我が家のお惣菜


ウリチプパンチャンtop
Morris.部屋top
第三回 チャップチェサンドと父の膝


コンビニのチャプチェパイ 先日、朝ご飯を食べそびれて、コンビニに寄ると、「チャプチェパイ」なるものが売ってあった。ハングルをあしらったパッケージに、韓国はずいぶん身近になったんだなぁとしみじみ思った。チャプチェって、何?と、数年前まではほとんどの日本人が思っていたのではないだろうか?チャプチェを漢字で書くと「雑菜」。野菜や肉と春雨を和えた料理である。

 このチャプチェパイを手に取ったとき、父が生前、唯一作ってくれた「チャプチェサンド」のことを思い出した。

 父は私が15歳の時に亡くなった。父が、家に「帰って」来るのは、週に一度ほどであった。それでもものごころつくまでは、父が乗るホンダのカブの音が聞こえると、「お父ちゃん、お帰り!」と、急いで外に飛び出して、父を迎えていた。父がいる食卓には必ずビールと、いつもよりずっと豪華なおかずが並んだ。フェという刺身料理が父の好物で、イカフェ、チャリ(スズメ鯛)フェ、カオリ(エイ)フェ、子袋(豚の子宮)のフェ、牛の脳みそのフェ(…気分が悪くなった方、すみません…)、などのフェは欠かさず食卓に置かれていた。

 普段は、イカフェくらいは食べるけれど、子袋や牛の脳みそのフェは、父が居ないときに口にすることはない。父の膝にのり、ビールをついであげながら、少しだけお相伴する。子袋はコリコリとした食感で、脳みそはまったりとした味わい。何より母は料理上手だったので、その味付けがとてもおいしく、「お父ちゃんが来たときに食べられるもの」として、わたしには特別な料理だった。

 その他にも、揚げ物やナムル、キムチ、焼肉など、小さなおぜんいっぱいに並べられた料理は、父の髭あとの痛がゆさとともに、今も時々思い出す。

 在日一世にはめずらしく、手をあげることも、声を荒げることもほとんどない人だった。そのやさしさは、母にはもどかしいものであっただろう。母が一方的に父を責め立てる姿を、幾度と無く目にした。大人になった今は、当時の母の苛立ちも、父のふがいなさも理解できる。だけどわたしたち姉妹にとっては、ただ、やさしい父であった。

 父が亡くなった日も、彼の「帰り」を、母と私と妹は、食卓に料理を並べて待っていた。さめていく料理に不安がつのる。電話が鳴り、父が脳溢血で亡くなったことを知らされた。その日の食卓に並べられた料理が、その後どうなったのか、今も、不思議に思い出せない。

 子どもたちは早々に食事を済ませるが、父はビールを飲りながら、ゆっくりと食事をするのが常であった。狭い四畳半の部屋が当時のわたしたち家族の生活スペースのすべてで、その真ん中に食べ物がのったおぜんがあると、お腹がいっぱいのはずでも、つい何かつまみたくなってしまう。残り物のお肉に手を伸ばそうとしたとき、父が唐突に「食パンあるか?」と言った。たまたま家にあった食パンをわたすと、父はその食パンにマヨネーズをぬり、サンチュ、焼肉、キムチを乗せ、最後にたっぷりチャプチェを乗せて、食パンにはさみ「ほら、チャプチェサンドや」と得意げにわたしてくれた。さすがにキムチをパンにはさんで食べるなんて考えたこともなかったので、恐る恐る食べてみると、これが以外にもとてもおいしかった。「お父ちゃん、おいしいね」と言うと、父は満足そうににこにこと笑った。

 あとにも先にも、父が「料理」をつくってくれたのはこの時だけ。チャプチェが食卓に並ぶたび、父のチャプチェサンドのことを、いつも思い出してしまう。だから、なんとなくきわものの臭いがしても、つい、「チャプチェパイ」を買ってしまった。味は、コンビニで売られている肉まんの具に、春雨が気持ちだけ入ったものをパイにつつんであるだけで、特においしいものではなかったけれど。

