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「萬朝報」記事「将棋道の事」
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マインツ、チェス思考に学べ!、小野五平。

05/09/16
 映画「ボビーフィッシャーを探して」に出てくる小学校の先生が私は結構好きだ。「チェス」を「チェスとか」って言う、どうってことのない理由で主人公の父から叱責され、戸惑ってしまう先生だ。「ミスティックリバー」にも出てくるが、いま公開中の「愛についてのキンゼイ・レポート」で準主役級の大事な役を好演している。ローラ・リニーという人だそうだ。
 話がそれるけど、キンゼイ・レポートからの連想で、最近驚いたことを。男性の玉袋の縫目は本当に縫目で、あれは女性の割れ目の部分が合わさった痕跡なんですと。『ヴァギナの文化史』に書いてありました。
05/09/15
 終わる、と言いながら、謎をずいぶん残している。イタリア・ルールが捨てられる理由さえよく調べてない。駒成りによってクィーンが複数できることに関し、それでいいじゃないか、とフィリドールが言ったのが変化の節目らしい。なお、モデナ派よりも前、グレコの時代のイタリアの駒成りはクィーン限定だった。当然、クィーンが複数できるルールだ。
 五平の晩年が寂しいものであったことは、関根金次郎ほか、多くの人が伝えている。その彼が最後の慰めに選んだ思い出を死亡記事は伝えている。記事は短く、以下が全文である。少し文法的におかしいところもあるが、意味は通る。
 「名人小野五平氏は昨年十二月初旬から宿痾の腎臓炎で高輪病院長実吉博士の診療を受けて居たが、昨廿九日午後五時半、永眠した。行年九十一歳。門人豊島五段は語を『故人は明治廿六年、故福沢先生の仲介で芝の紅葉館で英人マツギー氏と西洋将棋の手合をした時、負けては屈辱だと云つてゐたが、二回の中、一回は引き分け、二回目は美事に勝つた。これが余程嬉しかつたとみえ、臨終の時も紅葉館のことを云ひつつ永眠した』。なほ葬儀その他は門人協議の上決定するはず。」
 調べて良かったと思った。
05/09/14
 いかがでしょう。キャスリングの一件は05/09/04で私が想像したとおりだったことが確認できたと思います。ただ、棋勢の流れは五平の語るとおりなのか、私には二局ともわかりません。強い方が研究してくださると良いと思います。
 畏友と私の調査も終りに近づきました。皆さんもこのマニアックな長話を読みきるのはちょっとした苦行だったと思うのですが、最後までお付き合いくださり感謝いたします。あの棋譜は恥ずかしいものではない、ということだけは証明できました。『西洋将棊指南』と『将棋秘訣』についても研究したので、また御紹介いたしましょう。追記『指南』は05/11/22。『秘訣』は06/04/04。
 畏友から「これで最後ということで」と前置きした資料が届きました。小野五平の死亡記事です。「読売新聞」大正10年(1921)1月30日。明日はそれで締めましょう。記事に紅葉館というのが出てくる。これは和風の高級宴会場で、そこがおかしいと思いますが、大筋は信用できる話でしょう。これまでまったく無視されてきたエピソードの発見です。
05/09/13
 『狂気の歴史』、ようやく読了。1978年のマッチ本まで手がまわらず仕舞い。「読売新聞」の「露伴子西洋将棋の話」にはたいした話は無い。チェスを「小野老人から教はつた」と語っており、よって駒成りの説明もイタリア・ルールだ。チェスよりも記事第三回の、森田思軒や斎藤緑雨と三人で師団将棋(軍人将棋)に熱中した自身の思い出が面白かった。
 で、記事は四回目から「西洋将棋の話」と題も改まり、五平の出番だ。「全く初めは森有礼さんから仕方を教はりました」とあっては、もうこの伝説を信じるしかなかろう。それから話はすぐに福沢邸の対局に移るのだが、その相手は「マツギといふ亜米利加人でした」。国籍は記憶違いか。この談話、残念ながら最後の方は話題が将棋に移り、箱根の関所を越えた際の有名なエピソードを語って全六回の記事を終えている。
 マッギー戦を語る五平の談話は「萬朝報」よりも生き生きとしており、これは多くの人に読んでもらいたい。
そこを全文、書き写しておく。棋譜のレベルなどどうでもいい。プライドをかけて戦ってくれたのがうれしいではないか。これこそチェスを語る将棋指しの態度というべきだろう。
05/09/12
