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万延元年のチェスゲーム by 畏友


 アメリカ囲碁協会サイト掲載の協会長ロイ・レアード氏による論考「Go in America」が興味深い事実を教えてくれている。この論考は2001年5月、世界で唯一の囲碁学科をもつソウルの明知大学で第1回国際囲碁会議が開かれた際、その会報に掲載されたものだそうだ。

 レアード氏はこの論考でアメリカへの囲碁伝播について、まずゴールドラッシュ(1848年〜)にともなう中国からの開拓民が囲碁を持ち込んだ可能性を指摘し、さらにアメリカでの最初の囲碁の記録として、1860年6月の新聞記事を紹介している。記事によれば、このとき囲碁を披露したのは開国まもない日本からやって来たサムライたちだ。レアード氏の論考から訳すと、

 1860年6月16日付の『フィラデルフィア・イブニング・ブリティン』に、日本の外交・政治使節団によるフィラデルフィア訪問を伝える記事がでている。アメリカ海軍准将ペリーが日本を西洋に向け開国させたばかりのころで、この訪問は日本とアメリカの国際関係のはじまりであった。使節団はアメリカ政府への訪問を終えた後、東海岸を旅する機会を得たが、フィラデルフィアに着いた彼らを地元のチェスクラブが招待し、将棋(shogi)の実演を依頼した。記者(reporter)は、西洋のチェスを「素晴らしい元祖の、取るに足りない、ちっぽけな派生物」であると結論している。  記事はつづけて「使節団は私たちに日本のゲームをもう一つ説明したが、ドラフトにやや似たもので、縦横19マスのボードで遊ばれる」。ところが、フィラデルフィアのチェスプレーヤーたちは、そのボードにしばし当惑すると、将棋にもどってしまったのである。この素っ気ない無理解な出会いが、おそらくはアメリカにおける初めての囲碁の露出であった。

 
 囲碁は食わず嫌いだったようだが、日本からやって来た「外交・政治使節団」は囲碁の前に将棋を披露していた。ここではこの、アメリカの記者に「素晴らしい元祖」とまで誤解させた将棋とチェスの出会いについて、日本側、アメリカ側それぞれの事情にふれながら、別角度からの位置づけを試みたい。


 東インド艦隊を率いたペリーが琉球、小笠原諸島を経て浦賀沖に現れたのは1853(嘉永6)年7月7日(陽暦・アメリカ時間。以下同様)のこと。天野宗歩が『将棋精選』を刊行した年で、1851年に第1回国際トーナメントを経験していたチェスでは、アンデルセンのエバーグリーン・ゲームの年にあたる。ポール・モーフィは当時16歳。法学学位をめざしアラバマ州のカレッジに就学中だった。
 翌1854年2月、再び日本を訪れたペリーは日米和親条約締結をはたす。1856年、これらペリー艦隊の2年余りの航海は、アメリカ政府により制作費36万ドルをかけた学術的な報告書『アメリカ艦隊のシナ海域および日本への遠征記』全3巻(以下『日本遠征記』)にまとめられたが、よく知られるように、第1巻には1854年5月に寄港した箱館(函館)において、街を散歩中の乗組員が目にした将棋が図面入りで記録されている。該当部分を訳すと、

 日本人は働き者だが、たまの祭日や、夕方や暇な時間にはよく勝負事や娯楽を楽しんでその埋め合わせにしている。ある日、軍医グリーン博士と牧師ジョーンズ氏が箱館の街を散歩していたところ、にわか雨にあい、近くの屯所あるいは番所に雨宿りした。中に入ると、数人がチェスにとてもよく似たゲームをしていた。興味をもった博士は通訳の助けも借りながらそのゲームを習い、しばらく手合わせもした結果、その秘訣に通じることができた。ゲームは Sho-Ho-Ye(訳注:原文はYeのeの上にアクセント記号がある)という名前で、日本人の間で非常に愛好されている。博士による説明は次の通りである。


