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付記:七人のチェスマスター

 『戎棋夷説』でおなじみの検索達人Kさんから、現地フィラデルフィア発の記事のご案内をいただいたので、訳してご参考に供したい。ここにはフィラデルフィアで将棋を披露した日本人の名前も記されている。
 記事を掲載したのは『フィラデルフィア・デイリー・ブリティン』。掲載年月日・筆者は不明だが、内容から、フィラデルフィア・チェスクラブ(PCC)の中心メンバーが1868年に発表したもののようだ。日本での政権交代が伝わり「8年前」の出来事が回顧されたのだろう。

 Kさんは、これをスタントン編集『The Chess World』(発行地ロンドン)が転載したものを見つけられたのだが、原書はニューヨーク公共図書館に1932年に寄贈された「Frank J. Marshall Collection of Chess Books」による。マーシャルは説明するまでもないだろう。

出典:『The Chess World』Vol. 4(1867〜68年発行分合本/原文P79〜)

 日本のチェス(Japanese Chess)

 次の興味深い記事は最近、『フィラデルフィア・デイリー・ブリティン』に掲載されたものだ──。
 読者諸氏はもちろん、8年前、日本使節団がアメリカを訪れたのをご記憶だろう。彼らがフィラデルフィアにやって来たとき、私たちは、日本使節団を、東洋と西洋のチェスの貴重な交流手段として利用しようと決意したのだった。私たちのコラムをジャパニーズ・ギャンビットで(with a Japanese Gambit)、つまり優秀な sho-ho-ye プレーヤー二人か、他の何か日本人のクラブ(Japanese Club)で飾り立てようと大きく期待したのである。使節団の宿舎に案内された私たちが知ったことには、sho-ho-ye はあの半ば野蛮な島国の人々の何よりの典型である、中・下位層にもっぱら限られるものということだった。


 1859年設立のPCCは、地元名士や知識層による社交クラブ「アセニアム・ライブラリー」が母体。アセニアム会員はクラブハウスの図書を共有し、会員間の交流/情報交換はもとより、さまざまなクラブを結成して娯楽や学芸に親しんでいた。
 PCCのチェスは、こうしたステイタスと不可分の、紳士趣味としてのチェスだった。だからこそ、日本を代表する使節団の中に「優秀な sho-ho-ye プレーヤー」を期待することにもなっている。

 使節団の宿舎(コンチネンタル・ホテル)を訪ねた筆者たちは、将棋は「中・下位層にもっぱら限られるもの」とその期待を裏切られてしまうが、チェスも将棋(小象戯)もそもそもはロイヤルゲームとはいえ、貴族趣味が紳士趣味に引き継がれたばかりのチェスと、京から江戸へ下って久しい将棋とではプレーヤーの様態が異なるのは当然だろう。
 明治期の御雇外国人W・B・メーソンも同様の記述を残したが(「将棋」、1890)、ここでも事情は変わらない。メーソンは横浜居留地の社交クラブ「ユナイテッド・クラブ」に所属する横浜チェスクラブ会員であり、メーソンにとってもチェスは紳士の趣味だった。

 実際のところ、明治期に社交クラブ文化が輸入され、福澤諭吉の交詢社(1880)や日本倶楽部(1898)などとして新興上流層に流行すると、紳士趣味としての将棋もみられるようになる。小野五平は日本倶楽部の初代将棋師範。大正期の木村義雄は同気倶楽部でチェスに出会い、1933(昭和8)年の日本倶楽部は来日したアリョーヒンの歓迎会を開くが、これらは社交クラブ文化史的には必然というわけだ。

 この目的のために日本のチェスの駒ひと組を友人から借り受けたが、これが通訳の代わりになってくれた。非常に有能な通訳ですらあったのだが、というのも、異国の客人たちは瞬時に駒をテーブルに広げると、その動かし方(use)を説明してくれたのだ。ボードはなかったが、彼らは明瞭な英語を使って一枚の紙をもらい、そこに目を見張る早さで“ボード”をレイアウトすると、駒それぞれが置かれるべきマス目に、駒の名前を実に手際よく記してみせた。私たちはこの直筆“ボード”を使節団による興味深い記念品として、とても大切にしている。