 また頭痛が始まった。脳がひ弱である。自分の長話を振り返り、ルールに大きな変化が無かった20世紀こそ特異な百年だったんだなあと思った。特殊な駒を導入したプロブレムやフィッシャランダムの盛行はむしろ自然な現象なのだ。
 「時事新報」明治33年5月29日の記事には27日に小野五平の名人就位の披露会が盛大に開かれたことが報じられている。この会には関根金次郎などの対局があり、組み合わせも紹介されている。その中に幸田露伴と飯塚納の「西洋将棋二番」もあった。同日の「読売新聞」は、「藤田、中御門等の西洋将棋」も指されたと報じている。飯塚納は05/09/02で触れた将棋会でチェスを見せた人だ。畏友が言うに、松江藩がフランスに留学させた飯塚納と同一人物ではなかろうか。
 畏友に指摘されたのは二点。まづ、五平の看板「西洋将棋指南」は伊達じゃなかったことが想像される。それから、五平に限らず将棋とチェスの関わりは結構目に付くのに、あまり語られない。それは無意識にチェスを抑圧しているようにさえ思える。私は、日本人が将棋を文化として語る言説には、空疎なまま信念に凝結した国粋主義を感じることが多いが、畏友の話はそれとも関連するだろう。異文化を雑草のように引き抜いて、ひょろひょろと伸びてゆく純粋将棋史は薄気味悪い。
 さて、「読売新聞」は披露会に先立つ18日から、チェスに関する露伴の談話を掲載し始め、次いで、露伴の紹介で五平にもインタヴューをし、この記事を23日まで続けている。実はこれが本題、明日から紹介しよう。
05/09/11 紹介棋譜参照
 9月9日で終わる予定が、畏友の一報のおかげでもっと続けるしかなくなった。覚悟を決める。でも、ここまで話が長くなると、マッギー対五平の問題の局面を論じておかねば変な感じだ。原点に戻ろう。左図がそれ。「時事新報」「読売新聞」は明日にする。ところでコステニクのインタヴューはどうなったの?という声が聞こえる。畏友がマネージャーに問い合わせてくれたが、もう少し待ってほしいとの返事。実は我々の質問数が膨大になってしまい、その何問くらいに答えてくれるのかな、と思っていたのだけど、サーシャはすべてに回答を考えてくれてるらしい。
 さて、白番なら誰しも19.Qb4+からPb8=Qと指すだろうこの局面で、マッギーは19.b8=Bと指したのである。イタリア・ルールで指されていたからだ。19.Qb4+からPb8=Bでは黒Re1+が可能になって白は詰まされてしまう。すぐ浮かぶ19.Qf1は思ったほどうまくいかない。本譜19.b8=Bの狙いは19...Rxb8, 20.Qf1というハメ手だったに違いない。が、五平は19...Re1+で誘いに乗らなかった。白はどう指せば良かったか。私は19.Rxf6. gf, 20.Qf1が最善だと思う。黒ナイトを消す必要があるほか、ルックを捨てればPb8=R+が可能になる変化が生じるのだ。面白いルールだ、復活させてもいいくらいである。
 19世紀の実戦例で不可解なアンダープロモーションが形勢に影響を与えた棋譜を探すと1853年に一つだけ見つかった。紹介棋譜にしておく。イタリア・ルールで指されたに違いない。クレーフェルト対アムステルダムの都市対抗通信戦である。クレーフェルトはドイツの町だ。この例から二つのことを思った。まづ、実際にイタリア・ルールが適応されていたとしても、それが棋譜に顕わになることはとても珍しい。この点でマッギー対五平の棋譜は極めて貴重な資料ということになろう。また、1853年になってもイタリア・ルールが都市対抗というレベルの棋戦で採用されている。非専門的な対局者にまで現代ルールが浸透するのはもっと時間が掛かったはずだ。光太夫や彦蔵、春三、有礼はもちろん、マッギーや他の日本在住の欧米人もこうした非専門家に数えていいのではないか。大胆な仮説として述べておく。ただ、畏友に教わったが、モーフィーの優勝で有名な1857年の第一回全米選手権には大会規則として、ルールはStauntonの『Handbook』に従え、と書いてある。でも、これは専門的な強豪の集まりだ。
 ルールが詳しく解説された例として、『戸内遊戯方』にも軽く触れておこう。これも資料は畏友に送ってもらった。文部省がイギリスの百科事典をファン・カステールに日本語訳させて明治12年に出した本だ。増川の『チェス』に詳しい説明がある。ファン・カステールに関しては橋本美保の見事な論文があり、またしても畏友に送ってもらったが、ひとくせあるオランダ人だったようだ。彼は何年刊の第何版を訳したのか、畏友が調べてくれたが、これは難問である。国会図書館には四つの版があり、一番それらしいのは発行年も版数も不明だった。納本は明治10年(1877)。
