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第66期名人戦第二局二日目夕憩後、2008(平成20)年3月24日
先手、挑戦者、羽生善治。後手、名人、森内俊之。

 家の近くに仁徳天皇陵に隣接した大仙公園がある。あちこちの芝生や地べたで将棋が指されている。さすが阪田三吉の土地だ。この園内の茶室伸庵で名人戦第二局が行われた。大盤解説場に行きたい。朝早くに嫁が大仙公園まで出かけて整理券を獲得してくれたおかげで、私は夕方の会議をすっぽかし、終局までの二時間半ほども大盤解説に熱中することができた。一手々々を臨場感ほかほかの状態でプロに解説してもらえる悦びに浸った。深夜を過ぎてからのテレビ解説も見たが、結果を知った上での局後の視点で語られてしまう点が物足りない。
 実は嫁は整理券を二枚も手に入れていた。将棋を知らなくても興味を引かれたようだ。最後まで集中して楽しんでいた。最高の舞台の何かが伝わったらしい。会場を出る時にいわく、「あたしも将棋おぼえようかな」。

 夕食休憩が済んで六時半から対局再開。会場は市の博物館の広間で、対局場からは歩いて二分ほど。椅子は七十脚ぐらい用意されていたと思うが、もちろん最後は立ち見が出た。

▲1八角 △2六歩 ▲5七飛 △2七歩成 ▲6三銀 △4二王 ▲4七飛 △1八と ▲5四歩

 解説一番手は山崎隆之と矢倉規広だった。控え室では先手と後手と支持は半々だったとか。夕食後の対局は▲1八角から始まった。この手は谷川浩司も予想していたという。森内も覚悟はできていたはずで、△2六歩は速かった。
 △2七歩成が控え室の予想を裏切った。△1四角成に▲6四銀か▲2五歩かを検討していたのである。前者には受けの好手があって後手が良い。これを会場のファンが当てて山崎を感心させていた。堺人、恐るべし。
 ▲6三銀は駒音が高く、羽生は自信がありそうだった。△同王は▲2七角から▲4七飛で良い。山崎と矢倉はぜんぜん関係ない筋にはまって解説を続けていた。

 七時から西川慶二と村田顕弘が立った。プロほやほやの村田はこれが初仕事だ。

 △5四同銀 ▲同銀成 △同 歩 ▲7五角 △5一王

 5四の歩を取る一手だろう。先手には▲6五桂と▲7五角が見えている。そこで△5四同歩を二人は検討していたが、実戦は△同銀だった。
 ▲7五角に森内が頭をかかえた。「やってくれるなあ」という顔だった。苦戦の表情というより、苦しいながらも戦える幸福感が垣間見られた。解説は△4三王▲6五桂を検討。これに△3四王は▲5三角成くらいで寄ってしまいそうなので、△5二金の増援を考えたが、当然▲4一銀が痛い。
 先手が良いのかな、いや、そんな簡単に良くなるわけがないんだけど、でも良さそうだな、という空気が初めて流れた。そこで久保利明と阪口悟に交代である。七時二十分。
 さて、阪口は「後手が良い」と主張した。△5一王の深い議論が始まる。そして実戦も△5一王だ。会場に熱気が湧いてきた。

 △5一王は妙手だった。先手の攻めが届かない。たとえば、▲6五桂△5六角▲5二歩△同金▲5三歩△6二金▲5七飛△6五角にやっと▲7一銀を打てるが、その先が「意外に寄らないね」。仕方なく、▲5三歩のところで▲2七飛に転ずる手に変えたが、「攻めが細い」。さかのぼって▲6五桂でなく▲5七飛にしても△3五角▲5二歩△6二王で後が続かない。
 しかしながら、後手が勝つともおいそれとは言えない。先手がぎりぎりの攻めをつなぐかもしれないではないか。

▲6五桂 △5六銀 ▲2七飛 △6五銀

 形勢はどうなんだ。緊張が高まる中、▲6五桂が指された。久保の解説はやや判断停止気味になってしまい、「桂が飛んだからには何かあるんでしょう」。

 本譜の△5六銀と解説の△5六角の比較はあまり語られなかったが、角を手持ちにしてるぶん、対局者の方が正しそうな雰囲気だった。左の図で▲5三角成△5五角が解説された。以下、▲5二歩△同飛▲同馬△同王▲8二飛△7二角である。
 だが、今度は羽生に妙手が出た。

▲3三歩成 △同 桂 ▲3四歩 △4五桂

 △5五角を打たれて3三を守られる前に▲3三歩成から▲3四歩である。もし△2六歩なら▲3三歩成△2七歩成▲3二と、「角成ればほぼ必死ですね」。だから森内も△4五桂、すごいことになってきた。
 七時五十分、ここで解説交代である。畠山鎮と岩根忍が拍手で迎えられた。

