」と「戦力不保持」の理念につながった戦争への反省を忘れ、再び多くの戦死者を出すような事態を招いてしまえば、私たちは、再び、戦死者の死を意味ないものにしてしまうのである。
その点で、特攻というあってはならない行為を顕彰・美化することは、死者を使って戦争への批判的な言動を封じようとするものであり、かえって死者を冒涜する行為だと言わざるをえないのである。(第六章)


「特攻」は「禁じ手」であり、美化することは特攻の死者を冒涜することになる。これは特に重要なところ。

沖縄戦は、ここを最後の決戦と位置づけた海軍と、決戦に徹しきれず本土決戦に傾いた陸軍中央との間に調整がなされないままに、航空作戦を重視した陸海軍上級機関と地上戦第一主義をとった第三ニ軍とが戦闘開始後も対立し続け、第三ニ軍司令部内部の対立で最終段階を迎えるという、戦争末期の日本軍の内部崩壊を典型的に示した戦いであった。これは、沖縄戦の戦略的な目的を陸海軍・中央・出先がしっかりと意思統一できないままに作戦が強行されたからであり、戦略目的の意思統一の欠如は、そのまま戦力の集中の欠如につながった。

これに加えて、軍部(日本軍事政権)の沖縄住民軽視ということが、被害を倍加したことも忘れてはならない。

陸軍の「玉砕」戦術にせよ、海軍の特攻作戦にせよ、戦闘の敗北に直面して将兵に死を強要するあり方は、戦争末期の追いつめられた絶望的戦況のなかで、顕在化したが、これは単に一時の状況がなしたものではなく、捕虜になることを認めない「天皇の軍隊」の本質からでてきたものだといってよいだろう。

「天皇の軍隊」という言葉一つ取ってみても、天皇の戦争責任は明らかである。

沖縄戦における特攻作戦、戦艦「大和」を中心とする会場特攻隊の出撃に至っては「玉砕」が自己目的化したとしかいいようがない作戦であった。沖縄戦は、希望と現実を混同して主観的に戦って自爆した日本軍のあり方を象徴的に示す戦いであったと言える。(第七章)

「希望と現実を混同」(>_<)

世界の軍隊を見ても、核兵器を保有している国であっても、それは「自衛のため」と強弁するのが常である。世界のたいていの国は、自国の軍隊は「自衛のための必要最小限度をこえるもの」ではないと自国民には説明していると思われる。そうすると、自衛隊は、「自衛のための必要最小限度をこえるもの」ではないので、「軍」でも「戦力」でもないとする日本政府の説明は、実に奇妙なものと言わざるを得ない。

「撤退」を「転進」と言い換えた大本営発表に通じるものがある。

自民党の本音は、自衛隊を正真正銘の軍隊にすることにある。このような軍隊化の動きと、イラク派遣部隊の「日報」隠しや自衛官の国会議員への暴言などにみられるような立法府軽視の傾向が重なると、自衛隊は、ますます国民のチェックを逃れようとするようになる。国民のチェックと国会のコントロールに服さない「実力組織」はきわめて危険な存在である。
九条改憲による自衛隊の軍隊化は、歴史の教訓から学ぼうとしない潮流から生れたものであるし、自衛隊が軍隊となれば、アメリカが要求している防衛費のGDP2%への増額にも歯止めがかからず、近隣諸国を刺激してアジアの軍拡、ひいては世界の軍拡に拍車をかけることになる。私たちは、日本を世界的な軍拡と緊張増大の出発点にしてはならない。(あとがき)


Stop!! ABE!! Stop!! 憲法改悪!!

2019/08/18(日)●めまいはほぼ解決(^_^)
8時起床。
今朝の血圧は168/82/85。36.0℃
午前中、眼鏡をいろいろ取り替えてPC作業。結局以前から使ってた奴で2時間近く作業しても、目眩の症状は発生しなかった。これからしばらくは、日常生活用、PC作業用、楽譜用に使い分けることにする。日常生活用は休みと仕事で別の眼鏡にする。現在、日常生活用二つ、PC作業用二つ、度付きサングラス一つ、予備用一つと5,6個使える眼鏡がある。ただしPC用の2つはどちらもかなりレンズに傷入ってるから、今度韓国に行ったら、同じものを新調するべきだろう。
昼から自転車で都賀川公園まで出かけ、楽譜用眼鏡(たぶんPC作業中の目眩の原因)で2時間ちょっとミニギターやったけど、目眩の気配はなかった。これもしばらく様子見ということになるが、とりあえず、昨日までの目眩症状からはほぼ開放されたことになる。
水道筋で買い物して5時帰宅。
郵便局からチラシが来てて、10月から、普通郵便82円から84円に、はがき62円から63円になるとの通知。これは消費税に伴うものだから、値上げではないのだろうけど、切手や葉書買ってる人は10月から追加の1円、2円切手を貼らねばならなくなる。なんとなく鬱陶しい。
今日の歩数は2985歩。


照光寺クロ 

素麺 

トンチャン 

[今日の韓国語単語from Kpedia]
현기증[眩氣症](ヒョンギッチュンg    めまい 目眩)
현기증[眩氣症]이 나다(ヒョンギチュンgイナダ めまいがする、目が回る)
어지럽다(オジロプタ 目まいがする、散らかっている、乱れている、ふらふらだ、目まぐるしい、クラクラする)    
어지럼증[症](オジロムッチュン めまい 目眩)    
・머리가 어지럽다(モリガオジ ロプッタ めまいがする、頭がクラクラする)    

【『坊っちゃん』の時代】関川夏央・谷口ジロー  ★★★★ 1986~1997 双葉社
「凛冽たり近代 なお生彩あり明治人」

第一部『坊っちゃん』の時代 1987/07/09
第二部 秋の舞姫 1989/10/28
第三部 かの蒼空に 啄木日録 1992/01/12
第四部 明治流星雨 1995/05/26
第五部不機嫌亭漱石 1997/0828


昨日紹介した、鶴見と関川の対談(インタビュー)で、この漫画のことが出てきたので、ついでに引用しておく。このシリーズはほぼ刊行時にリアルタイムで読んだのだが、先日(と言ってもだいぶ前)、コミスタ神戸図書室(旧吾妻小学校図書室)に全巻揃っているの見つけて、借り出して再読したのだ。そのときのメモである。文章は全て関川のもの。

漱石を小説家たらしめたもののひとつはイギリス体験である。そしてもうひとつは開放的な家屋のなかに隠れ住んだ日本の「家」のしがらみである。西欧との戦い、家長としての束縛、この新旧ふたつの圧力と桎梏が二正面から漱石を苦しめ、それらから自由でありたいという強い希求が漱石の小説創作の根源的動機であった。
いまわれわれは家屋そのものと精神から縁側というものを完全に失い、同時に西欧文化への反発心をも失い果てている。これからは、なにが日本人の創作衝動をつきうごかすのだろうか。あるいはすでに薄暮色のあいまいな自由のなかで、精神の解放の必要すらも見失いつつあるということなのだろうか。日本社会は老い、日本文化はその洒脱さ軽快さとは裏腹に、ひたひたと寄せる没落の時期をわれ知らず迎えているのだろうか。(「歴史読本スペシャル」1986年6月号より)