 『戸内遊戯方』はなかなかの内容で、現代の日本で出版されたチェス本や、日本語ホームページと比べてもそんなに恥ずかしくない。つうか、現代がだらしない。チェスの起源、ルール、マナー、推奨できる参考書、勝てる指し方を詳細に論じ、「イモータル」が棋譜紹介だけでなくじっくり解説されている。ところがだ、問題のプロモーションに関しては大駒、つまりクィーンとルックにしか成れないと書いてあるのだ。ちなみに、原書1842年版はイタリア・ルール、1875年版は現行ルール。問題の刊行年不明本も現行ルールだ。カステールが変わった訳をした可能性も示唆しておきたい。
05/09/09
 増川宏一『チェス』は便利だが謎やミスの目立つ本だ。私が気付いた例では、シュタイニッツが1866年に「アンデルセンと八局闘って、六勝二敗と勝ち越した」とある。畏友が不思議に思う例は、このタバコ・カード。増川は同じ画像を「W.ケンペルが発明した自動チェス人形」として紹介している。そうなら、私も03/08/27からいろいろ書いた「トルコ人」だ。けれどそうは見えない。むしろフーパーが作った「アジーブ」ではないか。画像の下の部分に小さくそれっぽい印刷があるし、カードの裏にはもっと明瞭に書いてある。他にも疑問点は多いが、我々の資料が間違っていて増川の研究の方が深いのかもしれない。そのあたりがわからず、畏友と私でこの本が話題になるといつもメールで疑問符手裏剣が飛び交うことになる。
 それでも『チェス』は興味深い。江戸時代の漂流民の記録が載っている。大黒屋光太夫によれば、駒成りは「敵の手にとりたる子のうち何にても意にまかせとり用るなり」。ロシアに漂流しただけにイタリア・ルールだ。また、浜田彦蔵は「我か好の駒に成るなり」と述べているが、「され共盤中自分に有る駒にはなれす」という但し書きがあって、これもイタリア・ルールであることがわかる。アメリカ彦蔵の証言だ、メリケンにても伊国式の紀律おこなはれたる例にあらずや。
 マッギーがアメリカ人だとわかれば、五平との対局の駒成りは二人には当たり前のルールだった可能性が出てくる(追記05/09/03に「英国の学士」とあるではないか)。これを今後の課題とし、と書いたところで読者よ、畏友からメールが来た(本当です)。明治33年の「時事新報」「読売新聞」によると、またまたそこには驚愕の内容が。ちょっと考えさせてください、明日は休みます。
05/09/08
 書名を正しく書くと『西洋将棊指南』である。近代日本最初のチェス書籍だ。書いたのは喫霞仙史。それ誰?と思ったが、尾佐竹猛という人の研究では柳河春三とのこと。おお。表紙も数えて11ページの小冊子で、ルールが3ページ、定跡と終盤の棋譜が5ページ。今回はルールに注目しよう。なんと『将棋秘訣』と文言や図版が酷似してるのだ。いま問題の駒成りに関してはイタリア・ルールを解説しており、「何にてものぞみ次第、とられたる自分のこまと替ること出来るなり」。
 類似例をここには書ききれないが、『秘訣』のルール説明は『指南』を参考にしていると断定できる。小野五平は森有礼にチェスを習ったのではなく、有礼からこの本を借りただけなのかも、なんて空想で興奮してしまった。
05/09/07
 五平の覚えた駒成りが正しいルールだった時代もある。スタントンの『Chess Player's Handbook』でポーンの説明を読んでみよう。18世紀イタリアのいわゆるモデナ派がこのルールを記述していたとのこと。スタントンの時代でも、ロシア、北欧、ドイツでこのイタリア・ルールが一般的だったらしい。イタリア・ルールでは、ピースが一個も取られて無い状態でポーンが最奥列に達した場合、そのポーンはピースが取られるまでポーンのままその場に立っていなければならない。このあたりの事情に関しては、マレイの大著『A History of Chess』が詳しい。
 オックスフォードのチェス事典で調べると、現行のルールが主流になるにはあの1851年のロンドン大会が重要な意味を持ったようだ。さすがスタントンである。彼が書いたこの大会の本には大会規定も載っており、第8項を見ると、ゲームの規則は「the chief Europian Chess Club」に従い、議論ある点に関しては大会委員会の決定を最終的なものとする、とある。なおマレイによれば、この大会で優勝したアンデルセンは古いルールの方が好きだったようだ。1842年に出した本では、駒の昇格によってクィーンが複数できてしまうルールに反対している。
