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「読売新聞」明治33年(1900)「西洋将棋の話」抜粋

(小野五平氏と某外人の劇戦)
 将棋の名人小野五平老人は今年七十才との事なれども矍鑠(かくしやく)として頗(すこぶ)る元気に見受けたり。訪問者のおとづれし時は生憎(あいにく)取次のもの不在なれども門口に「ものもう」の声遥かに聞えたりけん、直ぐさま二階より下り来りたる老人は一揖(いちいう)して客をば一と間(ま)へ通し幸田氏の虫食い程なる介書の細字(さいじ)を眼鏡も用ひで読み了るや、「これはこれは……幸田さんへはしばらく御無沙汰を致しまして……ようこそお出を」の愛想よく、応(やが)て西洋将棋の伝来を問はるるに答へて、、、
 左様、全く初めは森有礼(いうれい)さんから仕方を教はりましたので、後は書物でばかり調べて居り、どうかして一度でも実地にさして試(み)たいと存じて福沢先生始め諸家さまへお話を致し、「何卒(なにとぞ)将棋の強い西洋人が見えたらお知らせ下さい」と願つて置きました。すると確か明治廿六年の九月の十七日と覚えて居ります、福沢さんから、「予(かね)て話の将棋家の西洋人が来たから出て来る様に」とのお知らせでして。早速三田のお宅へ参ッてみると既に其の西洋人は来て居りました。之(これ)は年の若いまだ三十を少し出た位のマツギと云ふ亜米利加人でしたが将棋は余程強いと見え、私(わたくし)の願つて置いた事を福沢さんから慶応義塾の外国教師へ話され、其の教師から又態々(わざわざ)召(よ)び寄せて私と手合はせをさせて下さる訳だつたのです。何でも午後の一時頃でしたらう、私と其のマツギと皆さんの前でさし始めましたが一体の様子がどうやら私の方がよい。段々さし込んで私の方が攻め口へ回つて大丈夫七分の勝ちが見えました所で夫(か)のカツスルの一件です。
 王(キング)を隅へ移して要塞士(カツスル)で護衛する事だが私は之を敵より追手(王手)をかけられてからやる積(つもり)で、愈々(いよいよ)来たからサアござつたとヒョイとカツスルしまするとマツギが、「足下(あなた)夫(それ)はいけません」と言ふ、何故(なぜ)かと尋ねると、一遍追手をかけられた王にはカツスルする権利がないと云ふ規定があるのだ相です……実に之が書物ばかりの研究と実地と違ふ悲しさで私も始めて知ッた訳だが、夫では初めからの作戦計画が悉(ことごと)くダメになるから新規に差し直さうともまさかに言はれない、どうしても攻め手に回ッてる前の駒を引いて間馬(あひま、合駒)にするより外仕方ないが、さうすると大勢転倒で今度は私の方が七分の負けに為つて来る。(つヾく)
(つヾき)(小野五平氏と某外人の劇戦)
 けれども実地は始めてと云ひながら小野五平が外国人との初手合はせに卑怯なことも言へず、勿論負けるのはいやだから仕方なしに攻め駒を引いて間馬をし、扨(さて)どうしたものだらうと種々(いろいろ)考へたが、敵は確かに私より将棋は弱い、ここで思ひがけず引け手に為つてもどうか工夫して持(もち、引き分け)位(くらい)にさせぬ事はあるまい、夫に一番計略で欺くより外はないと思つたので、しやんと見込みを付けてかかると果たして私の思はく通りに嵌(はま)って来て到頭無勝負−持と為つて仕舞ひました。
 之が何でも午後の五時頃で凡(およ)そ四時間程の競争(せりあひ)でしたが其の内に夕飯が出たので一同御馳走になる。福沢先生は英語で「何(どう)です」とマツギに尋ねられる。先方は「一番では真の力が分からない」とでも答(い)つたと見えて、「モウ一番やらぬか」と先生から勧められる。私は願ふ所ですから早速承諾して七時頃から再びさし始めたが、之は平押しに私が勝つて仕舞ひました。先づ之が私の西洋将棋を実地にさした始めで、後はマツギも私の宅へ参り私も先方へ行き抔(など)して之から月々何回とか極めて西洋将棋の研究会を開かうと相談して楽しんで居ります内、マツギは本国に面白い金儲けがあると云ふ事で帰国致しましたから、其の相談も立ち消えに為りました。誠に残念の事でございました。(以下、略)

※改行、句読点、旧字体等を編集した。