64shots

1834年、La BourdonnaisMcDonnellのマッチ。
本格的に棋譜が採られ公開されるようになった。
1835年、Cookが現在標準の駒の原形をデザイン。
後にStauntonが推奨した。当初は左右の駒に違いを付けていた。
(1839年、ショパン『24の前奏曲、作品28』)
1843年、パリ。StauntonがSt Amantとのマッチに勝利。
11勝6敗4分。Philidor以来の覇権がフランスからイギリスに移った。
1851年、Anderssenの「Immortal Game」(対Kieseritzky)。ロンドンのDivanにて。
Simpson's Divanは1903年まであった有名なチェス・カフェ。
1851年、Kling and Horwitzの『Chess Studies』刊。
長生きしたHorwitzは後に自分一人で作ったような顔をした。
1851年、ロンドン。史上初めての国際大会にAnderssenが優勝。
第一回万国博覧会に合わせて開かれた。
1853年、Anderssenの「Evergreen game」(対Dufresne)。ベルリン。
"Immortal"はFalkbeer、"Evergreen"はSteinitzの命名。
(ペリー、浦賀に来航)
1857年、初めてアメリカ選手権が開催される。Morphyが優勝。
決勝はPaulsenと。早指しのMorphyが泣くほどの長考派だった。
(ボードレール『悪の華』)
1858年、パリ。Morphy がAnderssenをマッチで破る。7勝2敗2分。
無論、あのオペラ・ハウスの一局もこの年。
1859年、Morohyが引退を宣言。
彼が望んだ駒落ちでの試合に誰も応じなかったのが直接の理由。
1862年、ロンドン。Anderssenが優勝。
60年代最大の大会。Steinitzを4勝1敗で撃破。二位Paulsen。
(1865年、ワーグナー『トリスタンとイゾルデ』初演)
1866年、ロンドン。SteinitzがAnderssenをマッチで破る。8勝6敗0分。
Steinitzは世界王座を自称したが、公認されてはいない。
(1867年、マルクス『資本論第一巻』)
1870年、バーデン・バーデン。Anderssen優勝。
70年代最大の大会。二位Steinitz。初めて対局時計が使われる。
1872年、ロンドン。Steinitzが優勝。7勝0敗1分。
ポジショナル・プレイの誕生。チェスの戦略史上最大の事件である。
(キャロル『鏡の国のアリス』。チェスが狂言まわし。)
1878年、Loydの『Chess Strategy』。プロブレムの古典。
まとまった本としてはWhite編集のものが有名である。
1882年、ウィーン。SteinitzとWinawerが同点優勝。
これと翌年のロンドンが80年代最大の大会。
1883年、ロンドンで
Zukertortが圧勝。22勝4敗(引分けは再試合で決着)。
二位のSteinitzは19勝7敗。どちらが強いか議論が湧く。
(鹿鳴館、落成。チェスも指されたのだろうか?)