 紙に線をひいて将棋盤の代用にしたとは前回紹介した『ニューヨーク・タイムス』にもあったが、日本人自身が紙を用意させ、そこに駒の初期配置まで記したという。「明瞭な英語」同様の、美しい筆跡だったろう。

 フィラデルフィア・チェスクラブにやって来た代表団は8人の武人(soliders)からなり、それぞれ、自分用の、非常に長く重い剣を手にしていたが、もう一方の手に小ぶりの扇をもつ者もいた。挨拶に数分が費やされると、彼らのうち2人が、そのために用意してあったテーブルの席につき、キリスト教国における初めての日本のチェスがはじまった(使節団がアメリカに到着以来、日本人宿舎という僻地で指したであろうものを除く)。
 対局者の1人は Yamada Woomagen という美男子で、初手を決めるくじ引きとして(マーカンタイル・ライブラリー式に)1枚の歩(a Ho-hei)つまりポーンをボード中央に放ったが、初手は先を向けた側(表を向けた側?/the side falling uppermost)という決まりだった。対局はポーンを前に進め合うことで進行し、やがて他の駒も動かされていった。


 PCCには、使節総勢76名(出発時は77名)のうち8人がやって来た。
 日本使節は使節三使(正使・副使・監察)と、諸役としての外国方・通弁方・勘定方・目付方・医師・賄方(料理人)からなっていたが、「Yamada Woomagen」は、外国方/外国奉行支配組頭・成瀬善四郎正典従者、山田馬次郎清樹(きよたつ)で、当時29歳。
 くわしく調べられなかったが、早世した土佐藩士・山田馬次郎(1832〜63)は洋学の徒だったらしい。

 エキシビションという意識もあってか、対局の先後は歩1枚を振って決められた。「マーカンタイル・ライブラリー」もアセニアム同様の社交クラブ。商業会議所と訳していいようだが、ここでは直接その所属チェスクラブを指している。
 John・S・Hilbert『Essays in American Chess History』(2002)によると、マーカンタイル・ライブラリーには会員の子供も出入りしたらしく、幼児たちのおもちゃになったピースとボードは、その多くが行方不明になったとか。「マーカンタイル・ライブラリー式に」歩を放ったとは、その辺からの連想かもしれない。

 ボードと駒には印や数字を細かくふっておいた。いくらかでも対局の記録をとりたかったからだが、このゲームは複雑で独特だったし、並はずれた早指しもあって、私たちはすぐにどうしようもなく混乱してしまった。
 対局が進んでいくと、やがて、周囲の日本人たちの顔に浮かぶ表情からわかったことがある。対局者の一方が早々に優勢になったのだ。負けた日本人が「He beat me」とだけいって席をたつと、日本人たちは爆笑につつまれた。それはまったくもって、すがすがしいものだった。


 熱い二人をぐるりに囲み、目とアゴで会話しながらニヤニヤ、ほうらやっぱり。負けたのではなく「あっちの勝ち」。先の段落から定跡にのっとった将棋を想像できることといい、筆者の観察は見事だ。8人の関係性もみえてくるようで、『ニューヨーク・タイムス』が「下役」としたとおり、同じ従者クラスだったのだろう。
 将棋は「複雑で独特」とあるが、先のメーソン「将棋」でもこんなことが書かれている(邦訳書は省略)。「(将棋の)駒の動きはヨーロッパ式とほぼ同じだが、後者では知られていない動きがある。これをチェスに持ち込んだら、お国のモーフィのような人でも駒の動きにまごついて負けてしまうだろう」。

 この対局はメイトまで指されなかったため、日本人たちにはもう一戦を同意してもらった。最初の対局の敗者が席を仲間のひとり、Sano Kanaye に譲ったが、彼はそのより熟達した英語でこの会合の通訳を務めてくれた。その指し回しは力強く思え、15分後には彼の「王手(Ote)!」の宣言があった。これは killed の意味だが、同じ意味をもつペルシャ語の mat との重大な類似を示唆している。


 将棋披露は二局あった。詰め上がりまで示してくれるよう要望があったようだが、「王手!」も意識的だったかもしれない。将棋とはこういうものだと。当時のチェスの競技規則では「チェック」の発声がなければチェックにはならなかった。

