朝鮮学校グラフィティ

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●第一回「新校舎」
●第二回「おい おっさん うま のれ」 
●第三回「肖像画」
●第四回「カン テヨル君
●第五回「朝鮮学校との別れ」
●第六回「母国訪問」
●番外編「結婚式」
 
朝鮮学校グラフィティ 番外編 

 結 婚 式 

先日いとこの結婚式に出席するため東京へ行ってきた。 
うちのいとこの家族は朝鮮籍である。 

ちなみにわたしは韓国籍。わたしの母と伯母は実の姉妹だけど国籍が違うことになる。 

で、いとこは4人いるがみな朝鮮幼稚園から朝鮮大学校まで出て、長男が北朝鮮系の火災保険会社、次男は風俗関係(どこの兄弟にもアウトサイダーはいるものだ。ちなみにこいつは朝鮮高校時代、学校にいくのがいやだといって学生カバンに教科書を全部詰め込んで隅田川に投げ捨てたという根性のある奴である。) 

そして三男が朝鮮学校の教師、末娘は朝鮮銀行に勤めているという超バリバリの朝鮮総連一家なのである。 
ちなみに伯父も若いときは朝鮮学校の教師をしていたが、薄給でとても4人の子供を育てられないというわけで転職をした口である。 

今回結婚したのは末の妹で、相手もやはり朝銀の職員で朝鮮大学まで出た青年で、朝鮮青年会の熱心な活動を讃えられ、本国(北朝鮮)で勲章をもらったという強者である。 

よって、出席者もほとんどが朝鮮総連関係の人々、日本人は400人もの招待客中、うちの旦那も入れて10人ほどだった。 

さて、この在日朝鮮人カップルの結婚式??? 

わたしもずいぶん長いこと在日朝鮮人社会に触れていなかったので、どんなふうに式が進むか興味津々だったし、旦那に至っては全く未知の世界に足を踏み入れたので、これから始まる大スペクタクルショウにわくわくした気持ちを隠せない様子で何だか異様にハイな状態だった。 

新郎新婦入場の前に、朝鮮歌舞団のお兄さんお姉さん方が、 

♪ウーランララン♪ 

と指を鳴らしながらポップなリズムにのって軽快に歌いはじめた。 

でも内容は 

「首領様のお陰でこんな幸せな日を迎えられた。ウリナラ(北朝鮮)良い国、永遠なれ?」 

である。か、変わっていない?? 

そしていよいよ新郎新婦の入場。白い結婚式用のチマチョゴリに身を包んだ従妹はとてもきれいだった。 

それから祝辞が始まったが、新郎の上司である主賓の挨拶に 

「偉大なる指導者キム・ジョンイル書記の下に我が国はますます栄えるだろう、新しい時代を担う新しいカップルの誕生は共和国にとってもとても喜ばしい」 

なんて言葉が出てきた。 

さすがに友人たちの挨拶には「共和国」は出てこなかったが、歌は共和国のてんこ盛り。 

「(北朝鮮は)景色も良いが暮らしも良い」 

に始まって、共和国や金日成が出てこない歌は、みごとに一曲もない(!)。 

歌っているのはほとんどが25、6才の彼らの友人たちである。 
着ているドレスやスーツはとても垢抜けて華やかな若者たちが 

「わたしの自慢は限りない」 

「世界に羨むものはなにもない」 

を熱唱する。 

今だに、日本の歌や外国の歌は堅くご法度になっているようで、それがとても自然な形で宴は進んでいった。 

そして極め付けは 

「ウリナラマンセ!(万歳!)」 

である。 
本当に見事なまでに変わっていない。 
世の中の情勢はこんなにも変わっているのに。これはいったいどういうことなんだろう。 
みんな日本に住んでいるのだから、いくら何でも共和国の実態を知らずにはいられないだろうに。 

盛り上がる宴にしばし呆然としていると旦那がぽつりとつぶやいた。 

「こいつら、やけくそちゃうか」 

番外編何だかタイムスリップしたような気分のなか、最後は新郎新婦をまじえてみんなで手をつなぎ、輪になって踊って披露宴は終わった。 

幸せそうな二人を囲んで周りの人たちもとても幸せそうな笑顔だった。 

新婚旅行はハワイだという。 

「敵国じゃなかったの?」 

と聞くと 

「非国民だもん」 

と従妹は笑った。 

まあ形はどうあれ結婚式の幸せのオーラはとても気持ちの良いものだと思う。 

披露宴が終わり、客も席を殆ど立った後、金屏風の前でこっそり旦那と二人記念撮影をした。 

後日出来上がった写真には、10年前の初々しさはなくなったけれど、積み重なった月日のぶんだけ幸せな笑顔があった。(1998.1.15.) 



