紹介棋譜 別ウィンドウにて。
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ビールのモロゼビッチ、交霊対局、将棋棋士のチェス1。

06/08/23
 父デ・ハビランドのフルネームはウォルター・アウグスタ・デ・ハビランドという。若林利次や柴田勗による紹介と研究があり、どんな人だったか詳しくわかるようになっていてありがたい。畏友が資料を送ってくれた。明治の30年代に現在の金沢大学や筑波大学にあたる学校で英語を教えていた。そして、サッカーの指導もしていた。実は、黎明期の日本サッカーに重要な役割を果たした人なのである。彼の兄も函館でサッカーを教えていた。日本サッカー史を調べれば、この兄弟に必ず出会うはずだ。
 アリョーヒンと木村の対局に関して、畏友は仮説を持っている。アリョーヒンの自選集に収録された棋譜は、やはり木村との対局譜だった可能性を捨てきれない、というのだ。論拠や証拠を挙げてくれた。推測で埋めるしかない部分もあるが、全体として聞くべき意見だと思った。どこかに発表してくれないかな。
 『碁を打つ女』読了。すっと読めて良い。誰にも伝わらない心理描写を軸に話が進んでいき、それを男女で書き分ける文章と構成が巧みだ。チェスが二箇所出てくる。作者が玉三郎の映画「外科室」を繰り返し見てる人だというのも良い。
06/08/22
 仲の悪い姉妹だったが、姉オリヴィアは『風と共に去りぬ』の気高いメラニー、妹ジョーンは『レベッカ』の初々しい妻で有名だ。昔の日本で育った二人なので、腕には種痘の痕があり、これを見せぬよう撮影するのが難儀だったそうな。個人的には、おどおどした妹よりも、きりりんとした姉の方が好きである。『海賊ブラッド』(1935)の高飛車なお嬢様がよく似合う。
 現代の海賊映画といえば『パイレーツオブカリビアン』だ。私は第一作の、斬新にして華麗かつ軽快なチャンバラが大好きである。デップのゆらゆらした役作りも素晴らしい。そんなわけで今月は両親を連れて第二作『デッドマンズチェスト』を観に行った。残念ながら第一作の魅力の追体験は叶わなかった。"海上のスターウォーズ"といった趣だったのである。もちろん、それはそれで十分楽しい。
06/08/21
 相互リンクしていただいてる水野優さんが、ブログで"二人のラスカー"の著作をこつこつと翻訳なさっていて、このたびエマヌエルの"Common Sense In Chess"が仕上がった。この種の重要な古典の日本語訳が完訳され広く公開された例を私は他に知らないので感動している。
 畏友は映画に詳しくて、私はずいぶんと教わった。彼のチェス研究と囲碁研究の話を聞いていると、両方に関連する人物が出てくるのが面白い。たとえば、木村義雄にチェスを仕込んだデ・ハビランドは囲碁の本も書いている("The ABC of Go", 1910年)。そして彼の娘がオリヴィア・デ・ハビランドとジョーン・フォンテーンだ。
06/08/20
 堂島のジュンク堂で『碁を打つ女』を発見した。畏友はもう彼女の最新刊『女帝 わが名は則天武后』に進んでいる。彼は昨日の映像に喜んでくれて、「こりゃすごいですねえ。すごい」。そういえば、ジュンク堂には大江健三郎が推薦する本の棚があった。名づけて「大江健三郎書店」。その中に『ロリータ』が選ばれていた。大江の一言がポップになっており、「"ロリータ"新訳はあまりにナボコフだ!」。
 碁を打つチェス棋士といえば、紛らわしい名の二人のラスカーが両方とも打ち手だった。エドワードの棋譜を畏友から送ってもらった。定跡を学んだ棋譜であった。畏友のネタなので、ここでいろいろ明かすわけにもいかないが、ひとつだけご紹介したいのはエドワードの発明である。彼は婦人用搾乳器を開発して金持ちになったそうだ。アメリカ特許庁のページで特許申請の図面まで見られるらしい。「たぶん電動というところが新案」と畏友。