1886年、ニューオリンズほか。Steinitzが初代の世界王座に就く。
マッチでZukertortを破る。10勝5敗5分。
1889年、ハバナ。SteinitzがChigorinの挑戦を退ける。10勝6敗1分。
Chigorinはこの後のNewYork大会でなんと27勝のうさばらし。
(パリ万博でガレのガラスが大賞、エッフェル塔。)
1890-1年、大陸間の電信戦でChigorinがSteinitzを破る。2勝0敗0分。
Steinitzの研究局面から二つを選んで、彼の結論を打ち砕いた。
1891年、ニューヨーク。SteinitzがGunsbergの挑戦を退ける。6勝4敗9分。
Gunsbergは見世物小屋でチェスを指す機械のオペレーターだった。
1892年、ハバナ。SteinitzがChigorinの挑戦を退ける。10勝8敗5分。
史上最悪の大ポカで決着したマッチとして知られる。
1893年、Shinkmanがミシガン州グランドラピッドの市役所に勤務。
人呼んで「グランドラピッドの魔法使い」。
(ビアズリー『サロメ』挿絵、ムンク『叫び』。)
1894年、ニューヨークほか。LaskerがSteinitzを破り、第二代世界王座に。
96-7年にリターン・マッチがあるが、Laskerの圧勝だった。
1894年、Tarrasch『300 Games of Chess』刊。
『My System』『Zurich 1953』と並ぶ三大理論書のひとつ。
1895年、ヘイスティングス。欧州初登場のPillsburyが新感覚で優勝をさらう。
Steintz最後の傑作Von Bardeleben戦もこの大会。
(樋口一葉「たけくらべ」等の奇跡の14ヶ月。)
1895-6年、サンクトペテルブルグ。Laskerが優勝。強豪四人のみで争った。
全18ラウンド。二位Steinitz、三位Pillsbury、四位Chigorin。
1896年、ニュルンベルグ。Laskerが優勝。二位、Maroczy。
これとヘイスティングス、サンクトペテルブルグが90年代最強の大会。
1899年、ロンドン。Laskerが優勝。20勝1敗7分。
強豪が揃った大会だが、一位と二位に4.5ポイントもの差がついた。
1902年、モンテカルロ。Maroczyが優勝。13勝2敗9分。
二位Pillsbury、14勝4敗6分、三位Janowski、14勝4敗4分、ん?
(ラッセルのパラドックス発見。チェスを捨てた成果か。)
1904年、ケンブリッジスプリングス。優勝Marshall。二位Lasker、Janowski。
最高の打撃戦、Laskerの対Napier戦はこの大会の一局。
1906年、Troitzkyがナイト2個対ポーン1個のエンディングを研究。
K+N+N対Kは引分け。が、後者がK+Pなら後者不利という不思議。
1907年、ニューヨーク他。LaskerがMarshallの挑戦を一蹴。8勝0敗7分。
生涯で、二人の初顔と最後の一戦にだけMarshallは勝った。
1907年、ルージ。RubinsteinのImmortalとして名高いRotlewi戦。
二枚ビショップの睨みを利かした強烈なサクリファイス。
(ピカソ「アヴィニョンの娘たち」)
1908年、デュッセルドルフ他。LaskerがTarraschの挑戦を退ける。
8勝3敗5分。Tarraschは全盛期に挑戦させたかった。
1910年、ウィーン他。Laskerが王座防衛。挑戦者Schlechterが大善戦。
1勝1敗8分。王者は最終戦で薄氷の一勝。挑戦者のフェア・プレーも有名。
1910年、ベルリン。LaskerがJanowskiの挑戦を一蹴。9勝0敗3分。
良いパトロンさえ見つかればタイトル・マッチが組めた時代。
(マーラー『交響曲第9番』完成。初演は1912年。)
1911年、サンセバスチャン。Capablancaが優勝。超新星の登場。
二年前にMarshallをマッチで圧倒した実力は本物だった。
1912年、Rubinstein Year。サンセバスチャン、ピエシチャニ他、各地で優勝。
残念、彼にはパトロンが付かなかった。Janowskiと対照的。
1912年、ブレスラウ。Marshallの対Levitsky戦はこの大会の一局。
金貨ふりそそぐ「史上最も美しい一手」として有名。優勝はRubinstein。
