07/03/18に戻る

角田喜久雄『妖棋傳』冒頭 第一章「なわいたち」

原文の色(本文は春陽文庫1991年刊を使用) 私のコメントの色

 舞台は享保元年の江戸の町です。主人公の若者、武尊守人(ほたかもりんど)が人気の無い月夜の道を歩いている。そこへ、どさっと音をたてて崩れ落ちる男の影が、、、。

 倒れてうずくまった男は、それきり身動きもせず、断末魔を訴えるようなうめき声が不気味に、とぎれとぎれに聞こえてきた。
 守人はちょっとまゆをしかめたが、つかつかと寄っていって、
「どうなされた? しっかりしなさい」
 と声をかけたが、倒れた男が左手で抑えていたわき腹からおびただしく噴き出ている黒いどろどろの液体を見て、
 −医者も、もう間に合わぬ−と腹の中でつぶやいた。
 黒装束に野駆けわらじ、緩んだ覆面の間から現れている苦悶にゆがんだ形相も、一癖も二癖もありそうな男だ。
 守人は耳へ口を寄せて、
「しっかりなされ。何か言いおくことはないか? 遺言はありませぬか?」
 と、声をはげませた。
「むむ……」
 男は、懸命に、何かいおうとしているのである。
「さあ、しっかりして。いうことがあれば……」
「むむ、ううう……」
 男は、体を痙攣させた。そして、努力して目を開きかけたが、もう視覚はないのであろう。
「ううう……」
 とくちびるを震わせて、必死の努力で、
「うう……や……」
 何かいおうとしているのである。
「え? 何?」
「ううう……や……ま……」
「や、ま……それから?」
「や、ま……、び、こ……」
「や、ま、び、こ……。よし、それから?」
「う、う、う……」
「しっかりなされ!」
 男は、しかし、全身を激しく痙攣させて、だめか、とつぶやいた守人に半身を托したまま、がっくりと動かずなってしまったのだった。
 −南無阿弥陀仏−
 死骸に目礼して、辻番所へでも届けてやろうと、つぶやきながら、立ち上がろうとした守人のひざから何かころりと転がり落ちた物があった。男が最期まで右手につかんでいたものだ。拾い上げてみると、一枚の将棋の駒−銀将なのである。

 そこへ「目も鼻も、膿みつぶれてけじめのつかない」容貌の男が現れ、「おい」と守人を呼び留める。いま拾った銀将を渡せと言うのです。

「おらァ、一度もらおうと思った物ァ必ずもらわずにおかねえ性分なんだ。おとなしく、出すものを出しちまえ」
「みども、一度渡さぬと思ったものは必ず渡さぬ性分だ。断ろう」
「ふふふ……味なせりふで来やァがった。鼻っ張りの強い小僧だのう」
 醜怪な顔を一層醜く引きゆがめて苦笑いしながら、
「で、てめえ、おれの名前を知ってるか?」
「みども、化け物に知り合いはない」
「わっはっはは……言ったな、小僧。だが、覚えとけよ、おれの名を、餓鬼の虫封じにゃ効験あらたかだと江戸中でのおうわさだ。なわいたち……縄いたち。聞いたか、小僧。それがおれの名だ」
「え?!」
 守人は思わず声を上げて相手の顔を見直した。
 そのころ、江戸で、悪鬼のように取り沙汰されていた縄いたち。夜の大江戸に通り魔のごとく出没して、魔力を持った一条のなわを電光のごとく降るっては当るを幸い暴行を働くと恐怖せられていた縄いたち。醜怪な容貌と、野獣のような行動と、魔性に近い縄術とをもって縄いたちと呼ばれていた素性不明の男。

 縄術(じゅうじゅつ)とはまた面白い趣向でしょう。そう聞いて、守人も引き下がるわけにはいかない。実は彼もこの道には覚えがあったのです。やるしかない。殺陣の歴史でも珍しい縄対縄の始まり始まり、、、。

 守人は右手で内懐のなわの端をつかみながら、気息をととのえて相手の攻撃を待っていた。
 飛竜の構え−縄術の攻撃姿勢としては最も有効なもので、なわが右手から繰り出されるか左手から飛び出すか不明なところに、その構えの眼目があるのである。
 縄いたちは、じりっと一歩進んで、またじりっと一歩退いた。その瞬間、がっ! と空気がつん裂けて、その左そでから流れ出したなわと守人の右手から飛んだなわとが、中央に白く流星の尾をひいて、びゅんと音して触れたと思うと、一瞬、まるではじかれたように

 あとはひみつ。