06/08/19
 霊界対局の棋譜を送ってくだすった読者さんは、映像の検索に長けておいでで、ファン垂涎のURLをたくさん教えてくれました。たとえば、「"羽生にらみ"ならぬ、"タリにらみ"を見ることができて嬉しくなりました」とおっしゃるフィッシャー対タリ。タリに限らず、相手をにらみつける世界王者は多いですね。それに、1948年世界選手権の対局風景も素晴らしかった。でも、一番感激したのは、アリョーヒンに挑戦する1935年のエイベのインタヴューです。15分ほどもある映像の12分16秒から始まるのですが、読者さんいわく、「そこに現れるのは、、、」。いやあ、初めて御声に触れました。ほか、アリョーヒンやらベティさんやら、しまいにはチェ・ゲバラまで見せていただいた。興味ある方はいろいろ御検索を。
06/08/18
 マインツ恒例のチェス祭りが始まっている。コステニクがフィッシャランダム(Chess 960)の初代女王になった。
 今年の夏休暇も畏友に会えたが、行き帰りの電車で、1978年のカルポフ対コルチノイのマッチを解説したラルセンの本を読んだ。本欄で私は何回もコルチノイに言及してきたが、実はさほど好きな棋士ではなかった。棋風がピンとこないのだ。でも、ラルセンの記述にはなるほどと思った。相手が駒を捨てて展開力にものを言わせようとしてきた場合、それを封じて駒得のまま勝負を決めてしまうのが、コルチノイの得意なのだ。どうしてこんな明瞭なことが私はわからなかったのだろう。彼がタリに分がいいのも納得がいった。
 ここのところ畏友は囲碁の研究に凝っていて、シャン・サ(山颯)『碁を打つ女』がオススメとのこと。ところが、東京で見つからず、帰阪してからも見つからない。さがし方が悪かったか。フランス文学なのか中国文学なのかも見当がつかないのだから。一応、囲碁の棚も見た。長谷川五郎『オセロ百人物語』というのが目についた。ちらっとチェスに触れている。1969年にスパスキーがペトロシアンに勝ったマッチの賞金は五十万円だったんですと。ほんとかよ、とも思うが、これを一気に億単位の話に昇格させてしまったフィッシャー登場の意義は計り知れないわけである。
06/08/17
 ベンコーも来日しており、昨日から20日まで十回にわたるセミナーをしてくれるとか。
 霊界対局の棋譜について、コルチノイ自身が言ってることをざっとまとめておこう。序盤のマロッツィはとても稚拙だったが、終盤は力を発揮し始め、コルチノイがP得したようでも、油断すると負けてしまうような場面もあった。マロッツィが終盤の大家であることを思い出したそうだ。
 最後にひとつ。私がちょっとほろりとしたのは、コルチノイが対局を望んだ棋士にケレスを挙げたことだ。1勝4敗12分という対戦成績をコルチノイは気にしていたのだろうが、それだけではない、ケレスの人柄や棋風の魅力が偲ばれた。ちなみに、コルチノイがカモにしていたのはタリで、12勝6敗27分である。自伝付録のCDで調べた。
06/08/16
 コルチノイの対局相手は本当にマロッツィだったのか。実験の企画者には重大な問題であり、どう検証したかは自伝にいろいろ書いてある。ひとつだけ触れておきたいのは、棋譜が現代的な定跡に則っていることだ。コルチノイのコメントは、「天国でマロッツィがInformantを参照できたかどうか、判然としない」。私は出来たと思う。いまではFritzやレイティングさえ普及して、あっちのチェスも殺伐としてるはずだ。話は変わるが、古代でも不景気になると「あの世にだって死は存在するんだ」と考える暗い人が現れて、これが輪廻説の誕生につながってゆくのだとか。