 ▲4五同歩ならどうなるか。△2六歩▲同飛△3五角で王手飛車だ。守っていられない。

▲3三歩成 △5七角 ▲同 角 △同桂成

 岩根が奨励会に居たころの幹事が畠山である。しばし思い出話に花が咲いた。「君は男の子みたいだったね」「それは内緒にしといてください」「将棋大会なんかで男子トイレに行かされそうになってたでしょ」「もー!」
 八時をまわると森内の残り時間は10分になった。羽生はまだ30分ほどありそうだ。この頃に実は大仙公園の駐車場が閉まる。私は嫁の運転で来ていたので、彼女は退席するしかない。ところが、駐車場のおっちゃんは、「今晩はええって。終わらんのやろ。九時半まで待ったるわ」、もし九時半でも終わらなかった場合は「仁徳さんに停めとき」、おいおい、天皇陵だぞ。関西人の冗談はあぶない。そんなわけで嫁はまた会場に戻れたのだった。

 畠山の読みは▲5七同飛△3三銀で「もう一番」。長い将棋になりそうだ。形勢判断は「桂損の攻めで足がやや遅くなってる羽生」だが、「△5七角は粘りの手なので森内は不利を感じてる」。次の一手が本局で一番私が感動した場面だ。

▲5七同玉 △3三金 ▲5二歩 △同 飛 ▲5三銀 △2四歩 ▲5二銀成 △同 金 ▲6四桂 △5三金

 ▲同玉を見て会場にさざなみが立ち、そして粛然とした。ここで勝負を着けるのだ、という羽生の強い決意が伝わったのである。
 もっとも、解説が楽な局面になったわけではない。羽生が手洗いに立つ。終局前によくある勝者の儀式か。席に戻り、五分ほどして八時半、△3三金の局面で解説は山崎隆之と阪口悟に代わった。いくら検討しても先手に光明が見えない。羽生は自信があって攻めているのだろうか。

 先手の攻めが難しいのは▲8二飛が打てないからだ。△9三角が王手飛車になる。で、解説の二人は手の込んだ策を練らされるのだが、らちが明かない。

▲6八玉 △5五角 ▲7九玉 △6四金 ▲8二飛 △5二銀

 ▲6八玉には、「あ、なんだ、それでいいんだ」という気味があった。これで王手飛車が避けられる。でも、△5五角もなかなかの手に見え、まだ先がわからない。
 そこで、ためらいがちに阪口が言った、「も一回引いて▲7九玉はぬるいですかね」。山崎は感心しない。阪口、「ぬるぬるですか」。山崎「それは、、、」と言いかけたタイミングでモニターに▲7九玉が映って「いい手ですねえ」。場内おおうけだった。
 ▲8二飛でやっと羽生は勝ちを意識したという。

 「攻めてるぶん先手が良いと思う」と言いながら、山崎はずっと後手に勝ち目があると思っていたのではないだろうか。阪口と漫才のようなやりとりを続けながらも、先手の勝勢を宣告することは無く、手の予想に悩んでいた。実際、先手は歩切れがつらかった。

▲1八香 △4二王 ▲6一角まで羽生善治の勝ち。

 「歩が欲しい」と阪口も認め、突然、口走った、「こんな所に!」と1八を指す。なんか媚びるような目付きで山崎に訴えかけるが、先輩は冷たい、「あー、局面を広く見てるのはわかるんですが、そんなことばかり考えてるから、いつもあなたは逆転負けを、、、」と言ってるうちに、羽生の手が伸びて▲1八香を指した、すかさず感極まる口調になって「いい手ですねえ」、場内はさっきを上回る大爆笑になった。△4二王ではもういけない。▲6一角でストンと終わった。八時五十分頃だった。

 嫁によると、熱心に大盤を凝視していた小学生がいた。せがまれて仕方なく母親が連れてきたらしい。とはいえ夕餉の支度もせねばならず、途中で引き上げるしかなくなった。子を気にしつつ帰り際に訊いたそうだ、「面白かったの?」。息子は満面の笑みとおっきな声で答えたという、「うんっ!!」。「そうか、また来よな」、「うんっ!!」。


※△2七歩成のところは控え室の読んでいた△1四角成の方が正着だったそうだ。「囲碁将棋ジャーナル」も「将棋世界」も、▲6三銀の後は先手が優勢として解説している。しかし、これは対局が終わってやっとわかる局後の判断だ。スクイズ失敗の後に「あれは無謀だった」と論評するのと変らない。すべからく解説とはそのように書かれるが、本当はもっと対局時の空気を伝えるべきではないか。なお、感想戦で提示された変化は△1四角成 ▲6五桂 だったが、森内にはあんまり気乗りのしない流れだったそうだ。