四半世紀前に関川は日本の老いを嘆いているが、その後の彼の健筆ぶりからすると、これは一時的鬱病だったのかもしれない。

わたしはつねづね「坊っちゃん」ほど哀しい小説はないと考えていた。この作品が映像化されるときなぜこっけい味を主張に演出されるのか理解に苦しんでいた。そしてそれらの作品はことごとくわたしの期待を裏切って娯楽とはいいがたかった。同時に、明治がおだやかで叙情的な時代であるという通俗的でとおりいっぺんな解釈にもうんざりしていた。
明治は激動の時代であった。明治人は現代人よりもある意味では多忙であったはずだ。
ナショナリズム、徳目、人品、「恥を知る」など、本来日本文化の核心をなしていたはずの言葉を惜しみ、それらがまだ機能していた時代を描き出したいという強い欲望にも駆られた。
この作品は元漫画アクション編集部の鈴木明夫氏とともに発想、構築され、彼が移動で立去ったあとは秋山龍太郎氏がうけついだ。(第一部 あとがき)

Morris.は「坊っちゃんの時代」は好きだが、漱石の「坊っちゃん」にはそれほど惹かれなかった。(一番好きなのはもちろん「猫」\(^o^)/) 「哀しさ」もそれほど感じなかった。

日本は歴史上の衝撃として、なにがあろうとかわらない。たとえあの巨大な戦争によるすさまじい破壊によっても。
なにがあっても、とは多少大げさである。その隈として、戦争よりも近代の出発のありかたのほうがはるかに劇的ではないか、という考えがわたしの内部で起ちあがった。それは、ひろくは明治という時代そのもののことであり、せまくは日露戦争後から明治終焉までの数年間である。わたしたちの現にいまある考えかたや反応の原型を塑像したのはその時期ではないか。
近代以降、現在に至るまでをはるかにつらぬいて日本に恩恵を与え、同時に悩み苦しませてきたのは西欧文明であり、西欧文明とのつきあいのきしみである。よりありていにいえば、白人が東アジア人より美しいと見えたときに、日本のあるいはアジアの苦悩ははじまった。そしてその悩み、あるいはたんに居心地の悪さは、「戦後」からこちらに生きるわたしのなかにもあって、いまだに未整理である。(第二部あとがき)


「日露戦争」とその後の数年間に着目したことに、関川の「眼」の鋭さを感じる。

俗に大逆事件と呼ばれる天皇暗殺計画、またはある程度具体的な準備をともなった暗殺計画の夢想は、正確には「宮下・菅野・新村事件」、または宮下太吉が手投げ爆裂弾の製作と実験を行った地名から「明科(あかしな)事件」と呼ばれて妥当であろう。
明治政府首脳はたんなる未遂事件、あるいはそれにも至らぬ粗雑な暗殺計画を奇貨として、意図的に事件を拡大したのである。
日清・日露の戦間期に産業革命は進み、各地に「労働者」という大衆が生まれつつあった。しかし、未熟な日本の資本制は、その初期段階におけるひずみを急速に増して各地で労働争議を呼び込み、同時にそのような不合理と不平等を指弾する人々「主義者」を生んだ。明治三十年代にはいまだ社会主義と無政府主義の違いさえ明らかに認識されていなかったから、彼らは要するに、西欧社会科学の影響下に資本制と帝国主義の問題点に気づき、体制に非を鳴らした「憂国者」だった。
伊藤博文が暗殺された明治42年以降は、ほとんどただひとり生き残った「元老」山県有朋がその恐怖心をことさら強く抱いた。そして、そのような過剰な危機意識を体して、やはり過剰な防衛意識で事態に臨み、前代未聞の大量処刑を実行したのは、明治国家が40年かけて育て上げた官僚機構だった。(いわゆる「大逆事件」とその背景)


Morris.が小学生時の60年安保反対の人々も、ほとんど本質の理解の外での反対運動だったのではなかろうか。昭和の戦争に敗けた後も、日本人と日本国家は無責任ということで何の変化もなかったような気がする。

明治43(1910)8月24日、漱石は修善寺菊屋本店で大吐血をして危篤になった。正確にはこのとき30分ほど漱石は死んだのである。
死はなんらおそろしいものではなかったが、不可解な味わいをともなった特異な体験でもなかった。すなわち死は、本人にとって存在しないも同然であった。
「妻(さい)の説明を聞いた時余は死とはそれほど果敢ないものかと思った。そうして余の頭の上にしかく卒然と閃めいた生死二面の対照の、如何にも急激でかつ没交渉なのに深く感じた」
死は救いにはならないのである。また人間は幽霊にさえなれそうもないのである。ようやく帰京して入院した漱石は、そのように思い当たっって、心細さとつまらなさとをともに味わった。
11月3日、漱石は大塚楠緒子の死を知った。
楠緒子は、「菫のように小さ」く美しい人だった。漱石の大学院時代以来、やがて楠緒子が漱石の友小屋保治と結婚してからも、ふたりの間にはあまりあわいが微妙な交感があった。いっそ恋愛と呼んでしまいたい交感である。彼女の影は『それから』や『門』そして『こころ』に濃く投影されている。その楠緒子が満三十五で死んだ。
漱石はともすれば無力に傾きがちな気分をなんとか変えて、つぎのような手向けの句をつくり、明治43年11月15日の日記にしるした。
「あるほどの菊抛げ入れよ棺の中」(『家はあれども帰るを得ず』収録('92年文藝春秋刊)


この菊の句は、漱石の句中、一番二番だと思う。漱石って究極のロマンチストだったのかも。

私はこの五部作で、ひと口にいって近代史の転換点そのものを主題とした。
明治という時代には、まずやむを得ざる欧化への衝動があり、防衛的民権主義と国民国家形成があわただしく行われた。そんな濃密な空気のもと、旧時代の道徳と新時代の思想の不整合に悩む青年たちが生き、世界と連動した経済とそれがもたらす消費生活に大きく揺れる人々がいた。そして日露戦争を頂点として重なりあい、やがて遠く分離していく国家的自我と国民的自我の裂け目に呑みこまれた不運なものたちがいた。しかるに、あるいは当然のことに、人々の日常はそれぞれにとってかえがたい喜びと悲しみとをのせて、たゆまずまわりつづけるのである。
鴎外の物語を除き、明治39年から明治43年をことさらに時の舞台として選んだのは、その日露戦争語の数年間こそ近代日本の転換点であったと見とおしたからだ。そしてこれ以後日本は1945年へとつづく鉄路の上を、はなやかにまた重々しく進みはじめるのである。(第五部あとがき)