 ナカムラはジャパンオープンにも参加してくれたようだ。松戸掲示板の大竹さんによると、七戦全勝で優勝し、賞金四十万円を受け、同時対局は19勝0敗1分だった。
06/08/15
 霊界対局が企画されたのは、霊魂が肉体から独立して存在することを証明するためだった。コルチノイは対局料をもらってない。自伝を読むとわかるが、気性が激しい反面、とても洒落のわかる人である。超心理学会会長が霊媒師との連絡係を務め、コルチノイとは電話で指し手をやりとりした。終るのが1993年だから、かなり長い実験だった。その19日後に霊媒師は亡くなっている。もともと体調は悪かったようで、それが対局を長びかせた一因でもあった。対局開始の時期がわかりにくいのだが、"The Batsford Chess Encyclopedia" には1986年と書いてある。
06/08/14 紹介棋譜参照
 別の欄「64 Shots」で、コルチノイとマロッツィの対局について触れたことがあった。畏友も私もこの棋譜を見つけることが出来ずにいたのだが、読者さんが送ってくだすったので紹介棋譜にしたい。
 事情はコルチノイの自伝に詳しい。1985年のこと、コルチノイに電話があって、それは、「今は亡き棋士と指すなら誰がいいですか?」という問い合わせだった。彼は「カパブランカ、ケレス、マロッツィ、、、」と答えたそうな。一週間ほどして、また電話があった、「カパもケレスも"あっち"では見つかりませんでした。でも、マロッツィから応答があったんです。さあ、あなたの手番ですよ」。電話の主はチェスファンで、スイス超心理学協会の会長EisenbeiBだった。かくて、霊媒師Rollansを介しての通信戦が始まったのである。
 ちなみに、カパとケレスの魂が"あっち"に無かったのは、すでに"こっち"の誰かに入り込んでいるからだという。
06/08/13 紹介棋譜参照
 大山康晴もチェスは指したのだが、私は棋譜を見たことが無い。「チェスサロン」の時代に将棋棋士の名が多く見られるのは、東公平のおかげだろうか。だとすれば、日本チェス協会、特に松本康司会長が彼に厳しかったのは愚かだった。
 坂口允彦にも触れておこう。A級八段でありながら将棋界を離れて、1947年から三年間チェス棋士を志した人である。進駐軍を相手にチェスの指導対局をした方が当時は見入りが良かったのかな、と私は思ったが、どうも、「日本は戦争で負けたがチェスで見返してやる」という心意気が動機にあったらしい。1962年の著書『チェス上達法』所収の一局を紹介棋譜にしておく。日本で開かれた最初の国際大会「クリスマス国際親善チェス大会」の「最終の決勝戦」とのこと。序盤が私は気に食わないが、終盤の大局観は相手をハッキリ上回っている。
06/08/12
 前にも触れたナカムラの来日が実現した。将棋会館の対局を観戦し、また、森内俊之に将棋を教わったようである。今日から15日までのジャパン・オープン最終日に同時対局もしてくれるそうだ。
 来日した一流棋士の同時対局はいくつかあるが、1933年のアリョーヒンが有名である。木村義雄と歓談した話は04/02/17に書いた。『ヒガシコウヘイのチェス入門』には、アリョーヒンの自選名局集に木村義雄との棋譜が載っている、とある。実際に二人は対局した。が、すでによく知られていると思うが、名局集の棋譜は木村が指したものではない。そのあたりの事情は「将棋とチェス」1949年11月号の中島一郎「アレキン博士の想出」や12月号の三田村篤志郎「アレキンの思ひ出」に書かれている。前者から引用しておこう。