(タイタニック号沈没。夏目漱石『行人』に囲碁の挿話。)
1914年、Capablanca、自賛の一局。対Bernstein戦。モスクワ、公開対局。
Marshallにベスト・ゲームを質問されて、彼はこれを挙げた。
1914年、サンクトペテルブルグ。Laskerが優勝。史上最高の大会のひとつ。
Capablancaとのデッドヒート、直接対決はチェス史の名勝負。
1914-8年、第一次世界大戦。大きなチェス大会はあまり開かれなかった。
チェスの陣形理解が深いからドイツが勝つとLaskerは信じていた。
1918年、Marshall Atackの登場。相手はCapablanca。ニューヨーク。
Marshallの度胸も、研究手順を的確にしのいだCapaもすごい。
(1919年、デュシャンがモナリザにヒゲを描く。チェス狂だった。)
1921年、Retiによるポーン・エンディングの傑作スタディ、白先ドロー。
御存知のあれ。白はKh8とPc6、黒はKa6とPh5、たったこれだけ。
1921年、Alekhine Defenceの登場。チューリッヒ。ブダペスト。
中央重視の布陣に挑戦するハイパー・モダニズムの時代。
1921年、ハバナ。CapablancaがLaskerを破り、第三代世界王座に就く。
4勝0敗10分。第十局は完封勝利の名局。
1922年、Reti『Modern Ideas in Chess』刊。チェス評論の傑作。
AnderssenからEuweまでの棋風と戦略思想の変遷を解説。
1922年、Alekhineの傑作、対Bogolyubov戦。へイスティングス。
Chernev指定の「盤上における史上もっとも偉大なる傑作」。
1922年、ロンドン。Euweがシシリアン定跡でd6-e6の防御線を張る。
翌年のスヘフェニンゲン大会でこの布陣に名が付いた。
1924年、ニューヨーク。Laskerが優勝。Alekhineの大会本は名著である。
数々の名局やエピソードに彩られた素晴らしい大会。
1924年、世界チェス連盟(FIDE)が設立される。
最初はオリンピアード(チェス五輪)のための組織だった。
(宮沢賢治『春と修羅』。ブルトン『超現実主義宣言』。)
1925年、
Nimzowitsch『My System』刊。ハイパー・モダニズムの理論書。
blockade、prophylaxisなど、彼の持ち込んだ新概念である。
1927年、Alekhine『My Best Games of Chess 1908-1923』刊。
自戦記集の傑作。全盛期の棋譜を集めた続編よりも面白い。
1927年、ニューヨーク。Capablancaが優勝。誰の目にも無敵に見えた。
二位Alekhine、三位Nimzowitsch。6人が各自4戦づつ。
1927年、第一回チェス・オリンピアード。ハンガリーが優勝。ロンドン。
最初の公式チェス五輪。1924年のパリ大会は未公認の扱い。
1927年、ロンドン。Menchikが初代の女性世界王座に。圧勝だった。
10勝0敗1分。チェス・オリンピアードと合わせて開催された。
1927年、ブエノスアイレス。AlekhineがCapablancaを破り、第四代世界王座。
6勝3敗25分。AlekhineはCapaとの再戦から逃げ回り、男を下げた。
1929年、カールスバッド。Nimzowitschが優勝。10勝1敗10分。
最下位ながら名誉を守ったMenchik。彼女のClub伝説が有名。
(小林多喜二『蟹工船』、徳永直『太陽のない街』。)
1929年、32年、33年、Sultan Khanがイギリス選手権に優勝。
彼がヨーロッパのチェスをちゃんと覚えたのは1926年である。
1929年、34年、AlekhineがBogoljubovの挑戦を退ける。
前者は11勝5敗9分。後者は8勝3敗15分。
1930年、31年、Alekhineの全盛期。サンレモとブレドで圧倒的な優勝。
前者は13勝0敗2分、3.5点差。後者は15勝0敗11分、5.5点差。
1933年、Alekhineが来日。木村義雄14世名人とも対局している。
ただし、木村戦として残っている棋譜は、別人の棋譜である。
(1934年、呉、木谷、安永『新布石法』。碁のハイパーモダン。)
1935年、オランダ。EuweがAlekhineを破って、第五代世界王者に。