あの時期に、漫画家との合作でこのような作品を残したということで、関川に羨望の念を覚える。

2019/08 /17(土)●いまいち体調すぐれず(^_^;)
8時起床。
今朝の血圧は168/82/85。36.0℃
朝の三点セット。
昨日のめまいの原因が、冷蔵庫に入れてた麻婆豆腐かとも思ったのだが、今日も、軽いめまいに襲われる。今日もDEL坊で読書メモ取ってる最中だった。これは、もしかしたら、ソウル南大門で新調した眼鏡のせいなのではないかという疑念が起きる。
この眼鏡は楽譜用?に誂えたもので、かなり度数を落として、あまり遠くのものは見えないながら、それほど日常生活に支障もなさそうなので、普通の生活も、仕事のときもこれを、そのままずっと使い続けてきた。
DEL坊の画像処理の不安定(マウスが原因だったのだが)もあって、なるべくPC作業は避けてきたのだが、数日前に解決したので、日記の整理や、読書メモなど打ち込み作業を開始して、それでめまいに襲われたのだから、眼鏡に原因というのは十分考えられる。とりあえず、以前使ってた眼鏡に変えて作業しようかと思ったが、無理はよくないので、今日は作業中止。
高校野球聴きながらベッドで、裸眼で漫画読書(^_^;)。
智弁和歌山-星稜の試合が、1-1で延長に入り、タイブレイクにまでもつれ込み、13回星稜の逆転サヨナラホームランというすごい試合だったので、とちゅうからついついテレビ観戦になってしまった。
その後気分転換も兼ねて、王子動物園に。まぬうにまともに挨拶したかったのだが、今日も、表に出てるはずのペッキーの姿は見えず、裏側のイーリスをガラス窓越しにちょこっと撮影(>_<)
4時過ぎから、駐車場樹の下ベンチでだらだらとミニギター。
7時帰宅。
自転車で水道筋に買い物に出て、夜もだらだらと過ごす。
今日の歩数は30455歩。


今日のまぬう イーリス 

プレーリードッグ 

ボブキャット 

オオヤマネコA 

オオヤマネコB 

ヤマアラシ 

[今日の韓国語単語from Kpedia]
몸조리[調理] 잘 하세요(モムジョリチャルハセヨ お大事に、体に気をつけてください)
病気、怪我中の人、出産直後の方や体が弱い方などにかける言葉。(モム 体)+조리[調理](チョリ 養生とか摂生の意味)+잘 하다(チャルハダ 上手くする )
もちろん조리[調理](チョリ)には日本語と同じく「調理」の意味もある
조리법[調理法](チョリポプ 調理法)    
조리사[調理師](チョリサ 調理師)
「養生」という意味では   
산후[産後]조리[調理](サヌジョリ 産後の養生)    
산후조리원[産後調理院](サンフジョリウォン 産婦人科医院)

【日本人は何を捨ててきたのか】鶴見俊輔, 関川夏央 ★★★☆ 2011/08/10 筑摩書房
「思想家・鶴見俊輔の肉声」副題
鶴見俊輔 1922年東京生れ。哲学者。15歳で渡米。ハーバード大学で哲学を学ぶ。アナキスト容疑で逮捕されるが、留置場で論文を書き上げ1942年卒業。同年日米交換線で帰国。1946年「思想の科学」を丸山眞男、都留重人らと創刊。1965年、「ベトナムに平和を市民連合」を小田実、高畠通敏らと発足、社会運動にも携わる。2015年没

初出 第一章--未来潮流「哲学者・鶴見俊輔が語る 日本人は何を捨ててきたのか」(NHK教育)1997年3月15日放送。
第二章--2002年12月3日、4日 京都、徳正寺にて収録

鶴見 ジョージ・オーウェルのいった「ペイトリオティズム(patorism)」。この「ペイトリオティズム」というのは、ナショナリズムに対抗することになるんです。
関川 日本語に訳すと愛国主義? 愛郷主義?
鶴見 そう。郷土主義なんだね。
関川 湾岸戦争では郷土愛好者というロケットが飛んで行ったんですか。ペイトリオットという。
鶴見 あれはナショナリズムなんです。ペイトリオティズムというのは、むしろコンビニだね。


ナショナリズム(国家主義)を「愛国主義」と訳されることがあり、PatorismとNationalismを同じようなものと捉えることもあるが、両者の差異は峻別しなくてはならない。パトリオットミサイルというのは名前に偽りあり、ということになる。

鶴見 ジークムント・ノイマン(政治学者 1904-62)の『現代史』という本でも、ヒトラーに国盗りの方法を教えたのは満州事変(1931)だといっている。満州事変、つまり、石原莞爾たちなんだけど、その満州事変は、世界にひどいことを教えた。その意味だけでも、日本史はもう世界史から不可分になっている。


「日本史と世界史は不可分」これを常識にしておかねばならない。

鶴見 ミリアム・シルババーグは、カリフォルニアに住んでいる女性の中野重治研究家なんですが、彼女が中野重治を扱ったときの題は『チェンジング・ソング』(邦訳『中野重治とモダン・マルクス主義』)なんですね。転向論じゃないんだ。「チェンジング・ソング」。つまり、中野重治は必死になって状況と取り組んで、そのとき、そのときに見事な歌を歌った。その次代に働きかけるように歌を歌った。そういう視点なんです。「転向と抵抗」。この二つの側面から見れば転向なんだけど、別な側面から見れば抵抗。そこから。励ましの歌を受け取る人間が常に、中野重治にはいた。そういうんだね。
関川 そうか。転向は抵抗でもあり得るという考え」(第一章)


「転向」つまり日本では共産党主義からの転向で、「絶対悪」(共産主義側から見ると)みたいな捉え方されてきたが、そんなたんじゅんなものではないだろうと、Morris.もかねがね思ってきた。さまざまな要素を含んでいるし、かんたんに善悪で判断できないものでもあるということ。中野重治は気になる存在である。

鶴見 日本が、大きく変わったのは、やっぱり日露戦争でしょう。多くの血税を払ったことと、世界の大国になったという嘘の情報とがからんでしまった。だが、あのとき、指導者は本当に脳漿を絞り尽くした。たいへんな努力だったと思う。
関川 戦争をやめるためにも、すごい努力を払いましたね。
鶴見 高橋是清にしろ、小村寿太郎にしろ、児玉源太郎にしろ、大山巌にしろ、たいへんだった。ところが、その人たちの気運が、全然、誰にも伝わっていない。
抜け道がなかったんだ。高橋是清たちは悲惨なんだ。一生懸命、この国を建て直そうとして殺されるまでやった。偉い人たちです。
関川 満つれば欠くる、ということでしょうか。日露戦争、とくに日本海海戦は高すぎるピークでした。
鶴見 詩人の長田弘のことわざで、「成功は失敗のもと」というのがある。1905年、明治38年は、世界史の中で驚異的な成功なんですね。たいへんなことです。だが、その後に、結局、型ができた。それ以降、その型に合わせてやっていこうとなった。それからずっとでしょう。
関川 戦後も同じではなないですか。


