紹介棋譜 別ウィンドウにて。
HOME
現在に戻る
羽生善治と朝吹真理子の対談、十字架上のキリストの最後の七つの言葉

11/06/23
 終わり良ければすべて良し。第七局でやっと名局が見られて素晴らしい名人戦だった。第六局の熱戦くらいでは私は不満だった。
 封じ手は▲5三桂左成だった。森内は一気に決めにきた。強手を連発して突き放そうとする。△4五歩に対し、検討陣を驚かせたのが▲4四角だった。いつもの彼らしくない。それがこの日は迫力を感じさせた。先手乗りの声が高まってゆく。羽生は耐えた。すると森内にまた好手が生まれる。非情な展開になった。
 △3五歩に▲6六飛かと思うと▲1六飛である。なるほど、△6二角▲2六歩で飛車が死んだ。つうか、「おわ」だ。と思いきや△6五角が素晴らしかった。以下、▲5三桂△3一玉▲4四成銀△4六歩で、初めて先手の石垣に指がかかった。名局顕現である。
 そして、羽生お得意の△2七銀まで登場する。だが、さすが森内は崩れない。▲2六飛△3八銀成に▲3九銀で応えたのだった。
 封じ手の段階で、羽生がやや指しにくかったろう。その微差がどうしても縮まらない。逆に言うと、広がりもしない。しかし、再度の△2七銀が打たれた時、ついに終わりが訪れた。▲5四桂である。△6三角で両取りを食らうようだが、▲6二桂成△8一角に▲7六角が決め手になった。この詰めろを△5四飛で止めた羽生の心中の悲痛はいかばかりか。▲5一成桂以下、確実に寄せて森内が名人復位を決めたのだった。
 11/03/03 で書いた「1点のリードを守りきる森内将棋の真骨頂」をまた見たわけだ。三月からの記述を振り返ると、羽生ファンの私でも、今期は良い結末だったと思える。羽生だって自分のスタイルが後半戦で戻ってきたのだから、まだ期待できる。
 二ヶ月半もほぼ毎日『十字架上のキリストの最後の七つの言葉』を聴き続けて、とうとう飽きなかった。おかげで買ったままよく聴いてないCDがたまってる。今日からそれを片づけていこう。変ったところでは、ルドルフ・ゼルキンが弾くショパン『二十四の前奏曲』がある。有吉道夫の三間飛車みたいでしょ。私も最初は何かの間違いかと思いました。馬鹿にせずアマゾンかどっかで試聴してみてください。良いんですわこれが。
11/06/22
 挑戦者森内俊之が三連勝して始まった名人戦は、羽生善治名人が三連勝し返して最終局を迎えた。私の予想は「矢倉を避けた方が負け」。あららー、後手羽生の横歩取りになった。初日は第50手△6四歩に対し1時間59分考えて森内が封じた。五時から一時間のテレビ放送は一手も指されず。けれど局面は緊迫しており、解説の充実した番組になっていた。
 検討されていた50手目は△3三桂だった。△6四歩が意外なのは、▲8二歩に対する△8四飛を消しているからだ。先手が桂を持てば▲1五桂がきつそうだ。だから▲8二歩を指したい。いやそれだけに、羽生は▲8二歩を誘っているようにも見える。そこに森内は突っ込むか。▲8二歩のほか、▲5三桂左成もある。△同銀▲同桂成△同角で飛車を逃げずに▲4五銀だ。これも読み筋に突っ込む手であることは言うまでもない。そして、この二通りしか無さそうである。長考は当然だった。こういう厳しい流れは羽生の負けパターンだよなあ。
 『名曲名盤300』の新版が出た。こうした企画を読む人は普通は不満を持つだろう。各自の愛聴盤の評価が低いからである。私も「よーしムカムカするぞお」と張り切ってページを開くと、すべての弦楽四重奏曲でアルバンベルク四重奏団が一位を占めていた。ムカムカムカムカムカムカ。どの曲に関しても同じ結果というのは批評の不在に等しい手抜きではないか。特に私はあのカルテットの出すエレキギターのような高音が堪えがたい。刺激の強い演奏をもてはやす傾向があるのだろう。ハイドンの交響曲では11/03/31 に述べたブリュッヘンが支持されていたし、ブラームスの一番では11/04/25 で大笑いしたミュンシュが圧勝していた。
 ベルクQに代表される傾向の対極にあるのがイザイ弦楽四重奏団だろう。『名曲名盤300』ではほぼ黙殺に近い扱いである。実力は認められているだけに、この不遇は時代が悪いとしか言いようが無い。さて、『十字架上のキリストの最後の七つの言葉』の聴きくらべは、彼らの二〇〇五年の録音が最後の一枚である。ここまでの九枚すべてがそうであったように、今回も演奏者の特徴がよく出ている。音はやわらかく、感情のたかぶりをあまり示さない。十枚で最も知性を感じる。残響の無い録音も私の好みだ。五段階評価で四点だ。演奏に不満は無い。このCDは写真家ジェラール・ロンドーと思想家ミシェル・セールとのコラボレーションであることが特徴だ。写真は普通の出来である。そして、演奏の合間にセールの言葉が自身の朗読で挿入されている。英訳で読んだ。つまらない。鑑賞の邪魔にならぬ写真は我慢していい。朗読が減点の理由だ。
11/06/21
 コルチノイと加藤ですぐわかる違いは、ライバルや若手への発言だ。個性の違いのほか、日本の将棋界の体質も関係あろう。コルチノイの毒舌はいまさら言うまい。対して、加藤の『老いと勝負と信仰と』には悪意がまったく感じられない。米長邦雄から「あわれみ」を受けた一件が良かった。肌の合わない二人が百度を越えて盤をはさむと、二人にしかわからない通い合いが果たされる。読んでいて私にもよくわからない境地で、加藤と米長を知らない人には棋士間の談合将棋のように誤解するかもしれない。たしかなのは、これが米長の口調で語られたら嫌味だろうな、ということだ。加藤がしゃべると、歴史上で数組の棋士しか体験できなかった底抜けに純粋な尊い何かが、わからないなりに垣間見られる。若手への発言では森内俊之評を紹介しよう。残り時間が一分になっても加藤は「あと何分っ?」と何度も尋ねる。「そんなとき、ふつうは皆さん、黙して語らずなのですが、森内さんはハハッと爽やかに笑われた。その瞬間、ほんとうにこの方はいい人なんだなと感じましたね」。
 あんまり好きぢゃないのに買うのがエマーソン弦楽四重奏団である。フーガの技法を二重録音にしたり、ショスタコヴィチ全集をライヴで録ったり、独特の試みが店頭では興味を惹くのである。ところが帰宅して聴くと、音がなめらかすぎて、全体がつるつるしていて、つかみどころが無くって、つまり、世田谷の優等生みたいにつまらない。この繰り返しだ。彼らを「鋭い」とか「過激」とか評する人を、私はまったく理解できない。ウィキペディアの解説が見事だ、「いくぶん力強さに欠けるきらいがあるものの、陰影に富んだ表現と軽やかなリズム感を特徴とし」とある。
 エマーソンは『十字架上のキリストの最後の七つの言葉』を二〇〇二年に録音している。彼ららしい一枚だ。独特の試みがある。一曲多いのだ。この曲のオラトリオ版に使われた曲を加えてある。そして、「軽やかなリズム感」に驚かされる。第二曲「今日あなたは私とともに天国にある」など特にそうだ。この曲を、休み無く前へ前へと跳ねるように聴けるとは思わなかった。五段階評価で四点である。物足りなさも彼ららしい。
11/06/16 紹介棋譜参照