朝鮮学校グラフィティ 第六回 
 

    母 国 訪 問   
                        
もうこのシリーズはやめようと思ったけど、あと一回だけ書き足しておこうと思う。 

朝鮮学校から中立の民族学校へ移って驚いたのは、殆どの生徒が朝鮮語を話せないということだった。 
もちろん国語の授業として朝鮮語の授業はあったけれど週に3時間ほどで、日本の中学、高校の英語教育ほどの時間も取っていなかった。 

そしてその外の授業は殆どが日本語の教科書を使って日本語で行われていた。 
てなわけで当時私の語学はいきなり帰国子女並み、学年、いや全校中でもトップクラスと相成った。 

中三の夏、先生に薦められて出場したウリマル弁論大会では優勝までしてしまった。 
その時の審査員にどこで韓国語をマスターしたのかと聞かれて、6年間朝鮮学校に通ったことを話すと、 

”いやーーそのウリマルは韓国語だ、 
北朝鮮なまりがないきれいな発音だよ” 

と変な誉められ方をした。 
嬉しかったのが副賞の”母国訪問”で、この時初めて私は祖国の土を踏むことになった。 
20年前のことである。 

が、しかし。 

当時韓国は北の脅威を徹底的に内外にアピールし、スパイ摘発に血道を上げていた。 
町中の壁や電信柱、電車の吊り広告にいたるまで”スパイ申告””怪しいと、思えばすぐに交番へ”本当にこれだけよくもまあというくらい、あっちこっちに貼ってあり、空気までピリピリと緊張しているように思えた。 

在日韓国人留学生もずいぶんたくさんスパイ容疑で捕まり、ひどい拷問を受けて牢屋につながれた。 
ろくに調べもしないで罪をでっちあげ、軽い調子で無期懲役や死刑の求刑がなされた。 
そして私は、小学校の6年間どっぷりと北朝鮮の教育を受けていたのである。 
これはビビった。 
朝鮮学校に行ってたことがばれたら間違いなく捕まって拷問されるにちがいないと思うと恐ろしくていてもたってもいられなかった。 
いざとなったら踏み絵でも何でも踏む覚悟はできていたけれど、そんなこと通用するようなやわな国ではなさそうだ。 

これはえらいところへ来てしまったと、初めての祖国に感動するどころか、気持ちはちぢこまり一刻も早く帰りたかった。 
なのに、こんなときに限って、なぜか朝鮮学校で習った唄が思い浮かぶのだった。 

「ウリエ・アボジ・キムイルソン・ウォンスニム」(我らが父金日成元帥様) 

のフレーズが、まるで傷の付いたレコードのように何度も何度も頭の中で繰り返す。 
かき消そうと焦れば焦るほど耳について離れないのである。 

もう、誰か救けて! 

私を日本に帰して! 

恐いよー! 

と叫びたくなってしまった。 

当時韓国は急激な経済発展をめざしていた。 
そのためには国民も贅沢をつつしむよう指導がなされ、主食のご飯に必ず麦を混ぜることを強制されていた。 
白米だけのご飯は罪になった。 

一度国会議員の家に招かれてのパーティがあったが、男の人のにぎりこぶしくらいある大きなカルビチムやあわびのステーキ、鯛の生造りなど、見たこともないようなご馳走がずらりと並んでいたのに、ご飯だけはやっぱり麦が交じっていた。 

公的なスケジュールを終えて、初めて会う叔父の家を訪ねた時、麦の混ざったご飯が口に合うかと叔父は気遣ってくれた。 
少しぼそぼそするけれど気にならないと答えると、ほっと安心した表情で、たくさん食べなさい、ほれ、これも、あれもと頻りにすすめてくれる。 
食べれば食べるほど喜ばれるので、一生懸命食べていたら、帰る頃には3キロも太ってしまっていた。 

 叔父の家の家族にはもちろん私が朝鮮学校へ行ってたことを話した。 
叔父は18歳頃まで日本で生まれて育っていたのでその辺の事情はよく理解していたのだが、3歳年上の従兄にはとても衝撃的だったらしい。 
それから、私に対する徹底的な反共教育が始まった。 
とても雄弁な級友まで連れてきて二人がかりで 

自分たちは自由な民主主義の国で暮らしているけれど、 
北には全く自由がない。 

金日成は悪魔がのり移った豚で、 
国民は働けるだけ働かされて、 
麦ご飯どころかトウモロコシの粉さえろくに食べられないんだ、 

彼らを救うためにも金日成をやっつけて、 
祖国を統一しなけらばならないんだ! 