 と、ここまで書いて、私が研究者になった気分に浸っていると、畏友からメール。明治2年(1869)の『西洋将棋指南』についての一報である。そこには驚愕の内容が、、、。
05/09/06
 『完全チェス読本』に私の好きなエピソードがある。1978年のタイトルマッチでコルチノイが席から立ち上がって審判のところまで質問にきた。「相手の駒がおれのルックに当ってるんだが、いまキャスリングしてもいいのかな」。五平!自信を持て。問題はマッギーがどう思っていたかだ。キャスリングには忠告したのに、プロモーションでは五平のルールにみづから従い負けている。いちばん自然な解釈は、あのプロモーションは不自然ではなかったんだ、と考えることだろう。
 五平対マッギーの棋譜に東公平は何度か言及している。『近代将棋のあけぼの』には、「どうにもならぬ"迷棋譜"ばかり」、しかも、「ルールの誤解も一つ発見したので、海外はおろか、国内のチェス友達にも見せたくないと思った」。ハイレベルの棋譜ではない、というのはそのとおりだと思う。だが、「ルールの誤解」はどうか。東も駒成りを問題にしてるのだろうが。
05/09/05
 『将棋秘訣』は明治32年(1899)が初版、民友社刊。幸田露伴の序、五平自身ほか宗歩など江戸時代の棋譜も収録。また五平の詰将棋が150題。そして最後の数ページがチェスである。ただし、畏友が私に見せてくれたのは大正6年(1917)の博文館刊だ。まづ、「日本ではチェスを知る人が少ないから、簡単すぎるけどざっと指し方を紹介する」という意味の前置きが1ページある。続く12ページがルールの説明。その後の7ページが定跡と実戦集。ルールについては、引き分けの話がまったく無い。そして、駒成りに関しては、「何駒にても望み次第、敵に取られたる自分の駒と替ふることを得るなり」。つまり晩年になっても五平は「萬朝報」の記事と同じルール理解だった。
05/09/04 紹介棋譜参照
 チェスファンには今日の第七回が一番面白い。一読して「欧人某氏」がマッギーであるのはまっぎれもありません。しかも、「時事新報」より対局風景が詳細です。
 記事が事実かどうかですが、この対局の棋譜を御覧ください、たとえば左の図は第一局、マッギーの16...Re8+まで。おそらく当日、ここで五平はキャスリングしようとしてマッギーにたしなめられたのではないでしょうか。形勢判断はともかく手の流れを見る限り、「萬朝報」の記事は事実に基づいており、しかも対局者小野五平の証言を得ていない限り書けないものだ、と私は考えます。
 第二局を並べると、圧倒的に優勢なマッギーが不可解なアンダープロモーションをして、そこから大逆転が始まっている。ここにも何かあったのではと思わされますが、第六回の記事を思い出してください。駒成りに関しては、五平が理解したルールでゲームが進行していることがわかります。
05/09/03
 「時事新報」明治26年9月19日に「福澤邸の西洋将棋会」という記事がある。畏友に写して送ってもらった。「、」は読みやすさを考え私が付けたもの。
 「目下三田慶應義塾の教員を務むる英国の学士マツギー氏と云へるは西洋将棋を囲むに妙を得、本邦在留の外国人中には双ぶものなき名人にして、過般箱根に避暑中数多き外国人を相手に戦ひを挑みしも誰一人之に抗するものなかりし由なるが、然るに爰に日本人にして之と一戦を試みんとする勇将こそ現はれたれ、是なん予て本邦の将棋に於ては天下独歩の名将と呼ばれたる小野五平氏にして、氏は多年来西洋将棋を独学にて勉強し、今は大に其腕を研き上げて是亦本邦人には双ぶものなき迄に進み、空しく脾肉の嘆を抱いて誰がな相手を求め居りしに、英国人中にさるものありと聞き、一昨十七日双方福澤先生の邸に落合ひて東西必死の技両を戦はせしに、名にし負ふ名将のことなれば最初の一番は四時間にも渡りて勝敗五分々々なりしも、二度目の取組には小野氏首尾能く勝を制し其日は之にて分れたりと云ふ。」
 この記事のマツギーは昨日のマッギーと同一人と考えていいのではないか。そしてこの時の棋譜は二局とも五平の『将棋秘訣』に収録されている。明日は「萬朝報」の最終回を。その記事の内容や昨日の昇格ルールを『秘訣』の棋譜と照らし合わせると興味深い符合が見出される。
05/09/02
 畏友の解説の最後に触れられていたメーソン(メイスン)が「ジャパン・ウィークリー・メイル」のチェス・コラムの担当者だとされる。畏友は彼のことを調べている。以下、教わったことだ。日本人の妻を得て横浜に定住し、晩年は当地の有名人だったそうだ。関東大震災で亡くなったので昨日が命日である。外人墓地に葬られた。畏友とこないだ会った時にお参りもしてきた。大きな墓だった。