長田弘はMorris.の好きな詩人の一人だがこのことわざ? はしらなかった。確かに日露戦争の成功(勝利?)が、「失敗のもと」だったと見れば、日本近現代史早わかりである(@_@)

鶴見 関川さんの漱石は、この1905年が出発点なんだよね。
関川 当初の発想はそこですね。坂の頂点からの下り道。
鶴見 山田風太郎みたいな感じなんだ。漱石は実際には行っていないが、森鴎外が中心の山県有朋の椿山荘での歌会のシーンもいいね。漱石はここで、山県有朋を、「坊っちゃん」が赴任することになる松山の中学校の校長にするんだね。野だいこは桂太郎。マドンナは平塚らいてう。井上眼科も出てくる。いまもあるよね。そこみた目を病んだ女、そういう幻の女を見て、彼女を兄の嫁でもあり、樋口一葉でもあり……理想の女性なんだ。明治以前の美徳を全部自分のなかに持っている女性。そして、彼女を、「坊っちゃん」のあのおばあさん、清という女性にするんだ、関川さんは。
結局、明治初期の残像のなかで、いまの日本を強引に含めてしまおうという作品でしょう。そのためには、漫画の方法は、たいへんに難しい漫画のテクニックを使ってやっている。すごい作品だと思う。どうして、こういうところまで来たのですか……。
関川 はあ……(笑)


鶴見が以前「がきデカ」を論じたことは知っていたが、「『坊っちゃん』の時代」もちゃんと読んでるわけで、しかも、その本質を読み取ってることにも感心した。作品の概説を作者である関川に披瀝するあたり(^_^;) この対話(インタビュー)の面白いところ。

鶴見 石橋湛山というのは、総理大臣になった人物のなかで、この百四十年の最高の人ですよ。
関川 でも二ヶ月しかやらなかったですね。
鶴見 辞め方がプラグマティックなんだね。たいへんになったら、パッと辞めたでしょう。あれが、偉いんですよ(笑)。
関川 石橋湛山が病気を治して首相を続けていたら、岸内閣は成立(1957)しなかったわけでしょう。
鶴見 そうです。
関川 としたら、いわゆる安保反対運動というのは別の展開をしたでしょうね。でも現実は反岸運動になっちゃったわけですね。

鶴見 石橋湛山にはユーモアがありますよ。昭和20年の正月、彼は思い立って伊仙神宮へ行ったんだ。秘書の大原万平だけを連れてね。伊勢神宮から出てきたとき、大原万平が、「社長、何を祈られましたか」といったら、「一日も早く日本が負けることを祈った」とね。大原万平の手記にある。そういう人です。戦中日本の理想の人。


石橋湛山という名前だけは知りながらも、ほとんど無縁の人と思っていた。戦後史の節目を作った人ということで、彼にも注目。

関川 宮部みゆきの『蒲生邸事件』に書かれた昭和11年の東京の市井は、とても懐かしく思われます。
鶴見 あの作品はいいところにいっている。平田という男がいるでしょう。時間を超える能力を持っているんだね。こっち側で生き続ける権利を自分で放棄する。そして、昭和20年の戦火のなかに没していって死んでしまう。それは自分の選択なんだ。人と人との細やかな関係があって、それhが選択の根拠になるんだ。宮部みゆきの傑作です。(第二章)

宮部も気になりながら読まずにいた作家である。この作品から読んでみようか。

2019/08 /16(金)●めまいと吐き気と映画「ひろしま」
8時起床。
今朝の血圧は152/56/85。36.0℃
金曜日の朝は小田嶋隆の「「ア・ピース・オブ警句」を見るのが楽しみなのだが、小田嶋の体調不良から、掲載休みの日が多くなり、ちょっと心配である。今朝も更新されてなかった。
朝の三点セット。午前中は部屋ゴロして、
昼から、どこか出かけるつもりだったのだが、DEL坊で読書メモ取ってる途中、軽いめまいに襲われ、さらに吐き気がして、今朝食べた麻婆丼、ほとんどトイレでもどしてしまった(>_<) 一昨日作った麻婆豆腐を冷蔵庫に保存していたのだが、ちょっと傷んでたのかもしれない(^_^;) ということで今日は外出中止して、高校野球聴きながら、古い漫画(大島弓子、土田よしこ、「YAWARA」など)読み続ける。
深夜放送の映画「ひろしま」(1953)見る。朝鮮戦争の時期に制作されたということになる。原爆批判と鎮魂と怒りと悲しみをパッチワーク風に点綴した不思議な作品。かなりの制限やもあったと思うし、よくこういった作品を作ったものである。
今日の歩数は732歩。

[今日の韓国語単語from Kpedia]
성수기[盛需期](ソンgスギ 繁忙期)と비수기[非需期](ピスギ オフシーズン)
리조트지[地]에서는 성수기[盛需期]와 비수기[盛需期]의 차이[差異]가 심[甚]하다.(リジョツチエソヌンソンgスギワビスギエチャイガシムハダ リゾート地では繁忙期と閑散期の差が激しいです。)

【室町小歌】小野恭靖 ★★★ 2019/03/25 笠間書院 「コレクション日本歌人選:064」
室町小唄最後期の「隆達節」から50句を選んで解説したもの。

Morris.は「閑吟集」(永正15 1518)への愛着が深かったため、この「隆達節」への関心は低かったが、それなりに見るものがあることがわかった(^_^;)

高三隆達(たかさぶりゅうたつ)は大永7年(1527)-慶長16年(1611)。堺の町衆として生まれた。
隆達節が流行のピークにあったのは文禄・慶長年間(1592-1615)、「閑吟集」とは一世紀の時間差がある。

・面白の春雨や 花の散らぬほど降れ

・色々の草の名は多けれど 何ぞ忘れ草はの

・恨み恋しや 恨みしほどは来しものを

・つれなかれかし なかなかに つれなかれかし

・あら何ともなの うき世やの

・あたたうき世にあればこそ 人に恨みも 人の恨みも

・いかにせん いかにせんとぞ言はれける もの思ふ時の独り言には

・いつもみたいは 君と盃と春の初花

・縁さへあらばまたも廻り逢はうが 命に定めないほどに

・思ひ切らうやれ 忘れうやれ 添はぬ昔もありつるに

・帰る姿をみんと思へば 霧がの 朝霧が

・恋をさせたや鐘撞く人に 人の思ひを知らせばや

・笑止や うき世や 恨めしや 思ふ人には添はで添はでと思ふほどに

・ただ遊べ 帰らぬ道は誰も同じ 柳は緑 花は紅

・夏衣我は偏(ひとへ)に思へども 人の心の裏やあるらん

・花よ月よと暮らせただ ほどはないものうき世は

・世の中は霰(あられ)よの 笹の葉のさらさらさつと降るよの

中世近世の歌謡曲だと思えばわかりやすい。演歌(艶歌)の源流ともいえるだろう。

2019/08 /15(木)●台風 お盆 敗戦日
7時半起床。
今朝の血圧は139/59/78。35.8℃
台風10号は午後3時頃広島あたりに上陸しそうとうことなので昼前に、マルハチに買い出しに出る。
連休でそこそこ食べてることもあって体重も50kg越えしたようだ。
マウス交換でleno坊普通に使えるようになったので、6月の日記の画像整理。
喫緊の悩みの一つは解決したが、もう一つの左手の不調。相変わらず腫れたままだが、日常生活にはとりあえず差し障りなさそうなので、ほっておく。
午後になると流石に雨が激しくなった。結局ほとんど一日部屋ゴロ。
今日は日本にとっては「敗戦記念日」、韓国にとっては「光復節」。政治的にはぎくしゃくしている日韓関係だが、文在寅大統領のコメントは比較的穏やかだった。
今日の歩数は2945歩。