 コルチノイのインタヴューも、加藤一二三の新刊『老いと勝負と信仰と』も、宗教について語っているのが興味深かった。前者はシニカルに、後者は真率に。どっちも、度が過ぎており、本気か冗談かわからない部分がある。加藤はタイトル戦で、ミサを受けてから対局場に向った時があった、すると、「ふだんは混雑してなかなか進まない道が、なぜか私を乗せた車だけが信号にもあまりひっかからずスイスイ進んでいく」。もちろん将棋も清々しく勝った。コルチノイとペトロシアンの不仲は有名である。コルチノイが祖国を捨てねばならなかった一因が、ペトロシアンの嫌がらせである。しかし、亡命後、より長生きしたのはコルチノイであり、二度の番勝負に勝ったのもコルチノイだった。「どなたかが仕組んでくださったわけよ、神がね」。
 2勝0敗7分で終わった一九八〇年のマッチなど、本当はコルチノイが五敗してもおかしくなかった、という評判だった。「どうすりゃペトロシアンが五局のうちひとつも勝てないほど下手くそになるのさ」。神の御業を確認しておこう。図は第七局で、22...Nh4, 23.0-0-0 まで。黒ペトロシアンが白K翼に殺到したところである。見事な手順だった。勝勢である。ところが、ここで普通に23...Nf3 で良いところを、23...Kh8 と指してしまう。たちまち24.Nxe4 をくらった。24...dxe4 なら25.Rg3 でQが死ぬ。
 『十字架上のキリストの最後の七つの言葉』の聴きくらべは一九九四年録音のクイケン弦楽四重奏団まできた。やっぱりこれが最高である。五段階評価で5点だ。4.98とか5.37とかではなく、きっちり5.00という精度が良い。CDの解説には、「特に嬉しく思うのは、その丁寧な響きの作り方だ」、「この曲が、響きそのものによって、そして、休符さえもがこんなに美しいと知るのは、あるいはこれが初めての経験かも知れない」(飯森豊水)とある。残響が強い。余韻がたっぷり残る。それをぢっくり聴かす充分な間をあけたのが特徴だろう。すると、音楽が対話になる。音が止み、黙り、次の音が応じて意見を述べ、黙り、また最初の声が話題を建て直す。序章などは名曲と言うより名局。秀策と秀和が打ってるような静かさ厳しさである。これがこの曲の本質ではないか。
11/06/09
 大分からの帰りの新幹線はNew In Chess を読んでいた。八〇歳になったコルチノイのインタヴューである。高齢の棋士と言えば自然に浮かぶのは加藤一二三だ。どうしても比べることになる。嫁は加藤を「猫おぢさん」として認知している。将棋を知らない人が、こうして彼を逸話だけで理解するのはしかたない。嘆かわしいのは将棋ファンだってそうだってことだ。「重厚な攻め」とはみんな言う。そしてそれだけだ。たしかに棋風はわかりにくい。11/03/09 に『実戦集』を読んだと書いた。その時の印象を言うと、彼の将棋は自己表現ではない。わかりにくさはそのあたりに由来するのではなかろうか。自分の指したい手を実現させるというより、まづ相手の指す手から考える、そんな意味合いの強い自戦記だと感じたのである。人の考えをさぐる、ありていに言えば、疑う将棋である。果ての無い猜疑心が大長考をひき起こしているのに違いない。それは「信じたい」という気持の裏返しであると考えれば、彼の信仰も理解できる。大山康晴はそこにつけいっただろう。むごい話である。
 おそるおそる聴くのがモザイク弦楽四重奏団である。本来は楽しい曲でも不吉な緊張感がみなぎる。彼らに一番近い演奏は『2001年宇宙の旅』の「でいぢーでいぢー」ってやつだ。えらく遅いとこもよく似てる。そして無機質だ。私は怖いもの見たさで彼らのCDをつい買ってしまう。モーツァルトはちっとも楽しくなく、安らぎも無い。ハイドンでは「五度」が好例だ。「ハイドン決死隊」と私は呼んでいる。彼らの芸風が『十字架上のキリストの最後の七つの言葉』では見事にハマった。図らずもカトリックの薄気味悪さがよく出てる。五段階評価で六点である。一九九二年の録音。
11/06/07
 私が職場で秋元康だった頃のAKBの一人が結婚するというので大分まで行ってきた。おかげでNHK杯の将棋が見られなかった。二度も千日手になったらしい。痛恨の録画忘れであった。Amazon で「Everyday, カチューシャ」のレヴューを見ると、音質の悪さを指摘する不満が多くて驚いた。私はカペーやリパッティのファンなのだ。特にカペー弦楽四重奏団はアリョーヒンがカパに勝った翌年の録音である。木村義雄はまだ八段だった。音質の悪さなんて言ってられっか!
 フェステティチ弦楽四重奏団は説明しにくい。たぶんカール・ベームと似た事情ではないか。言語化できる特徴が無いのだ。でも言ってみよう。せっかく個々の弦の音がたっぷりしたカルテットなのに、それを放り出したまんまにして、まとめない。「髪五尺ときなば水にやはらかき少女(をとめ)ごころは秘めて放たじ」という風情である。官能的なばらんばらん。専門家による紹介で、ひとつだけ納得できたのを引用しておく、「美醜併せのむかのような多彩な音色パレット、各声部が対等なテクスチュア処理、平均律とは異なる不等分なピッチとかなりヴィブラートを廃した故に独特の響き、切るべきところは情け容赦なく切る十八世紀風なブツ切れのアーティキュレーション」(安田和信)。屈託なく朗々と旋律が伸びるので、私は長らくイタリアのカルテットだと勘違いしていた。「元気が良い」と評する批評を読んだこともある。これは言いすぎだろう。『十字架上のキリストの最後の七つの言葉』は一九九一年の録音である。彼らの特徴がよく出た名盤だ。五段階評価で五点である。欠点は「フェステティーチ」なんだか「フェシュテティチ」なんだか、わからんところだ。
11/05/31
 こんな想像をしてみよう。日本のCD屋さんにはほとんどバイエルとかブルグミュラーのピアノ曲しか置いてなかったのに、ある日、いきなりクセナキスの「シナファイ」が店頭に並んだら。しかも売れたら。チェスの入門書が中心の日本の本屋さんで水野優訳『ボビー・フィッシャー魂の60局』を見た衝撃はそれに近い。痛快である。売れるとも思う。『チェス戦略大全』や『チェス終盤の基礎知識』以来、棋書の出版事情が変わってきた。
 私が読んだのは二十年ほども前のことだ。なにせ二十世紀後半で最高の実戦集である。よくわからなかった。たぶんいまでもわからない。それでも私は、チェスを知りたいすべての人に、ルールを知らない人にさえ、本書をすすめる。熱心に読む人のレベルに合わせて、フィッシャーにとってのチェスとは何であるかを伝えてくれる。フィッシャーのチェスは人間の知恵と根性を使い果たす死闘だ。どうも全面的には支持しかねる邦題だけど、「魂の」というのはこの点で言い得て妙だと思う。
 私はアップテンポのポップスは好きだ。それから、「海ゆかば」のように、クンっと急に音程が上がる曲も好きだ。そんなわけで、「十字架」を何章か聴いたら、三回はネットの「Everyday, カチューシャ」に見入っている。「かちゅーしゃはずしながらきみがふいにふりかえって」ってとこが良いのだ。これがAKB48 かあ。私は女の子が多い職場にいたことがあったので、雰囲気がわかる。彼女たちをモルモットにして、私のタロットや易の技術は磨かれたのである。「みんな元気だけど悲しいよね」とか思って、四十八人の水着踊りに私は涙ぐむ。