9勝8敗13分。第二六局が名局として名高い「ザントフォルトの真珠」。
1935年、モスクワ。BotvinnikとFlohrが同点優勝。
老齢のLaskerが僅差で3位、Capaにも勝った。「生物学的奇跡」。
1936年、ノッティンガム。CapablancaとBotvinnikが同点優勝。
強豪勢ぞろい。九年ぶりにCapablancaとAlekhineが対戦。
1936年、Grigorievの作品が、ある雑誌で、12の賞のうち10を独占。
お題は彼の十八番、ポーン2個対1個のエンディング。
1937年、オランダ。AlekhineがEuweを破って王座復位。10勝4敗11分。
臥薪嘗胆の禁酒禁煙と体力トレーニングが画期的だった。
1937年、ケメリ。FlohrとReshevskyとPetrovが同点で優勝。
Flohrの全盛期。王座挑戦の話しが起こったが実現せず。
1937年、エジンバラ。Koltanowskyが34人と同時に目隠しチェス。
13時間半。メモを採らず、早いドローも無い、純正の記録。24勝10分。
1938年、AVRO。FineとKeresが同点優勝。史上最強の大会のひとつ。
オランダ各地を移動して開催。AVROはこの国の放送局。
1939-45年、第二次世界大戦。
Menchik、Troitzky、ユダヤ人棋士、他たくさんの犠牲が。
1941年、ソビエト選手権完全優勝者決定戦。Botvinnikが優勝。
共産党は彼に勝たせたかった。期待に応えたのは立派。
1942年、シシリアンに新風を吹き込むPe5、Boleslavsky定跡の初例。
猛威を振るうのは1948年あたりから。白はこれを避けたい。
1945年、ソビエトがアメリカに無線対局で14.5対4.5の圧勝。
今では当たり前のこの結果も、当時ではショックだったらしい。
1945-70年、KasparyanとLoshinskyが何度も作図のソビエト王座に。
KasparyanはStudyで6期。LoshinskyはThreeMoverで連続9期。
1946年、ポルトガルでAlekhine没。不遇の晩年だった。
復位後は王座戦をしなかった。世界王座は空位に。
1947年、シシリアンの代表型、Najdorf定跡の登場。ブエノスアイレス。
ローマ法王ヨハネ=パウロ2世も若き日の1938年に指している。
1948年、ハーグ。世界王座決定戦。Botvinnikが優勝。第六代世界王座に。
FIDEが世界王座の決定に関わるようになるのはここから。
1950年、シャノンがチェス・コンピュータに関する基礎研究を発表。
原題は"Programming a Computuer for Playing Chess"。
1950年、世界王座挑戦者決定大会。同点のBronsteinとBoleslavskyで決戦。
ブダペスト他。勝ったBronsteinはBoleslavskyの娘まで奪ってしまった!
1950-53年、第一回郵便チェス世界選手権。Purdyが優勝。
9勝1敗3分。半点差で、Malmgren、Napolitano。
1951年、モスクワ。BotvinnikがBronsteinの挑戦を相星で防衛。
5勝5敗14分。終盤のポカが無ければ新王座誕生だった。
1951年、第19期ソビエト選手権。Keresが二年連続で優勝。9勝2敗6分。
以前から凄かったが、さらにハイレベルの大会になった。
1952年、第十回チェス・オリンピアード。ソビエトが初出場。ヘルシンキ。
90年第二九回大会まで19回出場し、18回に優勝した。
1952年、第20期ソビエト選手権。TaimanovとBotvinnikがプレー・オフ。
優勝はBotvinnik。2勝1敗3分で王者の貫禄を示した。
1953年、Gligoricがキングス・インディアンに新機軸。マールデルプラタ。
ナイトを引いてPf5としてからNf6に戻す、あれである。画期的だった。
1953年、Bronsteinの名著で知られるチューリッヒ大会。優勝はSmyslov。
世界王座挑戦者決定大会。ソビエト勢の団結でReshevskyを阻んだ。
1954年、モスクワ。BotvinnikがSmyslovの挑戦を相星で防衛。
7勝7敗10分。特にレベルの高いタイトルマッチであった。