何とか50kg復帰(^_^;) 

左手の腫れ 

厚焼きだし巻き 

[今日の韓国語単語from Kpedia]
광복절[光復節](クヮンgボクチョル 光復節)
8月15日、日本統治からの解放と独立を祝う韓国の祝日。光復節とは国権を回復し、「光を取り戻した日」という意味である。公共施設や家庭などでは国旗태극기[太極旗](テグッキ 太極旗)が掲げられる。この日には全国各地で式典が行われ、そのなかで大統領が参席し、祝辞を述べる。大統領は日本との歴史問題や過去の清算にも言及するため、その発言が注目される。また大統領特赦が行われることもある。

【樽とタタン Tarte Tatin】中島京子★★★☆☆ 2018/02/20 新潮社 初出 「小説新潮」2016-17、「yom yom 」2011年5月号

喫茶店の赤い樽の中を自分の場所にしている女の子の回想という形で、店の常連たちのエピソードを綴ったオムニバス短編集。

「ところで、11月20日が何の日だか、ご存知ですか」
「23日は勤労感謝の日」
わたしは思わず樽の中から声を上げた。
ユミカワタネコはびっくりして樽を凝視したが、やがてその場の主導権を握り返し、
「ええ、でも、20日は何の日でしょう」
と、重ねて小説家にたずねた。
「じつは、『いいかんぶつの日』なんです」
「乾物?」
「乾物を干しものと書いた場合、干物の『干』の字が『十』と『一』で成り立ち、乾物の『乾』の字は『十』『日』『十』『乞』でできているので、組み合わせると『十一月二十日にかんぶつを乞う』と読むことができるため、この日は『いいかんぶつの日』となったのです」


ネットで調べたら、たしかに11月20日は「いいかんぶつの日」となっている。しかし、これは日本かんぶつ協会が2010年に制定したものらしい。物語の時代背景は女の子の回想ということで2010年以前の可能性が高い。ここらあたりにもに、中島の時空を混乱させる「仕掛け」があるのだろう。

あちらでもこちらでも人は逝き、残された者は何も知らないままに生きている。
それがわたしたちの現実だというのなら、たしかにそのような現実を我々は生きている。結局、残されたものに手渡される真実など、何ほどのものだろうか。記憶の記憶を手繰り寄せ、合間合間を想像と妄想で繋ぎ合わせて、わたしたちはわたしたちの物語を作っていくしかないのだとしたら。(「「はくい。なお」さんの一日」)


うーーん、中島京子節というか、このあたりの表現はうまいなあ。

「年ってものをとりゃなあ」
夜寝て朝になればね、というような口調で、祖母は言った。
「みんな、どうしたって死ぬんだで」
牛だって人だっておんなじことだ。もうすぐ、ばあちゃんにもお迎えが来るんだで。
祖母は、まだ、この世に生を受けて4年とか5年とかいった、人間としてスタート地点に立ってまもない孫に、ひたすら死について話し続けたのである。
「長いことないんだから、好きにさせてもらうべえ」
祖母はそういって、悠然とぶらんこを漕いだ。
「おれはなあ、死んだらそれっきりだと思ってる」
なぜ、そうした死生観を祖母が持つに至ったかはわからない。
おそらく、彼女が生きてきた中で、自ら学んだ何かだったのだろう。
「死んだら、ぱっと、電気が消えるみてえに、生きてたときのことがみんな消えるんじゃねえかなと、おれは思ってんだ」
「そのかわりによ」
祖母は、笑っているような、細い目をして、皺だらけの顔をこちらに向けて言う。
「死んだら、ここんところへ、ぴっと入ってくんだ」
ぴっと、と言って祖母は、自分の胸を指さした。
ぱっと死んで、ぴっと入ってくる。

祖母自身は、電気が消えるように命の炎を消したのかもしれないが、たしかにわたしの心の中に入り込んだ。わたしは心の中の祖母と会話することを覚えた。
祖母は、わたしが生涯で初めて持った死者だった。死者の思い出が生者の生を豊かにすることを、私は祖母を亡くしたとき初めて知ったのだった。(「ぱっと消えてぴっと入る」)


タイトルそのまま、人の死が「ぱっと消えてぴっと入る」なんて表現もすごい。

「なんだかわからないが、あれは新しいタイプの耳栓だね」
老小説家は学生さんを見送って、両手で耳の横にヘッドフォンを思わせる形を作ってみせて言った。
「いまにあれをみんなやるようになるぜ。大人から子供まで。形はあのまんまかどうかわからんがね。みんな耳に栓をして、自分の聞きたい音だけ聞くようになるんだ。仲良くなるのはお断りしますってね。アタシはそうなる前に死んじゃうことにしてるんだけどね」
老小説家の言っていたことは、半分以上当たったのかもしれない。(「町内会の野球チーム」)


Sonyのウォークマンの登場をリアルタイムで体験したMorris.である。たしかにイヤフォン=耳栓というのは納得できる。

「誰かを思って泣く孤独はいいものだ。それがいかに辛かろうといいものだ。孤独には二種類あって、誰かを思う孤独と、まるでそこになにもない無のような孤独があり、誰かを思う孤独は思う人の心の中に誰かが存在する分、厳密には孤独ではないとも言える。誰にも思われず、誰にも知られず、誰にも理解されないばやい、人は自分の存在すら疑うほどの孤独に直面する。そんなときに人を救うのは誰かを思う孤独である」
そう、バヤイが言ったように思うのだが、なぜそんなことを小学生に向かって言わねばならないのか、その必然性がわからない。


Morris.も「場合」を「ばやい」と発音することがたまにある。「誰かを思う孤独」というのは自分が孤独でないという証なのだろうか。

「恋ほど孤独なものはない。恋ほど豊かな孤独はない。いつかおまえも恋をするだろう。恋だけが、人から境界を奪う。恋だけが、階級も年齢も性別も、そして種別の壁も超える」

