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世界史的立場と日本

藤田親昌編『世界史的立場と日本』昭和十八年、中央公論社。

参加者。高坂正顕、西谷啓治、高山岩男、鈴木成高。

第一回座談会「世界史的立場と日本」

昭和十六年十一月二十六日


ヨーロッパ人の優越意識

鈴木 実際ヨーロッパがいままで世界史の指導者であった。それは事実だ。しかしその事実はたんに政治的な支配、経済的な支配、それだけの優位性ではなかった。ヨーロッパの文化というものが普遍妥当性をもった文化だった。その文化によってヨーロッパの優位性というものが支えられて、そこにヨーロッパ的世界秩序ができていた。だからヨーロッパ外の世界の台頭ということも、やはり普遍妥当性をもった文化というものに支えらて現れてこなければ嘘だと思う。政治的解決だけでは解決されない。そこは非常に考えなければならぬ点だと思う。
高山 文化もそうだが、どうしてこういう事情が生じてきたかという原因として、ヨーロッパ文化の拡張の基礎になっている資本主義というものを問題にする必要がないかな。ヨーロッパの優越性の意識の根源が、直接に文化にあるというよりも、実は経済的技術的な、またそれに基づいた政治的な支配性にあったというような……。
鈴木 いや、それは根本は文化だと僕は思う。それはなぜかというと、資本主義というものは、生産の新しい方法(メトーデ)、機械生産といったああいうことは文明の生んだものなので、たとえばヨーロッパでは科学は知識であるばかりでなく、その知識によって社会と文明とが変化される。つまり学問が知識としてあるだけでなく科学文明という文明の種類を規定している。そういう文明が−合理的文明というか、そこから資本主義も地盤を得ている。その点僕は資本主義はどこまでも欧州起源のものだと考えているんだが。
西谷 資本主義はある意味でそのまま採り入れることができる、場合によっては向こうを凌駕することもできるものだ。われわれ、特に一般に日本の知識人を抑えてきたのは文化の優越ではないか。
鈴木 ヨーロッパがそういうメトーデをもっていて資源をもたなかった、それがあのような帝国主義的な行き方となった原因だと思う。僕は資本主義、機械文明というものが、前の世界大戦のような帝国主義戦争を生み、また精神的にもヨーロッパ的な文明が到達したところのものがいけないということ、そういうところに根本問題があると思う。だから文明の危機とヨーロッパの危機が不可分だ。

世界史とモラル

高山 ポテンツ(歴史の構成力)の問題だが、フランス敗れたりと言われる場合に、フランス敗戦の根本原因となったものは何か。ランケの言葉で言えばつまりモラリッシュ・エネルギー、道義的生命力の欠乏にあったと思う。政治と文化との間に隙や対立が出来てきて、文化と政治がバラバラに分離した。文化も政治も共に健康な生命力を失った。すなわち道義的な生命力を失ってしまった。それがフランスの敗戦の根本原因だと思う。我々の望むものは過去的なパリの文化などではない。華のパリを灰燼にしても祖国フランスを守るという道義的エネルギーの中から新しく作られてゆくフランス文化だったんだ。何も今日に限らず、いつでも世界史を動かしてゆくものは道義的な生命力だ。こういう力が転換期の政治原理になりはしないかと思う。モラリッシュ・エネルギー、健康な道義感、新鮮な生命力といったものを、もっともっと日本の青年たちは持ってほしいように思う。
高坂 健康な生活感情が必要だ、……健康な……。古い考えかも知れぬが、現実に歴史を動かしているのは単なる経済とか学問とかいうものだけではなく、もっとズブイェティーフな、主体的なもの、具体的には民族の生命力のようなものだ。無論文化的なものを内容とするのだがね。それが世界歴史に対して決定的となるような場合には、どうしても民族の生命力、さらにはモラリッシュ・エネルギーが有力になってくると思う。
高山 戦争といえばすぐ反倫理的だ、倫理と戦争とは永遠に結びつかぬものだというように考えられる。こういう考えは倫理というものをたんに形式主義的なものにしてしまう。しかし、それはすでに本当の道義的なエネルギーが枯渇してしまったものなのだ。ランケなども言ってるように、戦争の中に道義的なエネルギーがある。形式化された正義感、実は旧秩序とか現状とかを維持しようとする不正義、こういうものに対する健康な生命の反撃、それが道義的エネルギーというものだと思う。いろいろな面において客観的方面に果てしなく分裂してゆくような傾向、そういう分裂の傾向を主体性において統合する、こういうのが健全な道義的エネルギーだ。