 木村や金易二郎など五名程の日本人を含んだ十五名とアリョーヒンは目隠し同時対局をし、全勝したのだが、「この対局のあくる日三田村先生が昨夜の勝負中好局があつたかと訊ねられましたら、アレキンはルイ・ローペスで一局面白いのが出来たと返事致しました。(略)勿論アレキンは相手の名前を記憶致しません為に、三田村先生を通じ度々会つて居りました木村名人の名前を仮にこの相手につけて、この棋譜を彼の名著『我が名局集』"My Best Games"中に発表致しました。実際の対局者は当時帝国ホテルに滞在中の外人牧師であつたそうです」。なお、自選名局集に載る前に、三田村の記事によれば「ドイツ・チエス新聞」にこの棋譜が載ったそうである。どの段階で対局者が「キムラ」になったのだろう。また、アリョーヒン側からの問い合わせに対して、日本側が誤りを知りつつも「キムラ」と面白く答えたのだ、という説もある。とりあえず中島説を私は信じておく。
06/08/10 紹介棋譜参照
 将棋棋士のチェスに関して、アカシヤ書店での収穫話を続けよう。1968年の日本チェス協会「チェス・サロン」第7号に内藤国雄のプロブレムが載っていた。図がそれで、7手詰である。紹介棋譜の正解手順はFritzによる。先入観があるからか、詰将棋的な気分を私は感じた。レベルどうこうは言わなくていい、貴重な作品だと思う。なお、この号には板谷進の棋譜も載っている。
 国雄の兄、啓二は強豪だった。1969年には宮坂幸雄と日本選手権の決勝六番勝負を戦っている。敗れはしたが、プロの勝負師を相手に2勝3敗1分の接戦を演じた。「チェス・サロン」第10号に全六局の棋譜が載っており、天下分け目の第4局を紹介棋譜に。77手と80手の変化手順は宮坂のものである。いまFritzで検証しながら並べると、宮坂がところどころ決め手を逸してるのがわかるが、77.Bd8は絶対手で、そのあたりを自分でこう解説している、「手数84手延々8時間余に及んだ大接戦のエンドゲームで、(略)打開の難しいところ。観戦者の中から、ドローにしかならない、という声がもれていたほどだ。(略)エンドゲームスタデイを思わせるような手順が続き打開に苦心した甲斐あつて、面白味ある終盤戦の出現となつた」。啓二も、本局の「宮坂氏の終盤の強さに驚嘆させられた」と書いている。持時間は40手2時間だった。一日一局ではなく、第4局の直後に第5局が指されたようだ。大変だったろう。
06/08/09 紹介棋譜参照
 神田の古本屋街に行った。田村書店で詩集を探すのが若い頃から好きだった。今日は飯吉訳ツェラン『迫る光』の1972年版が見つかった。ちょっぴり引こう、「おまえは知っている――跳躍は、いつも、おまえをとびこえていく」。ただし、歳をとってからは、アカシヤ書店で棋書を漁るのが神田行の主目的である。何冊か選んで、「今日は買い過ぎたなあ」と思いつつレジに向かおうとしたら、古雑誌の束が目に付いた。月刊誌「将棋とチェス」が1949年6月の創刊号から9冊揃っているのだ。しかし、高い。大長考に沈んだ。でも、畏友から「国会図書館でも全部揃ってるわけではない」と聞いた記憶がある。で、買ってしまった。
 衝動買いだ。後悔と興奮でどきどきした。壱真(かづま)でコーヒーを頼んで、最後の号から見た。升田幸三の棋譜が載っていた。これはご存じない方も多いだろう、紹介棋譜にしておく。ただし、レベルは低い。対局相手は「ニューヨーク・タイムズ」の東京支局長である。また、この棋譜は「アサヒグラフ」にも載ったとのこと。
06/08/08 紹介棋譜参照
