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「萬朝報」明治27年(1894)「将棋道の事」(全7回)

@3月23日
 近来紳士間の遊戯として玉突を唯一とすることを我が萬朝報の唱導してより斯道頓に盛興して今にては月次会なども挙行され、此の分にては追々流行して例のいかがはしき弄花沙汰の幾分を殺ぎ風紀の矯正にも裨益あるべしと思ふなり。
 左れど此の玉突の外に尚ほ上品なる西洋の遊技あり即ち西洋将棋是なり。然るに当時東京にて西洋将棋を知るもの甚だ少く、此の妙技をして空しく埋伏せしめつつあり。因(よ)つて今後時々西洋将棋の話を録し好事者の観に供せんとす。
 而して日本の将棋なるものも国粋の保存上その維持を必要とすれば初めに先づ日本将棋の事を記すべし。
近代日本将棋の盛衰
 維新前までは将棋の宗家ありて将軍家より御扶持を賜はり当時々々の名人(即ち最上手にして九段)と共に一年一度づつのお召しを蒙りたるのものなり。左れば宗家の嫡流より外は所謂免許状を出だす能はずして、其の実力は宗家より強きものとても漫りに勝手を働く能はず。随つて同社会の紀律も厳正に行はれ、苟(いやし)くも門戸を張る以上は賭将棋を為し悪計を施すなどの事なかりしものにて、上流社会の人々も之が弟子となりて互ひに出入りせしものなり。
 然るに明治以降此の宗家なるものは有名無実となり、免許すら勝手に其の師匠々々より出だすこととなり、諸般の紀律も一時に壊敗するに至りたれば、是に於いて奸智に長けたるもの野心あるものは種々の不正を働き、立派に門戸を張るものにして尚ほ賭将棋などを為し、其の上にも計略を以て素人の嚢中を掠めるなどの事あり。甚だしきは自分の弟子たりお得意先たるものに向つても狡猾の手段を廻らすなどの事あり。
 之が為に身分ある人は将棋師を近づくる事を恐れ、漸く恐れて漸く疎み、漸く疎みて漸く遠ざけ、漸く遠ざけて漸く卑しみ、終(つひ)には斯道を無下に卑しき地位に落とし、今日にては或る一部を除く外は大抵は車夫の弄び、髪結床の戯(なぐさ)み位に留まるに至りたり。将棋の不幸も極まれりと云ふべし。
近時の将棋社会
 前期の如く明治以降宗家は大いに衰へたりと雖も、幸ひ宗家の棟梁大橋宗桂氏は技量も亦(また)名人に近く、現今の将棋師も多くは同氏の弟子たりしを以て、同師の存生中は尚ほ幾分か紀律の行はれたる所ありしが、同氏の物故して後は其の紀律ますます壊敗して、今にては殆ど其の統御者を失ひ、互ひに相ひ忌み、互ひに相ひ軋り、此のままにして数年を経ば斯道は益す卑技に陥り啻(ひと)り賭博の具と為り了(をは)るのみならず、其の技量も次第に低くなり、今後に出づる将棋師は到底従前の半ばにも及ばざるに至るべし。
 其の品位の下卑に陥るは姑(しばら)く置くとしても、其の技量の低まるに至りては深く愛惜せざるべからざるものあり。今更云ふまでもなき事ながら、日本の将棋は日本の一名物にして他邦に対して誇称すべきの技術なり。斯くの如きものは如何にもして保存し置きたるものなり。彼の能楽なるものが近時に至りて再び復興して国粋保存の実を挙ぐるに至りたるも、其の社中が早く此に着目したる為なり。此の将棋道にても今にして早く計策する所なくんば、惜しき日本の名物をして終には湮滅(いんめつ)せしむるに至るべし。(未完(まだある))
A3月25日現今の名人
