やまのべ通信
(2002年6月)
ゆとり教育 2002.06.28
息子の通う中学校で保護者説明会なるものがあるというので出かけてきた。平日の夕刻とあって、お母さんばかりに混じってお父さんはたった二人であった。女ばかりの中にポツンと居ることには慣れているので別に何でもないことのだが、体育館でパイプ椅子に座って先生の話を聞くなんて久しぶりだ。通常、逆の立場に立つ方が多いので、たまにはこちら側に来て自らの鑑とするのもよい。しかし、校長の挨拶と概略は内容が無い割には長かった。20分、講義で話しているとあっという間だが、実はあんなに長かったのか。
前半は、新学習指導要領実施に伴い、完全週休二日制移行と通知票に記載する評定値を絶対評価に変更することの説明。商売柄、知っていることばかりだったので新味は感じなかったが、「総合学習」と「選択科目」の現場運用がかなり大幅に学校裁量に任されている理由はよく分かった。息子の中学校では、「総合学習」については、「従来の取り組みを踏襲して特に授業時数を設定することはしない」と説明された。「従来の取り組み」ってなんだろう?と思っていると「社会見学(1年)→職業体験(2年)→修学旅行(3年)と続く一連の取り組みの中で培われる何たらかたら」だそうだ。よくわからんが、つまり「総合学習」は、各種学校行事を通して行うってことだな。で、その分の授業時数は「ゆとり教育」への転換で不安視される基礎学力の充実用にあてる、のだそうな。ところが、帰宅して息子の時間割を見ると「総合学習」なるコマが一つある。実際に何をやってるのか聞くと「その時によって違うけど、数学とか理科とか、予定より遅れてる授業やってる」らしい。行事でつぶれた時数の穴埋め用になっているようだ。な〜んだ、文科省の御役人の言う「生きる力の養成」など、既に骨抜きである。
通知票の評定値も、奈良県の教育委員会が「公立高校の入学選抜方式は向こう3年間現状維持」を決めたため、従来通りの相対評価も並行して継続し、将来の進路選択の参考用に三者懇談の場で別表にてお渡し下さるようで、先生方におかれましては手間が増えただけ。お気の毒としか言いようがない。それでも、成績の話となるとお母さん達の反応も過敏で「相対評価なら、上から順番で着くけれど、絶対評価になると先生によって評価基準が違うとか到達度に差が出るとか、そう言う問題はないのか?」と突っ込みがいく。教師に対する不信感の表明とも取れる質問に、多少苦笑しながらも「評価基準は教科会議で合議の上決められますから」と説明があったが、もう一点についてはなんとなく曖昧なまま。教師の技量に対する相互批判が実に困難なことは私らの世界も同じなので答えるのが難しいのはよく分かっているけれど。
後半は2年生の親だけ残って「職業体験」の説明会。注意事項がいろいろあったのだけれど、体験先の確保は家庭に任せるって、困ったな。学校からは、事前に依頼も要請もなく、自分達で探して受け入れ承諾を取ってこいと。できるだけトラブルを避けるためにも保護者の知り合いに頼めと。体験先は原則としてこの校区内もしくは市内、この田舎では、私のような地縁血縁のない渡来系住民には難儀なことだ。コンビニ・ファーストフード等の業務がマニュアル化されている事業所は避けよ。はいはい、なるほどね。危険な作業を伴うもの、それから警察と消防は無理。当たり前だし、こっちが心配だ。それでも、過去に駐在所に現れて「どうしてもやりたいから、何とかしてくれ」と言った生徒がいたそうな。
これのための事前指導として、進路選択適性検査「パスカル」とやらがあったらしい。アンケートに答えていく方式で個々の適性をはかるらしいが、息子の適性は「情報技術関連」に最適だと。ひらちゃんやMizunoさんのような生き方がちょっとうらやましい私にはそれも良いかも知れないと思える結果だった。
ハレとケ 2002.06.25
主として民俗学で使われる概念に「ハレ(=非日常、特別な時間帯)」と「ケ(=日常)」がある。これに日常生活の活力が衰退方向に向かう「ケガレ」を加えて、様々な文化事象や行動様式を説明していく。たしか柳田国男を出発点とする考え方だったように思う。ほんの2週間前まで、日本中がやや長い「ハレ」の時間帯にあった。たぶんオフサイドの原理も認定方法もわかっていないような学生達から「明日の講義は休みにならないのですか?」というメールが多数届いたのも先週月曜日、日本代表がトルコに敗れ「ハレ」の日々が終わる前日だった。
日本社会にとって、我らが代表チームが活躍中が「ハレ」の期間であったように、サッカーの世界でもW杯期間中は「ハレ」の日々に当たるのだと思われる。対する「ケ」の日々は?と言えばレギュラーシーズンに行われるリーグ戦がそれに当たるのだろう。もっとも、選手達にとっては、練習の日々こそが「ケ」であって、週末毎のゲームは「ハレ」舞台、我々にしても「ケ」の日々を通り越して減衰した活力を補うために設定された「ハレ」の日が、サッカーを観戦に行くその日でもある。あれ?そうすると「ハレ」と「ケ」ってのは、相対的価値概念で絶対的なものじゃなかったのか?生半可なことを言うと民俗学の皆さんに「だから文献屋は!」と怒られそうだからやめておこう。
古代では、この「ハレ」の行事に関わって、何かを「見る」ことが非常に重要視された。代表的な例で言えば「花見」「国見」等があげられる。なにゆえ「見る」ことにこだわったのか?それはその行為に「タマフリ(魂振)」的意義があるからだという。古代の人々は、自らの活力が衰えると、生命力溢れるものを見ることによってその漲る力を我が体内に取り込もうとした。すなわち、「花見」とは満開の花を見ることによって、目を通して自分の体内にそのエネルギーを注入しようとした行事なのだ、と説明されている。
ええ大人が、他人のそれも見も知らぬ国々からやって来た異形の外国人同士の球蹴りを見て興奮する。なるほど、長引く不景気にリストラの嵐、日々の活力の減衰に悩まされていた人々にとっては、魂を奮い立たせる格好の「見る」対象である。しかも、今回はわが体内に流れる血と、遠い昔にどこかでつながっているかも知れない同族の息子達も参加しているのである。若い衆のみならず、オッサン・オバハン巻き込んで日本国中血湧き肉躍るのも宜なるかな。
しかし、あまりに過剰なエネルギー摂取は、やはり疲れる。エネルギーを取り込むその行為そのものも、かなり体力を消耗するものなのである。ようするに何が言いたいのかというと、ぼちぼち「ケ」の日々が恋しいのである。はやくJリーグ再開しないかなあ。
鯖街道 2002.06.22
マイコプラズマ感染症によるしつこい咳と思われるものが発現したのが、先月、山背古道を歩いて帰宅した直後からだった。咳は就寝時以外は思い出したように出る程度まで鎮まってきた。息子の方は、血液検査の結果、「の疑い」が取れ、「間違いなくそうでしょう」との診断が下っている。診療科は違うけれども別件でかかっている他の医師に訊ねてみると「成人の場合は免疫力があれば、いずれ症状は消えるはずなので、悪化しなければそのままでいい」のだそうな。問題は、免疫力の弱い子供と老人が注意するべき感染症だとのこと。抗生物質の濫用を避けようとする私担当の研修医さんの判断も間違ってはいなかったわけである。それにしても、喉のイガイガ感は依然消えず、しつこい野郎だと呪詛の言葉は絶えていない。
あれから1ヶ月、またもや例の仕事の期日が巡ってきた。今回は、若狭から京都への道「鯖街道」がテーマ。上代文学専攻の私には、ほとんど縁もゆかりもない道なので、誰かに頼もうかとも思ったが、大人はみんな忙しい昨今のこと、こんな安いギャラでは誰も引き受けてはくれそうにない。ボラバイトと割り切って出かけることにする。土曜日だっちゅうのに、朝7時50分に難波OCAT集合はかなりつらい。これも他に引き受け手がない理由。なんで、そんなの続けてるのか?逆の意味で「金のための仕事」がしたくないからだろうな。
バスで3時間近く、若狭湾に面した小浜からスタートする。商店街にの路面に御影石の起点レリーフが埋め込まれていた。これを確認してから、若狭一宮へ向かう。商店街には、お約束のように鯖の浜焼きを売る店が出ている。一人だったら買ってかぶりつくのだろうが、団体引率のみで我慢する。うまそうだった。
「一宮」という社格システムは、まじめに勉強したことがないのでよく分からないけれども、平安末から鎌倉期にかけて、各国毎にどこがそうであってという制定が進んだらしい。つまり、何となく決まっていったと言うことだろうか。若狭国一宮は、上宮と下宮があり、今回の実質的スタートとなったのは、遠敷(おにゅう)にある下宮の方、境内に千年杉と称する巨大な神木があった。前に立つだけで圧倒される。延喜式内社なので、本当に樹齢千年かもしれない。到着してから、東大寺二月堂のお水取り行事と関係のある地だったと思い出したが、うっかり予習し忘れていた。古代の日本海交流と江戸期の西廻り航路開設までの繁栄の話をしておいた。教育活動ではないので良いでしょう。
熊川宿は、行政による整備が始まっていて、街並みの半分は映画のセットのようになっていた。電柱は地中に埋められ路面は砂利を敷き詰めてプレスをかけたような透水性舗装。各戸の前を流れる、その名も前川も風情があって、なかなかいい感じだった。街の中程に「義民松木長操」を祀る松木神社なるものがある。江戸期に高率の徴税に苦しんだ周囲の郡郷とともに決起した、一揆の頭目だった人物だそうで、不覚にも知らなかった。9年間屈服せず、税率を元に戻したがその代償として磔刑になったとのこと。それを明治になってから神として祀っているそうだ。東京で見た、吉田松陰神社もそうだけれど、現実にこの世に生きていた人物を神格化するその現象に少々関心がある。故郷にも、賀茂真淵神社がある。これなど、神官が神になってしまった例だ。日本一初詣客の集まる明治神宮もその例である。どうも、ある時期の日本社会の精神構造と関連があるような気がしているのだが、そうした研究はあるのだろうか。
水坂峠が分水嶺のようで、猿や蛇と遭遇しながらこれを越えると川の流れが逆になった。それまで降っていた雨も、からりと晴れ上がり国境を感じる。朽木宿に着くと、予定の時間を大幅にオーバー。夜7時から、長男のサッカー部の保護者会があるのに間に合いそうもない。あきらめて会長さんに電話しておいた。
帰りのバスの中で、W杯のスペイン−韓国戦をラジオで聞いた。PK戦までもつれ込む好勝負で韓国の勝ち、、、かと思っていたが、帰宅して、TVで観ていた長男から「2点もとったチームが、0点のチームに負けたで」との感想を聞く。後のニュースで見ると、例によって誤審と露骨なホーム寄りの判定があったらしい。現役プレーヤーである長男には、「快挙!」よりも釈然としない思いが強いようだ。世の中、たしかに実力だけで勝負はつかない。この事実を変な形で教育することになったのが少し悲しい。私をよく知る人には意外だろうが、米国戦以来、じつは我が家では韓国代表チームは応援されていない。あることで、彼ら代表チームのあまりに異質な精神状態を見てしまったせいかも知れない。韓国文化は好きだけれど、サッカーだけは脳の別部分が働いているようだ。それに、すべてを認めてしまうことが愛情とも言えないだろう。
端午節 2002.06.15
本日は、旧暦5月5日端午の節句。伝説では、憂国の詩人屈原が絶望の末汨羅の淵に身を投げた日でもある。端午の節句に粽を食べるのは、石を抱いた屈原の遺体を飢えた魚が損なわないようにと、粽を投げ込んだとに由来すると言う。1500年ほど前の一人の詩人の死が、新暦化されたとは言え(しかも「子供の日」と姿を変え)東方海中小国の年中行事に影響を与え続けているのも面白い話だと思う。その日の明け方まで、道頓堀では、数百人があんな汚いどぶ川へ飛び込み続けるとは、よほど溜まっていたものがあったのだろうなあ。ノリ出したら何でもやっちゃう大阪人には、やはり完全同化できない自分を感じる。
先月からの風邪をこじらせたか、いまだに咳が止まらない(と思っていた)。それどころか、同じ部屋で寝起きしている長男まで同じような咳をし始めたので、何か変なものをうつしたのではないかと心配になって、病院へ連れて行き受診させてみた。身長はすでに追い越され、最近親を見下げるような視線が気になっていても、行ったのは小児科である。周囲に乳幼児だらけの中、すでに鼻の下にうっすらと髭のようなものの気配を見せる息子と待合室にいるのは、はなはだ不調和な気もしたが、患者が14歳だったか15歳の誕生日を迎えるまでは小児科の担当になるそうだ。
聴診・触診の後、私とまったく同じ経過で3週間もしつこい咳が続くので、と説明すると「あ、うつったんでしょうね」と血液検査とレントゲン撮影の指示書が出た。「おい、血ぃ〜抜かれるで」と脅しても、なんだか面白がっている。どんな環境でも「何か面白いこと無いか?」と変な好奇心を発揮するのは父親譲りかと思っていたが、なんと自分の採血の一部始終を興味深そうにじっと眺めている。あれは私には出来ない。針が自分の身体に入る瞬間なんて、見ていたら全身の力が抜けてしまって立てなくなりそうな気がするので、いつも目を背けている。感想は「ああ、面白かった」我が子ながら、変な奴だ。
結局「マイコプラズマ感染(の疑い)による気管支炎」との診断。近頃、流行気味らしい。私は、同じ病院の総合内科を受診して咳止めしかもらってなかったのに、長男へは抗生物質らしきものが処方された。帰宅してから例によって、インターネット検索すると、まさにそれ用の薬である。私自身は「肺炎ではないからご心配なく」程度だった。思えば、長男を診た小児科の先生は、もう風格のあるまさにお医者様然とした方だった。、私を診たのはどうみても新人さん。聞けば、ここの病院では、総合内科の診察室の1つを研修医担当にしてあり、やまのべ市内受診者をそれに充てるらしい。彼ら研修医は、勉強のためにと普通より長く経過観察をする事例もあり(博論のデータ集めやってる人もいるそうで)、交通費のかかる遠方の患者は気の毒だから、との理由らしい。
ついでに「マイコプラズマ」なるものも検索すると、予後良好とはいえ「しつこく頑固な咳」が特徴のようで、もうしばらくは我慢しなければならないようだ。身体の方は無理をしない程度なら動くので、かえって変な病気ではないかと気になっていたが、それも特徴的症状らしい。初期診断も普通の風邪と同じようなものなので極めて難しいと。私の場合は、ひょっとしたら肺炎かな?程度の風邪症状だったのでそれでも良かったが、はっきり症状部位のわかる場合は、いきなり専門科へ行くのも手、などという裏技を、ここの元勤務者でもあるカミさんから後で教えられたのであった。自分も新人教師の頃はかなり生徒に迷惑かけたろうし、今も初担当の講義は実験的要素が強いから、この程度なら、医学の発展とその基礎たる人材育成に寄与するのも構わないと思うけど。あ、別に誤診だと言っているわけではないので念のため。
そういうわけで、旧暦端午節(今なら子供の日)を親子で病院で過ごした1日である。
営業行脚 2002.06.09
遠州二俣、天竜市内の高校で教育実習の挨拶巡回。その後、パンフレット類を持って、高校・短大をいくつか廻ってきた。校務分掌で入試広報委員という職分に配置されたので、現場の実情も知らずにそれに関わる議論なんか出来ないと考えて、学校廻りにも出るようになった。それが、もう10年以上続いている。昨今、こうした仕事は、専任の職員が担当する。少子化の時代、立場も逆転して高校側の方が優位な情勢にある。社会人の常識として、訪問前にアポイントメントの確認電話を入れるのだけれど、ここ数年でその対応が確実に変化してきたのがわかる。こっちの態度は変わってないのになあ、と思うけれど、ま、教師も人間だ。専任で業務に当たる皆さんの苦労がよくわかる。
今回驚いたのは、訪問した高校が、どこもかしこも文化祭の準備をしていたことだ。一因は我々にもある。秋口からは、推薦入試という名前で事実上の入試シーズンが始まるからだ。高校の先生の話だと、それに週休2日制が拍車をかけた。かつては秋の行事だと思われていたものが、どんどん前倒しされて、この暑さの中で汗を流して準備して、梅雨空の下での文化祭なのだそうだ。これの授業休みを利用して出張している先生も多くてアポ取りもうまくいかず、なんとなく消化不良の出張になってしまった。
はじめは電車で廻ろうと思っていたが、なにしろ県内に新幹線駅が6つもある土地柄である。訪問高校間の距離が離れていて、そんなことをしていたら効率が悪い。出張予算も以前ほど潤沢であるわけでもないので、時間節約のためにタクシーを使いまくるわけにもいかず、結局は自分の車で廻った。3日間で770kmを走破する羽目になったが、これがなかなか楽しかった。身体は疲れるが、自分の意志で動き回れるというのはなかなか良い。移動の間の束の間故郷ドライブが、営業先でため込むストレス解消にもなった。
車で走っていて、何気ない光景にふと故郷を感じることがある。たとえば、板壁の設えなどを見ると、やはりこの辺りは関西とは違う文化なのだと思う。右の写真の左が遠州地方によく見る板壁、右がやまのべ近辺で見る板壁である。焦げ目を付けた焼板を使うのは同じだけれど、故郷では、それを横方向に渡し、直角に押さえ木を打ち付けて止めてある。関西では、板を縦に使い押さえ木は使わない。何らかの事情があって、それぞれの地域特有の仕様が生まれたのだろうけれど、建築の知識には明るくないのでその所以を知らない。西へ東へと走っていて、信号待ちなどでぼんやりと周囲を見ているとこの横板方式が自然と目に入る。そんな時、いまは故郷にいるんだなという実感がわいてくるのだった。
今日辺りは、日本代表の初勝利を祝してお調子者が道頓堀に飛び込んだらしいけれど、関西に住んでいると、サッカーやW杯の情報がTV以外では実に乏しい。街中の雰囲気では本当にやってるの?というのが実感だ。春夏の甲子園開催時は、NHKと民放1局が全試合を一日中放送しているような土地柄だから、W杯に辟易している野球好きにはもってこいの場所だろう。
ところが、やはり故郷は違った。道路情報を聞くためにFM放送を流していたのだが、朝から晩まで、ずっとW杯の話題、県内のサッカーの話題、などをやっている。磐田市内を通りかかると、いつもはジュビロの旗がディスプレイされている通りが、代表フラッグ一色だった。代表選手一人一人の名前を書いた幟も立っている。子供にお土産でも買おうかとジュビロ・スタジアム近くのグッズショップへ行ってみると、スタジアムの周囲はものすごい警備陣。そういえば、今は日本代表のキャンプ用に接収されているのだった。袋井では、会場となるエコパ(新スタジアム)を遠目に見、アクセス用に作られた愛野という新駅の横を通過した。こんな最中にも、中学生達はU-15県大会を高校生達はインターハイ予選をやっていたりもする。その様子がちゃんとTV放送されているのもすごい。W杯中継の県内視聴率も、他と比べて突出しているそうだ。いやはや、なんともはや。サッカーが嫌いな人には、地獄のような土地だろうな。
田園の中を走っていると、麦の刈り入れを見たり、大きな風力発電の風車を見かけたりもした。山がないので空が広い。どこも、田植えが終わって早苗の風になびく光景が広がっている。帰ってきてみると、やまのべでは、ようやく田への水張りが終わったところだった。
田植え休み 2002.06.04
いつ頃まで存在し、いつ頃廃止されたのか? 良くは知らないが、農村部では、かつて「田植え休み」なる学校休業日があったらしい。東海地方の中規模市で育ったけれど、私にはその経験がない。『となりのトトロ』には、それが出てきて、引っ越し後初めてお母さんの入院先へ、親子3人自転車でお見舞いに行く日が、それだ。お母さんの病室のカレンダーには、たしか5月のカレンダーがかかっていた。やまのべの、このあたりでは、トトロの舞台となった関東平野よりは田植えも少し遅くて良いらしい。6月の第一日曜日(ご多分にもれず、この辺りでも兼業率が高く、農作業は週末毎に進展を見せる)に多くの田で水入れが始まっていた。珍しいからと出かけて行って、娘達と転げ回ったれんげ畑も完全にすき返されている。来週あたりには、一面に水が張られて田植えが始まっているのだろう。萬葉時代にも、田植えの時期と収穫の時期には「田暇」というのがあったらしい。大学寮に学ぶ学生達も、里に帰って従事したのだった。
「いつもどこからおいでになるの?」見慣れぬ顔の来訪者が、週に数回は犬の散歩で通りかかる。時には、その同じ顔が幼児を連れて苺など買いにやってくる。一過性の古道探訪者ではなく、近くの者だと身元が推測されてだろうか、こんな問いかけが何人かの垣内の方々からあって、お話が出来るようになった。1回の散歩で4〜5kmも歩いていると言うと、少々呆れられた。
まだ、少々の咳と喉の痛みは残っているけれど、身体が鈍る前に、ぼちぼち散歩も再開させようと思い歩いていると、いつものおじさんが作業をしている。久しぶりで挨拶すると、話が弾んで田植えやお米の話を立ち話で聞くことが出来た。私が関心あるのは、作業そのものよりそれに伴って進行する田の神様の祭祀やお田植え祭りのことなのだけれど、それも交えていろいろ聞いた。
このあたりでは、「ヒノヒカリ」という品種を作っているそうだ。「コシヒカリも出来ないわけじゃないけれど、田圃1枚じゃ採算とれん」そうだ。「コシヒカリ」のようなブランド米は、その名通りの品質を求めると単位面積当たりの収穫量が少なく、大量で大規模な面積で行われる産地向きなのだそうだ。このあたりでは、1軒につき田圃1枚程度の小規模農家が多い。だから減反指示が来ても減らす田圃がない。で、どうなるかというと、農協を通しての引き取り量が減らされる。MAX総生産量の3/2までだそうだ。米作はもう構造的に赤字生産品。そうなると、単位面積当たりの収穫量で勝負するしかないそうだ。「ヒノヒカリ」は、それに向いている。後は自家消費と直売りとなる。どんな人が買いに来るのかと聞くと、「お弁当屋さんなんかが多い」とのこと。なるほどなあ。
「それでも、一枚の田圃で取れた米だけで混ぜたりはせんから美味しいはずやで」美味しいお米は一枚田の米だけを、その土地の山水で炊くのが、いちばん美味しいのだそうだ。たしかに、我が家でも新米の季節になると、いくらかを送ってくれる親族があって、その時期のご飯は水こそ違えど、粒が揃っていて格別のような気がしていた。あれは正しかったのだ。
さて、ワールド・カップも始まったし、田植え休みと銘打ってのんびりしたいなあと思っていたが、明日から、2年ぶりの遠距離営業出張を兼ねた教育実習巡回が始まる。読もうと思って積ん読状態だった本もあるし、ちょうど良いかと思いながら旅支度を始めているところだ。まずは、郷里の遠州へ行ってくる。二俣で教育実習の研究授業に参加して、掛川・磐田・浜松あたりを営業してくるつもりだ。完全復調とはいかない身体は保つのだろうか?