バヤイがバヤイの使った意味において、「サケウシの第一人者」だったとするならば、サケウシはバヤイとともに「誰にも知られていない」ということになる。それは「存在しない」とほぼ同じといえども、逆説的には、「存在する」ことにならないだろうか。だって、わたしはバヤイを知っているし、バヤイはサケウシを知っていた。
子供のころは、サケウシとはウミウシの一種だと思っていた。ウミウシの属する後鰓類(こうさいるい)は生物学上、多系統に属し、分類しづらい生物として考えられているようだ。
孤独について考えるとき、時々パヤイのことを思い出す。
パヤイとツルリとしたイボを持つ白いもののことを考える。
そうするとなんだか涙が出てきて、なにかが存在しないなんてけっして思えなくなる。(「バヤイの孤独」)


サケウシが何物なのか結局はっきりしなかったが、それはどうでもいいことだろう。

「アタシは前から知ってたんだ。おまえさんが双子だっていうのはさ。こんなちっちゃいときからだよ。タタン姉妹は双子だったんだから」
老小説家が嬉しそうに自説を開陳すると、奥のほうでバヤイが静かに異議をとなえた。
「タルト・タタンは19世紀にフランスのタタン姉妹が経営していたホテル・タタンの厨房で誕生したが、アップルパイを作ろうとして失敗したステファニーと、その妹カロリーヌのばやい、顔はそんなに似ていない。姉妹であるという記録はあるが、双子だったという記述はない」


本書のタイトル「樽とタタン」はtarte tatinというフランスの菓子の地口らしいが、甘いもの天敵のMorris.には無縁の世界のようだ。

「ほんとは?」
「いまのは全部、ほんとの話? それとも嘘?」
「なぜ、そんなことを聞くんだね」
「だって、そんなこと、いままで聞いたこともなかったんだもん」
「だって。そんなことを聞くんだね」
「だって。なんか、ほんとのことっぽいんだもの」
わたしたちは口々に老小説家にせまった。小説家は、嬉しそうにも、困り果てたようにも見えた。そして、一本指を立ててそれを口に当てた。
「さてさて、お嬢さん」
と、老小説家は言った。
「小説家に聞いちゃいけない質問が一つだけある。『それはほんとう? それとも嘘?』ってやつだ。これだけは、絶対に、聞いてはいけない。ほんとだよ。答えはまず返ってこない。さて、お爺さんは疲れたから、外で一服してくるよ」

赤い噂のある喫茶店で過ごしたわたしの幼少時代の物語はここで終わりになる。
あの店はもうないし、あそこにいた人々がどうしているのかもわからない。
とはいえ、わたしがこれを知っているというのは、ありがたいことだと思っている。
小説家には一つだけ、聞かれても答えなくていい質問がある。(「さもなきゃ死ぬかどっちか」)


中島京子、スキッ(^_^)

2019/08 /14(水)●退懴迷動マウス一匹(^_^;)
7時半起床。
今朝の血圧は174/79/75。36.4℃
ちょこっと宿酔(^_^;)
悩みのタネだった、画像ファイルの異常作動、昨日Noahさんから、フォルダオプションをチェックしたら?というメールをもらい、これを試してみたが回復できず、でも、これで、異常作動の原因がマウス本体にあるのではないかと思い当たり、古いDEL坊の有線マウスを使ってみたら、問題なく作動(@_@) これはやっぱりマウスに原因があったと判明。有線マウスではあまりに使い勝手悪いので、自転車で、ケーズデンキまで出かけて、ELECOMの「EPRIM」というマウス(1500円)購入。帰宅して試したら、全く問題なく作動\(^o^)/ 実は韓国旅行中にちびくろ2号で画像処理するときにも、時々不審な作動してた。帰国してleno坊で画像ファイル操作に異常が発生したのだから、マウスに問題があることをまず疑うべきだった(^_^;) 今更ながらだけど、まあ、結果オーライ主義のMorris.だから、これはこれでOKということにしよう。
以前にも、デスクトップに異常が起こり、散々悩みまくって、結局原因は小型のキーボードにあったことが判明したことを思い出した。
台風10号は予想通り、明日四国付近に上陸する模様。
今日の歩数は3459歩。


全てはマウスの不調だった(^_^;) 

今日の読書 

明日は満月だけど…… 

[今日の韓国語単語from Kpedia] 꼭두각시(ッコットゥカクシ  操り人形)
괴뢰[傀儡] (クェレ 傀儡)という難しい漢字語もある。
괴뢰정권[傀儡政権](クェレジョンgクォン 傀儡政権)     

【決定版 日中戦争】波多野澄雄ほか
  ★★★☆☆ 2018/11/20 新潮新書:788

日中戦争は近代日本の対外戦争の中で最も長く、全体の犠牲者の数は日米戦争を凌駕する。なぜ、開戦当初は誰も長期化するとは予想せず、「なんとなく」始まった戦争が、結果的に「ずるずると」日本を泥沼に引き込んでしまったのか。輪郭のはっきりしない「あの戦争」の全体像に、政治、外交、軍事、財政などさまざまな面から多角的に迫る。現代最高の歴史家たちが最新の知見に基づいて記す、日中戦争研究の決定版。(カバー袖書き)

明日の「敗戦の日」に合わせて、本書を読了。「先の戦争」が、どうしても「日米戦争」に重きをおいてイメージされるが、そもそもの始まりでもある日中戦争こそが、あの戦争の骨子でもあることを再認識しつつ読んだ。
日中戦争のアウトラインがよく解った(ような気がする)し、教えられるところも多かったが、特に松本崇(元内閣府事務次官、現国家公務員共済組合連合会理事長)が記した第七章は興味深かった。

第一章 日中戦争への道程 戸部良一
第二章 日中戦争の発端 戸部良一
第三章 上海戦と南京事件 庄司潤一郎
第四章 南京/重慶国民政府の抗日戦争 川島真
第五章 第二次上海事変と国際メディア 庄司潤一郎
第六章 「傀儡」政権とは何か--汪精衛政権を中心に 川島真
第七章 経済財政面から見た日中戦争 松本崇
第八章 日中センスと日米交渉--事実の「解決」とは? 波多野澄雄
第九章 カイロ宣言と戦後構想 川島真
第十章 終戦と日中戦争の収拾 波多野澄雄

 
「明治百五十年」の歴史は、隣国中国と安定した関係を築けなかった歴史でもある。この状態は今も続いている。このことを念頭に本書を味読していただければ幸いである。(はじめに 波多野澄雄)

事態(満州事変)が大きく動き出すのは、犬飼が五・一五事件(1932)で暗殺されてからである。満州国承認については、政府よりも議会やマス・メディアのほうが積極的であった。6月、衆議院は満場一致で満州国承認可決案を可決した。そして9月15日、日本は日満議定書を調印して満州国を正式に承認した。リットン調査団が現地調査を終え北京で報告書を作成した直後であり、それが公表される前であった。つまり、日本は国際連盟がどのような解決案を提示しようともそれには左右されないとの態度を表明したのである。(第一章)