と、鼻を膨らませて懇々と説き伏せた。 

(トウモロコシの粉?)黙って聞いていればいいものを、どうしても、トウモロコシの粉が心に引っ掛かった。 

なぜ? 

北朝鮮は社会主義の模範国で、 
国民はおだやかで、 
平等で豊かに暮らしているのに、 
どうしてトウモロコシの粉を食べているなんてこの人は言うんだろう、 

(だめ、おさえなさい!)と、心のなかで誰かが叫んでいるけれど、もう耐えられなかった。 

気が付くと 

”そんなことはない! 

北の人はみんな真っ白なご飯をおなかいっぱい食べて幸せに暮らしているのよ!” 

と叫んでいた。 
涙でぐしょぐしょになりながら、もう自分はいつ捕まっても仕方ないと思いながら、日本で待っているオモニ(お母さん)、ごめんねと心のなかで謝りながら、 

金日成は立派な人で悪魔豚なんかじゃない! 

と、叫んでいた。 

私には踏み絵なんか踏めなかったのである。 
教育と言うものはげに恐ろしきものであった。 

目を真っ赤に泣き腫らして興奮している私を見て、会社から帰った叔父は驚き、息子に事情を聞き出して、どういうふうにかはわからないけれど息子を叱った。 
叔父はやさしくなだめてくれたけれど、どんな言葉をかけてくれたのか興奮していて全くおぼえていない。 
ただそれから従兄は北朝鮮のきの字も口にださなくなった。 
 

吉美6 金日成が死んだとき、テレビの画面に遺体が安置されているお堂の前で泣き崩れる民衆の姿が映しだされた。 
それは、とても大げさな嘆き方で、俳優を使って演技させているんだとか、無理に泣くように後で役人が見張っているんだとか、いろいろ言われていた。 
私の心にはもやがかかった。 
北朝鮮の人は本当は彼の死をどう受け止めていたのだろう。 

 神戸学生青年センターで北朝鮮史のセミナーで和田春樹氏の講演が行なわれた。 
その講演の葬儀の時の民衆の姿について氏は 

”色々言われていますが、私は、北朝鮮の人々は泣いたんだと思います。 

生活の苦しさも怨みもあるいは感謝も、 
それこそ色々な思いを込めて、 
彼らは心から泣いたんだとおもいます。” 

と話された。 

暖かい涙が頬をつたった。 
私も、やっぱり悲しかったんだ、 

その時やっと私の心も解き放されたのだった。 (1996.7.10) 


朝鮮学校グラフィティ 第五回 
 

   朝鮮学校との別れ 

 私は小学校の6年間で朝鮮学校をやめた。 

当時の金日成崇拝主義の学校の体制に子供が真っ赤に染まるんじゃないかと危惧した母親が、当時は中立(韓国と北朝鮮)の立場を取っていた民族学校へと変わらせようと考えたためだ。 

でも、実は子供は親が思う以上にドライで、私はあっさりその案を服んだ。 
朝鮮学校をやめて、中立であろうが何であろうがよその学校へ行くということは明らかな裏切りであった。 
それも、その学校だけでなく、民族全体、ひいては偉大なる民族の父君である金日成元帥様に対する恐るべき反逆であった。 

ウリ中学校へ行かないことを担任に告げてから、毎日私は職員室に呼び出された。 
最終説得である。どうしてここにきて元帥様や友達を裏切れるのか、今まで何を学んできたのか、元帥さまの恩恵によって生かされてきたことを忘れるのか、と、口論は厳しいものではなかったが、さすがに毎日続くと涙なしには話をきくことができなくなった。 
あろうことか転勤していった先生方も日替わりでやってきては、元帥さまの子供であることを忘れてはいけないと懇々と説き伏せた。 

グラフィティ第五回 もちろん家にもやってきた。 
母は気丈だったが案外情に脆く、私に”どうする?”と聞き始めた。 
でもわたしの心は決まっていた。”絶対中立の中学校に行く”と。 

 子供ながらに疑問に思うことがとてもたくさんあった。 
金日成元帥をどうして父と呼ばねばならないのか、少年団の敬礼の時の 

”ハンサン チュンビ!”(常に準備を!) 