やまのべ通信
(2002年5月)
麻薬 2002.05.30
先週から続く、ひどい咳が止まらないので、とうとう病院で診てもらった。数年前の肺炎時と、症状がとても似ていたからだ。やまのべの街とこの病院は、さる事情で月末は全国から人が集まってくる。さらに、行ったのが月曜日で、非常に混んでいた。初診受付から外来診察受付までたどり着くのに30分、ようやく尿検査の尿を窓口へ出して診察室までたどり着いたのが1時間後。これなら、まだ、ましな方だろうか。聴診と触診の後、血液検査とレントゲン撮影、検査結果が午後には出るので2時に来てくださいとなった。
そういえば、去年の今頃もどこかの診療科にかかっていたなあ、と思い起こしてみると、鼻血が止まらなくなって耳鼻科に担ぎ込まれていたのだった。調べてみると、鼻出血の始まった日とこの咳が出始めたのが同じ5月21日。まだ後厄が残っていた。魔のシーズン到来か?そういえば、なぜだかレントゲン撮影中に機械が壊れたりもした(技師さんが、機械を二人がかりでバンバンどついて直そうとしていたが、あんなんで大丈夫だろうか?)。何となくやな気分だ。何かで厄払いしておこう。
昨年来慣れ親しんだ食堂で、さんざん食べたサービス定食を久しぶりに食べたりして時間をつぶし、再び診察室へ。幸い、肺炎には至っていないので大丈夫との診断。夏風邪のはしりでしょうとのこと。怪我の功名か?おまけのついでで、脂肪肝の指摘を受けてしまった。肝機能のGPTとやらの値がやや高いと。「最近太りましたか」「ええ、歯を治した途端に少し、、、」「なら、それでしょう」と。そういえば、今年も厚かった健康診断の結果報告書に「肝障害の疑いB(要観察)」と大袈裟に書いてあったのは、これか。一年間の怠け者生活の成果らしい。
「咳を鎮めるお薬です」と処方され、薬局で出てきた薬の名前が「リン酸コデイン散」。帰ってさっそく、「 医者からもらった薬がわかる」で調べたら、なんと麻薬を薄めたやつであった。さらにYahoo!などで調べると、私が処方されたのは、いちばん薄い濃度のもので、10倍で麻薬、100倍で劇薬なんだそうな。モルヒネの類薬だと。末期癌患者の痛み止めにも使うとある。しかし、服用日記なんか書いてる人も居て、咳止めには一般的な薬で子供にも出るようだ。なあ〜んだと、とりあえず1回分服用。ところが、私の場合、この薬に反応し過ぎる体質だったようだ。1時間ほどすると、集中力が一気になくなった。
「服用後は、自動車の運転等危険を伴う機械の操作に従事させないよう注意すること」とある。ま、しかし、市販の頭痛薬か風邪薬程度のものだろうと思い、飲んですぐにどうしても出さねばならぬ郵便物を持って郵便局へ出かけた。ところが、そこからが大変だった。まず、駐車場で車のキーを抜き忘れて降りてしまい、再び車に戻るまで気が付かない。自宅へ帰るといつもの車庫入れがいくらやってもうまくいかない。何度か切り返すうちに、向かいの家のコンクリートブロックにゴン!衝撃は軽かったけれど、普通なら多少は動揺するところが、何とも感じなかった。そんな自分に今になって、ヒヤリとしている。何に関しても感情の動きがなくなるというか、外的刺激や目の前で起こる現象に関して、何の心的反応も生じないような状態になっていたのだった。
その後、自分で部屋へ戻ると、気がつかない内に寝てしまっていたらしく、目が覚めてからもどうやって寝たのかも覚えていない。それでも、ちゃんと着替えているのが不思議である。中枢神経に作用する薬ってこんなものなのだろうか。所詮、対症療法薬とわかったし、咳の根本原因治癒させるものじゃないことがわかったので、寝る前のつらい時だけにした。翌日は、咳がひどくて講義にならないし、薬を飲んだら飲んだで、こんなんじゃ怖くて出勤できそうもなかったので、もう1日休んで養生した。おかげで、今日あたりは木曜恒例三国渡り歩きも無事こなし、何とか元気にはなった。咳もまだ出るが、一頃よりは治まりつつある。学生諸君、休んでごめん。
日本事情 2002.05.24
健康診断が終わった途端、身体への気遣いに関して少々気が抜けたのか、風邪をひいた。前回日記に書いた、京都の低温にやられた翌日、3万歩近くを歩いたのがやはりこたえた。月曜夜から咳が出て、火曜・水曜はへろへろながらも出勤したけれど、結局それでダウン。この2日は全休する羽目になった。高熱はないけれど、喉の痛み、咳き、日に2〜3回の周期で微熱程度まで上がる体温。いかん、数年前にやった肺炎の時と同じだ。一昨日など、咳のしすぎで肩と首がかちこちに凝って、首が回らなくなった。おとなしくして寝ていたが、37度少々の微熱くらいだと、不思議なことに身体は元気になってくる。今日当たりは、首も楽になったので、落ち着いていられなくなって出欠表の整理を始めた。
今年から、出欠表を自己制作のものに変え、学籍番号と氏名の下に「今日の一言」コーナーを作った。「本日の講義に関して、何でもいいからコメントを寄せてくれ」という欄だ。はじめは、マイナス評価にへこんだりしていたが、続けていると予想外の反応があったりして面白くなってきた。はじめの頃多かった、講義方法や内容に関する文句も数回でほとんど無くなり、プラス評価や質問的な書き込みに変化してきて、自分がスロースターターなのも自覚できた。ただ、最初の1回は登録前のショッピング中だし、概説的なことは出来ても試験やレポートに関わるような事項までは踏み込めないから仕方がないとは思うけど、来年からは改善の余地がある。
今年は、いよいよ色物系の比率が増え、「日本事情」なんていう講義までやっている。いったい、私は何の先生なんだろう?この講義、本来は日本語教員養成用のものだった。数年前のカリキュラム改正の時に、長老派から「こんな講義は国文に要らないから廃止しろ」と言う意見も出た代物。その時、留学生対象講義としても必要だからと言う理由で真っ向から反論したのが私だった。去年の留守中、それを担当してくれていた非常勤の先生が急に辞めてしまって宙に浮いたこの講義、きっとその責任を取れと言う意味で私に廻ってきたのだろう。何しろ、私の出ていない会議で「これは、あいつしかできない!」と満場一致で決まったそうだ。
さて、困った。古典文学、それももっとも古い時代を専攻する私が、「現代日本の社会や文化に関わることなら何でもあり」という、まことにつかみ所のない内容で講義しなければならず、それも通年モノだ。しかたがないので、前任者の講義概要を盗み見て、とりあえず今年の講義予定もそれをなぞっておいた。
さて、春休み中に私が与太話を始めたのを覚えておいでだろうか。あれも、実はこの講義のための予習であったのだった。とりあえず、連休前はあの与太話ネタを使って切り抜けた。締めは、昭和30年代が今の日本の骨格を作る時代だ、と。さて、いつまでも遊んでいるわけにはいかないので、5月からは新聞講読を始めている。『新聞学』だの『新聞記者入門』だの、その手のものを連休中に読みまくって、なんとか付け焼き刃を施し苦闘中。文章表現ネタの「5W1H」だの「逆ピラミッド構造文」なども駆使して自転車操業を続けている。正直言って辛い。けれども、ひょっとして1年やり遂げたら、持ちゴマに出来るかも知れないなという手応えは少々感じてきた。むかし、ちょっとだけ新聞記者にあこがれた時代もあったよな。教育のプロなんだから、守備範囲は広い方が良いだろう。
自宅にある同じ日の新聞を持ってこさせて読み比べ、その紙面構成の共通性や見出しの立て方の違いなどを比較したのが前回。今日、整理していたのが、この講義の「今日の一言」。
ある学生は、新聞をコンビニに見立てた。各紙で記事の配列や配置がほとんど同じなのはまるでコンビニ各社の店舗のようだというのである。なるほど。でも、棚にある商品や飲み物の種類が違っているように、細かく見ていると各紙毎の顔が見えてきて面白いと。そうそう、各地方版まで含めると、お弁当の付け合わせやラーメンの種類の違いなんかと同じなんだよ。
ある学生の率直な感想。「わたし新聞は@@新聞が好きです。◎◎新聞は暑苦しくて好きになれません。特に1面のコラムを読むとそう思います」すばらしい印象批評だ。さすが文学部日本語日本文学科の学生だ!とほめてやりたいが、対象の客観化も教えないとなあ。
高麗寺 2002.05.18
H交通社主催、I市民生協会員様対象のミニツアー「古道を歩く」、今回は山背古道だった。今週初めの暑さ続きにこりて、金曜日の京都出稼ぎは半袖で出かけたのだけれど、その日に限って低温、多少風邪気味になってしまった。しかしながら、なんとか睡眠時間は確保して、当日に臨んだ。
バスでやって来る御一行様との合流地へはJR線でしか行けない。ところが、この春の改正から、不採算のローカル線はかなり間引運転が始まり、土曜日曜には朝夕の運行まで少ない。結局、1時間前に着いておかないと、次の便では間に合わないことがわかり、早めに出かけた。降り立ったのは、JR奈良線上狛駅、待合室で引率予習用の資料でも読もうかと思っていたが、無人化されて寂しいだけじゃなく、待合室はゴミだらけで荒れ放題、おまけに椅子の辺りに吐瀉物が。とても待合いなどに使える状態ではなかった。この先、駅舎の無人化もどんどん進むそうだ。
たしかに国営時代の一部国鉄職員の態度はひどかった。対人サービスの意識などかけらもなかった。しかし、列車の運行と施設・設備の維持にかける情熱はすばらしかった。民営化と合理化の行き着く先で何が切り捨てられていくのか、こうやって地方在住者は見せつけられる。ブロードバンドだなんだと言っても、独占民間企業のNTT様は、我が家の周辺のような不採算地域への設備投資など予定もたててないそうだ。今度は、郵政民営化だって?何でも満たされてる都会の論理でそうするのはいいけど、JRやNTTのようにたちの悪い独占民間企業作るのだけはやめてくれ。
ぽっかりと空いた1時間をどうしようか?ふと駅前に目をやると、「高麗寺→0.6km」の表示がある。今日のコースには入っていなかったけれど、周辺遺跡として相楽高麗寺跡があったことを思い出した。往復30分もあれば行って戻れるなと計算し、行ってみることにした。
線路と平行の道を歩き、やがて踏切を越えるとその先は墓地、そこを抜けると急に視界が開け、野中の一本道と言った風情の道がまっすぐのびている。その先に一群の立木が見える。そこが高麗寺跡だった。周囲には何もなく、史蹟そのものもただそれを示す標柱以外は何もない。中程に、誰が詠んだのかあまり上手いとは思えない歌の刻まれた碑(各自写真の文字を読んでください)、その向こうに塔の心礎だけが残っていた。心礎の手前に見える穴は舎利容器の収納用に穿たれたもので、珍しい形式だとのこと。古代には、この辺りに山背国府があり、それに隣接した大規模な寺院として栄えていたそうだ。古代をやっていると、こういう想像力を要する遺跡とつきあうことが多い。例によって例のごとき遺跡であった。
伝えられるように、高句麗系の渡来氏族である高麗(狛)氏の根拠地であるとすれば、古代豪族のおさえていた大和川水系ではなく、淀川水系から大和への中継点であるこの地に目を付けたのはさすがと言える。奈良から出た線路が、木津駅で関西本線と奈良線とに分岐するように、古東海道もそこから東へと向かったらしい。北西へは古山陰道、そして泉川(木津川の古名)を渡り北へと古北陸道が続いていた。その分岐点に加えて、泉川を通じた淀川水系との水運が加わり交通の要衝だったのがこの地である。飛鳥京から平城京への遷都後は、その重要度がさらに増し、繁栄もひときわだったのであろう。奈良時代は、北陸方面に旅立つ人をこの対岸の泉川のほとりまで見送り、そこで別れの宴を催すのがならいだったらしい。大伴家持の歌などにその様子が残されている。
旧名「泉川」は、国道24号線が木津川を渡る鉄橋「泉大橋」の名に残る。そして、鉄橋近くにはこの地に初めて橋を架けた行基に縁の泉橋寺も現存する。心惹かれたが、時間が足りないのでそちらは断念した。
山背古道ミニツアーの方は、1日で13kmを踏破して終了した。疲れた。本格的に喉も痛み出した。募集は絶好調で、9月までの前期分は予約満席キャンセル待ちだという。子細は言えぬが、それなら、もっとギャラをくれい。
恐怖の健康診断 2002.05.15
年に一回、職場には定期健康診断というイベントがある。我が勤務先では、5月の第2水曜日がそれにあてられている。毎年この時期になると、にわか健康オタクがあらわれたり、まことしやかな健康法が話題になったりする。これに備えて、納豆ばかり食い続けてきた者、米飯の代わりにひじきを食い続けてきたという者、バナナばっかり食べていたという者、様々いる。しかし、訊いてみると、たいてい2週間前からとか連休の頃からとか、そういう答えが返ってくる。そんなので効果あるのか?変な結果が出ると怖いから受けるのやめるという不可解な行動をとる者もいる。信じている、もしくは実行している健康法も、聞いてみると怪しげな眉唾モノのオンパレードで、とても研究者や科学者の口から発せられているとは思えない言説が横行している。圧巻は、もう何年も朝1杯の尿を飲み続ける某氏であろう。
そうはいいながら、自分も春先から毎日ブルーベリージャムを食べて視力検査に備え、この1ヶ月ほどは米飯の量を半減させてウェイトコントールに励んできた。2月末に歯の治療を終えて以来、急激に体重が増え、今まで体験したことの無いゾーンに突入しかけていた危機感もあったからだ。食事の量が増えたわけではないので、咀嚼が良くなったせいであろう。逆に胃腸への負担は減っているはずなので健康度が増したせいとも言えるのではあるが。
ムネオ疑惑が持ち上がって以降、その渦中の佐藤某が私と似ているなどという妄説を振りまく輩も現れ、それも多分に不愉快だ。「あんなロシアオタクのデブと一緒にするな!」と怒っていたら、息子に「デブでオタクなら、そのまんまやんけ」とまで言われ、いよいよ情けない気分にもなった。
私の場合、血液検査の中性脂肪(トリグリセライド)の値がいつも高く、その注意書きが同封されるおかげで検査結果の通知封筒がいつも厚い。澱粉の取りすぎに注意しろと、毎年叱られている。しかもHDL(善玉コレステロール)低値ときた。うどん、蕎麦、丼物、スパゲティ、焼きそば、ソーメン、お好み焼き、そういえば和洋を問わず穀類・粉物なら何でも好きだ。そのうえ、関西へ来てから、うどん+寿司・カレーなどを代表とする、麺類&米飯類の澱粉合わせ技の快楽を知ってしまった。最初は違和感のあった焼きそばをおかずにご飯を食べるなどという超不健康な食べ合わせも、近頃はそうでなければ物足らず、お好み焼き定食(お好み焼きをおかずにご飯を食べる)という奇怪な食事にさえ何の抵抗も感じなくなってしまっていたのもよろしくなかったかも知れない。
ともあれ、1ヶ月の精進の甲斐あって、体重は2kgほど落ち、いつもの定期健康診断時の範囲に収まってきた。前日、23時をもってすべての飲食を絶ち、朝は水を1杯だけ飲みお楽しみの珈琲も我慢して出勤し検査に臨んだ。ブルーベリーの甲斐あってか、いまだに視力は右1.5/左1.2を維持、その他異常なし。とは言え、結果が帰ってこないと分からない、血液と尿の検査結果が気になる。
体重はいつもより少ないくらいだった。どうだ、頬がややすっきりしただろう。帰宅してそう自慢していると、例の佐藤某逮捕のニュース。彼も、先日見物してきた小菅の住人となるのか。ところで、久しぶりにブラウン管で見た御仁もなんだか痩せているではないか。「しかし、どこが似ているのかね?さっぱりわからん」と再び反撃していると、義母までニヤニヤ笑ってこちらを見ていた。
田の神様 2002.05.12
いつまでたっても怠け癖が抜けない。今週は、木曜日に勤務先との往復、いったん自宅へ戻ってから、再度学園本部往復と1日大阪2往復なんてのがあった。これがきつかった。やっと1週間を終え、週末になると身体バラバラ、しかも微熱に頭痛、それが目にくるタイプで数分間ディスプレイを見ているだけで頭痛がする。これは、天が我に休めと言っているのだ。寝よう。その結果、休養に1日、回復にもう1日を要する事態となった。月曜を研修日に空けておいて良かった。これがないと、講義の準備もままならない。
夕方になって、やっと気力が戻ってきたので、ちょっとした用を済ませに隣村へ出かける。1週間ぶりに来てみると、仕事に追われへたばっている内に田畑の様子が変わっていた。あちこちの田が掘り返され、そしてそこかしこに苗代が作られている。立夏も過ぎたのだから当たり前である。田植えの準備が始まっていたのだった。連休あたりから、雨模様になると蛙の鳴き声も聞こえていたっけ。
節分の柊と鰯の頭もそうだったけれど、このあたりの旧家は、古い習俗を様々な局面に残している。あちこちの苗代を見るとその片隅に必ずお花と松の枝とを添えて田の神様が祀られているのだった。近隣の神社からいただいたお札も見える。手に取って覗いてみるわけにはいかないけれど、どうやら「龍」の字が見えるようだ。おそらく水神様を祀るのであろう。まだ苗代田以外には水は張られていないけれども、やがてこの辺り一面の田が水を得てあたり一面が湖水のようになる。「水利権」という言葉が現実に実効性を持って生きているような土地である。かつては、農業用水の確保は重大事だったに違いない。特に何の花というのは決まっているようではないけれど、必ず松の枝とセットになっている。神の依り代として常緑のめでたさが尊ばれたのだろうか。
所用を済ませての帰り道、やまのべの道の辺の農家の軒先に、「いちごあります」の文字が。立ち寄ってみると、1パック¥100円だとのこと。ど〜れ、と眺めていると、いっしょに連れていた下の娘が「いちご、いちご」と、ろくに喋れもしない口で大騒ぎ。甘い甘いお父さんは、その安さにつられて、つい3パックも買ってしまった。粒は不揃いながら形の良いのが詰まっていて本当に¥100円、田舎に住んでるアドバンテージが実感できる瞬間である。これだけ買っても、500円玉におつりが200円返ってきた。露地物なら今から旬の苺だけれど、このあたりは、ほとんどハウスの夜間電照まで使った早生物が中心なので、もう集荷もほとんど終盤なのだそうだ。たくさん買ったつもりだったのが、帰宅と同時にお兄ちゃんとお姉ちゃんが1人1パック抱え込んで食べてしまった。
夕暮れの道、良い香りが漂っているなと思い、その方向に寄り道したら、ミカン畑で、真っ白で小さな花が一面に咲き誇っていた。そういえば、やまのべの道周辺では、古墳がミカン山や柿山になって再利用されている。ここでの暮らし、あらためて周りを良く見まわしてみるとなかなかいい。
環濠集落 2002.05.06
連休中は、ずっと子守のような生活だった。長男は朝早くからサッカー三昧だから良いとしても、娘二人が問題だ。少子化の影響で近所の同級生と遊ぶにも、この田舎では最短でも送り迎えの必要な距離だ。そのうえ、めぼしいお友達は、みんなどこかへ出かけてしまっているらしい。だからといってどこへ出かけても混雑する。上の娘は、田舎育ちのせいで人混みでは頭が痛くなるし(これはお父さんもそうだったよ)、都会へ出ると必ず調子を崩す。それならと、むしろ自転車で近所をうろうろした。
最近の有機農業再評価のせいか、たった二枚だけれどめずらしく一面レンゲの田圃を発見。ほれっと放つと、まるでトトロの姉妹のようにはしゃぎまわって喜んでくれた。久方ぶりに一緒に足を踏み入れてみると、草と土の匂い、かゆくなる手足、飛び交う蜜蜂と蝶々、やっぱりやまのべ暮らしも悪くはないなと思い直した。
我が家は、減反地を埋め立てて造成した「新興住宅地」なのだが、自治会は古くからある本村の付属組織のようになっている。その本村へ入ってみると、一軒の軒先に「北垣内月当番」の札が下がっていた。西日本を中心に、よく見る「垣内」の名称、地名としては残っていないけれども、集落内の区画名称としては生きていたことを知った。この名があるということは、この地方ではそこが環濠集落としての歴史を持つことを意味する。よく見ると、たしかに村の周囲を水路が流れ、おおむね石垣で固めてある。
環濠集落とは、古代〜中世に発達した集落の形態だそうで、つまりは略奪集団からの自己防衛のために集落の周囲を壕堀で囲ったものを言うらしい。映画『七人の侍』の舞台となった村のようなもの。あの堀は急作りだったけれど、もっと本格的につくってあるものを言う。そして、その集落を「垣内」と称するのだそうだ。やまのべで有名なのは、わが本村よりもむしろ隣村の方で、なぜなら、標高100mの現在確認されているもっとも高地に存在する環濠集落の跡だからだ(と村の入り口にある解説板に書いてある)。古い方で有名なのは、吉野ヶ里遺跡だったっけ。それならと、隣村まで足を伸ばしてみた。いつもは娘ではなく愛犬を連れ行く道だ。
環濠だった場所は今ではほとんど埋め立てられて、一部は児童公園になっている。そこで娘達を遊ばせている間に、わずかな環濠の名残の姿をデジカメに収めた。冬の間は干上がっていた壕堀が、農繁期を前にしてたっぷりと水をたたえている。昔の姿を忍ぶなら、今が良い季節かも知れない。