 現今の名人(名人とは九段にて一世一人に止まり即ち日の下開山なり)は小野吾平氏となす。氏は阿波の人なり。幼より将棋の天才を備へ丁年の頃江戸に出で天野氏の門に入る。然れども其の薫陶を得ること僅かの間にして程なく師の天野氏に別るるに至れり。当時天野氏は無論大橋家を嗣ぐべき身分にて技量も宗家の弟子中第一の地に居りしが、其の遊歴中に於いて乙弟子の宗桂氏宗家を継ぎたれば、帰京の後に師匠の意を不公平なりとして終に江戸を去り長く京都に留まるに至りたれば、小野氏は已むを得ず残りて江戸に留まり爾来独力を以て攻究し昨年六十三歳にして終に最手(ほて)の位に上りたり。
 小野氏が将棋道に重んぜらるるは独り技量の絶群なるのみならず、其の人物の将棋社中に優出したるを以てなり。氏は一度も賭将棋せしことなく一度も人を欺きたることなく常に上流社会にのみ出入して、其の弟子たるものは大抵上品なる人のみにして将棋社会に専ら行はるる下司張りたる風俗に染まることなし。其の品行志操は方正堅固なれば、其の将棋を指す時も端座厳正にして終日終夜に亘りて少しも行儀を崩したる事なし。又、平生将棋道の下品未熟に落ち其の社中の風俗も次第に悪化さるるを嘆き、何(いか)にもして其の維持矯正を計らんとて是までに一身を尽くして困難の地に立ちたる事其の幾回なるを知らず。
 茲(ここ)に其の例を記さんに一の面白き話あり。前代の名人宗印氏は将棋は当時の最手たるに相違なかりしも悄(や)や策略心を有したる人にして、時々将棋道の盛衰にも関する所業ありて今の小野氏の如く正直一方にあらざるより、小野氏は深く之を惜しみ、当時の大関として将棋社会を統御すべき同氏にして斯かる有様にては斯道の行末思ふべきなり、如何にもして之を矯正したきものなりと思ふ折から、当時八段なりし宗印氏は其の同臭味の推す所となり八段より九段に昇らんとて、之を其の宗家たる大橋宗金氏に申し込みたり。
 此の九段と為るは力士社会の横綱となるに均しければ、偏(あまね)く社中の承服せし上ならでは如何に紀律紊(みだ)れたる世の中とて其の効力少なければ、斯くは宗金氏の下に相談し来たりしなり。然るに宗金氏は宗家とは云へ其の実力は五六段の間にありて弟子とても少なく、且つ宗印には面白からざる感情を抱き居る折からなれば、其の申し込みにも応ぜず、之に対して、当時上流の弟子を有し東京中の将棋社会に重んぜらるるは小野吾平氏なれば此の方へ相談して其の承諾を得るこそよけれ、と答へたり。(未完)
B3月27日現今の名人の続き
 宗印氏と小野五平氏とは別段隔意の間にもあらざりしが、自分が昇段するの依頼を自分にて相談も出来かぬるより兎(と)やせん角(かく)せんと思ふ所に、平生ひいきにする向島なる藤堂公初め二三の貴顕方が世話する事となりて其の取りなしを深川の豪家鹿島氏に托したり。此の鹿島氏は小野氏の高足にて立派に七段位の腕力あれば小野氏は之を大事の得意場とし鹿島氏も特別に小野氏の方正なるをひいきしたれば、此の鹿島氏よりして小野氏を説き小野氏より宗金氏を説かせんとの誂へなりし。
 然れば鹿島氏は其の依頼を受けて小野氏に説き入れしに、小野氏も鹿島氏の依頼と云ひ又当時宗印氏が腕前最早名人とするも差し支へなしと思ふより宗金氏を説く事を承知はしたれども、元来宗金氏が宗印氏に悪感情を抱き居る事情につきては小野氏も共に宗印氏の策略を尤(とが)め将棋道の為め苦々しき事と思ひ居たる折にて、其の事と云ふは宗印氏が常に自分の技量を恃(たの)みて我が師匠たりし宗家を凌蔑し往々にして宗家の権を殺がんとの巧みありて、其の頃或る所の将棋大会に五六段の力ある宗金氏を初段の人と平手の取り組みに書き出したる事あり。宗金氏は勿論小野氏は深く此の処置を含み居たる事なれば今回和睦につきては其の時の意趣を立てざるべからず。