1955年、第22期ソビエト選手権。Gellerが優勝。10勝5敗4分。
同点のSmyslovをプレー・オフで下した。1勝0敗6分。
1956年、世界王座挑戦者決定大会。Smyslovが優勝。6勝1敗11分。
アムステルダム。二位のKeresに1.5点の差を付けた。
1956年、アメリカ選手権。13歳の少年が名局で鮮烈なデヴュー。
その名はFischer。「世紀の一局」のクィーン・サクリファイス。
1956-62年、Averbakh『Comprehensive Chess Endings』シリーズ。
初版。膨大な終盤定跡の研究書である。
1957年、モスクワ。SmyslovがBotvinnikを破り、第七代世界王座に。
6勝3敗13分。Botvinnik以上の終盤力を持つ男がいたとは。
1957年、58年。第24期25期ソビエト選手権。Talが連続優勝。
ラトビアの超新星。前者は9勝2敗10分。後者は9勝3敗5分。
1958年、NezhmetdinovのPolugayevsky戦。ロシア選手権。
この名局が本当に知られるようになったのは21世紀だ。
1958年、モスクワ。BotvinnikがSmyslovを破り、王座復位。7勝5敗11分。
46歳で棋風改造。Caro-Kanを習得したのが意表を突いた。
1959年、第26期ソビエト選手権。Petrosianが優勝。8勝0敗11分。
1点差でTalとSpasskyが準優勝。次いでTaimanovとHolmov。
1959年、世界王座挑戦者決定大会。Talが16勝4敗4分で優勝。ブレド他。
Keresに惨敗したが、Fischerに伝説の4連勝。これが効いた。
1960年、モスクワ。TalがBotvinnikを破り、第八代世界王座に。6勝2敗13分。
23歳、当時最年少。このマッチを解説した自戦記もなかなかの本。
1960年、第27期ソビエト選手権。Korchnoiが優勝。12勝3敗4分。
Korchnoiはこの40年後も強豪だ。半点差でPetrosianとGeller。
1961年、モスクワ。BotvinnikがTalを破り、王座復位。10勝5敗6分。
Talの体調が悪かった。Botvinnikは延期を提案してくれたのだが。
1961年、ソビエト選手権。第28期はPetrosian、第29期はSpasskyが優勝。
翌年あたりから、この大会も徐々に強豪の参加が減り始める。
1962年、世界王座挑戦者決定大会。Petrosianが8勝0敗19分で優勝。
キュラソー。ソビエト勢にFischerが激怒。以後何年も挑戦権戦に不参加。
1962-65年、第四回郵便チェス世界選手権。Zagorovskyが優勝。
7勝0敗5分。1点差で、Borisenkoが準優勝。
1963年、モスクワ。PetrosianがBotvinnikを破り、第九代世界王座に。
5勝2敗15分。リターンマッチ制度廃止。で、Botvinnikは世界戦から引退。
1963年、ピアティゴルスキー杯、ロサンゼルス。KeresとPetrosianが優勝。
チェロ奏者がスポンサーである。二回開催されたがいずれも重要。
1963年、Botvinnikのチェス・スクール(第二期)開校。一年半続いた。
Karpovが学んだ。第一期は30年代、Taimanovが学んだ。
1964年、アメリカ選手権。Fischerが驚異の11戦全勝。
Evans、Benko、Reshevsky、Byrne等、立派な参加者だった。
1965年、Spasskyが世界王座挑戦者に。決勝はTalに4勝1敗6分。
準々決勝でKeres、準決勝でGellerを倒した。
1965年、ハバナ。珍しく国外に出られたKholmovがこの機会にFischerを破る。
Fischerは米国からの棋譜送信で参加。優勝はSmyslov。
1966年、モスクワ。PetrosianがSpasskyを破り王座防衛。4勝3敗17分。
Petrosianの体重がガタ落ちするほどのしんどい二ヶ月だった。
1966年、Chess Informant刊行開始。時期ごとの新手と名局を紹介。
第一巻の一位局には後にPetrosianの防衛戦第7局が選ばれた。
1966年、ピアティゴルスキー杯、サンタモニカ。Spasskyが優勝。
この頃のSpasskyにはFischerもかなわなかった。