 あと二週間もすれば真珠湾攻撃という時期だ。言うまでもなく、第二次世界大戦は始まっており、すでに前年にフランスがドイツに降伏している。
 話題は文明論が中心である。時局や政治に関する議論は多くない。「モラリッシュ・エネルギー」という言葉が初めて現れるのが注目すべき点だ。そこがウケたようで、第二回座談会でお題目のように頻繁に使われる。最重要のキーワードだ。ただし、しっかり定義された語ではなく、意味がよくわからない。字義からの想像で「力あふれる国民全体の道徳心」とのみ解釈しては通じないのである。もとはランケの言葉だそうだ。以下にランケの著作や鈴木成高などのランケ紹介から引用し、この語の理解が少しでも容易になるようにしておく。



ランケの言葉

−モラリッシュ・エネルギー(道義的精力)を中心に−

『世界史概観』(鈴木成高、相原信作訳)

 神の理念の立場からみるならば、私は事柄を次のごとく考えるほかない。すなわち人類は発展の限りなき多様性を自らの中に蔵するものであり、それらはきわめて徐々にしかもわれわれには知られない法則にしたがって、ひとが考えているよりはるかに神秘かつ偉大に顕現しきたるものであると。

『政治問答』(相原信作訳)

カール 君の政治学では対外関係が重大な役割を演じるようになるらしいね。
フリートリヒ さきに言ったように世界は隅々まで占められている。その中である地歩を得るためには自力によって勃興し自由な独立性を発揮しなければならん、そして他の承認してくれない権利は我々自身戦うことによって手に入れるほかない。
カール それぢゃ何でも彼でも荒々しい暴力によって決められることになりはしないか。
フリートリヒ 戦いという言葉からそういう風に考えられやすいが、実際はそれほど暴力というものは物を言うものぢゃないよ。基礎が存在し団結が形成されているとして、それが今やまさに勃興して世界的な勢力となろうとする、その場合何よりもまづ第一に必要なのは道徳的なエネルギーだよ。この道徳的エネルギーによって初めて競争において競争者たる敵を打ち破ることができるんだ。
カール 君は血なまぐさい戦争作業を道徳的エネルギーの競争と見なすんだな。あまり高尚に考えすぎない方がいいよ。
フリートリヒ だって事実そんなに高尚でなかった我々の祖先たちでさえ競争に対して同じような考えを持っていたことは君もよく知っているはずぢゃないか。あのテンクテリ族やアムシヴァリ族が敢えてローマ人と無人の土地を奪い合ったのも、そういう考えに動かされていたからだ。事実昔からの重大な戦争の中で、ほんとうの道徳的エネルギーが勝利を得たのだということを指摘し得ないような戦争を挙げることはほとんど不可能に近いだろう。

『政治問答』(相原信作訳)