 さて、わたしが作るチャプチェは「味、うっす〜い!」「みずっぽ〜い!」と、いつも娘たちの不評を買う。チャプチェをつくるのは彼女たちのおばあちゃんの仕事。チャプチェサンドも、あれ以来、作ったことはない。

第二回 ホン君とロースハム

ホン・ヨンウンという歌手をご存じだろうか?
ホン・ヨンウンは、1979年、18才の時「熱い街」というアルバムを発表し、以降、ライブハウスや学校、時には小さな呑み屋や喫茶店で、歌を歌い続けていた。

ちょうど1980年の5月に、韓国で光州事件が起きたころと重なるので、ホン君の歌は、もう20年以上聴いたことがなかったけれど、鮮明に覚えていた。

彼の歌が、私は苦手だった。

負けるなよ、負けるなよ!チョッパリに

負けるなよ、負けるなよ!チョッパリに


「そこまで言うか…」彼の歌を聴いたとき、私は、とても居心地が悪かった。
在日として日本で生きる苦しみや悔しさを、ストレートに表現した歌詞は、時に耳を覆いたくなるほど過激に聞こえ、長いこと、ホン君の歌に、わたしはアレルギーを感じていた。おまけに歌も、へたくそ、だったと思う。

それでも夫や、夫の周りにいる仲間たちは、ホン君の歌は心に訴えるものがあると、口をそろえた。「歌は、うまいとか、へたやないんや」。
ミュージシャンの感性なんて、わたしにはわからなかった。

その頃わたしは、自分とは違う立場の在日コリアンと出合い始めていた。

わたしは小学校から高校卒業まで民族学校に通い、住民の1/4が在日コリアンという猪飼野(生野区)で育った。

民族差別を受ける機会が、わたしの生活周辺には存在しなかった。だから、日本の社会の中で育った在日コリアンが受けてきた、息苦しさや痛みがわからなかった。そんな環境の中で「本名」を名乗ることが、どれほど大変なことなのかも、わからなかった。

京都の短大に入り、出会ったコリアンの友人たちは、わたしが猪飼野に住んでいるというだけで、とてもうらやましがった。わたしは在日コリアンではあるが、彼らの痛みを共有することが、できなかった。

短大の2年生だった頃、ホン君の住むアパートに遊びに行ったことがある。当時わたしの親友が、ホン君とよく一緒にライブ活動をしていた神戸のミュージシャンと付き合っていたので、引っぱって行かれたのだと思う。

今里にある文化住宅の二階。春だったのか、夏だったのか、もう、よく覚えていない。でも、窓は大きく開けられていて、明るかったので、冬でなかったことは確かだ。ホン君は、いつものひょうひょうとした様子で、出迎えてくれた。

ホン君の部屋でビールを呑んだ。その時ホン君は、冷蔵庫から、よくお中元やお歳暮で送られてくる固まりのロースハムを出してきて、座卓で切りわけふるまってくれた。白いお皿に、ふぞろいに切られたハムを並べ、マヨネーズを添えてくれた。ホン君と、豪華なロースハムは、あまりにも不釣り合いに思えた。

その日、ビールを呑みながら話したことで、覚えているのは、その頃「光州シティ」という歌を歌い活動していた、在日コリアンの歌手、白竜のことだ。当時わたしは白竜の歌にぞっこんで、よくコンサートやライブに出かけていた。

ホンヨンウンヴィデオジャケットある日、近所のライブハウスでのコンサートが終わった後、帰宅していたわたしに白竜から電話があった。「もっといろんな話がしたいから出てこないか」と誘われたが、遅い時間だったので断った−−そんないきさつを話していたら、友人の彼が「おまえ、そんなん、行っとったら、ヤラれてまうぞ」と、言った。