 ドルトムントは最終日で意外なことになった。二人の首位のうち、スヴィドラーは17手であっさりドロー。この人の最終日はいつもこうだ。そして、レコは黒番をもってクラムニクと対戦した。ここまでの戦いぶりから私は"ドローニク"にヤル気を感じてなかった。相手もレコだし、どうせ15手くらいでドローだろう、と思っていた。が、ひそかに優勝を狙っていたようだ。
 図は決断の場面で、クラムニクは26.Bxe6と取った。ここ数年の印象では、彼は色違いビショップの終盤を選んで難儀することが多い。けれどこの日は26...Nxe6, 27.Nb5と進み、以下、a7の黒ポーンに上手に圧力をかけ、勝勢を築いたのである。手順は長いが、それがまた好調時のクラムニクらしい。まづ、a4, Na3, b5で形を決めてからa5を突く。黒はbxa5と取るしかなく、そこで白Bxa7だ。さらに、Nc4からNxa5で黒ポーンを取った。駒得というより、見ればb5の白ポーンの昇格進路ががっちり舗装されている。紹介棋譜に。
 かくて、スヴィドラーとクラムニクが同点一位で大会は終ったが、どうも、タイブレーク判定でクラムニクの優勝のようである。最後の一日だけ頑張って優勝した観があり、したたかこの上ない。
06/08/07
 昨日は「こんなことを80年」と書いたが、実際は1924年の東京将棋連盟の創立当時から「こんなこと」だったわけではない。それに関して畏友が面白い話を思い出させてくれた。05/11/04にも触れた連載「将棋界の興亡秘録・歴史スポット」の「大正編第14回」に載っている。1925年、初めて持時間制が採用された事情である。時間無制限だった当時は対局に五日もかかることがよくあった。これでは棋戦の回転が悪い。おかげで新聞の棋譜掲載が途切れてしまったりした。そこで新聞社の強い圧力があり、持時間制が誕生したわけである。新聞社と近代将棋の結び付きの深さを教えてくれるエピソードだ。また当時は棋士数も少なかったことがうかがえる。前にも触れたが二十人だ。現代棋譜の過剰供給ぶりは言うまでもなかろう。
 ドルトムントはラス前でようやくクラムニクが一勝を挙げた。負けたジョババはわずか15手で投了した。見落としでやる気を無くしたらしい。ほか、スヴィドラーがアロニアンを得意のグリュエンフェルドで下して二勝目、レコに並んだ。
 明日から夏休みをいただきます。昨年は『狂気の歴史』を読みましたが、今年は『監獄の誕生』に挑戦するつもりです。
06/08/06
 全国に二ヶ所しかない将棋会館でほとんどの対局が行われ、しかも、そこにプロ棋士だけが集まり、さらに、プロ棋士はそこだけでしか対局ができない。こんなことを80年も続けてきたのだから、将棋が衰退するのは当然だと思う。チェスの常識から考えて、県庁所在地のうち最低五ヶ所くらいで、毎日、アマもプロも参加できる高額賞金の大会が開かれてるようでないと、おかしい。将棋会館では一回戦負けばかりで対局の無いプロ棋士は、そんな大会を渡り歩いたり、コーチをしたりすれば、十分な生活費を稼げるだろう。アマチュアの参加者や観戦者も、本当のアマチュアならそれを歓迎するはずだ。対局も勉強もしないプロだって減る。チェス界でも、超高額のタイトル戦を組むのは難しくなってるが、反面、いま私が述べたような大会はとても盛んなのである。日本でそれが出来ないのは、将棋連盟がプロ棋士や棋戦を管理しすぎているからだ。そして勝手に経営危機に陥っている。