やまのべの道ハイキングのみなさんは、みんなここだけを眺めて帰って行かれるけれど、本当に興味と関心を抱かれる方は、集落の中のつくりも見ておかれると良いだろう。道は細く、しかも真っ直ぐ見通せないようにと短い距離で直角の曲がり角がいくつも入り組むようになっている。しかも、似たような曲がり角そして突き当たりの塀という風景がいくつもあるがために、自分が集落内のどこにいるのか分からなくなる。おそらく馬で攻め込まれた際の防御を想定してのものだろう。私は、こんな中へ軽自動車で入るのも嫌だけれど、そこは地元のみなさん、素晴らしいテクニックで3ナンバーが出入りしている。まさしく、勝手知ったる者のみの世界がそこにある。
やまのべの道は、この集落のすぐ下を通過していく。大和盆地の東縁、かなり高いところを行く道筋になる。なんでそうなのかは、次回のお話。
国民の休日 2002.05.04
まったく、なんて休日だ。留学生になんと説明すればいいのだ。な〜んてのは建前で、やっぱり休みになるのはうれしい。出稼ぎ先の名張社会福祉大学などは、4月30日は創立記念日、5月1、2日は「休業日」と銘打って9連休にしてしまった。たしかに連休の中休みで気もそぞろな学生諸君の様子を見ていると、この時期の講義は学習効果もあまりなさそうで、その方が良いように思う。
我が故郷は、恒例浜松祭の真っ最中。小学校時代は、まだ中日の4日は半ドン扱いだったけれど、その後、市の決定により全市立学校が休日に、最近では6日も休養にあてるためにと休日化されているそうだ。素晴らしい。浜松市民は、やはりこの祭のために、残る360日あまりの退屈な日々を、死んだように息をひそめて生きているのだろう。
長女は今日で9歳になった。生まれてきた年のGWも、もう初夏になったかと思うくらいに暑かった。この子は、夜中にいったん休憩して母親を眠らせ、主治医と看護スタッフを休ませた。そして夜明けと同時に活動再開、世に出てきたのは昼前の11時、これまた母親と出産スタッフを昼食休憩の時間に間に合わせた。初対面を終えた後の私も、なんとも言えぬ安堵感に包まれて、その年初めてのざる蕎麦を食べに出かけたことを思い出す。生まれ方からして、周囲への気遣いのある子だった。
生まれた時からそうだったように、今も周囲の雰囲気をよみ、一人で気を遣いなにがしかを抱え込む癖がある。次女が生まれて、真ん中のお姉さんになって、いよいよその傾向に拍車がかかったようにも見える。家族の中の異変にも、もっとも敏感に反応するのがこの子だ。そのあたり、父からみていると、時折、不憫にさえ思うこともある。ただ、こうした性格が優しさの発露につながってくれれば言うことはない。もう少し我を張ってくれてもいいけれど、優しさが取り柄になるのはとても良いことだ。きっと、神様はそのそのご褒美にこのお誕生日を選んでくれたのかも知れない。現行憲法の停廃が無い限り、これからも一生の間、お休みになってお祝いしてもらえるんだろうから。
春霞 2002.05.03
平安朝に入ると、額田王の萬葉歌が本歌取りされて、次のような歌になる。
三輪山をしかも隠すか春霞 人に知られぬ花や咲くらむ(古今集、巻二春下、九四)
作者は、紀貫之。萬葉歌の本歌取りというところから、若年期の作ではないかと推測されている。さすれば、「人に知られぬ花」に、まだ見ぬ理想の女性への思いなんていうのを考えるのは品のない解釈か?やめとこ、王朝和歌というと、苦手な人の顔が思い浮かんだりする。なぜだか、昔から近世文学と王朝和歌やってる人は苦手なタイプが多い。理由も分からず、不思議なんだが、8割くらいの確立でそうなんだから仕方がない。あ、2割はいい人もいるってことで(私にとっては、だけど)。もっとも、萬葉集やってる人には、ほとんど友達がいないので、もっと相性が悪いのかも知れない。とほほ。
さて、今回は帰省が無くなり、だからといってまだ小3では参加するような部活もなく、妹の世話をさせられて暇をもてあましている様子の娘を連れて散歩に出た。一昨日と同じ場所に、今日は自転車で行ってみようと思い立ったのだった。行ってみると、まさに三輪山が紀貫之の詠うような感じだった。空には雲があるわけでなく、見えてはいるけれど、ぼんやりと霞む山の姿がそこにある。右の画像のビニールハウスの向こう、左から巻向山、三輪山、さらに霞んで竜門岳という並びになる。ちょっと前なら黄砂だったけれど、ここのところの不順な天候と気温の高さで、春霞そのものだろう。
手前の草むらは石上神宮方面から流れてくる布留川の土手、ここからもう少し南流して1.5kmほどの所で、大和川へと合流していく。古代から近世まで、この川筋は物資の大量輸送路として活躍したらしい。トラック輸送のない時代、物資の大量輸送は主として水運が担ったのだった。ここから遡上していけば、やがて上ツ道(上街道)と交差する。そこには、丹波市の地名が残り、かつての市の賑わいの名残として今も恵比須さんが合祀されるその名も市坐神社がある。一方、南西方向の合流点から大和川を遡上すれば、三輪山の麓でやはり上ツ道と交差する。こちらには海柘榴市の地名が残り、やはり恵比須さんを祀る社がある。海柘榴市の名は、すでに萬葉集にも歌垣の場としてあらわれる。人の集散する場に恋が生まれるのは、今も昔も変わらない。
三輪山をしかも隠すか 2002.05.01
『萬葉集』巻一、一八番歌に額田王の次の一首が収載されている。
三輪山をしかも隠すか 雲だにも心あらなも隠さふべしや
(ああ、三輪の山、この山を何でそんなにも隠すのか。せめて雲だけでも思いやりがあってほしい。隠したりしてよいものか。)
左注に引用される山上憶良『類聚歌林』(散逸書)によれば、「都を近江に遷す時に天皇が詠んだ歌」だと言う。さらに『日本書紀』を引用して、その近江遷都とは、天智天皇6(667)年3月19日のことであると。
額田王の作品には、左注に『類聚歌林』を引用して、作者を天皇とする異同注記が目立つ。これは、額田王が天皇になり代わって歌を作り、時にはその立場になり代わって詠唱する、代作歌人としての性格を持っていたことから生じたものらしい。彼女の歌声は、彼女のものでありながら、天皇の声として人々に受け止められた。そうした立場を、私たち研究者は「代作歌人」と称している。
また、どうやら引用される『類聚歌林』も、編者の山上憶良が皇太子に仕えていた時代の成書で、作歌教科書として編纂されたものと推定され、そうした書物では作者注記が天皇中心にならざるを得ないための現象とも考えられている。古代の公の場における歌のあり方を示す、一例としてよく講義ネタにしている。
さて、この歌の前には長歌があり、「三輪の山が奈良山の向こうに隠れてしまうまで、何度も何度も振り返り惜しみつつ行きたいのに、雲が隠してしまってよいものか」と詠っている。それをさらに、短歌のスタイルでまとめあげたのが、この一首となる。三輪山は大和の国魂を体現する神聖な山であり、その山に守られた大和の地を今一行は捨て置いて、新たな宮都の営まれる近江の地へと去りゆこうとしている。一首は慣れ親しんだ父祖の地への惜別の情と、土地の神への鎮魂とを歌としてなしたものと理解される。
三輪山を毎日眺めて暮らしていると、たしかに「雲が三輪山を隠す」という現象を目にすることがある。今日も、まさにそんな状態だった。いつもなら、ビニールハウスの向こう側、ちょうど中央正面あたりに三輪山のなだらかな円錐形の山容が見えているはずである。今日は、麓まですっぽりと雲に覆われていた。出勤前に、いつもの道を通りかかって、この状態を目にして、ふと先の一首を思い出し、デジタルカメラに収めたのだった。
職場に着いてから、さて、この歌の作歌年次はと調べてみると、前述の通り。じゃあ、今日の旧暦上の暦日はと調べてみると、あれれ、まさに3月19日。ちょうどこの時期の、こんなぐずつく天候の中での遷都だったのかと、納得がいったのであった。
こんな悪天候の中での遷都、しかも人々の思いは、必ずしもこの為政者の決断を支持しているわけではなかったようだ。『日本書紀』は、当時の人々の不平不満、そこからくる不穏な状況を「世相風刺の歌が流行し、日毎夜毎に失火が相継いだ」と記述している。やがて、近江大津京は、天智天皇の死からそれに続く壬申の乱の混乱の中で灰燼に帰す。わずか4年半後のことである。柿本人麻呂がその廃墟を訪れ、今度は滅びた都へ鎮魂の歌を手向けるのはさらに十数年後のことである。
やまのべ通信
(2002年4月)
芭蕉句碑 2002.04.27
一度は目を覚ましたのに、あまりの気候の良さに再び沈没、やはり昼まで寝てしまった。起きていくと、午前中のサッカー練習から帰ってきた長男に「あ、いま起きたん。人間のクズや」と言われる始末。朝食と合併した昼飯などを食べ、ぼや〜っとメールなど読んでいると、あっという間に夕方が近づいてきた。このまま一日を終えるのも何だかなと思案をめぐらす内に、思い立ったって少し早めの犬の散歩に出かけることにした。
家から歩いて10分足らず、直線距離なら1km以内の散歩距離に藤棚がある。そこに芭蕉の句碑があることは知っていた。しかし、まだじっくりと見聞したことはなかったのだった。ちょうど藤の季節、行ってみるのも悪くない。そろそろ、犬の散歩道も変えないと、嫌な予感がする。新しいルートの開拓も良いだろう、と思ったのだ。
いつもより早い藤の花が、もう盛りを過ぎている藤棚の下に、その句碑はあった。どれどれと、刻み込まれている句を読むと、「草臥れて 宿かる比や 藤の花 はせを」とある。良く知られている句だった。その左の面には「芭蕉翁之藤」と大書され、裏面には「文化十一年春 三輪山下芝邨 風来庵雪酔建之」と建立者の名が記されていた。
この句、そのものは、各資料によれば貞享五(1688)年四月初旬の作と推定されている。ただ、宿を借りた場所は、初出となる書簡に「丹波市やぎと云処、耳なし山の東に泊まる。ほととぎす宿かる比や藤の花、と云いて、猶おぼつかなきたそがれに哀なるむまやに至る」とあることから、橿原市の八木とする説もある。平凡社の『歴史地名大系 奈良県の地名』は、「芭蕉書簡の『やぎ』は八木(やつぎ)で夜都岐(やつぎ)神社付近をいったか」としており、この句碑の位置をそれとする立場で説明を加えている。
地元の肩を持つわけではないが、たしかに橿原八木説だと、「耳なし山の東」が矛盾する。今も昔も、八木は耳成山と畝傍山に挟まれた地域を指す地名で、耳成山からは西にあたるからである。それから「哀なるむまやに至る」もどうだろうか?八木は、東西南北からやってくる道が交差して、札の辻となるような大和盆地南部における交通の要衝であり、ある程度の規模の町は発達していた地である。すくなくとも、「哀れなるむまや」しかないような土地柄ではない。こことは限らないけれども、おそらく、芭蕉は丹波市(現在の天理市中心部)を抜け八木にまでは至らぬどこかで、日没に遭遇する羽目になったのだろう。
句碑が建てられた文化十一年は西暦で1814年、芭蕉没後120年目にあたる。建立者がどんな人物であるのかは現時点で不明。近世文学は、我がもっとも不得意な分野なので、深入りはやめてこれくらいにしておこう。
満2歳 2002.04.26
末娘が、2度目の誕生日を迎えた。これくらいになると、様々な行為の意味が分かっているのかどうかは別として、教えられたこと、覚えたことを、忠実に焼き写すことが可能になってくる。家族何人かの誕生日を共に過ごすうちに、ケーキのロウソクは吹き消すものだということは理解していたらしく、今日は自分が主役とばかりに、2本の火を得意げに吹き消した。「ハッバーデーチューユー」と不完全ながら、お祝いの歌もコピーして歌ってみせた。身長も80cmを超え、時折2語文もあやつる。他家の子供の成長を指して「余所の子は早い」という言い方があるけれど、これで最後の子育てかなと思いながらすると、この子の成長もなんとなく上の二人よりは早いような気がしている。
長男には、漢籍由来の名を、長女には萬葉由来の名をつけたので、この子には韓国古典由来の名をつけておいた。その道の友人からは「なんとまあ、よくもそんな名前つけたなあ」と呆れらたけれど、日本じゃ普通の名前で通用するから良いだろう。この日付で、何か韓国史に関連する事項はないかと調べてみたけれど、それらしきものはなし。今日は、旧暦だと3月14日、おお、刃傷松の廊下の当日、とはいえ2年前の4.26は旧暦では違っているので、これも意味無し。ちなみに、長男は新暦ながら討ち入り日の誕生であった。我が家は、家族の誕生日が集中する傾向があり、あと1週間もするとお姉ちゃんの誕生日、これまた、歴史的にはあまり意味のない5月4日。まあいい。君ら自身が歴史に名を残せば、意味のある日になるやも知れぬ。あ、悪いことでだけは名を残すな。
今年はGW帰省の予定がないので、お姉ちゃんの方は久しぶりに自宅で迎えることになった。あれくらいになると、立派に自己主張をする。今度はチョコレートケーキに9本のロウソクを立てるのだそうだ。
やはり、1年間で染みついた怠け癖はどうしようもなく、また4日ほど働くと身体バラバラになる。今日は、京都からの帰りの電車で、気がついたら涎垂らして寝ていた。明日は、また寝過ぎて、夜行性動物に逆戻りするのだろうか?寝よう。
完全休養 2002.04.22
先週の東京出張以来、まる1週間休みがなかった。いきなりの8日連続業務、1年間怠けていた身体にはさすがにこたえる。しかも、最後の土曜日は、我が勤務先の名を高めんがための “ボラバイト”、今年もあるぞ!「古道ツアー」の同行講師だった。さすがは原野に鉄道ひいて大儲けの会社だけに、仕事量に比してとても相応するとは思えないあまりのギャラの安さ。今年はいくら何でも暇じゃない。きっぱり、断ろうと思っていたのに、今回は募集対象が百貨店友の会ではなく、大阪南部の生協だそうで学生募集フィールドにもろにかぶると言うではないか。しばしの懊悩の後に引き受けていたのだが、もう、身体バラバラである。
ま、しかし、思う。研究者は、特に我らのごとき世間の霞を食って生きているような者共は、何かで社会の役に立たなきゃならんのだ。月に1回1日だけ散歩のお相手して、古蹟を通してほんのちょっとでも文学だの歴史だのの雰囲気に触れて、楽しんで帰ってもらえるならそれで良いではないかと。政府や権力なんかの役に立つより、よっぽど良いあり方ではないかと。
それで7日間の連続業務に加えて、聖徳太子廟叡福寺から竹内峠を越えて当麻寺まで、歩いた歩いた約10km。というわけで、日曜日は自分の身体がもう使い物にならない状態なのがよくわかり、完全沈没。休みの寝過ぎは生活リズムをいっぺんに乱し、今日は昼夜半逆転、明日からまた、まっとうな日々が待っているというのに。それにしても、少々物足りないのは、この仕事に「教育しなければならぬ」という義務感がないからだろう。学生達とフィールドワークや正倉院展へ行くのとは明らかに違うのである。
夕方になって、やっとすっきりしてきた頭で、名張の出かせぎ講義の作文を読み始める。毎年のことながら、年度初めは読むのが苦行である。口語体の混入、文末表現のですます体と、である体・言い切り体との混在、1文が5行を越えるダラダラ文、悪文、誤文の大行列。しかも、今年は2クラスに増えたので担当学生数が100人超、もう一人ずつに丁寧に朱を入れるのは時間的に不可能だ。しかたがないので、優秀作3点を選んで印刷配布、講義中に公開添削の手法でいこう。しかし、これが年度末には読ませる文章の連続になっていくのが楽しみだ。彼・彼女等は、必ず語るべきことを持っている。あとは、それを表現する技術の問題なのだ。どうやったら、彼・彼女等の文体確立を助けてやることが出来るのか、そう考えているのはまったく苦痛じゃない。こういう性分、わたしゃやっぱり職人の街、遠州生まれなのだなと思う。
携帯効果 2002.04.18
本日、山の辺の町は、さるお方の誕生日で賑わっている。実際は、寛政十年のこの月この日なので、旧暦であるのだが、新暦移行に際して、御本人の言葉(いや人声ではないのかも知れぬ)によって、そのまま置き換えが指示されているので、今日お祝いしているのである。だから、本日は旧暦云々は無し。私も朝から酒飲んで陽気なみなさんに交わって楽しみたいが(酒飲めないけど)、その賑わいを後にして、今日も今日とて、毎週木曜の激務に突入する。
勤務校では、もはや色物教員と化している私は、夏休み前までのこの木曜午前中2コマ、情報リテラシー系の講義を担当する。ようするに、学内ネットワーク・パソコンの使い方講座である。2コマとも内容は同じ(はず)だが、対象が違う。1限目は全員が留学生(ほぼ全員が中国大陸出身)、2限目は日文科レギュラー組。昨年の担当者から話には聞いていたが、いやはや、こんなに進度も手法も変えねばならないとは。
日本語日常会話には困らない留学生達であっても、やはり、特殊用語とりわけカタカナ語連発のこの講義には理解が及ばない部分が多いようで、手渡しておいた日中コンピュータ用語対照表をひっきりなしに眺めている。自然とこちらも歩みを緩めざるを得ない。個人ごとの能力差、理解度、上達度もてんでバラバラで、大変つらい。しかも言いにくいことをはっきりと言う。「私たちは、本国では標準日本語で教育を受けました。先生のは、それとは違っています」ときた。とほほ。
わかっている。たしかに私の日本語は「標準語」ではない。しかし、関西弁でもない。これが、ナマの日本語環境と言うことなのだと言い訳しても始まらぬ。出来る限り、「標準語」に近い発音・アクセント・文末表現で、噛んで含めるように喋っていると、今度は自分が何を言っているのかわからないような気分になって、自分で混乱してくる。舌がもつれるというやつだ。なるほど、昨年の担当者が、これは持ち回りにしようと言い出したわけだ。いくらITが進化しようと、まことに異文化間コミュニケーションは難しい。
こんな状態でやっているせいか、2限目が実に楽な展開に感じる。「日本の教育達成度のなんと均質なことよ」と、見当違いなことを言い出しそうになるくらい楽に感じる。とりわけ、驚いたのは今日の内容だった。2回目の講義では、学内ネットワークで利用している、メールシステムとそのソフトウェア使用法を解説し、実際にメールをやりとりさせる段階に入る。以前は、ここで「日本語入力システム」すなわちIMEとの出会があり、これを理解させ習熟させるのにかなり時間がかかった。ところが、今の新入生世代は、IMEのオン・オフさえ理解させれば、日本語入力も漢字変換もお手のもの。中には、星マーク・ハートマークなども操って、たちまちかわいらしいメールを仕上げていく学生もいる。
あまりにあっさりとした進行に拍子抜けしていると「顔文字は、どうやって変換するんですか」との質問。それでわかった。ああ、そうか、もう携帯世代だったのだ。彼女達、既に高校時代にケータイ・メールでカナ入力ながら日本語入力と漢字変換の手法をマスターしていたのだった。日本はネットワークインフラで遅れをとっているそうだけれども、なんのこっちゃない、iモードやらGPS携帯やら、極小端末の先進国になりつつあるのかも知れない。「あ、このIMEはタコやからな、自分で手入力せんといかんのよ」と、変なアクセントの関西弁風変則日本語で答えても、たちどころに理解されているのだった。
東京点描 2002.04.16-2
翌日は、Ken Mizuno さんと待ち合わせ。宿まで迎えに来ていただいて、東京見物につき合わせてしまった。環7へ出ようとして細い路地に迷い込み、国士舘大学の周囲などを廻りつつ、ようやく大通りへ出る。途中、松陰神社なるものを発見し心惹かれるが、駐車スペースが無く断念。後で調べてみると、吉田松陰が、処刑後刑場の小塚原に葬られていたのを、改葬した場所だとか。ここにも、実在人物の神格化施設があったのかと、後になって感慨にふける。ま、松陰ならありそうなことだ。
Mizuno さんとは、パソコン通信時代からの交友、食事しながら、ドライブしながら、いろいろな話をした。同じ遠州人というのもあるけれど、なんだか不思議なくらい親近感を感じる人だ。それでいて、直接会った回数は片手で足りるほどだと思われる。電子ネットワーク時代の典型的な人間関係の結び方だなあと感じている。だから、今の10代20代の言う「メル友」という感覚はよくわかる。ただし、Mizuno さんと出会った頃のパソコン通信と言えば、まだ、「一部の」「ある位相の」人間達が寄り集う場所であったし、仮想空間で出会った人との交流は、未だ市民権を得ていない日陰の文化の中での同士的結合に近い感覚があったし、もっと信頼感を背景にしたものだったように思う。ゆえに、リアルな空間で寄り集う「オフミ・オフ会」もそれほど警戒感を持たずに出かけられたものだった。なにしろ、私が加入した頃のNiftyは、会員名簿を誰でもオンライン上から自由に検索できたのだ。
閑話休題、昼食後は、首都高速をぐるりと廻って、Mizuno
さんの本拠地、荒川・綾瀬川方面に行ってみることになった。途中、東京見物と言えばお約束の東京タワー横を通過する。なぜだか、撮ってくれと言わんばかりに、防音壁の隙間からタワーの見える場所で軽度の渋滞があった。新車の車窓から、1枚いただく。昼間光っていない形をじっくり見るのは初めてだ。撮影が済むと同時に終わった意味不明な短い渋滞に感謝。数年前、TDLに家族連れで来たとき、道に迷ってあの下をぐるぐる回っていたのを思い出した。東京の交通標識や道路案内は小さくて、しかも直前にあったりして不親切でわかりにくいことはなはだしい。なんだか田舎者は車でなんぞ乗り込むなと言われているような気分になる。今回、他人の運転であちこち巡っていても感想は変わらなかった。