とは何を指すのか、何の苦労もなく人々は平等で豊かで幸せに暮らしているはずの祖国へ帰国した人の手紙に貼られた切手の裏に、どうして”ひもじい、食物送れ”の文字が刻まれていたのか。 

それよりなにより嘘の表彰に私は疲れてしまっていた。 
前にも書いたが同胞を一人幼稚園に導いたこと。それから小学校5年生の時に一節の詩が雑誌に掲載されたことだ。 

当時、詩といえば金日成元帥を讃えるものだと思っていた。 
教科書に載るものはすべてそのたぐいの物だったので、後に自然の美しさや、人の心情に触れた美しい詩に出会ったときの衝撃は大きかった。 
授業中に書かされる詩もすべて金日成やウリナラ(北朝鮮)に関するものに限られた。枕詞のように出てくる”美しいウリナラ”、”偉大なるウリアボジ(わが父)金日成”当然詩も虚飾に満ちたものになる。 

 その時私はいつものようにどうすれば美しく、元帥を讃えられるだろうかと考えた末に 

    この世界に住む子供達は 
    とても多いけれど 
    私達のように幸せな子供が 
    どこにいるというのでしょう 

 と、いうのを一節目に置いた6節ぐらいの詩を書いた。(はずかしいー) 

この詩が雑誌に載った。 
私の名前で、小学校名も私が通っていたもので、学年も5年生だった。 
でも、その詩は12節にもなるもので、最初の一節こそ私が書いたものだったが、そのあとは理解のできない単語まで入った全く知らないものだった。 

 ”貧しい雨漏りのするあばら家に住みながらも元帥に暖かく見守られながら暮らすので、心のなかはとても暖かい光に満ちて暮らしています。ああ、元帥様ありがとう。” 

 さすがに子供心にもこれは母親に見せられなかった。 
当時我が家は本当に古い長屋に住んでいたけれど、母親がこつこつと家でミシンを踏みながら、貯えたお金で少しずつ改築して、ささやかではあるが、本人たちはみじめさを全く感じずに暮らしていた。 
自分が貧乏だなんて思ったこともなかった。 
雑誌に掲載されたその詩は、私だけでなく、母親の苦労や努力をも踏みにじるものだった。 

 その詩で表彰されたのだ。 
それも当時一番尊敬して慕っていた校長先生が手を加えて書き直したその詩で。 
屈辱以外のなにものでもなかった。 

 それからは、本当にスーときもちが醒めていった。 
母親が提案してくれた中立の中学校に進むことはまさに渡りに船だった。 
誰がどんな説得をしようと、おどしをかけようと、私の心は決まっていた。 

 中学校に入って感じた解放感は、なにものにもかえがたかった。 

それでも心のなかに北朝鮮のイメージはどちらかというと美しいものとして残っている。 
金日成元帥のことを悪く言われると純粋に腹が立った。 
ずいぶん薄れたけど今も本質的には変わっていない。みつごの魂百までとはこの事である。 

これは個人的な体験や思いを書いたもので、一般的にはどうなのか、今の体制はどうなのかは全くわからない。書きながら、誤解を与えたり、迷惑をかける人がいるんじゃないかと不安になってきたので、朝鮮学校グラフィティのシリーズはこのへんでやめようと思う。(本当は飽きてしまった) 

文中の金日成元帥というのは当時の称号で今は何になっているのかわかりません。首領とか首相とかころころ変わるので亡くなってからもまた変わったのかな。 

そう言えば、歴史のテストの論述問題で金日成のことを大統領と書いてしまって有無を言わせずその試験は0点になったことがありました。 
あとにも先にも0点をとったのはそのときが最初で最後。 
顔を真っ赤にして 

”何が大統領か!” 
 

と怒鳴りつけた先生をわけがわからずきょとんとして見つめていました。 
大統領は当時憎むべき敵であったアメリカと南朝鮮(韓国)の最高実力者の呼称だったんですね。(1996.4.1) 


朝鮮学校グラフィティ 第四回 

  カン テヨル君 

”探偵ナイトスクープ”と言う番組がある。 

この番組を見るたびに、ああ、もう一度会ってみたいなと思う子がいる。 
別に初恋の人だったというわけではない。特に仲良しだったわけでもない。 
ただ、彼の行動はとても奇抜で、ものすごく印象的だった。 
でも、決して派手な目立ち方をした子供でもなかった。 
そう。静かで地味だったけど、時々、突拍子もないことをしてみんなを唖然とさせる、そんな子供だった。 

グラフィティ第四回 カンテヨル君はつげ義春の漫画にでてくるような風貌をしていた。 
ぼっちゃんがりにしもぶくれの顔、薄い眉に小さな釣り上がった目、低くて天井をむいた鼻におちょぼ口、なぜかいつも鼻を垂らしていてセーターの袖口が拭った鼻で、てかてかと光っていた。 