「ヤラれるって、なに?」

カマトトだったわけではない。同じ在日として、日本社会に対し、自分の存在を訴える歌を歌っていた白竜は、ある意味わたしの中では神聖な存在だった。

ホン君は、ハムをほおばりながら、「うん、ヤラれてまう、ヤラれてまう」とうなずいていた。

ホン君との個人的な思い出はそれだけだが、その日のことは、不釣り合いなロースハムとともに、ときどき、ふと、思い出す。

ホン君は、2003年10月9日、癌と闘病の末、この世を去った。

昨年、朝日新聞にホン君の記事が掲載された。ホン君の存在を心に刻み、その死をきちんと伝えてくれる記者がいたことが、うれしかった。

記事を読み、まだ46才という若さだったこと、子ども3人と、妻を残して、他界したこと、そして、逝くときは、唄から離れて、家族のために懸命に働いていたことを知った。妻は日本人だが、子どもたちは韓国籍であることも。

 亡くなる間際、ホン君は、妻に「子どもたち、日本に帰化させていいで」と、静かに語ったという。

「負けるなよ!チョッパリに」、というフレーズが、耳に蘇った。
たくさんの日本人の友人や仲間に囲まれても、孤独だったホン君が、哀しかった。

先日、ひょんなことから、ホン君のライブビデオを借りることができた。
巻頭には、友部正人の詩が流れた。

たぶん雨の日
ホンヨンウンの部屋は
世界のあらゆるものから閉ざされてしまい
家の外は想像の世界になるに違いない。

そこには砂漠があり
男や女や子どもたちが歩いている。
新聞やニュースでしか知らなかった世界が
実際にホンヨンウンの家の外にあるのだ

ホンヨンウンの歌には
そうとしか思えないような
リアルな感情にあふれていると思う。

友部正人


ホン君の歌は、久しぶりにビデオで観て、聴いても、やっぱり、へたくそだったけれど、以前のようにどぎつさを感じることはなく、その、どぎつさに込められた、ホン君の痛みばかりが伝わってきて、せつなさで、胸がいっぱいになった。
 

第一回「トッポッキ」

お正月の二日に妹の夫が韓国からやってきた。妹は仕事の都合で年末に先に帰ってきていた。新しい家族が増えたお正月はやっぱり賑やかで楽しいものだ。

うちの娘達や夫は言葉が通じないので、お互いにコミュニケーションを取るには笑顔しかない。なんだかにへらにへらと、何がおもしろいというわけではないが、笑ってその場の空気を保っている。笑門来福。新年はみんな健やかに過ごせるんじゃないかなと思ったりする。

さすがに儒教の国の韓国で育っただけあって、義弟の母に対する態度は見ていて思わず膝を正してしまうものがある。正月の挨拶一つ取ってもとてもおごそかな気分にさせられる。私や夫にもクンヂョル(大きな挨拶)をしようとするので、あたふたしていると、妹が日本ではそれは恐縮されるからとたしなめた。同じ韓国人とはいえ、生まれ育った環境で人は創られるんだなと、改めて思った。

母は最初二人の結婚には反対だった。義弟はパントマイマーである。韓国に嫁に行ってしまうことだけでも我慢できないのに、そんな不安定な職業の人間に大切な娘をやるわけにはいかない。年を重ねた分だけ頑固さは日増しに「いこじ」に代わり、いったい、どうすれば気持ちをほどくことが出来るんだろうと、妹としみじみ話し合ったものだった。でも、本人に会ってみると、きっと、少し時間はかかるかもしれないけれど、大丈夫だという気がしてきた。

最初の頃は、仕事で韓国に行った母を迎えに出た弟が、荷物を持とうとするのを奪い返し、「泥棒みたいな事をするな!」と、とんでもない言葉をあびせたり、食事に行っても一言もしゃべらない。ぞんざいに扱われる義弟が不憫で、なんどもたしなめたけれど、心を開こうとしない。結婚式の当日も挨拶をする義弟によろしくの一言もない。