小菅の東京拘置所は、収監者が有名人揃いで良く知られているけれど、どうも新庁舎が建築されているようで、巨大な建造物が綾瀬川の土手越しに見えた。
あんなバカでかいのが収監施設なのだろうか?拘置所の周辺文化が見たかったので、その周辺まで車を乗り入れてもらうと、塀のすぐ外には外堀があり、所々コンクリートで補強はしてあるけれども、風情のある土の護岸が続いていた。堀のこちら側は遊歩道、散歩にはとてもよろしい。暇そうな御老人達が数人集まって何かを眺めているので、覗き込んでみると亀が数匹塀側の土手で甲羅干しをしているのだった。本当に暇な人達だったようだ。堀川には鯉なども泳いでいるのだが「つり禁止」の看板。しかし、その横には釣人の心をくすぐるような、泳ぐ鯉のレリーフが。あちこち、デジカメでパチパチやっていたら、塀の中の巡回警備員とおぼしき制服姿の人物が、遠目からじっとこちらを凝視していた。そう言えば、今この中には、あの教祖様が居たのだった。その後、正門周辺などを廻ってもらったけれども、差し入れ屋などの文化事象は発見できず、いかにも、収監者が出てきて初めてのビールをくぅ〜っと一杯やりそうな古式豊かな食堂を1軒見た程度、そのまま退散する。
その後、Mizuno邸に小一時間お邪魔して、帰ってきたお嬢ちゃんと一緒に羽田まで再ドライブ。明瞭な発音でころころとした感じの関東弁が心地よい。子供好きのおじちゃんの心根を察してくれたのか、人見知りもされず手なんかつないでくれた。おっちゃんはうれしい。「大きくなったら山邊にも遊びにおいでね」と誘ったら、来週にでも来そうな感じで返事してくれた。パパも将来が楽しみ(いや心配?)だろう。
羽田では、恒例の東京土産、羽田空港限定「空飛ぶ子ドラ」を買って帰る。しかし、肝心の東京在住者Mizuno
さんには「知らねぇなあ〜」と思いっきり言われてしまった。他にも「東京ばな奈」とか東京駅限定「ぺこちゃん人形焼き」とか、我々田舎者には馴染みが深いけれども、東京人の知らない東京土産なんだろうなあ、きっと。ま、土産なんてそんなものだろう。ウナギパイも、浜松で暮らしている頃は、そんなに食べたこと無かったもんなあ。そうであっても、「空飛ぶ子ドラ」は、我が家ではすこぶる評判がよい。二つ折りのどら焼きなのだが、中にはクリーム餡、ほのかに柚子のような柑橘系の香りがする。冷蔵庫でちょいと冷やして、冷たいお茶や麦茶でいただくと、大変よい。お薦めであるが、どうやら、本当に羽田空港限定らしい。
そうこうする内に搭乗時間が近づいて、名残惜しいけれどお別れをして搭乗口へ向かう。
搭乗ゲートの先を見ると、暮れゆく夕陽に照らされて、ピンクの機体が待っていた。ミッキーマウスをはじめ、ディズニーキャラクターが全体にペイントされた特別塗装機JALドリームエキスプレスである。我が家の真上は、東京方向からの航空機が伊丹へ向かう通路なのだが、いつも地上から見て、なんともまあ派手な機体だなあと思っていたそれである。中へ入ってしまえば、通常国内線仕様のB747-400なのだが、何となくうれしい。天井の流れ星ペイントを眺めているうちに、Mizuno
さんの持っている雰囲気が、自分の少年時代、あこがれのお兄さん世代のそれだったと言うことに気がついた。そして、ソウルで無くしたカメラの盗難届に、通訳として付き合ってもらった夜のことや、今日一日のドライブのことを思い返していた。こんなに甘えてしまって良いのかなあと反省しながらも、あこがれのお兄さんなんだからまあええか、などと勝手に納得していると、機窓に通天閣が見えてきた。ああ、明日から、また退屈な毎日が待っている。
週末は上京 2002.04.16-1
我らが和装研究会は着付けコンテストの大会で関西6連覇、今年も関西代表として全国大会へ出場。顧問の私を渋谷NHKホールへと連れてきてくれた。この大会への出張(ほとんどカメラマン役)が、毎年度の仕事始めになってきているような感がある。審査の結果は、残念ながら表彰台へは進めなかったけれど、あのNHKホールの舞台に立ったことを良い思い出にしようね(>出場者諸君)。クラブの方は、これで一年間の活動が一段落、新入生勧誘から新幹部への交代と新しい体制への切り替えが始まっていく。しばらくは学生達の仕事なので、顧問の方は存在感が薄くなる。
終了後は会場から宿舎へ出場者を運び、着替え、舞台用の化粧落としなどを済ませて、恒例の打ち上げに出る。例年、 職安通りの柳家(03-5272-6690)という韓国料理屋でへ繰り込んで、オタクな私の蘊蓄に付き合わせて美味しい料理をいただく。本国風の料理・味付けと、ここのアジュマの優しい気遣いが好きで、毎年もうここ!と決めているのだった。ありがたいことに料金も格安で、多少のごちそうをしてあげても私の懐も寂しくなることもない。お薦めである。
今年は、この店にひらちゃんとうり丸君が会いに来てくれた。二人とも関西の大学を出て東京で就職し、IT最前線で頑張っている。元気そうな様子と久しぶりに会ううれしさで、つい学生達が居ることを忘れて盛り上がってしまったが、学生達は学生達で勝手に盛り上がっていたらしい。臨席の数人を除いて、私が旧友と談笑していることにも気がついていなかったようだ。終わりよければすべて良し。今年も、和装研究会の一年が終わった。また、来年も来ようね。
金曜は上洛 2002.04.12
年々少なくなる、専門の講義モノ。とうとう、本務校では、ゼミ以外はいったい何の先生なのか、わからない状態になった。たしかに講義には自信があるので、そこそここなしてはいるが、専門じゃないものは、やっぱり浅いことしかできないようで、フレッシュマン・キャンプ引率4回生による批評では「印象に残っていない」先生だそうな。はい、すんまへん。せめて面白い講義は心がけますので。
貴重な萬葉集講読をやらせてくれるのが、母校での1コマ。ありがたい話なので、断り切れずに続けている。この講義を、定年後の時間を利用して社会人聴講に出てきている方が、もう3年間も聞いてくださっている。この熱心なUさんが教室においでになるようになってから、教室の雰囲気もきりりと締まったものが漂うようになった。
こちらもやりがいがある。払っていただく聴講料のことを考えると、毎年同じ話などとても出来ない。それでも、どうしても基礎的事項は毎年繰り返し話さなければならないけれども、それもいろいろと工夫するようになった。手応えのある学生がいると、教育する側も鍛えられ、育てられていくということを久々に実感している。
今年は、大仏開眼1250周年にちなんで、天平期を代表する大伴一族の歌を読む。研修を終える直前は、鬱々として気分が重かったが、始まってみると妙に張り切っている自分がいる。なんとか、やって行けそうな自信が少しずつ戻ってきた。今年から、同僚の能楽研究者K先生も同じ曜日の同じ時間に出講している。講師控え室で過ごす時間も寂しくなくなってうれしい。
生協へ行くと、ついつい本に手が伸びて、そして買ってしまった。やっぱり大学に生協書籍部があると、一般書店では、あまり見かけない本に出会えて楽しい。ここのところ、やや抑え気味にしていた反動で、気がつくと約1万円分ほどの本を袋に入れてもらって帰る。先日読んだ、山口文憲『日本ばちかん巡り』の終章に生駒山の朝鮮寺のルポがあった。3月の暗峠越えで見た、いくつかの見慣れない寺院がそれだったのかと納得していたところへ、『在日コリアンの宗教と祭り』という書が出ていることを知り、早速購入してみた。富山大の比較社会学・宗教社会学の先生が書いた、なかなか興味深い調査報告である。東京出張に持っていく本が出来た。あな、うれし。
木曜は旅行日 2002.04.11
うかうかするうちに、つかみ損ねた流しそうめんのように日々は過ぎさっていく。1週間近くがあいてしまった。
8日、9日とフレッシュマン・キャンプと言う名の新入生合宿。どこでもやってるらしいこの行事、我が勤務先は専任教員全員参加の原則なので出かけてきた。2日目は、東大寺を見て、そこで解散。何年ぶりだろう、久しぶりに大仏様を見てきた。でかい。なんちゅう
ばかなものを作ったんだろう。今年は開眼1250年、月末から長い会期で「東大寺のすべて」展もある。また、来よう。
1日休んで、さあ講義が始まる。いきなり木曜日はハードスケジュールである。1限目から昼までの2コマ本務校で講義、終了後とって返して家にも寄らず名張へ移動、2時間半後には講義が2コマ。大和から竜田を越えて河内へ、河内から再び大和経由で沖つ藻の名張の山へ、役行者みたいな一日、これが7月まで続く。間に約90kmの移動を挟んで1日4コマ、身体が保つだろうか?と少々心配になったが、内容が内容だけにやってみると何とかこなせた。午前中のは新入生対象の情報リテラシー系の講義、つまりはパソコンの使い方入門、午後のは表現演習、つまりは文章表現指導なので、いずれも半分は座っていられるからだ。
なんで、こんな無理なスケジュールになったかというのは、長い話になるので省略。ようするに、とある事情で平日にフリーな日が1日欲しかったのですは。駆け抜ける風のように本務校を後にしてきたら、「もう帰っちゃったんですか?」とある同僚からメールが。ええ、私、この1年で変わったでしょ。
通い路 2002.04.03
1年ぶりに、いつもの通勤路を通過していく。日常的な風景であれば気づかぬうちに変わっていったのだろうが、1年空くとおやっという変化がある。帰りに給油しようと、沿道のガソリンスタンドを観察しながら出勤したのだが、大阪府側に入ると、またか、ここもかと言うほど、セルフ給油のスタンドが増えている。あまり車を使わなかったこの1年は、ド田舎の自宅周辺でしか給油しなかったので、さして競争もなく、伝統的給油をしていた。合理化で生き延びるためにガソリンスタンドのセルフ化が進んでいると聞いてはいたが、現実にこんなに変わっているとは思わなかった。
うれしがりの私は、帰りにさっそくセルフ給油の初体験。やり方は表示してあるし、選択肢も「満タン給油」「給油量指定給油」「金額指定給油」とあり、まことによろしい。ただ、溢れるのが怖くて給油ノズルをかなり奥まで突っ込んでいたら、満タンセンサーが飛沫に反応してしまい、うまく給油できない。何で止まるんだろうと手こずっていたら、ちゃんと店員が出てきて教えてくれた。聞いたとおりにやっている内に、コツがわかってきた。なんのこっちゃない、ケチで小心者の私にはもってこい、もうこれからはセルフだ。店員に会うのは精算の時だけだから、金が無いときゃ\1,000円だけ入れて、今日はとりあえず家まで帰ろう、と気後れせずに可能だ。価格も、自宅周辺より、リッター当たり¥10円ほど安いので、1回の給油で数百円浮いてくる。
最後まで気になったのは、オイルキャップがちゃんと閉まったのかどうか。きゅっと押し込んで回転させ、カリカリカリと音がすればいいのは知っていたけれど、何となく心細い。気の弱い私は、もう一度開けてみて、はじめに開けた時と同じ状態になるかどうか試してしまった。ふわっと何か圧縮空気が抜けるような感触があってひと安心。もう一度カリカリカリとやって、精算に向かった。わが愛する本田技研は、けったいな小細工や奇怪な技法が得意なので、セルフ給油ユーザーのためにキャップの装着確認センサーなんか開発してくれないかなあ。
雑誌・文庫等調達用の書店はいずれも健在、昼食用のほか弁屋も健在、ただホームセンターが一つ家電量販のコジマに変わっていた。我が家の周辺にも、この1年でダイエー系スーパーの撤退から家電量販店への入れ替わり、そして家電量販店同士の入れ替わりなんてのもあった。不況と言いながら、元気なところは元気なようだ。沿道に変化があっても、小学校以来の寄り道癖はやっぱり治りそうにない。
復帰 2002.04.01
1年間の研修を終えて、職場に戻ってきた。組織体の原理というのは、たいしたものだ。外にいる間「激動」とか「激変」とか聞かされていたので、どれくらい浦島太郎になっているのだろうかと、少々心配しながら出勤した。ところが、たしかに人の出入りはあったものの、体質や雰囲気、空気のようなものは、あんまり変わっていない。職場や取引先には必ず嫌な奴がいるもので、そいつが居なくなったとしても、また別の形で嫌な奴があらわれる。そんなことを、企業就職した友人から聞いたことがあったけれども、嫌な奴に限らず、誰かが居なくなったら、その役割を埋め合わせる誰かが登場する。そうやって、ある集団の風土とか気風とかが形作られ継承されていくんだろうなあと実感した1日だった。
夕方、わが所属する日本語日本文学科から、学内異動で泣く泣く手放す人材を送る会があった。久しぶりに席を設けて職場の仲間と語り合う時間、これにはほっとした。研修の後半部は、身辺にいろいろなことがありすぎて、正直に言えば孤立無援の心境に陥るような時期もあった。そうしたことどもを、一つ一つクリアしていくには、職務を離れた立場は有利であったけれども、一方で、誰にも頼れないような気分が続いていたのも確かだった。本当に誰かを頼って迷惑をかけることなどできはしないのだけれど、それでも、現実をしばし離れて語る仲間がいるというのは、やはりありがたい。
今年も1年が始まっていく。もうじき、新入生がやってくる。春休みを満喫していた学生達が帰ってくる。自分は、やっぱり教育の場が好きなんだな。借景に見える満開の桜並木を目にして、そんな気持ちが蘇ってくるのを感じていた。
やまのべ通信
(2002年3月)
韓国な一日 2002.03.29
NHKが、ガンガン宣伝しているので、平日の時間に余裕がある内に行ってこようと思い、今日、大阪歴史博物館で開催されている、韓国名宝展へ出かけてきた。いや、さすがは韓国の名宝展だ。何が驚いたって、ソウルのLOTTE百貨店なみに係員がうじゃうじゃ居る。4列のチケット売り場に7人、その周辺に2人、さらには、会場への2本のエレベータ口に各1人。7階まで上がって、入り口でチケット確認して切るだけにまた数人。不景気な御時世、雇用確保にはまことに結構な「ワークシェアリング」であった。ううむ、当日券だっただけに、こんなんなら、もっと料金が、ぶつぶつ、、、
韓国では、博物館と遺跡・古蹟をかなり見てあるので、見たことあるものばかりかなと思っていたが、そうでもなかった。いくつかの名品とは、久しぶりの御対面だったけれども、初めての方が多かった。陶磁器や文房四宝に少々物足りなさを感じたのは、何度も中央博物館を見ているからだろうか。特にテーマを絞ってあるわけではなく、「民族の優秀な遺産」を全般的に紹介しようというのだから、仕方がないのかも知れない。
青磁に関しては、ミーハー的嗜好なので、透彫七宝文香炉が素敵だった。粉青線刻魚文扁壺は魚のとぼけた表情が何とも良い。図録は展示替えの分も含んで出典品を網羅、オールカラーで\2,300円なら記念に1冊買っても良いでだろう。ただし、絵画の部分の写真品質が、所々もうちょっとなんとかならんか?と感じるのと、ボリュームがあるのでかなり重いのが難と言えば難。まあ、全体的にな出来映えからすればケンチャナヨといったところか。さあ、みなさん、これをきっかけに韓国へ文化探訪の旅をしましょう。
華城陵幸図が展示替え対象で、4月にならないと見られなかったのは残念。宮中遺物展示館蔵とあったけれど、はて?どこだったかなと調べたら徳寿宮内だった。行ったのに忘れているのか?気づかずに通り過ぎていたのか?会期が長いので、年度が明けたら本年度のフィールドワーク参加学生さん達と、もう1回来てもいいかな。6月からは、東京国立博物館で開催だそうで、関東方面のみなさん、お楽しみに。
見終わってから、一緒に来ていたI君の卒業祝いにと鶴橋へ。久しぶりに白雲台へ行ってみるが、午後の休み時間中。あてが外れて、福ちゃんへ行ったらアジュマ達が数人暇そうにだべっていた。チゲ二つ頼んで、チャプチェを追加注文したのに完璧に忘れられ、まことに安上がりな卒業祝いとなってしまった。ごめんな、今度もっと高級な店に連れてってやろう。ま〜いっか、と店を出てソウル書林へ。いつものように人なつっこいおばさんが店番、オヤジはずっと店の奥の本棚の向こうで大声で政治談義、今秋の大統領選の話に夢中。
難波へ出て、ジュンク堂書店でNHKの新年度ハングル講座のテキストを見ると、TVの講師が最悪の人選。つまらん屁の役にも立たない自己満足的エッセーに、まるで入門書のようなタイトルを付けて新書化したあの人。なんだかなあ〜と思って帰ってきたら、Morris.さんもHPの日記でぼやいていた。今年度のフランス語講座で井川遥ちゃんが大ブレイクしちゃったので、いまや、NHK語学講座はアイドル登竜門なんだそうでっせ。アシスタント役の(なにゆえか決まって)女性は、ものすごい数の応募者の中からオーディションで選ぶんだと、先日聞いていたラジオ番組でも話題になっていた。ちゅうことは、黛まどかも応募したのか?俳人アイドル?ちょっと年増だが、潜在的大消費層の団塊オヤジには受けるかもしれないけどな。
願はくは花のもとにて 2002.03.28
本日、旧暦2月16日は「願はくは花のもとにて春死なむその如月の望月のころ」と詠んで、その通りに死んだという西行忌。夕方、天気が良かったので、愛犬プリンとの散歩時間を少し遅らせて、月が山の端にいさよう頃歩きに出た。最近の経路は、もうじき使えなくなる竹之内環濠集落の裏手の山を目指す道。東の山に向かって歩いていくので、月齢15の月も、本当にいさよっている(出るのをためらっている)ように見えた。
例年より開花の早い今年なら、西行の願い通りなのだろうが、当時は桜花と言っても、ソメイヨシノではなく山桜が主流、望月の頃は願い通りにしても、年ごとに日付と季節との変動が大きい当時のこと、実際はどうだったのだろう。
任地で愛娘を亡くした紀貫之が悲しみの旅路を終えるのも、『土佐日記』の記述によれば、約250年ほど遡った2月16日。途中、2月9日、渚の院にさしかかって梅の花を見る話が出てくるけれども、同時に、ここはかつて桜花に関する著名な歌の詠まれた場だという言及があるのみで、実際に咲いている桜についての話は見えない。
してみると、西行の願いは、暦と季節の兼ね合いという実にタイミングの微妙な問題等も加味して、それが実現可能な年齢をも示唆していた歌だったのかも知れない。『西行物語』などでは、上記の歌をうたいあげて死んだ、つまり辞世ということになっているけれども、たぶん説話上の話だろう。
彼の願いにこたえるのなら、西行忌なんかも単純に新暦に置き換えてはいけない例でしょうな。
同世代 2002.03.26
1960(昭和35)年4月生まれ。今、話題のキヨミはんのプロフィール。不惑を越した。大厄も通り抜けた。ああ、とうとう中年の仲間入りだなあ、と思っていたら、同学齢のキヨミはんが、ここ数日、田原総一郎とか筑紫哲也とかの著名オヤジ連に、テレビで公開説教されている。そこで行われている説教の中身とは関係なしに、この光景を見て、そこはかとなくうれしくなった。おう!我々は、まだ、あんなオヤジどもに説教垂れてもらえる、青二才だったのだ。
やったことの是非はともかく、今回のこの件、おそらく、今までだったら問題になどされずになあなあで来たはずのことだったのだ。誰とは言わんが、先輩に教えてもらったと本人も言ってる。わたしらの世代、もう、こういことには慣れっこになってるから、たぶん、キヨミはんも、今は悔しいだろうけど、ちっとも応えてはいないと思う。
共通一次(今のセンター入試)は、私らの年から始まった。これ、結構、前世代との大きな溝になっているように思う。国立受験に無縁な私でも、各種模擬テストではマークシート方式の初洗礼を受けた。超得意の国語で、あんまり差がつかなくなったのは、ちょっとショックだったなあ。小中学時代も、新課程準拠とやらで、教科内容の改定があるのは、なぜだか私らの学年からだった。貧乏人の私は、中学校の参考書など、近所のニイちゃんやネーちゃんにお古をもらえばいいやと思っていたが、「お前らからは違うんやで」と、しばしば言われた。
世の中の大きなブームも、私らが適正年代に到達する頃、下火を迎え次のうねりへの谷間に入る。天地真理は年増過ぎ、山口百恵もやや姉ちゃん世代。キャンディーズは高校時代に解散してしまった。共に時代を歩む大物アイドルすら存在しない。そんなことの繰り返しが、われらが同世代なのである。
おまけに、既に将来の制度存続が危惧されている各種年金ですら、このままの試算では、私らが支給される前年度で積み立て基金が底をつき、収納をそのまま支払いにあてる自転車操業にはいるのだとか。どこまで運が悪い、我が世代。
などということを、辞任表明の記者会見見ながら、つらつらと考えていた夕方であった。まあ、申告でみんなカッカした時期の直後だけに、運が悪かったね。次の選挙の頃には、みんな忘れてるやろうから、頑張りや。と、左利き無党派の同世代としては、いちお〜応援しておく。しかし、辞職勧告した社民党のオヤジ(あそこはオバハンも多いか)議員連に、そんなこと言う資格本当にあるのか?
