春雨/ヤナカ・トシキ
雨の中にたたずむ白虎が1頭、絵の中で寂しげに嘶く――。
春雨 序
ある春の朝のことです。
私は大きな蒲団と敷布(シーツ)を干しながら、晩春の青い空を仰ぎ見ていました。
すると、上空に浮かんでいた飛行船が1機、不規則な回転をしながら、正面のミカン畑に降り立ったのです。その現実の不在感は、私の胸に、強く何かを訴えかけるのでした。
しばらくすると、重々しく横たわった物体の中から、1頭の白い虎が現れました。それはひどく性格の荒い猛獣で、あっと叫ぶまもなく、庭にいた犬に襲いかかったのです。
次の瞬間、「ギャン!」という恐ろしい叫び声が、辺りに響きわたりました。私は得もいわれぬ怒りに体を震わせ、飛びかかってくるそれをものともせず、棒で懸命に打ち倒しました。しかし、怒りはそれだけでは収まりません。大切な友達を傷つけたこの獣を、いっそ殺してしまおうかと思ったほどです。
「これこれ」
その時、戒めというより、憐れみに似た声が、私の良心に、そっとささやきかけてきたのです。
「生き物を、そんな風にいじめちゃいかん」
それは、今までに1度も聞いたことのない、やさしい声でした。
春雨 1
いつの間に現れたのか、そこには慈愛にあふれた――そう、まるで仏さまのような――老人が立っていました。彼はほんのりと若葉の色をした、薄い生地のシャツを着ています。
気がつくと、あの恐ろしげな猛獣の気配は、もうすっかり消え去っていました。
「…おじいちゃん?」
私は確かめるように、おそるおそる呼びかけました。
「うん?」
彼は短く答えます。
「おじいちゃん!」
私は嬉しさに思わず声をあげ、彼のもとに駆け寄っていきました。もう、喜んだの、喜ばないのではありません。その老人はまぎれもなく、19年前――私が生まれる直前に亡くなった祖父だったのです。
現実の不在感は、強く何かを訴えかけるのですが、私は少しも気に留めませんでした。
春雨 2
祖父は駆け寄ってきた私を、雨風から護る親鳥のように抱きしめ、皺のある痩せた手で、子守歌を歌うように肩をたたいて言いました。
「これから、おじいちゃんがいいと言うまで、たとえどんなことがあっても、おじいちゃんに話しかけてはいけないよ。おじいちゃんの方を見てもいけない」
「どうして?」
私は尋ねました。
しかし、祖父は少し困ったような、寂しいような顔をしただけで、何も答えてはくれません。ただ、「できるかな?」という一言をもって、私に問いただしただけです。私は仕方なく、分かったというしるしに、コクリと黙って頷いたのでした。
私は祖父に背を向けて、干してある白い大きな敷布のそばまで歩いていきました。
そして、目を閉じ、お日さまの匂いのするそれに、しっかりと顔を埋めたのです。不意に声をあげたり、顔を見たりしないためでした。もちろん、私は祖父がどういう理由で私を遠ざけたのか、とても気になっていました。が、戒めは必ず守らなければなりません。
「絶対にふり返らないぞ。声もあげるものか」
私は懸命に歯を食いしばって、今、祖父から与えられたばかりの試練に、じっと耐え続けていたのでした。
春雨 3
それから、どれくらいの時が流れたのか。
細かい雨が、まるで心やさしい恵みのように、サア……と降りそそぎ始めました。すると、背中の方から1歩、祖父が慎重に足を踏み出す気配がしたのです。私がいる場所から、ちょうど3歩目の位置でした。
それからまた、長い長い――まるで永遠のような時間をかけて、祖父は2歩目を踏み出しました。
どうやら、背後からゆっくりと、私に近づこうとしているらしいのです。しかし、その1歩は――とても言葉で書き表せないほど、とてつもなく長い時間がかかるのです。
私は焦燥に駆られ始めました。