1968年、Spasskyが世界王座挑戦者に。決勝はKorchnoiに4勝1敗5分。
準々決勝でGeller、準決勝でLarsenを倒した。
1969年、Fischer『My 60 Memorable Games』刊。
Alekhine(1927)、Tal(1976)、Korchnoi(2001)と並ぶ自戦記の最高峰。
1969年、Botvinnikのチェス・スクール(第三期)開校。
Kasparovが学び、彼が引き継いだ。ここで育った強豪は数知れず。
1969年、モスクワ。SpasskyがPetrosianを破り、第十代世界王座に。
6勝4敗13分。ようやく世論の期待に応えることが出来た。
1970年、FIDEがElo博士のレイティング・システムを採用。
チェス・ファンの堕落を招く。こんなもん無い方が良いよ。
1970年、「世紀のマッチ」。ソビエト対世界。世界の一番卓はLarsen。
Fischerより上に座った。ソビエトが僅差で勝ち、一番卓はSpassky。
1970年、Kotov『Think Like a Grandmaster』刊。英語版は翌年。
御存知、売れに売れた中級者用の指南書である。
1971年、Fischerが世界王座挑戦者に。決勝はPetrosianに5勝1敗3分。
予選から勝ちまくること32勝2敗10分。呆然とするより無い。
1971年、モスクワ。Alekhine記念大会。SteinとKarpovが同点優勝。
5勝0敗12分。世界王座や挑戦者になった棋士が7人も参加した。
1972年、Dvoretskyが本格的にトレーナーとしての活動を開始。
Botvinnikチェス・スクールの優秀なアシスタントとして名を挙げる。
1972年、サンアントニオ。Portisch、Karpov、Petrosianが同点優勝。
資本主義的フライドチキン会社の大会に共産圏の棋士が優勝?!
1972年、レイキャビク。FischerがSpasskyを破り第11代世界王座に。
冷戦時代を反映して話題沸騰。対局拒否、激戦、大荒れの名勝負。
1972-76年、第七回郵便チェス世界選手権。Estrinが優勝。
9勝1敗6分。半点差で、Boeyが準優勝。
1973年、第41期ソビエト選手権。Spasskyが優勝。7勝1敗9分。
Fischerショックで久々に豪華メンバーが揃った。
1974年、Karpovが世界王座挑戦者に。決勝はKorchnoiに3勝2敗19分。
第二局はInformantで90点満点の89点を記録した。
1974-79年、ECO初版刊行。序盤定跡辞典の金字塔である。
『Encyclopedia of Chess Openngs』全五巻のこと。
1975年、Fischerが王座を放棄、以後雲隠れ。Karpovが第12代世界王座に。
対局設定に関する長い交渉が決裂した末の最も悲しむべき結末。
1975年、ミラノ。Karpovが優勝。決勝で好調のPortischを下した。
多くの強豪をそろえ、王座戦の代わりに開催された大会。
1975年、橋本哲が「詰将棋パラダイス」に入会。
彼だって最初は詰将棋から「この道」に入ったのである。
1976年、Korchinoiがソビエトを脱出。Karpovとの対立は激しさを増す。
ソビエト共産党の弾圧を受けた棋士は多い。チェス史の暗部だ。
1977年、Polugayevsky『Grandmaster Preparation』刊。英語版は81年。
いささか渋い。でも、まじめな人は持っておきたい1冊。
1978年、Korchnoiが世界王座挑戦者に。46歳から全盛期を迎える。
PetrosianやSpasskyとの激闘を経て獲得した挑戦権。
1978年、バギオ。KarpovがKorchnoiを破り王座防衛。6勝5敗21分。
催眠術師やラマの行者まで動員された浅ましい世界戦。
1979年、モントリオール。「星々の大会」。TalとKarpovが同点優勝。
当時は強豪の出そろった大会が珍しかった。
1979年、ティルブルフ。Karpovが優勝。4勝0敗7分。
以後毎年のように強豪を揃えて80年代を飾ってくれた大会。
1979年、Smullyan『The Chess Mysteries of Sherlock Holmes』刊。
邦訳を出してくれた毎日コミュニケーションズを表彰します!