 今日の「十字架」はクレーメルが中心になった弦楽四重奏による一九八一年の演奏を。ハイドン音盤倉庫で興味をもった。他の曲や演奏についても、私はここを参考にしている。意見の合う面、食い違う面、どちらも楽しい。「クレーメルといえば、カミソリのような鋭い切れ味のヴァイオリニストとして知られており、(略)期待を裏切らない、孤高のヴァイオリンを聴かせます。この曲自体の曲想に潜む厳しさ、凛々しさをここまで毅然と表現できるのは彼だけなんじゃないか」と、きわめて高く評価なさっている。「クレーメルに比べるとまわりの3名はやや存在が薄い気もしないでもない」ものの、「それだけクレーメルのフレージングの深さが違います」とおっしゃる。
 演奏の厳しさというのは同感である。これは深刻な宗教曲なんだぞということが伝わる。最後の「地震」が特に強烈だ。クレーメル以外の三人については上記ブログと私は異なる。四人全員が素晴らしいと思う。クレーメルが突出してると言うよりは、ハイドンの時代の音楽としてごく普通に第一ヴァイオリンが強いだけではないか。私は演奏の技術を分析する能力が無いから、三人の力不足に気づかないだけかもしれない。五段階評価は四点としよう。室内楽の親密さや個性に欠ける気がするから。人間たちの演奏を聴いたという感動が無いのである。名演奏より作品そのものを聴きたいかたにお薦めだ。コンピュータどうしの戦いに興奮しない人には向いてない、ということでもある。
11/05/22
 若い頃の私は女性から「手がきれい」と言われることがよくあった。他にほめるところが無いんだなと思った。そのうちわかってきた。女は男の手をよく見てるのである。それは、男が女のうなじにどきどきするのと似てるようだ。NHK杯は阿久津主税だった。嫁のお気に入りである。不良っぽいところが良いらしい。それと、手である。盤上に指が伸びるたびに品評している。阿久津に比べると、対局相手の窪田義行は、中指の第二関節がふくれていて美しくないそうだ。
 指のきれいな若手は強くなる傾向があるように、私には感じられる。大山康晴や加藤一二三の指は短くて不器用そうだったから、昔は違うと思う。いつ頃からかな。谷川浩司か羽生善治のあたりかな。「羽生はどうなの」と嫁に訊いてみた。すると、「あれはストレートフラッシュ」。完璧な五本指が並んでるという意味だろう。「男の手なのに色気がある」。嫁は妄想が激しい。「あの指が、あんなこと、こんなことしてると思うとハアハア」。不幸なことに嫁は谷川浩司の対局姿を知らない。「君に谷川羽生の竜王戦や名人戦を見せたかったな」。私ももう一度見たい。
 私はカール・ズスケの弦楽四重奏団が好きだ。ベルリンとゲヴァントハウスである。両者が組んだメンデルスゾーンの八重奏曲が素晴らしい。他の演奏を聴いてみようとは思わない。私にはきわめて珍しいことだ。くわしい人は両者の聴き分けができるらしい、「ゲヴァントハウス弦楽四重奏団では、素直なズスケなの。歌いたいように、自然にやりたいようにやっている。ところがベルリン弦楽四重奏団では、彼は自分の理想とするクァルテットの音を追究したんですね」(清勝也)。この両面の融合がズスケの魅力である、と私には思える。鍛えの入った伝統の響きを、自分の生来の声として奏でる感じだ。『十字架上のキリストの最後の七つの言葉』を録音したのは一九八〇年のゲヴァントハウスである。この弦楽四重奏団の最初の録音だそうだ。最初にこの曲か。しぶいねえ。ほかにもゲヴァントハウスはディッタースドルフや新ウィーン楽派のCDを出したりしており、選曲はベルリンより意欲的である。
 完璧に音の合うきれいな演奏を私は理想としない。各人が自分の音色のクセを微妙に残しているのが好きだ。室内楽って、先導者に続いて全員が一致団結したシュプレヒコールを挙げるよりも、参加者が好き勝手に話しながらも何となく全体がまとまってる座談会に近くあるべきではなかろうか。ゲヴァントハウスの『十字架上のキリストの最後の七つの言葉』は、この点で理想的である。五段階評価で五点である。第七曲「父よ、私の霊をあなたの御手にまかせます」で、二本の弦が甘美な響きを成すところがある。二本の音色を聴き分けることが容易だ。他の演奏は、二本が溶け合うように、あるいは、第一バイオリンが他をかき消して響く。好みの問題として、私はゲヴァントハウスを推す。
11/05/10
 名人戦は森内俊之が三連勝してしまった。名人羽生善治は竜王戦以来の傾向が治らない。強引に勝負を早めて負けるという、棋風に合わない将棋が続いている。第三局は先手森内の名局だった。まづ、羽生が4筋を突き捨ててさらに△4五歩と継いだ瞬間の▲9六歩である。△4六歩に▲9七角だ。以下、△4四飛▲同飛△同角▲4一飛に△3三金で羽生も頑張ったが、ここで二時間の長考をして、ぢっと跳ねた▲3七桂に迫力がある。以下、△4八飛に▲5八銀を打った堅さもほれぼれする。このしばらく後の局面では小技まで見せた。すぐ4二飛成ではつまらない。本譜は▲4六飛成△3七角成で後手角を動かしてから▲4二龍である。後手は元に戻る△2六馬しかない。そこで▲4九歩、つまり、ひとつの局面で先手は「すぐ4二飛成」と「4九歩」の二手を同時に指せたようなものだ。
 私の仕事場は同僚からちょっと離れたところにあるので気楽である。昼食時にあたりかまわずCDを鳴らせるのがうれしい。たいていはハイドンの弦楽四重奏曲だ。一九七二年から七六年に録音されたエオリアン弦楽四重奏団による全集を持ちこんでいるのである。無理をしない演奏だから、食中のBGMとして気楽に流すには一番なのだ。人が私の所に来て「なんか優雅ですね」と言う時は、必ず彼らのハイドンがお香のように小音で漂っている。不思議とモーツァルトで同じことを言う人は居ない。
 エオリアンを高く評価してるのは井上和雄だ。『ハイドン―ロマンの軌跡』(一九九〇)で、「これは素晴らしい演奏である。技術は必ずしも超一流ではなく、むしろ素人っぽいが、何よりもセンスがいい」と述べている。彼の「センス」の説明も引用しておこう、「ハイドンの音楽への様式感覚」、「単純な音形のもつ美しさ、ちょっとした音形の変化や強弱に対する独特の感受性」。もっとも、井上以外の批評家がエオリアンを誉めているのを読んだことが無い。評価が低いのは、自己主張の無い平板な演奏だからではないか。身を入れて聴こうとすると物足りないのである。一応弁護しておくと、第一ヴァイオリンは立派なプロである。最晩年のクレンペラーが率いるニューフィルハーモニアで二年か三年ほどコンサート・マスターを務めた人だ。穏やかな性格だったらしい。それが音楽にも出ている。
 『十字架上のキリストの最後の七つの言葉』のように集中力を感じさせる作品には、特にエオリアンは不向きだ。また、第一から第七までの楽章の冒頭には、一七世紀や二〇世紀の英詩朗読が入る。これも気に食わない。弦楽四重奏版の演奏には聖書の朗読さえ不要ではないか、と私には思える。もちろん、聴いて損は無い演奏である。実用面を言うと、個性の弱いこの演奏を基準にすると、他の演奏の特徴がわかりやすい。五段階評価で三点である。
11/05/09