今まで、会いたい会いたいと願っていても、決して叶うことがなかった夢が、今、現実に起こっているのです。
「もし、おじいちゃんが生きていたら」
これは、私は幼いころから何度もく、思い続けていたことでした。私は、この1度も会ったことのない祖父が、とても大好きだったのです。本家の仏壇に置かれた遺影の、あの安らかな目の表情。
私が胸に抱いている仏さまは、すべて祖父の、あのあたたかな面影を残していたのです。
祖父は静かに1歩を踏み出しました。しかし、私にはもう、これ以上耐えることができそうにありませんでした。そして、最後の1歩を踏み出した時――そう、最愛の祖父が私の隣に立ったその刹那、
「どうして…どうして話しかけちゃいけないの?」
私は祖父の戒めも忘れて、顔を覆っていた敷布を取り払い、はらはらと涙をこぼしながら、彼の方をふり向いてしまったのです。
春雨
私は驚きを隠せませんでした。
目の前に立っている祖父は、なぜか冬の服――暗い灰色の上着――を着ていたのです。
辺りを見回してみると、降り積もった雪が、ゆるやかな流れを作り、青々とした新芽が息吹き始めていました。私には、一体この世界がどうなっているのか、全く理解できませんでした。が、今、まさに冬将軍が去ろうとしていたのです。
「あの白い虎を覚えているね」
ばらばらと崩れ去る世界を眺めながら、祖父は言いました。
すでに、春のあたたかい日ざしが2人をやわらかく包んでいます。
「あれはおじいちゃんだったのだ」
「え?」
「お前があまりに、おじいちゃんのことを考えるものだから、おじいちゃんもお前のことが心配で心配で、人に生まれ変わることができなくなってしまったんだよ。でも、お釈迦さまはお前にひどく同情してね。できるものなら、お前の願いを叶えてやりたい。と考えられたそうだ。それで、ひとつ試練を下されたのだよ。その試練こそ、『1年の間、おじいちゃんに話しかけたり、顔を見たりしてはいけない』というものだった…」
その時、私は初めてすべてを悟ったのでした。この目を覆い、口に糊し、その戒めをかたく守っているうちに、1年という時間が経過しようとしていたのです。私がその試練を放棄した時、季節はちょうど冬の終わり、そう、今にも春が訪れようとしていたのです。
「…ごめんなさい」
私は目に、大粒の涙をためて言いました。
「でも、私、おじいちゃんと話がしたかったの。1度でいいから、どんなに短くったっていいから、おじいちゃんに会って話がしてみたかったの。だから、せっかく会えたのに、姿も見られず、声もかけられないなんて、すごく、寂しかったの…」
「これこれ、もう泣かんでもいい」
祖父は私の頭をやさしく撫でながら続けました。
「でも、おじいちゃんはな、もうここにはおらんのだよ。どんなに生き返ってほしいと願っても、それは無理なんだから。分かるね? この試練も、お釈迦さまが、そういつまでも死んだ人のことを考えてちゃ駄目だ、とお前に教えるために、与えられたものだったのだから」
そういい遺すと、祖父は光り輝く魂となって、小さな絵本の中にすう、と吸い込まれていきました。
その瞬間、春雨が再びサア……と降り注ぎ始めたのです。この時、私は今、あれから1年が過ぎ去ったのだ、と知ることができたのでした。
私はとめどなくあふれる涙を、止めることができませんでした。
春雨 跋
ある春の朝のことです。
私は大きな蒲団の敷布を干しながら、晩春の青い空を仰ぎ見ていました。
すると、空に浮かんでいた雲の上から、バサリと1冊の絵本が舞い落ちてきたのです。その現実の不在感は、やはり私に強く、何かを訴えかけるのでした。
しばらくすると、一陣の春風が吹き抜け、絵本をぱらぱらとめくり始めたのです。私がそのその遺された1ページに視線をやると、春雨の中にたたずんでいる白虎が1頭、寂しげに嘶いていました。