 ドルトムント第5Rはレコがアロニアンに勝って単独首位になった。ゲルファンドは113手でジョババに勝ち、成績を五分に戻した。図は彼が51.f5としたところ。これがうまかった。黒gxf5だと白Kxf5で黒の駒損になるのは私でもわかる。つまり、図の直前の50...h5が敗着に等しい。で、黒は51...f6+, 52.Ke6を入れてから52...gxf5と取った。そこで53.e5が手筋だ。実戦は53...fxe5だったが、後は盤面で予想がつくだろう、黒は白王に3ポーンを取られて駒損になった。「じゃあ、52...g5の方が良かったでしょ?」と私などは思うが、一流棋士にはそれは一本道で黒負けになるように読めるのだろう。実戦の手順のおかげで、黒は長いQ終盤に持ち込めたのである。引き分けの局面も何度か作っていたようだ。ゲルファンドは二局で230手指した。
06/08/05
 諸宸やコシンツェバ姉妹、ステファノバなど女子の強豪を集めた北ウラル杯が今年もあった。優勝はラーノである。5勝0敗4分。ビールにドルトムントに北ウラル、同時期にやられると私は紹介しきれない。
 ドルトムントの第4Rは7時間25分も戦った総手数117手のアダムズ対ゲルファンドが圧巻である。前者が勝ったが、Chess Baseの解説を見ると双方にミスがあるようだ。ここまで十六局を終えて三局しか勝負が着いていない。勝った三人、レコ、スヴィドラー、アダムズが首位で、ドローばかりのクラムニクとアロニアンがそれに続く。残り三戦しかない。まさか紹介棋譜ひとつも無しで終わるまいな。
06/08/04 紹介棋譜参照
 名人戦騒動で不毛だったのは、誰もが毎日新聞の恩義を焦点にしたことである。私は当初から、自活能力の低い棋士達の扱いを問うてきた。実際、連盟総会の評決を左右したのも、羽生や森内ではなく彼らだったではないか。このあたり、将棋界の言論はレベルが低いと思う。
 ビールはラス前、第9Rで優勝が決まった。図はモロゼビッチ対ペルティエで22...Rd7まで。黒はルックを重ねるつもりだ。実戦も23...Rfd8だった。問題は白の構想である。モロゼビッチは局面の本質を見抜いていた。まず23.g4、そして24.g5、以下、あっさり黒陣を崩壊させてしまった。これで7勝2敗0分。もう誰も追いつけない。最終戦はラジャボフに10手で引き分けた。
 カールセンは第9Rでヴォロキチンに再び敗れたが、最終戦で面白い棋譜を作って、4勝2敗4分で二位。ラジャは3勝1敗6分で同点だ。モロゼビッチとカールセンを紹介棋譜に。
06/08/03 紹介棋譜参照
 朝日新聞は将棋連盟に対して7億5千万円もの「将棋普及協力金」を申し出ていた。連盟理事会を支持してくれた、自活能力の低い棋士達に仕事を与えることが、これで可能になるだろう。金のそうした使い方をファンが望むかどうかは別の話である。ただ、この新定跡を長くは使えない。どうしてもリストラが必要だ。プロ棋士の誕生数を減らす改革が次の課題になるのでは。
 ドルトムントは第3Rも全局ドロー。内容も悪い。対してビールはモロゼビッチが盛り上げてくれている。第8Rは黒番でスパニッシュを受けて立ち、熱戦の末、ヴォロキチンに勝った。6勝2敗0敗である。図では白ビショップがf7地点を狙っている。さらに白Ng5を増強したいが、ヴォロキチンはまず15.b4. cxb4を突き捨て、黒c4の手を消した。白ビショップの直射力を確保したわけである。そうして16.Ng5へ跳ねた。この攻めを振りほどくのが大変で、モロゼビッチはルックを切るしかなかった。かくて、白R対黒BPの駒割である。以下、黒Pが敵陣にトライできるかどうかの緊張感ある戦いになった。ヴォロキチンがポカを指して形勢が大きく開くが、そこまでが面白い。紹介棋譜に。
 後を追うカールセン対ラジャボフは、後者得意のキングスインディアンを予想していたのだろう、前者の工夫が面白かったがドローに終わった。再び首位との差は1点に開いた。
06/08/02 紹介棋譜参照