1937年7月7日夜、豊台に駐屯する支那駐屯軍の第三大隊第八中隊が盧溝橋近辺の河原で夜間演習中、実弾を打ち込まれ、兵士が一名行方不明となった。行方不明の兵士は発見されたが、散発的に射撃があり、翌朝第三大隊は中国人が駐屯している宛平県城を攻撃した。その後、小規模の戦闘はあったが、9日には事実上の停戦状態となった。これが盧溝橋事件のあらましである。これが以後8年も続く日中戦争のきっかけになると予想した者はほとんど誰もいなかっただろう。
日本政府は7月11日、事件が中国側の計画的な武力抗日であると非難し、この軍事紛争を「北支事変」と命名するとともに、内地および朝鮮・満州からの増援軍隊派遣を決定した。(第二章)

日中戦の始点については、盧溝橋事件をはじめとして、廊坊・広安門事件による日本軍の総攻撃など華北に焦点が当てられてきたが、華北のみならず中国全土を戦場とする全面戦争への転換する契機となったのは、第二次上海事変であることは否定できない。

南京への爆撃は、上海に戦場を限定していた参謀本部の作戦計画を大幅に超えるものであった。結果的には、海軍による計画的な航空作戦の実施が、陸軍の南京追撃を容易にし、陸軍の下剋上と相俟って南京攻略へと拡大する一因ともなったのである。
さらに、日中両国共に戦争指導に一貫性を欠いていた。特に、蒋介石の上海及び南京の防衛戦における戦争指導の迷走は、重大な戦略的過ちであり、多くの人的損失をもたらした。結果として、戦争の長期化をもたらし、南京事件といった悲劇を生んだのであった。(第三章)

満州事変当時の日本経済は、不況の真っ只中にあった。不況の原因は1930年に無理な円高によって金解禁を強行した浜口内閣の井上準之助大蔵大臣の失政に求められる。
金解禁不況が直撃したのは、まずは都市部だったが、最終的に深刻な影響を受けたのは農村部だった。 そのような中、日露戦争で一定の権益を確保していた満州を、完全に日本の経済圏にしていくことで我が国の安全保障を確実なものにしようとの石原莞爾関東軍作戦主任参謀らの考えによって、満州事変が引き起こされた。満州事変に対しては無産政党がいち早く支持を表明し、それまで軍の満蒙での動きに批判的だったマスコミも支持に雪崩をうち、軍の宣伝機関化したような様相を呈した。

満州を我が国の勢力圏にするのには無理があると考えた人もいた。学者やジャーナリストでは石橋湛山、吉野作造、安岡正篤、清沢洌など、政治家では高橋是清といった人たちである。
欧米との関係が緊張する中、金解禁不況から日本経済を立ち直らせると同時に、財政面から軍部の暴走を押さえようとしたのが、犬養内閣で大蔵大臣になった高橋是清であった。
高橋と軍部の対立は、1936年2月20日に行われた衆議院総選挙で問われることになった。結果は、軍事費抑制・公債漸減方針の高橋を支持する民政党が躍進して第一党になった。ところが、その流れは選挙直後に起こった二・二六事件で高橋らが暗殺されたことで断ち切られてしまったのである。

二・二六事件の起こった1936年の我が国経済は絶好調で、だからこそ満州になけなしの資金をつぎ込むことにも大きな反発が生じなかったといえる。
当時の日本は1929年10月の米国株式市場の大暴落に始まった世界大恐慌の中でのブロック経済化の影響は受けつつも、高橋蔵相の経済財政運営のよろしきを得て絶好調だったのである。高橋財政の時代の実質経済成長率は7.2%、インフレ率は2%という理想的なものだった。そのような経済の好調をもたらしたのは、高橋による井上デフレ財政からの脱却と適正な為替レートの下での低金利政策だった。しかしながら人々は満州事変が経済の回復をもたらしたのだと思い込んでしまった。それ以前に、「日本には国家改造が必要だ」と叫ばれていたこともあり、金融緩和と為替下落のような政策は経済力を力強く回復させるとは考えられなかったのである。そのように誤解されたことが、高橋が暗殺されたあと、経済を圧迫する軍事費の膨張に歯止めがかからなくなる背景になった。

予算の急膨張をもたらす軍部の行動を多くの国民が支持したのは、それが「すぐに片付く」と思われていたからだった。1937年12月に上海から敗退する蒋介石軍を追って、国民政府の首都だった南京を日本軍が攻略すると、それを祝う大規模な提灯行列が行われた。敵の首都を陥れた以上、事変の集結も近いと期待されたからである。ところが、その後、蒋介石が首都を中国大陸奥地の重慶に移し、英米ソによる蒋介石支援体制が確立すると、日中戦争は長期戦の様相を呈し、泥沼化していったのである。

盧溝橋事件後の1937年9月には国民精神総動員運動が開始されたが、経済は一時的な軍需景気となり、世相からはそれまでの暗さが一掃されている。南京が陥落した1937年末の東京の年末商戦は「年の瀬レコードを破る」と報じられ、正月映画興行もこれまでにない賑わいをみせた。しかしながら、戦勝を見込んだ好景気は長続きせず、国民生活は日中戦争が泥沼化するに従って軍事費の圧迫から困窮していった。

1938年4月には国家総動員法が制定される。その状況を「持てる国とと持てざる国」という構図で理解することによって、国民生活の窮乏化をもっぱら英米の対日敵対政策のせいだと思い込んだ国民は、英米への反感を高め、実は国民生活の困窮をもたらす最大の原因を作っている軍部をより一層支持するようになっていった。

米国と戦って実際に勝てると思っていたものは、軍人の中にもほとんどいなかった。満鉄調査部も1939年末の報告で、経済的視点から日米開戦の不利を指摘していた。
それなのになぜ我が国は勝ち目がない対英米戦争に突っ込んでいってしまったのであろうか。それは、欧州でドイツが勝利目前だという誤った情勢判断、それと中国大陸に権益をもたない米国の本格的な参戦はあり得ないとの誤った観測の二つがあったからだともされている。

敗戦までの日本人戦没者は310万人に上った。その過半を占めた陸軍戦死者165万人の約70%は飢餓によるものだったとされている。そういったことも、経済・財政面から見た日中戦争の一つの帰結であった。(第七章)

カイロ会談は、1943年11月にエジプトのカイロで開催された。アメリカのローズベルト大統領、イギリスのチャーチル首相、中華民国の蒋介石総統が一堂に会して、主に対日戦争の進め方、そして戦後の大きな方針について協議した。12月11日カイロ宣言が公表される。

「右同盟国ノ目的ハ日本国ヨリ1941年ノ第一次世界戦争ノ開始以後ニ於テ日本国カ奪取シ又ハ占領シタル太平洋ニ於ケル一切ノ島嶼ヲ剥奪スルコト並ニ満州、台湾及澎湖島ノ如キ日本国カ清国人ヨリ盗取シタル一切ノ地域ヲ中華民国ニ返還スルコトニ在リ日本国ハ又暴力及貪慾ニ依リ日本国ノ略奪シタル他ノ一切ノ地域ヨリ駆逐セラレルヘシ前記三大国ハ朝鮮ノ人民ノ奴隷状態ニ留意シ軈テ朝鮮ヲ自由且独立ノモノタラシムルノ決意を有ス」(カイロ宣言全文 外務省が同時代に訳した日本語テキスト)