カール 君は個人は国家のために自分の有する生活力の大半を捧げるべきだと主張するが、個人はこうした犠牲に対してどんな報酬を得るのか、個人が国家のために失うところは何によって補償されるのか、そこをどう考えるか。
フリートリヒ 僕は別に理想の国家はかくあるべしという風には言わなかったつもりだよ。僕はただ目の前にある国家を理解しようとし努めたにすぎないんだ。現に国家は各個人の精力の大部分を提供させているぢゃないか。租税はすべての事業の生む収益の著しい部分を吸収しているし、ずいぶん多くの人々が自分の能力や青春を国家への奉仕に捧げている。僕らの地方では誰でも兵役義務の遂行を免れる者は居ないくらいだ。だから現在においてももう純粋な意味の私生活なんてものは無いと言っていい。我々の活動の大部分がもともと国家に帰属するように出来ているんだ。
カール しかし私人はそうした国家への参与の報酬として何を受け取るんだろう。
フリートリヒ 正常な国家では国家への参与そのものが報酬なんだ。個人はそうした参与を免れようなんて考えは起こさない。彼はそうしなければならないことをよく理解している。彼にとっては純粋な私生活なんてものは存在しない。もし彼が彼の精神的祖国たる、この一定の国家に属していないと仮定したら現在の彼ではあり得ないだろうからね。
カール 国家の国民に対するそうした注文どおりの自発的献身が世界中いたるところに行われているんだろうか。
フリートリヒ そんなことを主張した覚えはないよ。現にたとえばイタリーみたいに国民たちがその義務を嫌々ながら遂行している国々だってあるからね。ヨーロッパ的の種々の必要に迫られてイタリーでもやはり国家は国民がそれぞれ身体を投げ出し金品を提供して国家に尽くしてくれることを強く要求しているが、まだ不幸にして国民みづから進んでそうした仕事に身を捧げるところまでは漕ぎつけることができないありさまだ。国民は自分に課せられる義務を厄介視して、あたかも自分が圧迫され無理強いされたような感じを持っている。したがってできるだけ務めをずらかろうとする、こういう按配ぢゃ真の国家の特徴たる私的努力と公的努力との一致は到底あり得ないんだ。この調子でゆくとついには道徳的エネルギーそのものがせき止められるんぢゃないかと思うよ。それからまた私的活動さえ順当な発達を遂げることができないに相違ない。そうしたいろいろのことがあることは僕も全部認めるが、それはいわば欠陥であり変則の状態なんだ。
カール しかし君は、イタリーにしろその他の国にしろ、そのような変則を避け得られると思うのか。
フリートリヒ 少なくともそれを避けるべく工夫し全力を尽くすことが何よりの急務だね。国家の力が増大してゆく秘密はその外に無いよ。心中ひそかに国家に反感を持っている者は、まだ完全に国家の有とは言えない。だから国内政治の最も主要な努力はあらゆる分子をみづから進んで一致団結せしめるようしむけることに向けられなければならぬ。
カール だが国内政治にとってそのようなことがはたしてできるだろうか。
フリートリヒ ある州ある地方の特殊性を破棄しないで、しかもそれらを断ち切り得ない絆をもって国家全体に結びつけることができさえすればいいんだ。

『列強論』(村岡晢訳)

 フランスでは、すべてのものが豊かに発達しながら、道徳的には堕落した宮廷の風によって画一化され従属させられていた。(略)イギリスでは、やや偏狭ではあるが概して雄々しい自信のある宗教心が発達して、対立者を超克した。フランスは誤った功名心のために多量の血を失ったが、イギリスの血管は青春の血にあふれていた。

鈴木成高『ランケと世界史学』

弘文堂、昭和十四年十二月、より抜粋。

 国家は文化の容器ではない。国家はそれ自体において内容をもつ実体であり、「道徳的精力」である。

 国家は自己自らの内に原理をもつ個体であり、高次の一般的原理から導き出されるものでない。それは全然予測することのできない独自性をもって天才的に出現するものである。国家の誕生は「神の思想」である。

 国家は常に自己の存在を他国に向って主張しなければならぬ位置に置かれているものである。それは各外国がそれぞれその本質においてまた精神において相異るものであり相容れないものであるがゆえに外ならない。しかも各国家はそれぞれの原理を普遍にまで高め自己以上にまで拡張すべき課題を担っている。何となればそれは「道徳的精力」であるから。そこに国家の優越が起るであろう。しかるに一つの国家の一方的優越に対して他国が自己を保存するためには自己自身の原理を主張するほかない、そこに優越に対する均衡が形づくられる、国家系は国家を通して表現せられた「世界」の在り方にほかならない。

高山岩男『世界史の哲学』

岩波書店、昭和十七年九月。

 国家の根底には根源的な生命があると共に、国家には常に精神的な力が働いている。この精神的な力をランケは「道義的勢力(モラーリッシュ・エネルギー)」とも称している。

 門外漢の私がざっと読んだ限りでは、いかにも十九世紀ドイツの歴史家の言葉であると思った。そして、高坂や高山の本を見ると、言及される回数が群を抜いて多い。
 ランケによる「モラリッシュ・エネルギー」の定義は見つけられなかった。用例から想像するしかない。やはり「道徳心」だけに限定すると意味がわからない。むしろ、英語のmorale(士気)に近い語だと思った方が通ずるほどである。
 次のことは言えそうだ。国家は国民の文化の成長を妨げたり促進したりするのではなく、国家それ自体が文化の主体である。「モラリッシュ・エネルギー」とはその主体の力を指す。国全体にみなぎる気運とでも思っておけばよいのではないか。


 引用は仮名遣いや漢字の字体、ルビ等を適宜改めている。