2年生の冬だった。図画の時間に絵を書いていたときのことだ。 
その頃わたしはカンテヨル君の隣の席だった。 
カンテヨル君は画用紙に向かって真剣に絵を書いていたときのことだ。 
鼻がつまっていたのだろう、口を半開きにして画用紙に集中していた。 

私は何気なく彼の横顔と、書いている絵を眺めていた。 
と、彼の小さな鼻から、つ−と鼻水がたれはじめた。 
そして垂直に画用紙に向かって落ちていった。”あ、つ、つく・・・!”と思った瞬間に10センチほど伸びた鼻水を”ずっ!”と、頭を持ち上げる事も無く一瞬で吸い上げた。(は、はやい!) 
呆気に取られて眺めている私に気付いて、彼は 
”ポジマラ”(みるな!) 
といって自分の絵を隠したのだった。 

その頃私達はお弁当をもって通学していた。(日本学校の給食にどんなに憧れたことだろう。) 
小学生でもお弁当のおかずはバリバリで、ナムルやチヂミなんかも日常的に入っていたし、キムチと白いご飯だけという強者もいた。(小学校の低学年でだ!!) 
冬にストーブの上でお弁当を暖めると、キムチと胡麻油の臭いが部屋中に充満した。 
当然給食係なんていなかったが、お茶くみは当番制になっていて、湯沸かし室の大きな寸胴のお鍋から麦茶を組んできてお弁当のふたに注いで廻った。 
蓋が浅くてこぼれやすかったのでとても飲みにくかったのに、コップを持ってきていた子は誰もいなかった。 

掃除も当番制になっていて、2年生は教室と、トイレの係だった。 
カンテヨル君とは席が隣だったので、掃除ももちろん同じ班だった。 
掃除をするときも彼は神経を集中して、黙々と床を掃いた。新しい校舎にはなっていてもトイレの掃除はいやだった。時々つまったりしてとても困った。 
ある日のトイレ当番の時、運悪くトイレが詰まってしまった。 
ゴムの吸い出しで突いてみても埒が開かない。試しにレバーを踏んで水を流すと、便器から汚物の混ざった水が溢れだしてしまった。 
(どうしよう、壊してしまった)当番のお友達はみんな途方にくれてしまった。 
と、その時、カンテヨル君がどこかへ走っていったかと思うと、すぐにいきを切らして戻ってきた。 
手には、な、なんと、湯沸かし室にあったお茶を汲むひしゃくを握り締めていた。 
”えー!” 
と思う間もなく彼はひしゃくを便器のなかに突っ込んで、汚物混じりの水を掻きだし始めた。 
そして、今度は柄の方でつつき始めた。 
”ゴゴゴゴー”と便器は水を吸い上げ、めでたく詰まったのは治ったけれど、そのひしゃく。 
これはもう逃れられない連帯責任だった。 
とにかくみんなでひしゃくを洗うことにした。石けんをつけて何度もゆすいでは匂いを嗅いだ。 
よし、これで大丈夫だろうと、みんなでひしゃくを誰にも見つからないようにそっと湯沸かし室に返しに行った。 

翌日のお弁当の時間は苦しかった。 
お茶当番の子が弁当箱のふたにお茶を注いでくれる。 
銀色のアルミのふたにそそがれた褐色の液体に汚物がテラテラと浮かんでいるのが見えるようで、思わずギュッと目をつぶった。 
ふと横を見るとカンテヨル君もじっとお茶を凝視していた。 
そしてなにやらぶつぶつつぶやいている。耳をすますと彼は 

”べべんじょかんじょかぎしめた” 

と、なんどもなんどもつぶやいているのだった。 
先生に言おうという子は誰もいなかった。 
小学校の2年生には金色のかねのひしゃくはとてつもなく高価なものに思えて、とても告白する勇気はなかった。 
それからずいぶん長い間、私達の班の子はお茶を飲めなかった。 

いったい、どんな大人になっているやら見てみたい。そして聞きたいことがある。 

”じぶん、いつからお茶飲めるようになった?” 

新年早々なんともはやのお話でしたが、皆々様にも運がつく、良いお年でありますように。(1996.1.1.) 