 以下、チェスと比較しながら駒の名称やルールを解説しているが、将棋は「Sho-Ho-Ye」として採集された。(ダニエル・S・)グリーン博士は打ち歩詰め禁止を記していない以外は完璧な収集ぶりで、本文の通り、博士が相当に将棋に通じたのは間違いなさそうだ。
 このとき採集された駒名が興味深いので紹介しておくと、王将はOh-shioとのみでギョクについてはない、角行はKakuko、歩兵はHo-hei。成った駒は、飛車はRioho、角行はRiome、銀将以下はGin-Nari-kinの要領で、歩はHo-Nari-kinである。精密とも思え、「Sho-Ho-Ye」もそう聞こえたというより、現地発音に近かったのではないだろうか。

 なお、岩波文庫版も近年の全巻完訳版も訳出していないが、原文ではルール解説のあと、最後にこの一行がある。「グリーン博士提供(prepared)によるこのゲームのプロブレムを数題、第一巻付録に掲載している」。
 実際には原書全3巻中に掲載がなく制作過程で落とされたと想像するが、H. J. Murray『History of Chess』(1913)によると、『日本遠征記』の Sho-Ho-Ye 報告は、グリーン博士が1854年9月7日付『Japan Expedition Express』に発表した「The Japanese Game of sho-ho-ye, corresponding our Game of Chess」にもとづくようだ。これはペリー艦隊の船内新聞かと思うが、プロブレムはここに載っているのかもしれない。
 今回は見つけられなかったが、『Japan Expedition Express』の琉球関係レポートは邦訳もでているから、あるところにはあるのだろう。
 

 開国にふみきった徳川幕府は、1860〜67年に大小6回の外交使節団を欧米諸国に派遣している。レアード氏論考の「日本の外交・政治使節」はその第1回にあたり、1860(安政7)年2月12日に、正使・新見豊前守正興をはじめとする総勢77人の使節団を載せたアメリカ海軍艦ポーハタン号(パウアタン号)が横浜を出帆した。
 ポーハタン号より早く、勝麟太郎、福澤諭吉、ジョン万次郎らが乗り込んだ咸臨丸もアメリカに向かっていたが、こちらはポーハタン号の正使一行に万一事故があった場合に供えてのものだったらしい。先にサンフランシスコに入港した咸臨丸は3月29日のポーハタン号到着を待って役目を終え、滞米50日余りで日本に戻っている。
 余談ながら、咸臨丸乗組員には尾道出身の長尾幸作という提督従者がおり、長尾は本因坊跡目・桑原秀策と親交があった。因島出身の秀策は郷里筋からの依頼で、江戸で蘭学を学ぶ長尾の心配をしていたが、長尾は咸臨丸乗船が決まると秀策から理由を説明せずに金子を借り、そのままアメリカへ旅立ってしまった。渡米は幕命による内密事だったかもしれないが、温情家の秀策には珍しい、長尾の振る舞いを強く非難する手紙が残っている。

 そもそもこの第1回使節団が派遣されたのは、1858年締結の日米修好通商条約の条文にもとづき、条約批准書をワシントンで交換するためだった。横浜出帆後、ホノルルを経て3月17日にサンフランシスコに到着した使節団は太平洋を下ってパナマに上陸し、初体験の蒸気機関車に乗りこんでカリブ海側にでた。
 ここからアメリカ海軍艦で北上した使節団が目的地ワシントンにたどり着いたのは5月14日のこと。港には5,000人もの見物客がつめかけたそうだが、楽隊と祝砲と花束による大歓迎のなか上陸した使節団は四頭立て馬車をつらねて市中を行進し、ようやくウィラーズホテルに長旅の荷をといた。
 このウィラーズホテル滞在中の使節団の様子を伝える新聞記事に、さっそく将棋の話題が載っている。原紙を確認できなかったため、田中一貞氏編『万延元年遣米使節図録』(1920)掲載の訳文をお借りするが、田中氏(慶應義塾図書館・初代監督)によると、咸臨丸提督・木村摂津守喜毅の子息のもとに残る当時の訳文を手直ししたもので、原訳は福澤諭吉かジョン万次郎によるだろうとしている。