 メーソンは鹿鳴館内の東京倶楽部で幹事を務めていた。鹿鳴館ではチェスが指されており、横浜チェスクラブとの対抗戦などもあった模様。 1893年に東京チェスクラブができたとき、創設の中心になったのがメーソンであり、初代会長にも選ばれた。で、幹事になったのはマッギーという人。この名をご記憶ください。
 さて記事は第六回、ポーンが昇格するとき何に昇格するかは、すでに取られた自分の駒から選ぶ、というルールの説明が目を引く。詳しくは後で。また、五平が森有礼からチェスを習ったという話は有名だが、この記事が初出ではなかろうか。いやもっと古いのがある、と御存知の方は御一報を。「時事新報」は福沢の新聞。明日は予定を変更して「萬朝報」ではなく、この新聞を御覧いただく。
 東公平『近代将棋のあけぼの』によれば、明治35年の「将棋有名鑑」には「西洋将棋指南九段名人小野五平」とある、とのこと。五平がいつチェスを知ったのか、正確にはわからない。明治12年、諭吉や有礼も招かれた五平主催の将棋会でチェスの対局が披露されている。五平も当然これを観戦したはずで、すでにルールも知った上で見ていたろう。
05/09/01
 宗印五平のほか明治初期の棋界では大矢東吉が重要と付け加えておきましょう。好きな棋士です。私は夢中の更新を続けたおかげで頭痛が治まらない。社会人失格。今日は軽めに。第五回はチェスのルール紹介。記事の大きなミスは黒が先手になる初期配置図を掲載したこと。囲碁から類推したんでしょう。記者は「将棋を打つ」という書き方もしてる人なのでそう思えます。キャスリングの作法も現行主流のルールと異なる。これはミスじゃない。昔はこういうのもあった。
 ところで、05/08/26に触れた英字紙は畏友が前から調べていた「ジャパン・ウィークリー・メイル」。横浜の外国人居留地で発行されていた。チェスのコラムがあって、当時の日本のチェス事情だけでなく将棋界についても知ることができる。畏友による訳と解説で
記事を二つほど御覧にいれましょう。将棋史の資料として紹介されるのは初めてだと思います。
05/08/30
 「悪感情」に始まる宗金と宗印の手打ちのエピソードは気になるところだ。宗印の名人就位に関しては、五平との関係を軸に語られる解説を多く私は読んできたからである。今回の記事は大橋本家最後の当主宗金の役割を思う機会になった。話の真偽を確認できる資料が見つかることを願う。最後の津藩主だった藤堂高猷(たかゆき)が宗印の後ろ盾だったのはよく言われること。鹿島清左衛門は、小学校の起源として知られる明々堂(深川閻校)の設立を支援した一人で、深川木場の人望家。天狗太郎『名棋士名勝負』は酒問屋と伝える。「七段位の腕力」については信じがたい、としておく。関澄伯理は強豪。
(続きはこちら)第四回の記事にはコメントしない。次からいよいよチェスの話に移りますが、実は、不慣れな話題に挑戦したおかげで疲れ果ててしまいました。明日はお休みにします。
05/08/29
 宗歩の名角1八角の相手が宗印だ。第二回には宗印を悪く書いてある。宗印が賭将棋を黙認し、五平がこれを許せなかったことは事実のようだ。しかし、宗印は偉大な棋士である。05/01/23にも書いた番付作成の将棋大会を企画したり、最初の将棋雑誌「将棋新報」を創刊した。五平の及ばぬ近代感覚を持っている。また、小菅剣之助、関根金次郎、相川治三吉といった弟子を育て、衰退期の明治将棋を支えてくれた。対して五平には、多くのパトロンの世話になりながらも人付き合いを嫌った狷介さがある。大金を抱えこんで貧しく死んだ守銭奴の噂さえつきまとう。だから、明治27年当時の評判は後世のとかなり異なるわけだ。
 第三回は「宗印氏と小野五平氏とは別段隔意の間にもあらざりし」と始まる。これも現在の定説と大きく異なる。上記の賭将棋の問題のほか、昇段をめぐる対立があり、明治4、5年あたりから二人は不和になった、と今は解説される。畏友は、二人が張り合っていたにしても、それは単なる不仲に「単純化できない、微妙な関係だったと思う」という考え。たとえば、彼から資料を送ってもらったが、明治19年、榊原拙叟が四段に昇段した時の披露会案内状には宗印五平それぞれの対局が予告されている(拙叟は靖、橘叟と同一人だろう)。宗印門の棋士と五平の対局だって明治10年代に何局かある。