朝鮮学校グラフィティ 第三回 
 

      肖 像 画 

初級学校の4年生の時、学校の裏の民家からぼやがでた。 
ちょうど課外授業の時間で、教室には私を含めて4〜5人の生徒しかいなかった。 

朝鮮学校3 当時私達の教室は3階で、煙のでている家が窓からよく見えた。一つの窓から団子状になって眺めていると、ボッと炎が燃え上がり、これはやばいかもしれないと思っているうちに非常ベルが鳴り、”早くおりなさい!”という先生の叫び声に、校庭へと駆け降りた。 
ふと気が付くと一緒にいたはずの子が一人たりない。 
どうしたんだろうと不安に思って辺りを見回していると、私達が駆け降りた階段から彼が大事そうに何かを抱えて降りてくるのが見えた。 
それは教室の黒板の上にうやうやしく飾られていた、金日成元帥(当時)の肖像画だった。 

もちろん、これは美談になった。 
朝礼は愚か、大阪府の朝鮮学校の集会でも彼の武勇伝は声高に誉めたたえられ、学習雑誌にも写真入りで紹介された。 

普通の学校なら、PTAで大問題になっているはずなのに、それ以降、避難訓練でも、まず金日成元帥の肖像画を外して持って逃げる という練習をさせられた。 

小学生の子供にそんな訓練をさせて、もし命を落とすことになったらどうしてくれるんじゃい!と、今となっては腹立たしいが、当時は何事にもかえがたい掟だった。 

当時の主要5科目の教科書はすべて表紙の次のページに金日成の肖像が載せられていて、教科書をめくるたびに感謝の気持ちを新たにするようにと教えられた。 
でも毎日使う教科書だから当然薄汚れてくる。ある日私はどうしてもその薄汚れた元帥の写真が気になって、固く絞った布巾で拭くことにした。はじめはそっと拭いていたが、拭き出すとどんどん汚れが気になってきて少しづつ力が入ってしまい、気が付くと元帥の目が削れてしまっていた。 
これは焦った。震える手でそっとえんぴつでなぞってみると世にも不気味な顔になってしまい、泣きそうになったことがある。 

話は戻るが、朝鮮学校の関係者は美談が好きだった 
少しの美談がとても大袈裟な美談になることがままあった。 
かく言う私もその美談の渦に翻弄されたことがある。 

在日朝鮮人のなかでも民族学校に行っている人間は極めて少ない。 

で、同胞をウリハッキョ(我々の学校=民族学校)に「導く」(この表現もすごい)という運動 がずっと展開されていた。 

あるとき私は近所に住む男の子を当時新設された幼稚園に勧誘して、入園させたことがあった。 
でも、母親の一存で決めていたのか、父親の猛反対にあって、入園3日目で日本の幼稚園に変わってしまった。 
だが、その、ウリハッキョに一人「導いた」という事実だけが大々的に残ってしまった。 
それこそ朝礼は愚か、大阪府の集会にまで名前入りで誉め讃えられた。 
でもそうやって、その話がでるたびに何だか大嘘をついた気になり、穴があったら入りたい気持ちになった。 

あまりに、至る所で取り上げられたお陰で、上級生の女子の嫉みもかった。 
待ち伏せされて”ええかっこしい”とはやしたてられた。 
私はその女の子たちに向かって叫びたかった。(トホホ、ええかっこしいとちゃうねん、本当は私は消えてしまいたいくらい情けない気持ちやねん。)と。 

先日遊びにきた近所の小学2年生の女の子が、うちの表札を見て、どうしておばちゃんは高 吉美なの?高山じゃないの?ときいた。 

”おばちゃんは韓国人で、おじちゃんは日本人だから名字が違うのよ”と答えると、あからさまに”ええ!”と、差別的な視線を投げてよこした。 
私は、少し不安になった。ぬくぬくと、朝鮮人のなかで育った自分は幸せだったかもしれない。 
でも日本人と結婚してしまったからには、子供は日本の社会で育てていくしかない。 

肖像画を崇めるということはそれだけで同じ同胞社会に住むもの同士の連帯を感じさせて 、その中にどっぷり浸ることで、日本社会のなかから大きなバリヤーにつつまれて守られていたような気がする。  

さて、わが娘たちはどうやって守っていこうか、攻めも教えなあかんしなあ、と支離滅裂なことを考えている秋の夜長である。 (1995.10.1) 


朝鮮学校グラフィティ 第二回 

おい おっさん うま のれ 

震災後2ヶ月もの間、大阪の生野にある実家に一家4人身を寄せていた。 
家財はずいぶんひっくりかえったけど、建物は無事だったし、水も早くからでていたんだけど、久々の生野での在日にどっぷり浸った暮らしはなんとも居心地が良くて、ついつい長居してしまった。 
中でも大きかったのは、娘二人を在日韓国人系の保育園に一時通わせることができたことだと思う。 
ここでは通常の保育のなかにとても自然な形で民族性を取り入れて入る。給食のメニューにトックやチヂミ、ピビンパなどがあったり、ウリナラ(ウリ=我々の、ナラ=国)のお歌を習ったり、園児の名前ももちろん本名で呼ばれる。何より園の方針が、我が子のように園児を愛し保育するというもので、全体的に暖かい家庭的な雰囲気に包まれて子供達がとても楽しそうにすごしていた。 