1860年6月7日付『ニューヨーク・ヘラルド』 ワシントン通信

 ……日本人は既に其の莫大なる荷造りを終へ今や其の美麗なる手蹟と寫生にて記念帖を飾り又は其見聞を記録することに急はし、此等仕事の暇には Sho-ho-ye(将棊の誤なるべし)と云ふ遊戯をして時を過ごせり。
 此遊戯は我國のチェスに似て各遊戯者は八十一に分たれたる盤の上にて王と一人の顧問官と馬と二ッの飛車及角を含める凡そ廿の軍人即駒を以って勝敗を争ふものなり。彼等が此等のものにも倦みたる時は第十四街に面する窓の下に群る群集に戯むれ互に笑ひを交換すると常とせり……


 使節員たちは仕事としてスケッチ入りの日誌をつけ、仕事の手があくとチェスに似た Sho-ho-ye を楽しんでいるという。「将棊の誤なるべし」の注記があるが、もちろん「Sho-ho-ye」は誤りではなく『日本遠征記』の情報にもとづいたと考えられるし、「顧問官」という訳語もやはり『日本遠征記』での駒名「Gold, or chief councillor」(金将)に対応するものだろう(注記:原文「一人の顧問官」の「一」は原文ママ)。
 使節員たち携帯の将棋は日本から持参したものか、それとも長い旅中の慰めに自作したのだろうか。

 この『図録』は1860年当時の新聞掲載イラストも収めている。出典不明だが、おそらくニューヨークの『フランク・レズリー絵入り新聞』(Frank Leslie's Illustrated Newspaper)からで、ウィラーズホテル客室における日本使節の様子を伝える一枚もある(図1)。
 このイラスト中央で、初めて見るあぐらを描きそこねたのかサムライが妙な姿勢でしゃがんでいるが、『図録』での日本語キャプションは「ホテル室内に於ける日本人対棋の図」。イラスト下の原キャプションでは「チェッカーに似た日本のゲームに興じる使節員」となっている。囲碁だろうか。
 当時はこうした木版イラストを売り物にした「絵入り新聞」がアメリカやイギリスで人気だった。アメリカの人々は「絵入り新聞」が視覚的に伝えるジャパンという国の奇妙に熱狂していたし、第1回国際チェストーナメントの主導者スタントンも『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』にチェスコラムを30年間書き続け、広く大衆へのプロモーションに努めていたわけだった(図2)。

 この6月7日付『ニューヨーク・ヘラルド』のころは、使節団はワシントンでの条約批准書交換という大役をはたしたあとで、記事にあるようにワシントン出立の荷造りも終えていた。この後、使節一行はボルチモアへ移動し、6月10日には人口50万の大都市フィラデルフィアに入る。日本では3月23日に桜田門外の変(大老・井伊直弼暗殺)が起こっていたが、使節団が知ったのはフィラデルフィアでのことだったらしい。
 この暗殺事件をうけ、安政7年は万延元年に改元されていた。


 当時のフィラデルフィアはニューヨークとならぶ大都市で、東西南北に整然と走る街路にそって石造りやレンガの家屋が建ち並んでいた(図3)。なによりアメリカ有数のチェスシティであり、その様子を、当地の強豪プレーヤーだったG. C. Reichhelmの『Chess in Philadelphia』(1898)などからまとめていくと、

1802 

当地で、アメリカにおける最初のチェスの本『Elements of Chess』が出版される。 

1813 

チェス強豪ヴェザン(Charles Vezin)が移住。 

1826〜27 

自動チェス人形タークの興行(メルチェルのからくり一座)が最初のチェスブームを招く(図4)。会員100名以上のチェスクラブもできるが長続きしない。 

1827 

ヴェザン、タークとドロー(棋譜1)。このころメルチェルは当地をアメリカ各地、キューバ興行への拠点とする。 

 いつの世も機械はチェスに活を入れてくれるというわけだが、人気定着には至らなかったようだ。状況が変わるのは1836年のチェス強豪ヴェサク(Henry Vethake)の移住から。