 嫁はCOMIC CITY 大阪84 に行ってしまい、佐藤天彦対豊島将之を見ていないので、今週のNHK杯へのコメントをいただけなかった。見事な将棋だったのに。私は目が覚めた瞬間から対局が楽しみで待ち切れず、「日曜美術館」まで見てしまった。おかげで将棋講座「山崎隆之のちょいワル逆転術」が見られた。05/03/07 で紹介したように、彼の逆転術は第一回大日本モロゼビッチ賞を受賞しただけのことはある。自身の実戦譜を使った深い濃い内容だった。なお、講座は五分短縮されて詰将棋が無くなった。あれを、駒配置の説明が終わるまでに解くのが、初段クラスのささやかな喜びだったのに。
 今回の講座は玉の脱出経路を作るのがテーマだった。題材は玉の堅さに差がある局面である。ひとまづ▲5九金と引きたいが、△7九成銀▲同玉△5九馬で終る。ほかにもいろんな粘りを示してくれたが、うまくいかない。実戦で彼が指したのは▲1六角だった。これは私も考えた。しかし、△4八歩で困る。実際そうなった。以下、▲4九角△同歩成と進む。さあ、どうする。ここで▲5九金なのだ。今度は7九成銀に5八玉が可能である。本譜は△同と▲同玉だったかな、左右の包囲の一方を崩せた。
 私の持ってる『十字架上のキリストの最後の七つの言葉』の弦楽四重奏版を一番古い録音から順に書いてみようと思いたった。まづは一九七二年のアマデウス弦楽四重奏団を。私がハイドンに興味を持つきっかけのひとつは、気まぐれでまとめて買った彼らのハイドンである。十数年前のことだ。「弦楽オーケストラか?」と錯覚するほど分厚い迫力がある。その雲海を切り裂いて高音の第一バイオリンが目立って歌う。いかにも二〇世紀の演奏だ。一八世紀らしさが感じられず、他の演奏を知るにつれ、私は聴かなくなった。でも、久しぶりに聴き直したら、良いものは良い。素晴らしい。全体の分厚さと、第一バイオリンの闊達さゆえに、作品の隠れた魅力を現代人ならではの表現力で引き出せてるのかもしれない。これが駄目なら、スタインウェイでモーツァルトのピアノ・ソナタを弾くのも駄目だろう。五段階評価で五点である。
11/05/04
 終盤だけでも見ておくかとテレビをつけたら、気の抜けた局面が現れ、船江恒平対村山慈明はほとんど終わっている。見てから二手で船江が投了した。放送時間はもっと短縮されていいかもな。二人とも似たスーツで、黒っぽく、最近の若者らしい。例によって辛辣な嫁は、「HONDA で研修中のディーラーかと思った」。そう言うけどさ、むかしの四段五段ってもっとみすぼらしかったんだぜ。お!来週は豊島天彦戦だ。どちらも嫁の若手注目株である。
 避難所に何を持ってゆく?と嫁にも質問をしたら、「ミッシェル・ガン・エレファントのベスト盤」。彼女は解散ツアーに行っている。したがって、行方尚史に対抗心を抱いている。私は映画「青い春」の音楽を高く評価しており、それがたぶん、付き合う前の彼女に「このおじさんはなかなかだ」と思わせたのではないか。私にこの映画を見させた動機のひとつは、監督が元奨励会員だったことである。
 独特の緊張感があるから、『十字架上のキリストの最後の七つの言葉』は歌詞が無くても、キリスト教っぽい宗教曲だろうな、となんとなくわかる。ただ、七つの楽章を順不同に演奏されて、クイズのように、七つの言葉をそれぞれの楽章に対応させろ、と言われたら困る。対応の理由を説明できそうにない。神学的な背景があるんだろうか。弦楽四重奏でよく演奏されるが、原曲は管弦楽だ。私はサヴァール指揮で聴く。素晴らしい。五段階評価で五点だ。CDに分厚い解説がついているのが気になる。七つの言葉がひとつひとつ解説されている。執筆者はふたりで、神学者とノーベル文学賞を受賞した無神論者だ。
11/05/01
 ここずっと考え続けていた。急いで避難する時、何を持ってゆくだろう。同じ思いの同僚がいて、彼女は試しに荷造りしたところ、「たちまちバッグふたつになってしまって」。それで津波とかけっこするのは大変でしょう。間違いなく私は本を一冊だけひっつかんでゆく。通帳とか印鑑を取りだす自分は想像できない。その一冊は何か。選べずおろおろして、嫁に叱り飛ばされる姿が想像できた。なんと情けないことだ。私の本はたぶん一万冊を軽く越えてる。なのに大事な一冊が一冊も無いとは。
 すぐ浮かんだのはPerlo のEndgame Tactics である。ただちょっと大判で、持ち運びにくい。二冊が許されるなら、これは欠かせないけど。やっと昨日になって結論が出た。講談社文芸文庫の西脇順三郎『ambarvalia ・旅人かへらず』である。結婚指輪にも、ここから選んだ一行を刻んである。そしてすぐに思った。私の読書人生はこの一冊をまったく大事にしてこなかった。なんとむなしい。いま気づいただけでもましではあるが。
 ついでにCDも考えてみた。これはあっさり結論が出て、グールドのゴールドベルクだろう。二度目の録音だ。ただ、最近になって気になりだした曲があって、そっちになるかもしれない。ハイドンの『十字架上のキリストの最後の七つの言葉』である。一時間も緩徐楽章ばかりが続くので、長く放擲していたのだけど、ハイドンは緩徐楽章が大事だとだんだんわかって、こないだ十年ぶりくらいに聴き直したのである。すると、これこそ私の好きなハイドンのすべてを詰めこんだ傑作ではないか。地味な曲のわりにたくさん録音がされていて、いろいろ聴き比べをしている。いまのところクイケン弦楽四重奏団がいちばん良い。
11/04/30
 朝吹真理子の将棋王座戦観戦記を「ものぐさ将棋観戦ブログ」で教わった。日本経済新聞の夕刊で四月八日から一九日までの一〇回である。対局は村山慈明対郷田真隆だ。早くも彼女は川端康成や坂口安吾といった観戦記を書いた文豪の仲間入りである。内容は観戦印象記だ。指し手の解説が無い。棋力が低いという自己申告に合わせたのだろう。テレビ対局をよく見てるだけのことはあって、将棋ファンでも読める水準に届いている。棋譜解説の無い観戦記には奇異奇抜なのがあるが、そうでもない。今後も書く機会を何度か与えられたら、人間観察や対局場の空気を主に伝える、新しいスタイルを確立してくれるだろう。
 何より、誰にも真似のできない天才を感じさせたのは対局日である。三月一一日なのだ。震災当日の貴重な記録になった。「御冥福をお祈りします」という挨拶がまったく無いのも珍しい。作家根性のあるやつだ。大事の棋士根性で忘れてならない前例は、対局していたら原爆が落ちてきたという広島の本因坊戦である。爆風で部屋は散らかったらしい。掃除が済むと、橋本宇太郎と岩本薫は対局を再開した。これを紹介したテレビ番組に出演して、「私もそうするでしょうね」と加藤正夫が恥ずかしそうに言った、「ほかにできることがありませんから」。
11/04/27 紹介棋譜参照
 私は一巻本の定跡事典を眺めるのが好きである。鉄道の時刻表マニアの気持ちと通ずるものがありそうだ。嫁は鉄子だからこの説明でわかってくれた。ECO の小版が届いてる。昨年に出た第三版だ。私は一九九九年の初版も持っている。第二版が書籍化されているかどうかは知らない。MCO より専門的で、むかしあったBCO よりクセが無い、というのがECO の特徴だろう。なにより、Informant とリンクしてるのが、私のような二十年来のInformant ファンには便利である。
