紹介棋譜 別ウィンドウにて。
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戎棋夷説

14/06/15 紹介棋譜4参照
 カパブランカのChess Fundamentals には当時の序盤定跡を詳しく解説した章が無い。不勉強で名高い彼に、そんなものを書けと言っても書けなかったろう。そのおかげもあって、いまだに古さが目立たない不滅の古典だ。序盤定跡の他にも、この本には書いてないことがいろいろある。現在なら、そうしたことも網羅してよく整った教科書がたくさん手に入る。私も何冊か買った。けれど、それを読み切ることはできない。楽しくないからである。14/05/14 に書いたのと似た事情だ。現代の教師が手際良く教えたとしても、チェスの魅力が伝わらなければ、生徒は途中で席を立つ。Chess Fundamentals が不滅の古典である本当の理由はここにある。
 図は「難しい終盤。ルークがふたつ」の例に使われた局面である。著者は白番で、黒番はヤノウスキー、一九一三年の対局だ。私ならK翼f筋からh筋のポーン数が3対2で黒が多数派であることを気にする。けれど、カパはK翼でパスポーンができると踏んでいた。黒陣の欠陥はc筋のダブルポーンである。黒がこれを少しでも改善するには、Pb6 からPc5 が適当だろう。実はそれは不可能だ、とカパは見抜いていた。「この事実だ、これにもとづいて白は立案する。Q翼での黒ポーンを足止めさせる。そうしておいてから、キングをe3 へ運ぶ。ついで、しかるべき時にPd4 を指し、最後にPe5 かPg5 でポーンの交換を強いる。こんな風にすれば、e筋に鮮烈なパスポーンを得られるのだ」。こう解説されると、とても簡単に思える。実際にカパは簡単に勝ってみせる。
 実戦の進行を見よう。まづ、27.g4 から始める。もうPg5 を考えているわけだ。黒はやはり27...b6 だった。上述のPc5 を考えている。対して、カパが用意していたのは28.b4 だった。これでPc5 は不可能なのである。ヤノウスキーは援軍を送って28...Kb7 だった。この手は、彼の目にはQ翼が主戦場として映っていたことを示す。本当はキングはK翼に送るべきだった。もっとも、ヤノウスキーのように考えるのが普通だろう。「本当」を知っているカパの直観がすごいのだ。さて、続いてカパは29.Kf2 だ。上述のとおりKe3 が予定である。私はこれにも驚く。敵ルークの面前にキングを向かわせるのが予定とは。もちろん、ヤノウスキーにも予定があった。彼は29...b5 を指した。狙いは、Kb6 からPa5 によって白のbポーンを消して、懸案の黒Pc5 を実現させること。で、ここが見せ場だ。カパの30.a4 である。もし、30...bxa4 なら、このあたり一帯の黒ポーンはすべてバラバラになって、いづれ収拾がつかなくなる。だから黒は取れなかった。そして数手後に白Pa5 が押し込まれ、Q翼は固まってしまう。主戦場になるとは、もうとても思えない。以下、カパの予定が実現するのを見るばかりとなった。紹介棋譜にしておく。
 私は考えたことがある。Chess Fundamentals を読んで強くなっただろうか。たぶん、否だ。私にはカパの教えるようには指せない。私の経験では、自分を上達させた本は二冊しか無く、本書はそういう実用的な珍しい本ではない。けれど、私はChess Fundamentals のおかげでチェスが好きになった。いま昔を振り返って、ほかにそんな本を思いつかない。質量ともに相手をうわまわる遠大な計画を立て、一切の反撃を許さず、盤面全体を支配して時間の進行と同じ速度で速すぎも遅すぎもせず着実に手順を進め、勝ちきる。自分の実戦でそんなことを実現できる日は永遠に来ないのだけれど、こんな風に指してみたいという憧れが、私をチェスから離さないのである。