ま、妹が若い頃に連れてきた彼氏は、ケーキをたくさん持ってきたが、一口食べて、「まずいな、これ。ケン(当時飼っていた犬)にやり」と目の前で言われていたし、私の夫が結婚の承諾をもらいに挨拶に行ったときにも、ちらりとも目を合わさず、「私はね、娘と日本人の結婚を認めるわけにはいきませんの」と、とってつけたような丁寧語で冷たく言い放たれていたので、最初の試練としてしばらく我慢してもらうしかないなと思った。心をほどくと、こんなにも娘達のパートナーに心を砕く人もそういないということは、実証済みだから。

言葉は通じないけれど、さすがにパントマイマーなので、下の娘はすっかり義弟がお気に入りで、すぐに義弟に向かって「象」と言ってみろとからかうようになった。韓国には「ざじずぜぞ」という発音がないので、どうしても「じょう」になってしまう。かなりしつこくてうっとうしいはずなのに、嫌な顔をみじんも見せずに、何度も「じょう、じょう」と繰り返し発音してみせる姿にしみじみ、いい奴だなぁと、感動していた。

そんな義弟がお正月、どうしても自分が作った「トッポッキ」を姪っ子達に食べてもらいたいと、韓国から出発する朝に搗いてもらったという、細長いお餅をたくさん持ってきてくれた。トックのお餅はもう日本でもかなりなじみ深いものになっているが、スライスする前の状態の棒状のものを5センチ程の長さに切り、コチュジャンで煮込む。よく韓国の屋台紹介で、出てくる真っ赤っ赤に煮込まれたあれである。私は初めて見たとき、これはきっとソーセージだろうと思い込み、一皿買って食べてみたら、想像していた食感と、全く違った食感のものが口に入り、驚いて噛むことが出来ず、そのまましばらく口の中に留めた後で吐きだしてしまった事がある。それ以来、なぜか買う気になれず、トッポッキとは縁が遠いままだった。

正月3日に妹と二人、仲むつまじく実家の台所に立ち、作ってくれた。屋台で見るほど真っ赤ではなかったが、十分辛かったので、どうして屋台のものはあんなに真っ赤っかなんだろうと話をしていた時、母が「あれはきっと、トマトケチャップが入ってるねん」と言うのに「いいえ、そんなはずはありません」と、義弟が反論をした。良かったと、思った。ささいな事だが、母に反論出来るくらい、二人の仲は近づいたのだ。

お皿に山盛りのトッポッキはあっという間に無くなり、写真を撮る暇もなかった。日本にいる姪っ子達に食べさせてあげたいと思う気持ちが暖かく、ありがたく、しみじみとおいしかった。

我が家で作ったトッポッキ さて、写真は私が家で作ったものである。

屋台のトッポッキは殆どお餅だけだが、家庭で作るときは韓国で「おでん」と呼ばれている、うすーい平天と、ゆで卵、キャベツが入るのだという。韓国の「おでん」は手に入らないので、お正月の残り物の紅白かまぼこを薄く切って代用してみた。

作り方はいたって簡単。フライパンにお水とブイヨンを少し入れ、コチュジャン、お砂糖、塩少々で味付けをする。そこにざく切りにしたキャベツ、かまぼことお餅を入れ、お餅が柔らかくなるまで煮込む。お水は多すぎるとしゃぶしゃぶになって、なかなかとろみが出ないので少な目にして、絡め煮という感じ。

お餅が無くなったあと、韓国ではごはんを入れたり、ラーメンを入れたりして食べる事がお決まりらしい。ラーメンが入ると「ラーポッキ」キッチュな名前である。

トッポッキのお餅も最近はスーパーで見かけるけれど、無い場合は少し噛みごたえがたよりないが、トックのお餅でも十分代用できる。元は一緒。ぜひお試しを。
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