 気になる定跡をいくつか調べると、私が注目した棋譜がたくさん採用されている。数年前の私のブログはなかなかレベルが高ったらしい。私の棋力はFIDE のレイティングで数えたらたぶん一四〇〇か一五〇〇ぐらいだ。将棋のアマ初段か二段だろう。そんな奴がよくやったもんだなあ。
 第三版で最初に調べたのが図の局面である。ツー・ナイツの大事なところだ。4.Ng5. d5, 5.exd5 まで。普通は5...Na5 が次の一手だ。当然の疑問が浮かぶ、「5...Nxd5 は駄目なの?」。実はInformant には5...Nxd5 が一局も収録されてない。そのせいか、初版にはこの重要変化が記載されていないという欠陥があった。それが第三版で直ったか、気になったのである。すると、あった。古来有名な6.Nxf7 も、現在の正着とされる6.d4 も載っている。紹介棋譜にしておこう。前者はグリゴリッチの研究によって優劣不明、後者は通信の実戦譜によって先手やや良し、だそうだ。
 昨日述べたように、クラシック音楽を聴いてると歌詞が浮かぶ、って経験は誰にもあるだろう。人から聞いた例で私が好きなのは、ブラームスの交響曲第三番の第三楽章冒頭だ。「しごとーをやめた。女房は逃げた」と聞こえる。音楽ネタをもう少し。クラシック以外のCDもたまに聴く。一昨日は「幻想」の他にM-KODA「mOss」cyclo.「id」を買った。どちらも電子音がビコビコする。前者はなかなかの新人ではないか。後者は聴覚検査のような苦痛があって、あまり長く聴いていられない。二枚とも嫁にも好評だった。せっかくだから、夫婦そろって好評だったのをもう一枚、こんな機会はもう無い気もするので御紹介すると、チェロとブヌン族のコラボによる「ムダニン・カタ」。民族音楽のCDも昔はよく集めていたものだ。ちなみに、私は気に入ったのに、嫁の食いつきが悪かった例はworld's end girlfriend である。
11/04/26
 定跡書の話を。ドレーエフ『メランとアンチ・メラン』が届いている。前著同様二〇〇頁ちょっとの薄い本だ。私は九〇年代に白でも黒でも指していた懐かしい定跡である。メランといえば、図から8...a6, 9.e4. c5 に進んで、10.d5 か10.e5 で、どちらも激しい戦いに突入するのが花形定跡だった。また、アンチについては、名称がよくわかってなかった。5.Bg5. dxc4 からのボトヴィニク変化を指す例を見かけたりしたのである。私は花形定跡の解説を期待し、そして、あわよくばボトヴィニク変化についても知りたくて買った。
 ところが本書で扱われたメランは図で8...Bb7 だった。8...a6 についてドレーエフは「悪い手とは言わない」と述べながらも、白の方に有望で主導権を約束された変化が多く、黒にとってはこの定跡の特質を活かしたポーン型を組めない、という理由で、8...Bb7 を推奨している。また、アンチは5.e3. Nbd7 での6.Bd3 以外の手のことだった。6.Qc2 が主だ。分類としてはこれが正しいんだろう。ちょっとがっかり。でも、薄い本で最善を尽くせばそうなるもんだ。ドレーエフがもう一冊書いてくれたら、私の期待もかなうはずなので、それを祈ることにする。
 街に出ることができたので、ミュンシュの「幻想交響曲」を買ってきた。この曲を聴くのは何年ぶりだろう。私が持っていたのはバーンスタインである。たぶん三回しか聴いてない。私は交響曲とロマン派に冷淡なのだ。聴いた結果を言うと、今度はなかなかのものだった。もしまた「幻想」を聴くことがあったら、ミュンシュを選ぶ。なお、思い出した。名曲で笑ったのは昨日が初めてではない。誰の指揮だろうと、ベートーヴェン第七番の第四楽章はよく笑った。始まってしばらくすると、「きょーも元気だ、頑張る頑張る」という咆哮が聞こえるのである。いまは慣れてしまった。
11/04/25
 名人戦の第二局は六八手で森内俊之が勝った。羽生善治の完敗である。粘りのきかない形で攻めが切れてストンと負け、ってのがいかにも最近の羽生らしい。朝吹真理子との対談で言っていた「わづか一〇ページで終わる小説」を想起させた。
 ある曲が気になって、いろんな演奏者のCDをこつこつアマゾンで集めている。大きな箱に一枚だけ入って届いたりするのが業腹なので、先日はシャルル・ミュンシュ最晩年の名盤として知られるブラームスの交響曲第一番も注文した。その前はピエール・モントゥーで二番を頼んでいる。オーケストラを一九六〇年代から八〇年代の録音で聴くことの多い私にしては、いままで放ったらかしにしてきた指揮者たちである。ちなみに、私はブラームスの交響曲では第二番が好きで、ケルテスの指揮で聴く。第一番はカラヤンだ。
 モントゥーは悪くなかった。出会うのが遅かった。問題はミュンシュである。爆笑した。クラシックの本格的な名曲を笑って聴いたのは初めてだ。ティンパニーの強さが常軌を逸している。寝てる人を金属バットで殺す時はこんな風に連打するんだろうなと思った。弦は何度もおどろおどろしく盛り上がる。ブラームスってそういう演出が必要な音楽なんだろうか。また、終楽章の序奏でフルートが入るところの安らぎが私はとても好きなのに、曲全体にみなぎる危機感は木管にまで周知徹底されており、ここは岡っ引きの呼び子のようだった。
 嫁が部屋に入ってきたので聴かせてみた。「あたしこうゆうの好き」。私よりはるかに豊かな感情の軌道のジェットコースターに生きる彼女にはミュンシュがわかるのだろう。私たち夫婦には反応のこんな違いがよくあって、多くの場合、私は自分の人間性に自信を無くす。ミュンシュを笑って聴くような奴の人生なんて、からっぽなんぢゃないか。彼の名盤と言えばほかに「幻想交響曲」である。そのうち聴いてみようか。
11/04/19 紹介棋譜参照
 最近とんとチェスについて書かなくなった「The Return of Dr. Hara」に、『国家は破綻する』の著者の一人ロゴフについて、「院生時代にチェスのグランドマスターの称号を獲得したらしい。それを機会にチェスからさっぱり足を洗って、経済学に専念したとのこと」なんて紹介がされていた。「院生」とはもちろん「大学院生」のことだろう。一九五三年生まれの人だ。
 こんな経歴の人が珍しいのは当然として、それでも「まあ居るだろうな」くらいの珍しさであるであるのがチェス界である。データベースで調べると最初に現れるレイティングは一九七二年の二四三〇、最後は一九八〇年の二五二〇である。当時としては強い数字だ。アドリアン、クリスチャンセン、レシェフスキー、スメイカル、カヴァレックなんてところに勝っている。
 白番の多くは1.Nf3, 2.c4, 3.g3 で始める堅実な棋風で、大局観に優れている。自然に押し込んで、なんとなく駒得する、といった勝ちが目立つ。引き分け気味の局面で相手が意欲的に動くところを丸めこむのが得意のようだ。黒番の方がややクセのある指し方になる。そんな特徴のよく出た例として、カヴァレック戦を紹介棋譜に。ざっと調べただけで言うと、30.f4 から31.f5 が動き過ぎで、形勢を損ねるきっかけになったのではないか。
11/04/18