1836  

ヴェザンとヴェサクはチェススクールを設立し、以降20年間、後進を指導。(ポー「メルチェルの将棋差し」) 

1838  

ターク・オペレーター、シュランベルジェ(Wilhelm Schlumberger)没。メルチェル没。地元有志がタークを購入し常時公開へ。ポーが移住(〜44年)。 

1840  

タークを地元のピール博物館が収蔵(故ピールは当地の著名画家)。 


 チェススクールはチェスのマニア化を招く面もあっただろう。街の誉れタークも抜け殻になってしまったが、ヴェザンは自らの企画でマッチゲームをはじめ、スクールの生徒たちを熱狂させる。

1841

ヴェザン、地元強豪とのマッチに勝利。
1842 ヴェザン、ボストン強豪とのマッチに勝利。
1843 ヴェザン、アメリカ最強スタンリー(Charles H. Stanley)とのマッチに惜敗。
1845 ヴェザン、スタンリーとの通信チェスに勝利。

 そして旧世代が務めを終えたかのように去ると、メディアの発達にものりながらスクールの成果が結実していった。

1847

ボストン代表チームと通信チェスマッチ(フィラデルフィア代表チーム勝)。 

1853

ヴェザン没。 

1854

ターク、博物館火災により焼失。 

1856〜57

NY代表チームと通信チェスマッチ(勝)、棋譜2局が パンフレット化され、ヴェザンに捧げられる。

1857

スクール第二世代のモンゴメリー(Hardman P. Montgomery)が第1回チェス総会・全米選手権に参加(モーフィ優勝)。 

1858

地元紙にチェスコラム登場。NY代表チームと電信チェスマッチ(勝)(棋譜4)。

1859

モーフィがエキシビション対局に訪れる。フィラデルフィア・チェスクラブ設立。 

1860

32人参加による第1回フィラデルフィア・チェスクラブ選手権(モンゴメリー優勝)。


 1858年11月28日付『ニューヨーク・タイムス』は、フィラデルフィアとの電信チェスマッチの模様をスタントンやモーフィの名をひきながら棋譜も含め伝えているが、同時期にはモーフィのヨーロッパ制覇もあってチェスの熱はアメリカ全土におよび、各地に次々とチェスクラブが誕生していた。
 ライヒヘルムによると、1860年にはアメリカ全体で87本ものチェスコラムが連載されていたという(うちフィラデルフィア地元紙に7本)。

 チェス人気を象徴するエピソードを1859年7月8日付『アマースト・カレッジ新聞』号外が伝えている(図5)。これは同じマサチューセッツ州のウィリアムズ・カレッジとの対抗戦(7月1・2日)の結果速報で、ベースボール史で史上初のカレッジ対抗試合としてよく紹介されるが、本当はベースボールだけを戦ったわけではない。
 号外によれば両校が競い合ったのは「BASE BALL AND CHESS!」。両校の雌雄は「肉体と頭脳(MUSCLE AND MIND!)」の両面で決するべきという発想からだった。初日はベースボール、二日目はチェスで!(棋譜5


 6月12日、使節団の次の訪問地となるニューヨークでは、『ニューヨーク・タイムス』が一面トップに特集記事「THE JAPANESE IN PHILADELPHIA」を掲げた。
 使節団接待費として予算3万ドル(当時の『ニューヨーク・タイムス』は1部2セント)を計上していたニューヨークはその到来を心待ちにしていたようだが、特集記事の小見出しを拾うと「昨日の日本人たちはどこを訪ね、何を見たか」「疑わしい大君死亡報道」(注:井伊大老暗殺を前日11日に大君暗殺と誤報)、そしてワシントン6月7日発として「日本のチェスゲーム」。
 記者はチェスの起源にもふれながら「日本で広く遊ばれる sho-ho-ye」を紙面一段分を使って紹介している。『日本遠征記』の記述を咀嚼した、より丁寧な案内であり、記事の最後はこう結ばれた。「私は自分で、このかなり複雑なゲームに多少は親しんできたし、東洋の武人の一人とは対局の機会をもつ約束をしてある。フィラデルフィアかニューヨークでその約束をかなえたいと思う」。