Alex Dunne, Great Chess Books of the Twentieth Century より
Capablanca. Chess Fundamentals. G.Bell, 1921
 初版はロンドンである。同年にニューヨークのHarcourt and Brace からも出た。一九三四年に第二版が出て、著者の新しい序文が加わった。私が持っているのは一九四九年のDavid McKay 版だ。第二版と同じだろう。序文と全体のページ数で判断する限り、内容は初版と変わり無さそうである。
 前世紀の日本のチェスファンにはよく知られていたことがある。フィッシャーもカルポフも終盤が得意で、それはカパブランカの棋譜に学んだ結果である、という話だ。カパの明解で構成がしっかりした棋風は、書道でいえば最初に習うべき楷書に等しい印象もある。そんなわけで今世紀の初めまで、アマゾンでチェスの洋書を検索すると、カパブランカ関連の本が何冊か上位に現れたものだ。本書はその常連の一冊だった。私もチェスを本格的に勉強しようと思って最初に買ったのがこれだ。神保町のタトル商会だった。この洋書店も八年前に無くなっている。
 第一部の第一章は、白がキングとルーク一個だけ、黒はキングだけ、そんな初歩的な局面から始まる。だんだん条件を難しくしつつ、中盤や序盤の心得も語られてゆく。第二章も基本的な終盤技術だ。ただ、難易度が高くなってる。白がキングとクィーン、黒がキングとルークの場合の三角法なんかだ。第三章と第四章は中盤についてで、やはり難易度が高くなっている。特に第四章は高度だ。たとえば、主導権をテーマに選んだ場合、まづ、徹底的に攻め切る棋譜を紹介し、次に、敵陣の弱点を狙いつつ主導権を維持する棋譜を紹介し、最後に、いったんポイントを稼いだ後は相手に主導権を渡してしのぐ棋譜を紹介する。第五章は実戦例を使用した、手数が長くて構想力の問われる終盤について。カパブランカにしか書けない傑作だ。そして、第六章で駒組についてやや簡単に語って第一部を終える。第二部は実戦集だ。収録された十四局のうち六局が敗局である。十二歳の頃からプロと戦って当時まだ十二局しか負けたことのない天才の六局だ。世にも珍しい自選敗局集なのである。これは、My Chess Career の語り口があまりに偉そうで反感を買ってしまったから、それを和らげるため、謙虚に敗局を多く採り上げたのだ、と言われている。あの一九一四年のラスカー渾身の勝負術を敗者の側から読めるわけで、貴重だ。
 史上最高のチェスの本は何ですか、の答として、一九八四年のボトヴィニクは本書を挙げたそうだ、「いまだに現代的だし、どんな棋力の人にとっても価値がある」。もちろん二十一世紀の今日でも、さまざまな版がいろんな出版社から出て、売れ続けている。

14/05/31
 レイティング1401から1600の中級者を対象にしたchess.com の第一七期大会で優勝した。持ち時間は一手三日で、参加者が二〇九一人いたので、終了するまで二年半もかかった。成績は三八勝二敗二分である。六人が一斉に白番黒番五局づつ計十局を指すリーグ戦を四ラウンド勝ち上がり、最後に残った二人が決勝で同時に白番黒番の二局を指した。開始時の私のレイティングは1432で、終了時は2165まで成長していた。全会員四十二万人の上位0.2%にあたる。それより、いま四歳の息子が開始時は一歳だった、と気づいて感慨が深くなった。
 二敗した準決勝がきわどかった。自戦記第二七局と第三〇局を勝てたのが幸運だったのである。やや不利だった一局を粘らず思いきって投了し、この二局に精力を集中する方針を選んだ決断が、結果として成功したようだ。特に第二七局についてはメモを五百手くらい書きためた。将棋式の数え方では千手である。勝つためのこういう方針や執念が、ほかの参加者をうわまわっていたようだ。実際、参加者の棋譜を調べたところ、私より強いのが何人かいた。ただ、彼らは二年半の持続に耐えられず脱落してしまう。勝つ、ってそういうことなんだな、と思った。正直なところ、これについては誇らしさよりも自分の浅ましさがみっともない。こんな大会に勝ってもたいして意味無いのに。ただ、ここまで頑張って優勝できずに終わるのは堪え難い屈辱だったろう。専門棋士たちの負けず嫌いにちょっと共感できた。
 決勝の相手は私とは対照的だった。準決勝を説明するだけで充分だろう。彼は私よりも二局少ない八局で済んだ。そして、そのほとんどが相手の試合放棄による短手数局なのである。八局の総計で六五手しか指していない。一局平均八手で勝ち上がったわけだ。かたや私の苦労はすでに述べたとおりで、一局平均三二手で這い上がった。そうなると、私の気持ちとしては「こんなやつに負けるわけにはいかない」。この気負いは「激戦を経てきた自分の方が強いはずだ」という思い込みから生じていて、それが油断につながった。図は黒番局で、すいすいと16...Qxb2 で敵陣突破を果たしたところである。ところが、17.Nd5 を食らって目が覚めた。「強いやん」。なんとか頑張り、これは引き分けにおさめて白番局に集中し、そっちで勝負をつけることにした。結果的にこの方針が幸いしたと思う。どのくらい集中したかというと、メモを数えたら八一一手にのぼった。将棋換算で一六二二手である。形勢互角の陣形戦が延々と続く、難しいチェスだった。自戦記第三二局としてここに記念する。