 ボトヴィニク自身がスミスロフとの三回の世界王座戦を解説したBotvinnik- Smyslov が届いた。さっそく一九五四年の第一局を読むと、ゴロンベックの観戦記やそれを受けたウェイドなどの解説とずいぶん違う。こりゃ大変だ、私は先日の棋譜観賞を大改訂した。初稿よりだいぶ良くなったのではないか。
 Viewer の使い方をひとこと言っておくと、盤面を一回クリックすれば、矢印キーで手を進めることができて手軽である。
11/04/14
 八年くらい前まではFlash やJava を使った日本語による棋譜観賞サイトが結構あった。今でも更新を続けてる所って、どのくらいあるんだろう。それが流行遅れになった頃に登場したのが私のChess Chronicon である。Java 対応のICC Chess Viewer を利用していた。この古い技術を使って久しぶりに新作を作ってみた。昨日話題にした一九五四年の第一局である。
11/04/13 紹介棋譜参照
 ボトヴィニクにスミスロフが挑戦した一九五四年の世界王座戦、その第一局を繰り返し観賞している。この充実した二十四番勝負の中では、他の名局に埋もれてしまい、さほど知名度は高くなさそうだ。私もまったく忘れていた。久しぶりに並べたら、ボトヴィニクの大局観にほれぼれである。このタイトル・マッチでは開幕直後のスミスロフが不調だった。充分な準備期間が欲しかったのに、ボトヴィニクとの交渉がうまくゆかなかったことが響いたらしい。
 対局場はモスクワのチャイコフスキー・コンサートホールである。観戦者は二〇〇〇人を越した。写真を見ると、格式ある会場が立ち見でぎっしりだ。約一五〇〇席では少なかった。舞台には五メートル半もの高さの大盤がそびえ立つ。テーブルがいくつかあって、対局者のほか、審判たち、対局者のセコンドが座った。彼らの会話は会場のすみずみまで届いた。音響も観客も最高だったのである。しかし、局面が緊迫感を増してくると、審判は客席に向かって静粛を求める動作を送るのだった。
11/04/10
 東北で大きな地震があったと聞いて、嫁の第一声は「行ってくる!」だった。ガソリンスタンドへである。その後は毎日、新聞を読んではすんすん泣いていた。いまは張り切って、茨城の祖母に水や納豆を送り続け、電話をしては励ましている。
 「チェスの玉手箱」に自室の写真がアップされていた。膨大なチェスの本が散乱している。私も持ってる本が何冊かあって、やはり言葉も無い。記事には、「明日(4月2日)から更新を再開します」とあって驚く。つられて私も、四年ぶりに棋譜観賞の新作を書き始めている。私の方が励まされてしまった。
 同僚がナターシャ・グジーを教えてくれた。三年前に放送されたYou Tube の動画だ。削除されてしまう前にぜひ御覧ください。言葉と歌詞がいまを予言しているとしか思えず、また私は言葉も無い。もう十回は聴き直して、やっと冷静になれた。
11/04/04
 近所の散歩には合わないスプリングコートを着てコレッリを聴きながら、近くの古墳まで歩いた。堺や羽曳野には美しい古墳が水に浮かんでいて、歩くと気持ちいい。「コレッリを好きな人が居るのは充分理解できるけど、その人がコレッリのどこを気に入ってるのかは不可解だろうなあ」なんて考えてるところで、子供が泣きだした。ベビーカーは嫌だと主張している。私は乳児まで伴っていたのだ。10キロの赤子をかかえ、ベビーカーをたたんで肩にかけ、ますます変な格好になって帰宅した。
 ぐったりの私にかまわず、子供はゴキゲンである。古いNew In Chess を引っ張り出してきた。スミスロフ追悼号だ。ああもう、とうんざりして取り上げ、ぱらっと中を見ると、Botvinnik Vs Smyslov なんて本の広告があった。著者はボトヴィニクだ。あれ、こんな本が出てたんだ。05/02/22 とその翌日に書いたように、ブロンシュタインとのマッチを扱った本は好著だった。これも良いんぢゃなかろうか。スミスロフとの三回のマッチのすべてを扱っているようだ。まだ買えるかなあ、なんていろいろ検索してるうちに、Small Encyclopaedia of Chess Openings の第三版とかも見つかった。さらに、Dreev のThe Meran & Anti-Meran Variations なんてのも出てる。これは名著モスクワ定跡の続編だろうか。ならば期待できる。久しぶりにチェスの本をたくさん注文することになった。
11/04/02
 こないだの三九手の将棋にまだこだわっている。録画したままの感想戦をやっと見終わったのだ。私は▲8五歩で優劣がはっきりした印象を持ってしまったけれど、そこで△5四角を打ち、ゆっくり△9四歩から△9六歩を実行すれば後手も相当だったようだ。実戦はあわてた。△2七歩や△8七歩などを打ち急いで返し技をくらった。
 それにしても、丸山はよくも横歩を取ったものだ。いかにも相手の研究手順ではないか。現代将棋の最先端を恐れず突っ込み、三九手で負けてしまった。昔の彼なら警戒して飛車を引いたろう。今の彼が弱くなったわけではない。横歩を取らぬことによって昔の彼は名人を取り、横歩を取ることで今でも彼はA級の実力を保持してる。
 朝吹羽生の対談で羽生が、「最近こういうことも思っています」と述べている、「小説に書きたいことがあったとします。でも書いてわずか一〇ページで終わってしまったとしたらどうか。将棋も最近そういうところがあるんです。本筋を突き詰めるのだったらこの道で言ったほうが良いけれど、それをやったら一〇ページで終わってしまう。もちろんやった方がいいのですが、ためらいみたいなものもあるんですね」。
 さらに「もう一つ」と言うに、「現代将棋ではある種のセオリーとか形から逃れるのは相当難しいですね。そうではない場所こそが将棋の最先端なんですが、どっぷりセオリーや制約につかった上でないと、最先端の一番自由のある場所に居られないというところがあります」。どちらも三九手の将棋と関わる気がした。
11/03/31
 (追記読み返すと、ひどいこと書いてますね、このひと全然わかってない)今年も五ケ月かけて三月までにハイドンの全交響曲を聴ききった。三月はザロモン・セットである。これは五人の指揮者による全曲集を持っているので、聴き比べもした。全十二曲の感想は昨年と変わらない。この大袈裟な曲集でハイドン像が描かれるのは不幸だと思う。それはマイルス・デイビスを「アランフェス協奏曲」で理解するのと同じはずだ。特にザロモンの場合、音楽の好きな客だけでなく、ラジオ体操のようなロックでノリノリになれる客の面倒まで見ようとしてるところがある。来年はもっと好きになれてるかな。
 第九三番、これは悪くない。第二楽章の放屁も好きだ。ブリュッヘンで。
 第九四番(驚愕)、これも悪くない。ドカン!のわりに十二曲では上品な方だ。ドラティで。
 第九五番、駄作を駄作としてそのまま聴かせるデイヴィスに好感。
 第九六番(奇跡)、楽しく聴き流せる。ドラティで。
 第九七番、十二曲ではこれだけが好きになれそう。以前の作風がちょっと香る。手の込んだ印象もあり、そんな曲はクイケンで聴きたい。
 第九八番、まとまりが無い。曲調は明るいけど妙に憂鬱である。ブリュッヘンで。
 第九九番、フィッシャーで聴くのがいいだろう。にぎやかさが活きる。