 右だに承知なれば宗金氏を承諾さする事も出来べしとの事に鹿島氏は其の意を先方へ通じ先方にても謝罪の事を承諾し、是に於いて吉日を卜し向島なる藤堂邸に会合することとなりたり。斯くて其の日に至り大橋宗金氏の差し添へとしては関澄氏(盲人にて七段)其の他某々等にて、やがて別室に於いて関澄氏より宗金氏に対して先般の取組みは全く彫刻氏の疎漏にて斯くの如き失敬をなしたる儀なれば悪しからず御放念下されたしと挨拶し、之に次ぎて宗印氏も「何分よろしく」と云ひつつ頭を下げたれば、之にて和睦の式了り夫(それ)より更に席を移して和睦の手合はせをなすこととなりたり。
 因つて宗金氏始め一同は其の席に至り見れば既に主人公の設けにて宗印五平香落と云ふ張り出しありたり(当時小野氏は八段にて宗印氏は九段に昇りたれば即ち宗印氏香車を落とせしなり)。小野氏は之を見て、扨(さて)は宗金氏の代理として自分を引き出せしものなるべし、今日の将棋は中々負けることが出来ぬと決心し、夫より打ち始めて夜の九時頃に至りたれど未だ勝負の央(なか)ばに至らず、此の日は是にて休みとし、越えて数日此の打ち続きを鹿島氏の家にて打ち始めたるが、此の日も午前より夜に入つて勝負つかず且つ戦争が全く新たとなり、此の工合(ぐあひ)にては何日(いつ)勝負の付くやも知れざる程なりしかば、宗印氏と五平氏は相談の上鹿島氏に乞ふて徹夜しても打ち切る事と為し、終に翌日の午前十時までにして勝負を了り首尾よく小野五平氏の勝ちとなりしが、此の時の将棋は一局に三日半と一夜を費やし二百四十余手の多きに至り普通よりも全く一倍の手数にて古今未曾有の大将棋なりしといふ。(未完(みくわん))
C3月29日将棋段位駒落の割合
 将棋手合わせにつき段位により駒を落とすは勿論定例あることにて、少しく将棋を知る人は誰でも知り居る様なれど実際に至りては素人は一寸之を知らぬもの多し。因つて大橋宗英氏の著「将棋歩式」に依りて之を記すべし。
 二段が初段に対しては…香車平手の交(まじ)り。即ち半香とて一番は平手、一番は香落也。
 三段が……初段に……香車落なり。
 四段が……初段に……角行香車交りなり。
 五段が……初段に……角行落なり。
 六段が……初段に……飛車角行交りなり。
 七段が……初段に……飛車落なり。
 八段が……初段に……一枚半飛車交り也。
 九段が……初段に……飛車香車落なり。
 右の割合なれば其の他は之に準じて知るを得べし。左れば仮令(たとへ)敵が名人(九段)なればとて飛車角を落とさるる上は段位に入る事能はざるものにて、君と僕では二枚落だ抔(など)と云ふ連中は到底ヘボのヘボを免れざるなり。(未完(まだある))
D3月31日西洋将棋
 日本将棋の事は荒かたとして今日より西洋将棋の話に移るべし。左れど地方は勿論東京にも未だ西洋将棋を知らざる人多かるべしと思ひ先づ其の大略を図解せん。西洋の将棋盤は矢張り四角なるものにて日本の将棋盤と同様なれど只異なる所は縦横にともに八ッ目にて即ち八々六十四目なり而して其の盤面を市松に染めて区画を判明にせり。其の図は左の如し。
 西洋将棋盤之図(図は省略)是をテーブルの上に備ふ
 扨又其の駒は三十二個にして六種に分かち敵と味方は駒の白黒にて分かてり。駒の図左の如し。
 王(図は省略)之を「キング」と云ふ。即ち王冠に象る。