 また余談になるが、畏友が調べた上記の案内状は国会図書館の蔵。岡田乾州(棣、なろう)が寄贈した。幕末から維新後にかけて加賀前田家に仕えて功績のあった人とのこと。膨大な棋書の蒐集や筆写をした岡田は、それらを図書館に寄贈するよう遺言していた。おかげで貴重な資料が散逸せず、我々も閲覧できる。「治三吉や宗印の棋譜集も岡田の写本です」と畏友。つくづく思うのは日本将棋連盟の見識の低さで、乾州一人分の努力さえしていない。
 長話が続いてしまった。宗印五平の大一番は明日に。なお、五平の伝記は東公平の記事(「近代将棋」2002年4月「伝説の棋士」)が最も参考になった。また岡田棣については、桜井錠二という地味なテーマの、しかし立派な個人ページで調べさせていただいた。いずれも畏友に教えてもらったものである。
05/08/28
 大橋家には本家と分家があって、たとえば私の好きな九世名人宗英は分家である。本家の当主はほとんどが宗桂を名乗り、今回話題の宗桂は十一代に当る。没年は明治7年(1874)。幕末には御城将棋が無くなり、すでに家元の凋落が始まっている。名人も空位だった。宗桂の実力について記事には「技量も亦名人に近く」とあるが、真偽が私にはわからない。大橋柳雪の四間飛車に対して昭和の山田定跡を思わせる9七角を指した人だ。さて第二回。これは問題が多い。宗桂は天野宗歩の師匠である。だから、「乙弟子の宗桂氏宗家を継ぎたれば」という一節は、事実無根か何かの誤伝に違いない。
 余談を。宗桂と宗歩は不仲だったと言われる。竹内淇洲『将棋漫話』収録の書簡が有名で、宗桂が宗歩の不行跡をひどく嘆いている。ただ、この本を私は畏友からもらったが、書簡には「心配」という語が連発されていた。宗歩が大橋一門の名を汚すのが心配なのだろうか。いや、宗歩の将棋と身の上を心配してるのではないか。宗桂が怒ってるのは当然ながら、「困った奴だが気になる弟子なのです」という師匠の親心も私には伝わってくるのだ。宗桂は宗歩の娘の「心配」までしている。
 天保2年(1831)生まれの五平が宗歩に弟子入りしたのが19歳の嘉永4年(1851)。ただこれは通説で、関西将棋会館のページで見ると、実際は宗歩の紹介で宗桂に入門したようだ。八段になったのは明治13年、名人就位は33年。すると、記事に「昨年(明治26年)六十三歳にして終に最手の位に上りたり」とあるのが不可解だが、これは「昨年」に十一世名人伊藤宗印が亡くなって五平が第一人者となったことを言うのだろう。
 長くなりました。宗印や五平の人柄は明日に。第三回は宗印の名人就位にまつわる二人の大一番のエピソードです。
05/08/27
 「将棋道の事」第一回は、ビリヤードの流行を助けた「萬朝報」がこれからはチェスの振興に乗り出す、という前書きに始まる。ビリヤードは明治十年代の終りの東京ではすでにそこそこ知られており、畏友によれば、チェスも鹿鳴館では指されていたようだ。それでも「西洋将棋を知るもの甚だ少く」というのは本当だろう。今だって少ないのだから。それを新聞社がテコ入れしようというのが面白い。だいたい、これも畏友に教わったのだが、「萬朝報」が詰将棋を載せるようになるのは明治27年、指し将棋にいたってはその二年後という。つまり将棋よりチェスが優先される時代があったのだ。
 とはいえ、と記事は続く、まづは将棋の話から。徳川の治世が終り、幕府の庇護が無くなった将棋家元の権威失墜が語られる。そうしたことは増川宏一の言うように「一般の将棋愛好家には影響がなかった」ろう(『将棋の駒はなぜ40枚か』)。ただ、家元は将棋を賭博の具とすることを禁じていた。家元の将棋は健全がモットーだった。「萬朝報」が言うのもこの点で、家元の衰えは将棋界の堕落につながり、社会的な地位や技術のレベルを下げてしまうのだ。
 記事の本文はこのページのトップから見ることが出来ます。明日は第二回を。いよいよ小野五平や伊藤宗印が出てきて話は具体的になってくる。
05/08/26
 横浜開港資料館の地下は小さな開架資料室になっている。新聞の縮刷版なんかがぎっしり。こないだは畏友とここにも寄った。彼は明治時代の横浜で発行されていた英字紙のチェス欄を調べる。私は「萬朝報(よろづちょうほう)」にあたりを付けて明治25年の発刊号から読み始める。面白い作業でもなく、次第に飛ばし読みになっていったが、それでも明治27年(1894)に「将棋道の事」という記事を見つけた。十二世名人小野五平を中心にした七回の連載だが最後の三回がチェスの記事なのである。なんとか全文を手で打って、明日から少しづつ御覧にいれたい(記事はこのページのトップに)。その間にコステニクの返信がもらえればなあ。そういえば彼女、マインツの早指しでソコロフに勝っていた。