Alex Dunne, Great Chess Books of the Twentieth Century より
Capablanca. My Chess Career. Bell & Sons, 1920
  私が持っているのは、チェルネフが序文や後書を付けた一九六六年のDover 版で、これはこの会社のチェス書籍の売り上げ第九位だったという。二百頁弱というほどほどの厚さに三十五局が収録されている。パラパラっとめくって、余白が大きく、活字も大きい。そして、とても読みやすい英語だ。手に取った者をほっとさせる。何より、解説が素晴らしい。棋譜はカパブランカの神童時代から世界王者になる直前までのイキの良い名局ぞろいだ。売れて当たり前である。初めて読むチェスの洋書を探してる中級者が「楽しくって専門的にも名著で難しくない最高の一冊」を注文したら、私は黙ってこれを差し出したい。
 自戦記本の新しいスタイルを本書は確立したという。たとえば、カパ以前で私が持っているのは、一八九五年のタラッシュと一九一四年のマーシャルだ。どっちも高名な本で、特に前者は当時最高の理論的な水準を示している。後者から述べると、これは解説があっさりしすぎており、隅々まで一局を楽しみにくい。ラスカー的だ。前者は本書と似たところがある。筆者の生い立ちや対局当時の事情と心境がつづられている。ただ、タラッシュはとっつきにくい。まづ、三百局もあって読み切る自信を失わせる。解説も微細で難解な変化手順に分け入ってゆくことがしばしばだ。むしろ現代の主流に近い。それはそれでタラッシュのすごさなのではあるけど。
 対して、本書の素晴らしさは、要所で簡潔な解説がほどこされ、そして、圧倒的な才能の豊かさが全体をおおらかに包んでいることだ。そもそも棋譜自体がややこしい解説を要求しない天才独特の明快なものだし、また、たけのこが瞬時に空まで突き抜けるような生い立ちを持つ者のエピソードに陰のあろうはずが無い。一例を挙げよう。
 図はカパブランカの黒番で、一九一三年のリガで指されたニムゾビッチ戦である。本書では一九一四年と記されているが、諸書に従っておく。ここで26...c5 が局面の本質を射抜いた。いちいち白Bxc5 を解説する人がいないほどである。正直なところ、私の第一感はBxc5 なので考えてみると、黒は安心してBxg4 を取れる、ということだろう。fポーンが安全なパスポーンになっている。また、黒Rd2 の侵入も可能になっている。つまり、27.Bxc5. Bxg4, 28.Bxa7. Be2, 29.Rf2. Rd2 はきっと黒勝勢だ。ではニムゾビッチはどう指したか。
 カパはこう書いている。「もし、27.Rxf3. cxd4, 28.Rd3. Rc8 なら、実質的に黒がポーン得である。相手は別の筋を選び、色違いのビショップを残すことにした。それなら引き分けを得られるはずだ、と彼は考えていた」。本譜の進行はニムゾの読み筋どおり、27.Bxf6. Rd1, 28.Be5. Rxf1+, 29.Kxf1. Bxg4 だった。で、カパは書く、「もうどうしようもなく私の勝ちだ」。史上最強の大関の一人を相手に、その構想を受け容れた横綱相撲である。カパはみづからルークを消去し、色違いビショップの終盤で一息つき、あっさり「勝ちだ」と確認するのである。そんなまさか。色違いビショップは引き分けでしょ。信じられず、最新版のBasic Chess Endings を調べたところ、やっぱり黒の勝ちだった。ただ、すごく難しい。そこをごちゃごちゃ解説しないのが本書である。読者はスケールのでかい大局観に度肝を抜かすだけでいい。
 カパブランカは後日談を付け加えている。いかにもこの対戦者の二人らしいエピソードだ。ニムゾビッチは敗戦が納得いかなかった。研究しぬいて、数か月後、カパブランカに再会すると言った、「あれは本当は引き分けでしたね」。たぶん、カパブランカには局後の再検討なんてどうでもよかったけれど、粘着質の理論家に付き合ってやることにした。さっそくその場で「本当は引き分けだった局面」が再現され、対局が始まった。そして、数手でニムゾビッチは投了したという。

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