サンフランシスコ講和会議は朝鮮戦争の最中、まさに東アジアに冷戦が形成されていこうとする過程で開催された。そのために、一度で全ての交戦国と戦争を終わらせる機会を日本は得られなかった。だからこそ、戦後処理や和解への道程は複雑化していくことになった。特に主たる戦場となった中国、また植民地支配を受けた朝鮮半島や台湾に戦後できた国やそこを統治した国々は、サンフランシスコ講和会議に参加しなかった。中国や朝鮮半島が分断国家になったことはいっそう日本の戦争や和解への対応を難しくしていったのである。(第九章)

(ポツダム宣言の受諾を拒否し、戦争を継続していたら)
おそらく1945年8月下旬ころ、「決号」(本土決戦)作戦計画が実行に移され、日本本土は沖縄と同様の戦場と化す。九州南部と関東平野に上陸した連合国軍は、水際防御陣地を突破し、日本軍と激戦を繰り広げながら、やがて東京に迫る。第三発目の原爆が投下され、山間部でゲリラ戦が展開される。輸送路は分断され、食糧や弾薬が底をつきる。本土と分断された外地軍はさらに混乱を極める。内外地とも、おそらく古代カルタゴの崩壊にも似た、絶望的な戦いが続く。皇居の守りは固められるが、やがて連合国軍の集中攻撃を浴び、天皇は三種の神器とともに松代大本営に移動する--。

日中戦争と日米戦争とは、事実上切り離されて収拾されることになった。こうした事態を如実に示しているのが「終戦の詔書」である。「終戦の詔書」は「開戦の詔書」に対応して作成され、日米(英)戦争の集結を天皇の名で内外に宣言したものであるが、日中戦争には全く言及されていない。中国大陸を舞台とした日中戦争、満州yた樺太・千島を舞台とした日ソ戦争は、8月15日以降も続いたのである。

賠償問題についても、中国は、すでに戦中から詳細な被害調査を行い、その金額も算定していた。日華平和条約では賠償を求めるものの、サンフランシスコ講和条約において米映が賠償放棄の立場を明らかにしていたことから、自発的に賠償請求権の放棄を日華平和条約の議定書で宣言した。つまり、中国は、国連創設に力をつくすなど戦勝国としての立場の確立に努めたが、内戦のなかで著しくその国際的地位を低下させ、戦犯や賠償問題で責任追及の先鋒に立ち得なかったのである。
一方、日本にとっては、そのことは日中戦争の責任という問題を正面から受け止める機会が失われ、中国との戦争の記憶が国民から遠ざかることを意味したのである。(第十章)

コメントは無しである。虚心にメモを読んでいただきたい。

2019/08 /13(火)●台風前のサランバン会
7時半起床。
今朝の血圧は
あさの三点セット。
台風10号はノロノロ台風で、明後日あたり、西日本に上陸しそうな気配。
午前中は部屋ゴロ。
昼からJRで鶴橋へ。
上東公園-御幸森公園とはしご(^_^;)
4時半、ハートフルに洪ママのお見舞い。ちょうど歌麿会長と同じ時間到着だった。
洪ママはまあ元気といえば元気そうだったが、チョコレートやお菓子ばかり食べて、食事とらないのでかなりやせてしまっている。
久しぶりに鶴橋の「採圓」へ。採圓ママが、今日は良い生センマイが入ったからというので注文。更に山盛りの生センマイ(@_@) この一番暑い盛りに生センマイというのは、ちょっと引くところだろうが、Morris.の大好物の一つだし、ママの推輓なら大丈夫だろう。うーーん、美味しい。マッコリまで頼んで、一皿平らげてしまった。
7時過ぎにサランバン会場「ジュン」へ。
お盆と台風の影響もあってか、参加者は、丸本夫妻と高木さんの5人だけとちょっと低調。Morris.のビール蔵元の榎本さんは、韓国に行ってるらしい。たしか7月にも行ってたから、ほぼ毎月の出張状態。
それでも、例のごとく飲んで歌って踊って……何とか零時前帰宅。
今日の歩数は6023歩。


台風の影響? 

東上町公園 

向日葵 

夏休みで盛況のコリアンタウン 

「採圓」でマッコリ&生センマイ\(^o^)/ 

「ソウル家」の看板猫ポリ 

8月サランバン会 

同じく 

夜の黒猫 

[今日の韓国語単語from Kpedia] 천엽[千葉](チョニョプ センマイ)
センマイは、牛の第三胃の俗称である。
ちなみに牛の第一の胃は
(ヤンg ミノ)
第二の胃は
벌집(ポルチプ ハチノス)
第四の胃は
막창(マクチャンg ギアラ、赤センマイ)

2019/08 /12(月)●今日も休養(^_^;)??
7時半起床。
今朝の血圧は154/59/77。36.3℃
朝の三点セット。
午前中は部屋ゴロ。
昼前に王子動物園。今日もまぬうは表にいなくて、裏に回ったら二匹ともいたが、ガラス窓閉めてあったのでうまく撮影できない。帰国してから3回まぬうに会いに行ったのに、最初は全く姿見えず、次は二匹とも裏にいたがデジカメ忘れて撮影できず、そして、今日がこれだから、ちょっとめげる(;;)
樹の下ベンチでくつろいでから一旦部屋に戻り、高校野球(智辯-八戸学院光星)見てから自転車で都賀川公園。
このところ、韓国歌謡だけでなく邦楽(昭和歌謡)にも手を広げている(^_^;) 例の「'86あのうたこのうた2255曲」から200曲ほどセレクトして、そのうちの一割(20曲)くらいレパートリーになれば、と思う。
途中杖をついた爺さん(人のことは言えないが(^_^;))が、ミニギターに関心覚えたらしくベンチの隣に座って聴いてくれた。近所に住む吉角弘さん(88歳)で、伊勢の生まれで、宇治山田中2年生で敗戦を迎えたとのこと。大湊の神戸製鋼に勤労奉仕に出た帰りにグラマンによる機銃掃射を目の前で見たという体験話などもしてくれた。
軍国少年から、野球少年に転身し、戦後は広告関係の仕事をやってたとか。日本の将来を本気で心配している「憂国の士」でもあるらしい。戦争を知る世代が減っていく中、敗戦の日を前に貴重な出会いだった。
7時に店じまい(^_^;)して、水道筋で買い物して8時前帰宅。
leno坊の画像処理、というか、画像ファイルをクリックした途端にフォトビューワーが開くのに閉口している。マウスの設定変えたり、いろいろやったがうまく行かない(>_<) これだと、旅日記の整理どころか、この毎日の日記更新もままならない(>_<)
今日の歩数は4022歩。


今日のまぬう アイリス 

ペッキー (>_<) 

海驢 

吉角弘さん(米寿)とMorris.(古希)