 ペリー艦隊による将棋の発見、新聞があおる日本幻想、そして頂点にあったチェスブーム。それらが重なり合って、ひとつの出会いの場がもうけられた。アメリカ屈指のフィラデルフィア・チェスクラブが日本のサムライたちを招かないわけがなかったのである。


 日本使節団のフィラデルフィアでの主目的は合衆国造幣局訪問にあり、日本から持参した小判、一分金が分析実験され日米間の為替レートが決定された。一行はほかにも水車場やカレッジ、孤児院や刑務所訪問といった公務をこなし、野原での気球見学や幻灯会を楽しみもした。
 そしてフィラデルフィア滞在最終日の6月15日。『ニューヨーク・タイムス』特派員O. Jrのレポートから該当部分を訳す。

1860年6月16日付『ニューヨーク・タイムス』 フィラデルフィア6月15日発 

 ……今朝の見込みでは日本使節団はまだ店々の見学をとのことだったし、正直なところ、いささかの日本過多にうんざりもしていたため、私はチェスナット街をぶらつきながらフィラデルフィア・チェスクラブの部屋に向かった。「ニューヨークからのよそ者ですが」と名のると礼儀正しい応対があった。カイサの信奉者たちと一緒に講演を聞かないかと勧めてくれたのだが、何たることか、日本熱はここにまでおよんでいたのである。今まさに、日本代表団がクラブのために日本のチェス、いわゆる sho-ho-ye を披露する機会を提供しようとしていたのだから。


 チェスナット街はフィラデルフィアの中心地で、あとででてくるが、フィラデルフィア・チェスクラブ(以下、PCC)は現在も存続する1814年設立の会員制図書館アセニアム(The Athenaeum) 内に活動拠点をもっていた。
 設立当初のアセニアムは街の名士の社交クラブとして機能したようだが、『Chess in Philadelphia』によると、1847年時点でのアセニアムではチェスルームひと部屋、チェステーブル4面が許可されていた。1859年のモーフィ×トーマス(William G. Thomas)など、アセニアムは当地における数々のマッチゲームの舞台ともなっている。

 チェスクラブのメンバーが一人また一人と集まってきたが、美しくも好奇心の強い4人の女性たちの姿もあった。日本人をひと目見たいがために、女性たちもあの“いまいましい、くだらないゲーム”を経験しようというのである。  さほど待たされることもなく、かの有名人たちが著名なチェスプレーヤーであるモンゴメリー、ウエルズ、マイルズ各氏とともに到着したが、三氏は何度も断られながらも下役(the under officials)の4、5人を説得して連れてきたのだった。


 この特派員も sho-ho-ye を経験したことがあったようだ。クラブに招かれた日本人たちはあまり協力的ではない様子だが、出立の荷造りもあったろうし、使節員によっては市中へ散歩に、あるいは観劇にだったそうだから、わざわざチェスクラブへという気分にはなりにくかったか。
 モンゴメリーは前出の第1回全米選手権に参加したH・P・モンゴメリーのこと。PCC会長であり、当時26歳にして当地最強。ウエルズ(Francis Wells)は地元紙のチェスコラムを担当していたが、クラブでも会計担当と責任者格にあり、会長直々の依頼といい、礼を尽くした招待だったことがうかがわれる(図6)。

 全員の握手がかわされると、日本人たちの前に、この機会のためにアセニアムの日本コレクションが提供した sho-ho-ye の駒が披露された。ボードはチェスの64マスとは異なる81マスのため、白い紙に必要分のマスを引いて間に合わせとした。アセニアム提供の駒のリストと、その性能の説明書きの助けや、集まった人々が知るかぎりの英語を駆使したおかげで、正しい駒の並べ方と駒それぞれの能力が究明され、そして日本人たちの2人が実演の説得に応じてくれた。