子供の頃の記憶というものは鮮烈に意識のなかに残されると思う。 
ここに通わせていたら、在日韓国人としての自分の民族性を否定する事無く、素直に受け止めることができる人間になれるんじゃないかと思い、一時真剣に神戸の家を売り払って、この近くに家を借りて住んで子供をこのままこの保育園に通わせたいと思いつめた。 
そうです。はい。それほど、将来のこどもの中の民族心の持ち方に不安を感じているのです。 
わたしでも。はい。 

そんなこんなで、子供が園で習ってきて、私のことを”オンマ”(韓国語でお母ちゃん)と呼んだ時にはもう舞い上がってしまって、”もう一回言うて”と何度も子供にせがんで、嫌がられてしまった。 
小さい頃というのは順応性が高いので正しく習えば発音もとても上手になる。早期教育は、言語に関しては(継続できれば)有効だと私は思う。 

朝鮮学校では普段の生活からすべての教科書に至るまで、使われる言葉は徹底して朝鮮語だった。 
学校から帰って友達同士で遊ぶときも、ウリマル(マル=ことば、つまり朝鮮・韓国語)で話した。 
九九もウリマルで覚えたし、日本語は”日語”という外国語として習った。特別な科目としては”金日成元帥の革命歴史”というのがあって、その中の”元帥様の幼い頃のお話”というのを暗唱するのが私は得意で、よく学芸会なんかで披露したりした。今でもおぼえています。はい。 
これは独特のイントネーションがあって、今やるとちょっとおもしろい。 

ウリマルを使うのは主に学校内だけなので、もちろん生徒たちはみな日本語の方が話しやすいし、どうしてもわからない言葉や表現が出てくると、”ちょっとだけ日本語つかわせてね”とウリマルで断って、堰を切ったように日本語で話したりした。 

だが、ある日、それが公に許されない日がきてしまった。”ウリマル星取り運動” なるものが学校で大々的に実施されるとになったのである。 
一人一人に名前を書いた真っ赤な星型のカードを10枚ずつ配られる。もし日本語を使ったら、それを聞いた人にカードを渡さなければならない。 
黒板の横にグラフが貼られ、一番たくさん星を集めた人が表彰されるという密告者養成ゲームのようなもの だった。 
これは本当にストレスがたまった。 
日本語が使いたくて、居ても立ってもいられなくなった。でも一言、ぼつりと日本語をつぶやくやいなや、”わー!イルボンマル(日本語のこと)!!”といって、わっとクラス中の生徒が星を奪いに群がってくる。 

これは、今でもその時の友達の顔を鮮明に思い出せるほど恐かった。 
だから、日本語が使いたくてどうしようも無くなったら、休み時間に両手で口を押さえて校庭の角の塀のところまで走っていって、誰にも聞かれないように辺りを見回し、日本語で独り言をベラベラベラとまくしたて、大きく深呼吸をして、あーすっとした!と心のなかでつぶやいて教室に戻っていった。 
ストレスのなかで、すごい技を編み出した強者もいた。ある男の子が、いきなり机の上に仁王立ちになり、”おいおっさん、馬乗れ!”と絶叫した。一瞬の沈黙のあと、案の定群がった級友たちに、彼は余裕の笑みを浮かべ、”アニ、アニ(いやいや、ちがうちがう)”と首を振ってみせて、すたすたと黒板に向かった。 
そして、 

  オイ(きゅうり)オッサン(屋上)ウマ(音楽)ノレ(歌) 

と、書きつらねた。 

これは流行った。 
皆つまってくるとこの一節を口に出して多少のストレスを解消した。 
同じようなだじゃれをいろいろみんな考えていたようだが、これに勝るものはなかったように思う。 
この星取り運動は、当時の中国の文革での、隣組制度を導入したものと、今となっては思われるんだけど、ここまでやれば確かに言葉は上達した。 
今私がウリマルを話せるのは、90%小学校で培ったものだと思い、感謝している。 

上の娘が生まれたとき、絶対”オンマ”と呼ばせよう!と心に決めていた。 
でも日本人の社会のなかで、そう呼ばせていくには肩に力を入れずには居られなかった。 
子供が外と内とで使い分けるようになったらどうしようと考えたり、いちいちお砂場のお母さんたちに説明するのも億劫だった。 
”おかあさん”と呼ばせることにずっとわだかまりをもっていた。 
だから、とても自然な形で”伽奈のオンマ”でいられた生野での生活はこの上なく居心地が良かったのだ。 
”どこにいても、正しいことを見極める目を持った子供に育てることが、民族教育につながると思うよ。”と、私の高校の時の恩師でもある保母の先生が云ってくれた。 