 后(きさき)(図は省略)之を「クイン」と云ふ。即ち后冠に象る。
 士(つかさ)(図は省略)之を「ビショップ」と云ふ。即ち士冠に象る。
 騎(うま)(図は省略)見た通りにて「ナイト」と云ふ。
 駁(だいば)(注1参照)(図は省略)駁(おほづつ)の台場にて「ルウク」と云ふ。
 歩(図は省略)パウンと云ふ。日本の歩に同じ。
 右の中に士騎駁は双方二つ宛(づつ)あり、歩は双方八ッ宛あり。一方にて十六個、双方合はせて三十二個となる也。其の並べ方は左の如し。
 白方(図は省略、注2参照)黒方
 右の如くにて歩は直に王以下の頭上に並ぶ。次に駒の利き道を記さんに即ち左の如し。 王は全く日本の王の如く一間づつ八方へ利くのみ。
 后は唯一の利駒(ききごま)にて丁度日本の飛車角を兼ねたるものにて斜線にも十文字にも八方に何処までも利くものなり。故に万一此の駒を取らるれば十中の九分九厘は負けとなる也。
 士は斜線に四方へ何処までも利き全く日本の角に同じ。
 駁は前後左右へ十文字に何処までも利く事全く日本の飛車に同じ。
 騎は后に次いで大事の駒なり。其の利きかたは丁度日本の桂馬の如く一間飛びに斜角に利くなれど其の利き方八方にて即ち十文字を除きて一間飛びに縦横に利くなり。
 歩は日本の歩の如く一間づつ縦に利くなれど最初の突き出しには二間行くも勝手なり。但し二度目よりは一間づつなり。而して敵を取る時は日本の歩の如く頭を突き合はしたる時には取らずして左右斜線になりたる時に取るなり。
 此の駒は陶器、又は石、角、牙の類にて作り、黒白に分かち、之を盤の上へ立てて並べるなり。此の外一つの特別法あり、即ち王の囲ひ方なり。之は王が危うき時に右にも有れ左にも有れ騎と士を突き出してある方の駁と勝手に王を入れかへる手なり。即ち駁を士の座に移し王を騎の座に移して王手を避ける也。是につきての話は後に出だすべし。(未完(みくわん))
E4月6日駒の利き道補遺
 前号に記し漏らしたるものあり、之に是を補ふ
 歩の成駒 西洋将棋は日本の如く敵地に入るも成り駒となることなし。只歩のみ一つの特性あり。そは味方の歩が敵地に入り向かふまで行き当りたる時(即ち八ツ目)は此の歩を以て既に敵に殺されある所の自分の駒の中(うち)望み次第のものと取りかへ再び生かして用ゆることが出来るなり。
 駒の殺され切り 日本の将棋は一度取られても敵の手より再び盤面に顕はるれど(即ち捕(とりこ)と同じ)西洋将棋は一度死したる駒は再び用ゐらるる事なし。只前記歩の行き当りたる時に交換して蘇生の事あり。是等は甚だ稀れなる事なれば成るべく駒を大事にして殺されざるやうすべし。
 差し方 差し方は前記の如く駒の利き道が異なるのみにて其の他は日本の差し方と同じく王をつめるを目的とする也。
西洋将棋の研究
 日本人にて洋行中西洋将棋を学びたる人もあるべきなれど帰朝の上は敵手なきより之を持ちぐさりと為すもの多し。然るに先年森文部大臣が西洋より帰朝の際此の将棋を覚え来たりて或る時之を日本将棋の師匠なる小野五平氏に物語りたり。五平氏は細かに其の駒の利き道より差し方を聞き、然らば日本将棋の腕にて差せぬ事もあるまじとて初めて森大臣と稽古ながらに手合わせしたり。此の時小野氏は初めての事とてウッカリして居る中に肝腎の后(クイン)を大臣に殺されたれば此一番は敗北に帰したり。小野氏は大抵様子も分りたりとて更に一番を戦ひしに今度は首尾よく大臣を負かし夫より何度戦つても小野氏の勝ちとなりたれば、大臣は笑つて「モー迚(とて)もイケヌ」とて止めたりと云ふ。此の時に日本将棋は森大臣初段以上にて小野氏は八段なれば是非なきことならん。