 タークを収蔵したピール博物館を「チャイニーズ・ミュージアム」と呼ぶことがあるが、これは通称で、豊富な中国コレクションが人気だったためらしい。アセニアムの将棋駒も、このときまではそんな東洋の神秘のひとつだったろうが、いまも所蔵されているのではないだろうか。どなたか「World Open」のついでに……。

 このゲームは、本紙読者のチェスファンなら最近号で学ばれた方も多いと思うが、われわれのチェスよりも複雑である。マス目も17個多く駒数も8個多いが、駒によっては対局の中でその能力を増やしたり減らしたりできる。取り除いた相手の駒をボードに置き直すこともできるが、ほかにも独特のルールがあり、それがこのゲームをおそろしく複雑なものの一つにしている。チェスよりもはるかに難しいゲームだが、多くの特徴においてチェスと sho-ho-ye はまったく同一である。
 複雑なわりには対局を披露してくれた日本人はかなりの早指しで、敏速な判断はフィラデルフィアの人たちを驚かせた。日本人たちはチェスにも強い関心を示し、見事な理解力でルールを覚えてもみせたのだった。


 「最近号」とは先の12日付記事のことだろう。この「かなりの早指し」や「見事な理解力」がレアード氏紹介記事にある、チェスを「素晴らしい元祖の、取るに足りない、ちっぽけな派生物」にさせたのかもしれないが、『日本遠征記』の箱館にもグリーン博士の習得ぶりに目を見張る日本人がいなかっただろうか。
 レアード氏の論考とあわせると、結局、招かれた日本人たちは将棋と囲碁を披露し、さらにチェスも試したようだが、彼らが使節団の誰かは突き止められなかった。使節員による数々の日誌が残っているが、今のところ見いだせない。
 使節団には民間人も参加していた。たとえば、帰国後に日記と航路地図を出版した甲州の医師があり、飛騨の庄屋次男・加藤素毛雅英などは海外で初めて句を詠んだ俳人とされているようだ。「(フレドルビヤ)月ならで風船高し夕まぐれ 素毛」。風船=14日に見学した気球である。

 全体に日本人がそれまで経験したなかでは、最も厳粛かつ秩序正しい訪問の一つとなった。というのも、これは称賛に値するが、ご婦人方が日本人を観察しようと前に押しかける無礼にはまるでおよばず、しとやかに身をひいて遠くから対局を見守っていたのだ。これは美しく着飾った何百、何千人もの当地の女性たちが“日本人に会う”ためにホテルや街頭パレードに絶え間なく押しかけるのとは妙に対照的な姿だった。  今回の訪問中、この日本人たちから、日本では sho-ho-ye の知識を人々に授けるために政府が指導者(teachers)を雇っていることがほのめかされた。だから sho-ho-ye は広く親しまれているのだと……


 該当記事は以上だが、PCC側の熱意が日本人たちに通じたのか、日本人に自分の写真やラブレターを贈るなどミーハー化していた女性たちも感じいるエキシビションになったようだ。
 質疑応答もあった様子だが、政府が雇う「指導者」とは将棋家のことだろう。将棋が「広く親しまれている」のは幕府のおかげとは役人的答弁かもしれないが、彼らはこの近年の御城将棋に登場していた和田印哲や天野宗歩をイメージしたのかもしれない。フィラデルフィアにおけるヴェザンのように長く甲州で指導にあたった印哲や、タークのように諸国を駆けまわって指し倒した宗歩のことを。
 現実の幕府は崩壊過程にあり、恒例の御城将棋は翌1861年が最後になった。