安易に大阪への転居を口にしていた私への戒めの意味もあったかもしれない。 
まだまだ蒼いなと、つくづく反省させられて神戸に帰ってきた。 (1995.6.15) 



朝鮮学校グラフィティ 第一回 
新 校 舎 

先日、たまたま通っていた朝鮮初級学校の前を通りかかった。 
実家のすぐ近くにあるのに、いりくんだ場所にあるせいかずいぶん長いこと見かけることのなかった校舎の前で、しばらく息をのんでたたずんでしまった。 

そうか、もう25年になるねんもんな。 

私が二年生の時に新築された校舎、真っ白で、とてもモダンで美しかった校舎は、外壁の塗装も施されないまま、煤けて、何だかとてもみすぼらしく見えた。 
屋上の柵に赤地に白抜きの文字で高く掲げられていた“金日成元帥様、ありがとう”のハングル文字の看板も取り外され、人気のない校庭は、こんなにも狭かったのかと何だかとても淋しい気持ちになった。 
この校舎は特別だった。 
幼い心にもとても誇らしく思えるほど立派だった。 
同胞たちが祖国の繁栄に活気づき、自分たちの力で苦労して、努力して、異国の地に築きあげた“ウリハッキョ(我々の学校)”だった。  

それまでの校舎は平屋のボロボロのバラックで、雨が降ると教室にはたくさんのバケツがおかれ、雨漏りをしのいでいた。昔あった漫画の“国松くんのおとおりだい!”に描かれているような風景で、トイレは、何と公衆電話ボックス(いったいどこから持ってきたのか)を、校庭に置いて、穴を掘っただけのものだった。 
筋向かいにある日本の小学校の生徒たちが、よく 

“チョーセン学校、ボロ学校、風に吹かれて飛んでまえ!あーくっさぁ!” 

と群れをなしてはやしていた。といっても、この小学校も、地域がら全校生徒の80%以上が在日の韓国、朝鮮人という、特殊な学校で、目糞鼻糞を笑うとはこの事である。 

新校舎の落成式はもちろん盛大に行われた。 
生徒たちによるお遊戯や、歌、合奏などが披露された。 
花形はお遊戯で、低学年、高学年に分けて、各クラスから代表で数名ずつ選ばれて踊ることになっていた。この低学年の部に、何の間違いか私が選ばれてしまった。 
自慢じゃないが、生まれた頃から超どん臭い、じゃりんこチエのひらめちゃんを非力にしたくらい、運動神経の鈍い私を、なぜか担任の先生は選んだのである。 
これはもしかたら、お遊戯担当の先生の嫌がらせか?と、思ってしまったくらい、異例の抜擢だった。 

隣のクラスからももう一人、同じようにどん臭い子が選ばれていて、練習が終わったあと、必ず私とこの子の二人、居残りで練習させられていた。 
おかげでこの子とはすっかり仲良くなって、本番前は30人の群舞なのに、二人でこっそり練習したりした。 
でも、やっぱり私は、振り付けを間違えてしまったのだった。 
上げてはいけない手が、一人高く上がってしまった。 
うまくごまかしたつもりだった。 
でも、息を切らして舞台から降りてみると、気が強くて有名だった担当の先生は泣いていて、他の先生に慰めれれているのだった。 
晴れがましい舞台とは裏腹に、私の心は、情けなさと先生へのすまなさでずぶずぶだった。 

それからほどなく、その仲良しになった子は家族と共に北朝鮮に帰国していった。 
国から送られてくる子供向けの情報誌に、“日本から帰国して幸せに学ぶお友達”として、彼女が写っていた。頭に、お見舞いのくだもの篭にくっついているような、大きなピンクのリボンをつけて、口紅を引いて、勉強している姿が何枚か載っていた。 

文通するなんて思いもつかない年令だった。今はどうしているのだろう、もう知るすべもない。 
ただ、北朝鮮の理想と現実の報道を目にするたびに、願わくば、彼女の家族の思いが裏切られませんでしたようにと祈らずにいられない。 

さて、新校舎が建ってさっそく私達がやったことは言うまでもない。かの小学校の前に群れをくんで 

“ニッポン学校、ボロ学校、風に吹かれて飛んでまえ!あーくっさぁ” 

であった。 (1995.1.1.)

 
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