 扨右にて小野氏は西洋将棋を覚え家に帰りてのち独り研究して大いに自得したれば、或る時福沢諭吉氏に語りしに同氏も之を稽古し且つ屡(しばし)ば時事新報に記載して同好に紹介したれば、是よりして初めて西洋将棋と云ふことが日本人に知られ其れにつきての書物なども出版するに至りたり。
F4月10日西洋将棋の達人顕はる
 小野五平氏は爾来種々に研究したれど其の後然るべき敵手なきため之を福沢諭吉氏に諮りし所、氏は態々(わざわざ)米国留学の某氏に書状を送り将棋に関せし書物注文したれば某氏よりは数冊の書物を郵送し来たりたり。是に於いて小野五平氏を招き右の書を与へ且つ門生の某をして閑ある時は其の書を講解せしめたれば小野氏は之につきて一々研究し終に奥義まで悟りければ、其の後西洋より帰朝の人は勿論西洋人と戦ふとも決して敗北する事なく、彼の横浜メール新聞に時事記載しある将棋の如きは甚だ容易なるものと思ひ、誰にてもあれ好敵手(よきあひて)に逢ひたきものと数年其の相手を求め居たりしも不幸にして数月前まで其の相手を得る事あたはざりし。
 然るに数月前の事なりし、福沢氏よりの招きにあづかり出頭し見し所、慶応義塾の教師にて欧人某氏と云ふが将棋を好み授業時間の外は昼夜一人にて盤面に向かひ居る位にて随分自慢の差し手なれば今日は緩(ゆる)りと雌雄を試みられよ、との事に小野氏は大いに喜び夫より戦ひ始めて、最初は七分の勝ちなりしが例の囲ひ(即ち砲と王を入れかへて囲ふにて前号に詳らかなり)の手に是までの独学のものと異なりたる所あり。欧人の云ふには、囲ひは未だ王手のかからぬ中に囲ふべきなれど今は王手のかかりたる時なれば此の時に囲ふことは規則が許さぬなり、との説に小野氏は大いに当惑し是までの独学が実際に間違ひなりしことを知り、夫より七分の勝ちが却つて七分の負けとなりたれば更に一生懸命となり漸くにして持(ぢ)となりて勝負なしに引き分けたり。扨モー一番との事に再び手合はせして今回は首尾よく小野氏の勝ちとなりしかば福沢氏は此の事を詳しく時事新報に記載したり(以上時事に詳らかなれば略記せるのみ)。
 扨此の事の時事新報に出づるや之を読みたる将棋ずきは追々に小野氏を訪問し西洋将棋の手合はせを乞ひたれど一人として小野氏の手に逢ふものはなかりしが、一日(あるひ)山田某と云ふもの尋ね来たり、自ら米国にて将棋を稽古したりと云ひ頗る天狗の様子なりしかば、小野氏は之を席に請じ之も天狗の一人なるべしと思ひつつ戦ひたるに、成程思ひの外の強敵にて其の日は終に小野氏の敗に帰したり。其の後再び来訪せし時は小野氏の勝ちとなりしが、小野氏の話には、少し心を用ゐてさせば之に負ける事はなきも先づ是まで見聞したる所にては西洋将棋を此の山田氏ほど差す人は無かりし、又此の人の為に大いに発明する所ありし云々、とて大いに此の人を称賛し居たり。記者此の人の苗字のみを聞きて其の名を聞かざりしぞ遺憾なる。
 尚ほ時に触れて将棋道の事を記載すべきなれど今回は右にて完結とす。


※原文は総ルビで、改行や句読点がほとんど無い。また、旧字体は新字体に直し、送り仮名も多く書き換えた。
注1。「だいば」の漢字は「駁」に石偏であるが、このページで表記できないため「駁」で代用した。
注2。駁には「砲」の字を使用している。また、王と后の位置からして、黒が先手の初期配置である。