天気がわかる 2002.03.21
子供の頃、お天気猫という置物があった。不確かな記憶によれば、こけしのような細長の猫人形で、表面になにやら薬品を染み込ませたビロード状の布が貼ってあった。このお人形の色が、たぶん湿度に反応するのだろう、お天気の動向にやや先立って変化していくのである。何色だとどういう天気というのは忘れてしまったが、たしかにそんな置物だった。今もそんな商品があるのかどうかは、わからない。
年があけて、ちょうど立春の頃からか、去年の手術の痕が、そのお天気猫のような機能を発揮しはじめた。お節介なことに、天候の悪化を予測してくれるようになってしまったのだ。色こそ変わらないが、傷痕のあたりが、急激に違和感を増してくる。昨日も、昼を過ぎた頃から右腕がずーんと重たくなって、一時はマウスを動かすのも億劫に感ずるような状態にまで至った。切ったのが、ちょうどBCG接種(上の娘曰く「はんこ注射」)をやる辺り、肩口からこの傷痕にかけて、そこの周辺だけにズシーンとピンポイントで重量がかかっているような感覚である。これで、今日雨が降ったら正解だなと思っていたら、昼過ぎからにわかに空模様が怪しくなり、かなり強い風を伴って雨雲がやってきた。ニュースによれば、新幹線やらJR線やらにも影響が出ているそうで、大当たり。この調子だと、明日もあんまり良い天気ではないだろう。
こういうのは、ふつう西洋医学では相手にしてもらえないので、困ったもんだ。こうやって、あちこち継ぎ接ぎしながら、体調のバロメーターが増えていくんだろうなあ、と考えると、何となく情けない気分になるのであった。
大中華恐るべし 2002.03.20
『四部叢刊』という中国の古典叢書がある。中華民国8(1919)年から始まる編纂事業の後、完成した一大叢書である。個人で全部読み終えるのはほとんど不可能とも言えるこの膨大な書籍の集積が、CD-ROMになって出版された。それも全文検索機能付きである。もう今までのような、この語の出典はどこそこにあって云々、、、な〜んていう安直な出典論はやってられない時代になった。先行用例があるのなら、それぞれのより深い読み込みから、緻密な考証をしていかなければならない。「○島先生は、良い時に亡くなられたよなあ」が、最近の研究者仲間の挨拶がわりになってしまった。
しかし、特別価格35万円もするそれを、どうしようか躊躇していたら、師匠がぽんと購入した。中国四千年の歴史の中で生み出されてきた主要典籍二千百一冊の集合体だ。紙で買えばそんな金額では済まないし、何より個人の住宅では置く場所がない。まったくありがたい話ではある。そして、居候の私が、それを研究室パソコンにインストールすることになった。
ところが、このインストールがじつに面倒くさいものだった。昨今の流行で、ただインストールしただけでは使えない仕組みが組み込まれていたのであった。中国ソフト業界も、ようやく著作権に目覚めたか。インストール後、CD-ROMに組み込まれている、PreInstall.exeを動作させてCドライブのルートディレクトリにTXTファイルを吐き出させ、それを出版社に返送する。しかる後にupdate.zipが送られてくるので、それを解凍して出てきたupdate.exeを起動させて制限を解除せよ。おおよそ、そんなことが中国語で書かれていた。
とりあえずインストールしてみたが、たしかに途中で止まって起動しない。書かれているとおりTXTファイルを吐き出させ、出版元に送ってみた。師匠はEメールを使わないので、私のメールアドレスを使った。日本語でメールを書くと化けそうな気がするので、20年ぶりに他人に見せるための英作文をする。疲れた。
返事は素早く、深夜に送っておいたものに、翌日の午前中返事が来た。あな、うれし。しかし、添付ファイルがやけに軽い。いまだに56Kモデムの環境にも関わらず、数秒もかからずにDLしてしまった。あれ?添付ファイルの名前が、****.zipじゃなくて、****.exeだった。不用意に開けるとこわいので、Ken.Mizunoさんに教えてもらったHotmailさんで確かめる。大丈夫だと。何のこっちゃない、ZIP解凍ソフトを自動実行させるタイプだった。しかし、もうこの時点で説明書と違っている。
解凍してみると、登録情報やら製品IDやらのインフォメーションファイルが5つほど。まあ、解除キーなんてこんなものだろうが、そのあまりの内容の無さに驚くと同時に、update,exeなんてものが、どこにも存在しないのに2度びっくり。ひょっとして、最初のEXEファイルは、解凍の自動実行と同時に制限解除もしてくれたのかと、やってみても起動しない。そんなら、どっかでファイルが壊れたかと、念のため再インストールしてもだめ。Hotmailさんに残してあった添付ファイルを再度DLしてもだめ。システムツール使って、デフラグやらディスクチェックやら、マシンの状態までチェックしたが、動かない。
まさか、そんなことは無いだろうとは思いながらも、一応もう一度メールしてみる。また、英作文だ。今度はちょっと複雑なことを書かねばならないので、大変だ。とほほ、もっと英語のお勉強しておけば良かったとぼやきつつ、2行に1時間かかった。どっと疲れた。念のため、向こうから送信されてきた、とても軽いそのファイルも添付しておいた。
この返事も素早く、深夜に送ったら、翌日10時には返事が来ている。あちらは、まだ9時のはずだ。中国のビジネスマンは、朝が早いらしい。ふんで、帰ってきた返事が「真対不起、〜発注册程序時操作有誤。重新発送一遍」だと。添付ファイルは1.2MBもあり、DLには5分以上かかった。そして、『四部叢刊』は、その後30秒で起動した。めでたし、めでたし。
しかし、35万円もあったら、中国では1年暮らせるんじゃないか?なんだよ〜、「ごめん」で終わりかよ〜。私の1日を返してくれい。
まとめ 2002.03.18
そろそろ、この与太話にもオチをつけた方が良さそうだ。
マツゴウの村には、どうやらTV受像器がまだ存在しない。クサカベ家でも、引っ越しに荷物に大きなラジオはあったので、まったく世間に無関心で暮らしているようではない。しかし、作品を通じてラジオにせよTVにせよ、放送の影は微塵もない。このあたりは、わずか1年後の次作『魔女の宅急便』が、ポータブルラジオからの天気予報を聞く主人公のシーンに始まり、飛行船の事故を伝えるTV中継でクライマックスを迎えるのとは、まったく対照的である。こんなところにも、作者の意図的な時代設定が見えかくれする。
TV受像器を一般家庭の茶の間に進出せしめたのは、昭和34(1959)年の皇室行事と、その数年後の東京オリンピックだったと言われている。その証拠が、逆に昭和33(1958)年をピークに長期低落に入った映画館入場者数であると。やはり、この物語は、1960年代に入っしまってはいけないらしい。時代設定の下限はそんなところだ。
では、上限はどうだろう。これを決定的に規定するのは、やはりお母さんの病気だろうと思われる。最初のシーンに登場するオート3輪やボンネットバスは、もう少し時を遡っても差し障りのない存在だ。物語の展開の通奏低音として、そして重要な枠組みとして、お母さんの存在は大きいのだった。結核が治癒可能な病気として認識され出すのは、昭和20年代も末の頃。昭和25(1950)年を境に反転して減少した死亡者数がピーク時の約30%程度まで抑えられ、元患者達が社会へ復帰してその姿を見せ始めてからだろう。
すると、この物語は、やはり昭和29〜33年というわずか数年間のどこかでしか成立し得ないことがわかってくる。では、作者はこのほんの短い一時期の何をどうとらえて物語の舞台としたのだろうか。
戦後史を説く人は、よく「高度経済成長期という過渡期」という言い方をする。しかし、それはオイルショックやドルショックを挟みながらもバブル崩壊まで続いた戦後史の大きな流れであって、もっと長いスパンで見た場合での「過渡期」と言うべきではないだろうか。
私は、むしろこう考える。昭和30年前後といえば、朝鮮特需で終戦直後の混沌はひとまず脱した時期である。しかし、所得倍増計画はまだ発表されておらず、高度経済成長は始まっていない。「55年体制」は始まったばかりで、60年安保の先鋭的な対立構図までは予測されていなかった。ほっと一息をついて、ようやく行く末のことを考えることが出来るようになった。そんな一瞬の一時、こういう時期こそ「過渡期」と言うべきではないか。作者は、その隙間のような時間帯の持つ休息感に着目したのかも知れない。
クサカベ家の設定もじつに巧妙である。この夏を越せば、ほどなくお姉ちゃんのサツキちゃんには、女に生まれた宿命としての身体的変化を受け入れなければならない時期がやってくる。「男の子なんて嫌い!」と、何の抵抗もなく無邪気に言ってのける夏もこれで最後だろう。メイちゃんにも、幼稚園や子供会などを通しての社会参加、そして社会教育の時期がやってくる。コマに乗って空へ飛び立とうとするトトロに、何の躊躇も感じず飛びつける年頃(サツキちゃんは躊躇した)も、これで終わりかも知れない。トトロの住む森の隣にやってきて、二人揃ってススワタリを見ることが出来るのは、おそらくこの夏しかなかったのだ。
『となりのトトロ』は、そんな一瞬の夏にしか成立し得ない物語だった。だからこそ、そこに描かれる「忘れ物」達は、切ないほどの思いを私たちの抱かせるのだろう。
今日も、なかなか寝てくれないオチビさんにつきあいながら、そんな理屈っぽいことを考えていたのでありました。なお、この映画の周辺には、『資料集』だの『小説となりのトトロ』だのという出版物もあるそうだ。本気でレポートや論文にするのなら、そうしたものも見るべきだけれど、これは与太話なので、そうした資料および先行研究(あるのか?)の類は一切参照していないのであります。古典研究なんて、そんな親切な資料なんかないから、こうやって毎晩眺めて理屈をこねるしかないのですな。
まだ続く 2002.03.10
ここのところ、せっぱ詰まった仕事のために図書館などへ出かけている。しかし、図書館という所、私のような活字好きにはいけない。仕事がはかどるどころか、余計なものが目に入ってきて仕方がない。
クサカベ家の住まいには、上水道がない。かつて「海外通」と称する人達の口癖に「日本人は、水と安全はタダだと思っている」なんてのがあった。いまや、安全も水もタダではなくなってしまったとはいえ、蛇口をひねってそのまま飲める上水道がある生活は、やはりありがたい。こうした生活享受の歴史も、それほど古いものではないらしい。記憶の底にある、私が住んだ最初の家も、上水道こそ通じてはいたが、クサカベ家と同じ手押しポンプの井戸が庭先にあり、洗濯や洗い物などの用水として生活の重要な一部分を担っていた。
この物語は、物語の舞台を日本のある時期の里山を有する村落という形で普遍化しているけれども、具体的なモデルは作者の住む狭山丘陵から多摩丘陵にかけての東京近郊地域であるらしい。図書館をふらふらしていると、『武蔵野市史資料編』などというものがある。そうした東京近郊地域の上水道普及の歴史が気になっていたので、ちょうど良いとばかりに手に取ってみた。武蔵野市と言えば、東京23区のすぐ横、中央線快速で新宿から15分弱、隣接する三鷹市には、三鷹の森ジブリ美術館がある。
「上水道」という項目があったので開いてみる。市議会報とか、市の広報紙から抄出したその資料によると、昭和26(1951)年上水道実施の市議会議決、昭和27(1952)年予算案可決、吉祥寺地区着工、昭和29(1954)年給水開始となっている。ただし、さらに資料をたどると西窪・関前・境地区への上水道到達と給水開始は昭和32(1957)年であった。これでようやく、完全給水実施である。東京近郊区域では、比較的早い時期に市街化が進んだとされる中央線沿線ですらこうである。
考えてみれば、昭和30年頃という時代設定も自明のことのようにしてきたけれども、これまたDVDパッケージのキャッチコピーの一部に過ぎないのだった。しかし、はからずもまた、この資料によっても時代背景がそのあたりに落ち着かざるを得ないことが証明されたわけだ。ある年の初夏から夏のお話、それは限られた一瞬の時間帯の物語だったのかも知れない。そんな気がしてきた。
トトロの謎−2 2002.03.07
いかん。こんな与太話にリンクまではられてしまった。実は、せっぱ詰まった仕事もあるのだが、ま、子供が寝付くまでのしばしの妄想を、気晴らしに書き留めておくメモ程度の走り書きであります。
登場回数も総登場時間も限られていながら、お母さんとその病状は、物語の展開に大きな影響力を持っている。転居の動機は特に語られてはいないけれども、お母さんの療養生活を考慮してのものだろう。電車駅からお父さんが乗り換えて帰ってくるバスは「七国山行き」、すなわち、お母さんの病院の所在地である。転居先を探す際に、入院先への路線バス沿線地を選んだことが、ここから読みとれる。近い将来と予測される退院後も、しばらくは続くであろう通院治療に備えてのものとも言える。それでは、具体的には語られぬお母さんの病気は何だったのだろう?
長距離通勤当たり前の昨今ならいざ知らず、東京の大学へ勤めに出る父が転居先としてわざわざ選んだのは、都心から電車に乗り、さらにバスを乗り継いで帰ってくる家。上記の理由はあるだろうが、環境も大きな要因であることは間違いないはずだ。そうした転居先の選択と共に、そこからさらに「大人の足でも3時間はかかる」距離(約15km程度か?)にある入院先。そして、山の向こうにあるそこは路線バスの終点地。そうした条件を考えれば、母の療養は社会からの隔離を要するものであり、子供に「風邪のようなもの」と説明して納得をさせうるもの、その悪化が勘の良い子供達に母の死を予感させうる性質のもの、おそらく結核であろう。
転居後に親子揃って出かけたお見舞いで、山の上から見下ろす病院には、キリスト教会の礼拝堂を思わせる尖塔状の構造物が中央に見える。社会的偏見を伴う結核患者の隔離は、当時、宗教法人系の医療施設がその多くを引き受けた。偏見からの隔離にととどまらず、そこが多くの患者にとって終焉の地となる高い可能性を秘めていたからである。昭和20年代まで、日本人の死亡原因の第1位は結核であった。
この話の救いは、その設定が昭和30年頃とされる点にある。結核菌に対して極めて有効な抗生物質ストレプトマイシンが発見されるのは、昭和19(1944)年。終戦後、製品化された薬剤が日本にも導入され、多くの命を救い始めるのは昭和20年代も半場を過ぎてからである。幸いにして、お母さんの発病にそれは間に合ったのであった。昭和20年代前半には、人口10万人あたり約150人の死亡率で、日本人の死亡原因トップにあった結核死が、昭和25(1950)年を境に急激に減少する。BCG接種による予防効果とあわせて、2000年時点では、人口10万人あたりの死亡率が2.1人にまで抑え込まれた。その開発が社会へ大きな影響を与えた薬剤として、今も語り継がれている所以である。
この物語が、昭和30年頃と規定されなければならない理由の一つは、そこにある。その頃を境に、結核患者は死への恐怖と社会の偏見から解放される途上にあった。有効な治療手段を持たない不治の病から治る病へ、患者は棄民として山の奥へと送られる存在から、再び社会の一員として復帰しうる存在へと転換しつつあった。ちなみに、『風立ちぬ』で、結核療養施設での日々を描いてみせた堀辰雄が、再発した病に倒れるのは、昭和28(1953)年のこと。まさに絶妙の時代設定である。
トトロの謎 2002.03.05
オヤジの妄想はまだ続く。『となりのトトロ』の様々な設定について考えていたら、いよいよわからない問題がいくつか出てきた。お父さんの年齢は、いったい、いくつなのだろう?昭和30年頃という物語の中で、五月ちゃんは小学校6年生、メイちゃんは4歳。すると、五月ちゃんは終戦時で0〜2歳。団塊の世代少し手前、昭和18〜20年あたりの生まれとして、その時のお父さんは何歳だったのか?
いやいや、五月ちゃんの6年生というのも、DVDのパッケージに書いてあるだけの話だから、本当かどうかはわからない。いやしくも文学研究者たる者、作品に関わる情報は作品中から読みとらねばならぬ。ヒントはある。6月23日のメイちゃんが学校へやってくる場面で、隣家の同級生カンタが、落書きだらけの書き取り帳に書いている字が映る。「待、河、松」の三文字だ。また、黒板には「書き取り、書きじゅん、はっきりと」と注意事項が書いてある。まだ、彼らは「順」の字を学習していない。あれ?手元に学習漢字の学年別配当表があるが、「待」は3年生、「河」は5年生、「松」は4年生配当、「順」も4年生配当だ。またもや作品の考証不徹底かとも思ったが、手元にあるのは、1989年改定の新学習指導要領準拠版だった。当時とは基準が違う。そうだ、ここの読者には、その筋の専門家もいらっしゃるはずだ。昭和30年頃の学習漢字学年配当は、どうだったのでしょう?教えてください。
七国山病院からの電報にあった宛名は「クサカベタツオ」。さて、タツオさんと言うからには、辰年生まれではないだろうかと推定する。うちの長男も辰年生まれで、同級生には龍太郎だの竜一だのがゴロゴロ居る。おそらく、その類であろう。さすれば、干支を調べてみよう。五月ちゃんの父親となるには、昭和3年生まれでは若すぎる。すると、もう一巡遡って大正5(1916)年の生まれとなり、物語の時点で不惑の手前。晩婚気味の研究者稼業、子供の年齢から考えて、まあ、そんなところか。
ん?終戦時20代後半なのに出征もせず子を成しているということは、赤紙召集されなかったのか?考古学者らしいが、そんな分野は真っ先に切り捨てられていた時代じゃなかったのか?それとも、度のきつそうな眼鏡をしていると言うことは、兵役検査不合格だったのだろうか。それにしては、風呂のシーンでは逞しそうな胸板してたぞ。
我が家には、絵本版『となりのトトロ』もある。じつは、これを見ると映画とは設定が少し異なっている。DVDパッケージには、6年生とある五月ちゃんが、絵本では4年生となっている。これだと、五月ちゃんは団塊の世代の可能性も出てくる。そうすると、お父さんは復員帰りで、、、 いやいや、次子メイちゃんとの年齢差による空白期間を考えると、十五年戦争終盤、五月ちゃん妊娠直後の出征→復員のパターンか?いよいよ謎は深まる。
重箱の隅 2002.03.04
ここ数日、下の娘の寝付きが悪く、毎晩『となりのトトロ』につき合わされる。筋立てや全体の構成にほとんど破綻のない作品だということ、上の娘の幼児時代、オヤジ同士の雑談としてNifty-Serveの片隅で話し合ったことがあった。ああ、楽しかりしパソコン通信の日々よ。Niftyも、いよいよ足手まといのパソ通フォーラムに対して具体的な取潰し作業に着手した。それも、かつての隆盛を維持している観のあるサッカーフォーラム(ここのところは、唯一読んでいた)を標的にするなんて。こうなると、プロバイダとしては、まったく魅力がないので、もうおさらばだ。だいたい日曜日の朝6時台にメールボックスにアクセスしてるのに「ただいまサービスが大変混み合っています」なんてインチキ表示見せるプロバイダが最大手なんて寒すぎるぞ。どうせ、毎月恒例のトラブル発生なのだろう。多くの出会いも出来事も、いよいよ遠い思い出となる。
さて、今日も今日とて寝付かせるため、娘につき合っていて、ふと考えた。昭和30年頃を舞台としているというこの作品、具体的には何年の話なのかと。自分が昭和30年代ど真ん中の生まれだけに、いよいよ気になる。はたして、作品中に手がかりはあるのだろうか?
あった。留守中、隣のばあちゃんに預けられていたメイちゃんが、だだをこねて五月おねえちゃんの通っている学校へとやってくる。そして、おおらかな時代のこと、担任の先生は教室での同席を許す。そのシーンで背景の黒板の右隅に、はっきりとこう書いてあった。6月23日(水)と。さっそく、昭和30年前後で、6月23日が水曜日になる日を探してみると、たしかに昭和29年がそれに該当する。次はと言うと、ちょっと微妙な昭和40年。TV・電話・水道の未発達、消費文化の浸透度の薄さ、物語に描かれるそんな要素を見ていると、昭和40年の時代背景としては古すぎる。さすれば、これは昭和29(1954)年が舞台なのだろうか。
確証を得るために、ほかにもヒントはないものか?DVDの必殺技、チャプター機能を使ってあれこれ探索する。この作品中、何度か背景にカレンダーの登場する場面がある。メイちゃんとトトロが初めて出会う日の一場面、お父さんの書斎の壁には5月のカレンダー、1日が火曜日で始まっている。他には、こんな場面にも。稲荷前バス停におけるトトロとの遭遇の様子を、五月ちゃんはお母さんへの手紙にしたためる。この手紙を読むお母さんの病室の壁には7月のカレンダー、これは、1日が火曜日で始まっている。そして、クライマックス「おかあさんへ」と刻まれたトウモロコシの届く病室シーン、談笑するお父さんとお母さんの背景には8月のカレンダー、これは1日が金曜日で始まっている。
ん?これはあり得ない話ではないか。5月1日が火曜日になるのは、昭和31年。しかし、それでは7月、8月のカレンダーが適合しない。7月、8月でみるのなら、昭和33年。この物語は、ある年の5月に始まって8月に終わる約4ヶ月間にわたる物語のはずである。これは、おかしい。文学研究では、こういうのを「ディテールにこだわる」というのだが、世間一般では重箱の隅をつつくとも言う。本格的に研究するなら、では、なぜこうした乱れが生じたのか、それは意味ある乱れなのか、それとも作品の瑕疵なのか、その分析と検証に進まなければならない。目下、そんな余裕はないので誰かが教えてくれるのを待つとしよう。それに、膨大な数のオタク&大きいお友達の存在する宮崎アニメの世界、きっと、こんなことは、とうに誰かが指摘済みかも知れない。オヤジの雑談時にも、とても子育てに縁があるとも思えない、宮崎アニメに精通した大きなお友達の参入があったっけなあ。
ただ、こんな事をやっていてわかったのは、この物語が、各月に一つずつのエピソードを積み重ねて構成されているということ。その時間の推移を、微妙な季節の移ろいを描写することできちんと表現していること。おそらく、その段落記号として、カレンダーや黒板の日付表示が1回ずつなされていること。そんなところだった。
娘は今日もトトロで夜更かし、なかなか眠りについてはくれない。眠れや眠れ、おちびさん。それにして、クサカベタツオさんの暮らしは、今の自分とかなり重なるだけに、身につまされる。
三つ子の魂 2002.03.03
本日はお雛祭り、桃の節句、本来は上巳節。中国で、旧暦三月の初めの巳の日に行われていた行事が、魏の時代に三月三日に固定され、やがて日本に伝来した。そして雛祭り&桃の節句へと変容する。元来、暮春の行事であり、旧暦一月下旬の今頃やっても、桃なんか、まだどこにも咲いていない。ピンとこないので、その話は旧暦の当日に譲る。
ともあれ、我が家にも娘が二人。これまでは研修引率で、生まれて以来一度も世間並みの雛祭りを共にしてやれなかった。悪い父親である。ちなみにカミさんの誕生日もすぐにやってくる。こちらも、この10年以上、一度も共に祝ってやれなかった。最低の夫だ。訴訟大国のどこぞなら離婚裁判を起こされてもおかしくはない。やはり、これからは生き方の軌道修正をしようと思う。
しかしながら、白酒も雛あられも用意がなく、じつは雛人形も無い。大仰なセットを揃える気もないし、あったとしても上の娘が分別付いた頃、下の娘が生まれたので、その狼藉をおそれて人形自体飾る気がしない。結局は、お姉ちゃんと散歩ついでに菱形にデコレーションされたお雛祭りケーキを買ってきて、一緒に食べておしまい。二人とも心身共に元気で丈夫に育ってちょうだいね。
下の娘は満年齢なら一歳と十ヶ月になった。つまり、この正月を越して数えでは三歳になった。俗に「三つ子の魂百まで」などという。すでに式亭三馬の『浮世風呂』に用例が見えているので、この「三つ子」は、数え歳が一般だった頃の謂いである。赤ん坊が、ようやく基礎的な人格の片鱗を見せるところまで到達したわけだ。
たしかに、ある程度単語レベルの意志疎通が可能になってきた。各種要求は「〜ちょうだい」と発話する。たぶん、竹本ピアノCMのおかげだろう。ただし、二語文の構成が可能になっていると言うより、種類の限られた「〜ちょうだい」を、それぞれ一単語として意識している可能性がある。お姉ちゃんお下がりの熊さんと、お父さんの韓国土産のプーさんを識別する。『となりのトトロ』は大好きだが、大トトロ出現シーンはまだ怖いらしい。集中力維持の限界が45分程度、雨の稲荷前バス停シーンで一休みはいつもの通り。どんな娘に育つやら。
ラジオのけむり 2002.03.02
とにかく、ラジオが不調である。ボリュームを上げていくと、ある場所からズボボボボと、鈍い雑音が入る。混信やノイズが大きい時などは、ボリュームで対応せざるを得ないが、このせいでかえって聞こえなくなる。チューナーも少々不安定なところが出てきた。普通はつけっ放しにすると、次第に安定していくのが経験則であったが、どうも突然不安定に陥ることがある。電源を切っても、再度オンした時には、維持しているはずの周波数がずれていたりもする。購入後12年だから、そろそろ石ボケが出てきたか?年期物だけに、修理が可能かどうかもかなり怪しい。昔なら、裏を開けてハンダとペンチでこちょこちょやったろうが、小型化の進んだ機械は、配線もプリント基板で素人には手が出せない。
そこで、久しぶりにBCL関係のサイトを検索して、今、流行の機種はどんなものかと調べてみた。驚いた。いつのまにやら、この世界にもバブルがやってきたようで、みんな、日本無線だのAORだのと、すごい機械を使っている。その購入費用12万〜15万、テレビより高い機械の話がゴロゴロと転がっていた。こんなの欲しくないと言えば嘘になるが、18歳人口の減少と不人気学部で
いつつぶれてもおかしくはない先行き不透明な勤務先に奉公する身としては、そんなものに高額な出費は出来ない。おとなしくSONYさんの普及品を検討しよう。30年前を思い出して、お小遣い貯金から開始だ。それとも、一発totoで勝負に出るか。
しかし、あの高額受信機の隆盛は何だ。どこが不景気だ?それともみんなヤケクソなのか?
