万延元年のチェスゲーム by 畏友
アメリカ囲碁協会サイト掲載の協会長ロイ・レアード氏による論考「Go in America」が興味深い事実を教えてくれている。この論考は2001年5月、世界で唯一の囲碁学科をもつソウルの明知大学で第1回国際囲碁会議が開かれた際、その会報に掲載されたものだそうだ。
レアード氏はこの論考でアメリカへの囲碁伝播について、まずゴールドラッシュ(1848年〜)にともなう中国からの開拓民が囲碁を持ち込んだ可能性を指摘し、さらにアメリカでの最初の囲碁の記録として、1860年6月の新聞記事を紹介している。記事によれば、このとき囲碁を披露したのは開国まもない日本からやって来たサムライたちだ。レアード氏の論考から訳すと、
1860年6月16日付の『フィラデルフィア・イブニング・ブリティン』に、日本の外交・政治使節団によるフィラデルフィア訪問を伝える記事がでている。アメリカ海軍准将ペリーが日本を西洋に向け開国させたばかりのころで、この訪問は日本とアメリカの国際関係のはじまりであった。使節団はアメリカ政府への訪問を終えた後、東海岸を旅する機会を得たが、フィラデルフィアに着いた彼らを地元のチェスクラブが招待し、将棋(shogi)の実演を依頼した。記者(reporter)は、西洋のチェスを「素晴らしい元祖の、取るに足りない、ちっぽけな派生物」であると結論している。 記事はつづけて「使節団は私たちに日本のゲームをもう一つ説明したが、ドラフトにやや似たもので、縦横19マスのボードで遊ばれる」。ところが、フィラデルフィアのチェスプレーヤーたちは、そのボードにしばし当惑すると、将棋にもどってしまったのである。この素っ気ない無理解な出会いが、おそらくはアメリカにおける初めての囲碁の露出であった。 |
日本人は働き者だが、たまの祭日や、夕方や暇な時間にはよく勝負事や娯楽を楽しんでその埋め合わせにしている。ある日、軍医グリーン博士と牧師ジョーンズ氏が箱館の街を散歩していたところ、にわか雨にあい、近くの屯所あるいは番所に雨宿りした。中に入ると、数人がチェスにとてもよく似たゲームをしていた。興味をもった博士は通訳の助けも借りながらそのゲームを習い、しばらく手合わせもした結果、その秘訣に通じることができた。ゲームは Sho-Ho-Ye(訳注:原文はYeのeの上にアクセント記号がある)という名前で、日本人の間で非常に愛好されている。博士による説明は次の通りである。 |
1860年6月7日付『ニューヨーク・ヘラルド』 ワシントン通信 |
1802 |
当地で、アメリカにおける最初のチェスの本『Elements of Chess』が出版される。 |
1813 |
チェス強豪ヴェザン(Charles Vezin)が移住。 |
1826〜27 |
自動チェス人形タークの興行(メルチェルのからくり一座)が最初のチェスブームを招く(図4)。会員100名以上のチェスクラブもできるが長続きしない。 |
1827 |
ヴェザン、タークとドロー(棋譜1)。このころメルチェルは当地をアメリカ各地、キューバ興行への拠点とする。 |
いつの世も機械はチェスに活を入れてくれるというわけだが、人気定着には至らなかったようだ。状況が変わるのは1836年のチェス強豪ヴェサク(Henry Vethake)の移住から。
1836 |
ヴェザンとヴェサクはチェススクールを設立し、以降20年間、後進を指導。(ポー「メルチェルの将棋差し」) |
1838 |
ターク・オペレーター、シュランベルジェ(Wilhelm Schlumberger)没。メルチェル没。地元有志がタークを購入し常時公開へ。ポーが移住(〜44年)。 |
1840 |
タークを地元のピール博物館が収蔵(故ピールは当地の著名画家)。 |
1841 |
ヴェザン、地元強豪とのマッチに勝利。 |
1842 | ヴェザン、ボストン強豪とのマッチに勝利。 |
1843 | ヴェザン、アメリカ最強スタンリー(Charles H. Stanley)とのマッチに惜敗。 |
1845 | ヴェザン、スタンリーとの通信チェスに勝利。 |
1847 |
ボストン代表チームと通信チェスマッチ(フィラデルフィア代表チーム勝)。 |
1853 |
ヴェザン没。 |
1854 |
ターク、博物館火災により焼失。 |
1856〜57 |
NY代表チームと通信チェスマッチ(勝)、棋譜2局が パンフレット化され、ヴェザンに捧げられる。 |
1857 |
スクール第二世代のモンゴメリー(Hardman P. Montgomery)が第1回チェス総会・全米選手権に参加(モーフィ優勝)。 |
1858 |
地元紙にチェスコラム登場。NY代表チームと電信チェスマッチ(勝)(棋譜4)。 |
1859 |
モーフィがエキシビション対局に訪れる。フィラデルフィア・チェスクラブ設立。 |
1860 |
32人参加による第1回フィラデルフィア・チェスクラブ選手権(モンゴメリー優勝)。 |
1860年6月16日付『ニューヨーク・タイムス』 フィラデルフィア6月15日発 |
チェスクラブのメンバーが一人また一人と集まってきたが、美しくも好奇心の強い4人の女性たちの姿もあった。日本人をひと目見たいがために、女性たちもあの“いまいましい、くだらないゲーム”を経験しようというのである。 さほど待たされることもなく、かの有名人たちが著名なチェスプレーヤーであるモンゴメリー、ウエルズ、マイルズ各氏とともに到着したが、三氏は何度も断られながらも下役(the under officials)の4、5人を説得して連れてきたのだった。 |
全員の握手がかわされると、日本人たちの前に、この機会のためにアセニアムの日本コレクションが提供した sho-ho-ye の駒が披露された。ボードはチェスの64マスとは異なる81マスのため、白い紙に必要分のマスを引いて間に合わせとした。アセニアム提供の駒のリストと、その性能の説明書きの助けや、集まった人々が知るかぎりの英語を駆使したおかげで、正しい駒の並べ方と駒それぞれの能力が究明され、そして日本人たちの2人が実演の説得に応じてくれた。 |
このゲームは、本紙読者のチェスファンなら最近号で学ばれた方も多いと思うが、われわれのチェスよりも複雑である。マス目も17個多く駒数も8個多いが、駒によっては対局の中でその能力を増やしたり減らしたりできる。取り除いた相手の駒をボードに置き直すこともできるが、ほかにも独特のルールがあり、それがこのゲームをおそろしく複雑なものの一つにしている。チェスよりもはるかに難しいゲームだが、多くの特徴においてチェスと sho-ho-ye はまったく同一である。 |
全体に日本人がそれまで経験したなかでは、最も厳粛かつ秩序正しい訪問の一つとなった。というのも、これは称賛に値するが、ご婦人方が日本人を観察しようと前に押しかける無礼にはまるでおよばず、しとやかに身をひいて遠くから対局を見守っていたのだ。これは美しく着飾った何百、何千人もの当地の女性たちが“日本人に会う”ためにホテルや街頭パレードに絶え間なく押しかけるのとは妙に対照的な姿だった。 今回の訪問中、この日本人たちから、日本では sho-ho-ye の知識を人々に授けるために政府が指導者(teachers)を雇っていることがほのめかされた。だから sho-ho-ye は広く親しまれているのだと…… |