 アメリカも1861〜65年の南北戦争でチェスどころではなくなる。モーフィの欧州ツアーを第一面で追い続けた『ニューヨーク・タイムス』などチェスのプロモーションに貢献した新聞にしても、戦争という、チェスよりはるかに売上に有効な題材を見つけたわけだった。
 内戦後のチェス界は長く停滞する。1857年に続く第2回チェス総会は14年後の1871年まで開かれず、全米選手権も全米の名にふさわしい規模を実現できないでいた。
 さなかの1879年4月、ニューヨークのマンハッタン・チェスクラブがチェス復興の一大イベントを企画している。1859年のモーフィ・エキシビションの会場ともなった、ブルックリン音楽アカデミーでの人間チェス(Living Chess)である。
 Martin. F. Hillyer『Thomas Frere and the Brotherhood of Chess』(2007)によると、それはそのころ続々と登場していた新しいスポーツに、とくに、その観戦の魅力から、一気に国民的娯楽になろうとしていたベースボールに対抗するためだったという(図7)。

 翌1880(明治13)年7月の東京では、前年10月に名人披露を行ったばかりの伊藤宗印が「教師・会主 伊藤宗印」名義で、清楽会結成を告げる引札を発行している。
 「其式たる、予、祖先の定め置きたる制約を遵守し……久遠、此会筵を接続し、以て此道の弥隆盛ならしめんことを企望すと云ふ」「社員は互に棋局に対し、亦は師に教へを受ること随意たるへし……月謝として一箇月金七拾五銭」。
 これは賭け将棋禁止など祖先の掟を遵守する「清楽」の将棋会であり、今後の自分は教師として指導収入を得ながら将棋の振興を図っていくと。それまでの「家元−門人」は「会主−社員」へと変わり、以降の宗印は自ら公開将棋会を主催・告知しては、その結果を番付(ランキング表)というメディアに発表していく。
 アメリカチェス界も将棋界も新時代にかなう姿を模索しはじめたということだろうが、こうしてみると、万延元年のエキシビションは微妙な時代バランスの上に成り立ったもののように思う。時代という局面を一瞬ツークツワンクしたかのように。


 万延元年の遣米使節団は6月30日にニューヨークを出帆し、大西洋をまわって11月8日、横浜沖に帰着した。10日には江戸城に登り将軍家茂に謁見、13日には麻布にアメリカ公使ハリスを訪ね帰朝の挨拶をしている。

 使節団はアメリカから大量の物品を持ち帰ったが、幕府に提出した報告書の「洋書目録」の項に、
一 将棊司欧羅巴紀行 壱冊
一 将棊之書 壱冊
一 将棊書 壱冊
とチェスの本らしい3冊が挙がっている。『将棊司欧羅巴紀行』からすぐ連想されるのは Frederick. M. Edge『The Exploits and Triumphs in Europe of Paul Morphy, the Chess Champion』(1859)だが、どうだったのだろう。
 『ニューヨーク・ヘラルド』の記者だったエッジは、行きつけの店でニューヨーク・チェスクラブのメンバーたちと知り合い、チェスが新聞の売上に結びつくと考えた人物だった。エッジは第1回チェス総会実現に尽力し、その会場でモーフィに魅せられる。モーフィ欧州ツアーに秘書として同行したエッジは、本書にモーフィの人となりを書き残してくれた。「Paul Morphy, the Chess Champion」に「将棊司」をあてたとすれば、将棋史の方でも参考になるだろう。
 「洋書目録」には、これらの三冊は「蕃所調所に相納度候」とある。蕃所調所の蔵書は現在の静岡県立中央図書館・葵文庫に引き継がれたようだが、葵文庫目録には見あたらない。蕃所調所は名称を洋書調所、開成所と改めていくが、『西洋将棊指南』(1869)を著した霞仙史こと柳河春三が開成所頭取だったことを思えば、柳河が『将棊之書』か『将棊書』をちょっと拝借して『西洋将棊指南』をまとめた、なんて妄想もわくところである。
 使節団の報告書によれば、これら3冊はアメリカでの「贈物書籍」だった。PCCでだろうか。現地でプレゼントされた本には、たいがい手書きの献辞があったそうである。


※ 万延元年遣米使節の事実関係については、尾佐竹猛氏『幕末遣外使節物語』(1989)、宮永孝氏『万延元年の遣米使節』(2005)、日米修好通商百年記念行事運営会編『万延元年遣米使節史料集成』(1960〜61)などを参照させていただいた。