 将棋連盟で総会があった。名人戦を引き続き主催したい、という毎日新聞の提案を否決したのだ。ここ四ケ月、名人戦は新聞社のメンツ争いの場になってきたが、ひとまずケリが着いた。近代将棋と新聞将棋の密接な関係を思えば、将棋文化にも関わる騒動であった。これでようやく将棋にも近代の終りが訪れた、と後で言えるような未来を私は望む。名人戦を引き継ぐだろう朝日新聞には、前世紀の遺物を抱えてうんと困ってほしい。毎日新聞には、何十年も変わり映えのしなかった将棋欄よりマシな紙面づくりを考えてほしい。
 ビールの第7Rはどれも面白い棋譜が出来たが、やはりモロゼビッチ対カールセンだろう。序盤から相手の狙いに反発し合う闘争心ゆたかなチェスになった。前回と異なって、次第にカールセンが苦しくなった。クィーンが窮屈だ。しかし、この日のカールセンは「ジリ貧坊や」ではなかった。一か八かクィーンを捨てて、しゃにむに包囲をぶち破ったのである。モロゼビッチはその対応にしくじったらしい。
 そこまでの攻防が面白いが、図はその直後の局面で28.b4まで。Chess Todayによると、ここで黒Rd1なら白Rxd1以下、この地点で駒を清算し、白がbxc5でビショップを取って引き分け模様とのこと。たしかに色違いのビショップが残る。けど、図で28...Be3は無いか?問題は29.h3が幸便に見えることだ。白王の逃げ道が開き、黒僧に当っている。実戦もその道をたどった。さて結論は?同色のビショップが残ったのである。かくて、カールセンはモロゼビッチに連勝するという凄いことをやった。
 他の二局はドロー。モロゼビッチのリードは半点に減り、二位にカールセンとラジャボフが並んだ。
06/08/01
 ビールの第6Rはモロゼビッチだけが勝って例年の独走態勢に入りかけた。そして、ドルトムントも始まっている。クラムニクにとって験の良い大会だが、二戦して引き分け二つのスタートだ。初戦に勝って首位に立ったのはスヴィドラーとレコである。あえて紹介はしないが、どちらも好調と見た。二戦目は全局ドローだった。
 レコに敗れたのは昨年の優勝者ナイディッシュである。Chess Todayに戦前のインタヴューが載った。特にどうこうという内容ではないが、私も06/06/16で紹介した、トリノでアロニアンが殴られた話に触れている。ナイディッシュによれば、「レヴォンが殴られなきゃならないことは無かった」。なぜって、会期中、問題の女性とずっと親しくしていたのは、「僕なんですから」。ただし、殴った男性はアロニアンを相手に選んで良かった、「僕は空手の専門家なんです」。あの一件はアロニアンらしい巡り合わせだった、という私の直観はそんなに外れてなかったかもしれない、と思った。
06/07/30
 宗達の「風神雷神図」が好きで、昨日は京都の国立博物館まで見に行ってました。帰りに寄り道をすると、「竹定」という竹細工師の店があり、機能美だけで仕立て上がった魅惑の竹とんぼを売っている。両翼14センチ、全長21センチの堅牢な一品です。500円。生真面目そうな老職人が現れ、これがいかに誠実な竹とんぼであるかを説いてくれました。そのうち、口がもどかしくなったのでしょう、とうとう、私を奥の資材置き場まで引き込んで実演販売です。それがまあ、ほんとに飛ぶ飛ぶ。「麦秋」の風船のようでした。私もうっとり。遠くの梁に当ろうがまだ上昇を続けようとするパワーにも恐れ入った。ここの奥さんの話によると、家の窓ガラスをずいぶん割られたとか。老職人は「えへへ」。明日は職場に持っていって試験飛行です。
 四日目のモロゼビッチ対ラジャボフは92手の長い試合でした。Fritzで並べ返すと、双方に不可解な手やミスが目に付く棋譜です。とはいえ、二人とも五日目の相手には順当に勝って、前者が首位、後者が半点差の二位で前半戦を終えました。残念なのはカールセンで、三位に落ちました。五日目にヴォロキチンに負けてます。例によって、凡戦の負けパターンでした。