 第一〇〇番(軍隊)、大太鼓がドスドス鳴るフィッシャーで聴こう。
 第一〇一番(時計)、悪くない。時計の快感を味わえるのはデイヴィス。音楽性も真面目だ。
 第一〇二番、これは傑作でしょう。ブリュッヘンの迫力を身に浴びたい。
 第一〇三番(太鼓連打)、変ホ長調の好きな私にしてはなぜか気が合わない。クイケンで軽く。
 第一〇四番(ロンドン)、最後の傑作はフィッシャーで景気よく締めくくりましょう。
 クイケンは期待したわりに物足りなかった。派手な演出が必要な曲は似合わないんだろう。十二曲全体としてはフィッシャーがふさわしくなる道理だ。ブリュッヘンは激情的で、この十二曲に真面目さを求める人は、彼の熱演がおすすめ。「驚愕」など、まったく間をおかず居合抜きのような素早さでドカン!とくる。百四曲全体ではドラティが良い。私にとってドラティは、ストラヴィンスキーや「序曲一八一二年」の指揮者であり、ドッカンバッコンの印象が強かったのだけれど、ハイドン交響曲全集に関しては、演奏効果よりも作品そのものを一番優先した演奏家である。デイヴィスはハイドンを聴き慣れた人なら、彼のこだわりがわかって面白いだろう。彼で感心するのは序奏の緻密さで、特にそれが第一主題と自然につながる瞬間を、うまいなあと思う。
 なお私の手持ちの一枚物のCDから選べば、クレンペラーの第一〇二番と第一〇四番が素晴らしい。十九世紀生まれの巨人が盛り上げるケタ違いのスケールだ。いまウィキペディアをのぞいてみたら、案の定、「逸話」で大笑いした。好きな指揮者を問われてすぐ浮かぶのが、セル、ベーム、ケルテス、クレンペラーだな。
11/03/28
 こないだの三九手はNHK杯将棋の最短記録だったそうだ。早く終わりすぎたときは、余った時間を使って昔は軽い番組を入れたりしたけど、それもせず、延々と感想戦を続けたらしい。「軽い番組」の中でも有名なのは先崎学と神吉宏充の「将棋パトロール」だ。NHK杯の予選などから大ポカを紹介して棋士を笑い者にするのが特徴だった。米長邦雄はこれが大嫌いで、彼自身が早々に負けてしまうと感想戦を長引かしたものだ。司会者も根性があった。米長を黙らせて「将パト」の時間を確保したのである。誰だったかな。
 今年の優勝は羽生善治で、三連覇も九回優勝も新記録だ。決勝は糸谷哲郎を攻めきった。途中はもたついた気もする。準決勝の渡辺明戦もそんな感じだった。攻めが切れたら負けという将棋は、昔の谷川浩司戦なら羽生はむしろ受ける立場だったのに。
 どんな分野の人と対談しても羽生は見事に応えるのがすごい。千日手を語る朝吹に対して、私なら、「同一局面を永遠に繰り返しても、それは永遠とは違うでしょう」なんて答えるぐらいだろう。羽生はこうだ、「何億年前と言われてもピンとこない思うのが普通の感覚じゃないですか。それに対して、千日手にあらわれる永遠のようなものは、ある種のリアリティを持ちやすいということはあるような気がしています」。さらに話は深まってゆき、最後だけ引用すると、「千日手に立ち現れるいくつかの時間を同時には捉えられない。そういう意味でのさびしさは感じています」。
11/03/23
 朝吹真理子は時間のイメージで無限を考えるタイプだろう。『きことわ』の「とわ」は「永遠」だ。羽生善治との対談「人間の理を越えて」で、しばし二人は千日手を話題にして永遠を議論している。羽生と朝吹の共通点というと、羽生には吉増剛造との対談本があり、朝吹の小説デビューのきっかけが吉増剛造だったことが想起される。さて二週間も無駄話を続けた私はいまこそ本題に入ろう。無限に関心があって羽生善治と朝吹真理子と吉増剛造の本のほとんどを持っていて配偶者が朝吹と同い年の者こそ、この二人の対談を論じる資格があるのではないか。
 「一番面白いと思うルールは何ですか」と問う朝吹に羽生は「それは打ち歩詰めですね」と答える。対して朝吹は千日手を語りだす。「千日手になった局面をみていると「永遠」が生起しているという気持ちになります。(略)人間が実際には触れえない感覚として永遠というものがある。ところが、無時間である盤上の平面の世界に有限の存在である人間と人間が駒を動かすと、人間の理からも、数学の理からもひき剥がれた、謎の世界が盤上に起こってくると思います。そのひとつの局面が千日手です」。
 朝吹は阿部和重と対談した時には、いかにして小説を終わらせることができるかを話題にしていた。終わらなくなってしまう、というのは彼女の重要な主題なのである。デビュー作『流跡』など、結末は冒頭に還るような流れになっており、いわば千日手小説なのだ。
11/03/22
 嫁は私より二二歳下の一九八四年生まれである。近所の奥さんには「それで話題が合うの?」と心配される。互いに知らない時代を教え合えばいい。そして、嫁は妙に昭和くさいところがある。だからあんまり障害が生じない。さて、読売新聞が昭和に関する世論調査をしており、地震一色の紙面の中でそこだけ違う雰囲気だった。「思い浮かぶ人物」の上位は順に田中角栄、美空ひばり、昭和天皇。朝日新聞が二年前に似た調査をしており、その時は、昭和天皇、田中角栄、美空ひばり、だったそうだ。
 苦労して子供を寝かしつけると、夫婦で晩酌するのが日課だ。昨夜はこの世論調査の「好きな昭和の歌」が肴になった。上位三曲は「川の流れのように」「上を向いて歩こう」「UFO」である。ちょっと意外だね、ということになった。候補を出し合って検討した結果、私なら、「蘇州夜曲」「上を向いて歩こう」「鉄腕アトム」だ。嫁は「ルンペン節」「スーダラ節」「文明堂のカステラ」を挙げた。
11/03/21
 男に比べて女の方が異性を見定める能力は高いことが多いように思う。この一年、嫁が私の隣で将棋番組を眺めつつ、自然に名前や顔を覚えた若手棋士は糸谷哲郎、広瀬章人、阿久津主税、橋本崇載だった。驚いたことに、この全員が順位戦で昇級を果たしたのである。何か印象づける勢いが彼らにあったのだろう。もっとも、三浦弘行を「パンツ」と愛称するくらいだから、嫁の記憶法は、「広瀬ってタイトル保持者っつうよか、東京なら吉祥寺、大阪なら堀江あたりのショップ店員に見える」。で、「しょっぷ」と呼んでいる。他の棋士についてはちょっとここに書けない。
 昨日はそのうちのひとり、糸谷が丸山忠久とNHK杯を戦った。先手糸谷が横歩を取らずに2八に飛車を引く。あまりに元気が無い。私がぶーぶー文句を言うそばを、嫁は知らん顔で通り過ぎた。後手丸山が横歩を取る珍しい序盤になった。結果は御存知のとおり。たった五三分、わづか三九手で糸谷が勝った。彼は飛車を引くのを研究していたんだそうだ。嫁は私に、「あら、あなた最初の方で何か言ってたぢゃない」。感想戦は途中で見るのをやめた。四七分も余った放送時間をどう使ったんだろう。私が見た局面では、△5二玉と上がらずに△8六飛▲8八銀で飛車を引けば良かったかなあ、と丸山が後悔していた。実戦は△5二玉だったから、▲8八銀△8六飛に▲8五歩でふたをされてしまい、おまけにこのあと▲9五角を打たれるのを見落として、飛車が死んでしまったのである。
11/03/19