 「Sano Kanaye」は、勘定方/勘定組頭支配普請役・益頭駿次郎尚俊従者、佐野貞輔鼎(かなえ)で、当時30歳の加賀藩士。
 佐野鼎(1831〜77)の航海日記が公刊されているが、残念ながら将棋披露については記述がない。日記は報告書然としたクールな内容で、造幣局発行文書の訳文を載せるなど勘定方らしい記述がめだつ。語学力、学識に富んだ佐野は使節の中でもとくに優秀な人材として、アメリカの新聞でしばしば紹介されもした。

 佐野は1861(文久元)年の遣欧使節団にも参加している(開市開港延期談判使節)。現在の佐野は教育者として、共立学校(現在の開成学園)創立者として名を残しているが、加賀藩士としての佐野の経歴が興味深い。
 駿河生まれの佐野は江戸に出て蘭学を学び、1854(安政元)年に加賀藩に召し抱えられた。1857年には御異風格、新流砲術師範方棟取役として、江戸藩邸での駐在を命じられている。
 興味深いというのは、あの岡田乾州(1835〜97)も加賀藩士であり、佐野と同じ軍事畑を歩んだからだ(岡田については『戎棋夷説』05/08/29)。江戸で航海術を学んだ岡田は加賀藩の航海学生棟取、軍艦棟取、軍艦奉行を務めたが、二人に接点はなかっただろうか。

 岡田も明治4年に洋行しており、帝国図書館(現在の国会図書館)に寄贈された岡田の将棋書コレクション(当時の新聞によると、296種433冊と106枚、ほか袋入1個)に、新旧の『西洋将棊指南』(1869、87)があったのは自然なことだったろう。
 岡田は自分の棋譜集を残したが、その自序には「象戯てふ翫ひは、其制作巧妙にして且つ、みやびたる翫なり、余、遠き頃より此技を翫ひ、大田震斎大人としばしば対局し……」とある(写本『消夏録』、1885)。二段まで進んだという岡田にとって、将棋はみやびな習い事だった。

われらが客人たちによると、江戸には政府に任命された7人の“チェスマスター”がおり、このゲームを人々に指導している(instructing)という。このゲーム関係の日本語書籍が多数あるそうだが、彼らは、ナイアガラ号(訳注:アメリカ軍艦)で日本に戻ったら、こちらに何点かお送りしましょうと約束してくれた。しかしながら、東洋人は忘れっぽいのである。
 彼らは日本のゲームをもう一つ教えてくれた。ドラフトにいくらか似たもので“縦横それぞれ19のマス目(訳注:原文のとおり訳す)”のあるボードを使うため、全部で361マスということになる。


 現在のアセニアムのライブラリー・カタログによれば、1860年までのチェス書は、アメリカで最初のチェスの本『The Elements of Chess』(1805)を筆頭に31点。内訳はアメリカ書9(29%)/イギリス書20(65%)/ドイツ語書2(6%)。
 この31点では、ルイス・キャロルの書棚にもあったというスタントンと George Walker の本が目立つが、Walker『The chess-player』(1841)の表紙には「by George Walker, teacher」とある。Walkerもスタントン同様、本・コラムの執筆、クラブの設立や専門雑誌を創刊と、手段をつくしてチェスの一般化につとめていた。「ライターにして伝道者」という現代の評もある。

 一方の日本では、清水孝晏氏『改定新版 日本将棋書総覧』(1997)で、上と同条件に1805〜60年刊行書を数えると77点。つまりアセニアム31点の2.5倍であり、「このゲーム関係の日本語書籍が多数ある」の裏事情が実感できそうだ。日本人たちとの会話から、将棋書の方がはるかに多いと認識したのだろう。
 公立図書館 Library company of Philadelphia の『1835〜56年追加所蔵図書目録』によると、22年間に14点のチェス書を追蔵しているが、「宗教/法律/科学と技芸/純文学/歴史」の5分類をもつこの目録で、チェスは「科学と技芸」の最後の項である。本としてのチェスはまだまだ新参者だった。


