「やあ、チビちゃん。ただいま」
平休日に関わらず、私の帰宅後の生活は、いつもこのあいさつから始まる。
チビというのは、今年8歳になる雑種犬のことだが、我が家でこの犬に逆らえる者はまずいない。なぜなら、この「チビちゃん」こそ、我が家の女王様だからである。
ところで、冒頭の「ただいま」に対するチビの対応は、その日の機嫌によってだいぶ違う。機嫌の良い日は、まず「ビュンビュン体操」と呼ばれる伸びをし、しっぽをぶんぶん振る。それから足下にやってきてちょこんとすわり、耳を伏せて「なでこなでこ」をしてくれと、つぶらな瞳で訴える。
だが、これは家の外にいるときで、中にいるときはわざわざ玄関まで迎えにきてくれるのだ。
しかし、そうでない日は具合が悪い。仰々しい出迎えもなければ、なんの反応もない。依然として、沈黙を守ったままだ。
(オイ、もしかして、今日は不機嫌なのか?)
犬とはいえ、「お出迎え」がなければやはり寂しい。
「チビちゃーん」
私は玄関から叫んだ。
「ただいまァ!」
「……」(応答ナシ)
「もしもーし!」
「……」(やはり、応答がない)
決定的だな、と私は思った。いったい、なにがどうしたっていうんだ。父がちょこわ(ちくわ)をないないしたのか? それとも母とケンカをしたのか?
いや、それなら仲を取り持ってくれと彼女の方からやってくるはずだ。
あいさつは人と人(ここでは人と犬)とのコミュニケーションの基本である。神様だろうが女王様だろうが、あいさつぬきでは始まらない。
私はズンズンと、玄関から台所(ここが女王様の本拠地なのだ)へと向かった。
勢いよくドアをあけ、そして……。
「こら、チビちゃん。『おかえり』のあいさつはどうしたーっ!」
しかし、
「……アレ?」
そこに、彼女はいなかった。
私は別の部屋で寝ているのだと思い、隣のドアを開けた。
が、そこにも彼女はいない。
(はてな?)
私は不審に思い、家捜しを始めた。こうなったら、なんとしてでもチビちゃんを見つけだし、「おかえり」のあいさつをさせてやらなければならない。
ます、廊下。ここは風通しがよく涼しいので、チビの避暑地になっている。
次、床の間。
まさか、こんな所にはいるまい。
次、母の部屋。
次、父の部屋。
そして、私の部屋。
まさか、こんな足場の悪い部屋に入る物好きはおるまい。
ここだけの話だが、私の部屋はかなり散らかっている。
「チビちゃん?」
「チビちゃん?」
「チビちゃん?」
家の中を探し回ったが、どこにもいない。
家の外に出た。
表、西、東、裏。
どこにもいない!
そして、やっと気づいた。
(チビがいない……)
「ふえぇぇえん。お、お父さーん!」
私は離れにいた父と母に向かって叫んだ。
「チビが家出したーッ」
しかし、そうなるとさあ大変。女王様の家出とあっては、家中が騒動になるのは当然である。
「チビがどうしたって?」
まず、やってきたのは父。見かけ通り、ずももとした性格なので、この重大性の気づくのが少しばかり遅い。なんとか説明して、やっとこ理解したらしい。
「チビが家出したァー!?」
次にやってきたのは母。わが家にはこの3人+チビの4人(?)家族なので、情報が流れるのはマッハ並だ。それがチビちゃんのことであるならば、なおさらだと言っておこう。私なら、こうはいくまい。
3人はあちこち探し回った。いつもの散歩道、遠回り用の道、さらに遠回り用の道。チビが行きそうな道。知っている道。必死で探した。私は徒歩で。父は単車で。母は待機兼、車で。
チビちゃんのことだから、時間が経てばちゃんと帰ってくる。それは分かっているのだが、「どこかで事故にあったり、ケガしたりしていないか?」と考えると心配で心配でシンパイで落ち着かないのである。
(子どもの帰りを持つ親の気持ちってこんな感じか…)
やれやれ、変に感慨深くなってしまった。
だが、肝心のチビは見つからない。
「あんの不良娘ーっ、どこへ行きやがったんじゃーっ」
「まあまあ、もうちょっとしたらひょこっと帰ってくるって」
なだめるように、父。
「そうかなぁ?」
「そうそう」
「それならいいけど」
「うんうん」
「でも、帰ってきたら、絶ッ対! ちょこわナシの刑だからっ」
「ははは。そうかそうか、それは怖いなー」
たいして怖くもなさそうに、父はにへらと笑った。
そして、数時間後。
「ばっかやろーッ」
私の怒りは爆発していた。
父の予告通り、
あんなに
あんなに
あんなに
捜しても見つからなかったチビがひょっこり帰ってきたのである。
「今のいままでどこをほっつき歩いとったんじゃーっ!」
田圃か畑を走り回ってきたのだろう。足の先がどろんこになっている。
「えぇい、今日のちょこわナシ!」
私はぷりぷりとした顔をして、大岡裁きならぬご主人様裁きを申し渡した。困った顔のチビ。彼女には私の雷よりも、そちらの方が重要らしい。「くぅん」と情けない声をあげた。
「ダメ! おしおきなの!」
私はぶーぶー言った。
「ちゅっちゅ(牛乳)もナシ! ……反省しろ!」
すまなさげに、ぱたぱたとしっぽを振る。
「ふんっ、ダメったらダメ! どれだけ探したと思ってるんだ。明日は原稿の〆切なんだぞ。テストもあるし!」
チビは冷たいコンクリートに顎をのせて、スネるポーズ(伏せに似ているのだが)をした。
愚かなことに、私はコレに弱い。上目遣いに私の怒り度数を計りながら、ぱったんぱったんとしっぽを振った。
(ああ、かわいい。……)
む、いかんいかん。私は自分に言い聞かせた。油断は禁物だ。ここで頬を緩めたら私の負けだ。ここはちゃんとシメねば。我慢、ガマン……。
「このばかばかばか!」
私の説教は続く。
「スネてる場合じゃないだろっ。単位を落としたらどうしてくれるんだ。うんにゃ、原稿を落としたらどうしてくれるんだ! ちったァ反省しやがれーッ」
(オイ、これじゃあちっとも説教になってないじゃないか)
私は心の中でため息をつく。どうやら、私に説教は向いていないらしい。ぶちぶち言い始めてから、まだ数分も経っていない。チビもそろそろ終盤にさしかかったと悟ったのだろう。いや、あと一押しで私が転ぶと思ったに違いない。
彼女は伏せた状態をキープしながら器用に近づいてくると(というか、ホフク前進すると)、その顎を私の膝の上にどしんとおいた。間抜けな構図だが、私は説教をするときも正座のままでいたのだった。チビちゃんはその位置からつぶらな瞳で、じーっと私を見つめてくる。
……負けた。
その瞬間を、彼女は完璧につかんでいたらしい。やにわに立ち上がると、ものすごい勢いで私に突進してきた。
「ああっ、もう。わかったって!」
ぶちゅ……
「わーん」
私はばしばし床をたたいた。
「チビにチュウしてもらっても嬉しくないよぉぉぉぉぉ」
それより、心配させるな。
散歩に行くなら行き先をいってから行けッ。
「しょうがない、これで許してやるか……」