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バスター・キートン「キートンの蒸気船」

 父親役のアーネスト・トレンスの表情が良い。顔が自在にクシャクシャになる。不機嫌だろうとゴキゲンだろうと、すべての表情筋を使い切ってくれる。余韻もあとくされもなく、見ていてスッキリする。不肖の息子を恥じながらも深く愛してる様子が微笑ましいが、見限るのも早い。その変心ぶりと、顔の切り替わりの速さが合っている。初対面の息子に対して父は情が濃すぎるのだが、不自然には見えないのはそのためだろう。息子役のキートンの無表情と好対照を成している。
 クライマックスは、キートンの伝説的な獅子奮迅が素晴らしい。見る前から知っている人が多いだろう。あらかじめ用意されているシーンの到来を待つだけで見た私は不幸である。


バート・ジレット「ミッキーの消防夫」

 ぐにゃぐにゃと伸びたり曲がったり、見ていて気持ち悪くなるぐらい、すべてが軟体である。ウィンザー・マッケイなど初期アニメはこうした表現に、実写とは異なる特質をアピールしていた。そして、ディズニー映画は本作はもちろん、のちのちに到るまで、多くのキャラクターが、タコのように腕をしならせ、顔面をどろどろに崩して笑顔を作った。
 劇中に古いアニメを流す映画がよくあるが、場違いに無垢な空間が生じて、その効果はたしかに捨てがたい。現実の生活でも、本作を見ると似た気分を味わう。デヴューしてまだ間もないミッキーマウスが初々しい。カッコの悪い場面も溌剌と演じている。出動する際に他の消防隊員たちが踊る仕草も可愛らしい。


チャールズ・チャップリン「街の灯」

 盲目の花売り娘に出会ったチャーリーが、彼女のために頑張る。これがメインの筋だ。酔っ払いの金持ちとのコントや道路清掃労働者のスケッチなどが、これをふくらませてゆく。主人公だけがそれら複数の場に現れる。だから、関連の無いチャップリンの短編映画を何本か切り貼りした印象がある。ギャグはその場限りの面白さなのだ。全体の構成力が弱いおかげで、有名なボクシングも主人公の本当の惨めさを気にせずわれわれは笑っていられる。
 見る者はこうした自身の残酷さをラストシーンで思い知らされることになる。花売り娘の表情は痛ましいものを目の当たりにした人の表情だ。彼女と共にわれわれはチャーリーの苦労を初めて了解する。彼を笑った人だけ泣けてくるはずである。


エリック・シャレル「会議は踊る」

 椅子はいっせいに前後に大きく揺れている。静まる議場でたった一人、メッテルニヒが採決を宣言する場面である。会議を欠席した面々の楽しい気分、そして、「それでええんか」という観客の不安を、揺れる椅子々々が視覚だけで訴える。ハッとして止まるのもいい。他にもいろんな場面がまだまだ無声映画だ。
 カメラは部屋の入り口から後退して、議場全体が無人であることを徐々に見せてゆく。この場面に限らず、カメラがよく動く。酒場全景の盛り上がりと、その中の一席の親密な語らいを、ひとつの流れに収めてしまう。大好きな「ただ一度」の場面も、カメラをぐるっとまわして馬車を追い、見物人の視点で臨場感を出していた。


エルンスト・ルビッチ「極楽特急」

 ふたつの唇は二十億光年の孤独を越えて重なるのだろうか。互いに夢見ているのは、やわらかく貼り付いてくる感触なのか、それとも、効果的にあごをそらして相手に致命的な失望を与えるタイミングを計っているのか。
 九鬼周造が何を言おうと、ハリウッドにも"いき"ってあるよね、と認めるしかない。でも、どこまでも優雅に大人の手順をすすめる美しきケイ・フランシスに対する、本音むきだしの野暮で子供っぽいミリアム・ホプキンスも可愛い。大人組に属しながら、両者に恥をかかさず場をつないでゆくハーバート・マーシャルの偉大さも印象的だ。
 悪趣味や風刺をちょっと抑えて、ルビッチの洒落た面を活かしている。