Jリーグが開幕した。いつもは、中国帰りの大陸ボケが抜けた頃、開幕戦を迎えるのがならいだったけれど、今年は、W杯のための前倒し開幕、それに中国研修がないのでTV観戦が可能になった。近い将来、ヨーロッパ標準(世界標準にあらず!)の秋〜春シーズンに移行するのだとか。そうなると、今時分は、優勝争いのラストスパートへ向けてサバイバルが始まる頃、いよいよ研修引率などやってられるか。
このごろ、衛星放送で放映されるスペインリーグにはまっていた長男と二人で見る。去年の今頃は、戦術とかフォーメイションとか言ってもチンプンカンプンだったのが、偉そうに「スペイン見てると、スピードがなあ〜」、「Jの技術水準低いんちゃうか」とか抜かしている。レギュラーをはって、少しはサッカーを見る目が養われてきたのかと思えば、どうも違っていた。やつの知識の源は、サッカーゲームだったのだ。そう言えば、内容は良く知らないが、パッケージに世界のナカ〜タの顔が描かれているゲームを熱心にやっていた。実在する選手のデータや特徴が入力してあって、チームを作って闘うのだそうだ。なんとなく情けないが、自分達の頃も、主たる知識の吸収源と言えば、『週間少年マガジン』だったりした。あれで、漢字やその読み、語彙知識などを仕込んでいったのは確かだ。そう思うと、媒体が違うだけなのかも知れない。
いくつかのBCLサイトの説明でも、ブームの発火点は少年週刊誌での紹介記事からと書いてあった。実際は、自分も似たような状態にどっぷり浸かっていただけなのだった。
三・一節 2002.03.01
なんじゃ、そら?と思われる向きも多いと思うが、隣国の大切な記念日である。知らない人は勉強しましょう。1919年3月1日から始まる、植民地下朝鮮半島で最大の反日独立運動を記念している。毎年、8月15日とならんで、現地在住日本人には非常に肩身の狭い日らしい。そういう日であることは知識として知っていたが、なんだかその印象が薄い。それもそうで、この10年ちょっとの間は、ほぼ毎年、この時期は中国研修旅行で引率に出ていたのだった。中国にいると、同じ被侵略側ながらも、この件ほとんど報道がない。それで、やり過ごしてたものだから、ほとんど印象が残るような状態ではなかったのだった。中国研修は、もう自分から進んでやる気はないので、これからは、毎年多少は意識してこの日を見ることになるだろう。
ここのところ愛用の短波ラジオが不調で、KBSの国際放送が聞き取りにくい。それに日本語放送は、それほど濃くやることもなかろうし、やりにくかろう。そこで、スカパーのKNTVで流れている現地のKBSニュースを見ると、なんだか偉そげな人が集まって「親日云々」と書かれた名簿を発表しているニュースと、それに対する各界の反応などをやっていた。KNTVの字幕が付かない番組は、我が家では「気合い!」でみることになっている。ニュースは当然、「気合い!」系である。したがって、細かいことはほとんどわからない。
しかし、ありがたいもので、昨今はインターネットへ繋げば、韓国の大新聞である『朝鮮日報』、『東亜日報』、『中央日報』などが日本語サイトを開設してくれてある。そこで見ると、植民地時代に親日的活動を行った各界著名人士の名簿を、進歩的調査グループが発表したそうだ。彼の国では、「親日」とは「反民族」とか「反国家」とかの同義語らしいので、これはとんでもないやつらの名簿と言うことになる。案の定、この日に間に合わせるための突貫作業があったようで、調査や判定の基準が曖昧だとか、政治的、感情的利用であるとか、そうした反応もあるようだ。そのあたりは、やはり、彼の国らしい。そんなんで発表されてしまった方はたまったものではないなとも思うが、そのほとんどが故人だろうから、文句の言いようもないというのが実状なのかも知れない。しかし、子孫はたまらんか。ところで、あの国では、日本で言うところの「親韓」の裏返しになるような言葉ってどうなっているのだろうか?ひょっとして、無いのか?
興味深いのは、この作業が「進歩的」なグループによって行われたという点だった。第一印象では、彼の国の進歩的人士も、こうした問題ではナショナリズムの範疇でしか行動できないのだなと感じた。しかし、よく考えてみると、批判のベクトルを日本帝国主義へとだけ向けるのではなく、あの時代の実態へと向け始めているところが「進歩的」なのだろうと思う。そう言えば、日本の「進歩派」も、批判のベクトルは、自分達の過去へと向ける方が得意であった。日本では、やり過ぎて「自虐的」なんて揶揄されている側面もあるけれど、批判対象が一方的でなくなりつつあるのは、今までとは違った視点が生まれてくるきっかけになるかも知れないと思う(と言うか、ぼちぼち、過去も現在も安直に一緒くたにして、日本叩きしておしまいっちゅうのも勘弁して欲しいなあ)。それでも、やっぱり正当性の吟味だとか、善悪論へ向かいがちなのが彼の国の伝統だけに、おさまるところにおさまってしまうのかも知れない。さて、どうなることやら。
それにしても、『朝鮮日報』。いくら日本語版サイトでも、この運動の発祥地タプコル公園での集会に集う群衆写真の上で、アシアナ航空のマスコットが大きな日の丸フリフリして笑ってるのには、何だかなあと思ってしまった。ま、こういうところのルーズ・フィットぶりが、彼の国の良さでもあり魅力でもあります。
以下は、ある特定の友人へ
お嬢ちゃん、お誕生日おめでとうございます。親子揃って、まあ、なんちゅう因縁めいた日のお誕生ですなあ(^^)
やまのべ通信
(2002年2月)
上元・元宵・大望日 2002.02.26
今日は、旧暦1月15日でこれを上元と言う。元旦が年の初めの夜明けであるのに対して、今宵が年の初めの満月である。旧暦の宿命で暦と月齢にずれが出ているようで、現実にはちょっと欠けているらしい。それでも、今月は月の軌道の関係で今年一番の照度になるらしく、元宵にふさわしい明るい月夜を期待していたが、今年は残念ながら雲に隠れて月迎えがかなわなかった。本場中国では、提灯祭りと正月行事を締めくくる爆竹・花火使い納めの日、また派手な一夜が繰り広げられていることだろう。観灯も既に唐詩に例のある行事。大唐の都長安を彩った灯影の伝統は今も受け継がれ、西安市内は城壁をはじめとして赤い提灯がここかしこに揺れているはずである。
この元宵を扱った詩などを読んでいると、「夜禁」の語が出てくる(蘇味道「正月十五夜」詩など)。唐代は、日没後の外出が禁じられていたのだった。この宵はその禁令も解かれ、時を忘れて夜を楽しんだという。夜間外出禁令なんて、いつの話と思われるが、それはつい最近の隣国にもあった。先日、ソウルで仕込んできた『同感』という映画作品の中で、それがうまい具合に使われていて、面白かった。古い無線機を通して、1979年に生きる女子大生と2000年の同じ大学に通う男子学生が時を超えて語り合うというSFファンタジーなのだが、お互いが別の時代に生きていることを気づかない時期の小道具として、これがちょういと使われていた。日本公開名『リメンバー・ミー』、いろんな意味で懐かしい思いができる佳作だと思う。
その韓国では、秋夕に対応する伝統行事の日、タルマジという祭りが各地で行われるらしい。KNTVでKBSのニュースを見ていると、そうした現地の様子が流されていた。短波に頼っていた時代と比べると良い時代になったものである。これを見ていると、正月の民間伝統行事的なものは、旧正よりもむしろこちらの方に集中しているような気がする。農耕儀礼的なものが多いのも、目印として月の朔望の方がわかりやすかったからだろうか。
日本では、小正月。しかし、単純に日付を新暦に置き換えてしまった結果、月齢との関連性はまったく失われ、しかもハッピーマンディーとやらで成人の日も変動制になってしまったので、この行事は完全に忘却されたと言って良い。別に旧暦を復活させろとは言わないが、やはり、なんとなく寂しい気がする。
電波中毒 2002.02.25
BCL世代の性だろうか、ラジオ波には人一倍執着が強い。近隣諸国の局なら、夜間になれば中波でも鮮明に受信可能な所が多い。カーラジオの感度が意外なほど良いのを知ったのは、中波海外放送のおかげだった。夜中に車を運転している時でも、信号待ちの暇つぶしなどについついチューナーに手が伸びる。
関西地方は1008KHzに朝日放送、1179KHzに毎日放送と強力電波があるため受信しにくいが、1044KHzには北京放送の、1170KHzには韓国KBSの日本語放送が今も健在だ。北京放送は、18:30〜20:30の放送を20:30〜24:30の間に2回リピートしてくれるので、実にありがたい。現在、いちばんゆったりと聞くことが出来る国際放送だろう。KBSの21:00〜22:00の中波・短波同時放送は、混信との戦いになるけれど、日によっては妙に鮮明に聞こえて面白い。この不安定さとの戦いとその工夫がBCLの魅力でもあったなと思い出す。1000KHz以下の周波数には、日本語放送こそ無いけれど、海を越えて飛んでくる原語放送が目白押しである。972KHzには、韓国の在外同胞向けの放送局があり、社会教育放送という。ほとんど日本の局と変わらない強力電波である。北朝鮮の革命的楽曲ばかり流している局もあるが、どうやら暗号放送だそうだ。哀調を帯びたそのメロディーがなんとなく気に入ってしばしば聞き入ってしまう。
このカーラジオBCLでは、夜間21:30から1時間少しの限定で、1566KHzに日本語宗教放送があることも知った。キリスト教放送局のFEBCである。日本国内では維持が難しいのか、韓国の済州島から発信している。そのせいかどうか、海辺ほど強力に入ってくる。故郷への帰省時、SAでの休憩中に何気なくチューナーを探っていて発見した。ロシアから飛んでいたオウム真理教の放送が消えた今では、唯一の日本語による宗教専門放送局ではないだろうか。毎年、12月にはいると聖夜へ向けての特別放送が増え、クリスマスの雰囲気が伝わってくる。毎週日曜日には、本物の「説教」にもあずかれる。「教派を越えた」と言っているけれども、基本的にはプロテスタント色が強いように思われるけれども、HPによれば個々のカトリック教会からの支援もあるようだ。この局、意外なほど電波が強く、携帯用のポケットラジオ(じつはこんなものも所有している)でも充分に聞こえる。
帰宅が遅くなった時の帰り道など、夜道をとばしながら、何でこんなものを聞いているのだろうか?と思わないでもないが、活字と一緒で、食事を欲するようなものだと思っている。
BCL 2002.02.24
今40代前半にいる同世代になら通じる話だろうが、中学生の頃、BCLという趣味が流行った。短波ラジオを使って、海外放送局の発する電波をキャッチするのである。世界中の溢れんばかりの情報が、インターネットで、簡単に、しかも日本語で手に入る昨今では信じられないくらい、海外情報が限られていた時代のことである。海外渡航なんて、まだごく少数の選ばれた人達だけのものだった。格安航空券など、大都市の片隅に密やかに存在した程度だったし、沢木耕太郎は、その頃まだやっと香港への第一歩を踏み出したばかりであった。『深夜特急』が世に出て、バックパッカーという名の貧乏旅行者が大衆化するのは、それからまた10年後のことである。
どういうきっかけでBCLなどというたしなみがあることを知り、それに関心を持ったのかは既に忘れてしまった。ただ、ABCを習い始めてはいても、田舎の狭い世界しか知らない中学生には、「海外」という言葉は無限の広がりを持っているかのように感じられていた。遠い彼方からやってくる電波を通じて、その世界とつながっているなんて、無条件に凄いことだと思っていた。
ただ、ブームとは言っても、短波ラジオは高価で、入手には困難が伴った。まず金がないし、当然のことながら家電量販店などあるはずもない。地方都市の街の電気屋には、展示される商品の数も限られていた。ところが、店のおやじさんが機を見るに敏だったのだろう、表通りの電気屋には、マニアの間で名機とされる1台が展示されていた。それをガラス越しに眺めるだけではやはり飽きたらず、入手するために、あらゆる誘惑に耐え、わずかな小遣いを貯め続けた。それでも足りず、デポジット制をとっていたコカ・コーラの空き瓶などをが不燃物回収所に出ていると、すかさずいただき酒屋や駄菓子屋へ持ち込むなどというせこい行いもした。多少のやましさは感じながらも、捨ててあるのだからとその頃は考えていたが、どうやら厳密に言うと法的には問題があったらしい。まあいい、もう時効だ。こうした、けなげな丸刈り坊主の必死の稼ぎっぷりを哀れに思ったのか、輝くSONYマークを物欲しげに眺めるのを日課のようにしていた私に、やがて電気屋のおやじさんは当時では珍しい大幅値引きを提案してくれたのだった。
苦労して手に入れただけに、学校から帰ると取り憑かれたように毎日聞いた。多くは、国営放送局による自国の宣伝放送であったけれども、リアルタイムでダイレクトに入ってくるそれらの情報は、田舎の中学生のうぶな精神には新鮮だった。現在でもそうだけれど、日本のマスコミの海外情報はアメリカ・フィルター経由一辺倒である。ところが、雑音の彼方から聞くBBCやドイチェ・ヴェレのニュースは、そうしたマスコミが伝えるのとは、少し違ったものの見方を語っているように感じた。モスクワ放送や北京放送になると、いよいよ遠い世界からのメッセージのように思われ、朝鮮中央放送となると、これはもう異次元の世界の言葉だった。そして、韓国KBSの日本語放送は、今の韓国オタクとしての精神形成に大きく関与した。しかし、その割には語学力の養成には、まったく寄与しなかった
このラジオとは、中学、高校、大学、そして大学院と学生時代のすべてを共に送ることになった。毛沢東、周恩来の死を知ったのも、このラジオで聞いた北京放送からだった。初めての訪韓のための旅行情報を集めたのも、これからだった。そして、今の職場に就職が決まった頃、SONY製品にしては長めの「タイマー」が切れた。さすがに捨てきれなくて、今でも机の引き出し奥深くに安置してある。
二代目は、初めてのボーナスで買った。パソコン通信黎明期で、インターネットの存在すら知らなかった頃である。まだ短波放送の力は侮れなかった。それから12年が過ぎ、どうやら、これの「タイマー」も切れかかっている。BBCもドイチェ・ヴェレも国際日本語放送は廃止され、長年親しんだKBS日本語放送も、現行機の不調でしばらくご無沙汰しているうちに存続を問われ続けているという。短波ラジオの生産企業も国内ではいまや実質的にSONYのみになった。この会社、発祥がラジオ屋さんだけに、いくら需要が細っても、ラジオの開発と生産だけはやめる気配がない。原点を守ろうとするその姿勢、すばらしいことだ。噂の「タイマー」問題があっても応援したい気持ちになる。文学部国文学科・英文学科体制で始まった大学であるにも関わらず、公式の場で、何の根拠も見通しもなく、しかも思いつきで「両学科はもう要らない」と言い続ける、
どこぞの馬鹿理事長とその取り巻きども学園経営陣も見習って欲しい。
さて、今度はどうしたものだろうか?今や情報ツールとしての実用性などほとんどなく、純然たる趣味のため?う〜む。
東風吹かば 2002.02.21
愛犬プリンと山辺道散歩に出る。雨水も過ぎたせいか、何となく風もなま暖かい。そろそろ、散歩経路も秋冬型から春夏型へ変更しなければならないだろう。「蛇蝎の如し」と言うけれど、私は蛇が大嫌いだ。見るのも嫌だ。秋冬型の経路は、うっかりしていると毎年大きなやつとの遭遇がある。田舎の良さで人気がまったく無い道なので、プリンの綱を放してやり、語り合うように散歩が出来るのでとても好きな道なのだが、蛇だけはいやだ。情けないことに、犬のくせにプリンも苦手なようだ。以前、この道でかなり大きなのと遭遇した時も、主人を置いて一目散で逃げやがった。
まだ蛇の季節には早いけれど、久しぶりに春夏型の道を歩いてみたくなって、足をそちらへ向けた。T高校野球場の横を抜けて、浄水場へと続く上り坂。夏場に歩くと汗でびっしょりになる道。たまに来ると足にこたえるけれど、来月5日に、またH急友の会の1日講師役をやらねばならないので、今のうちから足慣らしもしておこうという算段だった。ちなみに、4月からは同じ企画をS北生協主催でやるそうな。気の弱い私は、安いギャラに文句も言わ(え)ず引き受けてしまった。対象地域が学生募集のホームグランドだから、勤務先の宣伝も兼ねてである。昨今の私学勤めは、各方面にいろいろ気を遣わないかんのであります。
犬と一緒に小一時間も歩いていると、ただ運動になるだけではなく、いろいろなことを純粋思考の中でゆっくりと考えられるような気がする。頭の中でもやもやしていたものが、不思議とまとまりをもって整理されてきたりもする。このごろ、独りで解決のつかないことをあれこれと考える時間が多かったように思う。急に思い立って旅に出てみたのも、そんなことが続いていて、少し現実逃避がしたくなったからだった。
こうやって、とぼとぼと歩きながらも、またいろいろと思い返していると、しばらくぶりに長い散歩となった。小汗をかいて坂道を夕陽に向かって下ってくると、追い風に乗って爽やかな香りが通り過ぎていく。ふっと振り返ると、道を外れたその先に小さな梅園があった。
春さればまづ咲く宿の梅の花ひとり見つつや春日暮らさむ(萬葉集、巻五、八一八、山上憶良)
東風吹かば匂ひおこせよ梅の花主人なしとて春を忘るな(拾遺集、巻十六雑春、一〇〇六、菅原道真)
何とはなしに、この二首が思い浮かんだ。いずれも、大宰府での作。両作者とも、恵まれた状況にあるとは言い難い。梅花には孤独がよく似合うような気がした。
週末韓国 2002.02.20
昨年の今頃、ゼミ生の卒業旅行につき合ってソウルへ出かけた。出発日にソウルは記録的な大雪になり、6時間遅れのフライト。到着してみると、交通機関はマヒ状態、かろうじて動いている地下鉄が無料運行になっており、それで何とか宿までたどり着いた時には夜中の11時、そんな旅だった。思えば、金浦空港を利用した最後の旅の思い出でもある。その時、ソウルで発券した1年オープンの航空券が、期限切れになりそうなのを思い出し、あわててアシアナの予約デスクに電話を入れた。空いているという。それで、先の週末を利用して、2泊3日ソウルの旅をしてきた。誰も同行者のいない、久しぶりの独り旅である。
今度は仁川だから、まだ地下鉄はない。去年のようになったら空港で夜明かしである。ただでさえ日程が短いのにやだなあ、と思いつつ搭乗したが、定刻通り(いや10分早かったか?)の出発、上空から見る韓半島にも、ほとんど雪が見られない。寒さを予想して厚着してきたのが裏目に出て、ずっと暑い思いをした。
ワールドカップを控えて、外国人旅行者対策が進んできたせいか、韓国はずいぶん気楽な旅行先になった。ソウル限定なら、初めての旅行者でもそれほど苦労しないのではないだろうか。それでも、意味が分からなくても良いからハングルくらいは読めるようにしておきましょうね。
定期的に自宅と連絡を取る必要があったので、空港で携帯電話も借りた。これも、貸し出しカウンターのみならず、電話自体が日本語対応だった。利用料金が、格安の基本料(1日たったの880ウォン。桁間違いではありません)にプリペイドの通話料を支払う形式だったのだけれど、通話ごとにこのプリペイド使用料の残高を日本語で教えてくれるのだ。返却時点での使い残し分払い戻しはないけれど、最低1万ウォン単位で利用できるので、それでも格安だ。結局、2泊3日では1万ウォンも使い切れなかったけれど、トータル\1200円ほどで、3日間レンタルできたことになる。自宅との通話は、だいたい3分で1000ウォンくらいしかかからないので、通算30分くらいは通話できるのだろう。使い切っても、指定電話番号に電話連絡すれば、使用料の追加も可能だそうだ。SKテレコムのレンタル携帯、お薦めである。
市庁周辺の歩行者信号に、残り時間の表示機能もついていた。日本では、いらちの大阪人対策として、赤信号の残り待ち時間を表示するために始まったと聞いていたけれど、ソウルのは青信号の残り時間表示だった。3歩も歩くと点滅するあの歩行者信号には妙な緊張感を感じさせられていたけれど、これで、少しはゆったりと道路を横断できると思う。
2日目は、お子さんの日本人学校通学のために江南に転居した友人宅にお世話になり、噂に聞く江南ライフの一端を垣間見させていただいた。彼がレンタルしているのは築20年になるマンション。マンションバブルの続く韓国では、購入すれば4億ウォンもするという。しかし、自家用車普及など考えられなかった20年前の建築では、駐車場確保が充分になされておらず、ものすごい状態の駐車場を見た。3重4重にとめられた車でぎっしり。これをどうやって出すのだろうと勝手に心配した。写真も撮ったが、現行機には画像ソフトがインストールされていないので貼付できないのが残念だ。
江南駅近くのお洒落なお店で、最近流行っているという安東チムタッkをごちそうになった。これは美味しい。タッカルビを上品にしたような料理だった。辛さも程々、日本人向き。
COEXモールも初見聞、まるで韓国ではないみたいだ。ただし、何もかもが他より高い。帰りは、このCOEX横にある、KCATを利用してチェックイン、出国審査を済ませ直行バスで仁川へ出た。KCATも初体験だったけれど、空いているし、使い勝手が良い。出国審査も済んでしまうので、仁川空港では乗務員用通路からスイスイ通過で気分がよい。航空会社カウンターでのチェックイン時に荷物を預けて出国審査を済ませてしまえば、後はお買い物に行っても良い。バス券を買うのを後にすればいいだけだ。チェックインも、当日なら朝から受け付け可能だそうだ。江南方面に宿を取るか、最終日の用件があるなら絶対にお薦めである。空港より早い3時間前締め切りだけれど、その分良い席も確保できるし、偶然かも知れないが、関空ではKCAT積載分から荷物も出てきた。
いつもながらに、S.J氏にはお世話になった。駆け足のソウル旅行だったけれど、内容濃く終えられたのも、彼のおかげだと思っている。ありがとう。
爆 竹 2002.02.12(旧暦元日)
旧暦でも、新年が明けた。後厄は残っているが、これでやっと大厄は抜けた。迷信とは言え、ほんの少し気が楽になった。
今日から、中国大陸では、またあの内乱かと見まがうばかりの日々が続くのだろう。これも、相当古くからある習俗のようで、六朝の書『荊楚歳時記』などを読んでいても、既に出てくる。正月の魔除けに、青竹を火中に投じて破裂させたとのことである。まさに「爆竹」である。宋代の頃から、火薬を用いた「爆竹」が出現し、現在に至る。しかし、現在の中国大陸に「爆竹」の語はなく、「鞭炮」「紙炮」「炮仔」の語を用いるそうだ。そうすると、現代日本であの花火を「爆竹」と称するのは、大陸から伝来し定着し、そのまま固定化されたということになる。(以上、東洋文庫の受け売り)そう言えば、春節後の中国で、これは爆竹禁止令の貼り紙だと教えられたものにも、たしかに「爆竹」の語はなかった。
過去、何度かの訪中時、餐庁での食事の際に、時折慶事の宴会とおぼしきものにも遭遇した。そうした場にも「爆竹」はつきものだった。しかし、現在では、魔除けというよりも景気付けの意味合いが強いらしい。たしかに、あれだけ派手にやれば、あと何百年かは魔物も寄ってこないだろう。使用する物も、日本の可愛らしいそれとは比べ物にならないくらいでかい。毎年春節から元宵にかけての正月期間、「爆竹」とほとんどロケット砲に近いような花火の事故で、必ず死傷者が出るほどである。物品の損壊も含めて、時の権力が禁止令を出さざるを得ないくらい経済的損失も大きいのだろう。
子供の頃、爆竹というと、やはり祭につきものだった。景気付けであることも確かだろうけれど、祭礼と結びつくのは、やはりどこかに本来の魔除けの呪具という宗教性が息づいていたのだろう。誰に教えられたわけでもないのに、かんしゃく玉、2B弾、そんな物ばかり手にしていたのは、気がつかぬ内に文化の遺伝子が発現していたのかも知れない。そして祭が終わると、必ずと言っていいほど余ったそれは、哀れな蛙の口につっこまれて瞬間解剖実習の具ともなった。子供が純真であるというのは、大嘘か共同幻想かのどちらかである。
左利き 2002.02.10
誰が考えたのか知らないけれど、今日は左利きの日だそうだ。「0210」を「レフト」と読ませてのことらしい。敬老の日と同じくらい馬鹿馬鹿しい発想だと思うのだけれど、他に対する思いやりの希薄になった現代社会では、やっぱり必要なのだろうか?