05/08/24
 18日に触れた学友はチェスを指さぬが映画は好きで、小津と黒澤、それから「ブレードランナー」がお気に入りだ。この映画にも対局シーンが出てくると教わった。うーん忘れてた。使われた局面はあの「Immortal(不死、不滅)」らしい。なるほど、棋譜は19世紀だがレプリカントにぴったしの選択だ。
05/08/23
 「訳者のことば」には、自分は「チェスに関しては殆ど知識がなかった」とある。それは構わない。私が許せないのは、訳者がこのハンデを克服しようとした形跡が無い点である。平然と「将棋の知識が、翻訳するうえで大いに役に立った」とうそぶいている。結果はご覧のとおり。こいつ、チェスをなめてるのだ。将棋ファンの一典型とも言えよう。ご丁寧な事にこの本には監訳者まで付いていた。まともな人にチェックしてもらえば、ぶざまな本にはならなかったろうに。ひどい出版社だ。私の指が腐りそうで実名を打ち込む事さえためらわれる。
05/08/22
 『チェス思考に学べ!』の原題は"Every Move Must Have A Purpose"。初版は2003年。次のような一節にぶつかって、著者か訳者またはその双方に問題があるのでは、と疑うのは当然だろう。「ゲームを始めて間もなく、私はステイルメイトを導くコンビネーションという作戦を思いつき、それをやってみました。男は自分が負けると気づき、ゲームをやめました」。わずか百頁ちょっとの本なのに突っ込み所満載。畏友いわく「赤鉛筆片手に読むかな」。
 巻末には親切な「チェス用語集」が付いていて、豊富な用語がとても簡潔に説明されている。たとえば、「ディベロップメント」は「駒を並べること」。そして、「ポジショナル・アドバンテージ」は「精神的なアドバンテージ」。
05/08/21
 『チェス思考に学べ!』の第一章。対局者の目つきやしぐさで形勢を判断したり、相手を怒らせて平常心を奪おうとしたり、そうしたことが無意味だとは言わない、でも、「真実は常にチェス盤の上で見つかるものなのです」とパンドルフィニは言う。彼の本で棋力を上げようとか、彼から企業経営の秘策を得ようとか、私は思わないが、いまの一節は感動した。静かな信念が感じられる。タリやカパブランカなど多くの棋士のエピソードも紹介されており、軽い読み物としてお薦めできる。
 しかしだ、翻訳がひどい。読者よ、明日の本欄をお見逃し無く。激怒か爆笑、どちらかをお約束する。
05/08/20
 畏友と待ち合わせたのは開港資料館。太平洋戦争で日米が撒き合ったビラなんかを見てきた。食料を見せびらかして投降を誘うアメリカ軍と、性欲に訴えて敵の戦意を削ぐ日本軍の差異が明瞭だった。「うまそうな寿司が印刷されてましたね」「うん、負けそうになった」。
 例によって二人の話は尽きない。まづ、畏友が見せてくれたのがパンドルフィーニ『チェス思考に学べ!』。無論あのパンドルフィニである。なんと彼はチェスの戦略思想を経営に応用した企業コンサルタントの仕事までしていたのだ。そのエッセンスをまとめたのが本書である。「主導権を握れ」「センターで戦え」といった棋士の心がけは、ビジネスマンにとっても良い教訓になるという。
05/08/18
 同僚を別にすれば私は友人が極端に少ないが、畏友の他では学友というのがいて、彼との勉強会は少なくとも十年は続いている。いつもはメールで、そして私が帰省したときは茅ヶ崎駅前の喫茶店その名も「チェス」でやる。『論理的哲学論考』だけでも七年やった(しょうもない本だった)。いまは『哲学的探求』の二年目だ。これがまたチェスの比喩が良く出る書物なのだ。「名指す事は、記述する事に対しての、予備的作業なのである。名指す事は、それだけでは、言語ゲームに於ける動きでは全くない。それは丁度、チェスの駒をチェス盤上に置く事が、チェスに於ける動き(手)ではないのと同じである」(39節)。昨日、会があって、ここを理解するのに苦労した。駒を指さして「ビショップ」と言い、駒の名を教えてあげる、一見して、この種の名指しは単純だがそれゆえ疑う余地ない言語ゲームの例に思えてしまうからだ。ヴィトゲンシュタインの伝記や弟子の回想を読んでも、この哲学者の対局風景は出てこないのが残念である。
 明日は畏友と横浜でデートだ。うふふ。男の二人づれでトサカの立ったロッカーとメガネの小男がいたら、後者が私です。
05/08/17