06/07/29 紹介棋譜参照
 私の仕事に余裕が出来たのを知って、職場の女の子たちが占いの依頼にやってくる。パソコンでホロスコープを作成したり、ありもしない名目で会議室を借り、タロット屋さんを開業したりして過ごした。
 三日目ではモロゼビッチ対ヴォロキチンが目を引いた。06/01/16で触れたクィーン捨ての実戦例を25手まで踏襲しているが、今回は85手もの熱戦になったのである。紹介棋譜にしたものの、難しい戦いで、私にはわからない。松戸チェスクラブ掲示板で大竹栄さんがビール諸棋譜のポイントを解説してくれている。そちらを参照してください。モロゼビッチは四日目もラジャボフに勝って首位カールセンに追いついた。
06/07/28 紹介棋譜参照
 6月から公私ともにずっと忙しかったのだが、ようやく一段落した。立ち直れる気はしない。
 ビールは二日目でカールセン対モロゼビッチが実現した。カールセンの仕掛けにとても感心したのだが、図はそれからさらに進んだ25.a6まで。白がポーンを捨てて、ナイトとビショップを敵陣内に潜入させたところである。モロゼビッチを相手によくもこんな形を実現できたものだ。これで白が主導権を握ったが、難しい戦いがずっと続く。しかし、徐々に黒が苦しくなり、最後にミスが出て勝負は着いた。カールセンがこれほどの戦上手に成長したとは。紹介棋譜に。ラジャボフも勝った。
 三日目はラジャボフ対カールセンの首位対決である。ベンコー・ギャンビットのポーン損が残って、しかも悪形で我慢する、黒がつらい終盤になった。しかし、私には解説不能だけれど、カールセンは68手を持ちこたえ、半点の獲得に成功した。これも成長を感じさせる。
06/07/26 紹介棋譜参照
 ビールは初日から三戦とも勝負が着いた。まず、モロゼビッチはブルゾンに黒番で貫禄勝ち。カールセンも黒番で勝った。ペルティエのクィーンを自陣に招き寄せて囲んでしまったのである。
 最も派手だったのがラジャボフで、昨年優勝のヴォロキチンに白番で勝った。図は9.g4. b5まで。そこからのラジャの構想が非凡だった。9.g4と指した以上、彼は黒b4の時、白Nd5に飛び出す覚悟を決めていたのである。すなわち、10.Bxf6. Nxf6に11.g5と突いて11...Nd7、黒ナイトを自陣に押し戻してから12.0-0-0が大胆だった。そこで、12...b4に13.Nd5と跳ねたのである。凡庸な前例と異なって、K翼を押し込んでいれば、この手が成立することを知っていたのだろう。以下、快勝である。
 8手目までの局面が最近は黒の勝率も良かったので、9.g4は話題になるのではないか。紹介棋譜にしたので、そのあたりを御鑑賞ください。
06/07/25
 スイスのBiel大会が始まる。モロゼビッチのための大会という印象が強いが、今年もそんな感じ。けど、ラジャボフとカールセンも出るので楽しみである。いままで3年間も「バイエル」と書いてきたけど、チェスドクターさんのように「ビール」と読むのが正しいドイツ語のようだ。フランス語で「ビエンヌ(Bienne)」と読んでも良いらしい。オメガやスウォッチで有名な時計街だとか。
 今月は見た映画でなく舞台の話を。梅田芸術劇場で維新派の「ナツノトビラ」を観た。音楽劇と言っていいだろう。ぬるいケチャという感じだった。強烈な夏の光の中で人の存在感が白く希薄になってゆく光景を漫画やアニメで見かけるが、私はあれが好きである。舞台でその感じが実現するのを期待して観に行って、そこは満足できた。

戎棋夷説