我が家は、長男が「左利き」である。ところが不思議なことに、ボールは右で投げる。バットも右ボックスで振る。利き肩(そういうのがあるらしい)が、どうやら右肩なのだ。蹴り足も右らしい。スポーツ面では何の役にも立たない「左利き」である。無理に矯正するつもりもなかったので、そのまま放っておいたら、箸、鉛筆はすっかり左で定着した。また、矯正目的ではなく、注意散漫な傾向が目立ったので集中力養成にと習字を習わせた。先生は左で書いても良いと言ってくださっているのに右手で習い、それなりに上達はしたが左手筆記力の向上にはつながらなかった。我が子ながら、変なやつだ。
どうやら、目にも利き方向があるらしい。確かめ方は簡単だ。反故紙や広告チラシの中央に直径2cm程度の小さな穴を一つ開ける。真っ直ぐに伸ばした両手でそれを開き持ち、両目でその穴から数m先の目標物を見る。電気器具のボタンとか、何かの模様とかがよい。焦点が合ったら、片目ずつ目を閉じてみる。対象物が見えている方が効き目だそうだ。もっと簡単に、両手を使って小さな穴をつくっても出来る。お試しあれ。
やつめ、手先以外はすべて右利きだ。そして、私は、どうやら思考基調以外は右利きのようだ。精神がひねくれている割には、身体は体制派らしい。
インフルエンザは医者へ行け 2002.02.05
家庭内に乱入したインフルエンザウイルスは、予想外に暴れ回り、結局、娘二人と義母が高熱に倒れた。娘二人は、口内粘膜や唇が出血まである荒れ模様となり、体調回復が遅れ妙に長引くので、週明けと同時に小児科を受診させた。今年のインフルエンザの症状かと思っていたら、体力が弱った所への単純ヘルペス感染とやらで、そちらのウイルスを撃退する薬を処方されて帰ってきた。
普通の風邪と違って、インフルエンザの場合は早めに受診した方が良かったそうな。小学校の先生からも土曜日の時点でお電話があって、心配なさってくれたのだけれど、まだ医者に診せてないと言ったら、やや呆れられてしまった。医師からインフルエンザの診断が出ると「出席停止」となり、欠席の扱いも違っていたようで、勝手な素人判断はいけないのでありました。小さい子をお持ちのみなさん、この時期は熱が出たらとっとと医者へ連れて行きましょう。
さて、さっそく、自分の手術の際に覚えたインターネットでの医療情報検索をつかって、医者で処方された薬が何なのか調べてみる。いや、こりゃ本当に便利だ。製造メーカーから諸注意、治検による副作用データまで、すぐにわかるようになっている。内服薬が「毎食後と眠前」と書いてあるのは、使用法に「1日4回に分けて服用させる」とあることの反映か、などということもわかる。去年も、術後の痛み止めと感染症予防の薬と説明されて処方された薬が3種類、調べてみると鎮痛剤とその副作用止めの胃薬、そして抗生物質であることがこれでわかったのだった。
しかし、情報開示は良いけれど、これで抗癌剤を患者にわからぬように飲ませるのはほぼ不可能になるだろう。自分の薬を調べた時も、いつまでたっても主治医が腫瘍としか言わないので、ちょっとドキドキしながら検索したのを覚えている。黒沢明の「生きる」を今つくるとすると、主人公が自分の余命を知るのもネット検索になるのだろうな、などと思うのであった。
参考までに「医者からもらった薬がわかる」はここ → http://www.eminori.com/drug/drinf001.html
年内立春 2002.02.04
年内立春と言えば、在原元方による『古今集和歌集』巻頭歌が有名だ。
年のうちに春は来にけり ひととせを去年(こぞ)とやいはむ今年とやいはむ
ところで、この歌に関する理解が間違って教育されているのか「年内立春が珍しいことだから、こうした歌が生まれたのだ」と思いこんでいる人が多いように感じる。この歌と関係なくとも「旧暦時代、年内立春はまれなものだった」という思いこみが、世間に一般にはあるようで、これも、旧暦文化を捨ててしまった明治以降に生じた誤解の一つであるように思われる。旧暦にしたがって旧正月を祝っていれば、その暦日が立春をはさんで前後する確率が半数近いことは、よく知った事実であるはずだからである。
旧暦では、現在の太陽暦よりも1年の長さが約1週間短く、どうしても生じる季節とのずれを閏月挿入によって調整する。これが、19年に7回ほどあり、この年は1年が大胆なことに13ヶ月になる。そうすると、正月の到来が1ヶ月遅れることになり、その年は年内立春となるのである。大陸で作られていた暦が日本の朝廷ても採用され実効性をもって機能し始めたの天武持統朝の頃と考えられている(『日本書紀』では、6世紀半ばには伝来したことになっている)。それが定着した天平期ともなると、万葉人もこんな歌を詠んでいる。
み雪降る冬は今日のみ 鶯の鳴かむ春へは明日にしあるらし(巻二十、四四八八)
題詞に「天平宝字元年(757)十二月十八日」とあり、『日本暦日原典』という便利な本によれば、翌十二月十九日が年内立春となっている。そして、この数日後、大伴家持もこんな歌を詠んでいる。
月数(よ)めばいまだ冬なり しかすがに霞たなびく春立ちぬとか(巻二十、四四九二)
「しかすがに」は、「それなのに」とか「そうであっても」と現代語に訳せる言葉で、年内立春による暦日と季節とのずれに対する疑念ををすでに作品化したものである。眼前の実景に目を向けたこの歌の姿勢と、言葉の上でのこだわりに重点を置く古今冒頭歌との違いを比較すると面白い。万葉の最終ランナーとして古今につながる歌人と称される所以であろう。
旧暦は、年内立春と年明け立春を元日からの隔たり日数で平均化すると、ほぼ元日になるように作られているそうだ。ただ、本当にまれなのは、暦日の正月元日と立春とが重なる歳旦立春であろう。萬葉時代で、19年に1回しか巡ってこない。当時の平均寿命や人生観で言えば、一生に3回あるかないか。
新しき年の初めの初春の今日降る雪のいや重(し)け吉事(よごと)(巻二十、四五一六)
この大伴家持による『萬葉集』最終歌の日付は、「天平勝宝三年(759)春正月一日」、再び『日本暦日原典』によれば、まさに歳旦立春の日、この賀歌をもって、彼は全二十巻を閉じたのであった。
豆まき 2002.02.03
「追儺」と言い「鬼やらい」とも言う、この行事も元をただせば大陸伝来行事である。日本で行われた記録としては、『続日本紀』文武天皇慶雲三年(706)十二月条の記事に「是年、天下諸国疫疾、百姓多死、始作土牛大儺」とあるのがもっとも古い。「作土牛」とは、土で作った牛と童子の像を着色したものを各宮門に置き、疫鬼を追い払う魔除けとした行事、漢籍では『禮記』「月令」に記述がある。これは、柊と鰯の頭に姿を変えて、現在も我が散歩道の途中にある集落で受け継がれていること、昨年の日記にも書いた。
「大儺」の方が、豆まきの源流らしく、もとは旧暦大晦日、除夜の行事が、室町時代あたりに立春前日の節分行事に合流したものらしい。平安時代の記録では、十二月晦日戌刻(午後8時頃)より行われる宮中儀礼とされている。まさに年の押し詰まった中で行われる厄払いの行事であった。現在でも、大和国長谷寺の鬼追い行事である「だだおし」が、節分の豆まき行事とは分離され(それはそれとして今日長谷寺でも行われている)、修二会の結願日である2月14日に行われているのは、古式の年越し追儺の影響からなのだろうか?中国の旧正月の各節目行事で爆竹をはじめとする大量の火薬が消費されるのも、同じ源流から発する文化である(これも、去年の日記参照)。
学生時代、興福寺境内で行われる鬼追い式を見に出かけて、下手な実況中継入りの陳腐な演出に失望して以来、この寒さの中わざわざ出かける気は二度と起きないのだけれど、同時に行われている春日大社の万燈篭は印象に残っている。冷え切って凛とした空気に満ちた闇の中に、ぼんやりと浮かび上がる吊り灯籠の明かりは、何とも言えない美しさであった。こちらは、また行ってみたい気もするが、日曜日と重なった今年は、人出が多そうだからという理由でやめた。押し合いへし合いの中、あちこちから鳴り響く携帯の呼び出し音と、その向こうの相手との無遠慮な大声会話で溢れていそうな嫌な予感がしたのだった。あの頃は、まだ拝観者もそれほど居らず、延々と続く燈篭を見上げながら、のんびり歩いていても人とぶつかる心配もなかった。思い出は美しいままとっておくのが良いのかも知れない。
それでおとなしく、自宅の玄関で豆をまき、鰯をおかずに海苔屋と寿司屋の陰謀にはまって、巻き寿司の丸かぶりを楽しんだのであった。今年の恵方は北北西だそうだが、どこで誰が決めているのだろう?明日は立春だが本来の旧暦除夜までは、まだあと八夜ある。すなわち年内立春。この話題は、また明日。
工事継続中 2002.02.02
毎週土曜日恒例となった歯科通院は治療の対象が右顎下の奥歯に移り継続中。診察台での待ち時間、しげしげと道具類を眺める時間があった。あれこれ取り替えて使うのだろうけれど、選り取り見取りの数10本、当然先が尖った形状のものが大半だけれども、不思議な形のもいっぱいある。円盤状のものや、土筆の頭のようなもの、刷毛が付いたようなのもある。いちいち何に使うのか聞いてみたい気もあるけれど、忙しそうな先生つかまえてアホな会話も出来ないので自重する。通い慣れると、削られる時の痛みにも慣れてしまったような気がする。度胸が据わったせいかもしれないが、昔ほど痛みも無い。
しかし、内耳を通って伝わってくる音と震動は工事そのものである。削る、削りながら水が出る、ヤスリのようなもので擦る、そのクズはバキュームで吸う、穴をセメントのようなものでつめて固める。よくよく考えたら工事そのものだ。心なしか先生の腕もたくましい。いざ抜かれる時には、じわじわと長引きそうにもなく、一気にやってくれそうで頼もしい感じもする。
今度の歯は、どうも曲者らしい。本当なら、抜いてしまった方が良い親不知なのだ。ちょうど磨きにくい奥の裏側がやられて洞のようになっていたらしい。ところが、もう抜かれる覚悟で診てもったところ、すでに1本奥歯を失っている状況を見て、「歯は1本でも貴重ですから、普通ならしませんが、とりあえず一般治療でやってみましょう」となったのだった。地獄に仏を見る思いであった。
しかし、場所が場所だから、じっと診察台で口を開けていても難儀しているのが伝わってくる。そりゃそうだ、自分で歯を磨くのにも難儀する場所だからこそ虫歯になったのだ。今日は、私一人で30分くらい面倒をかけただろうか。診療報酬から考えると、採算に合わない客だろう。申し訳ないので、今月もこの名医の宣伝をしておく。
青山歯科医院、電話予約 (0742−34−4618)。近鉄西大寺駅まで通う意志があり、信頼できる歯科医院が無くて困っている方にお薦めする。繰り返すが、名医である。
やまのべ通信
(2002年1月)
発 熱 2002.01.31
結局、上の娘はいきなり40度の発熱で、まちがいなくインフルエンザであった。こんなに高熱が出ると、普通なら慌てるのだろうが、病院勤務の経験があるカミさんは、「冷やせば良い」だけで終わり。薬も無理に飲ませず、熱は上がりきった方が良いと冷静である。体力が弱った状態で、病原菌の巣窟である病院などへ出かけて院内感染する方が厄介なのだそうだ。総合内科付きだったので、医者の本音を聞いていたらしい。41度越えたら連れて行こうと申し合わせたが、今日も熱はあるものの本人も特にぐったりする様子はない。
日頃からサッカーで鍛えていたおかげか、息子は不調を訴えた日の夕方、わずかの発熱で寝込んだだけで、ものの見事に翌朝は復活、スキー合宿に出かけていった。無尽蔵のエネルギー発散を続ける下の娘は、お姉ちゃんと額をくっつけるようにして寝ているにも関わらず、多少のパワーダウンを見せたのみで、未だ発熱の気配もない。ありがたいことだ。
いつもなら、今日は明日の一般入試のための会議で仕事に出ているはずだ。地方入試班のみなさんも、今頃は入試問題抱えてホテルでお休みの頃だろう。お疲れさま。
毎年、入試の時期が来ると、くどいようだが、やはり旧暦文化廃絶の弊害を考えてしまう。寒さの底で交通機関もしばしば不具合を起こす、この時期に人生最初の戦いをしなければならない子供達がかわいそうだ。しかも、毎年必ず発生するインフルエンザの流行期とも重なる。わざわざ、こんな時期にしなくても、季候の良い季節に暖房も冷房もいらない環境のもと、全力発揮で競わせてあげたらどうかと思う。
旧暦文化擁護のこじつけではなく、実際、その文化を残す中国や韓国の大学では、学年開始が旧正月明けの3月からになっている。多少のずれはあるけれど、おおむね春学期が3〜6月、秋学期が9〜12月で組まれている。寒さの底と暑さの盛りを避け、欧米とのずれもちょうど半年、そちらはセメスター制で留学への対応もスムーズになる。ゴールデンウィークも春学期の半ばで一休みとなり、あってもなくても良いような現状の4月講義のやりにくさと新入生の五月病が解消されるであろう。新環境への適応にとまどいながら迎える中途半端な小休止より、2ヶ月じっくりやってから一息入れる方が良いに決まっている。
こういう議論をすると、なんでもじゃあ欧米に合わせようと年度初めを秋にしようと言う、植民地みたいな発想が出てくるのも不思議だ。もっと自文化の持つ伝統に自信も持っていいんじゃないだろうか。
学年閉鎖 2002.01.29
息子が、たったの2時間で学校から帰ってきた。インフルエンザが流行っているらしい。各クラス6人以上の休みが出たから学年閉鎖になった、とのこと。そう言えば、息子自身も、昨日は珍しく頭痛がすると言ってゲームもせずにへこたれていたっけ。私の感覚にすれば、たったの6人だけれども、平均35人学級が自動的に実現している今では、50人近くが一部屋にひしめいていた我々の時代と分母が違うのだった。
上の娘も、小学校から帰ってきた頃は元気だったのが、夕方になって発熱した。下の娘も、いつものパワーがない。私も実は、ここ数日鼻が詰まってどうしようもない。昨日は、義母がダウンしていた。こりゃ、総倒れか。
まだ1年坊主だから、親もヘラヘラしているけれど、これが2年後のこの時期だったら、不調の兆しの見える者は即刻隔離、息子に接触する無かれとなるんだろうな。なるほど、中学校の学年閉鎖も、感染源集団を3年生から隔離するためだったのだ。明日から、1年生はスキー合宿へ行くのだそうだけれど、実施できるのだろうか?それもあっての閉鎖かも知れない。
掲示板「さんぽ道」に、Morris.さんから、日韓共同切符利用での韓国旅行との書き込み。あんまり長くいると、浦島太郎になってるかも知れませんよ。去年の訪韓中は、一見のどかな板門店から帰ってきてニューヨークのテロ報道を見たんだっけ。なんともまあ、物騒なまっ最中にJSAにいたわけである。翌日から板門店ツアーは無期限中止、帰国日の仁川空港は北米路線がすべてキャンセル表示でガラガラの中帰途につくという思い出深い旅となったのだった。。
雪 印 2002.01.28
漢語に「六花」という表現がある。雪の結晶の形、今話題のあの会社も使ってる六角形の結晶体を、花に見立てた表現である。古くからあったものと見られ、数は多くないが全唐詩にも、中唐の詩人賈島の作品中などに使用例がある。最近では、中島みゆきが最新アルバムの中で「六花の雪よ〜」と歌い上げてもいる。
ところで、そんな昔の人々が、どうやってあの結晶の形を知ることが出来たのだろうと、以前から不思議に思っていた。生まれ育ちが雪とはほとんど縁のない土地であった悲しさで、生活実感をもたないがゆえに、結晶など顕微鏡世界のものと思いこんでいたのだった。北海道生まれの義母に聞いてみると、なんのこっちゃない、手のひらなんかじゃ駄目だけれど、大きなふわふわした雪がコートやジャンパーの袖に貼り付いて、そのまま結晶の形を見せてくれることがあるのだと、子供の頃、そうやって「六花」を鑑賞した思い出を語ってくれた。そうか、肉眼で充分に視認可能だったのか。
してみると、冬という季節に関する私の感覚は、はなはだ心許ないものかも知れない。なにしろ、雪など年に数回北風に混じって舞う程度でしかない土地で育ったのだ。動物園のライオンが飼育期間の世界記録を作るほど長生きし、親子二代で親しんだような土地柄である。一昨日、12月中旬では冬の入り口と嘯いていたのも、勝手な決めつけではないかと、少々後悔している。旧暦文化には、もう少し親しんで欲しいのですけど。
※賈島:あまり名前は知られていない詩人だけれども、誰でも知っている「推敲」という語のもととなった説話の主人公である。スラスラと詩句が口をついて出るタイプではなく、どちらかというと苦吟系の詩人で、一句、一首、をひねり出すのにじっくりと考え込むタイプだったらしい。驢馬に乗っていて、「僧は推す月下の門」か「僧は敲く、、、」か考え込んでしまい、貴人の行列に行き当たってしまったというのであるからそうなのだろう。相手の貴人が文人でもある太尹(都知事に当たる。あ、現代の都知事も二代続けて小説家だ)韓愈で良かった。そうでなければ、「推敲」の語、別の意味で後世に残ったかも知れない。ええ、私も苦吟系で、、、。
討ち入り 2002.01.26(旧暦12.14)
日本の文化は、ほとんど旧暦を捨ててしまっているので、古典世界の出来事を単純に現行太陽暦の日付に置き換えてしまって平気なところがある。ところが、それで大きな勘違いをしているのことも多々あり、その一つとして七夕の話をいつか書いた。
毎年、年末になると忠臣蔵がドラマ化されたり、映画化作品がTV放映されたりする。討ち入りの12月14日が、一年間のクライマックスにもってこいのため、NHK大河ドラマになることも幾たびか。しかし、旧暦計算で言えば、本当の討ち入りは今日、元禄十五年から数えて299年目の12月14日なのだった。そして、現在の時制で言えば、日付が変わっての15日未明、本所吉良屋敷に当時としては幾分か時代遅れの男達47人が突入していったのだった。(各時代それぞれに、日付の変更をどの時点で意識していたかという話はとても面白いので、今度ちゃんと調べてから書きます。)
最近の地球温暖化のせいもあるが、太陽暦12月14日は、まだ冬の入り口の感じで、芝居や映画で描かれる雪の討ち入りがなんとなくしっくりこない。それが、1月中〜下旬となると、ちょうど冬の底、その光景にはぴったりだ。ちなみに、小説家の誰か(忘れた)が西暦換算していたけれど、それによれば元禄15年12月14日は、1703年1月20日に当たるそうである。来年は、赤穂浪士の側から言えば、討ち入り達成300周年記念日、吉良家の側から言えば上野介義央の300回目の命日となる。旧暦計算では、2003年1月16日がその日である。
今宵は、各地とも大荒れの空模様だそうだ。本所界隈は、あの日のように雪景色となるのだろうか。
俺はクビなのだろうか 2002.01.25
毎週1回、ドライブ気分を楽しみつつ出かける吉隠の丘の先、いっこうに「来年の御都合」の伺いがない。文章表現という講座、手はかかるけれど、やってみたら楽しかった。だから、向こうから縁を切られない限り続けようと思っていたのに、その話がまだない。おかしいなと思って、去年のシラバス・ファイルを探してみると、うわっ11月に書いているではないか。