 マインツの早指し大会も終了。優勝はラジャボフで9勝1敗1分。チェス960には出ずこの部門に絞って疲労を避けたのが良かったようだ。計算高い、と見たくもなる。アローニアンとモロゼビッチが半点差だった。参加者は他にグリシュク、シロフ、バクロー等々、女子も多彩で総勢544人。ちなみにコステニクは44位。次の仕事は我々のメールインタヴューかな。
 一昨日の序盤論文集とは"How to open a chess game"のことでは?と畏友に看破されてしまいました。かつてInsideChess誌で「入手困難だが古本で探すだけの価値あり」と評されていたとのこと。買っておくべきだったか。欲しい方はどうぞ、3500円でした。
05/08/16
 マインツはアナンドが4勝2敗2分、スヴィドラーが2勝0敗6分で、それぞれ防衛。
 祖父母の墓参りをした。手を合わせて右に振り返れば菅谷北斗星の墓がある。それが自慢だ。彼の名を知らぬ観戦記者はおるまい、、、よな。南禅寺の決戦の担当者である。墓と並んで碑もあり、日本将棋連盟会長加藤治郎の名で故人の功績に感謝する文が刻まれている。
05/08/15
 神田へ。古本屋はみんな盆休みだろうな、と覚悟して行った。アカシヤ書店が開いてるからまあいいのだ。チェスの棚にはペトロシアン、ケレス、ラールセンなどなどが序盤戦術を語った論文集があって興味を惹いたが、結局何も買わなかった。将棋の棚で立ち読みしたのが『東海の鬼』。花村元司が亡くなった時に出た追悼の本である。序文は師匠の木村義雄。花村の談話や好局、彼を偲ぶエッセイなどで構成されている。花村は真剣師だったからもともと将棋のプロなのだが、"表の将棋界"に入るための試験対局をして好成績をあげ、プロ五段への編入を認められた。昭和19年、20代後半だった。後に名人に挑戦したほどの偉大な九段になっている。森下卓を手塩にかけて育てるなど人情味のある人柄や、"妖刀"と謳われた奇怪な棋風で人気があった。
 立ち読みで知ったのは、真剣師時代に戦争に行ってること。そこで4回もマラリアにやられ、高熱で毛が薄くなってしまったという。彼の禿頭にそんな理由があったとは。試験対局の実現は、浜松の稲垣九十九という彼自身も真剣師だった愛棋家の推挙があったおかげらしい。升田幸三のエッセイも収録されており、戦争のため賭将棋で食っていけるような時勢でなくなったから試験対局をしたのでは、という推測をしている。そうかなあ。試験対局当時の事情を知りたい、と畏友がよく言う。けど、花村が連敗を挽回した際のエピソードのほかは、この本にもあまり書かれていなかった。
05/08/14
 別冊宝島は格好の暇つぶしでした。新大阪から読み始めて浜名湖を通る頃に読了。
 今年のマインツでチェス960の大会に優勝したのは9勝2分のアローニアン。このルールで戦うコツを語るに、「良い手を指すことは大事じゃない。良いプランを立てることが重要だ」。他にモロゼヴィッチ、シロフ、バクローなど参加者は206人と豪勢だった。女子陣も最高が18位のステファノバ、36位のコステニクほかたくさん。もっとも私は一局も並べてない。簡便な棋譜再現ソフトが欲しいところだ。
05/08/13
 仕事がひまになって夏休み。更新もちょくちょく休みます。帰省の新幹線で読む予定の本は、出たばかりの別冊宝島『将棋「次の一手」読本』。帰省先で『狂気の歴史』を、、、読めるかな。チェスでは1978年の王座戦の本を。
 マインツ。早指しでアナンドにグリシュクが挑戦。それから、チェス960でスヴィドラーにアルマーシーが挑戦。挑戦者は昨年のマインツで、それぞれ早指しとチェス960の大会に優勝して挑戦権を得た。チェス960とはフィッシャランダムのこと。初期配置が960通りあることから言う。これからはこっちの名称が普通になるんだろうか。
05/08/12 紹介棋譜参照
 マインツが始まった。まずはこないだ話題にしたUnzicker80歳記念から。お目当てのカルポフ対コルチノイは、カルポフが黒番を勝ち、白番を引き分けた。紹介棋譜にしておく。この日のコルチノイのいでたちがオールドファンを喜ばせた。
 1974年の王座挑戦者決定戦決勝。コルチノイはカルポフの無遠慮な視線に悩まされた。"カルポフにらみ"だ。懲りたコルチノイは1978年の王座戦ではミラーサングラスを着用、これが会場の照明を反射して、カルポフを困らせた。で、今年だ。永遠のファイター、ヴィクトル爺さんは、こめかみまで届く特大サングラスで登場してくれたのである。カルポフは、「ああ、一瞬ね、1978年のことを思い出した。でも全くどうってことはない」。そうかな、燃えたんだろ?

戎棋夷説