 「政府に任命された7人の“チェスマスター”」を検討してみると、使節団にとって直近だった1859(安政6)年12月4日の御城将棋では、以下の6名が確認できる(幕府日記『柳営日次記』)。
・相手組:宗桂×大橋鐐英、宗印×宗金
・手明:宗a
・煩:天野宗壽
 天野宗壽は宗歩のことだろう。実際はこの年の5月に亡くなっているが、記載ミスでなければ「宗壽」と改名していた。

 同じ1859年刊の、大名・幕府諸役人名鑑として市販された『武鑑』では、「御将棊所」は以下の6名。
1 二十石十人フチ/八丁ほり秋や丁  伊藤宗印
(1名分空欄)
2 二十石十人フチ/下谷三枚はし  大橋宗桂
3 父宗桂/十人フチ  大橋宗金
4 十五人フチ/山ぶし井戸  大橋宗a
5 宗桂弟子  天野宗歩
6 祖父宗看/弟子  和田印哲

 印哲はこの時点で故人だが、『武鑑』では宗歩ともどもその後も掲載がつづく。さかのぼって嘉永6(1853)年刊『武鑑』では先の空欄部分に「十五人フチ/本所吉岡丁 大橋宗與」があり、ほか同様で7名。
 
 以上から7人の“チェスマスター”」はほぼ正確な認識といえるが、その場で「7人」と回答できたことをどう考えるべきだろう。現代のように、定跡にのっとった将棋を指すような者には棋界通も多いということなのか。
 

 日本人たちのうちの数人は、私たちのゲームを覚えるのにかなりの好奇心を示した。彼らのためにいささかの手ほどきをすると、じっと見入っていたし、物覚えの良さといったらそれは見事なものだった。チェスセットひと組と『Handbook』1冊をプレゼントすると、日本人たちは大喜びしてくれた。近い将来、きっとこの『Handbook』が the Japanese Chess College の教科書(text)になることだろう。


 使節が日本に持ち帰ったチェス書3点のうち1点は、スタントン『The Chess - player's Handbook』(初版1847、ロンドン)だった。
 同じく使節が持ち帰ったさまざまな物品も皿一枚、入れ歯一つまで記録されているが、今のところ関連史料にチェスセットは見つからない。

 「the Japanese Chess College」とは将棋家のこと。
 公開史料が少ないこともあってか、(それが役目のはずの)指導者としての将棋家はあまり語られないようだ。目にできた範囲で紹介すると、将棋三家はそれぞれ月5、6日は門戸をひらき(「会日」)、門弟を駒落ちで指導していた。宗桂や天野宗歩も指導にあたり、1836(天保7)年の大橋家では、会日は毎月5・9・14・20・25日の5日間。9日が含まれるのは、初代宗桂の月命日だからだろう。
 門弟は武士、町人が中心だが、四枚落ちも指されており、「門弟入」はマニアだけではない。対局は採譜され局後の評もあったが、いわゆる秘伝定跡も「口伝(変化)」から「厳秘口伝(難しい変化)」へと段階的に教えていったのだろう。

 会日の『定』書をみると、「門弟入」や「手直り(実力認定)」には門下高弟の紹介(「取次」)が必要とされ、門弟は将棋家に「請書」(身分保証書)も提出したようだ。
 たとえば、1874(明治7)年の小野五平は大橋家に「薩摩士 森有恕」を「取次」している。この森有恕は森有礼の父だが、それで森邸でとする小野の棋譜や、伊藤宗印・小野の将棋会番付に森有恕の名前(号・鶴陰名義)が残ったのだろう。

 会日は、賭将棋禁止/マナー遵守/感想戦を「定」とする「修行(=芸道を学ぶ)」の場であり、「定」は「尋常に修行可為之事」と、上品(尋常)な修行姿勢を求めていた。岡田乾州の「みやびたる翫」は個人的な思いを語ったものではない。
 岡田のメモによると、将棋家による定例競技会「角力会」もあった。参加料「金一朱」/「毎月 定日十六日 早朝より」/食事・賞品付で、競技結果を番付化。16日は当時の三家会日と重なっておらず、三家共同の競技会と思われる。