 地震があってから更新の止まっていた「チェスの玉手箱」に「更新を休止します」という記事が載った。大変な様子だ。私は関東と関西で暮らした中年だが、阪神淡路の震災も今度のも知らない。転勤の多い仕事の場合、この二つに合わせ北陸の大地震まで経験してしまった人もあるそうだ。言葉も無い。せめて義捐金で力になりたい。
 地平線のこっちとむこうで有限と無限の境界を考えると、素朴な疑問がわく、「無限に境界があるのはおかしいだろう」。だから、こっちとむこうを合わせたのが本当の無限かもしれない。これにはヘーゲルの批判があって、「そんなのは無限ぢゃない、無限定とでも言うべき混沌と混乱にすぎない」。無調の音楽や自動筆記の詩を批難する時に、「それらは混沌とした音や混乱した言語にすぎない」と言う場合がある。たぶん、ヘーゲルがシェーンベルクやブルトンを知ったら同じことを言うだろう。うーん、ヘーゲルは間違ってるんぢゃないか。でも、どこが?いろいろ考えてるうちにだんだん考えなくなって今にいたった。考え続けるべきだったかなあ。いやいや、われ事において後悔せず。
11/03/18
 嫁が「見せて」と言ったのは、こないだの「長い日」の録画である。私は二時間に編集していた。まづ嫁が感心していたのは、投了寸前まであきらめない表情の渡辺明だった。そして一番よろこんだのが、森内久保戦を解説する島朗である。彼が何度も終局をにおわすのに、久保が驚異のねばりを見せてしまう。番組の終わる頃の島は眠気で目が半分にふさがっていた。私が「あれ?」と思ったのは、こないだ紹介した△8二香を解説の二人ともが予想できずにいたことである。番組を見ている時の私には△8二香が当然の一手に思えており、二人の解説に違和感をおぼえたはずなのだが、記憶に無い。
 無限についてわれわれ素人に教えるためヒルベルトが考えたのが無限ホテルである。あれが私はどうも好きではない。そこで二〇数年前に自分用の説明をいろいろ工夫した。ハイドン空間を考えてるうち、そんな昔を思い出した。完璧に真っ平らなどこまでも続く地平に立って四方を見渡すのである。ぐるっと目の高さで地平線が私を囲んでるはずだ。その地平線の向こうの世界が無限である。私の足元から平行線を発射すれば、あっちの世界において交わることもあるだろう。きっとヘンテコな説明なんだろうけど、私個人はこれが気に入っている。
 この比喩を使って言えば、ハイドンの空間は広くても無限にまでは達してないと思う。ザロモン交響曲の俗っぽさが彼の限界を示している。もっとも、音楽で無限を表現した人が居るかどうか、これは考えたことが無くてわからない。私が思いつくのは詩人である。実は私の説明自体が萩原朔太郎「漂泊者の歌」の第一連に発想を得ている、「日は断崖の上に登り/憂ひは陸橋の下を低く歩めり。/無限に遠き空の彼方/続ける鉄路の柵の背後(うしろ)に/一つの寂しき影は漂ふ」。どんどん懐かしいことを思いだしてくる。まあこの程度で。
11/03/15
 印象批評をひとつ。ハイドンの交響曲に一〇四まで番号をつけたのは百年前の学者の仕事である。当然、順番には間違いも多い。それを承知のおおざっぱな話をすると、最初から始めて二二番(哲学者)を聴くと、「一皮むけたかな」と感じる。奨励会の実力者がやっと得意戦法が身について四段になった感じだ。それが独自の個性を獲得するのが三八番(こだま)である。A級に仲間入りした感じだ。ただ、しばらくするとB級降級とA級復帰の繰り返しが始まる。普通はこのままB級に定着する。ところが、七三番(狩)でハイドンの音は急に広々した空間で響くように感じられる。棋界を飛び出して東京都知事に立候補したようなものだ。ここの変化に一番驚かされる。弦楽四重奏曲では「まったく新しい特別の方法」で知られる作品三三(ロシア)が同時期だから、きっと何かあったんだろう。私の読んだ数冊のハイドン本ではよくわからない。これ以後も作風変化を感じるけど、もう基本まで揺らぐようなものではない。
 「広々した空間」は文字通り会場の広さを想像させる。同じことを私はバッハやヘンデルにはあまり感じない。ジョスカン・デ・プレまでさかのぼってもいい。みんな音は内に向く。たまに天国へ垂直に昇ることはあっても、水平方向ではない。ハイドンにおいて西洋音楽は空間的な芸術としても成立した、と言いたくなるのだ。ハイドン以降なら、モーツァルトやベートーヴェンはもちろん、ビートルズも表現した「広さ」である。
11/03/09
 急いで帰省することになった。新幹線で雑誌や本を読んだり、CDを聴いたり、妙にくつろいでしまった。実家に着いてからは『加藤一二三実戦集』(大泉書店)に没頭し、なんだか我が身の深刻な事情にぜんぜん実感がわかぬまま、また赤ん坊の泣きわめく我が家に帰還したところである。『実戦集』の口絵の一つに、遠藤周作と談笑する加藤の図として紹介されてる写真があった。間違いではないが、この写真の真ん中を占めているのは福永武彦ではなかろうか。たぶんそうだ。教会の関わる集まりだったのかな。読んだ雑誌は出たばかりの「新潮」四月号である。羽生善治と朝吹真理子の対談が載っているのだ。CDはハイドン「四季」をベーム指揮ウィーンフィルで。名盤である。ただ何を聴いても思う、ハイドンは弦楽四重奏曲が一番だ。もっとも、私は弦楽四重奏曲ならチャイコフスキーだろうとアイヴズだろうと、何でもうっとり聴いてしまうので、音楽をわかってるわけではない。本は小池昌代『弦と響』。ある弦楽四重奏団の引退公演当日をめぐる関係者それぞれの打ち明け話を十三章に書きわけた小説である。
11/03/03
 毎年々々、同じものを観て同じことを感じる。A級順位戦最終日は十人の聖者のあまりの尊さに手を合わせてしまう。放送は来年も続けてほしい。もし来期に屋敷伸之が加われば、全員がタイトル経験者というすごい顔ぶれが実現する。
 午前一時半になる最後まで指していたのが森内俊之対久保利明だった。ずっと森内が優勢で、久保がじっとついてゆく。差が広がるのをこらえる久保の時間帯が延々と続き、ついにそれが実を結んだように思えたところで森内が踏ん張る。どちらの顔も感動的であった。
 解説は島朗と佐藤康光で、この二人が、△6八飛打▲7八桂の局面で、さすがに終わったと感じたのは無理も無かろう。後手は8二に何を打っても同角成で簡単に詰む。なのになぜか、7八桂を打つ森内の手つきはあわてており、迷いの声がもれていた。それでも島は、「あれが落ち着いたときの森内さんなんです」と保証した。いまにして思えば、大恐慌前日の政府声明と同じだった。
 さて、久保が指したのは△8七金である。さすがに佐藤は、いつの間にか異変が訪れていたことに気づいていた。▲同玉△6七飛成▲7七金、そこで出た。△7六竜である。香を取るために金と竜を捨てる、そうまでして王を守るという、この日の久保を象徴する絶望的な粘りだった。
 いや、実は絶望どころか希望が芽生えた瞬間だったのである。▲同金△7二金▲6一飛、もう私にもわかった。△8二香で後手玉はとても詰まない。むしろ、先手は1三馬が遊んでいる、5五金が取られそう、玉も薄そうだ。逆転か、いやいやいや、島の言うとおり、ここからが「1点のリードを守りきる」森内将棋の真骨頂だったのである。
 結果は森内が勝って挑戦権を得た。一方、敗れたとはいえ、久保は残留した。将棋の神様って居るよなあ。

戎棋夷説