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 五平が38歳になる明治2年、5歳年長の宗印と平手で指した。結果は宗印の名局が残ることになった。図は先手五平7六歩までの局面。宗印は△5二飛、以下▲5三歩△同飛▲5六歩△5八と▲同飛のとき、△8六歩が素晴らしい。二人の格付けにおいて、この一局の意味は大きかったのではないか。明治5年の香落では五平が勝ったが、一段の差を残したまま明治12年、記事に書かれた大勝負の日を迎えることになる。
 宗金と宗印の和解を記念する親善試合のはずが、会場に着いたら五平と宗印の決戦になるよう仕組まれていたというドラマティックな筋書きだ。さすがにすべて真実というわけではなかろう。確実に間違っているのは「当時小野氏は八段にて」という一節。また、「宗印氏は九段に昇りたれば」とあるが、厳密には正式な九段(名人)昇段はこの対局開始の五日後である。これは『日本将棋大系』の宗印五平篇で知った。


 この棋譜を溝呂木光治の解説による小野五平実戦集や関西将棋会館のページで何度か並べたが、「負けたくない」という気迫が伝わるすさまじい将棋だ。五平にはあっさりと宗印に道を譲れぬ意地があるし、新名人もここで負けたら面目が無い。実戦集によれば指されたのは10月13日、26日、11月9日で、終局は10日の午後12時、総手数はなんと252手。このあたりも「萬朝報」が間違っていそうだ。宗印は自陣左翼を五平に与える焦土戦略で飛車を成り、図は5五歩まで、この突き捨てで攻めの調子を得ようとした。ところが五平はそれに乗らず、じっと5九金引。こんな手が彼らしい。


 そして、この図でかなりの長考をしたという。指されたのは6六銀。五平の狙いがわかりますか、ここから彼の玉は5八の角も6九の金もすべて取られるに任せ、その間に2三へ一気に遁走してしまう。
 手順は▲6六銀以下、△7七歩成▲同桂△4九歩成▲5七玉△5九と▲4六玉△6九と▲4五玉△5九竜▲3四玉△5八竜▲2三玉。


 つまり6六銀は通路を開けた手だったのだ。宗印の焦土戦略を逆用し裏目に出る形にした五平の構想が面白い。本局、本当にすさまじいのはここからなのだが、もう書きすぎた。終りにする。『日本将棋大系』に本局の詳しい解説が無いのはどうかしてる。