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リュミエール兄弟「リュミエール工場の出口」

 映画史は不滅の傑作で始まる。ただ、私は馬車の出ない版が好きだ。実はそれは史上初の上映会には使われていない。
 いきなり扉が開いて、そこから大量の従業員があふれ出してくる。収容所の解放風景のようにも見える。満員の映画館から出てくる人々にも似ている。彼らの表情、特に女性たちの顔には演技する華やぎがある。「カメラを見るな」と指示はされていたのだろうが、つい正面に視線を送るエキストラが何人か居り、瞬間、照れくさそうに私と見つめあう。


ジョルジュ・メリエス「月世界旅行」

 メリエスが目指していたのは映画ではなく、演劇の舞台をスクリーンに貼り付けることだった。見る人に劇場の特等席に居る気分を味わってもらうつもりだった。だから、彼のカメラはクローズアップも移動もしないのである。でも、ちっとも演劇らしくない。スクリーンの向こうで内輪の学芸会を楽しまれている感じだ。誰も客席に向けた演技をしないからである。そこに我々の手出しできぬ自足した冒険があり、私の憧れをかきたてて止まない。


デヴィッド・ウォーク・グリフィス「国民の創生」

 映画、と言われてわれわれが親しく想起するものは「国民の創生」から始まる。
 英雄的な共産党員や百姓が映画に出てくると私はうんざりする。彼らの正義は貧乏臭いのだ。「国民の創生」のKKK団にも最初はそんなところがある。しかし、クライマックスに近づくほど、彼らの圧倒的な正義は晴れ晴れとした白さで津波のように画面を襲い、"黒い人たち"を一掃してしまうのだ。いいんだろうか、、。けれど、正義とはもともと胡散臭いものなんだろう。ニーチェは貧乏臭いタイプの正義に辛辣だったが、晴れ晴れした正義の胡散臭さには鈍感だったのではないか。彼をして無自覚にさせるほど、胡散臭いタイプの正義はカッコいい。


ロベルト・ヴィーネ「カリガリ博士」

 床や壁が傾いている。霊感に乏しい直線が凶々しく書きなぐられ、大雑把なうずまきが画面にぐりんぐりんしている。芝居の書割を映画のセットに持ち込んだ場違いな感じが良い。そんなところばかり見てストーリーを忘れてしまう映画の一つである。
 精神病院が出てくる。暴れない限り患者たちを庭で散歩させる解放治療を重視してるようだ。牧歌的な場面である。当時なら日本の施設や座敷牢の方が怖かったのではないか。だいたいにおいて、ほのぼのした映画だと思う。


セルゲイ・エイゼンシュテイン「ストライキ」

 映画の天才を一人だけ、と言われたら、エイゼンシュテインを挙げる。
 オーバーラップと顔のズームアップを多用しすぎるのが気になるが、それ以上に、笑いにあふれているので驚いた。これがエイゼンシュタインだったんだ。彼のコメディはパントマイムではなく、映像の意外性が生むもので、映像に対する新鮮な喜びにあふれている。「ハリーポッターと賢者の石」(2001年)で、写真の顔が動く場面が私は好きだったが、もっと鮮烈で単純にエイゼンシュテインは見せる。いや、鏡に水をかけるだけで、素晴らしいシーンになるのだ。


二川文太郎「雄呂血」

 これ以前の殺陣は、一人を斬るとポーズをきめ、いわば記念写真を撮ってから、次の敵と刃を交えるならいだったとか。
 自己主張が下手で誰にも理解されない日本人が耐え難きを耐え続け、とうとう我慢できなくなると周囲の想像を超えた破壊力を爆発させて自滅の道を突っ走る。その絶望的な獅子奮迅がこの映画のクライマックスだ。さすが治安維持法が公布された年だけあって、捕り手が寄ってたかってあふれ出る。と言うか、町内総がかりである。ヒーローに向って連中のやることといったら、四方から縄をからめるわ、屋根に上って瓦を飛ばすわ、我々の知る時代劇ではありえぬ反則技が斬新だ。


セルゲイ・エイゼンシュテイン「戦艦ポチョムキン」

 人間が虫か物のように扱われている。それは別に作中の圧政によってではない。映画作家が我々の目に人間を差し出す、その扱いが感じさせるのだ。たとえば、ハンモックにぶら下がる船員は山繭みたいだ。反乱者に白帆をかぶせてから一斉射撃をあびせるところもゴミを処理するように事務的だ。対して、イデオロギー表現は三文芝居になってしまうほど情感たっぷりである。この二つが奇跡的に重なるのが"あの"名場面だろう。


セウォロド・プドフキン「チェス狂」

 何がすごいって、この年のモスクワ大会だろう、マーシャル、グリュエンフェルド、シュピールマン、レティなどなどの対局風景が映るのである。彼らが動くだけでも感動だが、映画の内容が実に良い。畏友いわく「映画っていいなあって感じ」。うん、チェスに取り憑かれた若者の挙動がコミカルに描かれてるのだが、ここなんて、映画の快楽に浸れる。
 主人公は、この若者の恋人。若者がチェスに夢中で自分の方を向いてくれず、彼女は悲観してしまう。「チェスなんて最低!」と、チェスの無い場所を求めて街をさまようのだが、どこもかしこもチェスばかり、、、。
 さあ、我々にとってのクライマックスはここだ。自殺まで考えて泣き濡れる彼女の前に、現れ出でた洒落者が一人。なんとカパブランカなのである。本当に本物のカパブランカなのである。ニコニコと彼は微笑んでいて、モスクワが温まった感さえある。素晴らしい人だ。さて、この彼が、何と言って彼女を慰めるのか。画面に現れた台詞を見て私は大爆笑してしまった。映画でこれほど笑ったことがあろうかと思うほど大爆笑してしまった。それは言わないのがエチケットというものだろう。入手困難な映画だろうが、カパ・ファンならあの場面が楽しいはずである。なんとか、鑑賞の機会がありますように。(「戎棋夷説」03/08/24より)


アルフレッド・ヒッチコック「下宿人」

 不振にあえいでいたイギリス映画を救った一本であるという。けれど、現れるのはドイツ怪奇映画の趣を持った人物だ。彼はただの下宿人なのか、それとも話題の殺人鬼なのか。こんな場合、「怪しく見えて実はシロ」とくるのがお約束だが、なかなかどうして判断がつかない。見る者を充分に身悶えさせる映画だ。真相よりそれが大事なのだ。真犯人は最後に逮捕されるが、そんなの誰だって構わない、という場面になっている。
 ヒッチコックの実質的な第一作である。それを意識せずに見るのは難しい。バスルームが出てくると必要以上にハラハラする。それも楽しい。(「戎棋夷説」05/06/06も参照のこと)


ルイス・ブニュエル「アンダルシアの犬」

 いちいち例を挙げるのも気恥ずかしいくらい有名な、そして永遠に鮮烈なイメージが続く小品である。私が初めて見た時は完全な無声だった。そのあと、LDもDVDも買ったが、どちらも、場違いな軽音楽をかぶせていた。ブニュエル自身は1960年代にワーグナーなんかの音楽を付けていたらしい。ちなみに私は自分でフェルドマンの弦楽四重奏曲第二番をBGMにした版を作って見ている。これが実によくハマってるのだ。