1980年、欧州団体選手権。Milesが仰天の序盤で白のKarpovを圧倒。
1.e4.a6!。後に彼の死を悼み世界選手権で最初の2手が飾られた。
1981年、世界王座挑戦者決定戦。Hubnerが決勝戦を途中で棄権。
ミラノ。71年には準決勝Petrosian戦を途中で棄権している。
1981年、ティルブルフ。Belyavskyが優勝。5勝1敗5分。
KarpovとKorchnoiを欠いても盛り上がった好大会である。
1981年、ミラノ。KarpovがKorchnoiを破り王座防衛。6勝2敗5分。
二人の決着が着いた。すでにKarpov全盛の時代。
1982年、トリノ。AnderssonとKarpovが同点優勝。
Anderssonは最下位者に1勝して、他9試合をすべてドロー。
1984年、二回目のソビエト対世界。世界の一番卓はAndersson。
ソビエトのトップは無論、Karpov。大会は再びソビエトの勝利。
1984年、Kasparovが世界王座挑戦者に。決勝の相手はSmyslov。
4勝0敗9分だが、63歳の元世界王座は大健闘。
1984年、モスクワ。九月。KarpovとKasparovの世界王座戦が始まる。
最初は王者が4勝0敗5分。さっさと終わると思いきや、、、。
1985年、二月。世界王座戦が48戦して中断。Karpovはフラフラだった。
5勝3敗40分。あと1敗をKasparovがとことん粘った
1985年、キングス・インディアンの名局。NunnのBelyavsky戦。
中堅棋士のこの一局が30年分のInformantで四位に選ばれた。
1985年、モスクワ。KasparovがKarpovを破って第13代世界王座に就く。
5勝3敗8分。史上最年少の王者誕生である。22歳。
1986年、Karpovのリターンマッチ。Kasparovが王座防衛。
ロンドン、レニングラード。5勝4敗15分。
1987年、Karpovが世界王座挑戦者に。決勝の相手はSokolov。
4勝0敗7分。準決勝はYusopv。いずれも順当勝ちだった。
1987年、Euwe記念大会。KarpovとTimmanが同点優勝。2勝0敗4分。
アムステルダム。Korchoi、Van der Wiel、四人で争われた。
1987年、セビリア。Kasparovが最終局でKarpovに追いついて、きわどく防衛。
4勝4敗16分。第二局、Karpovの9...e3が名局だった。
1988年、六大会の総合成績で争うワールドカップ開幕。ブリュッセル。
80年代を彩る25人の強豪を軸に争われた、空前絶後の企画。
1988年、Euwe記念大会。アムステルダム。Shortが優勝。3勝1敗2分
Karpov、Ljubojevic、Timman、四人で争われた。
1988年、第55期ソビエト選手権。KasparovとKarpovが同点優勝。
豪華メンバーで争われた最後のソビエト連邦選手権。
1988年、アムステルダム。Kasparovが二位に2.5点の大差で優勝。
二位Karpov、三位Timman、四位Van der Wielの四人大会。
1989年、リナレス。Ivanchukが優勝。5勝0敗5分。
新興の大会で新しい世代がKarpovを抑えた。90年代の予感。
1989年、ワールドカップ閉幕。Kasparovが総合優勝。シェルレフテ。
総合二位Karpov、三位Salov、四位Ehlvest、五位Ljubojevic。
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