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記事1 ■ 日本におけるチェス/Chess in Japan、 1890年1月4日号(明治23年)

 徳川将軍の統治下で平和を享受した日本では将棋(the game of chess)が広く行われていた。毎年一回、11月17日には将棋の達人たちが東の都に集い、宮殿構内の指定場所で厳粛な大会を行った。立会人、審判、厳格なルールなど対局に不可欠なものがすべて準備され、大会後には参加者の公式ランクが定められた。全部で7つのランクがありランク7が最高位だったが、この七段(the seventh dan)という等級に達する者はまれで、六段もまず一人か二人だった。

 将棋では世襲的要素がかなり働いてきたと思われる。伊藤家と大橋家が何代にもわたって主導していたこと、両家のチャンピオンの対戦が各大会の重要な呼び物であったことが本に記されている。多くのさらに重要な長所同様に、この由緒ある習慣は1867年の革命で途絶え、棋士が顧みられない時期が長く続いた。

 しかし将棋を一度でも業としたことがある者なら、王室の支援を失ったために将棋が廃れたと考える者はひとりもいないだろう。将棋を崇める者たちは定跡の研究を続け精緻なものとしたし、それに現在、将棋が再びその高い地位を取り戻す見込みがでてきた。10月に東京で主要棋士一同による大集会(grand meeting)が催されたのである。初段から六段まで大小の段位をもつ200名以上の棋士が結集したが、元津藩大名の六段藤堂公(年長者)がこの復興における主要発起人(promoter)の一人だった。

 1月18日にはまた別の集会が準備されているが、会場は東京本郷アオイ町(Aoi-cho, Hongo 本所相生町の誤りか)の宗印氏宅で、今回は将棋復興を讃える式典(将棋発会式 Shogi Hakkai-shiki)が執り行われる予定である。

 日本ではたくさんの将棋の本が出ているが、優勝賞品は通常「詰将棋サンバン」(Tsume-shogi Samban)という名の本で、著者は伊藤家の三代目伊藤宗看である(Ito Sokan, representative of the third generation of the Ito family)。この本は詰将棋(some problems)を載せており、著者によれば、それらを解く力量があれば六段に値するそうだ。

解説
 明治22年10月の「大集会」は不明ですが、「明治22年10月新刻」とする将棋番付「日本将棋対手概表」が国会図書館にあります(参照:http://kindai.ndl.go.jp/)。 明治22年7月の宗印主催の将棋会案内状が残っていますが、10日間予定と大規模なもので、「今般将棊日本番附相撰候ニ付手相調査ノ為メ・・・」。つまり、将棋大会を行い、その結果をランキング表(番付)で発表していたわけです(竹内淇洲「将棋漫話」にあるように、実力オンリーの番付ではなかっただろうにしても)。
 宗印選番付は明治10年以降のものが残っているようですが(清水孝晏)、当初の「東都将棋鑑」(明治10年)、「武総将棋手鑑」(明治20年)といったローカル限定から、この時期は全国の棋士を対象とした「順位戦」になっています。
 交通・通信の発達もかかわっていたでしょうし、関根金次郎の遊歴(明治17〜24年?)なども単に武者修行として読むのではなく、ネットワークという観点からの見直しが可能かと思います。(このへん、maroさんの示唆)

 「優勝賞品」があったのを「賭将棋」のことも絡め興味深く思いますが、賞品を明記した将棋会案内状が幾つか見られます。
 「余興として大景物差出候」(明治21年?)、「四番勝へ浴衣地一反、三番勝へ手拭地同・・・」(明治22年)、「毎日御来会の諸君へ籤引にて反物差出候」(明治23年?)など。案内状に詰将棋を出題し、正解者に賞品というパターンもあります。

 三代宗看といえば「象戯図式/将棋無双」ですが、詰めれば六段格の「詰将棋サンバン」とは「無双」から選んだ三題の詰将棋集ということでしょうか。
 かつて「無双」17番を詰めれば初段といった話がありましたが、それに類するものなのか。

 この記事はどこかで読んだなという方もおられると思いますが、H・J・R・マレー「チェスの歴史」(1913年)に引用があります。ただ、マレーの引用は「ジャパン・ウィークリー・メイル」の海外版「ジャパン・メイル」からで、若干文章が異なり、また「詰将棋サンバン」のくだりを欠いています。
 まったくの余談ながら、マレーの父は「オックスフォード英語辞典」の編纂主幹ジェームズ・マレーで、チェス・マレーも子供のころから辞典制作に参加。



記事2 ■ 盲目の棋士/A Blind Chess Player、1890年1月18日号(明治23年)

 西洋では卓越した盲人が数多く存在してきたが、盲目の棋士の話は聞いた覚えがない。インドの人々がチャトランガをはじめてから5000年が経つが、その間、チェスの偉大な達人たちが盛衰を繰り返し、ディララム・メイトなどスリリングな挿話の数々も記録されてきた。しかし、優れた技術をもつ盲人棋士を初めて持ち得た名誉は日本に与えられる。その棋士は名をオクズミ・チョウアン(Okuzumi Choan)といい、現在は三河の豊橋(Toyo-bashi in Mikawa)に住んでいる。

 何年も前になるが、まだ多少とも若かったころのオクズミは東京に住み、著名な専門家である小野五平(Ono Gohei)としばしば対戦した。当時すでに盲人であったが、オクズミが視力を失ったのが将棋に熟達する前か後かは不明である。前とすれば、彼の奇跡はもちろん大いに輝きを増す。目隠しチェスの才を磨いたモーフィやブラックバーンのような人物なら、視力を失っても巧みな指し回しの継続は容易だろうが、彼らにしても、まずは長期にわたり目を酷使したうえでなければ、そうした能力は得られなかっただろう。

 現在のオクズミは老いのために各地を転戦することはかなわず、豊橋にとどまり通信で対局している(play by correspondence)。棋譜を見ると現在の対戦相手は彼の旧敵、小野五平である。

解説
 とかく人格面をいわれる小野としては、ちょっとした美談とも読めそうです。記者が小野と接触があったように思えるのも興味深いところ。
 盲人棋士は天保期の石本検校、この時代なら関澄伯理がいますが、「オクズミ・チョウアン」とは誰でしょうか? このとき小野は59歳。

 この号にはもう一つ将棋関連の記事が載っていて、「郵便報知新聞」が2月20日締め切りで詰将棋を募集中という内容。応募された詰将棋は「グレート・マスター」伊藤宗印が検討、その評価により応募者に段位(rank)を与える、とあります。
 約一週間前の「郵便報知新聞」1月10日付で、宗印による詰将棋出題の開始が予告されており、「2月20日までに解答を。最初の正解者に相当の段を与える」とありますから、「ジャパン・ウィークリー・メイル」の記事は、これの読み違えかもしれません。

 読み違えはともかく、重要と思われるのは、「ジャパン・ウィークリー・メイル」が将棋関連の日本語記事をチェックしていたらしいこと、「将棋」を取り上げるに足るものとしていたこと。
 この数カ月後には、「ジャパン・ウィークリー・メイル」の常連寄稿者でもあったB・H・チェンバレン(日本学権威)が、「将棋」「囲碁」の項を収める日本小百科事典「Things Japanese」を出版しています。
 「チェスの歴史」のマレーも「Things Japanese」を参照していますが、「将棋」「囲碁」の項はチェンバレンの朋友W・B・メーソン筆。誤解があるようなので付け加えます(邦訳「日本事物誌」)。
 メーソンは通信お雇いとして来日したイギリス人で、「Things Japanese」当時は鹿鳴館の東京倶楽部の幹事でした。