 将棋家の会日は、定日制/会員制・紹介制/目的が明確(修行)/会則を設置という半ば閉鎖的な特徴をもつ。ついイメージしそうな現代の将棋道場のような場ではない。後世への技芸伝達とともに、人材発掘、後継者育成の場でもあったろうが、いうまでもなく、それが将棋家自身を継続させる唯一の方法だった。
 1857(安政4)年の大橋家名簿『将棊段式人名録』(刊本、改訂の跡あり)では、宗桂、宗金、宗歩以外に281名を数える。その巻頭に「直弟并ニ技流之社、海内に充満す」とあるように、三都を中心に北は奥羽から南は薩摩まで、大橋家の薫陶を受けた直弟子と指導の「社」が広がっていた。
 「日本では sho-ho-ye の知識を人々に授けるために政府が指導者(teachers)を雇っていることがほのめかされた。だから sho-ho-ye は広く親しまれているのだと」(『ニューヨーク・タイムス』)。


 sho-ho-ye を知識としてしか知らなかった筆者は、ここで実際の対局を目にし、日本人たちへの質疑を通しては、チェスと同様に sho-ho-ye にもマスターが存在すること、アセニアムのチェススクールがそうだったように、マスターによる恒常的な指導環境がその活況を支えることを理解した。
 チェスの手ほどきに「じっと見入」る真摯な姿勢からは、日本における sho-ho-ye の格式も感じたことだろう。「7人の“チェスマスター”」に尊敬の念すらわいたのではないか。その恵まれた環境を生かして、ぜひチェスも指導してみてほしい。そのためのチェスセットと教科書『Handbook』の進呈だったと解釈できると思う。

 「the Japanese Chess College」とは、将棋家を公的存在として、専門者養成機関として理解したがゆえの「College」であり、筆者はゲーム面以外でもチェスと将棋の共通性を見いだしたからこそ、「sho-ho-ye」を「Japanese Chess」と呼んだのだ。

 客人たちはあり合わせの軽食をつまみ、記帳を済ますと、われわれに別れを告げて去っていった。今回の招待に満足した様子で元気いっぱいだったが、彼らが去ったあとには、その穏やかにして快活な礼儀正しさと、知識のやり取りにふさわしい知性がもたらした最大限の好印象が残っていた。
 いささか前おきが長くなったが、以下、当時の記憶と、日本遠征隊のレポートにおける実に興味深い説明にもとづいて、この驚くべきゲームについて述べよう。


 しつこいようだが、現在のアセニアムに、エキシビションで使われた駒、直筆の盤、8人のサムライがサインした芳名帳は残っていないだろうか。
 原文はここでP81の図面へ。以下、P84の最初の段落までつづくゲーム説明部分は略す。

 以上を記してみると、日本遠征隊の海軍軍医ダニエル・S・グリーン博士が根気強く研究したことに、博士の不屈の勤勉ぶりに気づかされる。ここでの記述も、遠征隊によるレポートでの非常に明快かつ詳細なゲーム説明のおかげである。


 原文は以上。Kさんのおかげで、かなり様子がわかってきた。どうもありがとうございます。

 ひとつすっきりしたこともある。1881(明治14)年における「『小野五平をウィーンに招待しよう』という企画は突飛なものではなかった」(Maroさん)。(詳細は『戎棋夷説』07/01/01
 東洋の日本には政府に雇われたチェスマスターがいる。すでに維新前後には、チェスに意識的な人々がそう認識できる環境ができていた。編集長スタントンはもちろん、ロンドンに移住していたシュタイニッツもこれを読んだはずだ。


主な参考文献:
M・トム 「倶楽部めぐり」(『モダン日本』連載、1931)/佐野鼎『万延元年 訪米日記』(1943)/今井一良「佐野鼎の英学とTommy・立石斧次郎のこと」(『英学史研究』第15号所収、1982)/W・B・メーソン「将棋」(B・H・チェンバレン編『日本事物誌』所収、1969)/C・Dickens Jr.『Dickens's Dictionary of London 1879』『同 1888』/増川宏一『将棋II』(1985)、同『将棋家「将棋指南役」』(2005)/犬塚孝明『森有礼』(1986)