やっぱり、彼らの専門外科目なのを良いことに、長期休暇の宿題は、短歌題詠三首とか、連続継ぎ接ぎ小説リレーとか、面白がって好き勝手なことやりすぎたかなあ。よく調べたら、これ必修科目だったのね。こんな内容だから、単位認定も評価も大甘だったしなあ。去年なんか、食堂であった学生に「先生だけだよ、俺のことわかってくれるのは」なんて感謝されちゃったもんなあ。今年は、ちょっと厳しくいかなあかんか、などと思いつつ出かけた最終講義、一年間付き合った学生達の顔を見ていると、なんだかどんどんそんな決意は崩れ去っていくのだった。
ここは、全科目で最後の講義日に学生による教育評価アンケートがある。無記名ながら、評価に影響を与えるといかんというので、集計結果が渡されるのは4月になってからだ。50人中1人でも2人でもいいから、「文章を書くのが楽しくなった」と言ってくれればいいなと願いつつ回収した。4月の結果報告が楽しみなのだけれど、反省をフィードバックし、評価をさらなるやる気に変えて向かっていく場が無いのは悲しい。「ああ、リストラか、、、」と悲哀を感じつつ帰ってみると、入れ替わりに大きな封筒が届いていた。来年度から講義の時間帯が変わるらしい。それで、手続きが遅れていたのか。ほっ。
さ〜て、来年は何やって一緒に遊ぼうかな。
日曜参観 2002.01.20
例年、1月第3日曜日は日曜参観日である。昔は「父親参観」と言っていたけれど、家族の実態が多様化した今ではそう呼ぶ。名称は変わっても、仕事が休みの日に設定してくれるのは、そういう意味だろうから行かねばならぬと、義務感は感じていた。ところが、勤務先がセンター入試に参加した2年前から、この日と「御国の仕事」がぶつかってしまい、義務が果たせなくなってしまったのだった。特に、昨年、小学校入学後初の機会だった娘に「みんなお父さんが来てくれるんだよ」と言われた時は、少々つらかった。こんな経験が一度でもあると『鉄道員(ぽっぽや)』などで、情けなや涙してしまうのである。
今年は、賦役免除のおかげで、ありがたや日程が空いた。いそいそと出かけていく。しかし、授業は国語だという。以前、長男の参観日にやはり国語の授業にあたったことがあり、職業がばれていたためか終了後にお父さんを代表してコメントなどを求められ、往生したことがあった。息子に限らず子供達の様子が面白いので、そちらばかり見ていて授業などほとんど聞いていなかったのだ。今日は、作戦としてやや遅れていく。ところが、しまった。教室の入り口が満タンで入れない。仕方がないので山なりの背中の後ろから子供達の声を聞いていた。後で数えたら、少子化で1クラスたったの29名。一コマの授業中に、ほぼ全員に活躍のチャンスが与えられるわけで、まだ小2くらいだと良い所を見て欲しくってみんな競って手を挙げる。日本も自己主張社会になるわけだ。
参観授業終了後の選択制「親子で何々コーナー」も、長男の時は竹トンボ作りだのけん玉製作だったのが、折り紙教室に付き合わされた。今日は、下の子が出来て愛情に飢えている長女のための日だから仕方がない。行ってみると、いつも集団登下校のグループのK君やYちゃんがいた。K君はお母さんが韓国人、Yちゃんはブラジル人、こんな田舎でも、知らないうちに子供達の世界も国際化していた。
センター入試(2002) 2002.01.19
いつもなら、年にたった一度の「御国の仕事」試験監督のために出かけるのだが、今年は一切の賦役免除のおかげで行かずに済む。一度でもやった者ならわかるだろうけれど、あれほど嫌な仕事はない。とくに会場チーフを任されると、神経はすり減るは、普通以上に疲れるはで、終わった時にはへろへろである。全国一律の条件整備のためとはいえ、何しろ運営進行の一部始終がマニュアル化されており、会場内では一から十まで言うことが決まっていて、それ以上もそれ以下も、余計な発言または言い落としが許されないのである。守秘義務があるので細かいことは公に出来ないけれども、たとえば「今日も寒いですが、頑張ってください」などと受験生を励ますような発言すらいかんのである。
こんなことなら、試験会場すべてにロボットを派遣してそれにやらせろと言いたくなるような気分、自分が歯車にされているとはこういうのを言うのだろう。ところが世の中には変わった人が居て、なんだかしらないが、これに参加してから妙にはしゃいでいる教員もいるのが不思議である。いや、センター入試参加は私も賛成だったけれど、それとこれとは別の問題である。そんなに、「国に雇われたいのか?」あんた。義務教育以外は私学の世界で育ってきた私にゃ、なんだかなじめない。
全国一斉同時実施と、そのためのマニュアル化された運営の陰には、いろいろなドラマやエピソードも生まれてくるけれど、すべて守秘義務とやらで、こういう場では書けないのもなんとなく腹立たしい。ま、この時期、問題と解答の搬送のために、全国の警察官がかなり大がかりな警戒態勢を敷いています。全国のドライバーのみなさん、おまけのついでに捕まったりしないように安全運転しましょう。
新聞を見ると、今年から、いよいよ外国語の選択肢に「韓国語」が出題されている。かつて「支那学」が「中国学」に変わったように「朝鮮語」の科目名称も考える時が来ているのかも知れない。
卒論劇場(居候篇) 2002.01.15
朝10時過ぎの阪和線杉本町の駅を降りて、居候先へ向かうと、今日はいつもより学生の数が多い感じがする。みんな、寝不足な感じで目の下に隈をつくりとろんとした表情ながらも、同じ方向へ向かって黙々と歩いていく。到着してからその何となく異様な雰囲気の理由を聞いてみると、今日は卒業論文提出締め切り日で、昼間部は正午が、夜間部は午後7時がその刻限とのことであった。なるほど、廊下のあちこちにある休憩コーナーやソファーでは、いくつかのグループが固まり、パンチの穴開け作業の真っ最中だ。向こうの隅で必至になってまだ何か書いているのは提出者だろう。窓から外を見ると、生協へ向かう道では、数枚の原稿用紙を持ってコピー機に殺到する学生と、刷りたてのコピーの束を抱えて走るものが交差する。
今日は勤務先の卒論提出日でもある。置き去りにしてきた我がゼミ生となるはずだった学生達、フィールドワークで8日間の苦楽をともにした学生達、みんなちゃんと提出できただろうか。時計を見ると、ちょうど残り1時間。これからいくつかのドラマが生まれる時間帯だった。我が勤務先なら、ここで教務部から提出を促す全学放送が入るのだが、ここではそれが無いだけで、いずこも同じ、冬の風物詩である。
卒業論文の品質低下を理由に、それを単位取得と置き換えて廃止している大学が増えている。けれども、卒業のための区切りとして、数十枚の原稿用紙を自分の文章で埋めてみるという経験は、決して無駄なことではないと思う。たしかに、学生にとってはストレスのたまる作業だとは思う。しかし、人生最大の「作文」作業を通じて得られる何かの方が、じつに多いはずだ。
これを終えると、口頭試問という通過儀礼がもう一つ待っている。亭主は、毎年その場で「たとえば12単位別にとれば、卒論を書かなくても良いという方式の大学もあるけれど、どう思う?」と尋ねてみる。これまで、きちんと書き上げその場に臨んだ者達の返事は、ほぼ間違いなく「いいえ、やってみて良かった」である。そう、大学はいろいろ失敗しながら、たくさん勉強する所。完璧な完成作を成し遂げ得なくとも、大きな山場を自力で乗り越えた経験と自信を、これからの人生で大切にしていって下さい。
で、お前さん、自分の時はどうだったって?はい、提出期限5分前にカウンターの行列末尾に並んだのでした。
京都の発想、その後 2002.01.10
去年の11月15日付けで書いた京都駅前の人車分離信号、年が明けて行ってみると、やっぱり変だと思った人が多かったんだろう。中央郵便局駐車場口前と下京区総合庁舎前との2カ所がスクランブル化されていて、X字型にクロスする真新しい安全地帯表示が交差点の真ん中に描かれていた。しかし、大阪や東京のスクランブル信号というと、青になった途端に交差点内に一斉に人があふれるという感じだけれど、京都は人口密度の問題もあってか、それとも土地柄のせいか、斜め横断する人もみんな律儀にゼブラ表示の中を歩いていく。斜めの発想はあっても、右往左往とか曲線の発想がないのかも知れない。あ、現象を面白がってるだけで、ばかにしているわけじゃないですよ、京都人のみなさん。京都タワーのベールも知らないうちにとれていたけれど、何が変わったのだろう?さっぱりわからない。
知人から自分の名前をインターネットで検索するという悪趣味なことを教えられ、ついやってしまったところ、素敵なHPを発見した。おなじ由来の「りーちさん」が開設する 「りーちの森」というHPだ。野草を愛し園芸を好み、しかも植木鉢から陶芸教室で自作するという徹底ぶりには驚いた。2000年6月開設とのことなので、あちらの「りーちさん」の方が1ヶ月先輩だった。しかし、HP構築技術は1ヶ月どころの差ではなく数段上で、はるかに美しく楽しい。草花を愛するあなた、是非行ってみてください。
ビデオデッキ昇天 2002.01.09
今度は、正月早々ビデオデッキが壊れた。これも、子供達がドラエモンやらハム太郎やらディズニーやら、何でもかんでも録画しては何度も何度も見直すので、消耗が激しいのはわかる。それにしても、次から次へとよくもこんなに物が壊れていくもんだ。厄年とやらは数えで計算するそうだから旧暦が基準である。そちらだと、まだ辛巳年11月26日、赤穂浪士の討ち入りもすんではいない。1ヶ月以上も残っているのだった。
デッキにテープを入れると、途中で止まって完全に取り込まない。何度か押し込んでいたら、中でテープのからまる音がして自動的に電源が切れた。もしや、下の娘が大好きなおにぎり煎餅の食いさしでも押し込んであるのでは?と外蓋を外してみた。意外な事にビデオデッキも部品が簡略化されていて基盤と駆動部以外は、ほとんどスカスカであった。昔のと比べて軽いわけだ。で、やっぱり取り込み装置の駆動部が変になっていた。駄目になってもいいテープで試してみると、途中でギュッギュッと音を立てて行ったり来たりしては止まってしまう。無理矢理取り込ませようとするとテープが出てきてからみ出す。こりゃ、この駆動系ユニットが交換になるなと予測する。おそらく修理に出しても、半端じゃない技術料とかが上乗せされて数千円じゃ直らないだろう。よく見ると、ヘッドも何度かのテープ巻き込み事故で汚れている。
困ったもんだとインターネットの掲示板などで情報収集してみても、最近のビデオデッキは消耗品扱いである。そりゃそうだ。ビデオテープの終焉期とは言え、今日調べたらS−VHSのBSチューナー付きでも3万程度。あと2年で部品保障期限も切れてしまう96年製機種の、決して安くはない修理代とのコスト比較で考えれば、地球環境にはやさしくないけれども、新しいのを買ってしまって、また数年使う方がましだと思う。新世代の記録メディアはまだ先行き不透明だし、だいたい、たいしたソフトも無いデジタルBSだか規格乱立のDVD録画機能だか知らないが、そんなものが搭載されているだけで今時10万円超える家電なんて買う気がしない。
それにしても、初めて買ったベータは10万円超の思い切ったお買い物だった。とうとう観念して、初めて買った単純なVHS(現行機)ですら、BSチューナーがついているだけで4万円程度した。世の移り変わりは激しい。4月から「日本事情」とやらをやらねばならんので、ビデオ利用は講義の構想上不可欠だ。ビデオデッキは、必需品である。とほほ、、、買おう。それにしても、ビデオデッキ安くなりましたね。
歯の治療 2002.01.07
先月から歯科医院に通っている。じつに20年ぶりの歯の治療だ。しかも、この20年間のブランクを越えて、同じ歯を治療している。つまり、放置してあったのだ。こんなに長期間の治療忌避の何が原因かと言えば、当時の歯科医療に対する不信である。まだ、小学生だった頃、永久歯を問答無用で抜かれてしまって以来、どうも、これまで治療を受ける歯科医師との相性が悪かった。
それでも、じっくりと治療をするなら今しかない。去年の一連の厄年騒動も、ちと応えた。ある種の民間信仰は、やはり貴重な経験則に依っている部分もあるのだ。身体の曲がり角の年齢になってあちこちをメンテナンスするべき時期に来ているのだろう。ともかく、それで、あの先生なら信頼できるのではないかと、思い当たる節のあった医院を訪ねて20年ぶりの診察椅子に座ったのだった。既に覚悟していた。こんなに放置してあったのだ。抜歯は必至だろうと。
ところが、こんなにぼろぼろになった我が奥歯を、この先生は「どんな歯でも貴重だから可能な限りは」と、治してくれると言う。しかも、いまどんな状態にあって、どう治療していくかを丁寧に説明してくれる。こんな当たり前のことが、以前の経験では一度もなかった。さらに、この先生は、患者の苦痛に非常に敏感である。ちょっと神経に触れただけで顔に出てしまう私も悪いのだが、その都度治療を中断し状況をたずねてくれる。待っている間、他の患者さんとのコミュニケーションを見ていても、実に親切懇切かつ丁寧で、信頼を得ているのがわかる。これはもう、名医である。
それにしても、医療技術の進歩はすごいものだと思う。子供の頃、あんなに嫌な思いをした歯の治療だったけれど、治療に伴う痛みは記憶の中のそれと比べて半分以下の感じだ。先生の腕も良いのだろうが、何よりあの恐怖の源であるキィーンと高周波を発するような音がほとんど聞こえない。かわりに空気音なのか発水音なのか、プシューシュワシュワシュワと、歯を削られているのか、それとも高圧で洗浄されているのか、判断に迷うような音がする。今日は、左上の奥歯から神経を抜いてもらい、次の診療段階にはいることになった。もうこの際、徹底的に治療してもらうつもりなので、しばらく通院を続けようと思う。
この医院、青山歯科医院という。20年間歯科治療を忌避してきた私が通院に前向きになるのである。信頼できる歯科医院が無くて困っている方にお薦めする。近鉄西大寺駅近く、奈良ファミリー北にある。奈良ファミリー北口駐車場入口と道を挟んで向かい側の道を入っていくと、住宅地のすぐ向こうに看板が見える。電話予約 (0742−34−4618)しておけば、それほど待たずにもすむ。繰り返すが、名医である。
雪に降りこめられる話 2002.01.06
正月の雪に降りこめられて帰れなくなる話、どこかにあったなあ、と実家で寝ながら思い出していた。帰宅してから『伊勢物語』を開いてみると、あった、あった、八十五段だった。要約するとこんな話である。
主人公の男が幼少時より親しく仕えていた親王が、今は出家して山里に住んでいる。そこへ男が正月の挨拶に訪れる。日常は公務が忙しく、気にはかかっているのだが、ご無沙汰が続いている。それでも、せめて正月くらいは、と年賀の挨拶は欠かさずにいたのであった。出かけてみると、その君のもとでかつて仕えた仲間達が集まっていて、今日は格別だからと宴会になった。その日は大雪で、まるで天からこぼすが如く降りしきり、一日中止む気配もない。やがて、皆ほどよく酔いが回って、「雪に降り込められたり」という題で歌を詠み交わすことになった。そこで、男はかつての君にこう詠みかける。
思へども 身をしわけねば めかれせぬ 雪のつもるぞ 我が心なる
歌の意味は「いつも心にかけてはいるのですが、勤めのあるこの身を二つに分けるわけにはいかないので、心ならずもご無沙汰することになり心苦しく思っていました。今日降るこの雪が、絶え間ないのは(「めかれ」は「目離れ」目が離れる事から出会いの機会に絶え間のある意)、むしろ我が望むところです」となる。
漢語に「素心」という語がある。「素」は色付けする前の糸、したがって「白」に通ずる。「平常心」の意とともに「変わらぬ心」「もとの心」の意をも併せ持つ。人の心は移ろうもの、これが一般であるからこそ、こうした語の存在意義がある。降りしきる雪の白さに託した「我が心」に、この「素心」の意をこめていないかと以前から考えていた(そういう指摘のある注釈は、まだ見ていない)。
親王は既に出家の身、いくら高貴な血をひくとは言え、もはや政治権力的な未来はない。打算のある者は、自然と離れていく。そんな君のもとに出かけていく主人公の心のありようを、作者は「もとの心失はでまうでけるになむありける」と評している。もとから、そんなげすな了見で仕えていたのではなかった、と言うのである。集った人々も「俗なる、禅師なる」人々、この世の生業を続けている者、親王同様に世を捨て出家した者、かつては同じ君のもとで同僚として仕えながらも、今はそれぞれの道を歩む者達であった。雪に降りこめられて、ほんの束の間、かつてのように時と場と思いを一つにして共有することになる。
権力機構の中枢にあって日常の業務などを共にしていれば、実際には様々な摩擦や軋轢があったろう。しかし、過去の記憶は、生臭い現場性を失えば、純化され美化されていく。それが二度と戻らぬ活力とともにあった、若き日の上昇基調の日々の事どもであれば尚更であろう。『伊勢物語』の作者は、数段前に若き日の同じ人間関係を活き活きと描写する話を絶妙の配列で載せる。それだけに、落魄の親王の感慨ぶりで結ぶこの話は、「年賀の雪」を軸に展開しながら、いよいよ哀れである。
学校という場に勤める者達にとっては、もうすぐ別れの季節が来る。職場を一年限定で離れていた間に、今年はいつになく大きな別れがあると聞く。同じ場に集った者としての「いつまでも変わらぬ心」、それを持ち続ける事の難しさを知りながらも、願い求めていたい。これが毎年繰り返される春先の「我が心」である。今年の春は、いつになくそんな思いが強い。
雪の年明け 2002.01.05
いろいろ積み残したことがあるので、あわただしく帰省して、すぐに戻ってこようと思っていた。ところが戻る予定のその日、名古屋が41年ぶりの大雪に見舞われ、浜松から西側の東名高速道路が上下線とも通行止めになってしまった。1号線から23号線の下道ルートもあるけれど、TVで見る名古屋の街並みはとてもチェーンなしの家族満載車両で通過する気にはなれない状況。予定外の一日が増えて、のんびりと過ごそうと思ったら風邪気味で頭が痛い。はからずも、もう一日寝正月だった。まあいい。新年に雪が積もるほど降るのは、古来、瑞兆とされる。
新しき 年の初めに 豊の年 しるすとならし 雪の降れるは(『萬葉集』巻十七、三九二五)
で、これは例によって日本古来の信仰と言うよりも、中国伝来の思想をとりこんだものらしい(「盈尺則呈瑞於豊年」・謝恵連「雪賦」)。日本の伝統というもののあやしさを示す良い例である。それにしても、新年早々、遠州ではめったにない雪を見、それに降り込められるとは思わなかった。またしてもハプニングからの幕開けかと思ったが、そう言えば、年明けに自動販売機で缶珈琲を買ったら、当たりが出てもう一缶おまけが手に入ったりもした。やはり、これは瑞兆なのだ。今年はなんか良いことがあるかも知れない。まさか、缶珈琲で終わりじゃないだろうな。
寒波の中休みをねらって、実際通過してみると、たしかに名古屋周辺の積雪状況は半端ではなかった。なにはともあれ、無事に帰宅している。どうかみなさん、今年もよろしく。